カテゴリー「旅行・町歩き」の86件の記事

2014年10月14日 (火)

麻豆を歩く、台湾史が見えてくる

  台南市の北郊にある街・麻豆。もともとは台南平野一帯に広がっていた台湾先住民族(平埔族)であるシラヤ族の一支族、麻豆(Mattau)社の拠点でした。17世紀にオランダ人が進出してくると奇襲攻撃を仕掛けて多数を殺害するなどの抵抗を示しましたが(麻豆社事件)、やがてオランダの反撃を受け、勢力は衰えていきます。その後は漢化も進み、シラヤ族としてのアイデンティティーは薄れたかのように考えられていましたが、その習俗は意外に根強く残っていたともいわれます。

  当時の交易港の跡が発掘されて、現在は麻豆古港公園となっています。麻豆古港公園の近くでは明治製糖株式会社の本社工場跡が総爺藝文園区として整備されていますし、麻豆老街には日本統治時代に建てられたバロック式の街並みが散見されます。また、王爺信仰の麻豆代天府には漢族系習俗の濃厚な雰囲気がうかがわれます。

  いずれにせよ、シラヤ族という先住民族、漢人、オランダ人、日本人、様々な出自の人々が織りなした重層的な歴史が、麻豆という町を歩くだけでも意外と見えてくるところが興味深く感じられます。

  私自身が麻豆を歩いた記録は以下をご参照ください。鉄道の駅からは遠いのでやや不便ですが、バスを活用すれば意外と何とかなります。台湾南部でちょっと変わったところを旅行したいと考えている方がいらっしゃいましたらご検討の価値はあると思います。

麻豆を歩く、台湾史が見えてくる(1)

麻豆を歩く、台湾史が見えてくる(2)

麻豆を歩く、台湾史が見えてくる(3)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月17日 (水)

一青妙『わたしの台南──「ほんとうの台湾」に出会う旅』

一青妙『わたしの台南──「ほんとうの台湾」に出会う旅』(新潮社、2014年)

  台湾に来た日本人がまず訪れる都市は台北であろう。台北では再開発が進んで高層ビルが林立し、ショッピング・モールなど歩けば自分がいま台北にいるのか、東京にいるのか、ふと分からなくなるほどだ。街並みはきれいになったし、便利にもなった。だが、それに伴って台湾らしい風情を感じる機会も少なくなってきている。

  1970年代に幼少期を台北で過ごした著者もこうした変貌に少なからず戸惑いを感じているようだ。幼き日々の記憶に刻み込まれていたあの懐かしい光景はどこへ行ったのだろう? そうした思いを抱えていた時にたどり着いた街──それが台南だった。

  そもそも歴史をひもとけば、台南にいた先住民族であるシラヤ族の言葉で「タイアン」といったのが「台湾」の語源とされている。オランダ東インド会社が城塞を築き、それを奪取した鄭成功が拠点を置き、清代末期に行政の中心が台北へ移動するまで、ここ台南こそが台湾の首都であった。開発が遅れていることもあって、台南の街中では古いたたずまいがそこかしこに残っている。台湾の歴史が、それこそ地層のように積み重なっている様子を見出せるのが台南という都市の大きな特色である。台南を見に来なければ台湾の歴史は理解できないと言っても決して過言ではない。

  実はいま台湾人の間でも台南ブームが巻き起こっている。台南をテーマとした本が次々と刊行されて話題となり、多くの観光客が訪れ、台北など大都市で働いていた台南出身者のUターンも増えているらしい。せわしない都市生活に疲れた人々がある種のノスタルジーにぬくもりを求めているのかもしれないし、あるいは台湾人アイデンティティーの確立が歴史的ルーツとしての台南への関心を高めていることも考えられる。いずれにせよ、日本での本書の刊行もこうした背景を踏まえれば実にタイムリーだ。

  観光客なら見逃せない台南グルメ。台南を通して見えてくる台湾の歴史や文化。そして台南と関わりのあった日本人。様々な話題がやわらかい筆致で描き出されている。観光ガイドのようにきれいごとではなく、時に素直な感想をつづっているところが面白い。例えば、台南人のソウルフード、サバヒー(虱目魚)のこと。サバヒー粥は台南人の朝食の定番だが、実は私自身もサバヒーはちょっと苦手。観光ガイドブックならそんなこと書かずに適当にお茶を濁すところだが、味覚に合わないものは仕方がない。ただ、それはけなすということではない。むしろ、「なぜ台南人はサバヒーが好きなんだろう?」と相手の好みを理解したいと努力する姿勢に好感が持てる。

  台南の魅力を再発見するため通い続ける中で著者は様々な人々と出会っている。例えば、一見強面だが親身に世話を焼いてくれるビンロウ売りの楊さん。カラスミ職人の阿祥のこだわりも印象的だ。そうしたエピソードの一つ一つが織り込まれることで、あたかも台南を舞台とした人情こまやかな物語が紡ぎだされているかのようだ。

※「ふぉるもさん・ぷろむなあど」より転載。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月26日 (月)

2013年8月12日 台湾・高雄を歩く

 昨日は炎天下の嘉義を歩き回って疲れがたまっていたので、少々遅めの起床。朝から雨が降っており、今日は力を抜いて動けばいい。午前10時頃に宿を出た。MRTに乗って橋頭糖廠車站で下車。ここから歩いてすぐのところに台湾糖業公司の工場がある。現在は操業を終えているが、糖業博物館として一般公開されており、それに合わせてあたり一帯が観光エリアとなっている。MRTの駅構内にはレンタサイクルがあった。それなりの広さがあるのだろう。

 MRTの駅から糖業博物館まで歩いて5分ほど。途中で見かけた中山堂の前に石灯篭が並んでいた(写真)。かつては神社だったのだろうか。日本統治期のものとおぼしき派出所(写真)や防空壕(写真)なども見かけた。防空壕にガジュマルの木が根を張って青々とした葉を広げている風情は歴史の年輪を感じさせる。歴史散策好きとしては期待がふくらんでくる。雨は小降りとなって、歩くのにそれほど支障は感じなくなった。

 台湾ではオランダ統治時代からすでにサトウキビの精製による砂糖作りが行われていた。サトウキビはおそらくオランダ人によってインドネシア経由で移植されたものと考えられる。その後、鄭氏政権の頃は停滞したが、清朝統治の時代には再び台湾の主要な輸出産品となっていく。日本は日清戦争後の下関条約で台湾を領有し植民地化したものの、その維持のため本国政府からの持ち出しが多く、こんな不採算部門は欧米に売り渡した方が良いという議論も浮上していた。植民地台湾を日本本国から財政的に自立させるために産業を振興する必要があり、そこで注目されたのが糖業である。後藤新平・民政長官がヘッドハンティングしてきた新渡戸稲造の献策に基づいて糖業の近代化・機械化が推進された。国策に応じて台湾製糖株式会社(1900年)、塩水港製糖株式会社(1903年)、明治製糖株式会社(1906年)が台湾で設立され、1906年には大日本製糖株式会社が進出してくる。台湾製糖は1902年に橋仔頭工場、すなわち現在の橋頭糖廠を設立し、これは台湾でも最早期の近代的工場と言えよう。日本の敗戦後、製糖会社の在台資産は国民政府によって接収され、国策会社である台湾糖業公司に再編された。1950~60年代における砂糖輸出によって進められた資本蓄積は台湾産業のキャッチアップに重要な役割を果たしたが、近年は糖業の収入力は減退しており、台湾糖業公司は食品業、小売業、畜産業、バイオテクノロジーなど多角経営を進めている。そうした流れの中で橋頭糖廠の操業は停止され、観光ゾーンへ転用されたのだろう。

 写真は橋頭の糖業博物館の入口。構内に入るとヤシの並木道が長く伸びている(写真)。突き当りには日本統治期からあった建物が展示室として使われており(写真)、中には新渡戸稲造の銅像も置かれている(写真)。台座には「台湾砂糖之父」と書かれている。

 後藤新平から台湾総督府への赴任を懇望された新渡戸は、まず海外における糖業の最新動向を調査し、それを基に「糖業改良意見書」をまとめて提出した。「台湾の現地事情を知らないから」と提出を渋る新渡戸に対して、後藤は「最新の理想を知っている頭のままで意見書を書いて欲しい。現場の実際との調整は自分たち政治家がやる」と答え、実際に後藤らしい事業手腕を示した。また、意見書を読んだ児玉源太郎・台湾総督に対して新渡戸は「糖業の近代化を進めると現地の農民から反発があるでしょう。しかし、農民の古い頭を変えるため、フレデリック大王のように断乎たる姿勢で臨んでください」という趣旨のことを語ったらしい。矢内原忠雄は新渡戸の植民政策論は人道主義的だったと評価していたが、近代化のため敢えて蛮勇を振るうよう児玉に進言する新渡戸の姿とは少々ギャップも感じる。

 展示館の裏手に回ると、金木善三郎という人の記念碑がひっそりと残っていた(写真)。日本統治期、台湾製糖の技師だった人らしい。近くには石灯篭も残っているが、刻まれた文字は削り取られている(写真)。日本の敗戦後に削られたのだろう。

 橋頭の糖業博物館構内には日本統治期に建てられた家屋や施設が現存しており、一部は観光用に修築されている。熱帯の青々とした木々の合間にレトロモダンな洋館や木造日本式建築が点在しているのはなかなかの風情だ。写真はたまたま見かけたリス。動きが素早いのでうまく撮れなかった。社宅事務所(写真写真)。工場長宅(写真写真)はきれいに新装なっているが、副工場長宅(写真)は古ぼけたまま。この工場長宅はかつて映画の舞台にもなったらしい(写真)。敗戦で日本人が引き揚げた後、残された建物には大陸から来た外省人が入居するようになった。外省人独特のコミュニティーが形成され、眷村文化と呼ばれるが、ここにもそうした雰囲気があったのかもしれない。

 サトウキビを工場まで運び、精製された砂糖を港まで運び出すため軽便鉄道が敷設されていた。構内のそうした跡地が鉄道公園となっている(写真写真)。鉄道公園の向こうに工場の煙突が見える(写真)。五分車にも乗れるようになっているが、今日は月曜日のため運休。インフラが未整備だった時代、製糖会社は自前で流通網を築き上げる必要があった。台湾中南部のサトウキビが栽培されていた平野部にはかつてこうした軽便鉄道の路線網が広がっており、一部は一般旅客運送も行っていたが、砂糖の減産やモータリゼーションの進展によって次第に廃線となった。当時の名残をこの鉄道公園で見ることができる。

 鉄道公園から工場の方へ向かう途中、軽便鉄道の車庫があった(写真)。さらに行くと倉庫が立ち並んでいる(写真)。かつての倉庫群を利用して現在は十鼓橋糖文創園区というアート空間になっている。この近くに防空壕があった(写真)。説明が丸文字で書かれると、ちょっと雰囲気が違ってくる(写真)。製糖工場は重要な経済拠点であったため爆撃の標的となる恐れがあったらしい。

 煙突が天へと突き出した工場の雄姿(写真)。すでに操業は停止されているが、稼働していた当時の設備がそのまま残っている(写真写真写真)。中に入って見学することもできる。工場マニア、廃墟マニアにとっては面白いスポットかもしれない。工場の脇には機械の修繕所を利用した展示館があり(写真写真)、台湾の製糖業と台湾糖業公司の歴史について解説されている。

 近代的産業形態は未経験であった台湾で大掛かりな工場を建てるとなると、製糖会社は様々なものを自前で準備しなければならなくなった。原料であるサトウキビを収穫する農地と農民が必要であり、精製工場の機械化・近代化が進められると機械のメンテナンスのために機械工業を興し、原料や製品の運搬のため軽便鉄道をはじめとした物流網を敷設し、会社組織が大型化すると管理運営のノウハウが必要とされる。つまり、製糖業がきっかけとなってあらゆる産業部門の近代化が推進されることになった。同時に、小作争議や労働争議も生じることになり、プラス・マイナスの両面で製糖業は台湾における近代化の契機になったと言えるだろう。

 糖業博物館の中を歩きまわっているうちに、いつしか雨もやんだ。雲が垂れこめて湿度も高く、蒸し暑さで汗がじっとり浮かび上がるが、肌を焦がすような日射しはない。涼みがてらアイスクリームを食べてから園区から出る。工場は台湾鉄道に沿って建てられており、線路を渡って反対側の橋頭老街をぶらぶら歩いてからMRTの駅へ戻った。

 高雄駅方向へ戻って適当に遅い昼食をとり、途中でタクシーを拾って次の目的地である寿山の忠烈祠へ向かった。ここは歩いて登るとなるとかなりきつそうだ。蛇行するような登り道の途中、迷彩服を着た集団がへたばっているのとすれ違った。いかにも「疲れた~」という感じに服装も乱れていたから、あるいは訓練がてら忠烈祠を参詣した新兵だったのかもしれない。

 高雄の忠烈祠(写真写真)は市街地や海を見渡せる眺望の良好な場所にある。写真は旗津半島の方向、写真は高雄の中心部の方向。忠烈祠はたいていの場合、日本統治期の神社を転用したもので、高雄の忠烈祠もご多分にもれずかつては高雄神社であった。参詣道は明らかに神社の雰囲気で、奉献塔(写真)や狛犬(写真)も残っている。また、入口あたりにある塔(写真)には「大東亜戦争完遂祈願」と刻み込まれていた(写真)。

 忠烈祠から歩いて山を下った。しばらく歩くと、かつて高雄港まで結ばれていた線路に出る(写真写真写真)。現在は廃線で、残された広い空間は市民の憩いの場となっている。かつての線路の上をまっすぐ歩いて行くと、高雄港駅に出た。操車場跡が広々としている(写真写真)。橋頭など各地の製糖工場で精製された砂糖も鉄道でここまで運ばれて来て、高雄港から日本やその他の国々へ輸出されたわけである。当然ながら現在は廃駅で、打狗鉄道故事館がオープンされているが(写真写真)、今日は月曜日なので休館。そのすぐ前にはMRT西子湾駅がある。高雄港駅の近辺はかつての繁華街で、地元の人々は「哈瑪星」(ハマセン)と呼んでいる(写真)。高雄港線は日本統治期に「浜線」と呼ばれており、これを台湾語的に漢字表記して「哈瑪星」である。

 高雄港の対岸には旗津半島が横たわって内湾を形成しており、その中に港がある。対岸へ渡る連絡フェリーの発着場までMRT西子湾駅から歩いて10分ほど。写真が連絡フェリー。写真は船上から見た鼓山輪渡站。自動車・バイクはフェリーの1階、人間は2階部分に乗り込む。運行本数は割合と多いが、乗客も多いのでいつも混雑しているようだ。旗津半島の発着所まで15分くらいだろうか。写真は船上から見た旗後燈台。写真は停泊している中華民国海軍の艦船。

 旗津半島は高雄の観光スポットの一つで、旗後老街は行楽客でにぎわっている。半島そのものは細長くて横切ってもたいして時間はかからない。老街をまっすぐ進むと海水浴場に出た。老街の屋台からイカ焼きのにおいが漂ってきて、日本の夏の海を思い浮かべる。波打ち際でキャーキャー言っている人はいるが、泳いでいる人はあまり見かけなかった。

 老街の途中で台湾長老教会の旗後教会を見かけた(写真写真)。随分と立派な建物である。19世紀の半ば、イングランド長老教会から派遣された宣教師のマクスウェルは(James Laidlaw Maxwell、馬雅各、1836~1921)は当初、台南で布教と医療の活動を始めたが、排外的雰囲気の中で伝教所兼医院が襲撃されるという事件が起こった。マクスウェルは打狗(高雄)のイギリス領事館の保護を受けてここ旗後に移転、活動を再開し、台湾南部布教の基礎を築くことになる。

 旗津半島の西端は小高い丘となっている。ここは高雄港への航路をにらむ要衝で、外海に向いて旗後砲台、内湾に向いて旗後燈台がある。とりあえず、旗後砲台まで登った(写真)。1874年、明治政府による台湾出兵に驚いた清朝政府は台湾の防備を固めるため沈葆楨を派遣、そのときに旗後砲台も建造された。下関条約によって台湾が日本へ割譲されたとき、それを認めない人々が激しく抵抗したが、旗後砲台でも日本の艦船との間で砲戦が交わされた。

 次に旗後燈台へも行ってみたが、すでに17時を過ぎていたので中には入れなかった(写真)。見晴らしの良い場所に座って一休み。ペットボトルの飲料でノドを潤しながら高雄の風景を見渡した。高雄のランドマーク、高雄85大楼が目立つ。足元の旗後の街並みからはゴミ収集車の機械音的なメロディーや、情感を込めすぎたこぶしがかえって素人っぽく聞こえるカラオケなどが耳に入ってくる。

 連絡フェリーに乗って西子湾の発着場に戻り、歩いて打狗英国領事館官舎まで行った。アロー戦争(第2次アヘン戦争)に敗れた清朝は1858年に天津条約を結び、その中で開港地に指定されたうちの一つが打狗(高雄)である。1864年に打狗は正式に開港され、同年末頃にはイギリスが領事館を設置した。領事館邸は鼓山に連なる小高い丘の上に建てられた一方、日常業務を執り行う領事館はその麓にあった。こうした二段構えの構造はいざというときの防備を考えていたのだろうか。

 丘の上の打狗英国領事館官舎は赤レンガが鮮やかな印象を残す(写真)。高雄で観光客が集まるスポットの一つである。1879年に建造されたもので、台湾に現存する西洋建築としては最も古い。日本統治期には水産試験場の施設として利用されたらしい。夜の21時まで開館しており、ここから見る夕焼けは人気があるという。建物内部では東西交流史における高雄の位置づけに関するパネル展示が行われており、イギリス最初の台湾領事として赴任したロバート・スウィンホー(Robert Swinhoe、史温侯、1836~1877)が博物学者であったことにちなんで生物多様性をテーマとした内容も含まれていた。

 打狗英国領事館官舎は中国人の団体観光客であふれかえっていた。外で声高にしゃべりながら写真を撮ったりしているのだが、建物の中でパネル展示を読む人は一人も見かけなかった。たまに入り込んできても、目立つ絵図のパネルを1,2枚ほど写真に撮ってさっさと出て行ってしまう。私としては落ち着けて良かったのだが。おそらく、ツアーとして組まれたから来ただけで、ここがどのような史蹟であるのかまるで興味もないのだろう。

 売店で冷たい紅茶を買い、打狗英国領事館官舎のバルコニーから高雄の夜景をしばし眺めた。タクシーを拾ってMRT西子湾駅へ行き、三多商圏駅まで出て、誠品書店高雄店で書棚を眺めてからホテルに戻る。結局、夜21時を過ぎていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月23日 (金)

2013年8月10日 台北・胡適紀念館、殷海光故居など

 8月10日の土曜日、午前8:55羽田発の飛行機に乗り、現地時間11:00には台北松山空港へ到着した。空港の入国ゲートを通ってすぐのところにコイン・ロッカーがあったので荷物を預ける。3時間70元。預け入れボックスはたくさん並んでいるが、入金操作は1区画につき1か所のみ。荷物を入れたボックスの番号をコントロールパネルで入力、お金を投入すると、レシートが出てくる。このレシートには荷物を出す際に必要な暗証番号が記されているので紛失しないように注意。リュックサックだけ背負って空港を出る。

 MRT文湖線、松山機場站のホームに降り立った時点ではまだ11:30を回ったばかり。MRT文湖線は基本的に高架路線なので眺望が良好。旅行前に確認した週間予報では雨がちな様子だったが、幸いなことに青空が見えている。松山機場の北側に横たわる山並みの緑が鮮やかに映える。終着駅の南港展覧館で下車。駅前でタクシーを拾い、胡適公園まで行くように指示した。

 胡適公園は中央研究院から道を挟んだ向かい側にある(写真)。写真は胡適の銅像。この一帯は台北市の東のはずれで、民家も少ない。雑木林に覆われた小高い丘の中腹に胡適のお墓があった(写真)。他にも、甲骨文字研究で知られる考古学者の董作賓(写真写真)、物理学者で中央研究院長を務めた呉大猷の墓所もあり、林の中を縫うように舗装された散歩道でつながれている。観光地というよりも、近場に住む人たちが散歩に訪れる自然公園といったおもむきだ。

 中央研究院の敷地内にある胡適紀念館へ行く。日・月曜日休館で、免費。中央研究院に在職していた晩年に暮らした旧居が保存されており、それに隣接する形で彼の生涯と思想を紹介する展示館も新たに増設されている(写真写真写真)。展示館では胡適の自筆原稿や愛用していた遺品を見ることができる。

 胡適(1891~1962)は上海の出身。スペンサーの社会進化論に関心を持ち、名前の「適」は「適者生存」から取って改名したものである。1910年にアメリカへ渡り、コーネル大学を経てコロンビア大学で哲学を学んだ。とりわけジョン・デューイのプラグマティズムから大きな影響を受ける。

 1917年、陳独秀の依頼で『新青年』に発表した「文学改良芻義」が評判となり、蔡元培の招聘で胡適は同年9月から北京大学で教鞭を執り始めた。過去の伝統から脱却し、合理的な思考方法を広めるためにはまず教育が必要である。まず人々の考え方を変えることで、一人ひとりの責任によって下から社会を変えていこうとする漸進主義の立場から彼は白話運動を主導し、五四運動直前の中国言論界に大きな影響を与え、「新文化運動」といわれる啓蒙主義活動の重要な立役者の一人となった。

 しかしながら、マルクス主義に傾きつつあった陳独秀や李大釗との論争を契機に、『新青年』からは離れる。胡適がプラグマティズムによって提示した議論は当時の中国の思想界に一時代を画すほど重大なインパクトを与えたにもかかわらず、当時流行していたマルクス主義の興隆を前にして、その存在感は色あせていった。胡適の啓蒙主義は旧世界の思想秩序を崩すのに大きな役割を果たした。では、次はどうするのか? 具体的な対案を胡適は提示できなかった。と言うよりも、方法論的科学性を意識するあまり価値観の問題には抑制的であったため、それが傍観者的態度として血気にはやる若い世代には魅力が感じられなくなっていたとも指摘される(余英時《中國近代思想史上的胡適》聯経出版、1984年)。

 胡適は共産主義には与しない一方、国民党の強権性や伝統回帰的なナショナリズムに対しても批判的であった。しかし、日本の中国侵略に直面して蒋介石支持にまわり、1938年からは駐米大使となって抗日工作の根回しに努力する。展示館には胡適がホワイトハウスの大統領執務室でF・D・ローズヴェルトと談笑している写真も展示されている。

 ただし、彼は無条件で蒋介石を支持したわけではない。もちろん、日本の侵略には抵抗しなくてはならない。しかしながら、抵抗運動を組織化する過程で偏狭なナショナリズムが煽動され、戦争指導を目的として権威主義的体制が正当化されてしまうと、これまで努力してきた啓蒙活動の知的成果が無に帰してしまうというジレンマを抱えていた。戦後の1946年、胡適は北京大学総長に就任。しかし、国共内戦で共産党が勝利するとアメリカへ亡命する。

 私が胡適紀念館を訪れたときには「胡適與蔣介石:道不同而相為謀」という特別展が開催されていた。二人の関係はつかず離れずの微妙なものであった。胡適の啓蒙主義は中国の伝統文化を破壊してしまうと蒋介石の著書『中国之命運』(実際の執筆者は陶希聖)は厳しく批判しているし、展示の解説によると「あいつは狂人だ」と蒋介石日記に記されていたらしい。他方で、アメリカで受けの良い胡適の存在は、「自由中国」をアピールしてアメリカからの支援を引き出したい蒋介石政権にとって貴重なカードでもあった。1957年の末、中央研究院院長を選出する投票で過半数を得てアメリカにいた胡適が推薦され、蒋介石もこれを認めた。来台した胡適は1962年に逝去するまでその任にあった。

 それまで中央研究院では院長公邸のようなものは用意されていなかった。図書館をすぐに利用できる場所で暮らしたいという胡適の要望を受けて敷地内に自宅が建てられ、前述の通り、これが現在の胡適紀念館となっている。旧居内では解説員が待機していたが、私は中国語の聞き取りに難があるので案内を辞退した。こじんまりとしているが、使い勝手は良さそうだ。ただし、ここで彼が暮らしたのは実質的には5年にも満たない。

 せっかく中央研究院まで来たのだから、このまま帰るのはもったいない。歴史語言研究所附属の歴史文物陳列館と民族学研究所附属の民族学博物館にも入ってみた(写真の左側が民族学博物館、奥の方が歴史文物陳列館)。いずれも免費だが、内容的には充実している。時間があれば半日くらいかけてゆっくり見ていきたいところだ。

 中央研究院が設立されたのは1928年であり、当然ながら歴史語言研究所が対象とするのは中国史全体であり、例えば殷墟専門の展示室などもあった。他方で、歴史文物陳列館に入ってすぐは台湾史関連の展示で、台湾原住民族の歴史に配慮しているのが目立つ。漢族が原住民族と接触したばかりの頃に原住民族が狩りをする様子を描いた絵図など見ていたら、江文也作曲「阿里山の歌声」の第1楽章「出草」のメロディーが何となく浮かんできた。もちろん絵図で描かれているのは首狩りではないのだが、あの曲の軽快なメロディーがイメージ的にうまく合っていた。

 民族学研究所附属博物館でも、1940年代に実施された四川・雲南など西南地方での民族学的調査についての展示があったが、台湾漢族の民間信仰や原住民族それぞれの習俗の解説など台湾に関する展示が多くを占めている。中華民国の公定イデオロギーであった中華民族主義的史観から現在の多文化主義的史観への移行がこうした展示構成からうかがうことができる。なお、民族学博物館では「偶的世界、偶的魅力」という人形についての特集展示が行われていた。

 すべて見て回ろうとすると時間が足りないので、早めに切り上げた。中央研究院の前でバスに乗り、MRT南港展覧館駅まで戻る。悠遊卡を持っていると小銭を気にしなくて済むのでバスにも気軽に乗れる。MRT板南線に乗って忠孝新生駅で乗り換え、東門駅で下車。いつもながら観光客で混みあっている鼎泰豊を尻目に、永康街から台湾大学方面へ向かって南下、さらに青田街、温州街のあたりを脇道にそれたりしながらそぞろ歩き。

 この一帯はかつて日本人が暮らす住宅街であった。日本の敗戦と共に日本人は引き揚げたが、入れ替わりで大陸から国民党と一緒にやってきた軍人や公務員に空き家となったこれらの家があてがわれ、支配階層の高級住宅街としての性格は戦後にも受け継がれることになった。現在では大半が高層マンションに建て替えられてしまっているが、崩れそうになりながらもまだ残っている日本式家屋をところどころで見かける。見つけ次第、写真に収めながら歩く(写真写真写真写真写真写真写真)。

 こうした中に殷海光故居がある(写真写真写真写真)。温州街にあるこの建物も、もともとは台北帝国大学関係者の宿舎だったはずだ(写真)。殷海光(1919~1969)は台北帝国大学の後身である台湾大学で教授を務めていた。

 胡適を新文化運動・五四運動を主導した第一世代とするなら、殷海光はまさに五四運動が盛り上がった1919年の生まれであり、本人も「自分は五四時期後の人間だ」とよく語っていたという。西南聯合大学を卒業し、清華大学哲学研究所でも学ぶ。伯父が辛亥革命に参加しという事情もあって当初は熱烈な国民党支持者であったが、徐々に現実の矛盾に気づき始める。新聞記者となり、国共内戦時の淮海戦役を取材していたとき、報道と実際の情況との食い違いに気付いたことをきっかけに蒋介石政権に対する疑問が出てきたという。1949年に台湾大学哲学系教授となって以降、西洋の思想家の著作を熱心に学び、例えばハイエク《到奴役之路》(The Road to Serfdom、隷属への道)の中国語訳も出している。

 1949年、憲政による政治改革を志した雷震(1897~1979)、自由主義を思想的骨格とした哲学者の殷海光をはじめ、リベラルだが共産主義にも賛同できない知識人たちが集まって雑誌『自由中国』が創刊され、旗頭には当時アメリカに亡命していた胡適が担ぎ出された。自由主義や民主主義をモットーとする雑誌の存在は、アメリカからの支援を期待する蒋介石政権にとって都合がよく、創刊当初の『自由中国』もまた共産主義批判のため蒋介石政権支持の姿勢を鮮明にしていた。

 ところが、1950年に朝鮮戦争が勃発、東アジアにおいても冷戦構造が定着するにつれてアメリカは反共政権へのテコ入れを強化した。アメリカから見捨てられる不安が低減した蒋介石政権は台湾における権威主義的支配を強めていく。『自由中国』に集った知識人たちからすれば権力濫用と腐敗が目にあまる。国民党政権に対して批判的な論説を次々と発表したため、政権との関係は冷え込んでいった。1960年には中国民主党結成計画で雷震が逮捕され、『自由中国』は発禁となる。殷海光は文芸雑誌『文星』(1957年創刊)などを舞台に舌鋒鋭く健筆をふるい続けるが、これもまた1965年に停刊へ追い込まれ、1966年には殷海光自身も大学を追われてしまった。

 旅行中に立寄った書店で、復刊されたばかりの殷海光《思想與方法》(第3版、水牛文化、2013年。初版は1986年。オリジナルの初版は文星出版社、1964年)が積み上げられているのを見かけ、彼の故居を訪れたばかりの縁を感じて購入した。パラパラめくっていたら〈論「大胆仮設、小心求証」〉という論文が収録されていたので拾い読み。「大胆仮設、小心求証」とは胡適が提起した命題だが、殷海光はこれをめぐって科学哲学的な論証を進め、結論的にその社会思想的な効用を説いている。懐疑による柔軟な思考態度の欠如した社会の問題点は、言論の自由が封殺された1960年代当時においても切実であり、それは胡適が直面した20世紀初頭からほとんど変わっていないという問題意識が打ち出されている。

 殷海光の自宅前ではいつも特務による監視の目が光っていたという。実際に入ってみると、ここは一個人の邸宅としてはそれなりに広い。しかし、外界との関係を事実上絶たれて自宅にこもるしかなくなってしまった人間にとって、この世界はあまりにも狭い。園芸を趣味にしていた彼は、この庭先で川やプールを掘り、築山を盛り上げ、木や花を植えた(写真写真写真)。権力によって発言を封じられた鬱憤を庭作りに振り向け、誰にも制せられることのない自らの理想をせめてこの狭い庭の中だけでも実現したいというやみにやまれぬ思いがあったのだろう。

 自宅内は展示スペースとなっている。展示されている自筆原稿を見ると、筆跡は意外と丸文字っぽい感じで、妙に親近感がわいた。記帳ノートに私の名前を記してから、外に出る。温州街をくだって、台湾大学へと向かった。殷海光の授業が終わっても、彼を慕う学生たちは温州街の自宅までついて来て、道すがら哲学から時事問題まで様々なテーマについて語り合った。このことを彼はふざけて「ストリート学派」と呼んでいたという。私も逆方向から同じルートをたどり、ちょうどワンテーマ議論できるくらいの距離かな、などと思いながら歩いた。

 台湾大学のキャンパスから大通りの新生南路を挟んだ向かい側は住宅街だが、書店やカフェなども散見される。雰囲気の落ち着いたカフェを窓越しにのぞくと、読書していたりノートパソコンを使っている学生の姿が目につく。南天書局へ行ったが、土曜日はお休み。近くの台湾専門店、台湾e店へ入って色々眺めているうちに何冊か買いこんでしまった(初日から荷物を増やしてどうすんだ…)。

 台湾大学の最寄りである公館駅からMRTに乗って台北駅へ出た。高速鉄道の高雄行き切符を確保してから松山空港へ行き、荷物を回収する。再びMRTに乗って台北駅まで戻ったのだが、カートを引きながら夕方のラッシュに巻き込まれたのは明らかに失敗で、タクシーを拾うべきであったと反省。おまけに弁当を買い忘れたまま高速鉄道の改札を通ってしまい、構内ではセブンイレブンしか見当たらず、仕方なく菓子パンをかじった。高速鉄道で左営へ行ってMRTに乗り換え、高雄の宿舎にたどり着いたのは夜20時過ぎ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月21日 (水)

2013年8月11日 台湾・嘉義を歩く

 変則的だが、台湾旅行の二日目から。8月11日の日曜日。高雄駅を朝8:00に出る自強号に乗って9時14分頃に嘉義駅へ到着した(写真)。前日の天気予報では雨天となっていたが、幸いなことに晴れている。

 嘉義は旧称を諸羅山(ツウロウサン)といい、平埔族(平地に住んでいた台湾原住民)のホアニア族が暮らしていた。漢族が台湾へ移住するにつれて徐々に漢化され、林爽文の乱でこの地の住民が清朝に協力したところ、「嘉其死守城池之忠義」という言葉を賜ったところから嘉義と改称された。市のすぐ南を北回帰線が通っており、これより南は熱帯である。

 地図を見ると、嘉義火車站を嘉義市中心部の西の端とすれば、第一の目的地、嘉義公園は東の端にあたる。早速、駅前でタクシーを拾った。できれば自分の足を使って歩き回りたいが、初めての町だから当然ながら距離感覚が分からない。そこで、駅を降りたら、最初にタクシーもしくはバスを使って一番遠いスポットまで行くことにしている。その時に要した時間や車窓から見える町の雰囲気から、どのような動き方が最適かを考える。

 嘉義公園まで市の目抜き通りである中山路をまっすぐ東へ行き、10分くらいだったか。たいして時間はかからなかったので、十分歩ける範囲だと判断した。

 私は初めての町を歩き回るとき、まずグーグル・マップなどで必要な範囲・大きさの地図をプリントアウトする。これを白地図がわりにして、訪れようと考えているスポットの位置情報を赤ペンで記入し、いわば自分用にカスタマイズされた観光地図を事前に作成しておく。なかなか行く機会のない町で時間があまったらもったいないので、スポット情報はできるだけ多めに書き込んでおく。ただし、一度書き込んでしまうと自分にノルマを課したような気分になってしまい、行かないと気が済まなくなってくるから、その辺はうまく按排すること。

 時間の空いたときにでもこの地図をぼんやり眺めていると、おのずとルートが浮かび上がってくる。こうした作業をしておくことにより、頭の中におおまかな地理感覚が植え付けられ、あとは当日の条件に応じて動き回ればいい。例えば、現地で一定区間を歩いてかかった時間をメモしておき、自分なりの歩行速度を把握しておく。地図を見て、別のスポットへ行くのにかかるおおまかな所要時間を割り出し、その都度行動プランを微調整しながら歩くことになる。

 台湾も日本と同様に地震国である。日本の植民地支配が始まって間もなく、1906年に嘉義一帯は大地震に見舞われた(※震災の様子については、青井哲人研究室のサイトに当時の写真が紹介されている→こちら)。壊滅した市街地に新たな都市計画で街づくりが行われ、その際には耐震構造を意識して日本式の木造家屋が推奨されたという(李欽賢《台灣近代美術創世紀:倪蔣懷、陳澄波與黃土水見證台灣史》台湾書房、2013年、33頁)。嘉義市内では現在でも古い木造日本式家屋が残っているのをよく見かける(写真写真)。1908年には阿里山鉄道の一部区間が開通しており、切り出されたおびただしい木材が嘉義に集積されたことも背景にあるのだろう。

 いずれにせよ、こうした新たな都市計画の一環として1910年に嘉義公園も作られた。台湾に公園という概念が導入されたのは日本統治期に実施された近代的都市計画を通してであり、嘉義公園はそうした中で最も早いものの一つであった(陳柔縉《台灣西方文明初體驗》麥田出版、2005年)。

 午前九時半過ぎ、嘉義公園の前でタクシーを降りた(写真)。当たり前だが、暑い。少し体を動かしただけで汗がじっとりと流れてくる。公園の入り口には中山路の方向を見据えるように孫文像がそびえている(写真写真)。光復以前には日本の政治家の銅像でも立っていたのだろうか。孫文像の背後に木々が鬱蒼と生い茂り、夏の強い日差しを受けると、緑の瑞々しさがいっそう際立って感じられる。木陰を歩くと、いくぶんか暑さもやわらぐ(写真)。

 園内ではイーゼル型の展示パネルを見かけた(写真写真)。合計9ヶ所設置されている。それぞれのパネルでは嘉義出身の画家、陳澄波(1895~1947)の油彩画が紹介されている。嘉義公園は彼が作品のモチーフとした場所の一つであった。嘉義公園に生い茂るガジュマルなど南国独特の木々が縦横に枝葉を広げている様子を見ていると、陳澄波のゴッホを思わせるように大胆な色使いの緑を確かに彷彿とさせる。生命力が横溢するように鮮やかな激しさ、そうした画風は彼の情熱的なパーソナリティーをそのままに表わしているように感じられる。

 陳澄波は1895年、ちょうど日本が下関条約で清朝から台湾を割譲された年に生まれた。母親を早くに亡くし、清代の秀才で漢学者だった父親の陳守愚は学堂の教員として招聘されていつも家にはおらず、そのため祖母のもとで育てられた。家の経済状態は貧しかったので、公費で通える総督府国語学校師範科へ1913年に進学した。

 台湾における近代化と日本化を推進するため総督府は教育を重視しており、国語学校は教員、すなわち日本語教育の担い手の養成を目的として伊澤修二によって設立された(その後、師範学校に改組され、現在は国立台北教育大学)。当時の台湾では総督府医学校と並ぶ最高学府である。近代的教育システムには美術教育も含まれており、国語学校は台湾で初めて西洋美術に触れることができる場となった。

 台湾において西洋美術の種をまいた人物として石川欽一郎(1871~1945)の存在感が大きい。石川は英語に堪能だったため陸軍の通訳官として1907年に来台した。独学ながらも水彩画家として知られていたため、1910年から嘱託として国語学校の美術教員を兼任する。1916年にいったん帰国したが、1924年に再び来台、1932年まで台北師範学校で美術の教鞭をとった。石川は教官に義務付けられていた官服は着用せず、背広に蝶ネクタイというイギリス紳士風のダンディなお洒落で通し、人気があったらしい。彼の啓発で多くの台湾人の若者が美術を志し、台湾人として最初の洋画壇を形成することになる。陳澄波もそうした中の一人であった。

 軍命でやむなく台湾へ来た石川だが、いざ来てみると南国的なエキゾティシズムに目を奪われた。台湾の美しい風物を忘れまいと写生にいそしみ、美術の実習では生徒を外へ連れ出した。伝統的な山水画とは異なり、あるがままの光景を自らの視点を通して描き出す技法を生徒たちは学ぶ。ところで、石川の描くすっきりした水彩画と陳澄波の荒々しい色遣いの油彩画とでは作風は対極的である。画風そのものには石川の影響はほとんど見られない。石川はむしろ彼の独特な才能を見抜き、自由に描かせたようだ。

 陳澄波は国語学校を卒業後、いったん故郷の嘉義へ戻り、公学校(台湾人向けの小学校)の教員となった。恩師の石川と同様、彼も写生のため、たびたび生徒を外に連れ出したという。熱烈な恋愛の末、名家の令嬢とも結ばれた。しかし、絵画への情熱やみがたかった彼は一念発起し、1924年に来日、東京美術学校に合格する。すでに30歳近く、学生としては高齢であった。苦学しながらも1926年には「嘉義街外」で帝国美術院展覧会(帝展、現在の日展)に入選した。国語学校の先輩にあたる黄土水が1920年に彫刻部門ですでに帝展に入選していたが、絵画部門で入選した台湾人は陳澄波が最初である。

 彼の帝展入選は台湾でも大々的に報道され、一躍有名人となった。ただし、絵画だけで家族を養っていくことはできない。そこで、卒業後は上海に渡り、美術の教員となった。上海滞在中には中国画を学び、新たな境地を切り開こうとしていた。ところが1932年に第1次上海事変が勃発し、身の危険を感じて台湾へ戻らざるを得なくなる。1934年には有志と共に台陽美術協会の設立に参加した。

 1945年、日本敗戦。上海で中国画の技法をも摂取した陳澄波にとって、中華民国への復帰は活躍の舞台が広がることでもあり、心から歓迎していた。中国滞在経験を持つ彼は中国語を話せるため国民政府側とのコミュニケーションが図れるし、そもそも画家として著名人だったので、中華民国政府歓迎委員会や嘉義市議会のメンバーに選ばれた。ところが、1947年に二二八事件が起こると、彼の運命は暗転する。二二八事件処理委員会の一員として国民党軍側との交渉に赴いたところ、そのまま拘束され、殺害されてしまった。血まみれとなった彼の遺体は遺族によって写真に残されている。

 歴史学者の周婉窈(台湾大学教授)が著した《臺灣歷史圖說 增訂本》(聯經出版、2009年)の表紙カバーには陳澄波の作品「嘉義公園」が用いられている(→こちら)。周教授も陳澄波と同じく嘉義の出身である。彼女は小学生の頃、絵を描くのが得意だったが、同郷の傑出した画家である陳澄波の名前を、大学院で歴史学を専攻するまで全く知らなかったという。

 絵が大好きな少女に、なぜ大人たちは陳澄波のことを教えてくれなかったのか? 彼は二二八事件で処刑されたため政治的タブーとなり、国民党政権による白色テロを恐れる大人たちは怯えて彼の名前を口に出すことすら憚っていたからである。幼い頃から自らの目に馴染んでいた嘉義の風景をかつて陳澄波という画家が大胆でユニークな色遣いで描き出していたのに、そのことを知るきっかけすら彼女にはなかった。つまり、権威主義体制から押し付けられたタブーによって一つの才能が抹殺・隠蔽され、すぐ身近なところにあったはずの貴重な歴史的記憶を共有することが妨げられていた。

 それは、陳澄波一人に限らない。非業の死を遂げたあまたの人々への追憶が許されない沈黙の時代であった。周教授は〈高一生、家父和那被迫沈默的時代──在追思中思考我們的歷史命題〉(周婉窈《面向過去而生》允晨文化、2009年所収)という文章の中で、ツォウ族のリーダーとして原住民族自治の理念を掲げたために白色テロの犠牲となった高一生を追悼しているが、同様に陳澄波への思いにも重ねて歴史的記憶の断絶がもたらした無念を語っている。陳澄波の「嘉義公園」を自らの著書のカバーに用いたことからは、こうした個人的な体験も踏まえた上で、かつての恐怖政治によって引き起こされた歴史の空白を何とか取り戻したいという切実な問題意識がうかがわれる。

 今や嘉義公園に限らず、市内のあちこちに陳澄波作品の展示パネルが設置されているのを見かける。陳澄波二二八文化館が設立され、嘉義市立博物館には彼について専門コーナーも設けられている。もちろん、民主化以降のことであろう。嘉義市内を歩きながら、隔世の感にうたれた。

 日本統治時代に整備された嘉義公園は、かつて嘉義神社と隣接して一体となっていた。日本の敗戦によって国民党政権の支配下に入ると、神社の本殿を崩した後に忠烈祠が造営される。忠烈祠とは辛亥革命以来の国民革命や抗日戦争で命を落とした人々を祀る施設で、靖国神社の中華民国版といえば分かりやすいだろうか。日本は植民地支配において台湾の人々に神社への参拝を強制していたわけだが、敢えて神社を忠烈祠へ転用したことには権威の交替を印象付ける意図があったと思われる。近くには孔子廟も設けられている(写真)。

 写真は忠烈祠の入り口。記念碑の向こうには狛犬が見える。ここはちょっとした広場で、家族連れの子供たちがゴーカートに乗って遊んでいる。長く伸びた参道の脇には狛犬や奉納塔(写真)、手水舎(写真)、祭器庫(写真)などが現存しており、日本の神社であった過去をしのばせる。社務所だった建物は嘉義市史蹟資料館として活用されている(写真)。

 ところで、忠烈祠の肝心なご本尊は1994年に焼失してしまったという。代わりに建てられたのが、射日塔という高さ12階建ての展望タワーである(写真)。写真は忠烈祠へ向かう途中の門構えだが、奥の方に射日塔が見える。英語ではChiayi(嘉義) Towerと表記されている。1階で料金を支払うと展望階の10階まで上るエレベーターに乗れる。9階部分までは空洞で何もない。10階の床の真ん中部分がガラス張りとなっており、下を見下ろせる。ちょっと恐い。カメラを構えた女性がファインダーを下に向けて撮影していた。11階がカフェ。12階は天空庭園となっており、風に体をさらしながら嘉義市を一望できる(写真)。

 射日塔の「日を射る」とは、台湾原住民の伝説に由来する。昔、二つの太陽があった。昼夜を問わず照り続けるため、疲れ果てた人々は、片方を弓矢で射落とそうと考えた。選ばれた勇者たちは、はるかかなた、太陽を求めて歩き続けるが、中途にして力尽き、倒れていく。太陽征伐の使命は次の世代に引き継がれ、ようやくにして射落とすことに成功した──台湾原住民の一つ、タイヤル族に伝わる伝説とされる。ただし、太陽征伐のモチーフそのものは台湾以外でも見られるらしい。

 「日を射る」、つまり「日本を射る」と読むならば、忠烈祠が前提とする抗日意識に符合する。例えば、蒋渭水の評伝で知られる黄煌雄は《兩個太陽的臺灣:非武裝抗日史論》(台北:時報出版、2006年)という著作も出しているが、サブタイトルから分かるように日本統治時期台湾における民族運動史をテーマとしている。本書で言う「二つの太陽」には、日本という支配者=政治勢力と、台湾在住漢民族という被支配者=社会勢力と二つの太陽が台湾には輝いている、ところが二つの太陽が並び立つことはできず、いずれかが射落とされなければならない、という意味合いが込められている。これは賀川豊彦が台湾について原住民の神話を引きながら書いた文章に由来するそうだ。賀川は何度か台湾へ伝道旅行に出かけているから、その折に「太陽征伐」の伝説を耳にしたのだろうか。

 ただし、嘉義の射日塔に実際にのぼってみても、抗日意識を表現するようなものは何も見当たらなかった。塔には原住民族らしき人物の姿がデザインされている。あるいは、「日を射る」を忠烈祠の本旨たる抗日意識に重ねて読む余地を残してエクスキューズとしながら、太陽征伐の神話を連想させることで原住民族のモチーフを強調しているとも考えられる。

 日本支配の象徴たる神社が国民党政権の支配の象徴たる忠烈祠へと転用され、それが焼失した後に今度は原住民の伝説に由来するモニュメントが建立されたという重層性が現在の台湾らしくて興味深い。園内で社務所を活用した嘉義市史蹟資料館の展示を見ても、原住民(このあたりは平埔族が住んでいた)→漢族の移入→オランダ統治→鄭氏政権→清朝→日本→中華民国という重層性によって嘉義の歴史が説明されている。こうした観点が台湾史について大方のコンセンサスになっていると考えて良いだろう。

 園内の片隅には呉鳳の像もあった(写真)。原住民の首狩りの風習をやめさせるため、自らの首を取らせて反省を促した、とされる漢族の知識人である。この話は国民党政権下ばかりでなく、日本統治期にも教科書に採録されていた。嘉義の中心には呉鳳路という通りがあり、成仁街が並行しているのは意味的に関連付けられているのだろう。正しい目的のため自らを犠牲にする功徳を説いているわけだが、暗黙のうちに原住民蔑視、漢族文化の優位がほのめかされており、そもそも呉鳳伝説が事実だったかどうかもわからないわけで、現在では問題視されている。

 公園の中に小型の砲台のようなものが並んでいて、何だろう?と眺めていたら、通りかかったおじいさんから声をかけられた。よく聞き取れずに目を白黒させていると、向こうから「あなた、日本人?」と尋ねられ、日本語で会話が始まるというのは台湾でよくあるパターン。「ちゃんと勉強してない、だから、難しいこと、分からない。」いえいえ、とてもお上手ですよ。昭和20年生まれだが、ご両親が日本語教育を受けており、家庭の中で使っているのを聞きながら覚えたという。「家の外では日本語使えない。日本と条約を結ぶまで、外で日本語使ったら、撃ち殺されちゃう。」体調を崩して、今は仕事していないと自嘲的におっしゃっていた。お大事に、と声をかけて別れる。

 市の中心部、文化路のロータリー近くにある噴水鶏肉飯というお店へ行った。鶏肉飯はご飯の上にむし鳥を刻んだのをちらし、タレをかけたシンプルな料理。嘉義の名物とされる。席につくと何も言わないうちに鶏肉飯が運ばれてきた。専門店なのだからこれを食べるのが当然ということか。スープはいらないのか?ときかれたので、適当に苦瓜と牛肉のスープを注文した(写真)。

 文化路のロータリーにはお店の由来となった噴水があり、その真ん中の台座の上では奇妙なオブジェがクルクル回っている(写真)。場所的に考えて、以前は「偉人」の銅像が立っていたはずだ。蒋介石像があたりを睥睨していたのだろうか。

 炎天下を汗だくになりながら歩きづめだったので、正直なところ、食欲はあまりなかった。むしろ、飲み物の方がありがたい。街中にフルーツ・ジュースやお茶のお店を色々とみかけ、そういうのを買い飲みしながら歩いた。

 写真はオランダ人の宣教師が掘ったといわれる紅毛井である。鄭成功政権の前だから、17世紀のこと。この井戸にちなんだ蘭井街沿いにある。この蘭井街を西に向かって歩き、国華街と交差するところに陳澄波故居があった(写真)。

 国華街を北上して、中正公園へ行く。さすがにここでは名前の通り、蒋介石像がお出迎え(写真)。他方で、園内には許世賢(1908~1983)という女性の銅像も立っている(写真)。日本統治期に東京女子医専や九州帝国大学に学んだ医師で、台湾人女性として初めて医学博士号を取得した人でもある。台湾へ戻った後、嘉義で開業する。戦後、台湾省議会議員に「党外」として当選して国民党批判を行い、雷震の中国民主党結成計画にも関わった。1982年には嘉義市長に当選。なお、彼女の娘二人も後に嘉義市長となった。

 蛇足ながら、歴代嘉義市長には女性が目立つ。現在の黄敏惠市長(国民党)も女性である。街中で魏徳聖監督と市長のツーショットのポスターをよく見かけた(写真)。KANOというのは魏徳聖がプロデューサーとなって製作されている映画である。戦前、甲子園に出場して好成績を収めた嘉義農林学校の野球チームの活躍が題材となっている。この映画の製作に嘉義市政府も協力したのだろう。

 中正公園の脇には陳澄波の作品展示パネルが並び(写真写真)、道路を挟んで向かい側には陳澄波・二二八文化館がある(写真)。番地が国華街228号となっている。残念なことに日曜日休館で参観できなかった。いずれにせよ、中正公園の蒋介石像を陳澄波や許世賢など独裁体制批判を想起させるモニュメントが取り囲む構図になっているのが興味深い。

 阿里山鉄道北門駅へ行く(写真)。この近辺には日本式家屋が多い。日本人が退去した後には大陸から来た外省人が入居したケースが多く、そうした居住地域は眷村と呼ばれる。北門の近くに軍隊関係の施設があったから、そうした関係者が住んだのだろうか。北門駅近くの一角では新たに日本式木造家屋が集中的に建てられ、観光スポットとして整備中である(写真)。木材の運び出し口として木造家屋を売り物にしているようだ。

 北門駅の近くに嘉義市文化中心があり、ここに陳澄波の銅像がある(写真)。嘉義市立博物館には陳澄波の生涯と作品に関する特集展示も行われている。なお、この博物館には自然史関係の展示もあり、とりわけ地震関連に力が注がれていた。

 市街地を南下。途中で日本統治期から使われていた旧監獄の前を通りかかった。囚人が脱走している感じに人形がぶらさがっており、微妙なブラック・ユーモア(写真)。

 市中心部から言うと東南のはずれにあたる二二八紀念公園まで歩いて行った(写真)。ひっそりと紀念館がたたずんでおり、中では犠牲者の証言を集めたパネルが展示されている。嘉義の南、水上飛行場での攻防戦に関わる話が多かった。

 さらに南へ向かって30分近く歩いて、川のほとりにある二二八紀念塔を見に行く。郊外のロードサイドのように何もない道を歩いていると、このまま阿里山まで行ってしまうのでは?と心配しかけた頃にようやくたどり着いてホッとした。嘉義の二二八紀念塔は1989年に建立されており、台湾全土で最も早いものだという(写真)。当時はまだ政府中央の意向を気にしていたセンシティブな時期で、町はずれの橋のたもとにひっそりと建てるなら見逃してもらえたという感じだろうか。二二八事件の慰霊の折には多くの人が集まるが、市の中心部からは遠いので、観光客でここまで来る人は少ないだろう。

 嘉義市中心部に再び戻る。文化路のロータリーでは「台湾独立建国」「陳水扁釈放」を訴える台独派の人が旗を立てていた。その中の一本はなぜか日本語(写真)。大音声でレミゼラブル、民衆の歌をかけていたので耳についてしまい、何となく口ずさみながらそろそろ人の集まり始めた夕方の夜市に向かう(写真)。文化路では夜市が立つが、並行する共和路には市場があり、両方をぶらぶらと歩いた。

 写真は夕暮れ時の嘉義駅前。二二八事件の際、国民政府側と交渉しようとして捕まった要人たちがここで公開処刑された。龍應台『台湾海峡一九四九』(白水社、2012年)に、行政院長や副総統を歴任した蕭萬長が幼い頃、命の恩人だった潘木枝医師の銃殺を見たと語るシーンがある。蕭萬長といえば国民党のテクノクラート官僚というイメージが強かったので、そうした記憶をずっと心の内に秘めていたというのが印象的だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年11月13日 (火)

2012年11月11日、上田旅行2(江文也の足跡をたどる)

 ここしばらく、折を見ては台湾出身の音楽家・江文也のことを調べている。私が上田を訪れたのも、彼の青年期における足跡をたどるためだ。ただし、井田敏『まぼろしの五線譜──江文也という「日本人」』(白水社、1999年)にも著者が上田へ調査に行った記述が出てくるが、江文也について手がかりになるものはたいして見つからず、その日のうちに東京へ戻ってしまったらしい。従って、私もそれほど期待はせずに行った。実際、上田市観光会館の相談窓口で年配の方に尋ねても、江文也という名前は初めて聞きました、という反応だった(色々資料を出して調べようとしてくれたので、その点ではありがたく、恐縮してしまった)。上田市で江文也について全く知られていないことが確認できたのは、逆説的ながら一つの収穫だったと言えるのかもしれない。そういうわけで、具体的な情報を求めるのではなく、むしろ彼が青年期を過ごした街並を自分の足で歩いてみて、その距離感や雰囲気を体感したいというのが今回の旅行の目的である。

 ところで、江文也はなぜ上田にいたのか。台湾出身の彼と信州の山間都市との接点はちょっと不思議な印象も与える。

 江文也の出生地について、一般的には台北の北側で淡水の近くにある町、三芝と記述されている。三芝は父親である江温均の故郷だが、李登輝もやはり同郷で、一族同士に付き合いがあったらしい。ただし、顔緑芬・主編《台湾當代作曲家》(玉山社、2006年)所収の劉美蓮〈以《台湾舞曲》登上國際樂壇──江文也〉という解説記事によると、三芝はあくまでも戸籍上の記録で、彼が実際に生まれたのは台北でも問屋街の並ぶ下町・大稲埕だったという。いずれにせよ、台湾で生まれた文也は貿易を生業としていた父親に従って廈門(アモイ)に渡った。ところで、父親が廈門で仕事仲間として親しくしていた日本人がいたのだが、亡くなってしまった。子供たちを日本へ留学させようと考えていた父・温均は、残された夫人が故郷の上田へ戻るのにあたり、彼女に子供たちを託したというのが上田留学の経緯だったらしい。文也が上田へ来たのは1923年9月、ちょうど関東大震災の直後で、13歳だった。廈門にいた頃、台湾総督府が設立した旭瀛書院で彼は学んでいたので日本語はできたはずだが、まず尋常小学校の6年に編入され、さらに旧制上田中学(現在の県立上田高校)に進学した。

 写真は現在の県立上田高校の校門である。進学校として有名らしい。もともと上田藩主の邸宅が学校に転用されたところで、門構えがそのまま校門になっている(写真)。当然、江文也もこの門をくぐったはずだ。また、近くにある上田市役所の並びに市立第二中学校があるが、江文也が通っていた上田市立尋常高等小学校南校がかつてここにあった。さらにさかのぼると明倫館という藩校だったそうだ(写真写真)。その向側にはレトロモダンの建物があった。旧市立図書館で、現在は石井鶴三美術館となっているが(写真写真)、見たところ開館していなかった。隣が上田市観光会館で、その前のT字路を渡ると上田城跡にぶつかる。

 写真は上田城である。豊臣家と徳川家が対立した際、真田家は昌幸・幸村親子と長男の信之とがそれぞれ別陣営について家名の存続を図ったことはよく知られている。昌幸・幸村はここ上田城に拠って、押し寄せる徳川勢を二度にわたって撃退、とりわけ関ヶ原の戦いに際して信州経由で関ヶ原へ出ようとした徳川秀忠勢を釘付けにして参戦できなくしたため(第二次上田合戦)、江戸幕府の権力が確立すると上田城は解体された。真田家が松代に転封された後は仙石家、松平家が藩主となる。仙石家の時代に城郭が復興されたものの、明治維新後は民間へ払い下げられ、そのまま打ち捨てられたという。現在につながる形で櫓が再現されたのは1942年以降のことらしい(従って、江文也は上田城の櫓を見ていない)。現在は紅葉の名所として知られており、本格的な撮影器材を持った中高年がたくさんうろうろしていた。なお、上田市内では真田一族や真田十勇士のイケメンキャラを頻繁に見かけたし、関連するイベントも盛んに催されているようだ。真田幸村は、上田にいたのは青年期だったということで若武者姿である。蛇足ついでに記すと、上田にはフィルムコミッションがあって映画のロケ地としてよく利用されているらしい。細田守監督のアニメ映画「サマー・ウォーズ」のポスターを割合に見かけたのだが、この作品の舞台も上田だったようだ。そう言えば、真田の六文銭の旗印が出てきた記憶がある。

 上田城内の市立博物館及び山本鼎記念館を参観した。市立博物館では上田藩に関する展示の他、山極勝三郎(1863~1930)という上田出身の病理学者に関する特別展示が行なわれていた。江文也の学生時代の親友で山極姓の人がいたが、ひょっとして一族なのだろうか。山本鼎(1882~1946)という画家のことも知らなかった。児童の感性をつぶさないようにする自由画教育運動、工夫を凝らした生活工芸品を作ることで収入の足しにするばかりでなく農民自身のプライドを促そうとした農民美術運動などで知られた人物らしい。

 市街地に戻って、再び江文也の足跡をたどる。上田市内にはキリスト教会が意外と多い。写真は上田市内の新参町教会。明治の末から主にメソジスト会系の宣教師がやって来ており、江文也もカナダ人のスコット女史から音楽の薫陶を受けたという。建物そのものは昭和10年に移転してきた時に建てられたもののようで、彼が見たものとは違うが、意外とバタ臭い文化的雰囲気の中で青春期を過ごしていたことはうかがえるだろう。すぐ裏手に回ると、スカット女史が運営していた梅花幼稚園があり、江文也はここの日曜学校に通っていた。写真は撮らなかったが(園長さんとおぼしき人が入口で箒をかけていて、幼稚園の写真を撮ろうとしたら不審者に思われそうだと気兼ねしたのだが、考えてみれば、素直に声をかけて話を聞いてみたら良かった)、園内に瓦屋根の和洋折衷的な建物があった。後で調べたところ、ヴォリーズの設計で1902年の築造だという。江文也は間違いなくこの建物を見ていた。ちなみに、ウィリアム・メレル・ヴォリーズ(William Merrell Vories、1880~1964年)とはアメリカ人の建築家だが、宣教師として来日、布教活動のための収入源としてメンソレータムの近江兄弟社を設立したことで知られている。本職が建築だから日本各地に教会をはじめ様々な建物を残した。

 上田駅からまっすぐ延びる大通りに戻り、市街地の北に隆々とうねる太郎山を正面に見ながら歩いていった。地図を見ながらたどり着いたのは真田家ゆかりの大輪寺。平野部から太郎山へと傾斜がくっきりし始める麓のあたりにある。閑静なたたずまいだが、堂宇の構えがなかなか立派な禅寺だった。『まぼろしの五線譜』(185ページ)によると、江文也と共に上田へ来ていた兄の江文鐘はこの大輪寺の住職に可愛がられ、彼自身、仏教哲学の思索に触れていたという。弟の文也がキリスト教会に出入りして音楽や文学をはじめ西洋的文化にのめり込んでいったのと対照的な兄の傾向性が興味を引く。

 なお、江文鐘はその後、父の仕事を手伝うために文也よりも早く上田を離れて廈門へ戻った。詳しい経緯は分からないが、『まぼろしの五線譜』の記述によると、大陸で軍の特務機関に徴用され、戦後になると国民党政権下で投獄されたという。ただ、この人の詳細なプロフィールがよく分からないのでグーグル検索してみると、出口王仁三郎関連の史料がヒットした(→こちら)。昭和九年十一月廿九日、昭和神聖会総本部にて開催された「南支事情を聞く座談会」の出席者中に江文鐘の名前が出てくる。この「南支事情」とは、1933年に福建省の福州を拠点として蒋介石政権に反旗を翻して「中華共和国人民共和国」の成立が宣言された、いわゆる福建事変を指すと思われる。他の出席者の向佩璋や角田清彦はどうやら軍部の意向を受けて福建で何らかの工作を行っていた人々のようだ。よく分からないのだが、江文鐘にも何かキナ臭い政治的背景があった可能性がある。いずれにせよ、仏教思想に思索の糧を求めていた晩年には、文也と共に信州上田で過ごした青春期が一番幸せだったと述懐していたらしい。大陸に残った文也が反右派闘争や文化大革命でひどい目に遭わされたことを考えると、彼ら兄弟両方に現代史の暗い影がさしていた宿命には複雑な思いがする。 

 上田の市街地へと戻る。池波正太郎真田太平記館に入ってみたが、そもそも『真田太平記』を読んでいないので、これといった感想はない。ただ、この隣の駐車場のあたりに江文也の奥さんの実家があったらしい。問屋として地域でも有名な旧家だったそうだ。

 その駐車場のさらに隣にある太平庵という蕎麦屋さんに入り、昼食としておすすめメニューにあった豚コクそばを注文(写真)。豚骨・魚介ベースのつけだれで蕎麦を食べる。写真の左上にすでに飲み干した枡が映っているが、この店限定の樽酒で、これが本当にうまかった。

 今度は上田の市街地の東側を歩いてみた。これといったものも見当たらなかったのだが、常田館という古い建物を見かけた(写真)。絹の文化資料館となっており、入って声をかけてみたが誰もいない。一般開放されているのかな、と思い、靴を脱いであがりこんでぼんやり眺めていたら、入口が開いて女性の事務員さんから「許可を得ていますか?」と誰何されてしまった。どうやら笠原工業という会社の所有地で、道路を挟んだ向かい側にある事務所で入館証を受け取らないといけなかったらしい。慌てて手続きをして、再び参観。養蚕関連の道具などが展示されていた。事務所の脇には、かつて倉庫だった建物がそびえている(写真)。ずいぶんと大きい。

 ここから少し離れたところには信州大学繊維学部(旧制上田蚕糸専門学校)がある。上田はもともと紬で知られた街だが、明治以降も繊維工業が発達し、そうした経済的基盤がしっかりしていたからこそ、文化的雰囲気も維持できていたのだろう。上田の市街地を歩いていると、このレベルの中都市の割には書店が意外に多いという印象を受けた。そうした文化的気風、さらには宣教師によってもたらされた西洋文化などを青年期の江文也がしっかり吸収し、そうであるがゆえに文化的なものへの憧れがいっそう掻き立てられたであろうことは、この上田の街を歩いていると自然に納得できた。日本は近代化の途上にあって軽工業が輸出の主動力となっていたが、江文也の父親がアモイで知り合った日本人というのもひょっとしたら繊維工業関連の貿易商だったのかもしれない(確認していないが)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年11月12日 (月)

2012年11月10日、信州・上田旅行1(無言館、その外)

 稲穂が刈り取られた田んぼの跡にはうっすらとした茶色が広がり、澄みわたった青空とのクリアな対比は空気の清潔感を色彩的に際立たせる。ススキが風に揺られ、やわらかに穂をしならせている。稲わらを焼く煙がところどころで立ち上って、あたり一面には焚き火の焦げ臭さが風に乗ってかすかに漂っており、それが鼻腔を刺激すると、ああ、これは田舎の秋の臭いだな、と妙な実感が湧いた。ちょうど紅葉が見頃の季節である。盆地を囲む山並みに彩られた赤みは、木の種類によって印象派の点描を想起させるように濃淡のコントラストをなし、とりわけ夕暮れ時の陽光に照らし出されたとき、輝くような鮮やかさが印象に残った。

 11月10日、ふと思い立って信州の上田へ旅立つ。長野新幹線で1時間余り、上田駅で上田交通別所線に乗り換えた。典型的なローカル列車ではあるのだが、上田の発着駅が2階にあったので、少し驚く。発車のアナウンスがなぜかアニメ声。そういえば、別所線存続支援キャラ「北条まどか」なる萌え系美少女イラストのポスターを見かけたから、彼女の声という設定なのだろう。ついでながら言っておくと、上田市内では真田十勇士をイケメン風に造型したキャラも頻繁に見かけた。そういう町おこしを図っているのか。

 別所線は2両編成である。車両は首都圏の私鉄から払い下げられたものらしく、普通のロングシートだった。先頭車両の運転室脇にバスと同様の運賃箱があって、降車時にはそこに切符もしくは運賃を入れる。主要駅を除くと、この運賃箱近くのドア以外は開かず、乗客は降車駅が近づくと先頭車両へと移動する。運転手さんも車両内を移動する乗客がいないのを確かめてからドアを閉めていた。

 盆地とは言っても割合と広々とした平野の中を、列車はトコトコ進んで行く。客もまばらなロングシートにゆったり腰掛け、対面の車窓に流れる風景を見やる。ああ、秋だな、と素直に思った。気温の低下という意味ではすでに秋であることをもちろん知ってはいたが、ただ、東京にいるとヴィジュアルで季節感を感じさせる機会が意外と少ない。

 次の駅が視界に入ったとき、ギョッとした。高齢者の団体客がホーム上にあふれかえっており、列車が到着してドアが開くや否や、一斉に車内へなだれ込んできた。じいさん3割、ばあさん7割くらい、総勢50人以上いたのは間違いない。席取り合戦が始まったので、私はおとなしく立ち上がってドア脇に移った。ここの方が風景を眺めるにはちょうど良い。斜め向いに座っていた地元高校生も私と同様にドア脇に追いやられていた。ガイド役なのだろうか、白い車掌服を着込んだ年配の男性も一緒に乗り込んできて、観光案内のプリントを配付。一通り行き渡ったのを見計らったところで、「みなさん、はい、注目!」と一声あげると、おもむろにハーモニカを取り出し、「赤とんぼ」を吹き鳴らし始めた。ばあさんたちが、待ってました!とばかりに唱和し始め、それにつられる形で車内に歌声が立ち込める。…何だ、これは? 老人ホームの修学旅行か? 土産物を載せるトレー(「ばんじゅう」と言うのか?)を肩からさげた男性の売り子さんがすかさず現われ、じいさんばあさんの波をかき分けていく。売り子さんのスタイルもレトロな演出である。こういう高齢者団体客が地方の観光地でしっかりお金を落としてくれているのか。うざったい、というよりも、あまりにシュールな光景を目の当たりにして笑いをこらえるのに必死だった。

 騒々しい車内から逃げ出すように塩田町駅で降りた。無人駅である。ほど良く涼しい秋の風が頬をなで、ほっと一息つく。駅前にシャトルバスが停車しており、無言館まで行くことを運転手さんに確認してから乗り込んだ。私をピックアップするとすぐに発車した。列車の到着に合わせて運行しているようだ。盆地の縁にあたる山並みへと向かい、登っていく中腹のあたりで下車。10分もかからなかったように思う。「無言館はあっちを登った所にありますよ」と運転手さんは丁寧に教えてくれた。おろされたところはちょっとした公園になっており、盆地を一望できる(写真)。

 木立の向こうに無言館が見える(写真)。近づいて撮った写真がこれ。無言館については今さら言うまでもなかろうが、第二次世界大戦で出征して二度と帰ることのなかった画学生たちの遺作が、館主の窪島誠一郎や自らも出征体験のある画家の野見山暁治の努力で収集されており、遺品や遺族のコメントと共に展示されている。本館が開館したのは1997年だが、寄附を募って2008年、新たに第二展示館「傷付いた画布のドーム」も完成した(写真)。 

 戦没画学生たちの遺作であることだけが共通項だから、作品のタイプも描き手のプロフィールも様々である。旧制東京美術学校(現在の東京芸術大学)出身などエリート的な人々が多い一方、師範学校出や学歴もなく独学で絵を描いていた人もちらほら見かける。シュールレアリスムを真似た作品や、ファッションデザインなどもあった。自画像が多いのは、芸大では昔から卒業制作で自画像を描く習慣があったからか。

 生き続けたら良い作品を生み出したのではないかと思える人もいるが、もちろんそういう問題ではない。もっと描き続けさせてやりたかった、という遺族の言葉を見て、しばし歩みが止まる。行く前はそれほど深く考えていなかったのだが、あの礼拝堂のように荘厳な空間(コンクリート打ちっぱなしの造型は安藤忠雄作品のようにも思ったが、どうやら違うようだ)にたたずんでいると、展示されている絵のそれぞれから無念の思いが響き渡り、空間的に共鳴しているようなイメージが湧いてきて、ちょっと胸がつまってくる思いがした。あまり陳腐なことは言いたくないのだが、そう感じてしまったのは事実だ。

 無言館前から再びシャトルバスに乗る。この辺りにはいくつか古いお寺があるらしく、無言館も含めてちょっとしたハイキングコースになっているようで、途中から乗車する人もいた。20分もしないで別所温泉まで出た。

 別所温泉で温泉にでも入ろうと思っていたが、ちょっと歩いてみてもそれほどの風情も感じなかったので、すぐ帰ることにした。駅へ向かって道を下っていく途中、将軍塚というのが目にとまった。余五将軍平維茂の墓という伝承がある。信州戸隠で叛乱を起こした鬼女・紅葉を討伐するために維茂が来たというストーリーは能の「紅葉狩」にも翻案されているが、その時にこの近辺に拠点を置いたそうだ(なお、日本で最古の映画は明治末期に撮影された「紅葉狩」だったような気がする)。他にも、木曾義仲が側室と一緒に温泉に浸かったとか、西行法師が別所温泉に来ようとした時に出くわした童子と問答したら、その利発さに驚いて引き返したという「西行戻り橋」とか、武田信玄が信濃北部へ勢力を拡大する際に派遣した重臣がここ別所温泉に拠点を置いたとか、色々と歴史的由緒がある。

 夕方、盆地が黄昏色になずむ中、上田交通別所線に乗って戻る。途中から女子大生の姿をちらほら見かけると思ったら、沿線に大学があるようだ。新幹線で上田駅に到着した時、宿泊先をどうしようかと思い、ものは試しと別所温泉の旅館に問合せてみたのだが、やはりシーズン中ということで空室はなかったので、駅前のビジネスホテルに部屋を確保してあった。荷物を置いてから、土地勘をいくぶんなりとも探るため、暗くなった上田の市街地を歩き回る。7時にはたいていのお店は閉まり、繁華街でも人通りが少なく、寂しく感じた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年5月11日 (金)

台湾旅行⑥(5月6日、旗山/5月7日、帰国)

(承前)

 美濃は早めに切り上げ、高雄方面へ戻るバスに乗る。15分ほどで旗山に着いた。こちらの方が美濃よりも街の規模は大きい。バスターミナルには高雄・左営ばかりでなく鳳山や台南など各方面へのバスが発着しており、この近辺の交通拠点となっている様子だ。ただし、位置が町外れにあって最初は方向感覚がつかみづらく、ちょっと道に迷いそうになった。写真は中心街へと向かう途中の通り。

 旗山はもともとバナナの産地として知られた街で、収穫されたバナナを運ぶ鉄道がここまで引かれていた。すでに廃線となっているのだが、駅舎が再建されて観光スポットになっている(写真写真)。台湾ではこうしたケースはよく見かける。中はちょっとした観光案内スペースとなっており、バナナなどお土産品も売っていた。

 駅舎の裏手に回ると、写真の建物が見えた。瓦屋根のぼろい日本式だ。何だろう?と思って近づくと、「旗山信用購買販売利用組合工場」跡地となっている(写真写真写真)。日本統治期に建てられた建造物で、今は歴史遺産として改修工事中のようだ。

 旗山駅に戻る。商店街へと向かう手前にぼろい建物があった(真、写真)。よく見ると、古い亭仔脚である。ロープがめぐらされ、崩れかかって危ないから近寄るなという注意書きが貼ってあった。亭仔脚というのは、建物の一階部分の道路に面した一角を歩道として提供し、雨や暑さをしのげるようにした構造のこと。要するに、台湾の主要都市に必ずあるアーケード式歩道である。南方でよく見かける建築様式だが、台湾では日本統治期に義務化された。

 写真もやはり旗山駅近くにあった古い日本式家屋。現在は喫茶店として再利用されているようだ。こういう利用方法も台湾では時折見かける。

 旗山老街を歩く(写真)。日本統治期に作られた洋風建築が見られる(写真写真写真)。バロック風のファサードが良い味わいを出している。何となく、このレトロな町並みは、台北近郊の三峡の老街と雰囲気が似ていると思った。休みの日なので屋台が並び、地元観光客が買い食いしながら歩いている。私もバナナ・アイスや、愛玉子などを買い食い。なお、バナナ・アイスは旗山枝仔冰城というお店で買った。ここは割合に大きな構えで、創業1926年。メニューにもヴァリエーションがあり、イート・インのコーナーは混んでいた。タロイモ・アイスが名物らしいのだが、旗山ならバナナだろうという勝手なイメージでバナナ・アイスにした(写真)。

 アイスを買ったお店のある十字路で旗山老街から離れ、地図を見ながら孔子廟へと向かう。途中に武徳殿という日本統治期の建物があった。現在は改修されてコミュニティ・ホールのように使われている。こうした武徳殿も台湾の各地にあり、他にも台北郊外の大峡で見かけた覚えがある。武徳殿というのは当時の警察関係の武道場である。武徳殿の本堂には大きな覆いがされて、ひさししか見えない(写真写真写真)。横に張り出した別棟の方はそのままの姿を残している(写真写真)。中に上がると写真のような感じ。土足で上がるのは気がひけるな。

 武徳殿はかつての旗山神社のすぐふもとにあった。旧参道だった階段(写真)の途中から見下ろした武徳殿(写真)。旗山神社の跡地には現在、高雄市孔子廟がある。門構えは台北の中正紀念館と全く同じ形式だ(写真)。旗山の街並を一望にできる高台である(写真写真)。なお、旗山は高雄県に属していたが、最近、高雄市に吸収合併されたので「県」ではなく「市」となっている。台湾にあった神社の跡地は戦後、忠烈祠にされたケースが多いのだが、高雄の忠烈祠は高雄市内にすでにあるから、こちらは孔子廟となったのだろうか。境内の目立つところに蒋介石の銅像、孫文や蒋経国の言葉などがある(写真写真)。日本軍国主義の「日本精神」から国民党イデオロギーへと転換したことを台湾の人々に誇示する目的があったと考えられる。現在は人影もまばらで、静かな心地よい空間となっている。

 高雄に戻った。いったん宿舎に戻り、食事に出る。MRT三多商圏駅で下車、遠東百貨店の17階にある誠品書店の高雄店に寄る。高雄市立歴史博物館が土日には夜21時まで開館しているのを思い出し、タクシーを拾った。しかし、今日はなぜか休館中。とりあえず写真だけ。高雄市立歴史博物館は日本統治期に高雄市役所として建てられた帝冠様式の建築で(ちなみに、旧高雄駅舎も帝冠様式→写真)、戦後も引き続き高雄市政府として利用されてきた。二・二八事件のとき、国民党政府側と交渉するため地元有識者の組織した二・二八処理委員会がここに置かれたが、国民党軍によって制圧された際に砲撃を受け、一部は損壊したという。こうした因縁もあって二・二八事件に関する展示・研究も行なわれている。博物館前の道路を挟んだ向かい側にある公園には二・二八事件関連の記念碑もある。

 愛河をぶらぶら歩き、思い立って六合夜市へ足を運んだ。屋台で、以前に台東で見かけてからずっと気になっていた果物、釈迦頭(シュガー・アップル)を入手し、ホテルに持ち帰った(写真)。痛みやすいからか、輸出はされていないらしい。割るとこんな感じ(写真)。見た目はゴツゴツしているけど、結構やわらかい。屋台の人が二つに割ってくれたのだが、コツがありそうだ。柿の種ほどの大きさの黒い種が白くてクリーミーな果肉に覆われており、それを一つ一つスプーンですくいながら食べる。淡白な甘さ。これは何だろう、ヤシ系の味なのかな? うまく表現できない。一人で食べるには大きくて、飽きてきた。半分がちょうどいいくらい。

 5月7日、帰国。左営から8時に出る高速鉄道に飛び乗った。朝食を買う時間もなく、車内販売にもあまり食欲をそそられるものがなく、空腹のまま10時に台北着。そこで、鼎泰豊の敦南店に行ってしっかりブランチ。そのまま誠品書店敦南本店へ行き、色々買い込む。旅行中に買い込んだ中でめぼしいのは以下の通り。
・白先勇『父親與民国:白崇禧将軍身影集』(時報出版):白先勇は台湾現代文学では代表的な作家で、この本は父親であった白崇禧・元国防部長について初めて書いたという触れ込み。評伝というより、写真集にコメントを加えている感じ。
・周婉窃『海洋與殖民地台湾論集』(聯経出版):周婉窃は台湾大学教授、台湾史研究では第一人者で、邦訳された『図説 台湾の歴史』(平凡社)は「東アジアの100冊」の中に選ばれている。今回買った『海洋與殖民地台湾論集』には、私が以前から関心を持っている江文也についての論文「想像的民族風─試論江文也文字作品中的臺灣與中國」も収録されていた(ただし、台湾大学のHPにPDFでアップされているのをすでに読んだけど)。
・郭明正『真相巴萊:賽德克巴萊的歷史真相與隨拍』(遠流出版):魏徳聖監督の映画「セダック・バレ」に合わせて刊行された本。著者はセダック族出身で、この映画の言語指導を行った人。ただ、映画のストーリーだけでは観客を誤解させかねないという問題意識から書き下ろされている。周婉窃が序文を寄せている。
・『建國舵手 黃昭堂』(吳三連台灣史料基金會):昨年亡くなったばかりの台湾独立派の重鎮、黄昭堂のオーラルヒストリーのようだ。
・莊永明『台灣歌謠:我聽我唱我寫』(台北市政府文獻委員會)
・賴香吟『其後 それから』(印刻出版):小説集。話題の新刊らしいのでとりあえず買った。

 帰りの飛行機の中では『接接在日本2』(商周出版)をざっと通読。日本に押しかけ女房でやって来た台湾の女の子・接接が受けたカルチャー・ギャップがテーマ。イラスト・エッセイなので気軽に読める。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年5月10日 (木)

台湾旅行⑤(5月6日、美濃)

(承前)

 5月6日、幸いなことに、この日も晴れだった。高雄からバスで1時間半ほど行った山間にある客家の村、美濃へ行く。

 美濃と書いて、中国語ではメイノン(mei3 nong2)と発音する。もともとは瀰濃と書かれたらしいが、その発音が「ミノ」という日本語的な語感に近かったため日本統治期に美濃と改名され、そのまま定着したのだという。高雄市と高雄県とが合併したのを受けて、現在は高雄市美濃区となっている。

 美濃は山間の平地が開拓された村で、近づいていくときには青々とした田んぼの中をバスに揺られながら横切ることになる。バナナや椰子の木が点在し、そばまで山並みが迫っている。のどかな雰囲気だ。美濃は米どころである。中心街の観光案内所(美濃國小の建物に附設)にあった物産品陳列コーナーには高級米も置かれていた。写真はとうもろこし越しに撮った田んぼと山。

 客家の居住地は山間部が多い。大陸からの漢族系渡来民として泉州系、漳州系、客家系それぞれが来た順番に条件の良いところへと定着し、一番遅かった客家系が条件の悪い山地へ追いやられたという説明を以前に何かで読んだことがあった。しかし、最近の研究では、泉州系は商人が多いので港の近く、漳州系は農業民なので平野部、客家系はもともと大陸でも山地に暮らしていたので同様の環境の場所を敢えて選んだと考えられているらしい(王御風《圖解台灣史》[好讀出版、2010年]を参照)。

 美濃の中心街付近を散歩するだけなら2時間もかからない。観光地図で老街となっている通りを歩いてみたが、普通の民家が並んでいるだけだった。写真のような廟堂を見かけたくらいか。これといった何かがあるわけではないけど、観光地ではないから当然だ。台湾の田舎町の雰囲気を肌で感じながら歩くにはちょうど良いのかもしれない。中心部から離れた所に美濃客家文物館や鐘理和紀念館などがあるが、そこまでは足を伸ばさなかった。レンタサイクル等の手段で行くことは可能のようだ。

 客家の人たちの住居は写真のような感じ。コの字型に房屋が配置され、中央の堂宇には「三省堂」「河西堂」などと扁額がかかっている。割合と構えは大きい。集合住宅の場合でも玄関先には必ず紅い聯句が貼ってあった。学問を奨める内容が多く、客家の人たちにはそういう気風が伝わっているのか。そう言えば、街道沿いに美濃へと入る辺りに敬字塔というのが建立されていた(写真写真)。

 中心街の観光案内所に寄ってから、永安路を東へと歩いていった。写真は日本統治期にかけられた橋(写真)。真ん中の石像は猿か? 商店街なのか住宅街なのか微妙な通りだ。藍衫をつくっているお店があった。店先の人形が着ている青い服が藍衫(写真)。客家の人々に独特な衣服で、特産品になっている。古い家屋(写真)、それから廃屋(写真)。東門楼(写真写真)まで行って、同じ道をまた戻った。

 中心街の方に戻ると、写真は粄條(ばんてぃあお)街と名づけられた通り。ちょうどお昼時だった。お店を眺めながらブラブラ歩いていたら、店先で料理をしているおばさんが愛想よく微笑みかけてくれたのと目が合ったので、そのお店に入ってみた。ガラス戸を開けると、冷房がきいている。粄條と空心菜、それから汁物があった方が良いかと思って魚丸湯を注文した。

 写真が粄條という客家料理。美濃の名物らしい。食感はうどんみたいで、何の違和感もなくツルツルと食べてしまった。米でできているらしいから、太いビーフンと言った方がいいのかな。トッピングは鶏肉ともやし、ニラ、干した小エビ。醤油風味のおつゆが軽くかかっている。さっぱりしていて食べやすかった。お会計の際、私の中国語が不自由だったのですぐ日本人と分かったのか、金額は日本語で教えてくれた。親切な応対が本当にありがたい。

 美濃は早めに切り上げ、次は高雄に戻るバスに乗って旗山へ向かう。写真はバスターミナル近くの街並。

(続)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年5月 9日 (水)

台湾旅行④(5月5日、東港・大鵬湾)

(承前)

 東港に戻る連絡船には午後1時半頃に乗船。帰りの便は空いているなあと思いつつ、早めに乗船して仮眠をとっていたら、時間を追うに従って乗船客は増えてきて(特に合宿帰りと思しき大学生風の団体客)、ほぼ満席状態になった。

 東港は漁港の町である。マグロの水揚げが有名で、ここから日本へも輸出されているらしい。連絡船発着所から外へ出ると、通りは人や車がごった返し、警官が交通整理をしている。マグロ市が催されており、その会場へと車が次々と吸い込まれていく。行楽がてら買出しに来た人たちのようだ。私がマグロを買っても仕方ないので、その手前にある市場をブラブラひやかす。もちろん魚介類が中心。マグロをその場で切り身にしてパックにつめ、すぐお刺身として食べられるように売っているお店もあった。

 大鵬湾へ行こうと思ったが、歩いて行ける距離なのかどうか分からない。バスがあるはずと思ってバス停も探したが、どうも見当たらない。とりあえず東港の町を適当に歩いていたら、昔の日本式家屋を見つけた(写真写真)。こういうのは見つけ次第、写真に撮っておく。

 結局、タクシーを拾った。大鵬湾まで車だとすぐだった。到着したのは3時過ぎくらい。公園としてまだ本格的な整備は終わっていない様子で、人影はまばら。大鵬湾はラグーン状になった内湾で(写真写真)、日本統治期には日本軍の水上飛行場があったそうだ。戦争中、台湾は「南進」の基地と位置づけられていたから、ここもそうした最前線となっていたのだろう。戦後も国民党に接収されて軍事施設となっていたが、一般開放されて「大鵬湾国家風景区」として整備され始めたのは最近のことらしい。詳しいことはこちらのホームページを参照のこと。

 写真のような看板があって、日本軍関係の遺跡も観光資源にするつもりのようだが、まだ公園が完成しておらず、奥の方に入ろうとしたら警備員さんに追い返されてしまった。奥の方を見てみると、写真のような展望台が作られている。明らかに水上飛行場だった過去をアピールしている。

 写真は戦争中の防空壕。台湾各地にあり、私は他にも宜蘭、花蓮、台東で見かけたことがある。弾薬庫も現存している(写真写真写真写真)。かつては湾の際まで鉄道が来ていた(写真)。それから、写真は大鵬湾公園の入れなかった区域に見える古い建物。昔の給水塔かな? 気になるのだが、入れてくれないのだから仕方ない。

 帰ることにした。頑張って移動した割には不消化感を残したままの一日だった。まあ、こんな日もあるか。
 バス停に行く。ここを通過する墾丁快速というバスの時刻表を見ると、終点の高雄市内及び墾丁の発車時間は記されているのだが、ここを何時何分に通過予定なのかは記載なし。正確な時間は分からないから参考にせよということか。ぼんやり待っていたら左営行きのバスが来たので乗車。左営まで146元。

 宿舎に戻る途中でコンビ二に寄ったとき、蘋果日報を初めて買った。こんなに分厚いとは知らなかった。余英時が一面にデカデカと出ているのが目に入り、余英時とリンゴの取り合わせなんて珍しいと思って買った(写真)。台湾紙「中国時報」の社長は中国共産党に迎合しているから拒絶する、という署名運動に賛同したことが記事になっている。余英時は中国近代思想史研究では著名な学者で、台湾の中央研究院院士、プリンストン大学名誉教授。マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を意識して書かれた『中国近世の宗教倫理と商人精神』は日本語訳されている。もう82歳なのか。普段は研究に専念して、テレビもネットも見ない生活らしい。

(続)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧