カテゴリー「旅行・町歩き」の54件の記事

2009年10月18日 (日)

10月10日 新竹へ

【出発】
・先週、連休を使ってちょっと台湾へ。成田10:00発(日本時間)→桃園12:30過ぎに着(台湾時間)のJAL。
・今日は国慶節だからか、あちこちで青天白日旗が翻っていた。高速バスで台北駅まで出てMRTに乗り、西門駅へ。宿舎にたどり着いたのは15:00頃。西門町のど真ん中、駅を出て3分ほど、路地を少し入ったところ。立地条件が良い割りに料金は安かったが、窓のない部屋だった。寝るだけだからいいか。

【新竹へ】Photo
・新竹へ行く。台北15:30発→新竹17:02着の莒光号。一応、車内に携帯電話の使用はお控えくださいという注意書きはあるが、携帯電話の声が無遠慮にとびかう。
・車窓の風景をぼんやり眺めるのが好き。青々とした草はらに木立の光景が見えた。ふと、侯孝賢監督「冬冬の夏休み」のワンシーンを思い浮かべた。あれは苗栗が舞台だったとは思うが、風景としては続いているのだろう。Photo_6
・新竹の駅舎は日本統治期の建物を現在でも使っている(上の写真)。駅前にはイベントができる広場があり、屋台も並ぶ。線路があった。かつての軽便鉄道か何かの跡だろうか。花蓮でもかつて軽便鉄道だった線路跡をそのまま細長い公園に整備されているのを見かけたことがある。Photo_7
・まず、李澤藩美術館に足を運んだ。開館は金土日の18時までということは事前に調べてあった。李澤藩(1907~1989年)は水彩画家である。彼については以前にこちらで触れた。新竹駅から歩いて5分ほど、繁華街の大通りに面した建物の3階。かつて李の自宅のあったところらしい。他の階にはテナントが入っており、階段をのぼる途中の2階には若者向けのヘアサロン。写真で煌々と明かりがついているのがそれだ。
・芳名帳に記入して入館。アマチュア向けの賞の入選作の展覧会をやっていた。地元の美術サロンという位置付けか。李澤藩自身の作品は片付けられて数点しか見られなかった。奥の方で遺品の展示。画架や書棚、集めていた小物など。書棚は台北師範学校在学中に自分で作ったものらしい。Photo_8
・街を歩く。新竹市政府。日本統治期の新竹州庁の建物を現在でも使っている。城隍廟の方へ歩いていく。ちなみに、城隍廟とは町の守護神を祀ったところ。屋台が並んでいると聞いていたが、時間が中途半端だったせいか、人通りはあってもいわゆる活気がない。迎曦門に戻る。前に広場があり、若者のバンドが大音響を出していた。Photo_9
・新竹市立映画博物館。戦前、有楽座という映画館だったが、戦争中に爆撃を受け、修築されて国民大戯院となり、その後、打ち棄てられていたのを改装して博物館として利用されている。ミニシアターも併設されているようだ。建物の脇には、映画関連の事項を中心に新竹の歴史をまとめた年表や映画ポスターのパネル。1941年には李香蘭も来たらしい。肝心の博物館は、開館時間中のはずなのに、休息中の札がかかったまま。ひょっとして祝日だから休館なのか。仕方ないので引き返す。
・風が強く、ゴミが目に入った。雲行きは怪しく、たまに小雨がぱらつく。
・19:01発の自強号で台北に戻る。屋台でビーフンでも食べようと思っていたのに、気持ちの引かれる店が見つからず、小腹が減ったので、列車待ちの時間に駅のセブンイレブンでサンドイッチ。パッケージは日本と変わらず。パンは若干パサパサ、ハムの味が違う。列車の中で明日のスケジュールを組む。

【夜の台北】
・20時頃、台北駅に到着。MRTに乗り換えて市政府駅で下車。誠品書店信義旗艦店へ。私は台北に来たら必ずここに寄って時間をつぶす。
・いつも上の5階から順次下へ降りていく。5階は子供用品フロアだが、絵本売場をチェック。酒井駒子さんの絵本が何冊か翻訳されており、ちょっとした特集が組まれていた。
・4階は芸術フロアである。日本語コーナーも、アート・ファッション系の本が中心なので、このフロアで美術書コーナーとCDコーナーとに挟まれている。美術書コーナーの新刊平台に並んだ翻訳ものでは安藤忠雄と森山大道が目についた。
・3階は人文・社会科学フロア。ここで台湾史関連の書籍を買い込む。先日読んだばかりのJonathan Manthorpe, Forbidden Nation: A History of Taiwanの中文版が文達峰(柯翠園訳)《禁忌的國家──台灣大歴史》というタイトルで新刊平台に積まれていた。フランツ・ファノン『地に呪われし者』の翻訳(中文タイトルをメモするのを忘れた)やファノンの評伝が新刊で出ているのも目についた。ここしばらくポストコロニアルの視点で台湾史を議論するのが定着しているようだから、そうしたところから需要があるのか。龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年)は話題になっている様子なので購入。
・2階は新刊フロア。ざっとベストセラーの棚を眺めて引き上げる。
・MRTで西門駅に出て、明朝足をのばす予定の大渓行きバスの停留所を確認してから、西門町を少しブラブラ。
・腹へったなあと思いながら歩いていたら、阿宗麺線というお店の前を通りかかった。みんな店の前で立ち食い。つられて私も行列に並ぶ。一品しかないようで、すぐ順番がきた。大椀55元を注文。細麺というか、にゅうめんのような感じで、かつおだし風味、とろみのあるスープ。アツアツをレンゲですくってハフハフしながらかき込む。亭仔脚の脇の台に調味料が置いてあり、好みの味に調整してもよし。箸が欲しいなあと思いつつ、レンゲでほおばっていると、屋台を引いたおっちゃん、おばちゃんたちがワイワイ騒ぎながら目の前を走っている。どうやら、巡回パトカーが来たらしい。西門町名物、屋台と警官のいたちごっこを眺めながら麺線を平らげた。

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10月11日 大渓へ

【大渓へ】
・今日は台北近郊の大渓、三峡、桃園を回る心積もり。しかし、朝、テレビの天気予報によると、台湾北部・東部は大雨とのこと。高鉄を使って晴れていそうな台南あたりに行こうかとも迷ったが、初志貫徹。
・幸い、まだ曇り空。昨晩のうちに確認してあったバス停へ行くと、すでに大渓行きバスが留まっていて運転手さんは寝ていた。8時頃になっておもむろにドアを開けてくれたので乗車。持参したガイドブックには終点まで103元となっていたが、念のため運転手さんに確認したら105元とのこと。運賃箱にお金を入れると、行先を記した札をくれた。これは降車時に返す。
・私は、中国語の文章なら多少は読めるが、基本的に聞き取りもしゃべりも出来ない。コンパクト辞書を携行し、必要になった時すぐに目的地名のピンインを調べて(注音符号は分からない)、誤解のないように繁体字でメモに記して見せながら口に出す。数字ぐらいなら聞き取れる。
・東呉大学城中キャンパス脇の貴陽街停留所から出て、萬華、板橋、土城、三峡を経て大渓に行くルート。ほぼ2時間かかった。萬華を通ったとき黄氏家廟というのを見かけた。少女作家・黄氏鳳姿の一族の関係か。
・萬華から板橋、土城までずっと繁華街が途切れることなく続き、土城を過ぎたあたりから丘陵が近くに迫ってきて台北盆地が終わるのをうかがわせる。それにつれて道路沿いに並ぶ建物の丈が1,2階ほどの低さになってきた。経由した三峡はかなりの繁華街だったが、ここを除けば畑や林の広がる中をひた走る田舎道。
・途中乗ってきたおじさん二人組みがやたらと甲高くしゃべるのが車中に響き、しばらくして降車。明らかに北京語ではなかった。あれは台湾語(ホーロー語)か、それとも客家語か。
・大渓に到着。ガイドブックには、小さい街なのでバスターミナルを起点に動けば迷うことはないという趣旨のことが書かれていたのだが、その肝心のバスターミナルがどうやら工事中で、離れた所の臨時停留所で降ろされた。最初はそんな事情など分からず、ガイドブックの略図通りに歩こうとしても、街路が明らかに異なる。自分がどこにいるのか分からず焦った。その上、雨も降ってきた。苛立ちが募り、日本に帰ったらガイドブックの出版元にクレームをつけてやる!と毒づく。そのガイドブックは雨水を吸ってブクブクにふくれあがり、邪魔なので必要なページを思いっきりビリッと破り取る。晴れていたら、たとえ迷ってもおおらかでいられるのだが。20分ほどさまよっているうちに商店街に出て、ようやく街の構造と方角の見当がついた。位置関係さえ把握できればこっちのもの、気持ちに余裕が出てくる。Photo_10
・老街(オールド・ストリート)は後で歩くことにして、まず大渓公園へ。この公園は日本統治期には神社だったらしい。大きな川岸の崖の上。独楽の記念碑があった。この町には一時期、台湾の大富豪として知られる林本源の一族がいて、大陸から大工を呼び寄せ、彼らが閑な時間に独楽をつくったという由縁があるらしい。近くには、地面の大きく丸いくぼみにベンチのしつらえられた野外ステージ。日本統治期の相撲場跡で、戦後は池になっていたところ、メンテナンスが大変で、野外ステージ風にしたという。
・隣に蒋公之家なる施設があった。蒋介石の別荘だったらしい。現在は文化センターになっている。Photo_11
・さらに歩いて、武徳殿の前に出た。日本統治期の剣道場を改装して、今でも公共施設として利用されている。裏手には崩れかかった日本式家屋があった。背後に崖が迫り、武徳殿を挟んで両脇に大渓児童中心と大渓鎮立図書館がある。旅先で図書館を見つけるとついつい入りたくなってしまう性分である。3階が書庫。日本の田舎の小ぢんまりとした公立図書館と、たたずまいというか空気がそっくり。2階が閲覧室。中高生くらいの子たちが静かに勉強している。今日は日曜日。台湾の受験競争は厳しいと聞く。入口あたりでは、携帯電話で長話をしている女の子の姿。Photo_12
・武徳殿の向かいには写真のような日本家屋もあった。
・老街を歩く。赤レンガの建物の整然とした並び、意外とレトロモダンな構えに風情がある。魚や野菜を売るお店が亭仔脚からはみ出し、買い出しのおっちゃん、おばちゃんがわやわやとざわついている。人がひしめく中をスクーターがかいくぐって通るので危なっかしい。食べ物や玩具など土産物を売る屋台のような店が軒を連ねる区画では若いグループや子連れの家族などが楽しげに買い食いしながら歩いている。活気がある。今日は日曜日だから近隣から日帰り観光で来ているのかもしれない。なぜかキナコ餅を売っているお店に行列ができていた。貼紙を見ると、どうやらテレビで紹介されたらしい。Photo_14
・さて、引き上げて次の目的地の三峡に行きたいのだが、バスターミナルが工事中なので、どこからバスに乗ったらよいものやら分からない。グルグル歩き回りながら、バスが行きかう大通りに出た。バス会社の交通整理員と思しきおじさんにと尋ねたら、言葉は分からないが身振りで教えてくれて、反対車線に行くと三峡行きの臨時停留所を見つけた。雨に滲んだ手書きの行先表示を確認したちょうどその時にバスが来た。飛び乗って、運転手さんに三峡老街までの運賃を確認。

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10月11日 三峡へ

【三峡へ】
・三峡老街の停留所の近くまで来たら、運転手さんが身振りでここだと教えてくれた。下車。ひなびた田舎町を想像していたのだが、予期に反して、商店街を人が行きかい、道路には自動車が渋滞するかなりの繁華街だった。
・あらかじめ地図で確認してあった李梅樹教授紀念文物館へ。普通のマンションの6階にあり、エレベーター脇の机の前に座っていた老人(管理人?)に声をかけてから上へのぼった。郷土の昆虫学者(?)関係の展示と併設で、どうやら篤志の個人経営の紀念館らしく、日曜日は開館のはずだが、扉はびっちり閉まっていた。仕方ない、引き返す。老人に「謝謝」と言って出て行ったとき、背後から声がかかったが、一瞬、「再見」と言われたのかと思って、そのまま建物を出た。出た瞬間に頭で反芻したら「在嗎?」と言われたのだと思い当たる。そうか、入る時何やらゴニョゴニョ言われたのは、「誰もいないかもしれないよ」ということだったのか。Photo_29
・川沿いに歩き、清水祖師廟へ。大渓ではメインの観光スポットである。かつて清代に建立された廟堂だったが、いつしか廃れてしまい、戦後、郷土の画家・李梅樹が中心になって再建された。Photo_30
・一部には旧台湾神宮の鳥居が使われているらしいのだが、どれだろう? 中心の堂宇の柱が古びた感じだから、これか。他の柱にも精巧なレリーフが刻み込まれていた。壁面には花鳥風月が細い線で綿密に刻まれている。李梅樹をはじめ名のある画家たちの手になる。長年月をかけて造営が続けられたことから台湾のサグラダ・ファミリアと呼ぶ人もいるらしい。 Photo_16
・大きな川にかかる橋を渡って、李梅樹紀念館へ行く(先ほどの文物館とは異なる)。大きなマンションの一階。洋画家・李梅樹(1902~1983年)の作品を展示する美術館である。
・李梅樹は三峡の生まれ。台北師範学校を卒業してから公学校(台湾人向けの小学校)の教員をしていたが、その後、石川欽一郎の教えを受ける。28歳の時に東京美術学校に入学、岡田三郎助などに師事、卒業後は画家として身を立てる。戦後は大学教授のほか県議会議員なども務めた。清水祖師廟再建は彼のライフワークとして知られている。
・入館者数人を相手に解説をしているガイドのおじさんから声をかけられ、私が戸惑った表情をしているのを見て取ると、日本語で「日本の方ですか? こちらへいらっしゃい」と招いてくれて、台湾人観光客相手に北京語、私相手に日本語と交互に言葉を使い分けながら解説してくれた。とりわけ、遠近法の視覚に及ぼす効果が巧みに使われていることを懇切丁寧に説明してくれた。館内の床に足跡マークがあって、これは何だろう?と気になっていたのだが、一つの絵でも視点を変えると見え方も変わってくる、その位置表示だった。
・油絵である。リアルな描写で、渓流で洗濯をする家人の肖像やミレーの農民画を意識した作品などが印象的だった。1946年製作の三人の孫の並んだ肖像像の前で、ガイドさんがお札を出して孫文の肖像を見せる。三人のうち真ん中の子の年齢が一番高い、つまり「山」の字→「中山」を示すらしい。
・ガイドさんから「どこに住んでますか? 台北? 新竹?」と尋ねられた。どうやら日本企業の台湾駐在員が休日に日帰り旅行に来たものと思われたようだ。日本からの観光客が一人でわざわざここまで来るのは珍しいのだろう。
・展示された遺品の中には、石川欽一郎の書簡のほか、梅原龍三郎・藤島武二らも三峡に来たことがあったらしく、案内してくれたことへのお礼状があった。
・李梅樹の作品と年譜がまとまった本を1冊購入して出る。清水祖師廟の彫刻解説の冊子をいただいたので、もう一度参観。Photo_17
・三峡歴史文物館に行く。日本統治期の役場を郷土資料館として再利用している。1階には石細工の展示。2階には三峡の歴史解説。三峡は染料、樟脳、茶葉の産地・集積地としてかつて栄え、川を利用した船運のほか、日本統治期には桃園方面から軽便鉄道もつながっていたらしい。
・三峡という地名の起源をさかのぼると、もともとタイヤル(泰雅)族の言葉に由来して、その発音を聞いた漢人開拓者が三角湧と表記。閔南語系の発音ではsa-kak-engとなり、これが日本人の耳には「サンキョウ」と聞こえたため「三峡」と改名。この漢字表記は戦後も継続されて北京語で「san(1)xia(2)」と発音されている。ただし、地元の人は「三角湧」という表記に愛着を持っているとのこと。多民族・多言語国家ならではの歴史の重層性が明瞭にうかがえて興味深い。
・三峡老街の模型が展示されていた。展示パネルを見ると、三角湧の支庁長を務めた達脇良太郎という人が街並みの整備に尽力してくれたおかげであると評価されていた。Photo_18
・その三峡老街へ行った。バスを降りた所は普通の商店街だったが、民権路をもっと奥に進み、清水祖師廟の脇のところから赤レンガ造りの古びた風格の建物が整然と並んでいる。写真が入口、手前の建物に「三角湧老街」と彫り込まれているのが見える。大渓よりも観光地らしい喧騒だ。雨が降っていても、亭仔脚の下を歩けば気にならない。食べ物屋におもちゃ屋、土産物屋。みんなお店をひやかしながら進むのでノロノロ歩きになる。
・芳ばしい香りに引かれて、康喜軒金牛角なるパンを買った。形はクロワッサンのようだが、しっかりした歯ごたえでバターの濃厚な味。これはうまい。どうやら三峡名物になっているらしい。歩いていると、たとえばおばあさんが揚げパンを揚げている屋台も見かけたから、ああいう感じの屋台の出世頭のようなお店なのだろう。私は台湾のこういうデニッシュ系の菓子パンが好き。

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10月11日 桃園へ

【桃園へ】
・次の目的地の桃園までバスに乗るつもりなのだが、例によってどこで乗ったらいいのか分からない。探しながら歩いていたら、いつの間にか三峡の次の停留所まで来てしまった。時刻表を見ると、すでに行ったばかり。次は30分以上待たねばならない。雨降りは人を苛立たせる。タクシーでも拾おうと思いながら、三峡の繁華街の方へ戻っていくと、前方に停車中のバスの行先表示が桃園となっている。走れ! 列の最後の人が運賃箱にお金を入れたちょうどその時に駆け込み、運転手さんに運賃を確認。とりあえず最前列に座ってポケットの小銭を探り、交差点の赤信号で運転手さんに声をかけてお金を運賃箱に入れ、行先札を受け取った。
・後から乗ってきたおばさんが私の隣に座り、話しかけてきた。私の戸惑った表情を見ると、そのおばさんも変な顔をして、通路を隔てた反対側の人に話しかけ、見ていると、小銭に両替してもらっていた。台湾のバスには両替機はなく、運転手さんも両替をしてくれない。乗客同士で両替し合う光景をよく見かける。
・バスは鶯歌を経由。陶器の街として知られている。
・三峡から桃園まで1時間くらいだろうか。駅近くにたどり着く前にバスは停まり、運転手さんがここで降りろと乗客に指示していた。桃園の中心部はデパート等も立ち並ぶそれなりの大都市で、道路は渋滞、確かに歩いた方が早そうだ。桃園駅前には蒋介石の銅像が建っていた。Photo_24
・駅前でタクシーを拾い、忠烈祠へ行くよう指示。随分と乱暴な運転をするにいちゃんで、目的地に着いたら帰りのために待ってもらうつもりだったが、やめた。
・忠烈祠にたどり着いたのは夕方5時頃。国民党軍の戦死者・殉職者・革命烈士が祀られている。日本統治期の桃園神社である。日本の神社は戦後になって国民党の忠烈祠に転用されたケースが多い。たとえば、台北の護国神社、宜蘭の宜蘭神社などを私は見に行ったことがある。社殿は解体されているのが普通だが、桃園神社は日本時代の社殿がそのまま使われて現存している台湾では唯一の例らしい。Photo_26
・石段のふもとでタクシーを下ろしてもらった。神社前の石塔には名前を書き換えられた痕跡がある。「奉献」と書かれた石台もあり、石階段の急な傾斜は明らかに神社を思わせる。のぼる。Photo_27
・石灯籠が並ぶ参道の正面に社殿が構えられている。丈の高い椰子の木との対比が独特だ。4時半で閉門とのことで、奥には入れない。境内を歩く。若い男女がコスプレの撮影会をやっていたらしく、ワイワイと機材を片付けている。蚊に刺されたのもいかにも神社らしい風情に感じた。初秋の夕方、台湾にいるとは思えない不思議な空間。
・下の写真はおそらくかつての社務所。現在は管理事務所として使われているようだ。Photo_23
・来るとき、近くの大きな病院の前にバス停が見えたので、そこまで歩いていく途中、タクシーが通りかかったので乗った。
・桃園駅前は夕方の交通ラッシュ。警官が出て交通整理をしていた。車が動かない中を、一人の青年が道路を横切った。それを見咎めた警官が「戻れ!」と制止したが、言うことを聞かない彼を思い切り突き飛ばした。私の乗っているタクシーのすぐ横だった。彼は道に倒れて動かない。交差点の反対側にいた警官が何人か寄ってきた。若い婦警さんが心配そうにオロオロして助け起こそうとするのだが、他の警官たちは「やめとけ、やめとけ」という感じ。雰囲気からするとどうも顔見知りらしく、「死んだふりしているだけだから構うな」という態度で放置。後姿なのでよく見えなかったが、南方系の顔立ちをした青年だった。
・駅前に出ると、同様に肌が浅黒く目鼻立ちが明らかに南方系の青年たちのグループをよく見かけた。台湾の漢族系はもちろん、原住民系とも違うような気がする。桃園・新竹のあたりは工業地帯で、東南アジアから出稼ぎ労働者が来ているという話を何かで読んだ覚えがある。そうした人たちが日曜日に町へ繰り出してきているということか。先ほどの警官の態度を見ると、日常的にトラブルをおこしているのか、彼らに対する一種の差別感情でもあるのか。

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10月11日 夜の台北

【夜の台北】
・桃園駅から区間快速に乗って台北まで約1時間。ずっと混んでいた。
・歩きづめで疲れたし、言葉が分からないからストレスも少々たまっているし、買い食いばかりでまともな食事はしていないかったし、がっつり食いたいと思って鼎泰豊へ。本店は混んでいるから忠孝敦化店に行く。行列してはいたが、お一人様席は空いていたようで、すぐに案内された。ここは日本語が通じるからラク。食うぞ、とばかりに注文すると、「量がかなりあって一人では食べ切れませんよ」と一々注意を受ける。そのことは織り込み済みで、とにかくたくさん食いたかったのだが、助言に従って注文をしぼる。小籠包、炒飯、スーラー湯の小、台湾ビール。
・忠孝敦化站の大通りから裏手に入った通りには結構色々なレストランが並んでいる。酔い覚ましがてら歩き、誠品書店敦南店へ。ここは24時間営業。棚をゆっくり見ながら選書、何冊か買い込む。なぜか松本清張生誕百周年記念特集と大江健三郎特集が目立った。
・まだ夜の八時。このまま宿舎に戻るのももったいないので、夜の台北散策へ。MRT台北駅で地上に出て、台湾博物館やライトアップされた総統府(旧台湾総督府)などを見ながらかつての“城内”を南下する。“城内”は南北を普通に歩いてだいたい30分程度。中山堂(旧台北公会堂)の脇を通って西門町へ。イベント開催中の西門紅楼をぐるっと回って、萬華の方向へ足を向ける。徐々に人通りがさびしくなってきた。女性に道を尋ねられたが、私が視線を泳がせると、分からないものと判断したようで、目の前にあったコンビニに入っていった。
・青山宮の前にさしかかった。通りがかりの若い人が廟堂に向かって深々とお辞儀していたので、私もそれに倣い、手を合わせて深く一礼。『民俗台湾』の池田敏雄がこの青山宮に一時期下宿していたことは最近知ったばかりだ。
・さらに進むと、華西街観光夜市のアーケードに出る。他の夜市と違ってここの特徴は、いかがわしいお店がちらほら目立つこと。横道にそれるとスナック、バーといった感じの飲み屋街になっている。陽気にカラオケを唄う声が聞こえてきた。夜9時過ぎ、北の入口の方は閑散としていたが、龍山寺方向の道と交差するあたりは人があふれかえって活気がある。尼さんが何人か買い物をしているのを見かけた。
・十字路の龍山寺に通じる東西方向の活気とは対照的に暗い南方向へと華西街をさらに進む。女性たちがたむろしている。おそらく、売春街。薄着に濃い化粧、みんなかなり年増。きれいな人はいない。横道に入って店に視線を向けると、奥に個室が並んでいて、入り口脇の待合席に客とおぼしき男性が座っている。女性が寄ってきて声をかけられ、無言で手を振って歩いていくと、背後から悪態をつく声が浴びせられた。治安は良くない雰囲気なので足早に立ち去った。Photo_22
・龍山寺の境内に入った。夜中まで参詣できるようだ。人々がお線香を振る姿をしばし眺める。外壁に彫刻や銘文が刻まれており、何となく眺めていたら、尾崎秀眞の揮毫を見つけた。尾崎秀実・秀樹兄弟の父、漢学者である。日本の台湾占領にあたり、漢詩文の教養のある人物がいないと侮られるとのことで招かれたらしい。以前、『台湾時報 総目次』で戦争中の項目を調べていたら、尾崎秀眞の肩書きが「無職業」となっていたのを思い出した。ゾルゲ事件で息子が処刑されて、秀眞は謹慎中という事情。尾崎秀樹は当時中学生だったが、兄が処刑されたので肩身が狭く、自分の将来もおしまいだと悲観。どうやって暮らしていこうか、医学標本室の整理係でもしながらひっそり隠れて生きていこうと考えて、父の紹介で台北帝国大学医学部の金関丈夫の研究室を訪れた、と回想していた。
・龍山寺駅からMRTに乗って西門町に戻る。若者が闊歩する繁華街をぶらぶら歩き、映画街へ。24時間営業のシネコンが並ぶ。予告の看板やヴィジョンを眺める。「風聲 the message」なる映画はどうやら抗日戦争ものらしい。「原子小金剛」は「鉄腕アトム」。CG映画化されるなんて知らなかった。「福音戦士」は「エヴァンゲリヲン」。16日から公開。西門町の大型ヴィジョンにシンジくんや綾波レイなどが映し出されていた。どうでもいいが、MRT西門町駅に降りる階段脇にアディダスの広告がでかでかと貼り出されており、ジャージ姿の楊丞琳という女の子がかわいくて、通りかかるたびについつい見とれてしまった。ほっぺのほくろがチャームポイント。

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10月12日 帰国

【最終日・台北】
・朝8:00頃に宿舎を出て、MRT中山站近くの台湾料理店・青葉餐廳へ行く、が、依然として改装中のまま。近くの仮店舗へ行っても営業時間は11:00~となっている。一昨年に来たときは朝8:00からやっていたのだが。
・午前中の目的地、台湾大学近くの書店へ行くことにして、ラッシュ時のMRTに戻るのは面倒なので、タクシーを拾う。分かりやすいだろうと思って台湾大学と指示を出したのだが、ゲートが見えてきたので小銭を探している最中にずんずん奥まで入って行ってしまった。ついでだからキャンパス内を散策。正門から図書館まで続く椰子並木が壮観。9時10分、キーンコーンカーンコーンというチャイムは日本で聴くのと同じ音。学生たちはスクーター、自転車、徒歩と様々に足を速めている。雨模様なので、親に車で送ってもらっている子も見かけた。
・正門から出て大通りを渡り、さらに路地に入った。基本的に住宅街の雰囲気(たまに、古い日本式家屋も見かける)の中、喫茶店や食堂などお店もちらほら見かける一帯に、南天書局と台湾e店がある。両方とも台湾史関連の専門書を揃えている。南天書局は史料復刻や学術書出版もしており、レジの向こう側がパソコンに向かう人たちのいる部屋になっていたから編集部か。台湾e店は台湾独立派色が濃い。
・それぞれ棚をくまなく見て、関心のあるテーマの本を、持って帰れる範囲内に取捨選択しながら購入。台湾では植民地統治期の日本語文献も覆刻されていて、そのうち池田敏雄『台湾の家庭生活』(南天書局)を購入。『民俗台湾』(全8巻、南天書局)は迷った末に断念。黄栄燦という人に興味を持って(→こちらを参照)、横地剛『南天之虹』という本を探していたのだが、その中文版(陸平舟訳、人間出版社、2002年)を見つけ、購入。邱函妮『湾生・風土・立石鐵臣』(雄獅図書、2004年)という本は、立石鐵臣(→こちらを参照)の作品や当時の写真などカラー図版を豊富に盛り込んだ伝記で、私が欲しかった『台湾畫冊』も小型版ながら収録されており、掘り出し物だった。それから、『日治時期的台北』(国家図書館、2007年)には当時の写真や絵葉書がテーマ別に並べられており、興味深い。
・じっくり眺めていて、ふと時計をみたら、もう11時半。本のつまった袋をぶら下げて両手がふさがって重いのでタクシーを拾い、宿舎へ直行。トランクに本を詰め込んで、バタバタと慌しくチェックアウト。MRT西門站から台北站に出て、高速バスに乗って桃園国際空港へ。

【帰国】
・カウンターで航空券を受け取って、時間に少し余裕があり、朝食抜きだったので空港内の食堂で食事。注文口に並び、座席番号を尋ねられたので、確認のためにちょっと4,5歩ばかり外れたら、後ろに並んでいたじいちゃんたちがすぐに殺到して「台湾ビールはあるかい?」みたいな感じに口々にワヤワヤ、係のお姉ちゃんが「並んでお待ちください」と制止していた。なんか一昔前の日本の農協さんみたいでほほ笑ましい。
・台湾へ行くのにJALを使ったのは初めてなのだが、4つの言語で機内アナウンスが流れた。日本語、英語、北京語までは分かったが、4つ目の言葉が聞き慣れない。おそらく台湾語(ホーロー語)だろうと思いつつ、スチュワーデスさんに尋ねたら、やはりそうだった。そのスチュワーデスさんは台湾人で(きれいな人に意図的に声をかけるところが私のいやらしいところだ)、若い世代は北京語に慣れているが、台湾語アナウンスは年配の人向けとのこと。北京語は4声であるのに対して台湾語は8声。「時々、あなたの台湾語は違うなんて言われてしまいます」と苦笑いしていた。さっき空港で出くわした農協さんのようなじいちゃん・ばあちゃん向けか。チャイナエアラインでも台湾語アナウンスは流れていたっけ? 気にかけていなかったので覚えていない。
・行きの飛行機では、早起きして眠たかったので、白ワイン飲みながらボーっとして、「サマーウォーズ」をやっていたのでぼんやり眺めていた。評判の良い映画だった気がするが、つまらなくはないにせよ、そんなに絶賛するほどでもなかったぞ。
・帰りの飛行機では、なぜかやたらと喉がかわいていたのでビールを飲みながら、柳宗悦『民藝四十年』(岩波文庫)をゆっくり読んだ。“民芸”を、特殊に技巧的な美として見るのではない。有名無名、多くの人々が孜々として積み重ねてきた営み、そこにおいて、人間の意志的な努力と大きな意味での自然とが調和のとれているところに美を見出す。一言でいえば、不自然でないこと。土地により、民族により、それぞれの生い育った環境や伝統に応じて独自の美がある。植民地化=同化政策はそうした美を破壊するものであった。有名な「朝鮮の友に贈る書」では、「私には教化とか同化という考えが如何に醜く、如何に愚かな態度に見えるであろう。私はかかる言葉を日鮮の辞書から削り去りたい」と記しているが、皇民化政策が進められる戦争中、『民俗台湾』同人が柳を台湾に招いたのは、こうした柳の考え方に共鳴するところがあったからであろう。
・台湾時間14:40頃に少し遅れて出発したが、日本時間18:30頃、定刻通りに着陸。京成スカイライナーを初めて使って帰った。

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2009年9月 6日 (日)

出張で福岡へ

・9月の第1週は出張で福岡へ。遊びじゃないから時間が取れないのは当然だが、到着初日に2時間ほど、用事が終わって飛行機が出るまでに4~5時間ほど空いたので、自分のために効率活用。

・羽田~福岡間の航路。窓際の席、快晴で下界がきれいに見下ろせた。太平洋岸・瀬戸内沿岸、いわゆる太平洋ベルトの上空を飛んでいたので、富士山、名古屋、琵琶湖、京都、大阪、神戸、広島、下関…と主要スポットが一つ一つ確認できた。まさに地図帳通り。人文地理学の知識があれば色々なことが読み取れるのだろうなと思いつつ窓にずっとへばりついていた。航空写真を読み解くという趣旨で宮本常一『空からの民俗学』(岩波現代文庫)という本があったな。広島上空からは、原爆ドーム前のエノラゲイが原爆投下の目印にしたT字型橋もはっきり見えて、64年前にまさにここできのこ雲があがったのかと思うと複雑な気分。

・福岡市博物館。地下鉄西新(にしじん)駅下車、徒歩で15分ほどはかかった。修猷館高校や西南学院大学の前を通り、途中、「長谷川町子・サザエさん発案の地」なる碑文も見かけた。博物館の建物は比較的新しい。館内には通史的な展示。日本史の教科書で有名な「漢委奴国王」の金印が目玉。イメージしていたのより割合と小さく感じた。玄洋社記念館が去年閉館され、その収蔵品がこちらの福岡市博物館に移管されたらしいので、関係する展示はないかどうか受付の人に尋ねたところ、まだ資料の整理が終わっていないらしく、少なくとも現時点では玄洋社関連の展示はない、とのこと。展示はなかなか充実しており、じっくり見ていきたいところだったが、時間なし。20分ほどで急いで回って退館。かわりに図録を2冊購入。

・紀伊国屋書店福岡本店の郷土出版コーナーへ行き、読売新聞西部本社編『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』(海鳥社)を購入。福岡市内の玄洋社関連の史跡の位置を示した地図が掲載されていたが、見て回る時間的余裕はなし。

・九州国立博物館。西鉄で天神駅から大宰府駅まで乗り換え含めて25分ほど。下車後、徒歩10分。太宰府天満宮のすぐ近くにある。開館は2005年、4つの国立博物館のうちで最も新しい。これで4つの国博を制覇(京都国博と奈良国博は今までにそれぞれ2回ずつ行ったことがある。東京国博は毎年2回以上は行く)。ちょうど興福寺阿修羅展を開催中。随分と行列ができており、私が到着したのは夕方の4時頃だが、その時点で待ち時間80分というプラカードが見えた。私は平常展示だけ見る。阿修羅展から流れてきた人でにぎわっていた。大広間を小部屋が取り囲むという形の展示室。他の3つの国博に比べると展示資料の数は少ないが、九州の土地柄を意識して、アジアとの対外交流の窓口というテーマを打ち出し、これに従って展示配列に大きなストーリーが組み立てられているのがここの特色。石器・土器・稲作文化における大陸との関係、仏教美術、遣唐使(積荷に触ることができる)、元寇(モンゴル軍の船の碇があった)、キリシタンと南蛮文化、オランダとの通商(東オランダ会社の通貨やオランダ船の船首にあったエラスムス像があった)、江戸時代における中国文化の影響、朝鮮通信使(対馬の宗氏の印章があった)、開国など。資料映像も工夫されていて、私が行った時には敦煌の石窟群、南蛮屏風などのテーマで上映されていた。ミュージアムショップで『「海の道、アジアの路」ビジュアルガイド Asiage』(九州国立博物館)と『いにしえの旅 増補版 九州国立博物館収蔵品精選図録』(西日本新聞社)を購入。

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2009年8月20日 (木)

8月某日 仙台(松島、「古代カルタゴとローマ」展、慶長遣欧使節団、魯迅「藤野先生」)

(承前)
◇第五日
【キーワード】松島、「古代カルタゴとローマ」展、慶長遣欧使節団、魯迅「藤野先生」

・初めて松島へ行った。地下化された仙石線の始発はあおば通駅、ここから松島海岸駅まで約30分。東北本線と絡まりあっており、松島という駅もあるので、要注意。
・所要時間約40分の湾内遊覧船。ほのかな潮風とディーゼルオイルの混じった匂いが何となく昭和の観光地という旅情をかきたてて、良い。
・松島では牡蠣の養殖など水産物が豊富。土産物屋の並ぶ中の食堂に入る。刺身の盛り合わせ、生牡蠣、生ウニ、ホヤ。魚介類はあまり好きではないのだが、旅先でそういう野暮は言わない。佐渡と庄内ではとにかく動き続けて疲れたので、仙台ではゆっくりするつもり。まだ11時前だがビールを飲む。ガラス戸の脇に座って外を眺め、昭和の観光地らしい雰囲気の中でボーっとしていると、このまったり感が良い。

・午後、仙台駅から仙台市内の観光名所をめぐるループバスを利用。乗り降り自由の一日乗車券600円。観光施設の割引もあり。
・仙台城のふもとに仙台市博物館。ちょうど「チュニジア世界遺産 古代カルタゴとローマ」展を開催中、本日最終日。まるで私を待っていてくれたようだ。なお、10月には東京の大丸ミュージアムでも開催されるらしい。
・チュニジアにおけるカルタゴ遺跡、及びポエニ戦争で壊滅後、ローマによって再建された遺跡の両方にまつわる展示。
・学生のとき、名目上ではあったが一応古代オリエント考古学のゼミに所属していたので(他分野に関心が移ったので全く出席しなかったが)、こうした分野は今でも気になる。
・高校世界史レベルの話だが、フェニキア人はもともと地中海東岸のシドンとティルスに拠点を置いて海洋交易で活躍、その言語は地中海世界の共通語の一つとなり、文字はアルファベットのルーツとなった。現在のチュニジアのあたりに新たな拠点として築かれた植民都市がカルタゴ。フェニキア語で“新しい町”という意味らしい。ちなみに、後にハンニバルがイベリア半島を征服して、こちらはカルタゴ・ノヴァと呼ばれた。“ノヴァ”はラテン語で“新しい”という意味だから、つまり“新しい新しい町”ということになるのか。
・遺物や、そこにモチーフとして表現されている神話・伝説→フェニキア文化にエジプト、ギリシア、ローマの要素が絡まりあっているのが見えてきて面白い。遺跡風景の写真を見ていると、行ってみたいなあ、という気持ちにかられる。
・参考文献としては松谷健二『カルタゴ興亡史』(中公文庫)、他にフローベールの小説『サランボー』も思い浮かぶ。まさか東北を旅行してカルタゴに出会うとは思っていなかったので、復習まではさすがに手が回っていなかった。

・常設展示。仙台藩・伊達家にまつわる展示が中心。墓所に納められていた遺骨をもとに復元された伊達政宗の胸像もある。奥羽越列藩同盟の取りまとめ役となり、後に処刑された玉虫左太夫の書簡なども展示。
・林子平はもともと江戸の生まれだが、姉が仙台藩主の側室となった関係で仙台に来た。不遇な部屋住み。寛政三奇人の一人。肖像画を見ると性格きつそう。ロシアへの防備を主張して発禁処分を受けた『海国兵談』の原本・写本なども展示。
・目玉の一つは、支倉常長と慶長遣欧使節団に関する展示だろう。太平洋を渡ってメキシコとの貿易を望む伊達政宗の意向もあり、キリスト教布教という名目で、バチカンにスペインとの仲介をお願いするのが目的。将来品の一つ、ローマで描かれた支倉常長の肖像画は、日本人を描いた最も古い油絵だとされている。帰国時にはキリシタン弾圧が始まっており、支倉は不遇のうちに死去。使節団の案内役となった宣教師ルイス・ソテロは日本へ再潜入したものの捕まって火炙りにされた。帰りがけに慶長遣欧使節展示資料を一冊購入。
・解説ボランティアの名札をかけたおじいさんがいたので、「仙台にも陸軍幼年学校があったらしいですが、どのあたりですか?」と質問。「ええ、ありました、ありました。三神峰(みかみね)というところで、今は桜の名所です。駅からバスで40分くらいかかります。」「碑文のようなものはありますか?」「いや、何もないですよ。あそこは、桜の名所ということと、それから貝塚が見つかってますので、そういうものだけですね。幼年学校の痕跡は何もないですねえ。お役に立てなくて申し訳ないです。それにしても、陸軍幼年学校なんて、あなたよく知ってますねえ。」私がお礼を言って離れてからも、解説ボランティア見習い風のもう一人の女性にこの話題を説明していた。石原莞爾が仙台の陸軍幼年学校にいたので、行けるようであれば足を運ぼうかとも思っていたが、遠い上に何もなさそうなので断念。

・仙台市博物館の裏手に、魯迅、阿部次郎、支倉常長、伊達政宗などに関する記念碑あり。
・坂道を登って、青葉城資料展示館。お城の姿を再現したCGを上映しているが、特に寄るほどのものではない。政宗は徳川家からの疑惑を慮って天守閣を建てなかったことはよく知られている。
・護国神社。8月15日に合わせて戦艦の展示などをしているようだが、素通り。

・ループバスに乗って、仙台駅を過ぎ、晩翠草堂へ。英文学者で旧制二高教授だった土井晩翠の晩年の住まい。もともと住んでいた家は空襲で焼け出され、見かねたかつての教え子たちがここを建てて寄贈、余生を過ごしたという。病没時に横たわっていたベッドも残されている。土井晩翠というと思い出すことふたつ。ひとつ。普通は「どい」と読ませるが、かつては「つちい」と読んでいたこと。ふたつ。仙台に晩翠軒?なる食堂があって、そこに土井晩翠が食事に来ている時に二高の学生が居合わせると、店の主人を呼ぶのにわざと「おい、晩翠!」と声を上げたとかいう話。何で読んだのか忘れた。どうでもいいことだが。
・晩翠草堂から歩いて東北大学キャンパスへ。この近辺はかつて武家屋敷の並んでいた区域らしい。先ほどループバスで通りかかったとき、裁判所脇に原田甲斐屋敷跡という立て札を見かけた。山本周五郎『樅ノ木は残った』(新潮文庫)を読んだのは中学生の頃だったか、初めて読んだ山本作品である。

・東北大学キャンパスから道を挟んだ向かい側にぼろい二階家がある。魯迅の下宿先だった建物である。写真に撮った。それから、キャンパス内、かつて彼の留学していた仙台医学専門学校(現在、東北大学医学部)があった所に魯迅の胸像がある。
・仙台、魯迅とくれば、必然的に思い浮かぶ作品は「藤野先生」。医学専門学校での恩師、藤野厳九郎。右も左も分からぬ一留学生のために、魯迅がとった講義ノートに毎週黙々と赤字添削を続けてくれた思い出。異国から来た魯迅個人のためであると同時に、その彼を通して、これから近代化を進めなければならない新生中国のためという明治人らしい武骨な情熱。日清・日露戦争を経て一等国日本という自意識が裏返って中国人への蔑視感情となって露わになっていた時代。魯迅もいやな思いをしたことはこの「藤野先生」にも記されているが、そうした中だからこそ、不器用な藤野先生の寡黙さが際立つ。
・キャンパス内には二高の教室建物も残されていた。
・近くに阿部次郎記念館というのがあるが、晩翠草堂でもらった仙台文学マップをみると日曜休館となっているので行かない。阿部は東北帝国大学教授だった。

・東北大学近くの古本屋を何軒かひやかしながら仙台駅方向へ歩く。小腹が減ったので、駅構内の鮨屋でつまむ。それから駅前のジュンク堂書店(2店舗ある)をぶらぶら見て回って、土門拳『腕白小僧がいた』(小学館文庫)を購入。
・新幹線で帰る。駅弁売場ではらこ飯弁当。アラでとっただし汁でご飯と鮭の切り身を一緒に炊き込み、そこへイクラをふりかけ、つけ合わせに辛味の味噌。酒のおつまみとしても良い感じで、ワンカップの地酒も買い込んで呑む。ほろ酔い加減で『腕白小僧がいた』をパラパラとめくり、ちょうど読み終わった頃に東京駅着。22:30頃。

・まとめ、と言うほどのことはないが、旅行の理由付けを適当に。
・北一輝は佐渡の生まれ、石原莞爾と大川周明は庄内の生まれ、仙台は魯迅ゆかりの地ということで、北日本に潜むアジア主義の水脈を掘り起こす旅、とでもしましょうか。ついでに言うと、中村屋の相馬黒光は仙台の生まれ。土井晩翠と二高の同僚だったドイツ文学者の登張竹風とが一緒に写っている写真を晩翠草堂で見かけたが、登張は後に旧満洲国・建国大学教授となる。奥羽越列藩同盟の盟主に祭り上げられて仙台に身を寄せた輪王寺宮公現法親王は維新後、北白川宮家を継いで能久親王となり、日清戦争後、下関条約で日本に割譲された台湾への遠征軍司令官となり、台湾で病没、台湾神宮に祀られた。全部こじつけちゃう(笑)
・庄内と仙台は奥羽越列藩同盟つながり。
・佐渡と庄内の酒田は日本海交易ルートの拠点、とりわけ酒田は北前船で有名。仙台(正確には月の浦)からは慶長遣欧使節団が派遣された。そして、仙台市博物館で開催されていた「古代カルタゴとローマ」展。こちらは海洋文明つながり、ということで。

(了)

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2009年8月19日 (水)

8月某日 庄内(2)(大川周明、石原莞爾、文明開化、護国神社、奥羽越列藩同盟)

(承前)
◇第四日
【キーワード】大川周明、石原莞爾、文明開化、護国神社、奥羽越列藩同盟

・前日はレンタカーを利用して遠隔地を回ったので、本日は酒田・鶴岡の市街地を回る予定。酒田駅前の観光案内所でレンタサイクル。案内所のおじいさんに、石原莞爾・大川周明にまつわる場所が市内にないか?と尋ねたら、しばらく考えて、光丘文庫に行って聞いてみなさい、と教えてくれた。
・酒田市立資料館。土門拳生誕百周年に合わせて写真展。やはり子どもの写真が中心。この資料館近くに土門の生家跡がある。2階では酒田市に関する通史的な展示。
・海の方向へ行き、山居倉庫。明治期に入って、旧藩主の酒井家や菅実秀らによって殖産興業のためつくられた倉庫群。庄内米歴史資料館もあるが、時間的な余裕がないので素通り。庄内藩は、城のある鶴岡が政治の中心とすれば、港町として栄えた酒田は経済の中心。北前船による江戸や大坂を結んだ流通ルートの要で、東回り航路・西回り航路の拠点となっていた。
・酒田は、映画「おくりびと」のロケ地となり、これも町おこしの材料に使われている。このシーンはここで撮影されたと示す観光用看板が市内のあちこちにある。古びてなかなか風格のある建物もあり、映画に使いたくなる気持ちは分かる。実はこの映画、観よう観ようと思いつつ、まだ観ていない。話題になると観る気が失せてしまう天邪鬼なもので。

・光丘文庫へ行く。酒田市立の市史編纂所のような位置付けか。酒田の豪商・本間光丘が学問振興の施設を作ろうとしたが許可がおりず、その子孫が明治になって光丘を記念して建てたという。本間氏は、戊辰戦争に際して最新鋭の銃器を購入して庄内藩へ献上したり、敗戦後、酒井氏が会津へ転封という話が出た際、明治新政府に献金をしてやめさせたりと庄内藩の政治にも密接につながっていた。なお、佐渡にも本間氏がいたが、祖先をたどれば庄内の本間氏ともつながりがあるらしい。
・事務室へ行き、応対に出てくれた学芸員の方に、大川周明の墓の場所を尋ねた。だいたいの場所は教えてくださった。ただし、大川家の私的な場所なので、遺族の方は、はっきりとは言わなかったけれどもあまり公にはしたくないような様子だったという。
・話の流れで色々と教えてくださった。最近、若い人でも大川周明・石原莞爾がらみで来館する人が多いらしい。「どういうわけか、大川周明や石原莞爾の人気がまた出てきているんですよね。保守回帰の傾向とつながりがあるのでしょうか。とくに、石原のカリスマ的なところに惹かれる人が多いのかもしれません。ただ、変な受け売りとかバイアスをかけて見るのは好ましくありません。興味を持つなら、彼らの書いたものをじかに手に取って読んでみて、色々な人の話を聞いて、自分自身の眼で掴み取って欲しい。ネオナチみたいのに利用されるのはまずい。むかしとはもう世代が違うし、バイアスを取り去って読み直してみれば、色々と可能性はあるはずです。」私も全く同感。「そういえば、大川や石原について最近たくさん本が出ていますよね。たとえば、佐藤優氏とか…。」と話をふったら、「ええ、佐藤さんもいらっしゃって、ここにある大川の蔵書を調べていかれましたよ。」
・光丘文庫は、大川家とは何らかの接点を持っているようだが、石原莞爾については「あちらは独立してやってるんですよね」とおっしゃるのが印象に残った。戦後になっても東亜連盟の信奉者が独自の活動をしているということか。
・大川と石原は、二人ともアジア主義者であること、戦時下において反東条英機の立場に立ったことなど共通点もあり、二人の間に何らかの交流があったのは確かなのだが、その証拠となる資料が意外と見つからない、とも指摘された。
・大川周明・石原莞爾の蔵書はここに寄贈・委託されている。ガラス戸付本棚に並べられており、背表紙を眺めることができる。二人とも読書の幅が広い。「大川はやはり学者なんですよね。」「二人とももっとくだけた本も読んでいたはずなんですが、ここにはないんですよ。」石原の蔵書はドイツ留学中に買い込んだ洋書が多い。大川がコーラン研究に使った本も並んでいる。ある一冊を指して「この本には“東条の馬鹿”って書き込みがあるんですよ」と笑う。逐一眺めていきたいところだが、ちょっと時間が迫っているので辞去する。「何か資料調べの必要がありましたらご連絡ください」と声をかけていただいた。
・光丘文庫の近くにある大川周明顕彰碑を写真に撮る。
・敗戦時、石原莞爾は酒田の北の遊佐にいた。東京裁判で証人喚問されることになったが、体の具合がよくないので、酒田市内の商工会議所に特別臨時出張法廷が開設され、石原はリヤカーに乗って運ばれてきた。「満州事変を起こしたのは自分だ、自分を戦犯として裁かないのはおかしい」と主張したことは有名。当時の商工会議所の建物は現在はなく、NTTの道路をはさんだ向かい側にあるセブンイレブンのあたりにあったと光丘文庫で教えてもらったので、そこまで足を運ぶ。
・酒田駅前まで戻り、レンタサイクルを返却。カギを渡す際、観光案内所の先ほどのおじいさんが思い出したように声をかけてくれた。「酒田の北の方に石原莞爾のお墓があるんですが、行きましたか? …そうですか、行きましたか。あの辺りには信奉者がたくさんおったんですよ。私の若い頃も身近にいましたよ、東亜連盟の人が。今はもういませんけどねえ。」世代がかわって、後を継ぐ人がもういないということですか?「うーん、というよりも、石原さんは鶴岡の人ですからね、酒田とはもともと縁はなかったんですよ。」そういえば、藤沢周平の自伝的エッセイでも、東亜連盟は唐突に現われた、という書き方をしていた記憶がある。石原が庄内に帰郷して、彼のカリスマ的な迫力に多くの人々が集まって、彼の死と共にその火は小さくなったということか。
・タクシーに乗って、大川周明の生家近くまで行く。西荒瀬小学校が目印。顕彰碑のようなものがあるらしいが、見つからない。田んぼが広がるただ中、鳥海山が美しく見える所だ。

・酒田駅12:10発の普通列車に乗って鶴岡へ。駅前の土産物店でだだちゃ豆の混ぜご飯弁当を買って昼食を済ます。田んぼの中を走るローカル列車、車窓の風景をぼんやりと眺める。鶴岡までは30分ほど。
・鶴岡も酒田と同様、市街中心部とJRの駅とは離れている。観光案内所で道を尋ねたら、歩いてもそれほど時間はかからない様子なので、観光マップをもらって歩き始める。途中、高山樗牛生誕地という立て札を見つけた。目的地の致道博物館まで30分もかからなかった。
・鶴岡城のすぐ前、致道博物館。お隣には酒井という表札のかかった豪邸があったが、旧藩主家か。
・旧藩主の隠居屋敷や明治に入って高橋兼吉によって立てられた洋風建築、農家などを利用して歴史・民俗などの幅広い展示。充実している。
・高橋兼吉は鶴岡の大工の棟梁。横浜で修行した際に洋風建築を学んだらしい。他にも寺社建築も手がけており、ジャンルは幅広い。伝統技術のしっかりした蓄積があれば、外来の技術もその勘所をたちどころにつかんで接ぎ木できる。そうした高橋のような技術者が日本各地にいたことが、文明開化の成功の一つの要因だったように思える。司馬遼太郎の何という小説だったか、確か宇和島の鍛冶職人が見本を見ながら試行錯誤して蒸気機関?を作り上げた話があったように記憶している。読んだのはかなり以前なのでタイトル等を思い出せない。
・酒田の沖合い、飛島の洞窟遺跡の再現模型が目を引いた。子どもを含めた男女の遺骨が発掘されている。埋葬されたのか、特殊な死因があるのか、分からないという。地元では“テキの洞窟”と呼び習わされている所らしい。何やら陰惨なエピソードを想像させる。
・鶴岡城内の大宝館。鶴岡ゆかりの人々にまつわる展示。高山樗牛の生家の一部が中に移築されている。裏手に藤沢周平文学館があるが、現在は改装のため休館中。なお、鶴岡市内ではあちこちに藤沢周平文学碑がある。

・大宝館の受付の人に尋ねて「石原莞爾生誕之地」という碑文を見に行く。護国神社の境内にある。生まれたのは鶴岡市内だが、ここではない。陸軍の軍人だから護国神社が選ばれたのだろう。
・石碑を写真に収めていたらズドドーンというすさまじい音が響いてきた。公園広場へ行くと人だかり、火縄銃の斉射をしている。今日は大名行列のイベント開催ということで、観客だけでなく、古式ゆかしい衣装を身にまとったエキストラが公園近辺にあふれかえっている。
・今日は8月15日。護国神社に“英霊”への参拝を呼びかける幟がはためているものの、人影はない。護国神社は、いわば靖国神社の支店である。靖国神社は戦死者を神として祀る場所であるが、もとをたどれば戊辰戦争で戦死した官軍兵士を祀ったのが起源である。ところで、庄内藩は会津藩と同様に朝敵とされていた。だから、参拝者が少ないのか。
・余談だが、台湾にあった護国神社は、現在、忠烈祠として国民党軍兵士を祀っている。戦前の日本軍部と蒋介石時代の国民党軍事政権との性格的な共通性を連想させる。
・お城近くの鶴岡カトリック教会。天主堂と大書された門構えが和風なのが面白い。ここは明治時代からあるはずだ。庄内中学在学中の大川周明がここへフランス語を習いに来ていた。

・鶴岡駅へ戻り、バスターミナルへ。ターミナルビル内の書店で星亮一『奥羽越列藩同盟──東日本政府樹立の夢』(中公新書)を買い、仙台行き高速バスの車中で読み始める。本書は、奥羽越列藩同盟を守旧的な佐幕派ではなく、政権を独占しようとする薩長に対し、統一後日本におけるもう一つ別の政権構想を示した異議申し立てと捉えなおす。会津藩への苛酷な処分は公正さを欠く、それでは統一後日本の和を保てないという問題意識。公義所に各藩の代表者が詰める→一種の連邦制とすら思える。仙台藩の玉虫左太夫は咸臨丸で渡米経験があり、彼は議会制民主主義のことを知っていた。ただし、列藩同盟相互の連絡体制の不備、政治的駆け引きのまずさから綻びが出て敗退。仙台藩の玉虫、米沢藩の雲井龍雄らは人身御供のように処刑されてしまう。武士だけが戦って農民たちから遊離していた藩がある一方で、庄内藩は農民兵・町民兵も組織、酒田の豪商・本間家は莫大な資金援助により最新鋭の武器を購入、上下一体の組織体制を整えたことが強さを発揮したというのが興味深い。
・庄内から東北を横断する形で仙台へ。出羽三山をはじめ山並みがはるかにつづき、高速道路はいくつかの盆地のへりを通る。夕暮れ時、夕霞というのか、盆地にうっすらとかかる靄にあかね色の光が染まっている光景が、胸がホッとするような美しさ。
・夜19:00頃に仙台着。宿泊先に荷物を下ろしてから、繁華街の国分町をふらつき、適当な店に入って牛タン定食で夕飯。

(続く)

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8月某日 庄内(1)(石原莞爾、阿部次郎、清河八郎、土門拳、西郷隆盛、藤沢周平、森敦『月山』)

(承前)
◇第三日
【キーワード】石原莞爾、阿部次郎、清河八郎、土門拳、西郷隆盛、藤沢周平、森敦『月山』

・酒田駅前でレンタカーを借り、庄内平野を一巡する予定。朝8:00出発。
・庄内平野の北の端、飽海郡遊佐町。道を尋ねながら石原莞爾の墓所へ。新しく開通したと思しきバイパス国道脇から小高い丘への坂道を上がったところにある。木立の中にひらけた広場。
・晩年の石原は、東亜連盟の有志と共にこの近辺で東亜連盟推奨の農法によって開拓を行なっていた。墓所もかつて開拓地だったところにある。大きな土饅頭、「永久平和」と刻んだ石原の顕彰碑、同志の墓碑などがある。番小屋のようなプレハブの建物があり、中に入ると、東亜連盟関係者によるパンフレット類が置かれている。ただし、誰もいない。振替用紙が置いてあり、持って行ったら後で振り込んでくださいという形式。野菜の無人販売を思い起こす。何冊か購入する。むかし石原が使っていたという椅子が置いてあり、それに腰掛けて芳名帳に記入。
・石原たちが開拓を行なっていた頃は何もない山里だったのだろう。現在、山を大きな国道バイパスが貫通して、行きかう車が排気ガスを出し、音を立てて通り過ぎていく。西の方、道路の反対側の先は浜辺で、現在は海水浴場となっている。大音声でがなり立てる有線放送の音楽がここまで聞こえてくる。それらの騒音が松林の中で静かに鳴く虫の声と混ざり合って、ちょっと不思議な感慨にひたる。
・庄内で放浪生活をしていた森敦の文章に、遊佐には朝鮮人が多い、という一節があった。石原の東亜連盟は各民族の政治的独立という主張も掲げていたので、朝鮮人の信奉者も多かったらしいので(→こちらを参照)、この近辺で一緒に開拓をしていたのだろうか。

・酒田市松山へ行く。ここは庄内藩の支藩・松山藩の中心で、かつて城があったところには新しくてきれいな松山文化伝承館が建っている。大手門も残されている。
・近くに阿部次郎記念館。生家が記念館として保存されている。阿部家は学者一家だったようだ。一番有名なのは哲学者で漱石門下の次郎。彼にまつわる展示も多数あるが、弟である生物学者の襄(のぼる)の方が地元酒田に根を張って活動していたので慕われていたらしい。
・阿部次郎といえば『三太郎の日記』。旧制高校的教養主義の代表選手。ただし、理想を語ったり、難解な用語を弄んだりするのは、所詮、エリートとしての鼻持ちならない自意識過剰な特権意識に過ぎず、ああいうスノビズムはまるっきり無意味だと思っているので、私は読む気すらおこらない。
・阿部次郎は写真嫌いで有名だったらしいが、同郷の土門拳にだけは快く撮影してもらったという。
・松山文化伝承館。松山藩の歴史の展示。戊辰戦争のとき、松山藩は本藩の庄内藩と共に奥羽越列藩同盟に参加。家老の松森胤保は、官軍側にいた知己との交友もあって巧みに敗戦処理をしたらしい。松森は学者としての功績も高いそうだ。歴史の大事件の中でも、地域ごとに色々とエピソードがあるのは面白い。
・藤沢周平の小説を読んでいると、お家騒動に支藩の存在が絡む話があるが、庄内藩にとってのこの松山藩の存在がモデルになっているのか。

・庄内町歴史民俗資料館。明治時代、鶴岡の大工棟梁・高橋兼吉によって建てられた群役所を資料館として活用。館内の時間が堆積した古びた風情、こぢんまりとしてはいるが手作り感のある展示、こういう郷土博物館は中にいるだけで気持ちがホッとする。すぐ隣に北楯神社。治水に功績のあった最上家の家臣・北楯利長を祀っている。

・同じ庄内町の、清河八郎記念館。清河八郎を祀った清河神社の境内。初代館長は藤沢周平の小学校での恩師だった人で、宮司も兼務していたという。清河の生涯を紹介する展示のほか、神社に奉納された山岡鉄舟の書「漸近自然」、高橋泥舟の書「仙世界」、頭山満の書「尊皇攘夷」などもあった。
・受付にいたおばさんが色々と説明してくれた。清河の生家である斎藤家は素封家だが、農地解放で土地を失い、一族はみな東京へ行ってしまって、ここ清河の地に縁者はいないという。清河の妹の孫にあたる斎藤清明という人が東京帝国大学で大川周明の同級生だったが、若くして病死。この人は自分で清河八郎の評伝を書くつもりで史料を集めていたが、志はかなわず、その史料を預かった大川が清河の評伝を書き上げた。大川は巣鴨プリズンを出獄後、帰郷のたびに正装して清河神社に参拝していたという。
・なお、藤沢周平も、恩師の集めた史料をもとに清河を主人公とした歴史小説『回天の門』(文春文庫)を書き上げている。
・また、斎藤清明の妹(つまり、清河の妹の孫娘)は柴田錬三郎の夫人。年上の姉さん女房、神田で古本屋を経営し、まだ学生だった柴錬と結婚、彼を作家として育て上げた。自由奔放な女傑タイプで、雰囲気として岡本かの子に似ていたという。気性の激しさはやはり清河八郎の血筋なんでしょうかね、と記念館のおばさんは語ってくれた。

・酒田市内方面に戻る。青々と田んぼが広がる中をかっ飛ばすのは気持ちがいい。風力発電用の大きな風車が壮観。庄内は風の強い地域らしい。
・土門拳記念酒田市立写真資料館。土門拳は5歳で東京に行ってしまったが、もともとは酒田の出身。市内には土門拳生誕地を示す立て札もある。庄内では土門姓の表札をよく見かけた。こちらでは珍しくない苗字のようだ。土門拳は酒田市名誉市民第一号。
・彼を記念した写真美術館で、建物はモダンできれい。今年は土門拳生誕百周年ということで、彼と仲の良かった華道の勅使河原蒼風、グラフィックデザイナーの亀倉雄策との三人展を開催中。勅使河原は前衛的な生け花。亀倉は東京オリンピックのポスターデザインで有名か。土門拳の子供好きは有名で、彼については東京下町の子供たち、筑豊の子供たちを中心とした展示。
・帰りの新幹線で、土門拳『腕白小僧がいた』(小学館文庫)を眺めた。『筑豊のこどもたち』『るみえちゃんはお父さんが死んだ』をはじめ、子供たちを撮った写真に土門のエッセイを合わせて編集された本。筑豊の炭鉱、過酷な労働環境、閉山による失業、貧しさ、こういった問題を写真で伝えようという思いが確固としてある。でも、そういった社会派的動機ばかりではない。楽しければ笑顔、つらければ憂い顔、そういった感情の動きが素直に出てくる子供たちの表情、感情そのものを写真の中に写し取っていく。例えば、るみえちゃんの憂いを帯びた眼差し、けなげに美しい、美しいからこそ切なく、胸を打つ。悲惨なたたずまいに美しさを感じるのは不謹慎かもしれないが、しかし、メッセージ的な意味を構築された写真よりも、哀しいならその哀しみそのもの、感情の動きそのものが放つオーラの方がはるかに見る者の心を捉える。

・土門拳写真資料館のある飯森山公園に南洲神社もある。西郷隆盛を祀った神社。
・庄内藩は奥羽越列藩同盟の中核戦力の一つとして活躍したので、戊辰戦争では朝敵とされてしまう。しかし、官軍側の最高指揮官としてやって来た西郷隆盛は、庄内藩側の面子を立てる寛大な対応をしたため、その人柄が庄内藩士から慕われた(長岡では、官軍の岩村某が高飛車な態度を取ったため、河井継之助が徹底抗戦へ追い込まれたのとは対照的である)。
・幕末維新期に庄内藩の舵取りを担い、明治に入ってからも殖産興業に尽力した菅実秀は、若い藩士を連れて、征韓論で下野して鹿児島に戻っていた西郷を訪問。この際、若い庄内藩士2名が私学校に留学、西南戦争にも従軍して戦死。
・その後、菅を中心に西郷の言行録をまとめたのが『西郷南洲遺訓集』である。薩摩人ではなく、戊辰戦争で敗者となった庄内人が作ったという次第。神社で無料で配布されている。

・鶴岡市街地の脇を通り過ぎて、湯田川温泉へ。藤沢周平が師範学校を出て初めて教鞭を取った小学校がここの湯田川小学校である。
・たみや旅館へ行く。大川周明がここへよく来たらしく、彼からの書簡がこちらにあると何かで読んだ。声をかけ、出てきたおやじさんに尋ねたが、返答はぶっきらぼう。湯治だけも可能なようなので、500円払ってひと汗ながす。
・さらに車を走らせて、藤沢周平生誕地へ。細い田舎道に入る。家はもちろん残っておらず、更地になっているが、そこに生誕地を示す大きな石碑が建てられていた。
・ふと思ったのだが、これが近代以前の時代だったら、藤沢神社でも建てられていたかもしれない。ある人物や出来事に、人々が何かかけがえのないものを感じ、その記憶を土地と結び付けて後世まで語り継ごうとした時に社が建てられているのかな、そんな印象を私は抱いている。
・すぐ近くを高架のバイパス国道が走っている。少し離れた山の斜面が崩れて赤茶けた土肌が露呈している。藤沢の自伝的エッセイで、生家跡を訪れた折にこの露呈した土肌を見かけたことが記されていたように記憶している。今ではちらほら木が生え始めている。
・私には全く縁もゆかりもない土地。しかし、自分には関係のない土地でも、そこなりに生活が息づいているという当たり前のことを見て歩きたいという気持ちがある。極論すればどこでもいいのだが、何か目的地を設定しないと、出かける口実にならない。つまり、私にとって藤沢周平の生家が目的なのではなく、それを口実として、普段なら通りかかる必然性のない場所へ行く。それだけのこと。目的地が目的なのではなく、歩きながらぼんやりとあたりを見回すこと自体が楽しい。

・月山の入口とでも言おうか、注連寺。出羽三山はかつて女人禁制だったが、この注連寺まではOK、それで女性はここから出羽三山を拝み、男性はここから出発する、そうした拠点としての役割を果たしたお寺らしい。廃仏毀釈で出羽三山が神社となり、ここは廃れた。
・森敦の小説『月山』の舞台はここ注連寺。昭和の初期、ここは破れ寺で堂守じいさんが一人いるだけ、そこへ放浪生活をしていた森が転がり込むという話。冬は雪に閉ざされるが、そうした中でも近隣の人々も集い、泥臭く不可思議な猥雑さを醸しだす。境内に森敦の記念碑がある。
・本堂参観の終了時間は17時だが、16時50分頃に私は飛び込み、「まだ大丈夫ですか?」と声をかけた。おばさんが出てきて、「ええ、大丈夫ですけど、お一人ですか? ここは初めてですよね。…しょうがない、説明するか」とブツブツ。解説はきちんとまとまっているけれど、いかにも面倒くさそうな態度。そんなに面倒ならもういいよ、と思ったが、黙って聞く。相槌もうたない。
・本堂内には鉄門海上人の即身仏が安置されている。森敦『月山』に、お寺の名物がなくなったから、じさまが行倒れ人の死体から内臓を取り出し、座禅を組ませた格好で燻製にしてミイラを作ったという話を聞くシーンがある。本当かウソかは分からないが、その気色悪さがやたら印象に残っている。森敦がこんなこと書いてましたよね、とおばさんに話をふろうかとも思ったが、面倒くさいからやめた。
・昨晩読んだばかりの『月山』の小説世界に、いま自分が立っているというのが不思議な気分だが、あまり実感がない。道路が整備されているから、いつでも誰でもここには来られる。すぐ近くには高速道路も走っている。距離的には確かに山奥ではあるが、普通にアクセス可能→観光地として平板化、ベンヤミン的にアウラなんて表現を使うのが適切かどうか分からないが、雪に閉ざされ、余所者を寄せ付けないからこそ醸し出された猥雑な雰囲気は、もはや再現不可能なのだろう。

・湯野浜温泉を経由して、日本海を見ながら酒田市内へと戻る。途中、メロンの直売所をあちこちで見かけた。
・酒田駅前にたどり着いたのが夕方19:00頃。古い町はどこもそうだが、鉄道の路線は後から敷設されたわけだから、市の中心部とJRの駅とは離れているケースが多い。明日の偵察を兼ねて、市街地へと歩く。灯篭祭りをやっていた。お盆だから、帰省した家族も迎えてにぎやかにやろうという気持ちもあるのか。酒田の中心街をブラブラ歩いて一周しても二時間かからない程度。これなら自転車で十分回れる。
・酒田駅前のホテルに泊まっているので駅前に戻ったが、夕食をとろうにも目ぼしいお店は全部閉まっている。今日は一日中車で走りづめで、食事もコンビニで買ったおにぎり1個のみ。何とか名物に近いものをとこだわって、だだちゃ豆のご当地おにぎり。駅前にはコンビニすらないので困ったが、幸い食堂的なラーメン屋が一軒やっていたので飛び込む。店内のテレビでは「火垂るの墓」が映っていた。メシ食いながら観る映画じゃないよなあ…。

(続く)

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