カテゴリー「人物」の80件の記事

2009年12月21日 (月)

斎藤充功『日台の架け橋・百年ダムを造った男』、平野久美子『水の奇跡を呼んだ男──日本初の環境型ダムを台湾につくった鳥居信平』、胎中千鶴『植民地台湾を語るということ──八田與一の「物語」を読み解く』

 日台関係に関心を持つ人以外では八田與一という名前にはあまりピンとこないかもしれない。土木技師として、1930年、当時では東洋一の規模を誇る烏山頭ダムを完成させ、嘉南大圳という灌漑水路網を整備した。彼の業績は台湾ではよく知られており、例えば私の手もとにある呉密察監修『台湾史小事典』(遠流出版、2000年)、李筱峰・荘天賜編『快讀台湾歴史人物Ⅰ』(玉山社、2004年)、公共電視台『台湾百年人物誌1』(玉山社、2005年)を見ると八田に一項目立てられている。最近、八田與一紀念館が開館し、オープンセレモニーには馬英九総統も日台関係に配慮して出席したらしい。

 斎藤充功『日台の架け橋・百年ダムを造った男』(時事通信社、2009年、旧版は1997年)は八田與一のダム造りに執念を燃やした生涯をたどる。ダム造りは水利技術や農業技術など様々な民生技術と一体のプロジェクトであって、関連分野で活躍した技術者(たとえば、蓬莱米を開発した磯永吉、末永仁など)にも時折言及される。台湾というコンテクストをはずしても、技術開発に専念した一徹な仕事人として、例えばNHK「プロジェクトX」が好きな向きには興味深い人物だろう。1942年、南方産業開発派遣隊としてフィリピンへ渡るとき、乗船していた船が撃沈されて落命、敗戦後、彼の完成させた烏山頭ダムで夫人が入水自殺したという悲劇性も地元の人々の気持ちを引いたのかもしれない。

 平野久美子『水の奇跡を呼んだ男──日本初の環境型ダムを台湾につくった鳥居信平』(産経新聞出版、2009年)。八田與一の仕事は政府主導の大規模公共事業であったが、対して本書が取り上げる鳥居信平(のぶへい)は民間企業の技師であったため永らくその名は埋もれたままだった。サトウキビ増産のため台湾糖業に招かれた土木技師。彼の整備した二峰圳は地下ダムによって伏流水を利用した灌漑用水であり、自然の生態や原住民の生活と折り合いをつけながら水の力を最大限に引き出そうという工夫がこらされていた。生態系バランスを考えた環境型ダムとして先進的であったと評価される。本書のように日台関係の埋もれた人物を掘り起こしていく作業も大切である。

 八田にせよ、鳥居にせよ、彼ら個人としてのひたむきな技術者魂は政治とは無縁であるが、それが日台双方のある種の政治性の中では微妙な意味合いを帯びてくる。胎中千鶴『植民地台湾を語るということ──八田與一の「物語」を読み解く』(風響社、2007年)は日本、台湾、それぞれで八田を受け止める歴史的記憶のコンテクストが異なるのではないかと指摘する。日本の植民地支配にはプラス、マイナス両面があり、従来はマイナス面ばかり強調されてきたのは確かであるが、その反発から「良い日本人もいた」→植民地支配全面肯定と飛躍してしまう人を時折見かける。極論に行かないように解毒剤として本書も併せて読んだ方がいいだろう。

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2009年12月 9日 (水)

ピーター・F・ドラッカー『「経済人」の終わり』『産業人の未来』『傍観者の時代』『知の巨人ドラッカー自伝』

 正直なところ、ビジネス書の類いは私の肌に全く合わない。マネジメント論の神様とも言うべきピーター・F・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker、1909~2005年)も食わず嫌いだったが、その印象が変わったのは2005年に日本経済新聞で連載された「私の履歴書」を読んだときだった。この連載は『知の巨人ドラッカー自伝』(日経ビジネス人文庫、2009年)としてまとめられている。

 ドラッカーはハプスブルク帝国の末期、ウィーンで政府高官の息子として生まれた。若き日々に何らかの形で出会った人々の中にはジグムント・フロイト、トーマス・マン、ヨゼフ・シュンペーター、フリードリッヒ・ハイエク、トマーシュ・マサリク、カール・ポランニーなど錚々たる顔触れが並ぶ。ドラッカーの業績がどのようなものかという以前に、こうした知的雰囲気に育ったのは一体どんな人なのだろうという関心が先に立った。

 『傍観者の時代』(ドラッカー名著集12、上田惇夫訳、ダイヤモンド社、2008年)は、ウィーンでの若き日々に薫陶を受けた人々、第二次世界大戦勃発まで歩き回ったヨーロッパでの出会い、移住先アメリカの学者や経営者たち──ドラッカーの歩みの中で出会った有名無名様々な人々の思い出をつづっている。当時の時代的雰囲気がうかがわれるだけでなく、人物描写が生き生きとしているので読み物としても面白い(なお、ポランニー兄弟のうち、経済人類学者のカール、『暗黙知の次元』で知られた科学哲学者マイケルは有名だが、長兄のオットーはイタリアで実業家となってムッソリーニに影響を与えたこと、姉のモウジーは農村社会学に取り組んでいたことは初めて知った)。

 ドラッカーはドイツで新聞記者として出発。ちょうどナチス台頭の時期にあたり、取材活動の中でヒトラーやゲッベルスにインタビューしたこともあったという。1939年にアメリカへ移住。戦後、コンサルタントとしてGMの調査を請け負ったことをきっかけとしてマネジメント論を展開する。当時はまだ経営学というジャンルは確立されておらず、企業のビジネス活動が対象ではあっても数式を使っていないので経済学とはみなされず、かと言って行政学・政治学とも違うという中途半端な立場だったらしい。

 マネジメント論で著名となるドラッカーだが、戦争中にデビュー作として刊行した1939年の『「経済人」の終わり』(ドラッカー名著集9、上田惇夫訳、ダイヤモンド社、2007年)、1941年の『産業人の未来』(ドラッカー名著集10、上田惇夫訳、ダイヤモンド社、2008年)とも、いずれも政治的テーマの論文であったというのが興味深い。

 彼は理性万能主義に対する懐疑としてのリベラルな保守主義に立脚し、この立場から全体主義を批判する姿勢を上掲の二冊を通して明確に打ち出した。また、彼は社会的関係の中で自らの役割を求める存在として人間を捉える(こうしたテーマを現代社会で身近な企業組織のあり方として論じていくのが、実は経営学の勘所であろう)。一人一人の個人としての役割を考えてみるとき、自らの責任によって意思決定を行なうという、そもそも“自由”なる概念の本質は閑却できないわけで、社会的な関係性の中でもそれは決して従属的なものではあり得ない。こうした考え方が、さらに分権化、民営化というテーマにもつながっていく。

 『「経済人」の終わり』は、「経済人」モデルの行き詰まりがナチスを招き寄せたという論点を提示する。経済発展を通して個人の自由と平等を実現し、その個人は経済関係を通して社会的な位置を占める。こうした個人モデル=「経済人」を前提とした資本主義は、社会的不平等が広がっても、いつかは個人の自由や平等が実現されるはずだという期待があってはじめて成り立っていた。社会全体が生活水準の向上を実感しているうちは良かったが、やがて破綻、しかし社会的格差は拡大を続ける。人々は幻滅し、そうした反発を吸い寄せたのが、脱経済至上主義的なファシズムであったとされる。ナチスは「英雄人」という役割を社会のすべての構成員に割り振るが、それは軍国主義的なものであった。こうした形で資本主義の行き詰まりを防げなかった以上、現在の経済社会の基礎を前提としつつも、自由と平等を保証できる新たな脱経済至上主義的な方向を模索しなければならないという問題意識を示した。

 『産業人の未来』は、以上の問いを受けて、自らの社会的役割を求める個人が集まった社会として有効に機能させるために産業社会の構築という考え方を示し、とりわけアメリカで見出した株式会社という組織に注目する。ブルジョワ資本主義も、マルクス社会主義も、財産の所有に社会的権力の裏付けを求める点では同じであり、誰が所有するのかが違うというに過ぎなかった。資本主義社会において株式会社は株主の所有物である。ところが、バーリ=ミーンズの議論が示すように、所有と経営の分離が実際には進行しており、株式会社自体が自律的な組織として成立している(ゴーイング・コンサーン)。株式会社がいわば社会学的な中間団体となり、その中で経営者と労働者が役割分担をしていく(それを円滑に進めるためにマネジメント論が要請された)。役割分担がうまくいってはじめて社会は有機的に機能する。個人がバラバラのままだったら、政治権力が直接統合に乗り出して奴隷制を作り出してしまう。ドラッカーはこうした社会的“自治”の観点から株式会社組織を捉えていたと言える。

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2009年11月18日 (水)

まど・みちお百歳

 詩人・童謡作家のまど・みちおさんが今月、百歳の誕生日を迎えたそうな。ピンと来ない人もいるかもしれないけど、「ぞーうさん、ぞーうさん、おーはながながいのね」とか「いっちねんせーいになったーらー~ともだちひゃくにんできるかな」とかの人ね。今でも作品をつくり続けているらしい。「ぞうさん」の作曲が團伊玖磨というのは初めて知った。

 まどさんは1909年、山口県生まれ。親の転勤で台湾に渡ってこちらで育ち、学校卒業後も台湾総督府に勤務。学生の頃から同人誌に詩を発表していたが、西川満たちが1939年に立ち上げた『文藝台湾』(刊行は翌年1月)に参加。同人名簿に本名の石田道雄で記載があるのを見たことがある。このことはwikipediaにも記述がないので取りあえずメモしとく次第。

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2009年11月13日 (金)

辺境のガンディー、イスラムの非暴力主義

 アブドゥル・ガファル・カーン(Abdul Ghaffar Khan、1890~1988年)がガンディーと手を携えあって歩いている写真がある。並んで歩くと頭二つ分ほども突き抜けるような長身、その大木のようなごっつい体つきと彫りの深い顔立ちに顎ヒゲ。しかし、眼差しは穏やかに優しいというアンバランスに不思議な魅力がある。

 彼はパシュトゥン人、敬虔なムスリムである。イギリス領インド植民地の北西辺境州(North Western Frontier Province、現在はパキスタン)でガンディーに呼応して非暴力運動を展開したことから“辺境のガンディー”として知られている。清貧な生活態度と誠実な人柄で多くの人々から慕われ、ガンディーが“マハトマ”(偉大なる魂)と呼ばれたように、カーンも“バドシャー・カーン”(Badshah Khan)と呼ばれた。「王の中の王」という意味らしい。さしずめ「無冠の帝王」といったところか。もっとも、カーン自身は“辺境のガンディー”とか“バドシャー”と呼ばれるのを嫌がっていたらしいが。

 イスラムに対してある種の偏見を持たれてしまうこともある中、カーンのような人物がいたということが日本であまり知られていないのはちょっと残念な気がする。以下の記述は、Eknath Easwaran, Nonviolent Soldier of Islam: Badshah Khan, A Man to Match His Mountains(Nilgiri Press, 1999)を参照した。

 カーンはペシャワール郊外のウトマンザイ(Utmanzai)で裕福な地主の家に生まれた。イギリス人の経営するミッション・スクールを卒業後、イギリスの部隊に入隊(The Guides→案内兵?)。尚武の民として知られたパシュトゥン人にとってはエリートであり、カーンはイギリス人と対等にやっていけると期待に胸をふくらませていたが、現実はたちまち幻滅を招く。彼はすぐにやめた。イギリス人恩師からイギリス留学をすすめられてその気になったが、母親の頑強な反対にあって断念。先に兄のカーン・サヒーブ(Khan Saheb)が医学の勉強でイギリスに留学しており、向こうでイギリス人女性を結婚していた。「彼はもはやムスリムではない、もう一人の息子まで失いたくない」というのが母親の言い分だったようだ。

 若きカーンは懊悩の中でイスラムを学び始め、そして自分の民族のことを考えた。一方でイギリスから圧迫を受け、パシュトゥン人でも特権階層はそれに協力している。他方で、保守的なムラー(mullah)は民衆の貧困、無知、無気力、暴力、こういった状態を放置したままである。どうすればいいのか? まず教育から始めなければならない。カーンは自分で学校を始めたが、彼のリベラルな姿勢は植民地当局と保守的なムラーの双方から目の敵にされ、生徒も思うように集まらない。

 カーンは山奥で断食して祈り続けた。ある日の早朝、強い確信を彼は感じた。具体的に何をなすべきなのかはっきりとした形をとるわけではないのだが、心の奥底から沸き起こってくる強烈な何かに体を揺さぶられた。宗教的な召命体験、とまとめてしまうと無味乾燥かもしれないが、いずれにせよ、我が身を神に捧げるという揺ぎない確信に駆り立てられて彼は再び人々の中へと分け入っていく。ガンディーが南アフリカからインドへ帰国したのはちょうどその頃である。ガンディーの噂を聞いて、彼のシンプルな生活態度と、何よりも非暴力の主張から、カーンは自身の奥底では確信がありつつもぼんやりとしていた何かに響き合うものを感じ取った。自分のなすべきことを悟った彼は村から村へと歩いて説き続け、その話に共感した人々は彼を“バドシャー・カーン”と呼び始めた。

 彼の心情は宗教的なものだが、様々なくびきに縛られた人々を解き放つのが目的であり、そのためには近代的な改革が必要であった。教育、女性の地位向上、パシュトゥン人としてのプライドを取り戻すため自分たちの言語による新聞も発行した。

 パシュトゥン人は尚武の民としてイギリス人からも恐れられていたが、他方で“血の復讐”に象徴される荒々しさは野蛮だとして軽蔑もされていた。そもそも、そんな風習が続くようでは仲間同士の殺し合いはいつまでたっても終わらない。カーンはそれを無知のせいだと考えたが、同時にそのエートスとして、自己犠牲、忍耐強さ、勇気をも見出した。これらの美徳に如何に洗練された意味づけをするのか。カーンの答えが、非暴力主義である。彼は若者たちを集めて軍隊式に組織した。武器を持たぬ義勇軍、非暴力の戦士たち──“クダイ・キドゥマトゥガル”(Khudai Khidmatgar)、すなわち“神の僕”である。

 当時、インドでは塩の専売制が行なわれていた。自分たちの生活必需品を高い費用で買わなければならない不合理。いっそのこと、みんなでこの不当な法律を破ってやろう。1930年、ガンディーが始めた“塩の行進”にカーンとクダイ・キドゥマトゥガルも呼応した。イギリス軍の攻撃で多数の死傷者を出したが、クダイ・キドゥマトゥガルは非暴力主義を貫き通した。挑発すればのってくるだろうと高をくくっていたイギリス軍はこの“不気味さ”に驚き、インド中の人々は勇気を奮い起こした。カーンが逮捕されても、クダイ・キドゥマトゥガルは非暴力の方針から逸脱しなかった。そして、イギリスからの圧迫が強まれば強まるほど支持者は増えていった。

 イギリスと国民会議派との妥協によって釈放された政治犯の中にカーンや兄のサヒーブ(医者として帰国後、弟の運動に参加していた)の姿もあった。しかし、彼らは故郷へ戻ることを禁じられたため、ガンディーの家に滞在する。共に起居してチャルカをまわし、語らいあった数年間は“二人のガンディー”にとって実り多い日々だった。1937年に地方選挙が実施され、政治の嫌いなカーンに代わって兄のサヒーブが出馬、故郷に戻ることはできなかったにもかかわらず当選して北西辺境州の首相に選ばれた。二人とも再び故郷の土を踏むことができた。

 1947年、ようやく植民地支配の終わる日がやってきた。ただし、インドとパキスタンの分離独立という形で。ガンディーとカーンは二人とも分離には反対であった。やがてヒンドゥー教徒とムスリムとの対立感情が高まって暴動がおこり、二人は説得のため共に各地を回った。カーンの故郷でも緊張が高まっていたが、兄サヒーブの呼びかけでクダイ・キドゥマトゥガルが少数派であるヒンドゥー教徒とシーク教徒を保護したという。だが、分離独立は既定路線である。1948年にはガンディーが暗殺された。

 カーンの故郷である北西辺境州はパキスタンとなった。パシュトゥン人はパキスタンだけでなくアフガニスタンにも広がっている。カーンはすべてのパシュトゥン人が同じ国にまとまること、そして民主的な自治を求めていたため、反逆罪に問われて逮捕された。クダイ・キドゥマトゥガルも弾圧され、関係者はすべて州のポストからはずされた。以後、カーンは入獄・出獄を繰り返し、一時はアフガニスタンで亡命生活を送りながら、90歳を過ぎても一貫して主張を曲げなかった。

 1988年、カーンはペシャワールの病院で死去。当時、ソ連によるアフガニスタン侵攻をきっかけに内戦が始まっていたが、アフガニスタン領のジャララバードに埋葬して欲しいというカーンの遺志に従い、葬儀の日には休戦により国境が開放された。ただし、たった一日だけのことだったが。パキスタンの北西辺境州にあった難民キャンプにはすでにタリバンの種がまかれていたことは今さら言うまでもない。

 ヒンドゥー教とイスラム教についてガンディーはこう語っていた。「宗教は同じ場所に到達する別々の道です。私たち両者が別の道をとっているからといって、どうだというのです。残念に思うことがあるというのですか?」(『真の独立への道』田中敏雄訳、岩波文庫、63ページ)。また、出典を思い出せないのだが、ガンディーは「どんな宗教であっても真理を語っている。だから、キリスト教徒なら聖書を読めばいいし、ムスリムならコーランを読めばいい。私はヒンドゥー教徒だからバガバット・ギーターを読む」という趣旨のことも語っていたように記憶している。自分たち自身の伝統としてのイスラムの信仰を掘り下げることによってある種の普遍性を目指した実例という点でアブドゥル・ガファル・カーンという人は興味深いと思う。

 もう3,4年くらい前になるか、紀伊国屋セミナーのシンポジウムで中島岳志さんが「山の頂上は一つでも、そこに至る道はいくつもある。ナショナリティーを“多にして一”なるものと捉え返す視点としてガンディーや井筒俊彦に関心を持っている」という趣旨のことをアイデア程度ではあったが話しておられて感心したことがあった。中島さんならアブドゥル・ガファル・カーンについてどのように捉えるだろうかと興味を持ったのだが、最近はインド関係のことはあまりやってない様子ですね。

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2009年10月31日 (土)

城内康伸『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男──「東声会」町井久之の戦後史』、森功『許永中──日本の闇を背負い続けた男』

城内康伸『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男──「東声会」町井久之の戦後史』(新潮社、2009年)

 戦後間もなくの暴力団抗争や朝鮮総連と民団との対立といった話題の中で東声会の名前をよく見かけ、気になっていたので本書を手に取った。町井久之こと鄭建永(1923~2002年)の生涯を通して描かれた戦後日韓関係の裏面史である。力道山、児玉誉士夫、朴正熙政権をはじめ様々な人脈関係が見えてくるのが興味深い。

 冒頭、町井の書斎のシーンから始まるが、哲学や美術に関心を寄せる彼の内面と暴力団の親玉という世間的なイメージとのギャップが印象に残る。本当は画家になりたかったが、成り行きから“任侠”の世界に飛び込まざるを得なかったという。東声会は朝鮮総連への対抗上、東洋倫理思想を基盤に反共を旗印とした政治運動のつもりで組織したらしいが、武闘抗争で頭角をあらわすにつれて暴力団として一般に認知されてしまった。

 町井の関連企業や団体に“東亜”という言葉が入っているのが目を引く。彼は若い頃、石原莞爾の東亜連盟に共鳴していた。東亜連盟は各民族の政治的自治と対等な協力関係をスローガンとして掲げていたため朝鮮人にも信奉者が多かったことは阿部博行『石原莞爾』(法政大学出版局、2005年→こちら)で知った(町井に東亜連盟の思想を伝えた曺寧柱は、極真空手の大山倍達に空手の手ほどきをしたことでも知られている。大山も東亜連盟に参加していた)。現在の視点からは東亜連盟を全面的に肯定するのは難しいかもしれない。しかし、日本では差別を受けながらも日本名を名乗って生きざるを得なかった一方で、韓国への愛国心を両立させるという矛盾、そこに何とか一つの納得を与えようとする町井たちの葛藤の受け皿となっていた点については再考の余地があるようにも思われる。

森功『許永中──日本の闇を背負い続けた男』(新潮社、2008年)

 本書の大半では戦後日本における政財界の裏人脈が細かに描写される。その中で、差別、スラムといった生い立ちの原風景を起点に、チンピラから身を立てのし上がっていく許永中(1947年、大阪生まれ)の軌跡をたどる。正規のルートでは出世などおぼつかず、裏社会に活動の舞台を求めねばならなかったわけだが、「俺は悪漢ではあっても詐欺師ではない!」という彼のプライドが目を引く。許は町井久之にあこがれていたのではないかという指摘もあった。“日韓の架け橋”を夢見て、日韓間に就航するフェリー会社の社長になろうとしたあたりには町井と共通したこだわりも見出される。

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2009年10月25日 (日)

中島岳志『朝日平吾の鬱屈』

中島岳志『朝日平吾の鬱屈』(筑摩書房、2009年)

 1921年、安田財閥の総帥・安田善次郎が刺殺され、手を下した青年・朝日平吾もその場で自ら喉を切って自死した。その後に続くテロ事件の先駆けとされた事件である。本書は、この無名であった一青年の抱えていた鬱屈から、現実社会の不合理によってしわ寄せされた不遇への怨恨、承認願望の挫折といった実存的不安をすくい取り、そこに現代日本社会にも漂う世相的な不安感を重ね合わせる。赤木智弘「希望は、戦争」が執筆の動機となっているらしい。

 私の勝手な思い込みだが、政治思想史に関心を寄せる人には、大雑把に言って丸山眞男タイプと橋川文三タイプがあると思っている。丸山が高踏的、悪く言えば上から目線なのに対して、橋川は彼自身が軍国少年だったことをどのように捉え返すかという切迫した思いを動機としていたことから、ある人物の思想を検討するにも内在的な感受性まで迫ろうとした。本書も橋川の『昭和維新試論』(私も思い入れのある本で、以前にこちらで取り上げた。ちくま学芸文庫版の解説は中島岳志)を議論の手掛かりとしていることからうかがえるように、著者は明らかに橋川タイプだ。本書の視点への賛否はともかくとして、こうした切実さを持った対象への迫り方には好感を持っている。

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2009年10月24日 (土)

“満州国”初代外交部総長・謝介石について

 戦前・戦中期、日本語・中国語の両方を解するということから大陸における日本占領地域に渡った台湾人が相当数いた。当時は“日中の架け橋”ともてはやされたが、その背後に日本の大陸侵略の意図があったことを思えば空々しい哀しさも感じてしまう。①就職・留学のため、②台湾在留経験のある日本人の引き立て、③すでに大陸に渡って成功した台湾人のツテ、といった事情が考えられるが、そうした中でも、旧満州国初代外交部総長(外務大臣)を務めた謝介石(1879~1954年)の存在が大きい。彼の引きで満州にやって来た台湾人は少なくない。

 以下の記述は、許雪姫〈是勤王還是叛國──「満洲國」外交部総長謝介石的一生及其認同〉(《中央研究院近代史研究所集刊》期57、2007年)を参照した。大陸に渡った台湾人のうち、重慶に行って抗日戦争に参加した後に台湾へ戻ってきた人々(いわゆる“半山”)については従来から評価されてきたものの、対して“漢奸”とされた人々についての研究は少ないという。しかしながら、重慶に行ったか、行かなかったかという相違自体に、台湾人アイデンティティの揺らぎが具体的に表われていると言えるのではないか。それは一律に定式化できるものではなく、それぞれの人が負った背景によってまた異なってくる。そうした一例として謝介石が検討される。清朝期の台湾に生れ、1895年の下関条約で日本統治下に入ってからは(すなわち、日本国籍を持つ)日本語を学んで東京に留学、その後、大陸に渡って中華民国国籍を取得するが、溥儀に仕えたことから旧満州国高官になった。彼の心中にどのような思惑が渦巻いていたのかは分からないが、こうした転変激しい人生行路そのものに私などは一つのドラマとして興味が引かれる。

 なお、旧満州国にいた台湾人のオーラルヒストリーとして許雪姫・他《日治時期在「滿洲」的台灣人》(中央研究院近代史研究所、2002年)という本もあり、先日、台北に行った折に入手しておいた。この本は龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年→こちらで取り上げた)でも引用されている。

 謝介石は1879年、台湾・新竹の生まれ。当初は伝統的教育を受けていたが、日本人の設立した国語伝習所及び公学校で学び、通訳として働き始める。日本人官吏の推薦を受けて1904年に東京へ留学。東洋協会専門学校(後の拓殖大学)で台湾語を教えながら、明治大学法科を卒業。明治大学の同窓にいた張勲の息子と親しくなり、この縁で中国大陸に渡って張勲の法律顧問となった。清朝滅亡後は吉林法政学堂教習兼吉林都督府政治顧問となり(この時は謝愷と名乗った)、吉林にいた日本人と共に中日国民協会を立ち上げている。

 1914年に在天津日本総領事館に申請して日本国籍を放棄、翌年に中華民国国籍を取得。袁世凱政権で要職に就いた張勲に従って出世。1917年7月、張勲・康有為らが溥儀を擁して画策した復辟運動に関わり、外交部官員となる。復辟失敗後は上海・天津の辺りで活動。1925年以降、鄭孝胥・羅振玉らと連絡を取り合う。帝政復活を諦めきれない溥儀は日本軍を後ろ盾にすることを考えており、鄭孝胥(大阪総領事の経験あり)やとりわけ日本語が流暢で外交活動の経験がある謝介石を重用した(彼は1927年に溥儀の謁見を受けた)。

 1931年の満州事変に際しては吉林にいた熙洽(愛新覚羅家の一族で日本留学経験のある軍人)の配下として政治工作を行ない、翌1932年に“満州国”が建国されると外交部総長(外務大臣)に任命された(ただし、実権は外交部次長の大橋忠一が握っていた)。在任中にはリットン調査団、日満議定書、溥儀の訪日といった出来事があった。1935年、日本との外交関係が公使級だったところを大使級に格上げされた際に、謝介石は外交部総長を辞任して初代駐日大使に就任する。

 同年、「台湾始政四十年記念博覧会」参観という名目で台湾へ帰る。故郷・新竹の名望家の娘と長男との結婚も理由の一つだったらしい。いわば「故郷に錦を飾る」という感じか。日本人優位の植民地体制の中で台湾人は逼塞した思いを抱え込んでいた中、謝介石が満州国皇帝の名代として日本人の台湾総督から恭しく迎えられるのを目の当たりにして、「俺も海外へ行って一旗揚げよう!」と意気込んだ青年もいた。そうした台湾人を謝介石も引き立てた。溥儀のかかりつけ医となった黄子正は謝の紹介によるし(戦後、戦犯となった溥儀の在監中も黄はずっと行動を共にした)、外交部に就職した台湾人も少なからずいたらしい。台湾人か日本人かを問わず、台湾関係者が満州国でツテを求める際には謝介石に頼った。(※他方で、「台湾で地方自治制度は時期尚早だ」と謝は発言したため、林献堂などは反発している。)

 日本国籍を持つ台湾人は、日本と中国との不平等条約のため中国大陸では特権を持っていたので大陸では嫌われ、日中戦争が始まると、反日感情の矛先はまず台湾人に向けられたらしい。そのため、自分は福建人もしくは広東人だと名乗って台湾人であることを隠さねばならないこともあったという。対して、満州国ではそうした心配は無用だったという事情も指摘される。日本国籍を持ってはいても日本人ではなく漢人であるという意識がありながら、大陸の漢人からは違う色眼鏡で見られてしまったところに、当時の台湾人のアイデンティティの難しいあり方がうかがえる。

 謝介石は1937年に公的活動から引退。一時、東京で暮らしたが、満州房産株式会社という国策会社の理事長として再び満州国に戻る。さらに北京で暮らしていたところ、1945年、日本の敗戦を迎えた。彼は漢奸として逮捕され刑務所に入れられたが、1948年に共産党が北京に入城する前に釈放された。1954年に死去。wikipedia等では1946年に獄死したとされているが、許雪姫女史は遺族から直接話を聞いているので、こちらの方が正しいはずだ。戦後の謝介石の足跡については、史料が乏しいせいなのか、遺族への慮りがあるのか、はっきりしたことは記されていない。

 “漢奸”か否かという問いの立て方はもはや時代錯誤であろう。ある種のポリティカル・コレクトネスは当時に生きた人々が嫌でも抱えざるを得なかった生身の複雑な葛藤をなかったものとして、さらに言えば事情を忖度することなく汚いものと一方的に決め付けてオミットしてしまう。それは歴史を見ていないに等しい。謝介石という人にどんな思惑があったのか私には分からない。あるいは出世志向のかたまりだったのかも知れない。仮にそうだとしても、このように複雑な転変を経ねばならなかったところには、日本・中国双方からマージナルな立場に追いやられた台湾の独特なポジションがもたらした葛藤が見え隠れするのではないか。そうしたアイデンティティの困難という観点から、謝介石という人物が日本・中国・台湾それぞれの現代史の専門家からどのように捉えられているのか、聞いてみたい気もする。

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2009年10月20日 (火)

『ウイグルの母 ラビア・カーディル自伝──中国に一番憎まれている女性』

ラビア・カーディル、アレクサンドラ・カヴェーリウス(水谷尚子・監修、熊河浩・訳)『ウイグルの母 ラビア・カーディル自伝──中国に一番憎まれている女性』(ランダムハウス講談社、2009年)

 “ウイグルの母”ラビア・カーディルからドイツ人ジャーナリストが話を聞いてまとめられた自伝。原著はドイツ語。以前に英訳版Rebiya Kadeer with Alexandra Cavelius, Dragon Fighter: One Woman’s Epic Straggle for Peace with China(Kales Press, 2009)を読んだが、日本語訳の新刊が出たので改めて手に取った。訳文はこなれていて読みやすい。原著には誤り、誇張した箇所等が散見されるそうで、それは監修者によって訂正されている。物語風の構成となっているが、文革、グルジャ事件、獄中の様子等も含め漢族優位の社会体制の中でウイグル人が置かれている深刻な状況が描かれている。彼女の生い立ちを通して、東トルキスタン現代史を知る上でも手引きとなるだろう。英訳版を読んだときには、ラビア女史が状況改善のため女性のエンパワーメントに尽力していたことに関心を持った趣旨のコメントをこちらに書いた。

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2009年10月 6日 (火)

立石鐵臣のこと

 立石鐵臣(1905~1980)の『台湾畫冊』(台北縣立文化中心、1996年)という本をパラパラ眺めたことがある。1996年に台北で開催された「立石鐵臣画伯紀念展」に合わせて刊行された画集である。1962年の署名入り。立石を引き立ててくれた美術評論家・福島繁太郎に捧げたものらしい。台湾での思い出を絵物語にまとめている。

 前半部分には庶民の生活光景や民具を題材とした画文が多い。かつて『民俗台湾』で「台湾民俗図絵」として連載されたものである。立石は金関丈夫、池田敏雄、松山虔三、国分直一、中村哲らと共に『民俗台湾』の編集に携わっていた。連載時は白黒の木版画だったが、『台湾畫冊』では水彩画に描き直されている。

 赤、黄、緑、青とモザイクのようにくっきりした色遣い、とりわけ赤レンガ家屋の色合いが鮮やかだ。素朴で力強く、しかしのびやかに描かれた線は、必ずしも写実的ではないのだが、どこか人々の雰囲気をしのばせる温もりがある。立石は台北帝国大学理農学部嘱託として昆虫の標本画を描いていて、細密画はもともと得意ではあるが、見た目の正確さよりも感じ取ったものをこのような筆致で描き出しているのか。ただし、大雑把そうに見えても、たとえばお店の描写などは細部までしっかりと描きこまれている。

 『台湾畫冊』の後半は、日本の敗戦後も留用という形で台湾に残留して暮らした日々を描いている。編訳館での仕事ぶりや、お向かいに越してきた中国人軍人との交流。立石と付き合いのあった画家・南風原朝光の兄で医師の南風原朝保が引き揚げることになり、携行できる荷物に制限があったため家財道具を置いていかねばならず、立石がその売りさばきを引き受けたシーンもある。当時、日本人の引き揚げに伴ってにわか仕立ての“骨董市”があちこちに現われ、結構掘り出し物が安く入手できたことはよく聞く。立石が日本人形を「安いよ、安いよ」と売ったあと、見ていた日本婦人が寄ってきて「あれは私が作った人形です」と言われ、随分と後味の悪い思いをしたとも記している。

 金関丈夫は、南風原朝保やジョージ・H・カーなどの仲間たちと連れ立ってこうした“骨董市”を見て回ったことを回想している(金関丈夫「カーの思い出」『琉球民俗誌』法政大学出版局、1978年)。いずれ置いていかねばならないのが分かってはいても、ついつい買ってしまったそうだ。なお、南風原朝保はノンフィクション作家・与那原恵さんの祖父にあたる(与那原恵『美麗島まで』文藝春秋、2002年→こちら)。ジョージ・H・カーは『裏切られた台湾』(川平朝清監修、蕭成美訳、同時代社、2006年)の著者である(→こちら)。

 立石は1948年12月5日に日本へと引き揚げた。日本人引揚者としてはほとんど最後の船だったらしい。基隆の港を船が離れるとき、波止場に集まっていた台湾の人々が一斉に日本語で「蛍の光」を歌いだし、近寄ってきたランチは日章旗を振って見送ったという。立石は「日人への愛惜と大陸渡来の同族へのレジスタンスでもあろう」と記す。前年、1947年には二・二八事件が起こっており、日本人留用者が煽動したと疑われて帰国が早まったとも言われている。

 留用された日本人の生活を描いた“絵物語”としては、他に金関丈夫の筆になる「国分先生行状絵巻」(金関丈夫・国分直一『台湾考古誌』[法政大学出版局、1979年]所収)なんてものもある(→こちら)。立石にしても金関にしても、深刻ぶらずユーモアたっぷり。

 立石については、謝里法「立石鐵臣展により想起される幾つかの問題」、森美根子「立石鐵臣の世界」(共に『台湾畫冊』解説編所収)、森美根子「台湾を愛した画家たち(23)(24) 立石鐵臣(前・後編)」(『アジアレポート』348・349号、2004年10月、2005年3月)、陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)を参照。

 立石は父親が総督府の事務官だった関係から台北に生まれ、7歳のとき日本へ渡った。絵が好きだったので川端画学校で学び、さらに岸田劉生、梅原龍三郎に師事。生まれ故郷である台湾を描きたいという思いを募らせ、再び台湾に渡る。1934年には台湾人を中心とした台陽美術協会の創立メンバーとなり、翌年には西川満主宰の創作版画会にも参加。造本・装丁に凝りに凝った愛書家として知られる西川の本の多くは立石が手がけた。そして、金関・池田らの『民俗台湾』の主力メンバーとなり、台湾各地の民俗調査に積極的に赴いた。『民俗台湾』についてはこちらを参照のこと。

 戦後の立石の画風は抽象的な幻想画へと一変したらしい。晩年は美学校で細密画を教えるかたわら、昆虫や魚を描く図鑑類の仕事をしていたという。

 台湾の美術史家・謝里法は、たとえ日本人であっても台湾という土地で作品を描いたならば“台湾美術”とみなすべきこと、「台展」などの制度から外れたアウトサイダーも認めるべきだといった理由を挙げて立石を評価している。

 立石鐵臣についてのドキュメンタリーを制作している方からメールをいただき、結局、私はお役に立てず心苦しく感じているのだが、完成を楽しみに期待している次第。

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2009年10月 5日 (月)

李澤藩と石川欽一郎

 一昨年、台北の故宮博物院を訪れたとき、たまたま「風城風采──李澤藩百歳紀念畫展」というタイトルの展覧会も開催されていた。メインの展示室にはいつものように観光客がごった返し、特に豚の角煮や白菜の宝石のあたりは中国語や日本語、韓国語に英語まで飛び交う喧騒のただ中に居るだけで頭が痛くなってくる。対して、こちらまで流れてくる人はほとんどいなかった。

 李澤藩(1907~1989)生誕百周年の催しだが、この人のことを私は知らなかった。水彩画である。台湾や旅行先の日本、ヨーロッパの風景を描いた、淡くしっとりとした色彩が印象的だった。湖水や木々、建物の輪郭が煙るようにぼやけ、そのどことなくミスティックな感傷は、観ていて心静かに落ち着ける感じがした。

 後で調べたところ、李遠哲の父親であることを知った。李遠哲は台湾人として初めてノーベル賞(化学)を受賞、李登輝・陳水扁両政権で中央研究院長を務めた。彼が2000年総統選挙で陳水扁支持を表明して一つの流れを作ったことは記憶していた。

 李澤藩は新竹の生まれ、日本統治期の台北師範学校を卒業後、自らも作品を描き続けながら、故郷・新竹でずっと教鞭をとっていた。作風は地味だとみなされたらしいが、水墨画や戦後盛んになった抽象画の技法も取り込もうとするなど積極的な姿勢も持っていた。彼については李澤藩美術館ホームページの他、森美根子「台湾を愛した画家たち⑩李澤藩」(『アジアレポート』335号、2002年3月)、黄桂蘭「風城風采──李澤藩的絵画芸術」(『故宮文物』第295期、2007年10月)を参照した。

 李澤藩を水彩画へと誘ったのが、当時、台北師範学校の美術教師であった石川欽一郎(1871~1945)である。私はこの石川の名前も、「風城風采」展会場にあった李澤藩の略歴を示したパネルで初めて見た。日本での知名度は低いが、昨日取り上げた李欽賢『台灣美術之旅』(雄獅図書、2007年)も含め、台湾に西洋画を初めて紹介して多くの弟子を育成した点で台湾美術史を語る上では外せない人物と位置付けられている。

 石川については立花義彰編著『日本の水彩画12 石川欽一郎』(第一法規、1989年)、中村義一「石川欽一郎と塩月桃甫──日本近代美術史における植民地美術の問題」(『京都教育大学紀要A人文・社会』76号、1990年3月)、荘正徳「石川欽一郎と台湾の近代美術教育」(『造形美術教育研究』第6号、1993年)、森美根子「台湾を愛した画家たち⑲⑳石川欽一郎(前・後編)」(『アジアレポート』344・345号、2003年9・11月)を参照。

 石川は旧幕臣の家に生まれ、もともと美術に関心はあったが、家計が苦しく、逓信省電信学校を経て大蔵省印刷局に入る。職場の後輩には石井柏亭がいた。独学で水彩画を描く。英語に堪能だったので陸軍参謀本部の通訳官となり、1907年に台湾へ赴任、通訳官と兼務で国語学校(後の師範学校)で美術を教える。台湾には1907~1916年、1924~1932年と二度滞在。この間に育てた弟子で主だった名前を挙げると、倪蒋懐、黄土水、陳澄波、陳英聲、郭柏川、李梅樹、李澤藩、李石樵、藍蔭鼎、等々。わけ隔てなく台湾人とも接したので生徒からは慕われ、教官に義務付けられていた官服は着用せず背広に蝶ネクタイというイギリス紳士風の姿も人気のあった理由らしい。

 台湾の南国的にみずみずしい風景を描いた石川の水彩画は、枯淡な味わいに特徴を持つ伝統的な水墨画に馴染んだ台湾の人々にとって新鮮だったらしい。石川は、台湾において西洋美術の最初の普及者というだけでなく、“郷土意識”“台湾意識”を強調する論者からは台湾人に自分たちの暮らす土地の美しさへの自覚を促したとも評価されているようだ(石川自身の意図がそこにあったかどうかはともかく)。

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