カテゴリー「人物」の201件の記事

2014年10月12日 (日)

横手慎二『スターリン──「非道の独裁者」の実像』

横手慎二『スターリン──「非道の独裁者」の実像』(中公新書、2014年)

 歴史上の政治指導者を取り上げて評伝を描く難しさというのは単に政治イデオロギー上の制約に限らない。パーソナリティーについて史料不足の部分を補うため、例えば精神分析学の手法を用いるといったこともかつて流行ったが、実際には印象論に過ぎない議論に学問的な装いを凝らす程度に終わってしまうケースもしばしば見受けられた。とりわけスターリンのように“冷酷無情な独裁者”というイメージが定着している場合にはなおさらであろう。

 本書の特色は、ロシア革命前後から冷戦初期に至る政治的過程を一つ一つ確認しながら、それらとの相互影響の中でスターリンの考え方やパーソナリティーの変化を辿っているところにある。こうした描き方が可能なのは、ソ連という中央集権的な体制において指導者の決断が常に重要な意味を帯びたこと、指導者であり続けるためにスターリン自身が熾烈な権力闘争を勝ち抜いたこと、第二次世界大戦など国家的危機に際して強力な指導者が不可欠であったこと、こうした様々な背景が考えられるだろう。いずれにせよ、本書はスターリンを主軸に据えたソ連政治史として読むこともできる。

 ソ連崩壊後に利用可能となった新史料や、それらに基づいて進展した研究成果を本書は取り込み、従来貼られてきたレッテルとは異なるスターリン像を描き出している。例えば、青少年期の書簡を通して垣間見えるスターリンは、知的に多感でこそあれ、“冷酷非情”というステレオタイプとは明らかにかけ離れている。それだけに、革命運動へ身を投じて以降の厳しい政治闘争を通して彼が「学び取った」ことの大きさが印象付けられる。

 1920年代におけるソ連の政策論争では大まかに言って二つの方向性があり得た。第一に、農民を重視して彼らの資本蓄積を促し、それを基に外貨で機械を輸入して緩やかな工業化を進める路線。第二に、農業収穫物を低価格で徴発し、農民の犠牲で急速な工業化を推し進める路線。スターリンは当初、前者の路線を採り、一国社会主義の主張と共に党内の支持を得た。ところが、1920年代末、こうした路線がうまくいかなくなると後者に転換して農業集団化、経済五ヵ年計画を強引に推進する。無理な農業集団化は膨大な餓死者を出したが、他方でこの時の急進的工業化によってこそ第二次世界大戦に耐え抜く国力が備わったとされる。ただし、おびただしい人命を犠牲にした事実は無視できず、責任を糊塗しようとしたことが大粛清の要因となった。

 海外では悪評著しいスターリンだが、ロシア国内ではスターリン評価が真っ二つに割れている状況をどのように考えたらいいのか?と本書の冒頭で問題提起されている。すなわち、スターリンなしで第二次世界大戦を持ちこたえることができたのか? ならば、農業集団化や大粛清によるおびただしい犠牲を正当化できるのか? 歴史に対する倫理的評価の問題は解答がなかなか難しい。スターリン再評価のような議論に対して本書は抑制的である。ただし、スターリン批判=西側の価値観に合致したリベラル派/スターリン擁護=頑迷な保守派という単純な二分法が西側諸国では広くみられ、このような善悪二元論ではロシア国内が抱える葛藤を掴みきれないという指摘は少なくとも念頭に置いておく必要があろう。

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2014年9月20日 (土)

吉川凪『京城のダダ、東京のダダ──高漢容と仲間たち』

吉川凪『京城のダダ、東京のダダ──高漢容(コ・ハニョン)と仲間たち』(平凡社、2014年)

 1926年、東京。雑誌『虚無思想』を創刊したばかりの辻潤のもとを訪れた夜のことをアナキスト詩人・秋山清が「三国同盟」と題してつづっている。

 白く霧のかかった街中を千鳥足で歩いていた三人。ふと見つけた呑み屋に入ったところ、辻潤はお店の女の子にふざけて「俺は日本人のふりをしているだけで、本当は支那人なんだ」とうそぶき、秋山は朝鮮人にされてしまう。一緒にいた朝鮮人ダダイスト・高漢容は日本人として紹介されたが、そう言われても違和感がないほど彼の日本語は自然だった。辻はデタラメな中国語で奇妙な歌をうたう。高漢容から「朝鮮の歌をききたいよ」とせがまれた秋山は困ってしまって「日本暮らしが長くて忘れた」と逃げる一方、高漢容は日本語の歌を美しくうたい上げたという。屈託なく「民族」を交換してしまうのも一種のダダか。これは高漢容が旅立つ別れの日のこと。春の夜霧につつまれた悪ふざけは、哀愁を帯びたファンタジーのようにも見えてくる。

 あらゆる外的な理解を絶した地平で確かな皮膚感覚にフィットした何かを表現しようとしたダダ。本来的に事分けには馴染まないこのダダについて起源を問うのは思いっきりナンセンスな話かもしれないが、韓国文学史におけるダダは高漢容(ペンネーム、高ダダ)が雑誌『開闢』1924年9月号に「ダダイスム」を発表した時に始まり、26年末にはほぼ終わってしまったという。

 辻潤と高橋新吉は1924年に高漢容の招きで京城(ソウル)を訪問している。高漢容がダダを知ったのも彼らを通してである。「彼は一時期、辻、高橋、秋山といった日本のダダイスト、アナキストたちと同じ時代の空気と思想を共有する仲間であった。植民地時代に青少年期を過ごし、基礎的教養のかなりの部分を日本語書籍によって培った朝鮮の文学青年と、日本の文学青年との間にあった心理的距離感は、おそらく今のわれわれが想像するより、はるかに近い」(本書、11~12ページ)。もちろん、高漢容の日本語が流暢だったのは植民地支配という負の歴史的背景によるものだが、ダダという共通項を持っていた彼らは、民族的垣根を越えて語り合える関係になっていた。

 他方で、韓国ではダダへの関心が低かったこともあり、高漢容の存在はほぼ忘れ去られたに等しかったようだ。本書では「高漢容も含め、韓国のダダイストたちもまた、ダダの資質にはあまり恵まれない、「ムリしたダダ」であったように見える」(153ページ)とも指摘されている。「ムリしたダダ」という言い方は何となく納得できる。ダダの資質とは何か?と考え始めると袋小路に陥りそうだが、奇抜な表現を焦りすぎたり、権威への反抗という自意識が過剰だったりして不自然になってしまう自称ダダイストは結構いる(例えば、辻潤の評伝を書いた玉川信明を私は思い浮かべている)。いずれにせよ、ダダは韓国の文学的気質に合わなかったのかもしれない。

 本書は高漢容という忘れられた文学者を主人公に据えてダダをめぐる人物群像を描き出している。ダダという限定的な切り口ながらも、そこから日本と韓国の双方に関わる様々なエピソードが掘り起こされているのが興味深い。例えば、「半島の舞姫」こと崔承喜の兄・崔承一は作家であり、この崔承一と高漢容、辻潤にも接点があったことは初めて知った。辻は京城を訪問した折にデビュー前の崔承喜に会っていたらしい。また、雑誌『モダン日本』をヒットさせた馬海松、韓国で「近代農業の父」といわれる禹長春(閔妃暗殺事件に関与した禹善範の息子)などとも交流があったという。

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2013年12月25日 (水)

森常治『台湾の森於菟』

森常治『台湾の森於菟』(ミヤオビパブリッシング、2013年)

 森鷗外の長男・森於菟(1890~1967)は解剖学者。1936年に台北帝国大学で医学部が新設された折、当時、東京帝国大学医学部で助教授だった於菟は解剖学第一講座教授として赴任する。後に医学部長にも選ばれた。日本敗戦後も留用されて中華民国における新制台湾大学医学院で教鞭をとり、1947年に日本へ帰国。父・鷗外についてなど随筆でも知られている。

 著者は於菟の息子で、台北で育った。父から聞いた話や、台北帝国大学医学部出身者を中心とした同窓会組織・東寧会の会報誌に掲載された当事者の回想録が引用され、それを踏まえて描き出された於菟をめぐる人物群像が興味深い。於菟の専攻した解剖学は形質人類学とつながり、さらには広義の人類学・民族学への好奇心が触発される。父・鷗外の影響で文化的な関心も強く、こうしたあたりは同僚の解剖学者でやはり博物学的なディレッタント・金関丈夫ともウマが合ったようだ。

 植民地統治は支配者(日本人)と被支配者(台湾人)との構造的差別を否応なく生み出してしまい、さらには戦時色が強まるにつれて軍部は大学にもさかんに横車を押してくる。そうした難しい環境の中でもアカデミズムの中立性を保ちつつ、学問上の師弟もしくは同志として協力関係をとれるものだろうか? 森於菟をはじめとした日本人教官たちが学問・教育で示した真摯な熱意は、感情的にもつれやすい壁をしっかり乗り越えていた。それはもちろん、台湾人の学生たちも教官が求める能力水準を見事にクリアしていたからある。また、於菟が医学部長に推挙されたのは、陸軍軍医総監(中将相当)森林太郎の息子という「親の七光り」が陸軍の圧力に対して都合が良いと考えられていたふしがある。

 台北帝国大学医学部におけるこうした師弟の信頼関係は二つの点で文化史的な意義を持つ。第一に、森鷗外の遺品・資料が守られたこと。於菟は台湾へ赴任するにあたり、長男として父の遺品を守らなければいけないという思いからこれらを帯同した。その後、東京の家が火災・戦災に見舞われたことを考えると、台湾へ持ち出したのは賢明な選択であったと言える。ただし、戦後の混乱期、引き揚げにあたって無事に持ち帰れる保証はなかった。そもそも、台湾人にとって森鴎外などどうでもいい。於菟への個人的な信頼感があったからこそ遺品の保管・搬送に協力してくれたわけである。

 第二に、日本の植民地支配から中華民国へと体制が転換されるに際して大学の学知的資産をスムーズに引き継がせたこと。ここでは、唯一の台湾人教授であった杜聡明(新制台湾大学で初代医学院長)との協力関係が不可欠であった。植民地の大学という、異なる民族的背景を抱える学生たちが集まった特殊な環境において、アカデミックな協力関係がいかに成り立つのか。そうしたテーマを考える一つの参照例として、本書は単に台湾史というだけでなくより広いコンテクストでも有益であろう。

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2013年10月22日 (火)

与那原恵『首里城への坂道――鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』

与那原恵『首里城への坂道――鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(筑摩書房、2013年)

 昭和46年、沖縄返還を間近に控えた時期、35年ぶりに沖縄を訪れた鎌倉芳太郎の目に映った光景はどのようなものであったか。あまたの人命が失われた激戦で事実上の焦土と化した沖縄――米軍占領下にあって、その風景は一変していた。沖縄の文化に限りない愛着を抱いていた鎌倉は、変わり果てた姿を目の当たりにすると幻滅してしまうだろうと思い、沖縄行きには複雑な気持ちだったらしい。

 だが、目を背けてばかりはいられない。ひとたび失われた文化を何とか取り戻せないものか。彼はかつて収集して内地へ持ち帰っていた紅型の型紙を地元の博物館に寄贈し(彼は紅型をもとに独自の染織を行なって、人間国宝に認定されている)、さらに50年前、自ら撮影した乾板ガラスの存在を明らかにする。そこにはすでに焼失した首里城をはじめ、沖縄各地の風景や文化財、工芸品がしっかりと収められていた(なお、このガラス乾板はサントリーの支援でよみがえったという。日本でウイスキーを普及する上で、米軍占領下、洋酒に馴染んでいた沖縄市場に着目する思惑があったという背景が興味深い)。古老たちから聞き取った鎌倉のノートは、在りし日の琉球の姿を再現する上でまたとない資料であった。

 沖縄の文化が危機に瀕したのは戦争ばかりではない。1879年の琉球処分以降、明治政府によって「日本化」が推進され、1924年には琉球文化のシンボルとも言うべき首里城が取り壊されそうになった。その報に接した鎌倉は、琉球建築に関心を持つ東京帝国大学教授で建築学者の伊東忠太に働きかけて(伊東は元内相・平田東助の親族)、ギリギリのタイミングで首里城を救った。

 鎌倉は香川県の出身で、東京美術学校を卒業後、美術教師として沖縄に赴任、縁のできたこの地の文化の調査に情熱を傾ける。ある意味で外来者に過ぎない鎌倉だが、彼の熱心な奔走は沖縄の人々の気持ちを動かし、彼のフィールド調査に積極的な協力を得られるようになった。

 本書は、琉球芸術の研究に生涯を捧げた鎌倉芳太郎の軌跡を軸として、沖縄文化研究の歴史を描き出している。派生的な話題も含め、潤沢な情報量は勉強になる。テーマとして地味ではあるが、決して無味乾燥ではない。例えば、建築学者の伊東忠太、民俗学者の柳田國男や折口信夫、音楽学者の田辺尚雄といった近代日本アカデミズムのビッグネーム。伊波普猷、東恩納寛惇、末吉麦門東、外間守善といった沖縄学の大成者たち。そして、有名無名の協力者たち――背景も様々な人々との交流を通して、美しさに感動したり、あるいは時代の悲運に慨嘆したり、そうした息遣いの一つ一つがヴィヴィッドに浮き彫りにされている。沖縄にルーツを持ちつつも、東京で生まれ育ち、沖縄のことをよく知らなかったという著者自身の思いが、外来者ながらも沖縄に魅せられた鎌倉の情熱に共感をもって重ねあわされているからであろうか。

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2013年10月17日 (木)

【雑記】雲崗石窟の江文也と崔承喜

 一九四一年のある日、江文也が山西省大同にある雲崗石窟の上にたたずんでいる写真がある。彼は目の当たりにした雄大な光景に触発され、ものぐるおしい感動に胸を打ちふるわせていた。彼にとって石仏は単なる宗教的なモニュメントなのではない。茫漠と果てしなく広がる大地のただ中に屹立する山並みに穿たれた大仏群、そこから浮かび上がる歴史の年輪を見て取った彼の眼差しは、目前の石仏を超え、はるかかなたの悠久へとまっすぐに向けられている。

 一九三七年から始まった日中戦争で大同も含めて華北一帯は日本軍によって占領されており、一九四一年十二月には間もなく太平洋戦争が始まろうという時代状況である。そんな硝煙の臭いが立ち込めた時期に、台湾出身の江文也がなぜ雲崗にいたのか。

 一九三八年に二十八歳の若さで北京師範大学教授に招聘されていた彼は東京と北京の両方に自宅を構えていた。知人の映画プロデューサーである松崎啓次から雲崗石窟をテーマとした記録映画の音楽を依頼され、その撮影旅行に同行していたのである。松崎はプロキノ(日本プロレタリア映画同盟)出身の映画人で、その後、東宝を経て、当時は川喜多長政が設立した中華電影で制作部長をしていた。結局、映画企画そのものは頓挫してしまったようだが、雲崗石窟をじかに目の当たりにした体験が江文也の胸奥に激しい芸術的インスピレーションを巻き起こすことになったのは確かである。

 これより約一五〇〇年前の四六〇年頃、僧・曇曜が北魏の文成帝に上奏して雲崗石窟の造営が始まった。いわゆる三武一宗の法難の第一発目である北魏・太武帝による仏教弾圧がようやく終わったばかりで、仏教復興へ向けた情熱がこの一大事業に込められていた。ガンダーラ様式やグプタ様式の影響も色濃い造型からは、西域伝来の様々な文化要素を吸収し、昇華させながらこの巨大モニュメントが成立した歴史的背景がうかがえる。

 中国における雄大な風景と悠久な歴史とを具象化させた存在として雲崗石窟を見立て、そうしたイマジネーションから言語を絶した印象を受け止めた江文也は、その時の感動を『大同石佛頌』という詩集につづっている。

だが、石佛よ/自分は 単なる芸術の一求道者に過ぎず/汝を作つたひとびとの宗教とは/凡そ 縁もゆかりもない/一異教徒である/それでも/いま 自分は何か少し解つたやうな気がするのだ/それは/無限の可能状態である/表現である/有にして無の世界である/おゝ!/石佛よ/汝を通じて自分は感ずる/これはもはや芸術だけではない/これはもはや宗教だけではない/そのいづれであり/そのいづれでもない/もはや/これは芸術を越えて居り/遥かに越えて/そのいづれもが/ひとつの点に帰した極みであるのだ/寂であり/寥であり/すべて久遠なるものの/一切の原因となり得たものである/これは もはや彫られたものではない/彫刻工の手先きの遊戯でもなければ/快楽でもない/さらに 創造されたものでさへない/それは/生れるべくして生れたものだ/天がある如く/石佛もすでにそこにあつた/宇宙が微笑むやうに/石も微笑み出したまでである
(江文也『大同石佛頌』青梧堂、一九四二年、三七~四一頁)

 石仏は、彫刻家たちが刻み込んだいう点では確かに人為的な構成物に過ぎないのかもしれない。しかし、それらが膨大に集積され、そこに歴史の厚みを感じさせるようになったとき、一人ひとりの技巧は宇宙的広がりの中へと収斂される。人の手になる表現であっても、人智を超えた何かへと接続しうる可能性。雲崗石窟の壮大な仏像群を前にして、それこそ歴史を超越した美そのものへと憧れを羽ばたかせていく感動を胸中にたぎらせた江文也が、自らの音楽的表現をもまさにこうした永遠へとつなげていこうと気負っていたことが、この詩文から読み取れるだろう。

 雲崗の石仏群の雄大な光景から圧倒的な感動を受けた芸術家は他にもいる。例えば、「半島の舞姫」と謳われた、朝鮮半島出身の崔承喜である。彼女は華北に駐屯する日本軍の慰問のため、一九四二年に北京、天津などの都市を回って公演を行い、最後に大同まで行った。大同に近い雲崗石窟を訪れ、その時に感じたことを彼女は次のように記している。

 私はその(筆者注・公演の終わった)翌日○○(筆者注・原文伏せ字)部隊の方たちに案内され雲崗鎮までの一時間足らずの道をトラックで石仏参観に出かけました。
 東西半里にもわたると思われるカバ色の石崖の数十万体の巨大な彫刻の雄大なる群像を眺めた時に私は人間の創造力の如何に雄大であるかを、いまさらながら強く感じたのであります。
 私は欧米公演の節、ロダンの彫刻を始め欧米文化の残した芸術的遺産を見回り印象深いものがありましたが、この雲崗の石窟を見て、はるかに強い感銘に打たれたのであります。千五百年の昔、北魏時代。幾万人もの彫刻家がこの偉大な芸術作品の創造に心血を注ぎ、北魏の都には国中の佳人が集まり、彫刻の参考に供されたと伝えられているが、私はここの歴史は変わろうとも、芸術の限りなき生命を感じたのであり、幾十年もの間、その一生を唯この芸術創造の為に、こつこつと石を刻んだであろうところの、多くの名も伝えられていない芸術家をしのび、尊敬の念を禁じえなかったのであります。
 それと共に、今日の私たち芸術家が如何に『現実』のみの追求に追われていることか、如何にその仕事がその場限りの、生命の短いものであるかを嘆かざるを得ませんでした。
(崔承喜「興亡一千年の神秘」、金賛汀『炎は闇の彼方に──伝説の舞姫・崔承喜』日本放送出版協会、二〇〇二年、二〇二~二〇三頁)

 崔承喜にとって、日本軍の慰問に行くのは気が進まないことだったかもしれない。だが、あまたの有名無名の人々が孜々として築き上げてきた石仏群の歴史性という高みに立った視点を通して、彼女は不本意な戦争に巻き込まれている自分の惨めさを捉え返そうとした。戦争という「現実」に翻弄される小さな自分に拘泥するのではなく、そうした一切をひっくるめた悠久の「歴史」の中にこそ芸術を生み出していく生命力を見出したいという方向に発想を切り替えようとした。

 そうした努力が必ずしもうまくいくわけではない。しかしながら、植民地出身の自分が戦時下の異国で聖戦鼓舞をしなければならないという矛盾した立場を思ったとき、そのように考えなければこの「現実」を精神的に乗り切っていくのは難しかったのであろう。

 江文也と崔承喜との間に直接の交流があったかどうかは確認していない。ただ、雲崗石窟から永遠の何かへとつながる手ごたえを感じ取り、そうした超越的な視点から自らの表現を、そして自らの存在をも捉え返そうとした感受性では、二人に相通ずるところがあったように思われる。

 なお、伊福部昭も、旧満洲国・新京音楽院の招きで大陸に渡った際、雲崗ではないが熱河の寺院で目の当たりにした石窟から受けたインスピレーションをもとに「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」を作曲している(ただし、曲ができたのは戦後のこと)。リトミカ・オスティナータというのは執拗な反復律動という意味で、まさにミニマリズムの美学と言うべきだろう。石窟寺院で見かけた一つ一つの仏像は貧相なものだが、その大量に充満している様子に圧倒され、反復律動のイメージにつながったのだという。

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2013年8月 8日 (木)

中見真理『柳宗悦──「複合の美」の思想』

中見真理『柳宗悦──「複合の美」の思想』(岩波新書、2013年)

 柳宗悦のプロフィールについては今さら説明の必要もないかもしれない。『白樺』派の一人で宗教哲学の研究者として出発、独自の探求のうちに民芸運動へと乗り出し、帝国日本の枠組みにおいて周縁化された植民地、とりわけ朝鮮文化へ愛着を示したことでも知られている。

 彼の思想の特徴は、文化的多元性とお互いの敬意に基づく「複合の美」を求める姿勢にあったと言えるだろう。それは宗教的心情や美的感覚にとどまらず、社会観・世界観に至るまで彼の中で一貫している。著者の専門は国際関係思想史であるが、そうした「複合の美」に着目しながら柳の生涯と思想を描き出し、そこから非暴力的な平和主義を汲み取ろうとするところに本書の眼目が置かれている。

 明治以降の近代化の過程で西欧への模倣に努めてきた日本のあり方に柳は批判的であった。東洋と西洋、それぞれが自らの独自性を示して相互の敬意を図っていく必要がある。では、西洋ではない、日本に独自のものとは何か? このような問いそのものは近代日本思想史を通観すれば頻出するもので、特に珍しいわけではない。ただ、柳の場合に目を引くのは、日本文化の美なるものを探ろうとしても、見当たるのは中国や朝鮮の模倣ばかりという困惑である。そうした懊悩の末に彼が見出したのが木喰仏であり、民芸であった。日常生活の中で普通に用いる器具にこそ、民族の心がじかに表われる。無名の工人が無心に作り続けた工芸には日常生活に根ざした信仰心が込められていると考え、「信」と「美」の一致を見出そうとしたのが柳の直観であった。

 彼が「民芸」として「発見」した日本の民族文化に独特な美があるとすれば、日本以外の民族にもそれぞれの美があるはずである。日本の美が西欧文化の圧倒的な影響力で消えてしまわないように願うならば、同時に日本が植民地支配を行っている地域の文化も尊重しなければならない。そうした思いから柳は、沖縄、アイヌ、朝鮮、台湾など日本による同化政策の圧力にさらされている地域の文化の行く末に危機感を抱いていた。

 神の意志という表現を用いるかどうかは別として、この世に存在するあらゆるものにはそれぞれの意義がある。『相互扶助論』を著したクロポトキン、「一切のものの肯定」を説いたホイットマン、「一枝の花、一粒の砂」にも「底知れない不思議さ」を見出したウィリアム・ブレイク、こうした思想家たちから強い影響を受けた柳の発想の根底には、あらゆる存在が相互に協力し合う中で自らのテンペラメントを開花させていくという考え方があった。グローバリズムが地球上の多様な文化を単一の色に染め上げて画一化してしまうことであるとするならば、そのような無味乾燥さは柳にとって最も耐え難いことである。

 どんな民族も、どんな個人も、それぞれがかけがえのない有意味な存在としてこの世界が構成されているという確信が柳の「複合の美」の前提となっている。そうした着想は、例えばハンナ・アレントの次の指摘を想起させる。

「…世界は複数の観点(パースペクティヴズ)が存在するときに限って出現するのだ。つまり世界は、いついかなる時でも、こんな風にもあんな風にも見られる場合に限り、初めて世俗的事象の秩序として現れるということである。もしある民族や国民が、または世界におけるそれ独自の位置──その由来はともあれ、簡単には複製されえない位置──から発するユニークな世界観を持っているある特定の人間集団が、絶滅させられるなら、それは単に一つの民族なり国民なりが、あるいは一定数の個人が死滅するということではなく、むしろ私たちの「共通世界」の一部が破壊されるということであり、今まで現れていた世界の一側面が二度と再び現れえなくなるということなのである。それゆえ、絶滅は一つの世界の終わりというだけではなく、絶滅を行う側もまた道連れにされるということでもあるのだ。厳密に言えば、政治の目的は「人間」というよりも、人間と人間の間に生起して人間を越えて持続する「世界」なのである。…互いに何かしら個別的な関係を持ち合いながら世界に存在する民族の数が多ければ多いほど、それらの間に生起する世界の数もますます多くなるし、世界はますます大きく豊かになるだろう。ある国家の中に世界を──すべての人々に公平に見え隠れする同一の世界を──見るための観点の数が多くあればあるほど、その国家は世界に対してますます意義深く開かれたものになるだろう。他方で、万が一地球に大地殻変動が起きて、あとにはたった一つの国家しか残されなくなったとしたら、そしてその国家内の誰もがあらゆることを同一の観点から理解して、互いに完全に意見を一致させながら暮らすようになったとしたら、世界は、歴史的‐政治的意味では、終焉したことになるだろう。…掛け値なしの意味で、人間は世界が存在するところでしか生きてゆけないし、また世界は、掛け値なしの意味で、人類の複数性というものが、単一の種の単なる数的増加以上のものであるところでしか、存在しえないのである。」(ハンナ・アレント[ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳]『政治の約束』筑摩書房、2008年、206~207ページ)

 一時期、ポストコロニアルやカルチュラル・スタディーズの流行に伴い、一見良心的に見える言動ではあっても、その中に潜む“植民地的暴力”を暴き立てる研究が目立ったことがある。粗探し、とまでは言わないが、はじめに結論ありきの恣意的な欠席裁判は建設的な仕事とは思えなかった。柳宗悦もカルスタ的な研究動向で俎上にあげられていたが(本書、12~13ページ)、本書はそうした論調とは一線を画している。私自身は『民俗台湾』に集った人々に関心を持っているが、彼らに対しても同様に向けられたカルスタ的な批判への違和感はこちらに記した。

 なお、台湾で工芸運動を起こした画家の顔水龍は柳宗悦から影響を受けている。顔はもともと柳の著作を読んでいただけでなく、柳が1943年に来台し、『民俗台湾』同人の金関丈夫や立石鉄臣に連れられて台南へ来訪した折に顔が柳を案内してから個人的な関係も持ち、戦後になっても二人の交流は続いていた。

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2013年7月19日 (金)

【メモ】リチャード・C・ケーガン『台湾の政治家:李登輝とアジアのデモクラシー』

Richard C. Kagan, Taiwan's Statesman: Lee Teng-hui and Democracy in Asia, Naval Institute Press, 2007

・李登輝へのインタビューや関係者の証言も踏まえて書かれた伝記である。著者はアメリカ・ミネソタ州のHamline University名誉教授で、台湾大学留学中に彭明敏や殷海光などと知り合い、その後も民主化運動や人権問題に関わったため国民党から睨まれた経験を持つらしい。本書は羅福全(陳水扁政権の元駐日代表)たちから勧められて執筆したとのことで、当然ながら台湾独立派に同情する視点が顕著に見られる。アメリカは日本と同様、中国の「一つの中国」政策への配慮から台湾に対して冷淡であり、「李登輝は台湾海峡を緊張させるトラブルメーカーだ」と発言する国務省高官もいたが、そうしたアメリカの台湾政策には批判的である。

・伝記的な事実関係については日本語で出ている李登輝関係書の方が詳しい。ただ、視点の置き方の違うところに関心を持って読んだ。例えば、李登輝の思想的背景。彼は日本統治期の若い頃、岩波文庫など日本語の翻訳書を通して西洋世界の思想や知識を得たことを常々語っている。とりわけドイツの哲学や文学(ゲーテとニーチェがとりわけ好きだったようだ)、社会主義関係、あるいは自己超克を目指して禅やキリスト教など宗教関係へ目を向ける読書傾向はいわゆる旧制高校的な教養主義に特徴的である。こうした点で日本では彼の「親日」的な部分が強調されるが、本書ではむしろ、中国・台湾以外の広い世界へ目を向けることで「国際人」と自己規定するきっかけになった点が強調される。

・李登輝は1960年代にコーネル大学へ留学して農業経済学で博士号を取得する。当時のアメリカの大学では学生運動が活発で、学生たちが積極的に政治問題を議論している姿を目の当たりにしたことは、彼の民主主義観に影響した(彼自身は国民党のスパイを恐れて政治的発言には気をつけていたが)。また、コーネル大学は農業問題で行政機関へ具体的な助言を行うプログラムを実施しており、李登輝自身も自らの知識を実地に応用したいという希望を抱いたことは、後に国民党へ招かれた際に入党した理由の一つになっている。

・本書では李登輝の思想的特徴を禅とキリスト教の混淆として捉えている。迷ったときや挫けそうになったとき、神に祈って、自らの使命への確信を深める。また、言葉によって固定的に表現された概念の迷妄を打ち砕く思考習慣は禅の影響だと指摘される(東洋的神秘主義を「禅」の一言でまとめてしまうのは大雑把であるが)。そうした思考習慣から「一つの中国」をはじめとした国民党イデオロギーも相対化された。李登輝は多くを語らずにいきなり行動するので知人たちはみな驚き、総統に就任後、国民党内の熾烈な権力闘争を戦い抜いたが、無言のまま絶妙な間合いを掴むところは得意の剣道みたいだとたとえられる。

・李登輝はデモクラシーを、生成変化しつつある具体的な動きを実現させるシステムだという独特な捉え方をしているが、それも「禅」的だという。ただし、彼は東洋的な価値に偏重した捉え方をしようとしているのではなく、「アジアは西洋とは違った価値観がある」として儒教道徳を称揚したリー・クワンユーに対しては権威主義的抑圧を正当化するだけだと批判的である。むしろ、古い権威的な政治道徳を引きずったままの中国に向けて台湾はデモクラシーを発信していけると自負を抱いている。

・李登輝は「新台湾人」という表現を用いた。特定の族群によって打ち立てられたネイションではなく、様々な来歴の人々が避難してきたこの台湾という島で精神的紐帯を築き上げつつある「共生の共同体」。様々な人々が自らの潜在的可能性を自覚し、東西の様々な思想が交錯しつつ発展していく場として台湾を捉える発想には、西田哲学の「場所の論理」が影響しているという。

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2013年7月14日 (日)

駒村吉重『山靴の画文ヤ 辻まことのこと』

駒村吉重『山靴の画文ヤ 辻まことのこと』(山川出版社、2013年)

 私は必ずしも辻まことの文章やイラストを好んで読んだり見たりしてきたわけではない。ただ、話術も豊かで誰とでも気軽に付き合い、洒脱でスマートな雰囲気を彼は醸し出していた一方、どことなく暗さも感じさせるのはなぜだろう、そんな不思議な印象も漠然とながら感じていた。

 「彼は辻潤と伊藤野枝のあいだに生まれた。だが彼は自分で自分になったのだ。辻まことは辻まことの独創である」とまことの友人であった矢内原伊作は記している。血筋にからめてお手軽な批評を戒めるという意味では異論はない。だが、ことさらな決め台詞に「なんだか乱暴だなあ…」と著者は違和感をおぼえたというが、私も同感である。

 このブログのタイトル「ものろぎや・そりてえる」とは、まことの父・辻潤の文章から拝借しており、私自身、以前から辻潤という人物に関心を抱いていた。まことは父について語るのを嫌がっていた。ただ、残されたいくつかの回想を読む限り、辻潤のことを誰よりも深く理解していたのは、他ならぬまことだったと思う(以前にこちらで触れた)。逆に言えば、辻まことのことを考えるにしても、辻潤の思想──すなわち彼の人生そのものともまた切り離せない。本書を読みながら、改めてそう実感した。

 辻潤のあまりにも不器用な人生と比べると、まことのスマートさは一見したところ対極的である。ところが、著者がまことをじかに知る人々へ重ねたインタビューでこういう話があったのが目を引く。まことの社交性、言い換えると「世渡り上手」なところに若干の嫌悪感をもらしたところ、「ありゃ、子どものころに身についちゃった『居候』の智恵なんです…」と返ってきた。なるほどと思った。表面的には周囲へ適応しつつ、余人にはなかなかうかがい知れない孤独を抱えていたのも辻まことという人の一つの姿であった。彼の器用に見える社交性は、逆にそこには収まりきれない何かをうっすらと浮かび上がらせてくる。

 辻まことが記した次の一文は、辻潤という人物を見事に的確に表わしていると私は考えている。

「自分自身を生命の一個の材料として最も忠実に観察し、そこに起る運動をありのままに表現する作業、つまり、客体としての自己を透して存在の主観を記述したのが辻潤の作品なのだ。最も確実な個性を、個性的な忠実さで個性的に追求したために、ついに個性などというものを突抜け、人間をつきぬけ、生物一般にまでとどこうとしてしまった存在なのだということができるかも知れない。」(辻まこと「辻潤の作品」『辻まことセレクション2 芸術と人』平凡社ライブラリー、1999年)

 一人の人間が生きるというのは思えば大変なことで、誰一人として同じ人生を生きることはあり得ない。善悪是非の問題とは次元が異なり、一切の前例があり得ない中で、自分の人生をひたむきに生き抜くしかない。社会的な価値判断からすれば「だらしない」とマイナスのレッテルを貼られてしまうような人生であっても、それもまた自らに与えられた必然的な生であると自覚的に捉えなおす。その意味で、存在論的な懊悩をそのままのものとして自らの人生を全うしようとしたところに辻潤という一つの現象の不思議さがあった(そうした生き方を山本夏彦は愛おしさを込めて「ダメの人」と表現している)。辻まことはそうした父の苦しさをよく見ていた。

 辻潤は発狂した。精神病院まで身柄を引き受けに行った辻まことは難儀したことだろう。しかし、その時に父から次のように言葉をかけられたことに衝撃を受けたという。

 「──お互いに誠実に生きよう。
 異常に高揚した精神につきあって私も不眠が続いていて、こっちもすこしはオカシクなりかけていたのだが、この言葉とそのときの冷静な辻潤の面持ちのなかには一片の狂気のカケラもなかった。そして、この言葉は私の心に深く刺さりこんだ。
 直観的に、この言葉が、お互いの関係の誠実という意味ではないことを悟った。彼は私に「自分の人生を誠実に生きる勇気をもて」といっていたのだ。そして自分は「誠実に生きようとしているのだ」といっていたのだ。
 一寸まいったのである。」(辻まこと「父親と息子」同上)

 辻潤と辻まこと──もちろん、パーソナリティーは全く違うし、山と絵を愛したまことの描くものは父親の趣向とは異なる。ただ、まことは時折、「辻潤ならどんなふうに考えたろう」と自問していたという。社会的破綻者であった辻潤に具体的な行動指針を求めることなどできるわけがない。しかし、自分の人生を誠実に生き抜くということ、一般論のあり得ない難しさを引き受けて生きること──「自由」という概念にまとめてしまうとスカスカになりかねない苦しさに迷ったとき、まことは父・辻潤の存在を意識していた。少なくとも私はそのように考えている。

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2013年7月12日 (金)

清水真木『忘れられた哲学者──土田杏村と文化への問い』

清水真木『忘れられた哲学者──土田杏村と文化への問い』(中公新書、2013年)

 土田杏村という名前を知っているのは、①日本画家・土田麦僊の弟として記憶のある絵画史に詳しい人、②よほどの高齢者、③社会思想史や教育学史に関心がある人のいずれかだろうと本書は言うが、私の場合は③に該当して、ある程度の認知はしていた。佐渡へ行った折には土田の出身地の郷土資料館で彼にまつわる展示を見たこともある。ただし、どんな思想家だったのか、と改まって考えてみると、文化主義というキーワードは確かに思い浮かんだものの、茫漠として印象が薄い。

 社会と文化を表裏一体のものと考え、一人ひとりが個別の価値実現のため努力すべきという基本的な発想は、当時の教養主義的なコンテクストから考えると、別に珍しいものとは思わない。ただし、そうした彼の考え方の背景に、新カント主義やフッサールの現象学をはじめドイツ哲学を基にした周到な哲学的考察があったことを解き明かしていくところが、ドイツ哲学を専門としている著者ならではの着眼点である。

 主著『象徴の哲学』が読み解かれていくが、実はこの本、杏村の全集には収録されていない。編者となった友人の務台理作が杏村の思索にまったく無理解で、外されてしまったのだという。それは単に務台の凡庸というにとどまらず、杏村が示そうとしたパースペクティヴについての当時の一般的な無理解が反映されているのだろうという思いが「忘れられた哲学者」というタイトルに込められている。

 博覧強記のジャーナリスティックな文明評論家と思われていた彼は、時事的なものも含めて膨大な著作を残している。単に具体的な事例を集めていたのではなく、大きな哲学的な「物語」へと収束させていく。そうした意味で哲学的な視野を基本に据えつつ文明の姿を総体として捉えようととしていたところに杏村の志向性があった。

 そんな彼がなぜ忘れられてしまったのか、著者も少々考えあぐねているようだ。当時は大流行した新カント主義もハルトマンもシェストフも、現在ではほとんど忘れられていることを考えると、杏村一人が忘れられたからといってそんなに不思議なこととも思わないが、むしろなぜ彼があんなに読まれていたのか、そこを考えていく方が大正・昭和初期の時代思潮を考える上で色々な論点が出てきそうだ、などと思いながら本書を読み終えた。

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2013年6月29日 (土)

【メモ】林献堂のこと(3)光復、失望、客死

(承前)

 1945年8月15日、日本敗戦の報を受けて林献堂は「嗚呼! 五十年来以武力建致之江山、亦以武力失之也」と日記に記している。日本による植民地統治から解放され、長年の宿願である祖国への復帰がようやくにして叶うことになった。

 喜びに浸る間もなく、彼はただちに動き始める。台湾人有力者と連れ立って安藤利吉・台湾総督、諌山春樹・台湾軍参謀長たちを訪問し、治安問題など今後の対策を話し合い、中華民国による接収に向けた準備を進めていく。8月23日に左派の傾向が強い楊逵、李喬松の来訪を受けているのも興味深いが、軽挙妄動するなと忠告した。8月31日には中華民国側と折衝するため、許丙、辜振甫(辜顕栄の息子)たちと共に上海へ飛んだ。

 9月9日には南京で日本軍の受降式典が開催されることになっている。何應欽を経由して、林献堂、羅萬俥、林呈禄、陳炘、蔡培火、蘇維樑も参加せよ、という連絡を受けた。ところが、上海に来ていた台湾軍の諌山参謀長から「自分も式典には参加するが、他の人が来るとは聞いていない」と言われたため、式典へ行くのは見合わせる。翌日、何應欽と面会したとき、「なぜ式典に来なかったのか?」と問われ、諌山にまんまと騙されたことに気付いたという。

 台湾省行政長官の陳儀は10月24日に台北の松山空港に到着し、林献堂も他の台湾人有力者と共に出迎えた。翌日には台湾における受降式典が行われ、中華民国台湾省行政長官公署が正式に発足する。林献堂は国民党への入党を申請し、翌年には許可された。12月からは国語(中国語)の勉強を始めている。林献堂も含めて台湾の漢族の多くは閩南語や客家語を話し、普通話は分からないからである。彼は日本統治期には敢えて日本語を勉強しなかったことと比較すると態度の相違がはっきりしており、それほどまでに国民党政権を歓迎していた様子がうかがえる。1946年3月には台湾省参議員に選出された。

 台湾における新体制が発足したものの、課題は山積している。日本軍の大陸や南洋への展開に伴って徴発された台湾人が海南島、広東、上海などにそのまま放置され、帰れないばかりか、現地では差別的な待遇を受けて飢餓に瀕していた。そうした惨状を複数のルートから伝え聞いた林献堂は早速、行政長官公署の関係者に働きかけた。また、治安悪化と食糧不足も大きな問題であった。1946年3月14日、林献堂のおひざ元である霧峰で国民党軍の蔡継琨少将の命令により軍人たちが武器を携行して倉庫から米・粟を強奪するという事件まで起こっている。こうした事件が起こっても、台湾人には抵抗する術はなく、されるがままとするしかなかった。

 林献堂は積極的に陳儀の新体制を支えようと努力しが、行政長官公署にいくらかけあっても埒が明かない。そればかりか、台湾人有力者に「漢奸」容疑がかけられ身柄を拘束されるケースが相次いでいた。林献堂も狙われたが、国民党員である丘念台(父親は1895年の台湾民主国が壊滅した後に大陸へ逃れた丘逢甲)のとりなしで何とか逃れることができた。いずれにせよ、陳儀から煙たがられていることは明らかだった。何よりも、政策の失敗や官員の腐敗が目にあまる。双方の思惑の相違はあまりにも大きく、あからさまな態度は見せないものの、林献堂の心中では疑念が募り始めていた。

 1947年2月28日の午後、台湾省財政処の指導下で行われた彰化商業銀行創立の株主総会に林献堂も出席していた。この日、台北で勃発したいわゆる二・二八事件はたちまち台中地区にも及ぶ。外省人には危害が加えられるおそれがあったため、財政処長として出張していた厳家淦を林献堂は霧峰の自宅にかくまった。厳家淦は財政のテクノクラートとして蒋父子からの信任が厚く、後に副総統となり、蒋介石の死後は蒋経国にバトンタッチするまでのポイントリリーフとして総統にもなった人物である。二・二八事件では多くの台湾人有力者が殺害され、林献堂もブラックリストに載っていたと言われるが、厳家淦を助けたことは一つの「アリバイ」となった。

 台北へ向かった林献堂は、大陸から派遣されてきた白崇禧・国防部長をはじめ国民党有力者のもとを訪れて寛大な処置を説いて回った。やがて陳儀は更迭され、台湾省行政長官公署は解体、新たに台湾省主席として魏道明が赴任する。台北にいる政治関係者の間では陳儀の留任を望む声もあったが、林献堂は明らかに陳儀の失政が原因だと断じて反対した。人を非難することが滅多にない彼としては珍しい。浙江省主席に転じた陳儀は共産党と内通したとして逮捕され、処刑される。後に陳儀の処刑を知った林献堂は、林茂生、陳炘(この二人についてはこちらを参照のこと)をはじめ多くの有為な人材の命が奪われた痛恨を思い返し、当然のことだと日記に記している。

 林献堂は祖国・中国への復帰を熱望していた。しかし、理想と現実の落差はあまりにも大きかった。彼が求めていたのは聯省自治である。つまり、主権は中国にあっても、台湾を自ら選出した代表によって自ら統治する自治区とすることであった。それは、国民党の中央集権的な政治体制とは明らかに相容れない。結局、外来の政権によって抑え込まれてしまう点では日本統治期と何ら変わらず、そうした失望は彼の内心で国民党政権に対する反感を強めていくことになる。また、新たに台湾省主席となった陳誠が実施した「三七五減租」「耕者有其田」といった政策は地主層の経済力にとって大きな打撃となり、霧峰林家の影響力も低下した。

 林献堂は政治に関わっていく熱意を失った。1949年9月、彼は日本事情の視察や病気療養を名目として日本へ行く許可を得たが、そのまま滞在を延長し、結局、死ぬまで台湾へ戻ることはなかった。居留申請には日本、中華民国の他、GHQでも手続きをせねばならず、煩雑であったため、1951年には日本に永住申請を出した。申請上の名目を立てねばならなかったため、政治難民という身分になったのも皮肉なことである。

 失意のうちにあったとはいえ林献堂の存在感は大きく、彼のもとへ様々な人々の往来は絶えなかった。一方では、廖文毅をはじめ台湾独立運動の活動家たちが足しげく通い、彼を引き入れようとしていたが、ラディカルな方法を好まない彼はなかなか肯んじなかった。独立運動家たちがそれほど人数もいないのに派閥争いにかまけているのは馬鹿馬鹿しいとと思っていたのかもしれない。そもそも、林献堂は台湾独立を望んでいたのだろうか? 彼の温容な表情の裏にどのような思いが秘められていたのか、なかなか窺いしれないところもあるが、1952年2月、台湾人にとっての希望は何か?と問われた際、「フィリピンのように独立すること」と答えたという。

 他方で、彼は国民党との関係も壊してはおらず、国民党政権から蔡培火、丘念台、何應欽などの関係者もたびたび彼のもとを訪れ、台湾へ帰るよう説得を繰り返していた。林献堂が台湾独立派に傾いてしまうと国民党の台湾統治にとってマイナスになるという判断による政治工作で、背後では蒋経国が指揮を取っていたらしい。当時、蒋経国は反共統一戦線工作の対象に台湾独立派も含めていた。圧政に対する暗黙の抗議として台湾を離れて東京に引っ込んだ林献堂を、他ならぬ圧政を敷いている側が呼び戻し工作をしている点で、国民党政権と日本の台湾総督府とに共通する構図が見えてくる。

 言質を取られないよう政治的な話題は避けていた林献堂だが、1955年10月14日に蔡培火と会ったとき、「危邦不入、乱邦不居」と語った。危うい国へ入るわけにはいかず、乱れた国に居るつもりはない──『論語』泰伯篇第八にある言葉である。これを聞いた蔡培火は林献堂の真意を悟り、台湾への帰国を促すことをやめた。

 1952年以降、林献堂は杉並区久我山に居を構えていたが、1956年9月8日、老衰に肺炎を併発して死去する。76歳であった。遺体は台湾へ送られ、蔡培火や厳家淦たちに見守られながら葬儀が行われた。総統の蒋介石や副総統の陳誠からも葬儀にあたって一筆贈られている。

 林献堂は文化的アイデンティティーの面では漢民族としての自覚を死ぬまで維持していた。だからこそ、日本統治下にあっても日本語を敢えて学ばず、戦後は台湾の中華民国への帰属を歓迎していた。ただし、中国の台湾に対する主権は認めたものの、政治経済的地位については自治が望ましいと考えていた。日本統治下において台湾議会設置請願運動を展開し、国民党政権下に入った後も聯省自治を求めたように、台湾の自治という考えでは戦前・戦後を通して一貫していた。

 林献堂のリーダーシップを一言で表わすなら調整型と言えるだろう。例えば、留学生たちの議論を踏まえて六三法撤廃運動から台湾議会設置請願運動に転換した裁定にもうかがわれるように、自らの主張をトップダウンで押しつけるのではなく、ボトムアップの意見集約によって一つの方向へとまとめ上げていくやり方に特徴があった。また、このような調整型の政治手法は、台湾総督府や国民党の要人とパーソナルな信頼関係を取り結ぶことによって相手側の軟化を引き出すところにも表われている。彼の人格的な存在感があったからこそ、運動の急進化を抑え、総督府による弾圧の緩衝材となり、非暴力的な民族運動の持続を可能にしたと言える。

 逆に言うと、妥協の積み重ねは、急進派には物足りない。また、彼の人格的な声望を受け容れない相手には通用しない。階級闘争路線を標榜して台湾文化協会を乗っ取った左派からすれば、彼は打倒すべきブルジョワに過ぎなかった。日本人の超国家主義者からすれば、彼は皇民化に反対する逆賊であった。新たに台湾を接収した陳儀のような外省人からすれば、彼はただの漢奸であり、利権漁りの邪魔者に過ぎなかった。そうした「話の通じない」相手が出てきてしまうと、林献堂の持ち味である調整はうまくいかず、身を引くことで暗黙の抗議を示す以外に方法はなかった。そして、戦後の土地改革によって地主層の経済的・社会的威信が低下すると、彼の発言の重みはますます低下していくことになった。

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