カテゴリー「人物」の206件の記事

2020年5月28日 (木)

【七日間ブックカバー・チャレンジ:七日目】 中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』

【七日間ブックカバー・チャレンジ:七日目】
中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』
 
 十年前、初めて中国へ行った。当時は会社勤めをしていたが、五月の連休を利用した個人旅行で北京と天津を一人で歩き回った。歴史に関係する場所を巡るのが目的で、しっかり事前勉強もした。そうした中、知人から勧められて中薗英助の作品も読んだのだが、特に印象に残ったのが『夜よ シンバルをうち鳴らせ』であった。
 
 日本軍の占領下、いわゆる「淪陥時期」において、現地採用の新聞記者となった主人公が目撃した北京の光景。中薗の作品のうち『北京飯店旧館にて』『北京の貝殻』などは回想録的、私小説的な形を取るのに対して、『夜よ シンバルをうち鳴らせ』の方は著者自身の実体験をにじませつつ、謀略サスペンス的な筋立てを絡ませた小説に仕立て上げられている。
 
 左翼くずれの日本人や、いわゆる大陸浪人。抗日意識を胸に秘めた中国の知識青年と、逆に大東亜共栄圏のスローガンを叫ぶ中国人。日本軍の謀略に利用された東トルキスタン独立運動のウイグル人マームード・ムヒイテ将軍。魯迅夫人・許広平がひそかに北京へ戻っているという噂。消えた北京原人の標本の行方。大東亜文学者会議への出席をやんわりと拒絶した周作人(その説得のため文学報国会から派遣された九重由夫こと久米正雄や葉柴勇こと林房雄たちの鼻息の荒さが北京で顰蹙をかっていたことは別の本で読んだことがある)。京城日日新聞特派員として北京へ来ていた白哲(=白鉄、本名は白世哲)や金史良は朝鮮人としての思いを語る。民族的背景も様々で多彩な人物群像がうごめくスケールの大きさは圧巻で、読みながらこの作品世界の中へグイグイと引き込まれていった。
 
 占領者たる日本人と被占領者たる中国人。生身の人間同士として付き合った点では友情もあり得た一方で、必ずしも全面的な信頼までは置けないわだかまり。この微妙な関係は、抗日/親日といった単純なロジックで裁断できるものではなく、第三の道はあり得ないのか、そうした模索へと主人公を駆り立てていく。それは、他ならぬ中薗自身の青春期から一貫したテーマであったと言えよう。
 
 タイプは異なるが、占領者としての日本人の負い目意識をテーマにしている点では、日本植民統治下の京城文壇を舞台とした田中英光『酔いどれ船』を挙げることもできる。やはり大東亜文学者会議の準備に駆り出された青年文士(=田中自身)が目撃した、抗日と体制順応、陰謀と狂騒の混濁したファルスを、実在の人物をカリカチュアライズしながら描き出していた。『酔いどれ船』では主人公の内面的にウジウジしたところを暴露的に描く形で田中自身の青春の暗さが表現されていたという印象がある。これに対して、中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』の方は、政治意識の強さを明確に打ち出したことで、むしろ一種の清冽さすら感じられた。
 
 中薗は、漫然とした動機で中国大陸に渡った、と語っている。若き日々のアモルファスな情熱に明瞭な表現を与えるのはもちろん難しいことであろうが、一つには若者らしい冒険心燃えたぎるロマンティシズムがあったであろうことは容易に想像できる。それが異郷への憧れというプル要因になっていたとしたら、では、プッシュ要因は何だろうか。いわゆる「外地」には、日本の内地で居場所を失った左翼くずれやヤクザ者、あるいは一旗挙げようと考える手合いなど、様々なあぶれ者が流れ込んで来ており、彼らを許容するだけのいわゆる「植民地的自由」があった。中薗が家出した直接のきっかけは、将来の進路をめぐる父親との葛藤であったが、父親の権威への叛逆は私的なものであると同時に、戦時統制の強まりつつある時代、国家による束縛への反抗心もそこには重ね合わされていたと言えるだろう。日本国内における様々な束縛を厭う心情が、「外地」の持つ一種奇怪な「自由」へと引きつけられていったのかもしれない。
 
 ロマンティックな自由を求めた異郷。そこはまた、裸の自己を試される厳しい葛藤の世界でもあった。中薗は、裏切りや卑怯、傲慢といった人間の醜さをいやというほど見せつけられた一方、気持ちの通い合う友人たちとも出会った。とりわけ陸柏年や袁犀といった中国人の友人と知り合えたことは彼の北京体験の中で特筆される。
 
 しかし、「淪陥時期」の北京にあって、中薗自身は中国人側に親近感を寄せているつもりであっても、彼らの方からは「日本人=支配者」と見られてしまい、なかなか胸襟を開いてはくれない。「支配者」側にいるという立場性は、主観的な善意だけではどうにもならない。引け目の懊悩はさらに「原罪」意識へと深められていく。こうした矛盾への葛藤が、以後における中薗の文学活動の原点となっており、『彷徨のとき』『夜よ シンバルをうち鳴らせ』をはじめとした様々な作品で繰り返し表現されている。
 
 侵略した側、支配する者が、侵略された側、支配される者との間で友情を築くことができるのか。中薗はある本で、陸柏年から「きみは、人類という立場に立てますか?」と問いかけられたことを書き留めている。青くさい。しかし、こうした青くさい言葉が強烈な印象として中薗の脳裡に刻み込まれていたのは、それだけ深刻に矛盾した体験に身を引き裂かれるような思いをしていたからに他ならない。中薗は敢えてこの言葉を自らの問題として引き受け、終生のテーマとした。後年、アジア・アフリカ作家会議などで積極的な活動を行なったことも、こうした彼自身のテーマの延長線上にある。
 
 『夜よ シンバルをうち鳴らせ』を読んで私が関心を持っているのは次の二点である。第一に、日本軍占領下北京のカオティックな状況。当時、日本軍は「大東亜共栄圏」というスローガンを掲げていた以上、中華文化を尊重する態度を示さねばならず、また、統治の便法として傀儡政権を成立させていた。それらはもちろん建前上のものに過ぎなかったとはいえ、建前というのも結構バカにはならない。例えば、同時期の台湾や朝鮮では同化政策が推進されていたのと比べると、大陸の占領地では文化政策に関して別の方針が取られていた。傀儡政権には抗日派が紛れ込む余地もあり、当時の北京においては抵抗/協力という単純な二分法では割り切れないグレーゾーンが広がっていた。そこには、ある場合にはいわゆる「植民地的自由」があり、また別の局面においては、誰が敵で、誰が味方なのか分からない混沌とした人間模様があった。そうしたカオティックな状況が、ドラマの舞台として非常に印象的であった。
 
 上述のような「植民地的自由」は、日本統治下においてアイデンティティーの曖昧な台湾人を吸引する余地も大きかった。私は1930~40年代に中国へ渡った台湾人というテーマにも関心を持っているが、中薗が描き出した北京のカオティックな状況を後景として、その中で彼ら台湾人の動きをたどってみたいという気持ちがある。とりわけ台湾出身の音楽家・江文也については以前から調べているが、江はこうした北京の「植民地的自由」の中だからこそ、軍部の協力を得て中国をモチーフとした音楽作品を発表することができた。江の友人の画家・郭柏川は梅原龍三郎と共に紫禁城を描いた。抗日派の知識人、張深切、張我軍、洪炎秋などは、警察の監視が厳しい台湾から逃れて北京へ渡り、当時の北京は台湾と比べると、敵と味方とを分かつ線が曖昧だったため、監視がゆるいからこそ職を得ることができた。張深切、張我軍、洪炎秋たちは北京で周作人と交流があった。他にも、中国知識人が北京を脱出したため、かわって大学でポストを得た台湾人もいた。
 
 他方で、彼らには台湾人=日本国籍者という特権もあり、単純に抵抗/協力という枠組みでは捉えきれないグレーゾーンを意識しておかないと一面的な叙述に終わってしまう。いずれにせよ、中薗の作品では多様な民族的背景の人々が出てくるわりに台湾人は出てこないのだが、当時の北京にもやはり一定数の台湾人が来ていたし、彼らの動向について研究も増えてきている。
 
 第二に、支配する者と、支配される者との関係性。自分が主観的には相手に寄り添っているつもりであっても、相手はそのように受け止めてはくれない。自分の意志ではなくとも、支配者側にいるという立場性から逃れることの困難。これは、日本人として台湾研究をしている私自身にとっても、ずっと考え続けなければならない問題である。
 
 私はいわゆる「外地」がどうしても気になる。父方の祖父母はかつて台湾で教員をしており、特に祖母は「湾生」であった。母方の祖母は、その父(つまり私の曽祖父)が旧「満洲国」で事業をしていたことから(伊達順之助の友人だったと聞いた)、短期間ながら奉天にいたことがある。母方の祖父は一年間ほど朝鮮総督府に勤務した後、北京へ移って満鉄の子会社「華北交通」に測量技師として勤めていた。私は言うなれば、四重の意味で「侵略者」の孫ということになってしまうが、それはともかく、私が東アジア現代史に関心を持っている理由の少なくとも一つとして、祖父母の存在を通して東アジア現代史が身近なものに感じられているという点は挙げられる。
 
 上記の文章は、私が以前に書いた下記のエントリーをもとに、加筆しながらまとめた。
「中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』」 (2010年4月27日)
「神奈川近代文学館「中薗英助展─〈記録者〉の文学」」(2012年4月25日)
 
 私が持っているのは福武文庫版で、絶版である。いま手元にないので、書影は割愛する。

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2020年4月19日 (日)

石光真人編著『ある明治人の記録──会津人柴五郎の遺書』

  石光真清『城下の人』を読んだついでに、石光真人編著『ある明治人の記録──会津人柴五郎の遺書』(中公新書、1971年)にも目を通した。編者の石光真人は石光真清の息子で、東京日日新聞(毎日新聞)記者。石光真人は父真清の関係で往来のあった柴五郎から紙面にしたためられた回想録を託され、それを校訂・整理した上で刊行されたもの。
  熊本人の石光家と会津人の柴五郎との間にどのような関係があったかと言うと、石光真清の伯父にあたる野田豁通の家で柴五郎は書生をしていたことがある。戊辰戦争で敗れた会津藩士の一部は青森の斗南藩へ移されたが、柴が青森県庁に給仕として働いていたとき、知事として赴任してきた野田に認められ、その縁で東京へ出て、陸軍幼年学校、士官学校を卒業した。後に石光真清が野田を頼って東京へ出てきたときに、野田の指示で柴五郎の家へ預けられ、それ以来、石光真清と柴五郎とは親しい関係にあった。
  本書の第一部は柴五郎の回想録である。回想録と言っても、柴の全生涯にわたるものではなく、会津落城から苦節をなめた青少年期の記憶である。会津落城以来の薩長への反抗心は骨身にしみており、西郷隆盛・大久保利通が仆れたことに関しても心から喜んだと記している。第二部は編者・石光真人によって「柴五郎翁とその時代」と題して記された略伝である。
  柴五郎は第一に中国通であり、第二に台湾軍司令官を務めていたことがあるので(1919~21年)、台湾に関しても何がしかの記述があるのかと期待していたのだが、ほとんど何も言及されていなかった。台湾軍司令官に任命されたのも、中国通として買われたというより、閑職に回された側面が強いらしい。
  ただ、以下の記述があったので、これだけメモしておく。
「明治六年、皇城炎上。西郷隆盛等、征韓論に破れて参議を辞し、薩摩に帰り不穏なり。明治七年江藤新平の佐賀の乱あり。台湾蕃族討伐、日清談判等の事件ありて、第二次の騒乱近きを思わしむるものあり。山川大蔵、根津の邸を出て急ぎ九州に赴く。このころ台湾の蕃族の少女捕われて銀座に見せ物となり、余もこれを見物せり。」(108頁)
  おそらく、台湾出兵で捕らわれたパイワン族の少女なのであろう。詳細を知らないので、時間を見つけて調べてみたい。
  柴五郎については義和団事件の時の北京籠城でも有名だが、そちらに関しては柴五郎の講演録「北京籠城」が、服部宇之吉の手記「北京籠城日記」「北京籠城回顧録」と共に東洋文庫で刊行されている(大山梓編『北京籠城・北京籠城日記』平凡社・東洋文庫、1975年)。

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2018年2月22日 (木)

大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝──人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』

大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝──人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』(パブリブ、2018年)
 
 ピエ・ノワール(pied-noir)とは、直訳すれば「黒い足」という意味だが、北アフリカにいたヨーロッパ系住民を指す。アルジェリアがフランス植民地だった時期、彼らは自らを「アルジェリア人」と考えていたが、1962年にアルジェリアが独立すると、それはアルジェリア国籍保持者を意味するようになったため、「ピエ・ノワール」という呼称が定着していったという。ただし、本書「はじめに」で詳しく説明されているようにその意味合いは多義的で、本書では植民地アルジェリアのほか、フランス保護領だったモロッコやチュニジアも含め、フランス本土への引揚者と広義に捉えて、関連する人物111人のプロフィールを紹介している。
 
 意外な人物が結構含まれているのに驚いた。アルベール・カミュ、アルベール・メンミといったあたりは想定していたものの、思想家ではジャック・デリダ、ルイ・アルチュセール、ジャック・アタリ、政治家では元首相のドミニク・ドヴィルパン、左派のジャン=リュック・メランション、俳優のダニエル・オートゥイユ、ジャン・レノ、それからファッション・デザイナーのイヴ・サン=ローランの名前も見える。日本風景論で著名な地理学者オーギュスタン・ベルクの父親で人類学者のジャック・ベルクもピエ・ノワールだという。
 
 紹介される人物のプロフィールをみていくと、独立反対の強硬派と反植民地主義との相剋が垣間見え、それはフランス現代政治における右派と左派の対立にもつながってくる。コラムの形でアルジェリア独立戦争に関わる背景も解説されており、1961年10月17日事件のことは初めて知った。アルジェリアに残留した「緑の足」、フランス軍に協力した「ハルキ」といった事項にも興味がひかれる。
 
 私自身は一応、台湾史を専門としているが、「大日本帝国」崩壊における脱植民地化と引揚というテーマから、世界史的な比較検討を行うにあたり、本書はフランスとマグレブ世界との関係という事例を知る上で格好な手引きとなるので、ありがたい。例えば、「ピエ・ノワールという呼称が1962年から広く使用されるようになると、当初は蔑んだ呼び方だったにもかかわらず、本土に移住した者たちは自らをピエ・ノワールと呼ぶようになる」(本書17頁)という指摘は、かつて日本「内地人」が台湾生まれの日本人を半ば軽蔑的に「湾生」と呼んでいたものが、戦後になるといつしか台湾生まれの人々自身がある種のノスタルジーをもって「湾生」を自称するようになったことと重なる。
 
 台湾、朝鮮半島、旧「満洲国」など中国大陸から引き揚げた人々の戦後体験というテーマはまだまだ開拓される余地がある。例えば、朝鮮半島からの引揚者に関しては、朴裕河『引揚げ文学論序説──新たなポストコロニアルへ』(人文書院、2016年)が文学というジャンルに限定的ながらも様々な人物を挙げて検討を加えている。『ピエ・ノワール列伝』のように引揚者の網羅的な人物リストがあると便利だと思う。

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2018年2月15日 (木)

松村介石について

 ちょっと必要があって松村介石(1859-1937)について調べている。とりあえず、松村介石『信仰五十年』(道会事務所、1926年/伝記叢書213、大空社、1996年)と加藤正夫『宗教改革者・松村介石の思想──東西思想の融合を図る』(近代文芸社、1996年)を参照した。後者は前者を祖述している感じの内容。
 
 松村介石は1859年に明石藩士・松村如屏の次男として生まれた。幼少期から漢学に親しみ、父からは学問をするよう励まされていた。1875年、神戸に出て英学を修め、さらに1876年に上京。入学した玉藻学校が閉校したため、ヘボン塾に入る。彼は英学を学ぶのを目的としており、キリスト教を受け入れるつもりはなかったが、横浜で宣教師ジョン・バラの影響を受けて1876年にキリスト教に入信した。横浜バンド出身の初期キリスト者と言える。高等師範学校の入試に失敗した後、バラの勧めで小学校教師や聖書講義の英語通訳をしながら苦学した。築地大学の舎監として働きながら一致神学校に入るが、宣教師の態度に疑問を感じ、喧嘩して退学した。
 
 新聞記者になろうと考え、紹介を受けて大坂で島田三郎が経営する立憲新聞社を訪ねるが、関西のキリスト者から説得され、1882年に岡山県の高梁教会の牧師となった。1885年、組合協会の機関誌『福音新報』主筆として大阪へ出る。さらに、土居香国、伴直之助らと共に日刊紙『太平新報』を発刊するが、3か月で廃刊となった。1887年には浮田和民と交代する形で『基督教新聞』主筆となる。同年冬には押川方義の勧めにより山形英学校へ赴任した。この頃から特定の宗教には偏らない精神講話を始めている。さらに北越学館教頭として赴任するが、1891年の大晦日に辞職して東京へ来た。東京ではキリスト教青年会講師として講演活動を行うほか、1893年には戸川残花と共に雑誌『三籟』を創刊、1900年には雑誌『警世』を刊行した。
 
 松村介石は内村鑑三、植村正久と共に「三村」と並び称されるほど明治期キリスト教では注目されていた。彼の論説は人格的修養に重きを置く形で信仰を説き、キリスト教に限らず古今東西の偉人たちを取り上げて説教するところに特徴がある。例えば、彼はキリスト者にも意外と俗物が多いとした上で次のように記している。「ソコで之れは亦た怎したものであらうかと考へたが、之れは今日の基督者があまりに、保羅やルーテルの主張したる他力的信仰に重を置て、基督や、ヤコブの称へたる人格修養、即ち自力的方面に其力を用ゆることが尠いからであると、気が着いた。ソコで予は修養を云ふことを高唱して、爾来陽明学を基督教に入れて、大に神魂の鍛錬を奨励したものであった」(『信仰五十年』50頁)。こうした考え方から特定の宗教にはこだわらない精神講話を行い、それを基にした『立志之礎』(警醒社、1889年)や『阿伯拉罕・倫古龍(アブラハム・リンカーン)傳』(警醒社、1890年)といった書籍は当時としてはベストセラーになった。
 
 1907年には「日本教会」を設立する。当初は日本的キリスト教の枠内のつもりであったが、1912年に「道会」と改称してからはキリスト教とは一線を画すようになる。松村介石は自由基督教の集まりに出席したとき、「我等はすでに基督を孔子やソクラテスと同一のような聖人としている。それ故にわが教会では基督が居なくても存在することができるが、これでも矢張り基督教会といえるであろうか」と発言している。海老名弾正など出席者から、それはキリスト教会ではない、と異口同音に言われ、そのまま退席したという(『信仰五十年』188-189頁)。「道会」には四つの綱領があり、「一、信仰。二、修徳。三、愛隣。四、永生。信仰とは宇宙の神を信ずるを謂ふ。修徳とは、自己一身の修養を謂ふ。愛隣とは、人と国家の為に尽すを謂ふ。永生とは、人格の不死を謂ふ。」(『宗教改革者・松村介石の思想』)
 
 松村は1914-15年にかけてヨーロッパ・中国へ視察旅行に赴き、帰朝後は日本回帰が顕著になる。1916年に拝天堂を建立。若き日の大川周明も1910年に日本教会へ入会し、毎号のように機関誌『道』に寄稿して、「道会」で大きな存在感を示していた。松村は押川方義や大川周明の影響もあり、文化的亜細亜主義へと傾倒し、日本民族は東洋の指導者となって全世界に王道を布くべきと主張するようになった(『宗教改革者・松村介石の思想』205頁)。政治家とも関りを持ち、政治的に保守化していく。

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2018年2月14日 (水)

佐古忠彦『「米軍が恐れた不屈の男」──瀬長亀次郎の生涯』

佐古忠彦『「米軍が恐れた不屈の男」──瀬長亀次郎の生涯』(講談社、2018年)
 
 凄惨な沖縄戦では日本軍に不信感を持った沖縄県民は、戦後、アメリカ軍を当初は民主主義を体現する解放者として歓迎した。ところが、その植民者然とした抑圧的な態度に幻滅、女性が暴行されたり、土地の強制収容がごり押しされたりする中、沖縄県民の間ではアメリカ軍の欺瞞に対する反感が高まる。そうした県民が怨嗟する声の代弁者としてアメリカ軍に抗議する人物が注目を浴びた。瀬長亀次郎(1907-2001)である。
 
 瀬長亀次郎は貧しい家庭に生まれたが、医師を志望し、旧制七高に入った。ところが、在学中から社会問題に関心を寄せ、1928年、三・一五事件の余波で逮捕されてしまい、20日間の拘留で釈放されたものの、放校処分となった。1932年には丹那トンネルの工事現場で労働争議を指導したため治安維持法で逮捕され、まず横浜刑務所に投獄されたが、次に沖縄刑務所へ移送された。釈放後は特高に尾行される日々の中、まず蒔絵工として働いた後、沖縄朝日新聞記者に転じた。召集されて中国大陸へ出征したが、1940年に復員。戦中は家族を連れて戦火の沖縄を逃げまどう。
 
 戦後は沖縄人民党代表として琉球政府立法院議員に当選。ところが、アメリカ軍に対する抵抗姿勢が危険視され、強引に投獄されてしまった。1957年には「瀬長は共産党の手先」とネガティブ・キャンペーンを張られる中、那覇市長に当選する。アメリカ軍政当局およびそれと結託する保守派の策動には抗しきれず、市役所を追われることになったが、それでも後継指名した兼次佐一が沖縄市長に当選した。沖縄の日本復帰を前に1970年に実施された国政選挙で衆議院議員に当選。国会では沖縄の現状について佐藤栄作首相を追及する。佐藤の答弁は取り付く島もないものではあったが、ただ、瀬長への敬意はあったようだ。
 
 亀次郎は沖縄の日本復帰を当然視し、彼の言う「民族」とは琉球ではなく日本を指していたという。彼の抵抗活動は、日本民族のアメリカからの独立を求めていた。沖縄の日本復帰後、沖縄人民党は共産党に合流し、亀次郎も共産党所属の代議士として当選を重ねたが、彼自身は必ずしも共産主義者ではなかった。
 
 亀次郎が演説すると、飾らぬ言葉で人々の不満を代弁してくれるので、たちまちみんな集まって来た。ナショナルな抵抗意識をもとに民衆の声を吸収したという点では土着的ポピュリストと言えよう。他方で、彼が投獄されていた刑務所で刑吏に対する不満から暴動が起きたとき、所長から依頼された彼が受刑者の不満を団体交渉の方向へとまとめ上げた手腕からもうかがわれるように、吸収した不満を理性的な対話経路へ誘導するように心がけていた。理性的・理想主義的な姿勢を持つ土着型ポピュリストとして彼の存在は非常に興味深い。

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2014年10月12日 (日)

横手慎二『スターリン──「非道の独裁者」の実像』

横手慎二『スターリン──「非道の独裁者」の実像』(中公新書、2014年)

 歴史上の政治指導者を取り上げて評伝を描く難しさというのは単に政治イデオロギー上の制約に限らない。パーソナリティーについて史料不足の部分を補うため、例えば精神分析学の手法を用いるといったこともかつて流行ったが、実際には印象論に過ぎない議論に学問的な装いを凝らす程度に終わってしまうケースもしばしば見受けられた。とりわけスターリンのように“冷酷無情な独裁者”というイメージが定着している場合にはなおさらであろう。

 本書の特色は、ロシア革命前後から冷戦初期に至る政治的過程を一つ一つ確認しながら、それらとの相互影響の中でスターリンの考え方やパーソナリティーの変化を辿っているところにある。こうした描き方が可能なのは、ソ連という中央集権的な体制において指導者の決断が常に重要な意味を帯びたこと、指導者であり続けるためにスターリン自身が熾烈な権力闘争を勝ち抜いたこと、第二次世界大戦など国家的危機に際して強力な指導者が不可欠であったこと、こうした様々な背景が考えられるだろう。いずれにせよ、本書はスターリンを主軸に据えたソ連政治史として読むこともできる。

 ソ連崩壊後に利用可能となった新史料や、それらに基づいて進展した研究成果を本書は取り込み、従来貼られてきたレッテルとは異なるスターリン像を描き出している。例えば、青少年期の書簡を通して垣間見えるスターリンは、知的に多感でこそあれ、“冷酷非情”というステレオタイプとは明らかにかけ離れている。それだけに、革命運動へ身を投じて以降の厳しい政治闘争を通して彼が「学び取った」ことの大きさが印象付けられる。

 1920年代におけるソ連の政策論争では大まかに言って二つの方向性があり得た。第一に、農民を重視して彼らの資本蓄積を促し、それを基に外貨で機械を輸入して緩やかな工業化を進める路線。第二に、農業収穫物を低価格で徴発し、農民の犠牲で急速な工業化を推し進める路線。スターリンは当初、前者の路線を採り、一国社会主義の主張と共に党内の支持を得た。ところが、1920年代末、こうした路線がうまくいかなくなると後者に転換して農業集団化、経済五ヵ年計画を強引に推進する。無理な農業集団化は膨大な餓死者を出したが、他方でこの時の急進的工業化によってこそ第二次世界大戦に耐え抜く国力が備わったとされる。ただし、おびただしい人命を犠牲にした事実は無視できず、責任を糊塗しようとしたことが大粛清の要因となった。

 海外では悪評著しいスターリンだが、ロシア国内ではスターリン評価が真っ二つに割れている状況をどのように考えたらいいのか?と本書の冒頭で問題提起されている。すなわち、スターリンなしで第二次世界大戦を持ちこたえることができたのか? ならば、農業集団化や大粛清によるおびただしい犠牲を正当化できるのか? 歴史に対する倫理的評価の問題は解答がなかなか難しい。スターリン再評価のような議論に対して本書は抑制的である。ただし、スターリン批判=西側の価値観に合致したリベラル派/スターリン擁護=頑迷な保守派という単純な二分法が西側諸国では広くみられ、このような善悪二元論ではロシア国内が抱える葛藤を掴みきれないという指摘は少なくとも念頭に置いておく必要があろう。

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2014年9月20日 (土)

吉川凪『京城のダダ、東京のダダ──高漢容と仲間たち』

吉川凪『京城のダダ、東京のダダ──高漢容(コ・ハニョン)と仲間たち』(平凡社、2014年)

 1926年、東京。雑誌『虚無思想』を創刊したばかりの辻潤のもとを訪れた夜のことをアナキスト詩人・秋山清が「三国同盟」と題してつづっている。

 白く霧のかかった街中を千鳥足で歩いていた三人。ふと見つけた呑み屋に入ったところ、辻潤はお店の女の子にふざけて「俺は日本人のふりをしているだけで、本当は支那人なんだ」とうそぶき、秋山は朝鮮人にされてしまう。一緒にいた朝鮮人ダダイスト・高漢容は日本人として紹介されたが、そう言われても違和感がないほど彼の日本語は自然だった。辻はデタラメな中国語で奇妙な歌をうたう。高漢容から「朝鮮の歌をききたいよ」とせがまれた秋山は困ってしまって「日本暮らしが長くて忘れた」と逃げる一方、高漢容は日本語の歌を美しくうたい上げたという。屈託なく「民族」を交換してしまうのも一種のダダか。これは高漢容が旅立つ別れの日のこと。春の夜霧につつまれた悪ふざけは、哀愁を帯びたファンタジーのようにも見えてくる。

 あらゆる外的な理解を絶した地平で確かな皮膚感覚にフィットした何かを表現しようとしたダダ。本来的に事分けには馴染まないこのダダについて起源を問うのは思いっきりナンセンスな話かもしれないが、韓国文学史におけるダダは高漢容(ペンネーム、高ダダ)が雑誌『開闢』1924年9月号に「ダダイスム」を発表した時に始まり、26年末にはほぼ終わってしまったという。

 辻潤と高橋新吉は1924年に高漢容の招きで京城(ソウル)を訪問している。高漢容がダダを知ったのも彼らを通してである。「彼は一時期、辻、高橋、秋山といった日本のダダイスト、アナキストたちと同じ時代の空気と思想を共有する仲間であった。植民地時代に青少年期を過ごし、基礎的教養のかなりの部分を日本語書籍によって培った朝鮮の文学青年と、日本の文学青年との間にあった心理的距離感は、おそらく今のわれわれが想像するより、はるかに近い」(本書、11~12ページ)。もちろん、高漢容の日本語が流暢だったのは植民地支配という負の歴史的背景によるものだが、ダダという共通項を持っていた彼らは、民族的垣根を越えて語り合える関係になっていた。

 他方で、韓国ではダダへの関心が低かったこともあり、高漢容の存在はほぼ忘れ去られたに等しかったようだ。本書では「高漢容も含め、韓国のダダイストたちもまた、ダダの資質にはあまり恵まれない、「ムリしたダダ」であったように見える」(153ページ)とも指摘されている。「ムリしたダダ」という言い方は何となく納得できる。ダダの資質とは何か?と考え始めると袋小路に陥りそうだが、奇抜な表現を焦りすぎたり、権威への反抗という自意識が過剰だったりして不自然になってしまう自称ダダイストは結構いる(例えば、辻潤の評伝を書いた玉川信明を私は思い浮かべている)。いずれにせよ、ダダは韓国の文学的気質に合わなかったのかもしれない。

 本書は高漢容という忘れられた文学者を主人公に据えてダダをめぐる人物群像を描き出している。ダダという限定的な切り口ながらも、そこから日本と韓国の双方に関わる様々なエピソードが掘り起こされているのが興味深い。例えば、「半島の舞姫」こと崔承喜の兄・崔承一は作家であり、この崔承一と高漢容、辻潤にも接点があったことは初めて知った。辻は京城を訪問した折にデビュー前の崔承喜に会っていたらしい。また、雑誌『モダン日本』をヒットさせた馬海松、韓国で「近代農業の父」といわれる禹長春(閔妃暗殺事件に関与した禹善範の息子)などとも交流があったという。

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2013年12月25日 (水)

森常治『台湾の森於菟』

森常治『台湾の森於菟』(ミヤオビパブリッシング、2013年)

 森鷗外の長男・森於菟(1890~1967)は解剖学者。1936年に台北帝国大学で医学部が新設された折、当時、東京帝国大学医学部で助教授だった於菟は解剖学第一講座教授として赴任する。後に医学部長にも選ばれた。日本敗戦後も留用されて中華民国における新制台湾大学医学院で教鞭をとり、1947年に日本へ帰国。父・鷗外についてなど随筆でも知られている。

 著者は於菟の息子で、台北で育った。父から聞いた話や、台北帝国大学医学部出身者を中心とした同窓会組織・東寧会の会報誌に掲載された当事者の回想録が引用され、それを踏まえて描き出された於菟をめぐる人物群像が興味深い。於菟の専攻した解剖学は形質人類学とつながり、さらには広義の人類学・民族学への好奇心が触発される。父・鷗外の影響で文化的な関心も強く、こうしたあたりは同僚の解剖学者でやはり博物学的なディレッタント・金関丈夫ともウマが合ったようだ。

 植民地統治は支配者(日本人)と被支配者(台湾人)との構造的差別を否応なく生み出してしまい、さらには戦時色が強まるにつれて軍部は大学にもさかんに横車を押してくる。そうした難しい環境の中でもアカデミズムの中立性を保ちつつ、学問上の師弟もしくは同志として協力関係をとれるものだろうか? 森於菟をはじめとした日本人教官たちが学問・教育で示した真摯な熱意は、感情的にもつれやすい壁をしっかり乗り越えていた。それはもちろん、台湾人の学生たちも教官が求める能力水準を見事にクリアしていたからある。また、於菟が医学部長に推挙されたのは、陸軍軍医総監(中将相当)森林太郎の息子という「親の七光り」が陸軍の圧力に対して都合が良いと考えられていたふしがある。

 台北帝国大学医学部におけるこうした師弟の信頼関係は二つの点で文化史的な意義を持つ。第一に、森鷗外の遺品・資料が守られたこと。於菟は台湾へ赴任するにあたり、長男として父の遺品を守らなければいけないという思いからこれらを帯同した。その後、東京の家が火災・戦災に見舞われたことを考えると、台湾へ持ち出したのは賢明な選択であったと言える。ただし、戦後の混乱期、引き揚げにあたって無事に持ち帰れる保証はなかった。そもそも、台湾人にとって森鴎外などどうでもいい。於菟への個人的な信頼感があったからこそ遺品の保管・搬送に協力してくれたわけである。

 第二に、日本の植民地支配から中華民国へと体制が転換されるに際して大学の学知的資産をスムーズに引き継がせたこと。ここでは、唯一の台湾人教授であった杜聡明(新制台湾大学で初代医学院長)との協力関係が不可欠であった。植民地の大学という、異なる民族的背景を抱える学生たちが集まった特殊な環境において、アカデミックな協力関係がいかに成り立つのか。そうしたテーマを考える一つの参照例として、本書は単に台湾史というだけでなくより広いコンテクストでも有益であろう。

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2013年10月22日 (火)

与那原恵『首里城への坂道――鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』

与那原恵『首里城への坂道――鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(筑摩書房、2013年)

 昭和46年、沖縄返還を間近に控えた時期、35年ぶりに沖縄を訪れた鎌倉芳太郎の目に映った光景はどのようなものであったか。あまたの人命が失われた激戦で事実上の焦土と化した沖縄――米軍占領下にあって、その風景は一変していた。沖縄の文化に限りない愛着を抱いていた鎌倉は、変わり果てた姿を目の当たりにすると幻滅してしまうだろうと思い、沖縄行きには複雑な気持ちだったらしい。

 だが、目を背けてばかりはいられない。ひとたび失われた文化を何とか取り戻せないものか。彼はかつて収集して内地へ持ち帰っていた紅型の型紙を地元の博物館に寄贈し(彼は紅型をもとに独自の染織を行なって、人間国宝に認定されている)、さらに50年前、自ら撮影した乾板ガラスの存在を明らかにする。そこにはすでに焼失した首里城をはじめ、沖縄各地の風景や文化財、工芸品がしっかりと収められていた(なお、このガラス乾板はサントリーの支援でよみがえったという。日本でウイスキーを普及する上で、米軍占領下、洋酒に馴染んでいた沖縄市場に着目する思惑があったという背景が興味深い)。古老たちから聞き取った鎌倉のノートは、在りし日の琉球の姿を再現する上でまたとない資料であった。

 沖縄の文化が危機に瀕したのは戦争ばかりではない。1879年の琉球処分以降、明治政府によって「日本化」が推進され、1924年には琉球文化のシンボルとも言うべき首里城が取り壊されそうになった。その報に接した鎌倉は、琉球建築に関心を持つ東京帝国大学教授で建築学者の伊東忠太に働きかけて(伊東は元内相・平田東助の親族)、ギリギリのタイミングで首里城を救った。

 鎌倉は香川県の出身で、東京美術学校を卒業後、美術教師として沖縄に赴任、縁のできたこの地の文化の調査に情熱を傾ける。ある意味で外来者に過ぎない鎌倉だが、彼の熱心な奔走は沖縄の人々の気持ちを動かし、彼のフィールド調査に積極的な協力を得られるようになった。

 本書は、琉球芸術の研究に生涯を捧げた鎌倉芳太郎の軌跡を軸として、沖縄文化研究の歴史を描き出している。派生的な話題も含め、潤沢な情報量は勉強になる。テーマとして地味ではあるが、決して無味乾燥ではない。例えば、建築学者の伊東忠太、民俗学者の柳田國男や折口信夫、音楽学者の田辺尚雄といった近代日本アカデミズムのビッグネーム。伊波普猷、東恩納寛惇、末吉麦門東、外間守善といった沖縄学の大成者たち。そして、有名無名の協力者たち――背景も様々な人々との交流を通して、美しさに感動したり、あるいは時代の悲運に慨嘆したり、そうした息遣いの一つ一つがヴィヴィッドに浮き彫りにされている。沖縄にルーツを持ちつつも、東京で生まれ育ち、沖縄のことをよく知らなかったという著者自身の思いが、外来者ながらも沖縄に魅せられた鎌倉の情熱に共感をもって重ねあわされているからであろうか。

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2013年10月17日 (木)

【雑記】雲崗石窟の江文也と崔承喜

 一九四一年のある日、江文也が山西省大同にある雲崗石窟の上にたたずんでいる写真がある。彼は目の当たりにした雄大な光景に触発され、ものぐるおしい感動に胸を打ちふるわせていた。彼にとって石仏は単なる宗教的なモニュメントなのではない。茫漠と果てしなく広がる大地のただ中に屹立する山並みに穿たれた大仏群、そこから浮かび上がる歴史の年輪を見て取った彼の眼差しは、目前の石仏を超え、はるかかなたの悠久へとまっすぐに向けられている。

 一九三七年から始まった日中戦争で大同も含めて華北一帯は日本軍によって占領されており、一九四一年十二月には間もなく太平洋戦争が始まろうという時代状況である。そんな硝煙の臭いが立ち込めた時期に、台湾出身の江文也がなぜ雲崗にいたのか。

 一九三八年に二十八歳の若さで北京師範大学教授に招聘されていた彼は東京と北京の両方に自宅を構えていた。知人の映画プロデューサーである松崎啓次から雲崗石窟をテーマとした記録映画の音楽を依頼され、その撮影旅行に同行していたのである。松崎はプロキノ(日本プロレタリア映画同盟)出身の映画人で、その後、東宝を経て、当時は川喜多長政が設立した中華電影で制作部長をしていた。結局、映画企画そのものは頓挫してしまったようだが、雲崗石窟をじかに目の当たりにした体験が江文也の胸奥に激しい芸術的インスピレーションを巻き起こすことになったのは確かである。

 これより約一五〇〇年前の四六〇年頃、僧・曇曜が北魏の文成帝に上奏して雲崗石窟の造営が始まった。いわゆる三武一宗の法難の第一発目である北魏・太武帝による仏教弾圧がようやく終わったばかりで、仏教復興へ向けた情熱がこの一大事業に込められていた。ガンダーラ様式やグプタ様式の影響も色濃い造型からは、西域伝来の様々な文化要素を吸収し、昇華させながらこの巨大モニュメントが成立した歴史的背景がうかがえる。

 中国における雄大な風景と悠久な歴史とを具象化させた存在として雲崗石窟を見立て、そうしたイマジネーションから言語を絶した印象を受け止めた江文也は、その時の感動を『大同石佛頌』という詩集につづっている。

だが、石佛よ/自分は 単なる芸術の一求道者に過ぎず/汝を作つたひとびとの宗教とは/凡そ 縁もゆかりもない/一異教徒である/それでも/いま 自分は何か少し解つたやうな気がするのだ/それは/無限の可能状態である/表現である/有にして無の世界である/おゝ!/石佛よ/汝を通じて自分は感ずる/これはもはや芸術だけではない/これはもはや宗教だけではない/そのいづれであり/そのいづれでもない/もはや/これは芸術を越えて居り/遥かに越えて/そのいづれもが/ひとつの点に帰した極みであるのだ/寂であり/寥であり/すべて久遠なるものの/一切の原因となり得たものである/これは もはや彫られたものではない/彫刻工の手先きの遊戯でもなければ/快楽でもない/さらに 創造されたものでさへない/それは/生れるべくして生れたものだ/天がある如く/石佛もすでにそこにあつた/宇宙が微笑むやうに/石も微笑み出したまでである
(江文也『大同石佛頌』青梧堂、一九四二年、三七~四一頁)

 石仏は、彫刻家たちが刻み込んだいう点では確かに人為的な構成物に過ぎないのかもしれない。しかし、それらが膨大に集積され、そこに歴史の厚みを感じさせるようになったとき、一人ひとりの技巧は宇宙的広がりの中へと収斂される。人の手になる表現であっても、人智を超えた何かへと接続しうる可能性。雲崗石窟の壮大な仏像群を前にして、それこそ歴史を超越した美そのものへと憧れを羽ばたかせていく感動を胸中にたぎらせた江文也が、自らの音楽的表現をもまさにこうした永遠へとつなげていこうと気負っていたことが、この詩文から読み取れるだろう。

 雲崗の石仏群の雄大な光景から圧倒的な感動を受けた芸術家は他にもいる。例えば、「半島の舞姫」と謳われた、朝鮮半島出身の崔承喜である。彼女は華北に駐屯する日本軍の慰問のため、一九四二年に北京、天津などの都市を回って公演を行い、最後に大同まで行った。大同に近い雲崗石窟を訪れ、その時に感じたことを彼女は次のように記している。

 私はその(筆者注・公演の終わった)翌日○○(筆者注・原文伏せ字)部隊の方たちに案内され雲崗鎮までの一時間足らずの道をトラックで石仏参観に出かけました。
 東西半里にもわたると思われるカバ色の石崖の数十万体の巨大な彫刻の雄大なる群像を眺めた時に私は人間の創造力の如何に雄大であるかを、いまさらながら強く感じたのであります。
 私は欧米公演の節、ロダンの彫刻を始め欧米文化の残した芸術的遺産を見回り印象深いものがありましたが、この雲崗の石窟を見て、はるかに強い感銘に打たれたのであります。千五百年の昔、北魏時代。幾万人もの彫刻家がこの偉大な芸術作品の創造に心血を注ぎ、北魏の都には国中の佳人が集まり、彫刻の参考に供されたと伝えられているが、私はここの歴史は変わろうとも、芸術の限りなき生命を感じたのであり、幾十年もの間、その一生を唯この芸術創造の為に、こつこつと石を刻んだであろうところの、多くの名も伝えられていない芸術家をしのび、尊敬の念を禁じえなかったのであります。
 それと共に、今日の私たち芸術家が如何に『現実』のみの追求に追われていることか、如何にその仕事がその場限りの、生命の短いものであるかを嘆かざるを得ませんでした。
(崔承喜「興亡一千年の神秘」、金賛汀『炎は闇の彼方に──伝説の舞姫・崔承喜』日本放送出版協会、二〇〇二年、二〇二~二〇三頁)

 崔承喜にとって、日本軍の慰問に行くのは気が進まないことだったかもしれない。だが、あまたの有名無名の人々が孜々として築き上げてきた石仏群の歴史性という高みに立った視点を通して、彼女は不本意な戦争に巻き込まれている自分の惨めさを捉え返そうとした。戦争という「現実」に翻弄される小さな自分に拘泥するのではなく、そうした一切をひっくるめた悠久の「歴史」の中にこそ芸術を生み出していく生命力を見出したいという方向に発想を切り替えようとした。

 そうした努力が必ずしもうまくいくわけではない。しかしながら、植民地出身の自分が戦時下の異国で聖戦鼓舞をしなければならないという矛盾した立場を思ったとき、そのように考えなければこの「現実」を精神的に乗り切っていくのは難しかったのであろう。

 江文也と崔承喜との間に直接の交流があったかどうかは確認していない。ただ、雲崗石窟から永遠の何かへとつながる手ごたえを感じ取り、そうした超越的な視点から自らの表現を、そして自らの存在をも捉え返そうとした感受性では、二人に相通ずるところがあったように思われる。

 なお、伊福部昭も、旧満洲国・新京音楽院の招きで大陸に渡った際、雲崗ではないが熱河の寺院で目の当たりにした石窟から受けたインスピレーションをもとに「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」を作曲している(ただし、曲ができたのは戦後のこと)。リトミカ・オスティナータというのは執拗な反復律動という意味で、まさにミニマリズムの美学と言うべきだろう。石窟寺院で見かけた一つ一つの仏像は貧相なものだが、その大量に充満している様子に圧倒され、反復律動のイメージにつながったのだという。

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