カテゴリー「雑誌」の5件の記事

2009年5月 4日 (月)

『イラストレーション』No.177(2009年5月号)

 書店をふらついていたら、『イラストレーション』No.177(2009年5月号)の表紙が目についた。黒い色調をベースに、ぼやーっとした輪郭。酒井駒子さんの絵だ(→これ)。パラパラめくると「個人特集 酒井駒子 私と絵本と黒と」。買った。今回は前編で、後編は次号らしい。

 前にも書いたけど(→『酒井駒子 小さな世界』)、私は酒井さんの絵のファン。書店の新刊棚で彼女の装丁した本が目に入ると、(買うかどうかは別にして)必ず手に取る。人物やキャラクターを描く輪郭の線はやわらかく、ほのかな叙情を感じさせるんだけど、黒の色調が雰囲気をひきしめてあまったるさに流れない、その独特なところが何とも言えない。まとまった画集はないので、雑誌でこうした特集が組まれていたらこまめに買っている。

 インタビューでは、最初から黒をねらったわけではない、と語る。白をベースにすると黒の出方が汚くなったので、逆に黒をベースにしたらやりやすかったからという。黒を使い始めて、そうか、自分は黒が好きなんだなあ、と後から気付いたらしい。

 ついでに図書館に寄って、『くさはら』(福音館書店、2008年)、『ビロードのうさぎ』(ブロンズ新社、2007年)を借りて眺めた。

 もうひとつ、「嶽本野ばらが選んだ装画/挿絵50」も面白い(嶽本野ばらって確か大麻で逮捕されたはずだが、いつの間にか復活してる)。テニエルのアリス、中原淳一、高橋真琴、アルフォンス・ミュシャといったあたりはいかにも嶽本らしいと思いつつ、角川文庫・横溝正史シリーズの杉本一文、春陽堂・江戸川乱歩シリーズの多賀新といったあたりは私も気になる。写真で取り上げられている乱歩の『偉大なる夢』は戦時下に書かれた大いなる駄作(笑) それはともかく、胡散臭い感じがいいなあ。

 それから、山口晃も気になっている。今回載っているのはサラッとおとなしめの絵。あの緻密だけど微妙にキッチュな時代絵?みたいな大作はついつい見入ってしまう。

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2008年2月11日 (月)

最近読んだ雑誌から

 1月の台湾・立法院選挙(総選挙)では国民党が地すべり的な大勝を果した。民進党の陳水扁政権下での①経済失政、②政治腐敗に批判が集まり、それを挽回すべく③陳総統自身のイニシアティブで正名運動(具体的には、蒋介石にまつわる地名の抹消)と台湾独立意識の昂揚(具体的には、台湾名義での国連加盟を求める国民投票の実施)などによって本省人と外省人との対立意識を煽動しようという方針がかえって反発を買ってしまったこと、以上に原因が求められる。小選挙区制を導入したのも敗因の一つだが、これは他ならぬ民進党自身が国民党の内部分裂を誘発しようと画策した結果であり、返り討ちをくらってしまった形だ。

 香港誌『亜洲週刊』1月27日号は台湾総統選特集を組んでいる。3月の総統選についての世論調査では国民党の馬英九候補が圧倒的にリードしている。謝長廷候補を擁する民進党は、陣頭指揮を取っていた陳総統が総選挙大敗を受けて前面から退き、謝候補自身がすべてを取り仕切る態勢に組み替えた。童清峰「台湾総統選挙爆発力大決戦」によると、民進党にも必ずしも目がないわけでもないらしい。民進党の支持率は30~40%前後、これに台湾団結連盟など汎緑派(台湾独立派)を合わせると45%くらいはいくという。あと5%をにぎるのが第一に、李登輝。現在、李登輝と陳水扁の仲は悪く、台湾独立派の選挙協力に失敗したことも民進党敗北の一因となっている。謝は総選挙大敗直後に面会に行ったそうだ。一方、馬も李登輝を敬う姿勢を変えていないが、李自身は馬・謝のどちらを支持するか態度を明らかにしていない。第二に、中間派の票を取り込み必要がある。現在の台湾社会では穏健な台湾独立という考え方が主流となっており、少なくとも経済では大陸との関係を拡大すべきという趨勢にある。それを受けて謝は陳水扁が進めてきた強硬路線を完全に切り替えた。馬にしても中台統一派というイメージが固定化することで票が逃げることを警戒している。従って、謝・馬ともに“穏健台独”という世論の流れに如何に歩み寄るかがカギとなっている。そして、両陣営ともに軸足を中道に寄せていけば、それだけ台湾社会内での対立も弱まっていくとも考えられる。

 ちなみに、童清峰「謝長廷逆中求勝的伝奇」によると、謝長廷のあだ名は“九命怪猫”。民進党内での権力闘争に何度も敗れながらもそのたびに復活し、強い意志力で逆境を踏ん張ってきた経歴で知られているらしい。

 咼中校「一個大陸人看台湾選挙」は、『亜洲週刊』記者自身の選挙見聞記。国民党陣営のプレスルームで開票速報を見ていたら、王金平立法院長(国会議長)というVIPが気軽に入ってきて、「セキュリティーは大丈夫なのか?」と驚いているのが面白い。香港とは違って、台北の人々が候補者の人物像や政策について盛んに話し合っているのを見て、「中山先生(孫文)の説いた“政治即衆人之事”が台湾ではまさに実現している」と記す。本号の冒頭には香港での普通選挙をめぐる不透明な未来についての記事(「怎様普選VS何時普選」)があるだけに、言外の感慨がありそうだ。

 毛峰「華人作家与日本芥川奨邂逅」は、『ワンちゃん』で第138回芥川賞の最終選考まで残った中国人留学生楊逸さんへのインタビュー記事。

 “Foreign Affairs”2008 Jan/Febの特集は‘Changing China’。John L. Thornton‘Long Time Coming : The Prospects for Democracy in China’は長期的に見れば中国の政治過程の民主化は楽観できるという趣旨。G. John Ikenberry‘The Rise of China and the Future of the West : Can the Liberal System Survive?’は、台頭する大国は既存の国際秩序をひっくり返すか、そこに適合するかのどちらかだが、中国にとっては適合する路線が利益にかなうだろう。将来的にアメリカの覇権が相対的に低下することは避けられないが、現在の国際システムの中にアメリカ主導で中国を組み込んでいくことが必要、と主張。Stephanie Kleine-Ahlbrandt and Andrew Small‘China`s New Dictatorship Diplomacy : Is Beijing Parting with Pariahs?’。Pariahというのはつまり北朝鮮、ミャンマー、スーダンなどの“鼻つまみ”国家のこと。こうした“鼻つまみ者”が崩壊の危機にあるという認識を共有することで、ここ数年、米中が共同で対処するシーンがあったことを踏まえ、中国自身の価値観は変わらないにしても、国際問題で歩み寄れる可能性を指摘する。

 Michael McFaul and Kathryn Storner-Weiss‘The Myth of the Authoritarian Model : How Putin`s Crackdown Holds Russia Back’はデータを示しながらプーチン政権について開発独裁モデルで考えることを否定、権威的政権だから経済成長に成功したのではなく、権威的であるにも拘わらず成長したのだと指摘。Vali Nasr and Ray Takeyb‘The Cost of Containing Iran : Washington`s Misguided New Middle East Policy’はアメリカ政府のイラン封じ込め政策を批判、イランも地域的安全保障に組み込むべきだし、そうすればイラク情勢の安定化にもつながると主張する。

 『東京人』2008年2月号は「開通80年 地下鉄がつないだ東京風景」特集。昔のポスターについての記事を見ているとやはり杉浦非水が目を引く。東京の地下鉄の変遷や各路線ごとのエッセイ多数。詳しく書きたいところだけど、長くなってきたのでやめときます。

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2007年6月21日 (木)

『現代』七月号・『論座』七月号

 昨日に引き続き、最近読んだ雑誌から興味を持った論説をいくつか。まず、『現代』七月号

 ここのところ、日本現代史に関心を寄せる人々の間では富田メモを始め昭和天皇関連の新資料発掘で議論が熱くなっている。半藤一利・秦郁彦・保阪正康「昭和天皇の「怒り」をいかに鎮めるか」もやはり富田メモ、卜部日記を踏まえた鼎談。靖国神社へのA級戦犯合祀は、政府の意図というよりも、当時の旧厚生省援護局にいた旧軍人グループの政治的思惑が働いており、彼らの動きと靖国神社の松平永芳宮司の独特な歴史観とが結びついてこの騒動がややこしくなったという。松平の前任の宮司でA級戦犯合祀に慎重姿勢を取っていたという筑波藤麿という人物に興味を持った。

 合祀者の一人、東郷茂徳元外相の孫にあたる東郷和彦が、首相の靖国参拝一時停止を求める手記を発表して一部で話題となった。「「靖国問題」の思考停止を憂う」では、「国のために命を捧げた」人々の慰霊の問題について、国ではなく靖国神社という一宗教法人に委ねてしまっているねじれを指摘し、政教分離の原則論に戻って国民的なコンセンサスを得るべく議論を進める必要があると問題提起する。

 佐藤優が今号から「「名著」読み直し講座」の連載を開始。第一回は高橋和巳『我が心は石にあらず』を取り上げている。団塊世代の内在的論理を把握するためという趣旨だが、あまり関心をそそられず。なお、私は高橋和巳の作品では『邪宗門』に興味があるので、いずれ機会をみつけてこのブログで取り上げてみたい。

 次は、『論座』七月号。ここのところ、『論座』は筋の良い若手論客を積極的に起用しており、地味だけど良質な誌面構成をしているように思う。

 小林よしのりの発言を読むのは久しぶりだ。『戦争論』(幻冬舎、1998年)以来、妙なナショナリズムを随分とあおっているなあと違和感があったのでしばらく距離を置いていた。ところが、「わしが格差拡大に反対するワケ」を読んでみると、コミュニタリアニズム(彼はこういう言葉は使わないが)の立場ではっきりと筋を通しており、なかなかまともだなと感心した。雨宮処凛「ロストジェネレーションと『戦争論』」は、私自身と同世代の精神的軌跡としてリアルに共感できる。

 “保守”と“右翼”という言葉をゴチャゴチャにして杜撰な議論を展開する人をよく見かける。中島岳志「思想と物語を失った保守と右翼」では、歴史精神や妥協という智慧に基づくバランス感覚として“保守”、ネイションにおける一体性・平等性を求めるラディカリズムとして“右翼”を捉え、一定の見取り図に整理してくれる。

 不遇な労働環境に直面した若年世代に漂っている2ちゃんねる的なナショナリズムや、小泉支持の奇妙なねじれ(小泉改革は彼らにとって不利であるにも拘わらず)。彼らの抱える“怨念”を単純に断罪したところで無意味だろう。そうした中、萱野稔人「「承認格差」を生きる若者たち」の議論は非常に説得的に感じた。①フリーターなどの不安定な生き方をせざるを得ない彼らにとっては、経済的な問題ばかりでなく、仕事を通した承認が得られないという不満があること。②社会的な能力として“人あたりのよさ”という言語的・情動的コミュニケーション能力が重視されるようになり、不器用な人間は生きづらいという状況(本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版、2005年)でもこの論点は指摘されていた)という議論を踏まえ、こうした承認格差を直截的に解消する経路をナショナリズムに求める傾向があると指摘する。ただし、ナショナリズムを単純に否定して終わるのではなく、アイデンティティ不全を切り口として捉えなおす視点があって興味深い。

 高原基彰「「自由」と「不安」のジレンマ」では、同様に若年層の“怨念”について、組織に束縛されずに個人の力で競争する生き方としての“自由”、組織に属しつつ年功的な昇給を当てにする生き方としての“安定”という二つのキーワードを軸に議論を進め、前者の虚偽性に対する苛立ち、後者への志向を読み取る。

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2007年6月20日 (水)

『中央公論』七月号

 昼休みに書店へ行ったら『中央公論』七月号を見かけた。今日は仕事ものんびりしていたのでざっと目を通した。

 社会格差論が急に盛り上がってきたのはほんの1、2年のことだ。新聞や国会論戦で取り上げられるようになって、今ではこの言葉を見かけない日がないくらいに人口に膾炙している。私は以前からこのテーマに関心を持っていたのだが、最近の流行ぶりにはちょっと戸惑っている。私は、“格差”は決して一過性のものではなく、良いか悪いかという価値判断の問題はとりあえずペンディングした上で、どんな場所でもどんな時代でもあり得ることと考えている。もちろん、そこで話を終わらせるわけにはいかない。それでは、そもそも“公正”とは一体何だろうか、みんなの納得できる社会システムとは一体どんなものなのか、という決して結論の出せないテーマを考え続けるきっかけとして関心を寄せていた。ところが、今の風潮としては、たとえば民主党の政策にも顕著なように、政府批判のための便法として何でもかんでも“格差”に結びつける傾向がある。あまりにお手軽にこの言葉を使いすぎるので、かえって問題の焦点がぼやけてしまう。同様の違和感を、『不平等社会日本』(中公新書、2000年)でこの議論の火付け役の一人となった佐藤俊樹がもらしている(「「格差」vs.「不平等」」)。

 「インテリジェンスという戦争」という特集が組まれていた。中西輝政はイギリスのインテリジェンス活動の歴史を簡潔にまとめた上で、力に抑制的でない国は情報活動に弱いと指摘する。日露戦争に至る明治日本と昭和の帝国日本との対比を見るとうなずける。また、機密情報の厳守と情報公開とがぶつかりあうことは最近の傾向として避けられないが、このせめぎあいをプラス・マイナスで考えるのではなく、議会からの情報機関への監視を強めることでむしろ与野党を問わず情報の扱いに習熟させるきっかけとなるはず、そこはイギリスの経験から学ぶべきという指摘が興味深い(「大英帝国、情報立国の近代史──民主主義国のインテリジェンス・リテラシーとは」)。元内閣情報調査室長で対外情報庁の設立を主張している大森義夫は、最近の情報問題がらみの不祥事を踏まえながら、幹部の情報管理責任やセキュリティ・クリアランスの問題を論ずる(「せめて、機密を守れる国になれ」)。佐藤優・手嶋龍一対談では、むしろ対外情報庁構想については生半可なことではできないとして懐疑的。当面は、公開情報を読み解く人材育成から始めるべきだと提言する(「情報機関を「権力の罠」から遠ざけよ」)。勝股秀通は情報軽視という自衛隊の組織文化を具体的に指摘する(「なぜイージス艦情報は漏れたのか 自衛隊──欠陥の組織文化」)。

 昨年、日本経済新聞が富田朝彦元宮内庁長官のメモをスクープしたのに続き、今年に入って『昭和天皇最後の側近 卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞社)も刊行された。これらの資料には靖国神社にA級戦犯が祀られたことに昭和天皇が不快感を示していたという記述があり、様々な議論を呼び起こした。「昭和天皇が守ろうとした歴史と宮中」で対談する保阪正康御厨貴は、昭和天皇のこうした気持ちは『徳川義寛終戦日記』(朝日新聞社、1999年)ですでに明らかとなっており、今回の二つの資料を通して明確になったという立場を取る。天皇制をめぐっては様々な問題があったが、それが育んできた知恵の良質な部分は、日本社会の約束事として通じるもので、これを一連の資料から読み取ることも必要という保阪の指摘に興味を持った。昭和天皇という人自身は基本的にリベラルで穏健な思考の持ち主だったという印象を私は持っている。様々な政治的バイアスから議論が複雑を極めているが、彼自身の内在的論理と戦前・戦後政治との関わりをバランスよくまとめた本がありそうで、意外とない。こうした資料の誠実な読み解きを通じた研究の進展を期待したい。

 浅羽通明「右翼と左翼を問い直す30冊」には意外なラインナップも含まれていて、その独特な切り口が面白い。

 ロバート・D・エルドリッヂ「不在の大国・日本──なぜ戦後の国際政治史に登場しないのか」では、その理由として①日本の指導者が回顧録や日記をあまり残していない、②指導者の伝記等の資料が英訳されていない、という二点を挙げる。そのため、海外での国際関係史研究で日本関連の領域が空白となり、存在感なしというイメージが定着してしまった。アメリカの大統領図書館のように歴代首相の記念図書館を整備し、海外の研究者でも資料にアクセスしやすくなるよう便宜を図るべきと指摘する。意外と盲点だったなと素直に納得した。

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2007年1月29日 (月)

最近読んだ雑誌から

 最近読んだ雑誌から興味を持った記事をいくつかご紹介。まずは『文藝春秋』二月号から、梯久美子「栗林中将 衝撃の最期──ノイローゼ、部下による斬殺説の真相」。硫黄島の激戦で栗林忠道がどのような最期を遂げたのかはよく分かっていない。クリント・イーストウッド監督「硫黄島からの手紙」では重傷を負った末に拳銃で自決を遂げており、これは防衛庁の編んだ『戦史叢書』にそったオーソドックスな描き方らしい。ところが、ショッキングな異説が現れた。栗林は重度のノイローゼ状態にあり、米軍に投降しようとして部下に殺された、というのだ。梯はこの異説の背景を調べ、投降説はあり得ないとの結論に達する。その過程でほの見える、戦前と戦後とでの戦争観・死生観の微妙なズレが興味深い。

 塩野七生・佐藤優・池内恵「ローマ滅亡に学ぶ国家の資格」は、塩野七生『ローマ人の物語』の完結を受けて、それぞれに独特なスタンスを持つ論者三人による鼎談。塩野は感想を聞かせて欲しいという受身の姿勢で、話題が深まらない。ようやく佐藤が『愚管抄』『神皇正統記』を、池内がイブン・ハルドゥーン『歴史序説』を取り上げてそれぞれ歴史観について話題を提起し、いよいよ話が盛り上がるぞ、というところで鼎談終了。あー、もったいない…。

 保阪正康「私が会った「昭和史の証人」秘録」。私は保阪による昭和史掘り起こしの仕事には深く敬意を抱いている。他人事のような理屈で断罪する凝り固まった思考枠組みを崩してくれるだけでなく、生身の声が持つ切実な響きには、時代を超えて人間の抱える葛藤そのものがにじみ出ており、心ゆさぶられる。今回の記事ではとりわけ、死なう団事件で特高のスパイであった老人の自殺に瞑目した。長い年月、秘密を一人抱えて生きてきた孤独。それを告白できて胸のつかえが降りた、と死ぬ前に話していたそうだ。善悪是非で個々の人間を類型化してしまうのではなく、一人ひとりがその立場の中で何を思っていたのか、そこを誠実に引き出そうとする姿勢には頭が下る。

 次は、『論座』2月号から。まずは内田樹「「これを勉強することが何の役に立つんですか」に絶句する私」。昨今の風潮として、市場原理的なマインドが教育現場にまで浸透している。これに影響されて子供たちまでもが、「有用」「無用」を安易にカテゴリー分けしてしまい、あとは“費用対効果”の論理にのせられると本気で思い込んでいる。高校の世界史未履修の問題はそうした発想の表れである。ところが、「何の役に立つのか?」という判断基準そのものを養うためにこそ、子供たちは学校に通って基礎知識を習得しなければならないのだ。市場効率が社会を成り立たせる有効なシステムの一つなのは確かだろう。しかし、市場原理の際限なき徹底が、かえって市場も含めた社会全体の基礎を掘り崩してしまうという皮肉がここに見えている。

 先般公開された「ダーウィンの悪夢」についてはこのブログでも紹介した。勝俣誠「ドキュメンタリー映画『ダーウィンの悪夢』は、「北」の私たちを不安にさせる」は、このドキュメンタリーの政治経済的背景を南北問題の枠組みから解説してくれる。アフリカの問題は新聞記事での扱いも小さく、なかなか目にとまらない。資源輸出型経済の破綻、企業歓迎国家への変質によりますます「北」の経済に従属せざるを得なくなる矛盾などが指摘される。

 坂下雅一「「憎しみの連鎖」から解き放たれるために──紛争地メディアの支援」は、インドネシアのマルク諸島、ルワンダ、旧ユーゴなどの具体例を取り上げながら、紛争地におけるメディアが“敵意の扇動”に加担してしまう問題を指摘し、その解決策を模索している。

 『水からの伝言』という写真集の存在を私は寡聞にして知らなかった。これによると、たとえば「ありがとう」という言葉を見せた水は、冷凍すると雪花状に美しく結晶化し、「ばかやろう」という言葉を見せた水は雪花状にならないという。つまり、“良い”言葉は美しい結晶をつくり、“悪い”言葉は醜く崩れると言いたいらしい。もちろん、擬似科学本だ。こんなうさんくさい本が教育現場の一部で使われているというのだから驚いた。菊池誠「『水からの伝言』が教えてくれないもの」は、こうしたニセ科学の発想から、人間の心の問題を“物質”や“自然”などの“客観的な事実”に求めようとするいびつな精神構造を抉り出している。同様の観点から、田崎晴明「科学の心、科学的思考、そして科学者の姿勢とは」は科学者の持つ研究姿勢について、左巻健男「お手軽化が蔓延する教育現場の怪」はTOSS(教育技術法則化運動)なる教育団体の危うさを指摘してる。

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