カテゴリー「ノンフィクション・ドキュメンタリー」の143件の記事

2019年2月 4日 (月)

武田徹『日本ノンフィクション史──ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』

武田徹『日本ノンフィクション史──ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』(中公新書、2017年)
 
 台湾に住み始めてから思ったのだが、台湾の書店では社会派ノンフィクション的な本が比較的少ない。あったとしても、大半は日本や欧米の作品の翻訳だったりする。そうしたことを台湾人の知人に話そうとしたとき、この「ノンフィクション」を中国語でどう言ったらいいのか、困惑してしまったことがある。ジャンルとしては「報導文學」というのがあり、これはルポルタージュの中国語訳だが、ただ、「文学」となっているので、社会科学的傾向の強いものは含まれないだろう。そもそも、日本語で言う「ノンフィクション」というのもかなり曖昧な概念であり、よく分からない。そうした問題関心から本書を手に取った。
 
 ルポルタージュという場合には、アンドレ・ジイド『ソビエト旅行記』が一つの画期となるようだから、中国語でルポルタージュを「報導文學」とされるのもうなずける。「ノン・フィクション」(非フィクション。以前は「・」をつけて、非の意味が強調されていたらしい)は、英語圏で小説=フィクションとは異なる様々なジャンルの総称として使われていたが、日本ではまた独自な展開を遂げた。
 
 本書は物語分析論を応用しているところに特徴があり、書き手が一人称として登場するか、書き手が俯瞰する形で三人称を用いて語られるかという違いに注目している。ジャーナリズムとして客観報道を心掛けるなら三人称が望ましいだろうが、ただし、ノンフィクションには読み物としての側面もあり、物語をなめらかに構築しようとすると脚色が行われ、場合によっては事実に基づかない挿話が混ざり込んでしまう。一人称で語る世界なら、登場人物それぞれの視点の相違が明確にはなるが、語り手自身が意図的な振る舞いを取ることで物語的作為も生じやすい。事実の叙述と物語性との相剋はノンフィクションの宿命でもあり、そもそも学術文献とは違ってノンフィクション作品には注は付けられない。事実性の担保という点では、本書で沢木耕太郎の発言が引用されているように、「事実に殉じようという意識」(215頁)という語り手の倫理性にかかってくる。
 
 日本のノンフィクションにおいて大宅壮一の存在感が大きいが、集団分業体制(データマンとアンカーマン)のアイデアを出したのも、もともとは大宅だったという。週刊誌が重要な発表媒体になっていた点に、日本におけるノンフィクションに特有な要因の一つがある。新聞社系週刊誌なら記者が動員できるが、出版社系ではそうもいかない。そこで、大宅壮一の弟子筋にあたる草柳大蔵が集団分業体制を持ち込んだという。大宅の弟子筋で言うと、もともと作家志望であった梶山季之が書き手自身を前面に出そうとする一人称的な文体を、対して草柳大蔵がデータ・ジャーナリズムとして三人称的な文体へ向かったという対比が興味深い。
 
 本書では他に映像によるドキュメンタリーの問題やニュージャーナリズムの登場以降の動向も論じた後、最終章では物語化の過程で失われた科学性や細部を取り戻すという点で「アカデミック・ジャーナリズム」に期待を寄せる。また、大宅壮一文庫の検索システムと人類学で活用されているHRAF(Human Relation Area Files)との類似にも注意を喚起している。こうしたあたりから、事実と物語とのゆらぎにノンフィクションを捉えつつ、その上で事実性へこだわっている姿勢がうかがわれる。
 
 私としては二つの点からノンフィクションに関心がある。第一に、私自身は台湾史を調べているが、叙述方法としては学術論文としてよりも、ノンフィクション的な志向性があること。第二に、台湾で発表されたノンフィクション作品を振り返ってみるときに、そのカテゴリー分けや叙述方法を考える上で本書は参照軸となり得る。

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2019年2月 2日 (土)

髙橋大輔『漂流の島──江戸時代の鳥島漂流民たちを追う』

髙橋大輔『漂流の島──江戸時代の鳥島漂流民たちを追う』(草思社、2016年)
 
 太平洋の孤島、鳥島。江戸時代、記録で判明している限りでは、6グループの漂流民が鳥島でサバイバル生活をくぐり抜け、生還した。その中には1841年に漂着し、アメリカ捕鯨船に救助されたジョン万次郎も含まれている。生還できなかった人々はひょっとしたらもっと多数に上るのかもしれない。彼らの漂流譚はやはり好奇心がそそられるのだろう、例えば井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』、織田作之助『漂流』、吉村昭『漂流』などの作品でも描かれている。
 
 著者はロビンソン・クルーソーのモデルとなったスコットランド人アレクサンダー・セルカークが漂流した南米チリの孤島へ行き、その住居跡を探し当てたことがある。その著者は次に鳥島を調査対象に選んだ。明治以降、アホウドリ捕獲のため、あるいは気象観測のため鳥島へ移住した人々もいたが、火山噴火の危険があり、またアホウドリ保護の名目から、現在ではアホウドリ調査や火山調査の専門家が時折滞在するのみで、渡航には管轄する東京都の許可が必要である。著者は文献を読み漁り、鳥島滞在経験者の話を聞き歩いて予備調査をしている中、山階鳥類研究所の作業に同行する形で2010年に鳥島へ渡ることができた。
 
 六日間ほどの鳥島滞在で洞窟などを見て回り、かなりの手ごたえを著者は得た。さらなる調査を期して次の計画を立てるが、東京都側から許可を得ることができず、二回目の調査は結局、不可能になってしまう。それでも、実地に島を見た体験をもとに、文献記録や滞在経験者の話を繋ぎ合わせ、江戸時代の漂流民の過酷なサバイバル生活を想像していくところは、推理小説を読むようにスリリングだ。調査計画は中途半端な形になってしまったにせよ、探検というのも一つの事業計画であり、企画を立ち上げ、協力者を探し、手がかりを求めて粘り強く試行錯誤するプロセスそのものに読み応えがある。

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2018年2月20日 (火)

チャイナ・ミエヴィル『オクトーバー──物語ロシア革命』

チャイナ・ミエヴィル(松本剛史訳)『オクトーバー──物語ロシア革命』(筑摩書房、2017年)
 
 1917年のロシア革命は、実に様々な人物がそれぞれの政治的思惑をもってせめぎ合い、また合従連衡を繰り返し、群像劇としてこの上なく魅力的な舞台と役者を用意してくれた。本書はそれを見事に活用して面白い政治劇を活写している。
 ニコライ二世の無気力、ケレンスキーの戸惑い、そして転変していく状況にのっかっていくレーニン。登場人物は彼らに限らず、次々と現れては消えていくし、二月革命から十月革命にいたる出来事を網羅的に拾い上げながらも、冗漫に流れることなく、一気呵成に読み終えた。分析的に整理することなく、時系列にそって語られるから、その後のことを予期できない登場人物の驚き、戸惑い、判断ミスが、その都度ありありと浮かび上がってくるところが面白い。

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2018年2月14日 (水)

佐古忠彦『「米軍が恐れた不屈の男」──瀬長亀次郎の生涯』

佐古忠彦『「米軍が恐れた不屈の男」──瀬長亀次郎の生涯』(講談社、2018年)
 
 凄惨な沖縄戦では日本軍に不信感を持った沖縄県民は、戦後、アメリカ軍を当初は民主主義を体現する解放者として歓迎した。ところが、その植民者然とした抑圧的な態度に幻滅、女性が暴行されたり、土地の強制収容がごり押しされたりする中、沖縄県民の間ではアメリカ軍の欺瞞に対する反感が高まる。そうした県民が怨嗟する声の代弁者としてアメリカ軍に抗議する人物が注目を浴びた。瀬長亀次郎(1907-2001)である。
 
 瀬長亀次郎は貧しい家庭に生まれたが、医師を志望し、旧制七高に入った。ところが、在学中から社会問題に関心を寄せ、1928年、三・一五事件の余波で逮捕されてしまい、20日間の拘留で釈放されたものの、放校処分となった。1932年には丹那トンネルの工事現場で労働争議を指導したため治安維持法で逮捕され、まず横浜刑務所に投獄されたが、次に沖縄刑務所へ移送された。釈放後は特高に尾行される日々の中、まず蒔絵工として働いた後、沖縄朝日新聞記者に転じた。召集されて中国大陸へ出征したが、1940年に復員。戦中は家族を連れて戦火の沖縄を逃げまどう。
 
 戦後は沖縄人民党代表として琉球政府立法院議員に当選。ところが、アメリカ軍に対する抵抗姿勢が危険視され、強引に投獄されてしまった。1957年には「瀬長は共産党の手先」とネガティブ・キャンペーンを張られる中、那覇市長に当選する。アメリカ軍政当局およびそれと結託する保守派の策動には抗しきれず、市役所を追われることになったが、それでも後継指名した兼次佐一が沖縄市長に当選した。沖縄の日本復帰を前に1970年に実施された国政選挙で衆議院議員に当選。国会では沖縄の現状について佐藤栄作首相を追及する。佐藤の答弁は取り付く島もないものではあったが、ただ、瀬長への敬意はあったようだ。
 
 亀次郎は沖縄の日本復帰を当然視し、彼の言う「民族」とは琉球ではなく日本を指していたという。彼の抵抗活動は、日本民族のアメリカからの独立を求めていた。沖縄の日本復帰後、沖縄人民党は共産党に合流し、亀次郎も共産党所属の代議士として当選を重ねたが、彼自身は必ずしも共産主義者ではなかった。
 
 亀次郎が演説すると、飾らぬ言葉で人々の不満を代弁してくれるので、たちまちみんな集まって来た。ナショナルな抵抗意識をもとに民衆の声を吸収したという点では土着的ポピュリストと言えよう。他方で、彼が投獄されていた刑務所で刑吏に対する不満から暴動が起きたとき、所長から依頼された彼が受刑者の不満を団体交渉の方向へとまとめ上げた手腕からもうかがわれるように、吸収した不満を理性的な対話経路へ誘導するように心がけていた。理性的・理想主義的な姿勢を持つ土着型ポピュリストとして彼の存在は非常に興味深い。

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2018年2月13日 (火)

稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町──新宿、もうひとつの戦後史』

稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町──新宿、もうひとつの戦後史』(紀伊國屋書店、2017年)
 
 私自身も歌舞伎町には多少馴染みがある、と言うと語弊があるかもしれないが、映画館街にはよく足を運んでいた。初めて足を踏み入れたのは中学生の頃、友達と一緒に。その頃は若干の緊張感を覚えたものだが、都心の大学に通うようになって以降は当たり前のように歌舞伎町へ映画を観に行っていた。歌舞伎町の映画館街は現在ではすっかり様変わりしてしまったが、噴水広場をはさんで西に東急、東にコマ劇場(東宝系)があった。南北両側には台湾人・李以文の地球座や新宿劇場(ヒューマックス・パビリオン)、韓国人・高橋康友(李康友)のオデヲン座(東亜興業)が並んでいた。また、名曲喫茶らんぶるも台湾人によって開店されたという。歌舞伎町に中華系、韓国系の人々のコミュニティーがあったのはもちろん知っていたが、このように身近なところにまで植民地支配が影を落としていたことを本書で知り、驚きを新たにした。
 
 彼らも最初から歌舞伎町にいたわけではない。そもそも、歌舞伎町は都市整備が試みられながらも、立地条件の悪さから閑古鳥が鳴く場末の空間に過ぎなかった。台湾人実業家たちは戦後、新宿西口のマーケットで財産を築き、それを足掛かりにして、興行街として発展を始めた歌舞伎町に入って来たのである。映画館街の箱ものも、日本資本から買い取りを断られたため、彼らが引き受けたようだ。
 
 歌舞伎町で活躍した台湾人実業家たちに医師や慶応、早稲田出身など知識青年出身者が多いのが目を引く。戦後の政治状況が関わっているのだろうか。彼らにとって歌舞伎町は、単に富を築くのみならず、文化事業としても夢をかける空間になっていた。
 
 本書は彼ら台湾人が戦後の新宿で事業を展開していく様子を活写しており、それだけでも十分に興味深い内容なのだが、欲を言えば、個々の登場人物のライフヒストリーをもう少し掘り下げて欲しかった。台中霧峰出身で林姓の人物といえば、林献堂一族との関係が推測される。高座海軍廠の少年工出身者もいるし、簡水波の場合には南洋に送られてBC級戦犯となり、戦後に日本へ来て児玉誉士夫のような右翼や台湾の国民党とも関わりを持つフィクサー的な人物であった。二二八事件や白色テロのため、台湾へ帰れなくなった人たちもいたであろう。こうした個々のライフヒストリーを丁寧に掘り起こしていくと、東アジア現代史という一層広い視野の中で立体的に新宿の位置づけを描き出していけるはずだ。

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2016年5月15日 (日)

中川右介『戦争交響楽──音楽家たちの第二次世界大戦』

中川右介『戦争交響楽──音楽家たちの第二次世界大戦』(朝日新書、2016年)

 1930~40年代にかけて世界中で戦争と粛清が荒れ狂った時代、こうした政治的狂気は音楽家たちをも翻弄していた。本書は1933年のヒトラー政権成立前後から1945年に第二次世界大戦が終わるまで、政治情勢をめぐる解説を節目ごとに挿入しながら、当時の音楽家たちの動向をクロノジカルに描写している。

 名だたる作曲家や演奏家の名前はことごとく網羅され、著者自身があとがきで言うように、オールキャスト映画のおもむきすら持つ。焦点がしぼられていないからと言って、叙述が無味乾燥だったり散漫だったりということはなく、クラシック音楽ファンなら目を引くエピソードが次から次へと繰り出されてくるので、読みながら緊迫感を帯びた時代的雰囲気に引き込まれていく。また、常に出来事の同時代性が意識されるので、時代状況をトータルに把握できる。

 1938年のナチスドイツによるオーストリア併合まで、オーストリアのドルフス政権は独立の維持に腐心していたが、ザルツブルグ音楽祭は独立オーストリアの象徴となり、それはナチスへの抵抗でもあったため、「反ファシズムの砦」としての意義も帯びたという。他方、ワーグナーを愛好するヒトラーはバイロイト音楽祭にひときわ思い入れを持っていた。反ファシズムの立場にあったトスカニーニはヒトラーの誘いを蹴ってバイロイトでの演奏をやめ、ザルツブルグに肩入れする。政治的対立関係がナチスのバイロイト、反ナチスのザルツブルグという位置づけになったというのはまさに時代の様相を表していた。

 反ファシズムの立場を明確にしたトスカニーニとは異なり、フルトヴェングラーの立場はあいまいだ。彼もヒトラーを嫌い、ユダヤ人を擁護しようとしてはいたが、芸術は政治とは無関係という芸術至高主義が、かえってナチスに利用される余地を残してしまっていた。なお、フルトヴェングラーは訪独した近衛秀麿を通じて、ストコフスキーにアメリカ亡命の可能性を打診していたが、オーマンディに反対されて、結局、実現しなかったという。他方、自らの足場を確保しようと躍起になっていた若きカラヤンは、ナチスに入党してまで政権に迎合しようとしていたが、ヒトラーから嫌われていたためなかなか出世できず、それがかえって戦後に「免罪符」になり得たというのも皮肉である。

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2016年5月 9日 (月)

【映画】「灣生畫家 立石鐵臣」

「灣生畫家 立石鐵臣」

  1941年7月、太平洋戦争の勃発が間近に迫った時期、台北で『民俗台湾』という雑誌が創刊された。1937年には日中戦争が始まって戦時体制が強まりつつあり、台湾では「皇民化運動」が展開されていた。「日本人」として皇国に心身ともに捧げることが当然視された時代状況下、台湾の民俗文化の記録・保存を目的とした雑誌の存在は、それだけでも当局から睨まれてもおかしくなかった。雑誌の刊行を継続することがまずは至上命題。検閲の目を逃れるためには時に国策に迎合する言辞もちりばめなければいけなかったが、いずれにせよ、日本人であるか台湾人であるかを問わず、台湾の文化や歴史に愛着を持つ人々が手探りしながら協力し合って、このささやかな雑誌は1945年1月号まで続いた。

  『民俗台湾』をひもとくと、「台湾民俗図絵」をはじめとしたイラストがひときわ目を引く。的確に対象を捉えつつ、ぬくもりがあって、時にユーモラスなこれらのカットを描いたのは、台湾生まれの日本人画家・立石鐵臣。台湾生まれの日本人のことを「湾生」という。

  立石鐵臣は1905年、台北に生まれた。父の転勤に伴って日本へ帰国。絵画には早くから興味を持ち、才能を示していた鐵臣は国画会に入選するなど若手画家としてのキャリアを着実に積んでいた。1934年、台湾へ戻る。生まれ故郷・台湾の風光を描きたかったからだ。「ちょっと台湾へ行ってきます」というさり気ない言い方が、いかにも彼のパーソナリティーを彷彿とさせる。

  立石は1934年に台湾人を中心に設立された台陽美術協会の創立メンバーになった。台北放送局に勤務していた兄・立石成孚の家に寄寓し、台北帝国大学の生物学者・素木得一の研究室で標本画を描く仕事をしながら、細密画の描法を自ら会得する。また、台北の文壇で勢力を持っていた作家・西川満に頼まれてイラストや装幀も手掛けるようになり、そうした中で後の『民俗台湾』同人たちとも知り合った。

  1945年、日本の敗戦により、台湾は中華民国に接収された。日本人は原則的に日本へ送還されることになっていたが、特殊技能を持つ日本人はしばらく留め置かれた。これを「留用」という。立石も「留用」されて台湾省編訳館に勤務する。ここでは日本統治時代に蓄積された学術的成果を整理・翻訳する作業が行われていた。編訳館には魯迅の親友だった許壽裳など日本留学経験のある開明的な中国知識人が派遣されてきており、彼らは「留用」された日本人にも誠意をもって接してくれたという。私個人としては、こうした形で日本人、台湾人、中国人が協力し合う時期が束の間なりともあったということに関心が引かれているが、1947年の二二八事件等によって時代状況は瞬く間に険悪化していく。編訳館は閉鎖され、許壽裳は暗殺されてしまった。編訳館の閉鎖後、鐵臣は「留用」された日本人の子弟が預けられていた小学校の教員をして、生徒から慕われていたらしい。1948年、最後の引揚船に乗って基隆を離れるとき、埠頭には見送りの台湾人がたくさん集まっていて、「蛍の光」が聞こえてきたという。

  日本へ帰国して以降、彼の画風は抽象的なものになっていく。例えば、眼球が宙に浮いているような「虚空」(1950年)──もともとのタイトルは「孤独」だったという。彼が見ていた心象風景はどのような経過をたどって変化したのだろうか。台湾体験は戦後の彼の軌跡にどのような影響をもたらしたのだろうか──。藤田監督は上映後のスピーチの際、初期の画風と戦後の画風との際立った違いが気にかかり、その中間に位置する台湾時代を探ってみたいと思った、という趣旨のことを語っておられた。立石は自らのことについて直接的に語ることは少なく、絵画を通して語っている。そして、残念ながら、台湾時代に描いた作品の多くは台湾に残してきて、そのまま行方不明になっている。明確な答えはなかなか見えてこないが、むしろ観客一人一人が彼の軌跡がはらんだ意味を考えて行く上で、このドキュメンタリー作品は貴重な手がかりを示してくれている。

  立石が描いた「台湾民俗図絵」のカットは、現在の台湾でも、例えば小物のデザインなど、ふとしたところで見かけることがある。利用した台湾人自身も、その来歴を知らないのかもしれない。また、戦後、日本へ戻った立石は生計を立てるため図鑑や教科書のイラストもたくさん描いており、我々も気づかないところで、実は立石の絵を見ていた可能性は高い。世に知られようと知られまいと、そんなことには頓着せず、立石はとにかく絵を描き続けていた。

  台湾人からすれば、日本統治時代の台湾史は最近まで学校で教えられることがなく、ある意味、足元のことなのに未知の世界も同然であった。また、日本人からすれば、日本統治時代の台湾は、日本と密接な関係があったにもかかわらず、現在は外国であるがゆえになかなか知る機会がなく、これもまた別の意味で未知の世界である。この「湾生画家 立石鐵臣」というドキュメンタリー作品は、日本人の藤田修平監督、台湾人の郭亮吟監督という二人によって共同制作されており、日本人と台湾人、それぞれ異なる探求の視点がうまくかみ合いながら、立石鐵臣という一人の画家を通して日台関係のある一面も見えてくる。私自身も台湾現代史の勉強を続ける上で色々な示唆を受けており、もっと多くの方に観ていただけるよう上映機会が増えることを願いたい。

  作品中には立石鐵臣のご家族や、『民俗台湾』の立役者であった池田敏雄夫人の黄鳳姿さんなどの貴重な証言が含まれている。『民俗台湾』の印刷を請け負っていた、やはり湾生の岡部茂さんや、考古学者の宋文薫さんは今年、惜しくも相次いでお亡くなりになってしまった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

  また、5月21日から東京・府中市美術館にて「麗しき故郷「台湾」に捧ぐ──立石鐡臣展」も開催される。
 

(2016年5月7日、「台灣國際紀錄片影展」、台北・光點華山電影にて)

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2014年12月17日 (水)

港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動──対抗運動の創造性』

  台湾を専門とする別館ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」の方で港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動──対抗運動の創造性』(インスクリプト、2014年)を取り上げました(→こちら)。著者の問題意識について私は好意的ではあります。ただし、本書では著者の問題意識ばかり先走ってしまって、必ずしも台湾の内在的事情を踏まえて書かれているわけではなく、そうした点は注意しながら読み必要があると思います。

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2014年9月17日 (水)

一青妙『わたしの台南──「ほんとうの台湾」に出会う旅』

一青妙『わたしの台南──「ほんとうの台湾」に出会う旅』(新潮社、2014年)

  台湾に来た日本人がまず訪れる都市は台北であろう。台北では再開発が進んで高層ビルが林立し、ショッピング・モールなど歩けば自分がいま台北にいるのか、東京にいるのか、ふと分からなくなるほどだ。街並みはきれいになったし、便利にもなった。だが、それに伴って台湾らしい風情を感じる機会も少なくなってきている。

  1970年代に幼少期を台北で過ごした著者もこうした変貌に少なからず戸惑いを感じているようだ。幼き日々の記憶に刻み込まれていたあの懐かしい光景はどこへ行ったのだろう? そうした思いを抱えていた時にたどり着いた街──それが台南だった。

  そもそも歴史をひもとけば、台南にいた先住民族であるシラヤ族の言葉で「タイアン」といったのが「台湾」の語源とされている。オランダ東インド会社が城塞を築き、それを奪取した鄭成功が拠点を置き、清代末期に行政の中心が台北へ移動するまで、ここ台南こそが台湾の首都であった。開発が遅れていることもあって、台南の街中では古いたたずまいがそこかしこに残っている。台湾の歴史が、それこそ地層のように積み重なっている様子を見出せるのが台南という都市の大きな特色である。台南を見に来なければ台湾の歴史は理解できないと言っても決して過言ではない。

  実はいま台湾人の間でも台南ブームが巻き起こっている。台南をテーマとした本が次々と刊行されて話題となり、多くの観光客が訪れ、台北など大都市で働いていた台南出身者のUターンも増えているらしい。せわしない都市生活に疲れた人々がある種のノスタルジーにぬくもりを求めているのかもしれないし、あるいは台湾人アイデンティティーの確立が歴史的ルーツとしての台南への関心を高めていることも考えられる。いずれにせよ、日本での本書の刊行もこうした背景を踏まえれば実にタイムリーだ。

  観光客なら見逃せない台南グルメ。台南を通して見えてくる台湾の歴史や文化。そして台南と関わりのあった日本人。様々な話題がやわらかい筆致で描き出されている。観光ガイドのようにきれいごとではなく、時に素直な感想をつづっているところが面白い。例えば、台南人のソウルフード、サバヒー(虱目魚)のこと。サバヒー粥は台南人の朝食の定番だが、実は私自身もサバヒーはちょっと苦手。観光ガイドブックならそんなこと書かずに適当にお茶を濁すところだが、味覚に合わないものは仕方がない。ただ、それはけなすということではない。むしろ、「なぜ台南人はサバヒーが好きなんだろう?」と相手の好みを理解したいと努力する姿勢に好感が持てる。

  台南の魅力を再発見するため通い続ける中で著者は様々な人々と出会っている。例えば、一見強面だが親身に世話を焼いてくれるビンロウ売りの楊さん。カラスミ職人の阿祥のこだわりも印象的だ。そうしたエピソードの一つ一つが織り込まれることで、あたかも台南を舞台とした人情こまやかな物語が紡ぎだされているかのようだ。

※「ふぉるもさん・ぷろむなあど」より転載。

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2014年6月 2日 (月)

野嶋剛『ラスト・バタリオン──蒋介石と日本軍人たち』

野嶋剛『ラスト・バタリオン──蒋介石と日本軍人たち』(講談社、2014年)

  中国や台湾は言うに及ばず、日本にとっても深い因縁を持つ歴史上のキーパーソン・蒋介石。東アジアの激動をある意味一身で体現しているかのように、彼の評価もまた変転著しい。権威主義体制時代の台湾では文字通り神格化されていたが、民進党の陳水扁政権が誕生すると、脱蒋介石化が急速に進められた。他方、それまで彼を「人民の敵」としてきた大陸の方ではむしろ蒋介石研究が一つのブームになるという逆転現象も起きている。彼をどのように評価するかはともかく、まだまだ論じ尽されていないテーマであることは確かだ。

  蒋介石は常に自己修錬を課すストイックな性格だったのか、あるいは粘着質的とでも言うべきか、激務の合間を縫って毎日欠かさず日記をつけていた。彼の判断が歴史の局面を大きく動かしたことすらあった点を考えると非常に興味深い史料である。民進党政権の誕生によって破棄されることを恐れた遺族の一人が蒋介石日記をスタンフォード大学フーバー研究所に預けており、それが2006年から公開され始めたことは、東アジアの現代史を考え直す上で大きな刺激となった。

  蒋介石日記を閲覧した著者は、1948年の後半から「白団」に関わる記述が繰り返し見られることに注目した。蒋介石の対日観を検討する上で「白団」は重要な切り口となるのではないか──そう確信した著者は7年越しの取材の成果を本書にまとめ上げている。

  国共内戦に敗れて台湾へ撤退した国民政府軍は惨憺たる状態にあった。共産党がいつ台湾海峡を渡って押し寄せてくるか分からないし、アメリカも彼らを見捨てようとしている。そうした危機感の中、蒋介石は軍の再建を図るが、彼が痛感していたのは軍事教育の欠如である。日本留学経験のある蒋介石はもともと日本軍の能力を高く評価しており、軍事教育の部分で日本軍人の助けを借りようとした。

  かつて支那派遣軍総司令官として戦った当の相手である岡村寧次を通じて日本軍人のリクルーティングが進められ、彼らは「反共」の大義名分の下、秘密裡に台湾へと渡った。1949年から68年にかけての約20年間、最大で76名の日本軍人が教官を務めた。現地でトップとなった富田直亮(陸軍少将)の中国名・白鴻亮にちなんで「白団」と呼ばれる。かつての敵軍に教えを乞うという皮肉に国民政府内でも反対意見があったが、蒋介石はそうした不満を抑え込み、自らも積極的に授業へ出席した。蒋介石日記には麾下の将軍たちについての言及はほとんど見られないが、富田をはじめ「白団」将官との面会については頻繁に書き留められており、それだけ深い信頼を寄せていたことが分かる。

  蒋介石は1952年からアメリカの軍事顧問団も受け入れていたが、それは技術的な部分にとどめられていた。「白団」に対するアメリカ側のクレームをはねつけ、軍幹部の精神教育の部分については「白団」に委ねていたあたり、蒋介石の独特な思い入れが窺える。「敵」でありつつも、「日中連携」を図る──こうした逆説から、彼の心中における「愛憎」半ばした葛藤がしばしば指摘される。これに対して著者は、蒋介石の対日観について「受容と克服」、つまり中華民族復興という目的に向けて近代化の成果を日本から吸収する、そうした彼の割り切った態度を指摘している。

  国民政府軍の上層幹部には「白団」の指導を受けた者が多数いるはずだが、彼らはそのことを語りたがらない。軍幹部は主に国民党と共に来台した外省人によって占められていた。彼らにとって日本は旧敵であるが、国民党に反感を抱く台湾人はそうした日本にむしろ好意を寄せる。このような日中台の複雑な三角関係は時に悲劇を生んだ。台湾人として生まれ、国民政府軍に入隊して「白団」の指導を受け、その縁で日本の自衛隊へ留学した楊鴻儒は、1971年にスパイ容疑で逮捕されて緑島へ送られ、不遇な一生を送ることになってしまう。知日派への見せしめであったと考えられる。

  戦後の日本社会に居場所を失ってしまった旧軍人にとって、「白団」として台湾へ赴任することは、自らの能力を生かしてやりがいやプライドを満たせる恰好な舞台であった。他方で、彼らとて人間である。「反共」のための「日中連携」、蒋介石の「以徳報怨」へのご恩返しといった建前だけで生きていたわけではない。「白団」の一員であった戸梶金次郎の日記からは「白団」の面々の「人間くさい」部分が垣間見える。東アジア近代の複雑な諸局面を「白団」に注目する観点から整理して語りつつ、同時にその中で生きざるを得なかった等身大の人間群像もできるだけ描き出しているところは読みごたえがある。

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