カテゴリー「ノンフィクション・ドキュメンタリー」の138件の記事

2016年5月15日 (日)

中川右介『戦争交響楽──音楽家たちの第二次世界大戦』

中川右介『戦争交響楽──音楽家たちの第二次世界大戦』(朝日新書、2016年)

 1930~40年代にかけて世界中で戦争と粛清が荒れ狂った時代、こうした政治的狂気は音楽家たちをも翻弄していた。本書は1933年のヒトラー政権成立前後から1945年に第二次世界大戦が終わるまで、政治情勢をめぐる解説を節目ごとに挿入しながら、当時の音楽家たちの動向をクロノジカルに描写している。

 名だたる作曲家や演奏家の名前はことごとく網羅され、著者自身があとがきで言うように、オールキャスト映画のおもむきすら持つ。焦点がしぼられていないからと言って、叙述が無味乾燥だったり散漫だったりということはなく、クラシック音楽ファンなら目を引くエピソードが次から次へと繰り出されてくるので、読みながら緊迫感を帯びた時代的雰囲気に引き込まれていく。また、常に出来事の同時代性が意識されるので、時代状況をトータルに把握できる。

 1938年のナチスドイツによるオーストリア併合まで、オーストリアのドルフス政権は独立の維持に腐心していたが、ザルツブルグ音楽祭は独立オーストリアの象徴となり、それはナチスへの抵抗でもあったため、「反ファシズムの砦」としての意義も帯びたという。他方、ワーグナーを愛好するヒトラーはバイロイト音楽祭にひときわ思い入れを持っていた。反ファシズムの立場にあったトスカニーニはヒトラーの誘いを蹴ってバイロイトでの演奏をやめ、ザルツブルグに肩入れする。政治的対立関係がナチスのバイロイト、反ナチスのザルツブルグという位置づけになったというのはまさに時代の様相を表していた。

 反ファシズムの立場を明確にしたトスカニーニとは異なり、フルトヴェングラーの立場はあいまいだ。彼もヒトラーを嫌い、ユダヤ人を擁護しようとしてはいたが、芸術は政治とは無関係という芸術至高主義が、かえってナチスに利用される余地を残してしまっていた。なお、フルトヴェングラーは訪独した近衛秀麿を通じて、ストコフスキーにアメリカ亡命の可能性を打診していたが、オーマンディに反対されて、結局、実現しなかったという。他方、自らの足場を確保しようと躍起になっていた若きカラヤンは、ナチスに入党してまで政権に迎合しようとしていたが、ヒトラーから嫌われていたためなかなか出世できず、それがかえって戦後に「免罪符」になり得たというのも皮肉である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月 9日 (月)

【映画】「灣生畫家 立石鐵臣」

「灣生畫家 立石鐵臣」

  1941年7月、太平洋戦争の勃発が間近に迫った時期、台北で『民俗台湾』という雑誌が創刊された。1937年には日中戦争が始まって戦時体制が強まりつつあり、台湾では「皇民化運動」が展開されていた。「日本人」として皇国に心身ともに捧げることが当然視された時代状況下、台湾の民俗文化の記録・保存を目的とした雑誌の存在は、それだけでも当局から睨まれてもおかしくなかった。雑誌の刊行を継続することがまずは至上命題。検閲の目を逃れるためには時に国策に迎合する言辞もちりばめなければいけなかったが、いずれにせよ、日本人であるか台湾人であるかを問わず、台湾の文化や歴史に愛着を持つ人々が手探りしながら協力し合って、このささやかな雑誌は1945年1月号まで続いた。

  『民俗台湾』をひもとくと、「台湾民俗図絵」をはじめとしたイラストがひときわ目を引く。的確に対象を捉えつつ、ぬくもりがあって、時にユーモラスなこれらのカットを描いたのは、台湾生まれの日本人画家・立石鐵臣。台湾生まれの日本人のことを「湾生」という。

  立石鐵臣は1905年、台北に生まれた。父の転勤に伴って日本へ帰国。絵画には早くから興味を持ち、才能を示していた鐵臣は国画会に入選するなど若手画家としてのキャリアを着実に積んでいた。1934年、台湾へ戻る。生まれ故郷・台湾の風光を描きたかったからだ。「ちょっと台湾へ行ってきます」というさり気ない言い方が、いかにも彼のパーソナリティーを彷彿とさせる。

  立石は1934年に台湾人を中心に設立された台陽美術協会の創立メンバーになった。台北放送局に勤務していた兄・立石成孚の家に寄寓し、台北帝国大学の生物学者・素木得一の研究室で標本画を描く仕事をしながら、細密画の描法を自ら会得する。また、台北の文壇で勢力を持っていた作家・西川満に頼まれてイラストや装幀も手掛けるようになり、そうした中で後の『民俗台湾』同人たちとも知り合った。

  1945年、日本の敗戦により、台湾は中華民国に接収された。日本人は原則的に日本へ送還されることになっていたが、特殊技能を持つ日本人はしばらく留め置かれた。これを「留用」という。立石も「留用」されて台湾省編訳館に勤務する。ここでは日本統治時代に蓄積された学術的成果を整理・翻訳する作業が行われていた。編訳館には魯迅の親友だった許壽裳など日本留学経験のある開明的な中国知識人が派遣されてきており、彼らは「留用」された日本人にも誠意をもって接してくれたという。私個人としては、こうした形で日本人、台湾人、中国人が協力し合う時期が束の間なりともあったということに関心が引かれているが、1947年の二二八事件等によって時代状況は瞬く間に険悪化していく。編訳館は閉鎖され、許壽裳は暗殺されてしまった。編訳館の閉鎖後、鐵臣は「留用」された日本人の子弟が預けられていた小学校の教員をして、生徒から慕われていたらしい。1948年、最後の引揚船に乗って基隆を離れるとき、埠頭には見送りの台湾人がたくさん集まっていて、「蛍の光」が聞こえてきたという。

  日本へ帰国して以降、彼の画風は抽象的なものになっていく。例えば、眼球が宙に浮いているような「虚空」(1950年)──もともとのタイトルは「孤独」だったという。彼が見ていた心象風景はどのような経過をたどって変化したのだろうか。台湾体験は戦後の彼の軌跡にどのような影響をもたらしたのだろうか──。藤田監督は上映後のスピーチの際、初期の画風と戦後の画風との際立った違いが気にかかり、その中間に位置する台湾時代を探ってみたいと思った、という趣旨のことを語っておられた。立石は自らのことについて直接的に語ることは少なく、絵画を通して語っている。そして、残念ながら、台湾時代に描いた作品の多くは台湾に残してきて、そのまま行方不明になっている。明確な答えはなかなか見えてこないが、むしろ観客一人一人が彼の軌跡がはらんだ意味を考えて行く上で、このドキュメンタリー作品は貴重な手がかりを示してくれている。

  立石が描いた「台湾民俗図絵」のカットは、現在の台湾でも、例えば小物のデザインなど、ふとしたところで見かけることがある。利用した台湾人自身も、その来歴を知らないのかもしれない。また、戦後、日本へ戻った立石は生計を立てるため図鑑や教科書のイラストもたくさん描いており、我々も気づかないところで、実は立石の絵を見ていた可能性は高い。世に知られようと知られまいと、そんなことには頓着せず、立石はとにかく絵を描き続けていた。

  台湾人からすれば、日本統治時代の台湾史は最近まで学校で教えられることがなく、ある意味、足元のことなのに未知の世界も同然であった。また、日本人からすれば、日本統治時代の台湾は、日本と密接な関係があったにもかかわらず、現在は外国であるがゆえになかなか知る機会がなく、これもまた別の意味で未知の世界である。この「湾生画家 立石鐵臣」というドキュメンタリー作品は、日本人の藤田修平監督、台湾人の郭亮吟監督という二人によって共同制作されており、日本人と台湾人、それぞれ異なる探求の視点がうまくかみ合いながら、立石鐵臣という一人の画家を通して日台関係のある一面も見えてくる。私自身も台湾現代史の勉強を続ける上で色々な示唆を受けており、もっと多くの方に観ていただけるよう上映機会が増えることを願いたい。

  作品中には立石鐵臣のご家族や、『民俗台湾』の立役者であった池田敏雄夫人の黄鳳姿さんなどの貴重な証言が含まれている。『民俗台湾』の印刷を請け負っていた、やはり湾生の岡部茂さんや、考古学者の宋文薫さんは今年、惜しくも相次いでお亡くなりになってしまった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

  また、5月21日から東京・府中市美術館にて「麗しき故郷「台湾」に捧ぐ──立石鐡臣展」も開催される。
 

(2016年5月7日、「台灣國際紀錄片影展」、台北・光點華山電影にて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年12月17日 (水)

港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動──対抗運動の創造性』

  台湾を専門とする別館ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」の方で港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動──対抗運動の創造性』(インスクリプト、2014年)を取り上げました(→こちら)。著者の問題意識について私は好意的ではあります。ただし、本書では著者の問題意識ばかり先走ってしまって、必ずしも台湾の内在的事情を踏まえて書かれているわけではなく、そうした点は注意しながら読み必要があると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月17日 (水)

一青妙『わたしの台南──「ほんとうの台湾」に出会う旅』

一青妙『わたしの台南──「ほんとうの台湾」に出会う旅』(新潮社、2014年)

  台湾に来た日本人がまず訪れる都市は台北であろう。台北では再開発が進んで高層ビルが林立し、ショッピング・モールなど歩けば自分がいま台北にいるのか、東京にいるのか、ふと分からなくなるほどだ。街並みはきれいになったし、便利にもなった。だが、それに伴って台湾らしい風情を感じる機会も少なくなってきている。

  1970年代に幼少期を台北で過ごした著者もこうした変貌に少なからず戸惑いを感じているようだ。幼き日々の記憶に刻み込まれていたあの懐かしい光景はどこへ行ったのだろう? そうした思いを抱えていた時にたどり着いた街──それが台南だった。

  そもそも歴史をひもとけば、台南にいた先住民族であるシラヤ族の言葉で「タイアン」といったのが「台湾」の語源とされている。オランダ東インド会社が城塞を築き、それを奪取した鄭成功が拠点を置き、清代末期に行政の中心が台北へ移動するまで、ここ台南こそが台湾の首都であった。開発が遅れていることもあって、台南の街中では古いたたずまいがそこかしこに残っている。台湾の歴史が、それこそ地層のように積み重なっている様子を見出せるのが台南という都市の大きな特色である。台南を見に来なければ台湾の歴史は理解できないと言っても決して過言ではない。

  実はいま台湾人の間でも台南ブームが巻き起こっている。台南をテーマとした本が次々と刊行されて話題となり、多くの観光客が訪れ、台北など大都市で働いていた台南出身者のUターンも増えているらしい。せわしない都市生活に疲れた人々がある種のノスタルジーにぬくもりを求めているのかもしれないし、あるいは台湾人アイデンティティーの確立が歴史的ルーツとしての台南への関心を高めていることも考えられる。いずれにせよ、日本での本書の刊行もこうした背景を踏まえれば実にタイムリーだ。

  観光客なら見逃せない台南グルメ。台南を通して見えてくる台湾の歴史や文化。そして台南と関わりのあった日本人。様々な話題がやわらかい筆致で描き出されている。観光ガイドのようにきれいごとではなく、時に素直な感想をつづっているところが面白い。例えば、台南人のソウルフード、サバヒー(虱目魚)のこと。サバヒー粥は台南人の朝食の定番だが、実は私自身もサバヒーはちょっと苦手。観光ガイドブックならそんなこと書かずに適当にお茶を濁すところだが、味覚に合わないものは仕方がない。ただ、それはけなすということではない。むしろ、「なぜ台南人はサバヒーが好きなんだろう?」と相手の好みを理解したいと努力する姿勢に好感が持てる。

  台南の魅力を再発見するため通い続ける中で著者は様々な人々と出会っている。例えば、一見強面だが親身に世話を焼いてくれるビンロウ売りの楊さん。カラスミ職人の阿祥のこだわりも印象的だ。そうしたエピソードの一つ一つが織り込まれることで、あたかも台南を舞台とした人情こまやかな物語が紡ぎだされているかのようだ。

※「ふぉるもさん・ぷろむなあど」より転載。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年6月 2日 (月)

野嶋剛『ラスト・バタリオン──蒋介石と日本軍人たち』

野嶋剛『ラスト・バタリオン──蒋介石と日本軍人たち』(講談社、2014年)

  中国や台湾は言うに及ばず、日本にとっても深い因縁を持つ歴史上のキーパーソン・蒋介石。東アジアの激動をある意味一身で体現しているかのように、彼の評価もまた変転著しい。権威主義体制時代の台湾では文字通り神格化されていたが、民進党の陳水扁政権が誕生すると、脱蒋介石化が急速に進められた。他方、それまで彼を「人民の敵」としてきた大陸の方ではむしろ蒋介石研究が一つのブームになるという逆転現象も起きている。彼をどのように評価するかはともかく、まだまだ論じ尽されていないテーマであることは確かだ。

  蒋介石は常に自己修錬を課すストイックな性格だったのか、あるいは粘着質的とでも言うべきか、激務の合間を縫って毎日欠かさず日記をつけていた。彼の判断が歴史の局面を大きく動かしたことすらあった点を考えると非常に興味深い史料である。民進党政権の誕生によって破棄されることを恐れた遺族の一人が蒋介石日記をスタンフォード大学フーバー研究所に預けており、それが2006年から公開され始めたことは、東アジアの現代史を考え直す上で大きな刺激となった。

  蒋介石日記を閲覧した著者は、1948年の後半から「白団」に関わる記述が繰り返し見られることに注目した。蒋介石の対日観を検討する上で「白団」は重要な切り口となるのではないか──そう確信した著者は7年越しの取材の成果を本書にまとめ上げている。

  国共内戦に敗れて台湾へ撤退した国民政府軍は惨憺たる状態にあった。共産党がいつ台湾海峡を渡って押し寄せてくるか分からないし、アメリカも彼らを見捨てようとしている。そうした危機感の中、蒋介石は軍の再建を図るが、彼が痛感していたのは軍事教育の欠如である。日本留学経験のある蒋介石はもともと日本軍の能力を高く評価しており、軍事教育の部分で日本軍人の助けを借りようとした。

  かつて支那派遣軍総司令官として戦った当の相手である岡村寧次を通じて日本軍人のリクルーティングが進められ、彼らは「反共」の大義名分の下、秘密裡に台湾へと渡った。1949年から68年にかけての約20年間、最大で76名の日本軍人が教官を務めた。現地でトップとなった富田直亮(陸軍少将)の中国名・白鴻亮にちなんで「白団」と呼ばれる。かつての敵軍に教えを乞うという皮肉に国民政府内でも反対意見があったが、蒋介石はそうした不満を抑え込み、自らも積極的に授業へ出席した。蒋介石日記には麾下の将軍たちについての言及はほとんど見られないが、富田をはじめ「白団」将官との面会については頻繁に書き留められており、それだけ深い信頼を寄せていたことが分かる。

  蒋介石は1952年からアメリカの軍事顧問団も受け入れていたが、それは技術的な部分にとどめられていた。「白団」に対するアメリカ側のクレームをはねつけ、軍幹部の精神教育の部分については「白団」に委ねていたあたり、蒋介石の独特な思い入れが窺える。「敵」でありつつも、「日中連携」を図る──こうした逆説から、彼の心中における「愛憎」半ばした葛藤がしばしば指摘される。これに対して著者は、蒋介石の対日観について「受容と克服」、つまり中華民族復興という目的に向けて近代化の成果を日本から吸収する、そうした彼の割り切った態度を指摘している。

  国民政府軍の上層幹部には「白団」の指導を受けた者が多数いるはずだが、彼らはそのことを語りたがらない。軍幹部は主に国民党と共に来台した外省人によって占められていた。彼らにとって日本は旧敵であるが、国民党に反感を抱く台湾人はそうした日本にむしろ好意を寄せる。このような日中台の複雑な三角関係は時に悲劇を生んだ。台湾人として生まれ、国民政府軍に入隊して「白団」の指導を受け、その縁で日本の自衛隊へ留学した楊鴻儒は、1971年にスパイ容疑で逮捕されて緑島へ送られ、不遇な一生を送ることになってしまう。知日派への見せしめであったと考えられる。

  戦後の日本社会に居場所を失ってしまった旧軍人にとって、「白団」として台湾へ赴任することは、自らの能力を生かしてやりがいやプライドを満たせる恰好な舞台であった。他方で、彼らとて人間である。「反共」のための「日中連携」、蒋介石の「以徳報怨」へのご恩返しといった建前だけで生きていたわけではない。「白団」の一員であった戸梶金次郎の日記からは「白団」の面々の「人間くさい」部分が垣間見える。東アジア近代の複雑な諸局面を「白団」に注目する観点から整理して語りつつ、同時にその中で生きざるを得なかった等身大の人間群像もできるだけ描き出しているところは読みごたえがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月 9日 (月)

中川右介『国家と音楽家』

中川右介『国家と音楽家』(七つ森書館、2013年)

 音楽に国境はない、とよく言われる。しかしながら、国民国家という枠組みの中であらゆる人々をの政治動員を図る時代的状況を「近代」とするなら、音楽もまた文化的・精神的動員、政治的プロパガンダの有効なツールとみなされ、音楽家といえどもそうした動向から決して無縁ではありえなかった。高名であればあるほど政治的態度の表明を迫られ、芸術性とは異なる位相から評価のまなざしを向けられる。為政者の御用音楽家となるか、ファシズム・コミュニズムなど全体主義に抵抗した英雄となるか――ことは単純に善悪二元論で片付けられるような問題ではない。

 ドイツ第三帝国の音楽家たち。イタリア・ファシズムに抗したトスカニーニ。カタルーニャへの郷土愛からフランコ体制に抗したカザルス。ドイツ占領下フランスにいたコルトーとミュンシュ。スターリニズムを生きぬいたショスタコーヴィチ。ショパン、パデレフスキ、ルービンシュタインというポーランド亡命ピアニストの系譜。「プラハの春」をめぐる指揮者たち。アメリカ大統領にもたじろがなかったバーンスタイン――音楽への情熱という一点は例外なく共通する。だが、その情熱が政治とどのように関わりを持ったのかは個々のパーソナリティーによって大きく違ってくる。そうした音楽家たちがある種の宿命に翻弄される群像劇は、あたかも連作小説集を読むように緊張をはらんだドラマを感じさせる。

 本書がドイツのバイロイト音楽祭をめぐる人々から語り起こし、イスラエルにおけるワーグナーへの拒絶感でしめくくっているように、ワーグナーとナチズムとの関係には政治と音楽との葛藤の最も典型的な例が表われている。ワーグナー家の若き未亡人ヴィニフレート・ワーグナーはヒトラーと個人的に親しく、バイロイト音楽祭の運営への協力をとりつけた。それはナチスにとって格好な宣伝材料となった一方、ヴィニフレートはユダヤ人音楽家を守るためヒトラーに直接話をつけたというのが興味深い。フルトヴェングラーもまたナチスの体制内でユダヤ人音楽家を守ろうとしたが、体制内に残ったこと自体が戦後は批判の的となる。なお、カラヤンはナチスの党員となったが、ヒトラーから嫌われており、そのことが戦後になると免罪符となったらしい。

 ホロコーストの記憶が国家的アイデンティティーに刻み込まれたイスラエルにおいて、ワーグナーはナチズムを連想させるがゆえにタブーとなった。芸術的価値を政治に従属させてしまうのはナチズムと同じではないか?とリベラル派から疑念があがってもタブーを打ち破ることはできず、イスラエルで初めてワーグナーを演奏したバレンボイムは激しい批判にさらされてしまった。

 政治によって音楽は窒息させられてしまわねばならないのか。大国政治に翻弄され続けてきたチェコは、ナチスの占領支配から解放されたのも束の間、1948年の共産党クーデターによって今度は共産主義体制のくびきにあえぐこととなる。この時、指揮者のラファエル・クーベリック(1914~96)はイギリスへ亡命、さらに1968年のいわゆる「プラハの春」が鎮圧されるとやはり指揮者のカレル・アンチェル(1908~73)はカナダへ亡命した。その後、チェコ・フィルの指揮者にはヴァーツラフ・ノイマン(1920~95)が就任する。1989年のビロード革命を受けて、その翌年、クーベリックは42年ぶりにようやくプラハへ戻ることができた。出迎えた人々の中にノイマンの姿を認めると、二人は歩み寄ってあつく抱擁を交わす。

 体制に反発して海外亡命を選んだクーベリック。体制と折り合いをつけながら活動を続けたノイマン。自分たちの音楽を決して絶やしてはいけないという思いを二人は共有していたからこそ、お互いの立場の相違を理解し合うことができていたというエピソードが実に印象深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月22日 (火)

与那原恵『首里城への坂道――鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』

与那原恵『首里城への坂道――鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(筑摩書房、2013年)

 昭和46年、沖縄返還を間近に控えた時期、35年ぶりに沖縄を訪れた鎌倉芳太郎の目に映った光景はどのようなものであったか。あまたの人命が失われた激戦で事実上の焦土と化した沖縄――米軍占領下にあって、その風景は一変していた。沖縄の文化に限りない愛着を抱いていた鎌倉は、変わり果てた姿を目の当たりにすると幻滅してしまうだろうと思い、沖縄行きには複雑な気持ちだったらしい。

 だが、目を背けてばかりはいられない。ひとたび失われた文化を何とか取り戻せないものか。彼はかつて収集して内地へ持ち帰っていた紅型の型紙を地元の博物館に寄贈し(彼は紅型をもとに独自の染織を行なって、人間国宝に認定されている)、さらに50年前、自ら撮影した乾板ガラスの存在を明らかにする。そこにはすでに焼失した首里城をはじめ、沖縄各地の風景や文化財、工芸品がしっかりと収められていた(なお、このガラス乾板はサントリーの支援でよみがえったという。日本でウイスキーを普及する上で、米軍占領下、洋酒に馴染んでいた沖縄市場に着目する思惑があったという背景が興味深い)。古老たちから聞き取った鎌倉のノートは、在りし日の琉球の姿を再現する上でまたとない資料であった。

 沖縄の文化が危機に瀕したのは戦争ばかりではない。1879年の琉球処分以降、明治政府によって「日本化」が推進され、1924年には琉球文化のシンボルとも言うべき首里城が取り壊されそうになった。その報に接した鎌倉は、琉球建築に関心を持つ東京帝国大学教授で建築学者の伊東忠太に働きかけて(伊東は元内相・平田東助の親族)、ギリギリのタイミングで首里城を救った。

 鎌倉は香川県の出身で、東京美術学校を卒業後、美術教師として沖縄に赴任、縁のできたこの地の文化の調査に情熱を傾ける。ある意味で外来者に過ぎない鎌倉だが、彼の熱心な奔走は沖縄の人々の気持ちを動かし、彼のフィールド調査に積極的な協力を得られるようになった。

 本書は、琉球芸術の研究に生涯を捧げた鎌倉芳太郎の軌跡を軸として、沖縄文化研究の歴史を描き出している。派生的な話題も含め、潤沢な情報量は勉強になる。テーマとして地味ではあるが、決して無味乾燥ではない。例えば、建築学者の伊東忠太、民俗学者の柳田國男や折口信夫、音楽学者の田辺尚雄といった近代日本アカデミズムのビッグネーム。伊波普猷、東恩納寛惇、末吉麦門東、外間守善といった沖縄学の大成者たち。そして、有名無名の協力者たち――背景も様々な人々との交流を通して、美しさに感動したり、あるいは時代の悲運に慨嘆したり、そうした息遣いの一つ一つがヴィヴィッドに浮き彫りにされている。沖縄にルーツを持ちつつも、東京で生まれ育ち、沖縄のことをよく知らなかったという著者自身の思いが、外来者ながらも沖縄に魅せられた鎌倉の情熱に共感をもって重ねあわされているからであろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月15日 (月)

【映画】「台湾アイデンティティー」

「台湾アイデンティティー」

 台湾の人々にとっての1945年は、日本とはまた違った意味を持つ。戦争の終わり。束の間の解放感。やがて来る幻滅──「日本人」として教育されてきたにもかかわらず日本からは見捨てられ、新来の統治者である国民党政権の下では二二八事件や白色テロで沈黙を強いられた。いずれの「国家」にも自らをアイデンティファイできない矛盾。台湾の作家、呉濁流は日本の植民地統治下でひそかに書いた小説で「アジアの孤児」と表現したが、そうした状況は戦後の台湾史にも当てはまる。

 映画「台湾アイデンティティー」はいわゆる「日本語世代」の台湾人6人へインタビューを重ねた記録である。

 黄茂己さんは戦時中、日本の高座海軍工廠で働いた。戦後、台湾へ戻って教員となったが、白色テロに怯えた日々を回想する。張幹男さんは独立運動への関与を疑われて火焼島(緑島)の政治犯収容所へ送られた。釈放後、旅行代理店を立ち上げ、働き口のない元政治犯を積極的に受け入れる。火焼島へ送られる前に一時的に収監されていた台北近郊、新店の監獄まで取材班は案内されるが、つらい記憶が蘇ってくるようで、その後、体調を崩してしまったらしい。

 呉正男さんは陸軍の航空通信士として北朝鮮で敗戦を迎え、ソ連軍の捕虜となって中央アジアでの強制労働に従事。日本へ戻り、横浜の中華街で銀行に就職する。長年、日本で暮らし、帰化申請をしようとしところ、役所の人から「帰化申請が却下される場合もあります」と言われた。単に役人としての形式的な発言だったのかもしれない。しかし、本人としては、軍歴もあり、日本語も流暢で日本人と変らないのだから、喜んで受け入れてくれて当然と考えていたため失望し、結局、帰化申請はやめてしまった。「残留日本兵」としてインドネシア独立戦争に参加した宮原永治(台湾名:李柏青、インドネシア名:ウマル・ハルトノ)さんは、「何人として死ぬんですか?」という問いに、自分はインドネシア人だ、と答える。呉正男さんはソ連に抑留されていたので二二八事件に際会することはなかった。宮原永治さんはインドネシアへ進出した日本企業の現地駐在員として働いていたとき、一度だけ台湾へ帰郷したが、家族から「すぐに帰れ」と言われ、それ以降、戻っていない。戒厳令下、いつ連行されるか分からなかったからだ。

 ツォウ族の高菊花さんは、父・高一生の思い出を語る。高一生は原住民の自治を主張していたため国民党から睨まれ、銃殺された(高一生については、《台湾百年人物誌 1》[玉山社、2005年]所収の「高山船長、高一生」を私的に訳出してあるので参照のこと→http://docs.com/PJC2)。残された家族に対しても嫌疑が解かれることはなく、菊花さんは生活のため高雄へ出て歌手となったが、特務による執拗な尋問が続いた。親族の鄭茂李さんは穏やかな人だが、二二八事件に参加している。当然ながら、その後はつらい思いをした。話を聞きながらもらい泣きする監督に鄭茂李さんが「泣かないでください」と涙ながらに声を掛ける姿が印象的だった。

 「時代が悪かった」「これも運命だよ」──こうした言葉をどのように受け止めたらいいのか。つらい仕打ちを噛み締めながら、懸命に生きてきた。同時に、不条理な運命に翻弄されて命を落としていった身近な人々への思いもここには込められているはずだ。

 人はゼロの地点から生きているわけではない。歴史は現在の我々と良くも悪くもつながっている。そのつながりを見失ったとき、自分自身がいま生きているこの世界を見つめる眼差しもあまりに貧弱なものとなってしまうだろう。歴史学者の周婉窈(台湾大学教授)は高一生を追悼した文章で、国民党の統治下で抹殺された歴史の空白とそれによってもたらされた精神的喪失の重大さに驚き、高一生をはじめ失われた数多の人々の思い出を取り戻すことの大切さを説いている(周婉窈〈高一生、家父和那被迫沈默的時代──在追思中思考我們的歷史命題〉《面向過去而生》[允晨文化出版、2009年]→http://docs.com/PHH7に私的に訳出した)。

 戦時下に青春期を過ごした台湾人について、周婉窈は「ロストジェネレーション」と表現している(《海行兮的年代──日本殖民統治末期臺灣史論集》允晨文化出版、2003年→こちらを参照のこと)。日本の植民地統治下で一所懸命に学んだ日本語は1945年を境として敵性言語となった。日本語を公的な場で使うわけにはいかない一方、台湾人が抑圧された国民党の権威主義体制への反発は、日本語に一つの拠り所を求める心理的作用をもたらした。彼らが敢えて日本語で語る言葉には、暗い時代を生き抜いてきた様々な思いが刻み込まれている。その体験的意味は、我々日本人が当たり前のように日本語を用いるのとは明らかに異なっている。日本語を使うからと言って安易に「親日」というカテゴリーで括ってしまうわけにはいかない記憶の余韻、そうした深みまで何とか耳を澄ませられるように努力したい。

 インドネシアの宮原永治さんが「あなたには想像も出来ないだろうけどね」と吐き捨てるようにつぶやいた言葉が耳に痛い。確かに共感できるなんて考えるのはおこがましいかもしれない。だが、「日本語世代」は相当な高齢であり、彼らの話を聞き取るのに残された時間は限られている。「台湾人生」「台湾アイデンティティー」に続き、第3作目の企画も進行中と伝え聞くが、是非成功させて欲しいと願う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月14日 (日)

駒村吉重『山靴の画文ヤ 辻まことのこと』

駒村吉重『山靴の画文ヤ 辻まことのこと』(山川出版社、2013年)

 私は必ずしも辻まことの文章やイラストを好んで読んだり見たりしてきたわけではない。ただ、話術も豊かで誰とでも気軽に付き合い、洒脱でスマートな雰囲気を彼は醸し出していた一方、どことなく暗さも感じさせるのはなぜだろう、そんな不思議な印象も漠然とながら感じていた。

 「彼は辻潤と伊藤野枝のあいだに生まれた。だが彼は自分で自分になったのだ。辻まことは辻まことの独創である」とまことの友人であった矢内原伊作は記している。血筋にからめてお手軽な批評を戒めるという意味では異論はない。だが、ことさらな決め台詞に「なんだか乱暴だなあ…」と著者は違和感をおぼえたというが、私も同感である。

 このブログのタイトル「ものろぎや・そりてえる」とは、まことの父・辻潤の文章から拝借しており、私自身、以前から辻潤という人物に関心を抱いていた。まことは父について語るのを嫌がっていた。ただ、残されたいくつかの回想を読む限り、辻潤のことを誰よりも深く理解していたのは、他ならぬまことだったと思う(以前にこちらで触れた)。逆に言えば、辻まことのことを考えるにしても、辻潤の思想──すなわち彼の人生そのものともまた切り離せない。本書を読みながら、改めてそう実感した。

 辻潤のあまりにも不器用な人生と比べると、まことのスマートさは一見したところ対極的である。ところが、著者がまことをじかに知る人々へ重ねたインタビューでこういう話があったのが目を引く。まことの社交性、言い換えると「世渡り上手」なところに若干の嫌悪感をもらしたところ、「ありゃ、子どものころに身についちゃった『居候』の智恵なんです…」と返ってきた。なるほどと思った。表面的には周囲へ適応しつつ、余人にはなかなかうかがい知れない孤独を抱えていたのも辻まことという人の一つの姿であった。彼の器用に見える社交性は、逆にそこには収まりきれない何かをうっすらと浮かび上がらせてくる。

 辻まことが記した次の一文は、辻潤という人物を見事に的確に表わしていると私は考えている。

「自分自身を生命の一個の材料として最も忠実に観察し、そこに起る運動をありのままに表現する作業、つまり、客体としての自己を透して存在の主観を記述したのが辻潤の作品なのだ。最も確実な個性を、個性的な忠実さで個性的に追求したために、ついに個性などというものを突抜け、人間をつきぬけ、生物一般にまでとどこうとしてしまった存在なのだということができるかも知れない。」(辻まこと「辻潤の作品」『辻まことセレクション2 芸術と人』平凡社ライブラリー、1999年)

 一人の人間が生きるというのは思えば大変なことで、誰一人として同じ人生を生きることはあり得ない。善悪是非の問題とは次元が異なり、一切の前例があり得ない中で、自分の人生をひたむきに生き抜くしかない。社会的な価値判断からすれば「だらしない」とマイナスのレッテルを貼られてしまうような人生であっても、それもまた自らに与えられた必然的な生であると自覚的に捉えなおす。その意味で、存在論的な懊悩をそのままのものとして自らの人生を全うしようとしたところに辻潤という一つの現象の不思議さがあった(そうした生き方を山本夏彦は愛おしさを込めて「ダメの人」と表現している)。辻まことはそうした父の苦しさをよく見ていた。

 辻潤は発狂した。精神病院まで身柄を引き受けに行った辻まことは難儀したことだろう。しかし、その時に父から次のように言葉をかけられたことに衝撃を受けたという。

 「──お互いに誠実に生きよう。
 異常に高揚した精神につきあって私も不眠が続いていて、こっちもすこしはオカシクなりかけていたのだが、この言葉とそのときの冷静な辻潤の面持ちのなかには一片の狂気のカケラもなかった。そして、この言葉は私の心に深く刺さりこんだ。
 直観的に、この言葉が、お互いの関係の誠実という意味ではないことを悟った。彼は私に「自分の人生を誠実に生きる勇気をもて」といっていたのだ。そして自分は「誠実に生きようとしているのだ」といっていたのだ。
 一寸まいったのである。」(辻まこと「父親と息子」同上)

 辻潤と辻まこと──もちろん、パーソナリティーは全く違うし、山と絵を愛したまことの描くものは父親の趣向とは異なる。ただ、まことは時折、「辻潤ならどんなふうに考えたろう」と自問していたという。社会的破綻者であった辻潤に具体的な行動指針を求めることなどできるわけがない。しかし、自分の人生を誠実に生き抜くということ、一般論のあり得ない難しさを引き受けて生きること──「自由」という概念にまとめてしまうとスカスカになりかねない苦しさに迷ったとき、まことは父・辻潤の存在を意識していた。少なくとも私はそのように考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月 7日 (日)

李学俊(澤田克己訳)『天国の国境を越える──命懸けで脱北者を追い続けた1700日』

李学俊(澤田克己訳)『天国の国境を越える──命懸けで脱北者を追い続けた1700日』(東洋経済新報社、2013年)

 警備兵の監視の目をかいくぐって中朝国境を渡り、公安の摘発におびえながら中国に潜伏、何とか東南アジアなど第三国に脱出して韓国大使館に駆け込んでも、外交問題への懸念から必ずしも受け入れられるわけではない──いくつもの関門をくぐり抜けたとしても成功の見通しは覚束ない過酷な脱出行。そうした文字通り命懸けの脱北者支援活動に同行取材した記録である。

 そもそもが非合法な活動であるため、欲得や裏切り、身を切られるような悲しい別れ、人間の様々な姿も見せつけられる。タフな精神力と決意がなければ、やっていけるものではない。そうした中、二つのタイプの人物が目に付く。第一に、キリスト教の伝道師。本人もギリギリの生活をしている上に借金を重ね、すべてを持ち出しながら命懸けの活動に従事する使命感。第二に、現地のブローカー。麻薬密売など非合法ビジネスで荒稼ぎをしていたが、国境越えのルートを熟知しているため脱北者を連れて行くよう依頼された。当初はもちろん報酬目当てだったが、脱北者の苦境をじかに聞き知り、脱北に成功した時の彼らの晴れやかな表情を見たときの達成感から、いつしか利害を度外視して協力するようになったという。

 中国潜伏中に生れた脱北者の子供たちには国籍がない。そこで、欧米の理解ある家庭へ養子に出す活動も行われているが、倫理面も含めて色々と問題はある。また、各国大使館・領事館へ脱北者を集団駆け込みさせ、その様子を撮影して配信するなど、いわゆる企画脱北には政治的パフォーマンスだという批判もある。しかしながら、打てる手が限られている中、毀誉褒貶を度外視してなりふり構わずやれることをやるしかない、そうした苦境は無視できない。

 脱北者が何とか韓国にたどり着けたとしても、安住の地にはならない。政治的判断としての受け入れと、実際に社会的に受け入れられるかどうかは別問題であり、脱北者が韓国社会で味わう疎外感が問題化している。同胞から余計者扱いされるくらいなら第三国で差別されるほうがまだマシだと欧米へ渡ったり、北朝鮮側の工作に応じて戻ってしまうケースすらあるのだという。国境を渡っても、その先には別の形で不条理が待っている──北朝鮮というブルータルな体制の闇は深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧