カテゴリー「雑記」の9件の記事

2009年2月10日 (火)

何となくプロメテウスで雑談

 天界から火を盗んで人間に与えたため、ゼウスの不興をこうむってコーカサスの岩山に縛り付けられたプロメテウス。荒鷲に体をついばまれても元通り、苦痛が延々と続く。巍巍として荒涼たる岩山に、グリューネヴァルトのキリスト磔刑図のような姿で括りつけられ、天空いと高きところに荒鷲がンギャア、ンギャアと鳴いている、そんなイメージがある。アイスキュロス(呉茂一訳)『縛られたプロメーテウス』(岩波文庫、1974年)は、こうした不条理に耐えつつ、全能なるゼウスに毅然として対峙する雄雄しい姿を描いている。ゼウスに向かって呪詛の言葉をはっきりと投げつけるところなど『ヨブ記』とはだいぶ違う。

 ロシア革命の混乱の中、1918年に独立を宣言したグルジア共和国は1921年にボルシェビキによって制圧され、共和国指導層は国外に亡命、プラハ、パリ、ワルシャワなどで拠点組織を設立。パリで発行された機関誌のタイトルはProméthéeとつけられた。亡命組織の中でも色々な思惑があったらしいが、反ボルシェビキという点で一括してPrometheanismと呼ばれたという(Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008, p.174)。プロメテウスにはコーカサスという土地のシンボル的イメージがあると同時に、独立へ向けての不屈の意志という意味合いも当然ながら込められていたのだろう。

 スクリャービンの交響曲第五番は「プロメテウス、あるいは火の詩」。この曲の独特なところは、照明の色彩とピアノの鍵盤とが連動した色光ピアノを使うよう指示されていること。通常、人間の知覚能力は目で色彩を把握し、耳で音を聞き取るという形で五官の機能が働いているが、こうした感官機能の作用が通常とは異なる人が稀にいるそうだ。共感覚というらしい。スクリャービンや、あるいはランボーなどもそうだったという説もある。「俺は母音の色を発明した。──Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑」(小林秀雄訳『地獄の季節』岩波文庫、1970年、30ページ)。

 コーカサス→プロメテウス→火、と言えば、カスピ海は石油の宝庫。湖畔で石油が燃え上がる光景はゾロアスター教徒にとって重要な意味を持った。イスラム化する以前、アゼルバイジャンのあたりにはゾロアスター教が広まっていたし、遠方からもわざわざ見にやって来る信徒もいたという。

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2009年1月25日 (日)

佐藤優がサンプロに出てたな

 今朝、佐藤優が「サンデープロジェクト」に出てたな。テレビ初出演との触れ込み。以前、何度か彼の講演会を聴きに行ったことがあって、そのたびに「書籍の文化は大切だと思うので書店での講演はボランティアでやるが、テレビには出たくない」という趣旨のことを話していたけど、田原総一郎との共著が出たばかりだから、そのプロモーションということで断れなかったんだろうな。

 佐藤優『国家の罠』(新潮社、2005年)を読んだときの驚きは以前こちらに書いたことがある。ただし、最近のものはちょっと食傷気味で読んでない。彼の国際情勢分析や国家論に興味ないわけじゃない。ただ、私の佐藤優の読み方は他の人とはちょっと違って、ある種の不条理にぶつかったときの態度の取り方として毅然としたものが『国家の罠』によく表われているところに興味を持った。彼の思想的バックボーンにはキリスト教がある。彼がむかし訳していたフロマートカ『なぜ私は生きているか』(新教出版社、1997年)をすぐ探し出して読んだ(こちらを参照のこと)。巻末に付された彼の解説論文がなかなか良かった。佐藤自身の考えるキリスト教神学論をまとめてくれたら是非読んでみたいと私は切望しているのだが、まあ売れないだろうからなあ。

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2008年8月 8日 (金)

原爆をめぐって

 今週、ある寝つけない夜、テレビをつけたらスティーヴン・オカザキ監督「ヒロシマナガサキ」を放映していた。去年のちょうどこの時期、岩波ホールで観た(→記事参照)。ある被爆女性が語るシーンにさしかかったところだった。その方は姉妹ともに被爆、明言はされなかったが心身共に人知れぬ苦しみを抱え続けなければならなかったのだろう、妹は自殺してしまったという。「人間には、生きる勇気と死ぬ勇気と二つの勇気があるのだと思います。妹は死ぬ勇気を選び、私は生きる勇気を選びました。」この言葉は去年観た時からずっと頭に刻みつけられていた。

 何で読んだのか記憶が曖昧なのだが、ある進歩的とされる知識人がこんなことを書いていたように思う。被爆体験者から話を聞いていた修学旅行生から「それでもやはり日本は侵略戦争を反省しなければいけないから仕方ないことだと思います」というセリフが出てきて、さすがの彼も唖然としたという。しかし、かく言う私だって笑えない。非核地帯構想をテーマに国際法を専攻する友人がいるのだが、彼と会うたびに、そんなの国際政治のリアリズムからはただの空論に過ぎないと議論をふっかける。その時、被爆者のことは念頭にない。もちろん、極論をぶつけることで議論を深めようという意図があるにせよ、ときどき我に返り、「自分はいま知的ゲームとして議論を弄んでいるだけだな」と上滑りした自分の言葉に嫌悪感を覚えることがある。

 何と言ったらいいのか難しいけれど、型にはまった政治図式が私の頭の中にこびりついていて、それがざわつくというか妙な理屈を介在させてしまって、被爆者の抱えたつらさを素直に受け止めることができない。そうした不自然な自分自身に冷たさを感じ、もどかしく苛立ちがある。去年の夏、広島へ行き、原爆にまつわる場所を汗だくになりながら3日間かけて歩き回った。単に現場を見るという以上に、巡礼なんて言い方をするのはおこがましいが、ひたすら歩きながらこの妙なこわばりを振り捨てたいという気持ちがあった。

 被爆者も高齢化しつつあるが、被爆体験の語り継ぎはやはり大切だと思う。かつては被爆体験を語ること自体が難しかった。GHQによるプレスコードがあったし(堀場清子『原爆 表現と検閲』朝日選書、1995年)、名乗り出ることで社会的差別の視線にさらされるおそれもあった。何よりも、語ること自体が、その時の悲惨な光景をまざまざと思い返すことになり、耐え難い苦痛を強いることになる。原爆をテーマとした作品では、なぜ自分だけ生き残ったのかと自責の念にかられる姿がしばしば描かれている。

 「ヒロシマナガサキ」で女性が語っていた“生きる勇気”と“死ぬ勇気”。自殺を逃げだなんて言うことは絶対にできないし、生き続けるだけでも様々な苦痛があったであろうことは余人には何とも言い難い。そして、語ることには、そのこと自体に勇気が要る。十重二十重の苦しみを通してにじみ出た言葉はやはりないがしろにはできない。

 核による悲劇の語り継ぎは、日本国内におけるタテの時系列だけに限定されるものではない。日本以外、いわばヨコの軸にも目を向けなければならない。例えば、中国の核実験。この場合、“語る”ことには政治的リスクを賭けた、また別の意味での勇気が必要となる。

 ウイグル人医師アニワル・トフティさんの講演会を聞きに行った。中国の新疆ウイグル自治区、ロプノールの近くでは1964年から1996年にかけて46回の核実験が行なわれた。住民の深刻な健康被害に気付いたアニワルさんは調査を始めたが、イギリスの報道番組「シルクロードの死神」の取材に協力したため、政治亡命せざるを得なくなってしまった。

 講演内容は主催者・日本政策研究センター発行『明日への選択』に掲載されるそうなのでそちらを参照されたい。水谷尚子『中国を追われたウイグル人』(文春新書、2007年)にもアニワルさんの話は紹介されている。また、新疆ウイグル自治区での健康被害の具体的な状況について中国政府は情報公開をしていないが、高田純『中国の核実験──シルクロードで発生した地表核爆発災害』(医療科学社、2008年)が外部で入手可能なデータ(特に隣国カザフスタンでの測定値)を最大限に駆使しながら放射線医科学の立場から推計を行なっている。

 アニワルさんは8月6日の広島での式典参加のため来日された。8月8日は北京オリンピックの開幕式だが、1964年、東京オリンピックの開幕式のすぐ後に中国は初の核実験を行なったことにアニワルさんは注意を喚起する。東トルキスタンの人々が漢人によって圧迫されているという政治的現実があるが、ウイグル人ばかりでなく漢人にだって被害は出ている。中国政府は核汚染はないという立場を崩さないので、こうした人々は放置されたままだ。国家的威信を誇示するために人命が軽視されている。政治問題以前に、明らかに人道問題である。情報統制の厳しさのため、放射能被害にあえぐ人々の声はなかなか外に出てこない。もし日本が“唯一の被爆国”であることを国是としているならば、政治という厚い壁に閉ざされている中でともすればかき消されかねない声を伝えようとするアニワルさんの勇気にも耳を傾けなければならないと思う。

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2008年7月28日 (月)

ウイグル問題についてメモ②

 ウイグルの問題、あるいはチベットの問題についてもそうだが、いわゆる“ぷちナショナリズム”的なネット世論の中で、中国バッシングの道具として使われる傾向がある、そんな印象が私には強い。もちろん、真面目に考えている人もちゃんといる。しかし、理性的な人は静かに語るけど、思考回路が単純→声のでかい人ばかりが目立ってしまうのがこの世の常。このあたりの違和感は、水谷尚子『中国を追われたウイグル人』のあとがきでも吐露されていた。

 ウイグル問題を日本人のナショナリスティックな動機から中国バッシングの道具として利用するのは、彼らの苦境を他人事して鬱憤晴らしに消費しているだけのことで、私はあまり感心できない。さらに問題なのは、事情をよく知らない日本の一般の人々に対して、ウイグルやチベットの問題→中国バッシング→ああ、右翼の人たちね、みたいな妙な誤解がイメージとして定着しかねないこと。正直に言うと、私自身もかつてそうした色眼鏡で見ていた。

 先日、水谷尚子さんから直接お話をうかがう機会があった。ウイグル問題が日本で妙に誤解されたり政治運動化されたりということについて語るとき、表情にさびしそうな疲れたような翳りがよぎった。水谷さんははちきれんばかりに元気一杯な明るさがとても魅力的で、表情の喜怒哀楽がはっきりした方なので、その時の表情の翳りがなおさら強く印象に残っている。

 水谷さんご自身は研究者として政治的党派性から中立でありたいと考えておられるが、実際には色々なしがらみがあって難しいらしい。それでも、「誤解されるのを恐れて何も言わないよりも、誤解されても言うべきことはきちんと言った方がいい」とおっしゃるのをうかがって、私は襟を正さねばならない気持ちになった。具体的なアクションを取ろうとすれば戦術として政治にも接近せねばならない。しかし、政治は不本意な副作用をもたらすことがある。バランスが本当に難しい。

 それに、水谷さんはウイグル人亡命者からの丹念な聞き書きの仕事を続けつつ、同時に中国への愛着も持っている。『「反日」解剖──歪んだ中国の「愛国」』(文藝春秋、2005年)にしたって、日中双方の風通しの悪さを何とか崩してやろう、その上で良い関係を築いていこうというのが本来の動機だと思う。中国にも愛着があるからこそ、中国政府がウイグル人に対して苛酷な政治弾圧を行なっていることを悲しんでいる。それでも、ウイグル人の置かれた状況を考えれば、やはり異議を唱えざるを得ない。不本意な形で二者択一を迫られてしまう。おそらく、失ったものの大きさに耐え難いつらさも抱えておられるのではないかと心ひそかに推察している。

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2007年7月21日 (土)

外地にいた祖父母のこと(2)

(承前)

 断片的に聞いた話を思い出して整理しながら、私が一番興味をひかれるのは満州にいた母方の曽祖父だ。

 仮にKと呼ぶことにしよう。何でも、若い頃、伊達順之助の不良仲間だったらしい。伊達は檀一雄『夕日と拳銃』のモデルで、満州で馬賊の親玉となったことで知られる(と言っても、ある年代以上の人にしか分からないだろうが)。敗戦後は戦犯として上海で処刑された。

 Kは英語がよくできたので横浜の貿易会社に勤めていた。ところが、関東大震災の余波でこの会社が倒産したため(この時、祖母は曾祖母のお腹の中にいて、地震のショックで予定日よりも早く生まれたそうだ)、伊達を頼って満州に行った。Kはなかなかやり手だったようで、満州興商?(未確認)とかいう会社の重役におさまったらしい。重役室の大きな机の前に座って執務している彼の写真を大伯父から見せてもらったことがある。

 Kはいわゆる大陸浪人タイプだったのだろう。家族はほったらかしで、大伯父も祖母もKについて詳しいことを知らない。伊達とのつながりで満州に来たのなら、やはり裏工作に従事していたようにも思われる。奉天という土地柄を考えると、たとえば奉天特務機関の土肥原賢二、さらには甘粕正彦や里見甫をはじめ、ひとくせもふたくせもある輩とも関係があったのか、そういった想像をたくましくしてしまう。

 戦争中の1943年、Kは50歳になるかならないかのまだ働き盛りの年齢で病没した。戦後まで生きていたら、ひょっとしたら戦犯として拘留されたかもしれない。Kの死により一家は日本に引き上げたので、満州国崩壊・ソ連侵攻という混乱には巻き込まれずにすんだ。Kは相当な金額の遺産を残してくれたらしいが、曾祖母が世間知らずで才覚が働かず、敗戦ですべて紙くずになってしまった。

 Kは器用というか、多趣味な人だった。前にも触れたように料理が好きで、外で食べた味を自分なりに工夫して再現するなんてこともしていた。カメラも趣味で、特急アジア号の前に立つ秩父宮をKが撮影した写真が大伯父のもとにあった。

 そうした中の一枚であろう、Kの姉、仮にTと呼ぼうか、彼女が写った写真を私の母が大伯父から譲り受けて大切に保管している。セピア色の変色が時の経過を感じさせる写真だ。Tは布団の上で半身起き上がり、絵筆を取っている。病床なのに、どことなくハイカラな雰囲気が伝わってくる。彼女は女子美術学校に通っていた。大正時代、女子美がまだ本郷菊坂にあった頃だろう。

 Tは結核に冒されており、在学中に亡くなった。Kはそうした薄倖の姉を、その死後もずっと慕っていたらしい。曾祖母とはあまり仲がしっくりしていなかったようなのだが、一つにはKの姉への想いに曾祖母が嫉妬していたのではないかともいう。

 私の母はもちろんTに会ったことなどない。ただ、病床で絵筆を取るTの凛々しい姿を見て憧れを抱き、大伯父にせがんでこの写真をもらってきたそうだ。

 ルーツ探し、というほど大げさなことは考えていない。私はもともと日本とアジアの現代史には関心があった。少し話を聞いただけでも、そうした現代史の背景知識とのつながりが一応はわかる。そうやって腑分けしながらたどっていくと、歴史の中に翻弄された一人ひとりそれぞれにとっての人生のドラマが窺えるし、それが自分にもつながっているというのが不思議に面白い。私は中学・高校生の頃、モンゴルに憧れていた時期があったのだが、外地にいた祖父や曽祖父からの血が呼び覚ましたのかとも話をこじつけたくなる。存命のうちにもっと話を引き出しておけばよかったという後悔を今さらながらに感じている。

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2007年7月20日 (金)

外地にいた祖父母のこと(1)

 先日、実家が引っ越すというので荷物の整理に行った時のこと。祖母が「こんなのが出てきたのよ」と言いながら古びた紙片を見せてくれた。祖母が女学校を卒業した後に作られた同窓会名簿だった。ほとんどが東京在住者ばかり。2名ほど中国からの留学生がいて、中華民国済南市、蘇州市といった地名が見える。

 祖母の名前の下を見ると、満州国奉天市大和区○○町××となっていた。現在の遼寧省瀋陽である。父親(つまり、私の曽祖父)が満州で仕事をしていたので、祖母もしばらく奉天で暮らしていたのだ。近くに奉天医科大学があったという。

 東京から奉天へ向かうには、まず下関まで行き、関釜連絡航路で釜山に出る。あとは朝鮮鉄道・満鉄直通の汽車で奉天まで一本で来られた。祖母が「前の席に飯沼飛行士が座っていたのよ」と楽しそうに言うのだがピンとこない。後で調べたところ、昭和12年に東京からロンドンまでの連続飛行で世界記録を樹立した「神風号」の飯沼正明飛行士のことだと分かった。飛行機の名前のせいで戦後は色々と誤解があったのだろう、いつしか忘れられてしまった人物である。当時としては誰もが名前を知っている、時代のヒーローだったらしい。いわば日本のリンドバーグというべき存在だ。

 祖母によると、奉天はとにかく凍てつくように寒かったが、雪の印象はないという。ロシア人の経営するレストランが割合とあって、たまには外食でもしようという折に行ったそうだ。オムレツが大きくておいしかったと懐かしげだった。曽祖父は器用な人だったようで、ロシア料理の味をすぐに覚えて自分でも作っていたらしい。

 「現地の中国人が満鉄警備隊にひどく殴られているのを見て、いたたまれない思いをしたことがある。日本は本当にひどいことをしたものだ」とも語る。聞きながら、何となく武藤富男の名前を思い浮かべていた。祖母は明治学院長だった武藤に感激してわざわざ会いに行き、自身の長男(つまり、私の伯父)を明治学院に入れていた。武藤は官僚出身で満州国では甘粕正彦の側近となったが、戦後は前非を悔い、クリスチャンとなって反戦平和を唱えていたことで知られる。

 祖母の長兄(私の大伯父)は奉天の平安小学校の出身である。満映の大スター、李香蘭こと山口淑子も学年は違うがここの同窓で、彼女が日本人であることは早くから知っていたという。

 なお、大伯父は学徒動員組である。雨が降る神宮球場で行なわれた壮行会の映像は昭和史のドキュメンタリー番組でよく取り上げられるが、あの中にいた。女学校在学中だった祖母も見送りに行った。宇品の暁部隊に配属され(丸山眞男もここにいた)、原爆投下直後の広島に入った。この時に被爆したらしく、毛が抜けたり出血したりという症状がしばらく続いたという。被爆者手帳はもらっていない。戦後すぐ共産党に入党したため会社で冷遇されたこともあり、酒びたりの大荒れの時期があったと聞く。

 祖父母が父方・母方ともにいわゆる“外地”にいたということが、私には不思議なほどに関心をそそられる。

 満州にいたのは母方の祖母である。結婚したのは戦後だが、祖父も大陸にいた。祖父は旧制の高等農林学校を卒業した後、就職先がなかったので学校で理科を教えていたらしい。いわゆる“でもしか教師”である。間もなく朝鮮総督府に職を得た。一年間ほど京城(ソウル)にいてから、北京にあった満鉄の子会社・華北交通に移る。北京で現地応召されたが、すぐに爆弾で吹き飛ばされて本土に戻され、敗戦を迎えた。体内に爆弾の破片が死ぬまで埋め込まれたままだった。

 滅多に昔話をしない人だったが、測量技師として張家口など黄河北岸あたりの調査旅行に参加した時の話を晩年になって聞いたことがある。当時の中国の農村ではどんな家畜飼育をしていたのかなど語ってくれたが、詳しいことは覚えていない。メモしておけばよかったと今さらながらに思う。中国語の通訳が朝鮮人だったらしく、日本語・中国語ともに堪能だったことに感心していた。「よその国に支配されてしまって、生き残るために必死だったんだろうなあ」と目を細めていたのが印象に残っている。

 父方の祖父母は台湾にいた。祖父は台北の旧制中学で教員をしており、やはり現地応召されて戦車部隊に配属されたと聞いている。日本人生徒と現地の生徒とで差別的な扱いをしなかったので慕われたらしく、戦後も昔の教え子たちからたびたび招待されて台湾に行ったという。鬼籍に入ってから十年以上経つが、色々と話を聞いておけばよかったと後悔している。祖母も台北で女学校を出ており、訪ねていくと得意料理のビーフンを作ってくれたものだ。

(続く)

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2007年7月 9日 (月)

なつかしい本

 実家が引っ越すことになり、置きっぱなしにしていた荷物を整理しに行った。無味乾燥な典型的な郊外住宅地。正直言ってあまり好きな土地ではなかった。しかし、4歳の頃から20年以上暮らした年月の重みはひしと感ずる。

 それにしてもよくためこんだものだ。私が、ではなく、母が、だが。図工の作品やら、作文やら、テストの答案やら、とにかくざっくり捨てた。小学生の頃、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズが大好きで、その影響を受けてだろうが、冒険小説だか推理小説だかよく分からない代物を書いていたのが結構出てきた。中には原稿用紙100枚以上の大作(?)もあった。すっかり忘れていた。家族から笑われながら捨てた。高校生の頃の日記は笑いごとではない。家族の眼に触れる前にいち早く確保。焼却処分も考えたが、取り合えず保存しておくことにした。色々とあったんでね。

 小さい頃に読んでいた本はやはり捨てがたい。懐かしいばかりでなく、今読んでもなかなか面白いのだ。ポプラ社の江戸川乱歩シリーズはすべて読破した。大半は図書館で読んだが、7冊ほど私の“蔵書”にもあった。大正・昭和初期の風景的イメージは乱歩で最初に形成されたことに改めて気付かされる。ちなみにこのシリーズ、第26巻『二十面相の呪い』までは少年探偵団ものだが、第27巻『黄金仮面』以降はもともと大人向け。時折、エロチックなシーンがあって胸をドキドキさせたのを思い出す。『人間椅子』『芋虫』といった本格的なエロ・グロものを読むのはもっと大きくなってから。

 絵本もなかなか楽しい。『ぐりとぐら』『だるまちゃんとてんぐちゃん』シリーズはいまだに続編が量産されている。スロヴァキア民話をもとにした『十二の月のおくりもの』の絵柄は記憶に鮮明に残っていた。丸木俊の絵筆になるが、今になって振り返ると、全体的に黒っぽいトーンは「原爆の図」と同じだな。ネパール民話『プンク・マインチャ』は絵が恐くて夢にうなされながら、それでも繰り返しページをめくっていたのをよく覚えている。秋野亥左牟という人が描いた絵だ。よほど強烈な印象を感じたようだ。それから、私は全く覚えていなかったのだが、母から聞いたところ、『よかったねネッドくん』という絵本が私の大のお気に入りで毎月一回は必ず図書館から借りていたらしい。これは教文館「ナルニア国」へ行くと今でも平積みしてある。児童書の息の長さには本当に驚く。

 何よりも大好きだったのは『東洋童話集』。創元社「世界少年少女文学全集」のうちの一冊だ。奥付をみると昭和29年の刊行。執筆者として金田一京助(アイヌ学)、松村武雄(神話学)、服部四郎(言語学)、魚返善雄(言語学)など当時の碩学が名前を連ねている。イマジネーションを豊かに刺戟してくれて、今でも読後の余韻を思い出せるほどに印象深い本だ。大叔父から母のもとに渡り、それを私が読んでいた、いわば受けつがれてきた本。ボロボロだが、こういう本こそ捨てられない。

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2007年6月17日 (日)

ある一日(2007年6月17日)

 機会を改めて書くつもりだが、先日、タナダユキ監督「赤い文化住宅の初子」という映画を観た。このスピンオフとして奥原浩志監督「16[jyu-roku]」がシネ・ラ・セットで上映中なのを知り、渋谷へ行った。

 着いたのは午前十一時過ぎ。昨晩、寝しなにチャイコフスキーを何曲か聴いたせいだろうか、ふと、ロシア料理のロゴスキーへ行こうと思い立った。いつも混んでいるが、この時間ならまだすいているだろう。私は、マッシュルームと鶏肉をクリームで煮込み、パン生地でフタをした壷焼きが大好きだ。これにボルシチ、肉料理、ライス(もしくはパン)、飲み物付きの壷焼きランチが1,300円(+税)。満足度から言って全然高くない。ロシア料理の店では他に新宿のペチカ、スンガリー、神保町のロシア亭などに入ったことがあるが、私にとってはやはり渋谷のロゴスキーが一番良い。

 初めて来たのは学生の頃だから、もう十年以上前になるか。『週刊文春』の最後に有名人がおすすめの店を紹介するコーナーがあった(まだ続いているのだろうか?)。そのページで、共産党の志井和夫書記局長(当時)がシベリア帰りの義父からごちそうしてもらったというロゴスキーのウズベク風ピラフをうまそうに食っていたのを友人が目ざとくみつけ、ちょっと行ってみようじゃないかとなったのがきっかけ。以来、折に触れてよく一緒に行った。その友人が真っ昼間からウォッカで出来上がり、私の制止もきかずに、なぜかトランプを出して遊び始め、店の人から白い眼で見られたのもなつかしい。そんな思い出深い(?)ロゴスキー本店はなかなか雰囲気があって好きだったが、いつの間にかチェーンの居酒屋に変身していた。東急プラザの上にも店舗を出していたので、今ではこちらに行くしかない。

 食べながら無性にロシアものの本を読みたくなって、五階の紀伊国屋書店へ行った。土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』(講談社、2007年)を購入。この「興亡の世界史」シリーズは企画の趣旨が面白そうで期待している。ただ、刊行予定のラインナップを眺めていたら、第18巻が姜尚中『大日本・満州帝国の遺産』となっているのが少々気にかかる。結論の落としどころが何となく見えてしまうと言おうか…。いやいや、先入観は捨てて期待しよう。

 シネ・ラ・セットへ行きチケットを買ったが、上映まで時間がある。しばらく時間をつぶそうと、向かいのBUNKAMURAへ寄った。「プラハ国立美術館展 ルーベンスとブリューゲルの時代」をやっていたので入る。

 タイトルから分かるように、十七世紀フランドル絵画が展示の中心。当時のフランドルはハプスブルク家が支配していたので、プラハにも多くの作品が集まっている。と言っても、複製品が多い。もちろん、ブリューゲルにしても、ルーベンスにしても、工房を組織して息子や弟子たちとの共同作業で作品を量産する態勢を取っていたわけだから、我々の考える“複製品”とは意味合いはだいぶ違う。正直言って、この時代の絵画はちょっと苦手。聖書やギリシア神話のモチーフはだいたい分かるのだが、イコノロジーの知識をまったく持ち合わせていないので、作品の置かれた脈絡の見当がつかない。そういった理解はもうあきらめて、風景の描き方、とりわけ光の加減、人物の表情などをひたすら見つめているだけでも結構楽しい。どんなセリフが合うだろうなんて物語を勝手に想像しながら。

 ちょうどいい時間にシネ・ラ・セットに戻れた。「16」についてのコメントはまた別の機会に。この映画館は、以前、有楽町にあったと記憶している。渋谷に移転してからここに入ったのはこれで二回目。前回は、去年の夏だったか、土屋豊監督「peep TV show」を観に来た。上映終了後に土屋監督、主演の雨宮処凛、そして宮台真司の三人によるトークショーがあった。何が話題となったのかあまり覚えていないが、宮台が中年太りというか、おっさんになったなあと妙なことばかり印象に残っている。

 渋谷に来たら必ずタワーレコードに寄る。六階のクラシック・フロアへ。今日はハチャトリアンの「ガイーヌ」と「スパルタクス」がフロアに流れていた。両方とも有名なバレエ組曲。「ガイーヌ」はコーカサスの山岳地帯(おそらく、チェチェン人)が舞台。部族の有力者に虐げられた女性を現地共産党の指導者が救い出し、めでたく結ばれるというお話。「剣の舞」の激しいリズムは誰でも聴いたことがあるだろう。「スパルタクス」は言うまでもなく古代ローマ時代の剣奴の反乱の指導者。ただし、史実ではスパルタクスはクラッススによって破られるが、旧ソ連版「スパルタクス」では「正義の味方が負けるなんておかしい」というトンチンカンな論法でスパルタクスが勝利する。いずれも「社会主義リアリズム」の傑作である。歴史の機微も無視してしまうような教条主義者は放っといて、ハチャトリアンの軽快なメロディーは好きなので、CDは持っている。だから、先日のように衝動買いする心配はない。

 …と安心していたら、思わぬ伏兵に出くわすのが人生の常。ウラディミール・アシュケナージ指揮、チェコ・フィル演奏によるリヒャルト・シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」のCDが出ていたのだが、なんとこれに、「皇紀2600年奉祝音楽」が収録されているではないか! 皇紀2600年とは西暦1940年、昭和15年、三谷幸喜ファンなら「笑の大学」の舞台がこの年に設定されていると言えばピンとくるだろうか。当時、ドイツ第三帝国音楽局総裁という役職にあったR・シュトラウスが、三国同盟を組んでいた日本のために作曲した幻の曲である(追記:こう思っていたのだが、岡田暁生の解説によると、同盟関係にあるからというよりも、当時の世界的に著名な作曲家に日本政府が記念曲を委嘱するという趣旨で彼が選ばれ、あくまでも職人芸として作曲したということらしい。聴いてみたところ、華やかで悪くはないが、無難にまとまっているという感じ)。私は高校生の頃、R・シュトラウスが好きであらかた聴き漁ったのだが、この曲だけは存在を知りつつも何の情報もないというもどかしさがあった。政治的にどうこうというのではなく、純粋に気にかかっていた。ここで会ったが百年目、買い逃すわけにはいかない。

 タワーレコードのクラシック・フロアに行くと、必ず現代音楽の棚をチェックする。いまだに驚くのは、「The Rise of Fascism」「The Rise of Communism」という二枚が文字通り驚異的なロングセラーを重ねていることだ。ヒトラー、ムッソリーニ、レーニン、スターリン、トロツキーなど二十世紀を騒がせた人物の肉声を収めたCDだが、私がここで買ったのが学生の頃だから、実に十年以上の長きにわたって面陳され続けているということだ。中道のあなたには、と銘打ってジャン・コクトーの朗読CDも置いてあったように記憶しているが、こちらはとっくに消えている。

 現代音楽の棚には書籍も置いてある。おそらく同人誌であろう、『洪水』という見慣れぬ雑誌で伊福部昭特集を組んでいるのを見かけたので、こちらも購入。伊福部昭の曲は、五線譜に書かれたものでありながら、土俗的なメロディーが印象強く耳を打つ。ゴジラのテーマ曲と言えばたいていの人には分かるだろう。呉智英が、もし日本国歌を制定するなら伊福部に作曲させろとどこかで書いていたように思うが、私も大賛成だった。残念ながら、昨年お亡くなりになってしまったが。この人の音楽はもっと評価されていいと思う。

 タワレコに限らず、ここのところ、クラシックCD売場に行って目立つのは『のだめカンタービレ』関連フェアだ。実は私自身、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』(講談社)は好きで、最近出たばかりの第18巻までしっかり読み通している。テレビドラマも一度だけ観たことがあった。上野樹里の奇声をあげる感じは“のだめ”のイメージにぴったりだったと思うが、シュトレーゼマン役竹中直人の“変なガイジン”ぶりが癇に障って二度と観ることはなかった。だけど、原作マンガの方は単に面白いというだけでなく、クラシック音楽を聴く際の情感的な盛り上がりがしっかりと描かれていて非常に良い。

 夕方、まだ陽も残る時間だが、夕食も兼ねて安酒屋に寄る。カウンターで堂々とノートを広げ、呑んだくれながらブログ記事の下書き。 

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2006年12月12日 (火)

はじめに

 こんな方針でブログを運営しようと思います。
① 話題は読書と映画を中心とする(他に趣味がないもので…)。
② 身辺雑記は書かない(書いたって、どうせドラマはありませんから…)。
③ 格好つけずに率直に。批判を恐れず、思いつきでも書いてみる(書き込みへの批判に備えた言い訳です…)。

 私はブログ初心者です。書くのは無論初めてですが、他の方々のブログを読むこともあまりありませんでした。

 また、これからブログを開くに当って、実は読んでもらうことを期待していません。そんなに面白いことを書けるわけがありませんから。

 それなのに、なぜブログなんか始めたのか? 友人から慫慂を受けたというきっかけが直接にはありましたが、それだけではありません。

 ここのところ、自分の思考力が衰えているのを感じています。それは、文章を書く習慣が薄れたせいだと考えています。そこで、最近、ノートを用意して日記をつけようと試みたのですが、3日もすると面倒になってほったらかし。書こうという意欲が湧かないのです。

 書くことは、ものを考える上で不可欠な行為です。自分の意見と思っているものでも意外と他人からの受け売りは多いものですが、それを再吟味するためにも自分自身で文章をつづる作業が有効です。

 言葉には二つの役割があると思います。

 第一に、意見の伝達道具としての言葉。自分の考えを根拠とロジックに基づいて整理し、相手を説得します。

 第二に、自らを映し出す鏡としての言葉。モヤモヤと自分の中にわだかまっているアモルファスな流れ、自分の中に渦巻いているのに、自分でもよく分からないという苛立ちをふと感ずることがあります。そうした表現しがたい何かに、少しずつでも形を与える試行錯誤を通して、自分の生身の感覚を追体験的に意識化する。そうした作業のためにも言葉は効果的です。

 つまり、自身を映し出す鏡として言葉を使ってみる。それは同時に、他人へのコミュニケーション・ツールでもあります。すると、きっかけは自分一人の自己満足のためであったとしても、文章をつづるにはどうしても相手が必要なのです。日記のようにひっそりと自己完結的にまとめるのが可能な表現手段であっても、読まれるという前提がなければ書き進めることができないのです。

 読まれることを期待していないのに、読まれることを前提に書く。何だか妙な話ですよね。ディスプレイの向こうに広がるネットの世界に、私を見ている人が誰かいるのか、ひょっとしたら誰もいないのか、実感的には確証できません。たとえ誰もいなくとも、あたかもいるかのような緊張感を自分に強いると言ったらいいでしょうか。何だか、フーコーが『監獄の誕生』で取り上げたパノプティコンみたいですが(ちょっと違うか…)。

 ブログのタイトルは、「ものろぎや・そりてえる」。寂しき独白、とでも言いましょうか。私は辻潤という人が好きで、彼の文章から拝借しました。

 モノローグとは言っても、特に構えてコミュニケーションを拒絶するつもりはありません。コメントをつけていただけるのは大歓迎です。

 それでは、よろしくお願いします。

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