カテゴリー「哲学・思想」の131件の記事

2017年7月 5日 (水)

深井智朗『プロテスタンティズム──宗教改革から現代政治まで』

深井智朗『プロテスタンティズム──宗教改革から現代政治まで』(中公新書、2017年)
 
 私自身の感覚からすると、ローマ・カトリックや東方正教会については、教義の詳細はよく分からないにせよ、何となくイメージはつかみやすい。対して、プロテスタントの場合は、一言で「プロテスタント」と括ってもその内実は実に多種多様で、少々戸惑ってしまうというのが正直なところだ。本書を通読してから、むしろそうした多様性を許容するところにプロテスタントの特徴の一つがあるのかもしれないと思った。本書はプロテスタントそのものの歴史というよりも、ドイツ社会思想史の文脈の中でプロテスタントが論じられている(第七章ではアメリカ事情にも言及される)。
 
 1517年、マルティン・ルターは贖宥状などバチカンの腐敗に抗議するため、ヴィッテンベルク城の教会の扉に「95ヶ条の提題」を貼りだした。これが宗教改革の始まりとされ、信仰の自由を求める動きは近代思想にもつながっていくと論じられることもあるが、ルターが実際にこの張り紙を出した事実があったかどうかも含め、事情は単純ではないようだ。ルター自身は教会改革の希望を抱いていたものの、新しい宗派を自ら立ち上げる意図は全くなかった。ところが、事態は彼の意図を越えて動き出していく。自覚的な信仰を重視する洗礼主義などよりラディカルな動向に対してルターはむしろ批判的であった。
 
 いずれにせよ、ルターによってもたらされた宗教対立は1555年のアウグスブルクの宗教和議で一つの転換点を迎える。宗教対立の激化が憂慮される中、プロテスタンティズムにも法的な地位がとりあえず認められた。ただし、それは近代的な政教分離の原則とは異なる。領邦ごとに領主が選んだ宗教が公認されるという形で並存が図られた。言い換えると、プロテスタンティズムは領主や領土と結びつくことで社会道徳を提供する役割が期待されるようになり、このように政治体制とつながったルター派を本書では「古プロテスタンティズム」もしくは「保守主義としてのプロテスタンティズム」と呼んでいる。対して、信仰の自由を徹底しようと試みる人々は、古プロテスタンティズムからむしろ迫害され、そうした勢力については「新プロテスタンティズム」もしくは「リベラリズムとしてのプロテスタンティズム」とされる。
 
 保守主義としてのプロテスタンティズムはナショナリズムと結びつく。1871年、プロイセンが普仏戦争に勝利し、オーストリア抜きでドイツ帝国を形成するにあたり、「ルター派は、いくつもの領邦国家を統一して誕生した帝国を精神的にも統一するためのナショナル・アイデンティティの設計とこの統一の政治的道徳性を証明するための政治神学の構築を任された。」「さらには、普仏戦争の勝利の後に成立した帝国の道徳的正当性を説明するためにルター派の神学者は次のようなプログラムを提示したのである。すなわち『ドイツ的なもの』の淵源は、一六世紀にカトリックに対して戦い、近代的な自由の基礎を作り上げたマルティン・ルターとその宗教改革に遡る。」「さらにヴィルヘルム期ドイツで皇帝の正枢密顧問官であったハルナックは『一七世紀のピューリタン革命より、一八世紀のフランス革命よりも早く近代的な自由を主張したマルティン・ルターの宗教改革』という近代史の見方も提供した。人々はこのような歴史観に特別な違和感を持つこともなく、むしろその中に政治的妥当性を見出すようになっていた。つまりこの時代、マルティン・ルターとその宗教改革の精神は神学的にというよりは、政治的に再発見されるのである。そしてルター派の神学は、政治的な利用を裏づけるために、宗教改革とマルティン・ルターの研究に力を入れ、その研究を政治的な言語に再構築したのである。」(本書、131-132頁)
 
 リベラリズムとしてのプロテスタンティズムが逃げ延びた先のアメリカではどうか。例えば、国家の制約から自由な立場から、既存の勢力では解決し得なかった社会問題に積極的な発言をする宗派もある。他方で、大統領の就任演説でしばしば「神」に言及されるように、「アメリカの意識されざる国教」(ロバート・ベラ―)も垣間見える。この意識されざる国教は必ずしも直接的にキリスト教とイコールで結ばれるわけではないが、本書では新プロテスタンティズムの古プロテスタンティズム化と表現されている。
 
 本書ではプロテスタンティズムとナショナリズムとの結びつきが論じられる一方で、戦後ドイツにおいて進行する社会的多元化に保守的プロテスタンティズムも歩調を合わせてきたことも指摘される。「戦後ドイツのプロテスタンティズムは、単なる宗派の独善的な優位性の主張ではなく、多宗派共存のためのシステム構築の努力を続けた。プロテスタントとは、カトリシズムとの戦いを続け、その独自性を排他的に主張してきた宗派であるだけではなく、複数化した宗派の中で、共存の可能性を絶えず考え続けてきた宗派であり、むしろ後者が私たちの今後の生き方だと主張するようになった。」(本書、158頁)
 
 本書の終章では次のように指摘される。「ルターの出来事からはじまった、価値の多元化、異なった宗派の並存状態、それゆえに起こる対立や紛争の中で、プロテスタンティズムは次の問題を考えざるを得なくなったのである。どのようにすれば、異なった宗派や分裂してしまった宗教が争うことなく共存できるのかという問題と取り組んできたこと、これこそがプロテスタンティズムの歴史であり、現代社会における貢献なのではないだろうか。」(206頁)

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2014年2月15日 (土)

赤江達也『「紙上の教会」と日本近代──無教会キリスト教の歴史社会学』

赤江達也『「紙上の教会」と日本近代──無教会キリスト教の歴史社会学』(岩波書店、2013年)

 教会という制度から離れて信仰の在り方を模索した無教会キリスト教は内村鑑三の名前とセットになって記憶されている。教会組織を介入させず、直接に神の言葉=聖書の内容に迫ろうとする模索は、内面性・純粋性を重んずる信仰態度とも捉えられる。他方で、無教会主義の社会運動としての次元に着目するなら、雑誌メディアによって独立の信者=読者を横につなぐネットワークでもあった。本書はそうした「紙上の教会」における内村や弟子たちの言説を検証しながら近代日本の一側面を浮かび上がらせようとしている。

 無教会は内村を中心とした雑誌メディアを通した信仰活動であり、従って「読む」という知的行為に重きが置かれる。内村という人物の迫力もあって多くの知識青年を集め、キリスト教と教養主義とが密接に関わっていったことは容易に首肯される。

 雑誌メディアであり、語り手も社会的使命感を持った人々である以上、その語り口にもパブリックな側面が濃厚に表れる。とりわけ私が興味深く思ったのは、キリスト教とナショナリズムとの関係というテーマである。内村鑑三が愛国的キリスト信徒であったことはよく知られているが、いわゆる不敬事件において彼が示したためらい。戦時下における矢内原忠雄の「日本的キリスト教」の主張。戦後、無教会に集う知識人が皇室のキリスト教化に期待を寄せた「重臣リベラリズム」的な保守性。近代日本の思想史を考える上で外せない問題提起を本書は示している。

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2013年12月 6日 (金)

重田園江『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』、仲正昌樹『〈法と自由〉講義――憲法の基本を理解するために』

 一定の社会秩序が成立すれば必ず制約が生まれるが、他方で一人ひとりの多様なあり方を押しつぶしてしまっては社会的な活力が失われてしまう。自由と秩序の両立という政治思想上の根本的なアポリアに対してどのような解答を与えるか? 社会契約論はそうした課題から編み出された卓抜な概念装置と言える。現実における諸々のノイズがシャットアウトされた原初状態という舞台だからこそ原理論的考察が可能となる。

 社会科学のあらゆる古典についても言えることだが、社会契約論として提示された結論だけを見てもあまり意味はない。むしろ、そうした結論を導き出すに至った個々の思想家たちの思考過程はどうであったのか、社会構想をめぐる葛藤を追体験していくところに思想史の醍醐味がある。そこから受ける知的刺激は、現代に生きる我々の社会の仕組みを再検討する判断基準を組み立てなおすことにもつながるだろう。そうした意味で、重田園江『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』(ちくま新書、2013年)と仲正昌樹『〈法と自由〉講義――憲法の基本を理解するために』(作品社、2013年)は、社会契約論をめぐる思想家たちの内在論理を汲み取ろうとする姿勢があって興味深く読んだ。

 重田園江『社会契約論』は、理解しきれないもどかしさも率直に読者へ投げかけた上で自らの読み方を語りかけてくる誠実さに好感を持った。本書は社会契約論を「はじまりの約束」「約束の思想」として読み解く。まずホッブズの思想について、人と人との約束そのものが双方を拘束する関係性の力、アソシエーションの政治思想として読み直し、次にヒュームによる社会契約論批判を検討した上で、話をルソー、ロールズへとつなげていく。

 一般意志は特殊意志の総和ではない――ルソーの社会契約論における「一般意志」は数多の論者が議論を重ねる焦点となってきた難題である。社会契約を結ぶ当事者は、特殊意思としての自分と一般意志としての政治体であり、なおかつ後者の一般意志には他ならぬ自分自身も含まれているというからややこしい。自分と、自分自身も含まれる政治体とが契約する。どういうことか。普通の人、ただの人としての自分と政治的公共性を自覚した自分とが一人の中で共存していると考えれば理解しやすそうだ。「つまり、人が両方の視点に立てること、そしてふだんはただの人でしかない共同体のメンバーが、政治に参加するときには市民となること、すなわち全体の一部としての「一般的な」視点に立つことが、ルソーの政治社会にとって必須なのである。人は、政治体の参加者あるいは主権者としては一般的な視点に立ち、一般意志に従って行為しなければならない」(重田、184ページ)。

 では、一般的な視点に立つとはどのようなことなのか? ロールズの正義論は社会契約論の現代的焼き直しということはよく知られているが、ルソーの社会契約論から見出された「一般的な視点」を、ロールズの「無知のヴェール」の議論へつなげていくところに説得力がある。「…こうして人は、情報の制約下で多様な立場を想像することを強いられる。そのプロセスを通じて、意図せずして社会的観点、社会的公正を考慮する視点に立つようになる。自己滅却や自己犠牲ではなく、自分が誰かわからない、あるいは誰でもありうるという状況下での「一般的エゴイズム」に基づく思考プロセスが、社会的公正を選ばせるのだ」(重田、252ページ)。

 
 仲正昌樹『〈法と自由〉講義』はルソーの社会契約論からもたらされた思想的影響の圏域において法というテーマに焦点を合わせ、ルソー『社会契約論』、ベッカリーア『犯罪と刑罰』、そしてカント「啓蒙とは何か」等の諸論文を取り上げている。他の思想家たちとの関り方や影響関係、さらにキーワードの語源的な解釈が適宜交えられており、ゼミ形式で講読するような気持ちで読み進められる。

 上掲の重田『社会解約論』を読みながら、万人の万人に対する闘争という自然状態から社会契約を結ぶにあたって最初に武器を捨てるのは誰か?というホッブズ問題、ルソーの社会契約における一般意志として「一般的な視点に立つ」こと、そしてロールズの「無知のヴェール」という思考実験における想像力はなぜ成り立つのか、つまり、そもそもそうした思考を敢えて行えるのはなぜなのか、そこのあたりをどのように考えればいいのか、気になっていた。熟慮に基づく理性、公共的理性、カント的な実践理性、色々な表現はあると思うが、一言でいえば社会契約として公共性に参与するときの一人ひとりの「自律」はどのようにして可能なのかという問いはさらに考え続けなければならないテーマであろう。

 その点では、仲正書で社会契約論の一般意志をめぐって「人民」が自らの「一般意志」の現れである「法」を介して自らに規律を課しているという指摘に関心を持った。ホメロス『オデュッセイア』にあるセイレーンの誘惑のエピソードを引き合いに出して、「「法」というのは、人民が、自らが将来、危機的な状況、異常な状況に遭遇した時、バカなことをしでかさないよう、自分の行動を予め縛るものだというわけです。ある時点での冷静な「私」が、別の時点でバカなことをしそうな「私」の行動を抑止しているわけです。…私が私を縛ることがあるように、「私たち=人民」が、「私たち=人民」自身を縛っているわけです」(仲正、91ページ)と語っている。なお、セイレーンの誘惑というエピソードはアドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法──哲学的断章』(岩波文庫)で論じられている。

 社会契約における一般意志として一定のルールを定め、そこに自発的に従う形で道徳的自由=自律を目指していたとしても、実際の人間はそこから逸脱しかねない。従って、一般意志に従うようにタガをはめる必要が出てくる。それが「法」として表現された。ベッカリーア『犯罪と刑罰』は罪刑法定主義や死刑廃止論といった議論で後世に大きな影響を与えているが、罪刑法定主義の考え方では法の内容をみんなが理解していることが前提となる。つまり、理性的な熟慮によって社会契約に参画していなければならないという点で「自律」→「自由」が前提となっていると言える。

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2013年10月16日 (水)

木村俊道『文明と教養の〈政治〉──近代デモクラシー以前の政治思想』

木村俊道『文明と教養の〈政治〉──近代デモクラシー以前の政治思想』(講談社選書メチエ、2013年)

 現代の我々が暮らす社会で「政治」について考えるとき、暗黙のうちにデモクラシーが自明の前提となっている(もちろん、デモクラシーとは何か?というテーマ自体が論争的であるにしても)。しかしながら、「政治」なるものの多様な可能性を探ってみるなら、こうした自明の価値とされているものもいったん括弧にくくって問い直してみる作業も必要であろう。そこで本書が探求の対象とするのは、デモクラシーがまだ「普遍」的とは考えられていなかった初期近代(=近世、16~18世紀)のヨーロッパ政治思想史である。近代と近代以前、政治思想における双方の知的パラダイムの相違がくっきり浮き彫りにされているところに興味を持ちながら読み進めた。

 「文明」と訳されるcivilization、この言葉が広く定着するようになったのは19世紀以降の「近代」になってからのことだという。本書はむしろ、初期近代に同義で使われていたcivilityとの意味的な差異に注目する。civilizationでは歴史の進歩や産業技術の発展といった技術知的な側面に重きが置かれるのに対して、civilityでは礼儀正さや洗練された作法といった対人関係における「実践知」としての意味合いが強かったと指摘される。

 初期近代の社会で統治の舞台となった宮廷では、君主や顧問官、その他取りまきたちは洗練された振舞いをしなければならなかった。しかし、それは単なるパーティーの作法といったレベルのものではない。「暴力と感情の噴出を抑え、他者との交際や社交を可能にするための技術」、「他者を説得するレトリックや情況に応じて適切な判断を下す思慮を、洗練された振舞いや高度な役割演技において具現するための実践知」(110~111ページ)、こうしたものを「文明の作法」として本書は抽出していく。

 社交における身体的振舞いによって他者との「共存」を可能にした「文明の作法」。しかしながら、フランス革命や産業化以降の「近代」世界において、「政治」は制度的・技術的な構成の問題となる。「文明の作法」を支えていた「教養」は個人の内面性に関わるもとして「政治」から切り離され、社交上の身だしなみ程度のものへと矮小化されていった。19世紀、開国を迫る脅威として日本が出会った西洋は、まさに「文明の作法」を失いつつある西洋であったという指摘が示唆深い。このようにして失われていった政治における作法=「型」というものを、もう一度考え直してもいいのではないかと本書は問いかける。

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2013年8月 8日 (木)

中見真理『柳宗悦──「複合の美」の思想』

中見真理『柳宗悦──「複合の美」の思想』(岩波新書、2013年)

 柳宗悦のプロフィールについては今さら説明の必要もないかもしれない。『白樺』派の一人で宗教哲学の研究者として出発、独自の探求のうちに民芸運動へと乗り出し、帝国日本の枠組みにおいて周縁化された植民地、とりわけ朝鮮文化へ愛着を示したことでも知られている。

 彼の思想の特徴は、文化的多元性とお互いの敬意に基づく「複合の美」を求める姿勢にあったと言えるだろう。それは宗教的心情や美的感覚にとどまらず、社会観・世界観に至るまで彼の中で一貫している。著者の専門は国際関係思想史であるが、そうした「複合の美」に着目しながら柳の生涯と思想を描き出し、そこから非暴力的な平和主義を汲み取ろうとするところに本書の眼目が置かれている。

 明治以降の近代化の過程で西欧への模倣に努めてきた日本のあり方に柳は批判的であった。東洋と西洋、それぞれが自らの独自性を示して相互の敬意を図っていく必要がある。では、西洋ではない、日本に独自のものとは何か? このような問いそのものは近代日本思想史を通観すれば頻出するもので、特に珍しいわけではない。ただ、柳の場合に目を引くのは、日本文化の美なるものを探ろうとしても、見当たるのは中国や朝鮮の模倣ばかりという困惑である。そうした懊悩の末に彼が見出したのが木喰仏であり、民芸であった。日常生活の中で普通に用いる器具にこそ、民族の心がじかに表われる。無名の工人が無心に作り続けた工芸には日常生活に根ざした信仰心が込められていると考え、「信」と「美」の一致を見出そうとしたのが柳の直観であった。

 彼が「民芸」として「発見」した日本の民族文化に独特な美があるとすれば、日本以外の民族にもそれぞれの美があるはずである。日本の美が西欧文化の圧倒的な影響力で消えてしまわないように願うならば、同時に日本が植民地支配を行っている地域の文化も尊重しなければならない。そうした思いから柳は、沖縄、アイヌ、朝鮮、台湾など日本による同化政策の圧力にさらされている地域の文化の行く末に危機感を抱いていた。

 神の意志という表現を用いるかどうかは別として、この世に存在するあらゆるものにはそれぞれの意義がある。『相互扶助論』を著したクロポトキン、「一切のものの肯定」を説いたホイットマン、「一枝の花、一粒の砂」にも「底知れない不思議さ」を見出したウィリアム・ブレイク、こうした思想家たちから強い影響を受けた柳の発想の根底には、あらゆる存在が相互に協力し合う中で自らのテンペラメントを開花させていくという考え方があった。グローバリズムが地球上の多様な文化を単一の色に染め上げて画一化してしまうことであるとするならば、そのような無味乾燥さは柳にとって最も耐え難いことである。

 どんな民族も、どんな個人も、それぞれがかけがえのない有意味な存在としてこの世界が構成されているという確信が柳の「複合の美」の前提となっている。そうした着想は、例えばハンナ・アレントの次の指摘を想起させる。

「…世界は複数の観点(パースペクティヴズ)が存在するときに限って出現するのだ。つまり世界は、いついかなる時でも、こんな風にもあんな風にも見られる場合に限り、初めて世俗的事象の秩序として現れるということである。もしある民族や国民が、または世界におけるそれ独自の位置──その由来はともあれ、簡単には複製されえない位置──から発するユニークな世界観を持っているある特定の人間集団が、絶滅させられるなら、それは単に一つの民族なり国民なりが、あるいは一定数の個人が死滅するということではなく、むしろ私たちの「共通世界」の一部が破壊されるということであり、今まで現れていた世界の一側面が二度と再び現れえなくなるということなのである。それゆえ、絶滅は一つの世界の終わりというだけではなく、絶滅を行う側もまた道連れにされるということでもあるのだ。厳密に言えば、政治の目的は「人間」というよりも、人間と人間の間に生起して人間を越えて持続する「世界」なのである。…互いに何かしら個別的な関係を持ち合いながら世界に存在する民族の数が多ければ多いほど、それらの間に生起する世界の数もますます多くなるし、世界はますます大きく豊かになるだろう。ある国家の中に世界を──すべての人々に公平に見え隠れする同一の世界を──見るための観点の数が多くあればあるほど、その国家は世界に対してますます意義深く開かれたものになるだろう。他方で、万が一地球に大地殻変動が起きて、あとにはたった一つの国家しか残されなくなったとしたら、そしてその国家内の誰もがあらゆることを同一の観点から理解して、互いに完全に意見を一致させながら暮らすようになったとしたら、世界は、歴史的‐政治的意味では、終焉したことになるだろう。…掛け値なしの意味で、人間は世界が存在するところでしか生きてゆけないし、また世界は、掛け値なしの意味で、人類の複数性というものが、単一の種の単なる数的増加以上のものであるところでしか、存在しえないのである。」(ハンナ・アレント[ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳]『政治の約束』筑摩書房、2008年、206~207ページ)

 一時期、ポストコロニアルやカルチュラル・スタディーズの流行に伴い、一見良心的に見える言動ではあっても、その中に潜む“植民地的暴力”を暴き立てる研究が目立ったことがある。粗探し、とまでは言わないが、はじめに結論ありきの恣意的な欠席裁判は建設的な仕事とは思えなかった。柳宗悦もカルスタ的な研究動向で俎上にあげられていたが(本書、12~13ページ)、本書はそうした論調とは一線を画している。私自身は『民俗台湾』に集った人々に関心を持っているが、彼らに対しても同様に向けられたカルスタ的な批判への違和感はこちらに記した。

 なお、台湾で工芸運動を起こした画家の顔水龍は柳宗悦から影響を受けている。顔はもともと柳の著作を読んでいただけでなく、柳が1943年に来台し、『民俗台湾』同人の金関丈夫や立石鉄臣に連れられて台南へ来訪した折に顔が柳を案内してから個人的な関係も持ち、戦後になっても二人の交流は続いていた。

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2013年7月12日 (金)

清水真木『忘れられた哲学者──土田杏村と文化への問い』

清水真木『忘れられた哲学者──土田杏村と文化への問い』(中公新書、2013年)

 土田杏村という名前を知っているのは、①日本画家・土田麦僊の弟として記憶のある絵画史に詳しい人、②よほどの高齢者、③社会思想史や教育学史に関心がある人のいずれかだろうと本書は言うが、私の場合は③に該当して、ある程度の認知はしていた。佐渡へ行った折には土田の出身地の郷土資料館で彼にまつわる展示を見たこともある。ただし、どんな思想家だったのか、と改まって考えてみると、文化主義というキーワードは確かに思い浮かんだものの、茫漠として印象が薄い。

 社会と文化を表裏一体のものと考え、一人ひとりが個別の価値実現のため努力すべきという基本的な発想は、当時の教養主義的なコンテクストから考えると、別に珍しいものとは思わない。ただし、そうした彼の考え方の背景に、新カント主義やフッサールの現象学をはじめドイツ哲学を基にした周到な哲学的考察があったことを解き明かしていくところが、ドイツ哲学を専門としている著者ならではの着眼点である。

 主著『象徴の哲学』が読み解かれていくが、実はこの本、杏村の全集には収録されていない。編者となった友人の務台理作が杏村の思索にまったく無理解で、外されてしまったのだという。それは単に務台の凡庸というにとどまらず、杏村が示そうとしたパースペクティヴについての当時の一般的な無理解が反映されているのだろうという思いが「忘れられた哲学者」というタイトルに込められている。

 博覧強記のジャーナリスティックな文明評論家と思われていた彼は、時事的なものも含めて膨大な著作を残している。単に具体的な事例を集めていたのではなく、大きな哲学的な「物語」へと収束させていく。そうした意味で哲学的な視野を基本に据えつつ文明の姿を総体として捉えようととしていたところに杏村の志向性があった。

 そんな彼がなぜ忘れられてしまったのか、著者も少々考えあぐねているようだ。当時は大流行した新カント主義もハルトマンもシェストフも、現在ではほとんど忘れられていることを考えると、杏村一人が忘れられたからといってそんなに不思議なこととも思わないが、むしろなぜ彼があんなに読まれていたのか、そこを考えていく方が大正・昭和初期の時代思潮を考える上で色々な論点が出てきそうだ、などと思いながら本書を読み終えた。

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2013年6月18日 (火)

先崎彰容『ナショナリズムの復権』、白川俊介『ナショナリズムの力──多文化共生世界の構想』

 戦後日本においては一般的に言って、ナショナリズムの評判は芳しくない。ネイションという枠組みによって人々を結集・動員するものとみなされ、それは内にあっては個人の持ち味を押し殺し、外に向けては好戦的な挑発をしかねないという懸念があるからだろう。しかし、そもそもナショナリズムをどのように捉えるのか、その定義自体が極めて論争的である。むしろ着眼点の置き方によっては建設的な意義を汲み取ることもできるのかもしれない。

 先崎彰容『ナショナリズムの復権』(ちくま新書、2013年)は、アレント、吉本隆明、柳田國男、江藤淳、丸山真男などのテクストを読み解きながら「ナショナリズム」にまとわりつく誤解を解きほぐそうとする。ナショナリズムをめぐって解かれるべき誤解の一つとして、ナショナリズムは宗教ではない、という論点が示されているが、本書では死生観とナショナリズムとの関わりもテーマとなっているだけに、宗教と疑似宗教との相違について論じられていないのが気になった。

 保守主義思想の要諦は、長い年月にわたって繰り返されてきた試行錯誤が凝縮した“智慧=伝統”に立脚してこそ人は生きていけるという考え方にある。ところが、時間的には歴史とのつながりが断たれ、空間的には横の関係が分断された中、人はその場の不安を紛らわそうと、まがいものの思想にも飛びつきやすくなる。

 歴史とのつながりを失ったとき、私たちは場当たり的な価値を世界すべてに通用する「普遍的価値」だと信じては裏切られる。孤独になると、不安を解消しようとして「強大なもの」にすがりつきたくなる。だが、それではいけない。地に足の着いた判断基準の回復、そこにナショナリズムの復権という問題意識の照準が向けられている。佐伯啓思『倫理としてのナショナリズム』(NTT出版)は経済思想の観点からグローバリズム批判をする中でナショナリズムに着目していたが、そうした方向性を本書は日本思想史の文脈で思索を進めていると言えるだろうか。

 白川俊介『ナショナリズムの力──多文化共生世界の構想』(勁草書房、2012年)は、欧米の政治理論研究におけるリベラリズム批判の議論を受ける形でナショナリズムに注目している。

 異なる価値観を持つ者同士がいかに共存を図っていくのか、そのための社会構成原理を模索するのがリベラリズムの基本的な発想である。特定の価値観の押しつけになってはいけない。そこで、リベラル・デモクラシーは中立的な政治システムを構想し、そこにおいては理性的な個人が成員として想定される。ところが、リバタリアン・コミュ二タリアン論争から浮かび上がったように、「負荷なき個人」という抽象的な人間モデルは現実にはあり得ない。どんな人間であっても生まれ育った社会や文化の色合いが根深く刻み込まれており、そうした要因を切り離して抽象的に判断できるわけではない。

 本書の立脚点であるリベラル・ナショナリズムはコミュ二タリアニズムの側に立つ。異なる価値観の共生に向けて模索を続ける点ではリベラリズムが前提となるが、他方で「負荷なき個人」はあり得ないという批判をむしろ肯定的に捉え直す。つまり、自由・平等・民主主義といったリベラルな価値に基づく政治制度は、その担い手たる人々の間に連帯意識があってはじめて安定的に機能する。こうしたナショナルな連帯意識こそがリベラリズムの前提になるという洞察をもとに、ネイションの「棲み分け」による世界の構想を示す。

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2013年5月13日 (月)

仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』、大竹弘二『正戦と内戦──カール・シュミットの国際秩序思想』

 カール・シュミットについて浩瀚だが内容的に充実した本を2冊読んだ。私はシュミットに関心はあるものの、専門的な議論を展開するような力量はないので、興味を抱いた部分についてのみメモしておく。

 仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』(作品社、2013年)は、『政治的ロマン主義』『政治神学』『政治的なものの概念』の3冊を精読する講義形式。補完的に『パルチザンの理論』『大地のノモス』『陸と海と──世界史的考察』なども取り上げ、邦訳では分かりづらい箇所は適宜、ドイツ語原書にあたって丁寧に読みくだかれていく。シュミットの問題提起は何だったのかを明確にした上で、彼の組み立てたロジックを講義受講者(=読者)と一緒に読み解いていく構成だから、読み手自身の問題意識に応じて読むと理解しやすいだろう。

 論敵や批判対象との議論の要点が整理されているので、思想史的な背景におけるシュミットの位置付けが明確となる。そこから、現代思想の論点と共通する部分まで見えてくるのが面白い。例えば、
・「政治的ロマン主義」への批判、つまり価値観的な判断を保留して議論の実質を先送りしている言論状況への批判という点では、ドイツ・ロマン主義とポストモダン思想(エクリチュールの戯れ!)とで共通する。
・ケルゼンなど法実証主義は中立性・客観性を標榜するが、そもそもなぜ法が成立したのかという核心に触れることはできない。中立性という装いの背景にも実際には何らかの価値観が潜んでおり、そうした欺瞞をひきはがそうとする点でシュミットとポストモダン左翼の立ち位置は共通している。
・「友/敵」概念が明確にされていた頃は戦争が枠づけされ、際限なくエスカレートしていくのが防止された。ところが、普遍的正義を標榜すると、相手を「正しい敵」とみなすのではなく、道徳的な意味での無法者として断罪することになり、それがかえって果てしない闘争につながってしまう。こうしたシュミットの論点は、現代におけるアメリカ的普遍主義に対する批判と共通する。

 シュミット思想の主要論点はヴァイマール共和政の機能不全という具体的な政治状況を目の当たりにする中から研ぎ澄まされており、シュミット研究もおおむねこの時期に集中する傾向がある。そうした中、大竹弘二『正戦と内戦──カール・シュミットの国際秩序思想』(以文社、2009年)は彼の国際秩序思想に注目する中で、ヴァイマール以前の初期から戦後の晩年にいたるまでシュミット思想の特徴や変化を総体的に捉えた力作である。本書を論評する力量は私にはないが、「普遍性」に対する論争的性質に着目している箇所に関心を持った。私の関心に応じて以下にメモだけしておく。

・シュミットの視座には、法概念や言説規範をめぐる闘争という特徴がある。つまり、言説を支配する者こそが政治的支配をも獲得すると考えたとき、理念的で普遍性を志向する規範主義は、むしろ概念を通した帝国主義支配としての力を持つ。しかしながら、保護と服従の直接的な関係に政治支配の具体性があるとすれば、概念的規範を通じた「間接権力」は、保護の責任を持つ政治的主体が見えないという欠点をさらけ出す。ドイツは西欧自由主義を受け入れることで精神的な自立性を失ってしまっており、自前の概念的規定を持つことこそが政治的自立につながると彼は考えていた。

・人間のあらゆる行為において何らかの事態に直面したときの一回的な応答をいかに考えるかという問題意識がシュミットの思考の基本にある。政治的実践における、普遍的なものには回収され得ない具体的な一回性、それをいかに取り戻すのか? 『政治的なものの概念』でシュミットが「友/敵」結束に着目したのは、抗争という具体的なコンテクストの中に「政治」の本質が見えてくるという洞察であったが、戦後のシュミットはパルチザンの土地的な性格に注目した。冷戦状況下、土地に根ざしたパルチザンも闘争上の支援を得るため米ソなど「利害ある第三者の関与」が必要不可欠となる。ところが、そうした「第三者」と関わりを持つと、パルチザンの土地的・具体的一回性という闘争の性質が、イデオロギー対立という抽象性・一般性の中に絡めとられてしまう困難。

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2013年5月 9日 (木)

カール・シュミット『政治思想論集』

カール・シュミット(服部平治・宮本盛太郎訳)『政治思想論集』(ちくま学芸文庫、2013年)

 本書は1974年に社会思想社から刊行された『政治思想論集──付カール・シュミット論』からカール・シュミットの論文6本を抜き出し、別の論文1本と合わせてまとめられている。シュミットが展開した議論の主要論点が随所に見え隠れしており、原典によるコンパクトなシュミット入門として読める構成になっている(大竹弘二による新たな解説「カール・シュミットにおける幾つかの思考モチーフ」が示唆に富む)。以下、一からおさらいするつもりで抜き書きメモ。

・法と倫理との分離
「規範としての法は事実から導き出すことができないという思想は、多くの人々にとって周知の事柄に属する。」「法は倫理に対して独立の存在であり、その尊厳は自己から発するものであって倫理への参与によって得られるものではなく、法とは倫理という内面的自由に対して外面的な条件となるものなのだという関係、つまり、倫理から法への漸次的移行という関係などは承服しかねる、という結論がそれである。」(「法・国家・個人」25~26ページ)

・理念としての法を国家が現実世界へと媒介することで具現化
「国家は、この思想世界を現実の経験的現実と結びつけるものであり、法のエートスの唯一の主体の表われなのである。」(同上、14ページ)

・ロマン主義→政治的決断を下す主体とはなり得ない
「ロマン主義的な世界感情や生活感情というものはきわめて多様な政治状況や相対立する哲学的理論と結びつくことのできるものだ」。「革命の火が燃えている限り政治的ロマン主義は革命的であり、革命の終熄と共に保守的となる。また、政治的ロマン主義は、断固たる反革命的な王政復古期にはそのような状況からですら積極的なロマン主義的感情の側面を引き出すことができるのである。」(「政治理論とロマン主義」47ページ)
「所与の事実は、政治的・歴史的・法的ないし道徳的関連から客観的に考察されるものなどではなく、美的=情念的な関心の対象であり、ロマン主義的熱狂を燃え上がらせるものなのである。このような創造力を左右するのは、大部分、主観的なもの、個体的なもの、すなわち、ロマン主義的自我が自らの独創力で創り出したもうたものなのであるから、正確にみると、客体や対象一般などはもはや問題ではない。そのわけはと言うと、対象が、単なる「きっかけ」に、「端緒」に、「跳躍点」に、「刺激」に、「媒体」に、あるいは、ドイツのロマン主義者たちの間で書き換えられた機因という意味のものになるからである。このことは、外界に対する適合関係を意識的に放棄する、ということである。現実的なものとは、すべて、きっかけとなるものであるにすぎない。客体とは実体も本質も持たないものであり、具体的な点なのであるが、その点の周囲をロマン主義的な人物の活躍する場が回転するのである。それは、いつでも存在はするが、唯一の本質的なロマン主義的像に対して共通の尺度で計ることのできる関係などはもっていないのである。したがって、ある客体を別の客体から客観的に区別することなどもまったくできないことである。そのわけはと言うと、まさに存在するものはもはや客体ではなく、さまざまな機因となるものだけだからである。」(同上、64~65ページ)
「ロマン主義者は意識的に決心して何らかの党派に加担し、決断を下す立場などには立っていないのである。」(同上、67ページ)
「ロマン主義的なもののなかには政治的な創造力はない。」(同上、68ページ)→バーク、メーストル、ボナールといった反革命の理論家たちには正/不正の決断を下す決然たる政治能力があったのに対して、ロマン主義者は受動的に流されていくに過ぎない。
※自由主義の不決断に矛先が向けられているが、カール・レーヴィットなどはシュミットの決断主義そのものが機会便乗的なものになり得るのではないか?と批判している。

・マイネッケが示す法と力という二元論への批判。異常な状態(例外)→決断という契機に国家理性の本質を見出す
「…私には、具体的な状況の正常性とか異常性とかの問題は根本的に重要な問題であるように思われる。異常な状態が存在するということから出発すると、誰でも──その人が世界を徹底的に異常なりとみなすのであれ、特別な状況のみを異常なりと思うのであれ──政治・道徳・法の問題を解決するに際して、何らかの妨害によってかき乱されることがあるにしても、それはささいなものに止まるのだとする原理上の正常さを確信している人とは、違った解決の仕方をするのである。」「異常な状況を容認すると生じてくるのは、特別な類いの、決断主義的な帰結、並びに、次のような意味を認めるということである。すなわち、侵害、表面的に言えばいわゆる「非合理性」(たとえば宗教における予定説)、異常な行動と干渉の承認(たとえば、神により召されたる者a deo excitatusの承認)、さらに独裁、それから主権や絶対主義のような概念、したがってマイネッケが(自らスローガン的に拡張した)国家理性と結びつけようとはしたがその委細については注意を払おうとはしなかった諸観念──の意味を認めるということがそれである。」(「フリードリヒ・マイネッケの『国家理性の理念』に寄せて」85~86ページ)
「…実際において唯一の興味ある問題とは、つねに具体的な場合に何が正当なものなのか、いずこに平和が存するのか、平和を妨げたり危険にさらすものは何か、どういう手段で平和を妨げたり危険にさらしたりする事態が排除されるのか、ある状況が正常で「平和的なの」はいつか、等々を誰が決定するのかということである。」(同上、95ページ)

・多元主義的で機能不全に陥ったヴァイマール国家に対して、強力な全体国家(ファシスト国家)
「このような国家は、その内部で、国家に敵対し、国家の行動を阻止し、あるいは国家を分裂させるような、いかなる勢力の台頭をも許さない。こういう国家は、新たな権力手段を自らの敵や破壊者に明け渡そうなどとは夢にも考えないし、また、自由主義、法治国家、あるいは何と称するつもりであろうとも、ともかく何らかの標語を掲げて、権力を破壊しようなどとも考えない。そのような国家は、友と敵とを区別することができる。」(「ドイツにおける全体国家の発展」111ページ)

・ラジオや映画の出現→世論や国民の一般意思を形成する方法の技術的発展→どのような国家であっても検閲・独占を求めざるを得ず、国家権力の強化をもたらす。また、国家が経済に及ぼす影響の増大(「現代国家の権力状況」)。

・「ナチス法治国」→大竹弘二の要約によると「今日の法治国家は一九世紀以来の自由主義の影響のもとで、単に実定法の遵守を求めるだけの「法律国家」に成り下がっている。だが、実定法という抽象的な規範を守るだけでは、法秩序の安定性は決して確保されない。むしろそのような法的安定性は、実定法体系の基礎にあるより実質的な「具体的秩序」を守ることではじめて保障されるということになる。」しかしながら、「総統の意志」といった恣意的なものに体現させることで、彼自身もまた機会主義に落ち込んでしまったと指摘される。

・服従者から取り付けた同意が権力の源泉?→現代社会において権力は権力者自身をも超えた自律的・客観的存在
「私の言わんとするのは、権力に服従する者すべての完全な同意を得て権力が行使される所でも、権力はやはりある固有の意味をもっているということ、いわば剰余価値をもっている、ということです。権力は、自己が受け取るあらゆる同意の総和以上のものであり、同意の生産物以上のものでもあるのです。今日の分業社会に生きている人間が社会関係にいかに深く縛りつけられているかということを、どうぞ一度なりとも考えてみて下さい! 自然の制約が後景にしりぞいたことは先程みましたが、それに代って社会的な制約が分業社会の現代人に向ってそれだけ一層強く一段と身近にまで迫ってくるのです。そのために、権力への同意をかちとるための動機づけも、一段と強烈なものとなるわけなのです。」(「権力並びに権力者への道についての対話」156ページ)
「権力とは、その時々に権力を掌握するあらゆる人間個人にすら相対立する、客観的で自律的な偉大な存在なのです。」(同上、157ページ)
「次のように言ったところで、少しも歩を進めたことにはなりません。つまり、権力とは技術自身と同じようにそれ自体は善でも悪でもなく中性的なものであるから、権力の性質いかんとは、人間が権力から創り出すものなのだ、と言ったところです。このことは、本来の難事を前にして、つまり、ここで善悪を決定するのは誰かという問題を前にして、問題を回避することにほかなりません。現代の破壊手段の力はこの破壊手段を発明し使用する人間個人の力を凌駕していますが、それは現代の機械自体のもつ、また、その機械が何ごとかを処理するについてもつ能力が、人間の筋肉や脳髄の力をしのぐのと同じことなのです。…権力者個人の権力は、ここでは途方もなく極度に発達を遂げた分業体制から生じてくる状況の、単なる分泌物にすぎないのです。」(同上、178~179ページ)
「万事をとりしきるのは、正真正銘の人間なのではなくて、人間がひき起こした連鎖反応そのものの方なのです。この連鎖反応は、人間の肉体の限界を越えることによって、人間が人間に及ぼすあらゆる考えうる権力の人間間における一切の標準をも越えてしまうのです。この連鎖反応は、保護と服従との関係をもみだしてしまいます。権力の方が技術よりもはるかに人間の手の届かない所にいってしまっておりまして、このような技術上の手段を駆使して他の人びとに権力をふるう人びとは、その権力にさらされている人びととはもはや水いらずの関係などにはないのです。」(同上、179ページ)
「私が言っておりますのは、権力はすべての人にとって、それどころか権力者にとってすらも独立の現実であること、さらにそれはすべての人を権力の弁証法にひっぱり込んでしまうものであること、これだけなのです。権力は、一切の権力への意志よりも強く、いかなる人間の善意よりも強く、また、幸いなことには、いかなる人間の悪意よりも強いのです。」(同上、182ページ)
※権力と責任との関係を曖昧にしてしまう「間接権力」をシュミットは批判していたが、上記の権力論ではまさにシュミット自身がそうした悲観的見解に落ち込んでいると大竹弘二の解説で指摘されている。

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2013年2月 8日 (金)

ジル・ドゥルーズ『スピノザ──実践の哲学』

ジル・ドゥルーズ(鈴木雅大訳)『スピノザ──実践の哲学』(平凡社ライブラリー、2002年)

以下、書き抜きメモ。

・哲学的認識の錯覚
「私たちは、みずからの身体に「起こること」、みずからの心に「起こること」しか、いいかえれば他のなんらかの体がこの私たちの身体のうえに、なんらかの観念がこの私たちの観念〔私たちの心〕のうえに引き起こす結果しか、手にすることができないような境遇に置かれているのだ。そもそも自身の身体や心が、その固有の構成関係のもとにどのように成り立ち、他の体や心または観念が、それら個々の構成関係のもとにどう成り立っているのか、またそうしたすべての構成関係がたがいにどのような法則にしたがって合一や分解をとげるのか──そうしたことは、私たちがみずからの認識や意識の所与の秩序にとどまっているかぎり、何ひとつわからない。要するに、そのままでは私たちは、ものごとの認識においても自身の意識においても、本来の原因から切り離された結果しか、非十全な、断片的で混乱した観念しかもてないようにできているということだ。」(36~37ページ)
「結果しか手にできない意識は、ものごとの秩序〔順序〕を転倒し、結果を原因と取り違えることによって自身の無知をおぎなおうとする(目的因の錯覚)。ある体がこの私たちの身体のうえに引き起こした結果を、意識は逆にそれこそが目的であり、その外部の体がまさにそのためにはたらいた当の原因〔目的因〕だったのだとし、同時のその結果の観念についても、意識はそれを自身がそのためにそうはたらいた目的因だったのだとしようとするのである。そこで意識は自分が第一原因であると思うようになり、身体に対するおのれの支配力〔権力〕にその根拠をもとめるようになる(自由裁量の錯覚)。そして、もはや自分が第一原因であるとも、こうなるようにと自分が意図したのだとも想像することができない局面では、意識はその根拠を神に、──知性と意志をそなえた神、目的因や自由裁量を駆使して、人間に報いとしての賞罰に応じた世を用意している神に、もとめることになる(神学的錯覚)。」(37~38ページ)

・コナトゥス=自己存続の力
「衝動とはまさにそうした個々すべてのものがとる自己存続の努力(コナトゥス)以外のなにものでもない。」(39ページ)
「意識は、他の体や観念との交渉のなかで私たちのコナトゥスが受けるさまざまな変動や決定をものがたっているのである。」(40ページ)

・スピノザの「生」の哲学
「道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして生のありようをとらえるのに対して、これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、それをタイプとしてとらえる類型理解(タイポロジー)の方法である。道徳とは神の裁き〔判断〕であり、〈審判〉の体制にほかならないが、〈エチカ〉はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。価値の対立(道徳的善悪)に、生のありようそれ自体の質的な差異(〈いい〉〈わるい〉)がとって代わるのである。こうした道徳的価値の錯覚は、意識の錯覚と軌を一にしている。そもそも意識は無知であり、原因や法則はもちろん各個の構成関係やその合一・形成についても何ひとつ知らず、ただその結果を待つこと、結果を手にすることに甘んじているために、まるで自然というものがわかっていない。ところが、理解していなければ、それだけで簡単にものごとは道徳と化す。法則にしても、それを私たちが理解していなければたちまち道徳的な「………すべし」というかたちをとって現われてくることは明白である。」(44ページ)
「まさしくスピノザには「生」の哲学がある。文字どおりそれはこの私たちを生から切り離すいっさいのものを、私たちの意識の制約や錯覚と結びついて生に敵対するいっさいの超越的価値を告発しているからである。私たちの生は、善悪、功罪や、罪とその贖いといった概念によって毒されている。生を毒するもの、それは憎しみであり、この憎しみが反転して自己のうえに向けられた罪責感である。」(49ページ)
「彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生をその名のもとにおとしめるいっさいの価値観念を告発したのだった。私たちは生きていない。生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかり考えている。生をあげて私たちは、死を礼讃しているにすぎないのだと。」(50ページ)
「人間の内的本質を、その外発的な、わるい出会いの方にもとめるなどということは、恥ずかしいことだといわなければならない。なんであれ、悲しみをうちに含むいっさいのものは、圧制と抑圧の道具となる。悲しみをうちに含むいっさいのものは、わるいものとして、私たち自身の活動力能からこの私たちを切り離してしまうものとして、告発されなければならないのだ。自責の念〔良心の呵責〕や罪の意識ばかりではない。死について考えることばかりではない。希望でさえ、安堵でさえ、そこにはなにがしかの無力感が含まれているのである。」(83ページ)

・「生」を歪める「善悪」
「いい、これはどこまでも一個の存在する様態に対して、どこまでも一個の変動する、いまだ〔形相的に〕所有されていない活動力能に対して、いわれることであり、まさにそれゆえに、これを全体化することはできないのだ。〈善〉〈悪〉というかたちでこのいい・わるいを実体化してしまえば、結局はこの〈善〉を存在理由、活動の理由とし、いやでも目的論的な錯覚に陥ることになって、神からの産出の必然性を歪め、ひいてはこの神のまったき力能に対する私たちの参与の仕方を歪めてしまうことになる。………〈善〉も〈悪〉も、たんなる思考上の存在、想像上の存在にすぎず、さまざまの社会的標徴や、褒賞と懲罰から成る抑圧の体制に、全面的に依存しているのである。」(84~85ページ)

・自らの本質が十全に発揮されるのが「自由」
「『エチカ』の全努力は、自由と意志との伝統的な結びつきを断ち切ることにあった。」
「スピノザの原則は、自由はけっして意志の特質ではない、「意志は自由な原因と呼ばれえない」ということである。意志は、有限であろうと無限であろうと、あくまでも〔思惟の〕一様態であり、他の原因によって決定されている。」
「すべて存在するものは必然的に存在し、必然性以外の様相をもたないから、ただひとつ自由な原因といわれるべきなのは「自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身によってのみ作用へと決定される」原因〔自己原因〕である。」
「自由を自由たらしめているのは「内的な」必然性であり、「自己の」必然性である。人はけっしてその意志や、意志の則るべき規範によって自由なのではなく、その本質や、本質から生じるものによって自由なのである。」
「もろもろの有限様態のなかで最も大きな力能をもつ私たち人間は、みずから自身の活動力能を所有するにいたったとき、いいかえれば自身のコナトゥス〔自存力〕が十全な諸観念によって決定され、そこから能動的な情動、私たち自身の本質によっておのずから開展(=説明)される情動が生じてくるとき、自由となる。様態においてもやはり自由は本質や、本質から生じるものと結びついているのであり、意志やそれを律するものと結びついているのではないのである。」(127~130ページ)

・共通概念→情動同士の関係が構築されていくプロセス。『千のプラトー』で頻出する「アレンジメント」という概念と関係ありそう。
「スピノザによれば、すべて存在するものはそれぞれ本質をもつが、同時にまた個々特有の構成関係をもち、この構成関係をとおしてそれらは存在においてたがいに他のものとひとつに組み合わさったり、分解をとげて他のものに姿を変えてゆく。共通概念とは、まさにそうした複数のもの相互のあいだに成り立つ構成関係の合一の観念である。」(224ページ)
「共通概念とはつねに、各体がその点で適合をみる一致点の観念である。各体はある特定の構成関係のもとに適合し、この構成関係は多少の差こそあれいくつかの体のあいだで具現をみるのである。」(226ページ)
「…共通概念の形成の秩序は情動にかかわり、いかにして精神が「みずからのさまざまな情動を整え、それらを互いに結びつけることができる」かを示しているのである。共通概念はひとつの〈術〉、『エチカ』そのものの数える術なのだ。〈いい〉出会いを組織立て、体験をとおして構成関係を合一させ、力能を育て、実験することである。」(232ページ)

・存立平面で展開する微粒子の動きとして捉えられた「生」→非人称的な存在が生成展開しつつあるプロセスそのものの中に「私」がいる。こうしたイメージは『千のプラトー』のリゾーム論と共通している。
「ひとつの体は微粒子間の運動と静止、速さと遅さの複合関係によって規定される。」
「肝心なことは、生を、生のとるひとつひとつの個体性を、形として、また形態の発展としてではなしに、たがいに遅くなり速くなりしながら微粒子群のあいだに成り立つ微分的な速度の複合関係としてとらえることだ。」
「ひとは速さ、遅さによっていつのまにか物のあいだにはいりこみ、他のものと結びついている。ひとはけっして始めるのではない。白紙に還元するのではない。ひとはいつのまにかあいだに、ただなかにはいっているのであり、さまざまなリズムをともにし、また与えあっているのである。」
「こうした情動群を配分している内在的プラン、この大いなる自然の平面(プラン)に、いわゆる自然的のもの、人工的のものといった区別などまったく存在しないことは明らかである。この自然の内在的プランの上では、どんなものも、それを構成するもろもろの運動、もろもろの情動の組み合い(アジャンスマン)によって規定されるのであり、この組み合いが人工的か自然的かは問題にならない以上、人為的工夫もまた完全にこの自然の一部をなしているからだ。」
「スピノザの〈エチカ〉はモラル〔人間的道徳・倫理〕とは何の関係もない。彼はひとつのエトロジーとして、いいかえれば、そうした内在の平面の上でさまざまの速さと遅さ、さまざまの触発しまた触発される力がとげる構成の問題として、これをとらえているのである。だからこそ彼は真実叫びをあげて言うのだ。君たちは、良きにせよ悪しきにせよ、自分に何ができるか知ってはいない。君たちはひとつの身体、またひとつの心が、ある出会いにおいて、ある組み合いにおいて、ある結びつき合いにおいて、何をなしうるかをあらかじめ知りはしない、と。」
「私たちは、ひとつの体を構成している微粒子群のあいだに成り立つ速さと遅さ、運動と静止の複合関係の総体を、その体の〈経度〉と呼ぶ。ここにいう微粒子(群)は、この見地からして、それら自身は形をもたない要素(群)である。私たちはまた、各時点においてひとつの体を満たす情動の総体を、その体の〈緯度〉と呼ぶ。いいかえればそれは、〔主体化されない〕無名の力(存在力、触発=変様能力)がとる強度状態の総体のことである。こうして私たちはひとつの体の地図をつくりあげる。このような経度と緯度の総体をもって、自然というこの内在の平面(プラン)、結構の平面(プラン)は、たえず変化しつつ、たえずさまざまの個体や集団によって組み直され再構成されながら、かたちづくられていうるのだ。」
「…ここにはもうものの形はない。形をなしていない物質〔素材〕の微細な微粒子群のあいだに成りたつ速度の複合関係があるだけだ。ここにはもう主体はない。無名の力がとる、個体を構成する情動状態があるだけだ。ただ運動と静止しか、力動的な情動負荷しかとどめないこの平面(プラン)は、それが私たちに知覚させるものと一緒に、それに応じて知覚されてゆくのである。」(238~248ページ)

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