カテゴリー「哲学・思想」の135件の記事

2018年2月23日 (金)

末木文美士『思想としての近代仏教』

末木文美士『思想としての近代仏教』(中公選書、2017年)
 
 本書はもともと別の媒体に発表されていた論考を集めた論文集の形をとるが、個別論点を通して日本近代思想史における仏教の位置づけを捉える視座を提供してくれる。序章に「伝統と近代」を置いて全体的な見通しを示し、「Ⅰ 浄土思想の近代」では清沢満之と倉田百三、「Ⅱ 日蓮思想の展開」では田中智学と創価学会の理論家だった松戸行雄を取り上げ、「Ⅲ 鈴木大拙と霊性」、「Ⅳ アカデミズム仏教研究の形成」では仏教研究の展開を論じ、「Ⅵ 大乗という問題圏」という流れで構成されている。
 
 私が関心を持った論点は次の通り。序章ではいわゆる「葬式仏教」の重要性を指摘した上で、「近代日本が天皇中心の家父長制的体制を基盤として形成される中で、仏教もまたその一翼を担い、葬式仏教としてその体制を支えた。それに対して『近代仏教』は、近代の先端的な言説に食い込もうとする知識人の営みとして理解することができる」(40頁)とする。田中智学については、国体論と『法華経』優越が並立しており、「智学の国体論は、多くの主流の国体論と大きく異なり、あくまで仏教の立場を譲らず、国体論そのものを解体しかねない異端的な要素を強く持っていた」(163頁)という指摘に興味を持った。息子の里見岸雄はそうした智学における仏法と国体の二元的矛盾を整理して首尾一貫したものにしたが、そのため矛盾ゆえの可能性を消してしまったと指摘される。「仏教研究方法論と研究史」は近代日本における仏教研究史となっており、分かりやすい。「大乗非仏説論から大乗仏教成立論へ──近代日本の大乗仏教言説」では村上専精の大乗非仏説論と宮本正尊の大乗仏教論が論じられるが、後者の時局性が目を引いた。

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2018年2月21日 (水)

星野靖二『近代日本の宗教概念──宗教者の言葉と近代』

 以前から気になっていた星野靖二『近代日本の宗教概念──宗教者の言葉と近代』(有志舎、2012年)を、一時帰国の機会にようやく読むことができた。
 
 「宗教」はreligionの訳語として、しばしば非歴史的な概念のように用いられるが、実際には近代日本の歴史的展開に合わせて「宗教」概念は組み上げられてきたという背景がある。とりわけ、明治になって伝来してプロテスタントが重要な契機となっており、また廃仏毀釈によって自らの存在証明を迫られた仏教がキリスト教に対する論争を通して理論的に磨き上げられてきた側面も看過し得ない。それぞれが自らの宗教伝統がより真正な「宗教」であることを弁証しようとして、より抽象度の高い「宗教」概念が要請された。本書では、内村鑑三、植村正久、小崎弘道、高橋吾良、大内青巒、井上哲次郎、井上円了、中西牛郎等々、明治初期におけるキリスト者、仏教者を含めて繰り広げられた論争を軸に検討している。
 
 本書には中西牛郎に関する論考が収録されているため、私としては目を通しておく必要があった。収録されているのは、第六章「中西牛郎の宗教論」、第九章「中西牛郎『教育宗教衝突断案』について──キリスト教の捉え直しと望ましい「宗教」という観点から」の二篇である。「キリスト教・仏教を問わず、近代的な人間知との関係において宗教が論じられていた明治20年代頃に、中西牛郎は超越性との関係性こそが宗教を宗教たらしめるものとし、宗教を宗教として比較する姿勢、少なくともそういった方向につながっていく理論的な枠組を持っていた」ことが指摘されている(129-130頁)。
 
 中西牛郎の生涯については本書284頁にまとめられているが、キリスト教、仏教、天理教、神道扶桑教と複雑な宗教遍歴を経ており、こうした履歴そのものが興味を惹かれる。中西牛郎については、以前、別ブログにて触れたことがあるが、日本統治時期の台北に来て、淡水税関等に勤務するかたわら、『臺灣日日新報』等に論説を発表していた。板垣退助と林献堂によって立ち上げられた「台湾同化会」にも関与し、警察から目をつけられてもいた(『台湾警察沿革史』)。
 
 私が中西牛郎に関心を持ったきっかけは、台湾キリスト教史の脈絡と関係がある。台北の有力な貿易商でキリスト教思想家としても知られていた李春生の伝記を、中西が漢文で執筆し、出版していたのである(台湾日日新報社、1915年)。中西と李春生との間にどのような関係があったのか、思想内在的なつながりがあったのか、そうしたあたりについて、時間を見つけて調べてみたいと考えている。

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2018年2月15日 (木)

松村介石について

 ちょっと必要があって松村介石(1859-1937)について調べている。とりあえず、松村介石『信仰五十年』(道会事務所、1926年/伝記叢書213、大空社、1996年)と加藤正夫『宗教改革者・松村介石の思想──東西思想の融合を図る』(近代文芸社、1996年)を参照した。後者は前者を祖述している感じの内容。
 
 松村介石は1859年に明石藩士・松村如屏の次男として生まれた。幼少期から漢学に親しみ、父からは学問をするよう励まされていた。1875年、神戸に出て英学を修め、さらに1876年に上京。入学した玉藻学校が閉校したため、ヘボン塾に入る。彼は英学を学ぶのを目的としており、キリスト教を受け入れるつもりはなかったが、横浜で宣教師ジョン・バラの影響を受けて1876年にキリスト教に入信した。横浜バンド出身の初期キリスト者と言える。高等師範学校の入試に失敗した後、バラの勧めで小学校教師や聖書講義の英語通訳をしながら苦学した。築地大学の舎監として働きながら一致神学校に入るが、宣教師の態度に疑問を感じ、喧嘩して退学した。
 
 新聞記者になろうと考え、紹介を受けて大坂で島田三郎が経営する立憲新聞社を訪ねるが、関西のキリスト者から説得され、1882年に岡山県の高梁教会の牧師となった。1885年、組合協会の機関誌『福音新報』主筆として大阪へ出る。さらに、土居香国、伴直之助らと共に日刊紙『太平新報』を発刊するが、3か月で廃刊となった。1887年には浮田和民と交代する形で『基督教新聞』主筆となる。同年冬には押川方義の勧めにより山形英学校へ赴任した。この頃から特定の宗教には偏らない精神講話を始めている。さらに北越学館教頭として赴任するが、1891年の大晦日に辞職して東京へ来た。東京ではキリスト教青年会講師として講演活動を行うほか、1893年には戸川残花と共に雑誌『三籟』を創刊、1900年には雑誌『警世』を刊行した。
 
 松村介石は内村鑑三、植村正久と共に「三村」と並び称されるほど明治期キリスト教では注目されていた。彼の論説は人格的修養に重きを置く形で信仰を説き、キリスト教に限らず古今東西の偉人たちを取り上げて説教するところに特徴がある。例えば、彼はキリスト者にも意外と俗物が多いとした上で次のように記している。「ソコで之れは亦た怎したものであらうかと考へたが、之れは今日の基督者があまりに、保羅やルーテルの主張したる他力的信仰に重を置て、基督や、ヤコブの称へたる人格修養、即ち自力的方面に其力を用ゆることが尠いからであると、気が着いた。ソコで予は修養を云ふことを高唱して、爾来陽明学を基督教に入れて、大に神魂の鍛錬を奨励したものであった」(『信仰五十年』50頁)。こうした考え方から特定の宗教にはこだわらない精神講話を行い、それを基にした『立志之礎』(警醒社、1889年)や『阿伯拉罕・倫古龍(アブラハム・リンカーン)傳』(警醒社、1890年)といった書籍は当時としてはベストセラーになった。
 
 1907年には「日本教会」を設立する。当初は日本的キリスト教の枠内のつもりであったが、1912年に「道会」と改称してからはキリスト教とは一線を画すようになる。松村介石は自由基督教の集まりに出席したとき、「我等はすでに基督を孔子やソクラテスと同一のような聖人としている。それ故にわが教会では基督が居なくても存在することができるが、これでも矢張り基督教会といえるであろうか」と発言している。海老名弾正など出席者から、それはキリスト教会ではない、と異口同音に言われ、そのまま退席したという(『信仰五十年』188-189頁)。「道会」には四つの綱領があり、「一、信仰。二、修徳。三、愛隣。四、永生。信仰とは宇宙の神を信ずるを謂ふ。修徳とは、自己一身の修養を謂ふ。愛隣とは、人と国家の為に尽すを謂ふ。永生とは、人格の不死を謂ふ。」(『宗教改革者・松村介石の思想』)
 
 松村は1914-15年にかけてヨーロッパ・中国へ視察旅行に赴き、帰朝後は日本回帰が顕著になる。1916年に拝天堂を建立。若き日の大川周明も1910年に日本教会へ入会し、毎号のように機関誌『道』に寄稿して、「道会」で大きな存在感を示していた。松村は押川方義や大川周明の影響もあり、文化的亜細亜主義へと傾倒し、日本民族は東洋の指導者となって全世界に王道を布くべきと主張するようになった(『宗教改革者・松村介石の思想』205頁)。政治家とも関りを持ち、政治的に保守化していく。

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2018年2月11日 (日)

橋爪大三郎『丸山眞男の憂鬱』

橋爪大三郎『丸山眞男の憂鬱』(講談社選書メチエ、2017年)
 
 本書では丸山眞男『日本政治思想史研究』と山本七平『現人神の創作者たち』とを詳細に読み解きながら、二人の比較論という形式を通して主に丸山理論への批判が展開される。丸山が江戸時代の政治思想史研究を通して、日本における近代的思惟の萌芽として荻生徂徠の「作為の思想」を見出したことはよく知られている。ところが、著者は徂徠の「作為」は「近代」の指標とはなり得ず、明治維新との思想的連関も認められないと疑問を呈する。そもそも、「近代」という概念が曖昧である。
 
 そこで、著者は、日本における「近代」的なナショナリズムを準備した尊王思想へと議論の焦点を移し、その源流としての山崎闇斎及び闇斎学派について丸山と山本がそれぞれどのように論じていたのかを検討する。実は丸山『日本政治思想史研究』には闇斎学派に関する議論が欠落しており、そのため丸山が晩年になって書いた論文「山崎闇斎と闇斎学派」と、山本七平がほぼ同時期に発表した『現人神の創作者たち』との比較論へと進む。そして、丸山の闇斎学派理解は混乱しているのに対して、山本の議論は闇斎学派の思想史的位置づけを適確に見抜いていたと評価される。
 
 江戸期において朱子学は「普遍的理論」とみなされており、朱子学者たる山崎闇斎も朱子学のロジックに基づいて日本の政治システムを記述しようとした。闇斎学派の議論には三つの特徴があり、第一に「湯武放伐」が否定される。王朝の交代が肯定されると「忠」の対象が混乱してしまうからである。対して、第二に、「万世一系の天皇」が存在する日本の政治システムの方が中国よりも優れていると主張された。このように天皇の伝統が、朱子学の「普遍的理論」により合理化・正統化され、本来は非政治的であった神道が天皇を中心とする正統性の政治哲学に書き換えられた。いわば、神道の朱子学化である。第三に、忠孝一如が主張された。中国では、政治的領域における「忠」と親族等の領域における「孝」とで忠誠の次元が異なり、前者は条件的忠誠、後者は絶対的忠誠を意味する。ところが、イエ社会たる日本では両者が重なり合っており、「忠」が絶対化された。こうして、「湯武放伐」の否定と「忠孝一如」により尊王思想が準備された。
 江戸時代の朱子学は武士階層による統治を正当化するイデオロギーとして作用していたが、闇斎学派は神道と結びつき、神道には本来的に身分がなかったので、身分の垣根を越えて天皇のもとに参集するというロジックが用意され、「われわれ日本人」意識の形成に寄与する。こうした闇斎学派の思想(とりわけ、浅見絅斎が重要)は、歴史や文化の共有意識をもとに運命共同体を形成し、集権的な政治秩序を成立させるという意味で国民国家という近代的政治事象へとつながり得る契機を秘めていた。
 
 著者によると、山本七平はこうした勘所を押さえていたが、丸山眞男は分かっていなかった、いや、むしろ、皇国史観の源流たる闇斎学派については敢えて触れたくなかったのかもしれない。丸山は皇国史観に対する逆張りとして荻生徂徠に注目し、それがそのまま戦後の市民主義的思潮に受け入れられたが、丸山自身は徂徠から「作為の思想」を見出そうとしたかつての自らの議論が成り立たないことに薄々気づきながらも、取り下げられなかったのではないかとも推測している。

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2017年7月 5日 (水)

深井智朗『プロテスタンティズム──宗教改革から現代政治まで』

深井智朗『プロテスタンティズム──宗教改革から現代政治まで』(中公新書、2017年)
 
 私自身の感覚からすると、ローマ・カトリックや東方正教会については、教義の詳細はよく分からないにせよ、何となくイメージはつかみやすい。対して、プロテスタントの場合は、一言で「プロテスタント」と括ってもその内実は実に多種多様で、少々戸惑ってしまうというのが正直なところだ。本書を通読してから、むしろそうした多様性を許容するところにプロテスタントの特徴の一つがあるのかもしれないと思った。本書はプロテスタントそのものの歴史というよりも、ドイツ社会思想史の文脈の中でプロテスタントが論じられている(第七章ではアメリカ事情にも言及される)。
 
 1517年、マルティン・ルターは贖宥状などバチカンの腐敗に抗議するため、ヴィッテンベルク城の教会の扉に「95ヶ条の提題」を貼りだした。これが宗教改革の始まりとされ、信仰の自由を求める動きは近代思想にもつながっていくと論じられることもあるが、ルターが実際にこの張り紙を出した事実があったかどうかも含め、事情は単純ではないようだ。ルター自身は教会改革の希望を抱いていたものの、新しい宗派を自ら立ち上げる意図は全くなかった。ところが、事態は彼の意図を越えて動き出していく。自覚的な信仰を重視する洗礼主義などよりラディカルな動向に対してルターはむしろ批判的であった。
 
 いずれにせよ、ルターによってもたらされた宗教対立は1555年のアウグスブルクの宗教和議で一つの転換点を迎える。宗教対立の激化が憂慮される中、プロテスタンティズムにも法的な地位がとりあえず認められた。ただし、それは近代的な政教分離の原則とは異なる。領邦ごとに領主が選んだ宗教が公認されるという形で並存が図られた。言い換えると、プロテスタンティズムは領主や領土と結びつくことで社会道徳を提供する役割が期待されるようになり、このように政治体制とつながったルター派を本書では「古プロテスタンティズム」もしくは「保守主義としてのプロテスタンティズム」と呼んでいる。対して、信仰の自由を徹底しようと試みる人々は、古プロテスタンティズムからむしろ迫害され、そうした勢力については「新プロテスタンティズム」もしくは「リベラリズムとしてのプロテスタンティズム」とされる。
 
 保守主義としてのプロテスタンティズムはナショナリズムと結びつく。1871年、プロイセンが普仏戦争に勝利し、オーストリア抜きでドイツ帝国を形成するにあたり、「ルター派は、いくつもの領邦国家を統一して誕生した帝国を精神的にも統一するためのナショナル・アイデンティティの設計とこの統一の政治的道徳性を証明するための政治神学の構築を任された。」「さらには、普仏戦争の勝利の後に成立した帝国の道徳的正当性を説明するためにルター派の神学者は次のようなプログラムを提示したのである。すなわち『ドイツ的なもの』の淵源は、一六世紀にカトリックに対して戦い、近代的な自由の基礎を作り上げたマルティン・ルターとその宗教改革に遡る。」「さらにヴィルヘルム期ドイツで皇帝の正枢密顧問官であったハルナックは『一七世紀のピューリタン革命より、一八世紀のフランス革命よりも早く近代的な自由を主張したマルティン・ルターの宗教改革』という近代史の見方も提供した。人々はこのような歴史観に特別な違和感を持つこともなく、むしろその中に政治的妥当性を見出すようになっていた。つまりこの時代、マルティン・ルターとその宗教改革の精神は神学的にというよりは、政治的に再発見されるのである。そしてルター派の神学は、政治的な利用を裏づけるために、宗教改革とマルティン・ルターの研究に力を入れ、その研究を政治的な言語に再構築したのである。」(本書、131-132頁)
 
 リベラリズムとしてのプロテスタンティズムが逃げ延びた先のアメリカではどうか。例えば、国家の制約から自由な立場から、既存の勢力では解決し得なかった社会問題に積極的な発言をする宗派もある。他方で、大統領の就任演説でしばしば「神」に言及されるように、「アメリカの意識されざる国教」(ロバート・ベラ―)も垣間見える。この意識されざる国教は必ずしも直接的にキリスト教とイコールで結ばれるわけではないが、本書では新プロテスタンティズムの古プロテスタンティズム化と表現されている。
 
 本書ではプロテスタンティズムとナショナリズムとの結びつきが論じられる一方で、戦後ドイツにおいて進行する社会的多元化に保守的プロテスタンティズムも歩調を合わせてきたことも指摘される。「戦後ドイツのプロテスタンティズムは、単なる宗派の独善的な優位性の主張ではなく、多宗派共存のためのシステム構築の努力を続けた。プロテスタントとは、カトリシズムとの戦いを続け、その独自性を排他的に主張してきた宗派であるだけではなく、複数化した宗派の中で、共存の可能性を絶えず考え続けてきた宗派であり、むしろ後者が私たちの今後の生き方だと主張するようになった。」(本書、158頁)
 
 本書の終章では次のように指摘される。「ルターの出来事からはじまった、価値の多元化、異なった宗派の並存状態、それゆえに起こる対立や紛争の中で、プロテスタンティズムは次の問題を考えざるを得なくなったのである。どのようにすれば、異なった宗派や分裂してしまった宗教が争うことなく共存できるのかという問題と取り組んできたこと、これこそがプロテスタンティズムの歴史であり、現代社会における貢献なのではないだろうか。」(206頁)

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2014年2月15日 (土)

赤江達也『「紙上の教会」と日本近代──無教会キリスト教の歴史社会学』

赤江達也『「紙上の教会」と日本近代──無教会キリスト教の歴史社会学』(岩波書店、2013年)

 教会という制度から離れて信仰の在り方を模索した無教会キリスト教は内村鑑三の名前とセットになって記憶されている。教会組織を介入させず、直接に神の言葉=聖書の内容に迫ろうとする模索は、内面性・純粋性を重んずる信仰態度とも捉えられる。他方で、無教会主義の社会運動としての次元に着目するなら、雑誌メディアによって独立の信者=読者を横につなぐネットワークでもあった。本書はそうした「紙上の教会」における内村や弟子たちの言説を検証しながら近代日本の一側面を浮かび上がらせようとしている。

 無教会は内村を中心とした雑誌メディアを通した信仰活動であり、従って「読む」という知的行為に重きが置かれる。内村という人物の迫力もあって多くの知識青年を集め、キリスト教と教養主義とが密接に関わっていったことは容易に首肯される。

 雑誌メディアであり、語り手も社会的使命感を持った人々である以上、その語り口にもパブリックな側面が濃厚に表れる。とりわけ私が興味深く思ったのは、キリスト教とナショナリズムとの関係というテーマである。内村鑑三が愛国的キリスト信徒であったことはよく知られているが、いわゆる不敬事件において彼が示したためらい。戦時下における矢内原忠雄の「日本的キリスト教」の主張。戦後、無教会に集う知識人が皇室のキリスト教化に期待を寄せた「重臣リベラリズム」的な保守性。近代日本の思想史を考える上で外せない問題提起を本書は示している。

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2013年12月 6日 (金)

重田園江『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』、仲正昌樹『〈法と自由〉講義――憲法の基本を理解するために』

 一定の社会秩序が成立すれば必ず制約が生まれるが、他方で一人ひとりの多様なあり方を押しつぶしてしまっては社会的な活力が失われてしまう。自由と秩序の両立という政治思想上の根本的なアポリアに対してどのような解答を与えるか? 社会契約論はそうした課題から編み出された卓抜な概念装置と言える。現実における諸々のノイズがシャットアウトされた原初状態という舞台だからこそ原理論的考察が可能となる。

 社会科学のあらゆる古典についても言えることだが、社会契約論として提示された結論だけを見てもあまり意味はない。むしろ、そうした結論を導き出すに至った個々の思想家たちの思考過程はどうであったのか、社会構想をめぐる葛藤を追体験していくところに思想史の醍醐味がある。そこから受ける知的刺激は、現代に生きる我々の社会の仕組みを再検討する判断基準を組み立てなおすことにもつながるだろう。そうした意味で、重田園江『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』(ちくま新書、2013年)と仲正昌樹『〈法と自由〉講義――憲法の基本を理解するために』(作品社、2013年)は、社会契約論をめぐる思想家たちの内在論理を汲み取ろうとする姿勢があって興味深く読んだ。

 重田園江『社会契約論』は、理解しきれないもどかしさも率直に読者へ投げかけた上で自らの読み方を語りかけてくる誠実さに好感を持った。本書は社会契約論を「はじまりの約束」「約束の思想」として読み解く。まずホッブズの思想について、人と人との約束そのものが双方を拘束する関係性の力、アソシエーションの政治思想として読み直し、次にヒュームによる社会契約論批判を検討した上で、話をルソー、ロールズへとつなげていく。

 一般意志は特殊意志の総和ではない――ルソーの社会契約論における「一般意志」は数多の論者が議論を重ねる焦点となってきた難題である。社会契約を結ぶ当事者は、特殊意思としての自分と一般意志としての政治体であり、なおかつ後者の一般意志には他ならぬ自分自身も含まれているというからややこしい。自分と、自分自身も含まれる政治体とが契約する。どういうことか。普通の人、ただの人としての自分と政治的公共性を自覚した自分とが一人の中で共存していると考えれば理解しやすそうだ。「つまり、人が両方の視点に立てること、そしてふだんはただの人でしかない共同体のメンバーが、政治に参加するときには市民となること、すなわち全体の一部としての「一般的な」視点に立つことが、ルソーの政治社会にとって必須なのである。人は、政治体の参加者あるいは主権者としては一般的な視点に立ち、一般意志に従って行為しなければならない」(重田、184ページ)。

 では、一般的な視点に立つとはどのようなことなのか? ロールズの正義論は社会契約論の現代的焼き直しということはよく知られているが、ルソーの社会契約論から見出された「一般的な視点」を、ロールズの「無知のヴェール」の議論へつなげていくところに説得力がある。「…こうして人は、情報の制約下で多様な立場を想像することを強いられる。そのプロセスを通じて、意図せずして社会的観点、社会的公正を考慮する視点に立つようになる。自己滅却や自己犠牲ではなく、自分が誰かわからない、あるいは誰でもありうるという状況下での「一般的エゴイズム」に基づく思考プロセスが、社会的公正を選ばせるのだ」(重田、252ページ)。

 
 仲正昌樹『〈法と自由〉講義』はルソーの社会契約論からもたらされた思想的影響の圏域において法というテーマに焦点を合わせ、ルソー『社会契約論』、ベッカリーア『犯罪と刑罰』、そしてカント「啓蒙とは何か」等の諸論文を取り上げている。他の思想家たちとの関り方や影響関係、さらにキーワードの語源的な解釈が適宜交えられており、ゼミ形式で講読するような気持ちで読み進められる。

 上掲の重田『社会解約論』を読みながら、万人の万人に対する闘争という自然状態から社会契約を結ぶにあたって最初に武器を捨てるのは誰か?というホッブズ問題、ルソーの社会契約における一般意志として「一般的な視点に立つ」こと、そしてロールズの「無知のヴェール」という思考実験における想像力はなぜ成り立つのか、つまり、そもそもそうした思考を敢えて行えるのはなぜなのか、そこのあたりをどのように考えればいいのか、気になっていた。熟慮に基づく理性、公共的理性、カント的な実践理性、色々な表現はあると思うが、一言でいえば社会契約として公共性に参与するときの一人ひとりの「自律」はどのようにして可能なのかという問いはさらに考え続けなければならないテーマであろう。

 その点では、仲正書で社会契約論の一般意志をめぐって「人民」が自らの「一般意志」の現れである「法」を介して自らに規律を課しているという指摘に関心を持った。ホメロス『オデュッセイア』にあるセイレーンの誘惑のエピソードを引き合いに出して、「「法」というのは、人民が、自らが将来、危機的な状況、異常な状況に遭遇した時、バカなことをしでかさないよう、自分の行動を予め縛るものだというわけです。ある時点での冷静な「私」が、別の時点でバカなことをしそうな「私」の行動を抑止しているわけです。…私が私を縛ることがあるように、「私たち=人民」が、「私たち=人民」自身を縛っているわけです」(仲正、91ページ)と語っている。なお、セイレーンの誘惑というエピソードはアドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法──哲学的断章』(岩波文庫)で論じられている。

 社会契約における一般意志として一定のルールを定め、そこに自発的に従う形で道徳的自由=自律を目指していたとしても、実際の人間はそこから逸脱しかねない。従って、一般意志に従うようにタガをはめる必要が出てくる。それが「法」として表現された。ベッカリーア『犯罪と刑罰』は罪刑法定主義や死刑廃止論といった議論で後世に大きな影響を与えているが、罪刑法定主義の考え方では法の内容をみんなが理解していることが前提となる。つまり、理性的な熟慮によって社会契約に参画していなければならないという点で「自律」→「自由」が前提となっていると言える。

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2013年10月16日 (水)

木村俊道『文明と教養の〈政治〉──近代デモクラシー以前の政治思想』

木村俊道『文明と教養の〈政治〉──近代デモクラシー以前の政治思想』(講談社選書メチエ、2013年)

 現代の我々が暮らす社会で「政治」について考えるとき、暗黙のうちにデモクラシーが自明の前提となっている(もちろん、デモクラシーとは何か?というテーマ自体が論争的であるにしても)。しかしながら、「政治」なるものの多様な可能性を探ってみるなら、こうした自明の価値とされているものもいったん括弧にくくって問い直してみる作業も必要であろう。そこで本書が探求の対象とするのは、デモクラシーがまだ「普遍」的とは考えられていなかった初期近代(=近世、16~18世紀)のヨーロッパ政治思想史である。近代と近代以前、政治思想における双方の知的パラダイムの相違がくっきり浮き彫りにされているところに興味を持ちながら読み進めた。

 「文明」と訳されるcivilization、この言葉が広く定着するようになったのは19世紀以降の「近代」になってからのことだという。本書はむしろ、初期近代に同義で使われていたcivilityとの意味的な差異に注目する。civilizationでは歴史の進歩や産業技術の発展といった技術知的な側面に重きが置かれるのに対して、civilityでは礼儀正さや洗練された作法といった対人関係における「実践知」としての意味合いが強かったと指摘される。

 初期近代の社会で統治の舞台となった宮廷では、君主や顧問官、その他取りまきたちは洗練された振舞いをしなければならなかった。しかし、それは単なるパーティーの作法といったレベルのものではない。「暴力と感情の噴出を抑え、他者との交際や社交を可能にするための技術」、「他者を説得するレトリックや情況に応じて適切な判断を下す思慮を、洗練された振舞いや高度な役割演技において具現するための実践知」(110~111ページ)、こうしたものを「文明の作法」として本書は抽出していく。

 社交における身体的振舞いによって他者との「共存」を可能にした「文明の作法」。しかしながら、フランス革命や産業化以降の「近代」世界において、「政治」は制度的・技術的な構成の問題となる。「文明の作法」を支えていた「教養」は個人の内面性に関わるもとして「政治」から切り離され、社交上の身だしなみ程度のものへと矮小化されていった。19世紀、開国を迫る脅威として日本が出会った西洋は、まさに「文明の作法」を失いつつある西洋であったという指摘が示唆深い。このようにして失われていった政治における作法=「型」というものを、もう一度考え直してもいいのではないかと本書は問いかける。

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2013年8月 8日 (木)

中見真理『柳宗悦──「複合の美」の思想』

中見真理『柳宗悦──「複合の美」の思想』(岩波新書、2013年)

 柳宗悦のプロフィールについては今さら説明の必要もないかもしれない。『白樺』派の一人で宗教哲学の研究者として出発、独自の探求のうちに民芸運動へと乗り出し、帝国日本の枠組みにおいて周縁化された植民地、とりわけ朝鮮文化へ愛着を示したことでも知られている。

 彼の思想の特徴は、文化的多元性とお互いの敬意に基づく「複合の美」を求める姿勢にあったと言えるだろう。それは宗教的心情や美的感覚にとどまらず、社会観・世界観に至るまで彼の中で一貫している。著者の専門は国際関係思想史であるが、そうした「複合の美」に着目しながら柳の生涯と思想を描き出し、そこから非暴力的な平和主義を汲み取ろうとするところに本書の眼目が置かれている。

 明治以降の近代化の過程で西欧への模倣に努めてきた日本のあり方に柳は批判的であった。東洋と西洋、それぞれが自らの独自性を示して相互の敬意を図っていく必要がある。では、西洋ではない、日本に独自のものとは何か? このような問いそのものは近代日本思想史を通観すれば頻出するもので、特に珍しいわけではない。ただ、柳の場合に目を引くのは、日本文化の美なるものを探ろうとしても、見当たるのは中国や朝鮮の模倣ばかりという困惑である。そうした懊悩の末に彼が見出したのが木喰仏であり、民芸であった。日常生活の中で普通に用いる器具にこそ、民族の心がじかに表われる。無名の工人が無心に作り続けた工芸には日常生活に根ざした信仰心が込められていると考え、「信」と「美」の一致を見出そうとしたのが柳の直観であった。

 彼が「民芸」として「発見」した日本の民族文化に独特な美があるとすれば、日本以外の民族にもそれぞれの美があるはずである。日本の美が西欧文化の圧倒的な影響力で消えてしまわないように願うならば、同時に日本が植民地支配を行っている地域の文化も尊重しなければならない。そうした思いから柳は、沖縄、アイヌ、朝鮮、台湾など日本による同化政策の圧力にさらされている地域の文化の行く末に危機感を抱いていた。

 神の意志という表現を用いるかどうかは別として、この世に存在するあらゆるものにはそれぞれの意義がある。『相互扶助論』を著したクロポトキン、「一切のものの肯定」を説いたホイットマン、「一枝の花、一粒の砂」にも「底知れない不思議さ」を見出したウィリアム・ブレイク、こうした思想家たちから強い影響を受けた柳の発想の根底には、あらゆる存在が相互に協力し合う中で自らのテンペラメントを開花させていくという考え方があった。グローバリズムが地球上の多様な文化を単一の色に染め上げて画一化してしまうことであるとするならば、そのような無味乾燥さは柳にとって最も耐え難いことである。

 どんな民族も、どんな個人も、それぞれがかけがえのない有意味な存在としてこの世界が構成されているという確信が柳の「複合の美」の前提となっている。そうした着想は、例えばハンナ・アレントの次の指摘を想起させる。

「…世界は複数の観点(パースペクティヴズ)が存在するときに限って出現するのだ。つまり世界は、いついかなる時でも、こんな風にもあんな風にも見られる場合に限り、初めて世俗的事象の秩序として現れるということである。もしある民族や国民が、または世界におけるそれ独自の位置──その由来はともあれ、簡単には複製されえない位置──から発するユニークな世界観を持っているある特定の人間集団が、絶滅させられるなら、それは単に一つの民族なり国民なりが、あるいは一定数の個人が死滅するということではなく、むしろ私たちの「共通世界」の一部が破壊されるということであり、今まで現れていた世界の一側面が二度と再び現れえなくなるということなのである。それゆえ、絶滅は一つの世界の終わりというだけではなく、絶滅を行う側もまた道連れにされるということでもあるのだ。厳密に言えば、政治の目的は「人間」というよりも、人間と人間の間に生起して人間を越えて持続する「世界」なのである。…互いに何かしら個別的な関係を持ち合いながら世界に存在する民族の数が多ければ多いほど、それらの間に生起する世界の数もますます多くなるし、世界はますます大きく豊かになるだろう。ある国家の中に世界を──すべての人々に公平に見え隠れする同一の世界を──見るための観点の数が多くあればあるほど、その国家は世界に対してますます意義深く開かれたものになるだろう。他方で、万が一地球に大地殻変動が起きて、あとにはたった一つの国家しか残されなくなったとしたら、そしてその国家内の誰もがあらゆることを同一の観点から理解して、互いに完全に意見を一致させながら暮らすようになったとしたら、世界は、歴史的‐政治的意味では、終焉したことになるだろう。…掛け値なしの意味で、人間は世界が存在するところでしか生きてゆけないし、また世界は、掛け値なしの意味で、人類の複数性というものが、単一の種の単なる数的増加以上のものであるところでしか、存在しえないのである。」(ハンナ・アレント[ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳]『政治の約束』筑摩書房、2008年、206~207ページ)

 一時期、ポストコロニアルやカルチュラル・スタディーズの流行に伴い、一見良心的に見える言動ではあっても、その中に潜む“植民地的暴力”を暴き立てる研究が目立ったことがある。粗探し、とまでは言わないが、はじめに結論ありきの恣意的な欠席裁判は建設的な仕事とは思えなかった。柳宗悦もカルスタ的な研究動向で俎上にあげられていたが(本書、12~13ページ)、本書はそうした論調とは一線を画している。私自身は『民俗台湾』に集った人々に関心を持っているが、彼らに対しても同様に向けられたカルスタ的な批判への違和感はこちらに記した。

 なお、台湾で工芸運動を起こした画家の顔水龍は柳宗悦から影響を受けている。顔はもともと柳の著作を読んでいただけでなく、柳が1943年に来台し、『民俗台湾』同人の金関丈夫や立石鉄臣に連れられて台南へ来訪した折に顔が柳を案内してから個人的な関係も持ち、戦後になっても二人の交流は続いていた。

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2013年7月12日 (金)

清水真木『忘れられた哲学者──土田杏村と文化への問い』

清水真木『忘れられた哲学者──土田杏村と文化への問い』(中公新書、2013年)

 土田杏村という名前を知っているのは、①日本画家・土田麦僊の弟として記憶のある絵画史に詳しい人、②よほどの高齢者、③社会思想史や教育学史に関心がある人のいずれかだろうと本書は言うが、私の場合は③に該当して、ある程度の認知はしていた。佐渡へ行った折には土田の出身地の郷土資料館で彼にまつわる展示を見たこともある。ただし、どんな思想家だったのか、と改まって考えてみると、文化主義というキーワードは確かに思い浮かんだものの、茫漠として印象が薄い。

 社会と文化を表裏一体のものと考え、一人ひとりが個別の価値実現のため努力すべきという基本的な発想は、当時の教養主義的なコンテクストから考えると、別に珍しいものとは思わない。ただし、そうした彼の考え方の背景に、新カント主義やフッサールの現象学をはじめドイツ哲学を基にした周到な哲学的考察があったことを解き明かしていくところが、ドイツ哲学を専門としている著者ならではの着眼点である。

 主著『象徴の哲学』が読み解かれていくが、実はこの本、杏村の全集には収録されていない。編者となった友人の務台理作が杏村の思索にまったく無理解で、外されてしまったのだという。それは単に務台の凡庸というにとどまらず、杏村が示そうとしたパースペクティヴについての当時の一般的な無理解が反映されているのだろうという思いが「忘れられた哲学者」というタイトルに込められている。

 博覧強記のジャーナリスティックな文明評論家と思われていた彼は、時事的なものも含めて膨大な著作を残している。単に具体的な事例を集めていたのではなく、大きな哲学的な「物語」へと収束させていく。そうした意味で哲学的な視野を基本に据えつつ文明の姿を総体として捉えようととしていたところに杏村の志向性があった。

 そんな彼がなぜ忘れられてしまったのか、著者も少々考えあぐねているようだ。当時は大流行した新カント主義もハルトマンもシェストフも、現在ではほとんど忘れられていることを考えると、杏村一人が忘れられたからといってそんなに不思議なこととも思わないが、むしろなぜ彼があんなに読まれていたのか、そこを考えていく方が大正・昭和初期の時代思潮を考える上で色々な論点が出てきそうだ、などと思いながら本書を読み終えた。

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