【七日間ブックカバー・チャレンジ:三日目】 井筒俊彦『ロシア的人間』
井筒俊彦『ロシア的人間』
【七日間ブックカバー・チャレンジ:二日目】
橋川文三『昭和維新試論』
渥美勝という名前を見て、ピンと来る人は少ないだろう。大正期の「思想家」と言ってもいいのかどうか。高学歴ながらもすべてをなげうって放浪生活、「桃太郎主義」を掲げ、「真の維新を断行して、地上に高天原を実現せよ」と辻説法していた、国粋主義的な風来坊──現代の価値観からすれば単に奇矯な人物である。他方で、その風貌にはアッシジのフランチェスコを思わせる穏やかな気品がただよっていたという。橋川の『昭和維新試論』では、例えば石川啄木、高山樗牛、柳田國男、上杉慎吉、平沼騏一郎、北一輝など様々な人物が取り上げられているが、そうした中でも私にとって一番印象深いのが、この渥美勝であった。
橋川の代表作とされるのは『日本浪漫派批判序説』であろう。若き日の橋川自身が、戦時下の思潮にコミットしていた過去への反省──いや、反省という言い方では言葉が浅い、彼を否応なく引き込んでいった吸引力のようなもの、それを何とか剔抉し、文章化しようとするひたむきな努力が、彼の政治思想史的研究の動機として伏流していた。
とりわけ橋川による渥美勝の描写が私の心をつかんだのは、どうしたわけだろうか。『昭和維新試論』は後にちくま学芸文庫版や講談社学術文庫版も出たが、私が最初に読んだのは大学一年生のときに購入した朝日選書版である。その頃に読んだ時点では、橋川の存在感が気になってはいても、では自分はなぜ橋川を気にしているのか、それがうまく整理できていなかった。たぶんこういうことなんだろう。橋川は人物の内奥に迫ってその葛藤を描き出しつつ、そこから時代の諸相をみつめる視点を引き出し、そうであるがゆえに政治思想史としても成立している。その筆力に驚嘆すべきものを感じた。それは、他ならぬ橋川自身の内在経験が一つの触媒となって、対象とする人物の心象風景を引き出してくることができたからであろう。
私自身、その頃からずっと、できるかできないかは別として、人物を描くことに興味があったのだと思う。ある人物を通して時代を描き、その人物が時代の中で格闘している姿を通して、思想的に語り得る何がしかを形にしてみたい。そうした一つの模範として、今に至るまで橋川文三のことがずっと気にかかっている。
大学生の頃、テーマ的に近い方向性として松本健一の作品も割と読み込んでいたのだが、松本は多作がたたったのか、一つ一つの作品において対象とする人物への迫り方が橋川に比べて軽い(大変失礼だが…)と感じていた。
※いま本書は手元にないので、フェイスブックではアマゾンの書影を借用して投稿したが、このブログでは書影を割愛する。
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赤江達也『「紙上の教会」と日本近代──無教会キリスト教の歴史社会学』(岩波書店、2013年)
教会という制度から離れて信仰の在り方を模索した無教会キリスト教は内村鑑三の名前とセットになって記憶されている。教会組織を介入させず、直接に神の言葉=聖書の内容に迫ろうとする模索は、内面性・純粋性を重んずる信仰態度とも捉えられる。他方で、無教会主義の社会運動としての次元に着目するなら、雑誌メディアによって独立の信者=読者を横につなぐネットワークでもあった。本書はそうした「紙上の教会」における内村や弟子たちの言説を検証しながら近代日本の一側面を浮かび上がらせようとしている。
無教会は内村を中心とした雑誌メディアを通した信仰活動であり、従って「読む」という知的行為に重きが置かれる。内村という人物の迫力もあって多くの知識青年を集め、キリスト教と教養主義とが密接に関わっていったことは容易に首肯される。
雑誌メディアであり、語り手も社会的使命感を持った人々である以上、その語り口にもパブリックな側面が濃厚に表れる。とりわけ私が興味深く思ったのは、キリスト教とナショナリズムとの関係というテーマである。内村鑑三が愛国的キリスト信徒であったことはよく知られているが、いわゆる不敬事件において彼が示したためらい。戦時下における矢内原忠雄の「日本的キリスト教」の主張。戦後、無教会に集う知識人が皇室のキリスト教化に期待を寄せた「重臣リベラリズム」的な保守性。近代日本の思想史を考える上で外せない問題提起を本書は示している。
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一定の社会秩序が成立すれば必ず制約が生まれるが、他方で一人ひとりの多様なあり方を押しつぶしてしまっては社会的な活力が失われてしまう。自由と秩序の両立という政治思想上の根本的なアポリアに対してどのような解答を与えるか? 社会契約論はそうした課題から編み出された卓抜な概念装置と言える。現実における諸々のノイズがシャットアウトされた原初状態という舞台だからこそ原理論的考察が可能となる。
社会科学のあらゆる古典についても言えることだが、社会契約論として提示された結論だけを見てもあまり意味はない。むしろ、そうした結論を導き出すに至った個々の思想家たちの思考過程はどうであったのか、社会構想をめぐる葛藤を追体験していくところに思想史の醍醐味がある。そこから受ける知的刺激は、現代に生きる我々の社会の仕組みを再検討する判断基準を組み立てなおすことにもつながるだろう。そうした意味で、重田園江『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』(ちくま新書、2013年)と仲正昌樹『〈法と自由〉講義――憲法の基本を理解するために』(作品社、2013年)は、社会契約論をめぐる思想家たちの内在論理を汲み取ろうとする姿勢があって興味深く読んだ。
重田園江『社会契約論』は、理解しきれないもどかしさも率直に読者へ投げかけた上で自らの読み方を語りかけてくる誠実さに好感を持った。本書は社会契約論を「はじまりの約束」「約束の思想」として読み解く。まずホッブズの思想について、人と人との約束そのものが双方を拘束する関係性の力、アソシエーションの政治思想として読み直し、次にヒュームによる社会契約論批判を検討した上で、話をルソー、ロールズへとつなげていく。
一般意志は特殊意志の総和ではない――ルソーの社会契約論における「一般意志」は数多の論者が議論を重ねる焦点となってきた難題である。社会契約を結ぶ当事者は、特殊意思としての自分と一般意志としての政治体であり、なおかつ後者の一般意志には他ならぬ自分自身も含まれているというからややこしい。自分と、自分自身も含まれる政治体とが契約する。どういうことか。普通の人、ただの人としての自分と政治的公共性を自覚した自分とが一人の中で共存していると考えれば理解しやすそうだ。「つまり、人が両方の視点に立てること、そしてふだんはただの人でしかない共同体のメンバーが、政治に参加するときには市民となること、すなわち全体の一部としての「一般的な」視点に立つことが、ルソーの政治社会にとって必須なのである。人は、政治体の参加者あるいは主権者としては一般的な視点に立ち、一般意志に従って行為しなければならない」(重田、184ページ)。
では、一般的な視点に立つとはどのようなことなのか? ロールズの正義論は社会契約論の現代的焼き直しということはよく知られているが、ルソーの社会契約論から見出された「一般的な視点」を、ロールズの「無知のヴェール」の議論へつなげていくところに説得力がある。「…こうして人は、情報の制約下で多様な立場を想像することを強いられる。そのプロセスを通じて、意図せずして社会的観点、社会的公正を考慮する視点に立つようになる。自己滅却や自己犠牲ではなく、自分が誰かわからない、あるいは誰でもありうるという状況下での「一般的エゴイズム」に基づく思考プロセスが、社会的公正を選ばせるのだ」(重田、252ページ)。
仲正昌樹『〈法と自由〉講義』はルソーの社会契約論からもたらされた思想的影響の圏域において法というテーマに焦点を合わせ、ルソー『社会契約論』、ベッカリーア『犯罪と刑罰』、そしてカント「啓蒙とは何か」等の諸論文を取り上げている。他の思想家たちとの関り方や影響関係、さらにキーワードの語源的な解釈が適宜交えられており、ゼミ形式で講読するような気持ちで読み進められる。
上掲の重田『社会解約論』を読みながら、万人の万人に対する闘争という自然状態から社会契約を結ぶにあたって最初に武器を捨てるのは誰か?というホッブズ問題、ルソーの社会契約における一般意志として「一般的な視点に立つ」こと、そしてロールズの「無知のヴェール」という思考実験における想像力はなぜ成り立つのか、つまり、そもそもそうした思考を敢えて行えるのはなぜなのか、そこのあたりをどのように考えればいいのか、気になっていた。熟慮に基づく理性、公共的理性、カント的な実践理性、色々な表現はあると思うが、一言でいえば社会契約として公共性に参与するときの一人ひとりの「自律」はどのようにして可能なのかという問いはさらに考え続けなければならないテーマであろう。
その点では、仲正書で社会契約論の一般意志をめぐって「人民」が自らの「一般意志」の現れである「法」を介して自らに規律を課しているという指摘に関心を持った。ホメロス『オデュッセイア』にあるセイレーンの誘惑のエピソードを引き合いに出して、「「法」というのは、人民が、自らが将来、危機的な状況、異常な状況に遭遇した時、バカなことをしでかさないよう、自分の行動を予め縛るものだというわけです。ある時点での冷静な「私」が、別の時点でバカなことをしそうな「私」の行動を抑止しているわけです。…私が私を縛ることがあるように、「私たち=人民」が、「私たち=人民」自身を縛っているわけです」(仲正、91ページ)と語っている。なお、セイレーンの誘惑というエピソードはアドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法──哲学的断章』(岩波文庫)で論じられている。
社会契約における一般意志として一定のルールを定め、そこに自発的に従う形で道徳的自由=自律を目指していたとしても、実際の人間はそこから逸脱しかねない。従って、一般意志に従うようにタガをはめる必要が出てくる。それが「法」として表現された。ベッカリーア『犯罪と刑罰』は罪刑法定主義や死刑廃止論といった議論で後世に大きな影響を与えているが、罪刑法定主義の考え方では法の内容をみんなが理解していることが前提となる。つまり、理性的な熟慮によって社会契約に参画していなければならないという点で「自律」→「自由」が前提となっていると言える。
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木村俊道『文明と教養の〈政治〉──近代デモクラシー以前の政治思想』(講談社選書メチエ、2013年)
現代の我々が暮らす社会で「政治」について考えるとき、暗黙のうちにデモクラシーが自明の前提となっている(もちろん、デモクラシーとは何か?というテーマ自体が論争的であるにしても)。しかしながら、「政治」なるものの多様な可能性を探ってみるなら、こうした自明の価値とされているものもいったん括弧にくくって問い直してみる作業も必要であろう。そこで本書が探求の対象とするのは、デモクラシーがまだ「普遍」的とは考えられていなかった初期近代(=近世、16~18世紀)のヨーロッパ政治思想史である。近代と近代以前、政治思想における双方の知的パラダイムの相違がくっきり浮き彫りにされているところに興味を持ちながら読み進めた。
「文明」と訳されるcivilization、この言葉が広く定着するようになったのは19世紀以降の「近代」になってからのことだという。本書はむしろ、初期近代に同義で使われていたcivilityとの意味的な差異に注目する。civilizationでは歴史の進歩や産業技術の発展といった技術知的な側面に重きが置かれるのに対して、civilityでは礼儀正さや洗練された作法といった対人関係における「実践知」としての意味合いが強かったと指摘される。
初期近代の社会で統治の舞台となった宮廷では、君主や顧問官、その他取りまきたちは洗練された振舞いをしなければならなかった。しかし、それは単なるパーティーの作法といったレベルのものではない。「暴力と感情の噴出を抑え、他者との交際や社交を可能にするための技術」、「他者を説得するレトリックや情況に応じて適切な判断を下す思慮を、洗練された振舞いや高度な役割演技において具現するための実践知」(110~111ページ)、こうしたものを「文明の作法」として本書は抽出していく。
社交における身体的振舞いによって他者との「共存」を可能にした「文明の作法」。しかしながら、フランス革命や産業化以降の「近代」世界において、「政治」は制度的・技術的な構成の問題となる。「文明の作法」を支えていた「教養」は個人の内面性に関わるもとして「政治」から切り離され、社交上の身だしなみ程度のものへと矮小化されていった。19世紀、開国を迫る脅威として日本が出会った西洋は、まさに「文明の作法」を失いつつある西洋であったという指摘が示唆深い。このようにして失われていった政治における作法=「型」というものを、もう一度考え直してもいいのではないかと本書は問いかける。
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