カテゴリー「歴史・民俗」の28件の記事

2009年11月 3日 (火)

ベネデット・クローチェ『思考としての歴史と行動としての歴史』

ベネデット・クローチェ(上村忠男訳)『思考としての歴史と行動としての歴史』(未來社、1988年)

・「あらゆる歴史的判断の根底に存在する実践的欲求は、あらゆる歴史に「現代史」としての性格を与える。というのも、そこに含まれている諸事実がたとえ年代的にどれほど古く見えようとも、それはつねに現在の欲求と状況とに関わっている歴史なのであり、それらの諸事実がその鼓動を伝えるのは現在の状況のなかにおいてであるからである。」…「わたしはそれらの歴史を文章にしてあるいは頭の中で書くことによって、わたしが現在置かれている状況の歴史を書いていることになるのである。」

・アーノルド・トインビーが、大学でトゥキュディデス『戦史』の講義をしていた時に第一次世界大戦の勃発を目の当たりにして、はじめてトュキュディデスの受けたであろう衝撃に思い至ったというエピソードを思い起こす。この体験が彼の比較文明論のきっかけになったというのは有名な話。

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2009年10月29日 (木)

ピーター・バーク『近世ヨーロッパの言語と社会──印刷の発明からフランス革命まで』

ピーター・バーク(原聖訳)『近世ヨーロッパの言語と社会──印刷の発明からフランス革命まで』(岩波書店、2009年)

 ある国民国家に属する者は誰もが同じ言葉を使わねばならない、そうした考え方が確立したのはフランス革命期であったというのはもはや通説か(たとえば、田中克彦『ことばと国家』[岩波新書、1981年]を参照)。言語と共同体との関係に焦点を合わせた本書も基本的にこの枠組みに立つが、同時にそれ以前(フランス革命以降を“近代”とするなら、それ以前の“近世”)からの言語形態や民族概念における連続的かつ複雑な因果関係に目を向ける。“共同体”や“民族”というのも定義の非常に難しい言葉だが、そこに込められた「われわれ」意識の一つの指標として機能する言語の役割を歴史的に検討していると言えるだろう。ヨーロッパ諸語を中心に豊富な具体例を盛り込みながら、多様な言語のせめぎ合いを描き出しているところが興味深い。

・ラテン語から俗語へと遷り変わるダイナミズムの描写が本書の骨格。
・ダイグロシア(社会階層的分離言語)としてのラテン語:エリートの使用、権威、特定の国の言語ではないという中立性→外交上の国際語。日常生活からの乖離感→普遍性。伝統の自覚→死者・生者をひっくるめた共同体の一員という感覚。
・宗教改革→日常語で典礼を行う→宗教領域と日常生活との距離を縮めた。
・エラスムスは文人エリートの世界に向けて意見を発表するためにラテン語を選び、ルターは普通の階層を対象にメッセージを送ろうとしたのでドイツ語を選んだ。
・正統派からの反発があったためラテン語には新しい思想や事物を表現する語彙がなく、また職人層が科学的議論に加わるようになった→学術語としてのラテン語の衰退。

・俗語の広がり→それぞれの言語において標準化が必要となった。①空間的均質性。②時代を超えた固定性(→アカデミーの設立)がないとラテン語に匹敵する権威を持ち得ない。
・「俗語の標準形とは、新たな共同体の価値を表現するものだった。その共同体とは、ラテン語の学識文化だけでなく地方の民衆的な方言文化とも異なる新興勢力であり、俗人エリート層の民族的な共同体であった。」(124ページ)
・俗語への翻訳→抽象的な表現に堪えるかどうか?

・俗語の標準語化は印刷本の登場以前から始まっていた。印刷はこうした変化の原因というよりも触媒としての役割。
・「標準語化は、意図的な言語計画に多少は負うところがあったが、国語の統一についてはいえば、印刷媒体や、宮廷や都市の興隆といった、人的な規制の及ばない力が果たしたところのほうがむしろ大きかったと言えるように思う。」(152ページ)

・ピジン語:母語話者を持たない言語で、異なる言語共同体の人々が互いのコミュニケーションのため簡略化された言語。クレオール語:そうしたピジン語が母語話者を獲得して複雑化した言語。
・近年、グローバリゼーションにおける英語の各言語への浸透が指摘されるが、地球規模における言語の混合はすでに近世には頻繁に生じていた(具体例を提示)。
・近代言語学習への関心の高まり→それは利害関係ばかりでなく、ラテン語の衰退により相互学習の必要に迫られた。

・フランス革命以降、「民族国家」生成の道具としての言語。意図的な言語政策はこれ以降。
・初頭義務教育で俗語を用いられる。「学校では、地元の共同体やその言語についてはないがしろにされ、国語と国民国家が学ばれたのである。」「言語は政治的自治の象徴、政治的戦いの武器となり、学校がその舞台になることもあった。」(237~238ページ)
・19世紀は民族主義と結び付いた言語的な純化主義運動が活発。アカデミーではなく政府が直接介入。

・翻訳では、英語経由音ではなく現地語音による表記に注意が払われている。

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2009年10月28日 (水)

喜安朗『パリ──都市統治の近代』

喜安朗『パリ──都市統治の近代』(岩波新書、2009年)

 サブタイトルから分かるように、ゆっくりカフェオレでも飲みながら、というタイプの本ではない。現在のパリの街並はナポレオン三世の時代のセーヌ県知事・オスマンによって原型が作られたわけだが、本書が描くのはそこに至るまでのいわば前史である。絶対王政からフランス革命を経て第二帝政まで、社会思想の担い手としての民衆生活史に主たる関心が置かれている。

 当初は、王権or政治権力と結び付いた中間団体としての社団(同業組合等)が一定のコントロール→人口の増加・流動化→不安定化→社団の解体→民衆レベルでアソシアシオンの生成→民衆蜂起の主体となる。19世紀半ば、パリの民衆蜂起鎮圧とアルジェリア征服とが同時進行していた(パリの貧民をアルジェリアに送って植民させる計画のあったことも指摘される)→フランス植民地帝国の首都となり、それはナポレオン三世の登場、オスマンによるパリ改造と軌を一にしていたと結ばれる。“ポリス”に焦点が合わされるが、昔は警視が街にとけこんで仲裁役のような役割を果たしていたというのはちょっと興味深い。

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2009年9月27日 (日)

金関丈夫『龍山寺の曹老人』

 戦後間もなく、天皇制の呪縛から解き放たれたのを機に、日本民族起源論が活発になった。江上波夫、岡正雄、八幡一郎、石田英一郎の座談が有名だが、こうした一連の議論の中で金関丈夫の名前も見えたことが、私の金関についての第一印象であった。本職は解剖学だが、京大で清野謙次から人類学、浜田青陵から考古学の手ほどきも受けている。ヨーロッパ留学を経て、台北帝国大学医学部に赴任、森於菟(鴎外の長男)と共に解剖学教室の設立にあたった。以前に岡書院発行の民族学・考古学雑誌『ドルメン』の編集に関わった経験もあり、池田敏雄から『民俗台湾』創刊の相談を受けたときには、肩のこらない学術雑誌という趣旨で『ドルメン』をモデルにするよう提案している。

 金関のジャンルを越えた教養の幅広さはよく知られている。彼の著作で入手しやすいのは『木馬と石牛』(岩波文庫、1996年)であろうか。小さい頃からの文学好きで、古今東西の説話・伝説の類を比較考証するこの本にも、やわらかい学術エッセイとしての軽妙な筆さばきが冴えている。

 日本の敗戦後、金関は留用されて肩書きは台湾大学教授となった。これからどうなるものやら、と日本人がみな浮き足立つ中、金関は「こんなときこそ勉強するのが一番だ、それがイヤなら小説でも読むことだな」と話していたらしい(池田敏雄「敗戦日記」『台湾近現代史研究』第4号)。そうした不安な状況下に書いた連作探偵小説が『龍山寺の曹老人』である(金関丈夫『南の風』[法政大学出版局、1980年]所収)。探偵小説好きが昂じて自ら執筆した医学者としては他に木々高太郎(林髞)も思い浮かぶ。金関は戦争中に『船中の殺人』も出版している(私は未見)。探偵小説に詳しい評論家の尾崎秀樹は当時、台北の中学生で、父・秀真(ほつま)の紹介で金関の研究室を訪問したこともあり、『船中の殺人』を買って読んだことを回想している(『えとのす』第21号)。なお、金関は林熊生というペンネームを用い、西川満主宰の『文藝台湾』同人名簿にもこの名前で載っている。

 龍山寺は台北・萬華の古刹。曹老人は日がな一日龍山寺の境内に座っているだけだが、物事はすべてお見通し。ある意味、ミス・マープルのような感じか。推理をめぐらす時は眼光鋭く、終わるとまたぼんやりした表情に戻る。口コミ・ネットワークで街の情報にも精通している。台湾の寺廟に行くと、何するともなくボーっと座っている老人を見かけることがあるが、ひょっとしたら、うかがい知れぬ智慧を秘めているのかもしれない、という着想があったのだろうか。堂守の范老人はワトソン、いつも事件を持ってくる陳警官はレストレード警部といった役回り。最後に関係者一同を集めて謎明かし、「犯人はお前だ!」(とは言わないが)という感じにしめくくられるのもセオリー通り。心霊写真や霊媒(台湾の関三姑)といった道具立ては、心霊現象に関心を寄せていたコナン・ドイルを連想させる。金関のことだから、しっかり読んでいたはずだ。

 『民俗台湾』第29号(昭和18年11月)では、媳婦仔の特集が組まれている。息子の嫁にする前提で他家から幼女をもらい受け、事実上、奴隷働きさせる習俗である。連作中の一篇「観音利生記」は媳婦仔の少女を救い出す話だ。

 民俗採集は社会的慣習のありのままを記述するというだけでなく、その慣習にはらまれた不合理な要素も際立たせる。少女作家・黄氏鳳姿は萬華の習俗を作文につづりながら、自分の身辺の中世的に暗い部分が目に付いて、書くのをやめたいと思ったところ、池田敏雄から説得されたことを回想している(池田鳳姿「『民俗台湾』の時代」、復刻版『民俗台湾』第五巻[南天書局、1998年]所収)。植民地社会における習俗のマイナス面の改善を図ることは“文明化”なのか、それとも“植民地化”なのかという議論はなかなか難しいところだ。“文明化”という大義名分の下、政策当局者の統治合理化という思惑による強制に転化するおそれが常にある一方で、気付いてしまったものを放っておくわけにもいかない。ただし、『民俗台湾』の編集スタンスとしては、“皇民化”という形での台湾社会に対する日本文化の不合理な押し付けに反対しており、媳婦仔のようなマイナス面に向けられた視線にはある種のヒューマニズムが動機として息づいていたことには留意しておく必要があるだろう。『龍山寺の曹老人』は娯楽小説ではあるが、台湾生活の中での見聞が織り込まれている点でも興味深い。

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2009年9月21日 (月)

『民俗台湾』の評価をめぐって

 植民地統治期台湾における広い意味での人類学的調査の経緯を大雑把にまとめると、第一に、後藤新平の発案による旧慣調査から始まる。統治を実効的ならしめるにはまず実態をありのままに把握する必要があるという政策立案上のプラグマティックな発想が背景にあり、後藤の「ヒラメの眼をタイの眼にすることはできない」という言葉は有名だろう。漢族系社会の調査が中心であり、織田萬・岡松参太郎など法律専門家の名前が見えるのが特徴である。山地の原住民系社会にはまだ警察による実効支配が及んでいなかったが、第二段階として、そこに先鞭をつけた伊能嘉矩、鳥居龍蔵、移川子之蔵(台北帝国大学、土俗・人種学)、浅井惠倫(台北帝国大学、言語学)、鹿野忠雄などが続く。こちらは純粋に学術志向で、政策的思惑とのつながりは薄い。ところで、この間、漢族系社会の民俗調査は進んでおらず、第三段階として、その空白を埋めるべく金関丈夫(台北帝国大学、解剖学)・池田敏雄らを中心に『民俗台湾』が創刊された(1941年)。なお、西川満の『文芸台湾』にも民俗部門があり、当初は池田・黄得時・楊雲萍などの名前も見えたが、こちらはむしろ文学志向に偏っていたため池田らは離れていく。

 1930年代後半から皇民化運動が始まり、さらに戦時体制一色となるにつれて台湾伝統の習俗が消えつつある、それを何とか記録しておかねばならないという焦燥感が『民俗台湾』の動機としてあった。その点では皇民化運動には批判的であり、編集実務を取り仕切っていた池田の身辺には特高の影もちらついていたらしい。それでも存続できたのは、当局から言質をとられないよう誌面構成に苦心していたこと、金関の台北帝国大学教授という官の権威を前面に立てたこと、総督府側にガス抜きの思惑があったかもしれないことも指摘できるだろうか。台湾人からの寄稿も募り、調査者=日本人、被調査者=台湾人という対峙的構図ではなく、台湾人自らによる調査を促したことも特筆される。後に池田敏雄夫人となる少女作家・黄氏鳳姿が一例だが、病躯を押して『民俗台湾』に寄稿し続けた黄連發という人の執念も目を引く。

 『民俗台湾』同人の自己評価はどうであったか。たとえば、中村哲(台北帝国大学、憲法学・政治学)は「『民俗台湾』というものは、政府側の天皇信仰を民間祭祀に代って押しつけようとしたことに反対したのです。それで、この雑誌が土着文化や土地のナショナリズムのはけ口になった。そういうつもりで私はやった。金関さんもひろいヒューマニズムを意識していた」と語っている(座談会「中村先生を囲んで」『沖縄文化研究』第16号、1990年3月)。池田敏雄は「わざわざ民俗資料の蒐集記録をいいたてたのは、当時台湾人の伝統文化をすべて否定し、破壊して日本化を強制しようとする総督府の皇民化政策と、これを支持する風潮に対する批判があってのことであった。したがって『民俗台湾』は、総督府当局からみれば、皇民化運動と相いれないものであり、決して歓迎すべき雑誌ではなかったのである」と記す(池田敏雄「植民地下台湾の民俗雑誌」『台湾近現代史研究』第四号、1982年10月)。さらに池田は、台湾人の同人であった黄得時(戦後、台湾大学教授)の次の回想を引用している。「ある人から、民俗台湾は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その点についてはあえていう、ぜったいにそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗台湾が総督府当局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」(同上)。

 なお、『民俗台湾』創刊趣意書(金関の執筆)にあった「台湾旧慣の湮滅を惜しむのではない」という文言をとらえて楊雲萍(戦後、台湾大学教授)が「冷たい」と非難するという一悶着があり、後述する戦後の『民俗台湾』批判ではこの一件が必ず取り上げられる。しかし、皇民化運動という時代的空気の中、当局から言質を取られないよう多少は筆も曲げねばならなかった事情を忖度せねばならないし、その後、非難したはずの楊自身も『民俗台湾』に寄稿している。楊の故郷・士林の特集が組まれて楊はホスト役として『民俗台湾』関係者を招待している。彼らは個人的に面識があったわけだから、誌面には表われないところで話し合って双方の納得は得られていたと考えるのが自然だろう。戦後になって楊は「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」と記している(『えとのす』第21号、1983年7月)。

 1990年代後半以降、『民俗台湾』に批判的な論考が現われ始める。嚆矢を成すのが川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)である。『民俗台湾』掲載の柳田國男を囲む座談会における柳田の発言から、日本を軸とした中央‐周縁のネットワークの中で植民地民俗学を構想する意図を読み取る。その上で、出席者の一人である金関にはレイシズム的な発想があった、『民俗台湾』は『文芸台湾』と同種のエキゾティシズムに惑溺していた、と論じている(なお、本書で示された視点への賛否はともかく、戦時下における民俗学・民族学・人類学の諸相を大きな視野で捉えて議論の一つのたたき台を提示している点ではやはり労作だと私は思っている)。

 小熊英二「金関丈夫と『民俗台湾』──民俗調査と優生政策」(篠原徹編『近代日本の他者像と自画像』[柏書房、2001年]所収)も金関には解剖学者としての優生思想があったと指摘、その政策的思惑を台湾人寄稿者はおろか池田・国分など良心派日本人にすら隠していたのだ、と論じている。日本の植民地統治における優生思想批判の意図は理解できるのだが、そこに金関を結び付ける論理立てがあまりにも強引すぎる(小熊論文の推測の強引さについては後述の坂野論文も注で指摘している)。金関の趣意書に「冷たさ」を嗅ぎ取った楊雲萍の直観は正確だったと言うのだが、楊自身がその発言を撤回していることは前述の通りである。台湾人寄稿者は利用されただけ、という言い方がされるが、たとえば病死した黄連發への金関による追悼文には彼への尊敬の気持ちが出ていて、少なくとも私はそのような断定にためらいを感ずる。なお、『民俗台湾』が台湾漢族のナショナル・アイデンティティ確認の機能を果たしたという指摘は、先に引用した中村哲の発言と符合している。ただし、小熊は「意図せざる結果だった」と消極的な位置付けに弱めているのだが。

 坂野徹「漢化・日本化・文明化──植民地統治下台湾における人類学研究」(『思想』第949号、2003年5月)は科学史の立場から「他者」を「文明化」する人類学者の態度に着目する。たとえば日本による植民地化以前、原住民に対しては「生蕃」「熟蕃」と華夷秩序に基づく区分けがなされていたが、それに代わって全島レベルで「文明化」さらには「皇民化」が進められた。それは、普遍的な「文明化」なのか、それとも特殊な「日本化」だったのか?と問題提起をする。『民俗台湾』については、「文明化」理念の中に「皇民化」=他者への植民地化暴力がはらまれている矛盾を隠蔽したと指摘する。

 どんなに客観性を標榜したとしても、観察する者/観察される者という非対称的な関係性そのものがある種の権力性・暴力性を帯びてしまう。そこに無自覚であってはならないと反省を促した点でポスト・コロニアルの議論は有益な視点を示している。ただし、『民俗台湾』をめぐってこれまで提起されてきた「大東亜民族学」の序列意識、植民地統治における優生思想、「文明化」言説に内在する「植民地化」、それぞれ考えねばならない論点ではあるのは確かなのだが、どれもテーマ設定初めにありきで、当事者の生身の葛藤が無視されるきらいがある。川村、小熊、坂野論文のいずれもが『民俗台湾』創刊趣意書に対して楊雲萍が「冷たい」と反発したことを取り上げているのだが、彼らの議論の進め方そのものにも欠席裁判の冷たさ、傲慢さをどうしても感じてしまう。

 川村書を読んだ国分直一は「『民俗台湾』の運動はなんであったか──川村湊氏の所見をめぐって」(『月刊しにか』第8巻第2号、1997年2月)を寄稿した。そこには師匠として尊敬する金関が不当に貶められているという苛立ちが行間からにじみ出ているが、実直な性格の国分はそれをあらわにはしない。むしろ注目すべきなのは、上下の優劣関係のない東アジアの比較民俗学を目指すべきだという川村の主張に共感を示しているところだ。国境を越えた広がりを持つ先史文化の民族考古学的探求に一生を捧げた国分の問題意識がまさにそこにあったからに他ならない。

 呉密察「『民俗台湾』発刊の時代背景とその性質」(藤井省三・黄英哲・垂水千恵編著『台湾の「大東亜戦争」──文学・メディア・文化』[東京大学出版会、2002年]所収)は、『民俗台湾』に台湾の伝統習俗消滅への危機意識、それを記録しようという熱意のあったことを確認し、国分の川村への反論も当然だとする。他方で、それは皇民化政策の時局的転換のすき間をぬって登場し得たものであったと指摘。川村が「大東亜民俗学」と問題提起をした以上、これを避けて通ることはできないと結ぶ。

 ある学知的構造は一人の人間の主観的な情熱によって容易に動かせるものではない。その中に組み込まれた者は、自覚的にせよ、無自覚的にせよ、構造的加害者として一律に断罪されねばならないのだろうか? 三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」(貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収)、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号、2006年3月)は植民地主義と人類学の関係という問題意識を踏まえて『民俗台湾』をめぐるこれまでの議論をレビュー、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と問いかける。『民俗台湾』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自体が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい。「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」という指摘には共感できる。総じて三尾論文の視点が私には最も説得的に感じられた。

〔追記〕『民俗台湾』の全体像を知りたい場合は(復刻されているのでこれを読むのが一番なのはもちろんだが、私も時間がとれないのですべて熟読したわけではない)、陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)がよくまとまっている。第一部では寄稿された論文・随筆のすべてを検討した上で全体的な傾向や特徴が論点ごとに整理され、第二部は編集の中心となった金関丈夫、池田敏雄、立石鉄臣、中村哲、国分直一の人物論となっている。日本語で書かれているが、台北の出版社なので入手が面倒かもしれない。

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2009年9月20日 (日)

移川子之蔵という人

 移川子之蔵という名前を見てすぐにピンとくる人はどれくらいいるだろうか。台北帝国大学土俗・人種学講座の創設者である。私は学生のころ考古学に関心があったこともあって名前くらいは見覚えがあったが、勝手に“いがわ・しのぞう”などと読んでいた。正確には“うつしかわ・ねのぞう”と読む。ところが、本人はローマ字でサインするときUTSURIKAWAと書いたという。アメリカ留学中、日本から来る書簡の宛名がたいていUTSURIKAWAとなっており、それを見たアメリカ人からもそう呼ばれて、何となく定着してしまったらしい。細かいことにはこだわらない、おおらかな人だったようだ。

 おおらかと言えば、こんなエピソードもある。東大で開催された第一回人類学会・民族学会連合大会で特別講演を行なったとき、所定時間を平気で1時間以上もオーバーした。題目は「未開民族における時の観念について」。身を以て実例を示したのかと語り草にもなった。とにかく時間を守らない人で、講義には遅刻するし、列車にも乗り遅れる。原稿の締切も守らないし、その上じっくり考えて書くタイプなので、業績の割には刊行された論文点数は少ない。飄々とした人格なので、それでも許されていた。

 移川の事蹟については、馬淵東一「移川先生の追憶」(『馬淵東一著作集第三巻』[社会思想社、1974年]所収、初出は『民族学研究』第十二巻第二号、1947年)、宮本延人「私の台湾紀」第一~十六回(『松前文庫』第三十~四十五号)、国分直一「移川子之蔵──南方民族文化研究のパイオニア」(綾部恒雄編著『文化人類学群像[3]日本編』[アカデミア出版会、1988年]所収)を参照した。宮本は慶應義塾大学での教え子で移川の台北帝国大学赴任にあたり助手として同行(戦後は東海大学名誉教授)、馬淵は台北帝国大学での唯一の弟子である(戦後は東京都立大学名誉教授)。

 移川は1884年、福島県で生まれ、中学卒業後、アメリカに留学。イリノイ大学、シカゴ大学、ハーバード大学で学ぶ。当初の志望は美術・建築だったが、民族学・人類学に変更した。「僕はイマジネーションが多すぎるせいか、自分の設計した建築は倒れそうな気がして」と語っていたらしい。ハーバードでは南太平洋の民族文化の専門家として名高いディクソン(Roland B. Dixon)の指導により“Some Aspects of Decorative Art of Indonesia”で博士号を取得(この博士論文には後年もしばしば手を入れて推敲を重ねていたらしいが、公刊はされなかった)、ハーバードの海外留学生として東南アジア・東インドに派遣された。

 1919年に帰国したが、当時の日本には人類学で職はない。東京商科大学で英語を教えていたが、総長の福田徳三が訪米中に移川の評判を聞いて慌てて彼を教授にしたというエピソードを宮本は記している。慶應で人類学の講義を持ったが、1928年、台北帝国大学設立にあたり、土俗・人種学講座の教授として赴任する。

 土俗・人種学とは聞き慣れない表現だが、移川は自らの講座名を英語でInstitute of Ethnologyと表記した。“民族”学というと台湾の民族運動を連想させるから総督府に忌避されたという噂のあったことを馬淵は記しているが、移川は名前などどうでもいいと気にしていなかった様子である。台北帝国大学に人類学の講座が設置されたのはもちろん総督府に植民地政策の意図があったからだが、移川自身は純粋に学究肌の人で、政治的なこととは没交渉だったようだ。当初は形質人類学など自然科学分野もカバーせねばならなかったが、森於菟・金関丈夫らによって医学部に解剖学講座が設けられて移川たちは人文分野に専念できるようになった。隣接分野としては言語学の小川尚義、浅井惠倫もいたほか、学外だが鹿野忠雄も調査にしばしば同行した。

 移川は具合の悪い片足を引きずりながらも宮本・馬淵らを連れて積極的に原住民社会のフィールドワークに出かけた。台湾西岸の漢族系社会と比べて東岸の原住民社会は極めて多種多様であること、部族の系譜や移動歴を古老が詳しく記憶していることに驚き、彼らの語りを記録・整理、『高砂族系統所属の研究』にまとめた。調査行の様子は宮本の回想録に具体的に記されており、なかなか興味深く読んだ。移川たちの関心は台湾原住民と南洋民族とのつながりに重きが置かれていたが、他方で、中国大陸の江南先史文化との関わりについては積極的な発言はなかったと国分は指摘している。

 日本の敗戦後、移川は日本に引き揚げ、土俗・人種学講座は台湾大学文学院考古人類系に引き継がれた。1948年に教授としてやって来た李済は安陽(殷墟)の発掘にも携わった著名な考古学者だが、彼の博士論文「中国人の形成」もハーバード大学のディクソンから指導を受けており、移川とはいわば同門であったと記している(李済[国分直一訳]『安陽発掘』新日本教育図書、1982年)。留用という形で台湾大学に残っていた国分は、李済が「これがハーバードの先輩、プロフェッサー・ウツリカワのミュージアムか」と感慨深げにつぶやくのを傍らで聞いた。移川はいまどうしているのか?と尋ねられたが、国分も日本の様子は分からない。戦後の混乱の中、すでに移川は1947年に病死しており、国分もそのことを知らなかった。

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2009年9月19日 (土)

国分直一のこと

 国分直一『台湾の民俗』(岩崎美術社、1968年)、金関丈夫・国分直一共著『台湾考古誌』(法政大学出版局、1979年)を手に取った。前者は主に農漁村などを歩き回ったフィールドノートをもとに漢族や平埔族の民俗について、後者には台湾在留中の発掘調査をもとにまとめた論文が収録されている。台湾の先史文化を考える上で南方系の要素を強調する向きが強かったが、石包丁、黒陶、石鏃などの出土例を踏まえて大陸文化とのつながりを指摘している点に特徴がある。

 『台湾考古誌』はもちろん学術書だが、目を引くのは巻頭のカラー図版。題して「国分先生行状絵巻」。金関の筆になる。たとえば、こんなシーンがある。先史時代の生活光景を大壁画にする企画で、作画担当の立石鉄臣はモデルがいないと描けないと言い、仕方なく国分が裸になって弓矢を持ったり、木を伐ったり。酒飲みの松山和尚につかまっているシーンもあるが、写真家の松山虔三のことか。国分の遠慮がちな性格をからかいながらユーモラスに描かれた絵巻である。日付は1948年10月、国分の妻と娘宛て。国分も金関も留用という形で日本の敗戦後も台湾に残されており、先に帰国した国分の家族を安心させるために金関が描いて送ったのである。

 国分直一は1908年、東京に生まれ、その年のうちに父親が台湾の高雄に転勤したため、台湾で育った。旧制台北高校の一年上級にいた鹿野忠雄(山崎柄根『鹿野忠雄──台湾に魅せられたナチュラリスト』[平凡社、1992年]を取り上げたことがある→こちら)からの影響で民族学に関心を寄せる。京都帝国大学史学科を卒業、左翼思想に傾いていたため当局からにらまれ、逃げるように台湾に戻って台南高等女学校に勤務。その頃台南一中で教鞭をとっていた前嶋信次(東洋史、後にイスラム史の権威)や郷土史家の石陽睢と共に歴史・民俗調査を行なう。1943年、台北高等師範学校に移り、台北帝国大学医学部の金関丈夫を師と仰ぎ、『民俗台湾』にも積極的に参加した。その時のことを回想して、皇民化運動には批判的意図を持っていたこと、台湾の研究を大陸、とりわけ華南との関連につなげていこうと考えていたことなどを記している(「中村哲先生と『民俗台湾』の運動」『沖縄文化研究』第16号、1990年)。戦争中もアメリカ軍の空襲をかいくぐりながら学生たちと一緒に発掘活動に従事したことは『台湾考古誌』に記されている。

 敗戦後は留用されて編訳館に勤務(他に言語学の浅井惠倫、民俗学の池田敏雄なども)。さらに台湾大学文学院副教授となって、爆撃を受けた大学の標本を整理、考古学の講義も行なって、戦後において台湾考古学の牽引役となる宋文薫(台湾大学名誉教授)などを育成した。また、大陸から来た李済、董作賓らとも交流。1949年8月に帰国。

 戦後になっても国分は視野をさらに広げ、環東シナ海の文化的重層を掘り起こすべく80代を過ぎても旺盛に活動した。物質文化を時間・空間を超えて包括的に把握しようというのが国分の関心のあり方だが、角南聡一郎「日本植民地時代台湾における物質文化研究の軌跡」(『台湾原住民研究』第9号、2005年)は、考古学的に実測図を採用して科学的・客観的な解釈を試みたと評価、他方で、民俗学的調査では実測図を使わず従来通り写真や絵図を用いるという相違があったことを指摘。また、植民地における日本人移民の物質文化研究の先鞭を付けたとも評価する。

 なお、国分の事跡については陳艶紅「国分直一と《民俗台湾》」(財団法人交流協会、2001年)、木下尚子「國分直一がのこしたもの」(『古代文化』第58巻第1号、2006年)を参照した。国分の回想録は『遠い空』という本にまとめられているらしいが、私は未読。

 川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)が『民俗台湾』とその指導者とされた金関丈夫に批判の矛先を向けているのを読んで、国分は誤解も甚だしいと居たたまれない気持ちに駆られ、「『民俗台湾』の運動はなんであったか」(『月刊しにか』第8巻第2号、1997年2月)を書いた。エキゾティシズム趣味の西川満が主宰する『文芸台湾』でも確かに民俗をテーマとした記事が見られるが『民俗台湾』とは性格が異なること、国分自身などは台系社会をより理解するためにむしろリアリズムの張文環が主宰する『台湾文学』に親しんだこと、などを記している(三誌の違いについてはこちらで触れた)。師として尊敬していた金関への強い思い入れが行間からにじみ出ているが、遠慮がちな性格の国分らしく筆致は控えめだ。それどころか、どこにも中心を置かない新しい比較民俗学を川村が提唱しているところには共感を表明している。東アジア圏の国境を越えた民族考古学をフィールドとする国分の問題意識がまさにそこにあるからだが、彼の学徒としての実直さがよくうかがわれる。

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2009年8月24日 (月)

ロナルド・トビ『「鎖国」という外交』、大石学『江戸の外交戦略』

 私が小中学生くらいの頃の歴史教科書には、江戸時代を鎖国で特徴付ける記述が普通だったように思う。長崎の出島や朝鮮通信使は例外扱いされた。しかし、この“例外”という表現が曲者で、当時でも海外との外交ルートはこの時代に独特な形ではあっても確固としてあったというのが現在では通説となっている。具体的には、松前氏を通して蝦夷、対馬の宗氏を通して朝鮮、薩摩の島津氏を通して琉球、長崎の出島ではオランダ東インド会社、唐人屋敷では中国商人、という“四つの口”。これらは“例外”だったのではなく、幕府の外交方針として窓口に指定されていたのである。そこには、中華的華夷秩序から離脱した、“日本型華夷観念”を見出すこともできる。

 ロナルド・トビ『「鎖国」という外交』(全集日本の歴史第9巻、小学館、2008年)は、当時の記録・説話類の分析、とりわけ図像学的な知見をもとに、当時の日本人の対外認識を読み解いていくところが非常に面白い。たとえば、ヒゲの変遷。江戸時代の国内統制政策→ヒゲと総髪をシンボルとした浪人たちを取り締まり→月代・髻・ヒゲなしという日本人の身体的特徴が定着。他方、清では漢人にも辮髪を強制、ヒゲはあり→髪の形とヒゲが“唐人”の特徴として図像的にも認識される。さらに“毛唐人”という表現にもつながる。また、富士山遠望奇譚から対外認識を読み取っていくところも興味深い。

 大石学『江戸の外交戦略』(角川選書、2009年)は、海外との接触をシャットアウトしたのではなく、国家が国民の出入国を管理・制限する体制として“鎖国”を把握。国内・対外関係の両面における安定維持を図っていた点で“国民国家”形成過程にあったと位置づける。こうした観点に基づき秀吉の朝鮮出兵から幕末に至るまでの外交的対応を概観し、“鎖国”体制においても海外の文化を摂取・成熟させていたことを指摘する。

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2009年6月 6日 (土)

柳田國男『先祖の話』

柳田國男『先祖の話』(『柳田國男全集13』ちくま文庫、1990年、所収)

 柳田國男『先祖の話』は昭和20年10月に刊行されたが、執筆されたのは4月から5月にかけてのことである。東京は空襲で灰燼に帰し、大陸へ、あるいは南方へ出征した兵士たちははるか異郷で屍をさらす、そういったおびただしい死が日常に充満する異様な時期であった。空襲警報に日々おびやかされる中、柳田は自身の摑み得た日本人の死生観、霊魂観を本書に凝縮させている。

 私はこの本を初めて読んだときから「柿の葉」という言葉が印象に残っていた。いわゆる無縁仏への供物は器でなく柿の葉に載せるという差別待遇があったらしい。「以前は遠い田舎では子のない老女などを罵って、柿の葉めがといったという話がある。今ならもうそのような残酷な言葉を口にする者もあるまいが、当の本人だけはまだ時々はこれを思い出すかもしれない。私の先祖の話をしてみたくなった動機も、一つにはこういう境涯にある者の心寂しさを、由ないことだと思うからである」(104頁)。

 柳田の霊魂観の第一の特徴として“祖霊の融合化”が挙げられる。祀るとは、その人のことをいつまでも覚え続けていくことである。具体的な個人、有名になった英雄を神様として祀ることも大切かもしれないが、あまたの無名の人々にはどのように向き合ったらよいのか。時間が経つと、見知らぬ個々具体的な人々への追憶は薄れていくが、見方を変えれば「一定の年月が過ぎると、祖霊は個性を棄てて融合して一体になるものと認められていたのである」(133頁)。“祖霊の融合単一化”という形で、ともすれば取りこぼされかねない人々が出てくるのをできる限り防ごう、そうしたところに柳田は日本人の霊魂観の意義を見出そうとしている。

「古いということに対しては、もともと我々はごく漠然とした知識しか持たなかったのである。それをだんだんと今いる者の父母とか祖父母とか、いたって近い身のまわりへ引き寄せて、我から進んで家の寿命を切り詰めたことは、過去はさて置いて、未来のためにも損なことであった。遠い先祖の降りて来て祭られることが、同時にまた今の我々の永くこの国土に去来し得ることを、推理せしめる因縁ともなっていたからである。それよりも大きな障りになったのは人の名をさすこと、家にすぐれた大事な人があって、その事蹟の永く伝わるのはよいことであり、子孫の励ましにもなることは確かだが、そればかりがあまりに鮮やかに拝み祭られる結果は、幾多の蔭の霊を、無縁とも柿の葉とも言わるるようなものに、落すことになるのであった。活きている間は一体となって働き、泣くにも喜ぶにも常にその一部であった者が引き離されて、歴史はいつも寂しい個人の霊のみを作ることになっている。…何にもせよこうして永い世に名を残すということが、一方には無名の幾億という同胞の霊を、深い埋没の底に置く結果になっていることだけは考えてみなければならない。元からそうであったということは言われぬのである。我々の先祖祭は、一度はかつてこの問題をあらましは解決していた。家が断絶して祭る人のない霊を作り出すことだけは、めいめいの力では防がれなかったが、家さえ立って行けば千年続いても、忘れられてしまうというものはない。少なくともそう信ずることがもとはできたのである。…国が三千年もそれ以上も続いているということは、国民に子孫が絶えないことを意味する。それがただわずかな記憶の限りをもって、先祖を祭っていてよいとなれば、民族の縦の統一というものは心細くならざるを得ない。」(148~149頁)

「淋しいわずかな人の集合であればあるだけに、時の古今にわたった縦の団結ということが考えられなければならぬ。」(207頁)

 第二に、日本という国土における“顕幽二界”という特徴も挙げられる。つまり、生者の世界と死者の世界とは近くにあって行き来が可能だという世界観である。柳田の脳裡にあった“顕幽二界”という考え方には平田篤胤流国学の影響も指摘されている(余談だが、平田にしても柳田にしても、今風に言うなら結構オカルト好きだ)。戦争中、「七生報国」という言葉を胸に抱いて死地に赴く場面が見られた。死への抵抗感・緊張感はもちろん余人には窺い知れぬほど強いものだったろうが、柳田は、死んでもこの日本に戻ってこられるという世界観があったからその緊張感も比較的軽減できたのではないか、と言う。「人生は時あって四苦八苦の衢(ちまた)であるけれども、それを畏れて我々が皆他の世界に往ってしまっては、次の明朗なる社会を期するの途はないのである。我々がこれを乗り越えていつまでも、生まれ直して来ようと念ずるのは正しいと思う。しかも先祖代々くりかえして、同じ一つの国に奉仕し得られるものと、信ずることのできたというのは、特に我々にとっては幸福なことであった」(206頁)。ここで言う「他の世界」とは、極楽浄土や天国といったこの世から隔絶したあの世に憧憬を抱く他界観を指す。

「私がこの本の中で力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである。」(61頁)

 こうした考え方が良いか悪いかは軽々には断定できない。ただし、国家への強制的奉仕という言い方ではまとめられない、もっと感性的な深層に根ざしたものを見つめようとしている点は汲み取るべきだろう。橋川文三は以上の柳田の思想に、時間的な連続の中に個人を位置付ける感覚としての“純粋な”保守主義を見出し、エドマンド・バークと比較している(橋川文三「保守主義と転向」「日本保守主義の体験と思想」、『柳田国男論集成』未来社、2002年)。なお、過去・現在・未来の共同事業として国家を捉えるバークの保守主義思想については以前こちらに引用したことがある。

 ここで強調しておかねばならないのは、柳田はこうした自身の態度を他人に強制するつもりはないとしていることだ。彼も含めて以上に見られる世界観に安心を覚えたということ、このこと自体は打ち消しがたい一つの事実ではあるが、この事実を踏まえてどのように考えるかは各人に委ねられる。

「日本民俗学の提供せんとするものは結論ではない。人を誤ったる速断に陥れないように、できる限り確実なる予備知識を、集めて保存しておきたいというだけである。歴史の経験というものは、むしろ失敗の側において印象の特に痛切なるものが多い。従ってつまびらかにその顛末を知るということが、いよいよ復古を不利不得策とするような推論を、誘導することにならぬとは限らない。しかしそのために強いて現実に眼を掩い、ないしは最初からこれを見くびってかかり、ただ外国の事例などに準拠せんとしたのが、今まで一つとして成功していないことも、また我々は体験しているのである。今度という今度は十分に確実な、またしても反動の犠牲となってしまわぬような、民族の自然と最もよく調和した、新たな社会組織が考え出されなければならぬ。それにはある期間の混乱も忍耐するの他はないであろうが、そういっているうちにも、捜さずにはすまされないいろいろの参考資料が、消えたり散らばったりするおそれはあるのである。力微なりといえども我々の学問は、こういう際にこそ出て大いに働くべきで、空しく詠嘆をもってこの貴重なる過渡期を、見送っていることはできないのである。」(10~11頁)

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2009年6月 4日 (木)

柳田國男「大嘗祭ニ関スル所感」

柳田國男「大嘗祭ニ関スル所感」(『柳田國男全集13』ちくま文庫、1990年、所収)

 お米の収穫を祈願するのが天皇のお仕事で、それを新嘗祭といい(勤労感謝の日はこれに由来)、天皇即位後初めて行なわれる新嘗祭を大嘗祭という。柳田國男「大嘗祭ニ関スル所感」は大正天皇の時の大嘗祭に出席した経緯をもとに書かれている。要するに、国威発揚のための即位式と日本の伝統的信仰に基づく大嘗祭とでは性格が全く異なる、対外関係を意識する前者が盛大に行なわれるのは当然だが、後者は身を清めて厳粛に執り行なうべきで、同じように扱うのはおかしい、という趣旨。

「即位礼ハ中古外国ノ文物ヲ輸入セラレタル後新タニ制定セラレタル言ワバ国威顕揚ノ国際的儀式ナルニ反シテ、御世始メノ大嘗祭ニ至ッテハ国民全体ノ信仰ニ深キ根柢ヲ有スルモノニシテ、世ノ中ガ新シクナルト共ニ愈其ノ斎忌ヲ厳重ニスル必要アルモノナルガ故ニ、華々シキ即位礼ノ儀式ヲ挙ゲ民心ノ興奮未ダ去ラザル期節ニ斯ノ如ク幽玄ナル儀式ヲ執行スルコトハ不適当ナリト解セラレタル為ナルベシト信ズ。」「国家ノ進運ガ今日ノ如ク著シキ時代ニハ、即位礼ノ壮麗偉大人目ヲ驚カスベキモノアルコトハ固ヨリ当然ノ儀ニシテ、小官ノ如キハ臣子ノ分トシテ今後百千年ノ後愈々益々此ノ儀式ノ盛大ニシテ有ラユル文明ノ華麗ヲ尽サンコトヲ望ミテ已マザルモ、之ニ引続キテ略々相似タル精神ヲ以テ第二ノ更ニ重大ナル祭典ヲ執行セラルルコトハ単ニ無用無益ト云ウニ止ラズ、或イハ不測ノ悪結果アランコトヲ恐ルルナリ。」(712~713頁)
「…今日最モ其ノ宜シキヲ得ズト考エラルル点ハ即位礼ノ盛儀ヲ経テ民心興奮シ、如何ナル方法ヲ以テシテモ慶賀ノ意ヲ表示セントシテ各種ノ祝宴ニ熱中スル際、引続キテ大嘗祭ノ如キ厳粛ヲ極メ絶対ノ謹慎ヲ必要トスル祭典ヲ挙ゲラルルト云ウ制度ナリ。」(717頁)

 国家のロジックと伝統のロジック、両者の相違を明確にしようという柳田の姿勢がうかがえる。同様の相違は地方自治の問題でも表面化した。床次竹二郎ら内務官僚の主導で、日本各地の神社、それこそ村はずれの鎮守の杜まですべてを統合し一定のヒエラルキーに整理してしまおうという構想が進められていた。南方熊楠などはこれに反対して逮捕されてしまい、柳田も当然ながら反対で、熊楠に共感していた。この神社統合構想において、地域住民の皮膚感覚に根ざした伝統的信仰のあり方と、国の隅々まで行政の論理を貫徹させようとする中央集権志向と、両者の衝突が鮮明化したと言える。よく指摘されることだが、いわゆる“国家神道”なるものはあくまでも近代の産物であって、“伝統”と見まごう衣装を被りながらも、その内実は似て非なるものであった。エリック・ホブズボームらの表現を借りるなら“創られた伝統”である。いわゆる常民の皮膚感覚に根ざした心情の世界を前にしたとき、政治のロジックはどうしてもすれ違ってしまう。もともと農政官僚として出発した柳田はこうしたズレから眼を背けることができなかった。そこに民俗学への動機があった。だからこそ、民俗学や歴史学ばかりでなく、政治思想史・社会思想史といったコンテクストにおいても柳田の存在感は大きいのである。橋川文三は柳田について次のように記している。

「…彼の考え方は、祖先信仰の中にひそむ民衆心情世界の自覚的研究を通して、まず民間信仰の純粋形態を明かにし、そこで、はじめて正しい神社行政が樹立されねばならないというものであり、たんなる制度化、政治的既成事実化によっては、かえって制度化によって疎外されたアモフルな信仰エネルギーが混乱をひきおこすであろうというものであった。いいかえれば、彼は氏神信仰の心意をつらぬく民衆的生活原理の内省的純化という手つづきを重視したのであり、その意味では民族信仰の「宗教改革」ともいうべき転換をさえ必要と考えていたといえよう。…ともあれその民俗学的研究によって切り開かれた氏神信仰の世界は、おそらく官僚的宗教観にとって想像もつかないほど、混沌とした様相をおびたものであった。」「類型的にいえば、国家官僚の氏神観はその雑多性・猥雑性を無価値な自然状態として、もっぱら行政的規制によって画一化を進めようとする。それに対して、柳田はその雑多性の中に理由を見出し、純粋な地方民衆生活の原理形態を明かにしようとする。前者が絶対主義権力の外発的要求にもとづく地方処理であるとすれば、後者は民衆生活の内発的要求を原理化することによって、かえって国家論理の形態を規制しようとする意味を含んでいる。いわば明治の地方自治制がいわゆる「郷党原理」という擬制的な魂を地方に付与したのに対し、実体としての地方の魂を明かにしようとしたのが柳田の仕事であった。」(橋川文三「明治政治思想史の一断面」『柳田國男論集成』未来社、2002年、253~254頁)

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2009年5月16日 (土)

早川孝太郎『花祭』

早川孝太郎『花祭』(講談社学術文庫、2009年)

 三河・信濃・遠江の祭事は日本芸能の縮図的存在として民間信仰史・芸能史では重要らしい。早川孝太郎が自身の故郷・奥三河の花祭を記録した本書はそのことを知らしめた古典とされているらしい。早川は宮本常一などと同様に渋沢敬三・柳田國男によって引き立てられた民俗学者である。

 何となく気になっているのだが読まないままの本がいくつかある。早川『花祭』も私にとってそうした一冊だった。高校生の頃、学校の図書館に岩崎美術社の民俗学シリーズがそろっていて(深い水色のハードカバーが記憶に鮮やかだ)、適当に引っ張り出しては、読むともなくパラパラめくって眺めることがよくあった。『花祭』もその中にあった。民俗学への興味がうすれて久しいのだが、なつかしい感じがしてついつい買ってしまった。講談社学術文庫版は岩崎美術社版の復刊だが、これ自体が縮刷版である。大部なオリジナルは岡書院から出されていたということは今回初めて知った。岡書院の岡茂雄についてはこちらを参照のこと(→岡茂雄『本屋風情』

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2009年5月 3日 (日)

五十嵐真子『現代台湾宗教の諸相──台湾漢族に関する文化人類学的研究』、尾崎保子『保生大帝──台北大龍峒保安宮の世界』

五十嵐真子『現代台湾宗教の諸相──台湾漢族に関する文化人類学的研究』(人文書院、2006年)

 戦後台湾における宗教現象についての研究書。民俗宗教というのは、儒・仏・道教のように一定の教義体系を持って制度化された宗教も混ざり合いながら、(ご利益宗教と言ってしまうと語弊があるかもしれないが)生活的・社会的な困難の解決もしくは理解に資する信仰世界と言えるだろうか。信仰世界と現実の社会関係との関わり方(たとえば風水など)を内在的ロジックに応じて把握していくのが文化人類学だが、そこに見られる世界観はもちろん閉じた体系ではない。たとえば、本書で取り上げられる王母娘娘信仰は大陸起源→中華文明の正統性という政治的言説と必ずしも無縁ではないという。また、日本は台湾に明確な宗教的影響を残したわけではないが(たとえば欧米→キリスト教というような)、布教方法や組織原理の面では日本仏教の借用が見られるらしい。漢族社会は父系の血縁組織とされるが、宗教現象では女性の役割が大きいというのも興味深い。

尾崎保子『保生大帝──台北大龍峒保安宮の世界』(春風社、2007年)

 保生大帝とは唐もしくは宋代の名医に由来する神様らしい(台湾で祭られている神様は寺廟数の順番で言うと、王爺、観音仏祖、釈迦仏、天上聖母=媽祖、福徳正神=土地公、玄天上帝、関聖帝君=関羽、保生大帝などがある。上掲五十嵐書を参照)。台北にある大龍峒保安宮の装飾画を紹介。『史記』や『三国志』のエピソードが多い。

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2009年2月16日 (月)

アルメニア史についてメモ

 アルメニアの通史としては、ジャン・ピエール・アレム(藤野幸雄訳)『アルメニア』(白水社・文庫クセジュ、1986年)、佐藤信夫『新アルメニア史 人類の再生と滅亡の地』(泰流社、1988年)、中島偉晴『閃光のアルメニア ナゴルノ・カラバフはどこへ』(神保出版会、1990年)、藤野幸雄『悲劇のアルメニア』(新潮選書、1991年)のほか、北川誠一・前田弘毅・廣瀬陽子・吉村貴之編著『コーカサスを知るための60章』(明石書店、2006年)の関連箇所を参照のこと。藤野書が過不足なくまとまっており、入門書として一番読みやすい。

 とりあえず頭に残ったポイントを書き出すと、
・アルメニア人のシンボルとなっているアララト山(ただし、現トルコ領)→語源的に古代ウラルトゥ王国に由来(母音変化により、ウラルトゥ→アララト)。
・後301年にキリスト教を国教化した最古のキリスト教国だが、太陽崇拝・アナヒータ(大地母神)崇拝など古代の風習も残っているほか、ゾロアスター教の痕跡も見られるらしい。
・エチミアジン大寺院にキリスト教のアルメニア大主教(カトリコス)がいて、メスロープ・マシュトツがアルメニア文字をつくった→ペルシア文化と訣別し、アルメニア人としての民族的一体感。
・11世紀以降、アナトリア中西部のキリキアへの移住が始まる→小アルメニア(キリキア)王国→十字軍と連携した。キリキアにアルメニア大主教が置かれたが、キリキア王国滅亡後も存続→エチミアジンと一種の分立状態。
・18世紀以降、ロシアの南下→1828年、ロシアとペルシアとの間でトルコマンチャーイ条約→現在のアルメニアの国境線がほぼ確定→アルメニア人はロシア領とそれ以外とに分裂。
・19世紀末、ハンチャク党(社会主義)、ダシュナク党(民族主義)などの結成→アルメニア人の政治活動活発化、権利要求の他、分裂したアルメニア再統合の主張も出てくる。
・オスマン帝国は、アルメニア人の活動はロシア帝国と手を結ぶのではないかと猜疑心→1894~96年、赤いスルタン・アブドュル=ハミト二世によるアルメニア人大虐殺。

 アルメニア現代史で最も重大な事件はオスマン帝国による大虐殺である。「統一と進歩委員会」(いわゆる“青年トルコ党”)のエンヴェル陸相・タラート内相・ジェマル海相の三頭政治による舵取りでオスマン帝国は第一次世界大戦に参戦、1915年から国内のアルメニア人の“移送”(すなわち抹殺)を指示した。その状況は中島偉晴『アルメニア人ジェノサイド 民族4000年の歴史と文化』(明石書店、2007年)に詳しいほか、デーヴィッド・ケルディアン(越智道雄訳)『アルメニアの少女』(評論社、1990年)、マリグ・オアニアン(北川恵美訳)『異境のアルメニア人』(明石書店、1990年)は生き残った人の逃避行を生々しく描き出している。この虐殺にはアッシリア人も巻き込まれた。トルコ人やクルド人でもアルメニア人に救いの手を差し伸べた人もいたが、そうした行為は処罰の対象となったし、地方総督でも拒否した者もいたが、抗議の辞任や左遷、場合によっては処刑された。憎悪や憤怒による偶発的な虐殺というよりも、政府による指揮命令系統に従った虐殺として近代的なジェノサイドの始まりを意味した。ヒトラーが第二次世界大戦を仕掛けるにあたり、「今日、だれがあのアルメニア人虐殺なんて覚えているだろうか?」と語ったことはよく知られている。

 オスマン帝国の敗戦後、青年トルコの三頭政治家はみな国外に逃亡したが、タラートは1921年にベルリンで、ジェマルは1922年にグルジアのティフリスで暗殺された(山内昌之『納得しなかった男 エンヴェル・パシャ 中東から中央アジアへ』岩波書店、1999年)。タラート暗殺犯のテフレリアンが裁判(アルメニア人への同情から無罪になった)にかけられたことに関心を抱いた国際法専攻の学生ラファエル・レムキンは後にジェノサイド防止条約の制定に尽力することになる(Samantha Power, A Problem from Hell: America and the Age of Genocide, Harper Perennial, 2007)。なお、アルメニア人によるトルコ人への復讐テロは1980年代まで起こった。

 トルコにとってアルメニア問題はいまだにタブーとなっている。ノーベル賞作家オルハン・パムクがアルメニア人虐殺に言及して、国家侮辱罪に問われたことは記憶に新しい。背景の一つには、トルコ国内での歴史教育の問題がある。アメリカに行ったあるトルコ人政治学者が語るところによると、アルメニア人学生からアルメニア人虐殺問題について指摘されたところ、そもそもその問題について知らないために感情的にムキになってしまうらしい(中島偉晴『アルメニア人ジェノサイド 民族4000年の歴史と文化』)。

 アルメニア教会がアルメニアのエチミアジンとキリキア(その後、レバノンのアンテリアス)とに分立していたことは、アルメニア人の国外亡命組織の派閥抗争にも暗い影を落とした。共産党支配下でエチミアジンの教会が荒廃する一方、オスマン帝国のジェノサイドを逃れてアメリカにいたトゥーリアン大主教(Archbishop Tourian、キリキア系)はソ連のアルメニア共和国と連携したが、これはソ連によって弾圧された民族主義政党ダシュナクからは裏切り行為とみなされ、トゥーリアンは暗殺された(Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008, 179-181)。ソ連崩壊後も、アメリカ帰りのアルメニア人ともともといたアルメニア人とでは政治主張(たとえばナゴルノカラバフ紛争についてなど)に温度差があるらしい。

 最近のアルメニア情勢をめぐっては、廣瀬陽子『強権と不安の超大国・ロシア──旧ソ連諸国から見た「光と影」』(光文社新書、2008年)、『コーカサス 国際関係の十字路』集英社新書、2008年を参照のこと。

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2009年2月11日 (水)

グルジアの音楽のこと

 「世界民族音楽大集成70 グルジアの歌」というCDを図書館から借り出して聴いている。男声のアカペラ合唱が多い。複雑な旋律がポリフォニックに幾重にもかさなっているところなど洗練された印象を受け、結構聴きこんでしまう。収録されているのは、労働歌:宗教歌=1:2くらいの割合。宗教歌というのはもちろんキリスト教の聖歌だが、中には「リレ」というキリスト教以前の太陽崇拝の讃歌もある。労働歌も宗教歌も(そして“異教”の歌も)曲調の違いはあまり感じられず、世俗も宗教生活も混然一体となっていたかのようにも思われる。二見淑子『民族の魂 グルジア、ウクライナの歌』(近代文藝社、1995年)はグルジア音楽の比較分析を進めた結果、聖歌にはグルジア土着の民謡の影響が濃厚で、キリスト教受容の当初からグルジア化の傾向があったと指摘している。

 グルジアは後337年にキリスト教を国教化した。アルメニアに次ぐ古さで、テオドシウス帝によるローマ帝国での国教化(380年)よりも古い。グルジアでも当初はビザンツ式典礼が行なわれていたが、6~7世紀頃からグルジア語による典礼・聖歌が広まり始め、9世紀までには完全にグルジア化されたという。12世紀のタマラ女王の時代は文化的にも最盛期となった。その後、モンゴル、ペルシア、トルコと様々な外来勢力の侵食を受け、1801年にロシア帝国に併合された。以降、ロシア経由で西欧音楽が流入する。

 グルジアの首都チフリス(現トビリシ)はロシア領コーカサスにおける音楽教育の中心となった。コーカサス音楽協会の音楽学校が設立され、これは1917年に正式に高等音楽院となる(アレクサンドル・チェレプニンの父ニコライはここの校長として招聘された)。また1883年、やはり音楽学校の教員として来ていたイッポリトフ=イワーノフ(組曲「コーカサスの風景」で有名。特に「酋長の行進」はライト・クラシックとして演奏される機会も多い)を中心にオーケストラが結成された。1886年にチフリスを訪問したチャイコフスキーをこのオーケストラが出迎えることになる(森田稔「西洋との接触から生まれたコーカサスの国民音楽」『コーカサスを知るための60章』明石書店、2006年)。

 こうして西欧音楽が流入する一方で、グルジア聖歌は教会の管轄下にあった。一種の分立状態と言えようか。19世紀以降、ヨーロッパの中小民族の間で自分たち独自の民族文化を見直そうという動きが高まるが、グルジアもその例外ではなかった。まず聖歌が再評価されたほか、民謡採集も積極的に行なわれるようになる(イッポリトフ=イワーノフなどのロシア人音楽家も協力した)。

 アレクサンドル・チェレプニンの父ニコライは、リムスキー=コルサコフに師事した著名な音楽家で、1918年、チフリスの高等音楽院の校長として招聘され、グルジアへ移住した。当時のグルジアはメンシェヴィキを中心に独立した政権が形成されて比較的安定しており、革命で混乱したロシアから脱出しようという意図があった(しかし、1921年にグルジアはボルシェヴィキによって制圧され、チェレプニン一家はヨーロッパへ亡命する)。父親に連れられて来たアレクサンドルは多感な青年期、ここチフリスで音楽的にも大きな刺激を受ける。チフリスはコーカサスにおける音楽教育の中心であり、また19世紀以来コーカサス諸民族の民謡採集が行なわれてきた成果もあり、様々な音楽要素に出会う機会があった。そもそもグルジアをはじめとしたコーカサス一帯は、北はロシア、南はイスラム勢力の影響により、異なる文化圏が混淆した地域である。

 私がチェレプニンという人物に興味を持ったのは、彼が日本と中国で若手音楽家の発掘に努め、とりわけ日本では江文也と伊福部昭を見出したこと。江は台湾出身、日本で音楽教育を受け、その後中国に渡った。伊福部は日本人だが、幼少時からアイヌの文化に馴染んでいた。こうした人物に関心を寄せるチェレプニンの多民族融合的な音楽志向には、グルジアで多感な青年期を過ごした体験がやはり大きな影響を及ぼしていたと言える。

 チェレプニンはハチャトリアンの曲も大好きだったが、片や亡命ロシア貴族、片やソ連を代表する音楽家の一人、会う機会のないことを残念がっていた。ハチャトリアンはアルメニア人だが、若い頃はグルジアのチフリスにいた。チフリスはグルジアの首都であると同時にロシア領コーカサス全体の中心都市でもあり、様々な民族が入り混じっていた。特に経済面で活躍していたアルメニア人は19世紀の時点でチフリスにおける最大人口を占めていたので(Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008, pp.147-148)、彼がチフリス育ちだとしても珍しいことではなかった。ハチャトリアンが若き日に、チフリスで行なわれたある演奏会に非常な感銘を受けたと語っているのをチェレプニンは知り、「私もその演奏会は聴きに行った、ああ、彼と同じ会場で同じ感動を受けていたんだ!」と実に感慨深げである(Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer, Indiana University Press, 2008, p.27)。

 ハチャトリアンの曲をまとめて聴き返してみた。「剣の舞」「レズギンカ舞曲」などは有名だから、ああ、あれか、とすぐイメージはわくだろうが、交響曲第三番なんてあの調子が繰り返し続く。音量をしぼらないと耳が痛くなるが、あの派手さ、たとえばシンバルの激しいリズムにのって金管楽器が咆哮するところなんて血わき肉おどるようで大好き。土俗的に素朴で力強いリズムと色彩豊かな音響の厚み、ふとチェレプニンが見出した伊福部の「日本狂詩曲」を思い浮かべ、チェレプニンの好みが何となくうかがわれるように思った。

 なお、グルジアの現代作曲家ではギヤ・カンチェーリが有名だが、彼についてはまた機会を改めて。

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2009年1月23日 (金)

ユリウス・クラプロートという人

…と言っても知っている人はあまりいないでしょうね。私も今日初めて知りました。いま、Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Causasus(Oxford University Press, 2008)という本を読んでいて、知らない人名が出てくるたびにwikipediaで検索してるんだけど、この人、どうやらジャパノロジストとしても知られている人らしい(wikiの記事はこちら。国際日本文化研究センターのサイトには彼についての講演要旨あり)。

 Julius Heinrich Klaproth (1783-1835)、ベルリン生まれ。若い頃からアジアの言語の専門家として注目されていたようで、サンクト・ペテルブルクのアカデミーによって1807年、コーカサスに派遣された。弱冠24歳のとき。上掲書では、コーカサスにまつわるオリエンタリズムとも言うべきイメージ形成にあたり、18世紀のギュルデンシュテット(Johann Anton Güldenstädt)とこのクラプロートの観察が源流となり、二人ともロシアでの知名度は低かったが、ブロネフスキなる人の著作によってそのイメージはロシアでも一般的となり、さらにプーシキン「コーカサスの虜」につながるという文脈だった。

 クラプロート、ギュルデンシュテット、二人ともドイツ人であったことに上掲書は注意を促しているが、そもそも言語学という学問が19世紀ヨーロッパで本格化した時代的雰囲気と符合する(詳しくは、風間喜代三『言語学の誕生』岩波新書、1979年を参照のこと)。①ドイツではナショナリズムの高まり→民族的源流はどこ?という問いかけ→印欧語族の比較研究、②イギリス・フランスの植民地拡大→とりわけインドの知識→印欧語族研究の進展、③未知なる領域への探究心→ロマンティストがホイホイ海外へ出かけていく、ざっくり言ってこんなところか。

 クラプロートはもともと中国語に興味を持ったようだが、さらには、満州語、チベット語、ペルシア語、クルド語、サンスクリット等々と様々な言語の研究に没頭した。博士論文はウイグル語の研究。日本語については、イルクーツクにいたシンゾウ(ロシア語名、ニコライ・コロティギン)なる人物から手ほどきを受けたらしい。林子平『三国通覧図説』をフランス語訳したり、琉球諸島の研究をしたり、シーボルトとも文通していたという。どんな人なのか詳しいことは分からないが、ユーラシア大陸を股にかけてほっつき歩いていたロマンティスト(勝手にそう思っている)がいたというのは非常に興味がひかれる。

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2009年1月13日 (火)

古代文字や考古学のなつかしい本

 御茶ノ水駅を降りて神保町に向かう途中、明治大学の手前あたりのビルの一室に聖書考古学資料館というのがある。前を通りかかるたびに気になってはいたのだが、月・土曜の午後のみ開館とのこと。先日、神保町に行った折、たまたま日時が合ったので入ってみた。

 特別展示として「聖書の世界と文字」展。パネル解説は簡にして要を得てわかりやすい。こじんまりとした部屋なので展示品が限られてくるのはやむを得ないが、それでも円筒印章、コイン、鏃、陶片などきちんと陳列されている。2メートルほどもあろうか、アッシリア王シャルマネセル三世の戦勝記念碑、ブラック・オベリスクのレプリカが目を引く。

 私自身はクリスチャンではないが、幼稚園はキリスト教系で、小学校にあがってからもしばらく日曜学校に通っていたので聖書には馴染みがある。大学では名目上指導教官となっていただいた先生のご専門が聖書考古学だったので、この分野について一通りの見当はつく。キリスト教系大学ではないし、その先生ご自身もクリスチャンではなかったが、パレスチナ地域の考古学=聖書考古学という括り方。さらに旧約聖書に登場する世界はエジプトからメソポタミアまで広がり、いわゆる古代オリエント世界を大きくカバーすることになる。

 この世界には系統不明の民族も含め様々な人々が入り乱れていたわけで、聖書の背景を考えるには、やはり言語や文字の多様性が注目される。旧約聖書はヘブライ語だけでなくアラム語で書かれている部分もあるし、そもそもイエスはヘブライ語ではなくアラム語をしゃべっていたわけだし、新約聖書の書き言葉はコイネーだ(ヘレニズム時代のギリシア語。いわゆる古典ギリシア語ともまた違うらしい)。また、古代エジプト語や古代メソポタミアの楔形文字文書を解読することで聖書の背景世界を別の視点から裏付けることができる。だから、聖書の世界を知るには、古代文字の知識も必要となってくるわけだ。

 むかし古代文字に興味を持っていた時期もあったので色々と思い出し、帰ってから本棚を引っ掻き回した。レスリー・アドキンズ、ロイ・アドキンズ(木原武一訳)『ロゼッタストーン解読』(新潮文庫、2008年)はつい最近買ったばかりの本だ。シャンポリオンを中心に、ロゼッタ・ストーンの解読競争をドラマチックに描いている。

 私は中学、高校生くらいの頃、シャンポリオンに憧れていた。考古学に興味を持つ人はよくシュリーマンを挙げるが、私の場合、『古代への情熱』を読んでもそれほどピンとこなかった。前半の生い立ちを語るところは面白かったけど。肉体労働はいやなんで、土掘りよりも、古代文字の解読の方にロマンを感じていた。自分の愚鈍な頭のことは棚に上げて、怠け癖がよく分かる。まあ、それだけでなく、土器や石器を通して推測を重ねるよりも、文字を通して具体的な描写を読みたいという気持ちの方が強かったように思う。その点では物語志向だったし、今でもそうだ。

 C・H・ゴードン(津村俊夫訳)『古代文字の謎──オリエント諸語の解読』(社会思想社・現代教養文庫、1979年)、矢島文夫編『古代エジプトの物語』(現代教養文庫、1974年)、酒井傳六『古代エジプトの謎』(現代教養文庫、1980年)が出てきた。あと、T・H・ガスター(矢島文夫訳)『世界最古の物語』(現代教養文庫、1973年)も持っているはずなのだが、見つからない。社会思想社は結構この手の本を出していたんだな。つぶれたからもう入手不可。それともどこかが復刊するかね。なお、ゴードン書の訳者、津村俊夫氏は聖書考古学資料館の理事長です。

 『世界最古の物語』『古代エジプトの物語』、いずれも楔形文字やヒエログリフの解読によって明らかにされた当時の神話や説話を集めている。『ギルガメシュ叙事詩』も同様に矢島文夫氏の訳で現在はちくま学芸文庫に入っているが、私は大学の図書館で山本書店版を読んだ。言うまでもないが、山本七平氏の出版社である。稼いだ印税をつぎ込んで、明らかに売れそうにない聖書考古学の学術書も良心的に刊行していた。

 ギルガメシュ叙事詩のおおまかな内容はそれ以前に高校生の頃、世界の神話を取り上げたシリーズもので読んだ覚えがある。永遠の生命なんて果たしてあるのか?というなかなか深遠なテーマで、色々とイマジネーションをふくらませることができそうな感じがした。森の神(たしか、レバノン杉がまだ鬱蒼と茂っていた頃の象徴)フンババの、この“フンババ”という語呂がその頃からなぜか頭にこびりついていて、今でも時々脳裡に浮かぶ。

 ドーブルホーファー(矢島文夫他訳)『失われた文字の解読』(全三巻、山本書店、1963年)は高校生の頃に図書館で読んだ。書誌データを調べてみると、かなり古い本だったんだな。矢島氏の本では『知的な冒険の旅へ』(中公文庫、1994年)も好きで持っているはずなのだが、どっかに紛れ込んで見つからない。杉勇『楔形文字入門』(中公新書、1968年)という古い本もあるはずなんだが、やはり行方不明。ツェーラム(村田数之亮訳)『神・墓・学者』(中央公論社、1962年)も図書館で読んだが、その後古本屋で見つけて買った。この本もストーリー性があって好きだった。江上波夫『聖書伝説と粘土板文明』(平凡社・江上波夫著作集第5巻、1984年)も読みやすくて好きだったが、これも図書館で読んだ。この手の発掘もの、文字解読ものを図書館の埃っぽい(ここがミソ!)本で手に取って、ワクワクしながらページをめくったあの頃を思い出すと、胸がキュンとなります。

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2008年11月30日 (日)

赤坂憲雄他『民俗学と歴史学──網野善彦、アラン・コルバンとの対話』『歴史と記憶──場所・身体・時間』

赤坂憲雄『民俗学と歴史学──網野善彦、アラン・コルバンとの対話』(藤原書店、2007年)

・支配者=悪玉、民衆=善玉というかつての左翼的な図式的な枠組みが、天皇制の問題も含め、かえっても問題の本質を捉えられなかったのではないかという赤坂の問いかけ。天皇制が生活に根ざしたものからあるということを認め、そこから批判的に捉えなおさなければならないと網野は応答。
・柳田國男の一国民俗学は、日本の庶民の姿を、実際の差異にもかかわらず均質なものとして描こうとした。これは現在、国民国家批判の文脈において頻繁に取り上げられているし、赤坂自身、「いくつもの日本」をキーワードに東北学という形で国境という枠組みには捉えられない地域の多様性、その積み重ねとして日本→東アジアという見方をしようとしている。他方で、柳田の一国民俗学は日本という枠組みから外には出ない→侵略の契機はなかった、とも赤坂は指摘。

赤坂憲雄・玉野井麻利子・三砂ちづる『歴史と記憶──場所・身体・時間』(藤原書店、2008年)

・「抜け落ちた記憶」をどのように捉えるか。一つには加害体験の引け目がある。そればかりでなく、たとえば旧満州からの「引き揚げもの」の記録について、自分の子供を捨てざるを得なかった、集団自決で子供を殺したのに自分だけ生き残ってしまった、あるいはレイプされた、そういった本当に深刻な体験をした人が自ら語ることができるのか?
・世間の風潮を敏感に感じ取って、自分の記憶を微妙に修正したり、他人に置き換えて語ったりということもあるだろう。様々なレベルで、自らの体験を語れないことがたくさんある。しかし、語りやすいこと、語られたことだけが記録されて“史実”に組み込まれていく難しさ。
・最近、沖縄での集団自決の軍の関与を教科書の記述から落とされたことについて沖縄の人々が強く反発したということがあった。沖縄の人々には、自分のおじい、おばあの記憶を否定されたことへの反発があった、という指摘に興味を持った。感情的というレベルのことではなく、身近な人間関係における語り口が皮膚感覚レベルで受け継がれ、世代を超えて共有される記憶。記憶の語りの持つ重層的な複雑さ、そして豊かさ。

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2008年8月 6日 (水)

岡茂雄『本屋風情』

岡茂雄『本屋風情』(中公文庫、改版、2008年)

 柳田國男、南方熊楠、内田魯庵、濱田青陵、新村出、金田一京助、折口信夫、渋沢敬三、等々…、こうした名前にピンとくる人ならこの本はおすすめだ。岡書院、なんて言っても今では知る人も少ないだろうが、かつて民俗(族)学、考古学、人類学を中心とした学術書を精力的に出版し、姉妹店の梓書院は山岳もので知られた。店主、岡茂雄の回想録。

 文壇関係者の回想録というのはたくさんあるし、どれも読み物として面白いものだが、学会関連でそうした類いの本というのはあまり見かけない。作家たちにはそもそも変なのが多いし、自意識過剰で演出たっぷりにネタを提供もしてくれる。では、学者たちがつまらないかと言えば、そんなことは全然ない。あるテーマにとりつかれるタイプというのはどこかバランスを失してしまうものなのか、良くも悪くも個性的、“濃い”人物群像では文壇ものにひけを取らない。

 たとえば柳田國男という人。私自身、柳田の作品は好きだが、その一方で、性狷介、芳しからぬパーソナリティーのこともよく聞く。『雪国の春』刊行の経緯や『民族学・人類学講座』流産の顛末を読んでごらんなさい。このクソじじい、マジでムカつく。岡と柳田の板ばさみになってしまった折口信夫がオロオロする姿も何だかかわいらしい。怒りをグッとこらえる岡さんに、よくぞ耐えた!と心の中で拍手喝采。

 とは言っても、柳田だってイヤな奴一辺倒でもない。岡は、柳田が色々と便宜を図ってくれたこと、送った朴の木を喜んでくれたことなども思い出して記す。何よりも、こうした様々な人間的な軋轢がありながらも、岡も含めてみんな学問に本当にのめり込んでいる姿が見えてきて、うらやましくもほほえましい。

 岡書院併設の書店にもそうしたアカデミックな雰囲気に誘われて多くの人々が足を運んだらしい。本書の最後、ある学生から「考古学をやるにはどんな本がいいでしょうか」と尋ねられるシーンがある。前にも見た顔なので名前をきくと、「江上です」。私は昔、江上波夫にあこがれて考古学者になりたいと思っていた時期があったので、私的な思い入れとしても感慨深い。

 意外な人的つながりが垣間見えるのもこうした回想録を読む醍醐味。雑学マニアにはたまらない。山階宮家の第三王子藤麿王が岡書院の造本のファンで、東大の卒業論文(『日唐通交と其影響』)の装幀を引き受けて欲しいと頼まれたそうだ。後に臣籍降下した筑波藤麿。戦後、靖国神社の宮司となったが、A級戦犯合祀に慎重な態度を取った人である(次の松平永芳宮司が合祀を強引に進め、昭和天皇が不快感を漏らしていたことは周知の通り)。筑波がもともと歴史学者だったこと、山階鳥類研究所の山階芳麿の弟にあたることは初めて知った。なお、山階も岡の梓書院から『日本の鳥類と其の生態』を出している。

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2007年12月 3日 (月)

網野善彦『東と西の語る日本の歴史』

 私は小学生の頃から歴史好きで、日曜夜八時からのNHK大河ドラマはよく観ていた。大抵はダラダラして退屈なのだが、唯一、いまだに忘れられないのは「炎(ほむら)立つ」だ。原作は高橋克彦。前九年の役から奥州藤原氏滅亡に至る東北の歴史を描き出していた。“蝦夷”と蔑まれる安倍頼時(里見浩太郎)の屈辱。兄弟同士憎しみ合う清原(藤原)清衡(村上弘明)と清原家衡(豊川悦司)。前九年の役では理想に燃える颯爽たる若武者として登場しながらも、後三年の役では古狸として戻ってくる源義家(佐藤浩市)など、人物造型のメリハリが明確で、彼らの散らす権謀術数の火花がぬるま湯のようないつもの大河ドラマとは全く異質だった。

 ストーリーの面白さだけでなく、東北という“辺境”に舞台設定されたのが新鮮に感じられたのだと思う。前九年の役、後三年の役にしても、日本史の教科書では地方の反乱という程度の扱いだ。しかし、“蝦夷”の視点に立ってみると、その地域が抱えざるを得なかった葛藤が大きく浮かび上がってくる。“蝦夷”の実力者として立つ清原実衡(萩原流行)は、京の貴族から養子を迎えて家督を継がせようとする。中央の権威と結びつくことで自らの立場を固めようという計算だが、清衡がこうつぶやいたのが印象に強い。「自らの血を否定するとは、何とも忌まわしいことではないか。」中央権力との同化、地域的自立の模索、両極的な思惑が交錯したアイデンティティーの分裂が日本の歴史にもあり得たことをドラマに仕立て上げていたというのも、大河ドラマとしてはやはり異例だった。

 網野善彦『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫、1998年)は、京都の朝廷に視点を固めた“ひとつの日本”という前提を崩すべく、それぞれに特性ある地域同士のダイナミズムを通して近世に至るまでの日本を描こうとしている。

 平将門は東国で独自の政府機構を作り上げ、いわば事実上の独立国家を出現させた。これを討つ平貞盛・藤原秀郷らは、京の朝廷からすれば反乱討伐軍だが、東国の視点でこの戦いを捉えるならば、東国自立路線か、それとも西と結びつく路線を取るのかという方針をめぐる争いだったと言える。東国はこの二つの路線対立に揺れながら、朝廷の命を受けて東北の“蝦夷”を討つ(前九年の役、後三年の役)一方、源氏を武家の棟梁と仰ぐ形で独自の力を蓄えていく。これは同時に、東国と東北との宿命的な地域対立にもつながった。

 西国も独自の動きを見せていた。平氏は宋との交易活動を重視して海洋国家としての方向を目指しており、朝廷の意向に反して福原に遷都したのも当然の選択であった。ところで、九州は西国とは一線を画しており、足利尊氏は東国の正統な継承者としての姿勢を示すと同時に、九州にも足場を置いた。後醍醐天皇はこれを牽制するように義良親王を東北に派遣して小幕府をつくらせようと目論む。こうした東国―九州ラインに対する西国―東北が対抗するという構図が南北朝の動乱期に現れたという。

 このように東西の政治力学が働いた背景には、それぞれの地域的な社会構造の違いが大きく根ざしている。東国は総領を中心に主従関係を結ぶイエ的社会なのに対し、西国は横につながる「傍輩」の関係が軸となる。東国出身者が地頭として西国に赴任すると、こうした人間関係意識のズレから摩擦も起こったらしい。何よりも、西国の水田優位、東国の畠作優位という経済構造の違いも大きい。米を日本文化のシンボルとする考え方が今でも根強いが、実際には庶民の生活は米以外の食物に支えられていた。律令期の班田制から近世の石高制に至るまで米は支配者による賦課の基礎であり続け、水稲耕作に重きを置く捉え方は畿内中心史観に偏っていると網野は批判する。

 食物、言葉、社会関係、様々なレベルで日本社会は地域ごとに多様であり、そのことが政治史的なダイナミズムとも密接につながっているのを描き出そうとしているところに本書の面白さがある。

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2007年12月 1日 (土)

そういえば、柳田國男が好きだった

 赤坂憲雄『方法としての東北』(柏書房、2007年)を手に取りながら、本書のメインテーマというわけではないが、そういえば私も柳田國男に興味があったなあと思い出した。

 『柳田國男全集』がちくま文庫で刊行され始めたのは私が中学三年生の時だった。高校受験を間近に控えた時期、『遠野物語』や『山の人生』が収録された第一回配本の第四巻をこたつの中でむさぼり読んだ。勉強については割合と寛容なように思っていた親もさすがに見かねたのか、「本なんか読んでないでいい加減に勉強しなさい」と叱られ、意外に感じたのを覚えている。

 高校生になってから、NHK教育テレビで柳田國男についての番組をたまたま見た。赤坂憲雄さんが語っていた。まだそれほど名前が売れていなかった頃だが、赤坂さんの存在を意識するようになったのはこの時からだ。高校一年生の夏休み、一人で遠野をふらついたのもなつかしい。兵庫県福崎にある柳田の生家を訪れたのは20代になってから。

 なぜ柳田國男に興味を持ったのか、我ながら不思議に思う。赤坂さんも記しているが、東京郊外に育った人間として、民俗的なものと体験的につながるきっかけはほとんどなかった。囲炉裏のある暮らし、祭りの風景、正月行事、そういったかつてなら普通に見られた習俗も、私の眼には異文化として映る。柳田を読んでも、いわゆる“郷愁”を感じることはなかった。むしろ、同じ“日本”という括りの中に自分がいることを意識しつつも、見も知らぬ生活世界が息づいていたことに素朴な驚きがあったのだと思う。それは同時に、私自身の地に足の着かない無色透明な生活感覚への違和感を自覚させることにもつながっていた。

 欧化の進む近代日本において“日本人”とは一体何なのかを問うた柳田の民俗学は、いわば新しい国学だとよく言われる。大文字の政治史ではなく、常民の生活文化の中に“日本人”なるものの原型を見出そうとしたところに柳田の着眼点があるわけだが、それは一方で、均質な“日本”という前提が暗黙のうちに置かれている点で、国民国家批判の対象となっている。

 赤坂さんは柳田を出発点として踏まえつつ、均質な“日本”イメージを解きほぐそうとしている。『方法としての東北』の中で、「民俗学とは、内なる異文化と出会うための方法である」と言う。“ひとつの日本”像の自明性に対する問いかけとして東北という地域の見直しを進め、“いくつもの日本”へと思考の転換を図る。しかし、東北にこだわり始めると、今度は東北内部での多様性が見えてくる。“いくつもの東北”、“いくつもの日本”、そして“いくつものアジア”──こうした人間文化の重層的な多様性を掘り起こすことは、単に国民国家の枠組みを超えるというにとどまらず、グローバリゼーションという形で世界の画一化が進展する中、地域ごとの足場をしっかりと組み立て直す視点をもたらしてくれる。

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2007年11月29日 (木)

網野善彦『無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』

網野善彦『〔増補〕無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』(平凡社ライブラリー、1996年)

 中学・高校の歴史教科者は政治史中心で、社会史・文化史については付け足し程度に触れられるだけだった。もちろん、時系列整理に便利が良いという理由もある。たが、それ以上に、中央権力=一国・一元的な見取り図が暗黙のうちに前提されてきたことは様々な方面から批判を受け、いまや歴史を複層的にみつめようという姿勢は常識的とも言えよう。そうした潮流を形づくるにあたり大きな転回力を持った仕事として網野善彦の業績を逸することはできない。

 本書は、遍歴する職人や芸能民、遊行僧に遊女、あるいは駆け込み寺や市など、中世日本において一定の支配関係から抜け出しマージナルなありようを示した人々や空間を一つ一つ拾い上げ、それらに通底する感性を「無縁」「公界」「楽」といったキーワードを使って掘り起こそうと試みている。端的には“自由”と言ってしまいたいところだが、この表現にまとわりつく西欧近代的なニュアンスとは必ずしも重ならないので、この微妙なところは本書を通読して感じ取ってもらうしかない。

 織豊政権、さらには江戸幕府と時代環境がシステマチックに整備されるにつれて、こうした境界的な存在はむしろマイナスのイメージを負わされた。「公界」(くがい)は「苦界」となり、「無縁」は無縁仏というように寂しい語感を帯びることになる。被差別民の問題もこうした頃から生じたとされる。

 堺をはじめとする自治都市の性格を把握するに際し、経済的な「私有」の論理によって秩序が確立されたとする見解に網野はかみつく。もちろん、そうした側面は否定できないにせよ、同時に、「無縁」の論理が背後で支えていたのを見落としてはならないと指摘。さらに筆を強め、このような発想には「私有」「有主」の論理による発展を“進歩”と考え、「無所有」「無主」の論理を克服すべき停滞とみなす偏見があるとまで批判する。

 こうしたあたり、網野の資本主義に対する不信感、そしてそれによって人為的に崩されてしまった“自由”な理想郷への憧憬を見出すのは容易であろう。私自身としては必ずしも共感できるわけではないが、そんなのはたいしたことではない。

 歴史を描くにしても、その動機自体に共感できるかできないかは別問題として、ある種の強いパッションで貫かれた筆致というのは読み手に強烈な手応えを感じさせてくれる。“事実”といわれるものの積み重ねがイコール“歴史”なのではない。打ち出された明確なイメージと対峙して、読み手自身の世界観がどこか揺さぶられる強さ、そうした手応えを受け止めたとき、私は素直に面白いと感じる。本書は典拠をふんだんに引いて論証を重ねつつも、どこか青くさい。むしろ、その青くささにこそ歴史書として色褪せない魅力があると思う。

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2007年5月29日 (火)

ジョエル・コトキン『都市から見る世界史』

ジョエル・コトキン(庭田よう子訳)『都市から見る世界史』(ランダムハウス講談社、2007年)

 古代から現代まで世界各地の都市を過不足なく取り上げながら点描した通史。個々のトピックについてはそれほど深く突っ込まれているわけではないが、都市が発展してきたプロセスを大きく眺め渡すには便利である。こうした長いタイムスパンの中で自分たちの暮らす都市環境を考え直してみるのもまた一興。内容的に難しくないので、歴史に関心のある大学一、二年生くらいの学生が英語力を磨くのに本書の原書を手に取ってみてもいいのではないか。都市というテーマを通じた歴史の手引書という性格があるので、巻末に参考文献一覧があると親切だったように思う。

 本書が最後に示す都市の現在と未来から考えたこと。メキシコシティ、カイロ、テヘランなど発展途上国の大都市はいわゆる人口爆発で急激に膨脹しつつある。その一方で、犯罪や公害などで住みづらい生活環境から逃げるように、企業家や熟練労働者は管理の行き届いたもっと小規模な都市や海外の先進国に移る傾向があるという。また、交通手段、通信手段の技術的進歩によって距離の障壁が消えつつあり、社会のエリート層がそれ以外の階層の人々と一つの都市に同居すべき必然性はなくなってきた。

 都市は本来、共通のアイデンティティに基づいた結びつきによって成立する。それは、閉鎖的・拘束的な伝統規範というばかりではない。商業活動等を通じて、異なる文化的背景を背負った人々が共存するために一定のルールが生み出され、それは同じ都市に暮らしている共通感覚によって裏打ちされる。

 しかしながら、物理的には同じ都市に住んでいても、違う階層の人々が互いに接触する必要がない、そもそも接触を避けようとしている時、つまり同じ都市に住んでいるというアイデンティティが共有されない時、どうなるか。その殺伐とした都市環境が、経済的・階層的格差の拡大・固定化と相俟って、そこに暮らす人々の精神形成に及ぼすマイナスの影響がかなり大きくなりそうだ。

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2007年3月29日 (木)

小玉新次郎『パルミラ──隊商都市』

小玉新次郎『パルミラ──隊商都市』(近藤出版社、1980年)

 パルミラの女王ゼノビアという名前に、なぜか小さい頃からひかれていた。パルミラというのは紀元前後の頃に存在した砂漠の中の隊商都市国家。現在の地図で言うとシリアのちょうどおへそのあたりに位置する。池袋のサンシャインシティにある古代オリエント博物館にここからの出土品が多数コレクションされているはずだが、写真パネルで見た遺跡の風景が印象に強く残っている。茶褐色の遺構と青空とがくっきりとコントラストをなす色合いの妙が“ゼノビア”という音の響きと重なって、なにかファンタジー小説に出てきそうなイメージを胸に焼きつけたのだろうか。

 地中海東岸及びその後背地にいた民族は、メソポタミア、エジプト、ローマといった巨大文明のせめぎ合いに翻弄されながらも、交易を生業としてしたたかに立ち回っていた。アラム人、フェニキア人、ヘブライ人がすぐに思い浮かぶだろうが、パルミラもそうした系譜に連なる。西のローマ帝国、東のペルシア帝国(アルサケス朝パルティア→ササン朝ペルシア)が抗争を繰り広げる中にあって、東西双方の文化を摂取しながら幅広い交易活動で繁栄した。

 当初、パルミラはローマと同盟を組んでいた。ローマ皇帝ヴァレリアヌスがササン朝のシャープール一世によって捕虜となった時、パルミラ王オダイナトはシャープールの軍勢に打撃を与えて一矢報いるなどの活躍を示したためローマからの信頼もあり、シリア方面の軍政を任されていたらしい。

 ところが、オダイナトは謀反で殺された。その後に実権をにぎったのがオダイナトの後妻に入っていたゼノビアである。ヴァレリアヌスの失態からも分かるようにローマ帝国の威光にはかげりが見えていた。ゲルマン民族の侵入が日常化しているばかりでなく、帝国内部も軍人皇帝時代と呼ばれる内紛状況にあった。ササン朝から攻められたとしてもローマの援軍は期待できない。ゼノビアは方針を転換し、パルミラの自立を目指す。

 パルミラの歴史については史料が少ない。ローマ人、ギリシア人の書いた歴史書にゼノビアのことも出てくるが、記載内容にそれぞれ矛盾があり、だいぶ脚色されている可能性もあるという。そこで、発掘された碑文や貨幣がたよりとなる。古代オリエント・ローマ世界では貨幣に王の肖像と王への賛辞が刻み込まれている。貨幣は年代判定では貴重なてがかりとなるので古銭学という分野が考古学では大きな柱となるくらいだ。パルミラからはゼノビアの息子で共同統治という形をとっていたワーバラトの肖像のある貨幣も出土しており、そこには“カエサル”という称号が刻まれていた。あのジュリアス・シーザーの“カエサル”である。カエサルの没後、ローマ帝国においては皇帝の称号となった。ドイツ語の“カイザー”、ロシア語の“ツァー”の語源である。パルミラ出土のこの貨幣には、ローマと対等の立場を主張した、すなわち独立した帝国を自分たちで築き上げるとの意思表示が込められていたのである。

 ローマ帝国も黙ってはいない。軍人皇帝の一人、アウレリアヌス帝は一時的にとはいえローマ帝国の統一に成功したのだが、彼はパルミラに総攻撃をかけた。国力の差は圧倒的である。降伏の勧告を受けたゼノビアは自らをクレオパトラになぞらえて、降伏するくらいなら死んだほうがましだ、と徹底抗戦の姿勢を示した。しかし、ササン朝のシャープールに援軍を求めるべく自ら赴こうとしたところ、ローマ軍に捕まってしまった。

 ゼノビアはどのような最期を遂げたのか。病没したとも、自ら食を断って死んだともいう。あるいは、連行されたローマで手厚い待遇を受けながら余生を送ったという話もあり、実際のところはよく分からない。パルミラは一時ローマの執政官の支配下に置かれたが、反乱を起こしたためアウレリアヌス帝の命により破壊された。

 野心的な女王と砂漠に消えた国。イマジネーションを広げれば小説の題材になりそうで興味が尽きない。

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2007年2月27日 (火)

増田義郎『コロンブス』

増田義郎『コロンブス』(岩波新書、1979年)

 コロンブスが西に向けての航海に乗り出すに際しては、“新キリスト教徒”と呼ばれた改宗ユダヤ人が、資金援助やスペイン女王イサベルへの口利きなど様々な助力をしたという。私はいわゆる“大航海時代”に宗教的背景があることは世界史の常識として知っていたが、改宗ユダヤ人や神秘主義思想など複雑な問題が伏在していることにまでは考えが及んでいなかった。

 改宗ユダヤ人とは何者か? 初期イスラムに“啓典の民”の存在を許容する寛容さがあったことは一般に意外と知られていないが、もともとイベリア半島にいたユダヤ人はイスラム勢力の支配下でも彼らと共存していた。しかし、北アフリカのベルベル人を中心としたムワッヒド朝は異教徒に対して厳格な態度を取る傾向があり、そうした彼らの台頭と共にユダヤ人はキリスト教圏へと逃げ込んだ。当初はキリスト教徒ともうまくやっていたが、やがてユダヤ人の経済的・社会的成功をねたむ雰囲気が漂い始める。反ユダヤ暴動が勃発するなど不穏な情勢の中、一部のユダヤ人はカトリックに改宗し、“新キリスト教徒”と呼ばれた。

 彼ら“新キリスト教徒”には、当面の便宜のため形式だけ改宗した者と自発的に改宗した者とが混在していた。後者にとっては、ユダヤ教を捨てきっていないのではないかという疑惑の眼差しにさらされるのがつらい。そのため、後者の人々が前者の“偽”キリスト教徒に対してつらく当たるという一種の防衛機制が働いた。中世の異端審問はとりわけスペインで激しかったことは知られているが、“偽”のキリスト教徒をあぶり出そうとするユダヤ人同士の葛藤として深刻であったことは興味深い。この熱心な“新キリスト教徒”は豊かな経済力をバックに国王や大貴族ともつながりを持っており、彼らがコロンブスを支援したのである。

 当時のスペインを含めたヨーロッパ世界の知識人にはエラスムスの思想が影響を与えていた。心の奥底においてこそ神は求められるという神秘主義的傾向が強まり、反転してキリスト教会内での腐敗を批判するモメントとなった。他の地域とは違ってそれがスペインにおいては宗教改革の運動には結びつかず(イスラム勢力との戦いでローマ教会との密接なつながりがあったため)、むしろカトリック再建のために教義の厳格化という方向に進んだことは周知の通りである。

 こうした傾向はコロンブスの手記からも見えてくるらしい。彼の航海には、単なる冒険心という以上に、宗教的使命感が強く作用していた。“神の摂理”の中に自分の事業が組み込まれているという歴史観の下で彼は生きていた。“新大陸”にあるはずの黄金も、イェルサレムの聖墓再建のために使うべきと考えており、そうした点で信仰心篤いイサベル女王と精神的に響きあっていたはずだと著者は指摘する。

 歴史を振り返るにあたっては、どうしても現代の我々自身の持っている歴史観のフィルターを通して観てしまいがちだ。コロンブスという人物を考えるにしても、未知のものへの挑戦が大事だ、ベンチャーだ云々という通俗化した見方がどうしても耳目に入りやすくなる。だが、それはコロンブスという過去の人物に仮託しながら現代の我々の価値観を映し出しているだけで、ことはそんなに単純な話ではない。当時の人々と我々とでは物事に取り組む考え方にも大きな違いがあり得る。そこの機微に思いを致し、逆に現代に生きる自分自身のものの見方を相対化して捉えかえす。そのように頭を解きほぐすきっかけが得られるところに歴史の細部をみつめる醍醐味がある。

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2007年2月26日 (月)

増田義郎『黄金郷に憑かれた人々』

増田義郎『黄金郷に憑かれた人々』(NHKブックス、1989年)

 イマジネーションが人間を駆り立てる力というのは本当におもしろい。それは、当人たちの思惑とは違った結果をもたらし、ひいては世界史の趨勢に大きく影響を与えてしまうことがある。いわゆる“大航海時代”に活躍した冒険者たちにもそうした幻影に翻弄された姿が浮かび上がってくる。

 豊かな富への渇望はエルドラド(黄金郷)のイメージを肥大化させ、果てはソロモン王の財宝を求めて“新大陸”を通り越して太平洋にまで漕ぎ出していった者すらいた(メラネシアにあるソロモン諸島の名前の由来である)。ただし、苦心惨憺の上にたどり着いた町が貧しかったので、逆ギレして住民を虐殺してしまうなどの悲劇が伴った。

 また、イスラム勢力から圧迫されているという自意識からは“プレスター・ジョン”(法王ヨハネ)伝説が生れた。これが、東にモンゴル帝国との通商を求める動きにつながったことはよく知られているが、西の海へと乗り出す動機の一つとしても働いていた。

 いずれにせよ、物質的な意味での欲望、宗教的な使命感、未知なる土地(テラ・インコグニタ)への憧れなどがないまぜになった群像劇には、粗野で目を背けたくなるような残虐さを伴いながらも強い魅力がある。

 ヴァスコ・ダ・ガマが初めてインドに到着した時のこと。彼が見せた贈り物を、現地の領主やムスリム商人たちは貧弱だとせせら笑い、相手にされなかったらしい。そこで、武威を示さねばしめしがつかないと判断し、本国から武装船団が送り込まれ、力ずくで領土を奪い取ることになったという。

 冒険者には一クセも二クセもある輩が多い。現地で指揮官たちが対立して内戦が起こったり、本国への反逆を疑われて追討軍が派遣されたりすることも珍しくなかった。コルテスはそうした追討軍をむしろ自軍に編入してアステカ征服に成功したが、後に本国に召還され、失意の余生を過ごした。インカを征服したピサロは政争に巻き込まれて暗殺され、ピサロの弟もまた反乱を起して処刑された。

 とりわけ、ロペ・デ・アギレという人物に興味を持った。彼は本国に対して不満を持つ者たちをまとめ上げ、本国派遣の査察官を殺した。そして貴族出身の者を王として担ぎ上げ、スペイン王国に対し独立を宣言(1561年)。しかし、疑いを持つ者や聖職者、さらには担ぎ上げたばかりの王までも容赦なく殺すなど恐怖政治をしいたため逃亡者が続出、最後は部下によって射殺されてしまった。狂的な誇大妄想に駆り立てられて未開地に独立王国を作ってしまうというあたり、コッポラの「地獄の黙示録」を髣髴とさせておもしろい。これだけでも小説のネタになりそうだと思う。

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2007年2月22日 (木)

増田義郎『古代アステカ王国』

増田義郎『古代アステカ王国』(中公新書、1963年)

 スペイン・ポルトガルによって先鞭のつけられた大航海時代の背景としてキリスト教、とりわけカトリックの熱情が動因として強く働いていたことはよく知られている。コロンブスがパロス港を出帆したのと、イベリア半島におけるイスラム勢力最後の拠点グラナダが陥落したのとが同じ1492年の出来事であったのは偶然ではない。

 イスラム勢力から領土を奪い返す、いわゆる失地回復運動(レコンキスタ)の先頭に立ったのがスペイン(カスティリャ及びアラゴン)とポルトガルであった。彼らはローマ教会から精神的支援を受けたため、異教徒に対する戦いは、同時にカトリックへのリゴリスティックなまでの帰依をも意味していた。それは、やはり同時代に勃興しつつあった宗教改革への対抗意識をもたらし(ルターがローマ教会批判の口火をきったのは1517年)、イエズス会の宣教師は大海原へと乗り出す冒険者たちの船に同乗して世界各地へと散って行った。

 以上が、大雑把ながら古代アステカ王国滅亡を取り巻く時代背景である。本書の主人公エルナン・コルテスが宣教師を従軍させて、征服した各地でカトリックを押し付けようとした理由が分かるだろう。

 スペインとアステカ、二つの異文化の接触が、それぞれの宗教的宇宙観のあり方をはからずも浮き彫りにしているのが興味深い。コルテスを含め当時のスペイン人にとって、キリスト教徒と異教徒とを画然と分けるのは当然であった。長年にわたってイスラム勢力と戦ってきた経験を踏まえて異教を信ずる者がこの世にはあり得ると考えていた点で、実は多元的な世界認識があった。その上で異教徒征伐という使命感が成り立っていた。

 ところが、異文化と衝突した経験が全くなかったアステカ人は、あくまでも自分たちの宇宙観に基づいて相手を認識するしかなかった。アステカの神話には、ケツァルコアトルという白い顔をした神がいる。スペイン人がやって来たとき、アステカ王モンテスマは彼らをケツァルコアトルの再来と信じて抵抗をあきらめてしまった。モンテスマの死後、クワウテモク王が徹底抗戦の方針に転じてコルテスを窮地に追い詰めたときにも、スペイン人捕虜を生け贄に捧げる儀式に熱中して追撃の好機を逸したり、占いが外れて戦意を喪失したりということが続く。強権的な軍事帝国であったさしものアステカも、1521年、わずかなスペイン人によってあっという間に崩されてしまった。

 歴史を読む面白さは、登場する人物像の陰影が描きこまれているかどうかで違ってくる。アステカ王モンテスマとクワウテモクのパーソナリティーの違い。奸智に長けたコルテス。そして、登場頻度は少ないが、マリンチェと呼ばれた謎の女性に興味が引かれた。彼女は、コルテス軍に敗れた現地勢力から降伏の印に送られた奴隷の一人。もとは別部族の貴族の出身だったらしい。現地のいくつかの言葉に通じているので、スペイン語も覚えた後に通訳として活躍。アステカ王国への進撃に際しても自ら積極的な役割を果たしたという。後にコルテスの子供を生み、その子は混血児であったにも拘らずコルテスの後継者に指名されたそうだ。慣れ親しんだ土地へ進撃する異邦人に協力した心境には何があったのだろうか? 彼女の数奇な人生もまた一つの物語の題材になりそうだ。そうしたエピソードを拾い集めるのも歴史を読む醍醐味である。

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2007年2月21日 (水)

増田義郎『太平洋──開かれた海の歴史』

増田義郎『太平洋──開かれた海の歴史』(集英社新書、2004年)

 日本地図をパッと見たとき、その地図の外側にどのような広がりを想像するだろうか? 私の不明をさらけ出すと、九州・沖縄方面は中国大陸・朝鮮半島とのつながりが思い出されて、西へとつながるルートのイメージがすぐにわく。これに対して太平洋側については、そこで行き止まりという感じ。

 しかし、サブタイトルにあるように、実は太平洋は四方八方に開けた海である。本書はこうした観点に立ち、有史以前から現代に至るまでに太平洋を舞台に織り成された人類の軌跡を大きく通観する。

 世界史の教科書などには、「1513年、スペイン人のバルボアが太平洋を発見した」という記述がある(なお、前回紹介した増田義郎『インカ帝国探検記』との関わりで言うと、インカ帝国を征服したピサロはかつてバルボアの部下だったことがある)。だが、スペイン人は太平洋を“発見”したのではなく、“発明”したのだ、と著者は言う。

 16世紀のいわゆる大航海時代、スペインは香料の産出するモルッカ諸島への道を探していた。ところが、ポルトガルとの取り決め(トルデシリャス条約)によってインド経由のアジア航路を取ることはできず、大西洋、さらにはアメリカ大陸を越えて西へと進まねばならない。その結果、太平洋を横切り、メキシコからマニラへと至る航路が確定された。太平洋は広い。しかし、スペイン人にはこの航路以外の海域には全くと言っていいほど関心がなかった。それは当時描かれた世界地図にもはっきり示されている。つまり、その時の自分たちの必要や願望によって地理観、ひいては世界観を固定化させてしまう傾向が、太平洋をめぐる問題から見え隠れするのだ。

 大航海時代以降、太平洋における利権を求めて列国は覇権を争った。先行したのはスペイン・ポルトガル、とりわけフェリペ2世の時代は歴史上にも希なほど巨大な帝国を築き上げた。しかし、アルマダ海戦をきっかけに没落。一時オランダが優勢となったが、やがてイギリスとフランスとの抗争が太平洋上でも繰り広げられた。20世紀に入るとイギリス・フランスはやや後退、かわって日本とアメリカが雌雄を決する。

 いずれにせよ、ヨーロッパからやって来た白人は、太平洋の島々に暮らす人びとに大きな災厄をもたらした。伝染病や性病が蔓延し、免疫のなかった原住民の人口は極端なほどに減少した。銃火器の使用を覚えたことで、土着世界内での抗争が激化、ヨーロッパ人はそこにつけこむ。キリスト教が押し付けられて伝統的な文化を失い、強制労働に駆り立てられる。無力感を苛む彼らの心に対しては酒や阿片という習慣も用意された。初めにヨーロッパ人が来航した時には暖かく迎えられたので「高貴な野蛮人」という肯定的なイメージが生れた(このイメージがフランス啓蒙思想のディドロやルソーに影響を与えたことは周知のことだろう)のに対し、その後に乗り込んできたキリスト教の宣教師たちの眼には、原住民の風習は不道徳なものとしか映らない。白人は原住民を蔑視する。原住民は屈辱の中に滅んでいく。こうした悲劇は、著者の別のフィールドであるラテンアメリカの古代文明がたどった道と全く同じであった。

 幅広いタイムスパンで描き出された通史だが、新書サイズなので内容的に濃淡の差が出てしまうのは仕方ない。しかし、航海者の行動と異文化接触を取り上げた箇所では叙述に力が入っている。クックの航海記を散文作品として読み直したり、モーム、スティーヴンソン、メルヴィル、中島敦など文学者の描写を随所で引用しているのも面白い。

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2007年2月20日 (火)

増田義郎『インカ帝国探検記』

増田義郎『インカ帝国探検記──ある文化の滅亡の歴史』(中公文庫BIBLIO、2001年)

 サブタイトルから分かるように、インカ帝国滅亡の過程を、著者自身の現地踏査や膨大なスペイン語原資料の渉猟によって描き出している。本書が初めに刊行されたのは1961年(1975年に中公文庫の一冊となり、2001年には若干の補訂をほどこした上で中公文庫BIBLIOシリーズとして再刊された)。それから半世紀近くもの月日が経っているが、読み物としての面白さは全然色あせていない。

 インカ帝国についての考古学的研究は着実に積み重ねられ、新事実も色々と発見されていることと思う。しかし、歴史学的に事実を把捉することと、読み物として歴史を読むこととでは、おのずと読み手の態度は違う。やはり、登場人物の息づかいがヴィヴィッドに伝わってくるかどうか、本としての魅力はそこにかかってくる。

 スペイン人のコンキスタドーレス(征服者)がやって来たとき、インカ帝国内部もまた大きな転機を迎えていた。エクアドル方面に領土拡張のため陣頭指揮に当たっていたワナイ・カパック帝が急死。嫡男だが文弱のワスカールと、庶子だが軍事的才能に恵まれ先帝から気に入られていたアタワルパとの二派に分かれての抗争が始まった。いったんワスカールが帝位を継いだものの、軍事力を握るアタワルパには強い警戒感を示し、機会を捉えて抑圧策を弄する。アタワルパは反撃に出て、ワスカール派をたたきつぶした。

 ピサロがペルーに上陸したのは、アタワルパが帝位を奪い取った直後の時期であった。ピサロ一行はわずか200名の小勢。予想とは裏腹に高度な文明を誇るインカ帝国の威容に恐れをなす者もいた。対するアタワルパは自信に満ちている。異邦人がやって来ても余裕を崩さず、変なまねをしようものならいつでも殺してやるという態度を取った。

 まともに戦っては勝ち目がない。そこでピサロは作戦を練り、アタワルパを生け捕りにした。インカ帝国のシステムは太陽神崇拝に基づく絶対専制君主制であった。“日の御子”(インカ)の命令には絶対服従という倫理規範が人びとの皮膚感覚にまで染み付いていた。逆に言うと、インカの命令がなければ組織的な反抗を行なうという発想すら出てこない。ワスカール派の残党がアタワルパの悲運に快哉を叫び、この機会を利用しようとしたことも背景にある。いずれにせよ、インカ帝国はあっという間に瓦解してしまった。

 ピサロはしばらくアタワルパを傀儡として統治を行なったが、やがて邪魔となったため処刑してしまう。皇族が後継を名乗って独立政権を形成し、スペイン人が押し付けようとするキリスト教をはねつけながら昔ながらの祭祀を維持した。コンキスタドーレスによる制圧後も三十年以上にもわたってスペイン人を翻弄し続ける(彼らが根拠地としていた“幻の都”が、世界遺産にも登録された有名なマチュピチュである)。とりわけトゥパク・アマルは先住民による抵抗のシンボルとなり、ペルーの日本大使館占拠事件を起した「トゥパク・アマル革命運動」の名前の由来として記憶している人もいるだろう。

 世界史の教科書を読むだけでは、「1533年、ピサロがインカ帝国を滅ぼす」という簡単な記述で終ってしまう。しかし、その背景には複雑なドラマが織り成していることを一つ一つ読み取っていくと、歴史をみる視点に奥行きがでてくる。様々に輻輳する事実連関がタテにヨコに拡がっていくのが見えてきて、面白い。

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