カテゴリー「歴史・民俗・考古」の74件の記事

2020年4月26日 (日)

【メモ】荒野泰典『近世日本と東アジア』

【メモ】荒野泰典『近世日本と東アジア』(東京大学出版会、1988年)
 
序 「鎖国」論から「海禁・華夷秩序」論へ
・近世日本における「鎖国」→「海禁」と「華夷秩序」という二つの概念で理解可能であり、その意味で中国・朝鮮の海禁と共通しているという考え方から、従来のいわゆる「鎖国」論への批判。
・「「海禁」は、国家領域内の住民(「国民」)の私的な海外渡航や海上貿易を禁止することを中心とした政策の体系である。明においては、当初倭寇や国内の不穏分子と国外の勢力の結びつきなどを防止するための政策だったが、やがて、明皇帝を頂点として形成された「華夷秩序」(冊封体制)と、それを日常的に確認する場である朝貢貿易制度を保障する政策となった。朝貢貿易制度に勘合や公・私貿易、外国船の寄港地の指定などが付随していたことはよく知られている。「海禁」は朝貢貿易制度とあいまって、明皇帝と周辺諸国・諸民族との間に設定された「華夷秩序」を日常的に支えたのであった。したがって、「海禁」は「国を閉ざす」ための政策ではなく、その国家が望むような対外関係を実現するための政策であり、それを支えたのは「人民に外交なし」という東アジアの諸国家が伝統的に保持したイデオロギーであった。」(ⅳ頁)
 
第一部 近世日本の対外関係と東アジア
第一章 日本の「鎖国」と対外意識
・「オランダ 1609年の通交開始以来1628年の浜田弥兵衛事件(台湾をめぐる紛争)による関係断絶までは、外交を含む関係であった。その後、1632年に関係を再開するに当っては、オランダ人は将軍の「歴代の御被官」として位置づけなおされ、貿易のみを許される存在となった。翌年から恒例化するオランダ商館長の江戸参府は、上述のオランダ人の位置づけを表現するものとして演出された。それまではオランダ側の要求実現の手段であった江戸参府も、これ以後いっさいの要求・嘆願は許されなくなった。」(10頁)
・いわゆる「鎖国」論は、志筑忠雄がケンペル『日本誌』の一部を訳出して「鎖国論」と題した(1801年)ことにはじまる(15頁)
 
第二章 近世の東アジアと日本
・「日本型華夷秩序は、日明国交回復の挫折を前提に、ポルトガル・スペインの旧教国およびキリスト教自体の排除と、周辺諸国・諸民族の待遇の一定の改変によって、1630年代に成立した。」(33頁)
 
第三章 近世中期の長崎貿易体制と抜荷
 
第四章 近世日本の漂流民送還体制と東アジア
・遭難物占守慣行
・漂流民送還には、国家権力による統制と国際関係が条件として必要
・「豊臣政権による全国統一の過程は、同時に、個別大名に帰属していた遭難物占守権=領海権を、国家権力(公儀)の遭難物占守権=領海権のもとに再編・統合する過程であった。」(122頁)→豊臣政権は貫徹できなかったが、その課題は徳川政権に継承され、より周到な配慮のもとに遂行され、実現することになる(123頁)。
・外国人漂流民の奴隷化の可能性→「そのような状況において、明・朝鮮・琉球の間には国交成立以後、三国相互に恒常的な漂流民(倭寇被虜人も含む)の送還がみられたが、それは三国間の国際関係が規制力として作用したからである。」(124頁)→日本人の場合、倭寇かそうでないかを区別する必要があった。
・「近世日本の「鎖国」体制は、(イ)対外関係を長崎での中国・オランダ、薩摩での琉球、津島での朝鮮、松前での蝦夷に限定し、そこでの諸関係を幕藩制国家権力=公儀が統轄する、(ロ)日本人の、海外渡航禁止を含む、対外関係からの隔離(特権者のみ対外関係にたずさわる)、(ハ)厳重な沿岸警備態勢、の三点に要約できる。この体制の意図するところは、対外関係の国家的独占にあり、その実現形態とともに、明・朝鮮の海禁政策と共通している。日本の海禁政策の特徴は、施行時期のずれを除けば、(ⅰ)公儀による対外関係の総轄が「役」の体系によっていること(明・朝鮮は官僚制)、(ⅱ)海禁の目的がキリシタンの摘発・排除にあること(明・朝鮮は、直接には倭寇)の二点である。」(126頁)
・「外国人漂流民は1630年代から長崎送りとなったが、これは琉球が幕藩制国家の海禁体制のなかに組みこまれたことを意味する。しかし、明清交代後、対清日琉関係の隠蔽策が進行するなかで、1696年以後、清・朝鮮および国籍不明の外国人漂流民は直接福州へ送還されることになった。」(139頁)
・「清は遷海令撤廃の翌1685年、貿易の可能性を探るため、長崎に官船13艘を派遣してきたが、幕府は貿易を許さず以後「官人」の来航を禁じた。幕府は清との外交開始による新たな紛争の発生を懸念し、対中国関係は従来の形態にとどめたのである。」「日清関係は双方の国家権力を背景にしつつも、外交を含まない民間レヴェルの貿易=「通商」関係として定着した。」(141頁)
・キリスト教圏(フィリピンなど)へ漂着した日本人→幕藩制国家は拒絶の可能性が強かった(150頁)。
 
第二部 近世日朝関係史研究序説
第一章 大君外交体制の確立
・大君外交→第一に、「徳川将軍が、自らの国際的呼称を、足利義満以来の「日本国王」号を廃して、「日本国大君」としたことである。」第二に、日朝外交は徳川将軍と宗氏との軍役・知行関係を通じて実現(162頁)。
・「大君」号の設定→日明国交回復を断念し、明抜きで事故を中心とした国際秩序の設定に向かい始めた(216頁)。また、「大君」号には、朝鮮蔑視の意識(217頁)。
 
第二章 明治維新期の日朝外交体制「一元化」問題

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2019年2月 1日 (金)

桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす──混血する古代、創発される中世』

桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす──混血する古代、創発される中世』(ちくま新書、2018年)
 
 「武士」の起源について、従来の学説ではきちんと説明されてこなかった、というのは驚いた。本書では「武士」の成立過程について、官職にあぶれて地方の所領に利権を求めた王臣子孫と、現地社会における有力古代氏族との融合という視点から説明を試みている。既存の見解に対する挑戦的な筆致が面白い。 
 
・新参者の王臣子孫が坂東の社会に溶け込んだ→「本来なら排除されるべきよそ者が、その既成の社会に受け入れられ、溶け込み、同化させてもらえたのは、彼らが持つ唯一の価値ある財産=貴姓を手土産にしたからだ。地方豪族の婿になり、彼らの孫を貴姓にする形で、王臣家は自分の貴姓を彼らに与え、ギブ・アンド・テイクの関係で融合し、しかもそうした融合は何世代もかけて何重にも結ばれた。八分の七も現地豪族の血が流れる藤原秀郷は、その最も典型的な成功例だ。」「その結果完成したのが、看板だけ藤原氏で実質的に現地豪族である“藤原秀郷”という作品だった。」(236頁)
 
・「国造の時代から何世紀もかけて形成された、古代の郡司富豪層の地方社会に対する支配的地位と、彼らの濃密なネットワークに、血筋だけ貴い王臣子孫が飛び込み、血統的に結合して、互いに不足するもの(競合者を出し抜くための貴さと地方支配の力)を補い合った。そして秀郷流藤原氏は蝦夷と密着した生活から、源平両氏は伝統的な武人輩出氏族(将種)の血を女系から得て、傑出した武人の資質を獲得した。武士とは、こうして【貴姓の王臣子孫×卑姓の伝統的現地豪族×準貴姓の伝統的武人輩出氏族(か蝦夷)】の融合が、主に婚姻関係に媒介されて果された成果だ。武士は複合的存在なのである。」(269頁)
 
・「武士の内実は地方で、制度を蹂躙しながら成立・成長したが、京・天皇が群盗に脅かされた時、それを「武士」と名づけて制度の中に回収し、形を与えたのが京の宇多朝であり、その背後には「文人」と「武士」を両立させる宇多朝特有の《礼》思想的な構想があった。武士は、王臣家の無法や群盗の横行という形で分裂を極めた中央と地方に、再び結合する回路を与えた。滝口経験者として坂東の覇者となった将門は、まさにその体現者だ。」「武士は、京でない場所(地方)だからこそ生まれた。しかし、地方の土地や有力豪族の社会だけからは、「武士」という創発に結実する統合は起らなかった。そこに、王臣子孫という貴姓の血が投入されて、初めてその統合・創発は始まるのである。」(318頁) 
 
 中世において地方では土地の収奪競争が激化し、混乱を極めていた。国司襲撃も頻発しており、位階を持つ王臣子孫はそうした事件を起こしても大した罪には問われなかった。地方豪族と王臣子孫との融合として成立した「武士」は、むしろ地方社会での紛争裁定者としての役割が期待されていた。平将門の場合は、紛争裁定のつもりで武力を行使し、当事者の片方に肩入れし過ぎ、やり過ぎたことで規模が拡大したが、「新皇」を名乗ったという特殊性を除けば、必ずしも例外的ではなかったという。「武士」は地方と中央との融合的存在として扮装調停者の役割を果たそうとしていたからこそ、後になって「幕府」として統治を志向するようになったのではないかと本書では指摘されている。

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2018年5月28日 (月)

平川信『戦国日本と大航海時代──秀吉・家康・政宗の外交戦略』

平川信『戦国日本と大航海時代──秀吉・家康・政宗の外交戦略』(中公新書、2018年) 
 16世紀に渡来したポルトガル人やスペイン人を通して日本は初めて西洋文明と邂逅したが、他方で来日した宣教師の間で日本征服をめぐる議論が交わされていたこともすでに知られている。中には日本のキリシタン大名を動員して明を征服しようとする意見まで出ていたという。ポルトガルとスペインはトルデシリャス条約(1494年)によって世界二分割をすでに取り決めていたが、こうした世界情勢への対応として豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗たちの外交戦略を捉えようとするのが本書の趣旨である。 
 第一に、秀吉の朝鮮出兵は、ポルトガル・スペインによる世界征服計画への対抗策であったと主張される。両国が明を征服し、日本にまで手を伸ばそうとする前に先手を打とうという発想があったと考えられ、スペインのフィリピン総督やポルトガルのインド副王にまで服属要求の使者を派遣したのはそうした発想の表れであったと解釈される。 
 第二に、朝鮮出兵という大規模な軍事行動を秀吉が実施したことは、ポルトガルやスペインにとっては衝撃的であり、両国に日本の武力征服を断念させ、かわって布教による間接的征服へと方針転換をさせたとされる。実際にスペインのフィリピン総督は秀吉からの服属要求を受けた際に危機感を抱き、マニラで厳戒体制を敷いた。戦国時代に各地で割拠した大名が軍拡競争を行っていたことにより当時の日本には世界でも有数の軍事力が蓄積されており、それは豊臣政権、徳川政権を通して一元化された。ヨーロッパ列強にもたらされた軍事大国日本というイメージは江戸時代にも持続し、そうであるがゆえにイギリス・オランダもいわゆる「鎖国」という管理貿易体制の中に組み込むことができた。言い換えると、豊臣政権・徳川政権期に形成された軍事大国イメージによって日本はヨーロッパ列強による植民地化を免れたのだと本書では主張されている。 
 第三に、本書では伊達政宗の慶長遣欧使節についても紙幅を割いているが、戦国大名型外交から徳川政権の一元外交への転換点として位置付けている。 
 秀吉の朝鮮出兵をポルトガル・スペインの世界戦略への対抗として捉える議論は十分にあり得るように思うが、この分野について私は専門知識を有していないので判断はなかなか難しい。いずれにせよ、当時の世界情勢の中で日本の対外政策を論じる際には検討すべき論点だろう。

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2018年2月23日 (金)

武井弘一『茶と琉球人』

武井弘一『茶と琉球人』(岩波新書、2018年)
 
 本書ではまず、近世琉球は自立していたのか?という問いを立て、その答えを探るため琉球をめぐるモノの動き、とりわけ茶の流通に注目する。当時の琉球人が人吉の球磨茶を好み、その輸入に躍起になっていたというのは初めて知った。琉球の歴史を考える際、薩摩藩=支配者、琉球国=被支配者という政治的側面に目が奪われがちだが、もちろんそれは間違っていないにせよ、本書では球磨茶の消費者としての近世琉球に着目し、生活経済史のレベルから捉えようとする。当時の琉球は実は貿易赤字で、見方を換えると貿易に依存せずとも琉球人の暮らしは成り立っていた。つまり、近世琉球社会は農業を土台として自立していたというのが本書の結論である。

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2016年3月20日 (日)

王明珂《華夏邊緣:歷史記憶與族群認同》

王明珂《華夏邊緣:歷史記憶與族群認同》允晨文化、1997年
 
 約20年前に刊行された少々古い研究書ではあるが、大学院の授業で「これは必読書だよ」と言われ、慌てて図書館で借り出して通読した。著者の王明珂は中国辺境民族史を専門としており、中国でフィールドワークを行った成果も本書に反映されている。本書刊行時には台湾の中央研究院歴史語言研究所研究員、現在は院士。
 
 「華夏」とはすなわち中国人アイデンティティーと言ったらいいだろうか。「民族」概念の可塑性を理論的前提として、つまり様々な条件がせめぎ合う中で「民族」なるものが指し示す内容も不断に変化していることを踏まえて、中国人アイデンティティーの起源及び拡大の力学を考察しようとするのが中心テーマである。「中国人」なる概念がそもそも可塑的であるため、古代史において中原と辺境民族とが交錯したボーダーラインに注目し、民族学や考古学の知見を援用しながら議論が進められている。最終章が台湾の族群をめぐる議論に充てられているが、本書刊行当時の台湾社会におけるまさにホットな話題がこの研究テーマに影響を与えていたであろうことは想像に難くない。考察対象は異なるにせよ、アイデンティティーの可変性は私自身の研究テーマともつながってくるので、思わぬ収穫だった。
 
 本論とは直接には関係ない細かなことでメモ。学者は歴史の再構築を行う際に民族間の優劣をつけたがる、という文脈に付けられた注で江上波夫『騎馬民族国家』に言及している(75頁)。そこで、騎馬民族が日本へ来たという学説は、農耕民族である中国人に対する優越性を示そうとしている、と言っているのだが、果たしてそうなのだろうか? 第一に、当時の日本人は農耕民族という自己規定を持っていたわけで(天皇は稲作の祭祀者)、騎馬民族が祖先であったことを以て優越性を示そうという発想などあったはずがない。第二に、大陸の外来民族が天皇家の祖先であったとする学説は、万世一系の皇国イデオロギーを相対化する役割を果たすので、民族間の優劣という問題にはつながらない。他方で、第三に、騎馬民族説は喜田貞吉の日鮮同祖論の焼き直しという指摘もあり(鈴木公雄『考古学入門』東京大学出版会、1988年)、見ようによっては大東亜共栄圏イデオロギーに利用される可能性もあったわけだが、それは農耕民族/騎馬民族という対比とは別次元の問題である。
 
 彝族や羌族の間で、日本人と共通の祖先を持つという伝承があることは本書で初めて知った(363~366頁)。地元の研究者には語彙や風習に見られる共通性からそうした同祖論についての研究論文もあるようだ(周錫銀〈中国羌族古代文学与日本名著《古事记》之比较〉《羌族研究》第一輯、1991年:97-101 ただし、私は未見)。本書の著者は次の二点を指摘する。第一に、ひょっとしたら日本人研究者がかつてここまで来たことがあって、その時に酒の席の雑談で「君たちは日本人と似ている」といったことを軽い調子で言ったのかもしれない(戦前期日本の研究者が日本人のルーツを求めて満蒙や北アジア史研究を手掛けていたことにも注意が促される)。ただし、仮にそうした出来事が過去にあったとしても、日本との同祖論が一般的に広まった理由は何なのか? 第二点として、改革開放後、日本の優れた製品が流入するのを目の当たりにして、日本イメージへの憧れから日本人との血縁関係を強調する民族意識が出てきたのかもしれないと指摘されている。以上のことについて日本にも研究論文はあるのだろうか?

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2013年6月16日 (日)

【雑感】張良澤・作、丸木俊・画『太陽征伐──台湾の昔ばなし』

張良澤・作、丸木俊・画『太陽征伐──台湾の昔ばなし』(小峰書店、1988年)

 少々古い絵本だが、「世界の昔ばなし」シリーズの1冊。前半は原住民族の伝説を、後半は平地の漢民族の伝説を昔話風にリライトしている。台湾の主だった伝承を手軽に知ることができる。

 昔、二つの太陽があった。昼夜を問わず照り続けるため、疲れ果てた人々は、片方を弓矢で射落とそうと考えた。選ばれた勇者たちは、はるかかなた、太陽を求めて歩き続けるが、中途にして力尽きて倒れていく。太陽征伐の使命は次の世代に引き継がれ、ようやくにして射落とすことに成功した──本書の表題作は、台湾原住民の一つ、タイヤル族に伝わる伝説である。

 この話は、以前に読んだ黄煌雄《兩個太陽的臺灣:非武裝抗日史論》(台北:時報出版、2006年)という本で知っていた(→こちらで取り上げた)。黄煌雄は蒋渭水の評伝も書いており、サブタイトルから分かるように、日本統治時期台湾における民族運動史をテーマとしている。「二つの太陽」という表現には、日本という支配者=政治勢力と、台湾在住漢民族という被支配者=社会勢力と二つの太陽が台湾には輝いている、しかし二つの太陽が並び立つことはできず、いずれかが射落とされなければならない、という意味合いが込められており、これは賀川豊彦が台湾について原住民の神話を引きながら書いた文章に由来するそうだ。賀川は何度か台湾へ伝道旅行に出かけているから、その折に「太陽征伐」の伝説を耳にしたのだろうか。「太陽征伐」のモチーフそのものは、北米インディアンなどの伝説にも見られるらしい。

 パスタアイ(矮人祭)はサイシャット族に現在も伝わる祭礼だが、肌が黒く、背丈の小さな先住民・タアイにまつわる。彼らは農耕など先進的技術を教えてくれたが、悪さも過ぎたため、あるとき、皆殺しにされてしまった。タアイの霊を慰めるために行われるようになったのがパスタアイだと言われている。色黒の小人を皆殺しにしたという伝承は台湾各地にあり、例えば、そうしたヴァリエーションの一つが伝わる小琉球の烏鬼洞を私も以前に訪れたことがある(→こちら)。

 娘が鹿と婚姻を結び、それを知った父親が鹿を殺してしまったというアミ族の説話は、柳田國男『遠野物語』にも見えるオシラサマの伝承と似ている。ちなみに、台湾の人類学的調査で知られる伊能嘉矩は遠野の出身である。蛇足ついでに書くと、藤崎慎吾『遠乃物語』(光文社、2012年)は、台湾から戻った伊能と、『遠野物語』の語り部となった佐々木喜善の二人を主人公にイマジネーションをふくらませた小説である。

 台湾各地にある城隍廟に入ってみると、背高ノッポとおチビさんの二人組みの神像が印象に強く残る。七爺八爺、ノッポの七爺は謝将軍、背の低い八爺は范将軍、という。二人はもともと親友同士だったが、ある日、橋のたもとで待ち合わせたとき、七爺は事情があって戻って来れなかった。やがて大雨で川が氾濫し、友は必ず戻ると信じていた八爺はそのまま溺れ死んでしまった。そのことを知った八爺は責任を感じて自殺してしまう。こうした二人の関係は信義の象徴として神に祭り上げられた。七爺がアッカンベーしているのは首吊りしたから。八爺の顔が赤黒いのは水死したから。そう言えば、黄氏鳳姿『七爺八爺』という作品があったが、私はまだ読んでいない。黄氏鳳姿は日本統治時代の台湾でその文才を池田敏雄によって見出され、綴方教室で有名な豊田正子と同様の天才少女として知られるようになった人。

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2012年10月28日 (日)

竹内康浩『中国王朝の起源を探る』

 中国での考古学的発掘・研究は飛躍的に進んでおり、その成果は日進月歩の勢いで更新され、むかし教科書で読んだ知識もたちまち陳腐化してしまう。先日放映されたNHKスペシャル「中国文明の謎 第一集 中華の源流 幻の王朝を追う」を観たとき、夏王朝の実在を前提とした内容だった(番組を見ながらとったメモを参考までに最後に付記した)。私が気付かぬうちに夏王朝の実在が定説になっているのか、と驚いた。ただ、そのまま鵜呑みにしてよいのものか危なっかしくも感じたので、竹内康浩『中国王朝の起源を探る』(山川出版社、2010年)を手に取った。

 考古学的成果のレビューという点では本書の内容もNHKの番組とほぼ同様である。ただし、共有された知見は同じでも、文献上の伝説を考古学的知見に結びつけて比定する際の慎重さで話が全く違ってくる。

 新石器時代前期(前7000~前5000年)にはすでに穀物の栽培・貯蔵、食糧の安定供給が始まり、生活水準の向上がうかがえる。中期になると土器等の質が洗練され、また副葬品の玉器の造型からは神的な形象も見られる。各地に独自の文化圏が成立しており、南北で栽培される穀物の種類は異なる。新石器時代の後期になると地域間の相互交流が広がっていたことが文化要素の共有状況から分かっている。集落の規模が拡大、階層格差も現われ、後の「王朝」的な支配形態の萌芽が推測される。中国のシンボルたる「龍」の意匠も登場している。

 焦点となるのは、二里頭遺跡である。ここを夏王朝の王都跡と考える研究者が中国には多い。ところで中国で書かれた概説や通史で夏王朝が取り上げられるが、それは二里頭遺跡の考古学的成果ではなく、あくまでも文献上の夏王朝の記述だという。つまり、考古学的に夏王朝の痕跡が見つかったことを前提とした上で、文献上の夏王朝関連の記述を総動員して夏王朝史が詳細に再構成されるという状況にある。前2070年から前1600年まで夏王朝は実在して、それは殷・周、春秋戦国、秦の統一以降の通史につなげられていくのが中国の歴史学界では常識となっている。

 ただし、中国の学界とは異なり、日本の研究者は夏王朝実在説に必ずしも賛同していないという。理由はシンプルで、出土文字資料による確認ができていないという一点に尽きる。もちろん二里頭文化に初期国家として画期的な意義があるのは確かなのだが、注意すべきなのは、夏王朝が実在しないと否定しているのではなく、研究上の手順として文献記載の夏王朝と同じかどうかが確認できないということである。

 殷と比べると西周の存在感は希薄らしい。殷代の遺物の発見範囲の方が次の西周よりも広く、殷代の文化層の上に西周の文化層が直接乗っかっているとは限らない、つまり殷の版図を西周がそのまま引き継いだとは想定しがたいという。神を媒介した権威によって統治を図った殷代に対し、西周では王不在の「共和」(前841年→中国史上、実年代を決定できる最初の年)の時代があったように王の絶対性への裏づけは乏しかったと考えられる。

 『史記』で記述された「歴史」が確かな史実であったかどうかは疑問がある。「なにより、上古以来、中国を統一的かつ正統的に支配する(日本風にいえば)「天下人」の存在が想定されているところに、もう後世の中国史のあり方が強く投影されていることが明白なのである。…各地に独自の文化が多数花開いていたというのが考古学からはむしろ明らかな事実であって、「中心と周縁」という見方すら適当とはいえない。夏・殷・周の「三代」も、それらが各時代や文化の「中心」であったと断定してよいものか、もっと慎重であってよかろう。現在みることができる文字資料では、たまたまそれらが優勢にみえているにすぎないのかもしれないからである。」(本書、5ページ)

 二里頭遺跡を夏王朝と断定するには根拠不足で、研究者の間でまだ議論が交されている背景が番組の中で紹介されなかったのは疑問に感じる。そもそも、「中華」の一体性という観念を無批判に持ち出しているのは、見ながら首をかしげていた。下手すると、現時点での国家主権をめぐるイデオロギー的思惑を古代まで遡及させる危険にもつながりかねない。夏王朝は実在したかもしれない…というところで寸止めしておいてくれた方が、考古学的ロマンティシズムをかき立ててくれて良かったように思う。

※以下は、NHKスペシャル「中国文明の謎 第一集 中華の源流 幻の王朝を追う」(2012年10月14日放送)を見ながら取ったメモを参考までに掲げておく。

・中国は多民族国家でありつつも、一つのまとまり。いつから広大なこの土地を一国としてまとめあげるようになったのか? 経済格差、価値観の多様化、そうした中でも中国を一つにまとめ上げるキーワード「華夏」。中国人が自分たちの原点と考えるのは、最古の王朝「夏」。
・紀元前2000年頃、に夏は成立。周辺国はまだ新石器時代。
・中国の源流をたどる国家プロジェクト→夏商周段代工程。夏王朝の存在を証明すること。
・夏王朝誕生前夜にはいくつも文化圏に分かれていた。夏王朝の中心があったのは河南省二里頭村と推定→発掘→巨大な宮殿が出土。トルコ石の断片→最古の龍→歴代皇帝の権威のシンボル。青銅の銅爵。人口は2万以上と推定。
・他には?→長江下流域の良渚。しかし、地層に洪水の土砂→夏王朝誕生の500年前に滅びていたことが分かった。気候変動、気温の急激な低下と洪水→各地の文化圏が衰退する中、盛んになっていったのが二里頭の夏王朝。
・史記→夏王朝の誕生に洪水説話。
・なぜ、夏王朝だけ? 4000年前の生活の痕跡→各文化圏で栽培品目が限られていた中、夏では粟や黍、小麦、大豆、水稲を同時に栽培していた。多様な栽培食物で自然災害のリスクを分散。
・二里頭周辺では、黄河、長江、淮河などの支流→各地の穀物や情報を収集できた。
・山西省陶寺村。異常な状態の大量の人骨。高貴な女性→首を斬られ、下腹部に牛の骨が差し込まれていた。叛乱?貴族への復讐でゴミ捨て場に捨てられた。
・宮殿の構造。二里頭の宮殿では、一号宮殿の南の門をくぐると、千人以上を収容できる広場、その前に王が立つ建物→特別な空間ではないか。回廊に囲まれた構造はその後の王朝(清代の紫禁城まで)の宮殿に受け継がれていた(二里頭以前にはなし→最古)。宮廷儀礼を行った。神の力ではなく、人の力で権威を示す。人間対人間という関係性に重きを置いた。霊を祀っても、それは神ではなく祖先。夏王朝から清朝まで宮廷儀礼の基本は変わっていない。家臣は、神様ではなく皇帝にひれ伏す。エジプト文明等では、まず神にひざまずくのであって、王はその化身という位置づけ。中国では、直接人に向かって礼拝。
・儀礼の開始は夜明け前。出席するのは貴族や周辺集落の首長。王の権威を示す工夫。最後に入場する王。手には、玉璋(外の文化を取り込み融合)→龍が刻まれている。黄金色に輝く青銅の銅爵。青銅のき(漢字変換できず)。各地の文化に西域から取り込んだ青銅でつくる。多くの文化圏を融合していることを参列者に誇示。身分の固定→叛乱を防ぎ、王権を安定させる。
・玉璋と同様のものが各地で出土。四川や香港など数千キロ離れたところまで。自然の力→龍と王権の融合。
・夏王朝の権威が高まり、広大な中国大陸を包み込むようになった。武力というより、文化の力=ソフトパワー。歴史上、東アジアに初めて現れた文化の核心。やがて、夏王朝は「中華」の源流とされる。
・紀元前1600年頃、殷は青銅の武器を量産して台頭→夏王朝を徹底的に破壊、夏王朝の人々の遺骨も大量に出土。しかし、宮廷儀礼の行われた宮殿だけは破壊した形跡なし。夏の宮廷儀礼を受け継いだ。社会統治システムとして魅力的だったのだろう。これがその後も、龍のシンボルと共に歴代王朝に受け継がれていく。

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2012年3月 4日 (日)

南条文雄『懐旧録──サンスクリット事始め』

南条文雄『懐旧録──サンスクリット事始め』(平凡社・東洋文庫、1979年)

・伝統的な仏教学が漢訳仏典をもとに、宗派ごとの正当性を中心に議論されていたのに対して、明治以降の近代的な仏教学は海外で新たに学びなおしたサンスクリット、パーリ語、チベット語などで原典から読み直し、宗門的な制約から離れた自由な批判的態度で歴史的・文献学的・理論的研究を進めていった。南条文雄(ぶんゆう、1849~1927年、後に大谷大学の学長)は後者の意味での先駆的な仏教学者であった。近代的仏教学草創期のエピソードがつづられた回想録で、原著の刊行は昭和2年である。
・明治10年代に選ばれて洋行、イギリスでの留学生活が本書の読みどころになるのだろう。まだ数少なかった頃の留学生仲間たちの錚々たる顔ぶれには驚くが、やはりオックスフォード大学で師事した著名な東洋学者マックス・ミュラーのもとでサンスクリットを学んだときの学問的交流が興味深いし、とりわけ同行したものの志半ばで夭逝した笠原研寿へのミュラーの情意をつくした追悼文が目を引いた。
・幕末維新の頃、僧兵として招集されたこと(ミュラーに提出した履歴書に記載したら、大笑いされたらしい)、もともと僧侶には苗字はなかったが、明治新政府の指示で急遽苗字を届出しなければならなくなったときの混乱などのエピソードも目を引いた。

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2012年2月11日 (土)

野嶋剛『謎の名画・清明上河図──北京故宮の至宝、その真実』

 東京国立博物館で現在開催中の「北京故宮博物院200選」も会​期がそろそろ終わりに近づいているが(2月19日まで)、行列待​ち4~5時間と聞き、おそれをなして多分行かずじまいになりそう​だ。展示の目玉は「清明上河図」。ただし、HPで確認したところ​本物の展示は1月24日までで、以降はレプリカらしい。

 野嶋剛『謎の名画・清明上河図──北京故宮の至宝、その真実』​(勉誠出版、2012年)を読んだ。「清明上河図」は北宋の張擇​瑞が描いたとされる。模本も世界中に散らばっており、張擇瑞のオ​リジナルに触発されて後代に描かれた作品も含め、この絵画の様式​的ジャンルを「清明上河図」と総称していると捉えても必ずしも間​違いとは言えない。名画の誉れが高いのはもちろんだが、題名の由​来も諸説あるらしいし、色々と分からないことも多いようだ。たか​が一幅の絵画とはいえ、そこにまつわる謎の数々はスリリングで興​味が尽きない。宮廷から盗まれては戻ってきて…と何度も繰り返された流転の来歴、絵画中に​写実された宋代の生活風景──本書はこの作品が背景に持つストー​リーを存分に語り出してくれる。著者による『ふたつの故宮博物院​』(新潮選書、2011年)と合わせて読むといっそう興味も深ま​るだろう。

 「清明上河図」は張擇瑞が北宋の徽宗(画家として有名だった皇​帝、靖康の変で金に捕まった)に献上されて宮廷の収蔵品となった​が、金によって北方に持ち去られる。王朝が代わって元代にいった​ん盗み出されたが、持ち主を転々とした末、明代に宮廷に戻ってき​た。しかし再び盗まれ、清代に三たび戻る。辛亥革命後、紫禁城に​蟄居していた溥儀の命令で弟の溥傑が持ち出し、天津の張園にしば​らく留まった後、満洲国の成立と共に新京(長春)に移転。戦後の​混乱でしばらく行方知れずとなったが、1950年、今度は瀋陽で​楊仁愷の目利きによって見つけ出される。遼寧省博物館に所蔵され​たが、1953年に北京の故宮博物院に貸し出され、そのまま故宮​博物院への所属が決められた。故宮博物院の収蔵品の大半は蒋介石​によって台湾に持ち出され、ほとんどスカスカに近い状態となって​おり、しかも中国美術の粋たる書画の一級品がとりわけ少なかった​からという事情があるらしい。

 「清明上河図」で描かれているのは当時の開封の街並みである。​文人好みの花鳥風月ではないため、中国の文化的伝統の中で言うと​決してハイクラスに位置づけられるわけではない。それでもこの作​品が長らく注目を浴びてきたのは、そこにヴィヴィッドに描き出さ​れた庶民の生活光景が見る者の眼を引き付けてきたからであろう。​本書の後半、作品中のモチーフを手がかかりに当時の料理や日常生​活も再現されているところが面白い。開封にあるテーマパークや、​CGで再現された「動く清明上河図」などに現代の中国人が興味津​々たる表情を示しているのもむべなるかな。

 本書を読んでいるうちに実物を見たくなってきた。北京に行く機​会があったら是非参観しに寄ってみよう。

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2012年1月26日 (木)

粕谷一希『内藤湖南への旅』

粕谷一希『内藤湖南への旅』(藤原書店、2011年)

 京都帝国大学の東洋史講座を創設した一人として日本における歴史学研究に大きな足跡を残した内藤湖南。ジャーナリスト出身で正規の学歴を持たない彼の登用は、官学的な東京帝国大学とは違った学風をつくり出していこうという狩野直喜の熱意による(なお、国史担当として招聘された幸田露伴は窮屈な大学生活に嫌気がさして一年でやめてしまった)。本書ではもう一点、湖南のアカデミズム入りが、夏目漱石が学者をやめて文士になったのとほぼ同時期であったことに注意を促す。ジャーナリズムとアカデミズムとの垣根が低かった明治の草創期、そうした時代だからこそ独特な個性を持った学究たちの織り成す群像劇があり得た。

 本書のテーマは内藤湖南ではある。しかし、彼その人よりも、むしろ彼にまつわる話題をきっかけに、彼と接点のあった広い意味での「京都学派」(狭義だと西田哲学の影響を受けて「近代の超克」論に関わった人々に限定されるが、本書では東洋史学も含め京大を中心とした人脈的広がりを指している)や後世の歴史学者たちにまで筆が及ぶのが特徴だ。研究内容の要約ではなく、当時のアカデミズムにおける自由闊達な雰囲気が見えてくる。脱線とは言いつつも、その脱線こそが実は面白いのだ。名前だけは知りながら図書館でほこりをかぶった学術書でしか見たことのないような大学者たちも、人となりが分かってくると見方、読み方もまた違ってくる。例えば、日本中世史の原勝郎は普段の生活では東北弁丸出しで、子供が京都弁をしゃべると殴ったそうだ。彼は『東山時代に於ける一縉紳の生活』を書いているだけに、この矛盾が可笑しい。そうしたところまでサラッと描いてしまうのは、アカデミズムの論客を次々と発掘してきた『中央公論』往年の名編集長ならではの眼力と見聞による。とりわけ小島祐馬、鈴木成高、宮崎市定などに思い入れがあるようだ。

 なお、湖南の議論を通して現代中国論にも言及しようとしているが、そこは表層的な印象論で特に見るべきものはない。

 湖南の中国史論で有名なのは、時代区分としての「近世」を宋代に求めたことだろう。最近では中国思想史の小島毅さんが再評価し、昨年話題となった輿那覇潤『中国化する日本』(文藝春秋)もこの観点に触発されているなど、ちょっと面白い状況ではある。

 中国の「近世」において中央レベルでは皇帝独裁政治が目につく一方、地方レベルにおいては「郷団」という形で自治的な共同体が形成されていたと湖南は指摘、これを「平民主義」の台頭として把握した。皇帝独裁と平民主義という二面性が「近世」中国の特徴だが、辛亥革命によって皇帝独裁は消えた。残る「平民主義」に中国のこれからの共和政治のカギがあると湖南は考えたが、実際には軍閥割拠の様相を呈して、その見通しには悲観的となる。中国人が自分たちで国づくりできないなら、日本が積極的に内政干渉すべし──現代の我々から見ると非常な暴論を彼は吐いてしまうが、彼の中国研究が当時の政治論と結びついたときの難しさについてはジョシュア・A・フォーゲル『内藤湖南 ポリティックスとシノロジー』(井上裕正訳、平凡社、1989年)で論じられている。

 弟子の歴史学者、三田村泰助は師匠の伝記『内藤湖南』(中公新書、1972年)を書いているが、アカデミズムに入る前のジャーナリストとしての部分が大半を占めるのは、やはりそちらの方が波瀾万丈で面白いからだろうか。

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