カテゴリー「歴史・民俗」の30件の記事

2009年12月15日 (火)

マルセル・モース『贈与論』

マルセル・モース(吉田禎吾・江川純一訳)『贈与論』(ちくま学芸文庫、2009年)

 マルセル・モース(Marcel Mauss、1872~1950年)の言わずと知れた文化人類学の古典。現代思想にも広く影響を与えたことでよく知られており、頻繁に引用されるので知ったかぶりだったが、新訳が出たのを機に読んだ。

 未開社会における贈与関係を、経済的にばかりでなく道徳的にも宗教的にも、受け取ったら(人間だけでなく神様や精霊からも)お返ししなければいけないという義務感を生じさせることで成り立つ人的ネットワークの精神的メカニズムとして把握する。このようなモラルと経済との結び付きが、現代の我々の社会でも隠れた形で機能しているのではないか? こうした問題意識を踏まえて、太平洋諸島やネイティブ・アメリカンの民族誌的事例の検討を通して贈与制度の理念型を抽出し、その名残をローマ、古典ヒンドゥー、ゲルマンなどの古代法からも読み取るという構成。

「与えることを拒み、招待することを怠けることは、受け取ることを拒むのと同じように、戦いを宣言するに等しい。それは結びつきと交わりを拒むことである。さらに、人に与えるのはそれが強制されているからであり、受贈者は贈与者に属する物すべてに一種の所有権を持つからである。この所有権は霊的な絆として示され、そのように捉えられている。」「これらすべてにおいて、与え、受け取るという権利と義務に対応する消費と返礼という一連の権利と義務が存在している。しかし、この対称的で対立的な権利と義務の混淆については、物──これはある程度、人に結びつく──と個人や集団──これはある程度、物とされる──との間に霊的な結合の混淆があると考えれば、矛盾は解消する。」(38~39ページ)

「…そこでは、物質的、精神的生活と交換が打算的でない、義務的な形で行われている。さらにこの義務は、神話的、想像的、あるいは象徴的、集団的な方法で表現されている。しかもこの義務は交換される物に結びついた関心という形をとる。交換される物は、交換を行う者から完全に切り離されることはない。交換される物によって作られる人間の交わりや結合関係は比較的崩れない。実際に、社会生活におけるこのような象徴──交換される物に対する執着の持続──は、これらのアルカイックな類型に属する、分節化された諸社会の下位集団が互いに錯綜し、しかも、自分達が互いに義務づけられていると感じるその有様を明確に表わしている。」(93~94ページ)

「つい最近、われわれの西洋社会は人間を「経済動物」にしてしまった。しかし、今のところわれわれのすべてがこうした存在になっているわけではない。大衆においてもエリートにおいても、一般的に行われているのは純粋で非合理的な消費である。それはわれわれの貴族階級の残存の特徴である。ホモ・エコノミクスは、われわれの後方ではなく前方に見出される。道徳的な人間、義務を果たす人間と同様に、そして科学的に思考する人間、理性的な人間と同様に、長い間、人間は他のものを有していたのである。人間が計算機によって複雑化された一つの機械になってしまってから、まだそれほど時間が経過していない。」(279ページ)

 全体的な「社会」関係の中のあくまでも一つとして機能していた「経済」が突出して、それが市場システムという形であたかも一元的に「社会」を動かす原動力になっているかのように見えるのは、あくまでも「近代」という人類史の中では特殊な一時代のことに過ぎない。このように現代の市場経済を相対化していく視点はカール・ポランニーが展開した経済人類学と同じである(例えば、『経済の文明史』をこちらで取り上げた)。

 例えば、ポトラッチが取り上げられているが、面子や権威の維持という社会的ステータスに関わる動機から財の破壊=消費→功利計算に基づいて利益最大化を図るホモ・エコノミクスとは異なるロジックをとる。つまり、経済活動は社会的慣習に動機付けられていることを示している点では、ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』(→こちら)とも比較できる。見方を変えれば、ホモ・エコノミクスという人間類型そのものが現代の我々に特有な思考習慣に過ぎないと相対化することができる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月13日 (日)

カール・ポランニー『経済の文明史』

カール・ポランニー(玉野井芳郎・平野健一郎編訳、石井溥・木畑洋一・長尾史郎・吉沢英成訳)『経済の文明史』(ちくま学芸文庫、2003年)

・経済人類学者カール・ポランニー(Karl Polanyi、1886~1964年)のエッセンスとなる10編を集めた論文集。
・人類史を広く見渡してみたとき、市場経済は決して普遍的なのではなく、19世紀以降の近代に特有なシステムに過ぎないのではないか? こうした問題意識から文化人類学や歴史学の博識を総動員して文明論的な枠組みの中で経済史を捉える。いま我々がその中に生きていて自明視しがちな市場経済というシステムを相対化していく視点が有益である。

・もともと広い意味での「社会」の中に「経済」は組み込まれていたが、19世紀以降、「経済」が離脱→価格調節機能によって自律的となった市場経済が逆に「社会」全体を動かすようになった(すなわち、“大転換”)。本来、商品ではあり得なかった労働・土地・貨幣そのものを商品取引の対象とみなす擬制の成立→市場の価格システムの中に投げ込まれたことが契機。
・経済の変遷について「分析用具として提示する概念は、経済が、社会との関連で、社会に埋め込まれた(エンベッデッド)状態にあるか、社会から離床した(ディスエンベッデッド)状態にあるかという区別である。十九世紀における離床状態の経済は、社会のほかの部分、とりわけ政治システムと統治システムから分離独立していた。市場経済では、物的財の生産と分配は、原則として、価格を決定する市場の自動調節的なシステムをとおして行われる。それはさらに、それ自身の法則、すなわち、いわゆる需要供給の法則に支配され、飢えの恐怖と利得の希望に動機づけられる。個人を経済に参加させるような社会的状況をつくり出すのは、血縁関係や、法的強制や、宗教的義務や、忠誠心や、魔術ではなく、私企業や賃金システムなど、特定の経済制度である。」「以上はすなわち経済の領域が社会のなかで独立している十九世紀型経済である。それは貨幣的利得の衝動をその弾みとしているのであるから、動機的にも特異な経済なのである。それ自身の法則をもつオートノミーに到達している。そこには、好感手段としての貨幣の広範な使用に端を発する、社会から離床した経済の極端な事例がみられるのである。」(265~266ページ)
・「このような概念は、人類学と歴史学の事実に合致しない。交易は、ある種の貨幣使用と同様に、人類と同じくらいに古い。経済的な性格をもった出会いは古くは新石器時代から存在したと考えられるが、市場は歴史上、比較的最近まで重要性をもつにいたらなかったのである。市場システムを構成する唯一の要素である価格決定市場は、どの記録をみても、紀元前一千年紀以前にはまったく存在しなかった。」(385ページ)

・市場経済が「社会」から離床した際に、人間行動の動機も経済的なものに一元化されてしまった。「任意の動機を選び出し、その動機を個人の生産活動の誘因とするような生産組織をつくってみると、その特定の動機に全面的に心を奪われた人間像がそこに現出する。動機は宗教的なものでも、政治的なものでも、美的なものでも、さらには、誇りや、偏見や、愛や、嫉みでもなんでもよい。そうすると、人間は本質的に宗教的な、あるいは政治的な、あるいは美的な、あるいは高慢な、あるいは偏見をもった、あるいは愛にあふれた、あるいは嫉み深い人間として現れてくるだろう。それ以外の動機は、生産活動という重大事にかかわりがないことになるから、影が薄くなり、関係が遠くなる。いずれにせよ、いったん特定の動機が選ばれると、それが「真の」人間を表すことになる。」…「しかし、われわれがここで関心をよせるのは、現実の動機ではなく、仮想された動機であり、仕事の心理(サイコロジー)ではなくて、仕事の思想(イデオロギー)である。人間の本性の見方の基盤は前者にあるのではなくて、後者にある。というは、ひとたび社会がその成員に対して一定の行動を要請し、現行の制度によってその行動をほぼ強制することができるようになれば、人間の本性についての意見は、現実がどうであろうと、その理想型を反映することになるからである。そこで、飢えと利得が経済的動機と定義され、人間はそれにしたがって日常生活の行動をすると考えられるようになり、その他の動機は日常生活から切り離された、この世ばなれした動機であるかのようにみられたのである。そうなると、栄誉と誇り、市民的責務と道徳的義務、自尊心や共通の礼儀さえも、生産には無縁のものとされ、「理想」という意味ありげな言葉でまとめられることになった。」(62~64ページ)

・現在において自明視された視点で過去を意味づけてしまう“視圏(パースペクティヴ)の逆立ち”。古代史に「市場」の存在を見出そうとする際には「われわれは危険な落とし穴を注意深く避けなければならない。機能が非常に異なっていながら、発展した市場条件下における経済活動が、市場前の条件下における同様な活動に類似することがありうるからである。実は典型的に原始的な、あるいは古代的な現象に直面しているにもかかわらず、歴史家が時にこれを驚くほど「近代的」現象とみてしまうことがあった。これは「視圏の逆立ち」とでも呼ぶべきものである。市場以前と市場以後を区別することが、この「視圏の逆立ち」を避けるのに役立つであろう。」(234ページ)
・具体例:古代バビロニアにおける交易は市場活動ではなかった。アリストテレス経済論の読み直し→自給自足的共同体の維持という当時の社会的要請から価格設定の考え方を彼は示していたが、後世の史家はそれを単にアリストテレスの誤謬と片付けて問題にしてこなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 3日 (火)

ベネデット・クローチェ『思考としての歴史と行動としての歴史』

ベネデット・クローチェ(上村忠男訳)『思考としての歴史と行動としての歴史』(未來社、1988年)

・「あらゆる歴史的判断の根底に存在する実践的欲求は、あらゆる歴史に「現代史」としての性格を与える。というのも、そこに含まれている諸事実がたとえ年代的にどれほど古く見えようとも、それはつねに現在の欲求と状況とに関わっている歴史なのであり、それらの諸事実がその鼓動を伝えるのは現在の状況のなかにおいてであるからである。」…「わたしはそれらの歴史を文章にしてあるいは頭の中で書くことによって、わたしが現在置かれている状況の歴史を書いていることになるのである。」

・アーノルド・トインビーが、大学でトゥキュディデス『戦史』の講義をしていた時に第一次世界大戦の勃発を目の当たりにして、はじめてトュキュディデスの受けたであろう衝撃に思い至ったというエピソードを思い起こす。この体験が彼の比較文明論のきっかけになったというのは有名な話。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月29日 (木)

ピーター・バーク『近世ヨーロッパの言語と社会──印刷の発明からフランス革命まで』

ピーター・バーク(原聖訳)『近世ヨーロッパの言語と社会──印刷の発明からフランス革命まで』(岩波書店、2009年)

 ある国民国家に属する者は誰もが同じ言葉を使わねばならない、そうした考え方が確立したのはフランス革命期であったというのはもはや通説か(たとえば、田中克彦『ことばと国家』[岩波新書、1981年]を参照)。言語と共同体との関係に焦点を合わせた本書も基本的にこの枠組みに立つが、同時にそれ以前(フランス革命以降を“近代”とするなら、それ以前の“近世”)からの言語形態や民族概念における連続的かつ複雑な因果関係に目を向ける。“共同体”や“民族”というのも定義の非常に難しい言葉だが、そこに込められた「われわれ」意識の一つの指標として機能する言語の役割を歴史的に検討していると言えるだろう。ヨーロッパ諸語を中心に豊富な具体例を盛り込みながら、多様な言語のせめぎ合いを描き出しているところが興味深い。

・ラテン語から俗語へと遷り変わるダイナミズムの描写が本書の骨格。
・ダイグロシア(社会階層的分離言語)としてのラテン語:エリートの使用、権威、特定の国の言語ではないという中立性→外交上の国際語。日常生活からの乖離感→普遍性。伝統の自覚→死者・生者をひっくるめた共同体の一員という感覚。
・宗教改革→日常語で典礼を行う→宗教領域と日常生活との距離を縮めた。
・エラスムスは文人エリートの世界に向けて意見を発表するためにラテン語を選び、ルターは普通の階層を対象にメッセージを送ろうとしたのでドイツ語を選んだ。
・正統派からの反発があったためラテン語には新しい思想や事物を表現する語彙がなく、また職人層が科学的議論に加わるようになった→学術語としてのラテン語の衰退。

・俗語の広がり→それぞれの言語において標準化が必要となった。①空間的均質性。②時代を超えた固定性(→アカデミーの設立)がないとラテン語に匹敵する権威を持ち得ない。
・「俗語の標準形とは、新たな共同体の価値を表現するものだった。その共同体とは、ラテン語の学識文化だけでなく地方の民衆的な方言文化とも異なる新興勢力であり、俗人エリート層の民族的な共同体であった。」(124ページ)
・俗語への翻訳→抽象的な表現に堪えるかどうか?

・俗語の標準語化は印刷本の登場以前から始まっていた。印刷はこうした変化の原因というよりも触媒としての役割。
・「標準語化は、意図的な言語計画に多少は負うところがあったが、国語の統一についてはいえば、印刷媒体や、宮廷や都市の興隆といった、人的な規制の及ばない力が果たしたところのほうがむしろ大きかったと言えるように思う。」(152ページ)

・ピジン語:母語話者を持たない言語で、異なる言語共同体の人々が互いのコミュニケーションのため簡略化された言語。クレオール語:そうしたピジン語が母語話者を獲得して複雑化した言語。
・近年、グローバリゼーションにおける英語の各言語への浸透が指摘されるが、地球規模における言語の混合はすでに近世には頻繁に生じていた(具体例を提示)。
・近代言語学習への関心の高まり→それは利害関係ばかりでなく、ラテン語の衰退により相互学習の必要に迫られた。

・フランス革命以降、「民族国家」生成の道具としての言語。意図的な言語政策はこれ以降。
・初頭義務教育で俗語を用いられる。「学校では、地元の共同体やその言語についてはないがしろにされ、国語と国民国家が学ばれたのである。」「言語は政治的自治の象徴、政治的戦いの武器となり、学校がその舞台になることもあった。」(237~238ページ)
・19世紀は民族主義と結び付いた言語的な純化主義運動が活発。アカデミーではなく政府が直接介入。

・翻訳では、英語経由音ではなく現地語音による表記に注意が払われている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月28日 (水)

喜安朗『パリ──都市統治の近代』

喜安朗『パリ──都市統治の近代』(岩波新書、2009年)

 サブタイトルから分かるように、ゆっくりカフェオレでも飲みながら、というタイプの本ではない。現在のパリの街並はナポレオン三世の時代のセーヌ県知事・オスマンによって原型が作られたわけだが、本書が描くのはそこに至るまでのいわば前史である。絶対王政からフランス革命を経て第二帝政まで、社会思想の担い手としての民衆生活史に主たる関心が置かれている。

 当初は、王権or政治権力と結び付いた中間団体としての社団(同業組合等)が一定のコントロール→人口の増加・流動化→不安定化→社団の解体→民衆レベルでアソシアシオンの生成→民衆蜂起の主体となる。19世紀半ば、パリの民衆蜂起鎮圧とアルジェリア征服とが同時進行していた(パリの貧民をアルジェリアに送って植民させる計画のあったことも指摘される)→フランス植民地帝国の首都となり、それはナポレオン三世の登場、オスマンによるパリ改造と軌を一にしていたと結ばれる。“ポリス”に焦点が合わされるが、昔は警視が街にとけこんで仲裁役のような役割を果たしていたというのはちょっと興味深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月27日 (日)

金関丈夫『龍山寺の曹老人』

 戦後間もなく、天皇制の呪縛から解き放たれたのを機に、日本民族起源論が活発になった。江上波夫、岡正雄、八幡一郎、石田英一郎の座談が有名だが、こうした一連の議論の中で金関丈夫の名前も見えたことが、私の金関についての第一印象であった。本職は解剖学だが、京大で清野謙次から人類学、浜田青陵から考古学の手ほどきも受けている。ヨーロッパ留学を経て、台北帝国大学医学部に赴任、森於菟(鴎外の長男)と共に解剖学教室の設立にあたった。以前に岡書院発行の民族学・考古学雑誌『ドルメン』の編集に関わった経験もあり、池田敏雄から『民俗台湾』創刊の相談を受けたときには、肩のこらない学術雑誌という趣旨で『ドルメン』をモデルにするよう提案している。

 金関のジャンルを越えた教養の幅広さはよく知られている。彼の著作で入手しやすいのは『木馬と石牛』(岩波文庫、1996年)であろうか。小さい頃からの文学好きで、古今東西の説話・伝説の類を比較考証するこの本にも、やわらかい学術エッセイとしての軽妙な筆さばきが冴えている。

 日本の敗戦後、金関は留用されて肩書きは台湾大学教授となった。これからどうなるものやら、と日本人がみな浮き足立つ中、金関は「こんなときこそ勉強するのが一番だ、それがイヤなら小説でも読むことだな」と話していたらしい(池田敏雄「敗戦日記」『台湾近現代史研究』第4号)。そうした不安な状況下に書いた連作探偵小説が『龍山寺の曹老人』である(金関丈夫『南の風』[法政大学出版局、1980年]所収)。探偵小説好きが昂じて自ら執筆した医学者としては他に木々高太郎(林髞)も思い浮かぶ。金関は戦争中に『船中の殺人』も出版している(私は未見)。探偵小説に詳しい評論家の尾崎秀樹は当時、台北の中学生で、父・秀真(ほつま)の紹介で金関の研究室を訪問したこともあり、『船中の殺人』を買って読んだことを回想している(『えとのす』第21号)。なお、金関は林熊生というペンネームを用い、西川満主宰の『文藝台湾』同人名簿にもこの名前で載っている。

 龍山寺は台北・萬華の古刹。曹老人は日がな一日龍山寺の境内に座っているだけだが、物事はすべてお見通し。ある意味、ミス・マープルのような感じか。推理をめぐらす時は眼光鋭く、終わるとまたぼんやりした表情に戻る。口コミ・ネットワークで街の情報にも精通している。台湾の寺廟に行くと、何するともなくボーっと座っている老人を見かけることがあるが、ひょっとしたら、うかがい知れぬ智慧を秘めているのかもしれない、という着想があったのだろうか。堂守の范老人はワトソン、いつも事件を持ってくる陳警官はレストレード警部といった役回り。最後に関係者一同を集めて謎明かし、「犯人はお前だ!」(とは言わないが)という感じにしめくくられるのもセオリー通り。心霊写真や霊媒(台湾の関三姑)といった道具立ては、心霊現象に関心を寄せていたコナン・ドイルを連想させる。金関のことだから、しっかり読んでいたはずだ。

 『民俗台湾』第29号(昭和18年11月)では、媳婦仔の特集が組まれている。息子の嫁にする前提で他家から幼女をもらい受け、事実上、奴隷働きさせる習俗である。連作中の一篇「観音利生記」は媳婦仔の少女を救い出す話だ。

 民俗採集は社会的慣習のありのままを記述するというだけでなく、その慣習にはらまれた不合理な要素も際立たせる。少女作家・黄氏鳳姿は萬華の習俗を作文につづりながら、自分の身辺の中世的に暗い部分が目に付いて、書くのをやめたいと思ったところ、池田敏雄から説得されたことを回想している(池田鳳姿「『民俗台湾』の時代」、復刻版『民俗台湾』第五巻[南天書局、1998年]所収)。植民地社会における習俗のマイナス面の改善を図ることは“文明化”なのか、それとも“植民地化”なのかという議論はなかなか難しいところだ。“文明化”という大義名分の下、政策当局者の統治合理化という思惑による強制に転化するおそれが常にある一方で、気付いてしまったものを放っておくわけにもいかない。ただし、『民俗台湾』の編集スタンスとしては、“皇民化”という形での台湾社会に対する日本文化の不合理な押し付けに反対しており、媳婦仔のようなマイナス面に向けられた視線にはある種のヒューマニズムが動機として息づいていたことには留意しておく必要があるだろう。『龍山寺の曹老人』は娯楽小説ではあるが、台湾生活の中での見聞が織り込まれている点でも興味深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月21日 (月)

『民俗台湾』の評価をめぐって

 植民地統治期台湾における広い意味での人類学的調査の経緯を大雑把にまとめると、第一に、後藤新平の発案による旧慣調査から始まる。統治を実効的ならしめるにはまず実態をありのままに把握する必要があるという政策立案上のプラグマティックな発想が背景にあり、後藤の「ヒラメの眼をタイの眼にすることはできない」という言葉は有名だろう。漢族系社会の調査が中心であり、織田萬・岡松参太郎など法律専門家の名前が見えるのが特徴である。山地の原住民系社会にはまだ警察による実効支配が及んでいなかったが、第二段階として、そこに先鞭をつけた伊能嘉矩、鳥居龍蔵、移川子之蔵(台北帝国大学、土俗・人種学)、浅井惠倫(台北帝国大学、言語学)、鹿野忠雄などが続く。こちらは純粋に学術志向で、政策的思惑とのつながりは薄い。ところで、この間、漢族系社会の民俗調査は進んでおらず、第三段階として、その空白を埋めるべく金関丈夫(台北帝国大学、解剖学)・池田敏雄らを中心に『民俗台湾』が創刊された(1941年)。なお、西川満の『文芸台湾』にも民俗部門があり、当初は池田・黄得時・楊雲萍などの名前も見えたが、こちらはむしろ文学志向に偏っていたため池田らは離れていく。

 1930年代後半から皇民化運動が始まり、さらに戦時体制一色となるにつれて台湾伝統の習俗が消えつつある、それを何とか記録しておかねばならないという焦燥感が『民俗台湾』の動機としてあった。その点では皇民化運動には批判的であり、編集実務を取り仕切っていた池田の身辺には特高の影もちらついていたらしい。それでも存続できたのは、当局から言質をとられないよう誌面構成に苦心していたこと、金関の台北帝国大学教授という官の権威を前面に立てたこと、総督府側にガス抜きの思惑があったかもしれないことも指摘できるだろうか。台湾人からの寄稿も募り、調査者=日本人、被調査者=台湾人という対峙的構図ではなく、台湾人自らによる調査を促したことも特筆される。後に池田敏雄夫人となる少女作家・黄氏鳳姿が一例だが、病躯を押して『民俗台湾』に寄稿し続けた黄連發という人の執念も目を引く。

 『民俗台湾』同人の自己評価はどうであったか。たとえば、中村哲(台北帝国大学、憲法学・政治学)は「『民俗台湾』というものは、政府側の天皇信仰を民間祭祀に代って押しつけようとしたことに反対したのです。それで、この雑誌が土着文化や土地のナショナリズムのはけ口になった。そういうつもりで私はやった。金関さんもひろいヒューマニズムを意識していた」と語っている(座談会「中村先生を囲んで」『沖縄文化研究』第16号、1990年3月)。池田敏雄は「わざわざ民俗資料の蒐集記録をいいたてたのは、当時台湾人の伝統文化をすべて否定し、破壊して日本化を強制しようとする総督府の皇民化政策と、これを支持する風潮に対する批判があってのことであった。したがって『民俗台湾』は、総督府当局からみれば、皇民化運動と相いれないものであり、決して歓迎すべき雑誌ではなかったのである」と記す(池田敏雄「植民地下台湾の民俗雑誌」『台湾近現代史研究』第四号、1982年10月)。さらに池田は、台湾人の同人であった黄得時(戦後、台湾大学教授)の次の回想を引用している。「ある人から、民俗台湾は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その点についてはあえていう、ぜったいにそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗台湾が総督府当局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」(同上)。

 なお、『民俗台湾』創刊趣意書(金関の執筆)にあった「台湾旧慣の湮滅を惜しむのではない」という文言をとらえて楊雲萍(戦後、台湾大学教授)が「冷たい」と非難するという一悶着があり、後述する戦後の『民俗台湾』批判ではこの一件が必ず取り上げられる。しかし、皇民化運動という時代的空気の中、当局から言質を取られないよう多少は筆も曲げねばならなかった事情を忖度せねばならないし、その後、非難したはずの楊自身も『民俗台湾』に寄稿している。楊の故郷・士林の特集が組まれて楊はホスト役として『民俗台湾』関係者を招待している。彼らは個人的に面識があったわけだから、誌面には表われないところで話し合って双方の納得は得られていたと考えるのが自然だろう。戦後になって楊は「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」と記している(『えとのす』第21号、1983年7月)。

 1990年代後半以降、『民俗台湾』に批判的な論考が現われ始める。嚆矢を成すのが川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)である。『民俗台湾』掲載の柳田國男を囲む座談会における柳田の発言から、日本を軸とした中央‐周縁のネットワークの中で植民地民俗学を構想する意図を読み取る。その上で、出席者の一人である金関にはレイシズム的な発想があった、『民俗台湾』は『文芸台湾』と同種のエキゾティシズムに惑溺していた、と論じている(なお、本書で示された視点への賛否はともかく、戦時下における民俗学・民族学・人類学の諸相を大きな視野で捉えて議論の一つのたたき台を提示している点ではやはり労作だと私は思っている)。

 小熊英二「金関丈夫と『民俗台湾』──民俗調査と優生政策」(篠原徹編『近代日本の他者像と自画像』[柏書房、2001年]所収)も金関には解剖学者としての優生思想があったと指摘、その政策的思惑を台湾人寄稿者はおろか池田・国分など良心派日本人にすら隠していたのだ、と論じている。日本の植民地統治における優生思想批判の意図は理解できるのだが、そこに金関を結び付ける論理立てがあまりにも強引すぎる(小熊論文の推測の強引さについては後述の坂野論文も注で指摘している)。金関の趣意書に「冷たさ」を嗅ぎ取った楊雲萍の直観は正確だったと言うのだが、楊自身がその発言を撤回していることは前述の通りである。台湾人寄稿者は利用されただけ、という言い方がされるが、たとえば病死した黄連發への金関による追悼文には彼への尊敬の気持ちが出ていて、少なくとも私はそのような断定にためらいを感ずる。なお、『民俗台湾』が台湾漢族のナショナル・アイデンティティ確認の機能を果たしたという指摘は、先に引用した中村哲の発言と符合している。ただし、小熊は「意図せざる結果だった」と消極的な位置付けに弱めているのだが。

 坂野徹「漢化・日本化・文明化──植民地統治下台湾における人類学研究」(『思想』第949号、2003年5月)は科学史の立場から「他者」を「文明化」する人類学者の態度に着目する。たとえば日本による植民地化以前、原住民に対しては「生蕃」「熟蕃」と華夷秩序に基づく区分けがなされていたが、それに代わって全島レベルで「文明化」さらには「皇民化」が進められた。それは、普遍的な「文明化」なのか、それとも特殊な「日本化」だったのか?と問題提起をする。『民俗台湾』については、「文明化」理念の中に「皇民化」=他者への植民地化暴力がはらまれている矛盾を隠蔽したと指摘する。

 どんなに客観性を標榜したとしても、観察する者/観察される者という非対称的な関係性そのものがある種の権力性・暴力性を帯びてしまう。そこに無自覚であってはならないと反省を促した点でポスト・コロニアルの議論は有益な視点を示している。ただし、『民俗台湾』をめぐってこれまで提起されてきた「大東亜民族学」の序列意識、植民地統治における優生思想、「文明化」言説に内在する「植民地化」、それぞれ考えねばならない論点ではあるのは確かなのだが、どれもテーマ設定初めにありきで、当事者の生身の葛藤が無視されるきらいがある。川村、小熊、坂野論文のいずれもが『民俗台湾』創刊趣意書に対して楊雲萍が「冷たい」と反発したことを取り上げているのだが、彼らの議論の進め方そのものにも欠席裁判の冷たさ、傲慢さをどうしても感じてしまう。

 川村書を読んだ国分直一は「『民俗台湾』の運動はなんであったか──川村湊氏の所見をめぐって」(『月刊しにか』第8巻第2号、1997年2月)を寄稿した。そこには師匠として尊敬する金関が不当に貶められているという苛立ちが行間からにじみ出ているが、実直な性格の国分はそれをあらわにはしない。むしろ注目すべきなのは、上下の優劣関係のない東アジアの比較民俗学を目指すべきだという川村の主張に共感を示しているところだ。国境を越えた広がりを持つ先史文化の民族考古学的探求に一生を捧げた国分の問題意識がまさにそこにあったからに他ならない。

 呉密察「『民俗台湾』発刊の時代背景とその性質」(藤井省三・黄英哲・垂水千恵編著『台湾の「大東亜戦争」──文学・メディア・文化』[東京大学出版会、2002年]所収)は、『民俗台湾』に台湾の伝統習俗消滅への危機意識、それを記録しようという熱意のあったことを確認し、国分の川村への反論も当然だとする。他方で、それは皇民化政策の時局的転換のすき間をぬって登場し得たものであったと指摘。川村が「大東亜民俗学」と問題提起をした以上、これを避けて通ることはできないと結ぶ。

 ある学知的構造は一人の人間の主観的な情熱によって容易に動かせるものではない。その中に組み込まれた者は、自覚的にせよ、無自覚的にせよ、構造的加害者として一律に断罪されねばならないのだろうか? 三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」(貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収)、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号、2006年3月)は植民地主義と人類学の関係という問題意識を踏まえて『民俗台湾』をめぐるこれまでの議論をレビュー、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と問いかける。『民俗台湾』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自体が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい。「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」という指摘には共感できる。総じて三尾論文の視点が私には最も説得的に感じられた。

〔追記〕『民俗台湾』の全体像を知りたい場合は(復刻されているのでこれを読むのが一番なのはもちろんだが、私も時間がとれないのですべて熟読したわけではない)、陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)がよくまとまっている。第一部では寄稿された論文・随筆のすべてを検討した上で全体的な傾向や特徴が論点ごとに整理され、第二部は編集の中心となった金関丈夫、池田敏雄、立石鉄臣、中村哲、国分直一の人物論となっている。日本語で書かれているが、台北の出版社なので入手が面倒かもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月20日 (日)

移川子之蔵という人

 移川子之蔵という名前を見てすぐにピンとくる人はどれくらいいるだろうか。台北帝国大学土俗・人種学講座の創設者である。私は学生のころ考古学に関心があったこともあって名前くらいは見覚えがあったが、勝手に“いがわ・しのぞう”などと読んでいた。正確には“うつしかわ・ねのぞう”と読む。ところが、本人はローマ字でサインするときUTSURIKAWAと書いたという。アメリカ留学中、日本から来る書簡の宛名がたいていUTSURIKAWAとなっており、それを見たアメリカ人からもそう呼ばれて、何となく定着してしまったらしい。細かいことにはこだわらない、おおらかな人だったようだ。

 おおらかと言えば、こんなエピソードもある。東大で開催された第一回人類学会・民族学会連合大会で特別講演を行なったとき、所定時間を平気で1時間以上もオーバーした。題目は「未開民族における時の観念について」。身を以て実例を示したのかと語り草にもなった。とにかく時間を守らない人で、講義には遅刻するし、列車にも乗り遅れる。原稿の締切も守らないし、その上じっくり考えて書くタイプなので、業績の割には刊行された論文点数は少ない。飄々とした人格なので、それでも許されていた。

 移川の事蹟については、馬淵東一「移川先生の追憶」(『馬淵東一著作集第三巻』[社会思想社、1974年]所収、初出は『民族学研究』第十二巻第二号、1947年)、宮本延人「私の台湾紀」第一~十六回(『松前文庫』第三十~四十五号)、国分直一「移川子之蔵──南方民族文化研究のパイオニア」(綾部恒雄編著『文化人類学群像[3]日本編』[アカデミア出版会、1988年]所収)を参照した。宮本は慶應義塾大学での教え子で移川の台北帝国大学赴任にあたり助手として同行(戦後は東海大学名誉教授)、馬淵は台北帝国大学での唯一の弟子である(戦後は東京都立大学名誉教授)。

 移川は1884年、福島県で生まれ、中学卒業後、アメリカに留学。イリノイ大学、シカゴ大学、ハーバード大学で学ぶ。当初の志望は美術・建築だったが、民族学・人類学に変更した。「僕はイマジネーションが多すぎるせいか、自分の設計した建築は倒れそうな気がして」と語っていたらしい。ハーバードでは南太平洋の民族文化の専門家として名高いディクソン(Roland B. Dixon)の指導により“Some Aspects of Decorative Art of Indonesia”で博士号を取得(この博士論文には後年もしばしば手を入れて推敲を重ねていたらしいが、公刊はされなかった)、ハーバードの海外留学生として東南アジア・東インドに派遣された。

 1919年に帰国したが、当時の日本には人類学で職はない。東京商科大学で英語を教えていたが、総長の福田徳三が訪米中に移川の評判を聞いて慌てて彼を教授にしたというエピソードを宮本は記している。慶應で人類学の講義を持ったが、1928年、台北帝国大学設立にあたり、土俗・人種学講座の教授として赴任する。

 土俗・人種学とは聞き慣れない表現だが、移川は自らの講座名を英語でInstitute of Ethnologyと表記した。“民族”学というと台湾の民族運動を連想させるから総督府に忌避されたという噂のあったことを馬淵は記しているが、移川は名前などどうでもいいと気にしていなかった様子である。台北帝国大学に人類学の講座が設置されたのはもちろん総督府に植民地政策の意図があったからだが、移川自身は純粋に学究肌の人で、政治的なこととは没交渉だったようだ。当初は形質人類学など自然科学分野もカバーせねばならなかったが、森於菟・金関丈夫らによって医学部に解剖学講座が設けられて移川たちは人文分野に専念できるようになった。隣接分野としては言語学の小川尚義、浅井惠倫もいたほか、学外だが鹿野忠雄も調査にしばしば同行した。

 移川は具合の悪い片足を引きずりながらも宮本・馬淵らを連れて積極的に原住民社会のフィールドワークに出かけた。台湾西岸の漢族系社会と比べて東岸の原住民社会は極めて多種多様であること、部族の系譜や移動歴を古老が詳しく記憶していることに驚き、彼らの語りを記録・整理、『高砂族系統所属の研究』にまとめた。調査行の様子は宮本の回想録に具体的に記されており、なかなか興味深く読んだ。移川たちの関心は台湾原住民と南洋民族とのつながりに重きが置かれていたが、他方で、中国大陸の江南先史文化との関わりについては積極的な発言はなかったと国分は指摘している。

 日本の敗戦後、移川は日本に引き揚げ、土俗・人種学講座は台湾大学文学院考古人類系に引き継がれた。1948年に教授としてやって来た李済は安陽(殷墟)の発掘にも携わった著名な考古学者だが、彼の博士論文「中国人の形成」もハーバード大学のディクソンから指導を受けており、移川とはいわば同門であったと記している(李済[国分直一訳]『安陽発掘』新日本教育図書、1982年)。留用という形で台湾大学に残っていた国分は、李済が「これがハーバードの先輩、プロフェッサー・ウツリカワのミュージアムか」と感慨深げにつぶやくのを傍らで聞いた。移川はいまどうしているのか?と尋ねられたが、国分も日本の様子は分からない。戦後の混乱の中、すでに移川は1947年に病死しており、国分もそのことを知らなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月19日 (土)

国分直一のこと

 国分直一『台湾の民俗』(岩崎美術社、1968年)、金関丈夫・国分直一共著『台湾考古誌』(法政大学出版局、1979年)を手に取った。前者は主に農漁村などを歩き回ったフィールドノートをもとに漢族や平埔族の民俗について、後者には台湾在留中の発掘調査をもとにまとめた論文が収録されている。台湾の先史文化を考える上で南方系の要素を強調する向きが強かったが、石包丁、黒陶、石鏃などの出土例を踏まえて大陸文化とのつながりを指摘している点に特徴がある。

 『台湾考古誌』はもちろん学術書だが、目を引くのは巻頭のカラー図版。題して「国分先生行状絵巻」。金関の筆になる。たとえば、こんなシーンがある。先史時代の生活光景を大壁画にする企画で、作画担当の立石鉄臣はモデルがいないと描けないと言い、仕方なく国分が裸になって弓矢を持ったり、木を伐ったり。酒飲みの松山和尚につかまっているシーンもあるが、写真家の松山虔三のことか。国分の遠慮がちな性格をからかいながらユーモラスに描かれた絵巻である。日付は1948年10月、国分の妻と娘宛て。国分も金関も留用という形で日本の敗戦後も台湾に残されており、先に帰国した国分の家族を安心させるために金関が描いて送ったのである。

 国分直一は1908年、東京に生まれ、その年のうちに父親が台湾の高雄に転勤したため、台湾で育った。旧制台北高校の一年上級にいた鹿野忠雄(山崎柄根『鹿野忠雄──台湾に魅せられたナチュラリスト』[平凡社、1992年]を取り上げたことがある→こちら)からの影響で民族学に関心を寄せる。京都帝国大学史学科を卒業、左翼思想に傾いていたため当局からにらまれ、逃げるように台湾に戻って台南高等女学校に勤務。その頃台南一中で教鞭をとっていた前嶋信次(東洋史、後にイスラム史の権威)や郷土史家の石陽睢と共に歴史・民俗調査を行なう。1943年、台北高等師範学校に移り、台北帝国大学医学部の金関丈夫を師と仰ぎ、『民俗台湾』にも積極的に参加した。その時のことを回想して、皇民化運動には批判的意図を持っていたこと、台湾の研究を大陸、とりわけ華南との関連につなげていこうと考えていたことなどを記している(「中村哲先生と『民俗台湾』の運動」『沖縄文化研究』第16号、1990年)。戦争中もアメリカ軍の空襲をかいくぐりながら学生たちと一緒に発掘活動に従事したことは『台湾考古誌』に記されている。

 敗戦後は留用されて編訳館に勤務(他に言語学の浅井惠倫、民俗学の池田敏雄なども)。さらに台湾大学文学院副教授となって、爆撃を受けた大学の標本を整理、考古学の講義も行なって、戦後において台湾考古学の牽引役となる宋文薫(台湾大学名誉教授)などを育成した。また、大陸から来た李済、董作賓らとも交流。1949年8月に帰国。

 戦後になっても国分は視野をさらに広げ、環東シナ海の文化的重層を掘り起こすべく80代を過ぎても旺盛に活動した。物質文化を時間・空間を超えて包括的に把握しようというのが国分の関心のあり方だが、角南聡一郎「日本植民地時代台湾における物質文化研究の軌跡」(『台湾原住民研究』第9号、2005年)は、考古学的に実測図を採用して科学的・客観的な解釈を試みたと評価、他方で、民俗学的調査では実測図を使わず従来通り写真や絵図を用いるという相違があったことを指摘。また、植民地における日本人移民の物質文化研究の先鞭を付けたとも評価する。

 なお、国分の事跡については陳艶紅「国分直一と《民俗台湾》」(財団法人交流協会、2001年)、木下尚子「國分直一がのこしたもの」(『古代文化』第58巻第1号、2006年)を参照した。国分の回想録は『遠い空』という本にまとめられているらしいが、私は未読。

 川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)が『民俗台湾』とその指導者とされた金関丈夫に批判の矛先を向けているのを読んで、国分は誤解も甚だしいと居たたまれない気持ちに駆られ、「『民俗台湾』の運動はなんであったか」(『月刊しにか』第8巻第2号、1997年2月)を書いた。エキゾティシズム趣味の西川満が主宰する『文芸台湾』でも確かに民俗をテーマとした記事が見られるが『民俗台湾』とは性格が異なること、国分自身などは台系社会をより理解するためにむしろリアリズムの張文環が主宰する『台湾文学』に親しんだこと、などを記している(三誌の違いについてはこちらで触れた)。師として尊敬していた金関への強い思い入れが行間からにじみ出ているが、遠慮がちな性格の国分らしく筆致は控えめだ。それどころか、どこにも中心を置かない新しい比較民俗学を川村が提唱しているところには共感を表明している。東アジア圏の国境を越えた民族考古学をフィールドとする国分の問題意識がまさにそこにあるからだが、彼の学徒としての実直さがよくうかがわれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月24日 (月)

ロナルド・トビ『「鎖国」という外交』、大石学『江戸の外交戦略』

 私が小中学生くらいの頃の歴史教科書には、江戸時代を鎖国で特徴付ける記述が普通だったように思う。長崎の出島や朝鮮通信使は例外扱いされた。しかし、この“例外”という表現が曲者で、当時でも海外との外交ルートはこの時代に独特な形ではあっても確固としてあったというのが現在では通説となっている。具体的には、松前氏を通して蝦夷、対馬の宗氏を通して朝鮮、薩摩の島津氏を通して琉球、長崎の出島ではオランダ東インド会社、唐人屋敷では中国商人、という“四つの口”。これらは“例外”だったのではなく、幕府の外交方針として窓口に指定されていたのである。そこには、中華的華夷秩序から離脱した、“日本型華夷観念”を見出すこともできる。

 ロナルド・トビ『「鎖国」という外交』(全集日本の歴史第9巻、小学館、2008年)は、当時の記録・説話類の分析、とりわけ図像学的な知見をもとに、当時の日本人の対外認識を読み解いていくところが非常に面白い。たとえば、ヒゲの変遷。江戸時代の国内統制政策→ヒゲと総髪をシンボルとした浪人たちを取り締まり→月代・髻・ヒゲなしという日本人の身体的特徴が定着。他方、清では漢人にも辮髪を強制、ヒゲはあり→髪の形とヒゲが“唐人”の特徴として図像的にも認識される。さらに“毛唐人”という表現にもつながる。また、富士山遠望奇譚から対外認識を読み取っていくところも興味深い。

 大石学『江戸の外交戦略』(角川選書、2009年)は、海外との接触をシャットアウトしたのではなく、国家が国民の出入国を管理・制限する体制として“鎖国”を把握。国内・対外関係の両面における安定維持を図っていた点で“国民国家”形成過程にあったと位置づける。こうした観点に基づき秀吉の朝鮮出兵から幕末に至るまでの外交的対応を概観し、“鎖国”体制においても海外の文化を摂取・成熟させていたことを指摘する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)