カテゴリー「歴史・民俗・考古」の70件の記事

2016年3月20日 (日)

王明珂《華夏邊緣:歷史記憶與族群認同》

王明珂《華夏邊緣:歷史記憶與族群認同》允晨文化、1997年
 
 約20年前に刊行された少々古い研究書ではあるが、大学院の授業で「これは必読書だよ」と言われ、慌てて図書館で借り出して通読した。著者の王明珂は中国辺境民族史を専門としており、中国でフィールドワークを行った成果も本書に反映されている。本書刊行時には台湾の中央研究院歴史語言研究所研究員、現在は院士。
 
 「華夏」とはすなわち中国人アイデンティティーと言ったらいいだろうか。「民族」概念の可塑性を理論的前提として、つまり様々な条件がせめぎ合う中で「民族」なるものが指し示す内容も不断に変化していることを踏まえて、中国人アイデンティティーの起源及び拡大の力学を考察しようとするのが中心テーマである。「中国人」なる概念がそもそも可塑的であるため、古代史において中原と辺境民族とが交錯したボーダーラインに注目し、民族学や考古学の知見を援用しながら議論が進められている。最終章が台湾の族群をめぐる議論に充てられているが、本書刊行当時の台湾社会におけるまさにホットな話題がこの研究テーマに影響を与えていたであろうことは想像に難くない。考察対象は異なるにせよ、アイデンティティーの可変性は私自身の研究テーマともつながってくるので、思わぬ収穫だった。
 
 本論とは直接には関係ない細かなことでメモ。学者は歴史の再構築を行う際に民族間の優劣をつけたがる、という文脈に付けられた注で江上波夫『騎馬民族国家』に言及している(75頁)。そこで、騎馬民族が日本へ来たという学説は、農耕民族である中国人に対する優越性を示そうとしている、と言っているのだが、果たしてそうなのだろうか? 第一に、当時の日本人は農耕民族という自己規定を持っていたわけで(天皇は稲作の祭祀者)、騎馬民族が祖先であったことを以て優越性を示そうという発想などあったはずがない。第二に、大陸の外来民族が天皇家の祖先であったとする学説は、万世一系の皇国イデオロギーを相対化する役割を果たすので、民族間の優劣という問題にはつながらない。他方で、第三に、騎馬民族説は喜田貞吉の日鮮同祖論の焼き直しという指摘もあり(鈴木公雄『考古学入門』東京大学出版会、1988年)、見ようによっては大東亜共栄圏イデオロギーに利用される可能性もあったわけだが、それは農耕民族/騎馬民族という対比とは別次元の問題である。
 
 彝族や羌族の間で、日本人と共通の祖先を持つという伝承があることは本書で初めて知った(363~366頁)。地元の研究者には語彙や風習に見られる共通性からそうした同祖論についての研究論文もあるようだ(周錫銀〈中国羌族古代文学与日本名著《古事记》之比较〉《羌族研究》第一輯、1991年:97-101 ただし、私は未見)。本書の著者は次の二点を指摘する。第一に、ひょっとしたら日本人研究者がかつてここまで来たことがあって、その時に酒の席の雑談で「君たちは日本人と似ている」といったことを軽い調子で言ったのかもしれない(戦前期日本の研究者が日本人のルーツを求めて満蒙や北アジア史研究を手掛けていたことにも注意が促される)。ただし、仮にそうした出来事が過去にあったとしても、日本との同祖論が一般的に広まった理由は何なのか? 第二点として、改革開放後、日本の優れた製品が流入するのを目の当たりにして、日本イメージへの憧れから日本人との血縁関係を強調する民族意識が出てきたのかもしれないと指摘されている。以上のことについて日本にも研究論文はあるのだろうか?

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2013年6月16日 (日)

【雑感】張良澤・作、丸木俊・画『太陽征伐──台湾の昔ばなし』

張良澤・作、丸木俊・画『太陽征伐──台湾の昔ばなし』(小峰書店、1988年)

 少々古い絵本だが、「世界の昔ばなし」シリーズの1冊。前半は原住民族の伝説を、後半は平地の漢民族の伝説を昔話風にリライトしている。台湾の主だった伝承を手軽に知ることができる。

 昔、二つの太陽があった。昼夜を問わず照り続けるため、疲れ果てた人々は、片方を弓矢で射落とそうと考えた。選ばれた勇者たちは、はるかかなた、太陽を求めて歩き続けるが、中途にして力尽きて倒れていく。太陽征伐の使命は次の世代に引き継がれ、ようやくにして射落とすことに成功した──本書の表題作は、台湾原住民の一つ、タイヤル族に伝わる伝説である。

 この話は、以前に読んだ黄煌雄《兩個太陽的臺灣:非武裝抗日史論》(台北:時報出版、2006年)という本で知っていた(→こちらで取り上げた)。黄煌雄は蒋渭水の評伝も書いており、サブタイトルから分かるように、日本統治時期台湾における民族運動史をテーマとしている。「二つの太陽」という表現には、日本という支配者=政治勢力と、台湾在住漢民族という被支配者=社会勢力と二つの太陽が台湾には輝いている、しかし二つの太陽が並び立つことはできず、いずれかが射落とされなければならない、という意味合いが込められており、これは賀川豊彦が台湾について原住民の神話を引きながら書いた文章に由来するそうだ。賀川は何度か台湾へ伝道旅行に出かけているから、その折に「太陽征伐」の伝説を耳にしたのだろうか。「太陽征伐」のモチーフそのものは、北米インディアンなどの伝説にも見られるらしい。

 パスタアイ(矮人祭)はサイシャット族に現在も伝わる祭礼だが、肌が黒く、背丈の小さな先住民・タアイにまつわる。彼らは農耕など先進的技術を教えてくれたが、悪さも過ぎたため、あるとき、皆殺しにされてしまった。タアイの霊を慰めるために行われるようになったのがパスタアイだと言われている。色黒の小人を皆殺しにしたという伝承は台湾各地にあり、例えば、そうしたヴァリエーションの一つが伝わる小琉球の烏鬼洞を私も以前に訪れたことがある(→こちら)。

 娘が鹿と婚姻を結び、それを知った父親が鹿を殺してしまったというアミ族の説話は、柳田國男『遠野物語』にも見えるオシラサマの伝承と似ている。ちなみに、台湾の人類学的調査で知られる伊能嘉矩は遠野の出身である。蛇足ついでに書くと、藤崎慎吾『遠乃物語』(光文社、2012年)は、台湾から戻った伊能と、『遠野物語』の語り部となった佐々木喜善の二人を主人公にイマジネーションをふくらませた小説である。

 台湾各地にある城隍廟に入ってみると、背高ノッポとおチビさんの二人組みの神像が印象に強く残る。七爺八爺、ノッポの七爺は謝将軍、背の低い八爺は范将軍、という。二人はもともと親友同士だったが、ある日、橋のたもとで待ち合わせたとき、七爺は事情があって戻って来れなかった。やがて大雨で川が氾濫し、友は必ず戻ると信じていた八爺はそのまま溺れ死んでしまった。そのことを知った八爺は責任を感じて自殺してしまう。こうした二人の関係は信義の象徴として神に祭り上げられた。七爺がアッカンベーしているのは首吊りしたから。八爺の顔が赤黒いのは水死したから。そう言えば、黄氏鳳姿『七爺八爺』という作品があったが、私はまだ読んでいない。黄氏鳳姿は日本統治時代の台湾でその文才を池田敏雄によって見出され、綴方教室で有名な豊田正子と同様の天才少女として知られるようになった人。

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2012年10月28日 (日)

竹内康浩『中国王朝の起源を探る』

 中国での考古学的発掘・研究は飛躍的に進んでおり、その成果は日進月歩の勢いで更新され、むかし教科書で読んだ知識もたちまち陳腐化してしまう。先日放映されたNHKスペシャル「中国文明の謎 第一集 中華の源流 幻の王朝を追う」を観たとき、夏王朝の実在を前提とした内容だった(番組を見ながらとったメモを参考までに最後に付記した)。私が気付かぬうちに夏王朝の実在が定説になっているのか、と驚いた。ただ、そのまま鵜呑みにしてよいのものか危なっかしくも感じたので、竹内康浩『中国王朝の起源を探る』(山川出版社、2010年)を手に取った。

 考古学的成果のレビューという点では本書の内容もNHKの番組とほぼ同様である。ただし、共有された知見は同じでも、文献上の伝説を考古学的知見に結びつけて比定する際の慎重さで話が全く違ってくる。

 新石器時代前期(前7000~前5000年)にはすでに穀物の栽培・貯蔵、食糧の安定供給が始まり、生活水準の向上がうかがえる。中期になると土器等の質が洗練され、また副葬品の玉器の造型からは神的な形象も見られる。各地に独自の文化圏が成立しており、南北で栽培される穀物の種類は異なる。新石器時代の後期になると地域間の相互交流が広がっていたことが文化要素の共有状況から分かっている。集落の規模が拡大、階層格差も現われ、後の「王朝」的な支配形態の萌芽が推測される。中国のシンボルたる「龍」の意匠も登場している。

 焦点となるのは、二里頭遺跡である。ここを夏王朝の王都跡と考える研究者が中国には多い。ところで中国で書かれた概説や通史で夏王朝が取り上げられるが、それは二里頭遺跡の考古学的成果ではなく、あくまでも文献上の夏王朝の記述だという。つまり、考古学的に夏王朝の痕跡が見つかったことを前提とした上で、文献上の夏王朝関連の記述を総動員して夏王朝史が詳細に再構成されるという状況にある。前2070年から前1600年まで夏王朝は実在して、それは殷・周、春秋戦国、秦の統一以降の通史につなげられていくのが中国の歴史学界では常識となっている。

 ただし、中国の学界とは異なり、日本の研究者は夏王朝実在説に必ずしも賛同していないという。理由はシンプルで、出土文字資料による確認ができていないという一点に尽きる。もちろん二里頭文化に初期国家として画期的な意義があるのは確かなのだが、注意すべきなのは、夏王朝が実在しないと否定しているのではなく、研究上の手順として文献記載の夏王朝と同じかどうかが確認できないということである。

 殷と比べると西周の存在感は希薄らしい。殷代の遺物の発見範囲の方が次の西周よりも広く、殷代の文化層の上に西周の文化層が直接乗っかっているとは限らない、つまり殷の版図を西周がそのまま引き継いだとは想定しがたいという。神を媒介した権威によって統治を図った殷代に対し、西周では王不在の「共和」(前841年→中国史上、実年代を決定できる最初の年)の時代があったように王の絶対性への裏づけは乏しかったと考えられる。

 『史記』で記述された「歴史」が確かな史実であったかどうかは疑問がある。「なにより、上古以来、中国を統一的かつ正統的に支配する(日本風にいえば)「天下人」の存在が想定されているところに、もう後世の中国史のあり方が強く投影されていることが明白なのである。…各地に独自の文化が多数花開いていたというのが考古学からはむしろ明らかな事実であって、「中心と周縁」という見方すら適当とはいえない。夏・殷・周の「三代」も、それらが各時代や文化の「中心」であったと断定してよいものか、もっと慎重であってよかろう。現在みることができる文字資料では、たまたまそれらが優勢にみえているにすぎないのかもしれないからである。」(本書、5ページ)

 二里頭遺跡を夏王朝と断定するには根拠不足で、研究者の間でまだ議論が交されている背景が番組の中で紹介されなかったのは疑問に感じる。そもそも、「中華」の一体性という観念を無批判に持ち出しているのは、見ながら首をかしげていた。下手すると、現時点での国家主権をめぐるイデオロギー的思惑を古代まで遡及させる危険にもつながりかねない。夏王朝は実在したかもしれない…というところで寸止めしておいてくれた方が、考古学的ロマンティシズムをかき立ててくれて良かったように思う。

※以下は、NHKスペシャル「中国文明の謎 第一集 中華の源流 幻の王朝を追う」(2012年10月14日放送)を見ながら取ったメモを参考までに掲げておく。

・中国は多民族国家でありつつも、一つのまとまり。いつから広大なこの土地を一国としてまとめあげるようになったのか? 経済格差、価値観の多様化、そうした中でも中国を一つにまとめ上げるキーワード「華夏」。中国人が自分たちの原点と考えるのは、最古の王朝「夏」。
・紀元前2000年頃、に夏は成立。周辺国はまだ新石器時代。
・中国の源流をたどる国家プロジェクト→夏商周段代工程。夏王朝の存在を証明すること。
・夏王朝誕生前夜にはいくつも文化圏に分かれていた。夏王朝の中心があったのは河南省二里頭村と推定→発掘→巨大な宮殿が出土。トルコ石の断片→最古の龍→歴代皇帝の権威のシンボル。青銅の銅爵。人口は2万以上と推定。
・他には?→長江下流域の良渚。しかし、地層に洪水の土砂→夏王朝誕生の500年前に滅びていたことが分かった。気候変動、気温の急激な低下と洪水→各地の文化圏が衰退する中、盛んになっていったのが二里頭の夏王朝。
・史記→夏王朝の誕生に洪水説話。
・なぜ、夏王朝だけ? 4000年前の生活の痕跡→各文化圏で栽培品目が限られていた中、夏では粟や黍、小麦、大豆、水稲を同時に栽培していた。多様な栽培食物で自然災害のリスクを分散。
・二里頭周辺では、黄河、長江、淮河などの支流→各地の穀物や情報を収集できた。
・山西省陶寺村。異常な状態の大量の人骨。高貴な女性→首を斬られ、下腹部に牛の骨が差し込まれていた。叛乱?貴族への復讐でゴミ捨て場に捨てられた。
・宮殿の構造。二里頭の宮殿では、一号宮殿の南の門をくぐると、千人以上を収容できる広場、その前に王が立つ建物→特別な空間ではないか。回廊に囲まれた構造はその後の王朝(清代の紫禁城まで)の宮殿に受け継がれていた(二里頭以前にはなし→最古)。宮廷儀礼を行った。神の力ではなく、人の力で権威を示す。人間対人間という関係性に重きを置いた。霊を祀っても、それは神ではなく祖先。夏王朝から清朝まで宮廷儀礼の基本は変わっていない。家臣は、神様ではなく皇帝にひれ伏す。エジプト文明等では、まず神にひざまずくのであって、王はその化身という位置づけ。中国では、直接人に向かって礼拝。
・儀礼の開始は夜明け前。出席するのは貴族や周辺集落の首長。王の権威を示す工夫。最後に入場する王。手には、玉璋(外の文化を取り込み融合)→龍が刻まれている。黄金色に輝く青銅の銅爵。青銅のき(漢字変換できず)。各地の文化に西域から取り込んだ青銅でつくる。多くの文化圏を融合していることを参列者に誇示。身分の固定→叛乱を防ぎ、王権を安定させる。
・玉璋と同様のものが各地で出土。四川や香港など数千キロ離れたところまで。自然の力→龍と王権の融合。
・夏王朝の権威が高まり、広大な中国大陸を包み込むようになった。武力というより、文化の力=ソフトパワー。歴史上、東アジアに初めて現れた文化の核心。やがて、夏王朝は「中華」の源流とされる。
・紀元前1600年頃、殷は青銅の武器を量産して台頭→夏王朝を徹底的に破壊、夏王朝の人々の遺骨も大量に出土。しかし、宮廷儀礼の行われた宮殿だけは破壊した形跡なし。夏の宮廷儀礼を受け継いだ。社会統治システムとして魅力的だったのだろう。これがその後も、龍のシンボルと共に歴代王朝に受け継がれていく。

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2012年3月 4日 (日)

南条文雄『懐旧録──サンスクリット事始め』

南条文雄『懐旧録──サンスクリット事始め』(平凡社・東洋文庫、1979年)

・伝統的な仏教学が漢訳仏典をもとに、宗派ごとの正当性を中心に議論されていたのに対して、明治以降の近代的な仏教学は海外で新たに学びなおしたサンスクリット、パーリ語、チベット語などで原典から読み直し、宗門的な制約から離れた自由な批判的態度で歴史的・文献学的・理論的研究を進めていった。南条文雄(ぶんゆう、1849~1927年、後に大谷大学の学長)は後者の意味での先駆的な仏教学者であった。近代的仏教学草創期のエピソードがつづられた回想録で、原著の刊行は昭和2年である。
・明治10年代に選ばれて洋行、イギリスでの留学生活が本書の読みどころになるのだろう。まだ数少なかった頃の留学生仲間たちの錚々たる顔ぶれには驚くが、やはりオックスフォード大学で師事した著名な東洋学者マックス・ミュラーのもとでサンスクリットを学んだときの学問的交流が興味深いし、とりわけ同行したものの志半ばで夭逝した笠原研寿へのミュラーの情意をつくした追悼文が目を引いた。
・幕末維新の頃、僧兵として招集されたこと(ミュラーに提出した履歴書に記載したら、大笑いされたらしい)、もともと僧侶には苗字はなかったが、明治新政府の指示で急遽苗字を届出しなければならなくなったときの混乱などのエピソードも目を引いた。

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2012年2月11日 (土)

野嶋剛『謎の名画・清明上河図──北京故宮の至宝、その真実』

 東京国立博物館で現在開催中の「北京故宮博物院200選」も会​期がそろそろ終わりに近づいているが(2月19日まで)、行列待​ち4~5時間と聞き、おそれをなして多分行かずじまいになりそう​だ。展示の目玉は「清明上河図」。ただし、HPで確認したところ​本物の展示は1月24日までで、以降はレプリカらしい。

 野嶋剛『謎の名画・清明上河図──北京故宮の至宝、その真実』​(勉誠出版、2012年)を読んだ。「清明上河図」は北宋の張擇​瑞が描いたとされる。模本も世界中に散らばっており、張擇瑞のオ​リジナルに触発されて後代に描かれた作品も含め、この絵画の様式​的ジャンルを「清明上河図」と総称していると捉えても必ずしも間​違いとは言えない。名画の誉れが高いのはもちろんだが、題名の由​来も諸説あるらしいし、色々と分からないことも多いようだ。たか​が一幅の絵画とはいえ、そこにまつわる謎の数々はスリリングで興​味が尽きない。宮廷から盗まれては戻ってきて…と何度も繰り返された流転の来歴、絵画中に​写実された宋代の生活風景──本書はこの作品が背景に持つストー​リーを存分に語り出してくれる。著者による『ふたつの故宮博物院​』(新潮選書、2011年)と合わせて読むといっそう興味も深ま​るだろう。

 「清明上河図」は張擇瑞が北宋の徽宗(画家として有名だった皇​帝、靖康の変で金に捕まった)に献上されて宮廷の収蔵品となった​が、金によって北方に持ち去られる。王朝が代わって元代にいった​ん盗み出されたが、持ち主を転々とした末、明代に宮廷に戻ってき​た。しかし再び盗まれ、清代に三たび戻る。辛亥革命後、紫禁城に​蟄居していた溥儀の命令で弟の溥傑が持ち出し、天津の張園にしば​らく留まった後、満洲国の成立と共に新京(長春)に移転。戦後の​混乱でしばらく行方知れずとなったが、1950年、今度は瀋陽で​楊仁愷の目利きによって見つけ出される。遼寧省博物館に所蔵され​たが、1953年に北京の故宮博物院に貸し出され、そのまま故宮​博物院への所属が決められた。故宮博物院の収蔵品の大半は蒋介石​によって台湾に持ち出され、ほとんどスカスカに近い状態となって​おり、しかも中国美術の粋たる書画の一級品がとりわけ少なかった​からという事情があるらしい。

 「清明上河図」で描かれているのは当時の開封の街並みである。​文人好みの花鳥風月ではないため、中国の文化的伝統の中で言うと​決してハイクラスに位置づけられるわけではない。それでもこの作​品が長らく注目を浴びてきたのは、そこにヴィヴィッドに描き出さ​れた庶民の生活光景が見る者の眼を引き付けてきたからであろう。​本書の後半、作品中のモチーフを手がかかりに当時の料理や日常生​活も再現されているところが面白い。開封にあるテーマパークや、​CGで再現された「動く清明上河図」などに現代の中国人が興味津​々たる表情を示しているのもむべなるかな。

 本書を読んでいるうちに実物を見たくなってきた。北京に行く機​会があったら是非参観しに寄ってみよう。

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2012年1月26日 (木)

粕谷一希『内藤湖南への旅』

粕谷一希『内藤湖南への旅』(藤原書店、2011年)

 京都帝国大学の東洋史講座を創設した一人として日本における歴史学研究に大きな足跡を残した内藤湖南。ジャーナリスト出身で正規の学歴を持たない彼の登用は、官学的な東京帝国大学とは違った学風をつくり出していこうという狩野直喜の熱意による(なお、国史担当として招聘された幸田露伴は窮屈な大学生活に嫌気がさして一年でやめてしまった)。本書ではもう一点、湖南のアカデミズム入りが、夏目漱石が学者をやめて文士になったのとほぼ同時期であったことに注意を促す。ジャーナリズムとアカデミズムとの垣根が低かった明治の草創期、そうした時代だからこそ独特な個性を持った学究たちの織り成す群像劇があり得た。

 本書のテーマは内藤湖南ではある。しかし、彼その人よりも、むしろ彼にまつわる話題をきっかけに、彼と接点のあった広い意味での「京都学派」(狭義だと西田哲学の影響を受けて「近代の超克」論に関わった人々に限定されるが、本書では東洋史学も含め京大を中心とした人脈的広がりを指している)や後世の歴史学者たちにまで筆が及ぶのが特徴だ。研究内容の要約ではなく、当時のアカデミズムにおける自由闊達な雰囲気が見えてくる。脱線とは言いつつも、その脱線こそが実は面白いのだ。名前だけは知りながら図書館でほこりをかぶった学術書でしか見たことのないような大学者たちも、人となりが分かってくると見方、読み方もまた違ってくる。例えば、日本中世史の原勝郎は普段の生活では東北弁丸出しで、子供が京都弁をしゃべると殴ったそうだ。彼は『東山時代に於ける一縉紳の生活』を書いているだけに、この矛盾が可笑しい。そうしたところまでサラッと描いてしまうのは、アカデミズムの論客を次々と発掘してきた『中央公論』往年の名編集長ならではの眼力と見聞による。とりわけ小島祐馬、鈴木成高、宮崎市定などに思い入れがあるようだ。

 なお、湖南の議論を通して現代中国論にも言及しようとしているが、そこは表層的な印象論で特に見るべきものはない。

 湖南の中国史論で有名なのは、時代区分としての「近世」を宋代に求めたことだろう。最近では中国思想史の小島毅さんが再評価し、昨年話題となった輿那覇潤『中国化する日本』(文藝春秋)もこの観点に触発されているなど、ちょっと面白い状況ではある。

 中国の「近世」において中央レベルでは皇帝独裁政治が目につく一方、地方レベルにおいては「郷団」という形で自治的な共同体が形成されていたと湖南は指摘、これを「平民主義」の台頭として把握した。皇帝独裁と平民主義という二面性が「近世」中国の特徴だが、辛亥革命によって皇帝独裁は消えた。残る「平民主義」に中国のこれからの共和政治のカギがあると湖南は考えたが、実際には軍閥割拠の様相を呈して、その見通しには悲観的となる。中国人が自分たちで国づくりできないなら、日本が積極的に内政干渉すべし──現代の我々から見ると非常な暴論を彼は吐いてしまうが、彼の中国研究が当時の政治論と結びついたときの難しさについてはジョシュア・A・フォーゲル『内藤湖南 ポリティックスとシノロジー』(井上裕正訳、平凡社、1989年)で論じられている。

 弟子の歴史学者、三田村泰助は師匠の伝記『内藤湖南』(中公新書、1972年)を書いているが、アカデミズムに入る前のジャーナリストとしての部分が大半を占めるのは、やはりそちらの方が波瀾万丈で面白いからだろうか。

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2012年1月 2日 (月)

『民俗台湾』について何となく

P1020543 年末年始にかけてずっと部屋の片づけをしていたら、気になる本が色々出てくる。例えば、写真右側の陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)。台湾で刊行された本だが、日本語で書かれている。たしか、台湾大学近くの台湾史専門書店、南天書局で買った覚えがある。なお、写真左側は『思想』(聯経出版)という台湾の学術雑誌の第16号(2010年10月)で、台湾史研究の歴史を回顧する特集が組まれていたので買っておいた。

 南天書局は書店としてばかりでなく、台湾史関連の史料を復刻出版している版元としても有名で、そのラインナップには『民俗台湾』をはじめ戦前に日本語で書かれた文献も含まれている。戦後の国民党政権の時代、国史=(大陸の)中国史というイデオロギー的な締め付けがあったため、台湾史研究はおろそかにされていた。1980年代以降、台湾史研究の気運が高まるにつれて、戦前の日本人研究者が行った民俗(族)学・人類学・言語学などの調査記録が研究のたたき台として見直されたという事情がこうした復刻出版の背景としてある。

 陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』は、第一に『民俗台湾』に寄稿された内容的テーマの分析、第二に編集・運営に携わった日本人の役割を紹介することに主眼が置かれている。台湾史に関して私が興味を持っているテーマはいくつかあるが、その一つがこの『民俗台湾』をめぐる人物群像なので、何となくもう一度ページをパラパラめくり始めた(こんなことやっているから整理作業が先に進まない…)。

 『民俗台湾』は1941年7月、太平洋戦争が始まる直前の時期に創刊。当時の台湾では台湾人の日本人化を意図した「皇民化運動」が推進されており、それによって台湾古来の習俗が消え去っていくのを憂えた人々によって担われた。例えば、朝鮮半島における柳宗悦や浅川伯教・巧兄弟などのような存在にたとえられるだろうか(『民俗台湾』では巻頭言に柳宗悦の寄稿を依頼した号もある)。キーパーソンとしては、人類学者の金関丈夫(→こちらを参照のこと)、考古学者の国分直一(→こちら)、画家の立石鉄臣(→こちら)、写真家の松山虔三、とりわけ編集実務を取り仕切った池田敏雄が特筆される。池田は、後に結婚することになる教え子・黄氏鳳姿の実家を通して台北・艋舺の下町文化に溶け込んでいたほどの台湾びいき。戦後、日本に引き揚げてからは平凡社に入ったらしい。なお、黄氏鳳姿は女学校在学中に書いた作文が出版されて、綴方運動の豊田正子と比べられた人。彼女の文才を発掘したのは教師だった池田。

 『民俗台湾』の特徴としては、第一に、立石のイラストや松山の写真によってヴィジュアル的に民俗資料の記録に努めたこと。第二に、各地の台湾人からの寄稿を積極的に募ったこと。『民俗台湾』同人からは、黄得時、楊雲萍(二人とも戦後は台湾大学教授)をはじめ後に学者として名を成した人々が現われている。日本人=調査者/台湾人=被調査者という対峙的構図に陥らないように、台湾人自らによる民俗文化の記録を促していたと言える。こうしたことはその後、「台湾人」アイデンティティーの確立に寄与したという評価につながっていく。

 『『民俗台湾』と日本人』巻末に附された『民俗台湾』総目録を眺めていると、台湾史というコンテクストで興味深い人物が結構寄稿していたことが分かる。上掲の黄得時、楊雲萍、黄氏鳳姿の他、例えば作家の楊逵(→こちら)、張文環(→こちら)、呂嚇若、龍瑛宗、周金波、巫永福、呉新栄、画家の顔水龍、歴史家の曹永和、戴炎輝、社会学者の陳紹馨(新明正道に師事したらしい)、労働運動家の連温卿(→こちら)、弁護士の陳逸松、医学者の杜聡明など。一人ひとり解説していくと面倒だから省略するが、曹永和『台湾早期歴史研究』、戴炎輝『清代台湾的郷治』、陳紹馨『台湾的社会変遷與人口変遷』の3冊は台湾史研究の古典とされている。なお、当時の台湾文壇に関してはこちらで触れたことがある。

 「日本の植民地支配は良いこともした」と言ってふんぞり返るのは論外であるが、かつての植民地支配や対外的侵略といった負い目を持っている日本人の立場から現代史を考えようとする場合、「語り口」のナーバスな難しさに困惑することがしばしばある。とりわけアカデミズムにおいてポスト・コロニアルのアプローチが盛んになると、支配者/被支配者、中央/周縁といった枠組みを前提とした学知的構造そのものがはらむ知的暴力性が問題とされ、当時においては一見「良心的」な振る舞いに見えたとしても、こうした学知的構造に彼らも取り込まれていた以上、その責任は逃れがたいという見解が主流となってきた。例えば、川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)が、『民俗台湾』は柳田國男が構想した(と川村が言う)「植民地民俗学」の一環に過ぎないと断罪したのはその代表例である。

 ところで、川村をはじめとした論者は『民俗台湾』の植民地性を物語るエピソードとして、楊雲萍が金関の台湾文化への態度が「冷たい」と非難した問題を取り上げる。『民俗台湾』創刊趣意書の書き方を問題にしたのだが、「皇民化運動」という当時の時勢の中、総督府から睨まれないよう筆を曲げなければならない事情があった。その後、楊雲萍は金関と和解したようで『民俗台湾』に何度も寄稿している。彼は戦後になっても「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」(『えとのす』第21号、1983年7月)と記しているのだが、こうしたことを川村が取り上げないのは議論構成の恣意性が疑われる。また、黄得時は「ある人から、民俗台湾は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その点についてはあえていう、ぜったいにそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗台湾が総督府当局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」と語っていた(『台湾近現代史研究』第四号[1982年10月]所収の池田敏雄の回想から)。

 客観性を標榜する学問的営為そのものの中に無意識のうちに紛れ込んでいる偏見を暴き出し、その自覚を促した点でポスト・コロニアルの議論が貢献した成果は大きい。他方で、それが一つの理論として確立され、事情を問わずに一律に適用され始めると、今度は断罪という結論が初めにありきで、当時を生きた人々の生身の葛藤が看過されかねない。そうしたスタンスの研究には欠席裁判の傲慢さ、冷たさすら感じられる。当時において成立していた学知的構造の矛盾に気づいていたとしても、少数の人間だけで動かしていくのは極めて困難だ。それでも良心的に振舞おうと思った人間の主観的な情熱は、「偏見」を崩せなかったという理由において、無自覚的な構造的加害者として一律に断罪されなければならないのだろうか?

 こうした問題意識において、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」という三尾裕子の問いかけには私も共感できる。『民俗台湾』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自体が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい。「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」と指摘されている(三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」、貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号[2006年3月]を参照)。

 ややこしいことを書いてきたけど、以上の問題については、前にもこちらこちらに書き込んだことがあった。こうした観点をしっかり踏まえた上で、『民俗台湾』に集った人物群像を軸として台湾と日本との関わりがリーダブルにまとめられた本があったら読んでみたい、と思っている。たまたま見つけた本からそんな思いが改めて触発された次第。

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2011年12月19日 (月)

渡邉義浩『関羽──神になった「三国志」の英雄』、冨谷至『中国義人伝──節義に殉ず』

 三国志の中でも関羽がとりわけ「義人」として人気が高いのはなぜか? そうした問いに答えようとするのが、渡邉義浩『関羽──神になった「三国志」の英雄』(筑摩叢書、2011年)である。もちろん関羽は当初からそれなりにポピュラーではあっても、あくまでも三国志の英雄たちの中の一人という扱いに過ぎなかった。ところが、関羽の出身地は塩の産地であり、そこは塩の交易をもとに活躍した山西商人ゆかりの土地でもあったため、彼らがまず郷里の英雄として関羽を崇め始める。後代の宋や清の時代、商人への課税は軍事費を賄う上で重要な収入源であったため、商人たちの崇める者をおろそかには出来なかった。それ以上に、商人のネットワークが広がっていく中、遠隔地において商売を進める上で信頼感=義を確証することが必要になってくるが、その義を誓う場所として神格化された郷里の英雄を祀った関帝廟が位置づけられることになる。単に関羽の描き方の変遷をたどるだけでなく、関羽イメージに表された「義」の感覚が一定の社会的機能を果たしていたのが見えてきて興味深い。

 冨谷至『中国義人伝──節義に殉ず』(中公新書、2011年)が取り上げるのは、漢代の蘇武、唐代の顔真卿、宋代の文天祥。各々の時代相において逆境の中でも不屈の意志を貫き通した人物像を描く。中国的な感覚や論理におけるノブレス・オブリージュの具体例といったところか。文天祥について、科挙をトップでパスしたエリート(状元)であるが、他方で宋が敗れたという現実の中でも立て板に水の如く正論を吐き続ける彼の言葉には、元に投降した人々のやむを得ない事情を一切認めない硬さが表れており、こうした原理原則主義は受験秀才にありがちな生硬さという指摘に興味を持った。いずれにせよ、三者三様の形で、時代的価値観の中で人物的に具現化した「義」の感覚を本書は示してくれる。

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2011年11月27日 (日)

速水融『江戸の農民生活史──宗門改帳にみる濃尾の一農村』『歴史人口学で見た日本』『歴史人口学の世界』、速見融・小嶋美代子『大正デモグラフィ──歴史人口学で見た狭間の時代』

 速水融『江戸の農民生活史──宗門改帳にみる濃尾の一農村』(NHKブックス、1988年)は、江戸時代のある農村(濃尾平野の西条村)における宗門改帳を史料として人口統計を作成、歴史人口学的な研究の進め方を具体的に紹介しながら、単に人口の増減というレベルではなく、人々のライフサイクル、通婚や労働移動など江戸時代における様々な庶民生活のライフヒストリーを描き出す。トップダウンではなく、ボトムアップの視点で歴史を描く試み。ただし、宗門改帳は地域によって整備のされ方が異なるので、全国的な比較は難しいなど史料を扱う上での難点も多いので、そうした点を考慮して近似値を求める形で研究を進める。流行病、飢饉などによる人口的災厄はもちろん大きかった一方で、空間的な移動範囲は広く、場合によっては身分的移動もあったことが示され、農村に閉じ込められた「暗い」農民像とは違った姿が示される。
・都市部の人口減少率が目立つ。経済発展→人口集中があったが、他方で人口密集地は流行病などの災厄への抵抗力が弱く、また流入人口には独身者が多かった→死亡率>出生率→著者は「アリ地獄」と表現(ヨーロッパでは「都市墓場説」)。農村における人口増加→西条村の場合には出稼で村の外へ出ることによって人口抑制。つまり、農村で増えた人口が都市で死んでいって、トータルで相殺されるという仕組みになっていた。
・地主からの分家は小作農になるという形で下層への階層移動。他方で、小作農は他所へ出稼奉公に行ったり、跡継ぎがいなくなったりして家系が途絶えたケースが目立つ。階層間移動と地理的移動の組み合わせで農村人口数の安定などの作用。
・江戸時代後期、西日本では人口増大が限界を超えたが、出稼に行く大都市が近くにないため吸収先がないことによる社会不安→明治維新を動かした一因であった可能性。
・濃尾平野は綿織物業が発達した地域→人口増加、遠距離出稼の減少などによる労働供給が背景にあった可能性→「プロト工業化」の議論へつなげる。

速水融『歴史人口学で見た日本』(文春新書、2001年)は、著者自身の歴史人口学との出会いから説き起こし、宗門改帳による江戸時代の研究ばかりでなく、明治以降の事情、さらには今後の課題まで含め、これまでの研究蓄積を概観的に示す。方法論的な解説をしながら研究成果の紹介をした入門書としては、速水融『歴史人口学の世界』(岩波書店、1997年)]もあり、前者は一般読者を対象とする一方、方法論上の概念解説は後者の方が詳しい。
・ハッテライト集団:アメリカの近代技術を拒否して生活している人々で、いかなる出生制限もしない→自然出生率を知る際の指標となっている。
・興味を持ったのは、江戸時代における「勤勉革命」の指摘。江戸時代の農民は年貢や小作料を一定料以上は取られないシステム→生産力上昇による余剰分は自分のものになる→一生懸命働けばその分、生活水準も上がるため、勤勉の美徳が普及→ヨーロッパの「産業革命」(industrial revolution)ではなく、日本の「勤勉革命」(industrious revolution)。
・それから、宗門改帳からうかがえる人口・家族構成における東北日本(アイヌ・縄文時代人)、中央日本(渡来人・弥生文化)、西南日本(海洋民)の相違。
・台湾で後藤新平が実施した「臨時台湾戸口調査」を実質的に担ったのは、日本で初めて人口統計を確立した杉享二の弟子たち(共立統計学校の卒業生)で、これは中国人社会を相手にした世界初の国勢調査であったことはメモしておく。

速水融・小嶋美代子『大正デモグラフィ──歴史人口学で見た狭間の時代』(文春新書、2004年)は、大正期には人口上の重大な問題があり、史料的にも豊富であるにもかかわらず研究が少ないという問題意識。人口統計上の状態・変動に加えて、民衆の生活や意識の状況・変革も合わせてトータルな変化を描き出そうという意味でデモグラフィー=民衆誌の試み。
・第一次世界大戦後の不景気にさらされた紡績業→これまでのような「女工哀史」を続けるのか、それとも人件費の安い中国に工場を進出させるのか(在華紡)という二者択一→後者を選び、日本国内では女工の失業、中国においては利害衝突。
・結核の全国的な蔓延。
・大正7年、スペイン・インフルエンザ。
・大正3~12年にかけて高死亡率期(大正死亡危機、mortality crisis)。大正末年以降は死亡率の長期的な低下。
・江戸時代の都市は「アリ地獄」→大正期になって公衆衛生、医療設備をはじめ社会インフラの整備→都市と農村との死亡率は大正期に逆転。他方で、出生率低下の徴候→産児制限運動の広がり。
・人口転換:死亡率の低下に続いて出生率の低下が始まることで、高出生率+高死亡率の状態から低出生率+低死亡率の状態へ移行する過程。ただし、長期的な変動であり、地域差もあるので明確に把握するのは難しい。強いて言うなら、明治末期から昭和初期にかけての四半世紀の期間に起こったと言える。

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2011年7月 3日 (日)

青木正児『江南春』、中砂明徳『江南──中国文雅の源流』、司馬遼太郎『街道をゆく19 中国・江南のみち』

 江南という言葉でまず思い出すのは、青木正児(「まさる」と読む)が中国文学・文化について薀蓄を傾けたエッセー集『江南春』(平凡社・東洋文庫、1972年)。タイトルとなっている一編は、大正11年の3月から5月まで2ヶ月ばかり、蘇州・杭州・揚州・南京など江南の地に滞在した折の記録。物売りとのやりとりとか、中国人のおのぼりさんから「あの山は何か?」と尋ねられて適当な返事をしてしまったり(方言的な差異が大きいから起こり得たハプニングだろう)、気取らない筆致。他方、現地に行ってみれば夢に見たのとは相違して殺風景だったりすることもあるが、そういうところでも豊かな中国古典の知識からイマジネーションをふくらませて強引にでも何がしかの感興を引き出そうとしているところがなかなか読ませる。

 北方が遊牧民族系王朝に支配され、中華文明の正統は江南に移ったと一般に言われる。中砂明徳『江南──中国文雅の源流』(講談社選書メチエ、2002年)は、南宋の成立以降、北方から移植されて花開いた江南文化が、南北関係の中でなぜ優位になっていったのか、その過程を考察する。都市経済の発展によって社会的流動化が進み、広域的な人の動きが現れる。江南の地における美術市場の形成、出版の普及などの要因はさらに全国規模に押し広げられていく。蘇州の雅、福建の俗という対比が興味深い。

 司馬遼太郎『街道をゆく19 中国・江南のみち』(朝日文庫・新装版、2008年)は蘇州・杭州・紹興・寧波を歩いた記録。『街道をゆく』シリーズはその都度関心のあるテーマの巻を拾い読みしているが、旅の情景描写とそれぞれの土地にまつわる歴史的背景とをバランスよくたくみに織り上げていく司馬遼太郎の筆致には毎回うならされる。古代史に思いをはせ、『空海の風景』を書き上げたときに勉強した仏教史の知識も動員して、海を挟んだ日中交渉史の一端をもさり気なく描き出してしまう。一見さり気ないが、小説を書くときには、たとえば空海や最澄はどんな船に乗ったのか、それはどんな技術水準だったのか、そういったディテールにまでこだわらないとシーンが成立しない。従って事前調査も相当なもので、奥行きのある学識に裏打ちされたイマジネーションが司馬の魅力だと再確認。

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