カテゴリー「博物館・美術館・ヴィジュアル本」の44件の記事

2009年11月29日 (日)

「ロシアの夢1917─1937 革命から生活へ──ロシア・アヴァンギャルドのデザイン」展

「ロシアの夢1917─1937 革命から生活へ──ロシア・アヴァンギャルドのデザイン」展

 政治イデオロギーとしての共産主義はどうでもいいが、ロシア革命というイベントとロシア・アヴァンギャルド芸術との関わりには興味がある。既存のものをリセットして、純粋なもの、一切のしがらみを断ち切ったそれ自体で自律的な美を打ち立てよう、そうした夢と情熱が革命という政治的エネルギーと結び付き、1917年を頂点として爆発した。ただし、芸術的情熱は飽くことなく夢を追い求めるのに対して、政治は一たび権力の転回に成功するや安定化に向けて再び秩序形成を図る。夢はその下で従属するよう求められ、窒息し始める。マヤコフスキーは自殺し、メイエルホリドは銃殺され、生き残ったショスタコーヴィチはその華々しい活躍の一方で本心はどこにあったのかが謎としていまだに議論の対象になっている。

 「ロシアの夢」展は革命初期の二十年間、地上に花開いたロシア・アヴァンギャルドについての展覧会である。未来派、構成主義、スプレマティズム、無対象絵画とか言っても抽象的でなかなか分かりづらいが、これらの芸術上のコンセプトが建築、食器・家具・衣服など日用品のデザイン、ブックデザイン、ポスターなど日常の身の回りにおいて具現化されたものに焦点を合わせているのがこの展覧会の面白いところだ。

 未来派的な建築空間の再現イメージは実に格好良い。クドリン「第三インターナショナル記念塔」が風景映像にCG合成で再現されていた。鉄骨が複雑に螺旋型を成す400メートルの鉄塔の中の居住ブロックが一年で一回転するというもの。当時の技術レベルを超えていて、結局、実現不可能だったらしい。こういう無謀な建築は好きだな。ただし、夢先行、理念先行で現実から遊離している点では政治理念としての共産主義と同様だったとも言える。実用性がないという意味では、ロトチェンコがデザインした読書用のイスも座り心地が悪い。見た目はスッキリしていて格好良いのだが。

 日常生活の中へ芸術理念を融合させることで新しい生活のヴィジョンを示そう、言い換えると、一部知識人の占有物として遊離した芸術作品というのではなく民衆の全生活レベルで革命=夢を成し遂げようという意図があった。革命=夢をどのように解釈するかはともかく、この点で芸術家と政治権力との間には同床異夢の同盟関係が成立していた。さらに言うと、芸術家の視点というのは、自身の抱くイメージを表現するためあらゆる素材の動員を図る。それは、動員される側にとっては押し付けがましさともなり得るわけで、そうした意味で実は独裁者と同じ側面がある。生活=芸術を目指した世界は、そこから超越した視点(つまり、作る側としての芸術家や独裁者と同じ視点)に立って外から眺める分にはとても面白いのだが、この中で暮らしたいという気持ちにはなれない。

 ポスターやブックデザインに見られる、幾何学的なフォルムで構成されたイメージや独特なタイポグラフィーは好き。エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」のポスターは有名だ。ちなみに、これはもともと無声映画だが、後にショスタコーヴィチの交響曲をつぎはぎして音楽を付けたバージョンのビデオが会場で流されていた。どうでもいいが、私はショスタコが昔から好きで、どのメロディーは交響曲第何番の第何楽章だ、と全部言い当てられる(ああ、オタクだ)。例えば、オデッサの階段で群集が逃げまどうシーンは交響曲第11番「1905年」第二楽章。さらに蛇足だが、このシーンの乳母車が転がって緊張感を出す仕掛けはケヴィン・コスナー主演の「アンタッチャブル」でも援用されていた。

 ロシア・アヴァンギャルド関係で最近観に行った展覧会としては、「無声時代ソビエト映画ポスター展」(東京国立近代美術館フィルムセンター)と「青春のロシア・アヴァンギャルド」展(Bunkamuraザ・ミュージアム)について以前に触れたことがある。

(埼玉県立近代美術館にて、2009年12月6日まで)

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2009年11月23日 (月)

「ロートレック・コネクション」展

「ロートレック・コネクション」展

 渋谷のBunkamuraまで映画を観に行き、上映まで時間があったので寄った。ロートレック・“コレクション”かと思っていたら、“コネクション”だった。ロートレックの作品がもちろん中心ではあるが、彼に影響を与えた師匠や友人、モンマルトルに集った同時代の画家たちなどの作品を並べて展示。ロートレックの生涯を軸にして世紀末パリの歓楽街の雰囲気をうかがわせる試み。

 今までロートレックの絵を意識して観ることはあまりなかったが、筆致が軽やかでありつつも、どこか歪んでいたり、皮肉っぽかったり、そうしたところには目が引かれる。ロートレック本人の写真を見たのは初めてだった。身体的なコンプレックスが画風に反映されているのだろうか。

 展示の最後はアルフォンス・ミュシャでしめくくられていた。アール・ヌーボーのポスター画といえばミュシャが定番。ミュシャの絵は好きで、以前にこちらで取り上げたことがある。

(渋谷Bunkamura ザ・ミュージアム、2009年12月23日まで)

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2009年11月 4日 (水)

酒井駒子『BとIとRとD』

酒井駒子『BとIとRとD』(白泉社、2009年)

 大人にとっては当たり前な日常の出来事とか、他愛のない夢とかに、いちいち驚いたり、おびえたりした幼稚園の頃。そうした感じやすさを連作エピソードにした絵本。酒井さんの絵の、黒い色調をベースに輪郭のぼやけたタッチ、そこから漂う独特に淡い感傷が好きで手に取った。ボール紙の風合いが黒と相性が良いとのことで、ボール紙に直接描かれた作品が多い。この絵本もボール紙を意識した装丁になっている。私が初めて酒井さんの絵を見て一目惚れしたのはworld’s end girlfriend「The Lie Lay Land」というCDのジャケットだったが、これもボール紙の風合いを強調したつくりになっていた。

 先日、台北に行った折、誠品書店信義店5階の絵本売場をのぞいたら、酒井さんの絵本の小コーナーが設けられていた。中国語訳も出ており、台湾でもファンは結構いるようだ。

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2009年10月 8日 (木)

ウィーン世紀末展

 「ウィーン・ミュージアム所蔵 クリムト、シーレ ウィーン世紀末」展。ウィーン分離派を中心にその前後も含めて、グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカをはじめとした多数の画家たちの作品を展示。作曲家アルノルト・シェーンベルクの絵もあった。会場は日本橋・髙島屋8階展示場。昼過ぎ、職場を抜け出して行ったら、台風のおかげだろうか、ガラガラ。落ち着いて観られて嬉しい。

 お目当てはクリムト。生々しいのだけど現実的な存在感を感じさせない、あの不思議な女性像が好き。展覧会のポスターにもなっているパラス・アテネ像などものすごい迫力、だけど、金の胸当て(伝アガメムノンの出土品を思い起こすデザイン)のあっかんべーは何でしょう? クリムトというと金地(金屏風を思わせる)の背景が独特だけど、彼よりも前の時代に描かれた、やはり金地にシンボリックなモチーフを配置したイコンのような教訓画も展示されていた。28歳で早逝した弟エルンスト・クリムトの作品もいくつか展示されており、祈る幼女像はかわいらしくて目を引いた。

 分離派というと、反逆児の集団のようなイメージがあったけど、あくまでも既存の画壇では自分たちの表現ができないから別の発表場所を立ち上げたということであって、フランツ・ヨーゼフ帝も臨席したというのが意外だった。そのシーンを描いた絵も展示されている。それから、ウィーン工房が日常生活のちょっとした場面にも芸術を広めようと、日用品のデザインやポスター、絵ハガキを製作していたことに興味。

 エゴン・シーレはやはり痛々しい。自我への病的なまでのこだわりをグロテスクに表現した人物像は、観ているだけで疲れる。他の画家さんが森の静けさや夕焼けの美しさを描いた風景画を見て頭を休める。

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2009年10月 6日 (火)

立石鐵臣のこと

 立石鐵臣(1905~1980)の『台湾畫冊』(台北縣立文化中心、1996年)という本をパラパラ眺めたことがある。1996年に台北で開催された「立石鐵臣画伯紀念展」に合わせて刊行された画集である。1962年の署名入り。立石を引き立ててくれた美術評論家・福島繁太郎に捧げたものらしい。台湾での思い出を絵物語にまとめている。

 前半部分には庶民の生活光景や民具を題材とした画文が多い。かつて『民俗台湾』で「台湾民俗図絵」として連載されたものである。立石は金関丈夫、池田敏雄、松山虔三、国分直一、中村哲らと共に『民俗台湾』の編集に携わっていた。連載時は白黒の木版画だったが、『台湾畫冊』では水彩画に描き直されている。

 赤、黄、緑、青とモザイクのようにくっきりした色遣い、とりわけ赤レンガ家屋の色合いが鮮やかだ。素朴で力強く、しかしのびやかに描かれた線は、必ずしも写実的ではないのだが、どこか人々の雰囲気をしのばせる温もりがある。立石は台北帝国大学理農学部嘱託として昆虫の標本画を描いていて、細密画はもともと得意ではあるが、見た目の正確さよりも感じ取ったものをこのような筆致で描き出しているのか。ただし、大雑把そうに見えても、たとえばお店の描写などは細部までしっかりと描きこまれている。

 『台湾畫冊』の後半は、日本の敗戦後も留用という形で台湾に残留して暮らした日々を描いている。編訳館での仕事ぶりや、お向かいに越してきた中国人軍人との交流。立石と付き合いのあった画家・南風原朝光の兄で医師の南風原朝保が引き揚げることになり、携行できる荷物に制限があったため家財道具を置いていかねばならず、立石がその売りさばきを引き受けたシーンもある。当時、日本人の引き揚げに伴ってにわか仕立ての“骨董市”があちこちに現われ、結構掘り出し物が安く入手できたことはよく聞く。立石が日本人形を「安いよ、安いよ」と売ったあと、見ていた日本婦人が寄ってきて「あれは私が作った人形です」と言われ、随分と後味の悪い思いをしたとも記している。

 金関丈夫は、南風原朝保やジョージ・H・カーなどの仲間たちと連れ立ってこうした“骨董市”を見て回ったことを回想している(金関丈夫「カーの思い出」『琉球民俗誌』法政大学出版局、1978年)。いずれ置いていかねばならないのが分かってはいても、ついつい買ってしまったそうだ。なお、南風原朝保はノンフィクション作家・与那原恵さんの祖父にあたる(与那原恵『美麗島まで』文藝春秋、2002年→こちら)。ジョージ・H・カーは『裏切られた台湾』(川平朝清監修、蕭成美訳、同時代社、2006年)の著者である(→こちら)。

 立石は1948年12月5日に日本へと引き揚げた。日本人引揚者としてはほとんど最後の船だったらしい。基隆の港を船が離れるとき、波止場に集まっていた台湾の人々が一斉に日本語で「蛍の光」を歌いだし、近寄ってきたランチは日章旗を振って見送ったという。立石は「日人への愛惜と大陸渡来の同族へのレジスタンスでもあろう」と記す。前年、1947年には二・二八事件が起こっており、日本人留用者が煽動したと疑われて帰国が早まったとも言われている。

 留用された日本人の生活を描いた“絵物語”としては、他に金関丈夫の筆になる「国分先生行状絵巻」(金関丈夫・国分直一『台湾考古誌』[法政大学出版局、1979年]所収)なんてものもある(→こちら)。立石にしても金関にしても、深刻ぶらずユーモアたっぷり。

 立石については、謝里法「立石鐵臣展により想起される幾つかの問題」、森美根子「立石鐵臣の世界」(共に『台湾畫冊』解説編所収)、森美根子「台湾を愛した画家たち(23)(24) 立石鐵臣(前・後編)」(『アジアレポート』348・349号、2004年10月、2005年3月)、陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)を参照。

 立石は父親が総督府の事務官だった関係から台北に生まれ、7歳のとき日本へ渡った。絵が好きだったので川端画学校で学び、さらに岸田劉生、梅原龍三郎に師事。生まれ故郷である台湾を描きたいという思いを募らせ、再び台湾に渡る。1934年には台湾人を中心とした台陽美術協会の創立メンバーとなり、翌年には西川満主宰の創作版画会にも参加。造本・装丁に凝りに凝った愛書家として知られる西川の本の多くは立石が手がけた。そして、金関・池田らの『民俗台湾』の主力メンバーとなり、台湾各地の民俗調査に積極的に赴いた。『民俗台湾』についてはこちらを参照のこと。

 戦後の立石の画風は抽象的な幻想画へと一変したらしい。晩年は美学校で細密画を教えるかたわら、昆虫や魚を描く図鑑類の仕事をしていたという。

 台湾の美術史家・謝里法は、たとえ日本人であっても台湾という土地で作品を描いたならば“台湾美術”とみなすべきこと、「台展」などの制度から外れたアウトサイダーも認めるべきだといった理由を挙げて立石を評価している。

 立石鐵臣についてのドキュメンタリーを制作している方からメールをいただき、結局、私はお役に立てず心苦しく感じているのだが、完成を楽しみに期待している次第。

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2009年10月 5日 (月)

李澤藩と石川欽一郎

 一昨年、台北の故宮博物院を訪れたとき、たまたま「風城風采──李澤藩百歳紀念畫展」というタイトルの展覧会も開催されていた。メインの展示室にはいつものように観光客がごった返し、特に豚の角煮や白菜の宝石のあたりは中国語や日本語、韓国語に英語まで飛び交う喧騒のただ中に居るだけで頭が痛くなってくる。対して、こちらまで流れてくる人はほとんどいなかった。

 李澤藩(1907~1989)生誕百周年の催しだが、この人のことを私は知らなかった。水彩画である。台湾や旅行先の日本、ヨーロッパの風景を描いた、淡くしっとりとした色彩が印象的だった。湖水や木々、建物の輪郭が煙るようにぼやけ、そのどことなくミスティックな感傷は、観ていて心静かに落ち着ける感じがした。

 後で調べたところ、李遠哲の父親であることを知った。李遠哲は台湾人として初めてノーベル賞(化学)を受賞、李登輝・陳水扁両政権で中央研究院長を務めた。彼が2000年総統選挙で陳水扁支持を表明して一つの流れを作ったことは記憶していた。

 李澤藩は新竹の生まれ、日本統治期の台北師範学校を卒業後、自らも作品を描き続けながら、故郷・新竹でずっと教鞭をとっていた。作風は地味だとみなされたらしいが、水墨画や戦後盛んになった抽象画の技法も取り込もうとするなど積極的な姿勢も持っていた。彼については李澤藩美術館ホームページの他、森美根子「台湾を愛した画家たち⑩李澤藩」(『アジアレポート』335号、2002年3月)、黄桂蘭「風城風采──李澤藩的絵画芸術」(『故宮文物』第295期、2007年10月)を参照した。

 李澤藩を水彩画へと誘ったのが、当時、台北師範学校の美術教師であった石川欽一郎(1871~1945)である。私はこの石川の名前も、「風城風采」展会場にあった李澤藩の略歴を示したパネルで初めて見た。日本での知名度は低いが、昨日取り上げた李欽賢『台灣美術之旅』(雄獅図書、2007年)も含め、台湾に西洋画を初めて紹介して多くの弟子を育成した点で台湾美術史を語る上では外せない人物と位置付けられている。

 石川については立花義彰編著『日本の水彩画12 石川欽一郎』(第一法規、1989年)、中村義一「石川欽一郎と塩月桃甫──日本近代美術史における植民地美術の問題」(『京都教育大学紀要A人文・社会』76号、1990年3月)、荘正徳「石川欽一郎と台湾の近代美術教育」(『造形美術教育研究』第6号、1993年)、森美根子「台湾を愛した画家たち⑲⑳石川欽一郎(前・後編)」(『アジアレポート』344・345号、2003年9・11月)を参照。

 石川は旧幕臣の家に生まれ、もともと美術に関心はあったが、家計が苦しく、逓信省電信学校を経て大蔵省印刷局に入る。職場の後輩には石井柏亭がいた。独学で水彩画を描く。英語に堪能だったので陸軍参謀本部の通訳官となり、1907年に台湾へ赴任、通訳官と兼務で国語学校(後の師範学校)で美術を教える。台湾には1907~1916年、1924~1932年と二度滞在。この間に育てた弟子で主だった名前を挙げると、倪蒋懐、黄土水、陳澄波、陳英聲、郭柏川、李梅樹、李澤藩、李石樵、藍蔭鼎、等々。わけ隔てなく台湾人とも接したので生徒からは慕われ、教官に義務付けられていた官服は着用せず背広に蝶ネクタイというイギリス紳士風の姿も人気のあった理由らしい。

 台湾の南国的にみずみずしい風景を描いた石川の水彩画は、枯淡な味わいに特徴を持つ伝統的な水墨画に馴染んだ台湾の人々にとって新鮮だったらしい。石川は、台湾において西洋美術の最初の普及者というだけでなく、“郷土意識”“台湾意識”を強調する論者からは台湾人に自分たちの暮らす土地の美しさへの自覚を促したとも評価されているようだ(石川自身の意図がそこにあったかどうかはともかく)。

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2009年10月 4日 (日)

李欽賢『台湾美術の旅』

李欽賢《台灣美術之旅》雄獅図書、2007年

 以前、台北の書店をひやかしていたら、美術書コーナーの新刊平台に積まれていたので購入した本。

 十七世紀、ヨーロッパ人がやって来てから現代に至るまで、台湾美術を彩る様々な群像を取り上げながら描き出された通史。時系列や分野別に無味乾燥に並べるのではなく、それぞれの美術家が育ち、あるいは活躍した土地との結び付きを重視、時間・空間、二つの軸によって“台湾美術の旅”が構成される。

 冒頭、ポルトガル人の航海者がFormosa=華麗島と呼んだというエピソードから説き起こされる。台湾人としての郷土意識・本土意識の高まりという時代思潮が本書の背後にうかがえるが、そればかりでなく、風土との関わりを通して美術家たちそれぞれの感性のありかが具体的に、ヴィヴィッドに示されるので、実感をもって読み進めることができた。作品や当時の写真などカラー図版も豊富。台湾美術史の入門としてなかなか良い本だと思う。

 大陸からの漢人渡来者によって中国画の伝統が定着。日本による植民地支配が始まったばかりの頃は日本人側にも中国の書画に詳しい人がいたので在来の知識人との交流があった。林朝英の水墨画は尾崎秀眞によって見出されている。その後、台湾縦貫鉄道の開通によって台湾全土の近代化が推し進められたが、鉄道から離れた鹿港には漢人文化の伝統が濃厚に残ったという。

 日本統治期の教育制度によって西洋画が本格的に導入される。本書全十章のうち、第二~七章までがこの時代に割かれている。とりわけ、イギリス風の水彩画家で台北師範学校で教鞭をとった石川欽一郎の名前が頻繁に出てくる。1920~30年代は台湾において新文化運動が盛り上がった時期である。石川は学校の内外を問わず、近代知識を渇求する青年たちに西洋画を伝え、後年、台湾美術を牽引することになる多くの画家に影響を与えたという。石川の最初の弟子で家業を継いで実業家となった倪蒋懐が台湾の美術界を財政的に支援、東京に留学した美術学生たちに仕送りもしていた。1927年に台湾美術展覧会(台展)、1934年には台湾人を中心に台陽美術協会が設立され、美術を志す人々の求心力として働いた。

 石川の他には、フォービズムの鹽月桃甫、日本画の郷原古統、木下静涯といった日本人も見える。台湾人も日本人も、洋画か日本画かを問わず、台湾の風土の美しさを描いた。美術史の見直しが郷土意識・本土意識の高まりと連動するのはそうしたところによるのだろう(戦後の国民党政権下の教育では、大陸のことは教えても台湾のことはあまり取り上げられなかった)。なお、戦後、中華民国となってからも「国画」という名目で日本画を描く人がいたが、それは「国画」ではないとして排除され、「膠彩画」と呼ばれるようになった。

 台北のモダンな街並を闊歩する人々を撮った写真家の鄧南光、台湾人画家が注意を払わなかった庶民生活に目を向けて『民俗台湾』に「台湾民俗図絵」を連載した立石鐵臣の存在も目を引く。立石は台陽美術協会の発起人に唯一の日本人として名前を連ねている。

 戦後は国民政府の移転と共に中国画が主流となり、アメリカから前衛美術も流入した。1970年代以降の郷土文学論争の中で台湾美術の見直しも始まった。

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2009年9月 8日 (火)

中村佑介『Blue』、他

 書店の美術書コーナーをぶらぶらしていたら目に入った新刊、中村佑介『Blue』(飛鳥新社、2009年→アマゾンの画像はこちら)。見たことのある絵柄だと思ったら、森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』(角川書店、2006年→こちらでコメントした)のカバーを描いていた人だ(アマゾンの画像はこちら)。

 見本をパラパラめくったら、これがもう私のツボに思いっきりはまってしまい、ただちに衝動買い。くっきりと明瞭な線にカラフルな色使いはポスター画と言ったらいいのか、くどさは全然なくてすっきりした透明感がある。適切な表現が見つからないんだけど、おさげ髪でセーラー服の少女のレトロモダンなイメージを今現在の感覚で描くとこうなるのかなあ、とそんな感じのところが好きですね。

 『夜は短し~』は実はジャケ買いした。このカバーデザインも『Blue』に収録されている。主人公の天真爛漫な黒髪の美少女の雰囲気にピッタリで結構好きだった。マンガ版も書店で見かけたことがあるけど、表紙を見る限りイメージとしてどうもしっくりこない。

 ついでというわけでもないけど、絵本・イラストの専門誌『MOE』10月号も購入。こちらは酒井駒子さんの特集が組まれていたんで。酒井さんの絵については以前にも何度か触れたことがあるが(→『イラストレーション』No.177(2009年5月号)『酒井駒子 小さな世界』)、黒を基調に輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる構図が好き。暗い=愁い、というわけでは必ずしもなくて、しっとりと静かに抑えた情感がにじみ出てくるのが際立っていると言ったらいいのかな。酒井さんの絵も最初の出会いはジャケ買いで、world'send girlfriend「The Lie Lay Land」というCDだった。絵本ももちろん良いんだけど、書籍等の装画が私は好きで、そういうのをまとめた画集を出して欲しいと願っています。

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2009年8月29日 (土)

ヴィーリ・ミリマノフ『ロシア・アヴァンギャルドと20世紀の美的革命』

ヴィーリ・ミリマノフ(桑野隆訳)『ロシア・アヴァンギャルドと20世紀の美的革命』(未来社、2001年)

・本文中に登場する作品について100点のカラー図版が巻末に収録されており、ロシア・アヴァンギャルド美術史の簡潔な入門書として手頃な本。
・ロシア・アヴァンギャルド芸術の前時代との質的な転換点は1914年前後に求められるという。ちょうど第一次世界大戦が始まり、帝政ロシアとソ連体制との狭間に華ひらいた束の間の時代。西欧における世紀末芸術と軌を一にしているが、本書は同時発生というよりも西欧からの影響が先にあったと考えている。
・マレーヴィチのスプレマチズム→無対象芸術。あらゆる従属、あらゆるイデオロギーからの解放→社会的平等の極致という意図。
・同時に、スプレマチズムは合理主義的な未来の世界秩序というプロジェクトを芸術において具体化しようとしていた。背景には、全能の科学というイメージに基づくユートピア志向。科学信仰のオカルト的表現としてはフョードロフの〈共同事業〉の哲学も想起される。(さらに言うと、レーニン廟のミイラもオカルト的だ。当時のロシア知識人のオカルト志向はよく指摘されるところだが、ロシアにおける“科学的社会主義”なるものもこうした背景から理解する必要がありそうだ。)
・ただし、ロシア・アヴァンギャルドのユートピア志向と政治権力としてのユートピア志向とでは大きなギャップあり。訳者によるあとがき論文「ロシア・アヴァンギャルドの実相と虚構」によると、スターリニズム的“全体性”志向の源流としてロシア・アヴァンギャルドを捉える議論があるそうだが、知的遊戯としては興味深いにしても議論としては恣意的で成り立たないと指摘。
・このあとがき論文にロシア・アヴァンギャルドと社会主義リアリズムとの対立点が次のようにリストアップされている。
ロシア・アヴァンギャルド:①異化、デフォルメ ②難解にされた形式 ③グロテスク、反遠近法、ザーウミ等の例としての民衆芸術 ④芸術特有の約束事 ⑤プラカード性、時事評論性 ⑥構成 ⑦反心理主義
社会主義リアリズム:①古典的な理想 ②単純さ ③単純明快さとしての民衆性・人民性 ④美的イリュージョン ⑤モニュメンタルな一般化 ⑥有機的テーマ性 ⑦心理主義、リアリズム

 なお、去年、渋谷の文化村ミュージアムで開催された「青春のロシア・アヴァンギャルド」展を見に行った時のコメントはこちら

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2009年8月23日 (日)

東京都写真美術館「ジョルジュ・ビゴー展──碧眼の浮世絵師が斬る明治」「心の眼──稲越功一の写真」

「ジョルジュ・ビゴー展──碧眼の浮世絵師が斬る明治」

 横浜開港150周年記念で日本近代を振り返るイベントが今年は多いが、この企画もそうした一つであろうか。明治期日本にやって来て、江戸期の風俗が近代へと移り変わる様を観察、風刺画を描いたフランス人画家ジョルジュ・ビゴーの展覧会。来日前の水彩画、離日後の仕事も含め、彼の画業をトータルに展示。日本生活に慣れてからの作品には「美好(びこう)画」という署名を見かける。下岡蓮杖の人物写真、磐梯山噴火、日清戦争など当時の写真も展示して対照させる試みが面白い。

「心の眼──稲越功一の写真」

 今年の2月に逝去された写真家・稲越功一の作品を総まとめ的に展示。稲越功一という名前は知ってはいたが、作品を意識して見たのは今回が初めて。風景も、その中にある人物も、どっしり構えて撮ったというよりもその時時の思いのままの目線で切り取った感じか。モノクロで、遠景にかすみがかった構図で撮った写真がいくつか私の好きな感じで印象的だった。それから、下町の路地裏を中心に撮った『記憶都市』も興味がひかれて、写真集を改めて手に取ってみたいと思った。
(いずれも、恵比寿ガーデンプレイス、東京都写真美術館にて)

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