カテゴリー「博物館・美術館」の34件の記事

2013年1月 4日 (金)

東京国立博物館・東洋館がリニューアル・オープン

 しばらくブログの更新を怠っていたので、新年のご挨拶代わりに。

 1月2日に東京国立博物館の東洋館がリニューアル・オープン(http://bit.ly/VwR4Rb)したので、翌3日に早速行ってみた。私は大学での専攻は考古学だったし、博物館学の授業も一応とってはいたのだが、はるか昔の話。どうでもいいことをいくつか。

 私はそもそも中学生の頃から長期休みに入るたびにここを訪れ、社会人になってからも毎年1回以上は通っていたのだが、東洋館が改装作業に入ってからはしばらく足が遠のいていた。他の展覧会を観るため上野へは時折来ていたのだが、東洋館の中は実に久しぶり。

 耐震補強工事を機に内部も改装されている。展示スペースにも工夫がこらされ、だいぶ見やすくなって良いと思う。ただ私の個人的な思いとして、「なつかしさ」の感覚がなくなってしまったのは、少々残念かな。中学生のとき、自由研究の宿題で中国の古代文明について調べるために来たのが、私の東洋館初体験。その頃から内部の雰囲気が変わっていない、ある意味、時間を超越した(?)場所としてここが好きだった。言い換えると、10代の頃に夢見ていた色々を、大人になっても胸中に思い返す場所として通っていたのだが、マジメな話、色々と鬱屈したものを抱えていたときでも、結構気分が落ち着いたものである。もちろん、そんなことはあくまでも私個人の事情に過ぎない。

 今回の改装で展示スペースが地下のフロアまで広がり、東南アジア専門の展示室が増設された。インドネシアのワヤン、インドの細密画などは新しい展示品だ。朝鮮半島の展示スペースは以前から拡張傾向にあったが、さらに広がったように思う。日本の東洋学の成立経緯を考えると、ざっくり言って東洋史=中国史+αのような枠組みが中心となっていたが、それはとっくに過去の話で、中国以外の地域も中国に匹敵するスペースを割くような構成になっているのはそうした背景がしっかり反映されている。その分、全体に占める中国史の比重は低下したとも言える。

 中央アジア関係の展示スペースの横に大谷探検隊の特別室が設置されているのも嬉しい(もっとも、展示品は少ないが)。私は大学の卒業論文でタクラマカン砂漠に埋もれたオアシス都市遺跡をテーマとしたので、思い入れは感じる。ただし、その時の論文そのものは、オーレス・スタインの探検記兼発掘報告書とも言うべき『ホータンの廃墟』『セリンディア』『インナーモースト・アジア』、それから戦後の中国で発掘を行ってきた新疆文物考古研究所が刊行していた『新疆文物』掲載の論文や発掘報告書に依拠したので、大谷探検隊による成果そのものを活用したわけではなかったが。

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2012年4月25日 (水)

神奈川近代文学館「中薗英助展─〈記録者〉の文学」

 先日、神奈川近代文学館「中薗英助展─〈記録者〉の文学」を見に行った(4月22日で終了)。遺族や関係者から提供された資料をもとに中薗の軌跡をたどるという趣旨で展示が行なわれていた。展示で関心を持った点をいくつかメモしておくと、

・親友だった陸柏年の映った写真、及び上海で憲兵隊に殺されたことを知って中薗が驚いている瞬間の写真。陸柏年との出会いについては、彼が同人誌『燕京文学』に発表した「第一公演」(戦後に改稿され、「烙印」として『彷徨のとき:中薗英助・初期中国連作小説集』[批評社、1993年]に所収)に描かれているほか、中薗作品のあちこちで彼のことに触れている。
・やはり友人の袁犀(戦後は李克異という筆名で執筆)は密かに抗日組織とつながっていたが、戦時中に大東亜文学賞次賞を受賞したため、文革期には.漢奸として迫害され死去(後に再評価)。彼の娘が1980年代末に日本へ留学したときに中薗と一緒に映った写真があった。
・日本敗戦後の1945年10月に、大陸生まれの日本人女性と結婚した写真。背景が北京神社となっていた。どこにあったんだ?
・中薗は戦後、スパイ・ミステリーというジャンルを開拓。小説的な虚構を通して政治の本質に迫っていく作風。この方面を私はあまり読んでいなかった。金大中拉致事件がテーマの『拉致』を原作とした阪本順治監督の映画「KT」は観た。それから、『密書』という作品に絡めて、先日読んだばかりの増田与編訳『スカルノ大統領の特使─鄒梓模回想録』(中公新書、1981年)も展示されていた。鄒梓模はインドネシア華僑(客家系)で戦前から日本人と関係を持ち、戦後はスカルノと日本側との間でフィクサー的役割を果たした。彼は中薗の『密書』のモデルとなっているのだが、「中薗氏の小説で描かれているような人間じゃないよ」という趣旨のことが序文に書かれていた。

 私自身が中薗英助作品を読み始めたのはそう古いことではない。彼は日本軍占領下、いわゆる「淪陥期」の北京で邦字紙『東亜新報』記者をしながら文学活動をしていた。当時の北京の事情を知りたいという意図から、半ば資料的な感覚で『北京飯店旧館にて』(筑摩書房、1992年/講談社文芸文庫、2007年)や『北京の貝殻』(筑摩書房、1995年)を手に取った。それから人に勧められて『夜よ シンバルをうち鳴らせ』(福武文庫、1986年/初版は現文社、1967年)や『何日君再来物語』(河出書房新社、1988年/七つ森書館、2012年)などを続けて読み進めていった。

 漫然とした動機で中国大陸に渡った、と中薗は語っている。若き日々のアモルファスな情熱に明瞭な表現を与えるのはもちろん難しいことであろうが、一つには若者らしい冒険心燃え滾るロマンティシズムがあったであろうことは容易に想像できる。それが異郷への憧れというプル要因になっていたとしたら、では、プッシュ要因は何か。いわゆる「外地」には日本の内地にはいられなくなった左翼くずれやヤクザ者、あるいは一旗挙げようと考える輩など、様々なあぶれ者が流れ込んで来ており、彼らを許容するだけのいわゆる「植民地的自由」があった。「敵」と向かい合うアナーキーな緊張感ゆえの束縛のゆるさがあった。中薗が家出した直接のきっかけは、将来の進路をめぐる父親との葛藤であった。父親の権威への叛逆は私的なものであると同時に、戦時統制の強まりつつある時代、国家による束縛への反抗心もそこには重ね合わされていたと言えるだろう。(なお、短編「エサウの裔」[『エサウの裔』河出書房新社、1976年、所収]では家出して学生運動にのめり込む息子との葛藤が描かれているが、あるいは同様に父に反発して大陸放浪をした中薗自身を父の視点で見つめる気持ちをそこに仮託しているのかもしれない。)

 ロマンティックな自由を求めた異郷、そこはまた裸の自己を試される厳しい葛藤の世界でもあった。裏切りや卑怯、傲慢といった人間の醜さをいやというほど見せつけられた一方、気持ちの通い合う友人たちとも出会った。とりわけ、上述の陸柏年や袁犀といった中国人の友人と知り合えたことは中薗の北京体験で特筆される。しかし、「淪陥期」の北京にあって、中薗自身は中国人側に親近感を寄せているつもりでも、彼らからは「日本人=支配者」と見られ、なかなか胸襟を開いてくれない。「支配者」側にいるという立場性は主観的な善意だけではどうにもならない。引け目の懊悩はさらに「原罪」意識へと深められていく。こうした矛盾への葛藤が以後における中薗の文学活動の原点となっており、『彷徨のとき』『夜よ シンバルをうち鳴らせ』をはじめとした様々な作品で繰り返し表現されている。攻め込んだ側が、攻め込まれた側の者と友情を築くことができるのか。中薗は陸柏年からの「きみは、人類という立場に立てますか?」という問いかけを書き留めている。青くさい。しかし、こうした青くさい言葉が強烈な印象として中薗の脳裡に刻み込まれていたのは、それだけ深刻に矛盾した体験に身を引き裂かれるような思いをしていたからだろう。中薗は敢えてこの言葉を自らの問題として引き受け、終生のテーマとした。後年、アジア・アフリカ作家会議などへ積極的に活動を行なったことも、こうした彼自身のテーマの延長線上にあると考えることが出来る。

 なお、立石伯『北京の光芒──中薗英助の世界』(オリジン出版センター、1998年)が、戦時下の中国における実体験でその後の思想的営みが決定付けられた点で中薗と竹内好との比較をしていた。中薗の肉感的な中国理解とコスモポリタニズム、竹内の理念的な中国理解と土着性という対比として考えていくと色々と興味深い論点がもっと掘り起こせそうな気がする。

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2012年2月18日 (土)

【展覧会】「ルドンとその周辺──夢見る世紀末」

 三菱一号館美術館で開催中の「ルドンとその周辺──夢見る世紀末」を観に行った。巡回展だが、今回は三菱一号館所蔵「グラン・ブーケ」が展示されていることが特色とされている。

 オディロン・ルドンと言えば、あのギョロッとした「一つ目」の印象が昔から強烈だった。例えば、ギリシア神話のキュクロプスだったり、眼球そのものが気球のように浮揚していたり。気球というのも時代がうかがえる題材らしい。パリ・コミューンの崩壊に当ってガンベッタが気球を使って脱出したり、ヴィクトル・ユゴーの肖像をあしらった気球が飛ばされたり、といった話題が紹介されていた。ちなみに、ルドンが好んで描いた眼球のモチーフは、水木しげるが目玉おやじのモデルとしたことでも知られている。

 もちろん目玉ばかりではない。当初におけるモノトーンの画面は、この世ならざる幻視の世界を描き出すのに格好の舞台だ。1890年前後以降、「目をとじて」シリーズを境としてカラフルな彩りへと移り変わっていく。ここには、ある種の精神史的ドラマが伏流していそうで前から関心が引かれていた。なお、今回展示されている「オフィーリア」も「目をとじて」シリーズの一環になるのだろうか。ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」とはまた違ったおもむきがある。

 ルドンの師匠だったブレンダンや、同時代の画家たちの作品と並べ、彼が生きていた時代の雰囲気が分るような展示となっている。ルドンの作品は単に幻想的というのではなく、進化論や植物学、天文学、心理学など19世紀における先端科学の知見を取り込み、後期になると象徴主義や神秘主義の影響も受け、昇華させているのをキャプションで知った。

 「絶対の探究─哲学者」(1880年)という作品が目を引いた。キリスト教神学を示す三位一体の輝く三角形。その後に見える黒い太陽はメランコリーを表わすそうだ。メランコリーと言えば、エドガー・アラン・ポーに献げた石版画集もあり、ルドンのモノクロの世界はまさにメランコリーそのもの。黒い太陽は、眼球のモチーフとつながりを感じさせる。そして、これらを聳え立った山の高みから道化師の面をかぶった小人が見下ろしている。コンセプチュアルに整理されすぎという感じもするけど、ルドンが生きた19世紀の思潮が象徴的に表現されていると言ってもいいのだろうか。

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2011年3月 6日 (日)

【展覧会】「シュテーデル美術館所蔵 フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展」

「シュテーデル美術館所蔵 フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展」

 ドイツ・フランクフルトにあるシュテーデル美術館が改築工事に入り、その間ならばという条件で日本での作品展示が認められたという経緯があるらしい。展覧会タイトルにあるように目玉作品はフェルメールの《地理学者》だが、これ一作のみ。フェルメール来日!と銘打った美術展では必ず同時代オランダ、フランドルの画家たちの作品を並べて水増し(なんて言うと言葉が悪いが…)されるが、今回も同様。無論、フェルメール作品は稀少である上に各地の美術館に散在しているから一括展示なんて極めて困難だから仕方がないし、それに他の展示作品だってなかなか悪くないし。

 一点豪華主義の《地理学者》だが、そのモチーフ解説には工夫が凝らされている。同じ頃に製作された地球儀、地図、コンパス、定規なども合わせて展示、具体的なイメージが湧く。作中人物が身にまとっている青いローブは日本風の着物であることは初めて知った。いずれにせよ、海洋交易国家として世界進出を目指していた当時のオランダならではの世界認識のあり方がこの作品から浮かび上がってくる。このように《地理学者》で示された対外志向を念頭に置きながら他の同時代の画家たちの描いた都市や田園風景などでの人々のたたずまいも見ていくと、当時におけるオランダという国における市民生活のイメージを一体のものとして髣髴とさせて私には面白かった。

 もともとキリスト教絵画では人物画が中心で風景はその背景に過ぎなかったが、風景画そのものが一つのジャンルとして確立されているのはネーデルラント絵画の特色でもあるらしい。アールト・ファン・デル・ネール「漁船のある夜の運河」「月明かりに照らされた船のある川」などに見られる月が放つ淡い光、それからアールベルト・カイプ「牧草地の羊の群れ」に見られる奥行きのある草原の上方にたなびく雲が好きだな。光の淡い描写が空間と静けさとを調和させていると言ったらいいだろうか、印象的に感じた。都市文化の発展に伴って室内画というジャンルが確立したことの社会史的背景は、フェルメール関連の展覧会を見るたびにいつも気になっているところだ。
(渋谷、Bunkamuraザ・ミュージアム、2011年5月22日まで開催)

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2011年2月20日 (日)

【展覧会】国立新美術館「シュルレアリスム展」

国立新美術館「シュルレアリスム展」

 パリのポンピドゥー・センター所蔵のシュルレアリスム関連作品を展示。のっけから否定的な言い方になってしまうが、シュルレアリスムというのは、当時の芸術家たちが思索したり活動したり作品をつくったりする試行錯誤のプロセス、その時の精神状態そのものにあるのであって、後世の美術館に残っている作品はそうした活動から排泄されたカスに過ぎない。カスをわざわざ美術館の中に整然と並べてかしこまって拝観するという光景そのものが実にシュールなことであるのだが、そんなことを言い始めたらキリがないから、各自が見たいように素直に見ればそれでいいのだと思う。

 文学史的・思想史的に彼ら芸術家たちの活動に関心があるなら、当時の雰囲気をうかがい知る資料として興味深いだろう。そうでない人はシュルレアリスムという脈絡はいったん忘れて、奇抜なイメージを面白がったり、時に美を感じたりすることがあれば、そうした自分自身の中に芽生えた感覚を素直に出していけばいい。難しく考えちゃダメだ。作者たちの内的意味など無視しても、とにかく自分なりの見方をすれば実は結構面白いのだ。たまさかの出会いをきっかけに自身の心中に偶然に沸き起こった感興、それを大切にするのがシュルレアリスムである。

 私はマグリット、デルヴォーなどベルギー・シュルレアリスムやキリコ、ダリなどの絵画的イメージそのものがファンタジックで好きだ。ミロも抽象画などと考えず、一つのデザインとして見れば面白い。いくつか映像作品も上映されていて、ブニュエルとダリがつくった「アンダルシアの犬」、断片的に写真で見たことはあったが映像で通して観たのは初めてだった。眼球を切り裂くグロテスクなシーン、モンタージュ、脈絡を無視した場面転換など今では技法的に当たり前となっているが、当時としては革命的にショッキングだったのだろう。
(2011年5月9日まで)

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2010年10月11日 (月)

【展覧会】「フランダースの光──ベルギーの美しき村を描いて」

「フランダースの光──ベルギーの美しき村を描いて」

 1900年頃からベルギーのレイエ川沿いにある村ラーテムに住んだ芸術家たちの作品を展示。それぞれに独自の作風を持ち画派として一括りにできるわけではないが、主に象徴主義の第一世代、印象主義の第二世代、第一次世界大戦を挟んで疎開先から戻ってきた第三世代に分けられている。

 目玉となるのは印象派的なタッチで村の風景と人々の姿を描いたエミール・クラウス。この展覧会のポスターになっている「刈草干し」も彼の作品だ。光が強調された描き方で、農村の穏やかな明るさが浮かび上がる。風のそよぎと空気のゆるやかな揺れ、鳥のさえずりなども聞こえてきそうな感じで、気分がほっとするような美しさだ。第一世代のヴァレリウス・ド・サートレールという人の絵もひかれた。こちらはむしろ暗い感じ。黄昏の光景を地平線の見える広がりの中で描いている。緊張感のある静寂。もし感傷的に敏感な気分だったらシンクロしてこのまま取り込まれてしまいそうだ。

 第三世代は疎開先で触れたドイツ表現主義、シュルレアリスム、キュビズムなどの影響の顕著に見られる作品が多い。穏やかな風景画や人物画に慣れた目でいきなり見ると、何か「あっちの世界に行っちゃったのか…」という妙な気分。別に悪いというわけではないが、なにぶん「フランダースの光──ベルギーの美しき村を描いて」というタイトルの展覧会のつもりで見に来ているので、「あっち」の方を見る心構えができていなかったというか…。
(2010年10月11日、渋谷、Bunkamuraザ・ミュージアムにて)

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2010年8月27日 (金)

国立台湾史前文化博物館(台東)

 先日、台東にある国立台湾史前文化博物館へ行ったときの雑感。中国語は苦手なので、文章として変なところを添削してくださる善意の方がいらっしゃったらありがたいです。

  今年暑假我去台湾旅行,坐火车绕了台湾一周。我在台东、台湾东岸的城市下车,去了国立台湾史前文化博物馆和博物馆附属的卑南文化公园。这家博物馆由于展示着史前考古学和南岛语族系原住民的研究很有名。具体的遗物和模型在这里可以让我们想象出史前时代的人类生活。

  在这儿发现的遗迹叫卑南文化。台湾考古学的研究是从日本统治时期开始的,一八九六年考古学家鸟居龙藏已经记录过他在这儿发现的巨石柱。从二〇年代后半期到三〇年代是博物学家鹿野忠雄调查的。一九四五年日本就要战败的时候,是人类学家金关丈夫和考古学家国分直一调查的。我看过金关和国分写的《台湾考古志》,他们是在美军的轰炸下继续发掘的。然后台湾大学考古学研究班让发掘调查进展了(领导这个发掘调查的宋文薫是台湾最有名的考古学家,他学生的时候接受过国分的指教)。一九八〇年铁路工程偶然发现了埋在地里的石棺和陪葬品,现在这座遗址部分构成了卑南文化公园。

  用巨石独特的卑南文化从三千年前持续到二千年前,然后卑南文化人的痕迹消失了。卑南文化人跟在近邻住的原住民(阿美Ami族、排湾Paiwan族)的关系不明白。卑南文化人和排湾族都有拔牙的风俗,我想起了日本史前时代的绳文文化人也是同样的。这些人们在南洋有没有共同的祖先?没有确切的证据,谁也不知道。

  史前文化博物馆里有的原住民研究展示很详细。汉族在台湾的人口占据九十八%,原住民只占据二%。但是汉族来到台湾以前,南岛语族先来住。起源不同的族群经过长时间来到台湾,原住民决不是单一集团。现在台湾政府认定十四个族群,别的族群往昔被汉族吸收了。各别的族群互相有不一样的文化、习惯、信仰和社会组织。比如说泰雅Atayal族是平等社会,卑南Puyuma族有很严格的年龄组织,鲁凯Rukai族有贵族制度。有的族群用狩猎生业,有的族群有农耕文化,雅美Yami族的海洋渔劳文化很有名。往昔有的族群做“出草”(猎取人头的仪式),但是阿美族没有那样的习惯。有的族群有文身风俗,有的没有。

  台湾的历史和社会是重层结构。但是日治时期的皇民化政策和国民党执政时期的中国化政策都把原住民的传统文化当做野蛮,鄙视他们传统的独特风格。现在多文化主义思潮在台湾社会扎根了,原住民主张让他们有维持传统文化的权利。听说往昔被汉族吸收的原住民(平埔族)也要求承认自己的族群。近年刊行的台湾史概说书有重视原住民地位、脱离汉族中心史观的视点。比如说我看过的周婉窈(台湾大学历史系教授)写的《台湾历史图说》,“东亚出版人会议选定的一百册”有这本书。

  展示在史前文化博物馆告诉原住民努力让社会认知自己的传统文化很丰沃。这样的认同政治可说是现在台湾社会的特征之一。

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2010年8月22日 (日)

2010年8月14日【卑南文化公園、台東→高雄】

【卑南文化公園】
・卑南文化公園は午前中に行った国立台湾史前文化博物館の付属施設で、広い緑地の中に卑南遺跡の発掘現場や遺跡解説展示室などがある。台湾鉄路南廻線工事の際に大量の石棺や副葬品(玉器)などが出土して、台湾大学考古学研究室の宋文薫・連照美が調査。約5300~2300年前のものと推定されている。遺跡の分布面積は60ヘクタール以上、東縁部分は台東新站の建設に伴って壊され、遺跡の一部が卑南文化公園として整備された。
・観光案内センターが遺跡に関する展示室となっている。ガイドの人が来館者に解説してくれる。私は中国語を聴き取れないので一人で観覧する。受付で荷物を預け、日本語イヤホンがあると教えてくれたが、先ほど博物館本館で展示を見てだいたいの様子は飲み込んでいるし、解説文は読めるからお断りした。
・卑南遺跡では以前から石柱が注目されていた。初めて記録したのは1896年の鳥居龍蔵、1929~1937年にかけて鹿野忠雄がたびたび調査、日本の敗戦直前の1945年初めには金関丈夫と国分直一が調査。
・石柱は何のため?→①建物の柱、②有力者の住居前のレリーフ、という2説あり。石柱の上に空いた穴は運搬のため紐を通すためと解釈されている。
・台湾での考古学的時代区分:長濱文化(先陶文化、つまり土器出現以前の旧石器時代)/約7000年前/大坌坑文化/約4500年前/縄紋陶文化/約3500年前/麒麟文化(石柱)/約3000年前/卑南文化/約2200年前/鉄器時代(阿美文化)/近代。
・卑南文化人は約2200~1700年ほど前に外へ向けて移動し始めた→彼らがどうなったのか分かっていない。出土した土器の形式が似ている点ではアミ族の可能性もあるし、抜歯の風習があった点ではパイワン族の可能性もあるが、現在の民族と関係があるのかどうかも確認できていない。
・卑南遺跡出土の石棺:北北東(足)→南南西(頭)という方向に並んでおり、あたかも起き上がると都蘭山が見えるような姿勢。
・亜熱帯の木々が生い茂ったなだらかな山すそで、スロープ上に芝生が広がる公園の敷地内には、再現されたアミ族の伝統的住居(写真)がある。木で編んだ構造、中に入ると木編みのベッド状の部屋もあり、それなりに快適に生活できそうな感じ。別の場所では大きな屋根で覆われた発掘現場も見学できる。家族連れやグループの観光客が結構来ている。
・博物館でもらったパンフレットの交通案内を見ると、台東新站から卑南文化公園まで徒歩10分となっている。迷った場合に備えて余裕をとり、列車の発車時刻より40分ほど前に公園を出た。案内パンフレットの略地図に従って歩き始めたのだが、どうも様子がおかしい。地図の縮尺と歩行速度を頭の中で計算すると、この調子では30分近くかかってしまいそうだ。そもそも台東新站自体が遺跡の一部を崩して建てられたのだからすぐ隣のはずなのに、略地図通りに行くと明らかに遠回りである。本当にこの道でいいのか? 焦り始める。途中、台湾人観光客の車がとまって道を尋ねられたが、「対不起、我不会説漢語」。私自身、迷子になりかけているわけで、気持ちに余裕がない。しばらくしてようやく台東新站近くまでたどり着いた。卑南文化公園方面に続く裏道があり、そのすぐ向うには先ほど行った発掘現場の大屋根が見える。確かにこの裏道を歩けば駅から徒歩10分だろうな。博物館の交通アクセス案内は来館者はみな車で来るという前提で、略地図は車道で描かれている。駅前の露店で釈迦頭を買いたかったが、時間が迫っているので慌てて改札を通過。月台に出て一息ついたら、電光掲示板に10分遅れの表示。どうも間が悪い。

【台東から高雄へ】
・台東17:32発(実際は17:40過ぎ発)→高雄19:40着予定の自強号に乗車。残念ながら通路側の席。ただ、窓が広いので外はそれなりに見える。南廻線は海沿いの路線で、山が海にすぐ迫って断崖に線路を通すのが困難だった区間である。眺望が素晴らしい。私が通ったのは夕暮れ時、海の上の雲があかね色にそまっているのが、胸がすくように美しい。写真に撮りたかったが、窓越しだと車内の明かりが反射してしまってうまくいかない。やがて暗くなってきてから枋寮を通過。以前、恒春に行ったときバスで枋寮まで出てここから各駅停車に乗って高雄まで行ったことがある。枋寮を通過した時点で台湾鉄道一周達成(ただし、台北~高雄間は高速鉄道)。
・20時ちょっと前に高雄に到着。以前に来たことがあるから高雄駅構内の様子は分かる。宿泊先も以前に泊まったことのある京城大飯店、駅北側出口すぐ目の前なので迷わずに直行。荷物を置き、シャワーを浴びてからすぐ外出。
・高雄からMRTに乗って次の美麗島駅で下車。六合夜市へ。今日は土曜日の夜だからだろう、家族連れが続々と向かっている。相変わらず人出がすごいな。ここで夕食を済ませるつもり。貢丸の串焼き。タレで焼いたつくねのような感じで、唐辛子等をふってもらった。のどが渇いたので、甘蔗汁(さとうきびジュース)。屋台の中でしぼっており新鮮、ちょっと土臭い感じもしたが、ほんのり甘みが飲みやすかった。度小月の屋台があったので、味付き卵入りの担仔麺。

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2010年8月14日【国立台湾史前文化博物館、台東市内】

◆8月14日(土)
・ホテル内で朝食を簡単に済ませ、カウンターでチェックアウト。昨晩頼んであったタクシーをちゃんと呼んでくれていたのでスムーズに花蓮駅まで戻ることができた。幸いなことに快晴。朝から暑いのは確かだが、雨に降られることに比べたらはるかに気分が良い。途中、外の風景を眺めていると、崩れかかったようにぼろい瓦葺木造の日本式家屋をところどころで見かける。
・花蓮7:43発→台東10:17着の自強号に乗車。この路線は電化されておらず、ディーゼルカーが客車を引っ張っていく。単線で発車本数は少ない。日本統治期には花蓮・台東間を軽便鉄道が走っていた。戦後になって線路幅が拡幅され、北廻り線として宜蘭方面と、南廻り線として屏東方面とつながり、台湾鉄道一周が完成することになる。中央山脈と海岸沿いの山脈とに挟まれた細長い平野部の花東縦谷を南下。夏らしい雲の浮かぶ青空の下、山あいには木々が生い茂り、平野部に出ると水田が青々と広がっている。時折、白い水鳥も見かける。車窓の風景をぼんやり眺めているだけで心地よい。
・池上駅では列車が駅に着く間際にドア前まで行き、列車が止まるやいなや半身乗り出し、売り子さん(中高生くらいの女の子だった。夏休みのバイトか)に向かって手を振って呼ぶ。100元札を出したら、弁当とおつりの10元玉3枚が入ったビニール袋を手早く渡してくれた。用意がいい。かの有名な池上便當である(写真、写真)。台鉄便當に比べたらはるかにうまい。台湾の駅弁はごはんを敷き詰めた上におかずがぎっしりと並べられており、タレがしみたごはんもおいしい。この近辺は台湾では米どころとして知られているようだ。
・時間通りに台東新車站に到着。市の中心部から離れているため、この駅前には何もない。タクシーを拾い、国立台湾史前文化博物館へ行く。台東の次の康楽という駅の近くらしいが、この路線では列車本数が少ないのであてにならない。車で10分くらい。

【国立台湾史前文化博物館】
・写真が国立台湾史前文化博物館。先史考古学と原住民族研究をメインテーマとした総合博物館である。展示内容は充実している。2時間くらい見て歩いたが、もう少し時間が欲しかった。以下、見ながらとったメモ書きの写し。
・プレート・テクトニクス→蓬莱運動(Penglai Orogeny)→ユーラシア・プレートとフィリピン海プレートとがぶつかり合ったところに花東縦谷。1932年、鹿野忠雄が雪山で氷河の痕跡を発見。サケを例に取ると、10万年~80万年くらい前から台湾での進化の分化が現れている。
・台湾における生態学的研究の先駆者として、スウィンホー、プライス、鹿野忠雄。
・現代における生態系破壊と回復の問題。
・科学的考古学についての概論的解説展示。
・台湾における考古学的研究は日本統治期から始まっている。
・台湾で一番古い人類は左鎮人で2~3万年前。八仙洞遺跡を宋文薫(※この人は確か台北帝国大学出身、国分直一から個人的に薫陶を受けていた人だ。台湾では考古学の第一人者として知られる)、林朝啓が調査→旧石器時代の長濱文化、3万年以上前~5000年前くらい。
・1980年7月、台湾鉄路の南廻り線工事の際に、現在の台東新站のあたり(以前は卑南駅だった)から大量の石棺や副葬品が発見された→宋文薫、連照美など台湾大学調査団により卑南文化の研究。この遺跡群の一部は史前博物館所属の卑南文化公園として整備されている。卑南文化は石造建築、石棺、玉器、遺骨には抜歯の風習(※日本の縄文時代を想起させる)。最も特徴的なのは巨石文化:1897年に鳥居龍蔵、次いで1930年代に鹿野忠雄が記録、1945年の日本の敗戦間際の時期に金関丈夫と国分直一が調査(※この経緯は金関丈夫・国分直一『台湾考古誌』[法政大学出版局、1979年]で読んだ覚えあり)→1980年代に上記の台湾大学調査団→1990年代に史前文化博物館の設立。
・氷河期が終わって海面が上昇し始めた1万年前くらい(※日本考古学で言う縄文海進)に台北盆地には台北湖があった。1897年に発見された圓山貝塚など。大陸から渡来した人々の痕跡:大坌坑文化(6000~5000年くらい前)→芝山巖文化。
・台湾南部では海洋交易、新石器時代、石材を使った文化。
・各民族の特徴を捉えながら原住民族に関する展示。タイヤル(泰雅)族→文身。パイワン(排湾)族→石板建築。アミ(阿美)族→厳格な年齢組織と両性分業。プユマ(卑南)族→年齢により服装が違う。ルカイ(魯凱)族→豊かな自然資源の使い方、貴族(大土地所有)と平民の区別。ヤミ(雅美、タオ:達悟)族→海洋文化。サイシャット(賽夏)族→小人祭。ツォウ(鄒)族→戦祭。ブヌン(布農)族→精霊の観念、キリスト教受容によって文化的変容。
・台湾原住民運動簡史の展示では、多元續紛的族群現象(brilliant tribal phenomenon)として近年の「族群」としての認知を求める動向を紹介。クバラン族(噶瑪蘭族)が2001年、タロコ族(太魯閣族)が2002年、サキザヤ族(撒奇萊雅族)が2007年、セデック族(賽德克族)が2008年に新たに政府から認知された。マイノリティーの存在が公的に認知され始めると、自分たちのルーツの確認をパブリックな空間で主張していく動きが活発化していくアイデンティティ・ポリティクスとして興味深い。

【旧台東駅、旧台東神社、台東市街地】
・帰ろうと思ったが、交通手段がない…。博物館受付にいた人(制服を着ていたので警備会社の人のようだった)にタクシーを呼んでもらうように頼んだ。旧台東駅前まで直行。博物館からだいたい15分くらい。250元。
・現在の台東新站は台東市の中心街から離れている。台東はかつて花蓮と結ぶ路線の終着駅だったが、南廻り路線は旧卑南站(現在の台東新站)から屏東方面へとつながったのに伴い、台東旧駅への路線は盲腸線となり、その後さらに廃線となった。現在、その旧駅が鉄道芸術村として開放されている。家族連れやカップルでそれなりに人出がある。草が生い茂り始めた線路に車輌が置かれている。この廃線駅の風景は日本でもなじみがある感じだ。機関車庫や給水塔も残され、線路跡は遊歩道として整備されている。日治時期防空壕というのも見かけた。コンクリ造でがっちりしたもの。以前、花蓮でも旧駅近くで、宜蘭では市役所前で防空壕を見かけたから、戦時中、主要施設近くに集中して造営したのか。
・旧台東駅近くにある鯉魚山へ行く。旧台東神社跡は現在、忠烈祠である。石段はいかにも神社らしい。境内で老人たちが集まってカラオケや象棋に興じているのは台湾ではよく見かける光景だ。隣の寺廟には塔があって台東市内を一望できそうだったが、前でお香をたいて鉦太鼓をたたきながら儀式をしていたので、それを遠巻きに見てから山を降りた。
・市内に戻る途中に誠品書店があったのでちょっとのぞく。こぢんまりとしていたが垢抜けた雰囲気は誠品書店らしいな。
・旧駅近くには古くて今にも崩れそうな瓦葺木造建築をちらほら見かける。日本統治期の日本人住宅だろう。花蓮、台東など台湾東岸の町には漢族系がもともと少なく、日本統治期には日本人居住者のパーセンテージがかなり高かったらしい。戦後も東岸部の開発は遅れていたので当時の家屋がそのまま残されてきたということだろう。大半はもう居住者がおらず(おそらく立ち退いたか)、近いうちに再開発のため崩されるのだろう。
・台東観光夜市の表示がある街路。写真の向うに見えるのは日本式家屋で、人が住んでいる様子。持参したガイドブックを見ると、この街路は水果街となっており、その名の通りに果物を売るお店が並んでいる。ただし、あまり人はおらず、3分の1くらいのお店はしまっている。このうだるような暑さ、本番はやはり夜なのだろう。釈迦頭はちょっと食べてみたいと思ったが、新駅前でばら売りしていたのを思い出し、帰りの列車の中で食べようと楽しみは残しておく(ところが、後述するように、列車発車時刻間際に駅にたどり着き、水果売りの屋台の前を通りかかったときに声をかけたら、基本は箱詰め売りで(配送用にクロネコヤマトの宅急便の緑の旗がかかっている)「ばら売り用の釈迦頭はもう良いのがないから他のお店をあたって」と言われ、時間がないので買わずにホームに駆け込み、結局、食わずじまい…)。
・天后宮に行ったら工事中。門前で写真を撮ってすぐ退散。市内をぶらぶら歩きながら旧駅前のバスターミナルへと向かうが、何もない町だな。日本のさびれた地方県庁所在地を思い浮かべる。バスターミナル前でタクシーを拾い、台東新站近くの卑南文化公園へと向かう。

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2010年7月 5日 (月)

彦坂尚嘉・五十嵐太郎・新堀学編著『空想 皇居美術館』

彦坂尚嘉・五十嵐太郎・新堀学編著『空想 皇居美術館』朝日新聞出版、2010年

 大英博物館、ルーヴル美術館、故宮博物院、こういった世界の大美術館に匹敵するものが日本にはない。敷地はある。東京のど真ん中に。皇居である。そこで、天皇には京都御所へお帰りいただき、からっぽになった皇居をそっくりそのまま世界一の大美術館にしてやろう。そして、日本中の超一流国宝をかき集めて収蔵品にする。現代アートなど入れない。明治維新以前、前近代のものだけで日本をアピール。1,000メートル級の世界一の巨大建築も建ててやれ、そうすりゃ公共事業で景気対策にもなるぜ──。

 皇居を一大美術館にするならどうしたら面白いか?という思考実験。もともとは五十嵐太郎たちのリノベーション・スタディーズで彦坂尚嘉が漏らした皇居再利用というアイデアが発端らしいが、これをもとにしたプランを2007年の第1回リスボン建築トリエンナーレに出展。帰国後のシンポジウム(五十嵐、御厨貴、南泰裕、彦坂、鈴木邦男、原武史、新堀学)や寄稿(辛酸なめ子、藤森照信、萩原剛、鈴木隆史、暮沢剛巳)・座談(高岡健、宮台真司、彦坂)では各自それぞれが奔放に思い付きを語る。

 皇居の敷地は意外に広くて、大英博物館、ルーヴル美術館、メトロポリタン博物館、バチカン美術館、ウフィッツィ美術館、ベルリン・ムゼウムインゼル、ついでにクフ王のピラミッド、これら全部が同時に納まってしまう。東京の中心は空虚であるというロラン・バルトの指摘は東京論で必ずと言っていいほど引用されるが、実は何もないわけではない。語られるのを拒む暗黙のタブー、すなわち皇居があるということだ。美術的・建築論的面白さへの非政治的追求ではあっても、天皇論を軸に日本文化、日本の近代という大問題を避けることはできない。色々な議論の切り口や意味づけのロジックがあり得るのが面白い。なお、皇居を公園にしようというプランをこれまでに提案したのは丹下健三しかいなかったらしい。

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