ニーアル・ファーガソン『帝国』
二ーアル・ファーガソンの『帝国』(Niall Ferguson, Empire:The Rise and Demise of the British World Order and the Lessons for Global Power)を読んだ。日本では『大英帝国の歴史(上)膨張への軌跡/(下)絶頂から凋落へ』(山本文史訳、中央公論社、2018年)として刊行されているようだが、私は台湾にいて日本語版の入手は不便なので、中国語版の尼爾.弗格森《帝國:大英帝國世界秩序的興衰以及給世界強權的啟示》(睿容譯、台北:廣場出版,第四版,2019年)で目を通した。
ファーガソンの「帝国」論の核心は、グローバル化の趨勢を世界史の大きな流れの中で捉え、そこにおける担い手として「帝国」が果たした役割を捉える点にある。帝国主義批判としては、代表的な思潮が二つある。第一にマルクス主義的な議論では搾取の側面に焦点が合わされ、第二に自由主義の観点からは帝国主義は正常な市場経済のあり方を歪めてしまい、本来ならあり得た正常な自由貿易による国際経済的利益が失われてしまったとされる。ファーガソンによると、こうした議論は商品・資本・労働力といった側面にしか注目しておらず、知識・文化・制度の広がりという側面は重視されてこなかったという。法治、貨幣の信用管理、透明な財政システム、クリーンで効率性の高い行政機構といった政治経済システムが成立してはじめて資本の流動が可能となり、低開発国への投資もできたはずである。こうした西洋由来の政治経済システムがグローバルな規模で拡大していくにあたり、「帝国」が果たした建設的な役割は無視できない、というのがファーガソンの本書における基本的な主張である。
本書で大英帝国の遺産として挙げられるのは①資本主義が勝利して最良の経済システムとなったこと、②北アメリカやオーストラリアのイギリス化、③英語の国際化、④プロテスタントのキリスト教世界における影響、⑤1940年代に悪辣な帝国との競争に打ち勝ち、議会システムをしぶとく生き残らせたことが挙げられているが、本書の主旨として最重要なテーマは①の資本主義とグローバル化の関係であろう。
大英帝国によるグローバル化の過程が次の六つの章でそれぞれ議論されている。第一章は商品市場のグローバル化であり、海賊が主役となる。大英帝国の勃興は商業や消費主義によってもたらされた経済現象と捉えられ、その過程においては武力が用いられた。
第二章は労働市場のグローバル化であり、プランテーション農場経営者が主役となる。イギリス人が植民地へ大規模な移民を行なった時期であるが、奴隷貿易によって農場経営が行なわれた。
第三章は文化的なグローバル化であり、主役は宣教師である。布教という自発的・非政府的形態によって近代化のプロジェクトが進められた。この時期の特徴は、帝国主義的な拡張政策が進められる一方で、イギリス本国においては自由主義・人道主義的な世論が議会を通して力が発揮され、奴隷制度が廃止されたばかりか、今度は帝国の影響力が海外での奴隷船摘発へと導かれたという矛盾した側面を持つ。
第四章は政府のグローバル化であり、主役は官僚である。西洋の帝国は、当初、武力で以て植民地を征服し、世界の大半をその支配下へ収めるに至ったが、どのようにして少数の人員で広大な領土と人口を統治したのか? 技術革新により世界の距離が縮まったことが大きく影響した。19世紀における蒸気動力技術による汽船のネットワーク、電信技術による情報ネットワーク、鉄道網の敷設という形で三種類のネットワークが世界中に張り巡らされ、距離の障害が低減された。情報をスムーズにキャッチし、軍隊を機動的に派遣できるようになった。そうなると、現地の統治人員が少数でも、軍隊の機動性で対応できる。言い換えると、技術的なインフラの下支えで形成された世界的ネットワークを通して帝国が支配力を強め、その帝国を媒介として西洋由来の政治経済システムが世界各地に拡散されたと捉えることができる。
第五章は資本市場のグローバル化であり、主役は銀行家である。この段階では第一に本当の意味でのグローバル化が進行した、第二に軍事的プロセスと工業的発展とが密接な関係を持った、第三にマスメディアが発展したという三つの重要な現象が形を取るようになった。この時期にはアフリカ分割が進められたほか、さらに顕著な特徴として「非公式の帝国」の成立が挙げられる。大英帝国は自らの植民地ばかりでなく、資本投資によって影響力を行使できる範囲を広げた。例えば、ラテンアメリカ諸国、トルコ、マラッカ、シャム、日本などと条約を締結し、それらの経済体は自由貿易を受け入れた。そして、イギリスは国際貨幣の標準化も行なった。また、この時代から顕著な威力を発揮するようになったマスメディアの面で言うと、帝国が戦争で拡大する偉業のイメージは、メディアを通して国民に拡散された。帝国の好戦的な要素はメディアが国民に提供する娯楽の恰好な材料となった。他方で、大英帝国が海外で行なった蛮行もメディアを通して伝えられる。そうすると、国内にすでに登場していた自由主義・人道主義的な世論が刺激され、戦争を実行する政府に対する批判の声が高まる。戦争の惨劇がメディアを通して本国へ還流してくると、世論に変化をもたらし、政治的変動をももたらす。つまり、メディアは帝国主義的な拡張に対する国民の興奮を増幅させもするし、他方で、海外での蛮行を伝えることで自由主義・人道主義的な世論を盛り上げ、政府を抑制するという役割を果たすこともあった。言い換えると、メディアは国内的要因(大衆の興奮、逆に自由主義・人道主義的な世論)と海外の要因(帝国の拡大、逆に戦争の残虐行為)とを結び付けることによって帝国の動向を増幅もしくは抑制する双方向的作用を示したと考えられる。
第六章は戦争のグローバル化であり、主役は破産者、すなわち大英帝国自身の没落である。この段階では二種類のライバルが現れる。第一に、民族主義的な植民地エリートが挙げられる。植民地のエリートは、イギリスの教育を受けたが、彼ら自身はイギリス化したにもかかわらず、出世の先がふさがれると、外ならぬイギリス化によって獲得された進歩主義的な思想も相俟って不満を抱き、本国政府に対抗し始めた。第二に、大英帝国よりも残忍な帝国との競争である。具体的にはナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア、大日本帝国、ソ連帝国であり、大英帝国はこれらと戦ってグローバル化の果実を守り抜いた点でも貢献したと本書では捉えられている。しかし、その莫大な負債に耐えきれず、グローバルな帝国たる座はアメリカへ譲渡された。現在の「帝国」たるアメリカもまたイギリスの植民地に出自を持つ点に注意が促される。
現在、我々が暮らすこの世界で運用され、その利便性を享受している政治経済システム、すなわち自由貿易経済、効率性の高い行政機構、法治制度、議会制民主主義といったいわゆる「近代」的システムは西洋に由来するが、それらは西欧の帝国、とりわけ大英帝国の支配下という同一政治圏に入ることで世界中に拡大した。すなわち、大英帝国の拡大こそが「近代」的政治経済システムを世界中に広めるという建設的な役割を果たしたことを論証する点に本書の主眼がある。端的に言えば、一種の帝国主義肯定論である。
第一に、近代的制度の拡散という点では、そもそも我々は多かれ少なかれ「近代」の肯定的側面を認めた上で日常生活を営んでいる以上、本書の示した見解に抗することはできない。残るのは価値観的判断のレベルの問題となろう。帝国主義や植民地主義を肯定する言説においては、マイナス面を挙げつつも、プラス面の建設的側面の方が大きい点を強調するという論法がしばしば見られる。例えば、日本の台湾植民地統治において、経済成長の実績値を示し、たとえ帝国によって搾取されていたとしても、相対的には植民地台湾も利益を受けていた、という捉え方である。その点で言うなら、本書は近代的制度の利点を示し、その他のマイナス面よりも肯定的部分が大きい、という論法を採用していると言えるだろう。
第二に、過去のマイナス面の相対化という論法も見られる。大英帝国も植民地の武力制圧の過程において数々の残酷な虐殺も行われてきたが、直近の歴史における遅れてきた帝国たるドイツ・イタリア・日本・ソ連を「大英帝国よりも残虐な帝国」と表現して相対化が図られている。また、大英帝国内部には伝統的に自由主義・人道主義の呼び声があり、それが場合によっては帝国の動向に抑制をかけてきたという論点も提起しているのも、ある意味、用意周到という感を受ける。
第三に、マクロな国際経済の視点で議論されると、植民地の現場におけるミクロな日常的暴力の過酷さは捨象される。歴史叙述の方法が異なるのだから、これは仕方がない。本書はあくまでも「近代的制度の拡散」という論点にしぼって議論が組み立てられているのであり、論点の方向性が異なるのだから、この点では読者の方が想像力でもって両睨みしながら読み進めるしかないだろう。
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