カテゴリー「国際関係論・海外事情」の191件の記事

2014年12月14日 (日)

下斗米伸夫『プーチンはアジアをめざす──激変する国際政治』

下斗米伸夫『プーチンはアジアをめざす──激変する国際政治』(NHK出版新書、2014年)

  一部メディアで「新冷戦」という表現も用いられる近年の国際政治の中でロシアはどのような外交政策を進めていくと考えられるのか。本書はウクライナ情勢、ロシア外交のロジック、そして外交政策を実質的に取り仕切るプーチン大統領個人の考え方を分析した上で、「脱欧入亜」という特徴を指摘する。なお、ロシアの「東方シフト」についてはドミートリー・トレーニン(河東哲夫・湯浅剛・小泉悠訳)『ロシア新戦略──ユーラシアの大変動を読み解く』(作品社、2012年)でも指摘されている(こちらを参照のこと)。

  ロシアが「東方シフト」を進める背景は何か。第一に、プーチン大統領の個人的背景に注目される。彼の家系をたどると異端とされた「古儀式派」にあるとされ(下斗米伸夫『ロシアとソ連 歴史に消された者たち──古儀式派が変えた超大国の歴史』[河出書房新社、2013年]を参照。こちらで取り上げた)、古儀式派にはもともと東方志向があったとされる。また、彼には保守主義やユーラシア主義の思想的影響も見られるという。第二に、ロシアの人口は西に偏っているのに対し、資源は東に偏っており、シベリアから沿海州にかけての将来性をにらんで開発政策を進めている。第三に、世界経済の中心が大西洋から太平洋へ移りつつある中で東アジアとの関係構築が重要となっているが、他方で中国の台頭への安全保障上の警戒心も挙げられる。

  ロシア経済では資源輸出の比重が高く、経済の近代化・多角化が必要とされているが、ウクライナ情勢等の影響でそのために必要な支援を欧米から受けるのは難しい。中国は市場としては魅力的だが、必要な技術的支援は見込めない。そこでプーチン政権が最も期待しているのが日本だという。プーチン政権は、日本に対して時に強硬姿勢を取るように見えることもあるが、基本的には日本重視の姿勢が見られ、北方領土問題解決の意欲を持っていると指摘される。

  私自身の関心としては、現代ロシアの外交戦略にもユーラシア主義の思想的影響が色濃く表れているという点が目を引いた。ユーラシア主義についてはこちら浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』(成文社、2010年)を紹介しながら触れたことがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

最近読んだ台湾の中文書3冊

  台湾で最近刊行された本を3冊、別館ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」にて紹介した。

鍾明宏《一九四六──被遺忘的台籍青年》(沐風文化出版、2014年)
  日本敗戦の1945年から中華人民共和国が成立する1949年に至るまでの激動期、海峡両岸をまたがって様々な人の動きがあった。本書で取り上げられるテーマは1946年に中国大陸へ渡った台湾人留学生。台湾海峡が分断されて帰れなくなった後、双方の政治的事情からタブーとなって、その存在が歴史の暗闇の中に消えてしまった人々も多い。著者は大陸でも調査を繰り返し、こうした悲劇的な人々の記憶を遅まきながらも掘り起こそうとした労作である。中には日本と密接な関わりがある人々もいる。詳しくはこちらを参照のこと。

蕭文《水交社記憶》(臺灣商務印書館、2014年)
  台南の市街地の南側に「水交社」と呼ばれる一角がある。日本の近代史に関心がある人なら、旧日本海軍将校の親睦組織を想起するだろうが、この地名はまさにその「水交社」に由来する。自身も「水交社」で育った著者は、ここに日本海軍航空隊が来る以前の歴史から戦後の眷村における生活光景まで史料を調べ上げ、当時を記憶する老人たちへのインタビューをまじえながら「水交社」という土地の変遷を丹念に描き出している。台湾を特徴づける歴史的重層性が、この「水交社」という限られた区域からも如実に見えてくるのが面白い。詳しくはこちらを参照のこと。

蘇起《兩岸波濤二十年紀實》(遠見天下文化、2014年)
  本書は1988年の蒋経国死去による李登輝の総統就任から2008年の馬英九の総統当選までの二十年間にわたり、時に一触即発の危険性をはらんできた中台関係を分析している。著者は政治学者で、基本的な立場は「統一」でも「独立」でもなく、「現状維持」によって中国と衝突する危険性を回避する方策を求める点にある。著者自身が国民党政権のブレーンとして両岸政策の策定に関わった経験が本書に盛り込まれているが、本書中の記述に国民党名誉主席・連戦が中国共産党側に情報を漏らしたと推測される箇所があることが台湾のマスコミで報道された。詳しくはこちらを参照のこと。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014年9月19日 (金)

廣瀬陽子『未承認国家と覇権なき世界』

廣瀬陽子『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス、2014年)

  紛争が膠着状態に陥りつつあるウクライナ情勢。親ロシア派が多数を占めるクリミア半島はクリミア共和国として独立宣言をした後にロシアへ併合され、同様に東部ではドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国が独立を宣言し上でノヴォロシア人民共和国連邦を結成した。それぞれ「共和国」を名乗ってはいても、国家として認知したのはロシアだけ。このように自ら主権国家と宣言しながらも国際的な承認を受けていない自称「国家」を「未(非)承認国家」という。

  ウクライナ情勢のケースからもうかがわれるように、多民族状況において不満を感じたマイノリティーが自前の国家を持つことを求める(もしくは隣の同族との統合を求める)際に「未承認国家」がしばしば現れる。民族紛争が収まらない現代の国際情勢を見渡す上で必須のキーワードと思われるが、なかなか適切な解説書が見当たらなかった。

  そもそも「国家とは何か?」という問いに一言で答えるのは困難だが、一般的にはモンテヴィデオ宣言で示された領土、国民、主権という3要件が必要とされる。こうした要件を備え、外交的な働きかけをしながらも国家承認を受けられない状態の「国家」が「未承認国家」となる。「未承認国家」は民族自決の原則を踏まえて自らの権利を主張する。他方で、国際社会は現行のシステムの変更に伴う混乱を避けるため、むしろ領土保全の原則の方を優先させる傾向がある(ただし、第一次世界大戦後、第二次世界大戦後、冷戦終結後の時期は逆に民族自決の原則を優先させる風潮があった)。

  他方で、コソヴォが欧米から国家承認を受けたケースは「パンドラの箱をあけてしまった」と本書では指摘されている。欧米は領土保全の原則を堅持して基本的には「未承認国家」の国家承認には消極的だが、コソヴォに関しては例外として認めてしまった。こうしたダブルスタンダードは、その後、ロシアが自らの戦略上の事情からグルジア内部のアブハジアと南オセチアを国家承認した際に自己正当化の理由にも使われてしまう。

  かつてはパトロン国家の傀儡政権(例えば、旧「大日本帝国」が作り上げた「満洲国」)となる場合も多かったが、近年はパトロン国家の意向にかかわらず独自の主張で動くケースも増えている。「未承認国家」では権威主義的支配が敷かれ、闇経済が跋扈するなど多くの問題が見られる一方で、住民からの支持を調達し、対外的に正統性をアピールする必要から民主化・自由化に向けて努力するケースもあるというのが興味深い。具体例としてはコソヴォと台湾が挙げられている。

 「未承認国家」の生成原因や内実はケース・バイ・ケースで一般論はなかなか難しいし、解決方法も模索状態だ。「共同国家」という提案もあるようだが、極端な話、現状維持が最も現実的という悲観的な考え方もあり得る。

  著者はコーカサスをはじめ旧ソ連地域の研究者であり、この地域には「未承認国家」が多数出現している。本書は主に旧ユーゴのコソヴォ、旧ソ連モルドヴァの沿ドニエストル共和国、アルメニア・アゼルバイジャン紛争の焦点となっているナゴルノ・カラバフ共和国、グルジア紛争といった具体的な事例の経過を検討しながら、この問題の複雑な難しさをヴィヴィッドに描き出し、より広いコンテクストで把握するためのたたき台となる議論を提示してくれている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月17日 (水)

鈴木健太・百瀬亮司・亀田真澄・山崎信一『アイラブユーゴ1 ユーゴスラヴィア・ノスタルジー大人編』

鈴木健太・百瀬亮司・亀田真澄・山崎信一『自主管理社会趣味Vol.1 アイラブユーゴ1 ユーゴスラヴィア・ノスタルジー大人編』(社会評論社、2014年)

  ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国が崩壊してからもう20年以上経つ。クロアチア、スロヴェニア両共和国の独立、さらにボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争と文字通り血で血を洗う凄惨な民族紛争が続いたため、今ではユーゴといえば偏狭なナショナリズムがもたらした悲劇の地というイメージが強い。社会主義体制の崩壊とそこから湧き出た民族紛争。20世紀の悲劇がこのユーゴでまさに縮図となって現れ出たと見ることもできるだろう。

  しかしながら、本書の立場はあくまでも「共産趣味」。と言ってもピンとこない人もいるかもしれないが、どんな政治体制の中でも人々の日常生活は連綿と続いている。ありし日の社会主義体制下におけるそうした生活光景からレトロでノスタルジックな感覚を見出し、ある種の愛おしみをもって振り返ってみようというのが基本的な趣旨。渋面作って政治的に生真面目な問題を語るわけではないが、かといって決して不真面目ではない。執筆陣はユーゴ崩壊後に研究を始めた若手世代であり、距離をおいて見られるからこそ、特定の政治的イシューには偏らない等身大のユーゴスラヴィアを描き出すことができる。

  「大人編」と題したこの第1巻では、「政治」「ティトー」「社会」「対外関係」という4つのテーマでまとめられている。項目ごとに読み切りのエッセイが並べられており、豊富なカラー写真がいっそう興味を掻き立てる。ユーゴは1948年にソ連と対立してコミンフォルムから追放されて以来、西側とも一定の関係を持ち、国内体制的にも社会主義体制の割には比較的に自由で豊かという一面も持っていた。ミニスカートの女性が闊歩する写真も収録されているが、そうした社会背景からみれば不思議ではない。ティトーの奔放な女性関係とか、取り違えられた労働英雄といったゴシップネタもたっぷり。晩餐会で昭和天皇と対面するティトーの写真も紹介されるなど、日本との関係にも言及されている。

  一つ一つの項目を読んでいくと、多民族状況を反映した事情もあちこちから垣間見られる。真面目に現代史を勉強したい人にとっても、読みやすくかつ有用な参考書となるだろう。ユーゴスラヴィア現代史という、日本人にとってあまり馴染みがなく地味なテーマであるにもかかわらず、このように人目を引く形に仕立て上げた手腕には感心する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月18日 (金)

篠田英朗『平和構築入門――その思想と方法を問いなおす』

篠田英朗『平和構築入門――その思想と方法を問いなおす』(ちくま新書、2013年)

 第二次世界大戦後、国家同士の戦争は減少している一方、紛争は主に内戦という形で燃え上がるケースが目立っている。ポストモダン系の思想、もしくは経済的な新自由主義の立場からは主権国家の限界がしばしば語られる。しかしながら、国民の生命の安全を守る役割、社会契約説における最低限の義務すら果たすことの出来ない「脆弱国家」においては、むしろ国家としての機能をいかに構築するかが根本的なテーマとなる。社会契約説的な考え方からすれば、国家があってこそ人権を守り得る。それゆえにこそ、平和構築は同時に国家構築のプロセスと重なってくる(なお、アフリカの紛争地帯を調査したポール・コリアーは、紛争予防のためにインフラとしての国家を構築する必要を指摘している。Paul Collier, Wars, Guns, and Votes: Democracy in Dangerous Places, HarperCollins, 2009→こちら)。

 ガバナンスの能力を欠いた「劣った」人々をパターナリスティックに保護してやる、という考え方に対して本書は強く戒める。紛争多発地帯では20世紀後半に独立した国々がほとんどで、政治・経済・社会のあらゆる面で基本的なインフラを欠如させたまま独り立ちを強いられた点では、すでに長い時間をかけてインフラを蓄積させてきた先進国との間に出発点から格差があった。何よりも、国際秩序が一体化しつつある中、その一部で生じた綻びは構造的な問題であり、まさにその国際秩序の中で生きる我々自身にとって決して他人事とは言えない。内政不干渉等の原則によって主権国家同士の関係を律してきた従来の国際社会観より一歩進んで、各国家の内部においても人権など普遍的な価値規範の遵守を求める「新しい国際立憲主義」が20世紀末になって現われたと本書では指摘される。著者の『「国家主権」という思想──国際立憲主義への軌跡』(勁草書房、2012年→こちら)では、ある地域で国家が責任を果たすことができない時に国際社会による介入を社会契約説の考え方を援用しながら正当化する論点が示されていた。

 無辜の人々が殺されていく緊急事態を目の当たりにしたとき、軍事介入という選択肢を否定しさることはできない。人道的介入の是非をめぐっては議論が尽きないが、軍事介入を行う大国の政治的思惑や、介入した結果として生ずる新たな混乱への警戒感がある一方、ルワンダのジェノサイドを国際社会が傍観したことへの当事者の絶望感も深かった(例えば、Roméo Dallaire, Shake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda, New York: Carroll &Graf Publishers, 2005→こちらPaul Rusesabagina, An Ordinary Man, Penguin Books, 2007→こちら)。平和構築にあたっての軍事力行使は単純に善悪で割り切れる問題ではない。同様のことが紛争後にもあり得る。例えば、ルワンダ紛争を逃れて多くの人々が流れ込んだ隣国ザイールの難民キャンプで人道援助活動が行われた。実は、そこに他ならぬルワンダの虐殺者が多数逃げ込んでおり、結果として人道援助活動が犯罪者を保護する形になってしまったのだという。内戦終結後のルワンダ政府軍はこれを非難して攻め込み、実力で難民キャンプを解体、報復で多くの人々が殺害されたばかりか、その過程でザイールのモブツ政権が崩壊、コンゴ紛争が激化した。

 動機は人道的なものであっても、どのような結果が得られるのか見通しがつかない。そうした複雑な矛盾は、平和構築活動のあらゆる局面に見出される。本書は、政治、軍事、法律、開発、人道といった分野ごとに平和構築が直面する課題を描き出しており、理念と現実との解き難いアポリアを整理して考えるのに必要な論点を提示してくれている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月23日 (火)

月村太郎『民族紛争』

月村太郎『民族紛争』(岩波新書、2013年)

 本書は、第Ⅰ部でスリランカ、クロアチアとボスニア、ルワンダ、ナゴルノ・カラバフ、キプロス、コソヴォの6つの具体的な紛争事例について紹介し、これらの事例を通して一般論として抽出できる論点を第Ⅱ部で考察するという構成になっている。

 「民族」なる概念の定義がそもそも一義的なものではあり得ない以上、抽象概念として「民族紛争」という言葉を使うにしても、ケース・バイ・ケースの具体的な関係性から捉え直していくしかない。そうした意味で、一般論にまとめてしまうのは困難であろう。だが、一定の枠組みを設定しないと問題点は見えてこないわけで、たたき台をつくる必要はある。内容的にはおのずと、紛争一般をモデル化する中で「民族」的要素がどのように関わり合っているのかを整理するものとなる。

 民族紛争にはどのような発生要因があるのだろうか。複数民族の居住密度が近いと「陣取り合戦」が起こりやすい。体制変動、とりわけ民主化により、それまで権力を独占していた少数派が支配的地位から転落しかねない場合、報復を恐れて態度を硬化させかねない(現在のシリア情勢が想起される)。経済情勢の悪化も紛争の要因となるが、貧困そのものよりも、他者との比較により自身の惨めさを強調する「相対的剥奪」によって、自分が惨めである理由を他民族に投影する「犯人捜し」の方が顕著に見られる。また、領土紛争に見られるように、歴史主義的な言説も往々にして援用される。

 なお、宗教的相違も民族紛争で見られるのは確かだが、それだけで紛争が発生するわけではない。「むしろ、我々が民族紛争の構図を単純化して理解しようとする場合に、宗教が持ち出されることが多いのである。そして、単純化はしばしば正しい理解を妨げることにもなる」と指摘される。

 こうした要因が昂じていくと、相手民族に対して単に敵意があるというレベルを超えて、こちらがいつ攻撃されるか分からないという恐怖が芽生えてくる。敵対意識によってコミュニケーションが不十分であるため、相手に対する恐怖が相互反応的に拡大していくプロセスが「安全保障ジレンマ」として説明される。民衆の間には不安や不満が鬱積し始め、そうしたエネルギーがエリートによって特定の方向へと誘導され、民族紛争として燃え上がっていく。

 指導者のリーダーシップが脆弱だと、強硬論が台頭したときに抑え込むことができず、紛争が発生・長期化しかねない。他方で、セルビアのミロシェヴィッチのように強硬なナショナリズムを煽動することでリーダーシップを獲得したケースもあり、リーダーシップは両刃の剣という印象も受ける。なお、民族紛争では相手民族を殺戮するばかりでなく、自民族内の穏健派が「裏切り者」として真っ先に殺害されるケースが頻繁に見られる。

 紛争終結後の平和構築においては民主化が目指される。ただし、民主主義が万能というわけではない。多数派民族は選挙を通じて自らの独占的支配を正当化しかねず、そうした懸念や利権争いから、途上国では民主化へ向けた選挙がかえって暴力を誘発しかねない(例えば、Paul Collier, Wars, Guns, and Votes: Democracy in Dangerous Places, HarperCollins, 2009[邦訳はポール・コリアー『民主主義がアフリカ経済を殺す』甘糟智子訳、日経BP社、2010年]を参照のこと)。

 このような「民主主義のパラドックス」に対しては、民族的対立を超えた次元で政治的正統性を担保する国民国家の形成が必要とされる。つまり、選挙を実施する以前に、同じ一つの国家に暮らしているという自覚が求められる。価値的対象としてではなく、社会制度を円滑に進めるインフラとしての国民国家を活用しようという考え方である(コリアーがアフリカの事例をもとに主張している)。これを実現するには、それぞれの民族的アイデンティティーを前提としつつも、共通の国民意識を社会化・内面化していく必要がある。他方でこれは、作り上げられた国民意識が上からのアイデンティティーの押し付け、多数派への同化圧力へと転化して、少数派の民族的アイデンティティーを抑圧してしまう可能性も否定できないのではなかろうか(例えば、中国における民族問題が想起される)。

 少数派民族が独立を図れば中央政府と衝突するし、まだら模様に混住している場合には紛争が泥沼化する。そうしたことを考え合わせると、多民族主義が望ましいのは確かである。だが、多数派民族の独走が常に懸念される一方、少数派への配慮が国家全体の有効な意思決定を阻害してしまうこともしばしばあり得る。文化的アイデンティティーが分立し、言語的なコミュニケーションが複雑化すると、国家としての統一感も保てなくなるかもしれない。

 解き難いアポリアをどのように考えたらいいのか。一般論があり得ない以上、解決の糸口もケース・バイ・ケースとしか言いようがない。武力紛争が当面終結したからと言って、火種がくすぶっていれば解決からは程遠い。何を以て解決に成功したとみなすのかは難しいが、例えば、多民族主義がビルトインされた社会のあり方も成功例として事例分析に加えていく方が、民族紛争というテーマをよりトータルな視野で理解するのに資するかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年5月14日 (火)

佐藤孝一『「中国脅威論」とASEAN諸国──安全保障・経済をめぐる会議外交の展開』

佐藤孝一『「中国脅威論」とASEAN諸国──安全保障・経済をめぐる会議外交の展開』(勁草書房、2012年)

ASEANはもともと隣国同士で紛争の火種がくすぶっていたので域内諸国間の摩擦を鎮静化することを目的として出発し、またベトナム戦争の飛び火も恐れて、1967年にインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの5カ国で結成された。ただし、互いの疑心暗鬼は消えておらず、ソ連や中国を刺激したくないという思惑もあったため、拘束力の弱い宣言で設立され、目立つ機構化は避けるという形で出発した。ASEANは弱小国の集まりである。しかし、1国では相手にしてもらえなくても域外大国とも集団交渉で協議を進めてきたのが持ち味であり、さらに交渉相手国に応じて国際会議を分離し、会議外交の重層化・多元化という特徴を示すようになっている。

小国の集まりであるASEANにとって、良くも悪くも巨大な存在感を持つ中国の動向には敏感となる。「中国脅威論」に基づいて提起されたテーマは下記に挙げたように様々であるが、こうした課題に直面したASEAN諸国は「弱者の武器」としての会議外交によってどのように抑え込みを図ってきたのか? 本書では具体的なケースが検討されるが、ASEANの会議外交は能力に見合った成果を挙げているものの、大国相手の限界も同時に浮き彫りにされる。

「中国脅威論」として6つの要素が示されているが、ステージごとに考えると、歴史的問題(1940年代~1989年)→南シナ海紛争・SEANWFZ構想(1974~2005年)→経済問題(1993~2007年)→非伝統的安全保障問題(2003~2007年)という時期区分ができる。つまり、当初は政治的紛争が中心であったが、近年では経済や保健衛生など政治的能力・意思では解決のできない分野へと焦点が移りつつあることがうかがえる。

・「中国脅威論」の要素として何が挙げられるか?
①歴史的要素:中国共産党が東南アジア諸国内の共産党を支援した過去。
②軍事的要素:国防費の増大及び国防の近代化。中国軍の海洋進出。中国の武器移転。
③政治的要素:領土・領海紛争。中国における愛国主義の高まり。「大中華」形成への懸念。華人が多いシンガポールは中国との取引が増えるにつれて中国べったりという印象からASEAN内で孤立する懸念。民主主義・人権問題。
④経済的要素:貿易摩擦。「大中華」経済圏の懸念。中国における人口増大及びエネルギー需要の急増。
⑤非伝統的安全保障要素:環境問題。感染症や食品衛生の問題。
⑥規模の要素:巨大さそのものによる圧迫感。

・ASEANレジームの特徴
①拘束が少なく、政策決定は全会一致とする緩やかな会議形態→最大公約数的な要求しか提起できない一方、域外の交渉相手国(中国)を怒らせないようトーンダウンするケースもある。
② 紛争当事者の間の対話の維持と継続を優先させる。
③国際会議を地域協力の促進の基礎とする。
④必要に応じて新たな国際会議を設立して組織の強化と国際環境への適応を図る。
⑤会議の主催国・議長国を加盟諸国が担当。
⑥非公式協議の活用。

(以下は関心を持った箇所のメモ)
・投資額や出稼ぎ労働者の行き先などを考えるとASEANにとって台湾の経済的重要性は無視できない。当然ながら、対中関係で大きなネックとなるが、中国側の「1つの中国」政策に一貫性がないため、ASEAN側は難しい舵取りを迫られる。例えば、シンガポールは要人の台湾来訪に際して中国側に配慮していたが、突如、中国側の態度が強硬になった。陳水扁政権で中台関係が悪化していた頃で、シンガポールに対する反発というよりは、台湾との交流を抑止する手段としてシンガポールを非難した。裏返せば、中台関係が安定していれば、ASEAN諸国の台湾との関係も安定する。

・南シナ海の領土紛争には多くの当事国の利害が錯綜しており、とりわけスプラトリー諸島には中国、台湾、ベトナム、マレーシア、フィリピン、ブルネイが関わる。ASEAN加盟国同士でも領土対立があるため一枚岩ではない。当然ながら自国の権益を優先して考えるため、会議外交の持ち味を出しづらく、中国は会議外交に応ずるのではなく二国間交渉を進めようとした。これに応じて、例えばマレーシアは、スプラトリー諸島の定義が定まっていないことに着目し、その範囲を狭く定義し直す中で自らの主張する島嶼はそこから外し、その上で中国の主権を認めるという妥協案で中国側と交渉する意向もあったらしい。また、軍事的に劣勢なフィリピンに対しては他の加盟国も容赦ない態度を取った。他方、フィリピンが領有を主張するミスチーフ礁を人民解放軍が占拠した際(1995年)、中国の外交部はその事実を知らなかったという。2002年、強制力のない「南シナ海における係争当事者間の行動宣言」が合意され、2003年に中国はTAC(東南アジア友好協力条約)に域外国として加盟、「平和と繁栄のためのASEAN中国戦略的パートナーシップ宣言」も出された。これは外相主導の合意→中国では外交部と人民解放軍との連携が密ではないため、人民解放軍を加えると交渉が紛糾する恐れがあった。こうした合意に拘束力は弱いとはいえ、中国を国際的監視の下に置けた意味では成果と言える。中・比・越の共同探査も行われたが、中国が今後も融和的な態度を取るかどうかは分からない。

・SEANWFZ(東南アジア非核兵器地帯)構想は冷戦の東西対立巻き込まれるのを回避するために出された1971年のZOPFAN(東南アジア平和・自由・中立地帯)宣言までさかのぼるが、1983年からインドネシア政府の主導で議論され、1997年に条約として発効した。ただし、条約化しても非力なASEAN諸国では実現するのは難しい。なぜ急いで条約化したのか? まず会議外交の結集点としての役割があるだろうが、SEANWFZ条約に含まれる次の2点、すなわち、第一に加盟国領域だけでなく大陸棚や排他的経済水域まで及び、第二に原子力潜水艦の航行が制限されることを考えると、中国向けのメッセージとしての意味合いもあるのではないかと推測される。南シナ海にのびたU字線は中国の領土拡張の意思、ミスチーフ礁の占拠はその具体的な実施、核実験や台湾危機におけるミサイル演習など軍事力の誇示、さらに台湾危機は台湾への出稼ぎにも影響、こういった要因をASEAN側は脅威と受け止めていた。

・東南アジアの華人が市場原理に基づいて対中投資を進めたとしても、他のエスニック・グループから「大中華経済圏」「中国脅威論」の猜疑心を招いてしまうおそれ。華人が多いシンガポールの政治指導者はASEAN内部での孤立を懸念して火消しに躍起になっていた。また、シンガポール製品の輸出市場を中国に独占されるのではないかという要素も強かった。2002年に締結されたACFTA(ASEAN中国自由貿易地域)は中国からの譲歩も得ており、会議外交の成果。

・非伝統的安全保障問題の一例として、中国で発生したSARSの拡大。WHOは中国を非難したため中国の態度は硬くなっていたが、シンガポールのゴー・チョクドン首相のイニシアティブによってWHOとASEAN首脳会議、ASEAN中国首脳会議が連携し、SARS拡散食い止めに尽力。ASEAN側は会議外交の枠組みを通して中国を説得できたが、中国の責任追及まではできなかった。他に、メコン川の水資源配分に関わる環境問題。食品衛生問題では自らの非を認めることはなく、逆に報復措置→ASEANは会議外交の枠組みで粘り強く交渉。相手のメンツをつぶさない会議外交方式は中国相手には一定の効果。中国国内において悪しき官僚主義や秘密主義で横の連携ができないことによる対策や情報伝達の遅れ、不作為も「中国脅威論」の政治的要素となる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年5月 6日 (月)

福田円『中国外交と台湾──「一つの中国」原則の起源』

福田円『中国外交と台湾──「一つの中国」原則の起源』(慶應義塾大学出版会、2013年)

 現在の東アジア情勢を複雑にしている焦点の一つは台湾海峡にある。そして、「一つの中国」という外交原則が中台関係のみならず、日本を含めて双方と関わりを持とうとする国々の態度を難しくしていることは周知の通りであろう。しかしながら、蒋介石政権は「漢賊並び立たず」という時代がかった表現で「一つの中国」を主張していた一方、中国政府の側で「一つの中国」言説が頻出するようになったのは1970年代以降のことだという。

 列強に侵略された屈辱の記憶から主権回復の象徴として「一つの中国」がしばしば語られる。ただし、実際の政治的経緯を見てみると、中国政府にとって「一つの中国」という原則は必ずしもアプリオリな所与ではなく、むしろ国際情勢の中でのせめぎ合いを通してプラグマティックに形成されたものなのではないか? そうした問題意識をもとに、本書は中台及び関係諸国の外交文書を活用したマルチアーカイヴァルの手法によって検証を進め、「台湾解放」の論理が「一つの中国」原則へと変容していく過程を明らかにする。

 国共内戦の延長として中国政府は「台湾解放」を目指していたが、台湾の国府はアメリカのバックアップを受けている以上、おいそれとは手が出せない。戦略的焦点は「台湾解放」から金門・馬祖の「解放」へと向けられたが、アメリカ側の出方が読めず、膠着状態に陥っていた。1954年9月の金門砲撃(第1次台湾海峡危機)にはアメリカ側の意図や中国国内での反応をうかがう情報収集としての側面があったらしい。

 毛沢東は、金門・馬祖を蒋介石の手元に残し、台湾・澎湖と一括して「解放」することを長期目標に据えて先送りした。また、アメリカも蒋介石が呼号する「大陸反攻」に巻き込まれてしまうことを懸念しており、台湾海峡は冷戦構造における境界線の一つとして既成事実化していく。中国の指導者は冷戦構造を利用して、「解放」できないながらも後退もしないギリギリのバランスを保とうとした。だが、それは蒋介石の「大陸反攻」を抑え込むことになった一方で、こうした分断状態は中台という政治主体が並び立つ、いわゆる「二つの中国」が国際社会にそのまま受け入れられかねない風潮も生み出すことになった。

 中ソ対立、インドシナ情勢など1960年代に国際情勢が新たな展開を示す中、毛沢東は「二つの中間地帯論」を提起する。つまり、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの第一中間地帯、西欧諸国・カナダ・日本など第二中間地帯との関係構築を模索することで米ソの覇権主義に対抗するという方針である。本書では、ラオス連合政府、フランス、旧仏領アフリカ諸国との交渉が分析されるが、いずれも国府との関係をすでに持っており、これらの諸国との外交関係樹立は対応を誤ると「二つの中国」を具現化しかねない恐れがあった。しかし、外交的局面の打開を急いでいた中国は、フランスに対しては譲歩せざるを得なかったものの、ラオスやアフリカ諸国に対しては「唯一の合法政府」としての地位を認めさせることに成功した。こうした交渉の中から中国は「一つの中国」という外交原則を明確にしていく。

 本書では、「台湾解放」の実現が見通せなくなった中、「台湾解放」を諦めないながらも実質的にはそれに代わる論理として「一つの中国」原則が形成されたと捉えている。ただ、「台湾解放」へのこだわりそのものが「一つの中国」意識の暗黙的意思表示なのではないのだろうか? こうした疑問について明確には説明されていないのだが、外交原則としての顕在化には軍事的攻勢から外交的攻勢への転換が伴っている点に注目していると理解していいのだろうか? 

 いずれにせよ、時代を通じて妥協の余地の無い所与の前提と考えられている「一つの中国」論でも、過去の経緯を検証してみると、時代的・国際的条件とのすり合わせの中で徐々に形成されてきたことを実証的に示そうとしたのが本書の特色である。とするならば、現時点で政治交渉を難しくしている原則であっても可変性が皆無とは言えない。環境整備の進め方をどのように工夫するか、そうした政策面での建設的な含意を読み取ることもできるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月19日 (金)

高橋和夫『イランとアメリカ──歴史から読む「愛と憎しみ」の構図』

高橋和夫『イランとアメリカ──歴史から読む「愛と憎しみ」の構図』(朝日新書、2013年)

 イラクのフセイン政権崩壊、「アラブの春」といった激動の中、シリアの内戦が膠着状態にあることに顕著なように先行きがますます不透明になりつつある中東情勢。敵/味方の関係が複雑に入り組んだパズルを読み解くのはなかなか容易ではない。核開発疑惑、イスラエルとの一触即発の対立、こうした問題からアメリカの対中東政策で最もナーバスなのが地域大国イランの存在である。実はイラクやアフガニスタンの安定化を図る上でイランとアメリカが協力できる余地もあったのだが、実際にはすれ違ったままだ。イランの政治外交が持つ複雑な性格を踏まえておかないと、中東情勢の理解は表面的なもので終わってしまう。本書は、そうしたイランの「複雑さ」を歴史的な背景から捉えなおそうとしており、格好な入門書である。

 1979年以降のイラン・イスラム革命自体のプロセスも複雑だ。そもそもシーア派宗教指導者の主流派は政治への関与を否定するのが伝統的考えで、宗教指導者による統治を打ち出したホメイニの方針は独特だった(主流派は政治から一歩引いているからこそ積極的な政治勢力とはなり得ない)。彼は政治への嗅覚が実に鋭かった。宗教者からリベラル派、左派までシャーの抑圧的体制に反対するあらゆる勢力を結集させるシンボルとなる。宗教指導者が革命の実権を握る上でアメリカ大使館人質事件が大きな転換点となった。リベラル派も参画した新政権は対米関係の悪化を望んでおらず、穏便な解決を模索していたが、ホメイニは学生たちにゴーサインを出した。人質事件による対米関係の悪化は、外敵による脅威を演出することになり、さらに隣国イラクのフセイン大統領がイランの混乱に目をつけて侵攻してくると、国民の団結意識がむしろ高まった。こうした過程でリベラル派や左派は追い落とされ、宗教指導者のヘゲモニーが確立する。大使館人質事件は外交的には非理性的だったが、国内での権力掌握という点では政治的に合理性を持っていたとも言える。

 なお、ホメイニが国外追放されるきっかけになった1963年暴動における彼の演説を聞いた革命第一世代(ハメネイ、ラフサンジャニ、ハタミ、ムサビなど)と、イラン・イラク戦争の高揚感の中で育った革命第二世代(アフマディネジャド)との肌合いの相違が、その後の政争の背景にあるという指摘に関心を持った。

 テヘランのアメリカ大使館人質事件はアメリカ世論の心象を極めて悪くした。他方、イラン側としても1953年のモサデク首相失脚のクーデターの背後にCIAがいた。シャーの抑圧体制をアメリカが支えていたことに対する不信感が根強く、アメリカの行動を「邪推する」傾向が定着してしまった。しかしながら、イギリスとロシア(ソ連)とのグレート・ゲームに翻弄される中、アメリカと友好関係を持とうとした時期もあり、イランの人々の対米感情は複雑である。

 いくつか気になったこと。イランはシーア派である。アリーをムハンマドの正統な後継者と考えるシーア派の成り立ちの経緯からして、アブー・バクル、オマル、オスマンは忌避される。これらの名前をシーア派の人がつけることはあり得ない。ところが、中世ペルシアで『ルバイヤート』を書いたのはオマル・ハイヤームはシーア派ではなかった。アラブという多数派に抗する民族主義感情からペルシア人はシーア派を選んだという考え方がトインビー以来、定着していたが、実際にはトルコ系シーア派のサファヴィー朝の時代に改宗したの直接の原因だった。

 シャーのご学友として最側近だった秘密警察シャヴァック長官のファルドゥースト将軍は、イスラム革命後の新政権でも秘密警察シャヴァマ長官として生き残ったらしい(アメリカのフーバーFBI長官を想起させる)。

 それから、日本との関わりでは、イランと国交を結んだ1929年、テヘランに公使館を開設した土地はモサデク家から借り上げたものだった。戦後、モサデク首相が石油会社国有化を宣言する中で日本の商社が石油を求めてイランへ渡ったのは、日本が国交を回復しようとしていたた時期だが、モサデク首相は「テナントの復帰を歓迎する」と冗談を言ったそうだ。

 イラン情勢については以前に下記の本を取り上げたことがあるので、ご参考までに。
吉村慎太郎『イラン・イスラーム体制とは何か』
・レイ・タケイ『隠されたイラン──イスラーム共和国のパラドックスと権力』
・レイ・タキー『革命の守護者:アヤトラたちの時代のイランと世界』
・ジョン・W・リンバート『イランとの交渉:歴史の亡霊に取り組む』
・スティーヴン・キンザー『すべてシャーの臣:アメリカによるクーデターと中東テロの起源』
・スティーヴン・キンザー『リセット:イラン・トルコ・アメリカの将来』
ヴァーリ・ナスル『ザ・シーア・リヴァイバル:イスラム内部の衝突がいかに未来を決めるか』

 また、イラン・イスラム革命においてイスラム信仰とマルクス主義を融合させた思想に熱狂した若者たちの活動が一つの駆動力となっていたが、その思想的指導者だったアリー・シャリーアティー(ただし、イスラム革命前に亡命先で暗殺された)の『イスラーム再構築の思想──新たな社会へのまなざし』も取り上げた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013年4月16日 (火)

石弘之・石紀美子『鉄条網の歴史──自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明』

石弘之・石紀美子『鉄条網の歴史──自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明』洋泉社、2013年

 花壇が荒らされて困るから何とかして欲しい──そんなありふれた要望が鉄条網発明のきっかけだった。普通のワイヤーとトゲ付きのワイヤーとを組み合わせて安定化させるというちょっとした工夫から19世紀後半のアメリカで実用化されたグリッデン型鉄条網はあっという間に世界中へと普及していく。

 基本的な原理はシンプルで、その後も特段の技術的発展をするわけではない。だが、このローテクは、様々な場面で要請される応用力を持っていた。本来何もないところに人為的な障壁を作るのが鉄条網の目的である。それが力による排除という意図と結びつくと非常に効果的な作用を示す。本書は、鉄条網に視点を据えて人類の負の歴史を描き出していく。

 アメリカの西部開拓において土地の囲い込みに鉄条網は活用された。しかしながら、鉄条網を境として作り上げられた植生の変化によって生態系が乱されて土壌の悪化をもたらし、土地が荒廃する一因ともなってしまった。また、先住民を排除する上でも鉄条網は使われた。

 戦争でも鉄条網は活躍する。防御に効果的というだけでなく、例えば要塞戦において機関銃と組み合わせると絶大的な威力を発揮した。捕虜を捕獲すれば強制収容所で鉄条網が使われる。さらにはジェノサイドといった人類的犯罪で鉄条網は必須なアイテムとなった。

 陸続きの国境線に鉄条網を張り巡らせると、国境という抽象観念の指標となる。隣り合う国の間で経済的水準の差が大きければ、貧富の格差が浮かび上がってくる。

 このように積み上げられた鉄条網の「実績」は、敵と味方、支配と従属、富者と貧者といった軋轢を可視化させ、そうしたシンボルとして人々の脳裏に刻み込まれていく。例えば、ボスニア紛争において、鉄条網を背景にした人々の映像はジェノサイドを想起させて国際世論の喚起に大きな力を発揮した(PR会社のシンボル操作によってボスニア・ヘルツェゴビナ政府が優位に立った経緯については高木徹『戦争広告代理店』[講談社文庫、2005年]を参照のこと→こちら。ただし、本書『鉄条網の歴史』の著者自身もボスニア紛争の現場を実見しており、ボスニア側が被った被害を過小評価はできないと指摘している)。

 他方で、鉄条網による隔離が思わぬ副産物を作り出したケースも見られる。例えば、南北朝鮮を隔てる軍事境界線の内側には人の立ち入りが禁じられているため、豊かな生態系が出現しているという。「外敵」を排除するために用いられた鉄条網、その「外敵」を他ならぬ人間自身に措定したとき自然環境保護につながり得るというのは皮肉なことではある。道具は使いよう、ということか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧