カテゴリー「映画」の173件の記事

2009年12月20日 (日)

「誰がため」

「誰がため」

 コペンハーゲンのレトロで清潔感のある道路の石畳、そこに響き渡ったドイツ軍の軍靴の音。ナチス・ドイツ占領下のデンマークではレジスタンス運動が高まり、この美しい街並もあちこちで生々しい傷痕を見せている。

 銃を懐にターゲットへと近寄る二人、フラメンとシトロンが狙うのはナチに魂を売った裏切り者。組織上層部の命令で暗殺に手を染める二人だが、あるターゲットと交わした会話をきっかけに、心の中で疑念がきざす。ひょっとして、俺たちは無実の人間を殺しているのではないか? ゲシュタポのトップを直接狙いたいと上層部に言っても、それは絶対にダメだ、と釘をさされてしまう。誰の言うことなら信用できるのか? 疑心暗鬼で神経を憔悴させる中、ゲシュタポの包囲網は狭まりつつある──。

 二人とも戦後は“英雄”とされた実在の人物だという。最新の史料公開を踏まえてこの映画は作られているそうで、その中にはデンマーク現代史のタブーに触れる側面もあるらしい。自分たちのやっていることは正しいことなのかという疑いはシリアスなものである。それ以上に、こいつは裏切り者なのか、それとも二重スパイなのか、罠にはめられているのか、そのように情報のパズルがかみ合いそうでかみ合わない迷宮的な緊張感には、二時間以上の長丁場をグイグイ引っ張っていく迫力があった。

【データ】
原題:Flammen & Citronen
監督・脚本:オーレ・クリスチャン・マセン
出演:トゥーレ・リントハート、マッツ・ミケルセン、クリスチャン・ベルケル
2008年/デンマーク・チェコ・ドイツ/136分
(2009年12月20日、渋谷、シネマライズにて)

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2009年12月13日 (日)

「倫敦から来た男」

「倫敦から来た男」

 霧が立ち込める冬の夜、波止場にイギリスから来た船が接岸する。ロンドンで大金を盗んだ男たち二人が仲間割れして一人が殺され、その現場を目撃したマロワンは、男たちの残した鞄を拾い上げた。中に入っていた大金を見たマロワンの心中にきざした変化は、やがて運命を変えていく。

 モノクロームの映像は影と光の対照を印象的な強さで際立たせる。マロワンの寒々とした心象風景を映し出しているようでいて、同時にその冷たさにはどこか抒情的な美しさすら漂う。廃墟とまでは言わないが、うらぶれた感じの街並が良い。セリフに呼応する俳優の表情や仕草、長回しのカメラワークで別々の複数の動きがスムーズに展開、注意深く見ていると一つ一つの映像構成が緻密に計算されているのが分かる。

 原作はジョルジュ・シムノンということでサスペンス映画かと思っていたのだが、そういう趣旨ではないようだ。ストーリーをたどっていくだけだと、正直なところ、眠気を催すかもしれない。むしろ、映像そのものに表われている情感をゆっくりかみしめるタイプの映画だろう。

【データ】
監督:タル・ベーラ
原作:ジョルジュ・シムノン
2007年/ハンガリー・ドイツ・フランス/138分
(2009年12月13日、渋谷、シアター・イメージフォーラムにて)

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2009年12月12日 (土)

「泣きながら生きて」

「泣きながら生きて」

 東京で不法就労という形ながらも懸命に働いて娘の学資のため仕送りを続ける丁尚彪さん、上海に残してきた奥さん、そして娘さん、三人の姿を十年間にわたって撮り続けたドキュメンタリー。社会派的な力みかえりはなく、むしろヒューマン・ドラマとしての内容に引き込まれた。もともとテレビ番組だったが、これを見て感動した大学生の奔走で映画館上映にこぎつけたらしい。

 丁尚彪さんは1989年に35歳で来日。文革で下放されて教育を受ける機会がなかったため一念発起、親戚知友から借金をかき集めて留学したのだという。留学先の日本語学校は北海道の寒村にあった。学資は働いて稼ぐつもりだったし、借金も返さねばならないのだが、過疎化が進む地方に仕事などない(受け入れ先はこうした留学生事情まで把握していなかった)。やむを得ず東京に出て働き始める。大学で学びたいという夢は潰えてしまった。しかし、上海に残してきた娘は進学させたい、そこに夢を託して仕事をいくつも掛け持ちしながら仕送りを続ける。念願かなって娘はアメリカ留学が決まり、トランジットで東京に降り立ったとき再会。さらに、娘に会いに行く妻ともやはりトランジットの折に再会する。13年ぶりであった。空港まで見送りに行きたいのだが、一つ手前の成田駅で降りねばならない。不法滞在のため身分証明書の提示を求められたら困るからだ。

 勉学への意欲はあったにもかかわらず、文革で挫折し、日本でも挫折し、心中にはやりきれない不条理感があったろうに、丁さんは一言も愚痴を言わない。それは前向きというのとはニュアンスが違うが、ひたむきで謙虚な姿には見ていて本当に頭が下がる。娘さんもプレシャーが大きかったかもしれないが、むしろそれが頑張る動機付けになっていたようだ。丁さん、奥さん、娘さん、三人三様に自分の背負っているものへのはっきりした想いがある。互いに負担を掛け合うこと自体が絆となり、生きていく原動力になっている家族の姿がうかがえる。

 不法就労というとネガティヴなイメージになってしまうかもしれないが、事情がやむを得ない人もいる。日本に来ている中国人も多種多様で、そうしたあたりは吉田忠則『見えざる隣人──中国人と日本社会』(日本経済新聞出版社、2009年)で読んだ。

【データ】
企画・演出:張麗玲
ナレーター:段田安則
2006年/108分
(2009年12月11日レイトショー、新宿バルト9にて)

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2009年12月 6日 (日)

「カティンの森」

「カティンの森」

 冒頭、橋の両側から難民が押し寄せてきて鉢合わせするシーンが象徴的である。「どこへ行くつもりだ? ドイツ軍がそこまで来ているんだぞ!」「知らないのか? 昨日、ソ連軍が攻め込んできたんだ!」

 ヒトラーとスターリンの秘密協定によってポーランド分割はすでに決まっていた(18世紀以来で4度目!)。両大国に挟まれて翻弄される宿命。人によっては、「自由なポーランドなどあり得ない」という諦念。“カティンの森”も両大国のプロパガンダ合戦に利用される中、肝心のポーランド人自身はこの事件について言及すること自体がタブーとなってしまった。

 アンジェイ・ワイダの軍人であった父親も“カティンの森”事件でソ連軍によって殺害されている。早くから映画化の情熱を持っていたものの、共産党支配下ではどうにもならなかった。父親が殺害されたことばかりでなく、その事実が隠蔽されねばならなかった現代史の成り行きそのものに対しても二重の無念を抱えていた。真実を掘り起こし、彼自身の表現手段である映画を通して訴えかけたい、そうした思いが実を結ぶのはようやく世紀がかわってからのことである。

 スターリンは、かつてソ連軍がピウスツキ将軍率いるポーランド軍によって敗れたことからポーランド軍将校に対して忌避感を持っていたが、そればかりでなく、将校も含めてポーランド指導層を根絶やしにすることで権力の空白状態を生み出し、そこにソ連帰り組を送り込もうという意図があったとも言われている。同様の思惑はナチス・ドイツも抱いており、この映画でもドイツ占領下クラクフの大学教員が一斉拘束されるシーンによって示されている。

 ポーランド軍将校であった夫がソ連の収容所へ送られ、大学教授であった義父がドイツの収容所へ送られ、残された家族の視点がこの映画の主軸となる。生きているはずだという期待が次第に疑いへと変わり、時には妄想にもなり、そして現実によってすべてが無残にも打ち砕かれてしまう。愛しい人が二度と戻らないという事実ばかりでなく、そのことについて虚偽のプロパガンダに従わねばならないという不条理。こうした心理的苦境は、ワイダ自身の家族のものだったのだろう。

 歴史の隠蔽はポーランド人の協力者によっても行なわれたわけだが、その共犯関係を一方的に非難してしまうのも酷かもしれない。生き残るためにはやむを得ないというあきらめ。しかし、矛盾に引き裂かれた苦悩。ソ連軍の捕虜となったが協力して無事帰国した友人の将校は自殺してしまう。

 発見された虐殺死体の検証場面など当時の記録映像も使われるが、映画の最後でソ連軍による組織的殺戮のあり様が再現される。そして映像は暗転し、静けさの中から黙祷を捧げるかのように流れるのはペンデレツキの「ポーランド・レクイエム」。この映画自体がワイダによるポーランド現代史へのレクイエムである。

【データ】
原題:Katyn
監督:アンジェイ・ワイダ
原作:アンジェイ・ムラルチク
音楽:クシシュトフ・ペンデレツキ
2007年/ポーランド/122分
(2009年12月6日、岩波ホールにて)

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「千年の祈り」

「千年の祈り」

 アメリカの大学図書館で働くイーランのもとへ北京から父が訪れた。離婚した彼女が落ち込んでいるのではないかと気遣う父。しかし、詮索するような父の態度に反発する娘。

 先日、原作小説を読んだときにも触れたが(→こちら)、中国語は母国語なのに自分の感情をうまく表現できない、だから英語を使うと違う自分になれるの!というセリフがストーリー上の一つの勘所となる。語られるのは建前であり、心にわだかまる心情は沈黙の中に押し殺すしかない、そうした監視社会の中で、お父さん、あなた自身が本当のことを話してくれなかったじゃない!という反発。

 父は娘の知らなかった過去のことを語る。部屋の壁を隔てて一人語りするシーンが印象的だ。気持ちを打ち明けるような話し方に慣れていない彼の戸惑いを表わしているのだろうか。その話には文革の影もほのめかされるが、あまり政治に引き寄せた解釈をしてしまうのも無粋かもしれない。例えば食事のシーンをはじめ、父と娘の関係を、ふとした仕草からこまやかに写し取っていく演出の方に目が引かれる。

 一生懸命に英語を勉強したり、亡命イラン人のおばあさんと言葉はほとんど通じないのに心を通わせたり、生真面目で朴訥とした好々爺ぶりを演ずる父親役ヘンリー・オーが実に良い感じだ。何となく小津安二郎「東京物語」の笠智衆を思い浮かべた。娘のイーラン役フェイ・ユーは、清潔感のある憂い顔が美しい。

【データ】
監督:ウェイン・ワン
原作・脚本:イーユン・リー
2007年/アメリカ・日本/83分
(2009年12月5日、恵比寿ガーデンシネマにて)

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「曲がれ! スプーン」

「曲がれ! スプーン」

 マンネリ超常現象番組のADの桜井米(長澤まさみ)はディレクターに言われてネタ探しで田舎まわり。インチキ・エスパーばかりでうんざりしながら、待ち合わせで入った喫茶店。ちょうどそこでは、本物のエスパーたちがパーティーの真っ最中。正体がばれるのをおそれている彼らは、自分たちの能力を隠そうと話の辻褄合わせにあくせくする、というシチュエーション・コメディー。なかなか面白かったが、映画がというより、オリジナルの舞台が面白いということだろう。

 舞台作品を映画に仕立て直すケースは結構多いが、これもヨーロッパ企画という劇団の舞台らしい。エスパーたち6人の掛け合いなど明らかに舞台風の台詞回しである。本広克行が映画化した舞台作品としては以前にジョビジョバの「スペーストラベラーズ」を観た覚えがある。この手のものではやはり三谷幸喜が好きだな。最近観たのでは古沢良太が脚本を書いた「キサラギ」も面白かった。

【データ】
監督:本広克行
脚本:上田誠
2009年/106分
(2009年12月5日、新宿バルト9にて)

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2009年12月 5日 (土)

「ウェイヴ」

「ウェイヴ」

 1960年代、アメリカのある高校で“独裁”をテーマとした実験授業が行なわれ、生徒たちが暴走してしまった事件があったという。これを現代ドイツに置き換え、人間の集団行動がはらむ、ある意味で意図せざる展開を描こうとした映画である。

 独裁→ナチス→ドイツという連想は陳腐というのを通り越して偏見ですらあるが、生徒たちも「またそれかよ」という感じに食傷気味である。教師は「現代ドイツで独裁なんてあり得ないと言うが、本当にそうなのか?」と問いを発する。

 教育目的のロールプレイングである。しかし、指導者の選出(教師自身が指名された)、規律、制服、敬礼(波型のサイン)、ロゴマークと集団表象をみんなで実践していくうちに、仲間としての団結意識が芽生える一方で、異端者の排除、集団外への自己顕示的暴力性といった形でエスカレート、その中に巻き込まれた教師自身も崇拝されることに満更でもない気分になってくる。指導者への熱狂的献身の態度を示した青年には彼自身の疎外感が起因していることがほのめかされ、さらには社会的な不満がこうした集団現象に結び付く可能性が示される。政治現象の一つの縮図を描き出しているようで興味深い。

【データ】
原題:The Wave/Die Welle
監督・脚本:デニス・ガンゼル
2008年/ドイツ/108分
(2009年12月4日レイトショー、シネマート新宿にて)

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2009年11月28日 (土)

「イングロリアス・バスターズ」

「イングロリアス・バスターズ」

 戦局も押しつまった1944年、ナチス占領下にあったフランス。ユダヤ人狩りから逃れて復讐を胸に秘めた少女は、身分を隠して小さな映画館を経営している。そこでナチスの国策映画のプレミア上映会が開催されることになり、しかもヒトラーが直々に出席するという。一方、連合軍から送り込まれた特殊部隊、殺したドイツ兵の頭皮を剥ぐことで悪名を轟かせていた彼らも、プレミア上映会に合わせて作戦を発動。捨て身の復讐戦が始まる。

 広い意味では“ナチスもの”映画と言えるのかもしれないが、むしろナチスを題材としてタランティーノお得意のスプラッター・アクションが展開される。敵も味方もとにかくどんどん死んでいくな。史実なんて思いっきりひっくり返しちゃうし。ナチスのユダヤ人虐殺という“絶対悪”について世界的なコンセンサスが出来ているだけでなく、そもそも第三帝国の戯画的な政治空間は現実離れしているから、ナチを殺しまくってもインモラルな感じはしないということか。

 キャスティングのトップにあがるのはブラッド・ピットだけど、やはり主役はユダヤ人少女役のメラニー・ロランだろう。おどけた感じでありつつも実は語学に堪能で意外に切れ者というSS将校ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)にはヒールとしてストーリーを盛り上げる存在感がある。言語や身振りで正体を見破るやり取りには興味を持った。頭が疲れていて何も考えたくないときに観る分にはなかなか面白かった。

【データ】
原題:Inglourious Basterds
監督・脚本:クエンティン・タランティーノ
2009年/アメリカ/152分
(2009年11月28日、新宿ミラノにて)

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「つむじ風食堂の夜」

「つむじ風食堂の夜」

 いまにも雪が降りそうな、寒風吹きすさぶ月舟町の夜。十字路脇にたたずむ石造りの洋館、どうやら食堂らしいのだが、そこに吸い込まれるように“私”が入っていくと、起立した男性がちょうど一演説はじめたところだった。お題は、「二重空間移動装置」なる万歩計について。食事をしながら合いの手を入れる常連客──やたらと弁の立つ帽子屋さん、主役がとれず苛立っている舞台女優、口の悪い古本屋のオヤジ、読書好きな果物屋の青年。あちこちから吹いてきた風が、くるりとひとつのつむじ風になる。この店の名前は“つむじ風食堂”。

 安食堂の割には洒落た店構え、ノスタルジーをかき立てられる古びたコーヒースタンド、“私”の暮らす天井が高くて素っ気ない一室で灯る石油ストーヴ、路面電車がゆっくりと走る街並(函館でロケをしたらしい)。日本なのかヨーロッパなのかよく分からないレトロな感じの舞台設定が、どこか浮世離れした登場人物の会話をそっと包み込んでいる。ストーリーがどうこうという以前に、この空気感そのものが私は好きだな。

 帰りがけ、原作の吉田篤弘『つむじ風食堂の夜』(ちくま文庫、2005年)を買って読んだ。原作小説自体が映像化しやすそうな描写でつづられているにしても、その味わいは映画のレトロな感じの舞台設定によってより活かされている。吉田篤弘って誰だろう?と思っていたら、クラフト・エヴィング商會の片方の人だ。もちろんブックデザインでは有名だが、小説を書いていたとは不覚にも知らなかった。

【データ】
監督:篠原哲雄
原作:吉田篤弘
出演:八嶋智人、生瀬勝久、月舟さらら、下條アトム、田中要次、芹澤興人、スネオヘアー、他
2009年/84分
(2009年11月27日、渋谷・ユーロスペースにて)

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2009年11月23日 (月)

「副王家の一族」

「副王家の一族」

 十九世紀半ばのシチリア王国。イタリア統一運動の盛り上がりは人々を沸き立たせており、シチリアにもガリバルディ率いる赤シャツ隊が上陸した。日本でたとえれば、幕末・維新に相当する激動期であったと言えるだろう。時期的に同じというだけでなく、分裂状態にある国家の統一と政治的近代化が連動していたという意味でも。

 シチリアにおけるスペイン・ブルボン朝の副王であった名門貴族ウゼダ家の面々。時代情勢の変転の中でも封建的思考から抜けられない父とその束縛から逃れようとする息子の葛藤。こうしたストーリー上のコンセプトの点でも、時代背景という点でも、ルキノ・ヴィスコンティ「山猫」を髣髴とさせる。実際、「副王家の一族」の原作小説は「山猫」にも影響を与えたらしい。

 「山猫」でバート・ランカスター演じる父の、自分たち貴族が滅び行く宿命をはっきりと自覚しつつも毅然と胸を張って向き合う、そうした黄昏の美学が私には印象的だった。「副王家の一族」ではむしろ肉親同士の憎しみや遺産相続をめぐる思惑といった醜態がさらけ出され、死を前にして迷信にとりつかれて悪あがきをする父の姿は対照的である。

 “進歩”の信奉者となっていた息子だが、ウゼダ家を継承することになって考える。“貴族”を“貴族”たらしめるのは何か。父は“憎悪”こそが人を育てると考えていた。対して、息子の答えは“権力”。彼は王党派ではなく、左翼の支持を得て選挙に打って出る。

【データ】
原題:I vecerè
監督・脚本:ロベルト・ファエンツァ
原作:フェデリコ・ロベルト『副王たち』(1894年)
2007年/イタリア/122分
(2009年11月23日、渋谷Bunkamuraル・シネマにて)

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