カテゴリー「映画」の339件の記事

2020年12月16日 (水)

【映画】「新解釈・三国志」

  ここしばらく、ブログの書き込みは台湾専門の別館の方が中心になって、こちらの方は御無沙汰しているが、ニフティーの方から「一年間書き込みがないとブロックする」という通知があったので、何か書いておく。


  今日は大学院の授業での発表で一時間半近く一人でしゃべり続けたから、疲れ果てて頭が空っぽの状態。A4で13枚のレジュメを準備して臨んだから、内容的にはしっかりしているはずだが、中国語の発音がやはりままならない。事前に単語の声調は確認しておいたから、話し始めの前半はテンポよく快調だったが、後半になると頭と口の両方が疲れてきて、発音が崩れてくる。そこに気付いてしまうと、焦ってますますグダグダになってしまうという悪循環。非母語で話し続けるというのは本当に大変。


  ということで、今日は何もしたくない気分だったので、映画を観に行こうと思い立った。ちょうど、「新解釈・三国志」が台湾でも上映されているので、これを観に行くことにした。期待通りに、何も考えずボンヤリ観るにはちょうど良かった。


  「三国志」は小さい頃から馴染みである。最初に見たのはNHKの人形劇だったか。私が見た時点でおそらく再放送だったと思うが。光栄のシミュレーションゲームもやったし(台湾の映画館でも光栄のゲームの広告がかかっていた)、吉川英治『三国志』も暇なとき繰り返し読んで、細部まで頭に入っている。


  今回は福田雄一が監督ということで、「勇者ヨシヒコと魔王の城」的なノリだろうというのは分かっていたから、設定上の問題についていちいちいちゃもんをつけるつもりはない。


  大泉洋やムロツヨシたちのキャラや、脱力的な言葉遣いで笑わせるという感じ。会話のやり取りそのものにエスプリはないから、中国語に翻訳して字幕で観ても、こっちの観客には笑いのツボは伝わらないだろう。会話のやり取りにロジカルな面白さがあれば外国語に翻訳しやすいだろうが、脱力的な語感そのもので笑いをとろうとしている場合、その語感を外国語に訳して字幕にするのは難しい。その意味で、この作品を海外に売り込んだ意図がよく分からないなあ、と思った。


【データ】
監督:福田雄一
113分/日本/2020年
(2020年12月16日、台南・南紡夢時代威秀影城)

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2019年12月24日 (火)

【映画】「夕霧花園」

 この映画は三つの時間軸から構成される。第一に、当時はイギリス領であったマレーシアを日本軍が占領した1941年から日本敗戦の1945年まで。語り手となる主人公・張雲林はマレーシア華僑で、妹の雲紅と共にミッションスクールに通っていた。ところが、日本軍によって収容所へ送られ、強制労働に駆り出されたばかりか、妹・雲紅は慰安婦として働かされる。日本の敗戦時、収容所にいた現地人捕虜は証拠隠滅のためすべて殺害されたが、雲林ただ一人逃げ出すことができた。彼女は妹を見殺しにしてしまった後悔を引きずっている。
 
 第二に、戦後処理の行われている1951年。雲林は戦犯法廷のアシスタントとして働いている。当時のマレーシアはイギリスが戻って来て植民地統治が再開された一方、民族主義が高潮する中、マラヤ共産党が山地で活発な活動を展開し、イギリス軍とたびたび軍事衝突を起こしていた。映画中でも共産党ゲリラが掠奪を行うシーンが描かれている。こうした混乱した世情の中、雲林は日本人庭師・中村有朋と出会った。
 
 第三に、比較的現代に近くなった1986年。雲林はマレーシアで二番目の女性裁判官として活躍していたが、かつて愛し合った中村がスパイとして指弾されているのを知り、彼の潔白を証明できる証拠を探す。映画全体としては、第三の1986年時点から第一および第二の時期を回想する形で物語が進められる。
 
 彼女たち一家はむかし、父の仕事の関係で日本へ旅行したことがある。妹の雲紅は京都で見た庭園の美しさに魅了され、いつか自分でも庭園を作り上げてみたいという夢を抱くようになった。ところが、戦時下、日本兵の慰み者となってしまった雲紅は、みじめな屈辱の中でも自分自身の夢の庭園を思い描くことで、何とか精神的平衡を維持しようとしていたが、最後は無残にも殺害されてしまう。生き残った雲林は、妹の夢を自分でかなえようと決心した。そうした中、日本人庭師・中村有朋がキャメロン(金馬崙)高地にいることを知る(中村は戦争が始まる前の1937年にマレーシアへ来て、それ以来、山地にこもって「夕霧」と名づけた庭園の造成に専念しているという設定)。雲林は中村の協力を求めて訪ねていき、弟子入りすることになった。ただし、日本人は妹の仇である。中村に教えを請うことに抵抗を感じつつも、彼の語る庭園文化の奥深さを知るにつれ、徐々に心を開いていく。中村は多才な芸術家であった。彼が雲林の背中に刺青を施し、雲林が悶えるシーンは、二人の性愛的関係を象徴していると言えるだろう。
 
 この「夕霧花園」という作品は、原作小説と映画とで印象が大きく異なってくる。私は映画をまず見て、ストーリー的に確認したいことがあったので、その足ですぐ書店へ行き、陳團英の原作『夕霧花園』(The Garden of Evening Mists)を買い求めて目を通したのだが、本書では第一に戦争の記憶、第二にマレーシア独立前夜の錯綜した状況という二つのテーマに重点が置かれている。主人公の雲林は中国語が話せず、英語を常用するマレーシア華僑である。この設定そのものは作者の分身かもしれない。また、彼女に中村を紹介した白人農園主は南アフリカから移民したアフリカーナー(ボーア人)で、ボーア戦争に参加した経験も持っており、イギリス人に対する複雑な心情を吐露するシーンも描かれている。マラヤ共産党の描き方はだいぶネガティブであるが、いずれにせよ、様々な背景を持つ人々が錯綜する複雑な状況そのものが舞台となっている。
 
 言い換えると、民族間の恨みと報復が連鎖する状況の中で日本人・中村が登場する。この作品では二つの日本人イメージが語られている。第一に、戦争において残虐行為を行った日本兵。第二に、中村の庭造りを通して描かれるのは、静謐な精神性を備えた芸術文化の側面。雲林は前者に恨みを抱く一方、後者にひかれていく矛盾を自らの中に感じ取る。これは、特定のステレオタイプで民族性を規定してしまうと、報復の連鎖が終わらないことへの示唆とも捉えられるだろう。
 
 原作が戦争の記憶に重点を置くのに対して、トム・リン(林書宇)監督は、日本人庭師という、ある種神秘的な異邦人が山中の異空間で庭園づくりをしているというモチーフそのものを映像化する方に傾注しているような印象を受けた。今作はトム・リン監督の第四作であり、私自身も過去の三作(「九降風(九月に降る風)」、「星空」、「百日告別」)はすべて観ている。過去の作品とのつながりを考えると、次のことが言えるだろう。
 
 第一に、青々とした茶畑が広がる高原は見渡すかぎり美しく、その先の密林の中にひっそりとたたずむ日本式庭園は、その存在そのものが神秘的である。私が想起したのは、「星空」で二人の少年少女が隠れ家にした山中の家との共通性である。「星空」は幾米(ジミー)の絵本を原作としているため西洋的な雰囲気であったが、「夕霧庭園」の場合、マレーシアの高原の奥地における日本式家屋というたたずまいそのものが、日本人以外にとってはファンタジックであろう。それは、戦争の記憶に苛まされる「この世界」と対比された、ある種の浄化を求め得る「異世界」として位置付けられる。
 
 第二に、雲林は妹を見殺しにしてしまったという自責の念を抱えている。妹の夢見ていた日本式庭園を彼女にかわって作るという試みは、妹の供養のためであるが、そうした努力そのものが自分自身の納得のためである。そして、日本式庭園を造るためには、他ならぬ仇敵・日本人と関わらなければならない。直視したくない過去と向き合わなければならないというテーマは、トム・リン監督が自らの妻を失って悲嘆にくれた日々を題材とした「百日告別」と共通する。
 
 このように検討してみると、陳團英の原作は戦争の記憶とその和解をテーマにしている。言い換えると、民族的もしくは社会的対立の和解に重点を置くのに対し、トム・リン監督が描こうとしているのは、原作のテーマを受け継ぎつつも、この映画における和解とは、個人の内面においていかに過去と向き合うかに焦点が合わされているように考えられる。
 
監督:林書宇(トム・リン)
出演:李心潔、阿部寛
原作:陳團英『夕霧花園』(莊安祺譯、貓頭鷹出版、2015年)/The Garden of Evening Mists by Tang Twan Eng(2012)
2019年/マレーシア/120分
(2019年12月23日、台南・真善美戲院にて)

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2019年1月31日 (木)

【映画】「ナチス第三の男」

【映画】「ナチス第三の男」


 ナチス親衛隊のナンバーツーであったラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Tristan Eugen Heydrich、1904-1942)。親衛隊やゲシュタポのトップであったヒムラーの右腕として辣腕を振るい、ヴァンゼー会議を主宰していわゆる「ユダヤ人問題の最終的解決」を策定したことでも知られる。この映画は1942年に起こったハイドリヒ暗殺事件を焦点として、前半ではハイドリヒが冷酷な手段でのし上がっていく様子が、後半ではチェコスロヴァキア亡命兵による暗殺成功までのプロセスとナチスによる凄惨な報復のあり様が描かれている。

 ハイドリヒはもともとエリート海軍士官であったが、女性関係のスキャンダルから不名誉除隊。失意の中、ナチスへ入党した。ヒムラーに見出されて親衛隊の諜報部門を任され、レーム粛清を主導し、ナチス内部で瞬く間に出世していく様子が映画前半で描かれる。国防軍将軍を脅してユダヤ人処理に協力させるシーンがあるのは、ならず者がドイツを乗っ取ったという捉え方を踏襲しているように見えるが、その是非については私はよく分からない。ベーメン・メーレン保護領(チェコ)副総督としてプラハへ赴任、暗殺の瞬間でいったん画面が止まり、次にイギリスから送り込まれたチェコスロヴァキア亡命兵の潜伏生活シーンへと切り替わる。

 ヒムラーとレームを除くと、ヒトラーをはじめとしたナチス要人は映画中に登場せず、暗殺される者、暗殺する者、双方の人間模様にしぼってストーリーが構成されている。映画中の設定では、ハイドリヒは妻の勧めでナチスへ入党したことになっており、当初は妻が主導していたにもかかわらず、彼が出世するにつれてモンスターへと変貌していく様に妻は戸惑う。チェコスロヴァキア亡命兵は、潜伏生活の中で、支援者女性と当初は偽装の関係から本物の恋人関係へ発展していくが、暗殺が成功すれば、生きて帰ることはほぼあり得ない。それどころか、関係者には死の報復が待っている。人間性を失っていくハイドリヒ。関係者すべての死を覚悟した暗殺実行者の行動。それぞれ質は異なれど、ヒューマニティーが磨滅していく姿に、暗澹とした気持ちになってきた。原題は「The Man with the Iron Heart」(鉄の心を持つ男)となっており、これはヒトラーがハイドリヒを評した言葉とされるが、この映画では友や恋人の死までも覚悟して暗殺を実行した亡命兵たちもその対象に含めているのだろう。

 原作はローラン・ビネ(高橋啓訳)『HHhHプラハ、1942年』(東京創元社、2013年)。タイトルは「Himmlers Hirn heißt Heydrich」(ヒムラーの頭脳、すなわちハイドリヒ)という表現に由来する。なお、監督はフランス人で、映画中での台詞は英語である。

【データ】
監督:セドリック・ヒメネス
2017年/フランス・イギリス・ベルギー/120分
(2019年1月31日、TOHOシネマズ・シャンテにて)

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2018年2月20日 (火)

【映画】「リバーズ・エッジ」

【映画】「リバーズ・エッジ」
 岡崎京子の原作を読んだのはいつのことだったろうか。川べりの草むらの中にひっそりと横たわる死体。実存的虚無を抱え込んだ心象風景には、その死体は非日常の象徴のように捉えられる。そうした印象だけ記憶していて、こんなストーリーだったかなあ、と思い返しながらこの映画を観ていた。
 
 過食症のモデル。セックスの身体的実感を通してようやく存在感をつかめる少女。セックスと暴力しかない、からっぽな男。同性愛であることを隠して、好きな相手(男)に気持ちを伝えられず、偽装的に女性と付き合う少年。彼らを、どこか冷めた視線で見つめている主人公。それは、映画の視点でありつつ、冷やかさ自体が一種の空虚感でもある。個々のエピソードは衝撃的ではあるが、原作は90年代の少年少女の心象風景をうまく切り取っていたように思う(それは、私自身が思春期を過ごした年代でもある)。煤煙や排水を吐き出し続ける工場、廃墟のような旧校舎は、殺伐とした心象風景を描き出す格好な道具立てになっているが、この映画ではきれいに撮りすぎているようにも感じた。
 
日本/2018年/118分
監督:行定勲
(2018年2月20日、TOHOシネマズ新宿にて)

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2018年2月15日 (木)

【映画】「花咲くころ」

【映画】「花咲くころ」
 1992年、ジョージア(グルジア)の首都・トビリシ。中学校に通う二人の少女、ニカとナティアは無二の親友。大人へと背伸びしたい年ごろ。悪ガキどもからちょっかいを出されたりもするが、権威主義的な教師に退席を命じられると、彼らも含めクラスメートも一緒に外へ飛び出したり、意外と連帯感がある。
 
 トビリシの歴史を感じさせる古びた石造りの街並み。坂の多い街で、年代もののロープウェイも現役だ。郊外に出れば、木々の豊かな緑と小川のせせらぎが、気分をホッとさせる。アパート群は旧ソ連時代のものか。これらを背景に少女たちが闊歩し、にわか雨に見舞われたら、土砂降りの中を駆けていく姿は絵になる。配給の行列に並ぶ喧噪も、少女たちにかかれば楽しそうだ。大人びたナティア、どこか生真面目なニカ、二人ともそれぞれに凛々しく、美しい。
 
 しかしながら、二人とも複雑な家庭事情を抱えていた。ニカの家には父の姿がない。ナティアの父は飲んだくれて、母に暴力を振るっている。そう言えば、街中を歩いているのも女性、子供、老人ばかりで、男性が少ないように見える。いるとしても、チンピラか、銃を抱えた物騒な奴らばかり。人々の会話やラジオから聞こえてくるツヒンヴァリ(南オセチアの首都)、アブハジアといった地名は内戦を暗示している。どこか殺伐とした空気。ナティアは恋人から護身用にとピストルを渡された。
 
 映画の中盤で、ナティアがそれまで付きまとわれていた男に誘拐される。その場にいたニカが止めようとしても力が及ばない。周囲の人は傍観するばかり。略奪婚の風習がいまだに残っていた。内戦、男性優位の伝統──穏やかなように見えた街の中に暴力が日常的に浸透している現実に、ハッと気づかされる。
 
 ナティアは略奪婚の現実をやむを得ず受け入れようとする。彼女は誕生日に実家へ戻り、おばあちゃんがバルコニーにしつらえてくれた食卓で親友のニカと二人向き合い、ワインで乾杯。「ほら、ちゃんと飲めたよ」「私もよ!」──大人になるには、過酷な現実と向き合わなければならない宿命と表裏一体だ。この直後に起こった悲劇はナティアを絶望に陥れる。
 
 映画の終盤、ニカは二つの決断をした。まず、ナティアの持っていたピストルを取り上げ、湖の中に投げ捨てた。ナティアが復讐のため引き金を引くのを恐れたからだ。そして、父が服役している刑務所まで面会に行く。ニカの父は、いつも彼女にちょっかいを出す悪ガキの父親を殺害していた。暴力の連鎖を断ち切るためには、過去を直視しなければならないと思い定めたのだろう。
 
 この映画では、少女たちの青春のきらめきを切り取った映像的美しさと、そこからうっすらと内戦の傷跡が浮かび上がってくるコントラストが見事に描き出されている。
 
 岩波ホールには久し振りに来たが、創立50周年記念らしい。ロビーにこれまで上映されて来た作品のポスターが貼り出されているが、見ているとなつかしくなってくる。私が初めて来館したのは確か1995年で、インドネシア映画「青空がぼくの家」、タイ映画「ムアンとリット」、それからグルジア映画祭として上映された3本のうち「若き作曲家の旅」と「青い山」を観た。そう、グルジア映画と出会ったのは岩波ホールだった。他にもテンギズ・アブラゼ監督「懺悔」もここで観た。
 
 DVDやネットでも映画は観られるが、映画館で観ると、その時どきの自分自身の境遇と結び付いて思い出されてくるので、なつかしさもひとしおに感じられる。
 
2013年/ジョージア・ドイツ・フランス/102分
(2018年2月15日、岩波ホールにて)

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2018年2月14日 (水)

【映画】「嘘を愛する女」

【映画】「嘘を愛する女」
 
 商品開発の仕事に夢中なキャリア・ウーマンの川原(長澤まさみ)は、偶然に出会った小出(高橋一生)と同棲している。結婚を考え、小出を母親に紹介しようとしたが、その日に限ってなぜか小出と連絡がつかない。彼はくも膜下出血で倒れて意識不明、病院に搬送されていたのだった。その時になってはじめて彼が名前も身分も偽っていたことが判明する。5年間ずっと愛し続けた相手は一体何者だったのか──? 彼が秘かに書いていた小説を手掛かりに、彼女は瀬戸内へ答えを探りに行く。
 
 東京、小さな村の連なる瀬戸内沿岸、そして「事件」の起こった郊外の一軒家──この映画は基本的にこうした三種類の空間を往来しながら進行している。東京は競争社会。がむしゃらに働かねばならず、親しい同僚も油断はできない。対して、瀬戸内でたまたま立ち寄った居酒屋では川原は素直に本音を語り、リラックスしている様子だ。映画の背景をなす「事件」の起こった一軒家は孤独を表しているのだろう。「事件」後に東京へ来た小出は、不特定多数の中に消えていくことを望んでいた。
 
 小出が目覚めたとして、川原は今後も一緒に暮らしていけるのだろうか。彼女は小出の「嘘」を知った。同時に、小出が小説の中で思い描くフィクションを通して、彼の思いにも気づく。人間関係には仮構を積極的な意志によって築き上げていくという側面がある(だからこそ、映画中で出てくるDNA鑑定で親子関係に安心を求めようとする血縁主義は胡散臭い)。東京という匿名の不特定多数が織りなす空間は「無」にもなれるが、同時にフィクションを意志することで新たな関係性を築き上げる契機ともなり得るだろう。本作のタイトル「嘘を愛する女」はそういうものとして受け止めた。
 
日本/2018年/118分
監督:中江和仁
(2018年2月13日、新宿ピカデリーにて)

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2018年1月14日 (日)

【映画】「三度目の殺人」

 こちらに書くのは久しぶり。現在生息中の台南ではまともな映画はなかなか観られないので、用事があって高雄へ出たついでに是枝裕和監督「三度目の殺人」(中文題目:第三次殺人)を観てきた。
 
 多摩川の河川敷で起こった殺人のシーンから始まる。被害者はガソリンをかけて燃やされた。犯人として逮捕された三隅は、弁護士の接見を受けても証言を二転三転させるため、業を煮やした同僚から頼まれて、重盛が弁護を引き受けることになった。前言を次々と翻す三隅の言動に重盛が翻弄されるという形でストーリーが進む。重盛は当初、「真実など興味ない。法廷技術として有利な条件を使って勝てばいい」というシニシズムを基本としていたが、そうした態度も三隅と接触しながら変容していく。
 
 三隅は「空っぽの器」のような存在という設定が本作のカギとなる。彼は相手の体温を感じ取ることで、その気持ちを自らに同化させてしまうという特性を持っていた。従って、殺人は、別人の恨みを感じ取って実行されている。また、証言が二転三転するのも、警察や検察の取り調べ、弁護士の接見、さらには雑誌記者の取材、その都度、相手の望むことを感じ取って話していたからである。
 
 重盛は、三隅はある少女を守るためにその父を殺害したのではないかと疑う。その少女も、三隅を救うために証言を希望していた。だが、少女が証言すれば、検察はその信憑性を崩すため、ありとあらゆる質問を浴びせかけてくるだろう。少女が傷ついてしまうのを重盛は恐れた。その心配が三隅にも伝わったのだろう、彼は殺人を一切否認するという形で裁判を混乱させ、少女が傷つくのを防いだ。その結果、彼は死刑判決を受ける。その後、重盛が、三隅は少女を守るため荒唐無稽な犯行否定をしたのではないか?と尋ねたところ、三隅の答えは「そうだとしたら素晴らしいですね」とまるで他人事のようだった。おそらく、彼はその都度他人の気持ちに同化しただけなので、そもそも記憶がないのかもしれない。
 
 最終的には、真実は分からない、という古典的なオチになる。「藪の中」的なストーリー構成だが、三隅というトリックスターを導入することで、裁判関係者の彼に対するコメントを通して司法をめぐる様々な論点が浮き彫りにされていくという工夫がこらされている。死刑の是非。犯罪は社会が生み出すのか、生まれつきなのか。真実への信頼と、逆に重盛のようなシニシズム。さらには、生命の選別等々、倫理的な話題にまで及ぶ。こうした論点の変化に応じて、三隅の犯行動機についても、快楽殺人から人助けまで大きな振幅が示される。
 
 三隅という人物の善悪を超えた凄みは、役所広司の良くも悪くも特色のない表情だからこそ、うまく表現し得ている。
 
(2018年1月13日、高雄大遠百・威秀影城にて)

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2016年5月 9日 (月)

【映画】「灣生畫家 立石鐵臣」

「灣生畫家 立石鐵臣」

  1941年7月、太平洋戦争の勃発が間近に迫った時期、台北で『民俗台湾』という雑誌が創刊された。1937年には日中戦争が始まって戦時体制が強まりつつあり、台湾では「皇民化運動」が展開されていた。「日本人」として皇国に心身ともに捧げることが当然視された時代状況下、台湾の民俗文化の記録・保存を目的とした雑誌の存在は、それだけでも当局から睨まれてもおかしくなかった。雑誌の刊行を継続することがまずは至上命題。検閲の目を逃れるためには時に国策に迎合する言辞もちりばめなければいけなかったが、いずれにせよ、日本人であるか台湾人であるかを問わず、台湾の文化や歴史に愛着を持つ人々が手探りしながら協力し合って、このささやかな雑誌は1945年1月号まで続いた。

  『民俗台湾』をひもとくと、「台湾民俗図絵」をはじめとしたイラストがひときわ目を引く。的確に対象を捉えつつ、ぬくもりがあって、時にユーモラスなこれらのカットを描いたのは、台湾生まれの日本人画家・立石鐵臣。台湾生まれの日本人のことを「湾生」という。

  立石鐵臣は1905年、台北に生まれた。父の転勤に伴って日本へ帰国。絵画には早くから興味を持ち、才能を示していた鐵臣は国画会に入選するなど若手画家としてのキャリアを着実に積んでいた。1934年、台湾へ戻る。生まれ故郷・台湾の風光を描きたかったからだ。「ちょっと台湾へ行ってきます」というさり気ない言い方が、いかにも彼のパーソナリティーを彷彿とさせる。

  立石は1934年に台湾人を中心に設立された台陽美術協会の創立メンバーになった。台北放送局に勤務していた兄・立石成孚の家に寄寓し、台北帝国大学の生物学者・素木得一の研究室で標本画を描く仕事をしながら、細密画の描法を自ら会得する。また、台北の文壇で勢力を持っていた作家・西川満に頼まれてイラストや装幀も手掛けるようになり、そうした中で後の『民俗台湾』同人たちとも知り合った。

  1945年、日本の敗戦により、台湾は中華民国に接収された。日本人は原則的に日本へ送還されることになっていたが、特殊技能を持つ日本人はしばらく留め置かれた。これを「留用」という。立石も「留用」されて台湾省編訳館に勤務する。ここでは日本統治時代に蓄積された学術的成果を整理・翻訳する作業が行われていた。編訳館には魯迅の親友だった許壽裳など日本留学経験のある開明的な中国知識人が派遣されてきており、彼らは「留用」された日本人にも誠意をもって接してくれたという。私個人としては、こうした形で日本人、台湾人、中国人が協力し合う時期が束の間なりともあったということに関心が引かれているが、1947年の二二八事件等によって時代状況は瞬く間に険悪化していく。編訳館は閉鎖され、許壽裳は暗殺されてしまった。編訳館の閉鎖後、鐵臣は「留用」された日本人の子弟が預けられていた小学校の教員をして、生徒から慕われていたらしい。1948年、最後の引揚船に乗って基隆を離れるとき、埠頭には見送りの台湾人がたくさん集まっていて、「蛍の光」が聞こえてきたという。

  日本へ帰国して以降、彼の画風は抽象的なものになっていく。例えば、眼球が宙に浮いているような「虚空」(1950年)──もともとのタイトルは「孤独」だったという。彼が見ていた心象風景はどのような経過をたどって変化したのだろうか。台湾体験は戦後の彼の軌跡にどのような影響をもたらしたのだろうか──。藤田監督は上映後のスピーチの際、初期の画風と戦後の画風との際立った違いが気にかかり、その中間に位置する台湾時代を探ってみたいと思った、という趣旨のことを語っておられた。立石は自らのことについて直接的に語ることは少なく、絵画を通して語っている。そして、残念ながら、台湾時代に描いた作品の多くは台湾に残してきて、そのまま行方不明になっている。明確な答えはなかなか見えてこないが、むしろ観客一人一人が彼の軌跡がはらんだ意味を考えて行く上で、このドキュメンタリー作品は貴重な手がかりを示してくれている。

  立石が描いた「台湾民俗図絵」のカットは、現在の台湾でも、例えば小物のデザインなど、ふとしたところで見かけることがある。利用した台湾人自身も、その来歴を知らないのかもしれない。また、戦後、日本へ戻った立石は生計を立てるため図鑑や教科書のイラストもたくさん描いており、我々も気づかないところで、実は立石の絵を見ていた可能性は高い。世に知られようと知られまいと、そんなことには頓着せず、立石はとにかく絵を描き続けていた。

  台湾人からすれば、日本統治時代の台湾史は最近まで学校で教えられることがなく、ある意味、足元のことなのに未知の世界も同然であった。また、日本人からすれば、日本統治時代の台湾は、日本と密接な関係があったにもかかわらず、現在は外国であるがゆえになかなか知る機会がなく、これもまた別の意味で未知の世界である。この「湾生画家 立石鐵臣」というドキュメンタリー作品は、日本人の藤田修平監督、台湾人の郭亮吟監督という二人によって共同制作されており、日本人と台湾人、それぞれ異なる探求の視点がうまくかみ合いながら、立石鐵臣という一人の画家を通して日台関係のある一面も見えてくる。私自身も台湾現代史の勉強を続ける上で色々な示唆を受けており、もっと多くの方に観ていただけるよう上映機会が増えることを願いたい。

  作品中には立石鐵臣のご家族や、『民俗台湾』の立役者であった池田敏雄夫人の黄鳳姿さんなどの貴重な証言が含まれている。『民俗台湾』の印刷を請け負っていた、やはり湾生の岡部茂さんや、考古学者の宋文薫さんは今年、惜しくも相次いでお亡くなりになってしまった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

  また、5月21日から東京・府中市美術館にて「麗しき故郷「台湾」に捧ぐ──立石鐡臣展」も開催される。
 

(2016年5月7日、「台灣國際紀錄片影展」、台北・光點華山電影にて)

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2016年3月23日 (水)

【映画】「我們的那時此刻」

楊力州監督によるドキュメンタリー《我們的那時此刻》(私たちのあの時・この時)について、別ブログにて(→こちら)。大阪アジアン映画祭でも「あの頃、この時」というタイトルで上映された様子(→こちら)。

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2016年3月22日 (火)

【映画】「リップヴァンウィンクルの花嫁」

【映画】「リップヴァンウィンクルの花嫁」
 岩井俊二監督の新作「リップヴァンウィンクルの花嫁」がなぜか台湾で先行上映されており(日本では3月26日より開映)、長年、岩井作品を見続けてきた者として観に行かないわけにはいかない。いま住んでいる台南では上映していないので、隣の高雄までわざわざ足を運んで観てきた。
 
 派遣教員の仕事をクビになった七海(黒木華)は、SNSで出会った夫との新婚生活も破綻。両親も離婚寸前で、帰るところはない(実家は3・11大地震の被災地であったことがほのめかされる)。仕事も居場所も失って途方に暮れる彼女の前に、やはりSNSで知り合った安室(綾野剛)が現われ、不思議なアルバイトを紹介される。
 
 親戚が少ない婚家が挙式に当たって体面をつくろうため呼ぶサクラのアルバイトを七海はやってみた。かき集められた年齢も違うバイト仲間たちと偽装家族を演じたところ、お互い初対面であるにもかかわらず何となく楽しげ。七海も久しぶりに笑顔を見せる。そうした仮想の家族は、破綻した新婚生活、離婚寸前の両親と対比されると、家族なるものの脆さを強調しているかのようにも見えてくるが、むしろこれは家族という関係性の可変性、代替可能性を示していると捉えられる。バイトで知り合った真白(Cocco)はガンに冒されて死期が迫っていたが、七海はそのことを知らず、彼女と仮想の婚姻を結び、死のその時までずっと寄り添っていた。心中したと勘違いした安室が、屈託なく目を覚ました七海を見て驚くシーンはコミカルだが、愛する者を失って自分ひとり生き残っても自責の念にかられる必要はないというメッセージであろうか。
 
 安室という胡散臭いが、どことなく信頼もできそうな不思議な二面性を持った「何でも屋」のキャラクターが面白い。七海の新婚生活が破綻するよう画策したのは実は安室なのだが、彼女にアルバイトを紹介して助けてやるのもまた彼である。物語を展開させるトリックスターの役回りを果たしているが、彼の意図はよく分からない。いや、そもそも予想外の展開に彼自身驚いている節もあるが、それでも自然に流れのままに泳いでいく。あるいは、不条理な運命そのものを体現しているのか。運命はときに残酷だが、ときに温かく手を差し伸べることもある。ウブで間抜けな七海は、自分を気まぐれに翻弄する不条理に泣きながら、意外と芯の太さも見せ、誠実な態度でしぶとく自分の人生を築き直していく。
 
【データ】
監督・原作・脚本:岩井俊二
2016年/日本/180分
(2016年3月15日、高雄大遠百・威秀影城にて)

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