【七日間ブックカバー・チャレンジ:七日目】 中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』
中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』
「中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』」 (2010年4月27日)
「神奈川近代文学館「中薗英助展─〈記録者〉の文学」」(2012年4月25日)
【七日間ブックカバー・チャレンジ:二日目】
橋川文三『昭和維新試論』
渥美勝という名前を見て、ピンと来る人は少ないだろう。大正期の「思想家」と言ってもいいのかどうか。高学歴ながらもすべてをなげうって放浪生活、「桃太郎主義」を掲げ、「真の維新を断行して、地上に高天原を実現せよ」と辻説法していた、国粋主義的な風来坊──現代の価値観からすれば単に奇矯な人物である。他方で、その風貌にはアッシジのフランチェスコを思わせる穏やかな気品がただよっていたという。橋川の『昭和維新試論』では、例えば石川啄木、高山樗牛、柳田國男、上杉慎吉、平沼騏一郎、北一輝など様々な人物が取り上げられているが、そうした中でも私にとって一番印象深いのが、この渥美勝であった。
橋川の代表作とされるのは『日本浪漫派批判序説』であろう。若き日の橋川自身が、戦時下の思潮にコミットしていた過去への反省──いや、反省という言い方では言葉が浅い、彼を否応なく引き込んでいった吸引力のようなもの、それを何とか剔抉し、文章化しようとするひたむきな努力が、彼の政治思想史的研究の動機として伏流していた。
とりわけ橋川による渥美勝の描写が私の心をつかんだのは、どうしたわけだろうか。『昭和維新試論』は後にちくま学芸文庫版や講談社学術文庫版も出たが、私が最初に読んだのは大学一年生のときに購入した朝日選書版である。その頃に読んだ時点では、橋川の存在感が気になってはいても、では自分はなぜ橋川を気にしているのか、それがうまく整理できていなかった。たぶんこういうことなんだろう。橋川は人物の内奥に迫ってその葛藤を描き出しつつ、そこから時代の諸相をみつめる視点を引き出し、そうであるがゆえに政治思想史としても成立している。その筆力に驚嘆すべきものを感じた。それは、他ならぬ橋川自身の内在経験が一つの触媒となって、対象とする人物の心象風景を引き出してくることができたからであろう。
私自身、その頃からずっと、できるかできないかは別として、人物を描くことに興味があったのだと思う。ある人物を通して時代を描き、その人物が時代の中で格闘している姿を通して、思想的に語り得る何がしかを形にしてみたい。そうした一つの模範として、今に至るまで橋川文三のことがずっと気にかかっている。
大学生の頃、テーマ的に近い方向性として松本健一の作品も割と読み込んでいたのだが、松本は多作がたたったのか、一つ一つの作品において対象とする人物への迫り方が橋川に比べて軽い(大変失礼だが…)と感じていた。
※いま本書は手元にないので、フェイスブックではアマゾンの書影を借用して投稿したが、このブログでは書影を割愛する。
張國立《張大千與張學良的晩宴》(印刻文學生活雜誌出版、2014年3月)
1994年、台北。すでにハワイへ移住した張学良(1901~2001)の収蔵品がオークションにかけられているシーンからこの小説は始まる。様々な思惑から注目が集まる中、とりわけ目立ったのが世界的に著名な画家・張大千(1898~1983)の書。1981年の旧暦正月16日、張大千が張学良や張群(1989~1990)を招いて晩餐会を行なったとき、自らメニューを認めたものだという。このオークション会場に来ていた主人公・梁如雪は何か探し物がありげな様子。偶然、旧知の人物と出会ったのをきっかけに、かつて張学良と共に過ごした日々を思い出し始める。
外省人の軍人だった父、台湾人の母との間に生まれた一人娘だった彼女は、大学の法学部を卒業後、情報機関に入る。父の影響が大きいが、ただし仕事一筋で家庭を省みなかった父との関係はむしろ疎遠であった。訓練終了後、最初に配属されたのは台北近郊の温泉地・北投。そこには自宅軟禁中の張学良がいる。張学良の世話係として彼の動静を監視するのが彼女に課せられた任務であった。1981年のことである。
情報機関の上官たちは張学良の一挙手一投足に神経をとがらせている。国民党統治下の台湾では、たとえ抗日統一戦線の呼びかけが大義名分だったとしても西安事変で蒋介石に矛を向けた張学良に対する評価は極めて厳しい。張学良や張大千(四川省出身)といった著名人が共産党の呼びかけに応じて大陸へ帰ってしまったら、国民党の対外的権威にとってマイナスである。ところが、総統に就任したばかりの蒋経国は張学良と仲が良く、彼に対する態度が甘い。「小蒋」には危機感が乏しい、と情報機関幹部は歯ぎしりするばかり。
娘が張学良の世話係になったことを知った父親は嬉しそうな表情。そんな父に彼女は反感を覚える。張学良は「叛国叛党の徒」ではないか。ところが、父の見解は違う。彼は国家や人民の行く末を心から憂えていたはずだ、と言う。父はかつて孫立人の指揮する部隊で戦った経験を持つ。蒋介石によって排除された孫立人への同情が張学良にも投影されているのではないか、と彼女は考えた。
ところが、梁如雪も生身の張学良を知るにつれて、今まで教えられてきた「歴史」に違和感を抱き始める。何よりも戦争に翻弄された父にとって「歴史」は切実な問題であった。家に引きこもっていた父は真実を知りたいという思いから、やおら図書館通いを始め、張学良について調べ始める。知り得たことはまず娘に知らせたい。疎遠だった父と娘だが、共に語らう時間がいつしか増えてきた。世代によって異なる歴史認識が、「真実」を知りたいという気持ちを共有することで、その距離を縮めていく。そうした関係性がこの親子関係に表現されていると言える。
1931年の満洲事変に際して、張学良は放蕩生活に身を持ち崩していたから日本軍に敗れたのか。それとも、蒋介石から不抵抗主義の訓令を受けていたから敢えて撤退したのか。梁如雪は上官から「老総統(蒋介石)が張学良に宛てた古い電文が隠されているはずだ。それを見つけて来い」と命じられた。蒋介石が日本軍へ抵抗しないよう訓令した事実を隠蔽しようという意図である。同じ頃、父からは「日本軍が来たとき、本当は遊んでなんかいなかったのではないか。そのことを張学良に確かめて欲しい」と頼まれていた。真実は如何に…?
ところで、この小説では張大千が料理の支度を進めるシーンが所々で挿入されている。1981年の旧暦正月16日、かつて蒋介石側近だった張群の車が突然、張学良邸を訪れた。警備にあたる情報機関員が制止しようにも、張群の政治的権威に逆らうことはできない。張群は張学良夫妻を連れ出し、そのまま張大千邸で開催される晩餐会へと向かった。
1980年代後半、台湾が民主化へと向かうのとほぼ同じ頃、張学良への事実上の軟禁状態も解かれるようになった。作者が1993年に張学良にインタビューした記録が本書の巻末に収録されている。そこで張学良はこう語っている。「蒋介石は生涯を通して王陽明を崇拝しており、『我看、花在;我不看花、花不在』という王陽明の言葉を信じていた。でも、私はそういうのとは違ってこう思うんだよ。『我看、花在;我不看花、花還在』とね。」
蒋介石が王陽明から引用していた言葉は、ある意味、為せば成るという主観的な精神主義を表している。それは一面において積極的な行動力として具現化され、歴史を動かす起爆剤となった。他方で、「我不看花、花不在」という部分は、政治権力を正統化するイデオロギーによって歴史はいくらでも歪曲されかねないことを暗示していたとも言えるだろう。
これに対して、張学良の態度はどうであったか。私が見ていようといまいと、花がそこにある事実に変わりはない。それは、権力の都合によって歴史解釈が左右されようとも、自分の知っている歴史的事実は変えようがないという意味を帯びる。さらに、周囲の思惑が喧しくても、そんなことには頓着せず、自分は自分に与えられた宿命の中で生きていくしかない。そうした人生態度も引き出せる。この小説での張学良はそうした悠然たる態度を持した人物として描かれている。さらに、張大千が淡々と料理の支度を進める描写が折に触れて挿入されることで、そうした二人のマイペースな姿が、監視する情報機関の慌てぶりを際立たせ、面白い味わいを醸し出している。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
張良澤・作、丸木俊・画『太陽征伐──台湾の昔ばなし』(小峰書店、1988年)
少々古い絵本だが、「世界の昔ばなし」シリーズの1冊。前半は原住民族の伝説を、後半は平地の漢民族の伝説を昔話風にリライトしている。台湾の主だった伝承を手軽に知ることができる。
昔、二つの太陽があった。昼夜を問わず照り続けるため、疲れ果てた人々は、片方を弓矢で射落とそうと考えた。選ばれた勇者たちは、はるかかなた、太陽を求めて歩き続けるが、中途にして力尽きて倒れていく。太陽征伐の使命は次の世代に引き継がれ、ようやくにして射落とすことに成功した──本書の表題作は、台湾原住民の一つ、タイヤル族に伝わる伝説である。
この話は、以前に読んだ黄煌雄《兩個太陽的臺灣:非武裝抗日史論》(台北:時報出版、2006年)という本で知っていた(→こちらで取り上げた)。黄煌雄は蒋渭水の評伝も書いており、サブタイトルから分かるように、日本統治時期台湾における民族運動史をテーマとしている。「二つの太陽」という表現には、日本という支配者=政治勢力と、台湾在住漢民族という被支配者=社会勢力と二つの太陽が台湾には輝いている、しかし二つの太陽が並び立つことはできず、いずれかが射落とされなければならない、という意味合いが込められており、これは賀川豊彦が台湾について原住民の神話を引きながら書いた文章に由来するそうだ。賀川は何度か台湾へ伝道旅行に出かけているから、その折に「太陽征伐」の伝説を耳にしたのだろうか。「太陽征伐」のモチーフそのものは、北米インディアンなどの伝説にも見られるらしい。
パスタアイ(矮人祭)はサイシャット族に現在も伝わる祭礼だが、肌が黒く、背丈の小さな先住民・タアイにまつわる。彼らは農耕など先進的技術を教えてくれたが、悪さも過ぎたため、あるとき、皆殺しにされてしまった。タアイの霊を慰めるために行われるようになったのがパスタアイだと言われている。色黒の小人を皆殺しにしたという伝承は台湾各地にあり、例えば、そうしたヴァリエーションの一つが伝わる小琉球の烏鬼洞を私も以前に訪れたことがある(→こちら)。
娘が鹿と婚姻を結び、それを知った父親が鹿を殺してしまったというアミ族の説話は、柳田國男『遠野物語』にも見えるオシラサマの伝承と似ている。ちなみに、台湾の人類学的調査で知られる伊能嘉矩は遠野の出身である。蛇足ついでに書くと、藤崎慎吾『遠乃物語』(光文社、2012年)は、台湾から戻った伊能と、『遠野物語』の語り部となった佐々木喜善の二人を主人公にイマジネーションをふくらませた小説である。
台湾各地にある城隍廟に入ってみると、背高ノッポとおチビさんの二人組みの神像が印象に強く残る。七爺八爺、ノッポの七爺は謝将軍、背の低い八爺は范将軍、という。二人はもともと親友同士だったが、ある日、橋のたもとで待ち合わせたとき、七爺は事情があって戻って来れなかった。やがて大雨で川が氾濫し、友は必ず戻ると信じていた八爺はそのまま溺れ死んでしまった。そのことを知った八爺は責任を感じて自殺してしまう。こうした二人の関係は信義の象徴として神に祭り上げられた。七爺がアッカンベーしているのは首吊りしたから。八爺の顔が赤黒いのは水死したから。そう言えば、黄氏鳳姿『七爺八爺』という作品があったが、私はまだ読んでいない。黄氏鳳姿は日本統治時代の台湾でその文才を池田敏雄によって見出され、綴方教室で有名な豊田正子と同様の天才少女として知られるようになった人。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント