カテゴリー「近現代史」の379件の記事

2020年5月28日 (木)

【七日間ブックカバー・チャレンジ:七日目】 中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』

【七日間ブックカバー・チャレンジ:七日目】
中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』
 
 十年前、初めて中国へ行った。当時は会社勤めをしていたが、五月の連休を利用した個人旅行で北京と天津を一人で歩き回った。歴史に関係する場所を巡るのが目的で、しっかり事前勉強もした。そうした中、知人から勧められて中薗英助の作品も読んだのだが、特に印象に残ったのが『夜よ シンバルをうち鳴らせ』であった。
 
 日本軍の占領下、いわゆる「淪陥時期」において、現地採用の新聞記者となった主人公が目撃した北京の光景。中薗の作品のうち『北京飯店旧館にて』『北京の貝殻』などは回想録的、私小説的な形を取るのに対して、『夜よ シンバルをうち鳴らせ』の方は著者自身の実体験をにじませつつ、謀略サスペンス的な筋立てを絡ませた小説に仕立て上げられている。
 
 左翼くずれの日本人や、いわゆる大陸浪人。抗日意識を胸に秘めた中国の知識青年と、逆に大東亜共栄圏のスローガンを叫ぶ中国人。日本軍の謀略に利用された東トルキスタン独立運動のウイグル人マームード・ムヒイテ将軍。魯迅夫人・許広平がひそかに北京へ戻っているという噂。消えた北京原人の標本の行方。大東亜文学者会議への出席をやんわりと拒絶した周作人(その説得のため文学報国会から派遣された九重由夫こと久米正雄や葉柴勇こと林房雄たちの鼻息の荒さが北京で顰蹙をかっていたことは別の本で読んだことがある)。京城日日新聞特派員として北京へ来ていた白哲(=白鉄、本名は白世哲)や金史良は朝鮮人としての思いを語る。民族的背景も様々で多彩な人物群像がうごめくスケールの大きさは圧巻で、読みながらこの作品世界の中へグイグイと引き込まれていった。
 
 占領者たる日本人と被占領者たる中国人。生身の人間同士として付き合った点では友情もあり得た一方で、必ずしも全面的な信頼までは置けないわだかまり。この微妙な関係は、抗日/親日といった単純なロジックで裁断できるものではなく、第三の道はあり得ないのか、そうした模索へと主人公を駆り立てていく。それは、他ならぬ中薗自身の青春期から一貫したテーマであったと言えよう。
 
 タイプは異なるが、占領者としての日本人の負い目意識をテーマにしている点では、日本植民統治下の京城文壇を舞台とした田中英光『酔いどれ船』を挙げることもできる。やはり大東亜文学者会議の準備に駆り出された青年文士(=田中自身)が目撃した、抗日と体制順応、陰謀と狂騒の混濁したファルスを、実在の人物をカリカチュアライズしながら描き出していた。『酔いどれ船』では主人公の内面的にウジウジしたところを暴露的に描く形で田中自身の青春の暗さが表現されていたという印象がある。これに対して、中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』の方は、政治意識の強さを明確に打ち出したことで、むしろ一種の清冽さすら感じられた。
 
 中薗は、漫然とした動機で中国大陸に渡った、と語っている。若き日々のアモルファスな情熱に明瞭な表現を与えるのはもちろん難しいことであろうが、一つには若者らしい冒険心燃えたぎるロマンティシズムがあったであろうことは容易に想像できる。それが異郷への憧れというプル要因になっていたとしたら、では、プッシュ要因は何だろうか。いわゆる「外地」には、日本の内地で居場所を失った左翼くずれやヤクザ者、あるいは一旗挙げようと考える手合いなど、様々なあぶれ者が流れ込んで来ており、彼らを許容するだけのいわゆる「植民地的自由」があった。中薗が家出した直接のきっかけは、将来の進路をめぐる父親との葛藤であったが、父親の権威への叛逆は私的なものであると同時に、戦時統制の強まりつつある時代、国家による束縛への反抗心もそこには重ね合わされていたと言えるだろう。日本国内における様々な束縛を厭う心情が、「外地」の持つ一種奇怪な「自由」へと引きつけられていったのかもしれない。
 
 ロマンティックな自由を求めた異郷。そこはまた、裸の自己を試される厳しい葛藤の世界でもあった。中薗は、裏切りや卑怯、傲慢といった人間の醜さをいやというほど見せつけられた一方、気持ちの通い合う友人たちとも出会った。とりわけ陸柏年や袁犀といった中国人の友人と知り合えたことは彼の北京体験の中で特筆される。
 
 しかし、「淪陥時期」の北京にあって、中薗自身は中国人側に親近感を寄せているつもりであっても、彼らの方からは「日本人=支配者」と見られてしまい、なかなか胸襟を開いてはくれない。「支配者」側にいるという立場性は、主観的な善意だけではどうにもならない。引け目の懊悩はさらに「原罪」意識へと深められていく。こうした矛盾への葛藤が、以後における中薗の文学活動の原点となっており、『彷徨のとき』『夜よ シンバルをうち鳴らせ』をはじめとした様々な作品で繰り返し表現されている。
 
 侵略した側、支配する者が、侵略された側、支配される者との間で友情を築くことができるのか。中薗はある本で、陸柏年から「きみは、人類という立場に立てますか?」と問いかけられたことを書き留めている。青くさい。しかし、こうした青くさい言葉が強烈な印象として中薗の脳裡に刻み込まれていたのは、それだけ深刻に矛盾した体験に身を引き裂かれるような思いをしていたからに他ならない。中薗は敢えてこの言葉を自らの問題として引き受け、終生のテーマとした。後年、アジア・アフリカ作家会議などで積極的な活動を行なったことも、こうした彼自身のテーマの延長線上にある。
 
 『夜よ シンバルをうち鳴らせ』を読んで私が関心を持っているのは次の二点である。第一に、日本軍占領下北京のカオティックな状況。当時、日本軍は「大東亜共栄圏」というスローガンを掲げていた以上、中華文化を尊重する態度を示さねばならず、また、統治の便法として傀儡政権を成立させていた。それらはもちろん建前上のものに過ぎなかったとはいえ、建前というのも結構バカにはならない。例えば、同時期の台湾や朝鮮では同化政策が推進されていたのと比べると、大陸の占領地では文化政策に関して別の方針が取られていた。傀儡政権には抗日派が紛れ込む余地もあり、当時の北京においては抵抗/協力という単純な二分法では割り切れないグレーゾーンが広がっていた。そこには、ある場合にはいわゆる「植民地的自由」があり、また別の局面においては、誰が敵で、誰が味方なのか分からない混沌とした人間模様があった。そうしたカオティックな状況が、ドラマの舞台として非常に印象的であった。
 
 上述のような「植民地的自由」は、日本統治下においてアイデンティティーの曖昧な台湾人を吸引する余地も大きかった。私は1930~40年代に中国へ渡った台湾人というテーマにも関心を持っているが、中薗が描き出した北京のカオティックな状況を後景として、その中で彼ら台湾人の動きをたどってみたいという気持ちがある。とりわけ台湾出身の音楽家・江文也については以前から調べているが、江はこうした北京の「植民地的自由」の中だからこそ、軍部の協力を得て中国をモチーフとした音楽作品を発表することができた。江の友人の画家・郭柏川は梅原龍三郎と共に紫禁城を描いた。抗日派の知識人、張深切、張我軍、洪炎秋などは、警察の監視が厳しい台湾から逃れて北京へ渡り、当時の北京は台湾と比べると、敵と味方とを分かつ線が曖昧だったため、監視がゆるいからこそ職を得ることができた。張深切、張我軍、洪炎秋たちは北京で周作人と交流があった。他にも、中国知識人が北京を脱出したため、かわって大学でポストを得た台湾人もいた。
 
 他方で、彼らには台湾人=日本国籍者という特権もあり、単純に抵抗/協力という枠組みでは捉えきれないグレーゾーンを意識しておかないと一面的な叙述に終わってしまう。いずれにせよ、中薗の作品では多様な民族的背景の人々が出てくるわりに台湾人は出てこないのだが、当時の北京にもやはり一定数の台湾人が来ていたし、彼らの動向について研究も増えてきている。
 
 第二に、支配する者と、支配される者との関係性。自分が主観的には相手に寄り添っているつもりであっても、相手はそのように受け止めてはくれない。自分の意志ではなくとも、支配者側にいるという立場性から逃れることの困難。これは、日本人として台湾研究をしている私自身にとっても、ずっと考え続けなければならない問題である。
 
 私はいわゆる「外地」がどうしても気になる。父方の祖父母はかつて台湾で教員をしており、特に祖母は「湾生」であった。母方の祖母は、その父(つまり私の曽祖父)が旧「満洲国」で事業をしていたことから(伊達順之助の友人だったと聞いた)、短期間ながら奉天にいたことがある。母方の祖父は一年間ほど朝鮮総督府に勤務した後、北京へ移って満鉄の子会社「華北交通」に測量技師として勤めていた。私は言うなれば、四重の意味で「侵略者」の孫ということになってしまうが、それはともかく、私が東アジア現代史に関心を持っている理由の少なくとも一つとして、祖父母の存在を通して東アジア現代史が身近なものに感じられているという点は挙げられる。
 
 上記の文章は、私が以前に書いた下記のエントリーをもとに、加筆しながらまとめた。
「中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』」 (2010年4月27日)
「神奈川近代文学館「中薗英助展─〈記録者〉の文学」」(2012年4月25日)
 
 私が持っているのは福武文庫版で、絶版である。いま手元にないので、書影は割愛する。

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2020年5月27日 (水)

【七日間ブックカバー・チャレンジ:六日目】 安彦良和『虹色のトロツキー』

【七日間ブックカバー・チャレンジ:六日目】
安彦良和『虹色のトロツキー』
 
 『虹色のトロツキー』は大学生の頃に読んで、はまった。主人公・ウムボルトは日本人とモンゴル人の混血で、旧「満洲国」の最高学府・建国大学に在籍していたという設定である。当時、ソ連から追われて海外亡命を余儀なくされていたトロツキーを建国大学教授に迎え入れようという構想は実際にあったらしいが、この作品では「トロツキー計画」をめぐる日本軍の謀略工作にウムボルトが翻弄される姿が描き出されている。1930年代の東アジアを舞台として、ウムボルトという一人の青年を縦糸としながら、民族的背景の異なる様々な人々が交錯していく。ウムボルトは架空のキャラクターだが、その他の登場人物の大半は実在していたから、この時代の歴史を勉強している者として、どのように描かれているのか、やはり興味が引かれるし、何よりも人物群像劇としてものすごく面白い。
 
 1930~40年代の日本というのは、ある意味、「脱国境」的な状況にあった。ただし、それは日本による対外侵略を背景としたものであったが。建国大学、あるいは旧「満洲国」における「五族協和」という理念を額面通りに受け止めるわけにはいかない。しかし、単に虚構に過ぎなかったとしても、それを生真面目に考えた人はいたし、またそれを一つの動力として様々な人間模様が繰り広げられていた。それこそ民族の壁をこえて信頼し合い、かと思ったら裏切られ、そしてぶつかり合う──そうした状況が、そこには悲劇があるからこそ、なおさらのことドラマの舞台として引きつけられるものを感じていた。
 
 「満洲」という土地は昔からずっと気になっていた。私が初めて観た「大人の映画」(という言い方は誤解されるかもしれないが、例えば「ドラえもん のび太の~」みたいなのではなく、文芸的映画と言ったらいいのだろうか)は、中学一年生の学年末だったか、私と同じく歴史に興味のある同級生と一緒に観に行ったベルトルッチ監督「ラストエンペラー」であった。その頃、映画上映に合わせて関連書籍も書店で並べられており、例えば、溥儀『わが半生』、レジナルド・ジョンストン『紫禁城の黄昏』、エドガー・スノー『極東戦線』など、よく分からないながらも手に取った。『わが半生』は前半の政治的動乱よりも、後半の獄中生活の方がむしろ面白く感じた記憶がある。いずれにせよ、私が東アジア近現代史に関心を持つようになった直接のきっかけは『ラストエンペラー』だったと言えるのだが、以来、「満洲」という土地がずっと私の脳裏に強い印象を残している。
 
 安彦良和には他にも『麗島夢譚(うるわしじま ゆめものがたり)』という作品がある。尻切れトンぽに終わってしまい、失敗作なのは残念だが、着眼点はとても良かったと思う。私が東アジア史で強い関心を寄せているのは、第一に1930~40年代であり、それは『虹色のトロツキー』であるが、第二に、16世紀後半から17世紀にかけての海洋アジア世界である。いずれも、民族的背景の様々な人物が動き回り、ぶつかり合う活劇の恰好な舞台として面白い。台湾史に関心を持つ者としても、実はこの二つの時代は極めて重要な意義を持つと考えている。そこに注目した安彦良和の着眼点にはやはりうならされた(結果的に期待外れだったとはしても)。
 
 『虹色のトロツキー』はいま、中央公論社から文庫版や愛蔵版も出ているようだが、私が買ったのは最初に出た潮出版社版だった。いま手元にないので、書影は割愛する。

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2020年5月26日 (火)

【七日間ブックカバー・チャレンジ:五日目】 上山安敏『神話と科学──ヨーロッパ知識社会 世紀末~20世紀』

【七日間ブックカバー・チャレンジ:五日目】
上山安敏『神話と科学──ヨーロッパ知識社会 世紀末~20世紀』
 
 人物群像劇の形で、ある時代相を描くという作品が私は大好きで、例えば、スチュワート・ヒューズ『意識と社会 ヨーロッパ社会思想1890~1930』とか、ピーター・ゲイ『ワイマール文化』、あるいは山口昌男の著作などを思い浮かべているのだが、一番印象に残っているのはやはり上山安敏『神話と科学──ヨーロッパ知識社会 世紀末~20世紀』である。学術書なのに、読み物としてめっぽう面白かった。
 
 著者は本来、西洋法制史を専門としているが、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのいわゆる「世紀末」と言われた時代状況に分け入って、そもそも社会科学が成立した知的基盤を捉え返そうとする。いま手元に本書がないので詳細を確認できないのだが、きっかけは確か、バハオーフェンの母権論をめぐる探究から始まっていたのではなかったか。学術だけを切り離して考えるのではなく、文学や芸術も含めたトータルな時代性の中で、そこに底流する思潮が描き出されている。それだけでなく、当時のビッグネーム、例えばウェーバー、フロイト、ユング、バハオーフェン、ニーチェ、ベンヤミン、トマス・マン、ゲオルゲ、ヘッセ…等々、記憶に頼っているので書き漏らしもあるだろうが、こういった人々について博引傍証、豊富なエピソードを紹介しながら生き生きと論じているのが面白かった。個々の人物の名前はもちろん知っているし、ものによっては読んだこともあるが、こうした人々の同時代性を有機的に理解できたのは大きな収穫だった。とにかく専門分野を超えて時代性をたくみに描き出していく筆致に引き込まれた。
 
 つまり、本書を読んで私が感心したのは、第一に、分野を超えて複数の人物を同時に論じながら、それらの人々が共通して関わっていた時代思潮を浮き彫りにしていくという描き方。第二に、かたい学術書であるにもかかわらず、エピソードが豊富で読み物としても面白かったこと。もし可能であるならば、別の題材でこういうものを書いてみたいという憧れを抱いた。上山とはテーマは全く異なるが、私は『民俗台湾』や台北帝国大学(とりわけ土俗人種学教室)などを題材として日本統治時代→留用→戦後への学知的継承というテーマに以前から関心があって、そこに関わった日本人、台湾人、中国人の人物群像をいずれ描いてみたいという希望があり、あのような形で学術の歴史を描くことができればいいなあと思う。
 
 いま本書は手元にないので、書影は割愛する。

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2020年5月25日 (月)

【七日間ブックカバー・チャレンジ:四日目】 寺島珠雄『南天堂──松岡虎王麿の大正・昭和』

【七日間ブックカバー・チャレンジ:四日目】
寺島珠雄『南天堂──松岡虎王麿の大正・昭和』
 
 東京の本郷界隈、現在の文京区にかつて南天堂という書店があった。今でも南天堂書房というのがあるが、何らかの関係があるのだろう。大正から昭和初期にかけて、この南天堂の二階にはカフェがあり、本書はそこに集った詩人や文士、活動家に主義者たちの群像を描き出している。私は20代後半の頃、大正期の思想史に関心を持っており、関連する論文を書いたこともある。そうした中で、最初は資料調査の手がかり程度の気持ちで本書をめくり始めたのだが、なかなか面白くてそのまま読み込んでしまった。
 
 著者自身が詩人で、本書には自ら関わりのあった人々も登場しており、この南天堂のカフェで繰り広げられていた数々のファルスに強い思い入れを抱いていたであろうことはよく分かる。アナ・ボルの対立。理論派と詩人肌の食い違い。中には右翼だって紛れ込んでくる。あのような騒々しさというのが、大正期思潮の一つの特徴であり、また魅力であると私は思っている。しかしながら、本書での筆致は意外なほど抑制的である。それぞれに一癖も二癖もある面々について、こまかに資料を引きながら淡々と描写していく。その引いた姿勢が良いと思った。
 
 ロジックとしての思想と、実際の人間模様とは必ずしも一致するとは限らない。同じ党派やグループに所属していても、ささいな喧嘩で袂を分かち、それが結果的に政治的分裂に至るということはよくある。逆に、思想的には相反する立場なのに、個人的関係としては意外と仲が良かった人々もいる。喧嘩しつつ仲が良いという関係だってあり得る。群像劇として思想史を捉え返そうとするとき、このような生身の人間模様も実は見逃すわけにはいかない。そうした部分まで含めて描こうとするなら、特定の個人に注目するのではなく、視点を「場」に据えて人間関係そのものを全体的に俯瞰していくのも一つの方法であろう。
 
 本書では、南天堂書房及び二階に併設されたカフェという特定の空間を媒介として多種多様な人々が行きかった様子が活写されている。言い換えると、カフェという一つの「場」そのものが主人公である。サブタイトルにある松岡虎王麿というのは南天堂の経営者だが、実は彼についての言及は驚くほど少ない。また、南天堂の客のすべてを松岡が認識していたかどうかも分からない。本書の中では南天堂の常連客が機会に応じて紹介されていくが、その描き方は並列的で、特定の個人に注目するよりも、南天堂という「場」を媒介として関係し合った人々を俯瞰しているところに特徴がある。そうすることで、カオティックな人間模様の中から、それこそバフチン的な意味でのポリフォニックな群像劇が見えてくる。騒々しい多声的な様相こそ、大正・昭和初期のある場面で確かに現出していた時代思潮だと私は考えている。著者自身は自覚していなかったかもしれないが、淡々とした筆致だからこそ、そうした側面の描写にむしろ成功しているのが面白い。
 
 「場」を媒介とした人間模様を描いた作品としては、中島岳志『中村屋のボース』も面白かったが、これはあくまでもボースの評伝であって、中村屋というサロンを主に描いたものではなかった。
 
 私が一番好きな作家を挙げろと言われたら、いつも辻潤の名前を出すのだが、辻潤も南天堂の常連客だった。ダダやアナキズムの人たちってやっぱり面白いんだが、その魅力をうまく描き出せる人は実は多くない。最近で言うと、栗原康みたいな描き方は臭すぎて好きじゃない。
 
※本書は大学図書館に所蔵されていたので、書影はそれを利用した。
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2020年5月23日 (土)

【七日間ブックカバー・チャレンジ:二日目】 橋川文三『昭和維新試論』

【七日間ブックカバー・チャレンジ:二日目】
橋川文三『昭和維新試論』

  渥美勝という名前を見て、ピンと来る人は少ないだろう。大正期の「思想家」と言ってもいいのかどうか。高学歴ながらもすべてをなげうって放浪生活、「桃太郎主義」を掲げ、「真の維新を断行して、地上に高天原を実現せよ」と辻説法していた、国粋主義的な風来坊──現代の価値観からすれば単に奇矯な人物である。他方で、その風貌にはアッシジのフランチェスコを思わせる穏やかな気品がただよっていたという。橋川の『昭和維新試論』では、例えば石川啄木、高山樗牛、柳田國男、上杉慎吉、平沼騏一郎、北一輝など様々な人物が取り上げられているが、そうした中でも私にとって一番印象深いのが、この渥美勝であった。

  橋川の代表作とされるのは『日本浪漫派批判序説』であろう。若き日の橋川自身が、戦時下の思潮にコミットしていた過去への反省──いや、反省という言い方では言葉が浅い、彼を否応なく引き込んでいった吸引力のようなもの、それを何とか剔抉し、文章化しようとするひたむきな努力が、彼の政治思想史的研究の動機として伏流していた。

  とりわけ橋川による渥美勝の描写が私の心をつかんだのは、どうしたわけだろうか。『昭和維新試論』は後にちくま学芸文庫版や講談社学術文庫版も出たが、私が最初に読んだのは大学一年生のときに購入した朝日選書版である。その頃に読んだ時点では、橋川の存在感が気になってはいても、では自分はなぜ橋川を気にしているのか、それがうまく整理できていなかった。たぶんこういうことなんだろう。橋川は人物の内奥に迫ってその葛藤を描き出しつつ、そこから時代の諸相をみつめる視点を引き出し、そうであるがゆえに政治思想史としても成立している。その筆力に驚嘆すべきものを感じた。それは、他ならぬ橋川自身の内在経験が一つの触媒となって、対象とする人物の心象風景を引き出してくることができたからであろう。

  私自身、その頃からずっと、できるかできないかは別として、人物を描くことに興味があったのだと思う。ある人物を通して時代を描き、その人物が時代の中で格闘している姿を通して、思想的に語り得る何がしかを形にしてみたい。そうした一つの模範として、今に至るまで橋川文三のことがずっと気にかかっている。

  大学生の頃、テーマ的に近い方向性として松本健一の作品も割と読み込んでいたのだが、松本は多作がたたったのか、一つ一つの作品において対象とする人物への迫り方が橋川に比べて軽い(大変失礼だが…)と感じていた。

 


※いま本書は手元にないので、フェイスブックではアマゾンの書影を借用して投稿したが、このブログでは書影を割愛する。

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2020年4月26日 (日)

速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』

速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店、2006年)
 
 著者は周知のとおり歴史人口学の大御所であるが、『大正デモグラフィー──歴史人口学でみた狭間の時代』(速水融・小嶋美代子、文春新書、2004年)を執筆する中で、いわゆる「スペイン風邪」(本書では「スペイン・インフルエンザ」と表記)の重大さに気づいたという。当時のスペイン風邪については内務省衛生局が編纂した『流行性感冒』(『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』[平凡社・東洋文庫、2008年]として復刻)もあるが、それだけでは不十分であり、そこで著者は当時の新聞記事を集める作業から着手した。有力紙ばかりでなく、各県・外地の地方紙まで網羅的に調べ上げてスペイン・インフルエンの流行状況に関する統計データを示し、当時においてこの流行病が猖獗を極めた状況を描き出している。
 
 いわゆる「スペイン風邪」が最初に確認されたのは1918年3月、アメリカ東部においてであった(中国起源説もある)。当時は第一次世界大戦の終盤にさしかかっており、派遣された軍隊を通してヨーロッパ戦線に伝播し、さらに世界中に拡大したものと考えられる。戦時下であったため、各国は情報統制を敷いており、伝染状況の詳細は分からなかったが、中立国のスペインで最初に大々的な報道がなされたことから「スペイン風邪」という名称が定着した。「スペイン風邪」は全世界で膨大な死者を出したが、ちょうど第一次世界大戦と重なっていたため、その衝撃が若干薄くなり、そのため記憶もすたれていったと言われる。
 
 本書では台湾にも紙幅が割かれているので、その部分についてメモしておく。本書によると、台湾では1918年6月に基隆でインフルエンザが発生し、同年12月にはいったん収束へと向かった。これが「前流行」とされる。次に、1919年12月から軍隊を起点として「後流行」が始まったが、翌年3月に入ると関係する新聞記事は見られなくなるという。日本と比べると、台湾でのインフルエンザは短期間の流行で終わっており、死者数は合計118922人で、死亡率に関しては内地人よりも本島人の方が若干高い。なお、1918年には日本から台湾へ来て巡業中の力士が原因不明の熱病で倒れて何人か亡くなっており、これもインフルエンザだったのではないかと指摘されている。
 
 「前流行」が基隆で始まった頃、香港でもインフルエンザが流行していたことから、船舶経由で基隆へと伝播し、さらに台湾各地に広がったものと考えられる。他方、「後流行」は軍隊への新入営兵から始まっている。歴史的に見て感染症の拡大において船と軍隊というのが重要な要因であり、今も昔も密閉集団でクラスター感染が起こっていた点は同じである。現代ならば、日本でも深刻な問題となったクルーズ船があろうし、グローバルな交通手段としての飛行機、さらにクラスター感染を引き起こす通勤電車が考えられるし、また軍隊同様の「強制性」を持つ組織集団としては一部の会社も同様の条件を備えていると言えよう。台湾では今年4月下旬、海軍の訓練艦から感染者が広がったことが衝撃を与えた。また、スペイン・インフルエンザの当時も興行自粛の要請が行われていたことも現在の状況と二重写しになり、現在と100年前を比べると、未知の感染症が拡大しつつあるときの基本的条件は今も昔もほとんど変わらないということに改めて感じ入る。

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2020年4月19日 (日)

石光真人編著『ある明治人の記録──会津人柴五郎の遺書』

  石光真清『城下の人』を読んだついでに、石光真人編著『ある明治人の記録──会津人柴五郎の遺書』(中公新書、1971年)にも目を通した。編者の石光真人は石光真清の息子で、東京日日新聞(毎日新聞)記者。石光真人は父真清の関係で往来のあった柴五郎から紙面にしたためられた回想録を託され、それを校訂・整理した上で刊行されたもの。
  熊本人の石光家と会津人の柴五郎との間にどのような関係があったかと言うと、石光真清の伯父にあたる野田豁通の家で柴五郎は書生をしていたことがある。戊辰戦争で敗れた会津藩士の一部は青森の斗南藩へ移されたが、柴が青森県庁に給仕として働いていたとき、知事として赴任してきた野田に認められ、その縁で東京へ出て、陸軍幼年学校、士官学校を卒業した。後に石光真清が野田を頼って東京へ出てきたときに、野田の指示で柴五郎の家へ預けられ、それ以来、石光真清と柴五郎とは親しい関係にあった。
  本書の第一部は柴五郎の回想録である。回想録と言っても、柴の全生涯にわたるものではなく、会津落城から苦節をなめた青少年期の記憶である。会津落城以来の薩長への反抗心は骨身にしみており、西郷隆盛・大久保利通が仆れたことに関しても心から喜んだと記している。第二部は編者・石光真人によって「柴五郎翁とその時代」と題して記された略伝である。
  柴五郎は第一に中国通であり、第二に台湾軍司令官を務めていたことがあるので(1919~21年)、台湾に関しても何がしかの記述があるのかと期待していたのだが、ほとんど何も言及されていなかった。台湾軍司令官に任命されたのも、中国通として買われたというより、閑職に回された側面が強いらしい。
  ただ、以下の記述があったので、これだけメモしておく。
「明治六年、皇城炎上。西郷隆盛等、征韓論に破れて参議を辞し、薩摩に帰り不穏なり。明治七年江藤新平の佐賀の乱あり。台湾蕃族討伐、日清談判等の事件ありて、第二次の騒乱近きを思わしむるものあり。山川大蔵、根津の邸を出て急ぎ九州に赴く。このころ台湾の蕃族の少女捕われて銀座に見せ物となり、余もこれを見物せり。」(108頁)
  おそらく、台湾出兵で捕らわれたパイワン族の少女なのであろう。詳細を知らないので、時間を見つけて調べてみたい。
  柴五郎については義和団事件の時の北京籠城でも有名だが、そちらに関しては柴五郎の講演録「北京籠城」が、服部宇之吉の手記「北京籠城日記」「北京籠城回顧録」と共に東洋文庫で刊行されている(大山梓編『北京籠城・北京籠城日記』平凡社・東洋文庫、1975年)。

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2019年2月 6日 (水)

D・コーエン/戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体──パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』

D・コーエン/戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体──パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』(ちくま新書、2018年)
 
 東京裁判をめぐっては玉石混淆を問わずおびただしい研究成果が生み出されてきた。現時点で代表的なものと言えば、歴史学としての粟屋憲太郎『東京裁判への道』(上下、講談社選書メチエ、2006年)、国際関係史の枠組みから論じられた日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008年)といったあたりが挙げられるだろうか。ただ、いずれもタテ・ヨコの相違はあっても、広義の政治史の範疇に属する。これらに対して、本書は純粋に法理学の立場から東京裁判の判決書を分析しているところに特色がある。
 
 東京裁判では戦勝国から11人の判事が選任されており、判決では多数派判決の他、パル、レーリンク、ウェブ裁判長などがそれぞれ反対意見や個別意見を提出したことはよく知られている。本書は多数派判決、パル判決、レーリンク判決、そしてウェブの判決書草稿のそれぞれが分析されている。
 
 多数派判決は共同謀議の枠組み作りにこだわるあまり、個々の被告の罪状認定がおろそかにされていたという欠点がある。では、反対意見はどうであったか。例えば、パル判決は東京裁判の成立根拠を根本的に否定していたため、日本で人気が高い。しかしながら、法理学の立場から分析する本書によると、彼の判決書は政治的主張ばかり押しだされて法的根拠に乏しく、裁判官としての資質に問題があると酷評されている。また、レーリンク判事は政治的配慮に流されてしまい、便宜主義的な矛盾が見られるという。
 
 意外なことに、本書が最も高く評価するのはウェブ裁判長によって執筆された判決書草稿である(なぜ意外かと言えば、ウェブ裁判長は短気で強引な性格のため、当時の裁判関係者から判事としての資質に疑問が投げかけられていたからである)。ウェブは最終的には多数派判決に従ったが、必ずしも全面的に同意していたわけではなく、個別意見を付していた。彼はその個別意見とは別に、完結した判決書草稿を用意してあったが、結局、裁判所には提出されなかった。本書ではその草稿を掘り起こして分析が進められているが、ウェブはまず適用されるべき法的基準を明示し、個々の被告が有罪になった法的結論について一貫した説明を行っている点で、法的観点からすると他の判決書よりも優れた内容になっているという(もちろん、個々の事実認定においては問題もあるにせよ)。
 
 本書でなぜ東京国際裁判(及びニュルンベルク国際裁判)における個人責任追及の法的論理が重視されているかというと、旧ユーゴ国際刑事裁判やルワンダ国際刑事裁判など現代の国際戦争犯罪法廷を成立させる判例として認められているからである。戦争犯罪の個人責任追及は東京裁判やニュルンベルク裁判で初めて定式化されたという判例上の意義は、実は国際法や平和構築といった分野では常識的な論点なのだが、現代史に偏重した論者にはこうした東京裁判の現代的意義はしばしば見過ごされている。新書版という入手しやすい形式で本書が刊行されたことは、東京裁判をめぐる歴史的認識と国際法的認識とのギャップを埋め、現代的意義につなげていく上で有益と言えよう。

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2019年2月 1日 (金)

松沢裕作『生きづらい明治社会──不安と競争の時代』

松沢裕作『生きづらい明治社会──不安と競争の時代』(岩波ジュニア新書、2018年)
 
 ある時代の特徴というか、イメージの捉え方は、振り返ろうとしている現代の我々自身の問題意識の取り方によって大きく違ってくる。明治時代のイメージはどうであろうか。例えば、司馬遼太郎『坂の上の雲』の場合、明治のポジティブな健全さが強調されていた。それは昭和の軍国主義と対比する作者自身の執筆動機や、この作品が受け入れられた時代状況との関わりから解釈されるべきであろう。
 
 本書では逆に、「生きづらい」というネガティブな時代状況に注目しながら明治社会の諸相が描き出される。江戸から近代社会への急激な社会変動は、後世の我々からすればドラマチックで興味深く見えるが、当事者の身になれば、先の見通せない不安に耐えがたい思いをしていたかもしれない。江戸時代の村における助け合いの仕組みはこの社会変動で解体され、立身出世に向けて自助努力が促される。他方で、努力や勤勉を強調する「通俗道徳」(江戸時代からすでに流布していた)は、貧困層や弱者に「怠け者」のレッテル貼りをする。そもそも明治新政府は歳入不足から社会保障に回すお金はない。恤救規則への批判は、現代日本社会で見かける「生活保護」バッシングと二重映しになってくる。女性の立場は弱く、身売りされたり、女工としての待遇も悪かった。
 
 本書では各章ごとに下記に掲げる論点を取りながら、現代社会でも見聞きされる社会問題とうまくリンクされており、身近なところから想像力を働かせやすい構成となっている。初学者向けの概説書としてよく工夫されている。
 
第一章 突然景気が悪くなる──松方デフレと負債農民騒擾
第二章 その日暮らしの人びと──都市下層社会
第三章 貧困者への冷たい視線──恤救規則
第四章 小さな政府と努力する人びと
第五章 競争する人びと──立身出世
第六章 「家」に働かされる──娼妓・女工・農家の女性
第七章 暴れる若い男性たち──日露戦争後の都市民衆騒擾
 
 本書でとりわけ強調されるのは、「通俗道徳」に見られる自己責任言説に明治の一般民衆もはまりこみ、自縄自縛に陥っている姿である。そうした様相を描き出すことは同時に、歴史を一つの鏡としながら、「通俗道徳のわな」にはまらないよう、それを見抜く眼力を磨き上げようという読者へのメッセージにつながっている。

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2019年1月25日 (金)

藤原辰史『給食の歴史』

藤原辰史『給食の歴史』(岩波新書、2018年)
 給食は単なる食事ではない。学校は様々な出身背景の子供たちが一箇所に集まって一定期間、共同生活を営む空間である。例えば、弁当持参とした場合、貧困家庭の子供たちは弁当を用意できなかったりすることもあり、昼食の時間は均一の生活空間の中で、家庭背景に由来する相違が顕著に可視化される機会ともなり得る。そのため、給食は子供たちにもたらされかねない貧困のスティグマを回避するという原則が重要となる。また、教育を受けている期間は健康な身体を形作る上で重要な時期であり、給食は社会的インフラとして基本的な役割を果たしていると言えよう。
 見方を換えれば、給食には様々な社会的要因が凝縮されている。本書は、福祉政策、教育政策、農業政策、災害対策など様々な側面から学校給食の歴史的背景を検討しており、論点は政治や対外関係などにも及ぶ。例えば、占領期において脱脂粉乳や小麦粉食が奨励された一因として、アメリカの余剰農産物の消化という政治力学も働いており、日米間の権力関係が間違いなく作用していた。また、給食の平等主義的側面に対して反共主義との関わりから批判を受けたりしたのも冷戦期の時代状況が垣間見える。
 行政側で財政状況が悪化すれば、食は人にとって根源的な要請であるにもかかわらず、新自由主義的な風潮の中で給食関係予算の削減が争点化しやすい。また、食を家庭に戻そうという、耳障りは良いが復古的なイデオロギーからの批判にもさらされている。もちろん、全体的に言って給食の問題は改善されてきた。本書では、保護者、教職員、学校栄養職員、調理師など現場の関係者の運動によって改善されてきた経緯に注目しており、その意味で給食制度の歴史ではなく、こうした人々の運動史として構成されている。
 本書で紹介されている「すずらん給食」の事例では、かつては飢饉に苦しんだ地方と中央との格差が給食の必要性の論点となっていたが、現在でも格差的構図は「子どもの貧困」という問題領域の中で見て取れる。自助努力を強調する極端な自由主義的思想はそもそも出発点における不公正を無視する傾向があるが、貧困は子供自身の責任には由来しない家庭要因によるというだけでなく、子供時代における食生活は将来的な健康にも影響するという意味で取り返しのつかない問題であり、そうした意味で給食は根源的な意義を有する。本書で整理された給食をめぐる歴史的考察は、食と社会的公正との関わりを考えていく上で有用な論点を提示してくれる。

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