カテゴリー「近現代史」の362件の記事

2016年5月15日 (日)

中川右介『戦争交響楽──音楽家たちの第二次世界大戦』

中川右介『戦争交響楽──音楽家たちの第二次世界大戦』(朝日新書、2016年)

 1930~40年代にかけて世界中で戦争と粛清が荒れ狂った時代、こうした政治的狂気は音楽家たちをも翻弄していた。本書は1933年のヒトラー政権成立前後から1945年に第二次世界大戦が終わるまで、政治情勢をめぐる解説を節目ごとに挿入しながら、当時の音楽家たちの動向をクロノジカルに描写している。

 名だたる作曲家や演奏家の名前はことごとく網羅され、著者自身があとがきで言うように、オールキャスト映画のおもむきすら持つ。焦点がしぼられていないからと言って、叙述が無味乾燥だったり散漫だったりということはなく、クラシック音楽ファンなら目を引くエピソードが次から次へと繰り出されてくるので、読みながら緊迫感を帯びた時代的雰囲気に引き込まれていく。また、常に出来事の同時代性が意識されるので、時代状況をトータルに把握できる。

 1938年のナチスドイツによるオーストリア併合まで、オーストリアのドルフス政権は独立の維持に腐心していたが、ザルツブルグ音楽祭は独立オーストリアの象徴となり、それはナチスへの抵抗でもあったため、「反ファシズムの砦」としての意義も帯びたという。他方、ワーグナーを愛好するヒトラーはバイロイト音楽祭にひときわ思い入れを持っていた。反ファシズムの立場にあったトスカニーニはヒトラーの誘いを蹴ってバイロイトでの演奏をやめ、ザルツブルグに肩入れする。政治的対立関係がナチスのバイロイト、反ナチスのザルツブルグという位置づけになったというのはまさに時代の様相を表していた。

 反ファシズムの立場を明確にしたトスカニーニとは異なり、フルトヴェングラーの立場はあいまいだ。彼もヒトラーを嫌い、ユダヤ人を擁護しようとしてはいたが、芸術は政治とは無関係という芸術至高主義が、かえってナチスに利用される余地を残してしまっていた。なお、フルトヴェングラーは訪独した近衛秀麿を通じて、ストコフスキーにアメリカ亡命の可能性を打診していたが、オーマンディに反対されて、結局、実現しなかったという。他方、自らの足場を確保しようと躍起になっていた若きカラヤンは、ナチスに入党してまで政権に迎合しようとしていたが、ヒトラーから嫌われていたためなかなか出世できず、それがかえって戦後に「免罪符」になり得たというのも皮肉である。

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2016年5月13日 (金)

豊川斎赫『丹下健三──戦後日本の構想者』

豊川斎赫『丹下健三──戦後日本の構想者』(岩波新書、2016年)

 日本を代表する建築家の一人であり、都市計画の分野で大きな存在感を残した丹下健三。彼は都市や国土との有機的な結びつきの中で建築を捉えていたため、デザインを行う前提としてまず国土全体の課題を整理することが必要となる。従って、丹下の建築に関わる営為を考えることは、単に彼の建築デザインを論ずるというだけでなく、同時に彼が日本社会の現状をどのように理解し、将来的にどのような方向性へと構想していたかを問うことに直結する。他分野の専門家とも積極的に協力し、国土開発のコーディネーターとしての役割を果たし、さらには自らのプランを実行するには政治とのつながりも必要であった。

 私が興味を持ったのは次の一節。「都市デザインとは政治である。多くの若者が丹下に憧れ、アーバニストになることを夢みて丹下研究室の門戸を叩いたが、そこで経験を積むにつれ、政治と関わらなければ思ったようなデザインが完成しないことを知った。」「また、国家的なイベントの企画・立案も重要な都市デザインの一つである。というのも、国家的なイベントでもないかぎり、巨大都市の中心地で、政府や自治体を含む多くの地権者の同意を得ることは困難であったためである。」(187頁)

 彼は自宅などの例外を除けば、基本的に個人住宅の設計を手掛けていない。近代社会においては、公共性を持つ建築が対象となるのは群衆であると彼は理解しており、「社会的人間の尺度」で建築を考えていたという。それは個人という単位から出発するのではなく、俯瞰的に捉えているという意味で古代建築における「神々の尺度」と同様だったのではないかと指摘される。初期の建築においてピロティを設定し、市民が集える公共空間にしようとしていたのは、民主主義を建築という場面でどう実現するかという問題意識とつながっていた。他方、1970年代にオイルマネーでわく中東などに招かれて大規模建築の設計を手掛けた経験を経た上で、1980年代に丹下が新都庁舎を設計したとき、磯崎新が「知事の権力を一直線のシンボル性に集約するデザインを採用しており、この変化が中近東の経験に由来するのではないか」という趣旨の批判をしているのが興味深い。建築や都市計画において俯瞰する視点は、ともすると権力者の視点と同一化しかねない問題をはらんでいるのかもしれない。

 戦後まもなくの日本では建築資材・技術等が未熟で、丹下の設計プランが思うように発揮できない場面もあったという。ところが、1960年代に入り、例えばオリンピックに合わせて建設された国立屋内総合競技場では、様々な建築資材を活用出来た上に、ゼネコンに勤務する中間技術者の積極的な協力もあって、日本の建設産業のポテンシャルを世界に向けて発信できたと指摘される。設計者の構想という上部構造だけでなく、材料、機会、それらを調達する流通システムなどの下部構造、及びその下部構造を上部構造につなげる「中間層」の存在があって、はじめて丹下の構想は実現し得た。

 丹下が設計を手掛ける際には、その建築がどのような社会的・時代的脈絡の中にあるかを常に意識していたため、前提として同時代の社会・経済状況についての考察が不可欠となる。言い換えると、本書は丹下健三という人物を通して戦後日本建築史を語っているだけでなく、建築という側面から日本戦後史そのものの流れも見えてくる。個人的には、戦前、丹下が大東亜建設記念造営計画設計競技に入選したプランにも興味があるのだが、本書は1945年以降に限定して論じられているため、戦前期については言及されていない。

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2016年5月 9日 (月)

【映画】「灣生畫家 立石鐵臣」

「灣生畫家 立石鐵臣」

  1941年7月、太平洋戦争の勃発が間近に迫った時期、台北で『民俗台湾』という雑誌が創刊された。1937年には日中戦争が始まって戦時体制が強まりつつあり、台湾では「皇民化運動」が展開されていた。「日本人」として皇国に心身ともに捧げることが当然視された時代状況下、台湾の民俗文化の記録・保存を目的とした雑誌の存在は、それだけでも当局から睨まれてもおかしくなかった。雑誌の刊行を継続することがまずは至上命題。検閲の目を逃れるためには時に国策に迎合する言辞もちりばめなければいけなかったが、いずれにせよ、日本人であるか台湾人であるかを問わず、台湾の文化や歴史に愛着を持つ人々が手探りしながら協力し合って、このささやかな雑誌は1945年1月号まで続いた。

  『民俗台湾』をひもとくと、「台湾民俗図絵」をはじめとしたイラストがひときわ目を引く。的確に対象を捉えつつ、ぬくもりがあって、時にユーモラスなこれらのカットを描いたのは、台湾生まれの日本人画家・立石鐵臣。台湾生まれの日本人のことを「湾生」という。

  立石鐵臣は1905年、台北に生まれた。父の転勤に伴って日本へ帰国。絵画には早くから興味を持ち、才能を示していた鐵臣は国画会に入選するなど若手画家としてのキャリアを着実に積んでいた。1934年、台湾へ戻る。生まれ故郷・台湾の風光を描きたかったからだ。「ちょっと台湾へ行ってきます」というさり気ない言い方が、いかにも彼のパーソナリティーを彷彿とさせる。

  立石は1934年に台湾人を中心に設立された台陽美術協会の創立メンバーになった。台北放送局に勤務していた兄・立石成孚の家に寄寓し、台北帝国大学の生物学者・素木得一の研究室で標本画を描く仕事をしながら、細密画の描法を自ら会得する。また、台北の文壇で勢力を持っていた作家・西川満に頼まれてイラストや装幀も手掛けるようになり、そうした中で後の『民俗台湾』同人たちとも知り合った。

  1945年、日本の敗戦により、台湾は中華民国に接収された。日本人は原則的に日本へ送還されることになっていたが、特殊技能を持つ日本人はしばらく留め置かれた。これを「留用」という。立石も「留用」されて台湾省編訳館に勤務する。ここでは日本統治時代に蓄積された学術的成果を整理・翻訳する作業が行われていた。編訳館には魯迅の親友だった許壽裳など日本留学経験のある開明的な中国知識人が派遣されてきており、彼らは「留用」された日本人にも誠意をもって接してくれたという。私個人としては、こうした形で日本人、台湾人、中国人が協力し合う時期が束の間なりともあったということに関心が引かれているが、1947年の二二八事件等によって時代状況は瞬く間に険悪化していく。編訳館は閉鎖され、許壽裳は暗殺されてしまった。編訳館の閉鎖後、鐵臣は「留用」された日本人の子弟が預けられていた小学校の教員をして、生徒から慕われていたらしい。1948年、最後の引揚船に乗って基隆を離れるとき、埠頭には見送りの台湾人がたくさん集まっていて、「蛍の光」が聞こえてきたという。

  日本へ帰国して以降、彼の画風は抽象的なものになっていく。例えば、眼球が宙に浮いているような「虚空」(1950年)──もともとのタイトルは「孤独」だったという。彼が見ていた心象風景はどのような経過をたどって変化したのだろうか。台湾体験は戦後の彼の軌跡にどのような影響をもたらしたのだろうか──。藤田監督は上映後のスピーチの際、初期の画風と戦後の画風との際立った違いが気にかかり、その中間に位置する台湾時代を探ってみたいと思った、という趣旨のことを語っておられた。立石は自らのことについて直接的に語ることは少なく、絵画を通して語っている。そして、残念ながら、台湾時代に描いた作品の多くは台湾に残してきて、そのまま行方不明になっている。明確な答えはなかなか見えてこないが、むしろ観客一人一人が彼の軌跡がはらんだ意味を考えて行く上で、このドキュメンタリー作品は貴重な手がかりを示してくれている。

  立石が描いた「台湾民俗図絵」のカットは、現在の台湾でも、例えば小物のデザインなど、ふとしたところで見かけることがある。利用した台湾人自身も、その来歴を知らないのかもしれない。また、戦後、日本へ戻った立石は生計を立てるため図鑑や教科書のイラストもたくさん描いており、我々も気づかないところで、実は立石の絵を見ていた可能性は高い。世に知られようと知られまいと、そんなことには頓着せず、立石はとにかく絵を描き続けていた。

  台湾人からすれば、日本統治時代の台湾史は最近まで学校で教えられることがなく、ある意味、足元のことなのに未知の世界も同然であった。また、日本人からすれば、日本統治時代の台湾は、日本と密接な関係があったにもかかわらず、現在は外国であるがゆえになかなか知る機会がなく、これもまた別の意味で未知の世界である。この「湾生画家 立石鐵臣」というドキュメンタリー作品は、日本人の藤田修平監督、台湾人の郭亮吟監督という二人によって共同制作されており、日本人と台湾人、それぞれ異なる探求の視点がうまくかみ合いながら、立石鐵臣という一人の画家を通して日台関係のある一面も見えてくる。私自身も台湾現代史の勉強を続ける上で色々な示唆を受けており、もっと多くの方に観ていただけるよう上映機会が増えることを願いたい。

  作品中には立石鐵臣のご家族や、『民俗台湾』の立役者であった池田敏雄夫人の黄鳳姿さんなどの貴重な証言が含まれている。『民俗台湾』の印刷を請け負っていた、やはり湾生の岡部茂さんや、考古学者の宋文薫さんは今年、惜しくも相次いでお亡くなりになってしまった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

  また、5月21日から東京・府中市美術館にて「麗しき故郷「台湾」に捧ぐ──立石鐡臣展」も開催される。
 

(2016年5月7日、「台灣國際紀錄片影展」、台北・光點華山電影にて)

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2016年2月 9日 (火)

對馬辰雄『ヒトラーに抵抗した人々──反ナチ市民の勇気とは何か』

對馬辰雄『ヒトラーに抵抗した人々──反ナチ市民の勇気とは何か』(中公新書、2015年)
 国民的熱狂に沸き、監視の目が張り巡らされたナチズム体制下、命を賭して反ヒトラー運動に身を投じた人々がいた。例えば、映画「白バラの祈り」 で描かれた白バラ学生運動、トム・クルーズ主演の映画「ワルキューレ」 で焦点が当てられたシュタウフェンベルク大佐のヒトラー暗殺未遂(7月20日事件)などはよく知られているが、そればかりではない。地位や思想的背景も異なりながら、ナチズム体制によって遂行されつつある国家的犯罪に対して、良心に照らして疑念を抱き、自らの責任において行動した人々について、本書は有名無名を問わず取り上げている。
 ある者はユダヤ人を助け、ある者は戦争終結を目指してヒトラー暗殺を図った。今でこそ、こうした人々の示した勇気は称讃されている。ところが、反ヒトラー活動を「叛逆」とみなすナチスの宣伝がドイツ国民の隅々まで浸透していたため、戦後直後にあっては一般市民レベルでそうした感覚的印象がなかなか消えず、本来なら栄誉を受けるべき処刑された抵抗者たちの遺族はしばらくそのことを隠さねばならなかったという。連合国としても、「罪深きドイツ」というイメージを維持した方が占領政策上好都合であったため、ナチスとは異なって良心ある「もう一つのドイツ」を示そうとした抵抗者の事績を公表することは許されなかった。奇妙な共犯関係の皮肉。
 占領終了後、国防軍内の反ヒトラー派やインテリ抵抗者などに関しては徐々に名誉回復が進んだ。しかし、「ローテ・カペレ」(赤い楽団)と呼ばれた市民ネットワークは、冷戦という時代状況の中、反共の観点から無視された。この「ローテ・カペレ」とはゲシュタポの命名により、実際には共産主義者ばかりでなく様々な出身背景の人々が集まっていたのだが──。1939年11月8日に一人でヒトラー暗殺を計画した指物師のエルザーについては、「教養のない者には大した理念などなかったはず」という偏見から名誉回復が遅れてしまったという。ナチ宣伝の残滓、冷戦という時代状況、非教養層に対する偏見──こういった要因で無視されてきた抵抗者の事績が洗いなおされていったプロセスは、歴史評価の難しさを改めて突き付けてくる。

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2016年1月29日 (金)

【映画】「サウルの息子」

 ナチスの絶滅収容所でユダヤ人のジェノサイドが行われていたとき、収容されたユダヤ人の中から選ばれて殺戮作業の手伝いをさせられていた人々をゾンダーコマンド(Sonderkommando)という。大量虐殺の一部始終を目撃していた彼らもやがて殺される運命にあったが、2,3カ月の延命と引き換えにこの作業に従事していた。
 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所でゾンダーコマンドとして働いていたサウルはガス室で遺体処理をしていたとき、まだ息のある少年を見かけた。親衛隊の医官はただちに彼の息の根を止めてしまったが、サウルは少年の遺体をユダヤ教の教義に則って埋葬してあげたいと考え始める。遺体を隠し、ラビを探す中、サウルの視点を通して収容所の内情が映し出される。同時に、秘かに蜂起の準備をしていたゾンダーコマンドたちが潰されていく過程も描かれる。
 ジークムント・バウマン『近代とホロコースト』(森田典正訳、大月書店、2006年)は、近代社会を特徴づける組織経営の合理性・効率性こそが道徳感情の無化をもたらし、あたかも工場のように粛々と大量殺戮が遂行された逆説を指摘している。それは、ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳、みすず書房、1969年)で指摘された「悪の陳腐さ」ともつながる。また、自らの収容所体験をもとに書かれたヴィクトール・フランクル『夜と霧』(霜山徳爾訳、みすず書房、1956年/池田香代子訳、みすず書房、2002年)では、こうした極限状態が日常風景となる中、収容者自身も感覚が麻痺してしまう様子が描写されている。殺戮の残酷さ以上に、殺す者、殺される者の双方が感覚を失ってしまうことの方が実におぞましい。
 だからこそ、フランクルは過酷な非人間的状況の中でも尊厳を保ち続けることの大切さを我々に訴えかけていた。サウルが少年の遺体をユダヤ教の儀式によって埋葬することに固執する様子は見ようによっては無意味である。そんな努力をしたところで死者は帰ってこないし、殺戮を止めることもできない。だが、そうした不合理に見える行動の中からこそ、人間としての尊厳を失うまいとする葛藤が垣間見えてくる。
【データ】
原題:Saul Fia
監督・脚本:ネメシュ・ラースロー
ハンガリー/2015年/107分
(2016年1月28日、ヒューマントラスト有楽町にて)

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2014年12月18日 (木)

多田井喜生『昭和の迷走──「第二満州国」に憑かれて』

多田井喜生『昭和の迷走──「第二満州国」に憑かれて』(筑摩選書、2014年)

  戦争遂行に必要な条件は軍事、外交、財政。日本が中国大陸での侵略戦争を進めるにあたって財政面ではどのように資金調達を行っていたのか。本書によれば、朝鮮銀行の創案した「預け合」という錬金術的なからくりが活用されていたという。「“預け合”とは、日本円勘定で朝鮮銀行に振り込まれる華北の軍事費を、朝鮮銀行が現地に設立した中国連合準備銀行との預け合契約によって連銀券を調達して現地軍に支出し、手元に残る日本円は国債購入に回して国庫に還流させる仕組み」である(15頁)。

  このからくりを使えば好きなだけお金を引き出すことができる。それは同時に、現地経済でハイパーインフレを引き起こすことでもある。日本経済へもたらされる経済的混乱は相当なものになるはずだが、「明治期に大陸に渡って通貨戦争を繰り広げた日本円は、本土→朝鮮・台湾→満州・北支・中支という植民地銀行による障壁を二重、三重に準備して、本土=日本銀行券を擁護する体制を作り上げていた」(181頁)。昭和20年8月末時点で日本の占領地域における通貨発行高を見ると、障壁に守られた日本銀行券はわずか5.4%を占めるのみであったという。現地の経済的犠牲を踏み台にする形で、戦争を行った当の日本は敗戦後の経済的混乱を回避できたことになる。

  そもそもの発端は、大陸への進出を図る朝鮮銀行の思惑にあった。満洲経営を足掛かりに中国大陸を金建ての円経済圏に組み込もうと目指す朝鮮銀行をはじめとした大陸積極論。これに対して当時の高橋是清蔵相は、満州においてはもともと中国で行われていた銀建てを基本とする方針を主張、これには円ブロックの拡大という形で大陸侵略へ踏み込んでしまうのを抑止しようという信念があった。しかしながら、世界恐慌の影響で銀貨が高騰する中、満州も銀本位制から離脱せざるを得ず、さらに1936年の二二六事件で高橋は殺害されてしまう。

  こうした財政面における大陸積極論の立役者の一人が、第二代朝鮮銀行総裁を務めた勝田主計(後に蔵相)であった。彼は単に財政専門家であるだけでなく政治にも深く関わり、森伝や浅原健三といった政界フィクサー的な人物も彼の家を頻繁に訪れていた。本書は、勝田の残した日記等の史料を活用しながら、円ブロック拡大を目的とした「第二満州国」の創出、いわゆる華北分離工作を進めるために政変を画策する動向を描き出している。

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2014年12月17日 (水)

寺見元恵『フィリピンの独立と日本──リカルテ将軍とラウレル大統領』

寺見元恵『フィリピンの独立と日本──リカルテ将軍とラウレル大統領』(彩流社、2014年)

  16世紀以来、スペインの圧政下にあったフィリピンでは19世紀にホセ=リサールが現れてから反植民地闘争が活発化、リカルト(1866~1945年)もその中で名を挙げた一人である。1898年の米西戦争にあたり、フィリピン独立というアメリカの約束を信じたアギナルドやリカルトといった革命家たちはアメリカ軍に協力したが、約束を反故にされると反米闘争に転じる。しかし、残酷なまでに徹底した掃討作戦で反米ゲリラ闘争は壊滅し、リカルトは日本へ亡命した。日本ではアジア主義者やラス・ビハリ・ボースなど他国の亡命者と交流を持つ。

  フィリピンを領有したアメリカはインフラ整備や教育など近代化政策を推進。ただし、英語話者を統治エリートとして養成する一方で、フィリピン在来の文化は軽蔑される植民地支配の中でフィリピン人の不満は消えなかった。本書のもう一人の主人公、ラウレル(1891~1959年)はフィリピン大学法学部を卒業、イェール大学で博士号も取得した典型的なエリートだが、他方で「フィリピン人のためのフィリピン」という理念を抱いており、将来の国家建設に向けては日本をモデルにする意図もあったという。彼は「フィリピン選挙法」という論文を東京帝国大学に提出して博士号も取得しており、日本と関わりを持とうとする彼の志向性がうかがわれる。

  フィリピン人の不満を見て取ったアメリカは1916年のジョーンズ法で1946年の独立を約束、そのための準備期間としてコモンウェルスが成立、ケソンが初代大統領に就任し、ラウエルはその下で司法長官を務めることになる。

  1941年12月、日本軍が真珠湾を攻撃、シンガポールも攻略して南方へと戦線が拡大する中、日本へ亡命していたリカルトは参謀本部への出頭を命じられた。フィリピン「解放」への協力を求められたリカルトは日本軍と共に約30年ぶりに故国へと凱旋する。リカルトは独立フィリピン政府の首班には自らが就任するものと思い込んでいたが、日本軍は在来の行政機関の中から人材を作用して統治機構を整備する方針であり、ケソンがフィリピンを離れた後、後事を託されてマニラに残留していたラウレルが大統領に就任する。ラウレルはアメリカ教育を受けたエリートではあったが、日本軍の占領下という機会を利用して主体的に「脱アメリカ」政策を進めたと指摘される。

  日本軍に積極的に協力した独立の闘士リカルト。アメリカ施政下で育ったエリートのラウレル。出身背景も世代も異なる二人だが、「フィリピン人のためのフィリピン」という目標では共通していた。こうした二人が日本とアメリカという二つの外来者に翻弄された葛藤を軸として、フィリピンが独立へと向かう近現代史の様相を本書はヴィヴィッドに描き出している。

  戦後、日本軍占領下でラウレルが傀儡大統領に就任した点をアメリカ政府は問題視し、彼は戦犯として逮捕された。しかし、彼が戦時下、日本軍から次々と突きつけられた理不尽な要求をはねつけ、抗日ゲリラ容疑で捕まっていたフィリピン人の助命に尽力したことは多くの人々に記憶されており、後にロハス大統領の特赦で釈放される。ラウレルは大統領選に出馬した際は選挙妨害に遭って落選したが、上院議員にはトップ当選を果たした。

  リカルトは対米抗戦のため戦争末期に義勇軍まで組織したが、結局は日本軍から使い捨てにされてしまい、1945年7月、老体には過酷な逃避行の中で衰弱して世を去った。反米強硬派のイメージが強いリカルトだが、将来の独立を果たせるならアメリカを支持してもいいと考えていた時期もあったらしい。リカルテは1966年、当時のマルコス政権によって初めて国家の英雄と顕彰されることになった。フィリピンでは40年にわたるアメリカの植民教育の影響で反米的な人物の評価がなかなか定まらず、フィリピンを主体とする歴史が書かれるようになったのは1960~70年代になってからだという。

  フィリピン独立史の過程を見ながら私が第一に関心を持ったのは、二つの日本イメージがフィリピンで交錯していたこと。日清・日露戦争で勝利した日本の存在感はフィリピンの革命家たちからも注目されており、反スペイン闘争の頃から日本の援助を期待する気運があった。他方で、対米開戦によりフィリピンへ進駐してきた日本軍の粗暴さ、残虐さはフィリピン人の反感を大きく掻き立てることになってしまった。

  第二に、リカルテとラウレルの二人の行動様式は、例えば根本敬『抵抗と協力のはざま──近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(岩波書店、2010年→こちらを参照)で示された「抵抗と協力のはざま」という枠組みで捉えることができるだろう。すなわち、ナショナリストとしての立場を維持しながらも宗主国もしくは占領者と協力、一定の信頼をかち取り、この関係をテコとした政治的バーゲニングによって独立という最終的目標を目指した行動様式を指している。

  第三に、植民地化・脱植民地化のプロセスという点で台湾との比較もできるかもしれない。まず、①アメリカのフィリピン占領時、日本の台湾占領時とも、反対闘争がゲリラ戦として長期化し、双方のケースとも残虐な弾圧によっておびただしい犠牲者を出している。そうであるにもかかわらず、②その後の教育を中心とした近代化政策によって支配国(アメリカ、日本)への忠誠心や親近感をある程度まで醸成することができた。その後、③「解放者」であるはずのフィリピンへ進駐した日本軍、台湾を接収した中華民国軍は、双方とも過酷な収奪政策を採ったため、現地民の反感を煽り立ててしまった。

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2014年12月14日 (日)

最近読んだ台湾の中文書3冊

  台湾で最近刊行された本を3冊、別館ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」にて紹介した。

鍾明宏《一九四六──被遺忘的台籍青年》(沐風文化出版、2014年)
  日本敗戦の1945年から中華人民共和国が成立する1949年に至るまでの激動期、海峡両岸をまたがって様々な人の動きがあった。本書で取り上げられるテーマは1946年に中国大陸へ渡った台湾人留学生。台湾海峡が分断されて帰れなくなった後、双方の政治的事情からタブーとなって、その存在が歴史の暗闇の中に消えてしまった人々も多い。著者は大陸でも調査を繰り返し、こうした悲劇的な人々の記憶を遅まきながらも掘り起こそうとした労作である。中には日本と密接な関わりがある人々もいる。詳しくはこちらを参照のこと。

蕭文《水交社記憶》(臺灣商務印書館、2014年)
  台南の市街地の南側に「水交社」と呼ばれる一角がある。日本の近代史に関心がある人なら、旧日本海軍将校の親睦組織を想起するだろうが、この地名はまさにその「水交社」に由来する。自身も「水交社」で育った著者は、ここに日本海軍航空隊が来る以前の歴史から戦後の眷村における生活光景まで史料を調べ上げ、当時を記憶する老人たちへのインタビューをまじえながら「水交社」という土地の変遷を丹念に描き出している。台湾を特徴づける歴史的重層性が、この「水交社」という限られた区域からも如実に見えてくるのが面白い。詳しくはこちらを参照のこと。

蘇起《兩岸波濤二十年紀實》(遠見天下文化、2014年)
  本書は1988年の蒋経国死去による李登輝の総統就任から2008年の馬英九の総統当選までの二十年間にわたり、時に一触即発の危険性をはらんできた中台関係を分析している。著者は政治学者で、基本的な立場は「統一」でも「独立」でもなく、「現状維持」によって中国と衝突する危険性を回避する方策を求める点にある。著者自身が国民党政権のブレーンとして両岸政策の策定に関わった経験が本書に盛り込まれているが、本書中の記述に国民党名誉主席・連戦が中国共産党側に情報を漏らしたと推測される箇所があることが台湾のマスコミで報道された。詳しくはこちらを参照のこと。

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2014年10月13日 (月)

将基面貴巳『言論抑圧──矢内原事件の構図』

将基面貴巳『言論抑圧──矢内原事件の構図』(中公新書、2014年)

 日中戦争が勃発して日本国内でも世情が騒がしくなりつつあった1937年の12月1日、東京帝国大学教授・矢内原忠雄が辞表を提出した。彼が『中央公論』に掲載した論文「国家の理想」などの言論活動が反戦的で「国体」に反するという非難を受けて政治問題化したため、辞職へと追い込まれた、いわゆる矢内原事件である。滝川事件や美濃部達吉の天皇機関説事件、あるいは矢内原事件後の平賀粛学による河合栄治郎の休職処分、津田左右吉の早大教授辞職──時系列に沿って並べると、一連の言論抑圧事件の中のあくまでも一コマに過ぎないが、本書では敢えてその一コマを詳細に描き出すマイクロヒストリーの手法が念頭に置かれている。

 私自身はもともと、例えば竹内洋『大学という病──東大紛擾と教授群像』(中公文庫)や立花隆『天皇と東大』(文春文庫)などで描かれている当時の東大教授たちの生々しい抗争劇に興味があって、その関連で本書を手に取った。事件当時の当事者それぞれの思惑が複雑に絡まり合っている様子を複眼的に描き出しているのが本書の特色であるが、とりわけ事件の収拾にあたった当時の東大総長・長与又郎の視点を取り込んでいるあたりが面白かった。

 東京帝国大学経済学部教授同士の紛争では国家主義的経済学者・土方成美学部長の策動で矢内原は追い出されたという印象を持っていたのだが、実際のプロセスはなかなか複雑だ。長与総長はやたらと騒ぎ立てる土方学部長の態度に困惑しており、「大学の自治」という観点から少なくとも当初は矢内原を守るつもりだったらしい。ところが、もともと矢内原の言動を苦々しく思っていた文部省教学局から圧力を受け、木戸幸一文部大臣の進退問題にも発展しかねないと言われるに及び、長与総長は態度を一変させ、矢内原に辞職を求めることに決めた(土方は矢内原の辞職までは想定していなかったので、逆に寝耳に水だったという)。

 ここで興味深い論点が提示される。「大学の自治」とは言うは易く、行うは難し。実際には大学教授たちの合議制は常に派閥抗争の繰り返しで有効な意思決定などできず、結局のところ、学長・総長というリーダーの個人的資質にすべてがかかっていた。ところが、矢内原事件当時の長与総長は医学者として名声は高く、人柄から見てもむしろ善人だったが、性格的に弱かったため容易く文部省に屈してしまった。このように「大学の自治」が本来的にはらむ脆弱性が矢内原事件では先鋭的に露呈してしまったのだと指摘される。

 思想史的には「愛国心」をめぐり、理想と現実との緊張関係から現在の問題を批判することこそ国家に資すると考える矢内原の「愛国心」と、あるがままの日本への心情的コミットメントを重視する土方や蓑田胸喜の「愛国心」とが対比される。

 矢内原事件は、現在の「歴史の後知恵」的視点からすればもちろん言論抑圧であり、看過しがたい出来事である。しなしながら、言論抑圧という事態は、単に辞職を迫られたり摘発されたりというだけでなく、意見発表の機会を奪われることでもあるという当たり前のことを想起してみたとき、事件の同時代人にとって「言論抑圧」は可視化され得る性格のものでは決してなかった。そう考えてみると、「どのような言論人が表舞台から消えていったか、どのような見解をメディアでは目にすることがなくなったかについて、把握する」ことが重要だという本書の指摘はやはり頭に留めておく必要があろう。

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2014年10月12日 (日)

横手慎二『スターリン──「非道の独裁者」の実像』

横手慎二『スターリン──「非道の独裁者」の実像』(中公新書、2014年)

 歴史上の政治指導者を取り上げて評伝を描く難しさというのは単に政治イデオロギー上の制約に限らない。パーソナリティーについて史料不足の部分を補うため、例えば精神分析学の手法を用いるといったこともかつて流行ったが、実際には印象論に過ぎない議論に学問的な装いを凝らす程度に終わってしまうケースもしばしば見受けられた。とりわけスターリンのように“冷酷無情な独裁者”というイメージが定着している場合にはなおさらであろう。

 本書の特色は、ロシア革命前後から冷戦初期に至る政治的過程を一つ一つ確認しながら、それらとの相互影響の中でスターリンの考え方やパーソナリティーの変化を辿っているところにある。こうした描き方が可能なのは、ソ連という中央集権的な体制において指導者の決断が常に重要な意味を帯びたこと、指導者であり続けるためにスターリン自身が熾烈な権力闘争を勝ち抜いたこと、第二次世界大戦など国家的危機に際して強力な指導者が不可欠であったこと、こうした様々な背景が考えられるだろう。いずれにせよ、本書はスターリンを主軸に据えたソ連政治史として読むこともできる。

 ソ連崩壊後に利用可能となった新史料や、それらに基づいて進展した研究成果を本書は取り込み、従来貼られてきたレッテルとは異なるスターリン像を描き出している。例えば、青少年期の書簡を通して垣間見えるスターリンは、知的に多感でこそあれ、“冷酷非情”というステレオタイプとは明らかにかけ離れている。それだけに、革命運動へ身を投じて以降の厳しい政治闘争を通して彼が「学び取った」ことの大きさが印象付けられる。

 1920年代におけるソ連の政策論争では大まかに言って二つの方向性があり得た。第一に、農民を重視して彼らの資本蓄積を促し、それを基に外貨で機械を輸入して緩やかな工業化を進める路線。第二に、農業収穫物を低価格で徴発し、農民の犠牲で急速な工業化を推し進める路線。スターリンは当初、前者の路線を採り、一国社会主義の主張と共に党内の支持を得た。ところが、1920年代末、こうした路線がうまくいかなくなると後者に転換して農業集団化、経済五ヵ年計画を強引に推進する。無理な農業集団化は膨大な餓死者を出したが、他方でこの時の急進的工業化によってこそ第二次世界大戦に耐え抜く国力が備わったとされる。ただし、おびただしい人命を犠牲にした事実は無視できず、責任を糊塗しようとしたことが大粛清の要因となった。

 海外では悪評著しいスターリンだが、ロシア国内ではスターリン評価が真っ二つに割れている状況をどのように考えたらいいのか?と本書の冒頭で問題提起されている。すなわち、スターリンなしで第二次世界大戦を持ちこたえることができたのか? ならば、農業集団化や大粛清によるおびただしい犠牲を正当化できるのか? 歴史に対する倫理的評価の問題は解答がなかなか難しい。スターリン再評価のような議論に対して本書は抑制的である。ただし、スターリン批判=西側の価値観に合致したリベラル派/スターリン擁護=頑迷な保守派という単純な二分法が西側諸国では広くみられ、このような善悪二元論ではロシア国内が抱える葛藤を掴みきれないという指摘は少なくとも念頭に置いておく必要があろう。

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