カテゴリー「近現代史」の372件の記事

2019年2月 6日 (水)

D・コーエン/戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体──パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』

D・コーエン/戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体──パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』(ちくま新書、2018年)
 
 東京裁判をめぐっては玉石混淆を問わずおびただしい研究成果が生み出されてきた。現時点で代表的なものと言えば、歴史学としての粟屋憲太郎『東京裁判への道』(上下、講談社選書メチエ、2006年)、国際関係史の枠組みから論じられた日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008年)といったあたりが挙げられるだろうか。ただ、いずれもタテ・ヨコの相違はあっても、広義の政治史の範疇に属する。これらに対して、本書は純粋に法理学の立場から東京裁判の判決書を分析しているところに特色がある。
 
 東京裁判では戦勝国から11人の判事が選任されており、判決では多数派判決の他、パル、レーリンク、ウェブ裁判長などがそれぞれ反対意見や個別意見を提出したことはよく知られている。本書は多数派判決、パル判決、レーリンク判決、そしてウェブの判決書草稿のそれぞれが分析されている。
 
 多数派判決は共同謀議の枠組み作りにこだわるあまり、個々の被告の罪状認定がおろそかにされていたという欠点がある。では、反対意見はどうであったか。例えば、パル判決は東京裁判の成立根拠を根本的に否定していたため、日本で人気が高い。しかしながら、法理学の立場から分析する本書によると、彼の判決書は政治的主張ばかり押しだされて法的根拠に乏しく、裁判官としての資質に問題があると酷評されている。また、レーリンク判事は政治的配慮に流されてしまい、便宜主義的な矛盾が見られるという。
 
 意外なことに、本書が最も高く評価するのはウェブ裁判長によって執筆された判決書草稿である(なぜ意外かと言えば、ウェブ裁判長は短気で強引な性格のため、当時の裁判関係者から判事としての資質に疑問が投げかけられていたからである)。ウェブは最終的には多数派判決に従ったが、必ずしも全面的に同意していたわけではなく、個別意見を付していた。彼はその個別意見とは別に、完結した判決書草稿を用意してあったが、結局、裁判所には提出されなかった。本書ではその草稿を掘り起こして分析が進められているが、ウェブはまず適用されるべき法的基準を明示し、個々の被告が有罪になった法的結論について一貫した説明を行っている点で、法的観点からすると他の判決書よりも優れた内容になっているという(もちろん、個々の事実認定においては問題もあるにせよ)。
 
 本書でなぜ東京国際裁判(及びニュルンベルク国際裁判)における個人責任追及の法的論理が重視されているかというと、旧ユーゴ国際刑事裁判やルワンダ国際刑事裁判など現代の国際戦争犯罪法廷を成立させる判例として認められているからである。戦争犯罪の個人責任追及は東京裁判やニュルンベルク裁判で初めて定式化されたという判例上の意義は、実は国際法や平和構築といった分野では常識的な論点なのだが、現代史に偏重した論者にはこうした東京裁判の現代的意義はしばしば見過ごされている。新書版という入手しやすい形式で本書が刊行されたことは、東京裁判をめぐる歴史的認識と国際法的認識とのギャップを埋め、現代的意義につなげていく上で有益と言えよう。

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2019年2月 1日 (金)

松沢裕作『生きづらい明治社会──不安と競争の時代』

松沢裕作『生きづらい明治社会──不安と競争の時代』(岩波ジュニア新書、2018年)
 
 ある時代の特徴というか、イメージの捉え方は、振り返ろうとしている現代の我々自身の問題意識の取り方によって大きく違ってくる。明治時代のイメージはどうであろうか。例えば、司馬遼太郎『坂の上の雲』の場合、明治のポジティブな健全さが強調されていた。それは昭和の軍国主義と対比する作者自身の執筆動機や、この作品が受け入れられた時代状況との関わりから解釈されるべきであろう。
 
 本書では逆に、「生きづらい」というネガティブな時代状況に注目しながら明治社会の諸相が描き出される。江戸から近代社会への急激な社会変動は、後世の我々からすればドラマチックで興味深く見えるが、当事者の身になれば、先の見通せない不安に耐えがたい思いをしていたかもしれない。江戸時代の村における助け合いの仕組みはこの社会変動で解体され、立身出世に向けて自助努力が促される。他方で、努力や勤勉を強調する「通俗道徳」(江戸時代からすでに流布していた)は、貧困層や弱者に「怠け者」のレッテル貼りをする。そもそも明治新政府は歳入不足から社会保障に回すお金はない。恤救規則への批判は、現代日本社会で見かける「生活保護」バッシングと二重映しになってくる。女性の立場は弱く、身売りされたり、女工としての待遇も悪かった。
 
 本書では各章ごとに下記に掲げる論点を取りながら、現代社会でも見聞きされる社会問題とうまくリンクされており、身近なところから想像力を働かせやすい構成となっている。初学者向けの概説書としてよく工夫されている。
 
第一章 突然景気が悪くなる──松方デフレと負債農民騒擾
第二章 その日暮らしの人びと──都市下層社会
第三章 貧困者への冷たい視線──恤救規則
第四章 小さな政府と努力する人びと
第五章 競争する人びと──立身出世
第六章 「家」に働かされる──娼妓・女工・農家の女性
第七章 暴れる若い男性たち──日露戦争後の都市民衆騒擾
 
 本書でとりわけ強調されるのは、「通俗道徳」に見られる自己責任言説に明治の一般民衆もはまりこみ、自縄自縛に陥っている姿である。そうした様相を描き出すことは同時に、歴史を一つの鏡としながら、「通俗道徳のわな」にはまらないよう、それを見抜く眼力を磨き上げようという読者へのメッセージにつながっている。

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2019年1月25日 (金)

藤原辰史『給食の歴史』

藤原辰史『給食の歴史』(岩波新書、2018年)
 給食は単なる食事ではない。学校は様々な出身背景の子供たちが一箇所に集まって一定期間、共同生活を営む空間である。例えば、弁当持参とした場合、貧困家庭の子供たちは弁当を用意できなかったりすることもあり、昼食の時間は均一の生活空間の中で、家庭背景に由来する相違が顕著に可視化される機会ともなり得る。そのため、給食は子供たちにもたらされかねない貧困のスティグマを回避するという原則が重要となる。また、教育を受けている期間は健康な身体を形作る上で重要な時期であり、給食は社会的インフラとして基本的な役割を果たしていると言えよう。
 見方を換えれば、給食には様々な社会的要因が凝縮されている。本書は、福祉政策、教育政策、農業政策、災害対策など様々な側面から学校給食の歴史的背景を検討しており、論点は政治や対外関係などにも及ぶ。例えば、占領期において脱脂粉乳や小麦粉食が奨励された一因として、アメリカの余剰農産物の消化という政治力学も働いており、日米間の権力関係が間違いなく作用していた。また、給食の平等主義的側面に対して反共主義との関わりから批判を受けたりしたのも冷戦期の時代状況が垣間見える。
 行政側で財政状況が悪化すれば、食は人にとって根源的な要請であるにもかかわらず、新自由主義的な風潮の中で給食関係予算の削減が争点化しやすい。また、食を家庭に戻そうという、耳障りは良いが復古的なイデオロギーからの批判にもさらされている。もちろん、全体的に言って給食の問題は改善されてきた。本書では、保護者、教職員、学校栄養職員、調理師など現場の関係者の運動によって改善されてきた経緯に注目しており、その意味で給食制度の歴史ではなく、こうした人々の運動史として構成されている。
 本書で紹介されている「すずらん給食」の事例では、かつては飢饉に苦しんだ地方と中央との格差が給食の必要性の論点となっていたが、現在でも格差的構図は「子どもの貧困」という問題領域の中で見て取れる。自助努力を強調する極端な自由主義的思想はそもそも出発点における不公正を無視する傾向があるが、貧困は子供自身の責任には由来しない家庭要因によるというだけでなく、子供時代における食生活は将来的な健康にも影響するという意味で取り返しのつかない問題であり、そうした意味で給食は根源的な意義を有する。本書で整理された給食をめぐる歴史的考察は、食と社会的公正との関わりを考えていく上で有用な論点を提示してくれる。

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2018年2月22日 (木)

大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝──人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』

大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝──人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』(パブリブ、2018年)
 
 ピエ・ノワール(pied-noir)とは、直訳すれば「黒い足」という意味だが、北アフリカにいたヨーロッパ系住民を指す。アルジェリアがフランス植民地だった時期、彼らは自らを「アルジェリア人」と考えていたが、1962年にアルジェリアが独立すると、それはアルジェリア国籍保持者を意味するようになったため、「ピエ・ノワール」という呼称が定着していったという。ただし、本書「はじめに」で詳しく説明されているようにその意味合いは多義的で、本書では植民地アルジェリアのほか、フランス保護領だったモロッコやチュニジアも含め、フランス本土への引揚者と広義に捉えて、関連する人物111人のプロフィールを紹介している。
 
 意外な人物が結構含まれているのに驚いた。アルベール・カミュ、アルベール・メンミといったあたりは想定していたものの、思想家ではジャック・デリダ、ルイ・アルチュセール、ジャック・アタリ、政治家では元首相のドミニク・ドヴィルパン、左派のジャン=リュック・メランション、俳優のダニエル・オートゥイユ、ジャン・レノ、それからファッション・デザイナーのイヴ・サン=ローランの名前も見える。日本風景論で著名な地理学者オーギュスタン・ベルクの父親で人類学者のジャック・ベルクもピエ・ノワールだという。
 
 紹介される人物のプロフィールをみていくと、独立反対の強硬派と反植民地主義との相剋が垣間見え、それはフランス現代政治における右派と左派の対立にもつながってくる。コラムの形でアルジェリア独立戦争に関わる背景も解説されており、1961年10月17日事件のことは初めて知った。アルジェリアに残留した「緑の足」、フランス軍に協力した「ハルキ」といった事項にも興味がひかれる。
 
 私自身は一応、台湾史を専門としているが、「大日本帝国」崩壊における脱植民地化と引揚というテーマから、世界史的な比較検討を行うにあたり、本書はフランスとマグレブ世界との関係という事例を知る上で格好な手引きとなるので、ありがたい。例えば、「ピエ・ノワールという呼称が1962年から広く使用されるようになると、当初は蔑んだ呼び方だったにもかかわらず、本土に移住した者たちは自らをピエ・ノワールと呼ぶようになる」(本書17頁)という指摘は、かつて日本「内地人」が台湾生まれの日本人を半ば軽蔑的に「湾生」と呼んでいたものが、戦後になるといつしか台湾生まれの人々自身がある種のノスタルジーをもって「湾生」を自称するようになったことと重なる。
 
 台湾、朝鮮半島、旧「満洲国」など中国大陸から引き揚げた人々の戦後体験というテーマはまだまだ開拓される余地がある。例えば、朝鮮半島からの引揚者に関しては、朴裕河『引揚げ文学論序説──新たなポストコロニアルへ』(人文書院、2016年)が文学というジャンルに限定的ながらも様々な人物を挙げて検討を加えている。『ピエ・ノワール列伝』のように引揚者の網羅的な人物リストがあると便利だと思う。

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2018年2月21日 (水)

星野靖二『近代日本の宗教概念──宗教者の言葉と近代』

 以前から気になっていた星野靖二『近代日本の宗教概念──宗教者の言葉と近代』(有志舎、2012年)を、一時帰国の機会にようやく読むことができた。
 
 「宗教」はreligionの訳語として、しばしば非歴史的な概念のように用いられるが、実際には近代日本の歴史的展開に合わせて「宗教」概念は組み上げられてきたという背景がある。とりわけ、明治になって伝来してプロテスタントが重要な契機となっており、また廃仏毀釈によって自らの存在証明を迫られた仏教がキリスト教に対する論争を通して理論的に磨き上げられてきた側面も看過し得ない。それぞれが自らの宗教伝統がより真正な「宗教」であることを弁証しようとして、より抽象度の高い「宗教」概念が要請された。本書では、内村鑑三、植村正久、小崎弘道、高橋吾良、大内青巒、井上哲次郎、井上円了、中西牛郎等々、明治初期におけるキリスト者、仏教者を含めて繰り広げられた論争を軸に検討している。
 
 本書には中西牛郎に関する論考が収録されているため、私としては目を通しておく必要があった。収録されているのは、第六章「中西牛郎の宗教論」、第九章「中西牛郎『教育宗教衝突断案』について──キリスト教の捉え直しと望ましい「宗教」という観点から」の二篇である。「キリスト教・仏教を問わず、近代的な人間知との関係において宗教が論じられていた明治20年代頃に、中西牛郎は超越性との関係性こそが宗教を宗教たらしめるものとし、宗教を宗教として比較する姿勢、少なくともそういった方向につながっていく理論的な枠組を持っていた」ことが指摘されている(129-130頁)。
 
 中西牛郎の生涯については本書284頁にまとめられているが、キリスト教、仏教、天理教、神道扶桑教と複雑な宗教遍歴を経ており、こうした履歴そのものが興味を惹かれる。中西牛郎については、以前、別ブログにて触れたことがあるが、日本統治時期の台北に来て、淡水税関等に勤務するかたわら、『臺灣日日新報』等に論説を発表していた。板垣退助と林献堂によって立ち上げられた「台湾同化会」にも関与し、警察から目をつけられてもいた(『台湾警察沿革史』)。
 
 私が中西牛郎に関心を持ったきっかけは、台湾キリスト教史の脈絡と関係がある。台北の有力な貿易商でキリスト教思想家としても知られていた李春生の伝記を、中西が漢文で執筆し、出版していたのである(台湾日日新報社、1915年)。中西と李春生との間にどのような関係があったのか、思想内在的なつながりがあったのか、そうしたあたりについて、時間を見つけて調べてみたいと考えている。

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2018年2月20日 (火)

チャイナ・ミエヴィル『オクトーバー──物語ロシア革命』

チャイナ・ミエヴィル(松本剛史訳)『オクトーバー──物語ロシア革命』(筑摩書房、2017年)
 
 1917年のロシア革命は、実に様々な人物がそれぞれの政治的思惑をもってせめぎ合い、また合従連衡を繰り返し、群像劇としてこの上なく魅力的な舞台と役者を用意してくれた。本書はそれを見事に活用して面白い政治劇を活写している。
 ニコライ二世の無気力、ケレンスキーの戸惑い、そして転変していく状況にのっかっていくレーニン。登場人物は彼らに限らず、次々と現れては消えていくし、二月革命から十月革命にいたる出来事を網羅的に拾い上げながらも、冗漫に流れることなく、一気呵成に読み終えた。分析的に整理することなく、時系列にそって語られるから、その後のことを予期できない登場人物の驚き、戸惑い、判断ミスが、その都度ありありと浮かび上がってくるところが面白い。

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2018年2月16日 (金)

筒井清忠『戦前日本のポピュリズム──日米戦争への道』

筒井清忠『戦前日本のポピュリズム──日米戦争への道』(中公新書、2018年)
 
 近年、ポピュリズムという概念が注目を集めているが、これを大衆人気に左右される政治と解するなら、日本もかつて手痛い失敗を経験していたではないか。そうした問題意識から、本書は1905年の日比谷焼き討ち事件から1925年の普通選挙法成立をはさみ、1941年の対米開戦に至る歴史的経緯を通して戦前期日本の政党政治がポピュリズムによって崩壊していく過程を解き明かす。
 
 日本におけるポピュリズム的政治の始まりは、「大衆」の登場とそれを動かす新聞の存在が重要な要素であり、日露戦争講和後の日比谷焼き討ち事件で顕在化する。次に、本書では若槻礼次郎内閣が「朴烈怪写真事件」で動揺した様子を分析しているが、「朴烈問題で「天皇」の政治シンボルとしての絶大な有効性を悟った一部の政党人が、以後これをたびたび駆使し、「劇場型政治」を意図的に展開」し、こうした傾向はさらに統帥権干犯問題や天皇機関説事件という形で繰り返されることになる(91頁)。
 
 朴烈事件を倒閣運動に利用できると洞察したのは北一輝であったが、「彼ら超国家主義者こそむしろ、大衆デモクラシー状況=ポピュリズム的状況に対する明敏な洞察からネイティヴ大衆の広範な感情・意識を拾い上げ、それを政治的に動員することに以後成功していくのである」(92頁)。天皇機関説問題では、「まず二大政党の腐敗と地方農村の窮状を訴え、弱者=庶民の側から「貴族院議員美濃部達吉東京帝国大学名誉教授」を攻撃する、という手法は見事なまでの大衆動員上の成功を収めたのだった。朴烈怪写真事件以来の天皇シンボルのポピュリズム的追求はここに頂点を迎え、それは平等主義に支えられつつ天皇周辺の国際協調主義的「重臣層」の窮迫化・弱体化につながっていったのだった」(237頁)。
 
 戦争やテロの報道そのものが「劇場型大衆動員政治」の格好の素材となった。マスメディアはこうした状況を後押ししただけでない。普通選挙は本来、大衆の政治参与を促がしたはずであるが、政党政治はそのもたらした弊害のゆえに嫌悪されるようになり、マスメディアによる既成政党政治批判は代わって清新な代替勢力として「無産政党」、「軍部」、「近衛新体制」などをもてはやすようになる。
 
 このように見てくると、戦前期日本においては天皇シンボルとマスメディアの扇動とが結合したところにポピュリズム的政治現象が立ち現れていた状況が分かる。
 
 清沢冽がポーツマス会議における桂太郎・小村寿太郎とジュネーブ会議における斎藤実・内田康哉とを比較した分析を紹介している。第一に、前者は断固として講和をまとめる意志があったが、後者は輿論の動向に責任転嫁しようとした。第二に、前者は国際的孤立を避けようとしたが、後者は進んで孤立しようとした。第三に、日清・日露戦争中には「衆論に抗して毅然と立つ少数有力者」がいたが、後者の時点ではそうした者が見当たらなかった(207-209頁)。
 
 大衆政治時代において外交の独立性が保たれ得るのかどうかは国際政治学で常に問題となるところではある。少なくとも、日本自身がかつて戦争へ突入するという国策上の大失敗を呈した背景にポピュリズム政治状況があった点は念頭に置いておく必要があろう。

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2018年2月14日 (水)

佐古忠彦『「米軍が恐れた不屈の男」──瀬長亀次郎の生涯』

佐古忠彦『「米軍が恐れた不屈の男」──瀬長亀次郎の生涯』(講談社、2018年)
 
 凄惨な沖縄戦では日本軍に不信感を持った沖縄県民は、戦後、アメリカ軍を当初は民主主義を体現する解放者として歓迎した。ところが、その植民者然とした抑圧的な態度に幻滅、女性が暴行されたり、土地の強制収容がごり押しされたりする中、沖縄県民の間ではアメリカ軍の欺瞞に対する反感が高まる。そうした県民が怨嗟する声の代弁者としてアメリカ軍に抗議する人物が注目を浴びた。瀬長亀次郎(1907-2001)である。
 
 瀬長亀次郎は貧しい家庭に生まれたが、医師を志望し、旧制七高に入った。ところが、在学中から社会問題に関心を寄せ、1928年、三・一五事件の余波で逮捕されてしまい、20日間の拘留で釈放されたものの、放校処分となった。1932年には丹那トンネルの工事現場で労働争議を指導したため治安維持法で逮捕され、まず横浜刑務所に投獄されたが、次に沖縄刑務所へ移送された。釈放後は特高に尾行される日々の中、まず蒔絵工として働いた後、沖縄朝日新聞記者に転じた。召集されて中国大陸へ出征したが、1940年に復員。戦中は家族を連れて戦火の沖縄を逃げまどう。
 
 戦後は沖縄人民党代表として琉球政府立法院議員に当選。ところが、アメリカ軍に対する抵抗姿勢が危険視され、強引に投獄されてしまった。1957年には「瀬長は共産党の手先」とネガティブ・キャンペーンを張られる中、那覇市長に当選する。アメリカ軍政当局およびそれと結託する保守派の策動には抗しきれず、市役所を追われることになったが、それでも後継指名した兼次佐一が沖縄市長に当選した。沖縄の日本復帰を前に1970年に実施された国政選挙で衆議院議員に当選。国会では沖縄の現状について佐藤栄作首相を追及する。佐藤の答弁は取り付く島もないものではあったが、ただ、瀬長への敬意はあったようだ。
 
 亀次郎は沖縄の日本復帰を当然視し、彼の言う「民族」とは琉球ではなく日本を指していたという。彼の抵抗活動は、日本民族のアメリカからの独立を求めていた。沖縄の日本復帰後、沖縄人民党は共産党に合流し、亀次郎も共産党所属の代議士として当選を重ねたが、彼自身は必ずしも共産主義者ではなかった。
 
 亀次郎が演説すると、飾らぬ言葉で人々の不満を代弁してくれるので、たちまちみんな集まって来た。ナショナルな抵抗意識をもとに民衆の声を吸収したという点では土着的ポピュリストと言えよう。他方で、彼が投獄されていた刑務所で刑吏に対する不満から暴動が起きたとき、所長から依頼された彼が受刑者の不満を団体交渉の方向へとまとめ上げた手腕からもうかがわれるように、吸収した不満を理性的な対話経路へ誘導するように心がけていた。理性的・理想主義的な姿勢を持つ土着型ポピュリストとして彼の存在は非常に興味深い。

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2018年2月13日 (火)

稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町──新宿、もうひとつの戦後史』

稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町──新宿、もうひとつの戦後史』(紀伊國屋書店、2017年)
 
 私自身も歌舞伎町には多少馴染みがある、と言うと語弊があるかもしれないが、映画館街にはよく足を運んでいた。初めて足を踏み入れたのは中学生の頃、友達と一緒に。その頃は若干の緊張感を覚えたものだが、都心の大学に通うようになって以降は当たり前のように歌舞伎町へ映画を観に行っていた。歌舞伎町の映画館街は現在ではすっかり様変わりしてしまったが、噴水広場をはさんで西に東急、東にコマ劇場(東宝系)があった。南北両側には台湾人・李以文の地球座や新宿劇場(ヒューマックス・パビリオン)、韓国人・高橋康友(李康友)のオデヲン座(東亜興業)が並んでいた。また、名曲喫茶らんぶるも台湾人によって開店されたという。歌舞伎町に中華系、韓国系の人々のコミュニティーがあったのはもちろん知っていたが、このように身近なところにまで植民地支配が影を落としていたことを本書で知り、驚きを新たにした。
 
 彼らも最初から歌舞伎町にいたわけではない。そもそも、歌舞伎町は都市整備が試みられながらも、立地条件の悪さから閑古鳥が鳴く場末の空間に過ぎなかった。台湾人実業家たちは戦後、新宿西口のマーケットで財産を築き、それを足掛かりにして、興行街として発展を始めた歌舞伎町に入って来たのである。映画館街の箱ものも、日本資本から買い取りを断られたため、彼らが引き受けたようだ。
 
 歌舞伎町で活躍した台湾人実業家たちに医師や慶応、早稲田出身など知識青年出身者が多いのが目を引く。戦後の政治状況が関わっているのだろうか。彼らにとって歌舞伎町は、単に富を築くのみならず、文化事業としても夢をかける空間になっていた。
 
 本書は彼ら台湾人が戦後の新宿で事業を展開していく様子を活写しており、それだけでも十分に興味深い内容なのだが、欲を言えば、個々の登場人物のライフヒストリーをもう少し掘り下げて欲しかった。台中霧峰出身で林姓の人物といえば、林献堂一族との関係が推測される。高座海軍廠の少年工出身者もいるし、簡水波の場合には南洋に送られてBC級戦犯となり、戦後に日本へ来て児玉誉士夫のような右翼や台湾の国民党とも関わりを持つフィクサー的な人物であった。二二八事件や白色テロのため、台湾へ帰れなくなった人たちもいたであろう。こうした個々のライフヒストリーを丁寧に掘り起こしていくと、東アジア現代史という一層広い視野の中で立体的に新宿の位置づけを描き出していけるはずだ。

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2018年2月11日 (日)

藤原辰史『トラクターの世界史──人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』

藤原辰史『トラクターの世界史──人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』(中公新書、2017年)
 
 私自身は東京に育ったため、トラクターをじかに見る機会は皆無であったが、それでも小さい頃、テレビでトラクターのコマーシャルを頻繁に見かけていた記憶はある。私にとって馴染みがありそうでないちょっと不思議な存在であった。19世紀末にアメリカで発明されたそのトラクターが、20世紀の歴史においてどのような役割を果たしたのか、本書はその多面的な様相を知らしめてくれる。
 
 トラクター導入による生産性の向上、労働力の節約がもたらす影響は当然ながら、トラクターと戦車との技術的同一性が農民と兵士との機能的同一性をもたらしたという意味で、トラクターと戦車は双生児であったという指摘は、技術と動員の観点から重要だろう。また、運搬手段のモータリゼーションは石油の需要を高めた。
 
 単に技術史というだけでなく、文化史の面でもトラクターは意外と重要である。1930年代、トラクターが普及し始めた頃、スタインベック『怒りの葡萄』では災いの象徴とされていた一方、同時期のソ連では農業集団化のシンボルとなり、エイゼンシュタインの映画「全線」では肯定的に描写されていた。日本は「満洲国」でトラクターの導入を図り、映画「新しき土」にも登場するが、ただし実際にはあまり普及せず、むしろプロパガンダの道具として利用される程度だったという。いずれにせよ、農業の機械化・近代化を視覚的に表現した素材としてトラクターは文学・映画等を考える上でも無視できない。
 
 トラクターの導入により、人間と「土の世界」とが切り離されていく状況をどう考えるか、これは現代でも有効な問いであり、また、戦時下の日本で政府による機械化の推進と、それに反発する精神論的な農本主義者との対立も、思想史的に掘り下げて検討してみると面白そうである。

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