カテゴリー「近現代史」の121件の記事

2009年11月 9日 (月)

アダム・ホックシールド『レオポルド王の亡霊:植民地アフリカにおける強欲、恐怖、そして英雄たちの物語』

Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost: A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa, Pan Books, 2006

 虚栄心の強烈なベルギー王・レオポルド2世。大国の君主として振舞いたい彼は、その証しとして植民地が欲しかった。しかし、ベルギー議会は経費がかさむとして消極的である。レオポルドは地理学協会を設立して名士をそろえたほか、アフリカにおけるアラブの奴隷商人を批判、人道的な博愛主義者としての名声を高めようと努める(つまり、文明の福音→植民地の正当性という論理)。時あたかも列強による植民地分割競争が終盤にさしかかっており、レオポルドは焦っていた。

 そうした中、アフリカ探検で名をあげたスタンレー(Henry Morton Stanley)の存在を知る。イギリスで孤児として生まれ、アメリカで育った彼もまた極めて強い上昇志向の持ち主である。行方不明になったリヴィングストンを見つけ出したエピソードは有名だが、ジャーナリストとして出発したスタンレーは探検というイベントをいかに自己アピールに利用するかに腐心する巧みな演出家であった。

 レオポルドはスタンレーに接触して彼にコンゴでの領土拡張をまかせ、権謀術数を駆使して1885年のベルリン会議で列強にも認知させた。こうして虚栄心の強い二人によってでっち上げられたのが「コンゴ自由国」(Congo Free State, État indépendant du Congo)である。コンゴ国際協会の管轄という建前だが、実質的にはレオポルドの私有地という特異な植民地であった。

 当初は象牙が、後にはゴムがレオポルドの懐に莫大な富をもたらした。ところで、ゴムの樹液集めに原住民を動員するのだが、なかなか効率的に進まない。そこで、chicotteというムチに象徴される強制労働が実施された。“文明”なる偽善の裏にあった実態は残虐である。ベルギーの公安軍(Force Publique)は原住民の女性、子供、古老を人質にして、男たちに樹液集めを強制した。それでも言うことを聞かない村は見せしめのため焼き討ち、皆殺しにしてしまう。白人は現地で徴発した黒人兵に対して武器弾薬を支給するにも、くすねるのではないか、と猜疑心を持っており、一発ごとに証拠を要求した。どんな証拠か? ──殺した相手の右手である。エスカレートして、報酬目当てに生きている人間から右手を切り取るなどということも横行した。個別の殺戮ばかりでなく、構造的な収奪システムからもたらされた飢餓や疫病による死者は数え切れないほど膨大な数にのぼる。

 コンゴの惨状を最初に告発したのはアメリカの黒人でジャーナリスト・法律家・牧師であったジョージ・ワシントン・ウィリアムズ(George Washington Williams)である。黒人の新天地を求めてコンゴを訪れた彼だが、そのあまりに非人道的なあり様を目撃して、レオポルドへの公開書簡を公表。しかし、黒人への偏見のゆえであろう、注目を浴びることはなかった。ウィリアムズは失意のうちに早死にする。

 レオポルド批判の国際世論を巻き起こすのに大きな役割を果たしたのは、イギリス人・フランス人のハーフであったエドマンド・モレル(Edmund Dene Morel)とアイルランド人のロジャー・ケースメント(Roger Casement)である。モレルはコンゴ自由国の特許会社に勤めていたが、コンゴの実態を知って驚愕し、以後この問題に生涯をかけることになる。ちょうど同じ頃、イギリスのコンゴ駐在領事だったケースメントも現地をじかに歩いて実態を調査、本国に向けて報告し続けていた。モレルはケースメントと連絡を取り合いながらジャーナリズムや政治家に働きかけて、イギリス下院でコンゴ問題の調査を要求する決議が通った。レオポルドもロビー活動やマスコミの買収などで反撃に出たが、アメリカ国務省のコンゴ問題担当官に賄賂が渡っていたことが暴露され、その担当官は辞任、ルート国務長官はベルギーに圧力をかける方針を表明した。ベルギー議会も自国の国際的評判が落ちてしまうことに気をとがらせており、1908年、レオポルドはコンゴをベルギー政府に売却することに同意する。翌1909年にレオポルドは死去。彼の浪費癖は知れ渡っており、ベルギー国内でも悲しむ人はほとんどいなかったという。

 モレルの目的が必ずしも達成されたわけではないが、レオポルド個人の恣意的な収奪に比べれば、政府管理の方がまだ改善は期待できると考えた。しかしながら、植民地の実際はほとんど変わらなかったようである。両大戦で資源が必要とされたため強制労働はなくならなかったし、戦後も独立後も、世界経済に組み込まれた中で資源が一方的に流出する構造は続いた。長年にわたって独裁者として君臨したモブツの所業はレオポルドとほとんど同じであったことが指摘される。“レオポルドの亡霊”による呪縛はなかなか消えなかった。

 戦後、コンゴ(ザイール)に駐在したベルギー人外交官が、現地紙に掲載されたベルギーの植民地支配を糾弾する記事に反論しようと考えたのをきっかけに歴史を調べ始めたところ、自分が植民地支配の実際を知らなかったことに気づき愕然としたという話が印象的だ。勤務先である外務省保管の文書にアクセスしようにも拒否されたという。このような歴史の忘却というのも本書のテーマである。アフリカの無名の人々を描きたくても資料が存在しないためできなかったというもどかしさも著者はもらしている。

 そもそも、なぜコンゴだったのか? モレルやケースメントたちが活躍した時代においてベルギーは小国であり、イギリス・アメリカなどの一般大衆にとって“ヒューマニズム”あふれる正義感をぶつけるのに恰好な標的だったからではないのか?という疑問も本書では呈する。イギリスもアメリカも苛酷な植民地支配に手を染めていたにもかかわらず。

 本書を読みながら、ケースメントという人物に興味がひかれた。大英帝国の外交官だが、アイルランド人であるため不遇であった。コンゴ駐在領事の時の活躍は本書のハイライトの一つだが(この時にジョゼフ・コンラッドと知り合った)、その後、ブラジルに赴任、今度はプトゥマヨ(Putumayo)川流域での原住民迫害について憤りを込めて本国へ打電する。コンゴ、プトゥマヨと惨状を目の当たりにしているうちに、他ならぬ彼自身の故国アイルランドもまたイギリスの植民地下に置かれていることへの自覚を改めて強めた。白人か黒人かを問わず、被圧迫者として同列に捉える考え方は人種主義観念が強かった当時としては極めて稀なことであったろう。コンゴ問題の活躍が認められてナイトに叙されたものの、1913年に職を辞してからはアイルランド独立運動に身を投じる。義勇軍を組織し、翌1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アイルランド独立の約束を期待してドイツへ行き、武器調達のうえアイルランドへ戻ったところを逮捕された(アイルランドで戦うのが無理ならばエジプトへ行って戦うべきだとも考えていたらしい)。叛逆罪に問われ、1916年に処刑される。同情の声もあがったが、政府は彼がホモセクシュアルであることを意図的に暴露、当時にあってその不名誉は致命的だったようである。

 ケースメントの盟友だったモレルは対照的である。モレルは戦時下にあって、「これは自衛の戦争ではなく、秘密外交がもたらした無用の戦争である」と主張して反戦運動を展開、政府から弾圧を受けて投獄された。ウィルソンの14か条からもわかるように彼の主張が正しかったことが証明されて戦後は一躍脚光を浴び、労働党から下院議員選挙に出馬、対立候補のウィンストン・チャーチルを破って当選した。マクドナルド内閣の外相になるのではないかとも言われたが、無理がたたって体をこわしており、1924年に51歳で世を去る。

 本書の初版は1999年。アフリカ問題や植民地問題でよく言及される割に日本語訳はない。人物群像などもきちんと描きこまれていて歴史ノンフィクションとして読み応え十分だと思うのだが、アフリカ問題の本は日本では売れないからだろう。

 ちなみに、著者の名前にどこかで見覚えがあるなあと思っていたら、感情社会学のアーリー・R・ホックシールドは夫人らしい。『管理される心―─感情が商品になるとき』(石川准・室伏亜希訳、世界思想社、2000年)も実は本棚にあるのだが、まだ読んでいない。

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2009年11月 8日 (日)

本田毅彦『インド植民地官僚──大英帝国の超エリートたち』

本田毅彦『インド植民地官僚──大英帝国の超エリートたち』(講談社選書メチエ、2001年)

・1855年以降、インド高等文官の公開競争学力試験→試験による選抜によって地位を与える近代的メリトクラシーの先駆と言われている。オクスブリッジ出身者を優先的に採用したいという思惑に合わせた試験科目→社会的・知的背景を共有するイギリス人青年が主流(インド人も試験にパスするにはオクスブリッジ出身であることが有利→「王よりも王党的な」インド人)。スコットランド人、アイルランド人、インド人などは高等文官では少数→他の職域でのパーセンテージが大きい。
・本国の内閣でインド担当相は蔵相・外相に次ぐ格付けで、インド高等文官にも高いステータス。
・本書は、インド高等文官となった人々の出身背景、本国のイギリス人政治家・インド高等文官・インド人政治家という三者間の対抗・同盟力学、高等文官の生活誌などを分析。
・インド植民地は本国から実質的に自立した政治的・経済的単位となった→高等文官たちは、インド植民地とイギリス帝国全体、双方への忠誠心でバランスをとる→両大戦間期における帝国の危機、インド・ナショナリズムの高まりなどの新しい動向に対しても、インド統治継続のため政策的調整、インド統治再編成への志向。政治家なのか、官僚なのか?
・イギリス植民地統治の基本は土着権力者を利用した間接統治だったが、インド(藩王国を除く)ではイギリス人植民地官僚の直接統治→リーダーシップを有するジェネラリスト的管理者→退職後は民間セクターへ。
・インド・パキスタンが独立しても高等文官はシステム的にも人的にも継続性あり。

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2009年11月 6日 (金)

木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義──比較と関係の視座』

木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義──比較と関係の視座』(有志舎、2008年)

・イギリス帝国を視点の基軸に置きつつ、「帝国主義」をめぐる諸論点を考察。
・19世紀後半以降、「帝国」による世界分割。日本の登場は、この帝国主義世界体制をむしろ完成させた。
・帝国意識:民族・人種差別意識と大国主義的ナショナリズムの結び付き→「文明の使命」感。階級意識にかかわらず日常生活に見られた潜在的帝国意識を検討する必要。ナショナル・アイデンティティの強化という機能(1960年代以降、スコットランドやウェールズなどの「ナショナリズム」→国民国家が自明視できず→「イギリス人」統合の表象として「帝国意識」)。
・支配者側に多民族支配を当然視する意識がある一方で、被支配者側にも支配・従属を不思議に思わない依存意識・植民地意識が培養された(とりわけ文化面で)→政治的には独立してもこの点での脱植民地化が未完の課題として残った。また、経済構造の問題。
・他方で、旧支配者側に残った「大国意識」からの脱却も課題。イギリスの場合、ヨーロッパ統合に消極的となった原因。

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2009年11月 1日 (日)

平野千果子『フランス植民地主義の歴史──奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』

平野千果子『フランス植民地主義の歴史──奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』(人文書院、2002年)

・フランス人権宣言→当初は植民地に適用されず。
・植民地の領有と奴隷制とは別物、悪いのは後者だと考えていた。
・フランス革命の最中、サン=ドマング(ハイチ)で奴隷の反乱→白人植民者はイギリスと同盟→革命政府は奴隷制廃止で植民地の確保を図る→しかし、ナポレオンが奴隷制復活→ハイチは独立→フランスには、奴隷制廃止=植民地崩壊という強迫観念。
・1848年の二月革命→奴隷制の廃止=“文明化”(自由・平等の共和主義が共和国フランスへの同化を意味するようになる)。シュルシェール「王政は奴隷にしたが、共和国は自由にする」→革命の理念と“文明化”言説が結び付く。他方で、アルジェリアには奴隷制があった→やめさせるのも“文明化”→アルジェリア征服を正当化。同化政策を明確に表明。限定条件付で植民地に参政権を与えたが、差別は残る。
・19世紀は“進歩”の時代→植民地拡張という形で「外の文明化」、貧困層も含めて公教育→「内の文明化」が同時進行。
・フランスは革命の国、人権の国である“にもかかわらず”植民地支配をしたのではなく、むしろ革命の理念こそが“文明化”という形で植民地支配を正当化した。

・混血児イスマイル・ユルバンのアイデンティティをめぐる葛藤。

・第三共和制のジュール・フェリー首相:脱カトリックの教育改革→共和主義的国民意識の形成。人種主義的な風潮の中、フランスが「野蛮で」「劣った」民族を「教化する」ことが“文明化”→植民地拡張を正当化。これは共和主義者が推進。
・保守派は経費負担の重さから植民地に反対し、むしろアルザス・ロレーヌ奪還を優先すべきと主張。しかし、1890年前後以降、劣勢にあったため保守派も共和政を受け入れてから、植民地拡張に賛成。
・“文明化”言説の重層性:共和主義者が掲げる革命の理念だけでなく、保守派のキリスト教化という理念も許容された。

・戦間期には植民地の領有は自明視。第一次世界大戦で植民地の有用性が確認された。
・ブルム・ヴィオレット法案:植民地の権利面での同化を認める法案だが、アルジェリア入植者階層の反対で廃案(権利の同化→支配関係が崩れてしまう)。この法案の背景として、アルジェリアの民族運動家は独立よりも政治的地位の向上を優先させていた。当初、アルジェリアではフランス市民権を得るにはイスラムの棄教が条件とされていたが、その条件なしの同化を目指す→フランス市民になりつつも、文化的拠り所は維持したいという思い。提案者ヴィオレットの発言「アルジェリア『原住民』には、まだ祖国がない。彼らは祖国を求めている。フランスという祖国を求めているのだ。速やかにそれを与えよ。さもないと、彼らは別の祖国を作るだろう」。
・アンドレ・ジイドは改良主義的→植民地の白人による過酷な支配形態を批判はしたが、植民地支配そのものを批判したわけではない。他方で、フェリシヤン・シャレは植民地の解放を主張(ただし、彼は第二次世界大戦で対独協力を容認した経緯があるため、戦後は忘却された)。
・フランスで自由と平等を学んだ留学生がこの矛盾に気付いた、つまり民族解放の理念を学んだのはフランスにおいてであったという言い方にはフランス中心の偏りがないか?と指摘。そうでないケースとして、ファン・ボイ・チャウを例示。
・セネガルのブレーズ・ディアニュは、兵役=「血の税金」こそが完全同化への道だと主張。ただし、アフリカは自前の国家を持つ前に植民地化された→従属から脱する方法としてまず支配者と対等の立場を目指したという側面が強い。

・第二次世界大戦で、ヴィシー政権とドゴール派のそれぞれが植民地に自分側につくよう働きかけ→カリブ海出身でチャド総督のフェリックス・エブエの主導でアフリカ植民地はドゴール派についた→コンゴのブラザヴィルが自由フランスの首都。対独抵抗運動の基盤としての植民地の存在。
・戦後の植民地は、フランスの外交方針としての“大国意識”に翻弄され、“文明化”言説とは関係ない。
・「フランス連合」から「共同体」への再編:植民地の自発的意志により、不参加は独立という建前だが、独立を選んだ場合には経済援助なし。
・フランスの植民地支配が日本のそれよりも批判を受けていないのはなぜか? 日本の場合にはスローガンに天皇制→フランスが(現実はともかく)掲げた理念の普遍性がなかった。ただし、フランスは、その掲げた普遍性が植民地主義の免罪符として作用、かえって植民地支配の問題点を自ら問い直す契機がなかったとも言える。
・被植民地側にも“オクシデンタリズム”の問題。ヨーロッパ文明への憧憬から、フランスを価値序列の上位に位置付け、社会的ステータス上昇のため自ら進んで“同化”を目指したという側面も指摘され得る。
・被植民地側の特徴として“クレオール”、つまり複数意識を肯定する考え方→これに対して、“ネグりチュード”の問題。“クレオール”的な複数意識の中から黒人としてのアイデンティティのみを抽出・単一化させて(それもまた虚構であっても)植民地主義へのアンチテーゼにしてしまう志向性。

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2009年10月27日 (火)

レオ・T・S・チン『“日本人”化:植民地期台湾とアイデンティティ形成の政治』

Leo T. S. Ching, Becoming “Japanese”: Colonial Taiwan and the Politics of Identity Formation, University of California Press, 2001

・日本の帝国主義が西欧のそれとは異なる特徴:①資本なき帝国主義。つまり、資本主義の発展段階として捉えるマルクス主義理論はあてはまらず、むしろ西欧との競争に動機付けられた側面が強い。②同じ“アジア”としての近さ。ただし、西欧との相違をあまり強調しすぎると、帝国主義としての支配形態における共通の部分が見過ごされてしまう。

・脱植民地化過程における日本人の不在:日本は敗戦によって領土を喪失したため、英・仏のように植民地独立→脱植民地化の過程を自分たちの問題として考える機会がなかった。

・植民地期台湾における民族意識:中国(大陸における民族主義の動向)、日本(植民地当局の態度)、政治思潮(リベラリズム、マルクス主義等)、運動者自身の階級的意識(郷紳層か、労働者か、総督府に妥協的か抵抗的か)などといった所与の様々な構造・要因の組み合わせによって関係依存的→条件に応じて可変的な性格を持つ→本質主義に還元し得るものではない(中国民族主義も、台湾民族主義も、それぞれ態度は異なって見えるが、民族意識を本質主義的に捉える傾向が強く、両者を批判する視点)。

・蒋渭水の発言を引用→中国人意識を持つと同時に、それは日本の植民地社会における台湾という特殊性をも意味していることを指摘→こうした意識のあり方は、自民族・他民族の二元論では捉えられない。

・“同化”と“皇民化”との相違を本書は強調:建前では内地延長主義という名目で同じ日本国民であることを標榜しつつも、実際には台湾人は差別待遇を受けており、“同化”は、差別を残したまま“日本人”になることを強要するという矛盾を覆い隠すイデオロギーとして作用した。この段階では、台湾人を“日本人”にすることは植民地当局の政策上の責任であり、そうした施策に直面して台湾人の心中には葛藤。いいかれば、複数のアイデンティティを引きずり、それらが両立していることから葛藤があった。対して、“皇民化”は、こうした複数のアイデンティティの葛藤そのものを打ち消し、“日本人”意識への単一化。この内面化は、被植民者自身によって行なわれた。身体的儀礼を通した規律も指摘される。何よりも、戦争が激化するにつれて、「日本人として生きる」のではなく「日本人として死ぬ」ことが強調された。“日本人”になることで現実の差別は克服されるという意識(とりわけ、植民地ヒエラルキーにおいて最下層に位置付けられた原住民系にこうした思いが強かった)。植民地下において、日本人か台湾人か→“皇民”、こうした形でアイデンティティ形成におけるアンビヴァレンスそのものを打ち消し、単一化を図られたところに、“皇民化”イデオロギーの植民地的抑圧を指摘。

・霧社事件をきっかけに原住民の問題が注目を浴びる→彼らに同情的な見解にも“野蛮”‐“文明”の二元的言説が表われていることを指摘。
・「呉鳳の物語」と「サヨンの鐘」:「呉鳳の物語」は、原住民=“野蛮”→日本人と漢族系を読み手として想定。対して、「サヨンの鐘」では原住民少女の犠牲的精神→漢族か原住民かは問わず、等しく太平洋戦争へ動員されていく時代背景。

・最終章では、主体の内面における葛藤というだけでなく外的・時系列的な影響で左右される様をうかがうため、呉濁流『アジアの孤児』を取り上げ、台湾・日本・中国大陸と空間的に渡り歩くところから、民族主義・植民地主義の境界を越えていく生身の動きを読み取ろうとする。

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2009年10月25日 (日)

中島岳志『朝日平吾の鬱屈』

中島岳志『朝日平吾の鬱屈』(筑摩書房、2009年)

 1921年、安田財閥の総帥・安田善次郎が刺殺され、手を下した青年・朝日平吾もその場で自ら喉を切って自死した。その後に続くテロ事件の先駆けとされた事件である。本書は、この無名であった一青年の抱えていた鬱屈から、現実社会の不合理によってしわ寄せされた不遇への怨恨、承認願望の挫折といった実存的不安をすくい取り、そこに現代日本社会にも漂う世相的な不安感を重ね合わせる。赤木智弘「希望は、戦争」が執筆の動機となっているらしい。

 私の勝手な思い込みだが、政治思想史に関心を寄せる人には、大雑把に言って丸山眞男タイプと橋川文三タイプがあると思っている。丸山が高踏的、悪く言えば上から目線なのに対して、橋川は彼自身が軍国少年だったことをどのように捉え返すかという切迫した思いを動機としていたことから、ある人物の思想を検討するにも内在的な感受性まで迫ろうとした。本書も橋川の『昭和維新試論』(私も思い入れのある本で、以前にこちらで取り上げた。ちくま学芸文庫版の解説は中島岳志)を議論の手掛かりとしていることからうかがえるように、著者は明らかに橋川タイプだ。本書の視点への賛否はともかくとして、こうした切実さを持った対象への迫り方には好感を持っている。

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山岡淳一郎『田中角栄 封じられた資源戦略──石油、ウラン、そしてアメリカとの闘い』

山岡淳一郎『田中角栄 封じられた資源戦略──石油、ウラン、そしてアメリカとの闘い』(草思社、2009年)

 田中角栄といえば、「日本列島改造論」及びその裏面としての土建屋政治、外交面では日中国交正常化の印象が強い。対して、本書が注目するテーマは資源外交である。若き日の角栄が理化学研究所の大河内正敏と接点があったというのは意外だった。大河内の「農村の機械工業化論」が角栄の「日本列島改造論」の源流となっているらしい。角栄は理研の科学者たちの議論を横目にしながら開発主義的な感覚を身に付けた。本書では、角栄の基本的な発想としての「モノと生活」、それを支えるにエネルギー資源の確保という考え方を縦軸に据え、彼が直面せざるを得なかった国際政治が横軸に据えられる。田中角栄を外交史の観点から捉え返していくのは非常に興味深いテーマだと思う。

 石油をめぐっては親アラブに舵を切った。原子力エネルギーをめぐってはフランス・西ドイツ等のヨーロッパ勢と手を組もうとする。こうした角栄の独自外交はアメリカの癇に障る行動であった。アメリカの政権中枢と直結していた岸信介・佐藤栄作らとは異なり、角栄はキッシンジャーと正面きってわたり合う。しかしながら、資源戦略は安全保障政策と密接な関わりを持つ以上、日本はどうしても難しい立場に置かれてしまう。アメリカ側の反撃に抗しきれず、憔悴していく角栄の姿が痛々しい。アメリカは核不拡散という大義名分を掲げてヨーロッパ勢が行なおうとしていた原子力施設の売込みに抑制をかけようとするが、他方で、それは一部の国への核の集中を意味してしまうという矛盾も指摘される。

 本書とは直接には関係ない話になるが、戦争体験と戦後の高度経済成長との精神史的なつながりを浮き彫りにしてくれるようなテーマはないかという関心がある。もちろん、1940年体制とか、旧満州国における産業政策が戦後に生かされたといった議論はある。そうした政策構想上の連続性にも興味はあるが、もっと精神史的なレベルと言ったらいいのか。例えば、佐野眞一『カリスマ』で示された、不条理を嘗め尽くした戦場体験がダイエー・中内功の原点になったという視点を思い浮かべている。田中角栄も含めて、そういう感じのコンテクストで捉えられるテーマはないものか、と。漠然としたイメージしかないので、どう表現したらいいのか難しいのだが。

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2009年10月24日 (土)

“満州国”初代外交部総長・謝介石について

 戦前・戦中期、日本語・中国語の両方を解するということから大陸における日本占領地域に渡った台湾人が相当数いた。当時は“日中の架け橋”ともてはやされたが、その背後に日本の大陸侵略の意図があったことを思えば空々しい哀しさも感じてしまう。①就職・留学のため、②台湾在留経験のある日本人の引き立て、③すでに大陸に渡って成功した台湾人のツテ、といった事情が考えられるが、そうした中でも、旧満州国初代外交部総長(外務大臣)を務めた謝介石(1879~1954年)の存在が大きい。彼の引きで満州にやって来た台湾人は少なくない。

 以下の記述は、許雪姫〈是勤王還是叛國──「満洲國」外交部総長謝介石的一生及其認同〉(《中央研究院近代史研究所集刊》期57、2007年)を参照した。大陸に渡った台湾人のうち、重慶に行って抗日戦争に参加した後に台湾へ戻ってきた人々(いわゆる“半山”)については従来から評価されてきたものの、対して“漢奸”とされた人々についての研究は少ないという。しかしながら、重慶に行ったか、行かなかったかという相違自体に、台湾人アイデンティティの揺らぎが具体的に表われていると言えるのではないか。それは一律に定式化できるものではなく、それぞれの人が負った背景によってまた異なってくる。そうした一例として謝介石が検討される。清朝期の台湾に生れ、1895年の下関条約で日本統治下に入ってからは(すなわち、日本国籍を持つ)日本語を学んで東京に留学、その後、大陸に渡って中華民国国籍を取得するが、溥儀に仕えたことから旧満州国高官になった。彼の心中にどのような思惑が渦巻いていたのかは分からないが、こうした転変激しい人生行路そのものに私などは一つのドラマとして興味が引かれる。

 なお、旧満州国にいた台湾人のオーラルヒストリーとして許雪姫・他《日治時期在「滿洲」的台灣人》(中央研究院近代史研究所、2002年)という本もあり、先日、台北に行った折に入手しておいた。この本は龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年→こちらで取り上げた)でも引用されている。

 謝介石は1879年、台湾・新竹の生まれ。当初は伝統的教育を受けていたが、日本人の設立した国語伝習所及び公学校で学び、通訳として働き始める。日本人官吏の推薦を受けて1904年に東京へ留学。東洋協会専門学校(後の拓殖大学)で台湾語を教えながら、明治大学法科を卒業。明治大学の同窓にいた張勲の息子と親しくなり、この縁で中国大陸に渡って張勲の法律顧問となった。清朝滅亡後は吉林法政学堂教習兼吉林都督府政治顧問となり(この時は謝愷と名乗った)、吉林にいた日本人と共に中日国民協会を立ち上げている。

 1914年に在天津日本総領事館に申請して日本国籍を放棄、翌年に中華民国国籍を取得。袁世凱政権で要職に就いた張勲に従って出世。1917年7月、張勲・康有為らが溥儀を擁して画策した復辟運動に関わり、外交部官員となる。復辟失敗後は上海・天津の辺りで活動。1925年以降、鄭孝胥・羅振玉らと連絡を取り合う。帝政復活を諦めきれない溥儀は日本軍を後ろ盾にすることを考えており、鄭孝胥(大阪総領事の経験あり)やとりわけ日本語が流暢で外交活動の経験がある謝介石を重用した(彼は1927年に溥儀の謁見を受けた)。

 1931年の満州事変に際しては吉林にいた熙洽(愛新覚羅家の一族で日本留学経験のある軍人)の配下として政治工作を行ない、翌1932年に“満州国”が建国されると外交部総長(外務大臣)に任命された(ただし、実権は外交部次長の大橋忠一が握っていた)。在任中にはリットン調査団、日満議定書、溥儀の訪日といった出来事があった。1935年、日本との外交関係が公使級だったところを大使級に格上げされた際に、謝介石は外交部総長を辞任して初代駐日大使に就任する。

 同年、「台湾始政四十年記念博覧会」参観という名目で台湾へ帰る。故郷・新竹の名望家の娘と長男との結婚も理由の一つだったらしい。いわば「故郷に錦を飾る」という感じか。日本人優位の植民地体制の中で台湾人は逼塞した思いを抱え込んでいた中、謝介石が満州国皇帝の名代として日本人の台湾総督から恭しく迎えられるのを目の当たりにして、「俺も海外へ行って一旗揚げよう!」と意気込んだ青年もいた。そうした台湾人を謝介石も引き立てた。溥儀のかかりつけ医となった黄子正は謝の紹介によるし(戦後、戦犯となった溥儀の在監中も黄はずっと行動を共にした)、外交部に就職した台湾人も少なからずいたらしい。台湾人か日本人かを問わず、台湾関係者が満州国でツテを求める際には謝介石に頼った。(※他方で、「台湾で地方自治制度は時期尚早だ」と謝は発言したため、林献堂などは反発している。)

 日本国籍を持つ台湾人は、日本と中国との不平等条約のため中国大陸では特権を持っていたので大陸では嫌われ、日中戦争が始まると、反日感情の矛先はまず台湾人に向けられたらしい。そのため、自分は福建人もしくは広東人だと名乗って台湾人であることを隠さねばならないこともあったという。対して、満州国ではそうした心配は無用だったという事情も指摘される。日本国籍を持ってはいても日本人ではなく漢人であるという意識がありながら、大陸の漢人からは違う色眼鏡で見られてしまったところに、当時の台湾人のアイデンティティの難しいあり方がうかがえる。

 謝介石は1937年に公的活動から引退。一時、東京で暮らしたが、満州房産株式会社という国策会社の理事長として再び満州国に戻る。さらに北京で暮らしていたところ、1945年、日本の敗戦を迎えた。彼は漢奸として逮捕され刑務所に入れられたが、1948年に共産党が北京に入城する前に釈放された。1954年に死去。wikipedia等では1946年に獄死したとされているが、許雪姫女史は遺族から直接話を聞いているので、こちらの方が正しいはずだ。戦後の謝介石の足跡については、史料が乏しいせいなのか、遺族への慮りがあるのか、はっきりしたことは記されていない。

 “漢奸”か否かという問いの立て方はもはや時代錯誤であろう。ある種のポリティカル・コレクトネスは当時に生きた人々が嫌でも抱えざるを得なかった生身の複雑な葛藤をなかったものとして、さらに言えば事情を忖度することなく汚いものと一方的に決め付けてオミットしてしまう。それは歴史を見ていないに等しい。謝介石という人にどんな思惑があったのか私には分からない。あるいは出世志向のかたまりだったのかも知れない。仮にそうだとしても、このように複雑な転変を経ねばならなかったところには、日本・中国双方からマージナルな立場に追いやられた台湾の独特なポジションがもたらした葛藤が見え隠れするのではないか。そうしたアイデンティティの困難という観点から、謝介石という人物が日本・中国・台湾それぞれの現代史の専門家からどのように捉えられているのか、聞いてみたい気もする。

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2009年10月19日 (月)

龍應台『大江大海 一九四九』

龍應台《大江大海 一九四九》天下雑誌、2009年

 先日、台北の書店をのぞいたらベストセラーとなっているようなので購入した本。

 台湾に流入した外省人のある世代では名前に“港”や“台”の一字を持つ人が多いらしい。国共内戦に敗れて難民となり、香港の収容所で生まれた子供に“港”、台湾に逃れてから生まれた子供に“台”の字をつけたのだという。台湾生まれ、外省人二世の女流作家・龍應台の名前にもそうした事情がある(ちなみに、ジャッキー・チェンの本名は陳港生という)。

 1945年に戦争が終わり、1949年に中華人民共和国が成立するまでの間、平和の息吹を味わういとまもなく、実におびただしい人々の移動があった。戦火に追われて山を越え、海を渡り、ほんのわずかのタイミングの差や判断の相違で肉親と離れ離れとなり、場合によっては死に別れてしまう。自分の力ではどうにもならない過酷な運命に翻弄された有名無名の人々の中に、著者自身の両親の姿もあった。1949年に至る混乱期にいったい何があったのか? 両親の故郷を訪ねて大陸を歩いたのを皮切りに、当時を生き延びた多くの人々から話を聞き取りながら、大文字の“正史”に現われることのなかった生身の歴史を描き出そうとしたノンフィクションである。

 1948年の長春攻囲戦で、林彪率いる人民解放軍が国民党軍や一般市民も含めて数十万単位で大量の餓死者を出したことは初めて知った。南京大虐殺やレニングラード攻囲戦は歴史の教科書に載っているのに、なぜこの大量虐殺には目をつぶるのか?と著者は疑問を投げかける。このため、本書は大陸では発禁となったらしい。

 台湾接収で上陸した国民党軍のみすぼらしい姿は、蒋介石政権の政治腐敗と重ねあわされた一つの象徴的なイメージとして語り草になっている。だが、その兵隊たちだって好きこのんでやって来たわけではない。大陸でさらわれて無理やり兵隊にさせられた、ただの庶民が多かった。家族と生き別れた彼らの苦悩にも目配りされる。幼い頃、命の恩人とも言うべきお医者さんが二・二八事件で公開処刑されるのを目の当たりにしたことを現・副総統の蕭萬長が語っているのも印象に残った。

 国民党に徴発されて国共内戦で大陸に送られた卑南(プユマ)族の老人たち。人民解放軍の捕虜となって向こうで暮らし、一人は朝鮮戦争にまで従軍した。台湾に戻ったのは1992年である。少し時間を遡れば、日本軍に徴発された高砂義勇隊のことも思い浮かぶ。それから、日本軍の軍属として捕虜収容所の看守となり(南洋ばかりでなく南京にもいた)、戦後は戦争犯罪人として有罪判決を受けた台湾人のこと。

 旧満州国の荒野から南洋諸島まで俯瞰すると途方もくれるような広がりの中で、様々な人生、しかも残酷なまでに哀しい宿命が交錯していた。スパイ容疑で母親が処刑された外省人・王澆波、父親が日本軍の軍医として戦死していたため戦後は肩身の狭い思いをした鄭宏銘。彼ら二人のエピソードをつづった後にこう結ばれる。心に秘められた言い知れぬ傷のありかは異なっても、みんな台湾人である、と。そこには、根無し草意識を抱える著者自身の想いも重ねあわされているはずだ。

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2009年10月16日 (金)

陳翠蓮『台湾人の抵抗とアイデンティティ 1920~1950年』

陳翠蓮《台灣人的抵抗與認同 一九二〇~一九五〇》遠流出版、2008年

 日本による植民地支配において、日本国民であるはずなのに日本人ではないとして差別を受けた経験が共有され、台湾という範囲内で「日本人ではない」→「台湾は台湾人の台湾である」という意識が生み出された。この“想像された共同体”(ベネディクト・アンダーソン)意識が日本の統治が終わってからも継続し、戦後も目に見えない形で作用したという論点を本書は示す。また、植民地支配は日本/台湾=抑圧/被抑圧という単純な図式にまとめられるものでもなく、近代化の方向としての西洋、同族意識・祖国意識の拠り所としての中国といった要因も絡まり、西洋─日本─台湾─中国という複層的な連関の中で葛藤があったことも指摘される。

 従来の議論では、抑圧/抵抗という二項対立的な図式の中で民族運動を捉える傾向が強かった。それに対して、これまで不徹底とみなされてきた台湾文化協会の台湾議会設置請願運動についても、台湾人意識が明瞭に打ち出されていたことに注目される。大正デモクラシーの気運も利用して、自由・平等・人間の尊厳・法治主義といった近代的理念を目指すようになっていた。文化協会の活動の背景には、台湾社会全体の文明化という問題意識があった。とりわけ文化普及のための言語が問題となるが、漢字白話文かローマ字台湾文かという議論(つまり、たとえ口語であっても北京語は台湾の一般民衆になじみがない。しかし、ローマ字で台湾語を表記しようにも、漢字以外の文字には抵抗感があって普及せず)にも“台湾”アイデンティティをめぐる揺らぎが見えてくる。

 本書では、謝春木、黄旺成、呉濁流、鍾理和の中国体験も検討される。だいたいにおいて彼らは、第一に近代文明という指標から中国社会の後進性に気付く一方で、第二に同族意識・祖国意識から、これは帝国主義のせいだ、と同情的な見解を示していた。差異に気付きつつも、将来は中国と一緒になるべきだと考えていた。

 やがて日本の敗戦で植民地支配が終わり、国民党がやって来た。当初、台湾の人々は中華民国への“復帰”を歓迎した。同時に、彼らは台湾人自身による自治を望んでおり、それは近代的理念に基づくものであるはずだった。しかし、国民党政府は「台湾人は日本によって奴隷化教育を受けてきた」と差別視、有無を言わさず“中国化”政策を推し進めた(こうした偏見によって、台湾人自身による高等教育機関を目指した延平学院が挫折したケースも本書で取り上げられる)。プライドを傷つけられた台湾人は、これを再植民地化と受け止めた。かつて日本人に対して向けられた「台湾は台湾人の台湾である」という主張が、今度は中華民国に対して向けられた。こうしたギャップが二・二八事件で爆発する。支配/被支配の関係が意識形態そのものまで従属化された点でポストコロニアルの議論も援用される。

 なお、二・二八事件を近代化の差による文化衝突と捉える議論については、日本植民地近代化論=日本統治肯定論につながりかねない。だが、これはあくまでも、戦後中華民国政府による再植民地に対する反発→日本統治期への高評価という形で表われた抗争論述としての性格が強い点にも注意を促している。

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2009年10月 7日 (水)

近代化をめぐって何となくメモ

 先日、植民地統治期台湾において多くの弟子を育てた水彩画家・石川欽一郎を取り上げた(→こちら)。その人柄が台湾人生徒たちから慕われただけでなく、イギリス紳士風の雰囲気に好感を持たれたというところから、何となく以下の雑感。

 日本による植民地支配には、①西洋を基準とした“文明化”と②皇民化運動に顕著な“日本化”と二つのベクトルがあった。総督府は医療や産業インフラ等の近代化政策を進めると同時に、日本語や神社崇拝等を強制した。他方で、台湾人側も、日本を通して“普遍的”≒西欧的な先進文化へアクセスしようとすると同時に、日本優位の差別的でありながら同化を標榜する総督府の政策に反感を持っていた。このあたりには様々に複雑なロジックが絡まりあっており、解きほぐすのが難しい。

 たとえば、台湾総督府の堂々たる威容には、日本の圧倒的な力を現地人に見せつける意図と同時に、その威厳を示すに西洋風建築を用いるという後発型帝国主義国家独特のねじれがうかがえる。

 そもそも日本は近代化にあたり、たとえば福沢諭吉が『文明論之概略』で「文明─半開─未開」という図式を示したように、日本の独立保持のためにこの図式に沿って伝統社会の克服=近代化≒西洋化を進めた。抽象的な“近代”などあり得ず、その具体化として欧米社会がモデルとして目指された。それは手段なのか、目的なのか? さらには、明治期日本において欧化か?国粋か?という議論が沸騰し、こうした葛藤は現在に至るも近代日本思想史を最も特徴付けるテーマとなっている。

 また、台湾と同様に日本の植民地支配を受けていた朝鮮半島において、李光洙は伝統社会の停滞性を批判、停滞性克服=近代化のために日本化を進めるべきだと「民族改造論」を発表した(彼についてはこちらで触れた)。李光洙は進化論の影響を受け、優勝劣敗の法則により弱小民族が敗亡するのは仕方ないと考えていたらしい。彼が目指したのは、目的としての日本化だったのか(この場合、“親日派”という謗りは免れない)、それとも朝鮮民族生き残りのための手段としての日本化だったのか? 難しい問題である。

 で、石川欽一郎をきっかけに何をつらつら考えたのかというと、台湾人生徒たちは石川の背後に“日本”ではなく、実は“西洋”(≒先進文明への憧憬)を見ていたのではないか?ということ。彼らは西洋文明に直接触れることが難しく、日本を通してアクセスするしかなかった。しかし、“日本経由の近代化≒西洋化”は、日本語を媒介として西欧の先進文明にアクセスできると同時に、日本語を使うこと自体によって、自覚的にせよ無自覚的にせよ、日本文化に取り込まれてしまうおそれがあった。

 今、たまたま、陳翠蓮《台灣人的抵抗與認同》(遠流出版、2008年)という本を読んでいて、日本に留学した蔡培火たち台湾知識青年が、「西洋─日本─台湾」という三層構造の中で台湾は最底辺にあると捉えて葛藤したという指摘があったので(73頁)、ふと以上のことを思い浮かべた次第。

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2009年9月25日 (金)

黄栄燦という人

 「恐怖的検査──台湾二二八事件」という木版画は私も何かで見た覚えがある。作者は黄栄燦という人。重慶出身の美術家である。1945年、日本の敗戦、国民政府の進駐という状況の中で台湾にやって来た。二・二八事件というと本省人対外省人の対立構図が強調されるが、目撃したその凄惨なあり様を作品として残したのも外省人であったことは記憶しておいていいだろう。

 以下の記述は、黄英哲「台湾における木版画家黄栄燦の足跡(1945-1952):魯迅思想伝播の一形態として」(『アジア遊学』第25号、2001年3月)、陳藻香「濱田隼雄のヒューマニティ:「黄榮燦君」と「木刻画」」(『天理臺灣學會年報』第七号、1998年6月)を参照した。黄栄燦については横地剛『南天の虹』という本もあるらしいが、入手できておらず未見。

 黄栄燦は1916年の生まれ。はっきりとしたことは分からないが、魯迅の木版画運動に学んだ人だという。魯迅が木版画に深い関心を寄せていたことは内山嘉吉・奈良和夫『魯迅と木刻』(研文出版、1981年)を参照(ただし、本書に黄栄燦の名前は出てこない)。魯迅は木版画ではなく敢えて「木刻」という表現を用いた。木版を刻むという能動的行為に着目し、思想表現としての役割を意識したからだろうか。魯迅が関心を持った理由としては、木版はもともと中国起源だが西欧・日本を経て里帰りした芸術だと考えたこと、識字率の低い民衆に連環図画の普及を意図していたこと、忙しい中でもわずかな時間で製作できる簡便性、などが挙げられる。なお、本書には、成城学園で小学生に美術を教えていた内山嘉吉が、夏休み、上海の兄・完造のもとに滞在中、魯迅から請われて中国の美術学生相手に木版画の基礎を教えた経緯が記されている。

 魯迅の流れを汲むリベラリストは大陸では蒋介石から弾圧を受けていたため、新天地に希望を託す思いで台湾にやって来た人々がいたらしい。黄栄燦も抗日戦争を経て、ジャーナリスト、文化工作担当者という身分で来台。その頃留用されていた日本の文化人とも交流した。

 日本の敗戦を迎え、無為な生活を送る中でも何か文化的な活動をしようと西川満が『文藝台湾』の仲間だった濱田隼雄と相談して制作座という劇団を立ち上げていた。舞台をしつらえた西川の自宅には日本人ばかりでなく中国人も観に集まって来たらしい。その中に黄栄燦もいた。西川、濱田らは話がはずむ中で黄が版画に関心を持っていることを知り、画家の立石鉄臣を紹介した。黄が立石と一緒に池田敏雄の自宅にもよく訪れていたことは池田の「敗戦日記」に見える(『台湾近現代史研究』第四号)。池田は黄のことを「だいぶ進歩的な思想を持つ人のようだ」と記している。池田が編集実務を担っていた『民俗台湾』の発行元、東都書籍は東寧書局と名前を変えていたが、黄は池田の紹介でこれを買収、新創造社を立ち上げる。

 陳藻香論文では濱田の記した黄栄燦の人物像が紹介される。互いに言葉の分からない二人が、歩きながら道に文字を刻んで筆談するシーンが印象的だ。朝早くにやって来て「早々! 早々!」と声をかけるので、彼のことを濱田の子供たちは「チャオチャオさん」と呼んでいたという。ある日、濱田が「あなたのお子さんは?」と尋ねると、黄は言いにくそうに、重慶で生死不明であることを答える。濱田は日本軍による重慶爆撃に思い至る。彼自身、もともと社会主義思想に共鳴していたものの、戦時中は皇民化政策に沿った言論活動を展開、一時は戦犯指名の噂まで流れたこともある。濱田の自責の戸惑いを見て取った黄はニコニコした表情でただちに「これも運命だから仕方ない。それに、戦争では日本人にも多くの犠牲者が出た」という趣旨のことを筆談紙に書いて寄こした。台湾進駐の国民党軍のみすぼらしい姿を見て、日本人には軽侮の念が、台湾人には失望感が広がっていた。そうした中、濱田が黄栄燦の人となりを知って、はじめて日本の敗北を実感したという心理的な機微の移り変わりが興味深い。

 濱田は1946年4月に日本へ引き揚げた。翌年、二・二八事件がおこり、それが外省人に対する本省人の暴動であることを伝え聞いて、「黄君は大丈夫だろうか? 文化人だから標的にはされないだろうが…」と心配している。黄栄燦は本省人の標的にはされなかったものの、戒厳令下、新創造社は閉鎖されてしまう。教職に就いたが、続く国民党による白色テロの中で逮捕され、1952年、処刑された。

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2009年9月21日 (月)

『民俗台湾』の評価をめぐって

 植民地統治期台湾における広い意味での人類学的調査の経緯を大雑把にまとめると、第一に、後藤新平の発案による旧慣調査から始まる。統治を実効的ならしめるにはまず実態をありのままに把握する必要があるという政策立案上のプラグマティックな発想が背景にあり、後藤の「ヒラメの眼をタイの眼にすることはできない」という言葉は有名だろう。漢族系社会の調査が中心であり、織田萬・岡松参太郎など法律専門家の名前が見えるのが特徴である。山地の原住民系社会にはまだ警察による実効支配が及んでいなかったが、第二段階として、そこに先鞭をつけた伊能嘉矩、鳥居龍蔵、移川子之蔵(台北帝国大学、土俗・人種学)、浅井惠倫(台北帝国大学、言語学)、鹿野忠雄などが続く。こちらは純粋に学術志向で、政策的思惑とのつながりは薄い。ところで、この間、漢族系社会の民俗調査は進んでおらず、第三段階として、その空白を埋めるべく金関丈夫(台北帝国大学、解剖学)・池田敏雄らを中心に『民俗台湾』が創刊された(1941年)。なお、西川満の『文芸台湾』にも民俗部門があり、当初は池田・黄得時・楊雲萍などの名前も見えたが、こちらはむしろ文学志向に偏っていたため池田らは離れていく。

 1930年代後半から皇民化運動が始まり、さらに戦時体制一色となるにつれて台湾伝統の習俗が消えつつある、それを何とか記録しておかねばならないという焦燥感が『民俗台湾』の動機としてあった。その点では皇民化運動には批判的であり、編集実務を取り仕切っていた池田の身辺には特高の影もちらついていたらしい。それでも存続できたのは、当局から言質をとられないよう誌面構成に苦心していたこと、金関の台北帝国大学教授という官の権威を前面に立てたこと、総督府側にガス抜きの思惑があったかもしれないことも指摘できるだろうか。台湾人からの寄稿も募り、調査者=日本人、被調査者=台湾人という対峙的構図ではなく、台湾人自らによる調査を促したことも特筆される。後に池田敏雄夫人となる少女作家・黄氏鳳姿が一例だが、病躯を押して『民俗台湾』に寄稿し続けた黄連發という人の執念も目を引く。

 『民俗台湾』同人の自己評価はどうであったか。たとえば、中村哲(台北帝国大学、憲法学・政治学)は「『民俗台湾』というものは、政府側の天皇信仰を民間祭祀に代って押しつけようとしたことに反対したのです。それで、この雑誌が土着文化や土地のナショナリズムのはけ口になった。そういうつもりで私はやった。金関さんもひろいヒューマニズムを意識していた」と語っている(座談会「中村先生を囲んで」『沖縄文化研究』第16号、1990年3月)。池田敏雄は「わざわざ民俗資料の蒐集記録をいいたてたのは、当時台湾人の伝統文化をすべて否定し、破壊して日本化を強制しようとする総督府の皇民化政策と、これを支持する風潮に対する批判があってのことであった。したがって『民俗台湾』は、総督府当局からみれば、皇民化運動と相いれないものであり、決して歓迎すべき雑誌ではなかったのである」と記す(池田敏雄「植民地下台湾の民俗雑誌」『台湾近現代史研究』第四号、1982年10月)。さらに池田は、台湾人の同人であった黄得時(戦後、台湾大学教授)の次の回想を引用している。「ある人から、民俗台湾は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その点についてはあえていう、ぜったいにそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗台湾が総督府当局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」(同上)。

 なお、『民俗台湾』創刊趣意書(金関の執筆)にあった「台湾旧慣の湮滅を惜しむのではない」という文言をとらえて楊雲萍(戦後、台湾大学教授)が「冷たい」と非難するという一悶着があり、後述する戦後の『民俗台湾』批判ではこの一件が必ず取り上げられる。しかし、皇民化運動という時代的空気の中、当局から言質を取られないよう多少は筆も曲げねばならなかった事情を忖度せねばならないし、その後、非難したはずの楊自身も『民俗台湾』に寄稿している。楊の故郷・士林の特集が組まれて楊はホスト役として『民俗台湾』関係者を招待している。彼らは個人的に面識があったわけだから、誌面には表われないところで話し合って双方の納得は得られていたと考えるのが自然だろう。戦後になって楊は「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」と記している(『えとのす』第21号、1983年7月)。

 1990年代後半以降、『民俗台湾』に批判的な論考が現われ始める。嚆矢を成すのが川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)である。『民俗台湾』掲載の柳田國男を囲む座談会における柳田の発言から、日本を軸とした中央‐周縁のネットワークの中で植民地民俗学を構想する意図を読み取る。その上で、出席者の一人である金関にはレイシズム的な発想があった、『民俗台湾』は『文芸台湾』と同種のエキゾティシズムに惑溺していた、と論じている(なお、本書で示された視点への賛否はともかく、戦時下における民俗学・民族学・人類学の諸相を大きな視野で捉えて議論の一つのたたき台を提示している点ではやはり労作だと私は思っている)。

 小熊英二「金関丈夫と『民俗台湾』──民俗調査と優生政策」(篠原徹編『近代日本の他者像と自画像』[柏書房、2001年]所収)も金関には解剖学者としての優生思想があったと指摘、その政策的思惑を台湾人寄稿者はおろか池田・国分など良心派日本人にすら隠していたのだ、と論じている。日本の植民地統治における優生思想批判の意図は理解できるのだが、そこに金関を結び付ける論理立てがあまりにも強引すぎる(小熊論文の推測の強引さについては後述の坂野論文も注で指摘している)。金関の趣意書に「冷たさ」を嗅ぎ取った楊雲萍の直観は正確だったと言うのだが、楊自身がその発言を撤回していることは前述の通りである。台湾人寄稿者は利用されただけ、という言い方がされるが、たとえば病死した黄連發への金関による追悼文には彼への尊敬の気持ちが出ていて、少なくとも私はそのような断定にためらいを感ずる。なお、『民俗台湾』が台湾漢族のナショナル・アイデンティティ確認の機能を果たしたという指摘は、先に引用した中村哲の発言と符合している。ただし、小熊は「意図せざる結果だった」と消極的な位置付けに弱めているのだが。

 坂野徹「漢化・日本化・文明化──植民地統治下台湾における人類学研究」(『思想』第949号、2003年5月)は科学史の立場から「他者」を「文明化」する人類学者の態度に着目する。たとえば日本による植民地化以前、原住民に対しては「生蕃」「熟蕃」と華夷秩序に基づく区分けがなされていたが、それに代わって全島レベルで「文明化」さらには「皇民化」が進められた。それは、普遍的な「文明化」なのか、それとも特殊な「日本化」だったのか?と問題提起をする。『民俗台湾』については、「文明化」理念の中に「皇民化」=他者への植民地化暴力がはらまれている矛盾を隠蔽したと指摘する。

 どんなに客観性を標榜したとしても、観察する者/観察される者という非対称的な関係性そのものがある種の権力性・暴力性を帯びてしまう。そこに無自覚であってはならないと反省を促した点でポスト・コロニアルの議論は有益な視点を示している。ただし、『民俗台湾』をめぐってこれまで提起されてきた「大東亜民族学」の序列意識、植民地統治における優生思想、「文明化」言説に内在する「植民地化」、それぞれ考えねばならない論点ではあるのは確かなのだが、どれもテーマ設定初めにありきで、当事者の生身の葛藤が無視されるきらいがある。川村、小熊、坂野論文のいずれもが『民俗台湾』創刊趣意書に対して楊雲萍が「冷たい」と反発したことを取り上げているのだが、彼らの議論の進め方そのものにも欠席裁判の冷たさ、傲慢さをどうしても感じてしまう。

 川村書を読んだ国分直一は「『民俗台湾』の運動はなんであったか──川村湊氏の所見をめぐって」(『月刊しにか』第8巻第2号、1997年2月)を寄稿した。そこには師匠として尊敬する金関が不当に貶められているという苛立ちが行間からにじみ出ているが、実直な性格の国分はそれをあらわにはしない。むしろ注目すべきなのは、上下の優劣関係のない東アジアの比較民俗学を目指すべきだという川村の主張に共感を示しているところだ。国境を越えた広がりを持つ先史文化の民族考古学的探求に一生を捧げた国分の問題意識がまさにそこにあったからに他ならない。

 呉密察「『民俗台湾』発刊の時代背景とその性質」(藤井省三・黄英哲・垂水千恵編著『台湾の「大東亜戦争」──文学・メディア・文化』[東京大学出版会、2002年]所収)は、『民俗台湾』に台湾の伝統習俗消滅への危機意識、それを記録しようという熱意のあったことを確認し、国分の川村への反論も当然だとする。他方で、それは皇民化政策の時局的転換のすき間をぬって登場し得たものであったと指摘。川村が「大東亜民俗学」と問題提起をした以上、これを避けて通ることはできないと結ぶ。

 ある学知的構造は一人の人間の主観的な情熱によって容易に動かせるものではない。その中に組み込まれた者は、自覚的にせよ、無自覚的にせよ、構造的加害者として一律に断罪されねばならないのだろうか? 三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」(貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収)、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号、2006年3月)は植民地主義と人類学の関係という問題意識を踏まえて『民俗台湾』をめぐるこれまでの議論をレビュー、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と問いかける。『民俗台湾』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自体が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい。「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」という指摘には共感できる。総じて三尾論文の視点が私には最も説得的に感じられた。

〔追記〕『民俗台湾』の全体像を知りたい場合は(復刻されているのでこれを読むのが一番なのはもちろんだが、私も時間がとれないのですべて熟読したわけではない)、陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)がよくまとまっている。第一部では寄稿された論文・随筆のすべてを検討した上で全体的な傾向や特徴が論点ごとに整理され、第二部は編集の中心となった金関丈夫、池田敏雄、立石鉄臣、中村哲、国分直一の人物論となっている。日本語で書かれているが、台北の出版社なので入手が面倒かもしれない。

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2009年8月26日 (水)

有馬哲夫『アレン・ダレス──原爆・天皇制・終戦をめぐる暗闘』

有馬哲夫『アレン・ダレス──原爆・天皇制・終戦をめぐる暗闘』(講談社、2009年)

 アイゼンハワー政権で国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレスの弟で、自身もCIA長官となったアレン・ダレス。若い頃のキャリアは国務省から始まっているが、辞職して弁護士法人に入った。第二次世界大戦が始まると、ほとんどボランティア的に戦略情報局(OSS、戦後のCIAの母体)へ参加、金融問題担当大統領特別代表という肩書きでインテリジェンス合戦真っ只中のスイスへ赴任する。本書は、第二次世界大戦におけるインテリジェンス活動をアレン・ダレスの視点から描き出す。学術的なクオリティーを備えた政治裏面史だが、駆け引きのせめぎ合いにはドラマのような緊張感があってなかなか読ませる。

 スイスには多彩な人物群像がうごめいていた。OSSと協力関係にあったMI6、ユダヤ人協会、国際決済銀行の人脈、動機も様々な民間人。ユングとも接触し、ナチス指導者の精神分析を聞いたりしている。反ナチスの立場をとるカナリス提督が統括するドイツ国防軍の情報部員とも接触、ヒトラー暗殺未遂事件でこのルートが途絶えると、今度はイタリア北部駐留ドイツ軍の降伏を狙ったサンライズ作戦。カウンター・パートナーである親衛隊幹部ヴォルフはヒトラー、ヒムラーたち相手に綱渡り。日本側とは、岡本清福陸軍中将をはじめとしたスイス駐在武官、公使の加瀬俊一、横浜正金銀行の北村孝治郎・吉村侃といった人脈とパイプを持つ。

 ドイツ、日本の敗色が濃くなるにつれて、局面はすでに米ソ間の戦後における勢力争いへと移っていた。アメリカの原爆投下、ソ連の対日参戦はこうした思惑の中で決定されている。アメリカ政府中枢においては、トルーマン大統領をはじめハード・ピース派がソ連に対する軍事的優位を誇示するため日本への原爆投下を急いでいた。対して、ソフト・ピース派のグルー国務次官(元駐日大使)やアレン・ダレスたちは、戦後のソ連に対する牽制のため日本の国力を温存して反共の防波堤にすべきと考えており、原爆投下には反対、日本軍の組織的降伏をスムーズに進めるため天皇制も残すべきと主張していた。ソフト・ピース派はダレスたちのルートを使って日本に対し、無条件降伏とはあくまでも軍事的なものであり、戦後も日本の主権は認める、従って天皇制も維持される、とほのめかすメッセージを送った。しかし、日本からの反応は芳しくない。グルー、ダレスらの努力もむなしく、原爆は投下された。ただし、天皇制存置のメッセージが伝わったからこそ、日本側でポツダム宣言受諾が可能となった。

 インテリジェンス活動とは、単に戦略的優位に立つために情報収集するというレベルにとどまらない。戦争状態にある以上、公式見解として言うことはできないが、破滅的な結果を双方とも回避するために様々な裏のメッセージを発する。それを受け止め損ねない、つまり裏のメッセージを正確にキャッチボールできる能力が肝心な局面で不可欠となる。原爆投下はその失敗であったし、ポツダム宣言受諾の決断がなければ日本はさらなる破滅を迎えたかもしれない。

 アレン・ダレスの培った対日インテリジェンス人脈は戦後も続く。それは戦後政治を動かす秘かな力となったが、本書とは別のテーマとなる。人脈的に戦中・戦後と連続性があるため、ダレスの戦中の活動については努めて秘匿されてきたらしい。

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2009年8月23日 (日)

ETV特集「シリーズ戦争とラジオ(2) 日米電波戦争」

ETV特集「シリーズ戦争とラジオ(2) 日米電波戦争」

・アメリカ国立公文書館で発見された、太平洋戦争中にアメリカで傍受されていたラジオ・トウキョウの記録。ベアーテ・シロタも傍受に動員されていた。
・東京ローズの蓮っ葉な感じのディスクジョッキー→単純な戦意高揚宣伝よりも、東京ローズのくだけた口調の方がアメリカ兵の郷愁を誘って一定の効果あり。
・アメリカ側スポークスマンのザカライアス海軍大佐による放送と、日本側の同盟通信・井上勇による応答→日米双方の意図の探りあい。具体的には、「無条件降伏」とは言っても、その中での「条件」は何か? アメリカ側には大西洋憲章を基礎とする意向があるのを知り、日本側も対応を検討できた。
・日本は、どんなに被害があっても常に「軽微」と表現していたが、原爆投下後、その残虐性を強調する対外放送。
・8月10日の夜、ラジオ・トウキョウは、「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾の用意あり、と放送。8月11日には世界中に知れ渡る。
・ザカライアスは日本滞在経験があり、高松宮の訪米時には三ヶ月間随行した。番組のメインテーマではないが、戦争終結にあたり、アメリカ側における知日派の存在が大きな和役割を果したことを改めて考えさせられた。例えば、平川祐弘『平和の海と戦いの海』(講談社学術文庫)や五百頭旗真『日米開戦と戦後日本』(講談社学術文庫)なども参照のこと。

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2009年8月10日 (月)

NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言 第二回:特攻 やましき沈黙」

NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言 第二回:特攻 やましき沈黙」

・昨日に続き、「海軍反省会」の録音テープに基づく番組。
・「神風特別攻撃隊」は戦地の大西瀧治郎中将の発案→それを軍令部が認可したのであって、計画・命令したのではないという逃げ口上。しかし、実際には、特攻が実施される一年以上前から回天・桜花など特攻用兵器の開発が進められていた。つまり、特攻を作戦の中心に据える方針が予め軍令部にあった。
・わずかでも生還の可能性があるならまだしも、100%死ぬのが確実→もはや作戦の名に値しない。
・「自発的な意志」という名目で強制。写真→「笑ったふりして赴く特攻隊勇士」という説明書き。
・軍令部の幕僚たちの間にも特攻への後ろめたさがあった→しかし、「やましき沈黙」→敢えて異を唱える勇気なし。

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2009年8月 9日 (日)

NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言:第一回 開戦 海軍あって国家なし」、ETV特集「カルテだけが遺された~毒ガス被害と向き合った医師の戦い~」

NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言:第一回 開戦 海軍あって国家なし」
・戦後、開戦時に海軍中枢にいた将校を中心に「海軍反省会」が秘かに開かれていた。その録音テープをもとに番組構成。
・軍令部総長・伏見宮博恭(皇族出身)による揺さぶりが海軍の軍拡路線を決定付けてしまったという証言あり。
・海軍内部の官僚的セクショナリズム→予算獲得のため対外的脅威を強調。政治的根回しにかまける一方、開戦後のプランはなかった。政治的に他省庁を動かすことに快感を覚える軍令部幕僚たちの存在。
・なぜ無謀な作戦を進めたのか? 戦地にいた人が軍令部にいた人に対して厳しく迫るシーンあり。態度の違いが鮮明に浮き彫りされる。

ETV特集「カルテだけが遺された~毒ガス被害と向き合った医師の戦い~」
・戦時中、陸軍が毒ガス(→対中国戦線で使用)を製造していた秘密工場のあった広島県大久野島(おおくのしま)。近隣の人々が工員として動員されたが、多くは間接吸引して重い後遺症に悩まされた。戦後、ほとんど独力で毒ガス被害者の患者さんたちを診療し続けた行武正刀(ゆくたけ・まさと)医師の取材記録。行武医師は今年、逝去された。
・ある患者さんが、退職を申し出たが憲兵に殴られて泣く泣く通勤した、と漏らした。これを聞いたのをきっかけに、カルテには病歴だけでなく、折に触れて患者さんたちから聞き取った戦争の証言を記録してきた。
・国からの援護を受けられる人々が少なかった。
・イラン・イラク戦争で毒ガス攻撃を受け、今でも苦しんでいる人々がイランにいる→行武医師はこのカルテを役立てようと協力。

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2009年8月 8日 (土)

渡辺京二『北一輝』

渡辺京二『北一輝』(ちくま学芸文庫、2007年)

 日本の近現代史で最も注目を浴びるトピックの一つは二・二六事件であろう。軍国主義批判の義務感からか、さもなくば革命幻想のロマンティシズムをかきたてられるせいか、秦郁彦が“二・二六産業”と呼んだように玉石混淆おびただしい刊行物が量産されている。しかしながら、このクーデター未遂の理論的支柱とされた北一輝の思想については意外と誤解も多い(そもそも、事件を起こした青年将校たち自身が理解していたかどうか疑問である)。このように関心が高い割りには、北の主著である『国体論及び純正社会主義』にきちんと目を通した人は少ないとも言われる。確かに、正直言って読みづらい。文体が晦渋というだけでなく、北は独学の人であるため、基礎概念から手作りで、そこに誤読の余地があるのかもしれない。裏返せば、彼の思索のオリジナリティーと解することもできる。

 例えば、彼は自らの立場を「社会民主主義」と言う。しかし、現在使われている語感とは明らかに異なる。大雑把に言ってしまうと、社会主義=人々の有機的な共同体としての一体感→国家主義であり、民主主義=各自の個としての自覚に基づく社会→個人主義・自由主義。ただし、個人の共同体への犠牲的奉仕を強いるのは「偏局的社会主義」であり、個人の放恣を許すのは「偏局的個人主義」であるに過ぎず、この両者をアウフヘーベン(という表現を北は使わないが、本書は彼のロジックにヘーゲル的弁証法を見出している)→「社会民主主義」ということになる。現代における福祉的配分政策としての社会民主主義は、北の観点からすればパターナリスティックな専制支配に堕するとして斥けられることになる。北が目指していたのは、国家という共同社会を通して、その構成員たる一人一人が自らの可能性を最大限に追求していくことであった。「彼は精神の可能性をはばまれるのが、いやなのであった。そして、衆人の魂がそこでは高くはばたけると信じたからこそ、彼は社会主義社会を求めた。彼には、類的存在としての人間は、過去のすべての遺産をとりこみながら、より高きへと展開するものというイメージがあった」と本書は指摘する(130ページ)。私の場合、自由と秩序は、両者の折衷ではなくいかに同時的に両立できるのかという政治哲学的テーマを独自に模索した人物として関心がある。

 こうした社会実現のため、彼は明治維新に続く「第二革命」を模索、その際に結集軸となるのが「天皇」である。ただし、ここでも北は独自のロジックを展開する。ヨーロッパでは市民革命→君主権の制限→個人の権利拡大という筋道をたどった。ところで、日本の天皇はヨーロッパの君主とは異なる。京都に逼塞していた天皇を国民の方こそが拾い上げてやって維新のシンボルに仕立て上げたに過ぎず、支配者としての実体はない。つまり、北独自のロジックで天皇機関説をとっている。『国体論及び純正社会主義』で天皇を「土人部落の酋長」呼ばわりしていること、二・二六事件後、処刑されるにあたり、西田税から「天皇陛下万歳と唱えましょうか」と問われたとき「それには及ぶまい」と答えたことはよく知られている。こうしたあたりからも、北自身の思考構造はいわゆる右翼や青年将校たちとは明らかに異なっていたことが分かる。

 「観世音首を回らせば即ち夜叉王」と言うような、ある種の理想主義とマキャヴェリズムとが並存したところ、大川周明が“魔王”と評したごとく常人道徳を超えた確信的な凄味、こうしたパーソナリティーも北という男に不思議と目を引き付けられるところだ。

 北については、右翼は右翼の立場から、左翼は左翼の立場から、それぞれの思惑が先に立ってほめたりけなしたりする。当たり前の人物だったらそれでも簡単に料理できるかもしれない。しかし、北のように理論的にも、パーソナリティーとしても、独特な凄味=オリジナリティーを持った思想家の場合、そういった図式的な理解は全く無効である。本書は、日本独自のコミューン思想をたどるという著者なりの明確な意図を抱きつつ、このように難しい北という人間を出来るだけ内在的に把握しようと努めている点で、数ある北一輝論の中でも第一等に読まれるべき本だと思う。(なお、北一輝研究では松本健一の蓄積ももちろん無視できない。ただし、松本さんのお書きになるものに私は敬意を持ってはいるが、良い勘所を示しても表面をなぞって終わってしまい、どうしてもっと深く掘り下げてくれないのだろう?と隔靴掻痒のもどかしさを感じることがしばしばある。)

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2009年8月 7日 (金)

阿部博行『石原莞爾──生涯とその時代』

阿部博行『石原莞爾──生涯とその時代』(上下、法政大学出版局、2005年)

 日本の近代思想史を眺めわたしたとき、図式的な理解の範疇に収まらないというか、どのように位置付けたらよいものやら戸惑う不思議な人物が何人かいる。最たるものは北一輝だと思っているが、石原莞爾もまた評価がなかなか難しい。満州事変の張本人、侵略主義者として批判するにせよ、東亜連盟運動に平和思想を見いだすにせよ、あるいは『戦争史大観』で示された戦史家としての卓抜な着眼点を評価するにせよ、日蓮主義に基づく最終戦争論に独特な思想家としての相貌を見いだすにせよ、様々な切り口があり得る。それこそ論者によって十人十色の石原莞爾像が示されてくる。だが、その分、ある種の思い入れの強さから、石原を論ずるというよりも、石原に仮託して論者自身の主義主張を打ち出しているだけなのではないか、そんな疑問を感ずる論考も少なくない。

 本書は、厖大な文献・史料を渉猟して、石原の伝記的事実や何らかの形で彼と接点を持った人々とのエピソードを丹念に集めている。著者自身の解釈は極力抑えられ、石原の年譜を文章におこしたという感じか。玉石混交、類書の多い中、この着実さはやはり信頼の置けるもので、基礎研究というのはやはりこうでなくてはならない。思想史として論じたい場合でも、まずは本書が出発点となるだろう。

 私のような歴史オタクには、人脈的なつながりが色々と見えてくるのが面白い。石原莞爾といえば、ただちに日蓮主義というイメージが浮かぶ。彼が田中智学の国柱会に入ったのとほぼ同じ頃に宮沢賢治も国柱会に入信しているという事実関係を強調したがる人は少ないな。宮沢賢治ファンにはヒューマニストが多いし、ヒューマニストは軍人が嫌いだからか。昭和初期の時代風潮における日蓮主義というのは検討に値するテーマで、国柱会ではないが北一輝や井上日召もそうだし、創価学会や立正佼成会など新興宗教団体もある。なお、石橋湛山も日蓮宗だが、生家がお寺という事情だから、思想史的に結び付けるのは無理があるかもしれない。

 軍人つながりでは、石原は梅津美治郎、阿南惟幾、武藤章を高くかっていたらしい。立場的対立はあっても陸軍をまとめられるのは梅津だけだと考えて、時折相談にのっていたという。そういえば、筒井清忠『昭和十年代の陸軍と政治──軍部大臣現役武官制の虚像と実像』(岩波書店、2007年→こちら)でも梅津の存在感が特筆されていた。武藤を抜擢したのは石原だが、中国政策をめぐり、不拡大方針の石原に対して武藤は積極論を主張して決別。ただし、後にその武藤も、日米開戦を回避しようと努力しながら、結局、下からの突き上げを抑えきれなかったというのも皮肉な巡り合わせである(保阪正康『陸軍省軍務局と日米開戦』中公文庫、1989年→こちら)。

 浅原健三(八幡製鉄所のストライキを指導したことで有名)、橘樸、宮崎正義、十河信二といったあたりは満州人脈で理解できるが、東亜連盟の関係で大河内一男(東京帝国大学・社会政策)、新明正道(東北帝国大学・社会学)、中山伊知郎(東京商科大学・経済学)、細川嘉六(『改造』発表論文がもとで横浜事件がおこる)、木下半治、市川房枝、稲村隆一(農民運動、戦後は社会党代議士)といった名前が出てくるのは面白い。左翼勢力がほぼ壊滅状態にあった1940年代、政府批判の論陣を張っていたのは東亜連盟か中野正剛の東方会くらいだったこと、東亜連盟には大陸における日本の侵略行動を批判するロジックがあったこと、こういった点が指摘できるだろうか。それから、東亜連盟は各民族の政治的独立という主張も掲げていたので、朝鮮人もかなり加盟していた。石原と行動を共にした幹部で曺寧柱という人が頻繁に出てくるし、安宇植「気さくで温厚だった曺寧柱に信頼を置く」(→こちらで読める)によると、他にも朴錫胤、姜永錫といった人たちがいたらしい。この辺りも興味がひかれる。

 それから、いわゆる「首なし事件」(警官による拷問を告発)で正木ひろしを激励し、書簡を交わしていたのは初めて知った。『近きより』を読んでいたということか。

 以上、駄弁でした。

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2009年8月 3日 (月)

「意志の勝利」

「意志の勝利」

 famousというべきか、notoriousというべきか、戦後ながらく封印されていたレニ・リーフェンシュタール幻の代表作「意志の勝利」。1934年にニュルンベルクで開催されたナチス党大会の記録映画である。ドイツでは現在でも上映禁止らしい。現代史をテーマとしたドキュメンタリー番組や歴史書で断片的に見かけることはあっても、全体を通して観たことはなかったので、上映されているのを知って早速観に出かけた。なお、私はナチズム礼讃者でも何でもなく、ただのノンポリです。念のため。

 大空に広がる雲海のただ中、飛行機が徐々に下降して雲を突き抜け、古都ニュルンベルクが見えてくる。随所ではためくハーケンクロイツの党旗、街路ではアリのように小さく見える人々が隊列を組んでいる。着地した飛行機から姿を表わすアドルフ・ヒトラー、歓呼して迎える群衆。ドイツ帝国を俯瞰的に捉え、そこに降り立つ救世主ヒトラーというイメージ、いわば立体的に神話世界を組み立てた構図が冒頭のシークエンスからうかがえる。こうした出だしにレニは強くこだわっていたらしく、ヒトラーから冒頭にこれこれの場面を置いたらどうかと提案があったとき、彼女はそんなの芸術的じゃない、雲海のイメージ以外にあり得ないと頑強に抵抗してヒトラーを不快にさせたらしい(レニ・リーフェンシュタール『回想 20世紀最大のメモワール(上)』椛島則子訳、文春文庫、1995年)。

 光と影の効果をたくみに使ったカメラアングルも良いし、それから素材と舞台だ。なにしろ、民間映画会社ではとてもじゃないが賄いきれないセットを国家予算で用意しているのだから。労働奉仕団の集団パフォーマンス、国防軍・突撃隊・親衛隊の整然たる行進(あの独特なグース・ステップ!)、これほどのマスゲームをやるのはいまどき北朝鮮くらいのものだろう(美的センスには乏しいが)。なお、三ヶ月前におこったレーム粛清(“長いナイフの夜”)で突撃隊幹部が一掃されており、新たに幕僚長となったルッツェが親衛隊のヒムラーと並んでヒトラーに忠誠を誓うこと、これまで突撃隊と対立してきた国防軍が党大会に初めて参加したこと、こうして多元的にいがみ合っていた軍事組織がすべてヒトラーの完全掌握下に入ったことを形式として示すこともこの党大会に期待されていた。

 会場のプランを立てたのは建築家のアルベルト・シュペーア(後の軍需大臣)である。やはり建築に多大な関心を寄せるヒトラーから絶大な信頼を得ていた彼は、レニと同様、第三帝国の演出家となる。彼の演出により夜間の屋外会場でサーチライトが空に立ち上るシーンの写真を見たことがあるが、これもまた実に格好良い(井上章一『夢と魅惑の全体主義』文春新書、2006年)。

 そして、役者。次々とナチスの指導者たちが登壇するが、断然異彩を放つのはやはりヒトラーである。聴衆の拍手がやむのを待って静かな語りかけで始め、絶叫調で盛り上げる演説は、俳優としての素養が十二分にうかがわれる。彼は政治活動の早期から演説の練習に余念がなくて(それを戯画的に捉えた映画が「わが教え子、ヒトラー」である→こちら)、振り付けのパターンを撮った写真を見たことがある(ヘルマン・グラーザー『ヒトラーとナチス』関楠生訳、現代教養文庫、1963年)。他方で、彼の演説を聴いて感動した人が帰宅後に新聞で演説要旨を読んだところ、何でこんなつまらない話に感動したんだろう?と不思議に思ったというエピソードも何かで読んだ覚えがある。ヒトラーは、マスメディアの発達により、理屈による説得ではなく視聴覚的・直感的印象で影響力を及ぼせるようになって初めて登場し得た独裁者だったと言える。

 いずれにせよ、素材は記録映像であっても、一つの美意識に基づいた“神話物語”として再構成されている点で「意志の勝利」は単なるドキュメンタリー映画ではない。たとえば、同時代の日本のニュース映画を観ても、「戦果赫々云々…」とがなり立ててはいるが、比べてみると野暮ったさが際立つ。“事実”を“物語”に作り替え、自分たちがその“神話”の中に組み込まれて戦っているんだと思わせることができなければ、人間の精神は鼓舞されない。集会参加の陶酔感→美意識に基づき映像で再構成→国民すべてを巻き込む集団的儀礼→“神話世界”において祭祀者を演ずるヒトラー→民衆の喝采による権威の承認とナショナルな一体感、これこそ直接民主主義の極致であろう。皮肉な話だが、ルソー『社会契約論』で示された“一般意志”はこの点において実現される。「意志の勝利」の映画としての出来栄えがあまりにも良すぎたからこそプロパガンダ映画として成功してしまったというのも、何とも言い難い逆説である。

 美的意識がナチズム体制を形成する基盤となったことについては田野大輔『魅惑する帝国──政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会、2007年)に詳しい(→こちら)。ナチスと映画との関わりについては飯田道子『ナチスと映画──ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか』(中公新書、2008年)がナチスの作ったプロパガンダ映画と、戦後の映画におけるナチス・イメージとの両方に目配りしながら概説している。考えてみたら、スポーツ映画に興味がないので「オリンピア」は観ていないし、レニの伝記映画もまだ観ていなかったな。

【データ】
原題:Triumph des Willens
監督:レニ・リーフェンシュタール
ドイツ/1935年/114分
(2009年8月2日、シアターN渋谷にて)

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2009年7月27日 (月)

長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係──朝鮮独立運動とアメリカ 1910─1922』

長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係──朝鮮独立運動とアメリカ 1910─1922』(平凡社、2005年)

・日本の韓国保護国化に際して、Th・ルーズベルトは日本を支持(南下政策をとるロシアへの牽制)→朝鮮人は民族自決を掲げた(とされる)ウィルソンに対してどのような働きかけをしたのか、アメリカ側はどのような対応を取ったのか?
・1911年、寺内正毅総督暗殺計画の容疑→キリスト教徒・新民会員を中心に一斉検挙→百五人事件
・ウィルソンの14か条にある「民族自決主義」→抽象的な理念の一方で、具体的な問題に応じて差がつけられていた(自治能力があると認定できるか、アメリカにとって有益かという基準)→朝鮮に適用される可能性は初めからなかった
・三・一独立運動の直前、李承晩はウィルソン・パリ講和会議宛に請願書→委任統治を求める→突っ返された。李承晩の独断行動は他の運動家から反発を招き、別々の行動→分裂ぶりがアメリカ側に印象付けられてしまう。
・金奎植→パリ講和会議に働きかけ→成功せず。
・漢城政府、露領政府、上海政府→統合へ。フィラデルフィアで「韓人自由大会」(徐載弼ら)
・三・一運動→アメリカ人宣教師は驚く(日本は朝鮮人主導だとは思わず、アメリカ人宣教師が唆したと疑った)→日本当局の残酷な弾圧(ex.提岩里事件)→傍観できない(No Neutrality for Brutality ただし、あくまでも残虐性への批判であって、日本の朝鮮統治そのものを否定したわけではなかった)→アメリカ国内でも日本批判の声(ただし、アメリカ政府は日本の国内問題と理解→対立は避ける態度)
・長谷川好道総督の辞任→後任総督をめぐって原敬と山県有朋の間で綱引き:原は政務総監・山県伊三郎(山県有朋の養子)を後任総督とすることによって文官政治に道を開こうとした→しかし、陸軍の実力者である山県有朋は文官総督に反対→妥協案として海軍の斎藤実総督(政務総監には内務省出身の水野錬太郎)→武断統治終わり
・文化政治:物理的な暴力は相対的に抑制されたが、「一視同仁」のスローガンで同化政策。
→アメリカ側は基本的に満足し、朝鮮問題に対する無関心に戻った。
・しかし、独立運動は終わっておらず、満洲・シベリアで活発化→間島出兵
・1921年、ワシントン会議→李承晩たちの働きかけは失敗→コミンテルンに働きかけようとする独立運動家たちが活躍し始める→1922年、モスクワの「極東労働者大会」に呂運亨・金奎植らが出席。出席者のうち、日本代表団は民族主義を否定して社会主義の立場であるのに対し、朝鮮代表団には高麗共産党との関わりを持つ者が大半であっても独立優先→民族主義的な色彩が強かった。

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2009年7月26日 (日)

金鳳珍『東アジア「開明」知識人の思惟空間──鄭観応・福沢諭吉・兪吉濬の比較研究』

金鳳珍『東アジア「開明」知識人の思惟空間──鄭観応・福沢諭吉・兪吉濬の比較研究』(九州大学出版会、2004年)

・近代東アジアにおける「伝統と近代」の異種交配現象という視点から三人の代表的知識人を比較思想史的に検討する。
・欧米文明=普遍・正という保証はない→近代化を成功とみなすとしても欧米近代由来の特殊的な負も導入された→清・朝鮮の近代化の失敗には欧米に特殊的な負の導入への抵抗という側面があったことも認識する必要があるという問題意識→「失敗の中の成功」「成功の中の失敗」という様相を捉える。
・鄭観応(1858~1914):中国の条約港知識人。変法派・立憲派→辛亥革命とは対立。単純な東道西器論者ではなく、西道の導入→東道の啓発という考え方。
・福沢諭吉:欧米文明を時間軸で相対化→一国独立に向けて目的化・基準化・手段化。儒教批判→儒教の負の面だけでなく、正の側面=道徳主義まで否定してしまう行き過ぎがあったと指摘(道徳主義→近代文明の負の側面を批判する契機があったはずだという著者の問題意識)。儒教的普遍主義から自国中心主義へと転回したと指摘。(※福沢理解が一面的で私には違和感があった。福沢は欧米文明=唯一の文明と捉えていた、と言う。しかし、福沢は『文明論之概略』で、欧米とて乗り越えられ得るとはっきり書いているが、どうなんだろう?)
・兪吉濬:初期開化派と付き合い→日本・アメリカ留学→近代思想を学ぶ→甲午改革に参加→俄館播遷で日本に亡命→1907年、日本の保護国化された朝鮮に帰国→現実主義的な愛国啓蒙運動に参加。東道と西道との異種交配→欧米文明の正の側面を導入しつつ、儒教文明の負の側面を否定→普遍主義。
・三人の万国公法のあり方、国際政治観、近代国家観を比較検討→福沢は国権重視、対して鄭・兪の二人は普遍性重視という点を強調する。
・本書の問題意識は意欲的で興味深いとは思うけれど、論点の選び方や引用の組み立て方が恣意的という印象を拭えない。たとえば、福沢=天皇大権の主唱者という指摘は明らかにおかしいだろう。

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2009年7月 2日 (木)

月脚達彦『朝鮮開化思想とナショナリズム──近代朝鮮の形成』

月脚達彦『朝鮮開化思想とナショナリズム──近代朝鮮の形成』(東京大学出版会、2009年)

 19~20世紀朝鮮半島における近代化とナショナリズムをどのように考えるか。伝統的停滞からの脱却→自律的な“近代”志向=進歩性を開化派に見出した姜在彦の研究がある一方、それを批判する民衆史観もある。こうした議論の枠組みとは異なる視点を出そうとする本書は、“国民国家”創出の運動というコンテクストの中で開化思想を捉える。

 慶應義塾への留学経験があり、後に朝鮮の啓蒙思想家として著名となる兪吉濬は、独立した国家を一人一人が支えるという構想を持っていた点で福沢諭吉「一身独立して一国独立す」というテーゼを想起させる。日本・朝鮮ともに、西洋の先進性で文明開化を捉えて中華文明を相対化した点では共通するが、福沢にとって文明開化はあくまでも独立の手段に過ぎないのに対し、兪の場合には文明開化を新しい“中華”=価値的原理とみなす普遍主義的傾向があったという。開化思想を近代志向一辺倒で捉えるのではなく、そこに刻み込まれた儒教的色彩にも目配りされる。

 近代東アジアの国際秩序は中華文明圏における冊封体制とヨーロッパ起源の“万国公法”システムとのせめぎ合いとして捉えられるが、本書では外交儀礼のあり方に着目される。冊封体制の中国(清)、万国公法の日本及びヨーロッパ、両方と対等な関係を示すべく新しい皇帝像が打ち出される(1897年に大韓帝国成立)。それは同時に、対内的には“一君万民”という形で国民統合のシンボルとして作用することも期待された。“見える皇帝像”を打ち出す→皇帝の巡幸、万歳の唱和→国家的儀礼に民衆も参加→“国民”の創出、こうした本書の議論はとても興味深い(天皇の巡幸に注目した原武史の研究が想起される)。

 こうした上からの“国民”創出の動きに相補的な役割を果たしたとされる独立協会については、従来、その愚民観→反民衆的傾向が指摘されていたが、むしろ近代化→民衆を“国民”化すべき対象として捉えていたと考えることもできる。“忠君愛国”を規範として教化→“一君万民”→皇帝をシンボリックな媒介として民権と国権との両立が図られていた。ただし、日本による韓国併合に向けた動きが強まる中、“忠君”と“愛国”とが分離→三・一運動において“万歳”の唱和→この時点ですでに朝鮮/韓国としてのネイションは自明視されていた。

 朝鮮/韓国における近代化を考えるときどうしても“親日”の問題を避けることはできないが、本書では“愛国”概念は広く捉えられる(李完用たちにしても単純に売国奴と切って捨てても意味がない)。日韓協約によって日本の保護国にされる中、実力養成を目指して愛国啓蒙運動が展開された。このうち、立憲改新派は文明の不足を自覚→学ぶべきは学ぶという姿勢→近代化を自明視。他方、改新儒教派のうち、儒教の道義性こそ西洋文明を超克できる思想だという朴殷植のような主張もあった。東洋儒教の国(朝鮮・中国・日本)の連帯→中でも日本は富国強兵に成功→模範。いずれにせよ、以上のロジックだと日本の帝国主義を批判する視点が弱くなる。朝鮮/韓国自身が圧迫を受けつつも、弱肉強食という状況認識の中で実力養成として近代化志向→もし自分たちの近代化が達成されたら?→暗黙のうちに帝国主義肯定のロジックが潜んでいるという逆説も指摘され得る。他方で、こうした発想とは異なり、アナキズムの影響を受けた申采浩はロジックに矛盾があっても抗日を徹底させていた。

“植民地”的状況を“近代”という外的原理を内面化させる場として把握→“近代”そのものに内包された抑圧性に注目するのが本書の基本的な視座である。ある一つの観点(“抗日”や“民衆”など)を絶対化させる傾向とは距離を取ろうとしているところには好感を持った。

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2009年6月28日 (日)

姜在彦『近代朝鮮の思想』

姜在彦『近代朝鮮の思想』(姜在彦著作選Ⅴ、明石書店、1996年)

 本書、『朝鮮近代の変革運動』(著作選Ⅱ)、『朝鮮の開化思想』(著作選Ⅲ)、『朝鮮の攘夷と開化』(平凡社、1977年)、いずれも取り上げられたトピックスに異同があるだけで(重複も多い)、基本的な議論の構図は同じ。朝鮮社会の停滞性・他律的近代化という見解に対して、自律的近代化へと向かう内在的な契機があったことを掘り起こし、そうした朝鮮近代思想の水脈を通史的に整理する。大まかにポイントを箇条書きすると、
・伝統的儒学思想における朱子学一尊→閉鎖的思考→近代化へ向かう発想を抑圧
・そうした中でも実学思想には開化派との系譜的つながりがある
・開化派の中でも、①金弘集・金允植・魚允中などの穏健開化派:清との宗属関係を尊重、清の洋務運動をモデルに漸進的改革→守旧派とも妥協、「東道西器」論として儒教的伝統も固守。②金玉均・朴泳孝・徐光範などの急進開化派:清とは対決姿勢(華夷秩序からの離脱)、日本の明治維新をモデルに君権変法→守旧派と対決、儒教も仏教・キリスト教などと同列に置く
・他方で、朱子学一尊の立場から衛正斥邪思想
・開化派も衛正斥邪思想もエリート層による上からの動き→対して、民衆レベルから沸き起こった運動として東学、さらに甲午農民戦争
・こうした民衆運動を、守旧派は清・ロシアと結んで、開化派は日本と結んで弾圧→外国勢力による内政干渉を招く
・急進開化派による甲申事変(1884年)、穏健開化派による甲午改革(1896年)→ともに大衆的基盤がなかったために失敗
・1890年代後半になると、開化派は都市部の大衆と結びつき独立協会・万民共同会、さらに愛国啓蒙運動へ。衛正斥邪思想は農村部の大衆と結びつき義兵闘争へ(華夷的名分論からの脱却→近代的民族主義への契機)
・愛国啓蒙運動と義兵闘争、両者の動きが合流できなかったことに問題。旧型思想と新型思想との併存。
・三一運動(1919年)→民族自決・民主共和制の主張→近代的国民国家への志向性

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2009年6月25日 (木)

姜在彦『朝鮮の開化思想』

姜在彦『朝鮮の開化思想』(姜在彦著作選Ⅲ、明石書店、1996年)

 朝鮮近代思想史における自律的な近代化の努力を検討するという点で議論の基本的な構図は前に取り上げた『朝鮮近代の変革運動』(→こちら)と同じ。以下、メモ書き。

 まず、朝鮮儒学思想史における朱子学について検討、純一性を追究する閉鎖的思考が近代化に大きな制約を課していたことを指摘。そうした中でも実学思想がある程度柔軟な方向性を模索→守旧派から厳しい弾圧を受けたが、系譜的に19世紀の開化派につながっていく。

 少々脱線するが、初期開化派には、仏教僧の李東仁が福沢諭吉から直接話を聞いたり、兪吉濬が慶応義塾に留学したりと、福沢の啓蒙思想が一定の影響を及ぼしている。福沢は金玉均たちを支援したほか、門下生の井上角五郎をソウルに派遣して『漢城旬報』を創刊させ、下からの啓蒙活動のきっかけをつくった。福沢には「脱亜論」のイメージも強いが、これが書かれたのは甲申事変が失敗した翌年のこと。この短くて当時は目立たなかった論説が帝国主義肯定の理論として特筆大書され一人歩きを始めたのはむしろ戦後のことだと近年は指摘されている。

 急進開化派による甲申事変は失敗、金玉均・朴泳孝らは日本へ亡命。穏健開化派は日本のバックアップのもと甲午改革を進めるが、国王高宗がロシア大使館に逃げ込んだ事件をきっかけに失脚、金弘集らは殺され、金允植は流罪、他は日本へ亡命した。これらの動きが上からの近代化志向だったとすると、1890年代後半から徐載弼・尹致昊・李商在らを中心に創刊された『独立新聞』は初のハングルによる新聞→大衆への啓蒙活動を目指した。開化派が初めて政治結社として独立協会を結成、また街頭集会として万民共同会→大衆運動と結び付こうとしたが、都市部中心という限界。弾圧を受けて挫折する。なお、朝鮮近代思想史における新聞の役割については姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』(平凡社、1977年)でも取り上げられている。

 蛇足ながら、徐載弼は甲申事変で国外亡命した後はアメリカで苦学して帰化、Philip Jaisohnと名乗っていた。尹致昊は(本書では触れられていないが)後に親日派として朝鮮貴族に列せられ、伊東致昊と名乗り、1945年に糾弾されて自殺。それぞれ複雑な人生の転変を経ているところに興味がひかれる。

 独立協会の活動に見られる国民国家を目指す考え方はさらに広まっていき、学校教育や民族産業の近代化→実力養成=自強運動が新民会などによって展開される。こうした動きは、日本による保護国化・植民地化=他律的近代化に対して、朝鮮社会内部からの自律的近代化の努力と位置付けられる。

 近代的な開化思想が民族的立場に弱い(一部は親日派に転落)のに対し、保守的な衛正斥邪思想は民族的立場としての強さはあっても抵抗ばかりで具体性がない、こうした乖離をどのように考えたらいいのかという著者の問題意識が随所で垣間見られる。衛正斥邪思想は中華思想による尊華の観念論(朝鮮民族としての独自性は視野に入らない)だけであるのに対し、朝鮮の歴史的伝統を踏まえた国学研究→近代的民族主義という芽生えは開化派の中から現われている点に着目される。朝鮮語研究の周時経や歴史家の申采浩らが挙げられる。

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2009年6月24日 (水)

吉村慎太郎『イラン・イスラーム体制とは何か』

吉村慎太郎『イラン・イスラーム体制とは何か』(書肆心水、2005年)

 “原理主義”“宗教復興”といった観点から捉えられがちなイラン現代政治だが、本書は、イスラーム法学者による統治=“ヴェラーヤテ・ファギー体制”内においても多様な勢力の思惑が交錯しながら展開されてきた政治動向を分析する。以下、メモ書き。

 イラン近現代史における伝統派と近代派とのせめぎ合いは、カージャール朝の時の立憲革命(1906~1911年)以来続いていた。パフレヴィー朝はアメリカからのテコ入れを受けながら“上からの近代化”を推進、農地改革によって自作農創出→政権基盤化を目指したが、かえって彼らの生活は困窮してしまった。急速な近代化に対する伝統派からの反発ばかりでなく、他ならぬ近代化によって生み出された中間階層までも離反。伝統派と近代派の両方から遊離したシャー体制は構造的に脆弱な体質をはらむ。シャー体制の強権的な政治手法への不満は伝統派から左翼まで広範にわたったが、シャー体制側と反体制運動側とのパワーバランスが逆転→革命→こうした動きをまとめ上げる大衆動員のシンボルとなったのがホメイニである。

 パフレヴィー朝は崩壊したが、革命後の政治ヴィジョンが明確だったわけではない。革命裁判所・革命委員会・革命防衛隊など組織的な中央集権化を逸早く成し遂げたホメイニ派がイスラーム化を推進、王党派残存勢力の排除ばかりでなく革命勢力内反ホメイニ派の粛清も同時並行して行なわれ、“ヴェラーヤテ・ファギー体制”が確立された。

 イラン・イラク戦争(1980~1988年)における経済政策をめぐって保守派と急進派との対立が先鋭化する。保守派はシャリーアを価値規範とし、私有財産の不可侵→自由な経済活動を主張、戦争及び経済統制によって支持基盤のバザール商人層が圧迫を受けていたため、戦争の長期化には消極的。ハメネイ(当時大統領、現最高指導者)が代表格。対して急進派は、被抑圧者の救済や社会的公平の実現を目指して経済の国家統制を主張。戦争継続を訴えていた点では強硬だが、他方で保守派とは異なり文化的次元では寛容な態度をとる。当時の首相で今回の大統領選挙では改革派から立候補したムサビもこのグループにいた。保守派と急進派との中間には原理原則よりも経済優先の現実派が位置し、ラフサンジャニ(当時国会議長、後に大統領)が代表格。戦争の長期化、芳しくない戦況、経済的低迷により国民の間には厭戦気分が広がっており、保守派と現実派とが手を組んでホメイニに働きかけ、急進派を押し切って停戦に持ち込んだ。

 1989年にはホメイニが死去。ホメイニにはサルマン・ラシュディ事件などもあって頑固そうなイメージがあるが、国内政治においてはむしろ柔軟な判断力を持っていたらしい。ホメイニの立場性さえ尊重していれば体制内において多元性を容認する指導力を発揮。ホメイニをバランサーとする形で保守派・現実派・急進派は共存していた。それは、宗教指導者であると同時に革命指導者でもあるというホメイニの二重にシンボリックな存在感に由来するシステムだったと言えるが、彼の死去により、この“ヴェラーヤテ・ファギー体制”は大きく変質、党派性による権力闘争が濃厚になってくる。

 ポスト・ホメイニ体制は、保守派(ハメネイ最高指導者)と現実派(ラフサンジャニ大統領)が同盟を組んで急進派を排除する形で成立した。しかし、社会経済的状況の悪化、また対外関係を徐々に改善→西側文化の流入→保守派から“文化侵略”という非難が沸き起こる(文化イスラーム指導相だったハタミが非難の矢面に立たされ、辞任)→保守派と現実派の同盟に亀裂が入る。

 1997年、ハタミが大統領に当選。イランの人口構成上多数を占める青年層がハタミ支持に回った結果である。ハタミ支持勢力は改革派と言われるが、反保守派同盟として現実派・急進派を含み、主張には大きな幅があった。保守派が西欧に対する強硬姿勢を強めたため、反保守派の立場から急進派はむしろ文化的寛容という点に重きを置いてハタミ支持に回った。しかしながら、イラン政界における保守派の存在感は大きく、ハタミもフリーハンドで政治運営ができるわけではなかった。かつての支持層に不満・幻滅が目立つようになる。2005年の大統領選挙では、決選投票で現実派の元大統領ラフサンジャニ対保守派のアフマディネジャドという構図→有権者にはラフサンジャニの金権体質への拒否感があったため、青年層・貧困層の票はアフマディネジャドに流れた。

 イラン現代政治を彩る人物それぞれの軌跡が見えてくるので、今回の大統領選挙をめぐる混乱の背景を知る上で本書は有益だ。過去の大統領選挙をみると、改革派のハタミ、保守強硬派のアフマディネジャド、いずれも本命候補を破ったサプライズ。イランには選挙によって政権交代を実現できるだけの社会的資質が本来備わっていたと言えるが、それだけに今回の不正選挙疑惑、そして国民的反発が際立つ。

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2009年6月22日 (月)

姜在彦『朝鮮近代の変革運動』

姜在彦『朝鮮近代の変革運動』(姜在彦著作選Ⅱ、明石書店、1996年)

 日本における初期の朝鮮史研究では“他律性”史観が主流であったとされる。それに対して本書では、朝鮮にも内発的な近代化の契機があったことを掘り起こそうという問題意識をもとに朝鮮近代思想の流れが通史的に描かれる。

 まず、実学思想のうち清経由で西洋文明に触れていた北学派が取り上げられる。朴趾源ら北学派は開国主義的な立場をとり、虚学の否定、能力本位の人材登用などの制度改革を主張したが、朱子学的名分論に固執する守旧派とのイデオロギー闘争に絡め取られ、結局つぶされてしまう。ただし、北学派の系譜は19世紀の開化派に受け継がれた(→『西洋と朝鮮』を参照)。

 朴趾源の孫である朴珪寿の門下生から開化派が台頭するが、とりわけ有名なのは金玉均であろう。金玉均については“親日派”とみなす向きもあるが、対して日本から学ぶべきものは是々非々で学ぶとした主体性に注目される。近代化政策を進める上で両班階級が障害になっているという問題意識から甲申事変(1884年)が敢行されたが、失敗。社会経済的基盤が未成熟であったという内的条件、清の干渉(袁世凱が開化派を軍事制圧した)という外的条件が失敗の原因として指摘される。

 なお、儒教が正統とされて仏教は下に見られていた中、金玉均は仏教に関心を持っていたらしい。開化派には、仏教僧・李東仁(東本願寺釜山別院とつながりがあり、日本事情を熟知)、中国語通訳の呉慶錫、医者の劉大致らが大きな影響を与えていた。李朝社会において通訳や医者などの技術者は中人(両班と常民との中間階層)、仏教僧にいたっては賤民視されており、いずれも朱子学的世界観に染まった両班とは異なってイデオロギー・フリーの立場にあったことは興味深い。両班の開化派の中でも、金玉均・朴泳孝ら急進派は日本の明治維新をモデルとした変法的立場(従って、守旧派とは仇敵同士)、金允植ら穏健派は清の洋務運動をモデルとした改良的立場(従って、守旧派とも妥協可能)という二つの流れがあった。

 金玉均らの甲申事変が先鋭化した一部知識階層による上からの改革志向だったとするなら、対して下からの改革志向の民衆運動として甲午農民戦争や活貧党も取り上げられる。

 日清戦争後、事実上日本の保護国化されてしまった状況下、知識階層では二つの思想的立場が鮮明化した。第一に、李恒老→崔益鉉を源流とする衛正斥邪思想→抗日義兵闘争という立場。第二に、朴珪寿→金玉均・金允植ら開化派→愛国啓蒙運動という立場。両者とも「内修→自強」という点では同じロジックをとるのだが、「内修」の理解が対極的であった。両者が一体化できなかったところに著者は近代朝鮮の悲劇を見出す(なお、前者を意地の感覚、後者を近代化=手段としての西欧化と捉えるなら、福沢諭吉は両者を合わせ持っていたという趣旨のことを、以前、李光洙の話題に絡めてこちらに書いた)。

 愛国啓蒙運動の中では1907年に安昌浩によって旗揚げされた新民会が検討される。政治路線を看板からはずし、国権回復に向けた実力養成として学校教育や民族産業の近代化といった合法的活動に焦点が合わされた。さらに1919年の三・一運動では、この実力養成から民族自決という方向へと移っていく(この際、単なる反日ではなく、三和主義が主張されていたという指摘が目を引いた。三和主義とは西欧列強から身を守るため、独立した韓国・日本・中国が互いに連携しようという考え方で、かつて金玉均が主張していた)。そして、日本による弾圧から逃げて成立した上海臨時政府において、衛正斥邪思想の目指す復辟でもなく、開化派の主張した立憲君主制でもなく、民主共和制による国民国家が志向されることになる。

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2009年6月21日 (日)

姜在彦『西洋と朝鮮──異文化の出会いと格闘の歴史』

姜在彦『西洋と朝鮮──異文化の出会いと格闘の歴史』(朝日選書、2008年)

 19世紀、“ウェスタン・インパクト”に等しくさらされた日本と朝鮮、片やいち早く近代化に成功し、片やその失敗の末に日本の植民地へと転落してしまった。明暗を分けた理由は何か。著者は、日本が江戸幕府の頃から洋学政策を採用して人材育成の蓄積があったのに対し、朝鮮は儒教に基づく中華思想・実学軽視のため西洋文明受容を進められなかった点に一つの要因を求める。

 朝鮮にも西欧文明=西学を摂取する可能性はあった。17世紀の時点では北京と往来した使節団とイエズス会士との個別的な出会いという程度であったが、18世紀以降、西学受容を本格的に進めるべきだとする実学思想が現われ始める。

 朝鮮では儒教が正統の学問とされていたが、第一に文治主義による実学軽視、第二に中華思想による外来文明否認がネックとなっていた。こうした傾向に対し、価値観においてキリスト教に対する儒教優位、科学において西洋文明優位という形で正統性の次元と具体実用の次元とを切り分けて西学受容を促す発想が実学思想にあった(「東道西器」→「和魂洋才」や「中体西用」と相似)。こうした思想傾向としては、イエズス会士による漢訳西洋書の研究を通して制度改革の必要を主張した李瀷ら星湖学派と、尊明排清の風潮(朱子学における“華夷の別”として夷狄蔑視→朝鮮は“小中華”という自覚)に対して、たとえ夷狄である清(満洲人)からでも実用的なものは学ぶべきだと主張した朴趾源ら北学派という二つの潮流があった。

 しかしながら、保守派はキリスト教という宗教的次元と科学の次元とを十把ひとからげにして容赦なく弾圧、実学思想→西学受容の芽はつぶされてしまった。19世紀、天主教弾圧を口実にフランス軍・アメリカ軍が来攻、朝鮮側は“衛正斥邪”思想という形で態度をますます硬化させた。西欧列強や日本の圧倒的な武力を前にして開国へのイニシアティブを発揮したのは朴趾源の孫である朴珪寿であった。彼の門下生から金玉均、朴泳孝、金允植、兪吉濬など後に開化派と呼ばれる人材が現われたが、彼らもまた朝鮮宮廷で頻繁に繰り返されてきた党争の中で翻弄されてしまう。

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2009年6月20日 (土)

宮崎学『ヤクザと日本──近代の無頼』『近代ヤクザ肯定論──山口組の90年』

宮崎学『ヤクザと日本──近代の無頼』(ちくま新書、2008年)、『近代ヤクザ肯定論──山口組の90年』(筑摩書房、2007年)

 両著ともヤクザという着眼点を通して近代日本社会の変容を正面から論じている。『ヤクザと日本』は理論的な枠組みを示し、『近代ヤクザ肯定論』はその具体例として山口組を取り上げている。著者自身がヤクザの家に生まれ、かつアウトロー的な生き方をしてきたという事情を踏まえつつも、分析の視座はアカデミックに着実。単なるヤクザ論という以前に、日本にとっての“近代”とは何かを考える上で逸することのできない説得力の重さと視野の奥行きを持っている。

 いつの時代でもどこの国でも正統的な統治のシステムから疎外された残余が必ず現われる。明治以降、近代的な法体系が確立されつつも、そこから排除された周縁社会・下層社会、具体的には貧困者、被差別部落、在日等々、こういった人々を受け入れるアジールとしての役割を果たしたのが近代ヤクザであった(全学連の唐牛健太郎や島成郎を山口組の田岡一雄が田中清玄のルートで受け入れたというのは初めて知った)。善悪是非という以前に、とにかく他に生きていく道のない者たちが寄り集まった組織。谷川康太郎(康東華)の「ヤクザとは哀愁の共同体である」という表現が印象的だ。

 人的関係を通して仕切りをするのがヤクザの役割。国家権力とは独立した社会的権力として認知され、周縁社会・下層社会と地域社会・職域社会との仲裁者として実力を持った。地域社会に根を張ったヤクザの実力的な凄みは場合によっては下からの反抗を取りまとめる可能性を秘めていたため、国家権力はその取り込みを図る(具体的には、政友会系の大日本国粋会や民政党系の大和民労会)。

 そうしたヤクザも、日本社会における資本主義の進展、国家の中央集権化傾向が強まる中、とりわけ戦後になって変化を迫られる。地域下層社会に根を張って人的に濃密な関係を持っているのがヤクザの顔役としての強みであった。ところが、港湾作業や工事・建築現場の機械化、さらには経営の論理によって資金源として労働力を捉える発想を持つようになって、そうした人的な関係がドライなものとなり、濃密な属人的関係だからこそ持っていた基盤が崩れていく。風俗産業や賭博に裏社会と表社会の垣根がなくなったこと(ビジネスの世界自体がバクチ的になったため、あえて裏社会として賭博をする必要がなくなった)、ドロップアウトした青年の受け皿がなくなったことなどもそうした変容の問題として指摘される(このあたりは、先日取り上げた河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』でも指摘されていた→こちら)。

 “近代”という時代現象は、資本の論理にしても、権力の論理にしても、社会のあらゆる領野を平面化していく運動性を持っている。しかし、表社会は必ず排除のロジックをはらみ、従って裏社会にもそれが生まれざるを得ない存在理由があったことを考えると、いわゆる“風通しの良さ”が単純に健全な社会と言えるのかどうか、疑問符をつけざるを得ない。

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2009年6月18日 (木)

芹沢一也『〈法〉から解放される権力──犯罪、狂気、貧困、そして大正デモクラシー』

芹沢一也『〈法〉から解放される権力──犯罪、狂気、貧困、そして大正デモクラシー』(新曜社、2001年)

 ミシェル・フーコー的な権力論の視座を通して大正デモクラシーの時代風潮を読み解こうとした刺激的な論考である。本書は、統治の対象としての民衆が可視化、直接権力の眼差しにさらされ始めた状況として“大正的な社会”を捉える。

 吉野作造の民本主義と牧野英一の新派刑法学とが“法からの解放”という点で実は同じロジックをとっていたという指摘に興味が引かれた。吉野の民本主義は、民衆の台頭という社会状況を踏まえ、明治憲法に規定された天皇主権を“カッコに括る”(つまり、主権の所在を問わない)ことにより、民衆の意向を汲み上げる政治実践を可能とする理論的基礎を示した。こうした吉野(及び美濃部達吉の天皇機関説)の“カッコ入れ”のロジックに対し、明治憲法を愚直に読んで天皇主権説を主張した上杉慎吉が比較される。

 一方、牧野は刑法の硬直性に批判を向けていた。旧来的な刑法では個々の犯罪と法に規定された刑罰とが一対一で対応され、裁判官はその機械的な適用が役割となる。事後的に罰するという刑罰観は応報に力点が置かれているわけだが、対して牧野は社会防衛の必要を強調した。犯罪を犯し得る人間類型の措定→将来の危険可能性・再犯可能性を“悪性”として把握→振舞いの結果としての犯罪ではなく、人間の内的な主観に矛先を向けて予防するという考え方である。“悪性”を治癒するための手段として刑罰を捉える。このように牧野は、秩序維持のための予防として法を柔軟に運用すべきという観点から論陣を張った。つまり、罪刑法定主義を“カッコに括る”、言い換えると、法として明文化された言説から離れた次元に立ち、個々の事情に応じて裁量で政策対応すべきというロジックをとった。

 “悪性”の原因が“狂気”にあるとすれば、犯罪者を治癒の対象として捉え、精神医学の領域に踏み込むことになる。犯罪の原因を貧困に求めれば社会政策の領域につながり、本書では方面委員制度について検討される。このように犯罪撲滅の手段としての刑罰、“狂気”の治癒としての精神医学、貧困解消のための社会政策と並べたコンテクストの中で考えると、吉野の民本主義についても民衆の要求を政治へ汲み上げることによって急進的な革命を予防する発想が込められたものとして理解することもできる。

 以上のように権力の視野が社会生活に浸透していくことは、一面において福利の向上=社会の進歩という側面をあわせ持つにしても、同時に統治のロジックによる操作可能性が人々の生活の内在的なレベルにまで広がったとも言える。あくまでも一つの視点ではあるが、そうした現代社会にもつながる問題意識を大正という時代状況から読み取った論考として興味深い。

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2009年6月16日 (火)

梶山季之『族譜・李朝残影』

梶山季之『族譜・李朝残影』(岩波現代文庫、2007年)

 梶山季之(1930~1975年)といえば週刊誌記者、いわゆる“トップ屋”のはしり(その活躍は高橋呉郎『週刊誌風雲録』[文春新書、2006年]で読んだ覚えがある)、あるいは守備範囲の広い通俗作家としてもよく知られている。他方で、父親が朝鮮総督府に勤務していた関係でソウル出身という生い立ちから、植民地期の朝鮮を題材とした小説もいくつか残している。

 「族譜」のテーマは創氏改名である。ご先祖様に申し訳が立たないから勘弁して欲しいと懇願する名門当主の温厚な紳士と、それにもかかわらず創氏改名を強制せよという役所の論理。朝鮮総督府勤務の芸術家肌の青年が両者の間で板ばさみになってしまった葛藤が描かれている。

 いくつか気付いた点を並べると、第一に、青年の上司は薄汚い出世主義者として描かれているが、彼らの背後からは、文化的相違を無視した安易な政策決定とそれを盲目的に遂行しようとする官僚制の論理がうかがえる。第二に、青年も最初は「朝鮮人差別を解消できるやりがいのある仕事だ」と考えていた点が目につく。民族的な差異は差別につながる→差別解消のための恩恵としての同化→創氏改名という建前が掲げられていた。主観的な善意が必ずしも相手への善意にはつながらないというすれ違いについては、以前、喜田貞吉の日鮮同祖論に絡めて触れたことがある(→こちら)。第三に、差異=民族差別解消という発想の背景に日本人側の身勝手があるのはもちろんだが、それと同時に、国民国家の同質性というフランス革命以来の近代的イデオロギーが一見日本特殊にも思える装いの下に潜んで機能していた点も見逃すことはできない。

 「李朝残影」は、朝鮮の伝統舞踊の踊り手である妓生の女性と、“滅び行く朝鮮の美”を何とか絵に残したいと願う日本人青年画家との交流を描く。日本人に強い反感を持っていた彼女が青年の熱意に徐々に心を開きつつあったまさにそのとき、提岩里事件(三一運動の際に起った日本軍による住民虐殺事件)の過去が影を落としてしまうのは何とも言えず悲しい。個人としては良心的であろうとしても、制度的、社会的、そして民族的なしがらみからそれがなかなか許されないという葛藤は「族譜」と共通するテーマである。

 そのしがらみというのも、内面的な良心に対する外的な強制力という構図に仕立て上げてすませることはできない。植民地での日常生活が延々と続く中、朝鮮人に対する日本人優位という立場性が自然に皮膚感覚に馴染んでしまい、それをふとしたきっかけで自覚したときの気まずさ。「性欲のある風景」は中学生のときに迎えた1945年8月15日の思い出をつづっている。戦時下の緊張感と青春期の血の騒ぎとがないまぜになった切迫した感傷を捉え返す筆致、そうした筆先が、優等生だった朝鮮人同級生との語らいで梶山自身の中で微妙に動く心のざわめきをもすくい取っていく。

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2009年6月14日 (日)

岩田重則『〈いのち〉をめぐる近代史──堕胎から人工妊娠中絶へ』

岩田重則『〈いのち〉をめぐる近代史──堕胎から人工妊娠中絶へ』(吉川弘文館、2009年)

 “近代”なるものをどのように捉えるのかは難しいテーマだが、本書は堕胎に焦点を合わせている。1900年代までの日本は、前近代的な性関係や堕胎がとりわけ地方の生活習慣レベルで残存している一方で、資本主義的生産システムのしわ寄せとしての貧困・生活苦、近代的法体系における堕胎罪にも取り囲まれ、いわば“前近代”と“近代”とが並存した状況だったという。両者の相克により摘発されたり、堕胎手術の失敗で死亡したりと悲惨なケースのあったことが当時の新聞雑誌等の史料の丹念な調査を通して浮き彫りにされる。1920年代以降から専門的な産科医による人工中絶手術が増加、また“職業婦人”としての近代産婆の登場によっても、生活習慣レベルでの“生”や“性”の捉え方が変化しつつあったことが窺われる。資本主義発展段階説における講座派への疑問という問題意識は古くさいが、堕胎というテーマから“近代”を考える視点は興味深く読んだ。

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2009年6月 8日 (月)

李光洙について

 李光洙(イ・グァンス、1892~1950年)は朝鮮/韓国近代文学の父と位置付けられているが、他方で“親日派”として批判も受け、その毀誉褒貶に満ちた生涯は政治的にも思想史的にも評価の難しい複雑さをはらんでいる。代表作『無情』には自我確立の心理的葛藤が描かれており、韓国における教養小説の先駆的作品として現在でも読みつがれているという。立場的には夏目漱石とも比較できるだろうか。

 波田野節子『李光洙・『無情』の研究──韓国啓蒙文学の光と影』(白帝社、2008年)はこの『無情』の行間から李自身の人生や思想、さらには民族的葛藤を丁寧に読み込んでいく。若き日の日本留学中に読書体験から得られた思想的・文学的影響が分析されており、とりわけ明治期日本でも流行していた社会進化論へのこだわりが指摘されているのは興味深い。

 李光洙は1918年の三・一運動に関わり、その後、上海の大韓民国臨時政府に参加した。木村幹「平和主義から親日派へ──李光洙・朱耀翰に見る日本統治下の独立運動と親日派」『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識──朝貢国から国民国家へ』ミネルヴァ書房、2000年)によると、この頃の李は安昌浩の影響で武力闘争路線を支持していたという。しかし、現実の壁は険しい。ウィルソンの14か条による民族自決に期待を寄せたものの、独立は認められなかった。トルストイやガンディーの思想に共鳴し、またアイルランドが独立運動の一環としてストライキを行なっていたことを知り、さらには日本の弾圧が厳しさを増すであろうことも考えられ、李は武力闘争路線を転換した。それは単に消極的な姿勢というよりも、日本の力による蛮行に対して文化的理念を示すことが重要だと考えたからである。ガンディーがインドで合法的活動を展開していることに意を強くした李は1922年3月に帰国、合法的民族啓蒙運動に乗り出す。その際に「民族改造論」を発表した。

 しかし、南次郎朝鮮総督時代の日本は同化政策を強化し、李も逮捕されてしまった。木村書によると、妥協を余儀なくされた李は、“民族”と“改造”のうち後者の“改造”を優先させたのだという。彼はもちろん民族主義者ではあったが、日本の圧倒的な力を前にして敗れ、独立を失ってしまった悲惨な現実をどのように考えるのか。朝鮮社会は遅れていると否定的に捉えていた彼にとって(たとえば儒学を猛烈に批判していた)、第一に目指すべきは“改造”であった。本来であれば、西洋列強と同等の“近代”が目標ではあるが、日本の支配下にある現状では次善の目標として“日本”が選択された。実力養成のために後進的な朝鮮社会の“改造”というロジックは変わらないが、その目標が“西欧近代”から“日本経由の近代”にすりかわったと言える。日本への協力を積極的に勧奨した李は、解放後、“親日派”として指弾されたが(1940年には創氏改名で香山光郎と名乗り、日本語作品も発表していた)、彼は「徴用も徴兵も逃れられないならばこれを利用するのが得策だ、徴用で生産技術を、徴兵で軍事訓練を学べば、それだけ我が民族の実力も大きくなる」と考えていたらしい。

 波田野書では李光洙の思想における社会進化論の影響が指摘されているが、優勝劣敗の法則→敗者としての朝鮮→実力養成の必要、という形で“近代化”というテーマにつながる。また、李は高山樗牛や木村鷹太郎を読んで日本主義的生命主義にも触れており、本能的な生命力の発露として個人における自我意識や民族意識を捉える発想もあったらしい。とにかく生き残ることが重要→そのためにどんな衣をまとうかは副次的な問題→その衣が“西洋近代”でも“日本経由の近代”でも構わない、という形で理解してみると、李の思想において生命レベルで捉えられたナショナリズムといわゆる“親日活動”とはそれなりに整合性を持っていたと言えるのだろうか。

 韓国におけるナショナリズムを考えてみると、①観念的であっても民族としての志操を曲げない、②自民族の後進性を批判して実力養成のため“近代” (李光洙たちは“日本経由の近代”)を目指す、以上二つの流れが見て取れる。戦後韓国で行なわれた“親日派”狩りは前者の立場で後者の立場を糾弾するという形を取った。

 ところで、日本において近代化の基本的ロジックを用意した福沢諭吉は、一見したところ矛盾しそうなこれら二つの原理を合わせ持っていた(だからこそ、どちらに力点を置くかに応じて福沢評価は多面的な複雑さを示してしまうのだが)。前者は「瘠我慢の説」「丁丑公論」(→こちらを参照)に、後者は『文明論之概略』(→こちらを参照)に見られる。『文明論之概略』では野蛮→半開→文明という図式が示され、当面は文明=西洋ではあるが、この立場は逆転し得る、その意味で永久運動だとするのが福沢の基本的な文明観であった。李光洙もこの図式の中で“日本経由の近代”を差し当たっての目標としていたと考えれば、彼の民族主義と“親日活動”とは矛盾しないのではないか(福沢にしても欧化主義者として当時は批判を受けたが、李光洙にとって不幸だったのは日本は韓国にあまりにも近すぎた)。

 こうした福沢的文明観に対して、韓国では①と②の両者の立場を互いに排斥しあうものとして捉えられ、そのせめぎあいの中で李光洙は翻弄されてしまった。この背景には日本による植民地化によって “日本経由の近代化”以外の現実的選択肢を持ち得なかったという不幸があった。

 なお、李光洙は朝鮮戦争の最中に行方不明となり、しばらく没年不詳となっていたが、1950年に北朝鮮軍に捕らえられて連行される途中、凍傷がもとで死去したことが後に判明している。

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2009年6月 6日 (土)

柳田國男『先祖の話』

柳田國男『先祖の話』(『柳田國男全集13』ちくま文庫、1990年、所収)

 柳田國男『先祖の話』は昭和20年10月に刊行されたが、執筆されたのは4月から5月にかけてのことである。東京は空襲で灰燼に帰し、大陸へ、あるいは南方へ出征した兵士たちははるか異郷で屍をさらす、そういったおびただしい死が日常に充満する異様な時期であった。空襲警報に日々おびやかされる中、柳田は自身の摑み得た日本人の死生観、霊魂観を本書に凝縮させている。

 私はこの本を初めて読んだときから「柿の葉」という言葉が印象に残っていた。いわゆる無縁仏への供物は器でなく柿の葉に載せるという差別待遇があったらしい。「以前は遠い田舎では子のない老女などを罵って、柿の葉めがといったという話がある。今ならもうそのような残酷な言葉を口にする者もあるまいが、当の本人だけはまだ時々はこれを思い出すかもしれない。私の先祖の話をしてみたくなった動機も、一つにはこういう境涯にある者の心寂しさを、由ないことだと思うからである」(104頁)。

 柳田の霊魂観の第一の特徴として“祖霊の融合化”が挙げられる。祀るとは、その人のことをいつまでも覚え続けていくことである。具体的な個人、有名になった英雄を神様として祀ることも大切かもしれないが、あまたの無名の人々にはどのように向き合ったらよいのか。時間が経つと、見知らぬ個々具体的な人々への追憶は薄れていくが、見方を変えれば「一定の年月が過ぎると、祖霊は個性を棄てて融合して一体になるものと認められていたのである」(133頁)。“祖霊の融合単一化”という形で、ともすれば取りこぼされかねない人々が出てくるのをできる限り防ごう、そうしたところに柳田は日本人の霊魂観の意義を見出そうとしている。

「古いということに対しては、もともと我々はごく漠然とした知識しか持たなかったのである。それをだんだんと今いる者の父母とか祖父母とか、いたって近い身のまわりへ引き寄せて、我から進んで家の寿命を切り詰めたことは、過去はさて置いて、未来のためにも損なことであった。遠い先祖の降りて来て祭られることが、同時にまた今の我々の永くこの国土に去来し得ることを、推理せしめる因縁ともなっていたからである。それよりも大きな障りになったのは人の名をさすこと、家にすぐれた大事な人があって、その事蹟の永く伝わるのはよいことであり、子孫の励ましにもなることは確かだが、そればかりがあまりに鮮やかに拝み祭られる結果は、幾多の蔭の霊を、無縁とも柿の葉とも言わるるようなものに、落すことになるのであった。活きている間は一体となって働き、泣くにも喜ぶにも常にその一部であった者が引き離されて、歴史はいつも寂しい個人の霊のみを作ることになっている。…何にもせよこうして永い世に名を残すということが、一方には無名の幾億という同胞の霊を、深い埋没の底に置く結果になっていることだけは考えてみなければならない。元からそうであったということは言われぬのである。我々の先祖祭は、一度はかつてこの問題をあらましは解決していた。家が断絶して祭る人のない霊を作り出すことだけは、めいめいの力では防がれなかったが、家さえ立って行けば千年続いても、忘れられてしまうというものはない。少なくともそう信ずることがもとはできたのである。…国が三千年もそれ以上も続いているということは、国民に子孫が絶えないことを意味する。それがただわずかな記憶の限りをもって、先祖を祭っていてよいとなれば、民族の縦の統一というものは心細くならざるを得ない。」(148~149頁)

「淋しいわずかな人の集合であればあるだけに、時の古今にわたった縦の団結ということが考えられなければならぬ。」(207頁)

 第二に、日本という国土における“顕幽二界”という特徴も挙げられる。つまり、生者の世界と死者の世界とは近くにあって行き来が可能だという世界観である。柳田の脳裡にあった“顕幽二界”という考え方には平田篤胤流国学の影響も指摘されている(余談だが、平田にしても柳田にしても、今風に言うなら結構オカルト好きだ)。戦争中、「七生報国」という言葉を胸に抱いて死地に赴く場面が見られた。死への抵抗感・緊張感はもちろん余人には窺い知れぬほど強いものだったろうが、柳田は、死んでもこの日本に戻ってこられるという世界観があったからその緊張感も比較的軽減できたのではないか、と言う。「人生は時あって四苦八苦の衢(ちまた)であるけれども、それを畏れて我々が皆他の世界に往ってしまっては、次の明朗なる社会を期するの途はないのである。我々がこれを乗り越えていつまでも、生まれ直して来ようと念ずるのは正しいと思う。しかも先祖代々くりかえして、同じ一つの国に奉仕し得られるものと、信ずることのできたというのは、特に我々にとっては幸福なことであった」(206頁)。ここで言う「他の世界」とは、極楽浄土や天国といったこの世から隔絶したあの世に憧憬を抱く他界観を指す。

「私がこの本の中で力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである。」(61頁)

 こうした考え方が良いか悪いかは軽々には断定できない。ただし、国家への強制的奉仕という言い方ではまとめられない、もっと感性的な深層に根ざしたものを見つめようとしている点は汲み取るべきだろう。橋川文三は以上の柳田の思想に、時間的な連続の中に個人を位置付ける感覚としての“純粋な”保守主義を見出し、エドマンド・バークと比較している(橋川文三「保守主義と転向」「日本保守主義の体験と思想」、『柳田国男論集成』未来社、2002年)。なお、過去・現在・未来の共同事業として国家を捉えるバークの保守主義思想については以前こちらに引用したことがある。

 ここで強調しておかねばならないのは、柳田はこうした自身の態度を他人に強制するつもりはないとしていることだ。彼も含めて以上に見られる世界観に安心を覚えたということ、このこと自体は打ち消しがたい一つの事実ではあるが、この事実を踏まえてどのように考えるかは各人に委ねられる。

「日本民俗学の提供せんとするものは結論ではない。人を誤ったる速断に陥れないように、できる限り確実なる予備知識を、集めて保存しておきたいというだけである。歴史の経験というものは、むしろ失敗の側において印象の特に痛切なるものが多い。従ってつまびらかにその顛末を知るということが、いよいよ復古を不利不得策とするような推論を、誘導することにならぬとは限らない。しかしそのために強いて現実に眼を掩い、ないしは最初からこれを見くびってかかり、ただ外国の事例などに準拠せんとしたのが、今まで一つとして成功していないことも、また我々は体験しているのである。今度という今度は十分に確実な、またしても反動の犠牲となってしまわぬような、民族の自然と最もよく調和した、新たな社会組織が考え出されなければならぬ。それにはある期間の混乱も忍耐するの他はないであろうが、そういっているうちにも、捜さずにはすまされないいろいろの参考資料が、消えたり散らばったりするおそれはあるのである。力微なりといえども我々の学問は、こういう際にこそ出て大いに働くべきで、空しく詠嘆をもってこの貴重なる過渡期を、見送っていることはできないのである。」(10~11頁)

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2009年6月 5日 (金)

ジョージ・H・カー『裏切られた台湾』

ジョージ・H・カー(蕭成美訳、川平朝清監修)『裏切られた台湾』(同時代社、2006年)

 原著 Formosa Betrayedは1965年に刊行されている。ジョージ・H・カー(George H. Kerr、1911~1992年)は1937~40年まで(旧制)台北高等学校で教鞭を取っていたことがあり、戦争中は台湾通の情報将校としてアメリカ海軍に勤務、戦後は在台北の副領事となった。本書は第二次世界大戦から戦後の国民党政権に至る時期の記録だが、国民党による苛酷な支配体制に対する口調は厳しく、とりわけ二・二八事件に関しては台北市内で国民党軍による虐殺をじかに目撃、本書でもその描写が生々しい。結局、国民党からEnemy No.2とみなされる栄誉(?)に浴し、アメリカに帰国せざるを得なくなった。

 ちなみに、Enemy No.1は本書に序文を寄せている政治学者ロバート・スカラピーノ(Robert Scalapino)らしい。アメリカ上院外交委員会に提出されたアジア情勢分析「コンロン報告」で中国問題の執筆を担当、その内容が国民党政権に批判的だったからだ。スカラピーノは日本政治に関しても先駆的な研究者として有名で、一昔前までは政治学の研究書の参考文献によく名前を見かけた。

 また、本書の冒頭には「問題の核心」と題したアルバート・ウェデマイヤー(Albert Wedemeyer)将軍による簡潔な報告書も掲載されている。国民党の腐敗と無能が台湾人を離反させているという趣旨である。ウェデマイヤーは蒋介石と直接交渉をしたアメリカの軍人だが、回想録『第二次大戦に勝者なし』(上下、妹尾作太男訳、講談社学術文庫、1997年)ではアメリカの対中政策の失敗も指摘されている。

 カーはもともと中国に留学するつもりだったようだが、ハワイ大学で政治学者の蝋山政道と出会い、彼のすすめで来日した。台北で英語を教えていたアメリカ人の友人が病気となり、その代理で行ったのが台湾との関わりの始まりである。訳者の蕭成美、川平朝清両氏は台北高校の出身、在学中は直接授業を受けたわけではなかったが、戦後に交流が深まったという(ちなみに、川平朝清はジョン・カビラ、川平慈英兄弟の父)。二人とも親しみを込めてカール先生と呼んでいる。カーが親しく付き合った人々の中には台北帝国大学の金関丈夫や浅井惠倫、医師の南風原朝保などの名前も見える。南風原はノンフィクション作家・与那原恵さんの祖父にあたる。与那原さんの『美麗島まで』(文藝春秋、2002年)、『サウス・トゥ・サウス』(晶文社、2004年)でもカーについて少しではあるが触れられていた。カーは沖縄にも関心が深く、『琉球の歴史』は英語で書かれた初めての通史だという。カーの蔵書が琉球大学に寄贈されている(琉球大学図書館のホームページに彼のプロフィールが紹介されている→こちら)。日米開戦によって帰国した後はコロンビア大学の博士課程に入った。イギリスの外交官で日本研究者として著名なジョージ・B・サンソムの講義も受けたらしい。ヘンダーソン氏から日本語の講義を受けたと訳者解説にあるが、朝鮮研究のグレゴリー・ヘンダーソンのことか。朝鮮半島の政治文化を渦巻き型の中央集権体制と特徴付けた『朝鮮の政治社会』(サイマル出版会、1973年)は朝鮮研究の古典とされている。

 当初、台湾の人々は中国への復帰を心から歓迎していた。しかし、上陸してきた国民党の腐敗ぶりを見るにつけ失望が高まり、それはやがて軽蔑となり、憎悪にまで高まった。日本から解放してくれたのは中国ではなくアメリカだったと見切った。ニ・ニ八事件に際しても自由と民主主義の国アメリカが介入してくれると信じていたが、その期待は見事に裏切られてしまった。

 カーはアメリカ国務省内の“中国第一主義者”に批判的である。中国へ布教に行った宣教師の子弟が多かったらしい。彼らは蒋介石をはじめ国民党幹部との個人的なパイプを通して中国情勢を判断していた。台湾問題に関しても国民党側から吹聴されたバイアスがかかっていて(さもなくば全く無関心か)、カーたちの意見は全く通らないと歯ぎしりする場面が頻繁に出てくる。

 上は台湾行政長官の陳儀から下は末端の兵隊まで、とにかくやりたい放題の乱暴さが繰り返し描写される。しかしながら、これを読む我々が、だから中国人はタチが悪い、と決め付けて済ませてしまうのも安易であろう。国民性の問題に還元してしまうのではなく、“近代”と“前近代”とが不幸なぶつかり方をしてしまったと捉える方が私には説得的のように思われる(以下は掲題書の内容を踏まえつつも本筋から外れる)。

 台湾の日本語世代の老人たちが“日本精神”“大和魂”といった表現を使い、教育勅語を称賛するのを聞いて、戦後生まれの私など面食らってしまったことがある。“日本精神”などというと古色蒼然たる前近代的な頑迷さを思い浮かべるが、実際には、約束を守る、ウソをつかない、時間厳守、礼儀正しさ、勤勉、公共心など日常一般の生活道徳に重きが置かれているようだ(平野久美子『トオサンの桜』小学館、2007年を参照のこと)。

 こうした生活徳目について、たとえば、約束を守ってウソをつかない=契約遵守の観念、時間厳守=期日を守る、礼儀正しさ=対人関係の円滑化、勤勉=職務に忠実、公共心=法律や規則の遵守、と読み替えてみると、分業によって効率性向上を図る資本主義的経済組織の運営に不可欠な生活習慣的エートスであったことが分かる。その意味で、むしろ一種の“近代性”そのものだったとすら言える。

 日本の植民地統治においてはこうした生活習慣的エートスを植えつけることが教育事業の目的になっていた。日本の統治についての評価は一歩間違えると誤解を招きかねない微妙な困難をはらんでいるが、物質面ばかりでなく、日常的な行動様式という面でも資本主義に適合的なインフラ整備を進めていたという点は価値中立的に指摘できるのではないか。もちろん、日本人優位の差別構造を内包した統治システムが台湾の人々に耐えがたい屈辱感を与えていたことは決して正当化し得ないことを看過してはならない。

 日本でも幕末の開国時、欧米の貿易商人の中に日本人はズルイという印象を抱く人がいたのを何かで読んだ覚えがある(何だったか失念してしまった)。おそらく、契約観念が欠如していたのだろう。一般庶民レベルまで含めた生活エートスの改造=“近代化”は、日本自身が明治維新以来推し進めてきた一大事業であった。台湾(おそらく朝鮮半島もそうだろうが)における“近代化”には、“日本化”と“日本経由の近代化”という二重性があった(日本が植民地に神社をつくった一方で、台湾総督府や朝鮮総督府の堂々たる構えは西洋風の巨大建築で日本の威信を示そうというアンビヴァレンスの表われであった。前者には日本優位の意識があるが、後者においては進歩性・近代性という価値指標は西洋に置かれている)。台湾にしても朝鮮半島にしても、いずれ何らかの形で“近代化”を迫られたであろう。しかし、そこに“日本化”が絡まりあっていたところに解きがたい難点があった。

 日本の敗戦後、台湾接収のため派遣されてきた国民党軍には、中国奥地から駆り出されてきた兵隊たちも多く含まれていた。彼らは当然ながら上に示したように洗練された“近代的”行動様式など身に付けていなかった。水道・電気をはじめ初歩的な近代文明の利器すら扱えない彼らは台湾人から嘲笑の的となった。また、利権漁りに汲々とする国民党幹部の腐敗についても法治ではなく人治という問題点はよく指摘される。いずれにしても、“近代的”組織モデルには馴染まない文化風土に育った人々だったのである。

 発展段階説のような話になってしまうが、本省人と外省人との間にはこのような“近代”と“前近代”というかけ離れた溝があった(大陸に渡って共産党と協力した謝雪紅たち台湾民主自治同盟は、こうした経済的・社会的レベルの相違を根拠に台湾の高度な自治を求めていたが、反右派闘争で批判されて勢力を事実上失った)。日常の生活行動パターンがそもそも異なるし、外省人には「台湾など化外の地だ」という侮蔑意識があったから、このギャップが外省人側のプライドをますます害することになってしまった。本省人は“近代”という尺度で考えるが、外省人は“中華文明”という尺度で考える。この時点で評価尺度が根本的に異なっていたわけだが、ロジックのすり替えが容易に行なわれた。国民党政権は前者の“近代”という尺度の有効性を知りつつも、政治的正統性にこだわって後者の“中華文明”という尺度で政治統合を強行しようとした。台湾人は“日本経由の近代化”=“日本化”されている、従って“中華文明化”されるまでは信用できないという猜疑心で残酷な弾圧が正当化されてしまった。

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2009年6月 4日 (木)

柳田國男「大嘗祭ニ関スル所感」

柳田國男「大嘗祭ニ関スル所感」(『柳田國男全集13』ちくま文庫、1990年、所収)

 お米の収穫を祈願するのが天皇のお仕事で、それを新嘗祭といい(勤労感謝の日はこれに由来)、天皇即位後初めて行なわれる新嘗祭を大嘗祭という。柳田國男「大嘗祭ニ関スル所感」は大正天皇の時の大嘗祭に出席した経緯をもとに書かれている。要するに、国威発揚のための即位式と日本の伝統的信仰に基づく大嘗祭とでは性格が全く異なる、対外関係を意識する前者が盛大に行なわれるのは当然だが、後者は身を清めて厳粛に執り行なうべきで、同じように扱うのはおかしい、という趣旨。

「即位礼ハ中古外国ノ文物ヲ輸入セラレタル後新タニ制定セラレタル言ワバ国威顕揚ノ国際的儀式ナルニ反シテ、御世始メノ大嘗祭ニ至ッテハ国民全体ノ信仰ニ深キ根柢ヲ有スルモノニシテ、世ノ中ガ新シクナルト共ニ愈其ノ斎忌ヲ厳重ニスル必要アルモノナルガ故ニ、華々シキ即位礼ノ儀式ヲ挙ゲ民心ノ興奮未ダ去ラザル期節ニ斯ノ如ク幽玄ナル儀式ヲ執行スルコトハ不適当ナリト解セラレタル為ナルベシト信ズ。」「国家ノ進運ガ今日ノ如ク著シキ時代ニハ、即位礼ノ壮麗偉大人目ヲ驚カスベキモノアルコトハ固ヨリ当然ノ儀ニシテ、小官ノ如キハ臣子ノ分トシテ今後百千年ノ後愈々益々此ノ儀式ノ盛大ニシテ有ラユル文明ノ華麗ヲ尽サンコトヲ望ミテ已マザルモ、之ニ引続キテ略々相似タル精神ヲ以テ第二ノ更ニ重大ナル祭典ヲ執行セラルルコトハ単ニ無用無益ト云ウニ止ラズ、或イハ不測ノ悪結果アランコトヲ恐ルルナリ。」(712~713頁)
「…今日最モ其ノ宜シキヲ得ズト考エラルル点ハ即位礼ノ盛儀ヲ経テ民心興奮シ、如何ナル方法ヲ以テシテモ慶賀ノ意ヲ表示セントシテ各種ノ祝宴ニ熱中スル際、引続キテ大嘗祭ノ如キ厳粛ヲ極メ絶対ノ謹慎ヲ必要トスル祭典ヲ挙ゲラルルト云ウ制度ナリ。」(717頁)

 国家のロジックと伝統のロジック、両者の相違を明確にしようという柳田の姿勢がうかがえる。同様の相違は地方自治の問題でも表面化した。床次竹二郎ら内務官僚の主導で、日本各地の神社、それこそ村はずれの鎮守の杜まですべてを統合し一定のヒエラルキーに整理してしまおうという構想が進められていた。南方熊楠などはこれに反対して逮捕されてしまい、柳田も当然ながら反対で、熊楠に共感していた。この神社統合構想において、地域住民の皮膚感覚に根ざした伝統的信仰のあり方と、国の隅々まで行政の論理を貫徹させようとする中央集権志向と、両者の衝突が鮮明化したと言える。よく指摘されることだが、いわゆる“国家神道”なるものはあくまでも近代の産物であって、“伝統”と見まごう衣装を被りながらも、その内実は似て非なるものであった。エリック・ホブズボームらの表現を借りるなら“創られた伝統”である。いわゆる常民の皮膚感覚に根ざした心情の世界を前にしたとき、政治のロジックはどうしてもすれ違ってしまう。もともと農政官僚として出発した柳田はこうしたズレから眼を背けることができなかった。そこに民俗学への動機があった。だからこそ、民俗学や歴史学ばかりでなく、政治思想史・社会思想史といったコンテクストにおいても柳田の存在感は大きいのである。橋川文三は柳田について次のように記している。

「…彼の考え方は、祖先信仰の中にひそむ民衆心情世界の自覚的研究を通して、まず民間信仰の純粋形態を明かにし、そこで、はじめて正しい神社行政が樹立されねばならないというものであり、たんなる制度化、政治的既成事実化によっては、かえって制度化によって疎外されたアモフルな信仰エネルギーが混乱をひきおこすであろうというものであった。いいかえれば、彼は氏神信仰の心意をつらぬく民衆的生活原理の内省的純化という手つづきを重視したのであり、その意味では民族信仰の「宗教改革」ともいうべき転換をさえ必要と考えていたといえよう。…ともあれその民俗学的研究によって切り開かれた氏神信仰の世界は、おそらく官僚的宗教観にとって想像もつかないほど、混沌とした様相をおびたものであった。」「類型的にいえば、国家官僚の氏神観はその雑多性・猥雑性を無価値な自然状態として、もっぱら行政的規制によって画一化を進めようとする。それに対して、柳田はその雑多性の中に理由を見出し、純粋な地方民衆生活の原理形態を明かにしようとする。前者が絶対主義権力の外発的要求にもとづく地方処理であるとすれば、後者は民衆生活の内発的要求を原理化することによって、かえって国家論理の形態を規制しようとする意味を含んでいる。いわば明治の地方自治制がいわゆる「郷党原理」という擬制的な魂を地方に付与したのに対し、実体としての地方の魂を明かにしようとしたのが柳田の仕事であった。」(橋川文三「明治政治思想史の一断面」『柳田國男論集成』未来社、2002年、253~254頁)

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2009年5月26日 (火)

崔承喜のこと

 高嶋雄三郎・鄭昞浩編著『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版、1994年)、金賛汀『炎は闇の彼方に──伝説の舞姫・崔承喜』(日本放送出版協会、2002年)の二冊に目を通した。

 『世紀の美人舞踊家崔承喜』には崔承喜の写真や公演プログラムなど多数収録されている。おどけた感じのポーズもあるし、気品のあるエロティシズムに胸がドキッとするようなものもあった。衣装をまとったポージングから東洋志向を融合させたモダン・ダンスというコンセプトはうかがえる。手足を大きく広げて宙を舞い、動きの躍動感をとらえた写真がいくつか目を引いた。大柄な美人だったというから、こうしたポージングに動きを持たせたならさぞ見栄えしたことだろう。是非映像で観てみたいとは思うが、いまやほとんど残されていない。そういえば、以前、崔承喜の生涯をたどるドキュメンタリー映画をやっていたように記憶しているが、観そびれたままだ。

 1911年、崔承喜はソウルの両班の家に生まれた。成績優秀だったが、家計が貧しかったため進学をどうするか迷っていたところ、舞踊家・石井漠が研究生を募集していることを兄・崔承一から教えられた。石井のダンスを見て、その魅力にたちまち引き込まれ、東京の石井のスタジオで練習に励むことになる。

 朝鮮舞踊の近代化という志向を持った彼女のダンスは、朝鮮人だけでなく日本人をも魅了した。崔承喜後援会の発起人に山田耕筰、川端康成、村山知義、菊池寛、山本実彦といった人々が名前を連ねており、この中に混じって呂運亨の名前も見えるのが驚いた。著名な朝鮮独立運動家である(呂運亨は左派的立場から独立運動を進めつつも日本側とも連絡を取るという複雑な政治行動ができた人で興味深いが、惜しくも1947年に暗殺された)。なお、『炎は闇の彼方に』は近衛文麿の名前まであるのが解せないと記しているが、指揮者であった弟・近衛秀麿の間違いである。

 崔承喜が活躍した1930~1940年代、すでに軍国主義が暗い影を色濃く落としている時代である。朝鮮舞踊の伝統を取り込んだ彼女のダンスは、皇民化政策を推し進める当局者には目障りで、彼女の意図とは関係ないレベルで政治の網目に絡め取られてしまう。“半島の舞姫”と謳われた彼女、英語で意訳すれば“コリアン・ダンサー”だが、外国公演でこの表現を使ったこと自体が反日的だとにらまれてしまった。上からの圧力に気を遣わねばならず、彼女は日本軍の陣中慰問にも行った。それは単なる保身のための迎合ではない。自分のダンスが朝鮮の人々の誇りの一つになっていることを知っているからこそ、絶やしてはいけないと考えたからだ(他方で、『炎は闇の彼方に』は、汪兆銘政権下では舞台に上がらないと心に決めた梅蘭芳と語り合うシーンも描いている)。

 そうした崔承喜の姿勢は、急進的な独立派の眼には日本の手先だと映った。崔承喜の朝鮮語読みは“チェ・スンヒ”だが、彼女は“サイ・ショウキ”と日本語読みで通しており、それも彼らの気に入らなかった。ただし、創氏改名にも応じてはおらず、その代わり、夫の安漠が安井と姓を変えた。彼が当局からの防波堤となって、崔承喜という名前を残すためだ。安漠はもともと作家志望だったが、結婚にあたり、崔承喜の支援者たちから彼女の才能を守るため自分の道はあきらめろと説得された人である。

 日本の敗戦後、南北二つの政府が成立した朝鮮半島で、崔承喜は延安帰りの夫・安漠に説得されて北に行った。“親日派”容疑を打ち消そうという意図もあったのかもしれない。当初、金日成からは厚遇された。1956年、日本の文化人の訪朝団が崔承喜と面会、来日公演を希望したところ、彼女も乗り気だったらしいが、雲行きは怪しくなる。日本に行ったらそのまま亡命してしまうのではないかと疑われたようだ。当時、文化宣伝省次官というポストにあった夫・安漠も反対したらしい。やがて金日成との考え方の違いから安漠は1958年に失脚、続いて崔承喜も粛清されてしまう。どのような最期を迎えたのか、はっきりしたことは分かっていない。

 以下、蛇足。戦時中、日本軍の慰問のため中国公演旅行に行った際、崔承喜は大同の石仏群を見て異様な感動にとらわれたというエピソードが『炎は闇の彼方に』に記されており、興味を持った。何十万体もの石仏が広がる雄大な光景を前にして、その場限りの“現実”に流されている自分自身を見つめなおしたらしい。私は伊福部昭の「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」という曲が好きなのだが(→こちらを参照のこと)、彼もまた戦時中に中国の石仏群(大同ではなく熱河だったが)を見て圧倒された感動から執拗な反復律動という着想を得て、この曲をつくった。微細な音が反復・集積されて一つの大きなまとまりある音を響かせるところに現代音楽で言うミニマリズムの面白さがある。その意味で「リトミカ~」もまさしくミニマリズムだ。一つ一つ個別の石仏が集まって大きなまとまりを成している光景、一にして多のアナロジー。崔承喜にしても伊福部昭にしても、民族的・土着的感性と普遍的な芸術性とを、どちらか一方に収斂させてしまうのではなく両立させる形で自分の作品を表現しようとしていた。また、崔承喜は、無数の有名無名の人々が孜々として築き上げてきた石仏群の歴史性という高みに立った視点を通して、不本意な戦争に巻き込まれている自分の惨めさを捉え返そうとした。いずれにしても、石仏群のイメージに投影された一にして多というアナロジーは色々な問題を取り込んでいけるんだなあ、などと妄想した次第。繰り返すが、蛇足。

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2009年5月24日 (日)

中村祐悦『白団(パイダン)──台湾軍をつくった日本軍将校たち』

中村祐悦『白団(パイダン)──台湾軍をつくった日本軍将校たち』(芙蓉書房出版、1995年)

 1949年から1969年にかけて旧日本軍将校83名が極秘のうちに台湾へ渡って軍事教練を行なっていた。もちろん、違法である。日本側の保証人となった岡村寧次が病床にあったため、代わりに団長となった富田直亮の偽名が白鴻亮であったことから“白団”と呼ばれた。反共義勇軍、蒋介石の寛大な対日政策への報恩が理由だったとされる。

 台湾へ密航する根本博のことは、先日読んだ奥野修司『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(文藝春秋、2005年)、高木凛『沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子』(小学館、2007年)の両方にもちらりと出てきた。1949年に中共軍を撃退した金門島攻防戦では根本がひそかに作戦指導をしていたといわれる(この攻防戦によって中共・国府の軍事境界線が事実上定まった)。なお、根本の同行者の中に照屋林蔚という人がいた。照屋敏子の夫のはずだが、高木書では白団については触れられていない。白団支援者の中に澄田【ライ:貝偏+來】四郎の名前も出てくるが、ドキュメンタリー「蟻の兵隊」で山西省に日本軍兵士を置き去りにしたと非難されている人物である。

 白団の活動は、国民党軍にとって黄埔軍官学校以来の本格的な軍事教練であった。アメリカ式の戦術では物量を潤沢に費やすのが前提となっているが、これに対して貧乏国として物量を最小限に抑えようとする日本軍式の方が当時の国民党軍の実情に合っていたという。戦略問答で日本人教官が中国人生徒を徹底的に論破してしまうと面子をつぶされたと反感をかってしまうというのは一種の文化摩擦か。講義終了時の拍手の大きさが、学生による教官への勤務評定になっていたというのが面白い。

 教練を受ける大半は外省人だが、本省人も少人数だが混じっていた。しかし、本省人はどんなに優秀でもエリート・コースにのることはできず、それどころか政治犯の疑いで投獄された人すらいた。いわゆる“省籍矛盾”の中、蒋介石以下軍事関係者の親日感情と、他ならぬ国民党軍によって弾圧された一般台湾人の親日感情、それぞれ別の位相で二つの親日感情があったというのも実に複雑な話である。

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2009年5月23日 (土)

三宅雪嶺『真善美日本人』

三宅雪嶺『真善美日本人』(講談社学術文庫、1985年)

 国粋主義なんて言うと、現代では鬼面人を驚かすがごときおどろおどろしい響きもこもるが、明治期の政教社ナショナリズムにはポジティヴな開放性がある。雪嶺三宅雄二郎は政教社の雑誌『日本人』の主幹であった。鹿鳴館に顕著に見られるような欧米崇拝熱への批判として彼らの政論は出されているが、それは単なる反動ではない。人にはそれぞれ個性があると同様に、国柄それぞれにも個性がある。欧化という形でその個性を平板化してしまうのではなく、むしろ日本の個性を積極的にのばすことによってこそ、広く世界に貢献できるはずだと考えた。たとえば、“真”というテーマで雪嶺は次のように言う。

「真を極むること如何。相切磋し、相磨礪することのもって美玉を成就すべきを見ば、智識を闘わすの真を極むるにやむなきを知らん。異なれる境遇における異なれる経験より獲得せる極めて多くの異なれる事理を彙集し、同異を剖析し、是非を甄別し、もって至大の道理に帰趨するは、真を極むるの要道なり。既に称して日本の国家という、その人まさに人類世界において真を極むるの一職分を担わざるべからず。」(36~37ページ)

 西洋とは異なる経験を持つ日本には、他の国にはできない日本なりの任務があるはずだ。異なる個性を持つ者同士が切磋琢磨するからこそ世界全体の進歩があり得る。そうした形で、日本の文化ナショナリズム=国粋主義・日本主義をユニバーサリズムの中に矛盾なく位置付けていこうとする発想に政教社の主張の特長があった。同時代の内村鑑三の墓碑銘に刻まれた「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、かくしてすべては神のために」という言葉も想起される。

 “真”は学術的なテーマである。古来、中国・インドの文化を咀嚼してきて、現在では欧米から新しい学術方法論を輸入している日本は東洋文化研究に長所があるとされる。本書は雪嶺の口述を筆記したものだが、筆記者の一人は後に東洋史研究の泰斗として知られた湖南内藤虎次郎である。“美”については日本にも様々な美術があることを強調。風土の風光明媚な点については軽く触れる程度だが、同じく政教社の同人であった志賀重昂『日本風景論』が有名である。“善”としては、日本のような弱国であっても工夫によって富国強兵を図ることができると指摘。類似したテーマでは内村鑑三『デンマルク国の話』も思い浮かぶ。

 『真善美日本人』と対句的なタイトルを持つ『偽悪醜日本人』も本書に収録されている。“偽”や“醜”はうわっつらに流れて真実を失った学問や芸術への、“悪”は私利を第一として士風の矜持を失った社会風潮への批判である。とりわけ、欧米文化を直輸入して事足れりとする風潮に舌鋒が鋭く向けられる。次の引用をみると、“和魂洋才”“東洋道徳西洋芸”のような発想と言えるか。

「おおよそ社会の事物たる、他を模倣せんよりは、自家固有の特質を発達せしむるの優たることあり。けだし我が国固有の風俗たる、いずくんぞことごとく抹殺すべきものならんや。そもそも外事を取りて、これを用いんことあえて排難すべきにあらずといえども、そのこれをなさんにはあらかじめ守るところなかるべからず。すわなち明らかに我を主とし、彼を客とするの本領を確保し、彼やただ取りてもって我の発達を裨補せしむるの用に供すべきのみ。はじめより汲々乎として模倣これ務む、いずくんぞその可なるを知らん。」(139ページ)

 雪嶺は中野正剛の岳父にあたり(中野については以前に触れた→こちらを参照のこと)、東方会の機関紙『我観』の主筆に据えられていた。戦後間もなく、我観社は真善美社と名前を変えたが、雪嶺『真善美日本人』に由来する。なお、中野と同郷という縁で花田清輝が我観社・真善美社にいて、たとえば埴谷雄高、島尾敏雄、福田恒存、中村真一郎、岡本潤、小野十三郎などの本も真善美社から出されている。

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2009年5月22日 (金)

『吉野作造評論集』

岡義武編『吉野作造評論集』(岩波文庫、1975年)

 大正5(1916)年、『中央公論』に発表された吉野作造「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」は、いわゆる大正デモクラシーの代表的論文として名高い。語り口は平易。『中央公論』掲載の吉野の論文は、たしか名編集長瀧田樗陰の筆記になるはずだ。当時、駆け出し編集部員だった木佐木勝が瀧田に随行して吉野の研究室へ行き、帳面と筆を手にした瀧田が袖を捲くりあげ、「先生、さあ、やりますか」とやっているシーンを、何の本だったか『木佐木日記』からの引用で読んだ覚えがある。

 内容は立憲主義、議会主義の概説である。少数者政治は密室政治に陥りやすい、政権交代の緊張感をもたせる→開かれた選挙が必要などの論点は特に真新しいものではないが、見方を変えれば、基本的な考え方は現在でも変わっていないとも言える。以下の箇所では明治憲法の枠内で国民本位の民本主義を正当化する論拠を示しており、美濃部達吉の天皇機関説と相補う。

「我々が視て以て憲政の根柢となすところのものは、政治上一般民衆を重んじ、その間に貴賎上下を立てず、しかも国体の君主制たると共和制たるとを問わず、普く通用するところの主義たるが故に、民本主義という比較的新しい用語が一番適当であるかと思う。」(「憲政の本義~」36ページ)

「いわゆる民本主義とは、法律の理論上主権の何人に在りやということは措いてこれを問わず、ただその主権を行用するに当って、主権者は須らく一般民衆の利福並びに意向を重んずるを方針とす可しという主義である。」(「憲政の本義~」45ページ)

「これを要するに、政治の終局の目的が人民の利福にあるべしという事、これ民本主義の第一の要求である。一見民衆一般の全体の利益に関わりないように見えても、詮じ詰むれば、全般の利益幸福となるというものならば、そは民本主義に悖らない。終局において民衆一般のためになるかならぬかが標準である。」(「憲政の本義~」61ページ)

 民衆を“重んずる”という微妙な言い回しがカギである。民衆自身に政治をやらせたり民衆の要求に迎合したりするのではなく、民衆=多数者の意向を汲み上げながら政治指導者=少数者が政権運営を行っていく、つまり代議政治=間接民主主義であることを強調している(従って、直接民主主義の効率的代用という見解を吉野はとらない)。

「多数政治と言っても、文字通りの衆愚の盲動が政界を支配するようでは、国家の健全なる発達は期せられない。多数者は形式的関係においてはどこまでも政権活動の基礎、政界の支配者でなければならぬ。しかしながら彼は内面において実に精神的指導者を要する。即ち賢明なる少数の識見能力の示教を仰がねばならぬのである。かくて多数が立派な精神の指導を受くる時は、その国家は本当にエライものである。少数の賢者は近代の国家において実にこの役目を勤むべきものである。」「多数の意向が国家を支配するのであるけれども、これを精神的に見れば、少数の賢者が国を指導するのである。故に民本主義であると共に、また貴族主義であるとも言える。平民政治であると共に、一面また英雄政治であるとも言える。即ち政治的民本主義は精神的英雄主義と渾然相融和するところに憲政の花は見事に咲き誇るのである。」「憲政をしてその有終の美を済さしめんとせば、政策決定の形式上の権力は、思い切ってこれを民衆一般に帰し、しかも少数の賢者は常に自ら民衆の中におってその指導的精神たる事を怠ってはならぬ。」(「憲政の本義~」72~73ページ)

「腹の痛い痒いは患者本人に聞かねば分からぬ。しかしどうしてこれを癒すかは医者でなくては分からない。従来の医者は患者を見もせず勝手に投薬したので、遂に民衆はその無責任を憤り医者無用論を唱え、甚だしきは自分で医療のことが分かるような気にも一時はなったのだが、本当のところはやはり医者に頼まなくては分からぬのである。ただ問題はその医者が絶えず誠実に患者と連絡を取って居るか否かに在る。政治におけるまた然りで、従来の政治家が頼むに足らずとして一概にこれを斥けるのは専門の智識なくして勝手に薬を手盛りするようなものである。政治は政治家にまかせる。ただ民衆は厳にその監視を怠らない。これが理想的の状況だ。」(「無産政党問題に対する吾人の態度」219ページ)

 天皇主権と国民本位、二重の政治形式を経た上で実質的にはエリート主義というカラクリが面白い。個々の具体的な政策判断は政治指導者に任せるにしても、ではその指導者が果たして適任なのかどうか。選挙を通して監視の眼を光らせるのが選挙民=一般民衆の役割である。それには専門知識は必ずしも必要ではない。しかし、異なる政派それぞれの意見を聞きながら、そのいずれが説得力を持つのかを見極めるくらいの見識は選挙民に求められる。個別の利害関係で投票するのではなく、大局的に必要な人材を選ばねばならない(各政派の見解を比較考量するのが選挙民の役割なのだから、一般民衆は特定政党に加入してはならず適度な距離をおくべきだとも吉野は主張している)。だからこそ、国民一般の智徳の発達が憲政の大前提だという趣旨の一文を「憲政の本義~」論文の冒頭に置いている(この論点は福沢諭吉たちの啓蒙思想以来、一貫して続いているように思われる)。

「憲政のよく行わるると否とは、一つには制度並びにその運用の問題であるが、一つにはまた実に国民一般の智徳の問題である。けだし憲政は国民の智徳が相当に成育したという基礎の上に建設せらるべき政治組織である。もし国民の発達の程度がなお未だ低ければ、「少数の賢者」即ち「英雄」に政治上の世話を頼むといういわゆる専制政治もしくは貴族政治に甘んずるの外はない。故に立憲政治を可とするや、貴族政治を可とするやの問題の如きも、もと国民の智識道徳の程度如何によって定まる問題で、国民の程度が相当に高いのに貴族政治を維持せんとするの不当なるが如く、国民の程度甚だ低きに拘らず強いて立憲政治を行わんとするの希望もまた適当ではない。」(「憲政の本義~」13ページ)

「民本主義の行わるる事は、それ程高い智見を民衆に求むるという必要はない。…今日の政治はいわゆる代議政治という形において行われて居るのであるが、その結果今日では我こそ人民の利福意向を代表して直接国事に参与せんとする輩は、自然進んで自家の政見を人民に訴え、以てその賛同を求むるという事になる。そこで人民はこの際冷静に敵味方の各種の意見を聴き、即ち受動的にいずれの政見が真理に合して居るやを判断し得ればよい。更に双方の人物経歴声望等を公平に比較し、いずれが最もよく奉公の任を果たすに適するや、いずれが最もよく大事を託するに足るの人物なりやを間違いなく判断し得るならば、それで十分である。」(「憲政の本義~」69ページ)

「立憲政治の妙趣は、人民の良心の地盤の上に、各種の思想意見をして自由競争をなさしむる点にある。いわゆる優勝劣敗の理によりて高等なる思想意見が勝を制し、これが人民の良心の後援の下に実際政治の上に行わるる点にある。」(「憲政の本義~」94ページ)

「ちょうど幸いなことには、今日の政界の組み立ては、政権に与らんとする者が競うて自家を民衆に吹聴し、一人でも多くの味方を作るに非ざればその目的を達し得ぬということになって居る。そこで民衆は政治家の主張をきき、自ら政治的に大いに教育されてその上でゆっくり賛否を決するというのであるから、多数の意向の帰するところが則ち道徳的に最高価値の存するところとなるわけだ。ただ漫然多数なるが故に尊いのではない。多数のうちに最良最高の価値が発現するように組み立てられて居るから尊いのである。デモクラシーが現代新文化の発展に重きをなす所以は一にこの点にある。従って反省なき無組織の多数を擁してここに一つの勢力を作らんとするが如きは、却ってデモクラシーの敵というべきである。」(「普通選挙の実施と日本政界の分布」232ページ)

 吉野の民本主義は議会制民主主義の一つの理念型を示している。この観点から普通選挙・政党政治への支持を表明した。超然内閣が君臨し、政党政治へはまだ移行期にあった大正期において、彼の議論は既存体制に対する鋭い舌鋒として喝采された。しかしながら、当時とは違って選挙による議会制度が形式的には完備した現代日本において考えてみると、吉野の示した政治モデルは、むしろ“国民一般の智徳”の問題に難点を見出すように思われる(吉野は、自由民権運動が挫折した明治期とは異なり、大正の現在において智徳の発達は十分だから立憲主義でいける、だから普通選挙を実施せよ、と主張していたのだが)。

 例えば、財政再建のため増税が必要というロジックを私は正当だと思うが、現在、こうした主張を正面から掲げる政党があったとして、果たして政権をとれるだろうか。吉野の考え方からすれば、政治指導者は国民を説得せねばならないわけだが、実際には言葉を濁さざるを得ない。吉野は国民を“重んずる”という表現を用いたが、ここに込められた国民の“意向を汲み取る”ことと国民に“迎合する”こととの微妙なニュアンスの相違をどのように考えるか。

 他方で、痛みを伴う構造改革が主張された郵政選挙で小泉自民党が圧勝したが、これは主張の是非ではなく、マスメディアを通したドラマ性が耳目を引いた結果であったことは論を俟たない(いわゆるニート・フリーター層が、彼らにとって構造改革は不利になるはずなのに、小泉の「ぶっこわす!」という一言に反応して自民党へ投票した人たちが少なからずいたという指摘を思い起こす)。理屈による説得よりも、感情に訴えるドラマ的な刺戟の方が選挙において効果を持ってしまうこと、この点を考えても“国民一般の智徳”の問題は現代でも危ういなあという感じがする。(と言うよりも、民主主義がある局面で多数派の感情論で突っ走ってしまう危険性は、後天的に組み立てられた政治システムというよりも、人間本性をどのように考えるかというもっと本質的な次元に根ざした問題だという印象が私には強い。これは永遠に解決できない問題でしょう。だからと言って私は議会制民主主義を否定などしていません、念のため。)

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2009年5月19日 (火)

筒井清忠『近衛文麿──教養主義的ポピュリストの悲劇』

筒井清忠『近衛文麿──教養主義的ポピュリストの悲劇』(岩波現代文庫、2009年)

 近衛文麿の名前を見て誰しも真っ先に思い浮かべるのは“優柔不断”というイメージだろうか。戦前においては開戦を決断できないのは優柔不断だからだと罵られ、戦後になると戦争を回避できなかったのは優柔不断だったからだと非難される。他方で、錯綜する政治情勢に振り回された彼の姿は“悲劇の宰相”という捉え方もされた(たとえば、矢部貞治『近衛文麿』)。

 近衛の教養主義的エリートとしての側面、マスメディアを通した大衆的人気。両方とも、すでに大衆社会化傾向を呈しつつあった当時の日本において政治家として立っていく上で有効な権力リソースとなるが、これら二つの要因の分析が本書のテーマである。

 大衆人気の背景としてモダン性と復古性の融合という論点が示される。近代的ブルジョワ家庭のイメージや親米派・社会主義シンパという進歩性は都市部にアピールしたし、彼の豊かな教養は知識人から好感を以て迎えられた。他方で、五摂家筆頭格という家柄の権威やアジア主義的な主張は保守的な農村部や右翼にアピールした。西園寺公望を代表格とする親欧米的オールド・リベラリストが退潮し、かわって大衆基盤のナショナリズムが高揚しつつある時代状況の中、近衛は双方から期待を寄せられるという独特な立ち位置にあった(右派・左派双方を場当たり的に引きつける政治行動を古典的なファシズム論ではボナパルティスムというが、近衛を気弱なナポレオン三世とたとえてみたら当たらずとも遠からずではないかという印象も感じた)。

 マルクス主義にせよ国家主義にせよ、ある特定のドグマで突っ走るのは教養主義とは相容れない。教養主義が現実政治と関わりを持つ際には様々な考え方の中から良質な部分をピックアップしようとする柔軟な態度を取る。そうした折衷主義的な政治姿勢を近衛は示したが、それは、伝統的なものに郷愁を感じつつも近代化が否応なく進んでいく状況にあった当時の日本人の感性に訴えるところがあったという指摘が興味深い。しかしながら、人気=「世論」の意向に依拠したポピュリズムは、風向きが変ればあっという間に失墜する運命をたどらざるを得なかった。

 具体的な政策課題の解決には不可欠な政治的柔軟性(近衛の場合には教養主義=良い意味での折衷主義に由来)。“民主主義”といえば聞こえは良いが、実際には国民からの支持はイメージ的な人気として表われるポピュリズム。本書は近衛のたどった悲劇を通して、こうした現代の我々も直面する政治的アポリアについて問題提起を行なっている。

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2009年4月30日 (木)

佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』

佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(集英社インターナショナル、2008年)

 沖縄の問題は、私などにはちょっと居心地の悪さを感じるところがある。基地の島、つまり日本の安全保障という大義名分で様々な負担を負わせてしまっていることへの本土の人間としての後ろめたさがあるし、プラスして左や右の政治的思惑が絡んでくるので、こうした問題から距離をおきたいという気持ちは否定できない。他方で、そうした逃げの意識から「美ら島」のエキゾティックな南国イメージに寄りかかろうという気持ちも芽生え、しかし、それも表面的かなあという後味の悪さがわだかまる。

 本書の場合、そうした居心地の悪さとは視点が異なる。色々なテーマがごっちゃまぜだが、とりわけアンダーグラウンドの話が多い。沖縄戦後史を駆け巡った有名無名多彩な人々について取材を進める。暴露趣味というのではなく、正論では割り切れないドロドロとした人間模様は、時にあっけらかんとしたピカレスク小説を読むような不思議な迫力をも感じさせる。フィリピン人との混血児でヒットマンとならざるを得なかった男の生真面目さが一番印象に残った。沖縄で奄美出身者が苛酷な差別待遇を受けていたことは初めて知った。米兵によって残酷に殺された女性たちの現場写真を、捜査が続行できないため泣きながら燃やす刑事の話は忘れがたい。

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2009年4月24日 (金)

『石橋湛山評論集』『湛山回想』

 学生の頃、一時期、石橋湛山に入れ込んでいた。たしか、田中秀征の講演を聞いたのがきっかけだったように思う。たとえば、小日本主義。植民地の放棄を主張するにしても、それを単なる道義論に終わらせず、統計上の数字を示して日本側の赤字であるという具体的な根拠を示す。湛山はもともと宗教家を志して早稲田の哲学科に入ったが、大学ではプラグマティズムの田中王堂に師事した。そうしたあたりも含め、ある種の理想主義を唱えるにしても必ず具体的な裏付けを求めるという湛山のバランス感覚に感心した。

 『石橋湛山評論集』(岩波文庫、1984年)を読み返した。リベラルな個人主義が基本。若い頃に「哲学的日本を建設すべし」という論説を書いている。自己の存在意義を徹底的に究明してこれだけは譲れないという一線を把握する=哲学、個人でも国家でもこの基本線を踏まえた上で問題に対処しなければどうにもならない、という趣旨。個人主義というのは、自分にとってこれだけは譲れないという最低ラインを明確に自覚しているからこそ、他者との協調も妥協もできる、つまり交渉ができるという考え方。この考え方が湛山のその後の政論にも一貫している。だからこそ、権威にも流行にも流されない(軍部にもGHQにも屈しなかったし、金解禁論争では当初、大衆世論から孤立していた)。福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」という有名なテーゼのリフレインのようにも思われた。福沢の個人主義も「痩せ我慢」=意地が大前提になっている。そういえば、田中王堂は『福沢諭吉』という本を書いていたが私はまだ読んでいない。

 こうした考え方で海外を見れば、自己は自己による支配でなければ満足はできないのだから、日本の植民地支配がどんな善政を敷いたところで反抗は止まるはずがないという理解(大日本主義批判の第二の論点)につながってくる。また、『湛山回想』(岩波文庫、1985年)にはこんな話もあった。尾崎行雄が普選に反対して意外に思ったが、国民一人ひとりに訓練がなければ普選をやっても無意味だという尾崎の指摘は後になって納得できたという述懐。軍隊生活で規律を身につけた経験から、良い意味での団体主義=良い意味での個人主義という指摘。こうしたあたりにも、逆説的ではあるが、自己という主体に多くを課すリベラリズムがうかがえる。

 『湛山回想』では戦前の経済雑誌の簡単な通史が語られているのも興味を持った。お雇い外国人シャンドの机の上にイギリスの『エコノミスト』があるのを見て田口卯吉が『東京経済雑誌』を創刊。『東洋経済新報』は明治28年の創刊。大正期、大戦特需以降、石山賢吉の『ダイヤモンド』が会社記事・株式記事で売り上げを伸ばした。その頃の日本は欧米とは異なって事業報告書や会計士制度が未整備だったので、投資の参考情報として需要があったのだろうとのこと。『東洋経済新報』の記者たちは政治・社会問題志向なのでそうした私経済に興味はなかったが、それでも会社記事は載せざるを得なかった。昭和に入って、金解禁論争、世界恐慌、日本の国際的孤立といった状況で先行き不透明→経済雑誌の需要がのびた。金解禁論争は一般の人々に経済知識が普及するきっかけにはなったという。

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2009年4月22日 (水)

松元崇『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』、他

 松元崇『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』(中央公論新社、2009年)は、高橋是清の人物論を期待するとがっかりするかもしれない。是清が大恐慌にあたって采配を振るうに到った日本経済の課題や条件は何だったのか、その背景解説が中心となる。読み物としては地味だが、近代日本財政史の堅実なテキストという感じで勉強向き。

 ここのところちょっと必要があって金解禁論争関連の本をいくつか読み漁っている。金本位制のメカニズムについて、理屈を文面ではたどっていてもなかなか得心がこないのだが、それはおいおい勉強するとして。金解禁を断行した井上準之助と再禁止をした高橋是清とが必ず対比される。岩田規久男編著『昭和恐慌の研究』(東洋経済新報社、2004年)や竹森俊平『世界デフレは三度来る』(上下、講談社、2006年)などを読むと、結論としては是清が正しかったということになるようだ。

 金解禁論争で井上財政を批判していたエコノミストの一人、高橋亀吉について知りたくて谷沢永一『高橋亀吉 エコノミストの気概』(東洋経済新報社、2003年)を手に取ったのだが、これはダメな本。途中で読むのをやめた。井上を指して「愚か者を罰する法律がないのが残念だ」なんて平気で書くのだが、おいおい、じゃあ血盟団事件を肯定するつもりなのか? 初期の亀吉が社会主義に関心を示している箇所に触れては感情的な左翼批判が丸出し。谷沢は元共産党員の転向者だが、近親憎悪が激しいのか極端だ。

 当時は金本位制が一つの国際スタンダードとなっていた。そうした学知的枠組み(パラダイムと言ったらいいのか)の中に井上も組み込まれていたわけで、彼個人を人格攻撃したって全く無意味だろう(現在の視点からすれば井上の政策判断は否定されるにしても、その人物像を描き出した城山三郎『男子の本懐』の方が好感が持てる)。もちろん、個人要因をどう考えるかは政治史で繰り返される議論であるにしても、政策判断の是非と個人の人格的なレベルとは切り離す、少なくとも適度に距離を置いて考えないと見損なってしまうものが多い。通俗的な議論であればあるほど人格要因べったりの本が多いな。悪玉・善玉がはっきりして馬鹿でも分るからか。

 竹森俊平『世界デフレは三度来る』や「昭和恐慌、正しかったのは高橋是清か、井上準之助か」(『中央公論』2009年1月)では、国際協調路線、財政規律→軍事費抑制といった井上の意図も指摘し、是清と井上の二人がコンビを組めばその後の大恐慌や軍拡路線を効果的に乗り切れたのではないかと嘆いていた。残念ながら、是清は二・二六事件で、井上は血盟団事件で命を落としてしまうのだが。

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2009年4月21日 (火)

長野朗というシノロジスト

 ちょっと事情があって長野朗(ながの・あきら、1888~1975年)について調べており、『動亂支那の眞相』(1931年)という戦前の本に目を通した。やはりある事情があって、評論家・宮崎正弘氏がメールマガジンで長野を取り上げているのを知った。読んでみると、「中国人はこんなにずるい奴らだ、変な奴らだ」と言わんばかりの文脈の中で長野の著作からの引用を並べているのが気にかかった。

 同じテクストを読んでも、読み手がどこにポイントを置くかによって受け止め方は大きく異なってくる。私ならば次の箇所を引用する。

「日本人は支那人を忘恩の民と云ふが、支那人に云はすれば日本人は譯の分らぬ人間だと云ふかもしれない。それは双方の考へ方が全然異つて居るからである。」「かうした双方の考へ方の相違から互に相手を誤解し悪口する例は少くない。こゝは双方が相手の国民性を理解し合ふ必要が起る。」

 長野の表現には「嘘つき」「恩知らず」など確かに乱暴な言い方も多い。そうした箇所だけをつなぎ合わせれば宮崎氏のような読み方にもなるだろう。ただし、他方で長野は中国人のプラグマティックなところ、自己主張の明瞭なところは誉めてもいる。上記の引用を踏まえて言うと、長野のどぎつい表現は、中国人の思考構造や慣習には日本人の視点からすると違和感があること、付き合いづらいのは確かであることの率直な表明ではあるが、むしろそうした違和感が相互にあることを前提とした上で向き合っていかねばならない。そこに長野の強調点があると考えるべきだろう。そのために美化も蔑視も避け、出来るだけリアルな中国認識を目指したところに長野の努力を見出せる。

 西谷紀子「長野朗の中国革命観と社会認識」『大東法政論集』第11号(2001年3月)、同「長野朗の農本自治論」、『大東法政論集』第10号(2002年3月)、同「長野朗の1920年代における中国認識」『大東法政論集』第11号(2003年3月)、劉家鑫・李蕊「「支那通」の中国認識の性格:後藤朝太郎と長野朗を中心に」『東洋史苑』第70・71号(2008年3月)といった論文に取りあえず目を通した。

 長野は陸軍士官学校の出身(石原莞爾と同期)。中国へ派遣されたのは辛亥革命後のことだが、1919年の五・四運動、1920年の第二次広東軍政府といった動向を現地で目の当たりにし、中国国民革命の進展を観察していた。1921年に中国問題に専念するため軍を辞め、共同通信、国民新聞の嘱託となったほか、『中央公論』『改造』をはじめとした雑誌に寄稿する。行地社の同人となったが、軍と結び付いてクーデターを画策する大川周明たちからは次第に離れ、農村運動に入っていく。

 1938年春に中国の戦場を視察した際には避難民の悲惨な姿に心を痛め、戦争の正当性に疑問を抱いて長期化すべきではないと考えたという。日中提携論が彼の基本だが、満州国など日本の権益を切り離した上で日中親善を唱えるあたりには難しい矛盾があったという指摘もある。

 戸部良一『日本陸軍と中国──「支那通」にみる夢と蹉跌』(講談社選書メチエ、1999年)の分類に従うと、中国ナショナリズムに共感を寄せた点で長野は新「支那通」に属すると言える。ただし、戸部書で取り上げられた佐々木到一たちが国民党のイニシアチブによる近代国家形成を期待(そして幻滅)したのに対し、長野はそうした路線は外国の翻訳思想に過ぎず有効ではないと主張した点で異なる。また、戸部書によると中国には近代国家を形成する能力が欠如しているという認識が旧「支那通」の特徴だと指摘されているが、こうした認識を長野はむしろプラス面として捉えた。

 長野の基本思想は農本主義にあった。『動乱支那の真相』では社稷を「一定の土地に於ける人民の衣食住の安定を主とした自治を指す」と定義して、そうした自治体を下から積み上げて国家天下に至るとされる。外来思想翻訳的な近代国家路線をとるのではなく、中国自身の伝統に馴染んだ国づくりをすべきだと長野は主張する。ここには権藤成卿の強い影響が認められる。

 農本主義は土着性を強調するため近代主義者からは評判が悪い。しかし、権力というモメントによって秩序維持を図る国家主義とは異なり、逆に社稷という人間同士の情緒的な共感に基づく共同体を重視する点で反権力主義であって、その意味ではむしろアナキズムに近い(権藤の著作集はアナキスト系の黒色戦線社から出ている)。様々な思想背景を持つ農本主義者が集まって結成された日本村治派連盟には長野や権藤の他に橘孝三郎、武者小路実篤、下中弥三郎、室伏高信、土田杏村、加藤一夫などの名前が見える。権藤成卿橘孝三郎については以前に取り上げたことがある。

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2009年4月20日 (月)

戸部良一『日本陸軍と中国──「支那通」にみる夢と蹉跌』

戸部良一『日本陸軍と中国──「支那通」にみる夢と蹉跌』(講談社選書メチエ、1999年)

 日本陸軍の「支那通」、つまり中国問題のスペシャリスト、彼らは主観的には日中提携を模索しながらも、結果的にはむしろ正反対の行動を取ってしまったのはなぜなのかを考察する。

 彼ら陸軍「支那通」の方が外務省よりも深く中国に潜り込んでいたため、それが場合によっては二元外交を引き起こしてしまった。世代的に旧「支那通」と新「支那通」に分けられる。中国には近代国家を形成する能力はない、という認識は内藤湖南をはじめ当時の日本のシノロジストに多く見られ、それは旧「支那通」の基本認識となっていた。対して、新「支那通」は辛亥革命以降の中国ナショナリズムの動きに共感、彼らが近代国家を作り上げるのを手助けした上で日中提携を図ろうという意図もあったようだ。

 だが、やはり日本側と中国側とでは思惑が異なる。日本の大陸侵略に対する中国側の反発は厳しい。本書で焦点の当てられる新「支那通」の佐々木到一は済南事件で暴行を受け、危うく命を落とすところだった。日本に戻れば国民党のまわし者と言われ、中国では日本陸軍のまわし者と不信感を持たれる。期待を寄せていた国民党の蒋介石が特務機関を使って反対派を弾圧、党や軍を私兵化していることも国民革命の理想を失った旧態依然たる堕落だと彼は受け止め、旧「支那通」の認識レベルに戻ってしまう。佐々木は中国に裏切られたと感じた。中国をよく知っていたからこそ欠点が目につき、体感的な憎悪から対中強硬派に転じてしまった。もちろん、現在の後知恵からは一面的な理解に過ぎないと言ってしまえるが、対外的な認識の難しさを感じさせる。

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2009年4月19日 (日)

中野正剛について

 ちょっと必要があって中野正剛について調べていた。緒方竹虎『人間中野正剛』(鱒書房、1951年→中公文庫版を持っているはずなのだが、例によって本棚の中で行方不明。近所の図書館に行ったら、古くて紙が破れそうな鱒書房版しかなかった)、猪俣敬太郎『中野正剛の生涯』(黎明書房、1964年)、中野泰雄『政治家/中野正剛』(上下、新光閣書店、1971年)、中野泰雄『父・中野正剛』(恒文社、1994年)、渡邊行男『中野正剛 自決の謎』(葦書房、1996年)、室潔『東條討つべし 中野正剛評伝』(朝日新聞社、1999年)、以上をざっと通読(疲れた…)。中野泰雄は正剛の子息、猪俣敬太郎は東方会の関係者。

 中野正剛(1886~1943年)という政治家は意外とよく分からないところがある。雄弁家としてカリスマ的な人気を誇り、彼自身、大衆受けを狙っていたあたりはポピュリスティックにも思えるが、他方で、玄洋社系の人脈に属するという自覚から筋を通そうと潔癖なところもある。謎として残るのは、第一に、当初は憲政擁護運動で名声を得たデモクラットである彼がなぜ熱烈なナチス礼賛者になったのか? 第二に、自殺の真相は?(人によって見解が異なる。渡邊書が資料調査を踏まえた考察を進めているが、やはり状況証拠に過ぎず、結論は出ない)

 中野は朝日新聞記者として政論に健筆をふるい(匿名論説で池辺三山と間違えられたこともあったそうだ)、『明治民権史論』で名をあげた。35歳で代議士に当選、“憲政の神様”犬養毅を崇拝していたので革新倶楽部に所属する。しかし、犬養が既成政治と妥協するのを見て訣別、憲政会(後に立憲民政党)に移る。経済、対外関係と両面での危機意識から議会の大同団結を主張、既成政党に容れられないと見るや安達謙蔵をかついで国民同盟を結成する。ナチスばりの制服をつくってはしゃいでいる中野に眉をひそめる向きもあった(親友であった緒方竹虎も、なぜ彼がナチス礼賛に走ったのかよく分からないと言葉を濁している)。ところが、安達も堕落しているとして中野は国民同盟を脱党、アジア主義の思想団体として主宰していた東方会を政治組織化し、こちらに政治活動の舞台を移す。既成政治打破の模索は続き、修猷館中学の後輩にあたる三輪寿壮を通して無産政党である社会大衆党との合同を図るが、社大党内に異論があって頓挫。近衛文麿を中心とする新体制運動にも関わるが、出来上がった大政翼賛会は中野の思惑とは全く違う代物だったためこれとも袂を分かつ。いわゆる翼賛選挙では非推薦で当選。東條英機内閣の倒閣に動いたため憲兵隊によって身柄を拘束され、自宅に戻されたものの、その夜のうちに自決する。なぜ彼が死を選んだのか、その真相はいまだに分かっていない。

 中野は憲政擁護運動で名声を得たデモクラットとして政治的キャリアを始めているにもかかわらず、なぜ熱烈なナチス礼賛者となったのかが疑問として残る。当時、政軍二元体制をとる明治憲法下において軍部の独走を如何に食い止めるかが政治課題となっていた。中野は、既成政党が互いに足を引っ張り合って議会の権威が失墜しているから、政治は軍部に対して効果的なリーダーシップを発揮できないのだと考えた。彼の主張した一国一党構想はそうした問題意識に基づく。東方会は全国に支部をつくって組織網を広げようとしていたが、社会大衆党との合同構想には労働組合も取り込もうという思惑があったのだろう。中野は東條英機から睨まれていたが、大衆組織的な基盤によるリーダーシップを目論んでいた中野の存在感が目障りだったのかもしれない。なお、反東條=反軍・平和主義というわけではなく、この点では免罪符にならないことは留意しておく必要がある。

 中野はヒトラーを礼賛したが、その理由は一国一党による強力なリーダーシップの確立という政治構想に合致していたからであり、反ユダヤ主義などのナチズム思想にまで共鳴していたとは言い難い。アジア主義による対英米強硬論から戦略的にドイツと結ぶべきだという考えもあっただろう。彼はヒトラーと会見したことはあるが、その実像を知らなかった。中野は、かつて慕っていたにもかかわらず訣別した犬養についても、あるいは大塩平八郎や西郷隆盛への崇拝についても、ある人物に入れ込むと実際以上に理想化してしまう傾向がある。ヒトラーについても同様であろう。一種の英雄待望論だが、彼自身をその英雄に擬していた節もある。ただ同時に、その人物に仮託して中野自身の理想像を強調することにより、しがらみにまみれた現実の政治を批判するという論法を取っていた(東條英機をあてこすって逆鱗に触れたといわれる「戦時宰相論」はその一例)。その意味で、中野は潔癖な理想主義者であったとも言えるかもしれない。

 なお、中野は朝日新聞社を退社して初めて選挙に打って出たとき落選しており、しばらく東方時論社の主筆となっていた。第一次世界大戦後、パリ講和会議の使節団に記者として中野も随行、その際、以前にロンドンへ遊学したときに出会って肝胆相照らしたグルジア人のガンバシチという人物に再会している。1918年にグルジアはロシアから独立を宣言したが、ガンバシチはパリ講和会議の全権に任命されていた。グルジア独立の理想に燃えていた彼は大の親日派で、初めて会ったとき中野は“亀七”なる名前をつけてやり、“亀七”氏は東郷平八郎を尊敬していたので、“東郷亀七”と名乗ったそうだ。パリ講和会議で再会したとき、グルジアの独立を何とか列国に認めてもらおうと奮闘する彼の姿に中野は小国の悲哀を垣間見ている。

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2009年4月16日 (木)

岩田規久男編著『昭和恐慌の研究』

岩田規久男編著『昭和恐慌の研究』(東洋経済新報社、2004年)

 現在の平成不況における経済政策を考える先行事例として1920~1930年代の昭和恐慌を検討した共同研究。私は数式やグラフをみると頭が痛くなってくるので、そういう箇所はとばしながら通読(日経文化賞受賞作だから専門家の間で論拠の検証はクリアされているはず)、とりあえず読みながらとったメモを箇条書き。

・金本位制は貨幣と金(きん)の兌換を前提→金の自由な国際移動と国内における貨幣供給量とが連動→物価の自動調節機能を期待
・実際には、金流出国と金流入国とは非対称的で、教科書的にはうまくいかない
・WWⅠで各国は金本位制から離脱。戦後、徐々に復帰していたが、日本は関東大震災によるダメージなどのため復帰のタイミングが遅れていた
・浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相は金解禁を断行。その背景には「金本位制心性+清算主義」イデオロギー。つまり、金解禁をすれば(グローバル・スタンダード!)、金本位制の自動調節機能によって不健全な状態にある財界の整理が進み(構造改革!)、一時的には苦しいかもしれないが我慢すれば経済の立て直しができる
・経済政策の割り当て問題。マクロ経済の安定と財界整理の問題とでは処方箋が異なる→前者を優先しつつ両方取り組む必要(石橋湛山、高橋亀吉、小汀利得、山崎靖純ら新平価解禁四人組はこの点を理解していた)→しかし、「金本位制心性+清算主義」の人々(マスメディア主流派や井上蔵相)はこの点を混同していた
・人々の経済行動はどんな予想をするかに応じて異なる結果をもたらす→予想の根拠となるゲームのルール=政策レジームを転換したことを人々に信用させる必要がある(デフレ下ではインフレ期待の形成が必要→リフレ政策)
・高橋是清蔵相が金輸出再禁止、国内の経済政策を自律的に展開可能→高橋財政は「二段階レジーム転換」という仮説を提示(金本位制離脱→国債の日銀引き受け)
・経済メディアの問題。経済の長期停滞の打開策を求める世論の期待があった。大新聞などの経済メディアの頭を縛っていた「金本位制心性+清算主義」イデオロギーが世論をあおり、井上蔵相もこれに便乗した。世間知と専門知とが乖離したとき、通俗的に分かりやすい世間知が政府の政策決定に強い影響を及ぼしてしまう問題(小泉自民党の郵政選挙を思い浮かべる)

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2009年4月12日 (日)

福間良明『「戦争体験」の戦後史──世代・教養・イデオロギー』

福間良明『「戦争体験」の戦後史──世代・教養・イデオロギー』(中公新書、2009年)

 「平和への思いを新たにするために、戦争体験を語り継がなければならない」──確かに正論である。異議はない。しかし、それぞれに多様であり、また苛酷ですらあった“戦争体験”の“語りがたさ”を前にして、語り継ぎの中にはひょっとして断絶があったのではないか。本書は、“教養”の世代間ギャップという観点によって“戦争体験”の語り継ぎの変容を検討した知識社会学的な論考である。

 体験した者でなければ分からない“戦争体験”を語る戦中派の態度に(もちろん意図的ではないにしても)有無を言わせぬ威圧を戦後生まれの年少者は受け止めた。それはあたかも、彼ら戦中派自身が、大正教養主義にひたった戦前派世代から教養の欠如を蔑まれ(戦中派世代には言論統制の中で幅広い教養に接する機会がなかった)、従属を迫られたときの語り口によく似ていると本書は指摘する。

 例えば、立命館大学のキャンパスにあったわだつみ像を全共闘が破壊した事件が取り上げられる。彼らにとってわだつみ像は「反戦」のシンボルではなく、「戦後民主主義」を支えた知識人の傲慢さと映っていた(同様に、東大で丸山眞男がつるし上げられた事件にも言及される)。“戦争体験”の偶像化により、その位置付けられた脈絡がすり替わってしまっていた。そして現在においては、戦争体験の語り→「英霊」の顕彰につなげる議論と、日本の戦争責任→加害責任を問う議論という二項対立の状況を呈している。それぞれ自分たちの好みに合うように“戦争体験”を政治的に消費するばかりで、相互のコミュニケーションが断絶してしまっている。

 ここしばらく、右寄りの議論が随分と幅を利かせているように見受けられる。進歩主義的な観念論が相対化された点は歓迎できるものの、そのかわり逆方向に極端化した感情論があまりにも強すぎて私には違和感がぬぐえない。これもまた、かつて学界・言論界でヘゲモニーを握っていた“左翼”に対する反発の不健全な表面化と言うことができるだろう。地に足のついた議論を進めるためにはこうした呪縛から解き放たれねばならないわけだが、本書にはそのための示唆があるように思う。

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2009年4月11日 (土)

川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』

川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ、2009年)

 第一次世界大戦の結果、今後もし先進国の間で戦争が起こるとすれば、それは全国民を巻き込む激しい総力戦になるであろうという認識が一般に共有されていた。戦争抑止のため国際連盟、軍縮会議、不戦条約などの努力がなされてきたが、その効果についてはどのように考えられていたのだろうか?

 浜口雄幸は肯定的であった。国益の伸張手段を軍事力に求めるのではなく、経済的な国際競争力を強化して輸出市場の拡大を目指した。その点で、内政における金解禁政策、産業合理化政策、財政緊縮政策、そして外交面において国際協調の観点から軍縮を進める方針はすべて連動していた。中国に対しても、軍部が進める分離工作によって中国側の反感をいたずらに買うのではなく、むしろ中国の主権を尊重して輸出市場として経済的な協力を図るべきだと考えていた。

 対して、永田鉄山は国際協調に懐疑的であった。永田にしても、国際連盟・国際法の確立によって平和が実現できるのであれば本来その方が望ましいとは考えていた。しかし、そうした制度・規範を裏付ける制裁手段が現実には存在しない。もし紛争が起これば、国際規範に実効性がない以上、自力救済を図るしかない。総力戦という時代認識を踏まえ、高度国防国家構想を模索、軍事力整備のため資源を求めて満蒙・華北領有の方針を示した。

 国際関係論の分析視角で言うと、浜口はリベラリズム、永田はリアリズムと分類できるだろう。対外認識というのは、政策形成のロジックを組み立てる前提である。この前提となる認識のあり方における相違が、結論として導出される政策を大きく左右する。本書は浜口・永田という二人を、それぞれの政策形成ロジックのいわば理念型に仕立て上げることで、昭和初期における日本の政治方針の分岐点がすっきりと整理されており、興味深く読んだ。

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2009年3月28日 (土)

エドウィン・ブラック『IBMとホロコースト──ナチスと手を結んだ大企業』

エドウィン・ブラック(小川京子訳)『IBMとホロコースト──ナチスと手を結んだ大企業』(柏書房、2001年)

 ナチスによるユダヤ人の大量移送・虐殺はなぜあれほど迅速かつ正確に遂行できたのか? 几帳面なドイツ人という印象論では説明がつかない。パンチカード機の導入による組織活動の効率化がホロコーストを支えていた。機械だけでなく、統計学を駆使して人的資源の効率活用を目的とする経営管理技術によってユダヤ人の選別・動員が行われており、そうしたノウハウを提供したのがIBMであった。本書はその詳細を調べ上げたノンフィクションである。被占領地の中でも、このシステムが行き渡ったオランダではユダヤ人の死亡率が75%に達するのに対し、行き渡っていなかったフランスでは25%にとどまるなど具体的な違いが出ている(フランスの場合、政教分離が前提なので、データの基礎となる過去の国勢調査に宗教に関する項目がなかったことも一因のようだ)。“ソリューション・カンパニー”は、文字通りユダヤ人問題の“ファイナル・ソリューション”(最終的解決)に寄与したわけである。

 IBMの倫理的責任はもちろん免れ得ないにしても、非難するだけではあまり意味はない(社長のトーマス・ワトソンはファシズムに傾倒していたとも言われるが)。効率性の最大化を図ることを至上命題とする近代的組織において、組織人は私見を挟まず与えられた職務を粛々と遂行することが求められる(ヴェーバー的に言うと、“鉄の檻”における“精神なき専門人”といったところか)。目的は何であれ、いったんインプットがあれば自動的に動き出す人的システムが出来上がっていた。それを技術的に補完したのがIBMであった。彼らにとって“ビジネス”が至上目的で、自分たちの提供するものがどんな目的に使われるかは関係ない。そうした考え方を持っていた点で“近代”の不可分な要素としての技術至上的風潮が端的に表われていたと言える。ジーグムント・バウマン『近代とホロコースト』(→こちらを参照のこと)は、近代的組織モデルそのもののはらむ問題がホロコーストという極限状態を通して具体化したのだと指摘。本当に恐ろしいのは殺戮の事実ではなく、このような近代的組織モデルが必要とされている限り(実際、これは不可欠なのだ)、それは別の国でも今の時代でも起こり得ることだと言う。

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2009年3月22日 (日)

田野大輔『魅惑する帝国──政治の美学化とナチズム』

田野大輔『魅惑する帝国──政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会、2007年)

 現代史を振り返ってみたとき、ナチスの存在感は独特だ。ホロコーストのような第三帝国という政治体制が引き起こした残酷な禍々しさに戦慄しつつも、むしろそうであればこそ、この帝国の過剰なまでの演出に我々の眼差しがひきつけられる強烈な印象は否定できない。なぜあれだけ広範な大衆を巻き込むことができたのか、本書はその“魅力”のメカニズムを解明しようとする。“魅力”と表現することには抵抗を感じるかもしれない。無論、ナチスの政治体制は否定されるべきものだが、その“美学”を低俗なものとして一方的な断罪をするだけでは客観的な評価は望めないというスタンスを著者はとっている。斬新な視点でとても面白い研究書だと思う。

 ナチスは恐怖政治だけでドイツを支配したのではない。リベラルな個人主義による混沌を克服しようという志向性をナチスは持っており、普遍的な美の基準をもとに、近代を特徴付ける技術的進歩という手段によって、民族共同体の“美しい”秩序を作り出そうと目論んでいた。そこに大衆自身の欲望が動員されることになる。支配の手段として“美”的なものを利用したというのではなく、国民も巻き込んで政治と芸術の一体化した“国家芸術”を目指していたのだと本書は指摘する。

 “美”の基準とは? ローゼンベルクのようなイデオローグはゲルマン民族にこだわるフェルキッシュな反近代への志向性があったが、ヒトラーやゲッベルスはそれを軽視し、むしろナショナルな近代への志向性があったという。ヒトラーは古典期ギリシアを超歴史的なシンボルとして具体的な“美”の基準とみなした。それは帝国の力強さのシンボルであって、そこに向けて動員される技術信仰と矛盾するものではなかった。技術=近代性という点で、簡素な機能美を重視するバウハウスの美意識とナチズムのそれとは共通しているという指摘が興味深い。国民車(フォルクスワーゲン)や国民受信機(ラジオ)の大量生産は国民の画一化を促し、歓喜力行団での娯楽は労働者であっても同じ楽しみを得られるという点で社会的平等の感覚を植えつけた。ヒトラーは(ムッソリーニとは異なり)いかにも独裁者らしい傲慢な態度はとらず、むしろ謙虚さを演出し、メディアを通して国民との距離感を解消、ヒトラーを通して大衆の自己意識を映し出させた。つまり、ヒトラーという“祭祀”を媒介として、大衆一人ひとりが“民族共同体”の幻想に一体化させていく情緒的基盤をつくりあげたのである。

 ナチスの時代、ドイツ国民の消費生活水準はそれなりに豊かだった。ヒトラーを模したキッチュな小物が出回ったというのが面白い。ヒトラー人気にあやかって商品化する人がいたわけだ。そのキッチュさは権威を損なうものだとナチスは神経をとがらせたが、動機は好意だから対応に困っていたようだ。歓喜力行団もただの享楽に堕して政治性は失われた。そうした市民の脱政治化傾向もナチスは国民統合の手段として容認していた。

 ナチス時代の建築については井上章一『夢と魅惑の全体主義』(文春新書、2006年)でも取り上げられていた。最近読んだナチスものでは、飯田道子『ナチスと映画』(中公新書、2008年)がナチスのプロパガンダ映画と戦後におけるナチス=“悪役”イメージの両方をテーマとして取り上げていて興味深く読んだ。

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2009年3月21日 (土)

牧野雅彦『ヴェルサイユ条約──マックス・ウェーバーとドイツの講和』

牧野雅彦『ヴェルサイユ条約──マックス・ウェーバーとドイツの講和』(中公新書、2009年)

 ヴェルサイユ条約、ワイマール共和政確立という政治体制変動期にあたってマックス・ウェーバーはどのような態度をとったのか、彼の関わりを中心に政治史的な動向を描き出す。政治行為への責任の取り方について彼が信念・動機の純粋性を優先させる心情倫理と結果の是非を問う責任倫理とに分類していることはよく知られているが(『職業としての政治』を参照のこと)、これに加えて“戦争責任”の問題を取り上げているところに本書の特色がある。

 戦争の勝敗と道義的な正邪とに本来は関連性がないにもかかわらず、“戦争責任”を一方的にドイツに帰するのはおかしいという立場を彼は示した。勝者の自己正当化という問題もあるが、それ以上に「動機のよくない戦争→負けても仕方なかった」という論理で敗戦国ドイツが受け容れてしまうのは、これもまた敗北というありのままの事実から目を背けようとする裏返しの自己正当化に過ぎず、政治の結果責任を取る態度とは言いがたいと彼は考えた。ニーチェ的なルサンチマンの視点を絡めているところが興味深い(日本の戦争責任の問題について同様の趣旨のことを西尾幹二も論じていたな)。

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バーバラ・タックマン『八月の砲声』『決定的瞬間』

 以前、ケビン・コスナー主演「13デイズ」という映画を観たことがあった。キューバ危機におけるホワイトハウスの葛藤を描いているが、強硬アプローチ(力の論理)と融和アプローチの相克が端的に浮び上っていて国際政治学の入門としても面白いのではないかと思っている。軍部の強硬派が「ミュンヘンを忘れたのか!」と声を荒げるのを後に執務室に戻ったケネディが「バーバラ・タックマンの『八月の砲声』を読んだか?」と側近に声をかけるシーンがあった。

 バーバラ・タックマン(山室まりや訳)『八月の砲声』(上下、ちくま学芸文庫、2004年)は1914年8月、第一次世界大戦が始まった前後における関係各国首脳部の動向を中心に描き出したノンフィクションである。ヨーロッパ各国では同盟・敵対関係が複雑に入り組み、ドイツとフランスは互いに万一に備えて(本気ではないにせよ)戦闘計画を用意していた。張り巡らされた網に火をつけたのがサラエボ事件、錯綜した同盟・敵対関係が連鎖的に作動し始める。どの国も当初は短期・局地戦で済ませるつもりだった。しかし、はったりのかまし合い、見通しの誤り、カイゼルの気まぐれ、軍部の官僚的硬直(ヴィルヘルム2世が気まぐれで出した動員令を慌てて取り消そうとしたら、参謀総長(小)モルトケは「一度発令された動員は解除できません」)などなど、誤算の連続。パリとペテルブルクで宣戦の文書を手交するドイツ大使自身が当惑しており、相手国側と慰めあう始末。ベルリンの帝国宰相ベートマン・ホルヴェーグは「どうしてこんなことになってしまったのか、さっぱり分からない…」。青ざめる政治指導層とは裏腹に国民は熱狂している。

 バーバラ・タックマン(町野武訳)『決定的瞬間──暗号が世界を変えた』(ちくま学芸文庫、2008年)は、イギリス情報部によって解読されたドイツ外相ツィンメルマンの電報が結果としてアメリカの参戦を促し、大戦の流れを大きく変えることになった経緯をたどる。当初、アメリカは中立の立場を取っていたが、ドイツは万一アメリカが参戦してきた場合に備えて日本・メキシコと同盟を組んでアメリカに圧迫を加えようと画策していた。その極秘指令電報をイギリスは解読したのだが、解読の事実は極秘という条件でアメリカ側にリーク。ツィンメルマンはそんな電報など存在しないと突っぱねることもできたが、なぜか認めてしまった。アメリカの国内世論は沸騰し、アメリカの参戦が決まる。たった一本の電報でも、その使い方によって大勢を変えてしまうことがあり得る。

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2009年3月10日 (火)

悲劇のアルメニア人音楽家、コミタス

Rita Soulahian Kuyumjian, Archeology of Madness: Komitas, Portrait of an Armenian Icon, Gomidas Institute, 2001

 詳細は省くが、江文也と伊福部昭の二人への関心からアレクサンドル・チェレプニンという音楽家のことを調べ始め、Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer(Indiana University Press, 2008)という本を取り寄せた(読んでいる途中でほったらかしのままだが)。青年期のチェレプニンがグルジアのティフリスで過ごしていた時期の記述にほんの数ヶ所だがコミタス(Komitas)という名前を初めて見かけた。気になって調べてみると、アルメニア近代音楽の確立者と位置付けられているらしい。1915年のオスマン帝国によるアルメニア人ジェノサイドの生き残りだということが目を引いた。

 コミタスの曲をいくつか聴いてみた(iTune Storeがあると国内で入手できない曲も聴けるから本当に便利だ)。Hommage à Komitasにはアルメニア語とドイツ語の歌曲が集められており、ソプラノ独唱。軽やかで明るい。気軽に聴きやすい。Divine Liturgyはおそらく教会音楽なのだろう。男声合唱のポリフォニックな響きは力強く荘厳、同時に明朗なのびやかさもある。これはなかなか良い。

 本書Archeology of Madness: Komitas, Portrait of an Armenian Iconの著者の専門は精神医学である。「狂気の考古学」なんて穏やかでないタイトルだが、①コミタスはジェノサイドで精神に変調を来してしまった、②彼の音楽とアルメニア文化の探究には孤児としての生い立ちによる“父性”“母性”への渇求が動機として働いていたのではないか、以上の問題意識を持ちながらコミタスの生涯をたどっていくという内容である。なお、版元名にあるGomidasとはKomitasのフランス語表記らしい。

 コミタスは1869年9月26日、アナトリア西部のキュターヒャ(Kütahya)という町のアルメニア人家庭に生まれた。もともとの名前はソゴモン・ソゴモニアン(Soghomon Soghomonian)という。生後6ヶ月で母は亡くなり、父もアルコール中毒となって早くに死ぬ。孤児となった彼だが音楽的才能、とりわけ美しい歌声は人々の耳を引付け、アルメニアの聖地エチミアジン(Echmiadzin)の神学校に入る。アルメニア正教の大主教(カトリコス:Catholicos)ケヴォルク四世(Kevork Ⅳ)は彼の才能を認め、コミタスもカトリコスを父のように慕ったが、間もなく死んでしまった。

 教会には世俗とは違った名前を与える慣習があり、音楽家としても知られた7世紀のカトリコス、コミタス・アガイェツィ(Komitas Aghayetsi)にちなんで彼はコミタス・ヴァルタベッド(Vartabedとは司祭のこと)と呼ばれた。彼の母語はトルコ語でアルメニア語はあまり上手でなく、神学校入学当初は深刻に悩んだらしい。孤児としての出自からアルメニア教会に“家庭”を求め、さらには教会に代表されるアルメニア文化に自らをアイデンティファイする気持ちを強く持った。教会で音楽に取り組みながら、アルメニア音楽にはトルコ・ペルシア・ロシアなど周辺文化の影響が強いことを意識した。純粋な“アルメニアらしさ”を求めて教会音楽ばかりでなく労働歌や婚礼歌などの民謡採集にも努め(バルトークたちと同時代であることに当時の時代的雰囲気も感じられる)、それを踏まえて作曲活動にも取り組む。

 コミタスは合唱団を組織し、音楽教育者として後進の指導にあたった。しかし、彼のつくった恋愛歌や教会の外で演奏したことなど、さらには嫉妬もあって、教会内の保守派から風当たりが強くなった。ケヴォルク四世のような庇護者はもういない。同時に、音楽技法をきちんと学びたいという思いも強く、コミタスはエチミアジンを離れてドイツに留学する。パリのアルメニア人歌手マーガレット・ババイアン(Margaret Babaian)と親密な関係になったが、聖職者として一線を越えないよう距離は取ったらしい。コミタスの音楽はヨーロッパでも高く評価されたが、残念ながら職は得られなかった。また、アルメニアで音楽学校をつくりたいという夢もあったが、アルメニア教会内保守派からの風当たりには居心地の悪さも感じていた。そのため、アルメニア人人口の多いグルジアのティフリスやオスマン帝国のコンスタンティノープルに行って教育、演奏、作曲を行なう。

 第一次世界大戦が勃発。1915年4月、タラート内相の命令でコンスタンティノープル在住の指導的アルメニア知識人200人以上が一斉検挙された。政治活動の有無は関係なく、中には「統一と進歩委員会」へ資金援助していた人物すら含まれていた(1908年の青年トルコ革命で彼らは民族の平等も掲げたため、アルメニア人にも支持者がいた)。コミタスも例外ではなく、アナトリア中部のチャンキリ(Chankiri)へ移送される。自分たちに待ち受ける運命に怯えきった人をコミタスは「何かの間違いだ」となだめていたという。ところが、ある事件がおこる。移送の途中、歩きつかれてバケツに汲んだ水をがぶ飲みしていたとき、粗暴なトルコ兵からそのバケツを取り上げられ、水を浴びせられた。些細な事件だが、そのトルコ兵の態度を目の当たりにした瞬間、彼は顔面蒼白となって凍りついてしまったという。彼自身は虐殺現場を直接目撃したわけではないが、感受性の鋭敏な人だから、どんなことが進行中なのか、何かにハッと気付いてしまったようだ。平衡を保っていた精神が完全に崩れてしまった。周囲のすべてを恐怖と疑惑の眼差しでしか見られなくなった。これ以降、彼の表情や振舞いがおかしくなる。

 チャンキリへ送られたアルメニア人291人のうち40人だけが生き残った。コミタスも奇跡的にその中に含まれていた。彼の知人がメジド皇子(Prince Mejid→ひょっとして、大戦後にオスマン帝国最後のスルタンとなり、教養人として知られたアブデュル・メジド二世のことか?)を通して嘆願したり、アメリカのヘンリー・モーゲンソー(Henry Morgenthau)大使の働きかけもあったためだと言われている。だが、“死のキャンプ”から生き残っても、精神に変調を来したコミタスはもはや音楽活動などできなくなっていた。現在の用語で言うとPTSDだったと著者は指摘する。彼は知人の尽力でコンスタンティノープルの病院の精神科に入院した。

 この病院で彼はトルコ人、アルメニア人、ギリシア人と三人の主治医にかかった。トルコ人医師はコンスタンティノープルでも第一の権威ある名医だったが、そのトルコ人であるという一点だけでコミタスはもはや猜疑心しか持てなくなっていた。共に生き残った友人のアルメニア人医師なら良さそうだが、共感度が強すぎて互いに感情面での抑制がきかず、かえって難しかったらしい。ギリシア人医師は、アルメニア人と同様にオスマン帝国から抑圧されていたが、ただし虐殺されたわけではない。そのため、コミタスに同情しつつ、同時に客観的に距離を置いて対することができたため、彼とはうまくコミュニケーションがとれていたという。だが、そのギリシア人医師も病気で離任してしまう。

 コミタスの状況を案じた友人たちが彼をパリの病院に入れようと申し入れたが、彼はもうどこへも行きたくないと拒否した。そこで彼らは音楽協会がコミタスを招聘しているとウソをついてパリへと連れ出した。しかし、ウソだと知ったコミタスはプライドを傷つけられ、ますます感情的に孤立していく。1935年10月20日、パリで逝去。翌年、遺体はアルメニアのエレヴァンへ送られた。彼の苦しむ姿は、アルメニア人ジェノサイドの象徴とみなされたという。

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2009年3月 9日 (月)

亀山郁夫『大審問官スターリン』

亀山郁夫『大審問官スターリン』(小学館、2006年)

 私はハチャトゥリヤンのバレエ組曲「スパルタクス」の叙情性と激しさとを併せ持った素直なメロディーが結構好きなのだが、このバレエ、史実とは異なってスパルタクスは最終的に勝利する。“正義は勝つ!”みたいな勧善懲悪の単細胞思考、だから社会主義リアリズムなんてのはクソなんだと軽蔑するだけで私は済ませていた。

 ところが、本書の指摘で目からウロコが落ちた(103―104ページ)。「要するに、社会主義の勝利というヴィジョンのもとで現実を描き出さなくてはならないというのである。」夢想された未来を基準として現在を作り変えるという考え方で、それは“なせばなる”的な精神主義にもつながるし、歴史の改竄も平気で正当化される。もちろん、リアルな現実世界において社会主義が勝利するとは限らない(それどころか大失敗)。ここには根本的な矛盾への自己欺瞞があるが、「その意味で、社会主義リアリズムの信奉者は、リアリストであるよりも、むしろ、未来を予見する幻視者のメンタリティの持ち主であったといえる。」超歴史的な未来のユートピア、それは一体どんなものか? 「端的にいうなら、スターリンが描く未来の夢をどれくらい共有できるか、それこそが、すべての価値基準になったということである。」まさにスターリンの“大審問官”たる所以である。

「自由の身でありつづけることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探しだすことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや論議の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間という哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探しだすことだけではなく、すべての人間が心から信じてひれ伏すことのできるような、それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を探しだすことでもあるからだ。まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにほかならない。統一的な跪拝のために人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。」(ドストエフスキー[原卓也訳]『カラマーゾフの兄弟』上、新潮文庫、1978年、488-489ページ。本来なら亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫版から引くべきなのでしょうが、あいにく手もとにないもので)

 絶対全能なる権力者と、それに比べればけし粒のような文学者・芸術家たち。その非対称的な関係の中で翻弄された群像を本書は描き出していく。芸術家たちにはもちろん身の安全を図るという具体的な問題もあったが、そればかりでなく、スターリンによって体現された(と思われた)ロシアの全体性へ積極的に同一化しようというモメントが働いていたケースも見られる。スターリンはそうした“すり寄り”をもサディスティックに容赦なくたたきつぶしていくのだが、それでも人々はスターリンにすがりつこうとする。異様な光景である。

 また、スターリンには“オフラナ・ファイル”に記された帝政秘密警察への協力という忌まわしい過去が露見することへの恐怖による屈折もあった。こうした辺りも含め、人間心理の不可思議な機微と政治とが絡まり合った凄惨なるドラマとして興味深く読んだ。

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E・ラジンスキー『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯』、I・ドイッチャー『スターリン 政治的伝記』

 ヒトラーが独ソ不可侵条約を破ってソ連へ侵攻した折、スターリンはヒトラーの行動が予見できず(それどころか独ソ戦の可能性についての進言をすべて無視していた)無防備だった。自身の全能性に国民が疑問を持つことを彼は常に恐れていた。大戦中、アレクセイ・トルストイの戯曲『イワン雷帝』をびっしり書き込みしながら読んだ形跡があるという。試練に持ちこたえること、そして国家をまとめ上げるために“恐怖”を使うこと。スターリンの政治経歴を洗い始めると、彼の一挙手一投足ことごとくに粛清の影が透けて見えてくる。

 エドワード・ラジンスキー(工藤精一郎訳)『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯』(上下、NHK出版、1996年)は公文書館の史料をふんだんに駆使してスターリンの公私にわたって血にまみれた生涯をたどっていく。ラジンスキーは歴史家であると同時に劇作家でもあり、史料引用も織り込んだたくみな語り口によってスターリンの行動を、とりわけ絶え間なく続く粛清劇を再現していく。亀山郁夫『大審問官スターリン』でも本書に典拠を求める記述が随所で見られたから、スターリン研究の一つのスタンダードになっているのだろうか。

 アイザック・ドイッチャー(上原和夫訳)『スターリン 政治的伝記』(新装版、みすず書房、1984年)は、トロツキー伝・レーニン伝と並ぶ三部作の一つ。ドイッチャーはかつてポーランド共産党員だったが、彼自身スターリニズムによってパージされてイギリスに亡命したという経緯があり、そうした体験がソ連の権力構造を解明しようという動機につながっている。スターリンを中心とした政治史が詳密につづられる。努めて客観的(悪く言えば無味乾燥)な筆致で、政治亡命者にありがちなプロパガンダ的要素はない。スターリン存命時から執筆に着手し、史料的制約も当然あったことを考え合わせると当時としてはかなり精度の高い研究だったのだろう。とりあえず興味を持った点を一つだけメモしておくと、グルジアにはもともと“パン・ロシア主義”と言うべきものがなかったのに、なぜスターリンは“大ロシア排外主義”とレーニンから批判されてしまうような態度を取ったのか?→ボルシェヴィズムの中央集権化志向→結果としてロシア愛国主義・膨張主義と同じ行動となった。

 なお、冷戦期、中立的なソ連研究は左翼・反共派の双方から罵倒されていたらしいが、ドイッチャーはE・H・カーのソ連研究を早くから評価していたという。

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2009年3月 6日 (金)

ニコラス・グリフィン『コーカサス:キリスト教とイスラム教の狭間への旅』

Nicholas Griffin, Caucasus: A Journey to the Land between Christianity and Islam, The University of Chicago Press, 2004

 1999年に著者はコーカサスを旅して歩きまわり、そのトラブル続きの旅行記と、19世紀以来のコーカサス近現代史とが交互につづられていき、気軽に読みやすい構成となっている。とりわけ重きを置いて描かれるのがイマーム・シャミール(Imam Shamil, 1797-1871)だ。19世紀半ば頃、ロシアに対する抵抗運動を通してムスリム系の国家が形成されたが、その第三代目イマームとなった人物である。

 ロシア軍による掃討作戦は凄惨を極めたが、他方でシャミール配下の軍勢も負けてはいない。グルジアの名門チャヴチャヴァゼ(Chavchavadze)家の荘園だったツィノンダリ(Tsinondali)を訪れた際には、かつてシャミールの配下がチャヴチャヴァゼ家の女子供を拉致した時の血なまぐさい出来事も描写される(グルジア貴族はロシア側についていた)。コーカサスでは当時も今も誘拐→身代金や政治交渉の条件とすることが普通に行なわれてきた。シャミールの長男ジャマール・アッディーン(Jamal al-Din)はロシア軍の捕虜となっており、その交換交渉にはアルメニア人のロシア軍人イサーク・グラモフ(Issac Gramov)があたり、無事成功。ところが、ジャマールは完全にロシア文化に感化されており、ロシア軍の制服姿で戻ってきたため、シャミールは戸惑ったようだ。ジャマールが後継者となるので、ロシア側とムスリム側との橋渡し役として彼の存在は期待されたが、残念ながら捕虜交換から二年後に病死してしまう。

 やがてイマーム国家は壊滅、シャミールはロシアに投降し、その庇護下で余生を過ごす。アレクサンドル二世やエルモーロフ(コーカサス征服の端緒を開いた人物。ロシアにとっては英雄だが、コーカサスでは悪名高い)とすら顔を合わせている。末の息子はロシア軍に入隊して、たとえばグルジアのグリア地方の農民反乱鎮圧などにも出征したようだ。

 晩年のシャミールはどんな心境だったのだろう? ロシア側の記録では平穏だったとされるが、本書に登場するシャミールの子孫の女性(彼女はグルジア化されている)はそうした見方に異議を唱えていた。シャミールは現在でもコーカサスのムスリムの間では英雄視されており、本書でも、たとえばチェチェンの野戦司令官シャミール・バサーエフ(Shamil Basayev)の姿にも重ねあわされている。

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2009年3月 5日 (木)

スティーヴン・F・ジョーンズ『グルジア色の社会主義:社会民主主義へ向けてのヨーロッパ的路線 1883-1917年』

Stephen F. Jones, Socialism in Georgian Colors: The European Road to Social Democracy, 1883-1917, Harvard University Press, 2005

 19世紀後半から、ロシアもしくはヨーロッパで教育を受けたグルジア人知識人(tergdaleulni)は海外での進歩的思潮を故国に紹介し始める。ロシア帝国による支配、多民族的なコーカサスにおける横の緊張関係という二重の困難がはらまれた条件の下で、いかにグルジア人の民族自決と近代化=社会改革とを両立させながら実現していくのか? こうした問いかけを抱えた彼らの多くは社会主義に敏感に反応した。『グルジア色の社会主義』(Socialism in Georgian Colors)──つまり、グルジア人自身のフィルターを通して咀嚼された“社会主義”が、とりわけ民族問題との取り組みを通して、帝政支配下から1917年のロシア革命(第二次)に至るまでにどのような経過で形成されたのかを本書はたどっていく。

 本書の主役となるのはノエ・ジョルダニア(Noe Zhordania、1869~1953年)である。ティフリスの神学校の出身(なお、スターリンもここの出身。この二人に限らず、グルジア人革命家の多くがこの神学校出身というのが面白い。ジョルダニアの方がスターリンよりも年長だが、奇しくも没年は同じ)。ジョルダニアはジャーナリストとして活躍したが、政府の弾圧によりたびたびヨーロッパへ亡命、西欧思想から大きな影響を受ける(とりわけ、カウツキーなどのオーストリア・マルクス主義)。ロシア社会民主労働党の分裂に際してはメンシェヴィキで指導的立場に立つ(グルジア人がメンシェヴィキ内では一大勢力となるほどの多人数を占め、対してスターリンやオルジョニキーゼのようにボルシェヴィキに行ったのはごく少数)。1905年の第一次ロシア革命のとき故国グルジアでもボルシェヴィキとメンシェヴィキとが競い合い、一時はボルシェヴィキが優勢だったが、急遽帰国したジョルダニアは各政治勢力の調整に奔走して情勢を覆し、メンシェヴィキの主導権を確立した。その後も、政府からの弾圧を受けながらも(ストルイピン反動など)、基本的には合法的議会主義路線をとる(コーカサス総督ヴォロンツォフ=ダシュコフ[Vorontsov-Dashkov]が比較的リベラルな態度をとったことも大きい)。ジョルダニアはメンシェヴィキの指導者ではあったが、グルジア人の間では党派を超えた尊敬を勝ち得ており、1918年にグルジア共和国として独立したときには大統領に選出されている。1921年にグルジアが赤軍によって制圧された後は亡命政府首班。

 グルジアでのみメンシェヴィキ政権が成立した理由として、ジョルダニアの政治的リーダーシップがまず挙げられるが、それ以上に、彼の主張がグルジア人の一般世論にうまく適合していたからだと言える。

 ジョルダニアの目標はヨーロッパ的な社会民主主義であり、大衆的基盤に基づく議会主義、地方分権(→文化的自治)、多元主義(→民族共存)などが特徴として挙げられる。レーニンの少数精鋭的中央集権化志向に対しては民主主義の後退であるとして反対、メンシェヴィキ側に立つ。同時に、ジョルダニアは、①大衆運動の基盤として農民層を重視(この点ではレーニンと共通。グルジアのグリア[Guria]地方では革命的な農村自治が成功したという実例があり、これは農村に基盤を置く民族解放運動の先駆例だと本書は指摘)、②各民族の文化的権利を要求(→さらに、場合によってはブルジョワジーまでも含めて階級多元的なグルジア人のnational partyを目指す)、以上の点ではロシア人メンシェヴィキとも見解は一致していなかった。つまり、メンシェヴィキという看板を掲げつつも、内実は双方どちらとも異なるグルジア独自の社会民主主義だった。

 グルジアの社会民主主義者は社会主義とナショナリズムとは相互補完的だというスタンスをとったが、コーカサスの多民族的状況は楽観を許さない。民族同士の歴史的・宗教的・文化的反目というだけではない。役人・兵士はロシア人、商業はアルメニア人、低層労働はグルジア人という形で階層分化と民族問題とが結びつき、とりわけティフリスの市会ではアルメニア人が多数派(納税額による制限選挙のため)→グルジア人の不満がくすぶっていた。階級闘争+民族問題→大衆動員はやりやすかったが、民族的反目という側面が際立ってしまう。また、オスマン帝国の影がちらつく中、グルジア系ムスリムのアジャリア(Achara)人がロシア軍によって虐殺されたり、トルコ系ムスリムとアルメニア人との抗争も熾烈となっていた。

 ナショナリズムについてジョルダニアたちはどのような考え方をしていたか。①小国だけで独立しても大国にすぐ呑み込まれてしまう→外敵に対するシェルターとしてロシアが必要(具体的にはオスマン帝国が念頭に置かれていた)、②経済的基盤の弱い小国は資本主義の動向に対して脆弱→ブルジョワ支配が容易となる、③たとえ独立したとしても今度は領域内のマイノリティーを抑圧したり隣国との領土紛争を招いたりしてしまう(現実にそうなっている)、こうした認識に基づき、“民主化されたロシア”という枠組みの中で、各民族が平等な立場で分権的自治が保証されるべきだという構想を持っていた。社会主義はこの構想を後押ししてくれるものだと位置付けた。グルジア人としての民族的自尊心を擁護する一方で、政治的ナショナリズムは紛争の種になってしまうと考え、ロシアからの独立にはむしろ反対していた(このあたり、チェコ人の民族自決のためにこそ、ハプスブルク家を紐帯とする連邦を主張していたパラツキーなども想起される)。

 しかしながら、情勢は彼らの思う方向には進まなかった。1917年、ボルシェヴィキの武装蜂起(十月革命)により、首都ペトログラードは大混乱。これはあくまでも一過性の事態だと考え、レーニンの中央集権化志向に対する警戒もあってグルジアは反ボルシェヴィキでまとまった。他方で、帝政派のコルニーロフ将軍率いる反革命軍が跋扈し、南からはオスマン帝国軍の脅威が迫っている(まだ第一次世界大戦中)。こうした事態を受けて、とりあえずペトログラードにおける政治混乱が収まるまでの緊急避難的措置という形でトランスコーカサス連邦共和国が成立した。ところが、各民族の不協和音が表面化してあっという間に瓦解してしまい、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの三国が分立(『ロシア領アゼルバイジャン』の記事も参照のこと)。それぞれ1920~21年にかけて赤軍によって個別撃破的に制圧されていくが、それは本書の範囲を超える。

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2009年3月 4日 (水)

E・H・カー『ロシア革命 レーニンからスターリンへ、1917-1929年』

E・H・カー(塩川伸明訳)『ロシア革命 レーニンからスターリンへ、1917-1929年』(岩波現代文庫、2000年)

 ロシア革命について大づかみできる本は何かなかったかな、と本書を思い出して、本棚から引っ張り出し、ざっと目を通した。とりあえず興味を持ってメモした論点を箇条書きすると、
・レーニンの少数精鋭主義(戦闘者集団として不適格者は排除)→レーニンの死後に大量入党→これには反対派の排除も伴い、党と国家を融合させた指揮・監督機構の形成。
・ゴスポラン内部での経済論争→「発生論者」(経済情勢の客観的傾向性に留意、旧メンシェヴィキが多い)と「目的論」(政治的な計画を重視。共産党員が多い)→後者のイニシアチブ→生産合理化のための機械等が乏しいから個々人の肉体労働に依存、一種の精神主義。
・自給自足的な農民の行動は予測不可能→食糧徴発などの計画に狂い。
・マルクス主義者は経済の工業化・近代化に傾倒、軍隊や官僚はロシア民族の権力と威信に傾倒→両者が相俟って、党・政府・行政機構の統制力へ求心力→ここにスターリンの指導力が求められた。
・1922年、死の床にあったレーニンの口述→スターリン、ジェルジンスキー、オルジョニキーゼらはグルジア問題で性急な態度を取ってグルジア人側を硬化させたとして、大ロシア排外主義だと批判(ただし、三人ともロシア人ではないが)。

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2009年2月23日 (月)

チャールズ・キング『自由という幻影:コーカサスの歴史』

Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008

 コーカサスの歴史を調べようとすると、あたかもジグソーパズルを解くような面倒くささに頭が痛くなってくる。現在、国際的に承認された独立国としてはアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの三ヶ国があるが(他にもいわゆる未承認国家やロシア連邦内の自治共和国などがある)、それぞれについて個別に通史的に勉強しようと思っても、必ず他の国の歴史と分かちがたく絡まりあっている。

 本質主義的に「~民族」と一義的にくくることなど不可能で、人種的・文化的・言語的・宗教的・政治的に様々な条件が歴史的コンテクストに応じて組み合わさり、組み替えられながら、何となく“民族”らしきものが形成されているとしか言いようがない。その点で、コーカサスでの“民族”概念は状況依存的である。

 近現代においてコーカサスはロシアの支配を受けた。バラバラだったこの地域はロシア支配下で制度的・経済的に統合され、ロシア経由で近代化の洗礼を受けた。そこには複雑な矛盾がはらまれていた。第一に、ロシア化政策に対する反発と同時に、ロシア文化への愛着もあったというアンビヴァレンス。それ以上に深刻な問題として、第二に、ロシアの支配下から逃れようにも、“民族”としての境界線が曖昧かつ錯綜している中、それはどこからどこへ向けての解放なのか? 誰にとっての解放なのか? どこに線引きをしても必ず紛争を招いてしまうという矛盾。“民族”の自由を渇求しても、悲しいことにその自由はどうしても形をなすことのできない困難──本書のタイトル『自由という幻影』(The Ghost of Freedom)はそうしたコーカサス地域が直面した不可避的な宿命を端的に表わしている。

 本書は、ロシア帝国の南進が顕著となった十八世紀から、ソ連崩壊による独立・民族紛争の再燃した最近に至るまでコーカサス近現代史を概観する。ここでのコーカサス地域にはアゼルバイジャン・アルメニア・グルジア三ヶ国が独立した南コーカサスとロシア連邦内の共和国が密集した北コーカサスの両方を含む。文学作品からの引用があったり、歴史を彩る人物群像も取り上げたりとエピソードは豊富。たとえて言うと、中央公論社の新旧『世界の歴史』シリーズのように学術的なクオリティーを備えつつ読み物としても十分にたえる、そうした感じの歴史概説書として飽きさせずに読ませてくれる。

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2009年2月22日 (日)

フランク・ティボル『ハンガリー 西欧幻想の罠──戦間期の親英米派と領土問題』

フランク・ティボル(寺尾信昭編訳)『ハンガリー 西欧幻想の罠──戦間期の親英米派と領土問題』(彩流社、2008年)

 意外と気付かれていないが、ハンガリーはドイツと同様に第一次・第二次両世界大戦の敗戦国である(両国の置かれた事情は全く異なるが)。第一次大戦ではオーストリア=ハンガリー二重帝国の一員として参戦した。敗戦、二重帝国解体後はトリアノン条約によって領土を大幅に削減されてしまう。これはあまりにも不当であるという世論が渦巻き、失地回復のための条約改正が政治課題となった。この失地回復という目標やソ連の脅威などの要因から親ナチス派が台頭する。

 他方、国家元首のホルティ・ミクローシュ摂政を中心とした政治指導層は、東のソ連・西のドイツという二大勢力の狭間にあって如何にハンガリーの独立を維持するかに腐心していた。彼らの外交政策にはハンドリングの難しい矛盾がはらまれていた。英米の支持によってソ連・ナチス双方からの脅威に対処しようと望む一方で、ナチスの援助によって回復した領土を失いたくないとも考えていたし、何よりも英米側はハンガリーをさほど重要視していなかった。こうしたギャップを埋めようと奮闘したホルティ側近の政治家・外交官・言論人たちの動向を本書は跡付ける。とりわけ、ナチスへの配慮から英米への接近をおおっぴらにはできなかったため、文化外交を通して英米側にアピールしようとした努力に焦点が当てられる。

 結局、ナチスに対する面従腹背の外交路線は破綻してテレキ首相は自殺、ハンガリーは日独伊三国同盟に加盟して第二次世界大戦に巻き込まれる。1944年にホルティは親英米派の登用によって巻き返しを図るが、ドイツ軍によって占領され、ホルティは摂政の座を追われた。『ハンガリー・クウォータリー』誌のバログはユダヤ人であったため殺され、反ナチス的な政治家たちも次々と逮捕・処刑された。

 なお、当時のハンガリーは立憲君主政。ただし、ハプスブルク家の復活はあり得ないとして、海軍提督出身のホルティが摂政となっていた。彼はかつて侍従武官としてフランツ・ヨーゼフ帝の側に仕えていたことがあり、難局にぶつかるたびに「フランツ・ヨーゼフならばどのように振舞ったろうか」と常に自問していたという。

 戦間期のハンガリー政治史については、アントニー・ポロンスキ(羽場監訳、越村・篠原・安井訳)『小独裁者たち──両大戦間期の東欧における民主主義体制の崩壊』(法政大学出版局、1993年)に1章が割かれている。

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2009年2月21日 (土)

『ロシア領アゼルバイジャン、1905─1920年:ムスリム・コミュニティにおけるナショナル・アイデンティティーの形成』

Tadeusz Swietochowski, Russian Azerbaijan, 1905─1920: The Shaping of National Identity in a Muslim Community, Cambridge University Press, 2004

 アゼルバイジャンの政治的アイデンティティーは様々に錯綜する条件の中で揺れ動きながら形成されてきた。ロシアの圧倒的な影響の中でムスリムとしての帰属意識、トルコ系としての帰属意識、そしてコーカサス連邦主義などにもひかれつつ、1905年の第一次ロシア革命、1914年からの第一次世界大戦(ロシア対オスマン帝国)、1917年の第二次ロシア革命と政治的混乱が続く中で、ロシアでもない、トルコでもないものとしてアゼルバイジャン人意識が現われてくる。

 前史をメモしておくと、
・バラバラだった藩国がロシア支配下で一つに統合→アゼルバイジャンのトルコ系ムスリムの間で経済的一体感(→ペルシア領アゼルバイジャンとは分離)。また、ロシア帝国は土着エリート層を支配システムの中に組み込んでいた。
・石油→産業化→バクーには様々な出自の人々が集まった→技能職はロシア人・アルメニア人が独占し、ムスリム系は単純労働者という分化→アルメニア人への敵意の背景
・3つの思想潮流→①パン・トルコ主義(ガスプリンスキのジャディード運動の影響もある)、②パン・イスラム主義(アル・アフガーニーの影響。スンナ・シーア両派の和解も含めて)、③リベラリズム(ロシア経由で西欧思想が流入。1900年にはバクーにロシア社会民主労働党の支部)

 1917年の二月革命に際して、アゼルバイジャン人は基本的にロシアへの残留を望んでいた(二つの方向性→左派は革命ロシアとの連携を目指し、パン・イスラム主義者は全ロシアのムスリムとの一体感を優先させよとした)。続く十月革命(ボルシェヴィキの政権奪取)に際しても、トランスコーカサス全体の空気として民主的なロシア内への残留を求める考え方が一般的だったが、ボルシェヴィズムによる政治混乱回避を目的として、グルジアのメンシェヴィキ、アルメニアのダシュナク、ムスリム系社会主義者など非ボル系左派を中心にザカフコム(ZAKAVKOM)を形成。Seimという議会が開設されて、1918年にはトランスコーカサス連邦共和国の独立という成り行きになった。ただし、これはロシアの政治混乱やオスマン軍の進軍という二つの対外状況への暫定的対処という消極的な理由によるものにすぎず、独立への熱狂などない実に冷めたものだった。

 同床異夢のかりそめの連邦はすぐに破綻した。まず、アゼルバイジャン人とアルメニア人との緊張関係。1917年、ロシア軍が引き揚げ始めるが、その代わりに空白を埋めるべくロシア人と同じキリスト教のアルメニア人・グルジア人を動員して軍隊組織がつくられた。とりわけ、反オスマン意識の強いアルメニア人(トルコ人による虐殺が進行中)と親オスマン意識の強いムスリム系住民とが反目、1918年、いわゆるMarch Days、バクーでダシュナクがムスリム系住民を虐殺。これ以降、ムスリム系住民にはトルコへの傾斜が強まっていた(ただし、ダシュナクとムスリム系組織との間でも連絡を取り合って、双方で事態を沈静化させようという動きも頻繁に見られた)。グルジア人には、オスマン軍が来攻してきたときムスリム系は本当にトランスコーカサス連邦に忠誠を誓えるのかと懐疑的で、やがてドイツの支援(オスマン帝国を牽制してもらう)を当て込んで1918年5月26日にグルジアの独立を宣言、連邦はほんの一ヶ月ちょっとで崩壊した。

 アゼルバイジャンは5月28日に独立を宣言した(ただし、バクーではボルシェヴィキを含めたコミューンが成立しており、首都は西部のギャンジャに置かれた)。これ以降、トルコ系ムスリムは公的にアゼルバイジャン人となる。やがてオスマン軍が進駐してくるが、オスマン軍司令官の傲慢な態度とアゼルバイジャン指導部の思惑とのズレが鮮明となり、トルコを当て込む心情は急速に冷えてしまった。他方、赤軍の敗北により、バクーのコミューンではダシュナク・右派エスエル(SR→社会革命党)・メンシェヴィキが連携してボルシェヴィキ指導者シャウミアンを追放、イギリス軍を招く。ところが、オスマン軍によってバクーは陥落、この際、March Daysの報復として1万人前後のアルメニア人がアゼルバイジャン人によって虐殺された。

 第一次世界大戦でオスマン帝国は敗北し、イギリス軍がバクーに進駐。イギリス軍の占領下で当面の安全は保障され、民主的な制度づくりが進められた。アゼルバイジャンの政治指導者たちはイギリスの民主主義志向に敏感に反応しており、いちはやく暫定議会を召集して直接選挙・比例代表制・完全普通選挙(女性も含めて)による選挙法を可決した。イスラム世界で初めて議会制民主主義が登場したのはアゼルバイジャンであり、結局実施する時間はなかったものの女性参政権が認められていたことは注目に値する(日本よりも早い!)。このアゼルバイジャン共和国において、パン・イスラム主義でもパン・トルコ主義でもなく、トルコ系であっても自前の国民国家を持つアゼルバイジャン人としてのナショナリズムが形成された(ただし、知識人中心で、末端の農民レベルまでは行渡ってはいなかったようだ)。安全保障面ではグルジア・アルメニアとの連携が基本方針となる。ただし、民主的制度は整ったものの、それを運用していく人材が不足していた。連立政権の下で政情も不安定となった。

 アゼルバイジャンの共産主義者も自前の国民国家を経験したことから大きな影響を受けており、彼らはソ連への加盟を目指しつつも、それがロシア内部の単なる一地方としてソヴィエト化するのか、それとも自立した国家としてソ連に加盟するのかが問題となった。1920年、バクーの共産主義者の動きに呼応する形で赤軍が国境線を越え、4月27日、アゼルバイジャン議会はボルシェヴィキ側の最後通牒をのんだ。ほぼ無血でボルシェヴィキの支配下に入ったが、共和国の指導的政治家たちはただちに逮捕・処刑されたほか、議会指導者のレスルザーデはトルコに亡命、初代首相のホイスキーは亡命先のトビリシ(グルジア首都)で暗殺された。なお、ボルシェヴィキは、内部からの共産主義者の反乱と外部からの軍事的圧力というこのパターンを隣国グルジア・アルメニアでも繰り返そうとしたが、この二国ではボルシェヴィキの勢力は弱かったので手こずり、制圧には翌1921年までかかった。

(Tadeusz Swietochowskiという著者名はスペルからするとポーランド系だと思うが、タデウシュ・スヴェトチョフスキと読んでいいのだろうか?)

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2009年2月16日 (月)

アルメニア史についてメモ

 アルメニアの通史としては、ジャン・ピエール・アレム(藤野幸雄訳)『アルメニア』(白水社・文庫クセジュ、1986年)、佐藤信夫『新アルメニア史 人類の再生と滅亡の地』(泰流社、1988年)、中島偉晴『閃光のアルメニア ナゴルノ・カラバフはどこへ』(神保出版会、1990年)、藤野幸雄『悲劇のアルメニア』(新潮選書、1991年)のほか、北川誠一・前田弘毅・廣瀬陽子・吉村貴之編著『コーカサスを知るための60章』(明石書店、2006年)の関連箇所を参照のこと。藤野書が過不足なくまとまっており、入門書として一番読みやすい。

 とりあえず頭に残ったポイントを書き出すと、
・アルメニア人のシンボルとなっているアララト山(ただし、現トルコ領)→語源的に古代ウラルトゥ王国に由来(母音変化により、ウラルトゥ→アララト)。
・後301年にキリスト教を国教化した最古のキリスト教国だが、太陽崇拝・アナヒータ(大地母神)崇拝など古代の風習も残っているほか、ゾロアスター教の痕跡も見られるらしい。
・エチミアジン大寺院にキリスト教のアルメニア大主教(カトリコス)がいて、メスロープ・マシュトツがアルメニア文字をつくった→ペルシア文化と訣別し、アルメニア人としての民族的一体感。
・11世紀以降、アナトリア中西部のキリキアへの移住が始まる→小アルメニア(キリキア)王国→十字軍と連携した。キリキアにアルメニア大主教が置かれたが、キリキア王国滅亡後も存続→エチミアジンと一種の分立状態。
・18世紀以降、ロシアの南下→1828年、ロシアとペルシアとの間でトルコマンチャーイ条約→現在のアルメニアの国境線がほぼ確定→アルメニア人はロシア領とそれ以外とに分裂。
・19世紀末、ハンチャク党(社会主義)、ダシュナク党(民族主義)などの結成→アルメニア人の政治活動活発化、権利要求の他、分裂したアルメニア再統合の主張も出てくる。
・オスマン帝国は、アルメニア人の活動はロシア帝国と手を結ぶのではないかと猜疑心→1894~96年、赤いスルタン・アブドュル=ハミト二世によるアルメニア人大虐殺。

 アルメニア現代史で最も重大な事件はオスマン帝国による大虐殺である。「統一と進歩委員会」(いわゆる“青年トルコ党”)のエンヴェル陸相・タラート内相・ジェマル海相の三頭政治による舵取りでオスマン帝国は第一次世界大戦に参戦、1915年から国内のアルメニア人の“移送”(すなわち抹殺)を指示した。その状況は中島偉晴『アルメニア人ジェノサイド 民族4000年の歴史と文化』(明石書店、2007年)に詳しいほか、デーヴィッド・ケルディアン(越智道雄訳)『アルメニアの少女』(評論社、1990年)、マリグ・オアニアン(北川恵美訳)『異境のアルメニア人』(明石書店、1990年)は生き残った人の逃避行を生々しく描き出している。この虐殺にはアッシリア人も巻き込まれた。トルコ人やクルド人でもアルメニア人に救いの手を差し伸べた人もいたが、そうした行為は処罰の対象となったし、地方総督でも拒否した者もいたが、抗議の辞任や左遷、場合によっては処刑された。憎悪や憤怒による偶発的な虐殺というよりも、政府による指揮命令系統に従った虐殺として近代的なジェノサイドの始まりを意味した。ヒトラーが第二次世界大戦を仕掛けるにあたり、「今日、だれがあのアルメニア人虐殺なんて覚えているだろうか?」と語ったことはよく知られている。

 オスマン帝国の敗戦後、青年トルコの三頭政治家はみな国外に逃亡したが、タラートは1921年にベルリンで、ジェマルは1922年にグルジアのティフリスで暗殺された(山内昌之『納得しなかった男 エンヴェル・パシャ 中東から中央アジアへ』岩波書店、1999年)。タラート暗殺犯のテフレリアンが裁判(アルメニア人への同情から無罪になった)にかけられたことに関心を抱いた国際法専攻の学生ラファエル・レムキンは後にジェノサイド防止条約の制定に尽力することになる(Samantha Power, A Problem from Hell: America and the Age of Genocide, Harper Perennial, 2007)。なお、アルメニア人によるトルコ人への復讐テロは1980年代まで起こった。

 トルコにとってアルメニア問題はいまだにタブーとなっている。ノーベル賞作家オルハン・パムクがアルメニア人虐殺に言及して、国家侮辱罪に問われたことは記憶に新しい。背景の一つには、トルコ国内での歴史教育の問題がある。アメリカに行ったあるトルコ人政治学者が語るところによると、アルメニア人学生からアルメニア人虐殺問題について指摘されたところ、そもそもその問題について知らないために感情的にムキになってしまうらしい(中島偉晴『アルメニア人ジェノサイド 民族4000年の歴史と文化』)。

 アルメニア教会がアルメニアのエチミアジンとキリキア(その後、レバノンのアンテリアス)とに分立していたことは、アルメニア人の国外亡命組織の派閥抗争にも暗い影を落とした。共産党支配下でエチミアジンの教会が荒廃する一方、オスマン帝国のジェノサイドを逃れてアメリカにいたトゥーリアン大主教(Archbishop Tourian、キリキア系)はソ連のアルメニア共和国と連携したが、これはソ連によって弾圧された民族主義政党ダシュナクからは裏切り行為とみなされ、トゥーリアンは暗殺された(Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008, 179-181)。ソ連崩壊後も、アメリカ帰りのアルメニア人ともともといたアルメニア人とでは政治主張(たとえばナゴルノカラバフ紛争についてなど)に温度差があるらしい。

 最近のアルメニア情勢をめぐっては、廣瀬陽子『強権と不安の超大国・ロシア──旧ソ連諸国から見た「光と影」』(光文社新書、2008年)、『コーカサス 国際関係の十字路』集英社新書、2008年を参照のこと。

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2009年2月14日 (土)

トム・レイス『オリエンタリスト』

Tom Reiss, The Orientalist: Solving the Mystery of a Strange and Dangerous Life, Random House, 2005

 クルバン・サイード(松本みどり訳)『アリとニノ』(河出書房新社、2001年)という小説がある。舞台はカスピ海沿岸、石油のにおいがたちこめる街バクー。ムスリムの青年アリとグルジア人貴族の美少女ニノ、いわばコーカサス版『ロミオとジュリエット』といった趣きのロマンスである。第一次世界大戦やロシア革命を背景に、コーカサスの複雑な民族関係、さらにはキリスト教とイスラム教、ヨーロッパとアジア、近代と近代以前、こうした対立構図も、二人が運命に翻弄される姿を通してストーリーに織り込まれている。1937年にウィーンで刊行されて以来、欧米ではロングセラーとなっているらしい。

 だが、この小説よりも、作者自身の数奇な生涯の方がはるかにエキサイティングだ。

 クルバン・サイードというのはオーストリアの男爵夫人エルフレーデ・エーレンフェルス(Elflede Ehrenfels)とエサド・ベイ(Essad Bey)の二人によるペンネームだが、実質的にはエサド・ベイの手になる。Tom Reiss, The Orientalist: Solving the Mystery of a Strange and Dangerous Lifeは、このエサド・ベイなる人物の謎に包まれた波乱の人生を、関係者のインタビューや時には当時の秘密警察のファイルなども用いながら解き明かそうとしたノンフィクションである。

 エサド・ベイ、もとの名をレフ・ヌッシムバウム(Lev Nussimbaum)という。1905年、石油で一財産をなしたバクー(現アゼルバイジャンの首都)のユダヤ人家庭に生まれた。第一次世界大戦、ロシア革命と続く混乱の時代、ヌッシムバウム一家はトルキスタン、イラン、アルメニア、グルジア、トルコと転々と逃げまわり、コンスタンティノープルからヨーロッパへ渡る(なお、レフがまだ幼かった頃に自殺した母親は共産主義シンパで、若き日のスターリンとも面識があったらしい)。コンスタンティノープルではオスマン帝国の黄昏を、イタリアではローマ進軍直前の黒シャツたちを、ベルリンではドイツ革命やスパルタクス団の武装蜂起による混乱を、それぞれ目の当たりにした。

 レフはドイツでロシア人亡命者の子弟向けの学校に入学したが、何人かの親友はできたものの、周囲にはあまり馴染めなかったようだ。孤独な彼の心は、“オリエント”への興味に吸い込まれるように引き寄せられ、ベルリンのトルコ大使館(まだオスマン帝国解体直前だった)でイスラム教に改宗した。これ以降、レフはエサド・ベイと名乗る。彼が学校を卒業した頃のドイツはワイマール文化の爛熟期に入っていた。“オリエント”に関する豊富な知識と文才を駆使してレフは20代の頃からジャーナリストとして活躍、とりわけ彼のムスリムであることを誇張したパフォーマンスは多くの人々の耳目を引きつけた。

 ナチスの政権掌握後もレフのユダヤ人としての出自は公になっておらず、旺盛に執筆活動を続けた。むしろ、ユダヤ人であることがばれるまで宣伝省の推薦図書リストに彼の著作も載っていたほどだ。しかし、離婚スキャンダルでドイツ文芸家協会を除名され、ウィーンに移る(ここで『アリとニノ』が出版された)。しかし、1938年、オーストリアもナチス・ドイツに併合されてしまい、レフは自分の本を出版できるところを求めてイタリアへ行く。イタリアのファシズムにはもともと反ユダヤ主義の要素はなく、ファッショ体制に反対しない限りユダヤ人も受け容れられていたらしい。だが、ムッソリーニがヒトラーと同盟を組むと、イタリア国内でも人種法が制定され、ユダヤ人の立場は難しくなった。レフは病に倒れ、知人の尽力でサレルノ近郊の保養地ポジターノで療養生活を送ることになる。ウィーンに残った父アブラハム・ヌッシムバウムは1941年にトレブリンカへ送られ、殺された。病床にあったレフは父からの手紙が途絶えたことに気持ちを焦らせながら、1942年にこの世を去る。

 レフはなぜイスラム教に改宗したのか? 本書で論点の一つとして示されているユダヤ人のオリエンタリズムというテーマに興味を持った。今でこそパレスチナ問題をめぐってユダヤ教とイスラム教の対立関係が目立つが、もともとヨーロッパにおけるイスラム研究に先鞭をつけたのはユダヤ人だったという(背景としては、ユダヤ人=非ヨーロッパ人=オリエントという、時には差別的なニュアンスも混じった構図を、プラスのものとして受け容れたユダヤ人もいたらしい)。シオニストの中でもマルティン・ブーバー(Martin Buber)、オイゲン・ヘフリッヒ(Eugen Hoeflich)といった人たちには、ユダヤ思想とイスラム思想の根柢に共通したものを見出し、それは広くアジア一般につながるものだと考え、西欧近代の限界(具体的には凶暴な全体主義が登場した)を超えるものとして積極的に意義付け、ユダヤ人の役割をそこに求めようという志向があったことを本書は指摘している(何となく日本における“近代の超克”を想起してしまうが)。こうした志向性をレフの生い立ちそのものが体現していた、少なくともそのような自覚を彼は持っていたらしい。“西”と“東”の対立を超えていこうという考え方は『アリとニノ』のテーマになっている。

 西欧による“オリエント”への偏見が内包された知的構造についてエドワード・サイードが“オリエンタリズム”というキーワードを通して問題提起して以来、こうした問題に現代の我々は割合と敏感になっている。コーカサス出身のユダヤ人として自身のアイデンティティーをヨーロッパではないもの=“オリエント”に求めようとしたところには、この“オリエンタリズム”的な幻想による逆規定があったのかもしれない。しかし、政治的な右翼と左翼、帰属意識としての“西”と“東”、どれかでありそうでいて、実はどれでもない、おとぎ話的な幻想の世界にすがりつこうとしてでも、どこかに自分の場所を求めつつ、結局どこにも身の置き所がなかった彼の苦衷そのものが、悲劇として目の離せない迫力を放っている。

 レフの謎めいた人生に興味をかきたてられるばかりでなく、コーカサスからヨーロッパまで20世紀初頭の様々な世界史的大事件を一人の人間で目の当たりにしたというケースはそうそうないだろう。本書を非常に面白く読んだが、主人公は日本ではマイナーだから、翻訳出版しても市場性は見込めないんだろうなあ。

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2009年1月16日 (金)

岩野裕一『王道楽土の交響楽 満洲──知られざる音楽史』、榎本泰子『上海オーケストラ物語──西洋人音楽家たちの夢』

 近代日本の音楽史を考える上で、“満州”というファクターは意外と無視できない。岩野裕一『王道楽土の交響楽 満洲──知られざる音楽史』(音楽之友社、1999年)はこの空白の音楽史を明らかにしてくれる。もともとロシア色の強い街ハルビンにロシア革命によって多数の人々が亡命してきたが、多くの芸術家たちも逃れてきた。その中には、ケーニヒ、メッテルなど、日本のオーケストラ育成に力を注いだ人々もいた。ヨーロッパ留学経験のある山田耕筰は、本場のオーケストラの魅力を何とか日本でも響き渡らせたいと考え、ハルビンから東支鉄道交響楽団を招いたりもしている。

 1932年の満州国建国後も、音楽愛好家の尽力でハルビン交響楽団が設立され、白系ロシア人をはじめ多国籍のメンバー構成。さらに、甘粕正彦の肝煎りで新京交響楽団も設立された。彼の関心は満州国の“国家”としての体裁を整えて西欧にひけをとらない文化水準を示そうとするところにあり、そのための人材を育成しようと新京音楽院も設立。中国人生徒を入学させ、もちろん結果論ではあるが、戦後中国の音楽界を担う人材もここから出てきた。また、満州国時代、ラジオ放送を通して西洋音楽の響きが中国人民衆の耳にも馴染み始めていた。日本は西洋排撃を高唱しつつも、実際には西洋の文物や制度の普及によって支配地域に臨んだというこの不思議な矛盾が音楽という側面からも窺われるのが面白い(建築についても同様のことが言える→こちらを参照)。

 若き日の朝比奈隆も新京交響楽団を指揮している。満州での彼の初舞台はベートーベンの第五に加え、江文也とバルトークという組み合わせ。二人とも、民族色と西欧音楽との融合に意を砕いていた音楽家だ。建前としての“五族協和”なる理念を意識したのだろう。日本内地でチャンスの得られない朝鮮人音楽家たちも満州国へ渡ったという。日本の敗戦後、ハルビンのオーケストラがソ連兵相手に演奏することになった際、日本人の指揮者はダメだということで、朝鮮人の林元植が急遽タクトを取ることになった。彼はハルビンに残留していた朝比奈からレッスンを受け、自らを朝比奈の弟子だと語る。民族の垣根を感じさせず親身に相談にのってくれた朝比奈のことを尊敬していたようだ。林元植は後に韓国の楽壇の権威となる。なお、やはり同じ頃ハルビンで音楽を学んでいた白高山は北朝鮮に行って、こちらで西洋音楽の第一人者となった。また、1970年代に中国で客演した小澤征爾は、北京で新京交響楽団の所蔵印のある楽譜を見たそうだ。帝政ロシア時代の楽譜を満州にいた日本人が写譜、それが戦後中国に残っていたわけである。いずれにせよ、東アジア広域における音楽史の中で満州国の持った意味合いは決して小さくない。

 共産党の公定史観では、満州国と同様、上海租界=帝国主義の植民地という位置付けで、そこで行なわれた音楽活動についてもやはり厳しい見方をされてしまう。榎本泰子『上海オーケストラ物語──西洋人音楽家たちの夢』(春秋社、2006年)はそうした頑な態度からは自由に、上海で活動した音楽家たちの群像を語りつくしてくれる。

 東アジアで最も古いオーケストラは1879年に結成された上海パブリックバンドである。その後、共同租界工部局の管轄下に入り、「工部局交響楽団」と呼ばれる。指揮者マリオ・パーチが育て上げた。演奏者も聴衆も西洋人ばかりだったが、徐々に中国人も入ってきて、その関係者から戦後中国の音楽をリードする人材を輩出することになる。日本軍の占領下、日本側に移管されて「上海交響楽団」となった。“敵国人”が強制収容所に入れられた一方で、聴衆の大半は中国人が占めるようになったという。

 朝比奈隆は上海交響楽団でも客演している。日本色を出したがる山田耕筰や近衛秀麿とは違ってスマートな朝比奈は楽団員から好感を持たれたらしい。朝比奈も上海交響楽団の実力は素晴らしかったと言い、この時の経験は後に欧米の有名オーケストラで客演する際に役立ったという。

 満洲にしても、上海にしても、イギリス・ロシア・日本といった帝国主義列強による侵略の歴史と二重写しになってしまうので、たとえ音楽という本来は政治性の稀薄なジャンルといえども、中国側で冷静に考えるのは難しかった。そうした難しさの中、上掲二書とも近現代東アジアの音楽史を彩る人物群像を様々に掘り起こし、かつ現代史にまつわる政治性ともうまくバランスをとりながら書かれているのでとても面白い。二冊とも題材として色々なタネをまいてくれているように思うので、これを踏まえた研究がもっと出て欲しい。

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2008年12月23日 (火)

東京裁判について最近の本

 今年は東京裁判判決60周年ということで、東京裁判をめぐる本が色々と出た。

 比較文化論の立場から日本と西洋という異文化接触の場として東京裁判を捉え、これをめぐる言説を検討してきた牛村圭、国際政治史というコンテクストの中から東京裁判を捉える視点を示す日暮吉延。両者とも、“勝者の裁き”か“文明の裁き”かという二項対立に押し込めて一面的な議論を進めるような愚に陥ることを避け、一次史料に即して東京裁判の実像に迫ろうという点では一致する。この二人による対談をまとめた『東京裁判を正しく読む』(文春新書、2008年)は、誤解されやすい論点を一つ一つ解きほぐしてくれて、この裁判を知るとっかかりとして良質な入門書となっている。

 日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008年→以前にこちらで取り上げたことがある)は今年度サントリー学芸賞受賞。判事団、検事団、弁護団それぞれの人間関係は決して一枚岩ではなく内部で分裂抗争があった、その意味ではそれぞれが自律的なダイナミズムで動きながら裁判が展開されていたことを描き出しているのがドラマのように面白く、判決の方向性が予め決められていたわけではないことを明確に示している。本書は対米協調という政治的リアリズムから東京裁判を受け容れた吉田茂を評価する。一方で、反吉田系の保守派の否定論や左派の肯定論、双方ともに見られる反米主義は東京裁判が温床になっているのではないかという日暮の指摘も興味深い。

 戸谷由麻『東京裁判──第二次大戦後の法と正義の追求』(みすず書房、2008年)は国際人道法の確立という観点から東京裁判を検討する。

 “A級戦犯”という言葉がよく比喩的に用いられる。しかし、A級→平和に対する罪、B級→残虐行為や捕虜虐待など通例の戦争犯罪、C級→人道に対する罪、というカテゴリー分けが便宜的に並べられているだけのことで、犯罪としてのランクを示しているわけではない。

 侵略戦争開始の共同謀議(被告中、互いに一面識もなかった人もいるのに“共同謀議”とはおかしい、という疑念がよく出されるが、ある犯罪行為の実行に結果として合意したとされれば、これを“共同謀議”とみなすというのが英米法に独特な概念で、事前に密議をこらして云々というイメージとは異なるらしい)の責任を問う“平和に対する罪”が成り立つのかどうかは私にはよく分からない。実際、“平和に対する罪”の訴因で有罪となっても、これだけで死刑判決を受けた者はいないが(文官の広田弘毅は南京事件の責任を問われて死刑判決を受けた)、これは、裁判官たちの間でも事後法という批判を受けることへの懸念があって量刑が考慮されたのではないかと日暮は指摘している。

 中支那方面軍司令官であった松井石根は“平和に対する罪”(A級)では無罪、南京事件をめぐる訴因(B級)だけで死刑となった。松井に対する判決は、現在の国際刑事裁判において指揮官責任を問う先駆的な判例となっていると戸谷は指摘している。もちろん、松井個人はもともと親中派で南京事件に心を痛めており、“興亜観音”を建てて日中双方の犠牲者に哀悼を示していたことは知られているが、そうした彼個人の心情は別として、指揮官としての職責を果たせなかった点を追及されたと考えるべきだろう。

 広田弘毅の部下であった元東亜局長の石射猪太郎は、広田は日本軍による残虐行為を憂慮して陸軍省に対して注意を促したが(その趣旨のことは石射『外交官の一生』中公文庫、1986年、332-333ページにも見える)、それ以上のことは出来なかったと証言、弁護団は広田の道義心を訴える戦術をとった。しかし裁判官側には残虐行為防止の不作為と受け止められ、逆に有罪の根拠となってしまった。このあたり、心情面における法文化の違いが興味深い(私自身、城山三郎『落日燃ゆ』の印象が強すぎて、何となく広田に同情的になってしまうのだが)。しかし、それ以上に注目すべきなのは、軍の指揮系統に属さない文官であっても個人責任を問われる先例となったことである(戸谷、206ページ。多谷千賀子『戦争犯罪と法』岩波書店、2006年、118-119ページにも広田判決について言及あり)。戸谷によると、ルワンダ国際刑事裁判でもこの広田判決が援用されたという。

 ときどき誤解している人もいるが、南京事件に関する判決はあくまでも通例の戦争犯罪(B級)であって、“人道に対する罪”(C級)ではない。ナチスの行なった犯罪行為でとりわけ顕著なのはユダヤ人の大量虐殺だが、法的に言うとこのユダヤ人たちはドイツ国民である。ところが、戦争犯罪として裁けるのは交戦相手国民に対する残虐行為であって、自国民を相手にした場合は想定されていない。かと言って、ユダヤ人虐殺を見逃すわけには勿論いかない。そこで、ニュルンベルク国際軍事裁判所条例においてユダヤ人虐殺の責任を追及するため、対象が自国民であっても戦争犯罪とみなす“人道に対する罪”が初めて提起された。こうした経緯による法概念であるため、自国民を相手とした虐殺行為を行なっていない日本の戦犯裁判でC級は適用されなかった。

 なお、こうした“人道に対する罪”の成立経緯を踏まえたとしても、戦争犯罪を対象としたニュルンベルク法廷で裁けるのはドイツ軍がポーランド国境を越えて戦争を開始した時点以降のことで、それ以前に行なわれたユダヤ人に対する残虐行為は管轄範囲に入らない(Samantha Power, A Problem from Hell: America and the Age of Genocide, Harper Perennial, 2007, p.49)。そこで、ユダヤ系ポーランド人の国際法学者ラファエル・レムキン(Raphael Lemkin)はもっと包括的な法規範としてジェノサイド防止条約(レムキン法)の制定に奔走することになる。ジェノサイド(genocide)というキーワードを造語したのはレムキンである。

 東京裁判は多国籍裁判という異例の形式をとったが、当然ながら言語の問題が課題となる。武田珂代子『東京裁判における通訳』(みすず書房、2008年)は、コミュニケーションのあり方そのものが当事者の関係性に及ぼす影響を検討する通訳学という新しい知見を基に東京裁判を考える。ニュルンベルク裁判とは異なり、東京裁判では通訳の態勢が整っていなかった。連合国側に日本語のできる人材がほとんどいない以上、通訳は日本人に頼らざるを得ない。しかし、連合国側には日本人通訳への不信感がある。そこで、日本人通訳を使いながらも、日系二世のモニター(チェック役)をつけ、さらに白人士官の言語裁定官を上に置くという三層構造がとられた。異言語コミュニケーションの通訳を相手側に依存するか(他律型)、こちら側で養成するか(自律型)というモデルで考えると、日系二世モニターはこの両方を併せ持ったアンビヴァレントな立場になっていた。とりわけ、日本語が堪能なため採用された帰米二世(日本の学校で学んでアメリカに帰った日系二世)は、アメリカ国民でありながらもその忠誠心が疑われているという難しい立場にあり、通訳そのものの難しさと、彼ら自身のアイデンティティーの難しさとが二重写しになってくる。中でもデイビット・アキラ・イタミという人は山崎豊子『二つの祖国』やNHK大河ドラマ「山河燃ゆ」のモデルとなったらしい。そういえば、私は小学生のとき「山河燃ゆ」を毎回欠かさず見ていて、東京裁判に興味を持ったのはこの頃からだったように思う。

 保阪正康『東京裁判の教訓』(朝日新書、2008年)は、同時代史的な感情論ではなく、記録をもとに冷静に東京裁判を捉えるべきことを強調。その上でこの裁判から、当時の拙劣な指導者の責任、この裁判から欠落していた周辺アジア諸国への責任、裁いた側の西欧植民地主義の責任など、多面的な責任のあり方を汲み取ろうとする。

 東京裁判の全体像を知るには、児島襄『東京裁判』(上下、中公文庫、1982年)、東京裁判朝日新聞記者団『東京裁判』(上下、朝日文庫、1995年)、粟屋憲太郎『東京裁判への道』(上下、講談社選書メチエ、2006年)といったあたりに目を通すといいだろう。小林正樹監督のドキュメンタリー「東京裁判」(1983年)もよくできている。なお、パル判決については、これはこれでややこしいので、気が向いたらまた別の機会に。

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2008年11月16日 (日)

奥中康人『国家と音楽──伊澤修二がめざした日本近代』、山東功『唱歌と国語──明治近代化の装置』

 伊澤修二がらみで掲題書2冊がほぼ同時に書店に並んでいたので取りあえず買ってあったのだが、例によって“積ん読”状態。奥中康人『国家と音楽──伊澤修二がめざした日本近代』(春秋社、2008年)がサントリー学芸賞受賞とのことで、慌てて引っ張り出す。どうでもいいけど、サントリー学芸賞4部門8点のうち5点までは刊行時に入手していました(他に、日暮吉延『東京裁判』平松剛『磯崎新の「都庁」』堂目卓生『アダム・スミス』片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』)。ついでに言うと、先週授賞式のあったアジア・太平洋賞も4点のうち3点まで同様(若林正丈『台湾の政治』水谷尚子『中国を追われたウイグル人』園田茂人『不平等国家 中国』)。

 奥中『国家と音楽』では、久米邦武『特命全権大使米欧回覧実記』の記述を踏まえ、欧米のコンサートホールで大勢の人々が一つの音楽に熱狂的な拍手を送り、みんなで一斉に歌うというシーンに岩倉使節団は感嘆したのではないかと指摘する。国家と国民とを有機体として捉え、その関係性を有効に機能させるための装置として伊澤は音楽を重視したのだという。忠君愛国=近代天皇制を軸とした国民形成の手段として西洋音楽による感性的な規律化が行なわれた。伊澤については、第一に西洋音楽の普及→文明開化の役割→開明派として肯定、もしくは第二に天皇制と結びついた封建主義教育→否定、という形で従来は評価が二分されていたらしい。本書は、現代の我々の価値観をいったん保留した上で、この分裂的なイメージを一つに集約して伊澤の教育思想を捉え返している。

 山東功『唱歌と国語──明治近代化の装置』(講談社選書メチエ、2008年)は、日本語学の立場から唱歌教育に注目、その立役者の一人として伊澤が取り上げられる。学校教育で子供たちに暗誦させるための手段として唱歌が使われたが、国語・唱歌・体操(たとえば、行進曲やラジオ体操)という三教科によって身体レベルでの規律化が重視されていた。手段として西洋的な音感が基盤となりつつ、その西洋的なものを覆い隠しながら“日本”なるものが演出されたという指摘が興味深い(たとえば、信時潔作曲の「海行かば」)。

 以前、台北市内を歩き回ったとき、芝山巌学堂の跡地まで足をのばしたことがある(→参照)。日本が清から台湾を割譲されたばかりの頃、ここに起居していた日本人教師たちが原地民によって殺害されるという事件があった。伊藤博文の揮毫による碑文が現在でもたっている。この教師たちの取りまとめ役だったのが伊澤修二なのだが、彼はたまたま、台湾で病死した北白川宮の遺体に随行して一時帰国中だったので難を逃れた。伊澤修二というと私にはまず植民地に派遣された学務官僚としてのイメージが先にあって、近代音楽教育の確立者としての姿とは切り離して捉えていた。上掲2冊とも伊澤の台湾時代については具体的には触れられていない。しかし、近代日本が国民国家形成にあたり、音楽教育による規律の身体化が不可欠な要素とされていたこと、そこで主導的な役割を果したのが伊澤であったことを知り、彼の台湾派遣が持った意味合いもトータルで納得できる。日本と植民地との関係を考える上でも示唆的な論点が提示されていると思う。

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2008年11月10日 (月)

喜田貞吉のこと

 私は高校生の頃、江上波夫に憧れを持っていた。大学に入って考古学の授業を受けたとき、テキストの鈴木公雄『考古学入門』(東京大学出版会、1988年)に、いわゆる騎馬民族説は戦前における喜田貞吉の日鮮同祖論の焼き直しとも言えるという趣旨の一文があって、それ以来喜田の名前が気にかかっていた。

 喜田はいわゆる法隆寺再建論争で一方の論陣を張ったほか、国定教科書の編纂にあたっていたとき南北朝並立の記述をしたため右翼から攻撃されて休職に追い込まれたことでも知られる(いわゆる南北朝正閏問題)。歴史記述は公正な立場から行なわねばならないという姿勢がうかがわれるし、もう一つ彼には、歴史学は社会問題の解決に役立たなければならないという熱意もあった。具体的には、被差別部落の問題に歴史学の立場から取り組んだ先駆者とされている。

 彼は、日本人は混合民族であるという見地に立っていた。大陸系、マレー系、様々な種族が日本列島に渡来する中、“天孫民族”がそうした異民族を融合しながら現在の日本人が形成された(この点で、単一民族という純血主義は否定されている)。何らかのきっかけで取りこぼされた人々が、たとえば山窩、アイヌ、被差別部落などとして残存した、とされる。現在では考えられないことだが、当時、被差別部落は異民族であって日本人ではない、という考えが割合と強く、それが差別の根拠ともされていたらしい。喜田は、被差別部落もまた本来は融合されていておかしくなかった人たち→同じ日本人である→だから差別に根拠はない、というロジックをとった。

 韓国併合が強行される時代状況の中、喜田は同様のロジックを朝鮮半島に対しても適用した。それが日鮮同祖論である。彼の場合、朝鮮半島出身者が日本人によって差別されてしまうことへの憤りが動機であって、膨張主義とは本来的に異なる。その点では彼なりの善意であった。しかしながら、被差別部落問題とは異なり、独立別個の民族意識を持つ朝鮮半島の人々にとって彼の善意は到底受け入れられないものであった(以上、小熊英二『単一民族神話の起源──〈日本人〉の自画像の系譜』新曜社、1995年、を参照)。

 第一に、民族的境界線の内側に取り込むことで同朋意識を強調するのか、それとも民族的プライドを維持するため境界線を強化すべきなのかという問題。第二に、たとえ動機が純粋な善意であっても、その善意の置かれたコンテクストによってはかえって相手への知的暴力となりかねない困難。こうした二重の困難が喜田の議論に見え隠れする。

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2008年11月 2日 (日)

国立ハンセン病資料館

 国立ハンセン病資料館へ行ってきた。西武新宿線・久米川駅からバスで20分くらいか、畑や分譲住宅が交互に現れるよくある東京郊外の風景の中、武蔵野の雑木林もそこかしこに見え隠れする。下車したものの、資料館がどこにあるのか分からなかったので、取りあえず目の前にある多磨全生園の敷地内に入り込んだ。

 正門を入ったところに“史跡”の位置を示す案内地図があったので、無断で申し訳ないが園内を散策させてもらう。正門とはまた別に、外に通ずる脇道があるのが目に入った。そこにあった説明板によると、患者は正門を使えず、消毒室のあるこちらから入らされたらしい。北條民雄『いのちの初夜』で、まさにここを通るときの戸惑いが描かれていたのを思い出す。近くには“監獄”跡というのもあった。園内のあちこちにあるスピーカーからは「チチチ…」と鳥の鳴き声を模した電子音が流れている。交差点ごとに、目の見えない人の手掛かりとなるよう設置されている。昔は鈴を鳴らしていたそうで、資料館内に展示してあった。

 企画展示は「ちぎられた心を抱いて──隔離の中で生きる子どもたち」。写真や展示品と共に、入所した子供たちが文集に寄せた文章や手紙、後になってからの回想などをパネルで示している。強制的に家族から切り離されてしまった寂しさ、消毒される自分に、そういう人間になってしまったんだとスティグマをおされる悲しみ、もう社会には戻れないという絶望、そういったことが幼い文章でつづられているだけにいっそう切なく感じられてくる。

 ハンセン病の感染力が極めて低いのは周知の通りである(はずだ)。個人的免疫力・栄養状態・衛生環境などの条件はあるが、幼少時に多量のらい菌を吸い込まない限り感染はしないし、仮に発症したとしても特効薬が開発されているので現在では完治する(日本での発症例は年間1桁台)。ただし、特効薬開発以前に病が進行したことによる身体上の障害、容貌にまつわる社会的偏見、長期入所していたことによる社会復帰の困難などの理由で現在も入所している方々がいる。

 明治以来、隔離がハンセン病対策の基本方針とされていた。当初は故郷を追い出されて放浪する人々の収容に重点が置かれていたが(資料館の前には四国遍路に出た親子の像があった)、1920年代後半から全国各地で“無癩県運動”がおこされ、1931年成立の癩予防法によって警察力も動員した患者の強制隔離が進められた。園内だけで通用する金券が資料館に展示されていたが、これも現金を持たせないことで脱走を防ぐという意味合いがあったようだ。所長には懲戒検束権、つまり言うことを聞かない患者を処罰する権限が与えられた。監禁室が各療養所に設けられ、とりわけ草津にあった栗生楽泉園の重監房は二十数名の死者を出したことで悪名高い(詳細は宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書、2006年)を参照のこと。資料館にも楽泉園の重監房が模型で復元されている)。当時におけるハンセン病の権威・光田健輔の方針で、所内で患者が結婚する際には断種が条件とされたが、反抗的な患者に対する懲罰として断種が行なわれたケースもあったという。療養所は世間から隔絶されているため、不法行為が行われやすかった。また、療養のためには本来、安静が必要なのだが、所内の人手不足から患者も作業に動員され、ますます病状を悪化させてしまった。

 “らい予防法”は1996年に廃止された。厚生省内部からこの法律の廃止に尽力してきた大谷藤郎『らい予防法廃止の歴史』(勁草書房、1996年)は、国のハンセン病政策について資料をふんだんに示しながら廃止に至るまでの経緯をまとめている。沖浦和光・徳永進編『ハンセン病──排除・差別・隔離の歴史』(岩波書店、2001年)は歴史や宗教から現代の問題まで多面的な論考を集めており、入門的に読みやすいのではないか。強制隔離は植民地でも徹底されたが、韓国南部の離島・小鹿島(ソロクト)にあった療養所については滝尾英二『朝鮮ハンセン病史──日本植民地下の小鹿島』(未来社、2001年)を参照のこと。台北近郊にも楽生院という療養所があった。本橋成一監督「ナミイと唄えば」で、ナミイおばあが台湾を再訪してここの患者さんたちと交流するシーンがあったのを思い出した。

 強制隔離の方針を示してきたいわゆる“らい予防法”に科学的根拠が乏しいことは早くから言われていた。大谷藤郎はその例として自ら私淑していた小笠原登の名前を挙げる。小笠原は京都帝国大学に勤務する医者だが、実家は浄土真宗のお寺で、祖父の代からハンセン病患者の治療に携わっており、その感染性の低いことは経験則から知っていた。そうしたことを戦争中に学会で発言したところ、大バッシングを受け、結局沈黙せざるを得なくなってしまったらしい(小笠原登については八木康敞『小笠原秀実・登──尾張本草学の系譜』リブロポート、1988年を参照)。

 強制隔離を推進した光田健輔は、断種手術を進めたことから分かるように当時流行の優生学思想の持ち主であり、癩者の存在は文明国の恥である、という彼の物言いが私は以前から気にかかっていた。外づらを気にして、あるべき理想像に向けて対内的な“民族浄化”を進めることが、結果として排除の論理につながってしまう。

 戦前・戦中期日本において優生学思想が制度化されるにあたっての犯人として彼を糾弾する議論は多い(たとえば、藤野豊『日本ファシズムと医療──ハンセン病をめぐる実証的研究』岩波書店、1993年)。他方、たとえば神谷美恵子は長島愛生園で会った光田の旺盛な仕事ぶりに尊敬を示しているし(「光田健輔の横顔」『神谷美恵子著作集2 人間をみつめて』みすず書房、1980年)、患者一人ひとりへの向き合い方は熱心だったので一部には光田を慕う患者もいたという。徳永進は光田の負の側面を踏まえつつ、時代的制約の中でもヒューマニスティックな熱意も共存していたことにある種の困難を感じ取っている(「隔離の中の医療」沖浦和光・徳永進編『ハンセン病──排除・差別・隔離の歴史』岩波書店、2001年)。武田徹『「隔離」という病い──近代日本の医療空間』(中公文庫、2005年)が指摘するように、彼個人の問題に帰してしまうのではなく、その両義性も含めてもっと大きな枠組みから捉え返す視点が必要となるのだろう。

 蛇足ながら、“文明国の恥”という表現がナイーブに語られてしまうところには、西洋という外の視線を気にする明治以来の妙なコンプレックスを感じてしまう。先日、いわゆる“からゆきさん”について触れたときも、外交当局が取り締まる姿勢に同様なものを感じた(→参照)。私は相互扶助の情緒的根拠としてナショナリズムを一概には否定してはいないのだが、こういう冷たいナショナリズムは嫌いだ。

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2008年11月 1日 (土)

溥儀とその周辺のこと

 大人が鑑賞するような文芸映画を私が初めて観に行ったのはベルナルド・ベルトルッチ監督「ラストエンペラー」だった。中学一年生のとき、同じく歴史が好きな同級生と一緒に。

 手もとに溥儀の『わが半生』(小野忍・野原四郎・新島淳良・丸山昇訳、筑摩叢書)がある。カバーやオビに映画の写真が使われた1988年の第20刷。「ラストエンペラー」を観た前後の時期に買って読んだものだ。最初、清朝崩壊から満州国建国にいたる波乱に満ちた政治史への興味から読み進めていたが、その辺りの叙述は退屈で、むしろ戦犯として拘留中の生活記録の方が面白く感じた覚えがある。生活上は完全な無能力者である溥儀が、日常の雑事にいちいち驚いている様子が印象的だった。引き続き、レジナルド・ジョンストン(入江曜子・春名徹訳)『紫禁城の黄昏』(岩波文庫、1989年)を買ったし、エドガー・スノー(梶谷善久訳)『極東戦線』(筑摩叢書、1987年)を図書館で借りて読んだ記憶もある。

 日本による対外侵略という不幸な時代を背景にしつつも、多様な人々が動機も様々に、国境を越えてぶつかり合っている姿に大きなドラマを感じて、漠然とではあったがこの時代のあり様に興味が尽きなかった。

 自伝や回想録の類いではどうしても避けられないことだが、溥儀の『わが半生』も肝心なところでは曖昧な箇所、虚偽の箇所がある。戦後の“人民中国”において更生した証とせねばならなかったわけだし、皇后たちとの関係については再婚した女性への慮りもあったらしい。何よりも溥儀自身の自己顕示的な韜晦癖も難物で、ゴーストライターだった李文達も史実の確定という点では色々と苦慮したようだ。入江曜子『溥儀──清朝最後の皇帝』(岩波新書、2006年)はそうした辺りも踏まえた史料批判の上で彼の人物像を描き出していく。

 溥儀の戦後における“韜晦”の一例として、満州国で御用掛を務めた吉岡安直のことが挙げられる。第三夫人・譚玉齢の病死は吉岡たちによる毒殺だ、と溥儀は東京裁判で証言した。しかし、入江曜子『貴妃は暗殺されたか──皇帝溥儀と関東軍参謀吉岡の謎』(新潮社、1998年)や中田整一『満州国皇帝の秘録──ラストエンペラーと「厳秘会見録」の謎』(幻戯書房、2005年)によると、溥儀に仕える吉岡の態度は実直で、むしろ溥儀と関東軍との間で板ばさみになってしまうような立場にあった。溥儀はそうした吉岡に信頼を寄せていた。溥儀の証言は保身のための濡れ衣だったようである。

 「厳秘会見録」とは、満州国皇帝として日本の要人に謁見した際、外部には流出させないという条件でつけられていた会見録。溥儀から信頼を得ていた通訳・林出賢次郎によって記録されており、戦後も林出家で保管されていた。波多野勝『昭和天皇とラストエンペラー──溥儀と満州国の真実』(草思社、2007年)もこの会見録に依拠している。なお、林出は、関東軍参謀長として赴任してきた東条英機の圧力により解任され、その後は母校・東亜同文書院に戻り、戦後は昭和天皇の中国語通訳も務めたらしい。

 映画「ラストエンペラー」での皇后・婉容とイースタン・ジュエルこと川島芳子との絡みにはいかにもベルトルッチらしい官能的な退廃感があって、まだ中学生だった頃の私には結構強烈だった(もちろん、フィクションだが)。入江曜子『我が名はエリザベス──満州国皇帝の妻の生涯』(ちくま文庫、2005年)は、婉容のモノローグという形式で、アヘンに耽溺していく彼女の心の動きを語らせる。視座を彼女に置いたことで、溥儀を取り巻く権力闘争もどこかニヒルに相対化されていくところが面白い。なお、寺尾紗穂『評伝 川島芳子──男装のエトランゼ』(文春新書、2008年)は、日中の狭間にあった川島の不安定な葛藤がよく整理されており、興味深く読んだ。

 戦後中国において、溥儀の関係者もそれぞれに多難な人生を送らねばならなくなった。入江曜子『李玉琴伝奇──満州国最後の〈皇妃〉』(筑摩書房、2005年)は、庶民から溥儀の妃に選ばれた第四夫人・李玉琴の生涯を、とりわけ戦後に焦点を合わせて描く。溥儀自身の“性的”問題もあって関係はあまりしっくりしていなかったようだが、やはり“人民の裏切者”の妻であった過去は文革期において深刻だ。自らの身の“潔白”を証明するため、彼女は溥儀を糾弾せねばならなくなる。溥儀自身は文革の成り行きに怯えつつも、これといった被害も受けないまま病死した。

 蛇足ながら満州国関連では、外交部長や駐日大使も務めた謝介石という人物の存在が気にかかっている。台湾出身で日本の明治大学に学んだ後、中国に渡る。溥儀の復辟を画策した張勲に仕えた。謝介石が満州国の高官となったのをきっかけに台湾出身者で満州国へ仕官を求めてやってくる者が増えたという。田村志津枝『李香蘭の恋人──キネマと戦争』(筑摩書房、2007年→こちらの記事を参照のこと)でも指摘されていたが、当時の台湾人は植民地という立場的曖昧さを逆利用される形で、“日中の掛橋”として汪兆銘政権や満州国など日本の傀儡政権で重用されたらしい。

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2008年10月30日 (木)

からゆきさんのこと

 矢野暢『「南進」の系譜』(中公新書、1975年)および、同『日本の南洋史観』(中公新書、1979年)を読み返した。明治期の「南進」論は、体制に容れられず、悲憤慷慨し、絶えず夢を追う者たちの、いわば在野の思想であり、以後の時代における国策としての「南進」論とは明らかに断絶がある。明治のロマンチストたちの楽観性には、彼ら自身が無自覚なところに政治的なスキがあり、昭和に入ってからの国策としての南方進出論においてシンボル的英雄として祭り上げられてしまった。また、戦後、賠償目的の技術協力という形で日本企業が進出したが、あくまでも国策としての関係であって庶民レベルまで含めた人的交流が乏しいという点で、戦前の日本軍進出時と類似した構図を見出している。

 庶民レベルでは、「南進」論なる政治的議論とは関係なく、東南アジアへ渡る無名の人々がいたことにも矢野は目配りを忘れていない。とりわけ注意がひかれるのは、いわゆる「からゆきさん」のこと。なお、「からゆきさん」とは本来、唐(から)の国=外国へ出稼ぎに行く人々を総称した九州北部の方言らしいが(「からゆきさん」はとりわけ島原・天草出身者が多かったという)、いつしか、海外で売春をせざるを得なくなってしまった底辺女性を指すように意味が狭められるようになった。

 山崎朋子『サンダカン八番娼館』(文春文庫、2008年)はこの分野で筆頭に挙げるべき古典的著作だろう(なお、この文春文庫版には、表題作とその続編である『サンダカンの墓』の両方が収録されている)。日本に戻り、孤独と貧窮の中で暮らす元「からゆきさん」のおさきさん。この老婆としばし共同生活を送りながら、ほとんど肉親に近い情を通わせつつ聞き書きした記録を読んでいると、単に歴史の証言というばかりでなく、その肉声の生々しさに何とも言いがたい気持ちになってくる。森崎和江『からゆきさん』(朝日新聞社、1976年)も、たとえば若い頃のあまりに無残な記憶をひきずって時にフラッシュバックで狂気に駆られてしまう老女を見つめるときの静かな眼差しに、詩的な、しかし抑えたやさしさが感じられて、とても魅力的な作品だと思う。

 日本の外交当局は海外における日本人娼婦廃絶に動き出すが、それは彼女たちを思ってのことではなかった。醜業につく日本人女性の存在は国家的威信を汚すというのが理由である。シンガポールなど西洋人の多い都市以外では徹底されなかったため、辺鄙な地方へ追いやられてますます悲惨な境遇に落ち込んでしまった女性たちもいた。そうした事情で孤独な人生を送ってきた女性への聞き書きが山崎『サンダカンの墓』にある。

 思いあたることがあって、本棚から山室軍平『社会廓清論』(中公文庫、1977年)を引っ張り出した。本書でも「海外醜業婦」に1章が割かれている。救世軍のリーダーとして廃娼運動に尽力した山室だが、その動機は無論ヒューマニスティックなものであることに疑いはないけれども、「日本国民の恥」という表現をしているのが気にかかった。

 『サンダカン八番娼館』のおさきさんは、見知らぬ女性が転がり込んできても、彼女の事情を一切詮索しない。人それぞれに都合がある、話したければ自分から話すだろうし、話したくないならそれなりのわけがあるのだろう、と言う。彼女自身がつらい思いを重ねてきたからこそ自然とにじみ出てくるやさしさ、それが読んでいて、山崎ならずとも胸が衝かれる思いがする。『からゆきさん』に出てくるおヨシさんは、きつい境遇の中にあっても刻苦勉励して、自分で事業を起こし、財をなす。成功者、のはずだが、結局彼女は自殺してしまう。死後の始末を自分できっちり整えた上で。どんな思いを秘めていたのか、分からない。いずれにせよ、二人ともタイプは全く異なるが、その人なりの強さを持って生きてきたことに頭が下がる。

 同時に、まだ十代のうちに、異国で悲惨な境遇に打ちひしがれて死んでいき、思いを語ることすらかなわなかった少女たちのことも思う。そして、これは過去のことというばかりでなく、ひょっとすると今現在にあっても、この地球上のどこかでそうした過酷さに苦しんでいる人もいるはずだということにも。

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2008年10月 5日 (日)

『トゥイーの日記』

ダン・トゥイー・チャム(高橋和泉訳)『トゥイーの日記』(経済界、2008年)

 ヴェトナム戦争で志願して戦地に赴いた女性医師