【七日間ブックカバー・チャレンジ:七日目】
中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』
十年前、初めて中国へ行った。当時は会社勤めをしていたが、五月の連休を利用した個人旅行で北京と天津を一人で歩き回った。歴史に関係する場所を巡るのが目的で、しっかり事前勉強もした。そうした中、知人から勧められて中薗英助の作品も読んだのだが、特に印象に残ったのが『夜よ シンバルをうち鳴らせ』であった。
日本軍の占領下、いわゆる「淪陥時期」において、現地採用の新聞記者となった主人公が目撃した北京の光景。中薗の作品のうち『北京飯店旧館にて』『北京の貝殻』などは回想録的、私小説的な形を取るのに対して、『夜よ シンバルをうち鳴らせ』の方は著者自身の実体験をにじませつつ、謀略サスペンス的な筋立てを絡ませた小説に仕立て上げられている。
左翼くずれの日本人や、いわゆる大陸浪人。抗日意識を胸に秘めた中国の知識青年と、逆に大東亜共栄圏のスローガンを叫ぶ中国人。日本軍の謀略に利用された東トルキスタン独立運動のウイグル人マームード・ムヒイテ将軍。魯迅夫人・許広平がひそかに北京へ戻っているという噂。消えた北京原人の標本の行方。大東亜文学者会議への出席をやんわりと拒絶した周作人(その説得のため文学報国会から派遣された九重由夫こと久米正雄や葉柴勇こと林房雄たちの鼻息の荒さが北京で顰蹙をかっていたことは別の本で読んだことがある)。京城日日新聞特派員として北京へ来ていた白哲(=白鉄、本名は白世哲)や金史良は朝鮮人としての思いを語る。民族的背景も様々で多彩な人物群像がうごめくスケールの大きさは圧巻で、読みながらこの作品世界の中へグイグイと引き込まれていった。
占領者たる日本人と被占領者たる中国人。生身の人間同士として付き合った点では友情もあり得た一方で、必ずしも全面的な信頼までは置けないわだかまり。この微妙な関係は、抗日/親日といった単純なロジックで裁断できるものではなく、第三の道はあり得ないのか、そうした模索へと主人公を駆り立てていく。それは、他ならぬ中薗自身の青春期から一貫したテーマであったと言えよう。
タイプは異なるが、占領者としての日本人の負い目意識をテーマにしている点では、日本植民統治下の京城文壇を舞台とした田中英光『酔いどれ船』を挙げることもできる。やはり大東亜文学者会議の準備に駆り出された青年文士(=田中自身)が目撃した、抗日と体制順応、陰謀と狂騒の混濁したファルスを、実在の人物をカリカチュアライズしながら描き出していた。『酔いどれ船』では主人公の内面的にウジウジしたところを暴露的に描く形で田中自身の青春の暗さが表現されていたという印象がある。これに対して、中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』の方は、政治意識の強さを明確に打ち出したことで、むしろ一種の清冽さすら感じられた。
中薗は、漫然とした動機で中国大陸に渡った、と語っている。若き日々のアモルファスな情熱に明瞭な表現を与えるのはもちろん難しいことであろうが、一つには若者らしい冒険心燃えたぎるロマンティシズムがあったであろうことは容易に想像できる。それが異郷への憧れというプル要因になっていたとしたら、では、プッシュ要因は何だろうか。いわゆる「外地」には、日本の内地で居場所を失った左翼くずれやヤクザ者、あるいは一旗挙げようと考える手合いなど、様々なあぶれ者が流れ込んで来ており、彼らを許容するだけのいわゆる「植民地的自由」があった。中薗が家出した直接のきっかけは、将来の進路をめぐる父親との葛藤であったが、父親の権威への叛逆は私的なものであると同時に、戦時統制の強まりつつある時代、国家による束縛への反抗心もそこには重ね合わされていたと言えるだろう。日本国内における様々な束縛を厭う心情が、「外地」の持つ一種奇怪な「自由」へと引きつけられていったのかもしれない。
ロマンティックな自由を求めた異郷。そこはまた、裸の自己を試される厳しい葛藤の世界でもあった。中薗は、裏切りや卑怯、傲慢といった人間の醜さをいやというほど見せつけられた一方、気持ちの通い合う友人たちとも出会った。とりわけ陸柏年や袁犀といった中国人の友人と知り合えたことは彼の北京体験の中で特筆される。
しかし、「淪陥時期」の北京にあって、中薗自身は中国人側に親近感を寄せているつもりであっても、彼らの方からは「日本人=支配者」と見られてしまい、なかなか胸襟を開いてはくれない。「支配者」側にいるという立場性は、主観的な善意だけではどうにもならない。引け目の懊悩はさらに「原罪」意識へと深められていく。こうした矛盾への葛藤が、以後における中薗の文学活動の原点となっており、『彷徨のとき』『夜よ シンバルをうち鳴らせ』をはじめとした様々な作品で繰り返し表現されている。
侵略した側、支配する者が、侵略された側、支配される者との間で友情を築くことができるのか。中薗はある本で、陸柏年から「きみは、人類という立場に立てますか?」と問いかけられたことを書き留めている。青くさい。しかし、こうした青くさい言葉が強烈な印象として中薗の脳裡に刻み込まれていたのは、それだけ深刻に矛盾した体験に身を引き裂かれるような思いをしていたからに他ならない。中薗は敢えてこの言葉を自らの問題として引き受け、終生のテーマとした。後年、アジア・アフリカ作家会議などで積極的な活動を行なったことも、こうした彼自身のテーマの延長線上にある。
『夜よ シンバルをうち鳴らせ』を読んで私が関心を持っているのは次の二点である。第一に、日本軍占領下北京のカオティックな状況。当時、日本軍は「大東亜共栄圏」というスローガンを掲げていた以上、中華文化を尊重する態度を示さねばならず、また、統治の便法として傀儡政権を成立させていた。それらはもちろん建前上のものに過ぎなかったとはいえ、建前というのも結構バカにはならない。例えば、同時期の台湾や朝鮮では同化政策が推進されていたのと比べると、大陸の占領地では文化政策に関して別の方針が取られていた。傀儡政権には抗日派が紛れ込む余地もあり、当時の北京においては抵抗/協力という単純な二分法では割り切れないグレーゾーンが広がっていた。そこには、ある場合にはいわゆる「植民地的自由」があり、また別の局面においては、誰が敵で、誰が味方なのか分からない混沌とした人間模様があった。そうしたカオティックな状況が、ドラマの舞台として非常に印象的であった。
上述のような「植民地的自由」は、日本統治下においてアイデンティティーの曖昧な台湾人を吸引する余地も大きかった。私は1930~40年代に中国へ渡った台湾人というテーマにも関心を持っているが、中薗が描き出した北京のカオティックな状況を後景として、その中で彼ら台湾人の動きをたどってみたいという気持ちがある。とりわけ台湾出身の音楽家・江文也については以前から調べているが、江はこうした北京の「植民地的自由」の中だからこそ、軍部の協力を得て中国をモチーフとした音楽作品を発表することができた。江の友人の画家・郭柏川は梅原龍三郎と共に紫禁城を描いた。抗日派の知識人、張深切、張我軍、洪炎秋などは、警察の監視が厳しい台湾から逃れて北京へ渡り、当時の北京は台湾と比べると、敵と味方とを分かつ線が曖昧だったため、監視がゆるいからこそ職を得ることができた。張深切、張我軍、洪炎秋たちは北京で周作人と交流があった。他にも、中国知識人が北京を脱出したため、かわって大学でポストを得た台湾人もいた。
他方で、彼らには台湾人=日本国籍者という特権もあり、単純に抵抗/協力という枠組みでは捉えきれないグレーゾーンを意識しておかないと一面的な叙述に終わってしまう。いずれにせよ、中薗の作品では多様な民族的背景の人々が出てくるわりに台湾人は出てこないのだが、当時の北京にもやはり一定数の台湾人が来ていたし、彼らの動向について研究も増えてきている。
第二に、支配する者と、支配される者との関係性。自分が主観的には相手に寄り添っているつもりであっても、相手はそのように受け止めてはくれない。自分の意志ではなくとも、支配者側にいるという立場性から逃れることの困難。これは、日本人として台湾研究をしている私自身にとっても、ずっと考え続けなければならない問題である。
私はいわゆる「外地」がどうしても気になる。父方の祖父母はかつて台湾で教員をしており、特に祖母は「湾生」であった。母方の祖母は、その父(つまり私の曽祖父)が旧「満洲国」で事業をしていたことから(伊達順之助の友人だったと聞いた)、短期間ながら奉天にいたことがある。母方の祖父は一年間ほど朝鮮総督府に勤務した後、北京へ移って満鉄の子会社「華北交通」に測量技師として勤めていた。私は言うなれば、四重の意味で「侵略者」の孫ということになってしまうが、それはともかく、私が東アジア現代史に関心を持っている理由の少なくとも一つとして、祖父母の存在を通して東アジア現代史が身近なものに感じられているという点は挙げられる。
私が持っているのは福武文庫版で、絶版である。いま手元にないので、書影は割愛する。
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