カテゴリー「近現代史」の369件の記事

2018年2月22日 (木)

大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝──人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』

大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝──人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』(パブリブ、2018年)
 
 ピエ・ノワール(pied-noir)とは、直訳すれば「黒い足」という意味だが、北アフリカにいたヨーロッパ系住民を指す。アルジェリアがフランス植民地だった時期、彼らは自らを「アルジェリア人」と考えていたが、1962年にアルジェリアが独立すると、それはアルジェリア国籍保持者を意味するようになったため、「ピエ・ノワール」という呼称が定着していったという。ただし、本書「はじめに」で詳しく説明されているようにその意味合いは多義的で、本書では植民地アルジェリアのほか、フランス保護領だったモロッコやチュニジアも含め、フランス本土への引揚者と広義に捉えて、関連する人物111人のプロフィールを紹介している。
 
 意外な人物が結構含まれているのに驚いた。アルベール・カミュ、アルベール・メンミといったあたりは想定していたものの、思想家ではジャック・デリダ、ルイ・アルチュセール、ジャック・アタリ、政治家では元首相のドミニク・ドヴィルパン、左派のジャン=リュック・メランション、俳優のダニエル・オートゥイユ、ジャン・レノ、それからファッション・デザイナーのイヴ・サン=ローランの名前も見える。日本風景論で著名な地理学者オーギュスタン・ベルクの父親で人類学者のジャック・ベルクもピエ・ノワールだという。
 
 紹介される人物のプロフィールをみていくと、独立反対の強硬派と反植民地主義との相剋が垣間見え、それはフランス現代政治における右派と左派の対立にもつながってくる。コラムの形でアルジェリア独立戦争に関わる背景も解説されており、1961年10月17日事件のことは初めて知った。アルジェリアに残留した「緑の足」、フランス軍に協力した「ハルキ」といった事項にも興味がひかれる。
 
 私自身は一応、台湾史を専門としているが、「大日本帝国」崩壊における脱植民地化と引揚というテーマから、世界史的な比較検討を行うにあたり、本書はフランスとマグレブ世界との関係という事例を知る上で格好な手引きとなるので、ありがたい。例えば、「ピエ・ノワールという呼称が1962年から広く使用されるようになると、当初は蔑んだ呼び方だったにもかかわらず、本土に移住した者たちは自らをピエ・ノワールと呼ぶようになる」(本書17頁)という指摘は、かつて日本「内地人」が台湾生まれの日本人を半ば軽蔑的に「湾生」と呼んでいたものが、戦後になるといつしか台湾生まれの人々自身がある種のノスタルジーをもって「湾生」を自称するようになったことと重なる。
 
 台湾、朝鮮半島、旧「満洲国」など中国大陸から引き揚げた人々の戦後体験というテーマはまだまだ開拓される余地がある。例えば、朝鮮半島からの引揚者に関しては、朴裕河『引揚げ文学論序説──新たなポストコロニアルへ』(人文書院、2016年)が文学というジャンルに限定的ながらも様々な人物を挙げて検討を加えている。『ピエ・ノワール列伝』のように引揚者の網羅的な人物リストがあると便利だと思う。

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2018年2月21日 (水)

星野靖二『近代日本の宗教概念──宗教者の言葉と近代』

 以前から気になっていた星野靖二『近代日本の宗教概念──宗教者の言葉と近代』(有志舎、2012年)を、一時帰国の機会にようやく読むことができた。
 
 「宗教」はreligionの訳語として、しばしば非歴史的な概念のように用いられるが、実際には近代日本の歴史的展開に合わせて「宗教」概念は組み上げられてきたという背景がある。とりわけ、明治になって伝来してプロテスタントが重要な契機となっており、また廃仏毀釈によって自らの存在証明を迫られた仏教がキリスト教に対する論争を通して理論的に磨き上げられてきた側面も看過し得ない。それぞれが自らの宗教伝統がより真正な「宗教」であることを弁証しようとして、より抽象度の高い「宗教」概念が要請された。本書では、内村鑑三、植村正久、小崎弘道、高橋吾良、大内青巒、井上哲次郎、井上円了、中西牛郎等々、明治初期におけるキリスト者、仏教者を含めて繰り広げられた論争を軸に検討している。
 
 本書には中西牛郎に関する論考が収録されているため、私としては目を通しておく必要があった。収録されているのは、第六章「中西牛郎の宗教論」、第九章「中西牛郎『教育宗教衝突断案』について──キリスト教の捉え直しと望ましい「宗教」という観点から」の二篇である。「キリスト教・仏教を問わず、近代的な人間知との関係において宗教が論じられていた明治20年代頃に、中西牛郎は超越性との関係性こそが宗教を宗教たらしめるものとし、宗教を宗教として比較する姿勢、少なくともそういった方向につながっていく理論的な枠組を持っていた」ことが指摘されている(129-130頁)。
 
 中西牛郎の生涯については本書284頁にまとめられているが、キリスト教、仏教、天理教、神道扶桑教と複雑な宗教遍歴を経ており、こうした履歴そのものが興味を惹かれる。中西牛郎については、以前、別ブログにて触れたことがあるが、日本統治時期の台北に来て、淡水税関等に勤務するかたわら、『臺灣日日新報』等に論説を発表していた。板垣退助と林献堂によって立ち上げられた「台湾同化会」にも関与し、警察から目をつけられてもいた(『台湾警察沿革史』)。
 
 私が中西牛郎に関心を持ったきっかけは、台湾キリスト教史の脈絡と関係がある。台北の有力な貿易商でキリスト教思想家としても知られていた李春生の伝記を、中西が漢文で執筆し、出版していたのである(台湾日日新報社、1915年)。中西と李春生との間にどのような関係があったのか、思想内在的なつながりがあったのか、そうしたあたりについて、時間を見つけて調べてみたいと考えている。

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2018年2月20日 (火)

チャイナ・ミエヴィル『オクトーバー──物語ロシア革命』

チャイナ・ミエヴィル(松本剛史訳)『オクトーバー──物語ロシア革命』(筑摩書房、2017年)
 
 1917年のロシア革命は、実に様々な人物がそれぞれの政治的思惑をもってせめぎ合い、また合従連衡を繰り返し、群像劇としてこの上なく魅力的な舞台と役者を用意してくれた。本書はそれを見事に活用して面白い政治劇を活写している。
 ニコライ二世の無気力、ケレンスキーの戸惑い、そして転変していく状況にのっかっていくレーニン。登場人物は彼らに限らず、次々と現れては消えていくし、二月革命から十月革命にいたる出来事を網羅的に拾い上げながらも、冗漫に流れることなく、一気呵成に読み終えた。分析的に整理することなく、時系列にそって語られるから、その後のことを予期できない登場人物の驚き、戸惑い、判断ミスが、その都度ありありと浮かび上がってくるところが面白い。

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2018年2月16日 (金)

筒井清忠『戦前日本のポピュリズム──日米戦争への道』

筒井清忠『戦前日本のポピュリズム──日米戦争への道』(中公新書、2018年)
 
 近年、ポピュリズムという概念が注目を集めているが、これを大衆人気に左右される政治と解するなら、日本もかつて手痛い失敗を経験していたではないか。そうした問題意識から、本書は1905年の日比谷焼き討ち事件から1925年の普通選挙法成立をはさみ、1941年の対米開戦に至る歴史的経緯を通して戦前期日本の政党政治がポピュリズムによって崩壊していく過程を解き明かす。
 
 日本におけるポピュリズム的政治の始まりは、「大衆」の登場とそれを動かす新聞の存在が重要な要素であり、日露戦争講和後の日比谷焼き討ち事件で顕在化する。次に、本書では若槻礼次郎内閣が「朴烈怪写真事件」で動揺した様子を分析しているが、「朴烈問題で「天皇」の政治シンボルとしての絶大な有効性を悟った一部の政党人が、以後これをたびたび駆使し、「劇場型政治」を意図的に展開」し、こうした傾向はさらに統帥権干犯問題や天皇機関説事件という形で繰り返されることになる(91頁)。
 
 朴烈事件を倒閣運動に利用できると洞察したのは北一輝であったが、「彼ら超国家主義者こそむしろ、大衆デモクラシー状況=ポピュリズム的状況に対する明敏な洞察からネイティヴ大衆の広範な感情・意識を拾い上げ、それを政治的に動員することに以後成功していくのである」(92頁)。天皇機関説問題では、「まず二大政党の腐敗と地方農村の窮状を訴え、弱者=庶民の側から「貴族院議員美濃部達吉東京帝国大学名誉教授」を攻撃する、という手法は見事なまでの大衆動員上の成功を収めたのだった。朴烈怪写真事件以来の天皇シンボルのポピュリズム的追求はここに頂点を迎え、それは平等主義に支えられつつ天皇周辺の国際協調主義的「重臣層」の窮迫化・弱体化につながっていったのだった」(237頁)。
 
 戦争やテロの報道そのものが「劇場型大衆動員政治」の格好の素材となった。マスメディアはこうした状況を後押ししただけでない。普通選挙は本来、大衆の政治参与を促がしたはずであるが、政党政治はそのもたらした弊害のゆえに嫌悪されるようになり、マスメディアによる既成政党政治批判は代わって清新な代替勢力として「無産政党」、「軍部」、「近衛新体制」などをもてはやすようになる。
 
 このように見てくると、戦前期日本においては天皇シンボルとマスメディアの扇動とが結合したところにポピュリズム的政治現象が立ち現れていた状況が分かる。
 
 清沢冽がポーツマス会議における桂太郎・小村寿太郎とジュネーブ会議における斎藤実・内田康哉とを比較した分析を紹介している。第一に、前者は断固として講和をまとめる意志があったが、後者は輿論の動向に責任転嫁しようとした。第二に、前者は国際的孤立を避けようとしたが、後者は進んで孤立しようとした。第三に、日清・日露戦争中には「衆論に抗して毅然と立つ少数有力者」がいたが、後者の時点ではそうした者が見当たらなかった(207-209頁)。
 
 大衆政治時代において外交の独立性が保たれ得るのかどうかは国際政治学で常に問題となるところではある。少なくとも、日本自身がかつて戦争へ突入するという国策上の大失敗を呈した背景にポピュリズム政治状況があった点は念頭に置いておく必要があろう。

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2018年2月14日 (水)

佐古忠彦『「米軍が恐れた不屈の男」──瀬長亀次郎の生涯』

佐古忠彦『「米軍が恐れた不屈の男」──瀬長亀次郎の生涯』(講談社、2018年)
 
 凄惨な沖縄戦では日本軍に不信感を持った沖縄県民は、戦後、アメリカ軍を当初は民主主義を体現する解放者として歓迎した。ところが、その植民者然とした抑圧的な態度に幻滅、女性が暴行されたり、土地の強制収容がごり押しされたりする中、沖縄県民の間ではアメリカ軍の欺瞞に対する反感が高まる。そうした県民が怨嗟する声の代弁者としてアメリカ軍に抗議する人物が注目を浴びた。瀬長亀次郎(1907-2001)である。
 
 瀬長亀次郎は貧しい家庭に生まれたが、医師を志望し、旧制七高に入った。ところが、在学中から社会問題に関心を寄せ、1928年、三・一五事件の余波で逮捕されてしまい、20日間の拘留で釈放されたものの、放校処分となった。1932年には丹那トンネルの工事現場で労働争議を指導したため治安維持法で逮捕され、まず横浜刑務所に投獄されたが、次に沖縄刑務所へ移送された。釈放後は特高に尾行される日々の中、まず蒔絵工として働いた後、沖縄朝日新聞記者に転じた。召集されて中国大陸へ出征したが、1940年に復員。戦中は家族を連れて戦火の沖縄を逃げまどう。
 
 戦後は沖縄人民党代表として琉球政府立法院議員に当選。ところが、アメリカ軍に対する抵抗姿勢が危険視され、強引に投獄されてしまった。1957年には「瀬長は共産党の手先」とネガティブ・キャンペーンを張られる中、那覇市長に当選する。アメリカ軍政当局およびそれと結託する保守派の策動には抗しきれず、市役所を追われることになったが、それでも後継指名した兼次佐一が沖縄市長に当選した。沖縄の日本復帰を前に1970年に実施された国政選挙で衆議院議員に当選。国会では沖縄の現状について佐藤栄作首相を追及する。佐藤の答弁は取り付く島もないものではあったが、ただ、瀬長への敬意はあったようだ。
 
 亀次郎は沖縄の日本復帰を当然視し、彼の言う「民族」とは琉球ではなく日本を指していたという。彼の抵抗活動は、日本民族のアメリカからの独立を求めていた。沖縄の日本復帰後、沖縄人民党は共産党に合流し、亀次郎も共産党所属の代議士として当選を重ねたが、彼自身は必ずしも共産主義者ではなかった。
 
 亀次郎が演説すると、飾らぬ言葉で人々の不満を代弁してくれるので、たちまちみんな集まって来た。ナショナルな抵抗意識をもとに民衆の声を吸収したという点では土着的ポピュリストと言えよう。他方で、彼が投獄されていた刑務所で刑吏に対する不満から暴動が起きたとき、所長から依頼された彼が受刑者の不満を団体交渉の方向へとまとめ上げた手腕からもうかがわれるように、吸収した不満を理性的な対話経路へ誘導するように心がけていた。理性的・理想主義的な姿勢を持つ土着型ポピュリストとして彼の存在は非常に興味深い。

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2018年2月13日 (火)

稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町──新宿、もうひとつの戦後史』

稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町──新宿、もうひとつの戦後史』(紀伊國屋書店、2017年)
 
 私自身も歌舞伎町には多少馴染みがある、と言うと語弊があるかもしれないが、映画館街にはよく足を運んでいた。初めて足を踏み入れたのは中学生の頃、友達と一緒に。その頃は若干の緊張感を覚えたものだが、都心の大学に通うようになって以降は当たり前のように歌舞伎町へ映画を観に行っていた。歌舞伎町の映画館街は現在ではすっかり様変わりしてしまったが、噴水広場をはさんで西に東急、東にコマ劇場(東宝系)があった。南北両側には台湾人・李以文の地球座や新宿劇場(ヒューマックス・パビリオン)、韓国人・高橋康友(李康友)のオデヲン座(東亜興業)が並んでいた。また、名曲喫茶らんぶるも台湾人によって開店されたという。歌舞伎町に中華系、韓国系の人々のコミュニティーがあったのはもちろん知っていたが、このように身近なところにまで植民地支配が影を落としていたことを本書で知り、驚きを新たにした。
 
 彼らも最初から歌舞伎町にいたわけではない。そもそも、歌舞伎町は都市整備が試みられながらも、立地条件の悪さから閑古鳥が鳴く場末の空間に過ぎなかった。台湾人実業家たちは戦後、新宿西口のマーケットで財産を築き、それを足掛かりにして、興行街として発展を始めた歌舞伎町に入って来たのである。映画館街の箱ものも、日本資本から買い取りを断られたため、彼らが引き受けたようだ。
 
 歌舞伎町で活躍した台湾人実業家たちに医師や慶応、早稲田出身など知識青年出身者が多いのが目を引く。戦後の政治状況が関わっているのだろうか。彼らにとって歌舞伎町は、単に富を築くのみならず、文化事業としても夢をかける空間になっていた。
 
 本書は彼ら台湾人が戦後の新宿で事業を展開していく様子を活写しており、それだけでも十分に興味深い内容なのだが、欲を言えば、個々の登場人物のライフヒストリーをもう少し掘り下げて欲しかった。台中霧峰出身で林姓の人物といえば、林献堂一族との関係が推測される。高座海軍廠の少年工出身者もいるし、簡水波の場合には南洋に送られてBC級戦犯となり、戦後に日本へ来て児玉誉士夫のような右翼や台湾の国民党とも関わりを持つフィクサー的な人物であった。二二八事件や白色テロのため、台湾へ帰れなくなった人たちもいたであろう。こうした個々のライフヒストリーを丁寧に掘り起こしていくと、東アジア現代史という一層広い視野の中で立体的に新宿の位置づけを描き出していけるはずだ。

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2018年2月11日 (日)

藤原辰史『トラクターの世界史──人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』

藤原辰史『トラクターの世界史──人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』(中公新書、2017年)
 
 私自身は東京に育ったため、トラクターをじかに見る機会は皆無であったが、それでも小さい頃、テレビでトラクターのコマーシャルを頻繁に見かけていた記憶はある。私にとって馴染みがありそうでないちょっと不思議な存在であった。19世紀末にアメリカで発明されたそのトラクターが、20世紀の歴史においてどのような役割を果たしたのか、本書はその多面的な様相を知らしめてくれる。
 
 トラクター導入による生産性の向上、労働力の節約がもたらす影響は当然ながら、トラクターと戦車との技術的同一性が農民と兵士との機能的同一性をもたらしたという意味で、トラクターと戦車は双生児であったという指摘は、技術と動員の観点から重要だろう。また、運搬手段のモータリゼーションは石油の需要を高めた。
 
 単に技術史というだけでなく、文化史の面でもトラクターは意外と重要である。1930年代、トラクターが普及し始めた頃、スタインベック『怒りの葡萄』では災いの象徴とされていた一方、同時期のソ連では農業集団化のシンボルとなり、エイゼンシュタインの映画「全線」では肯定的に描写されていた。日本は「満洲国」でトラクターの導入を図り、映画「新しき土」にも登場するが、ただし実際にはあまり普及せず、むしろプロパガンダの道具として利用される程度だったという。いずれにせよ、農業の機械化・近代化を視覚的に表現した素材としてトラクターは文学・映画等を考える上でも無視できない。
 
 トラクターの導入により、人間と「土の世界」とが切り離されていく状況をどう考えるか、これは現代でも有効な問いであり、また、戦時下の日本で政府による機械化の推進と、それに反発する精神論的な農本主義者との対立も、思想史的に掘り下げて検討してみると面白そうである。

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2016年5月15日 (日)

中川右介『戦争交響楽──音楽家たちの第二次世界大戦』

中川右介『戦争交響楽──音楽家たちの第二次世界大戦』(朝日新書、2016年)

 1930~40年代にかけて世界中で戦争と粛清が荒れ狂った時代、こうした政治的狂気は音楽家たちをも翻弄していた。本書は1933年のヒトラー政権成立前後から1945年に第二次世界大戦が終わるまで、政治情勢をめぐる解説を節目ごとに挿入しながら、当時の音楽家たちの動向をクロノジカルに描写している。

 名だたる作曲家や演奏家の名前はことごとく網羅され、著者自身があとがきで言うように、オールキャスト映画のおもむきすら持つ。焦点がしぼられていないからと言って、叙述が無味乾燥だったり散漫だったりということはなく、クラシック音楽ファンなら目を引くエピソードが次から次へと繰り出されてくるので、読みながら緊迫感を帯びた時代的雰囲気に引き込まれていく。また、常に出来事の同時代性が意識されるので、時代状況をトータルに把握できる。

 1938年のナチスドイツによるオーストリア併合まで、オーストリアのドルフス政権は独立の維持に腐心していたが、ザルツブルグ音楽祭は独立オーストリアの象徴となり、それはナチスへの抵抗でもあったため、「反ファシズムの砦」としての意義も帯びたという。他方、ワーグナーを愛好するヒトラーはバイロイト音楽祭にひときわ思い入れを持っていた。反ファシズムの立場にあったトスカニーニはヒトラーの誘いを蹴ってバイロイトでの演奏をやめ、ザルツブルグに肩入れする。政治的対立関係がナチスのバイロイト、反ナチスのザルツブルグという位置づけになったというのはまさに時代の様相を表していた。

 反ファシズムの立場を明確にしたトスカニーニとは異なり、フルトヴェングラーの立場はあいまいだ。彼もヒトラーを嫌い、ユダヤ人を擁護しようとしてはいたが、芸術は政治とは無関係という芸術至高主義が、かえってナチスに利用される余地を残してしまっていた。なお、フルトヴェングラーは訪独した近衛秀麿を通じて、ストコフスキーにアメリカ亡命の可能性を打診していたが、オーマンディに反対されて、結局、実現しなかったという。他方、自らの足場を確保しようと躍起になっていた若きカラヤンは、ナチスに入党してまで政権に迎合しようとしていたが、ヒトラーから嫌われていたためなかなか出世できず、それがかえって戦後に「免罪符」になり得たというのも皮肉である。

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2016年5月13日 (金)

豊川斎赫『丹下健三──戦後日本の構想者』

豊川斎赫『丹下健三──戦後日本の構想者』(岩波新書、2016年)

 日本を代表する建築家の一人であり、都市計画の分野で大きな存在感を残した丹下健三。彼は都市や国土との有機的な結びつきの中で建築を捉えていたため、デザインを行う前提としてまず国土全体の課題を整理することが必要となる。従って、丹下の建築に関わる営為を考えることは、単に彼の建築デザインを論ずるというだけでなく、同時に彼が日本社会の現状をどのように理解し、将来的にどのような方向性へと構想していたかを問うことに直結する。他分野の専門家とも積極的に協力し、国土開発のコーディネーターとしての役割を果たし、さらには自らのプランを実行するには政治とのつながりも必要であった。

 私が興味を持ったのは次の一節。「都市デザインとは政治である。多くの若者が丹下に憧れ、アーバニストになることを夢みて丹下研究室の門戸を叩いたが、そこで経験を積むにつれ、政治と関わらなければ思ったようなデザインが完成しないことを知った。」「また、国家的なイベントの企画・立案も重要な都市デザインの一つである。というのも、国家的なイベントでもないかぎり、巨大都市の中心地で、政府や自治体を含む多くの地権者の同意を得ることは困難であったためである。」(187頁)

 彼は自宅などの例外を除けば、基本的に個人住宅の設計を手掛けていない。近代社会においては、公共性を持つ建築が対象となるのは群衆であると彼は理解しており、「社会的人間の尺度」で建築を考えていたという。それは個人という単位から出発するのではなく、俯瞰的に捉えているという意味で古代建築における「神々の尺度」と同様だったのではないかと指摘される。初期の建築においてピロティを設定し、市民が集える公共空間にしようとしていたのは、民主主義を建築という場面でどう実現するかという問題意識とつながっていた。他方、1970年代にオイルマネーでわく中東などに招かれて大規模建築の設計を手掛けた経験を経た上で、1980年代に丹下が新都庁舎を設計したとき、磯崎新が「知事の権力を一直線のシンボル性に集約するデザインを採用しており、この変化が中近東の経験に由来するのではないか」という趣旨の批判をしているのが興味深い。建築や都市計画において俯瞰する視点は、ともすると権力者の視点と同一化しかねない問題をはらんでいるのかもしれない。

 戦後まもなくの日本では建築資材・技術等が未熟で、丹下の設計プランが思うように発揮できない場面もあったという。ところが、1960年代に入り、例えばオリンピックに合わせて建設された国立屋内総合競技場では、様々な建築資材を活用出来た上に、ゼネコンに勤務する中間技術者の積極的な協力もあって、日本の建設産業のポテンシャルを世界に向けて発信できたと指摘される。設計者の構想という上部構造だけでなく、材料、機会、それらを調達する流通システムなどの下部構造、及びその下部構造を上部構造につなげる「中間層」の存在があって、はじめて丹下の構想は実現し得た。

 丹下が設計を手掛ける際には、その建築がどのような社会的・時代的脈絡の中にあるかを常に意識していたため、前提として同時代の社会・経済状況についての考察が不可欠となる。言い換えると、本書は丹下健三という人物を通して戦後日本建築史を語っているだけでなく、建築という側面から日本戦後史そのものの流れも見えてくる。個人的には、戦前、丹下が大東亜建設記念造営計画設計競技に入選したプランにも興味があるのだが、本書は1945年以降に限定して論じられているため、戦前期については言及されていない。

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2016年5月 9日 (月)

【映画】「灣生畫家 立石鐵臣」

「灣生畫家 立石鐵臣」

  1941年7月、太平洋戦争の勃発が間近に迫った時期、台北で『民俗台湾』という雑誌が創刊された。1937年には日中戦争が始まって戦時体制が強まりつつあり、台湾では「皇民化運動」が展開されていた。「日本人」として皇国に心身ともに捧げることが当然視された時代状況下、台湾の民俗文化の記録・保存を目的とした雑誌の存在は、それだけでも当局から睨まれてもおかしくなかった。雑誌の刊行を継続することがまずは至上命題。検閲の目を逃れるためには時に国策に迎合する言辞もちりばめなければいけなかったが、いずれにせよ、日本人であるか台湾人であるかを問わず、台湾の文化や歴史に愛着を持つ人々が手探りしながら協力し合って、このささやかな雑誌は1945年1月号まで続いた。

  『民俗台湾』をひもとくと、「台湾民俗図絵」をはじめとしたイラストがひときわ目を引く。的確に対象を捉えつつ、ぬくもりがあって、時にユーモラスなこれらのカットを描いたのは、台湾生まれの日本人画家・立石鐵臣。台湾生まれの日本人のことを「湾生」という。

  立石鐵臣は1905年、台北に生まれた。父の転勤に伴って日本へ帰国。絵画には早くから興味を持ち、才能を示していた鐵臣は国画会に入選するなど若手画家としてのキャリアを着実に積んでいた。1934年、台湾へ戻る。生まれ故郷・台湾の風光を描きたかったからだ。「ちょっと台湾へ行ってきます」というさり気ない言い方が、いかにも彼のパーソナリティーを彷彿とさせる。

  立石は1934年に台湾人を中心に設立された台陽美術協会の創立メンバーになった。台北放送局に勤務していた兄・立石成孚の家に寄寓し、台北帝国大学の生物学者・素木得一の研究室で標本画を描く仕事をしながら、細密画の描法を自ら会得する。また、台北の文壇で勢力を持っていた作家・西川満に頼まれてイラストや装幀も手掛けるようになり、そうした中で後の『民俗台湾』同人たちとも知り合った。

  1945年、日本の敗戦により、台湾は中華民国に接収された。日本人は原則的に日本へ送還されることになっていたが、特殊技能を持つ日本人はしばらく留め置かれた。これを「留用」という。立石も「留用」されて台湾省編訳館に勤務する。ここでは日本統治時代に蓄積された学術的成果を整理・翻訳する作業が行われていた。編訳館には魯迅の親友だった許壽裳など日本留学経験のある開明的な中国知識人が派遣されてきており、彼らは「留用」された日本人にも誠意をもって接してくれたという。私個人としては、こうした形で日本人、台湾人、中国人が協力し合う時期が束の間なりともあったということに関心が引かれているが、1947年の二二八事件等によって時代状況は瞬く間に険悪化していく。編訳館は閉鎖され、許壽裳は暗殺されてしまった。編訳館の閉鎖後、鐵臣は「留用」された日本人の子弟が預けられていた小学校の教員をして、生徒から慕われていたらしい。1948年、最後の引揚船に乗って基隆を離れるとき、埠頭には見送りの台湾人がたくさん集まっていて、「蛍の光」が聞こえてきたという。

  日本へ帰国して以降、彼の画風は抽象的なものになっていく。例えば、眼球が宙に浮いているような「虚空」(1950年)──もともとのタイトルは「孤独」だったという。彼が見ていた心象風景はどのような経過をたどって変化したのだろうか。台湾体験は戦後の彼の軌跡にどのような影響をもたらしたのだろうか──。藤田監督は上映後のスピーチの際、初期の画風と戦後の画風との際立った違いが気にかかり、その中間に位置する台湾時代を探ってみたいと思った、という趣旨のことを語っておられた。立石は自らのことについて直接的に語ることは少なく、絵画を通して語っている。そして、残念ながら、台湾時代に描いた作品の多くは台湾に残してきて、そのまま行方不明になっている。明確な答えはなかなか見えてこないが、むしろ観客一人一人が彼の軌跡がはらんだ意味を考えて行く上で、このドキュメンタリー作品は貴重な手がかりを示してくれている。

  立石が描いた「台湾民俗図絵」のカットは、現在の台湾でも、例えば小物のデザインなど、ふとしたところで見かけることがある。利用した台湾人自身も、その来歴を知らないのかもしれない。また、戦後、日本へ戻った立石は生計を立てるため図鑑や教科書のイラストもたくさん描いており、我々も気づかないところで、実は立石の絵を見ていた可能性は高い。世に知られようと知られまいと、そんなことには頓着せず、立石はとにかく絵を描き続けていた。

  台湾人からすれば、日本統治時代の台湾史は最近まで学校で教えられることがなく、ある意味、足元のことなのに未知の世界も同然であった。また、日本人からすれば、日本統治時代の台湾は、日本と密接な関係があったにもかかわらず、現在は外国であるがゆえになかなか知る機会がなく、これもまた別の意味で未知の世界である。この「湾生画家 立石鐵臣」というドキュメンタリー作品は、日本人の藤田修平監督、台湾人の郭亮吟監督という二人によって共同制作されており、日本人と台湾人、それぞれ異なる探求の視点がうまくかみ合いながら、立石鐵臣という一人の画家を通して日台関係のある一面も見えてくる。私自身も台湾現代史の勉強を続ける上で色々な示唆を受けており、もっと多くの方に観ていただけるよう上映機会が増えることを願いたい。

  作品中には立石鐵臣のご家族や、『民俗台湾』の立役者であった池田敏雄夫人の黄鳳姿さんなどの貴重な証言が含まれている。『民俗台湾』の印刷を請け負っていた、やはり湾生の岡部茂さんや、考古学者の宋文薫さんは今年、惜しくも相次いでお亡くなりになってしまった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

  また、5月21日から東京・府中市美術館にて「麗しき故郷「台湾」に捧ぐ──立石鐡臣展」も開催される。
 

(2016年5月7日、「台灣國際紀錄片影展」、台北・光點華山電影にて)

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