カテゴリー「近現代史」の128件の記事

2009年12月22日 (火)

大野正美『グルジア戦争とは何だったのか』、前田弘毅『グルジア現代史』、他

 大野正美『グルジア戦争とは何だったのか』(東洋書店、ユーラシア・ブックレット、2009年)は、2008年8月に南オセチアをめぐっておこったロシア・グルジア間の「五日間戦争」の経緯を解説。グルジア領内にあってロシアのバックアップを受ける南オセチア自治州、アブハジア自治共和国が焦点。グルジア内のマイノリティーである両自治州・自治共和国の中にもさらにマイノリティーがいるという複雑な民族構成。どちらが先に手を出したのかはいまだに情報が錯綜している。国力差ではロシアが圧倒的だが、実際の動員数はほぼ互角、地勢的条件を考慮すればむしろグルジア側が有利だったはずだが、軍隊のシステム上の不備から敗退。ロシア側は、資源輸出による経済成長への自信に裏付けられて対外的に強硬姿勢だったが、直後の9月に世界金融危機→欧米のロシア投資も一斉に引き上げ→口先とは裏腹に国際協調を迫られた。ロシアが初めて旧ソ連構成国と戦争したこと、国境不変更の原則からコソボ独立に反対していたにもかかわらず“非承認国家”南オセチア・アブハジアの独立を認めたことは、ロシア外交への国際的不信感を印象付ける結果となった。

 前田弘毅『グルジア現代史』(東洋書店、ユーラシア・ブックレット、2009年)は、ソ連崩壊・グルジア独立以降に重きを置いた現代政治史の概説。1956年にはハンガリー事件に先行して反ソ暴動、ソ連軍による軍事制圧を経験、1978年には国語条項問題→グルジア民族主義が高まっていたが、他方で、アブハジアなどグルジア領内マイノリティーは警戒感を強めており、民族紛争の種は早くからくすぶっていた。独立後の初代大統領ガムサフルディアは激情的な愛国主義者で混乱に拍車をかけてしまった。事態収拾のため招かれたシェワルナゼは現実主義的なバランス感覚を示したものの、旧ソ連時代からの地元ボス政治を温存→腐敗、さらに経済運営の失敗、チェチェン紛争や9・11後の危機的状況を乗り切れず、国内に不満が高まり、2003年のバラ革命で失脚。代わって大統領になったアメリカ帰りのサアカシュヴィリは清新なイメージの一方で、やはり古くから続く縁故政治を断ち切れず、政権幹部も離反、国内の求心力を高めるため反ロシアの愛国主義を煽りたて、2008年の「五日間戦争」を招いた。しかし、サアカシュヴィリに代わり得る指導者は他に見当たらないのが現状だという。

 以前、ピロスマニに興味を持って(→こちら)、彼の生きた時代背景を知りたいと思ったのだが、グルジア史関連の日本語文献が少なくて難儀した。ロシア革命前後の時期については取りあえず、Stephen F. Jones, Socialism in Georgian Colors: The European Road to Social Democracy, 1883-1917(Harvard University Press, 2005)を読んだ(→こちら)。最終的にはボルシェヴィキが覇権を握ったロシアとは異なり、グルジアではメンシェヴィキの勢力が強く、ナショナリズムと近代化の受け皿となった。そのことを指して“グルジア色の社会主義”と表現されている。指導者ノエ・ジョルダニアの個人的な信望もあって、1921年の赤軍による軍事制圧で亡命を余儀なくされるまでのほんの数年間だったが、メンシェヴィキ主導のグルジア民主共和国が成立していた。現在のグルジアもこれを継承したという形をとっている。それから、悪ガキ時代のスターリンを描いたSimon Sebag Montefiore, Young Stalin(Phoenix Paperback, 2008)を読みさしのままほったらかしなのだが、舞台はやはりこの時代のグルジアである。ジョニー・デップ主演で近いうちに映画化されるらしい。

 他にグルジア関連では、テンギズ・アブラゼ監督の映画「懺悔」についてはこちら、グルジア史について音楽に絡めたメモはこちらに書いた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月17日 (木)

笠原清志『社会主義と個人―─ユーゴとポーランドから』

笠原清志『社会主義と個人―─ユーゴとポーランドから』(集英社新書、2009年)

 著者は自主管理労組の研究者。若き日のユーゴスラヴィア留学、研究目的でのポーランド滞在といった体験の中で出会った人々とのエピソードを通して、社会体制と個人との関り方を考えていく。タイトルは硬いが、私的な体験を交えて実感のある感想を述べているところには好感を持った。

 ワレサが民主化で果した役割を海外では過大評価しがちだが、連帯の分裂過程を見ると、“民主的”でなかった点ではかつての共産党と変わらないようだ。社会主義かどうかというのは所詮表面的な話で、結局、社会体制というのは人々の皮膚感覚にしみついた“ものの考え方”のレベルに根ざすわけだから不思議はない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月14日 (月)

ヴィクター・セベスチェン『ハンガリー革命1956』

ヴィクター・セベスチェン(吉村弘訳)『ハンガリー革命1956』(白水社、2008年)

 1956年、ソ連軍によって鎮圧されたハンガリー革命。一連の政治動向を前史としての第二次世界大戦から説き起こして時系列的に描き出したノンフィクションである。人物群像をこまめに拾い上げて描かれているので内容は興味深いのだが、訳文がちょっと不自然なのが残念。

 ソ連からのきびしい締め付け、常にソ連中央指導部の鼻息をうかがわねばならないラーコシは“小スターリン”として振る舞い、秘密警察による暴力と一体化した体制で恐怖政治を展開して、市民の間に不満がくすぶっていた。1956年のスターリン批判と共にラーコシは失脚して、鬱積していた不満が爆発、市民の自発的なデモが盛り上がる中、誠実な人柄で共産党幹部の中では唯一人気のあったナジ・イムレが新指導者として浮上する。ナジ自身はソ連と妥協する必要を理解していたが、民衆運動はもう抑えがきかない。結局、ソ連の軍事介入を招いてしまった(ただし、ソ連指導部内でも議論があり、ミコヤンは反対したが、強硬派に押し切られた)。アメリカは冷静構造のロジックで無視、スエズ動乱に忙殺される国連も関心を示さない。ナジ政権の閣僚だったがソ連側に寝返ったカーダールを傀儡として新政権が樹立され、ナジをはじめとした指導者たちは処刑された。

 本書でもカーダールに対しては裏切り者として評価は少々からい。本書の趣旨からははずれるが、カーダール政権の時代は依然として共産党支配が続き、とりわけ1956年の悲劇が傷としてひきずられたマイナスがある一方で、社会的・経済的には比較的安定し、ラーコシ時代との比較に過ぎないにしても秘密警察は控えめで、個人崇拝もなかったと言われる。後知恵的な言い方になってしまうが、当時の地政学的条件からしてソ連による“帝国支配”から脱け出せる見通しはほとんどなく、それにもかかわらずコントロールを失った民衆運動に引きずられて、それをまとめあげる力のなかったところにナジの悲劇があった。妥協によってソ連支配下でも一定の自立を目指した点では、ナジの果たせなかった役割をカーダールが担ったという見方も可能なのだろうか?

 なお、1956年のハンガリー革命については、以前に「君の涙 ドナウに流れ──ハンガリー1956」という映画を観たことがある(→こちら)。その時に併せてビル・ローマックス(南塚信吾訳)『終わりなき革命 ハンガリー1956』(彩流社、2006年)という本も読んだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月30日 (月)

司馬遼太郎『坂の上の雲』のこと

 NHKのドラマ「坂の上の雲 第1回 少年の国」をみた。実はあまり期待はしていなかったのだが、映像作りにはかなり力が入っているし、久石譲の音楽も映画のような盛り上がりがあるし、なかなか悪くないと思う。

 ただ、ちょっと気になっているのは、確か司馬遼太郎は『坂の上の雲』は映像化しないようにと言い残していたのではなかったか(私の勘違いか?)。文章ならば細かな説明ができるのに対して、映画やドラマはどうしてもストーリーを切り詰めざるを得ない。そうした単純化が下手するとナショナリズムや軍国主義の礼讃に陥ってしまう可能性を司馬は危惧していたように思う。まだプロローグ程度で本筋はこれからだろうから(断続的に2011年までやるらしい)しばらく様子見のつもりでいる。

 親の本棚に司馬遼太郎の作品がほぼ揃っていたので、司馬の主だった作品は小学生から高校生にかけての頃にあらかた読んだ。日本史について、とりわけ戦国~安土桃山時代と幕末・維新期の知識の基礎は司馬作品を通して得たと言っても過言ではないくらいだ。中でも好きだったのが『坂の上の雲』で、初めて読んだのは中学生の頃だったが、その後も何度か読み返した。明治における日本の近代化の過程をこれだけのスケールで多彩な人物群像の織り成すドラマとして描き出した小説作品は他になかなか類書が見当たらない(幕末なら大仏次郎『天皇の世紀』が思い浮かぶのだが)。細かい話になるが、健全なナショナリズムがあり得る一例として陸羯南の名前を知ったのもこの作品だった。

 司馬史観なる言葉を時折聞く。「新しい歴史教科書をつくる会」の活動が始まったのは、私が高校から大学にあがるくらいの頃だった。藤岡信勝が、「従来の歴史観は自虐史観である、自由主義史観とは近代日本が行なった侵略戦争の悪いところは認めると同時に、良かったところもきちんと評価する、その意味で『坂の上の雲』の司馬史観だ」という趣旨の発言をしていた。他方で、当時は仲間だった西尾幹二が「良いも悪いも一切をひっくるめて日本人だ、ここまでは良かった、ここからは悪かったと線を引く発想はおかしい」とも発言していた。「つくる会」分裂の芽はこの頃からすでに萌していた(その後は全くフォローしていないので、最近どうなっているのかは知らない)。西尾の普段の政治的主張への是非はともかく、この点に関してはいかにもニーチェ学者らしいと私は西尾に好感を持っている。

 司馬が『坂の上の雲』を書いた動機が、徴兵されて戦車隊に配属され、戦争の不条理を感じたことにあったことはよく知られている。昭和の戦争の無謀さ、政治・軍事の指導者の浅はかさと対比する形で、明治国家において近代化を追い求めた人々の慎重な政治判断、とりわけ日清・日露戦争における戦争法規遵守の態度に見られるような生真面目さ(西欧の眼差しを意識して“文明国”として振舞おうという意図があったからにしても)を強調する形になっている。そこには、司馬自身の戦争の空気を肌身に感じたという意味での私的な体験、こうすべきだったのにという悔しさまじりの願望も込められているわけで、それを後世の後知恵で“史観”という枠組みで表面的に整理してしまうことにはちょっと違和感がある。この違和感がうまく表現できなくてもどかしいのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月27日 (金)

菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業──「壮大な拉致」か「追放」か』

菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業──「壮大な拉致」か「追放」か』(中公新書、2009年)

 北朝鮮問題にはある種の “情緒的”な主張が絡まりやすく難しいテーマであるが、本書は1959~1984年まで続けられた在日朝鮮人の帰国事業について資料に基づいて事実関係を整理する構成となっているので安心して読み進められる。

 プッシュ要因とプル要因から説明される。前者としては日本での差別待遇や貧困、日本政府の「厄介払い願望」など、後者としては北朝鮮側の政治的思惑による「地上の楽園」という宣伝(日本のマスコミによる好意的な報道も後押し)、朝鮮労働党の意を受けた朝鮮総連による積極的な勧誘活動などが挙げられ、プッシュ・プル両方の要因が合わさって帰国願望が高められた。帰国者の大半は38度線より南の出身だが、韓国の政治的混乱が知られる一方で北朝鮮については肯定的な情報しか伝わってこなかったこと、朝鮮総連の熱心さに比べて韓国政府の対応は冷たかったことも背景にある。

 北朝鮮の虚像と実態との乖離は帰国者を絶望に陥れた。北朝鮮国内の生活水準からすれば比較的優遇もされたらしいが、「地上の楽園」という宣伝を真に受けて来た人々からすれば、この落差はどうにもならない。身なりの良い彼らは現地の人々からは嫉妬され、さらには差別の対象になる。不満を漏らせば当局の監視対象となり、場合によってはスパイ容疑もかけられる。日本での差別から逃れて来たにもかかわらず、再び抑圧される立場に落とされてしまった悲運には何とも言葉がない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月17日 (火)

蒋介石関連で5冊

 野村浩一『蒋介石と毛沢東──世界戦争のなかの革命』(岩波書店、1997年)は、地域割拠や国共対立といった国内の分裂、日本からの軍事的圧迫などの危機に直面した1920~40年代の政治状況について蒋介石・毛沢東の二人(前者に重きが置かれている)を主軸に描く。最終的に国民党が共産党に敗れたのはなぜなのかというテーマは中国現代史の大きな論争点の一つである。蒋介石の南京国民政府は、三民主義に基づいて中国の近代化を目指しつつも、統治体制の再編にあたって旧来的な政治文化をひきずっていたため、抗日戦争の中でそのほころびが表面化した。対して共産党は農民世界における郷村秩序の再編成を通して支持を集めたとされる。

 家近亮子『蒋介石と南京国民政府』(慶應義塾大学出版会、2002年)は、従来主流であった共産党中心の歴史解釈の中で国民党の位置付けが閑却されてきたという問題意識をもとに南京国民政府(台湾移転まで)をめぐる政治過程を分析する。地域割拠や国民党内の路線対立などで蒋介石の権力基盤は必ずしも強固ではなかったが、近代国家建設を担う政権としての正当性を内外に示すことを目指していた。国民党敗退の原因として、党の権力組織が国の末端まで行き渡っていなかった点を挙げる。孫文が示した軍政→訓政→憲政という政治プログラムは抽象的で、現実の政治状況は想定されていない。後継者が三民主義の解釈件を確立できなかったため情勢の変転に対応できなかった。各地の指導者が独自に三民主義を解釈して中央の方針と矛盾を来すことも生じた。上掲野村書では蒋介石政権の特徴として恩顧主義が挙げられていた。本書ではその恩顧主義が蒋介石への忠誠を強いるだけの片務的なものであり、国民党は中国国内の社会的資源を独占できず、従ってその配分ができなかったことが弱点になったとされる。他方で、南京国民政府期において国家建設に必要な基礎用件(とりわけ、人的資源の動員や対外的地位の確立)はすでに用意されており、中華人民共和国はこれらを引き継いだという意味で政治的継続性があると指摘される。

 パターナリスティックな訓政から国民主権の憲政へと移行するには、それにふさわしい近代的な国民を創出しなければならない。蒋介石は1934~49年まで新生活運動を発動した。段瑞聡『蒋介石と新生活運動』(慶應義塾大学出版会、2006年)はこの新生活運動に着目して蒋介石の政治理念や政治構造を分析する。思想的には、①儒教(→中国の伝統重視)、②ファシズム(→大衆動員)、③キリスト教(→欧米へのアピール)、④日本留学体験を通して武士道への関心(清潔と規律を重視。日本の武士道はそもそも中国の陽明学に起源があると認識→三民主義の儒教的解釈に影響)といった特徴が指摘される。新生活運動を大衆レベルで展開することで蒋介石のリーダーシップによる国家建設と現代的戦争形態に対応できる国家総動員を目指していたが、必ずしも成功したわけではなかった。蒋介石自身の直接的号令で行なわれたことは一見すると独裁者的だが、これを裏返すと、国民党組織を通じた指令が国の末端まで浸透していなかった、その意味で彼の権力基盤が国レベルでも党レベルでも弱かったことが浮き彫りにされる。

 大陸ではリーダーシップを確立できなかった蒋介石だが、国共内戦に敗北後、皮肉なことに撤退先の台湾で強固な独裁体制を確立する。松田康博『台湾における一党独裁体制の成立』(慶應義塾大学出版会、2006年)は、豊富な史料を活用しながら複雑に錯綜する政治力学を丹念に解きほぐし、国民党の権力機構が台湾で確立されていく過程を詳細に描き出している。国民党の中央集権化を阻んでいた最大の要因は軍事力を持って割拠する地方派閥の存在だったが、これらの軍隊は台湾に逃げ込んだ時点で縮小・解体され、地方派閥は完全に消滅した。“法統”にも危うい問題があったが、蒋介石はわずかなスキをついてギリギリの神経戦を勝ち残った。党の改造があらかた終わると、その大鉈を振るっていたC・C派の陳兄弟を実質的にパージ、蒋介石による“領袖独裁”が確立される。それは、中華民国総統と国民党総裁という二つの職務を兼任することで、総統として国軍と特務機関(中共との対立→スパイの不安→蒋経国が指揮する特務機関の活動→党や軍も見張る)を掌握、総裁として党を通じて中央・地方の行政にも指導を貫徹させる体制であった。他方で、①自律的・技術的に政策立案を追求するテクノクラートの存在、②アメリカの目を気にして“憲政”の建前、③“法統”維持という建前から立法院を存続(大陸で選挙できないから改選なし→不逮捕特権があるため蒋介石も手出しできなかった。民意の反映という点でたとえ不完全な方法であっても、いったん選出されたら体制内部でダイナミズムを引き起こす潜在力を秘める。かつては強硬派であったC・C派が、党中央との対立を契機に民主化を求める体制内野党に転じたという政治力学が興味深い)、④外省人支配の体制ではあったが地方議会選挙では台湾の地域派閥と妥協、以上のように国民党独裁体制ではあっても後の民主化につながる初発条件を内在していたとも指摘される。

 日本との関わりも含めて蒋介石の生涯をたどるには、保阪正康『蒋介石』(文春新書、1999年)が読みやすいだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月13日 (金)

辺境のガンディー、イスラムの非暴力主義

 アブドゥル・ガファル・カーン(Abdul Ghaffar Khan、1890~1988年)がガンディーと手を携えあって歩いている写真がある。並んで歩くと頭二つ分ほども突き抜けるような長身、その大木のようなごっつい体つきと彫りの深い顔立ちに顎ヒゲ。しかし、眼差しは穏やかに優しいというアンバランスに不思議な魅力がある。

 彼はパシュトゥン人、敬虔なムスリムである。イギリス領インド植民地の北西辺境州(North Western Frontier Province、現在はパキスタン)でガンディーに呼応して非暴力運動を展開したことから“辺境のガンディー”として知られている。清貧な生活態度と誠実な人柄で多くの人々から慕われ、ガンディーが“マハトマ”(偉大なる魂)と呼ばれたように、カーンも“バドシャー・カーン”(Badshah Khan)と呼ばれた。「王の中の王」という意味らしい。さしずめ「無冠の帝王」といったところか。もっとも、カーン自身は“辺境のガンディー”とか“バドシャー”と呼ばれるのを嫌がっていたらしいが。

 イスラムに対してある種の偏見を持たれてしまうこともある中、カーンのような人物がいたということが日本であまり知られていないのはちょっと残念な気がする。以下の記述は、Eknath Easwaran, Nonviolent Soldier of Islam: Badshah Khan, A Man to Match His Mountains(Nilgiri Press, 1999)を参照した。

 カーンはペシャワール郊外のウトマンザイ(Utmanzai)で裕福な地主の家に生まれた。イギリス人の経営するミッション・スクールを卒業後、イギリスの部隊に入隊(The Guides→案内兵?)。尚武の民として知られたパシュトゥン人にとってはエリートであり、カーンはイギリス人と対等にやっていけると期待に胸をふくらませていたが、現実はたちまち幻滅を招く。彼はすぐにやめた。イギリス人恩師からイギリス留学をすすめられてその気になったが、母親の頑強な反対にあって断念。先に兄のカーン・サヒーブ(Khan Saheb)が医学の勉強でイギリスに留学しており、向こうでイギリス人女性を結婚していた。「彼はもはやムスリムではない、もう一人の息子まで失いたくない」というのが母親の言い分だったようだ。

 若きカーンは懊悩の中でイスラムを学び始め、そして自分の民族のことを考えた。一方でイギリスから圧迫を受け、パシュトゥン人でも特権階層はそれに協力している。他方で、保守的なムラー(mullah)は民衆の貧困、無知、無気力、暴力、こういった状態を放置したままである。どうすればいいのか? まず教育から始めなければならない。カーンは自分で学校を始めたが、彼のリベラルな姿勢は植民地当局と保守的なムラーの双方から目の敵にされ、生徒も思うように集まらない。

 カーンは山奥で断食して祈り続けた。ある日の早朝、強い確信を彼は感じた。具体的に何をなすべきなのかはっきりとした形をとるわけではないのだが、心の奥底から沸き起こってくる強烈な何かに体を揺さぶられた。宗教的な召命体験、とまとめてしまうと無味乾燥かもしれないが、いずれにせよ、我が身を神に捧げるという揺ぎない確信に駆り立てられて彼は再び人々の中へと分け入っていく。ガンディーが南アフリカからインドへ帰国したのはちょうどその頃である。ガンディーの噂を聞いて、彼のシンプルな生活態度と、何よりも非暴力の主張から、カーンは自身の奥底では確信がありつつもぼんやりとしていた何かに響き合うものを感じ取った。自分のなすべきことを悟った彼は村から村へと歩いて説き続け、その話に共感した人々は彼を“バドシャー・カーン”と呼び始めた。

 彼の心情は宗教的なものだが、様々なくびきに縛られた人々を解き放つのが目的であり、そのためには近代的な改革が必要であった。教育、女性の地位向上、パシュトゥン人としてのプライドを取り戻すため自分たちの言語による新聞も発行した。

 パシュトゥン人は尚武の民としてイギリス人からも恐れられていたが、他方で“血の復讐”に象徴される荒々しさは野蛮だとして軽蔑もされていた。そもそも、そんな風習が続くようでは仲間同士の殺し合いはいつまでたっても終わらない。カーンはそれを無知のせいだと考えたが、同時にそのエートスとして、自己犠牲、忍耐強さ、勇気をも見出した。これらの美徳に如何に洗練された意味づけをするのか。カーンの答えが、非暴力主義である。彼は若者たちを集めて軍隊式に組織した。武器を持たぬ義勇軍、非暴力の戦士たち──“クダイ・キドゥマトゥガル”(Khudai Khidmatgar)、すなわち“神の僕”である。

 当時、インドでは塩の専売制が行なわれていた。自分たちの生活必需品を高い費用で買わなければならない不合理。いっそのこと、みんなでこの不当な法律を破ってやろう。1930年、ガンディーが始めた“塩の行進”にカーンとクダイ・キドゥマトゥガルも呼応した。イギリス軍の攻撃で多数の死傷者を出したが、クダイ・キドゥマトゥガルは非暴力主義を貫き通した。挑発すればのってくるだろうと高をくくっていたイギリス軍はこの“不気味さ”に驚き、インド中の人々は勇気を奮い起こした。カーンが逮捕されても、クダイ・キドゥマトゥガルは非暴力の方針から逸脱しなかった。そして、イギリスからの圧迫が強まれば強まるほど支持者は増えていった。

 イギリスと国民会議派との妥協によって釈放された政治犯の中にカーンや兄のサヒーブ(医者として帰国後、弟の運動に参加していた)の姿もあった。しかし、彼らは故郷へ戻ることを禁じられたため、ガンディーの家に滞在する。共に起居してチャルカをまわし、語らいあった数年間は“二人のガンディー”にとって実り多い日々だった。1937年に地方選挙が実施され、政治の嫌いなカーンに代わって兄のサヒーブが出馬、故郷に戻ることはできなかったにもかかわらず当選して北西辺境州の首相に選ばれた。二人とも再び故郷の土を踏むことができた。

 1947年、ようやく植民地支配の終わる日がやってきた。ただし、インドとパキスタンの分離独立という形で。ガンディーとカーンは二人とも分離には反対であった。やがてヒンドゥー教徒とムスリムとの対立感情が高まって暴動がおこり、二人は説得のため共に各地を回った。カーンの故郷でも緊張が高まっていたが、兄サヒーブの呼びかけでクダイ・キドゥマトゥガルが少数派であるヒンドゥー教徒とシーク教徒を保護したという。だが、分離独立は既定路線である。1948年にはガンディーが暗殺された。

 カーンの故郷である北西辺境州はパキスタンとなった。パシュトゥン人はパキスタンだけでなくアフガニスタンにも広がっている。カーンはすべてのパシュトゥン人が同じ国にまとまること、そして民主的な自治を求めていたため、反逆罪に問われて逮捕された。クダイ・キドゥマトゥガルも弾圧され、関係者はすべて州のポストからはずされた。以後、カーンは入獄・出獄を繰り返し、一時はアフガニスタンで亡命生活を送りながら、90歳を過ぎても一貫して主張を曲げなかった。

 1988年、カーンはペシャワールの病院で死去。当時、ソ連によるアフガニスタン侵攻をきっかけに内戦が始まっていたが、アフガニスタン領のジャララバードに埋葬して欲しいというカーンの遺志に従い、葬儀の日には休戦により国境が開放された。ただし、たった一日だけのことだったが。パキスタンの北西辺境州にあった難民キャンプにはすでにタリバンの種がまかれていたことは今さら言うまでもない。

 ヒンドゥー教とイスラム教についてガンディーはこう語っていた。「宗教は同じ場所に到達する別々の道です。私たち両者が別の道をとっているからといって、どうだというのです。残念に思うことがあるというのですか?」(『真の独立への道』田中敏雄訳、岩波文庫、63ページ)。また、出典を思い出せないのだが、ガンディーは「どんな宗教であっても真理を語っている。だから、キリスト教徒なら聖書を読めばいいし、ムスリムならコーランを読めばいい。私はヒンドゥー教徒だからバガバット・ギーターを読む」という趣旨のことも語っていたように記憶している。自分たち自身の伝統としてのイスラムの信仰を掘り下げることによってある種の普遍性を目指した実例という点でアブドゥル・ガファル・カーンという人は興味深いと思う。

 もう3,4年くらい前になるか、紀伊国屋セミナーのシンポジウムで中島岳志さんが「山の頂上は一つでも、そこに至る道はいくつもある。ナショナリティーを“多にして一”なるものと捉え返す視点としてガンディーや井筒俊彦に関心を持っている」という趣旨のことをアイデア程度ではあったが話しておられて感心したことがあった。中島さんならアブドゥル・ガファル・カーンについてどのように捉えるだろうかと興味を持ったのだが、最近はインド関係のことはあまりやってない様子ですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 9日 (月)

アダム・ホックシールド『レオポルド王の亡霊:植民地アフリカにおける強欲、恐怖、そして英雄たちの物語』

Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost: A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa, Pan Books, 2006

 虚栄心の強烈なベルギー王・レオポルド2世。大国の君主として振舞いたい彼は、その証しとして植民地が欲しかった。しかし、ベルギー議会は経費がかさむとして消極的である。レオポルドは地理学協会を設立して名士をそろえたほか、アフリカにおけるアラブの奴隷商人を批判、人道的な博愛主義者としての名声を高めようと努める(つまり、文明の福音→植民地の正当性という論理)。時あたかも列強による植民地分割競争が終盤にさしかかっており、レオポルドは焦っていた。

 そうした中、アフリカ探検で名をあげたスタンレー(Henry Morton Stanley)の存在を知る。イギリスで孤児として生まれ、アメリカで育った彼もまた極めて強い上昇志向の持ち主である。行方不明になったリヴィングストンを見つけ出したエピソードは有名だが、ジャーナリストとして出発したスタンレーは探検というイベントをいかに自己アピールに利用するかに腐心する巧みな演出家であった。

 レオポルドはスタンレーに接触して彼にコンゴでの領土拡張をまかせ、権謀術数を駆使して1885年のベルリン会議で列強にも認知させた。こうして虚栄心の強い二人によってでっち上げられたのが「コンゴ自由国」(Congo Free State, État indépendant du Congo)である。コンゴ国際協会の管轄という建前だが、実質的にはレオポルドの私有地という特異な植民地であった。

 当初は象牙が、後にはゴムがレオポルドの懐に莫大な富をもたらした。ところで、ゴムの樹液集めに原住民を動員するのだが、なかなか効率的に進まない。そこで、chicotteというムチに象徴される強制労働が実施された。“文明”なる偽善の裏にあった実態は残虐である。ベルギーの公安軍(Force Publique)は原住民の女性、子供、古老を人質にして、男たちに樹液集めを強制した。それでも言うことを聞かない村は見せしめのため焼き討ち、皆殺しにしてしまう。白人は現地で徴発した黒人兵に対して武器弾薬を支給するにも、くすねるのではないか、と猜疑心を持っており、一発ごとに証拠を要求した。どんな証拠か? ──殺した相手の右手である。エスカレートして、報酬目当てに生きている人間から右手を切り取るなどということも横行した。個別の殺戮ばかりでなく、構造的な収奪システムからもたらされた飢餓や疫病による死者は数え切れないほど膨大な数にのぼる。

 コンゴの惨状を最初に告発したのはアメリカの黒人でジャーナリスト・法律家・牧師であったジョージ・ワシントン・ウィリアムズ(George Washington Williams)である。黒人の新天地を求めてコンゴを訪れた彼だが、そのあまりに非人道的なあり様を目撃して、レオポルドへの公開書簡を公表。しかし、黒人への偏見のゆえであろう、注目を浴びることはなかった。ウィリアムズは失意のうちに早死にする。

 レオポルド批判の国際世論を巻き起こすのに大きな役割を果たしたのは、イギリス人・フランス人のハーフであったエドマンド・モレル(Edmund Dene Morel)とアイルランド人のロジャー・ケースメント(Roger Casement)である。モレルはコンゴ自由国の特許会社に勤めていたが、コンゴの実態を知って驚愕し、以後この問題に生涯をかけることになる。ちょうど同じ頃、イギリスのコンゴ駐在領事だったケースメントも現地をじかに歩いて実態を調査、本国に向けて報告し続けていた。モレルはケースメントと連絡を取り合いながらジャーナリズムや政治家に働きかけて、イギリス下院でコンゴ問題の調査を要求する決議が通った。レオポルドもロビー活動やマスコミの買収などで反撃に出たが、アメリカ国務省のコンゴ問題担当官に賄賂が渡っていたことが暴露され、その担当官は辞任、ルート国務長官はベルギーに圧力をかける方針を表明した。ベルギー議会も自国の国際的評判が落ちてしまうことに気をとがらせており、1908年、レオポルドはコンゴをベルギー政府に売却することに同意する。翌1909年にレオポルドは死去。彼の浪費癖は知れ渡っており、ベルギー国内でも悲しむ人はほとんどいなかったという。

 モレルの目的が必ずしも達成されたわけではないが、レオポルド個人の恣意的な収奪に比べれば、政府管理の方がまだ改善は期待できると考えた。しかしながら、植民地の実際はほとんど変わらなかったようである。両大戦で資源が必要とされたため強制労働はなくならなかったし、戦後も独立後も、世界経済に組み込まれた中で資源が一方的に流出する構造は続いた。長年にわたって独裁者として君臨したモブツの所業はレオポルドとほとんど同じであったことが指摘される。“レオポルドの亡霊”による呪縛はなかなか消えなかった。

 戦後、コンゴ(ザイール)に駐在したベルギー人外交官が、現地紙に掲載されたベルギーの植民地支配を糾弾する記事に反論しようと考えたのをきっかけに歴史を調べ始めたところ、自分が植民地支配の実際を知らなかったことに気づき愕然としたという話が印象的だ。勤務先である外務省保管の文書にアクセスしようにも拒否されたという。このような歴史の忘却というのも本書のテーマである。アフリカの無名の人々を描きたくても資料が存在しないためできなかったというもどかしさも著者はもらしている。

 そもそも、なぜコンゴだったのか? モレルやケースメントたちが活躍した時代においてベルギーは小国であり、イギリス・アメリカなどの一般大衆にとって“ヒューマニズム”あふれる正義感をぶつけるのに恰好な標的だったからではないのか?という疑問も本書では呈する。イギリスもアメリカも苛酷な植民地支配に手を染めていたにもかかわらず。

 本書を読みながら、ケースメントという人物に興味がひかれた。大英帝国の外交官だが、アイルランド人であるため不遇であった。コンゴ駐在領事の時の活躍は本書のハイライトの一つだが(この時にジョゼフ・コンラッドと知り合った)、その後、ブラジルに赴任、今度はプトゥマヨ(Putumayo)川流域での原住民迫害について憤りを込めて本国へ打電する。コンゴ、プトゥマヨと惨状を目の当たりにしているうちに、他ならぬ彼自身の故国アイルランドもまたイギリスの植民地下に置かれていることへの自覚を改めて強めた。白人か黒人かを問わず、被圧迫者として同列に捉える考え方は人種主義観念が強かった当時としては極めて稀なことであったろう。コンゴ問題の活躍が認められてナイトに叙されたものの、1913年に職を辞してからはアイルランド独立運動に身を投じる。義勇軍を組織し、翌1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アイルランド独立の約束を期待してドイツへ行き、武器調達のうえアイルランドへ戻ったところを逮捕された(アイルランドで戦うのが無理ならばエジプトへ行って戦うべきだとも考えていたらしい)。叛逆罪に問われ、1916年に処刑される。同情の声もあがったが、政府は彼がホモセクシュアルであることを意図的に暴露、当時にあってその不名誉は致命的だったようである。

 ケースメントの盟友だったモレルは対照的である。モレルは戦時下にあって、「これは自衛の戦争ではなく、秘密外交がもたらした無用の戦争である」と主張して反戦運動を展開、政府から弾圧を受けて投獄された。ウィルソンの14か条からもわかるように彼の主張が正しかったことが証明されて戦後は一躍脚光を浴び、労働党から下院議員選挙に出馬、対立候補のウィンストン・チャーチルを破って当選した。マクドナルド内閣の外相になるのではないかとも言われたが、無理がたたって体をこわしており、1924年に51歳で世を去る。

 本書の初版は1999年。アフリカ問題や植民地問題でよく言及される割に日本語訳はない。人物群像などもきちんと描きこまれていて歴史ノンフィクションとして読み応え十分だと思うのだが、アフリカ問題の本は日本では売れないからだろう。

 ちなみに、著者の名前にどこかで見覚えがあるなあと思っていたら、感情社会学のアーリー・R・ホックシールドは夫人らしい。『管理される心―─感情が商品になるとき』(石川准・室伏亜希訳、世界思想社、2000年)も実は本棚にあるのだが、まだ読んでいない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年11月 8日 (日)

本田毅彦『インド植民地官僚──大英帝国の超エリートたち』

本田毅彦『インド植民地官僚──大英帝国の超エリートたち』(講談社選書メチエ、2001年)

・1855年以降、インド高等文官の公開競争学力試験→試験による選抜によって地位を与える近代的メリトクラシーの先駆と言われている。オクスブリッジ出身者を優先的に採用したいという思惑に合わせた試験科目→社会的・知的背景を共有するイギリス人青年が主流(インド人も試験にパスするにはオクスブリッジ出身であることが有利→「王よりも王党的な」インド人)。スコットランド人、アイルランド人、インド人などは高等文官では少数→他の職域でのパーセンテージが大きい。
・本国の内閣でインド担当相は蔵相・外相に次ぐ格付けで、インド高等文官にも高いステータス。
・本書は、インド高等文官となった人々の出身背景、本国のイギリス人政治家・インド高等文官・インド人政治家という三者間の対抗・同盟力学、高等文官の生活誌などを分析。
・インド植民地は本国から実質的に自立した政治的・経済的単位となった→高等文官たちは、インド植民地とイギリス帝国全体、双方への忠誠心でバランスをとる→両大戦間期における帝国の危機、インド・ナショナリズムの高まりなどの新しい動向に対しても、インド統治継続のため政策的調整、インド統治再編成への志向。政治家なのか、官僚なのか?
・イギリス植民地統治の基本は土着権力者を利用した間接統治だったが、インド(藩王国を除く)ではイギリス人植民地官僚の直接統治→リーダーシップを有するジェネラリスト的管理者→退職後は民間セクターへ。
・インド・パキスタンが独立しても高等文官はシステム的にも人的にも継続性あり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 6日 (金)

木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義──比較と関係の視座』

木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義──比較と関係の視座』(有志舎、2008年)

・イギリス帝国を視点の基軸に置きつつ、「帝国主義」をめぐる諸論点を考察。
・19世紀後半以降、「帝国」による世界分割。日本の登場は、この帝国主義世界体制をむしろ完成させた。
・帝国意識:民族・人種差別意識と大国主義的ナショナリズムの結び付き→「文明の使命」感。階級意識にかかわらず日常生活に見られた潜在的帝国意識を検討する必要。ナショナル・アイデンティティの強化という機能(1960年代以降、スコットランドやウェールズなどの「ナショナリズム」→国民国家が自明視できず→「イギリス人」統合の表象として「帝国意識」)。
・支配者側に多民族支配を当然視する意識がある一方で、被支配者側にも支配・従属を不思議に思わない依存意識・植民地意識が培養された(とりわけ文化面で)→政治的には独立してもこの点での脱植民地化が未完の課題として残った。また、経済構造の問題。
・他方で、旧支配者側に残った「大国意識」からの脱却も課題。イギリスの場合、ヨーロッパ統合に消極的となった原因。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧