カテゴリー「音楽」の40件の記事

2016年5月15日 (日)

中川右介『戦争交響楽──音楽家たちの第二次世界大戦』

中川右介『戦争交響楽──音楽家たちの第二次世界大戦』(朝日新書、2016年)

 1930~40年代にかけて世界中で戦争と粛清が荒れ狂った時代、こうした政治的狂気は音楽家たちをも翻弄していた。本書は1933年のヒトラー政権成立前後から1945年に第二次世界大戦が終わるまで、政治情勢をめぐる解説を節目ごとに挿入しながら、当時の音楽家たちの動向をクロノジカルに描写している。

 名だたる作曲家や演奏家の名前はことごとく網羅され、著者自身があとがきで言うように、オールキャスト映画のおもむきすら持つ。焦点がしぼられていないからと言って、叙述が無味乾燥だったり散漫だったりということはなく、クラシック音楽ファンなら目を引くエピソードが次から次へと繰り出されてくるので、読みながら緊迫感を帯びた時代的雰囲気に引き込まれていく。また、常に出来事の同時代性が意識されるので、時代状況をトータルに把握できる。

 1938年のナチスドイツによるオーストリア併合まで、オーストリアのドルフス政権は独立の維持に腐心していたが、ザルツブルグ音楽祭は独立オーストリアの象徴となり、それはナチスへの抵抗でもあったため、「反ファシズムの砦」としての意義も帯びたという。他方、ワーグナーを愛好するヒトラーはバイロイト音楽祭にひときわ思い入れを持っていた。反ファシズムの立場にあったトスカニーニはヒトラーの誘いを蹴ってバイロイトでの演奏をやめ、ザルツブルグに肩入れする。政治的対立関係がナチスのバイロイト、反ナチスのザルツブルグという位置づけになったというのはまさに時代の様相を表していた。

 反ファシズムの立場を明確にしたトスカニーニとは異なり、フルトヴェングラーの立場はあいまいだ。彼もヒトラーを嫌い、ユダヤ人を擁護しようとしてはいたが、芸術は政治とは無関係という芸術至高主義が、かえってナチスに利用される余地を残してしまっていた。なお、フルトヴェングラーは訪独した近衛秀麿を通じて、ストコフスキーにアメリカ亡命の可能性を打診していたが、オーマンディに反対されて、結局、実現しなかったという。他方、自らの足場を確保しようと躍起になっていた若きカラヤンは、ナチスに入党してまで政権に迎合しようとしていたが、ヒトラーから嫌われていたためなかなか出世できず、それがかえって戦後に「免罪符」になり得たというのも皮肉である。

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2013年12月 9日 (月)

中川右介『国家と音楽家』

中川右介『国家と音楽家』(七つ森書館、2013年)

 音楽に国境はない、とよく言われる。しかしながら、国民国家という枠組みの中であらゆる人々をの政治動員を図る時代的状況を「近代」とするなら、音楽もまた文化的・精神的動員、政治的プロパガンダの有効なツールとみなされ、音楽家といえどもそうした動向から決して無縁ではありえなかった。高名であればあるほど政治的態度の表明を迫られ、芸術性とは異なる位相から評価のまなざしを向けられる。為政者の御用音楽家となるか、ファシズム・コミュニズムなど全体主義に抵抗した英雄となるか――ことは単純に善悪二元論で片付けられるような問題ではない。

 ドイツ第三帝国の音楽家たち。イタリア・ファシズムに抗したトスカニーニ。カタルーニャへの郷土愛からフランコ体制に抗したカザルス。ドイツ占領下フランスにいたコルトーとミュンシュ。スターリニズムを生きぬいたショスタコーヴィチ。ショパン、パデレフスキ、ルービンシュタインというポーランド亡命ピアニストの系譜。「プラハの春」をめぐる指揮者たち。アメリカ大統領にもたじろがなかったバーンスタイン――音楽への情熱という一点は例外なく共通する。だが、その情熱が政治とどのように関わりを持ったのかは個々のパーソナリティーによって大きく違ってくる。そうした音楽家たちがある種の宿命に翻弄される群像劇は、あたかも連作小説集を読むように緊張をはらんだドラマを感じさせる。

 本書がドイツのバイロイト音楽祭をめぐる人々から語り起こし、イスラエルにおけるワーグナーへの拒絶感でしめくくっているように、ワーグナーとナチズムとの関係には政治と音楽との葛藤の最も典型的な例が表われている。ワーグナー家の若き未亡人ヴィニフレート・ワーグナーはヒトラーと個人的に親しく、バイロイト音楽祭の運営への協力をとりつけた。それはナチスにとって格好な宣伝材料となった一方、ヴィニフレートはユダヤ人音楽家を守るためヒトラーに直接話をつけたというのが興味深い。フルトヴェングラーもまたナチスの体制内でユダヤ人音楽家を守ろうとしたが、体制内に残ったこと自体が戦後は批判の的となる。なお、カラヤンはナチスの党員となったが、ヒトラーから嫌われており、そのことが戦後になると免罪符となったらしい。

 ホロコーストの記憶が国家的アイデンティティーに刻み込まれたイスラエルにおいて、ワーグナーはナチズムを連想させるがゆえにタブーとなった。芸術的価値を政治に従属させてしまうのはナチズムと同じではないか?とリベラル派から疑念があがってもタブーを打ち破ることはできず、イスラエルで初めてワーグナーを演奏したバレンボイムは激しい批判にさらされてしまった。

 政治によって音楽は窒息させられてしまわねばならないのか。大国政治に翻弄され続けてきたチェコは、ナチスの占領支配から解放されたのも束の間、1948年の共産党クーデターによって今度は共産主義体制のくびきにあえぐこととなる。この時、指揮者のラファエル・クーベリック(1914~96)はイギリスへ亡命、さらに1968年のいわゆる「プラハの春」が鎮圧されるとやはり指揮者のカレル・アンチェル(1908~73)はカナダへ亡命した。その後、チェコ・フィルの指揮者にはヴァーツラフ・ノイマン(1920~95)が就任する。1989年のビロード革命を受けて、その翌年、クーベリックは42年ぶりにようやくプラハへ戻ることができた。出迎えた人々の中にノイマンの姿を認めると、二人は歩み寄ってあつく抱擁を交わす。

 体制に反発して海外亡命を選んだクーベリック。体制と折り合いをつけながら活動を続けたノイマン。自分たちの音楽を決して絶やしてはいけないという思いを二人は共有していたからこそ、お互いの立場の相違を理解し合うことができていたというエピソードが実に印象深い。

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2013年10月17日 (木)

【雑記】雲崗石窟の江文也と崔承喜

 一九四一年のある日、江文也が山西省大同にある雲崗石窟の上にたたずんでいる写真がある。彼は目の当たりにした雄大な光景に触発され、ものぐるおしい感動に胸を打ちふるわせていた。彼にとって石仏は単なる宗教的なモニュメントなのではない。茫漠と果てしなく広がる大地のただ中に屹立する山並みに穿たれた大仏群、そこから浮かび上がる歴史の年輪を見て取った彼の眼差しは、目前の石仏を超え、はるかかなたの悠久へとまっすぐに向けられている。

 一九三七年から始まった日中戦争で大同も含めて華北一帯は日本軍によって占領されており、一九四一年十二月には間もなく太平洋戦争が始まろうという時代状況である。そんな硝煙の臭いが立ち込めた時期に、台湾出身の江文也がなぜ雲崗にいたのか。

 一九三八年に二十八歳の若さで北京師範大学教授に招聘されていた彼は東京と北京の両方に自宅を構えていた。知人の映画プロデューサーである松崎啓次から雲崗石窟をテーマとした記録映画の音楽を依頼され、その撮影旅行に同行していたのである。松崎はプロキノ(日本プロレタリア映画同盟)出身の映画人で、その後、東宝を経て、当時は川喜多長政が設立した中華電影で制作部長をしていた。結局、映画企画そのものは頓挫してしまったようだが、雲崗石窟をじかに目の当たりにした体験が江文也の胸奥に激しい芸術的インスピレーションを巻き起こすことになったのは確かである。

 これより約一五〇〇年前の四六〇年頃、僧・曇曜が北魏の文成帝に上奏して雲崗石窟の造営が始まった。いわゆる三武一宗の法難の第一発目である北魏・太武帝による仏教弾圧がようやく終わったばかりで、仏教復興へ向けた情熱がこの一大事業に込められていた。ガンダーラ様式やグプタ様式の影響も色濃い造型からは、西域伝来の様々な文化要素を吸収し、昇華させながらこの巨大モニュメントが成立した歴史的背景がうかがえる。

 中国における雄大な風景と悠久な歴史とを具象化させた存在として雲崗石窟を見立て、そうしたイマジネーションから言語を絶した印象を受け止めた江文也は、その時の感動を『大同石佛頌』という詩集につづっている。

だが、石佛よ/自分は 単なる芸術の一求道者に過ぎず/汝を作つたひとびとの宗教とは/凡そ 縁もゆかりもない/一異教徒である/それでも/いま 自分は何か少し解つたやうな気がするのだ/それは/無限の可能状態である/表現である/有にして無の世界である/おゝ!/石佛よ/汝を通じて自分は感ずる/これはもはや芸術だけではない/これはもはや宗教だけではない/そのいづれであり/そのいづれでもない/もはや/これは芸術を越えて居り/遥かに越えて/そのいづれもが/ひとつの点に帰した極みであるのだ/寂であり/寥であり/すべて久遠なるものの/一切の原因となり得たものである/これは もはや彫られたものではない/彫刻工の手先きの遊戯でもなければ/快楽でもない/さらに 創造されたものでさへない/それは/生れるべくして生れたものだ/天がある如く/石佛もすでにそこにあつた/宇宙が微笑むやうに/石も微笑み出したまでである
(江文也『大同石佛頌』青梧堂、一九四二年、三七~四一頁)

 石仏は、彫刻家たちが刻み込んだいう点では確かに人為的な構成物に過ぎないのかもしれない。しかし、それらが膨大に集積され、そこに歴史の厚みを感じさせるようになったとき、一人ひとりの技巧は宇宙的広がりの中へと収斂される。人の手になる表現であっても、人智を超えた何かへと接続しうる可能性。雲崗石窟の壮大な仏像群を前にして、それこそ歴史を超越した美そのものへと憧れを羽ばたかせていく感動を胸中にたぎらせた江文也が、自らの音楽的表現をもまさにこうした永遠へとつなげていこうと気負っていたことが、この詩文から読み取れるだろう。

 雲崗の石仏群の雄大な光景から圧倒的な感動を受けた芸術家は他にもいる。例えば、「半島の舞姫」と謳われた、朝鮮半島出身の崔承喜である。彼女は華北に駐屯する日本軍の慰問のため、一九四二年に北京、天津などの都市を回って公演を行い、最後に大同まで行った。大同に近い雲崗石窟を訪れ、その時に感じたことを彼女は次のように記している。

 私はその(筆者注・公演の終わった)翌日○○(筆者注・原文伏せ字)部隊の方たちに案内され雲崗鎮までの一時間足らずの道をトラックで石仏参観に出かけました。
 東西半里にもわたると思われるカバ色の石崖の数十万体の巨大な彫刻の雄大なる群像を眺めた時に私は人間の創造力の如何に雄大であるかを、いまさらながら強く感じたのであります。
 私は欧米公演の節、ロダンの彫刻を始め欧米文化の残した芸術的遺産を見回り印象深いものがありましたが、この雲崗の石窟を見て、はるかに強い感銘に打たれたのであります。千五百年の昔、北魏時代。幾万人もの彫刻家がこの偉大な芸術作品の創造に心血を注ぎ、北魏の都には国中の佳人が集まり、彫刻の参考に供されたと伝えられているが、私はここの歴史は変わろうとも、芸術の限りなき生命を感じたのであり、幾十年もの間、その一生を唯この芸術創造の為に、こつこつと石を刻んだであろうところの、多くの名も伝えられていない芸術家をしのび、尊敬の念を禁じえなかったのであります。
 それと共に、今日の私たち芸術家が如何に『現実』のみの追求に追われていることか、如何にその仕事がその場限りの、生命の短いものであるかを嘆かざるを得ませんでした。
(崔承喜「興亡一千年の神秘」、金賛汀『炎は闇の彼方に──伝説の舞姫・崔承喜』日本放送出版協会、二〇〇二年、二〇二~二〇三頁)

 崔承喜にとって、日本軍の慰問に行くのは気が進まないことだったかもしれない。だが、あまたの有名無名の人々が孜々として築き上げてきた石仏群の歴史性という高みに立った視点を通して、彼女は不本意な戦争に巻き込まれている自分の惨めさを捉え返そうとした。戦争という「現実」に翻弄される小さな自分に拘泥するのではなく、そうした一切をひっくるめた悠久の「歴史」の中にこそ芸術を生み出していく生命力を見出したいという方向に発想を切り替えようとした。

 そうした努力が必ずしもうまくいくわけではない。しかしながら、植民地出身の自分が戦時下の異国で聖戦鼓舞をしなければならないという矛盾した立場を思ったとき、そのように考えなければこの「現実」を精神的に乗り切っていくのは難しかったのであろう。

 江文也と崔承喜との間に直接の交流があったかどうかは確認していない。ただ、雲崗石窟から永遠の何かへとつながる手ごたえを感じ取り、そうした超越的な視点から自らの表現を、そして自らの存在をも捉え返そうとした感受性では、二人に相通ずるところがあったように思われる。

 なお、伊福部昭も、旧満洲国・新京音楽院の招きで大陸に渡った際、雲崗ではないが熱河の寺院で目の当たりにした石窟から受けたインスピレーションをもとに「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」を作曲している(ただし、曲ができたのは戦後のこと)。リトミカ・オスティナータというのは執拗な反復律動という意味で、まさにミニマリズムの美学と言うべきだろう。石窟寺院で見かけた一つ一つの仏像は貧相なものだが、その大量に充満している様子に圧倒され、反復律動のイメージにつながったのだという。

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2013年10月14日 (月)

松原千振『ジャン・シベリウス──交響曲でたどる生涯』

松原千振『ジャン・シベリウス──交響曲でたどる生涯』(アルテス・パブリッシング、2013年)

 1890年、シベリウスが25歳のとき、留学先のウィーンでひもといたフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』。フィンランドの風土を特徴付ける森と湖を舞台に繰り広げられたドラマを通して語りかけてくる、ある種、超自然的な何か。そこからシベリウスは強烈なインスピレーションを受けた。鬱屈した異国の地だからこそ敏感に感じ取った郷土の情景。『カレワラ』はもともと口承のものであったが、19世紀にリョンロートによって記録された。文字化されたものをシベリウスは読んだわけだが、1891年にはラリン・パラスケによる朗誦を聴きに行き、音としての『カレワラ』をも知った。

 シベリウスが『カレワラ』を指して「モダン(前衛)である」「叙事詩カレワラは音楽そのものだ。主題があり、変奏がある」と考えたというのが興味深い(本書、21ページ)。同時代における表現としての「近代」を超えて、次代の音楽を指し示す方向性を古層的なものに求める。言い換えると、「古層」と「前衛」とが「近代」を挟撃するという構図は、例えばストラヴィンスキー《春の祭典》などとも共通した感性だと言ってもいいだろうか。

 
 イタリアやドイツを模範としたこれまでの音楽ではなく、自分自身の音楽を作り上げたいという彼の模索はこうした『カレワラ』からの触発によって始まった。あたかも大国の抑圧にあえぐ小国で独立を求める声が高まっている時代である。そうした時代風潮の中で考えると、彼の模索はフィンランド国民学派を形成する端緒になったと言える。当時からシベリウスの音楽が紹介されるとき、「フィンランド、自由への戦い」といったフレーズがかぶせられて政治との関わりが強調されたようであるが、ただし彼自身は政治的なナショナリズムとは距離をおいていた。あくまでも、彼自身が純粋に音楽のあり方を模索する「魂の告白」としての作曲表現であったことを、本書は示してくれる。

 私自身、シベリウスの曲は好きで昔からよく聴いていたが、初期の《クッレルヴォ》(1891~92)や《レミンカイネン組曲》(1893~95)といったあたりでは、英雄譚としての物語的な躍動感が面白いと思っていた。その後、7つの交響曲における純粋音楽としての探求を経て、太古の森の神をテーマとした交響詩《タピオラ》(1925~26)では緊張感のみなぎった静寂が印象的であった。こうした軌跡がヴィヴィッドに浮かび上がってくるのを感じながら本書を読み終えた。

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2013年5月26日 (日)

【雑感】萩谷由喜子『諏訪根自子──美貌のヴァイオリニスト その劇的な生涯』、深田祐介『美貌なれ昭和──諏訪根自子と神風号の男たち』

 戦前の日本で「天才少女」と謳われた二人の才能──ヴァイオリニストの諏訪根自子(1920~1912)とピアニストの井上園子(1915~1986)。「天才」なる表現はあまりにかまびすしく用いられると食傷気味となってげんなりするものではある。しかし、その奏でる調べにうっとりとした恍惚へと誘われるのをじかに体験したとき、聴き手は言葉では表しがたい感動を以てやはり「天才」と言いたくなるものなのだろう。

 生来の天凛が類稀なるものであっても、それを見出し、育て上げるプロセスがなければ、「天才」なるものは世に現われ得ない。彼女たちが生れた当時の日本で洋楽は一般レベルまで普及していたとは言い難く、またその水準も発展途上にあった。そうした中、諏訪根自子が小野アンナ(1890~1979)やアレクサンドル・モギレフスキー(1885~1953)、井上園子がカテリーナ・トドロヴィッチという世界的レベルの演奏家・音楽教育者と出会えたのは実に僥倖であった。

 彼女たちの才能を開花させた僥倖にはそれなりの時代背景がある。小野アンナ、アレクサンドル・モギレフスキー、カテリーナ・トドロヴィッチはいずれもロシア革命を逃れて日本へ亡命していた白系ロシア人であった。あるいは、1930年代に日本や中国へ来て江文也、伊福部昭、早坂文雄、清瀬保二をはじめとした若手作曲家を発掘した亡命ロシア貴族の音楽家、アレクサンドル・チェレプニンのことも想起される。ロシア革命という政治変動による亡命者の流出は、日本の近代音楽発展にとって重要な貢献をしてくれたと言うこともできよう。

 そう言えば、井上園子は江文也のピアノ曲を演奏会でよく取り上げ、戦前に録音もしていた。江乃ぶ夫人は、井上園子の演奏の素晴らしさがいつまでも印象に残っていたらしい(周婉窈〈緣起於江文也、緣起於曹永坤〉《面向過去而生》允晨文化、2009年、324頁)。井上は戦後、若くして演奏活動をやめてしまった。彼女の評伝があれば読んでみたい。

 ヒトラーが称揚したワーグナーの評価をめぐって現在に至るもナチスの影が落ちていることに顕著なように、本来なら別物であるはずの音楽と政治の関係にキナ臭い緊張が見え隠れすることがある。第二次世界大戦の勃発後、ヨーロッパへ留学していた諏訪根自子も時代状況に流されるように駐独大使大島浩夫妻の後援を受け、ベルリンで演奏会を開いた。ナチスの宣伝大臣ゲッベルスから贈呈されたストラディヴァリウスをめぐり、戦後になると彼女は毀誉褒貶にさらされることになる。彼女の手元にあるストラディヴァリウスはナチスの略奪部隊によってユダヤ人から奪われたものだったのではないかという噂が流れた。ストラディヴァリウスを自らの音楽への評価の表われとしてプライドを持っていた彼女からすれば心外なことで、自らも調査を行い、正規のルートで購入されたものであったと反論をしていた。いずれにせよ、彼女のストラディヴァリウスも、ナチスの犯罪究明に熱意を傾ける人々の視野に入っていたわけで、音楽と「政治的正しさ」をめぐる難しい葛藤には頭を悩ませてしまう。

 萩谷由喜子『諏訪根自子──美貌のヴァイオリニスト その劇的な生涯』(アルファベータ、2013年)は、彼女の音楽へ傾けた純粋で誇り高い情熱と、ストラディヴァリウスをめぐる問題とを分けながら彼女の生涯を描き出しており、好感を持った。本書によると、彼女の死後になって愛用のストラディヴァリウスが贋物だと分かった、と根自子の妹でやはりヴァイオリニストの諏訪晶子(もちろん、諏訪内晶子とは別人)から聞かされたという。真偽のほどは謎のままである。逆に言うと、名器であろうとなかろうと、根自子の奏でる音色は他ならぬ彼女自身ものであったという端的な事実に変わりはない。

 諏訪根自子を描いたもう一冊のノンフィクション、深田祐介『美貌なれ昭和──諏訪根自子と神風号の男たち』(文藝春秋、1983年)のタイトルを見ても分かるように、彼女のイメージには必ず「美貌」というキーワードがついてくる。「美人」なるものへの審美的センスは時代によって微妙に変ってくるものだが、若き日の彼女の写真を見ると、確かに現代の感覚からしても思わず見入ってしまうくらいに気品ある美しさが際立っている。

 ところで、深田の本のタイトルにある「美貌」とは、吉川英治が書いた「美貌なれ国家」という文章に由来する。1937年、日本からヨーロッパまで横断する長距離飛行の世界記録を打ち立てた神風号の操縦士・飯沼正明(1912~1945)、機関士・塚越賢爾(1900~1943)の二人が容姿にすぐれて女性に人気のあったことに触れた文章である。神風号がブリュッセルに降りついたときに花束を持って出迎えた一人が、ベルギー留学中だった諏訪根自子であった。三人の邂逅はこの一回きりであったが、深田はこれを軸にそれぞれの人生の軌跡を描き出していく。洋楽にせよ、飛行機技術にせよ、西洋に追いつけ追い越せ一本やりというだけでなく、ひたむきな凛凛しさを湛えた美貌に、一つの時代精神を見出そうというのが深田の意図なのだろう。

 「神風号」というと「神風特攻隊」が想起されてしまうかもしれないが、それは太平洋戦争末期のこと。1937年のこの時点で、「神風号」は飛行技術の向上と溌溂たる冒険心の象徴だったと言える。

 その後、飯沼と塚越は1941年11月に太平洋横断飛行を志すが、日米関係の緊張、そして開戦という時代状況の中で断念せざるを得なくなる。失意のうちにあった飯沼は、プノンペンの飛行場で滑走路に迷い出て飛行機のプロペラに挟まれるという、プロの操縦士としては考えられない事故で死んだ。「空の英雄」であった飯沼の死は「戦死」と公表され、「血染めの操縦桿」という架空の美談まででっち上げられる。塚越もまた戦争中、シンガポールを飛び立ったまま消息を絶った。

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2013年4月24日 (水)

江文也試論(未定稿)

 小津安二郎生誕百周年に合わせ、台湾ニューシネマの旗手、侯孝賢が監督した映画「珈琲時光」(二〇〇四年)の主な舞台は東京である。さり気ない所作を重視する侯孝賢らしく過剰な演出を排し、東アジアを股にかけて活躍するカメラマン、李屏賓が東京の街並を撮影した映像は穏やかな叙情を湛えている。

 そこにピアノの軽やかなメロディーがかぶさる──江文也が東京で暮らしていた頃に作曲した作品である。

 一青窈が演じるフリーライターは東京での江文也の足跡をたどっている。かつて彼が暮らしていた家の近くにあって彼もよく散歩したという洗足池。そのほとりのテラスで江乃ぶ夫人にインタビューしているシーンも映し出された。

 近親者の記憶には江文也の姿は色あせずに残っている。しかし、東京の変貌は著しい。神保町で古書店を営む知人(浅野忠信)に協力を仰ぎ、あちこち聞き込んで歩くが、目ぼしい情報は得られない。一九三〇年代、江文也・乃ぶ夫婦が足繁く通い、クラシック音楽に耳を傾けながら友人たちと文学や芸術について語り合った銀座の名曲喫茶DATはすでにない。

 それにしても、なぜ江文也だったのか? 侯孝賢が東京を舞台として映画を撮る企画を提案されて、モチーフの一つとして江文也を取り上げたことから分かるように、彼は東京とも縁が深い。彼にまつわる記憶が台湾で蘇ったのは一九八〇年代以降のことである。これほどモダンな感性を持った作曲家が忘却の淵に沈んでいた──そのことの印象がよほど新鮮だったのだろう。大都会・東京で失われた何かを探すというコンセプトを設定するなら、まさにうってつけの題材と考えたのかもしれない。

 植民地支配下の台湾に生まれた江文也は日本へ留学、東京では九年間を過ごした。バリトン歌手として名をあげた後、作曲家へと転身、既存の楽壇に叛旗を翻す若手作曲家の一人として頭角を示した。一九三六年のベルリン・オリンピック音楽部門で「台湾舞曲」が選外佳作(実質的に四位)となり、「日本人」として国際舞台にデビューを果たす。他方、植民地・台湾出身という属性によるエキゾティシズムを売り物にしているという印象を周囲には抱かれていた。日中戦争が始まった後、二十八歳の若さで北京師範大学教授として中国大陸へ渡り、しばらく北京と東京を往復する生活を過ごすようになる。日本の敗戦後も引き続き北京に留まったが、日本の植民地放棄によって彼は「日本人」ではなくなり、「中国人」として祖国へ戻ったとみなされた。冷戦状況によって中国との関係が断絶された中、日本において江文也の名前は忘れられていく。

 江文也の出身地・台湾ではどのように受け止められていたか。植民地支配の中で台湾人は同化を求められていた一方、たとえ能力があっても日本人と対等以上のポジションに上ることは困難であった。江文也が日本音楽コンクールで六回連続入選しながらもついに一位になれなかったことは、植民地差別という疑惑を招くに十分だったろう。それゆえにこそ、彼が日本人の先輩作曲家たちを抑えてベルリン・オリンピック音楽部門で選外佳作となり、ひと足跳びに国際舞台へのデビューを果たしたことは、「二等国民」扱いへの不満を鬱積させていた故郷・台湾の人々から見ると実に快挙であった。日本の敗戦でようやく自分たちのプライドを取り戻したと思ったのも束の間、国共内戦に敗れて台湾へ逃げ込んできた国民党政権が戒厳令を敷く。そうした中、共産党治下の中国に残った人物について語ることはタブーとなり、故郷・台湾においても江文也の名前は忘れられていった。

 江文也は日中戦争の始まった翌年の一九三八年、北京師範大学教授として日本軍政下の北京に渡った。その背景として中国に対して文化工作を進める日本の国策があったのは確かであろう。だが、中国文化をテーマに新しい音楽的表現の可能性を切り開きたいと熱望していた彼は、純粋に芸術的な動機からこのチャンスを利用した。台湾を含めた中華意識から自他ともに「中国人」としての自覚を深めつつあったが、日本の敗戦後、対日協力の経歴のため彼は「漢奸」として投獄されてしまう。ただし、彼の音楽家としての評価は極めて高かった。当時の中国にオーケストラ作品を書ける作曲家はほとんどいなかった一方で、江文也はすでにシンフォニストとして十分な実績を積んでいた。そうした意味で中国音楽史における彼の位置づけは独特であり、釈放された後、中央音楽院教授として活躍の足場を得る。しかしながら、「台湾人」であり、「日本人」であったという彼の過去は政治的にはナーバスであり、音楽という「ブルジョワ趣味」は「右派」として指弾される理由になった。反右派闘争、文化大革命と相次ぐ迫害で心身ともに打ちのめされ、やはり中国においても江文也の名前はタブーとなってしまった。

 日本、台湾、中国、ゆかりのあったそれぞれの国で忘れられていた江文也──その名前が再び蘇ったのは一九七八年に中国で名誉回復されて以降のことである。一九八一年には台湾で江文也にまつわる文章が相次いで発表されたのをきっかけに江文也ブームが巻き起こった。ただし、すでに病床にあって、一九八三年に亡くなってしまった彼がどこまで認識できていたのかは分からないが。一九八七年に台湾で戒厳令が解除されて表現の自由が認められると、彼の作品を収めたCDも出回るようになる。

 他方で、中台関係の焦点が国共対立から台湾独立の是非へと変化していくのに伴い、江文也についても、「中国人」なのか、それとも「台湾人」なのか、という政治的アイデンティティーをめぐる議論が大きく浮上してきた。純粋に音楽家として生きていたくても許されない──そうした政治的桎梏は形を変えながら続いている。

 野性的で生命力に満ち溢れた個性の持ち主であった江文也は、体を打ち震わせるように湧きあがってくる激しいインスピレーションを常に探し求めていた。それは一面において想像的なロマンティシズムを羽ばたかせつつ、もう一面において古代的、土俗的なモチーフへの関心を深めていった。彼は台湾か、中国かといった具体的な民族意識そのものに意義を見出していたのではない。自らの音楽的表現を生み出していく触媒として台湾、中国、日本それぞれの民族の文化に関心を寄せていたのである。

 そうした江文也の情熱を後押ししたのが、亡命ロシア貴族の作曲家、アレクサンドル・チェレプニンであった。西欧近代による文化の均質化傾向が世界規模で拡大することによって各民族固有の音楽文化の豊かさが押しつぶされかねないと懸念していたチェレプニンは、はるか東アジアにまでやって来て中国と日本で若手作曲家の発掘に努めていた。彼の基本的な音楽観は様々な色彩を帯びた音色が豊かに響きあう多文化共生的な発想であって、リゴリスティックで政治的な民族主義とは明らかに異なる。それは弟子の江文也についても同様であった。

 純粋に芸術的な情熱が時代状況の中で政治に絡め取られてしまった悲劇──台湾・日本・中国、複雑な関係が交錯する江文也の生涯は、東アジア現代史を読み解く一つの視点となり得るだろう。

※続きはこちら→ http://docs.com/SC75

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2013年1月23日 (水)

佐野仁美『ドビュッシーに魅せられた日本人──フランス印象派音楽と近代日本』

佐野仁美『ドビュッシーに魅せられた日本人──フランス印象派音楽と近代日本』昭和堂、2010年

 明治以来、西欧文明の摂取こそが近代化への道程と確信し、手本としてきた近代日本。欧米で流行している文物を目ざとく見つけては、その移植に力を注いできた。もちろん、西洋音楽の受容も例外ではない。他方、近代西欧への盲目的な追従に対して違和感もまた鬱積しており、やがて自らの国力へ自信を深めるにつれ、日本独自の民族性を強調しようという動機にもつながってくる。そうした葛藤が、日本人のドビュッシー理解をたどることで浮かび上がってくるのが興味深い。

 西欧音楽を上演する機会がほとんどなかった時代、日本の知識人は文献を通して音楽を知るという、ある種、「頭でっかち」な傾向があった。そうした中、ドビュッシーを最初に紹介したのは西欧の新思潮に敏感な文学者である。上田敏や永井荷風は西欧文化の最先端としてドビュッシーに注目した。ところが、遅れて1910年代のパリに滞在した島崎藤村はむしろ、ドビュッシーの東洋趣味、とりわけ五音音階のメロディーから日本的な郷愁を嗅ぎ取った。さらに1920年代、外交官の柳沢健や哲学者の九鬼周造はドビュッシーと日本文化との感覚的な共通性を論じた。こうして、ドビュッシーの置かれた西欧音楽における歴史的文脈から切り離される形で、ドビュッシーの音楽は日本人の感覚に近い、という論法が決まり文句となっていく。

 日本の楽壇はもともとドイツ音楽が主流で、フランス音楽の受容には既存のアカデミズムに対する若手や在野音楽家からの反発という背景もあったらしい。もう1つ、美感覚の相違も指摘される。ドイツ系のピアニストでは、感覚的な美しさよりも、音やリズムを正確に「がっちりと」弾く演奏が正統とされ、そこから外れた演奏は軽薄と受け止められたという。音の美しさや色彩的表現の豊かさ、繊細さといった、本来、ピアノ演奏には不可欠なはずの要素はフランス派のピアニストによってもたらされ、そうした事情もドイツ派とフランス派との対立構図を形成した。フランス音楽がアカデミズムのレベルも含めて一般に普及するのは戦後になってからである。

 ところで、近代フランス音楽に傾倒した人々はおおまかに三つのグループに分けられ、それぞれ対立し合う側面もあった。第一に、日本人の音感覚に根ざした音楽を目指す際にドビュッシーなど印象派の手法を意識した作曲家たちで、清瀬保二、松平頼則、箕作秋吉、早坂文雄などの民族派。第二に、フランス音楽の最新動向に関心を示した深井史郎、宅孝二、大澤壽人などのモダニズム派。第三に、19世紀以来のフランス音楽院における技芸習得を重視した池内友次郎、平尾貴四男などフランス・アカデミズム派が挙げられる。

 自分自身の心象風景にフィットする音楽を表現したいと模索していた民族派に対して、それでは自分たちの技巧不足を感覚的な曖昧さで誤魔化しているだけだ、とモダニズム派やフランス・アカデミズム派からの批判は手厳しい。他方で、モダニズム派やフランス・アカデミズム派が技巧の面で西欧音楽に学ぶ姿勢を見せつつも、自分たちのオリジナリティーを示す音楽を表現し得たかと言えば、疑問も残る。さらに戦時下に入ると、彼らもまた国策の下で日本的・アジア的要素を取り込んだ作曲活動を示すことになった。

 私自身の関心対象は、上記で言うところの民族派の音楽家たちがどのような模索をしていたかにある。彼らは日本の民族的独自性を強調していたが、それはあくまでも音楽表現というレベルの話であって、政治的なナショナリズムとは位相が異なる点には注意しておく必要はあるだろう。ドビュッシーから日本的情緒と共通する感性を見出そうとしたところに日本的なものを肯定しようという発想があったのは確かだが、他方でそこには“西欧音楽の最先端”という外来の権威を媒介とせざるを得ないという暗黙の前提があったと捉えることもできる。矛盾ではあるのだが、そうした諸々の葛藤を経ることで音楽的な豊かさ、面白さを生み出してきたと考えるなら、それなりに意義のある経験だったと言えるのかもしれない。

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2013年1月19日 (土)

バルトークと江文也

 19世紀以降、とりわけナショナリズムが中小民族の間にも行き渡り始めたのに伴い、自分たちの属するナショナリティーとはそもそも何なのか?という探究が活発となった。今まで顧みることのなかったすぐ足元で見出された豊穣な文化的財宝は、学問や芸術といった分野に新鮮な驚きをもたらす。同時に、他の文明によって汚されていない「本来あった純粋な」姿を確定しようという情熱も駆り立てられ、そうした本質主義的な「伝統文化」観は、その文化に帰属する者/帰属しない者とを排他的に峻別する政治的リゴリズムにもつながりかねない危うさをはらんでいた。帝国の解体プロセスの中、民族自決の原則によって国境線が新たに引き直されたが、本質主義的な文化観・民族観も絡まり合い、紛争の火種が随所に埋め込まれることになる。大きな政治史的イベントが起こるたびにそこから次々と火を噴出して、20世紀に数多の悲劇を現出したことは周知の通りであろう。

 民族的伝統の探究はロマン主義的な文学や芸術と共鳴しあっただけでなく、言語学や民俗学といった学問をも刺激した。そうした動向の一つとして民謡採集も挙げられる。

 とりわけ有名なのがバルトークである。彼の場合、民謡採集に取り組んだ動機は何だったのか。

 バルトークは母国ハンガリーを中心に東欧の各地で民俗音楽調査にたびたび従事しただけでなく、その足跡はトルコや北アフリカなどにも及び、脱国境的な関心がうかがわれる。彼の民俗音楽観については前回のこちらで触れておいたが、彼は東欧の多民族性に注目しており、異文化が相互に触れ合う中でより豊かな音楽が生れてきたのだと考えている。また、農村での調査を重視していたが、都市文化=西欧文化が農村まで浸透し、音楽的な多様性が画一化されかねないことを懸念していた。そして、集めた民謡から見出した五音音階を根拠に、ハンガリー文化の源流をアジアに求めているところを見ると、西欧とは異なる民族性を意識していたようにも思われる。

 彼の民謡採集の場合、その動機は音楽表現の新たな可能性を切り開こうとするところにあった。民謡採集を通してナショナリティーの純化を求めるような発想には異議を唱えており、政治的な意味でのナショナリズムとは位相が異なる。また、民謡の珍しい題材を飾りつけに利用するようなエキゾティシズムでもない。

 彼はモチーフとしての民謡そのものよりも、自ら農村に入り込んで農民たちと密な接触を持ち、彼らを通して民俗音楽の本質を体感的につかむことを重視していた。そうして体得された音楽語法を通して自分自身の音楽を表現することを目指していた。つまり、「大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生させようということが問題になっているのです。」(バルトーク「東欧における民謡研究」『バルトーク音楽論集』御茶の水書房、1992年、151ページ)

 江文也はアレクサンドル・チェレプニンの示唆によってバルトークを知ったと思われる。チェレプニンは来日中に出会った若手作曲家たちにバルトークに関心を持つよう推奨していた。彼自身、バルトークとは面識があり、日本へも来るよう勧めていたそうだ。

 新交響楽団(現在のNHK交響楽団)が出していた音楽雑誌『フィルハーモニー』第8巻第12号に江文也は「ベラ・バルトック」という文章を寄稿している(文末には筆を擱いた日付として1935年11月17日夜と記されている)。そこで彼がバルトークを「偶像破壊者」と捉えているのが目を引く。

「音楽はその性質上非常に自由なものである。そして自由を欲する音楽家は、誰でも自分の耳でものを聴き、彼自身の世界を表現する慾望に駆られる。彼自身の世界を表現するに不向きな手法や理論は結局借りものでしかない。借りものでしかない手法や理論は、創作としてどの程度まで価値あるものが出来るか? 模倣は結局他人の技巧を誇る以上に出ないではないか!」「私はバルトックの作品を通じて、これ等の叱言を黙って受けなければならない一人である。」(11ページ)

「南画や日本画、更に支那の陶器等に吾々はその無技巧の技巧に慣れて居るから別に奇異には感じないが、五線楽譜に於いて、私はバルトックにその極端を見た。」(15ページ)

 無技巧の技巧、とバルトークを評しているのが面白い。技巧を意識して頭を使って曲を構成するのではなく、自分の感覚にフィットする方法で胸の奥底から湧き起こってくる想念をそのまま音楽として表現したい。そうした江文也の抱えていた葛藤がここに反映されているのだろう。西欧近代を基軸とした日本の楽壇が下す評価が自分の感覚とかみ合わないことへの反発、それを西欧音楽の既存のあり方へ反旗を翻したバルトークに重ね合わせているものと考えられる。

 ところで、バルトークは民謡採集をした音楽家として日本でも知られていたが、江文也は次のように指摘しているのが興味深い。

「一般にはバルトックを意識的に、国民的思想や民族的イディオムの基に作曲する種族の作曲家にして仕舞つて居るが、私は、寧ろ彼は本質的にハンガリー産の野生的な芸術家と見た方が妥当に思はれる。」(16ページ)

「彼は何よりも先づ野生的な芸術家である。彼の厖大な作品の内でその最も表現的な美しい部分は、常にこの猛獣性を思ふ存分に発揮して私に噛みつく場合か、或は象のやうにゆったりと地響きを立てゝ這ひ出して来る場合かである。」(15ページ)

「バルトックの音楽が持つ野性は、感覚上のノスタルヂヤ或は何か理論上のかけひきからではなくて、その心性が、あまりに純粋で直截で、本能的であるからである。それは超文明、越洗練等から出発した粗野性とは種類が違ふ。
 この強烈な野人的本能と原始的に鋭敏な直観を持つ上に薄気味悪いまで透徹した冷たい理智の閃きを私は見逃すことが出来ない。
 だから、恐ろしいのである。」(16ページ)

「第一、彼が音楽芸術に対して抱いて居る理想は、そんな狭い世界ではない。彼は、ハンガリーのことを語り、それを世界の楽壇に報告するだけではなくて、世界の楽壇に、ハンガリーからも、何かを、貢献しやうといふ態度で居る。」(16ページ)

 江文也はバルトークの本質を「ハンガリー産の野生的な芸術家」と見ていた。江文也が強調する野人的本能とは、例えばバルトークが「大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生」させようとした発想と共通する地平にあったように思われる。

 若き日のバルトークが作曲した交響詩「コシューシコ」はハンガリー民族主義的なテーマであったにもかかわらず、その音楽語法はドイツ・ロマン派そのものであったという矛盾はバルトーク自身、自覚していた。江文也も同様に、例えばベルリン・オリンピックで選外入選となって一躍有名となった「台湾舞曲」など、作曲家としてスタートしたばかりの頃の作品からは台湾的な要素が聴こえてこないという指摘がある。こうしたあたり、バルトークの出発点とどこか似通っている。その後、二人ともドイツ音楽が中心となった既存の楽壇に反発していくという軌跡でも共通する。

 おそらくバルトークとは感覚や問題意識では微妙な相違もあったかもしれないが、江文也もまた民謡採集に関心を持っていた。彼が求めていたのはどんなことか。西欧由来の観念で音楽を構築するのではなく、もっと感覚の奥底から噴出してくるような強烈なインスピレーションの源泉を体感的・皮膚感覚的な何かに求めたい、そうしたもがきが民謡や古代的な表象への関心と結びついていたように思われる。民謡や古代文化を探究しながら、そうした努力を通して感得した何かを自身の音楽語法で表現してみる。民俗や古代をバネとして「近代」を超えていく。そうした感性を持っていた彼が台湾や中国で民謡採集や古代文化に関心を持ったのは「野人的本能」を触発してくれるきっかけを求めていたからだ。それを政治的帰属意識の観点から捉えようとすると根本的なところで彼のパーソナリティーを理解し損ねてしまうだろう。

 バルトークの「大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生させる」という表現が、江文也の志向性を考える上でも参考になるのではないか。『北京銘』『大同石佛頌』といった彼が北京で書き上げた詩集には、中国の雄大さに圧倒された感激と言葉にならないもどかしさとが溢れている。大地の確かな広がりと文明の悠久さを、自分自身の感受性を響かせることで表現していく。そこに自らの音楽的方向性を求めようとしたのが彼の中国体験の意義だったと考えることができる。

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2013年1月 8日 (火)

ユーラシア主義、チェレプニン、そして江文也

※前回のエントリーの続き

 ところで、私がなぜ浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』(成文社、2010年)を手に取ったかというと、1930年代に日本や中国で若手の音楽家たちを積極的に発掘・育成しようとした亡命ロシア人の音楽家、アレクサンドル・チェレプニンにユーラシア主義の影響があったのかどうかを確認したいという関心による。

 彼は青年期、革命で混乱するペトログラードを離れてグルジアの首都ティフリス(トビリシ)の音楽院院長に就任した父ニコライ・チェレプニンと共にこの地で過ごしていた。彼はコーカサスが織り成す多種多様な民族文化に積極的な関心を持ち、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの各地をめぐってそれぞれの音楽や芸術に触れている。後にパリでたまたまバルトークと出会った際、民謡採集の話題で盛り上がったらしいが、若きチェレプニンはグルジアの民謡について語ったという(Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, ed. by Sue-Ellen Hershman-Tcherepnin, Alexander Tcherepnin: The Saga of a Russian Émigré Composer, Indiana University Press, 2008, pp.69-70)。

 例えば、浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』でトルベツコイの思想を説明する次の記述は、チェレプニンもまたコーカサス(カフカス)で実感したであろう感覚と共通しているように思われる。

「そして、ヨーロッパ文化こそが最も優れている思考様式に対し、彼が異議を唱えるようになったもう一つの要因は、カフカス地域の文化研究にあったと考えられる。後に彼のライフワークとなるこの地域の言語、文化研究を通じて、トルベツコイは、ロシア文化が擁するアジア的な要素こそが、ロシア文化をヨーロッパ文化と本質的に分けるものであることを認めただけでなく、それまで劣ったものと考えられてきたロシアの中のアジア的な文化を改めて評価する視点を得たのである。その中で、ロシア人の文化とカフカス地域にある種々の文化のどちらが優れているかなど判断はできない、「あらゆる民族と文化は、いずれも全て等しい価値を持ち、高いものも低いものもない」という彼の文化観が確立されたのである。」「様々な民族と言語が混沌とした様相を呈しながらも、調和しながら共生している「ユーラシア」イメージの原風景は、彼が見たカフカスにあった。」(浜、77ページ)

 結論から言うと、チェレプニンがユーラシア主義から一定の影響を受けているのは確かである。アジアへの関心というだけでは、広い意味でのオリエンタリズムというレベルを超えないかもしれない。だが、例えば、彼が来日して日本の若手作曲家たちと懇談の機会を持った際、清瀬保二をはじめ日本の若手作曲家たちに「西欧音楽を模倣する必要はない、君たち自身の民族的個性を活かした音楽を模索しなさい」という趣旨の示唆を与えていたことは、各民族固有の文化それぞれに価値を認めるユーラシア主義の多元的性格と軌を一にしている。

「日本作曲家諸君よ! 諸君の手には世界の民話の豊かな宝庫がある。諸君は近代楽器のテクニックを熟知してをり之れを自由に使用し得るのだ。
 先づ自国に忠実であり、自からの文化に忠実ならんことを努められよ、そして自からの民族生活を音楽に表現されよ。諸君の民話をインスピレーションの無尽蔵な源泉とし、民族的文化を固き土台とし、日本民謡と日本器楽を保存し以つてあらゆる方法によつて之れを発展させるとき、諸君は正しき日本国民音楽を建設するだらう。
 諸君の音楽作品がより国民的であるだけ、その国際的価値は増すであらう。」(アレクサンドル・チェレプニン[湯浅永年訳]「日本の若き作曲家に」『音楽新潮』1936年8月号)

(なお、こうした発想を彼ら日本の若手作曲家たちがチェレプニンを通して学んだのではなく、西欧的な音楽語法による画一化によって彼ら自身の内面でわだかまっていた感覚が押しつぶされかねないという葛藤に悩んでいたところをチェレプニンの肯定によって後押しされたという経緯には注意しておきたい。例えば、伊福部昭が「日本狂詩曲」でチェレプニン賞の募集に応じた際、日本側の事前審査でこんな粗野な作品をヨーロッパの大家に見せるわけにはいかないという意見があったらしいが、結果としてこの「日本狂詩曲」が受賞し、伊福部が作曲家としてデビューするきっかけとなった。日本の既製楽壇が内部検閲でオミットしようとした粗野な感性こそが、まさにチェレプニンの求めているものであった。こうした事情を見ると、若手作曲家自身の内発性があったと言える一方で、西欧音楽という外来文化の押し付けを拒む上で、チェレプニンという、日本の視点からすればやはりヨーロッパから来た著名な音楽家の権威に頼らざるを得なかったというのは一つの皮肉ではある。)

 また、1934年に『上海晩報』からインタビューを受けたときには「ロシア人は実際にはヨーロッパ人ではなく、モンゴル的なものを消し去ってはいません」と語っており(Korabelnikova, p.109)、これはユーラシア主義の「タタールの軛」再評価を念頭に置いた発言と考えられる。実際、彼は1920年代後半にユーラシア主義の文献を読んだことからヒントを得ている。ただし、政治運動としてのユーラシア主義にはコミットしていないのだが、あくまでも彼個人の思想や芸術観というレベルに限って影響を受けていたことは指摘できる(Ibid. p.154)。

 20世紀初頭、ヨーロッパ及びその周辺各国では自分たちの民俗や古代文化を見つめなおそうという気運が盛り上がっており、それはやがて第一次世界大戦後において民族自決の政治思想とリンクしていく。ロシアにおけるキリスト教以前の古代に着想を得たストラヴィンスキー「春の祭典」やプロコフィエフ「スキタイ組曲」は原始主義と呼ばれることがある。フィンランドではシベリウスがカレヴァラを題材に曲想を練り、ハンガリーではバルトークをはじめとした人びとが民謡採集を活発に行った。アルメニア人のコミタスは、トルコ出身であるためアルメニア文化をよく知らないという負い目の意識を抱えており、そのため純粋なアルメニア文化への渇求を彼自身のアイデンティティーの模索と重ね合わせるように民謡採集に取り組んだ。そうした音楽的状況を熟知していたチェレプニンは、西欧近代による文化の均質化傾向が世界規模で拡大することによって各民族固有の音楽文化の豊かさが押しつぶされかねないという懸念を胸中に秘めて、はるか東アジアにまでやって来た。上海では中国的風格を備えた音楽を求めてピアノ曲のコンクールを実施して賀緑汀や老志誠などを見出し、日本でも多くの若手作曲家たちと出会った。清瀬保二は西洋音楽と日本らしさとの葛藤をチェレプニンに向けて率直に問いかけた。早坂文雄は古代への憧憬を抱き、伊福部昭はアイヌやオロッコ、二ヴフのメロディーまで自らの音楽に取り込んでいく。そして江文也は、生まれ故郷の台湾のメロディー、山地の原住民族への憧れ、古代中国文化に圧倒された感動を音楽で表現しようとした。横断的に俯瞰してみると、様々な音色が響きあう世界をチェレプニンはつなぎ手の一人となって渡り歩き、それこそユーラシア主義のイメージさながらに、多文化がそれぞれ異質ながらも全体としてハーモニーを奏でているかのような様相が浮かび上がってくる。それは単なる夢想に過ぎないかもしれないが、非常に魅力的なヴィジョンだと思う。

 同時に、ユーラシア主義は、嶋野三郎の解釈からも分かるとおり、日本のアジア主義において、反西欧近代→東洋の優越という政治的コンテクストで読み替えられかねない危うさもはらんでいた。戦争中の1943年、台湾から東京へ留学していた郭之苑が江文也の自宅を訪問した際、江文也は「西洋の芸術文化は行き詰っている。彼らはすでに西洋的合理主義を離れて東方の非合理的な世界を追求している。音楽の世界ではストラヴィンスキーやバルトークがそのあたりをよく表現しているようだ」と語っていたという(郭之苑「中國現代民族音楽的先駆者江文也」、林衡哲・編『現代音楽大師:江文也的生平與作品』前衛出版社、1988年、66頁)。こうした彼の発言は、おそらくチェレプニンと出会った頃から抱懐していた考え方だと思われる。だが、他方で戦時中という時代状況を考えたとき、西欧近代の克服を日本の使命、大東亜戦争の世界史的意義として正当化しようと試みた「近代の超克」論と共鳴する側面があったことも否定は出来ない。西欧近代の否定を、多文化性の擁護と受け止めるのか、東洋の優越と解釈するのか。両者が微妙に絡まりあった様相をいかに捉えていくかという問題には複雑な難しさも感じてしまう。

 最後に1点だけ指摘しておくと、清瀬保二はチェレプニンと語り合った折の印象を「チェレプニンは語る──われらの道」という文章にまとめている(『清瀬保二著作集――われらの道』[同時代社、1983年]を参照。初出は『音楽新潮』1934年11月号)。そこでは江文也と同様に、チェレプニンの「ヨーロッパ音楽は行きづまっている。どうしても東洋の力をかりて自分らの糧となし再生しなければならぬ」という発言に反応している。同時に、この文章では続けて「とまれ自分らが最も困難に思い、注意しなければならないのは近代の日本であり、現代の東洋である。安価なる日本主義やファッショ的民族主義を主張することには組みしない」と明記していることにも注意を喚起しておきたい。

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2012年12月27日 (木)

江文也「聖詠作曲集」あとがき(1947年9月)

 江文也が日本との縁が切れた後に中国語で書いた文章を読む機会があまりなかったので、彼が1947年に記した「聖詠作曲集」のあとがきを以下に訳出してみた。林衡哲・編《現代音楽大師──江文也的生平與作品》(前衛出版社、1988年)所収、張己任・補述〈寫於「聖詠作曲集」完成後〉206~209頁から訳出。なお、「聖詠」とは、日本聖書協会訳による旧約聖書の詩篇にあたる。

江文也「聖詠作曲集」あとがき

 私は雷永明神父(P. Allegra)と出会って以来、同時に「聖詠」のことも改めて意識するようになった。中学(※訳注:長野県上田の旧制上田中学)に進学したとき、ある牧師(※訳注:上田メソジスト教会の女性宣教師、メアリー・スカット)が『新約』と『旧約』をくれたのだが、その巻末に『旧約』中の「聖詠」150首が附録としてついていた。このときから「聖詠」は私の愛読書の一冊となり、まるでダンテの『神曲』やポール・ヴァレリーの詩に夢中になったように読みふけったものだ。二十年以上経って、その「聖詠」を音楽にできるなんて思ってもみなかった。

 ある種の才能があって、その才能を仕事で発揮できるとき、一種の偶然ならざる偶然、物語ならざる物語が本当に必要だ! 私は人間の力では予測できない天意を信じている!

 この「聖詠作曲集」にあるすべては、我が祖先のさらにまた祖先が与えてくれたもので、四、五千年来、中国音楽が積み重ねてきた各種の要素であり、そこに最近の数世紀にわたって進化発展しつつある音響学的な研究を加えて作り上げたものだ。

 「楽者天地之和也」(※訳注:『礼記』楽記)
 「大楽與天地同」(※訳注:『礼記』楽記)

 数千年前、我らの先賢がすでにこうした真理を喝破しており、科学万能の今日、私はやはりこの言葉を深く信じて心に留めている。

 中国音楽に少なからぬ欠点のあることは分かっているが、同時にまたこれらの欠点があるからこそ、私は中国音楽がなおのこと愛おしい。私はいっそのこと、かつて生涯の半分をかけて追求してきたあの精密なる西欧音楽理論を否定して、中国音楽の貴重な欠点を保ち続けながらこの貴重な欠点から再び創造していきたい。

 私は中国音楽の「伝統」を深く愛する。それを一種の「遺物」とみなす人がいるのを聞くたびに、私の心はいたむ。「伝統」と「遺物」とは根本的に別物なんだ。

 「遺物」は一種の骨董品みたいなものにすぎない。珍しくて面白いが、そこには血も通っていなければ、命の鼓動もない。

 「伝統」はそうじゃないなんだ! すなわち、気息奄々たる今日という時代にあって、「伝統」自身の精神──生命力を持ち続けている。本来それは創造的なもので、過去の賢人が「伝統」に基づいて無意識のうちに新しい文化を「伝統」に加えていったように、今日の我々もまたこの「伝統」の上に新たな要素を加えていかなければならない。

 「金声也者始条理也、玉振也者終条理也」(※訳注:『孟子』万章下)
 「始如翕如、縦之純如、皦如、繹如也以成」(※訳注:『論語』八佾篇 廿三)

 孔孟の時代、中国がすでにその固有の対位法や大管絃楽法の原理を持っていたことに気づいたとき、私は心の中でこれに依拠すべきだと感じ、音楽家として全身全霊を傾けて没頭するに値する大事業だと思った。

 中国音楽はあたかも失われた大陸のようで、まさに私たちの探検を待っている。

 私はかつての半生で、新しい世界を追求するため、印象派、新古典派、無調派、機械派(※訳注:ルイジ・ルッソロなど未来派を指すのか)…などあらゆる現代最新の作曲技術を遍歴してきた。しかし、過ぎたるは及ばざるで、自分自身までも解剖台の上に乗っけてみるという危機にあって、私は忽然として大悟した!

  追求は捨てるに如かず、
  私は自分自身を徹底すべきだ!

 科学万能の社会にいると、まことに人々は自分自身を見失ってしまう。人々は「未知」なるものをずっと探し求めている。「未知」なるものを「自己」に同化してしまうと、ここにおいてまた「自己」を再び「未知」なるものとしてしまい、再び「未知」なるものを探し求めていく。この種の循環は永遠に終わることがないと思う。実際のところ、芸術の大道は、頭を上げて「天」を仰ぐようなもので、「知」もなく、「無知」もなく、ただ悠々として現われるものがあるだけだ!

 一般的に教会の音楽は、詩句によってメロディーを説明しようとするのが大半だが、今日、私が設計したのは、メロディーによって詩句を説明しようとしている。もし音楽が言語の内容を純化しようとするなら、一層高い段階へと上がっていく中で、こうしたメロディーは一切の言語上の障碍を超え、国境を超えて、人類の心の中へと直接にしみ渡っていく。中国正楽(正統雅楽)には本来、このような求心力があると思う。

 一つの芸術作品がまさに生み出されんとするとき、偶然の動機──テーマがあることは免れ難い。物語と似ているが──面白いことに物語がそれにつられて生まれてくる。しかし、芸術家自身は、ついには自分自身を欺くことはできない。つまりダヴィンチの完璧な作品を見ると、私はいつも思うのだが、芸術作品に固有のフィクショナルな真実がその中にある。そうしたことがあらゆる音楽作品の中にあることは、いまさら言うまでもない。

 この一点において、自分自身のできることをひたすら尽くすだけで、あとは天命を待つしかない! 藍碧の蒼穹と向き合って、私は自分自身を聞き取る。広く澄みわたった天空と向き合って、私は自分自身を映し出す。表現の展開と終わり、現実の回帰と盛り上がり、一切がそれ自体ではない。

 そうだ、私は徹底的に自分自身を捨て去るべきなんだ!

                    一九四七年九月 江文也 

(以下、私からのコメント)
 江文也が中国の伝統へ回帰したことを中国民族主義の立場から解釈する議論も一部にはある(主に大陸側の論者)。しかし、「己を徹底することは、すなわち己を捨て去ることだ」という逆説に見られるような、自我の超克の末に宇宙と通底する真の自我が現われてくるはずだという発想や、「「知」もなく、「無知」もなく、ただ悠々として現われるものがあるだけだ!」といった感覚が彼にあったことを考えると、むしろ、伝統回帰を契機としつつも、そのようなレベルを超えたある種の「悟り」の境地を彼は目指していたのではないかとすら思えてくる。例えば、1942年に日本語で刊行された詩集『北京銘』や『大同石佛頌』には、中国の雄大な大地に小さな己が吸い込まれていくような感動への陶酔や憧憬が見られるが、そうした感覚は上掲の一文にも底流している。

 西欧近代=科学万能の合理主義を批判した上で、自分たち自身の価値観によって新たな世界像を切り開こうという意識が働いている点では、昭和初期の日本で流行った「近代の超克」的な言説と親和的であることを指摘しておく。例えば、戦時中の1943年に東京の自宅を訪問して江文也からじかに話を聞いた台湾の音楽家・郭芝苑によると、「西洋の芸術文化はもはや行き詰っている。彼らはすでに西洋的合理主義から離れて東方の非合理的な世界を求めている。音楽の世界では、ストラヴィンスキーやバルトークの作品がそのあたりをよく表現している」と江は語っていたそうだ(郭芝苑〈中國現代民族音楽的先駆者江文也〉前掲書所収、66頁)。江文也が記した上掲の一文にある「もし音楽が言語の内容を純化しようとするなら、一層高い段階へと上がっていく中で、こうしたメロディーは一切の言語上の障壁を超え、国境を超えて、人類の心の中へと直接にしみ渡っていく。中国正楽(正統雅楽)には本来、このような求心力があると思う」という箇所からは、音楽という面で、現実社会の矛盾を超えていく原理を中国の伝統に求める発想が認められる。その是非はともかくとして、西欧近代を乗りこえる「東洋」という「大東亜共栄圏」のイデオロギーに類似した響きもうかがえると言っても、あながち見当違いではなかろう。当時の日本人が「東洋」=日本(及びその主導下にある亜細亜)とみなしたのに対し、江文也は「東洋」=中国の伝統と読みかえたと考えれば、戦中・戦後にわたって彼は思想的に一貫していたと言える。

 冒頭に出てくる雷永明神父とは、フランチェスコ修道会のGabriele Allegra神父の中国名である。彼は1907年、イタリアのシチリア島に生まれた。11歳でフランチェスコ修道会に入る。21歳のとき聖書の中国語訳を志し、1931年に布教活動で湖南省へ行って中国語を学び始めた。いったんイタリアへ戻ったが、1940年に再び中国へ向かう(途中で立ち寄った神戸でテイヤール・ド・シャルダンに会っている)。すでに日中戦争が始まっていたため湖南省へは戻れず、北京へ行ってイタリア大使館付けの神父となった。イタリアは日本の同盟国であったため、日本軍占領下の北京でも拘束されることはなく、布教活動の継続を図り、日本軍の捕虜となった人の解放にも尽力したという。1945年、聖書の中国語訳のため中国人の聖職者を集めて北平方済堂聖書学会を設立し、1948年には『旧約聖書』を、1949年には『新約聖書』を刊行した。ところが、共産党が政権を獲得したため香港へと移動した。1976年に香港で死去。2012年9月、福者に列せられた(以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Gabriele_Allegraを参照)。

 江文也は1945年の冬から10ヶ月間、対日協力の容疑で収監されていたが、そのとき獄中で知り合った人を介してアレグラ神父と出会ったらしい。聖書の中国語訳に取り組んでいたアレグラ神父は、中国人の耳に馴染んだ聖歌が布教に効果があると考えたのであろうか、中国的なスタイルを持った聖歌の作曲を江文也に依頼したのが「聖詠作曲集」のきっかけであった。1948年の暮れには第二巻も完成させている。江はミサ曲も作曲したが、中国音楽史上で初めての中国語によるミサ曲という位置づけになるようだ。戦後間もなくの物資が不足していた当時、呉韻真夫人と一緒にほとんど手づくり感覚で出版までこぎつけたという(江文也樂友會ホームページ掲載の劉美蓮「江文也小傳」http://www.taipeimusic.org.tw/jiang_wen_ye/jiang_story_3.htmlを参照)。

 なお、江文也がクリスチャンだったのかどうかはよく分からない。彼が東京と北京を往復していた頃からすでに、東京に乃ぶ夫人を残しながら、北京で呉韻真夫人と一緒に暮らしていたことについて、乃ぶ夫人は「彼は熱心なクリスチャンだったのだから、そんなことは絶対にあり得ない」と語っているが(井田敏『まぼろしの五線譜──江文也という「日本人」』白水社、1999年)、他の親戚や知人の発言を見ても、彼が敬虔なクリスチャンだったという認識はうかがえない。

 1949年に中華人民共和国が成立してからも江文也は北京に留まり続けた。そのため、国民党政権が逃げ込んで白色テロが横行した台湾において、「共匪」とみなされた江文也について語ることはタブーとなってしまった。もちろん、大陸で彼が何をしているのかなど知る由もない。彼を個人的に知っていた人々も口を閉ざさざるを得ず、世間から忘れ去られていく。そうした中でも彼が作曲した聖歌はキリスト教会の布教活動を通じて大陸の外へ伝わっており、故郷・台湾の教会でも歌われていた。1981年に謝里法、張己任、韓國鐄の三人が相次いで文章を発表したのをきっかけに台湾で江文也ブームが巻き起こったとき、台南修道院の修道女から「江文也の歌曲を毎日歌っていたが、彼がどんな人なのか初めて知った」という反応があったそうだ(謝里法〈断層下的老藤〉前掲書所収、143~144頁)。

 1957年から中国で反右派闘争の嵐が吹き荒れ、江文也の運命は暗転した。『人民音楽』1958年1月号に掲載された「在右派戦線上老牌漢奸、右派分子江文也的嘴脸」に彼の「罪状」が列挙されている(〈断層下的老藤〉148~149頁に引用)。七条の罪状のうちの五番目「外国と通じた」という箇所を見ると「解放後、彼は人に作品を託して香港へ持って行かせ、カトリック教会やアメリカ領事館で出版する手筈を講じた。ここには自ら影響力を作り出し、将来、祖国から逃げ出す狙いがあった。彼はある学習会で「もし中国と日本が国交を樹立したら、私は最初の飛行機で日本へ行きたい」と発言した」となっている。おそらく、香港へ脱出したアレグラ神父が彼の聖歌集を出版し、それがさらには台湾まで伝わったのであろう。しかしながら、そうした神父の善意が逆に江文也打倒の口実に利用されてしまった。江文也の日本への思いも含め、外国との関係は致命傷となりかねない、難しい時代であった。

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