カテゴリー「音楽」の19件の記事

2009年5月18日 (月)

『ジョン・ケージ著作選』

小沼純一編『ジョン・ケージ著作選』(ちくま学芸文庫、2009年)

 ジョン・ケージの有名な「4分33秒」、私が初めて聴いた(?)のは学生の時にとっていた現代音楽をテーマとした講義でのこと。CDがかけられて、聴こえてくるのは森のささめく音。音を入れないCDはあり得ないから環境音楽風にしたのだろうか。漠然とだが違和感があった。「4分33秒」は伝説にとどめて無理やりCDにしない方がよかったのではないかと思った。

 「4分33秒」の初演(?)ではピアニストがピアノを弾かない、つまり意図的な音は出さないという形をとったわけだが、あのサプライズは再現不可能である。ケージのいわゆる“偶然性の音楽”には、“音楽=作曲”という作為的な意味をはぎとってむき出しの音そのものを感じ取ろうという意図があり、そして、一刹那一刹那いまここで響いている音の純然たる一回性に存在の広がりを感じ取ろうという意図も込められている。

 ケージを作曲家と呼ぶのはそぐわないという印象が私には強い。メロディーを人に聴かせるのが目的ではなく、音という素材を使って彼自身の思索を表現していくのが彼の音楽活動である。別に音楽にこだわっているわけではないと受け取れる趣旨の発言も彼はしている(たとえば、本書121~122ページ)。

 本書も含めてケージの発言を読んでいると、まるで禅問答のようである。意味不明、了解困難という通俗的な次元と、本来的に言語化不可能な存在論の核心に迫る際にどうしても矛盾した表現をせざるを得ないという本質的な次元と、この両方の次元において。ロジックを用いて説明し始めると、無限な広がりを持つ感覚が一定の狭いパターンに収斂・固着してしまって、発話した瞬間に「これは違う!」というもどかしさがどうしてもわだかまってくる。それにもかかわらず言葉による説明を求められるのだから、禅問答にならざるを得ない。ケージの発言を読みながら、たとえば『無門関』などを思い浮かべた。ケージがコロンビア大学で鈴木大拙の講義を受けて大きな影響を受けたことはよく知られている。本書の版面の組み方は明らかにダダ的である。面倒くさいから詳しくは書かないが、トリスタン・ツァラにしても辻潤にしてもダダを名乗る人たちには仏教的、老荘的なところがある(大雑把な言い方で意を尽していないから、いずれ気が向いたら改めて触れる)。

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2009年3月10日 (火)

悲劇のアルメニア人音楽家、コミタス

Rita Soulahian Kuyumjian, Archeology of Madness: Komitas, Portrait of an Armenian Icon, Gomidas Institute, 2001

 詳細は省くが、江文也と伊福部昭の二人への関心からアレクサンドル・チェレプニンという音楽家のことを調べ始め、Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer(Indiana University Press, 2008)という本を取り寄せた(読んでいる途中でほったらかしのままだが)。青年期のチェレプニンがグルジアのティフリスで過ごしていた時期の記述にほんの数ヶ所だがコミタス(Komitas)という名前を初めて見かけた。気になって調べてみると、アルメニア近代音楽の確立者と位置付けられているらしい。1915年のオスマン帝国によるアルメニア人ジェノサイドの生き残りだということが目を引いた。

 コミタスの曲をいくつか聴いてみた(iTune Storeがあると国内で入手できない曲も聴けるから本当に便利だ)。Hommage à Komitasにはアルメニア語とドイツ語の歌曲が集められており、ソプラノ独唱。軽やかで明るい。気軽に聴きやすい。Divine Liturgyはおそらく教会音楽なのだろう。男声合唱のポリフォニックな響きは力強く荘厳、同時に明朗なのびやかさもある。これはなかなか良い。

 本書Archeology of Madness: Komitas, Portrait of an Armenian Iconの著者の専門は精神医学である。「狂気の考古学」なんて穏やかでないタイトルだが、①コミタスはジェノサイドで精神に変調を来してしまった、②彼の音楽とアルメニア文化の探究には孤児としての生い立ちによる“父性”“母性”への渇求が動機として働いていたのではないか、以上の問題意識を持ちながらコミタスの生涯をたどっていくという内容である。なお、版元名にあるGomidasとはKomitasのフランス語表記らしい。

 コミタスは1869年9月26日、アナトリア西部のキュターヒャ(Kütahya)という町のアルメニア人家庭に生まれた。もともとの名前はソゴモン・ソゴモニアン(Soghomon Soghomonian)という。生後6ヶ月で母は亡くなり、父もアルコール中毒となって早くに死ぬ。孤児となった彼だが音楽的才能、とりわけ美しい歌声は人々の耳を引付け、アルメニアの聖地エチミアジン(Echmiadzin)の神学校に入る。アルメニア正教の大主教(カトリコス:Catholicos)ケヴォルク四世(Kevork Ⅳ)は彼の才能を認め、コミタスもカトリコスを父のように慕ったが、間もなく死んでしまった。

 教会には世俗とは違った名前を与える慣習があり、音楽家としても知られた7世紀のカトリコス、コミタス・アガイェツィ(Komitas Aghayetsi)にちなんで彼はコミタス・ヴァルタベッド(Vartabedとは司祭のこと)と呼ばれた。彼の母語はトルコ語でアルメニア語はあまり上手でなく、神学校入学当初は深刻に悩んだらしい。孤児としての出自からアルメニア教会に“家庭”を求め、さらには教会に代表されるアルメニア文化に自らをアイデンティファイする気持ちを強く持った。教会で音楽に取り組みながら、アルメニア音楽にはトルコ・ペルシア・ロシアなど周辺文化の影響が強いことを意識した。純粋な“アルメニアらしさ”を求めて教会音楽ばかりでなく労働歌や婚礼歌などの民謡採集にも努め(バルトークたちと同時代であることに当時の時代的雰囲気も感じられる)、それを踏まえて作曲活動にも取り組む。

 コミタスは合唱団を組織し、音楽教育者として後進の指導にあたった。しかし、彼のつくった恋愛歌や教会の外で演奏したことなど、さらには嫉妬もあって、教会内の保守派から風当たりが強くなった。ケヴォルク四世のような庇護者はもういない。同時に、音楽技法をきちんと学びたいという思いも強く、コミタスはエチミアジンを離れてドイツに留学する。パリのアルメニア人歌手マーガレット・ババイアン(Margaret Babaian)と親密な関係になったが、聖職者として一線を越えないよう距離は取ったらしい。コミタスの音楽はヨーロッパでも高く評価されたが、残念ながら職は得られなかった。また、アルメニアで音楽学校をつくりたいという夢もあったが、アルメニア教会内保守派からの風当たりには居心地の悪さも感じていた。そのため、アルメニア人人口の多いグルジアのティフリスやオスマン帝国のコンスタンティノープルに行って教育、演奏、作曲を行なう。

 第一次世界大戦が勃発。1915年4月、タラート内相の命令でコンスタンティノープル在住の指導的アルメニア知識人200人以上が一斉検挙された。政治活動の有無は関係なく、中には「統一と進歩委員会」へ資金援助していた人物すら含まれていた(1908年の青年トルコ革命で彼らは民族の平等も掲げたため、アルメニア人にも支持者がいた)。コミタスも例外ではなく、アナトリア中部のチャンキリ(Chankiri)へ移送される。自分たちに待ち受ける運命に怯えきった人をコミタスは「何かの間違いだ」となだめていたという。ところが、ある事件がおこる。移送の途中、歩きつかれてバケツに汲んだ水をがぶ飲みしていたとき、粗暴なトルコ兵からそのバケツを取り上げられ、水を浴びせられた。些細な事件だが、そのトルコ兵の態度を目の当たりにした瞬間、彼は顔面蒼白となって凍りついてしまったという。彼自身は虐殺現場を直接目撃したわけではないが、感受性の鋭敏な人だから、どんなことが進行中なのか、何かにハッと気付いてしまったようだ。平衡を保っていた精神が完全に崩れてしまった。周囲のすべてを恐怖と疑惑の眼差しでしか見られなくなった。これ以降、彼の表情や振舞いがおかしくなる。

 チャンキリへ送られたアルメニア人291人のうち40人だけが生き残った。コミタスも奇跡的にその中に含まれていた。彼の知人がメジド皇子(Prince Mejid→ひょっとして、大戦後にオスマン帝国最後のスルタンとなり、教養人として知られたアブデュル・メジド二世のことか?)を通して嘆願したり、アメリカのヘンリー・モーゲンソー(Henry Morgenthau)大使の働きかけもあったためだと言われている。だが、“死のキャンプ”から生き残っても、精神に変調を来したコミタスはもはや音楽活動などできなくなっていた。現在の用語で言うとPTSDだったと著者は指摘する。彼は知人の尽力でコンスタンティノープルの病院の精神科に入院した。

 この病院で彼はトルコ人、アルメニア人、ギリシア人と三人の主治医にかかった。トルコ人医師はコンスタンティノープルでも第一の権威ある名医だったが、そのトルコ人であるという一点だけでコミタスはもはや猜疑心しか持てなくなっていた。共に生き残った友人のアルメニア人医師なら良さそうだが、共感度が強すぎて互いに感情面での抑制がきかず、かえって難しかったらしい。ギリシア人医師は、アルメニア人と同様にオスマン帝国から抑圧されていたが、ただし虐殺されたわけではない。そのため、コミタスに同情しつつ、同時に客観的に距離を置いて対することができたため、彼とはうまくコミュニケーションがとれていたという。だが、そのギリシア人医師も病気で離任してしまう。

 コミタスの状況を案じた友人たちが彼をパリの病院に入れようと申し入れたが、彼はもうどこへも行きたくないと拒否した。そこで彼らは音楽協会がコミタスを招聘しているとウソをついてパリへと連れ出した。しかし、ウソだと知ったコミタスはプライドを傷つけられ、ますます感情的に孤立していく。1935年10月20日、パリで逝去。翌年、遺体はアルメニアのエレヴァンへ送られた。彼の苦しむ姿は、アルメニア人ジェノサイドの象徴とみなされたという。

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2009年2月11日 (水)

グルジアの音楽のこと

 「世界民族音楽大集成70 グルジアの歌」というCDを図書館から借り出して聴いている。男声のアカペラ合唱が多い。複雑な旋律がポリフォニックに幾重にもかさなっているところなど洗練された印象を受け、結構聴きこんでしまう。収録されているのは、労働歌:宗教歌=1:2くらいの割合。宗教歌というのはもちろんキリスト教の聖歌だが、中には「リレ」というキリスト教以前の太陽崇拝の讃歌もある。労働歌も宗教歌も(そして“異教”の歌も)曲調の違いはあまり感じられず、世俗も宗教生活も混然一体となっていたかのようにも思われる。二見淑子『民族の魂 グルジア、ウクライナの歌』(近代文藝社、1995年)はグルジア音楽の比較分析を進めた結果、聖歌にはグルジア土着の民謡の影響が濃厚で、キリスト教受容の当初からグルジア化の傾向があったと指摘している。

 グルジアは後337年にキリスト教を国教化した。アルメニアに次ぐ古さで、テオドシウス帝によるローマ帝国での国教化(380年)よりも古い。グルジアでも当初はビザンツ式典礼が行なわれていたが、6~7世紀頃からグルジア語による典礼・聖歌が広まり始め、9世紀までには完全にグルジア化されたという。12世紀のタマラ女王の時代は文化的にも最盛期となった。その後、モンゴル、ペルシア、トルコと様々な外来勢力の侵食を受け、1801年にロシア帝国に併合された。以降、ロシア経由で西欧音楽が流入する。

 グルジアの首都チフリス(現トビリシ)はロシア領コーカサスにおける音楽教育の中心となった。コーカサス音楽協会の音楽学校が設立され、これは1917年に正式に高等音楽院となる(アレクサンドル・チェレプニンの父ニコライはここの校長として招聘された)。また1883年、やはり音楽学校の教員として来ていたイッポリトフ=イワーノフ(組曲「コーカサスの風景」で有名。特に「酋長の行進」はライト・クラシックとして演奏される機会も多い)を中心にオーケストラが結成された。1886年にチフリスを訪問したチャイコフスキーをこのオーケストラが出迎えることになる(森田稔「西洋との接触から生まれたコーカサスの国民音楽」『コーカサスを知るための60章』明石書店、2006年)。

 こうして西欧音楽が流入する一方で、グルジア聖歌は教会の管轄下にあった。一種の分立状態と言えようか。19世紀以降、ヨーロッパの中小民族の間で自分たち独自の民族文化を見直そうという動きが高まるが、グルジアもその例外ではなかった。まず聖歌が再評価されたほか、民謡採集も積極的に行なわれるようになる(イッポリトフ=イワーノフなどのロシア人音楽家も協力した)。

 アレクサンドル・チェレプニンの父ニコライは、リムスキー=コルサコフに師事した著名な音楽家で、1918年、チフリスの高等音楽院の校長として招聘され、グルジアへ移住した。当時のグルジアはメンシェヴィキを中心に独立した政権が形成されて比較的安定しており、革命で混乱したロシアから脱出しようという意図があった(しかし、1921年にグルジアはボルシェヴィキによって制圧され、チェレプニン一家はヨーロッパへ亡命する)。父親に連れられて来たアレクサンドルは多感な青年期、ここチフリスで音楽的にも大きな刺激を受ける。チフリスはコーカサスにおける音楽教育の中心であり、また19世紀以来コーカサス諸民族の民謡採集が行なわれてきた成果もあり、様々な音楽要素に出会う機会があった。そもそもグルジアをはじめとしたコーカサス一帯は、北はロシア、南はイスラム勢力の影響により、異なる文化圏が混淆した地域である。

 私がチェレプニンという人物に興味を持ったのは、彼が日本と中国で若手音楽家の発掘に努め、とりわけ日本では江文也と伊福部昭を見出したこと。江は台湾出身、日本で音楽教育を受け、その後中国に渡った。伊福部は日本人だが、幼少時からアイヌの文化に馴染んでいた。こうした人物に関心を寄せるチェレプニンの多民族融合的な音楽志向には、グルジアで多感な青年期を過ごした体験がやはり大きな影響を及ぼしていたと言える。

 チェレプニンはハチャトリアンの曲も大好きだったが、片や亡命ロシア貴族、片やソ連を代表する音楽家の一人、会う機会のないことを残念がっていた。ハチャトリアンはアルメニア人だが、若い頃はグルジアのチフリスにいた。チフリスはグルジアの首都であると同時にロシア領コーカサス全体の中心都市でもあり、様々な民族が入り混じっていた。特に経済面で活躍していたアルメニア人は19世紀の時点でチフリスにおける最大人口を占めていたので(Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008, pp.147-148)、彼がチフリス育ちだとしても珍しいことではなかった。ハチャトリアンが若き日に、チフリスで行なわれたある演奏会に非常な感銘を受けたと語っているのをチェレプニンは知り、「私もその演奏会は聴きに行った、ああ、彼と同じ会場で同じ感動を受けていたんだ!」と実に感慨深げである(Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer, Indiana University Press, 2008, p.27)。

 ハチャトリアンの曲をまとめて聴き返してみた。「剣の舞」「レズギンカ舞曲」などは有名だから、ああ、あれか、とすぐイメージはわくだろうが、交響曲第三番なんてあの調子が繰り返し続く。音量をしぼらないと耳が痛くなるが、あの派手さ、たとえばシンバルの激しいリズムにのって金管楽器が咆哮するところなんて血わき肉おどるようで大好き。土俗的に素朴で力強いリズムと色彩豊かな音響の厚み、ふとチェレプニンが見出した伊福部の「日本狂詩曲」を思い浮かべ、チェレプニンの好みが何となくうかがわれるように思った。

 なお、グルジアの現代作曲家ではギヤ・カンチェーリが有名だが、彼についてはまた機会を改めて。

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2009年1月17日 (土)

合唱曲でダラダラと雑談

 北原白秋・作詞、信時潔・作曲「海道東征」を聴きながら今書き込んでいる。天孫降臨、神武東征など日本神話を題材とした交声曲(カンタータ)。皇紀2600年記念で作曲された。戦前のレコードを復刻したCDを図書館から借りてきてiPodに落としたので、ノイズがざわつく。なかなかドラマチックな曲だと思うが、好きかどうかと言えば微妙。別に政治的思惑で言うのではなく、音楽としての好みの問題で。

 他に日本のカンタータとしては、大木正夫・作詞、佐藤眞・作曲「土の歌」のCDが手もとにある。この中の一曲、「大地讃頌」は中学・高校の合唱でよく取り上げられるから、歌ったことのある人も多いのではないか。あのサビの部分にオーケストラ伴奏がつくと、胸の奥にまでズシンと響いてくる。他の曲では核兵器の恐怖と、放射能によって大地が汚染されることへの怒りが歌われており、反核平和思想と大地礼讃の農本主義思想との結びつきが窺われる。大木は戦争中、皇国讃美の詩を多数書いたので戦後は不遇だったらしいが、農本主義という点では戦前も戦後も一貫していたようだ。なお、名編集者として知られた宮田毬栄さん(『追憶の作家たち』文春新書、2004年を読んだことがある)の父君にあたる。

 学校の合唱曲としては、むかし、ショスタコーヴィチ「森の歌」もよく取り上げられたと聞く。どうでもいいが、共産主義国で“オラトリオ”というのも妙なものだ。冒頭、深みのあるバリトン独唱、そして力強い男声合唱が続くあたりが私は好きでよく聴く。男声合唱の響きというのは、コサックの合唱団もあるが、私のロシア・イメージの一つになってすらいる。

 「森の歌」というと牧歌的なイメージが浮かぶかもしれないが、この曲はそういうのではない。独ソ戦におけるスターリングラードの戦いは第二次世界大戦の帰趨を決める一大転換点となった。スターリングラードを包囲するドイツ軍を、ソ連軍は人海戦術でさらに包囲するというとんでもない戦闘規模で陥った膠着状態、たとえばジャン・ジャック・アノー監督、ジュード・ロウ主演の映画「スターリングラード」の冒頭、その戦場パノラマが大写しにされるのが圧巻だった。それだけヴォルガ河流域の荒廃はすさまじく、戦火で焼けた森を復活させようと植林を呼びかけるのがこの「森の歌」の趣旨だ。ヒトラーは“スターリングラード”“レニングラード”という都市名にやたらとこだわって猛攻撃を命じ、対するスターリンも絶対死守を厳命、二人の独裁者の思惑によって膨大な死傷者が出されたことは周知の通りである。なお、ショスタコ(通は、さらに縮めて“タコ”と呼ぶ)の交響曲第七番のタイトルは「レニングラード」。レニングラード攻囲戦の最中に作曲された。スコアはマイクロフィルムにされてドイツ軍の包囲網を抜けて持ち出され、アメリカでトスカニーニによって初演された。以前、アリナミンVドリンクのCMでこの曲が使われ、宮沢りえとシュワルツェネッガーが「チーンチーン、ブイブイ」と歌っていたあのメロディーは、実はドイツ軍来攻を示すモチーフ。

 「森の歌」の第五曲「スターリングラード市民は行進する」は、スターリン批判の後に改名された。スターリングラードという都市名そのものが消滅したわけだし(現ヴォルゴグラード)。そういえば、ハチャトリアンやプロコフィエフが「スターリン・カンタータ」なるものを作曲していたらしいが、どんなものだか一度聴いてみたい。

 ロシアものでは、シュニトケの交響曲第2番「聖フロリアン」のアカペラ合唱が印象に残っている。ポリフォニックな響きが美しいのだが、突然止まって、オーケストラの不協和音でかき消されてしまうのが何ともはや。同じくシュニトケ「合唱のための協奏曲」は心の奥にまで静かにしみこむように美しくて好きだ。それから、新古典主義に転向した後のストラヴィンスキー「ミサ曲」も落ち着いた歌声にホッとする。

 私は根が単純なので、大規模編成のオーケストラと合唱というだけで嬉しくなってしまう。とりわけ、マーラーの交響曲第八番、いわゆる“千人の交響曲”。オーケストラは250~300人くらいで、あとは合唱団。第一部のすき間なく音が充満していくところは圧巻。第二部のラスト、神秘の合唱、静かに歌い始められたメロディーが徐々に高まっていき、オーケストラやオルガンと一緒になって響き渡るところは胸の奥にまでジーンとくる。ゲーテ『ファウスト』からの引用、「すべて無常なものはただの幻影に過ぎない…」、いかにもマーラーらしい虚無感と音の厚みとの絡み合いが何とも言えず好きだった。

 大規模編成という点ではベンジャミン・ブリテン「戦争レクイエム」も負けていない。どうでもいいが、この曲に映像をつけたデレク・ジャーマン監督「ウォー・レクイエム」という映画を観に行ったことがある(たしか、渋谷のシアター・イメージフォーラムだったと思う)。往年の名優ローレンス・オリヴィエを起用したシュールな映像詩。小難しい顔をした観客層の中、一人いかにもヤンキーっぽいにいちゃんが退屈そうにしているのが浮いていた。タイトルだけ見て、そういう戦争映画だと思って入ったんだろうな。

 何と言っても、カール・オルフ「カルミナ・ブラーナ」。修道院に残されていたラテン語詩集に曲をつけた、世俗カンタータ。運命のはかなさにため息ついたり、酒で憂さを晴らしたり、男女の秘め事の喜びを歌い上げたり、こういう歌詞を見ていくと、修道僧たちもやっぱり人間ですな。オルフの単純明快なリズムが耳に強く残る。他に、「カトゥリ・カルミナ」とか「時の終わりの劇」とかのCDも手もとにあるが、やはり「カルミナ・ブラーナ」が理屈抜きに一番好き。

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2009年1月16日 (金)

岩野裕一『王道楽土の交響楽 満洲──知られざる音楽史』、榎本泰子『上海オーケストラ物語──西洋人音楽家たちの夢』

 近代日本の音楽史を考える上で、“満州”というファクターは意外と無視できない。岩野裕一『王道楽土の交響楽 満洲──知られざる音楽史』(音楽之友社、1999年)はこの空白の音楽史を明らかにしてくれる。もともとロシア色の強い街ハルビンにロシア革命によって多数の人々が亡命してきたが、多くの芸術家たちも逃れてきた。その中には、ケーニヒ、メッテルなど、日本のオーケストラ育成に力を注いだ人々もいた。ヨーロッパ留学経験のある山田耕筰は、本場のオーケストラの魅力を何とか日本でも響き渡らせたいと考え、ハルビンから東支鉄道交響楽団を招いたりもしている。

 1932年の満州国建国後も、音楽愛好家の尽力でハルビン交響楽団が設立され、白系ロシア人をはじめ多国籍のメンバー構成。さらに、甘粕正彦の肝煎りで新京交響楽団も設立された。彼の関心は満州国の“国家”としての体裁を整えて西欧にひけをとらない文化水準を示そうとするところにあり、そのための人材を育成しようと新京音楽院も設立。中国人生徒を入学させ、もちろん結果論ではあるが、戦後中国の音楽界を担う人材もここから出てきた。また、満州国時代、ラジオ放送を通して西洋音楽の響きが中国人民衆の耳にも馴染み始めていた。日本は西洋排撃を高唱しつつも、実際には西洋の文物や制度の普及によって支配地域に臨んだというこの不思議な矛盾が音楽という側面からも窺われるのが面白い(建築についても同様のことが言える→こちらを参照)。

 若き日の朝比奈隆も新京交響楽団を指揮している。満州での彼の初舞台はベートーベンの第五に加え、江文也とバルトークという組み合わせ。二人とも、民族色と西欧音楽との融合に意を砕いていた音楽家だ。建前としての“五族協和”なる理念を意識したのだろう。日本内地でチャンスの得られない朝鮮人音楽家たちも満州国へ渡ったという。日本の敗戦後、ハルビンのオーケストラがソ連兵相手に演奏することになった際、日本人の指揮者はダメだということで、朝鮮人の林元植が急遽タクトを取ることになった。彼はハルビンに残留していた朝比奈からレッスンを受け、自らを朝比奈の弟子だと語る。民族の垣根を感じさせず親身に相談にのってくれた朝比奈のことを尊敬していたようだ。林元植は後に韓国の楽壇の権威となる。なお、やはり同じ頃ハルビンで音楽を学んでいた白高山は北朝鮮に行って、こちらで西洋音楽の第一人者となった。また、1970年代に中国で客演した小澤征爾は、北京で新京交響楽団の所蔵印のある楽譜を見たそうだ。帝政ロシア時代の楽譜を満州にいた日本人が写譜、それが戦後中国に残っていたわけである。いずれにせよ、東アジア広域における音楽史の中で満州国の持った意味合いは決して小さくない。

 共産党の公定史観では、満州国と同様、上海租界=帝国主義の植民地という位置付けで、そこで行なわれた音楽活動についてもやはり厳しい見方をされてしまう。榎本泰子『上海オーケストラ物語──西洋人音楽家たちの夢』(春秋社、2006年)はそうした頑な態度からは自由に、上海で活動した音楽家たちの群像を語りつくしてくれる。

 東アジアで最も古いオーケストラは1879年に結成された上海パブリックバンドである。その後、共同租界工部局の管轄下に入り、「工部局交響楽団」と呼ばれる。指揮者マリオ・パーチが育て上げた。演奏者も聴衆も西洋人ばかりだったが、徐々に中国人も入ってきて、その関係者から戦後中国の音楽をリードする人材を輩出することになる。日本軍の占領下、日本側に移管されて「上海交響楽団」となった。“敵国人”が強制収容所に入れられた一方で、聴衆の大半は中国人が占めるようになったという。

 朝比奈隆は上海交響楽団でも客演している。日本色を出したがる山田耕筰や近衛秀麿とは違ってスマートな朝比奈は楽団員から好感を持たれたらしい。朝比奈も上海交響楽団の実力は素晴らしかったと言い、この時の経験は後に欧米の有名オーケストラで客演する際に役立ったという。

 満洲にしても、上海にしても、イギリス・ロシア・日本といった帝国主義列強による侵略の歴史と二重写しになってしまうので、たとえ音楽という本来は政治性の稀薄なジャンルといえども、中国側で冷静に考えるのは難しかった。そうした難しさの中、上掲二書とも近現代東アジアの音楽史を彩る人物群像を様々に掘り起こし、かつ現代史にまつわる政治性ともうまくバランスをとりながら書かれているのでとても面白い。二冊とも題材として色々なタネをまいてくれているように思うので、これを踏まえた研究がもっと出て欲しい。

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2009年1月11日 (日)

伊福部昭のこと

 ここのところ、伊福部昭「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」という曲にはまっている。ピアノや木管楽器の小刻みなリズムに光が瞬くようなイメージを感じたのだが、何となくオリヴィエ・メシアン「トゥランガリーラー交響曲」の「星々の血の喜び」という楽章を思い浮かべた。リトミカ・オスティナータというのは執拗な反復律動という意味、まさにミニマリズムの美学だ。この曲のピアノ連弾版もあるそうだが、スティーヴ・ライヒ「ピアノ・フェイズ」のような感じになるのだろうか。旧満州国・新京音楽院の招きで大陸に渡った際、熱河の寺院で仏像を見た経験からインスピレーションを得たらしい。一つ一つの仏像は貧相なものだが、その大量に充満している様子に圧倒され、反復律動のイメージにつながったという。

 伊福部は、1936年、21歳のとき、「日本狂詩曲」でチェレプニン賞を受賞。北海道の片隅に暮らす無名の一青年が一躍楽壇で脚光を浴びた。チェレプニン賞というのは、亡命ロシア人貴族の音楽家アレクサンドル・チェレプニンがアジアの若手音楽家発掘のため私財を投じて設けたコンクールである。伊福部のメロディーは荒々しい。日本の楽壇で受け止められていた西洋音楽的洗練とは無縁である。日本側の担当者には、彼の曲の型破りなところを危惧してそのままパリへ送ることにためらいもあったらしいが、むしろこれが受けた。とりわけ第二楽章「祭」など聴いてみると、その激しさが体の芯からふるわせるようで私も大好きだ。リズムにのって無意識のうちに手が動いてしまう。その頃、パリの楽壇はイゴール・ストラヴィンスキー「春の祭典」が巻き起こしたショックをすでに経験済みで、音楽シーンは次の段階に移っていた。伊福部もストラヴィンスキーを意識している。「春の祭典」が放った、キリスト教以前のロシアにおける異教的イメージ。ソリッドな“近代”に対する前衛が古層的なものと結びつく、つまり、前衛と古層とが手を携えて“近代”を挟撃するという精神史的なドラマに私は興味がひかれている。伊福部もそこにシンクロしているように私には思われてくる。

 伊福部の父親は北海道の音更で村長をしていたが、他の高圧的な役人とは違ってアイヌの人々と親しく接していたという。昭もまた幼少からそうした付き合いにまじり、アイヌの文化に馴染んでいた。彼らにとって詩、踊り、音楽は人間感情の混沌としたものの発露として不可分一体のもので、伊福部自身も音楽だけを特別に切り分けるという意識はなかったそうだ。中学校にあがり、国家の文化政策としての音楽教育は理屈っぽくて違和感があったという。レコードで西洋音楽にも触れ始め、民族によって音楽というのはこんなに違うものかと実感したらしい。中学生の頃から兄弟や友人たちと音楽活動をしていた。北海道帝国大学林学科に進学、卒業後は林務官となったが、ちょうどその頃に、音楽仲間の三浦淳史(後に音楽評論家)のすすめで書いた「日本狂詩曲」がチェレプニン賞を受賞した。翌年、来日したチェレプニンから特別レッスンを受けたが、しばらくは本職と作曲との二足のワラジをはく。

 1945年、日本の敗戦時、彼は病床にあった。厚木飛行場に降り立ったマッカーサーを迎える軍楽隊が、戦時中に伊福部が海軍の依頼で書いた(やっつけ仕事だったらしいが)「吉志舞」を演奏するのをラジオで聴き、驚いたという。戦後は膨大な数の映画音楽を作曲したが、とりわけゴジラのテーマ曲は、伊福部の名前を知らない人でも耳に馴染んでいる。脚本を読み、そのアンチ・テクノロジーの思想に共鳴したようだ。監督の本多猪四郎、円谷英二らとは意気投合し、その後も多くの怪獣映画で一緒に仕事をしている。なお、北海道時代からの親友・早坂文雄もやはり映画音楽で活躍し、黒澤明作品で有名だ。

 近所の盆踊りとか民謡は分からないのにベートーベンやらモーツァルトなら分かるというのは不自然だ、そういうのはただの教養主義で格好つけているだけで、本当は何も分かっていないんじゃないか、と伊福部は言う。ドイツ・フランス・イタリアといった西欧音楽の主流圏に留学して音楽をやっても意味がない、むしろ、ポーランド・チェコ・ハンガリー・ユーゴスラヴィア・ルーマニアなどのドーナツ圏の国々が自分たちとは文化の異なる西欧音楽を如何に消化したのか、そこをこそ日本は学ぶべきだとも言う。伊福部の音楽に漂う土俗性は時折“民族楽派”とも呼ばれるが、彼はことさら日本にこだわっているわけではない。ただ、自分の感性に正直に作曲したい。意図的にでっちあげたものなんて所詮、虚構だ。自分の感性に馴染むものに、たまたま生まれ育った日本なり、北海道なりの土着的なものがにじみ出てくるというだけだ。民族的と言っても、アイヌやギリヤークなど北方諸民族も含め、むしろユーラシア的な広がりを持っているところが伊福部の魅力だ。日本なら日本という特殊性を通過して共通の人間性に到達する、それが理想だとも彼は語る。

 伊福部家の家学として『老子』を昭は幼少時から父親によってたたき込まれたという。「『老子』の第三十八章に、「上徳は徳とせず、是を以て徳有り」とあるんです。上徳とは、徳の非常に高いことを意味します。徳をほどこしても、ほどこしたぞ、ほどこしたぞといえば、それはもう徳ではない、ということなんです。それと同じように芸術も、芸術的だ、芸術的だ、芸術品だという意識をもってすれば、それはもう芸術ではない。芸術だか何だかわからないうちに生み出すものが芸術なんだというふうに思っております」(木部与巴二『伊福部昭──音楽家の誕生』262ページ)。一切のことわりを取り払ったとき、表現すべきものが自ずと表われてくる。私自身、早くから老荘思想に馴染んでいたので、こういう感性を持っている人は信頼できると思っている。

 木部与巴二『伊福部昭──音楽家の誕生』(新潮社、1997年)は、伊福部自身の語りを織り込みながら、日本の敗戦直後、伊福部が職業音楽家として立つまでの軌跡を描き出している。戦後の伊福部の活動については、小林淳『伊福部明の映画音楽』(ワイズ出版、1998年)が伊福部の手がけた映画音楽のクロノロジーという形で整理している。同じく小林淳『伊福部明──音楽と映像の交響』(上下、ワイズ出版、2004年)は伊福部の純音楽と映画音楽との関わりを個別の曲ごとに詳細に論じている。片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング、2008年)も随所で伊福部に言及しているほか、CD「伊福部昭の芸術」シリーズにもライナーノーツとして片山による伊福部からの聞き書きや論考がある。

 伊福部については以前にも少し興味があってCDも何枚か持っていたのだが、最近、江文也について調べ始めて(→こちらを参照)、江を見出したチェレプニンに関心を持って、彼は同時に伊福部も発掘していたことから再び伊福部音楽を聴き始めたという流れ。チェレプニンについては、Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer, Indiana University Press, 2008を取り寄せたのでこれから読むところ。

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2009年1月 8日 (木)

バルトークのこと

 手もとにショルティ指揮、シカゴ交響楽団によるバルトーク「管弦楽のための協奏曲」「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」の二曲が収録されたCDがあって、時折聴く。劇的な抑揚が盛り上がりを見せる絢爛とした厚みのある響きが好き。バルトークが民謡採集に力を入れていたということを知ってから聴いてみると、小刻みに激しい弦楽のリズムやツィンバロムを思わせる金属音が何となくジプシー音楽っぽい感じもする。ただし、リストによって定式化されたハンガリー音楽=ジプシー音楽というイメージをめぐってはだいぶ議論があったらしい。

 バルトーク(Bartók Béla、1881~1945年)といえば二十世紀現代音楽のメジャーな一人だが、伊東信宏『バルトーク──民謡を「発見」した辺境の作曲家』(中公新書、1997年)はサブタイトルの通り、彼の民俗学者としての姿に焦点を合わせる。録音機器が未発達の時代、蝋管に刻み込む形式の大型の機械を抱えて農村に入り込んだ。出会った農婦に民謡を歌ってくださいと頼んでも、事情が分からない彼女たちからは胡散臭がられて「あんたたち、何しに来たの?」と押し問答を繰り返すのものどかというか、ユーモラスだ。彼の関心はあくまでも採集→分類にあって、議論としてはそれほど洗練されたものでもなかったらしい。

 19世紀以来、ヨーロッパの中小民族の間では自分たちのアイデンティティーを求める動きが高まっており、文学、芸術、学術(とりわけ言語学と民俗学)の各面でそれは顕著であった。1867年のアウスグライヒによってハプスブルク家との同君連合として再編されたハンガリー王国においても事情は同様であり、若きバルトークは音楽という観点から“ハンガリー的”なものの探究に関心を向ける。自民族とは異なる西欧音楽という語法によりつつも、そこを通して“ハンガリー的”なものを表現しようということ、民俗学的な探究も併用されたこと、こうしたあたり、日本とも同時代的なところを感じさせる。

 第一次世界大戦の敗戦によるオーストリア=ハンガリー二重帝国の解体以前において、ハンガリー王国の領域にはトランシルヴァニア(ルーマニア)やスロヴァキアなど異民族も内包されており、バルトークの民謡採集はこうした民族も含めて広きにわたっていた。

 “民族性の核”の探究は19~20世紀のいわば流行現象だったとも言えるが、そこには様々な逆説がからみつく。バルトーク自身も素朴なナショナリストであったが、彼を批判した国粋主義者にとって“ハンガリー的”なものの“核”そのものを論じることは一種のタブーだったらしい。“民族性の核”は言語化不能で曖昧なものであるからこそ、あらゆる意味に拡張できる恣意的な操作概念となり得る。これに対してバルトークは、民謡の採集・分類を通してハンガリー的な音楽要素を抽出することで、むしろ“ハンガリー的”なものを客体化、国粋主義的な呪縛から解放されたという伊東書の指摘が興味深い。採集→抽出された旋律は他民族の音楽と並置可能となり、音楽面における民族共存を彼は目指したのだという。

 民謡採集という点では、バルトークと一緒に活動したコダーイ(Kodály Zoltán、1882~1967年)を忘れるわけにはいかない。ただし、多民族志向のバルトークに対して、コダーイはあくまでもハンガリーにこだわった点が違うようだ。私は今まで知らなかったのだが、コダーイは作曲家としてだけでなく、日本では合唱教育という点でも有名らしい。横井雅子『ハンガリー音楽の魅力──リスト・バルトーク・コダーイ』(東洋書店、2006年)によると、彼は従来のドイツ的な器楽中心の音楽教育ではなく、自分自身の耳と声を鍛える全人的なところに主眼を置いたという。音楽は特別な演奏者だけのものではなく、みんなのものという理念が彼にはあり、歌いやすいもの、耳にしっくりと馴染むものを求めて民謡採集を行なった。西欧音楽をそのまま移入しても、翻訳調のものはどこか不自然な違和感が残るからだ。

 西欧的な語法を使わざるを得ない状況の中で、同時に自分たちの感性に馴染むもの=“民族的なもの”の探究へと向った点で、東欧(ロシアも含めて)と日本とに同時代的な志向性がうかがわれるところに私は興味がひかれている。

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2008年12月26日 (金)

江文也『上代支那正楽考──孔子の音楽論』

江文也『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)

 侯孝賢監督「珈琲時光」という映画が私は好きで、江文也という名前はこの作品で初めて知った。一青窈演ずるフリーライターが取材して歩き回るシーンがあるが、東京時代の江の足跡をたどることが彼女のテーマとなっていた。

 江文也は1910年、台北北郊の三芝郷に生まれた。李登輝と同郷である。父親のつてで日本の長野県・上田中学(旧制)に留学、さらに武蔵高等工科学校(現・武蔵工業大学)を卒業してとりあえず技術者としての道を歩み始める。しかし、上田時代から西洋音楽に深い関心を示していた彼は山田耕筰や橋本國彦に師事、まずはバリトン歌手として出発した。デビュー作は「肉弾三勇士の歌」のレコーディングだったらしい。ただし、江は作曲家として身を立てたいと考えており、そうした彼をロシア人の作曲家チェレプニンが見出した。交響曲や映画音楽など幅広く作曲活動を行ない、1938年以降は日本軍占領下の北京で北京師範大学の教職につく。本書のオリジナルは北京時代の1941年に刊行された。日本敗戦後は一度“文化漢奸”として捕らえられたが、台湾工作での役割を期待されて音楽家としての活動を再開。しかし、反右派闘争や文化大革命では苛酷な運命に翻弄されたようだ。1983年、北京にて逝去。〔追記:江文也の出生地について多くの文献では三芝とされているが、顔緑芬・主編『台湾當代作曲家』(台北:玉山社、2006年)所収の劉美蓮「以《台湾舞曲》登上國際樂壇──江文也」によると、江文也の戸籍は一族の出身地である三芝に置かれていたものの、実際には台北の大稲埕で生まれたという。〕

 『上代支那正楽考』なんて仰々しいタイトルだが、文体は躍動的で読みやすい。中国の伝統文化を音楽の素材として掘り起こそうという意図があったのだろうが、いわゆる堅苦しい“儒学者”というイメージではなく、音楽家としての孔子の姿を彼自身の視点から共感を込めて描き出そうとしているところがおもしろい。

「…美的なものは常に人間から出発するものである。それは規定された日常の道徳律や規則からではなくして、人間の心の底から流れ出た時に、始めてそこに美しいものが存在するのである。
 いま、われわれの日常生活に於ける行為を考へてみるに、それが単に礼に適ひ、道徳的に一々よく当嵌るからと言つて、それで充分だとは言へないのだ。それは単に規定されたところの機械の如き挙動であつて、ほんたうの人間そのものから出たものではないのである。そこにはその人間の個性といふものよりも、その人間によつて構成された社会そのものが、行為して居るやうに見えるのだ。しかし、よき行為といふものは、いつも社会が行ふのではなくして、その社会の一単位であるところのよき人間の個性に基づくものである。従つて単に規定された道徳律によく当嵌まる行為や、それにとどまる範囲内での行為などといふものは、実際では道徳的でもなければ、善の何ものでもないのだ。それが、われわれには一つの立場を与へてくれるには違ひないがしかしそこにはなんらの生命的発展もなく、融通のきかない固形的なものであり、なんらの進歩をも伴はないものである。孔子は、かかる種の道徳家を軽蔑し、耶蘇は、この種の徒を偽善者と罵った。そして芸術家にとつては、それは死をも意味することであるのだ。」(225-226ページ)

 読みながら、ふと、白川静『孔子伝』を思い浮かべた。孔子の言わんとした感覚的なもの、そこに後世になって詳細な註釈が施されたが、その註釈が膨大なものであればあるほど、本来的に言語化しようのない感覚的なものを固定化→規範化、かえって孔子の本来の意図からははずれていく。この言語化できない感覚に目を向けている点で、むしろ荘子の方こそ孔子の後継者だと言えるという白川の指摘が私には新鮮だった(→こちらを参照のこと)。江の文章を読みながら、社会全体を覆いつくそうとしている機械化・システム化の動向、そうした中で芸術における“個性”もまた平均化されていくというもがきが感じられ、その点では、江もまた大正モダニズムの申し子だと言える。同時に、孔子にまつわる註釈という汚れを剥ぎ取りながら白川の迫ろうとしていたところと、音楽という観点から共感されているようにも私には思えてくる。

 本書に解説として付された片山杜秀「江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に」という論文が秀逸で、とりわけチェレプニンを軸とした記述が非常に興味深い。チェレプニンの父親も有名な音楽家で、リムスキー=コルサコフの弟子、プロコフィエフの師匠にあたる。ロシア革命の動乱期、チェレプニンはグルジアの首都ティフリスの音楽学校校長となるが、ここでグルジアばかりでなくアルメニア、アゼルバイジャン、ウズベクなどコーカサス・中央アジア諸民族の音楽に触れた。西洋音楽の限界を感じていた彼はアジアの民族音楽に可能性を求め、その媒介者としてのロシア人という自己規定をしたらしい。1930年代に日本と中国を来訪、それぞれで若手音楽家の発掘に努める。日本では江文也と伊福部昭を見出した。伊福部はゴジラのテーマ曲の人と言えば分かるだろうか。台湾出身の江、日本人ではあるが北海道でアイヌ文化に触れていた伊福部。多民族融合的な音楽志向を持つこの二人を発掘したというあたりにチェレプニンの目指す方向性がよくうかがわれる。江の北京移住の動機として、台湾人=“日中の架け橋”として軍部に目を付けられたという政治的背景もあるが、彼自身の内的なものとして、チェレプニンによって中国への関心を目覚めさせられた点を忘れてはならないだろう。大きく俯瞰してみると、江自身の意図とは関係ないレベルで、広くユーラシアをまたぐ精神史的なドラマに彼もまた組み込まれているように見えてきて、そこに興味が尽きない。

 いま書店に並んでいる『諸君!』2009年2月号、片山杜秀・新保祐司の対談「昭和10年代、日本音楽の奇蹟」が当時の音楽シーンについて色々な話題が出されていて面白かった。

 なお、江文也の評伝として井田敏『まぼろしの五線譜──江文也という「日本人」』(白水社、1999年)があるが、遺族と何かトラブルがあったらしく、絶版。この本は江文也の身辺については調べられていてその点では評価できるとは思うが、当時の社会的・文化的背景との関わりがあまり見えてこず、書きっぱなしという印象があった。斬新な視点を示せる人、それこそ片山氏にまとまった江文也論を書いて欲しいものである。

 というわけで(って、どういうわけだが我ながら分かりませんが)、27日から台北に行ってきます。

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2008年11月19日 (水)

石田一志『モダニズム変奏曲──東アジアの近現代音楽史』

 ここしばらく、江文也という作曲家に興味を持って少しずつ調べている。侯孝賢監督「珈琲時光」が私は大好きで、この映画で彼の名前を知って以来ずっと気にかかっていた。戦前の台湾出身。日本で名を成し、戦中に北京に行ったまま日本の敗戦を迎え、文化漢奸の容疑をかけられたものの中華人民共和国に仕える、が、文革に巻き込まれたり、と彼の人生そのものが東アジア現代史の一側面を体現している。

 今年、彼が戦争中に刊行した『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)が復刊された。解説として付された片山杜秀「江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に」という論文が秀逸だった。江は亡命ロシア人音楽家チェレプニンに引き立てられ、彼の影響で中国の伝統に目を開かされたこと、同様にチェレプニンに見出された伊福部昭と並べているあたりなど非常に興味深い。江文也のことはまた機会を改めて。

 江文也について文献検索をしているうちに、石田一志『モダニズム変奏曲──東アジアの近現代音楽史』(朔北社、2005年)を知った。先日このブログでも取り上げた片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング、2008年)にしてもそうだけど、従来はマイナーだった日本や東アジアの近現代音楽史研究からまとまった成果が現われつつあるのが嬉しい。

 私は高校生の頃から現代音楽には興味があって、CDのライナーノーツで石田一志という名前は見かけていた(確か、ショスタコーヴィチの交響曲だったと思う)。大学に入って石田先生が講師で来ているのを知り、迷わず受講した。ポール・グリフィス『現代音楽小史』(音楽之友社、1984年)をテキストに、楽曲を聴かせて適宜解説を加えるというオーソドックスな進め方だったけど、私にはとても面白くて休まずに出席していた。スティーヴ・ライヒやグレツキを好きになったり、ジョン・ケージの有名な「4分33秒」を初めて聴いた(?)のもこの授業だった。いつの間にか東アジア音楽史なんていう分野を切り開いていたとは知らなかった。

 日本・中国(補章として香港・台湾を含む)・韓国の三部構成、それぞれ19世紀から現代に至る音楽史を時系列に従ってまとめている。作曲家を中心に事典的な項目を通史的に並べたという感じで、分析の切り口に特に斬新さがあるわけではない。しかし、旧満洲国が中国に残した音楽的影響、文革の問題、朝鮮半島なら親日派や南北対立など、東アジアには音楽だからと言って政治的にナイーブでは済まされない難しさがある。本書の一見無味乾燥な叙述は、そうした政治評価から距離を置く姿勢にもなっており、安心して読める。500ページを超す大著だが、眺めているだけでも色々なつながりが見えてくるのも面白い。たとえば、チェレプニンは日本で江文也や伊福部昭などを発掘する一方、中国でもその後の音楽界をリードする人材を育成していることなど初めて知った。知らない音楽家の名前が出てきたときにすぐ調べられるようレファレンス本として手もとに置いておきたい。

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2008年11月14日 (金)

片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』

片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング、2008年)

 『レコード芸術』に連載された批評エッセイをまとめたもの。著者の『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ、2007年)は読んでいた。政治思想史畑の人とばかり思っていたので、掲題書を書店で見かけたとき、なぜに現代音楽?と不思議に思ったのだが、パラパラめくると二〇世紀を彩る数多くの音楽家たちの話題がちりばめられている。この手の本で読みやすいものは意外と少ないので、取りあえず買ってあった。積ん読状態になっていたのだが、サントリー学芸賞受賞とのことで引っ張り出したところ──いやいや、これが実に面白い!

 第一に、一般的な認知度の低い近現代日本音楽史の人物群像がこまめに掘り起こされている。山田耕筰の島国的せせこましさを批判した團伊玖磨に中国・シルクロードと大陸的なものへの思いを見出したり、信時(潔=「海ゆかば」の作曲者)楽派に坂本龍一を絡めたり、松村禎三の宗教性に淫靡なエロスを感じ取ったりとイマジネーションを豊かにふくらませているのも面白いし、伊福部昭への愛着などなかなか読ませる。一見自由人らしい山田一雄が、日本人は本当に西洋音楽を理解できるのかという問いで堂々巡りしていたのに対し、古き謹厳実直さ=保守的にイメージされやすい朝比奈隆が、芸術そのものへと向き合う姿勢からとっくに“日本人”を超えてしまっていた、その意味で実は新しかったのではないかという対比は興味深い。

 第二に、音楽エッセイという形を取りつつ、実は全体的なライトモチーフとして近代思想史が語られている。たとえば、アイヴズの不協和音にエマーソンを結びつけてアメリカの個人主義を論じたり。シュトックハウゼンなんて私にはワケワカメだったけど、中心となる音程を欠いた彼の総音列主義に、ナチズムから解放されたドイツ青年の思い入れを感じたり。近現代日本の作曲家たちの系譜の後景に、西洋を模倣しつつもお国訛りが出てしまう“近代”の葛藤や、岡倉天心の呪縛を読み取ったり。とにかくテーマは尽きない。音楽という感性的なものをとっかかりに視点を変えてみると、かたくなりがちな思想史的テーマもヴィヴィッドなものとして立ち現れる。そこが新鮮だ。

 軽妙な筆致、縦横無尽な話題の引っ張り方には博識な才人ぶりがうかがわれる。音楽と思想史、こういう聴き方、論じ方があるのかと、いちいち目からウロコを落としてワクワクしながらページをめくった次第。

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2008年7月 5日 (土)

あっ、スティーヴ・ライヒだ…。

 金曜日の夜遅く、少々きこしめして帰宅。着替えながらテレビをつけたら、聞き覚えのあるメロディーが流れてきた。慌ててテレビに近寄ったら、ちょうど演奏が終わり、大きな拍手。帽子をかぶったおっさんがクローズアップ。あっ、スティーヴ・ライヒだ…。今年の5月に来日し、彼自身も参加して「十八人の音楽家のための音楽」を演奏したらしい。私の大好きな曲だ。知っていたら万難を排してでも聴きに行ったのになあ。

 番組が切り替わり、今度はストリング・クヮルテット・アルコの演奏でライヒ作曲「ディファレント・トレインズ」。これも好きな曲だ。以前、タワーレコードで視聴、出だしを聴いた途端、その格好良さにはまってしまった。確か、“教授”(由来は知りませんが、坂本龍一のことです)ご推薦!というポップがあったように記憶している。小刻みに激しい弦楽の反復リズムの上にブオーッとを耳をつんざくような汽笛の音。ところどころでナレーションが入る。後の方になると、弦楽のリズムが遅くなったり速くなったりする中、空襲警報を思わせる不穏なサイレンの音が重なる。

 CDで聴いている分には単に格好良いと思うだけだった。テレビ放映では演奏者の周囲に映像ディスプレイを置くなど演出に工夫を凝らしており、曲の持つ意味合いが視覚的に目に入ってくる。曲に合わせてディスプレイに字幕が流れる。「ドイツ人がやってきました。」「家畜列車につめこまれました。」「ポーランド語の地名でした。」汽車の行き着いた先には「Arbeit macht frei(労働は自由にする)」のゲート…。

 ある時期からライヒはユダヤ人という自らのルーツを探り始め、例えばヘブライ語をテクストとした「テヒリーム」という曲も作っている。作風はミニマリズムだけど、耳慣れぬ言葉と独特の歌い方に不思議な感じがした。

 ユダヤ人問題と言えば、シェーンベルク「ワルシャワの生き残り」という曲も印象に強い。ワルシャワのゲットー蜂起を題材としている。シュプレッヒシュティンメという歌とも語りともつかぬ独特のナレーション。その語りの緊張感が徐々に高まり、最後、悶えるようなうめき声を受け、「聞け、イスラエル人よ」と男声合唱がしめくくる。基本的に英語で、ドイツ人士官の発言部分だけ粗野なドイツ語が使われている。シェーンベルクは当時アメリカに亡命していたものの、ユダヤ系ドイツ人として馴染んだ母語はドイツ語である。しかし、ホロコーストを受けて、ドイツ語は一切使わなくなった。この曲の構成にも、自分の母語なのに、それを憎まねばならないという複雑な思いが反映されている。

 グレツキ「交響曲第三番 悲歌のシンフォニー」はクラシックとしては異例のベストセラーとなったという。第2楽章のテクストはドイツの強制収容所に入れられた少女が壁に書き残した言葉。全3楽章、オーケストラのゆったりと、しかし切ないメロディーに合わせてソプラノ独唱。胸にジンワリとしみこんでくるように美しい。気分が高ぶっている時には本当に涙腺がゆるみそうになる。

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2008年3月25日 (火)

田月仙『禁じられた歌──朝鮮半島 音楽百年史』

田月仙(チョン・ウォルソン)『禁じられた歌──朝鮮半島 音楽百年史』(中公新書ラクレ、2008年)

 むかし、イム・グォンテク監督「風の丘を越えて──西便制」(1993年)という映画を観たことがある。パンソリ歌いの旅芸人父娘の愛憎を描いていた。私が「アリラン」を初めて聴いたのはこの映画だったように思う。先週観たばかりの「黒い土の少女」でも炭鉱夫たちが歌っていた。韓国文化を考える上で「恨」(ハン)というキーワードが必ず取り上げられるが、この定義しがたい言葉のイメージを、私は「アリラン」のメロディーに流れる強い感情と哀愁とから受け止めている。「アリラン」の発祥はよく分かっていないらしいが、日本の植民地支配、南北分断、軍事政権、様々な苦難の中で歌い継がれてきたことが本書からもうかがえる。

 都節とかヨナ抜きとか楽理的なことはよく分からないが、植民地時代を通して韓国には日本歌謡の影響が強く残っていた。民族主義の見地から「倭色」のある曲は禁じられたが、他方で朴正熙大統領自身は日本の歌を好んで歌っていたらしい。皮膚感覚になじんだ音楽とナショナリズムという政治的正統性との葛藤が興味深い。植民地支配時代に無理やり日本に協力させられた音楽家が、戦後になって一律に「親日派」として指弾されてしまうあたりにも歴史の悲哀を感じさせる。

 著者は日本、朝鮮半島、両方で活躍するソプラノ歌手。当事者へのインタビューを通し、音楽という側面から見る朝鮮半島現代史として興味深く読んだ。

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2008年3月19日 (水)

雑談、音楽

 ここのところ、通勤電車の中でサラ・ブライトマン“Symphony”をよく聴いている。彼女の音域の広い歌声にリズミカルなオーケストラや合唱、絢爛たる響きにしばし身をゆだねる。

 いくつかクラシックの名曲の聞き覚えのあるメロディーが聴こえてくる。ホルスト「惑星」のジュピターはアレンジの定番だ。平原綾香のバラード風に抑えた歌声も好きだけど、ブライトマンの華やかさも捨てがたい。

 マーラー交響曲第五番第四楽章のどこかけだるくも美しいメロディーが聴こえてくると、ヴィスコンティ監督「ヴェニスに死す」をやはり思い浮かべる。あの映画の黄昏を思わせる雰囲気にはこれ以外にはあり得ないくらいにぴったりな選曲だろう。渡辺裕『マーラーと世紀末ウィーン』(岩波現代文庫、2004年)では、そもそもヴィスコンティは最初からマーラーをイメージしていたのではないかと指摘されていたように記憶しているが、さもありなん。

 私は中学生の頃からマーラーが好きだった。一つのきっかけは、その頃放映されていたサントリーのテレビ・コマーシャル。仙人のいそうな深山幽谷が映る。李白「山中與幽人対酌」が中国語で朗読され、「一杯一杯、復一杯」(イーペイ、イーペイ、プーイーペイ)というフレーズはいまだに耳に残っている。バックに流れていたのがマーラーの交響曲「大地の歌」第三楽章「青春について」だった。映像、ナレーション、音楽の組み合わせが印象に強く、オリエンタル趣味も手伝って「大地の歌」のCDを買った。

 全六曲、連作歌曲形式。よく知られているように、マーラーは“交響曲第九番のジンクス”におびえて「大地の歌」にナンバーをふらなかった。第三楽章は穏やかだが、第六楽章「告別」など、どんよりと暗い。この曲を聴いて自殺する人がいても私は責任をもてない、とマーラーは書いていたらしい。いずれにせよ、マーラーの憂鬱な暗さもその頃の私の気分に合っていた。

 歌詞はハンス・べートゲ(Hans Bethge)の『中国の笛』から採られている。李白、杜甫、孟浩然、王維など唐代の詩人たちを自由にアレンジした詩集である。その後、大学生になって多少なりともドイツ語をかじるようになってからこの『中国の笛』を探したのだが、見つけられなかった。

 ショスタコーヴィチが若き日に作曲した「日本の詩人の詩による六つの歌曲」も、どうやらその一部はべートゲによるらしい。確か第六曲「死」は大津皇子の辞世の句だったように思う。この曲もやはり暗い。

 べートゲという人は19世紀末から20世紀にかけて東洋趣味で知られた詩人のようだが、人物像がよく分からない。今でも気になっている。

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2008年1月19日 (土)

シベリウスはお好き?

 いや、何となくこんなフレーズが思い浮かんだだけで、サガンの小説と絡ませようとかいう意図はございません。あしからず。

 NHK交響楽団1611回定期演奏会に行った。NHKホールにて。考えてみると、NHKホールは本当に久しぶりだ。高校生のとき、大野和士指揮によるショスタコーヴィチ交響曲第十番を聴きに来て以来だから、もう15年も経つのか。意外と変わってないな。

 当日券で自由席、1,500円。さすがにN響でほぼ満席。15:00開演だが、その前にロビーで楽団員による室内楽演奏をやっていた。P・ガベイという人の曲「レクリエーション」。ホルン、トランペット、トロンボーン、ピアノの四重奏という変わった編成。軽快で、なかなか楽しい曲だった。

 今回のプログラムはシベリウスの交響詩「四つの伝説」から「トゥオネラの白鳥」、交響詩「タピオラ」、そして交響曲第二番。N響の名誉指揮者、ヘルベルト・ブロムシュテットの指揮。N響アワーをみていればおなじみだ。穏やかでやさしそうな笑顔にいつも好感を持っているのだが、今回、3階の奥まった席なので、遠くてお顔はよく見えず。

 私はクラシックを聴くようになった中学生の頃からシベリウスの交響曲第二番は大好きで、繰り返し聴いている。とりわけ第四楽章、弦楽のメロディーがなめらかに、かつ高らかに響きわたるあたり、胸の奥にじんわりとしみこんでくる感じで何とも言えず素晴らしい。大好きなメロディーを聴いていると体が我慢できず、かすかながらも手でリズムをとってしまう。斜め前に座っていたおじさんもやはり自然と手が動き出していて、連帯感を覚えた。

 シベリウスはフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』に題材をとった交響詩を多く作曲している。中高生の頃、カラヤン指揮のCDで「トゥオネラの白鳥」や「タピオラ」を聴いて、そうした神話的ファンタジーの音楽的表現に興味を持った。もっと聴きたいと思ったものの、その頃はシベリウスの曲でもマイナーなCDは入手が難しかったように思う。「トゥオネラの白鳥」はよく単独で演奏されるが、これを第二曲とする連作交響詩「四つの伝説」の全体は、FM放送でのネーメ・ヤルヴィ指揮による演奏をテープに録音して、これを繰り返し聴いていた。第一曲「レミンカイネンと島の乙女たち」の出だしが好きだった。北方の森林や沼沢が広がる風景を脳裏にイメージして、清潔感を湛えた静寂に憧れを抱いた。

 「トゥオネラの白鳥」でのイングリッシュ・ホルンの響きが実に良い。ホルンとは言っても、見た目は大きめのオーボエといったところか。交響曲第七番でもイングリッシュ・ホルンのソロとオーケストラとの掛け合いが胸がすくように美しく、イングリッシュ・ホルンと言うと私はシベリウスを思い浮かべる。〔追記:確かめてみると、第七番のソロはトロンボーンでしたね(苦笑)。オーケストラの音がたゆたう中で管楽器の音色が孤高に響く感じが良い、と言い換えておきます。〕

 N響の広報誌『Philharmony』2008年1月号でシベリウス特集が組まれていたので、休憩時間に買い求めた。神部智「幻の《交響曲第8番》とシベリウス晩年の美学」でシベリウスに交響曲第八番の構想があったことを初めて知った。十九~二十世紀にかけてのヨーロッパは中小国でナショナリズムが大きく盛り上がった時代だが、リョンロートによる『カレワラ』採集と共に音楽がそのシンボルを果たした背景を新田ゆり「祖国と自然への想いを今につないで」は簡潔に教えてくれる。池田和秀「シベリウスの国は小さな音楽教育大国」によると、そうした音楽のシンボリックな位置付けから、弱小国としての立国の道として音楽も一つの柱となっているそうで、人口に比した音楽の活況ぶりに驚いた。

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2007年12月 4日 (火)

無意味な雑談、音楽

 朝の通勤電車ではいつもCDを聴いている。すし詰め状態で本も新聞も開けないから。語学のリスニングでもやればいいのかもしれないが、今のところ、そんな気力はない。i-Podなどというシャレたものも持っていないので、まだ壊れずしっかり動いてくれるポータブルCDプレイヤーを背広のポケットにねじこんでいる。

 前にも書いたが、ヨハン・デ・メイ(Johan de Meij)の交響曲第3番“Planet Earth”が最近のお気に入り。作曲者はブラスバンドの方で有名な人らしく、このCDもブラスバンド的な編成のオーケストラで演奏。第一楽章Lonely Planetは初めにビュン、ビュンと電子音が響き、微惑星の衝突から地球が生まれる瞬間を表現しているようだ。第二楽章Planet Earthの中盤以降、小太鼓のリズムに合わせた金管楽器のうなり声、そして第三楽章Mother Earthでのオーケストラと女声合唱の高まり、何とも言えずたまらない。交響曲第1番は『指輪物語』をテーマとしているらしいが、日本では入手が難しいようだ。小学生の頃からの愛読者だけに気になる。

 デ・メイはホルストの組曲「惑星」を意識して第3番を作曲したらしい。この組曲には水星、金星、火星、木星、土星、天王星、海王星はあるが、地球はない。なお、冥王星もないが、作曲当時はまだ発見されてなかったから。最近、“惑星”の地位から転落したばかりだから、帳尻は合うことになったな。ホルストは占星術に凝っていたらしいが、そういうのはよく知らない。私はいつも第一曲「火星」と第四曲「木星」ばかり繰り返し聴いていて、他の楽章は無視していた。Marsの行進曲風の出だしはやはり胸が高鳴る。

 第四曲「木星」は、出だしの盛り上がりと、その後のなめらかな旋律とで、聴く人によって印象が違うようだ。以前、有線放送の流れるお店に入ったとき、後者のメロディーにのせた歌声が聴こえてきた。この曲自体が好きだということもあるが、歌声の細めだけど落ち着いた響きがとても良いなあと思った。傍らにいた友人に尋ねて、平原綾香の名前を初めて知った。「Jupiter」の収録されたアルバム「ODYSSEY」を早速買った。「あなたの腕のなかで 」の高らかな歌声がとくに好き。

 このCDには「蘇州夜曲」も入っている。服部良一作曲、西條八十作詞による昭和初期のヒット曲だ。ふと、机の脇、“ツン読”状態の本の山を見やると、筒井清忠『西條八十』(中央公論新社、2005年)が目に入った。読もう読もうと思いつつ、放ったらかしのまま。なのに、昨日は同じく筒井清忠の新刊『昭和十年代の陸軍と政治──軍部大臣現役武官制の虚像と実像』(岩波書店、2007年)を衝動買いしちまったばかりだぜ。

 これも前に書いたが、world’s end girlfriendの曲が大好きだ。私の周囲には知っている人がいなくて寂しい。ジャンルは何と言ったらいいんだろう? テクノ系だと思うが、色々な要素が入っていて一口でまとめられない。大型CDショップのアンビエント・ミュージックのコーナーに置いてある。なめらかなメロディーにノイジーなきしみがかぶさった、不思議な音響世界が実に独特で、おもいっきりはまってしまった。「The Lie Lay Land」で初めて知ったのだが、最近は「Hurtbreak Wonderland」を繰り返し聴いている。ちなみに、“Hurtbreak”はスペルミスではありませんよ。他にも「dream's end come true」(夢の終わりが実現する)とか「Palmless Prayer」(手のひらのない合掌)とか、タイトルが意味深げに凝っている。

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2007年10月23日 (火)

どうでもいい雑談、音楽。

 新宿に出たついでにタワーレコードに寄った。例のごとく視聴コーナーをうろちょろ。

 バーンスタインの芸術というタイトルの復刻盤を二つ見かけた。一つは、チャイコフスキー「交響曲第六番 悲愴」。旧盤は私も持っており、今でも繰り返し聴いている。ジャケットも全く同じなのだが、「イタリア奇想曲」が付け加わった上に、1,200円と安くなっていた。バーンスタインの演奏を聴いていると、「あれ、こんな所で打楽器が入ったかな?」と不審な一瞬がたまにある。この「悲愴」にしてもそう。演奏風景を映像で見ると答えはすぐに分かる。あの人、興がのるとピョンピョン飛び跳ねながら指揮するので、ドン!と着地した音までも録音されているという次第。

 もう一つは、ショスタコーヴィチ「交響曲第七番 レニングラード」と「交響曲第九番」の二枚組。一枚目にレニングラードの第一、二楽章、残りを二枚目に収録。視聴機には二枚目が入っていた。「レニングラード」の第三楽章を久しぶりに聴いたが、弦楽合奏の美しさに改めて感じ入った。ショスタコは、それこそ硝煙が立ち昇りそうな激しさがあるかと思うと、第九番のように皮肉っぽい軽やかさもあったりと多面的なスタイルが面白い人だが、弦楽もなかなか良い。第五番と第十一番「1905年」の第二楽章も美しいし、第十二番「1917年」の出だしの低音合奏は重厚にズシンと響く。ルドルフ・バルシャイがショスタコの弦楽四重奏曲をアレンジした「室内交響曲」も好きだ。

 なお、私が持っている「レニングラード」はロストロポーヴィチ指揮の輸入盤。買ったのは高校生のとき。あの頃はまだショスタコの日本製CDはあまり出回っていなかった。辞書を引きながら英文解説を読んだのもなつかしい。レニングラード攻囲戦の最中に作曲され、スコアはマイクロフィルムにして海外に持ち出され、ムッソリーニとケンカしてアメリカに亡命していたトスカニーニの手で海外初演されたというエピソードを覚えている。シュワルツネッガーと宮沢りえが「チーンチーン、ブイブイ」と歌っていたアリナミンVドリンクのCMはいつだったか。あのメロディが「レニングラード」の第一楽章。ドイツ軍がヒタヒタと押し寄せる様子が描かれていた。

 フロアを移り、スピッツ「さざなみCD」を買った。透明感があって、胸がすくように心地よい。そういえば、以前、スピッツの曲をフィーチャーした「海でのはなし。」という映画を観たことがある。DVDがスピッツ特集コーナーに並んでいた。宮崎あおいと西島秀俊というキャスティングはスピッツの曲のイメージにぴったりだし、二人ともお気に入りなので期待満々で観に行った。ところが、薄っぺらな駄作。がっかりと言うよりも、怒りがこみ上げたことを思い出した。

 YUKIがソロ活動を始めて以降の曲を集めたシングル・コレクション「five-star」も気になったのだが、予算がつきた。のびやかに元気で、時に切なさも表現できる歌声が好きだ。初めて聴いたのはジュディ・アンド・マリーの頃の「イロトリドリノセカイ」。普段、ポップスは聴かないのだが、たまたま耳にして、それがその時のフィーリングというか、心理状態にぴったりシンクロしてしまったようだ。一度シンクロするとずっと気になってしまう。

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2007年9月 1日 (土)

スメタナ「わが祖国」を思い出して

 チェコの文化といったら誰を思い浮かべるだろうか? 思いつくままに並べると、スメタナ、ドヴォルザーク、カレル・チャペック、アルフォンス・ミュシャ、ヤン・シュヴァンクマイエル。チェコ人ではないがカフカの名前もはずせない。

 例によってCDショップの試聴コーナーをふらついていたら、スメタナの連作交響詩「わが祖国」をみかけた。ラファエル・クーベリック指揮によるCDが廉価版で出されていた。“ビロード革命”で共産党政権が崩壊し、亡命先から四十年ぶりに帰国したクーベリックの凱旋ライヴを収録した名盤である。なつかしくて、思わずヘッドホンを耳に当てていた。

 私がチェコという国を最初に意識したのはスメタナの「わが祖国」だった。この中の第二曲「モルダウ」の美しいメロディーはあまりにも有名だが、他は意外と知られていない。全六曲を通して聴いたのは高校生の頃だったと思う。第一曲「ヴィシェフラト」はプラハの城を描いている。ハープで始まるメロディーはゆったりとして居丈高なところがなく、しかし荘厳さを失っていない。なかなか良いと思った。「モルダウ」以外は評価されていないと何かで読んだことがあったのだが、ウソつきやがってと腹立たしかった。

 初めて聴いたときは第五曲「ターボル」と第六曲「ブラニーク」がお気に入りだった。CDのライナーノーツに、フス戦争の闘士が甦ってチェコ民族の独立を勝ち取るというテーマが込められていると書かれていた。曲そのものよりも、民族解放というドラマチックなイメージに私は胸を湧き上がらせていた。

 19世紀、ロマン主義の流れをくむ国民楽派はナショナリズムの音楽的表現でもある。フランス革命およびナポレオン戦争をきっかけとしてヨーロッパ全土にいきわたったナショナリズムは、抑圧されてきた小民族の政治的解放の要求を喚起した。それは同時に、自分たちの伝統を見直そうという文化運動と結びついた。アカデミックには言語学や民俗学が成立し、さらに民族的感情を直截に訴えるものとして文学、美術、そして音楽も時代の風潮の例外ではなかった。そうしたパッションはやはり胸を打つ。たとえば、シベリウスの「フィンランディア」も私の大好きな曲である。

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2007年6月25日 (月)

雑談を取りとめなく、音楽

 「サイドカーに犬」のエンディングにYUI「understand」という曲が流れた。映画そのものの余韻もあってしんみりと耳に残った。上映されていたアミューズCQNからエスカレーターで降りていくと、建物の壁面はガラス張りなので、夕方、渋谷の街の空にかかる雲のあかね色に染まった色合いが目に心地よくしみいってくる。さっき耳にしたばかりの曲にあった「夕暮れにのびる影──」というリフレインが何とはなしに思い返され、YUIのCDを探しにタワー・レコードに寄ることにした。

 「UNDERSTAND」「MY GENERATION」の収録されたシングルとデビューアルバムの「FROM ME TO YOU」を聴いてみた。中途半端に英単語まじりの歌詞はあまり好きではないし、編曲で聴かせているのかなという感じもするが、聴き心地はなかなか悪くない。ジャケットの写真を観ると、このYUIという子は凛々しくてカッコいいね。子供っぽいあどけなさと芯の強さがあやういバランスを取っている感じというか、そういう演出なんだろうけど、様になっている。

 サウンドトラックのフロアをふらついていたら、大野雄二のベストコレクションが試聴機にかかっていた。以前、このブログにも書いたが、岩井俊二監督「市川崑物語」を観たところ、大野の作曲した「犬神家の一族」のテーマ曲が流れていた。なめらかな弦楽合奏のメロディーを耳にして無性になつかしい気持ちをそそられ、市川崑の作り直し版「犬神家の一族」をついつい観に行ってしまった。残念ながら、大野のベストコレクションにこの曲は収録されていなかったが、「ルパンⅢ世」やNHKでやっていた「小さな旅」(最初は「関東甲信越小さな旅」というローカル番組だったが、いつの間にか「小さな旅」として全国版になっていた。割合と好きでたまに観ていた)のテーマ曲を聴くことができた。それぞれ雰囲気は全く違う。ただ、「犬神家の一族」のメロディーを意識しながら聴いていたら、メインテーマは違うのだが、伴奏に流れる弦楽の雰囲気がよく似ている。大野雄二の曲で私の気持ちに引っかかっていたのは、この弦楽のメロディーなんだなと改めて自覚された。

 ついでにタワー・レコード新宿店にも寄った。クラシックのフロアに行って試聴機を見ていたら、クラウス・テンシュテット指揮によるワーグナーの管弦楽曲集があった。以前にリヒャルト・シュトラウスが好きだと書いたので容易に想像されるだろうが、ワーグナーも好きだった。「ワルキューレ」はコッポラの「地獄の黙示録」以来、定番だな。私が一番好きなのは「ジークフリートの葬送行進曲」。荘重な旋律が体の奥にまでズシンと響いてくるのがすごくいい。かつてヒンデンブルクが死んだ時、ヒトラーが葬儀に演奏させ、文字通りワイマール共和政を葬送した曲でもあるが。

 「Barber's Adagio」も試聴機にかかっていた。バーバー「弦楽のためのアダージョ」は通常、弦楽合奏として演奏されるが、声楽やフルートなど別の楽器による様々な演奏も収録して、この曲の魅力を一層引き出したのがこのCDだ。私が買ったのはかれこれ十年くらい前のように思うが、復刻されたのだろうか。ジャケットもいい感じ。この曲はオリバー・ストーンの「プラトーン」で一躍有名となったが、哀愁が静かに胸にしみわたってくるメロディーに泣けてくる。

 タワレコ新宿店にはミニマリズムの熱烈なマニアがいるのだろうか。来るたびに、フィリップ・グラスやスティーヴ・ライヒの特集が目につく。今日もライヒが試聴機にかかっていた。「Tehillim」の聴きなれぬヘブライ語や「Different Trains」の不安をかき立てるようなリズムについつい聴きほれる。両方ともうちに帰ればあるのだが。ライヒで私が一番好きなのはやはり「十八人の音楽家のための音楽」だ。たゆたうような厚みのある音の重なりに身を委ねていると何とも言えず心地よい。

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2007年5月 1日 (火)

タワー・レコードにしてやられた

 渋谷のシアター・イメージフォーラムで「ロストロポーヴィチ 人生の祭典」を観たことは前回に書いた。この映画の後半で、ペンデレツキがロストロポーヴィチのために作曲したチェロ協奏曲を、小澤征爾指揮、ウィーン・フィルがレッスンしているシーンがある。この曲のCDがないかと帰りにタワー・レコードへ寄った。ロストロポーヴィチ追悼コーナーはあるのだが、お目当てのものは見つからず。代わりと言ってはなんだが、ペンデレツキ「ポーランド・レクイエム」がタワレコ特別版ということで二枚組み・1,500円で出ているのを見つけ、ついつい衝動買い。

 タワレコの売場にはお薦め曲がいつも流れており、天井からぶら下がったモニターに曲名が表示されている。クラシックのフロアを物色しながらブラブラ歩いていたら、金管楽器が咆哮するドラマチックなメロディーが耳の中へ飛び込んできた。モニターを見あげると、ヨハン・デ・メイ(Johan de Meij)「交響曲第三番 プラネット・アース」となっている。知らない作曲家だ。しかし、身体にじかに響いてくるともう逆らえない。すぐにこのCDをつかみ取り、先ほどの「ポーランド・レクイエム」と一緒にレジへと直行。タワレコにまんまとしてやられたと妙に悔しいわだかまりを抱きながら。

 デ・メイは1953年生まれ、オランダの作曲家。私が耳にしたのは「windy city overture」という短い作品。この曲も、「planet earth」も、高らかな音響に奥行きがあって、その盛り上げ方はまるで映画音楽のようだ。なお、NHKスペシャルで放映されていた「プラネット・アース」という番組を毎回欠かさず見ていたが、これとは関係ない。デ・メイは他にもトールキンの作品をテーマとした「交響曲第一番 指輪物語」というのも作曲しているらしく、興味津々。

 タワレコで試聴して買い、それをきっかけにファンになってしまったアーティストが割合といる。ジェーン・カンピオン監督「ピアノ・レッスン」という映画があった。この映画そのものは特に好きでもなかったが、マイケル・ナイマンの流麗なメロディーはタワレコの試聴機で初めて知った。

 スティーヴ・ライヒ「different trains」は出だしを聴いた瞬間に決まった。「18人の音楽家のための音楽」など、もともとミニマリズムが好きではあったのだが、それが確信に変わってしまった。

 world’s end girlfriend「The lie lay land」。私は普段あまり聴かないタイプだが、たまたま試聴したのをきっかけにはまった。きしむようにノイジーな音響となめらかなメロディーとの微妙なマッチングには独特な世界観があって本当に不思議な曲だ。world’s end girlfriendはどうやら日本人らしいということ以外に正体はよく知らないのだが、CDはすべて買った。

 ちなみになぜ「The lie lay land」の試聴機の前で立ち止まったかというと、飾られていたジャケットに視線が奪われたから。暗くぼんやりとしたイメージがすごく良い。描いたのは絵本作家の酒井駒子。本の装幀でも知られている。彼女の活躍はタワレコの試聴機をきっかけに初めて知ったことになる。存在を意識し始めると、彼女の手がけた本を書店で見かけるたびに手に取るようになった。こういう副産物もある。

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