【七日間ブックカバー・チャレンジ:六日目】 安彦良和『虹色のトロツキー』
安彦良和『虹色のトロツキー』
「おおかみこどもの雨と雪」
人間の女性とオオカミ男の間に生まれた雪と雨。二人は自分が人間なのかオオカミなのか分からないまま。雪は小さな頃から腕白、と言うよりも獰猛な女の子。ところが、小学校に通い始め、クラスの友達と宝物の見せっこをしたら、みんなはかわいらしいものを持ってきたのに、雪の手にあるのは獲物の骨や干物…自分はみんなと違う、と自覚した彼女はそのことを恥ずかしく感じ、これからはおしとやかな女の子になるんだと決意。つまり、他者の視線を意識することで、自然状態→学校→社会化という経路がうかがえる。他方、弟の雨は、田舎に引っ越しても、ヤモリを見てびびってしまい「早く帰りたい…」とつぶやくようなオドオドした臆病者。ところが、山で「先生」(=狐?)と出会い、山のことを知るにつれて、オオカミとしての自覚が強まっていく。このようにそれぞれがアイデンティティの確立を模索し始めることは、同時に二人の親ばなれの徴候でもあり、そこに複雑な戸惑いを感じる母親の姿。そんなところがストーリーの構図。
要するに、獣姦で生まれた子供たちがアイデンティティ・クライシスに悩むという話(笑)なんて言ったら実も蓋もないな。とりあえず、悪くないとは思う。子供たちと母親それぞれの成長譚といった感じで、手に汗握るワクワクドキドキはあまりない。夏休みのファミリー向け映画として上映されているのだろうが、子供だと意外に退屈するのではないか。
私はこの手のアニメ映画を観るとき、ストーリーよりも風景描写にどれだけ手をかけているかに注目するので、その点では満足。冒頭は東京のはずれの国立大学という設定らしいが、建物は明らかに一橋大学。野山を駆け回るシーンにオーケストラの音楽がかぶさったり、なかなか良い。音楽は高木正勝と言う人か。覚えておこう。
細田監督の前作で評判になった「サマーウォーズ」は田舎の町を舞台としたサイバーウォーズという設定だったが、「田舎に帰る」というノスタルジックなモチーフが一つの持ち味だった。今作では、「田舎に帰る」どころか、人目に縛られる都会を脱出→人目のない自然への回帰という母親の願望が一つの軸となり(その後、「温かい村人」たちと新たな関係を結びなおすという筋書きになるが、これは甘すぎる)、そこに上に述べたオオカミか人間か、すなわち雪の「自然→社会」、雨の「社会→自然」という二人それぞれのアイデンティティ・クライシスが絡み合ってくるところがミソ。
しかし、こうやってストーリーを確認しなおしても、オオカミ男に体現された「社会」と「自然」の分裂的共存が、それほど説得的な話として感じられないのはなぜなのだろう。
「自然」に回帰したいと思っても、その生存の厳しさに直面すれば、規則や人目や世間体にがんじがらめになって息苦しい状態が実は既に自分自身の血肉となっており、逃げたいと思っている「社会」の方がむしろ生きやすいという矛盾にようやく気づく。それでも敢えて「社会」を捨てるという決意には、生きるか死ぬかを超えたニヒリズムが必要であって、それほどの凄みがこの映画では見えてこないからか。少なくとも、選択対象として等価のものではない。例えば、岩井俊二監督「リリイ・シュシュのすべて」では、少年が西表島に行って、さっき会った人が事故で死ぬのを見て、自然というのは死も日常的なんだということを感じ取り、それが一種のニヒリズムにつながっていく描写があり、これとどのように比較できるかな、なんてことを考えていた。うまく言葉にまとまらないのだが。
【データ】
監督:細田守
2012年/117分
(2012年7月27日、新宿ピカデリーにて)
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「星を追う子ども」
郷愁をさそう山間の村、緑が瑞々しい森の中を高台へと駆け上がっていく少女アスナの姿。青白く光る石を使った鉱石ラジオをセッティング、広々とした青空の下、はるかに耳を澄ます彼女の表情は晴れやかでありながら、一抹の孤独感もにじみ出ている。ある日、アスナが正体不明の獣に襲われたところ、シュンという少年が助けてくれた。しかし、姿を消した彼の死体が見つかったと聞いて悲しむアスナだが、シュンと瓜二つの少年に出くわす。そこに戦闘態勢の男たちが現われ、わけも分からず一緒に岩穴へと逃げ込んだ。行き先は地下に広がる伝説の国、アガルタ──。
新海誠のアニメーション作品は、奥行きの広がりを感じさせる画面構成の中での映像の叙情的な美しさがいつも気になっていて、ついつい観に行ってしまう。ただし、あくまでも彼の作る映像が好きなのであって、ストーリーそのものにはそれほど感心していない。例えば、前作「秒速5センチメートル」のノベライズやコミックを一応手に取ってはみたが、話が甘すぎて甘すぎて、とてもじゃないが食えたもんじゃない。
…とは言うものの、今回はストーリー的にもよく頑張っているなと思った。要するに、古事記に出てくるイザナギが亡きイザナミに会いに黄泉の国へ行く話を換骨奪胎して無国籍的ファンタジーに仕立て上げたといった趣きだ。しかし(と再び逆説だが)、よく出来ている、とは思いつつも、何か見たことのある雰囲気だなあ、というモヤモヤ感も同時に沸き起こってきた。これはキャラ的にも設定的にも宮崎アニメの路線だな。ナウシカ、ラピュタ、とりわけ映画化はされていないが『シュナの旅』を思い浮かべた。まあ、だからこそストーリーの部分は安心しながら新海さんの映像をじっくり堪能できたわけではあるのだが。
【データ】
原作・脚本・監督:新海誠
2011年/116分
(2011年5月21日、新宿バルト9にて)
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「攻殻機動隊 Ghost in the Shell 2.0」
言わずと知れた押井守によるサイバーパンク・アニメの名作。むかし観た覚えがあったが、TSUTAYAの棚を物色していたら準新作となっていたので借り出した。2008年の「スカイ・クロラ」公開に合わせてリマスターされたバージョンで、ストーリー上の変更はない。映像や音響のどこがどのように変わったのか私には分からないのだが。
この映画には、第一にバーチャルな電脳社会における存在論・認識論という点で現代思想系の人たちが、第二に近未来都市論という点で建築畑の人たち(例えば、五十嵐太郎)がよく言及する。私は後者の視点で興味を引く。半ば水没した東京、中国系住民が多数来住しているという設定で、ゴチャゴチャした街並のすぐ真上を飛行機が飛ぶところなどは香港をモデルにしているのか。
【データ】
監督:押井守
1995・2008年/85分
(DVDにて)
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接接(JaeJae)《接接在日本:台灣、日本大不同》(商周出版、2010年)
台湾に行き、帰りの飛行機で暇つぶしになる本はないかなと探していたら、書店の新刊台に積まれていたので購入した本。タイトルを意訳すると、『接接が見た日本、台湾と日本は大違い!』ってところか。奥付を見ると、2010年7月20日初版で、8月2日初版9刷となっている。重版1回につき何部刷っているんだ? よほどのベストセラーなのか。
日本人と結婚した台湾の女の子・接接が日本で暮らし始めて、日本語を猛勉強したり、台湾との生活習慣の相違に戸惑ったり、夫が実はゲーム・オタク(宅男)であることが判明して唖然としたり、と日本と台湾とのカルチャー・ギャップをコミカルに描いたイラスト・エッセイ。たとえて言うなら、小栗左多里『ダーリンは外国人』が夫婦間のカルチャー・ギャップを描いてベストセラーになったが、その設定を台湾人妻+日本人夫にしたような感じだ。
職場の飲み会での飲酒前/飲酒後という日本人の変身ぶり。終電間際、泥酔者がゴロゴロしている新宿駅。食堂では真冬でも「おひや」が出るのに驚いたり、食べ残しを持ち帰りたいと言ったら日本人は恥ずかしがるのを不思議に思ったり。同僚とお弁当のおかず交換で鶏足を出したら「野蛮だ」と言われたが、そう言う日本人だって魚の生けづくりなんて残虐じゃないかと反撃。日本では台風休暇がないことに不満タラタラ、暴風雨の中でも頑張って出社しようとする人々を実況中継、等々。日本人自身でも意外と自覚していないポイントも結構ついてきて、彼女の驚きを通して台湾側の生活習慣も見えてくる。なかなか面白かった。この手のカルチャー・ギャップものは(悪意さえなければ)愉快に笑えるから好きだな。
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最近どんなマンガが面白いのか情報に疎い。何かないかなあ、と思いながら書店で物色していたら、「マンガ大賞2010、手塚治虫文化賞W受賞」というポップにひかれて、ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン、2009年)を買った。ラテン語で「ローマの風呂」という意味か?
古代ローマの風呂造り技師が毎回日本の銭湯や温泉にタイムスリップして、その風呂文化の先進性に驚く、という話。確かに風呂文化という点で古代ローマと日本とでは共通性があるし(高校の世界史で「カラカラは何した人か?」という質問に「お風呂をつくった人」と答えた同級生がいた。教科書の写真で見たカラカラ大浴場の印象が強かったのだ。ちなみに、答えは「すべての属州自由民にローマ市民権を与えた」)、例えば秋田のしょっつると古代地中海の魚醤の味が似ていることなど背景考証もしっかりしている。単に面白いというのではなく、こんなマニアックな題材でよくここまで描けるものだと感心した。
感心ついでに同じくヤマザキマリの新刊『涼子さんの言うことには』(講談社、2010年)も買って読んだが、こっちはいまいちだな。
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『センネン画報』(太田出版、2008年)を以前たまたま書店で見かけ、何となく良いなあと思って買って以来、今日マチ子作品のファン。第一弾ではカラーは3分の1くらいだったが、今回の『センネン画報 その2』(太田出版、2010年)はオールカラー。水色の情感がポイントだから嬉しい。最初は売れ行きを危ぶんでコスト抑制のため一部カラーとしたのだろうが、実績は好調、今回はオールカラーでも採算は十分とれると見込んだのだろう。
青を基軸とした背景に繊細な線、水彩のさわやかな透明感が実に良い。高校生活のワンシーンを切り取るような題材、この水色の色合いからは思春期の感傷が静かに浮かび上がってくる。ストーリーものより、セリフのない一つ一つのカットの方が私は好き。学校の教室、白いカーテンがそよ風に揺れているところなどノスタルジーをかき立てられる。雨の日が多い。アパートの片隅のたたずまい。公園や川辺では草むらが風になびいている。夏は涼しげに、冬の夜は寒そうな仕草に叙情的なものが感じられてくる。
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蛇蔵・海野凪子『日本人の知らない日本語2』(メディアファクトリー、2010年)
夜、職場に残ってクスクス笑いながら読んでいた。うさんくさげな視線を向ける帰り際の同僚、でも私が手にしている本を見て納得の様子。
鋭いツッコミや思いがけないボケでハラハラさせる留学生たちと、受けて立つ日本語学校の先生。日本語をめぐるカルチャー・ギャップを描きこんだマンガである。このシリーズは文句なく面白くて好きだな。単に笑えるというだけでなく、見事に実地の比較言語論、比較文化論になっているから侮れない。例えば、「先生が早く結婚するのを願ってます」とおおっぴらに言う中国人に対して、欧米人は「なぜ他人のプライバシーに口を挟むんだ?」と冷ややか。マンガやアニメが好きで来日したオタクが多いが、同じオタクでもフランス人とアメリカ人とで態度の取り方が違うのも面白い。
カバーをめくって本体表紙にある4コママンガも意味深だ。「大人の理由で紙袋をかぶせてあります」と注釈がついて紙袋で顔を隠して描かれる留学生。日本のニュースには殺人の話が多い、自分の故郷にはそんなことなかったのに…。いや、待てよ、ひょっとして報道されていないだけなのか? 「先生、殺人のニュースが多いのは、とても良いことなんですね!」
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前にも書いたことあるけど、今日マチ子『センネン画報』(太田出版、2008年)が結構お気に入り。この本のもとになったブログ「今日マチ子のセンネン画報」も時折のぞいている。ふらりと書店に寄ったら、新刊で『100番目の羊』(廣済堂出版、2009年)と『みかこさん 第1巻』(講談社、2009年)が店頭の新刊平台に並んで積まれていた。迷わず購入。両方とも、女子高生の成長物語、といったところ。オビにある「胸キュン青春ストーリー」(苦笑)みたいなのはちょっと私の趣味じゃないんで、ストーリーはすっとばして、ピンポイントで絵だけ眺める。軽いノリで高校時代の日常が描かれつつ、その生活光景をほのかに捉えていく感傷的な色合いが好き。ラフだけど繊細な線、それを包み込むような淡い水色の背景が何とも言えず良い。落ち着いた透明感があるというのかな。胸がスーッとするような心地よさを感じる。
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「エヴァンゲリヲン新劇場版:破」
今さらエヴァ観てはしゃぐ年齢でもないけど、取りあえず覚書程度に(ちなみに、去年、「エヴァンゲリヲン新劇場版:序」を観たときのコメントは→こちら)。
テレビ版に続き、前の映画版、今回の新四部作と作り直しは2回目。単に作り直しとみるよりも、そのたびにオリジナルのストーリーからパラレル・ワールドとして広がっていると捉えるべきか。物語世界を大きく動かす(擬似)神話的レベルから学園ラブコメ調のノリで描かれる日常生活まで、重層的な世界観の広がりが私には大きな魅力(現時点でもまだ全体像は分からないが、碇ゲンドウたちの思わせぶりなセリフが観客をじらせる)。一つ一つのエピソードがいかにもいわくあり気で、そうして張り巡らされた伏線は、制作者側も実は収拾がついていないのではないかと思わせるほど。逆に言えば、深読みの余地が大きい→議論ができるのも人気の理由だろう。聖書、グノーシス、古代メソポタミア神話など“神秘主義”ネタが多い→今回も“ネブカドネザルのカギ”なる新ネタが出てきた。
やはり新キャラであるマリの登場で、碇シンジ、式波(惣流ではない)アスカ、綾波レイのキャラクター描写がより明瞭になった。三人それぞれ、いじけ型、自己顕示型、無感動型とタイプは異なるが、「何のためにエヴァに乗るの?」という自問自答→一種の“自分探し”に収斂する点ではいずれも共通する(みんな庵野秀明の分身という噂があるけど)→マリはこうした三人とは異なり「へえ、そんなこといちいち気にする人もいるんだ」とポジティブ型(でも、現段階ではまだ正体不明)。
突っ込めば突っ込むほど様々な薀蓄があるのでしょうが、詳しいことは私にはもう分かりません。復習してないんでだいぶ忘れてるし。
【データ】
総監督:庵野秀明
2009年/108分
(2009年7月11日、新宿ミラノにて)
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