カテゴリー「美術・ヴィジュアル本」の38件の記事

2016年5月 9日 (月)

【映画】「灣生畫家 立石鐵臣」

「灣生畫家 立石鐵臣」

  1941年7月、太平洋戦争の勃発が間近に迫った時期、台北で『民俗台湾』という雑誌が創刊された。1937年には日中戦争が始まって戦時体制が強まりつつあり、台湾では「皇民化運動」が展開されていた。「日本人」として皇国に心身ともに捧げることが当然視された時代状況下、台湾の民俗文化の記録・保存を目的とした雑誌の存在は、それだけでも当局から睨まれてもおかしくなかった。雑誌の刊行を継続することがまずは至上命題。検閲の目を逃れるためには時に国策に迎合する言辞もちりばめなければいけなかったが、いずれにせよ、日本人であるか台湾人であるかを問わず、台湾の文化や歴史に愛着を持つ人々が手探りしながら協力し合って、このささやかな雑誌は1945年1月号まで続いた。

  『民俗台湾』をひもとくと、「台湾民俗図絵」をはじめとしたイラストがひときわ目を引く。的確に対象を捉えつつ、ぬくもりがあって、時にユーモラスなこれらのカットを描いたのは、台湾生まれの日本人画家・立石鐵臣。台湾生まれの日本人のことを「湾生」という。

  立石鐵臣は1905年、台北に生まれた。父の転勤に伴って日本へ帰国。絵画には早くから興味を持ち、才能を示していた鐵臣は国画会に入選するなど若手画家としてのキャリアを着実に積んでいた。1934年、台湾へ戻る。生まれ故郷・台湾の風光を描きたかったからだ。「ちょっと台湾へ行ってきます」というさり気ない言い方が、いかにも彼のパーソナリティーを彷彿とさせる。

  立石は1934年に台湾人を中心に設立された台陽美術協会の創立メンバーになった。台北放送局に勤務していた兄・立石成孚の家に寄寓し、台北帝国大学の生物学者・素木得一の研究室で標本画を描く仕事をしながら、細密画の描法を自ら会得する。また、台北の文壇で勢力を持っていた作家・西川満に頼まれてイラストや装幀も手掛けるようになり、そうした中で後の『民俗台湾』同人たちとも知り合った。

  1945年、日本の敗戦により、台湾は中華民国に接収された。日本人は原則的に日本へ送還されることになっていたが、特殊技能を持つ日本人はしばらく留め置かれた。これを「留用」という。立石も「留用」されて台湾省編訳館に勤務する。ここでは日本統治時代に蓄積された学術的成果を整理・翻訳する作業が行われていた。編訳館には魯迅の親友だった許壽裳など日本留学経験のある開明的な中国知識人が派遣されてきており、彼らは「留用」された日本人にも誠意をもって接してくれたという。私個人としては、こうした形で日本人、台湾人、中国人が協力し合う時期が束の間なりともあったということに関心が引かれているが、1947年の二二八事件等によって時代状況は瞬く間に険悪化していく。編訳館は閉鎖され、許壽裳は暗殺されてしまった。編訳館の閉鎖後、鐵臣は「留用」された日本人の子弟が預けられていた小学校の教員をして、生徒から慕われていたらしい。1948年、最後の引揚船に乗って基隆を離れるとき、埠頭には見送りの台湾人がたくさん集まっていて、「蛍の光」が聞こえてきたという。

  日本へ帰国して以降、彼の画風は抽象的なものになっていく。例えば、眼球が宙に浮いているような「虚空」(1950年)──もともとのタイトルは「孤独」だったという。彼が見ていた心象風景はどのような経過をたどって変化したのだろうか。台湾体験は戦後の彼の軌跡にどのような影響をもたらしたのだろうか──。藤田監督は上映後のスピーチの際、初期の画風と戦後の画風との際立った違いが気にかかり、その中間に位置する台湾時代を探ってみたいと思った、という趣旨のことを語っておられた。立石は自らのことについて直接的に語ることは少なく、絵画を通して語っている。そして、残念ながら、台湾時代に描いた作品の多くは台湾に残してきて、そのまま行方不明になっている。明確な答えはなかなか見えてこないが、むしろ観客一人一人が彼の軌跡がはらんだ意味を考えて行く上で、このドキュメンタリー作品は貴重な手がかりを示してくれている。

  立石が描いた「台湾民俗図絵」のカットは、現在の台湾でも、例えば小物のデザインなど、ふとしたところで見かけることがある。利用した台湾人自身も、その来歴を知らないのかもしれない。また、戦後、日本へ戻った立石は生計を立てるため図鑑や教科書のイラストもたくさん描いており、我々も気づかないところで、実は立石の絵を見ていた可能性は高い。世に知られようと知られまいと、そんなことには頓着せず、立石はとにかく絵を描き続けていた。

  台湾人からすれば、日本統治時代の台湾史は最近まで学校で教えられることがなく、ある意味、足元のことなのに未知の世界も同然であった。また、日本人からすれば、日本統治時代の台湾は、日本と密接な関係があったにもかかわらず、現在は外国であるがゆえになかなか知る機会がなく、これもまた別の意味で未知の世界である。この「湾生画家 立石鐵臣」というドキュメンタリー作品は、日本人の藤田修平監督、台湾人の郭亮吟監督という二人によって共同制作されており、日本人と台湾人、それぞれ異なる探求の視点がうまくかみ合いながら、立石鐵臣という一人の画家を通して日台関係のある一面も見えてくる。私自身も台湾現代史の勉強を続ける上で色々な示唆を受けており、もっと多くの方に観ていただけるよう上映機会が増えることを願いたい。

  作品中には立石鐵臣のご家族や、『民俗台湾』の立役者であった池田敏雄夫人の黄鳳姿さんなどの貴重な証言が含まれている。『民俗台湾』の印刷を請け負っていた、やはり湾生の岡部茂さんや、考古学者の宋文薫さんは今年、惜しくも相次いでお亡くなりになってしまった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

  また、5月21日から東京・府中市美術館にて「麗しき故郷「台湾」に捧ぐ──立石鐡臣展」も開催される。
 

(2016年5月7日、「台灣國際紀錄片影展」、台北・光點華山電影にて)

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2013年9月 3日 (火)

平瀬礼太『彫刻と戦争の近代』

平瀬礼太『彫刻と戦争の近代』(吉川弘文館、2013年)

 戦時下とはすなわち国民生活のすべてが戦争という国家目的に向けて動員された時代であり、個性の発露に価値を置く近代的な芸術観からすれば、確かに不毛の時代であったとも言えるのかもしれない──それこそ、かつては「緑色の太陽」を描いても構わないと個性尊重を謳い上げた高村光太郎が、戦争の興奮状態の中で個人主義を捨てて戦争協力を唱えたように──。

 しかし、作品が制作されていなかったならともかく、この時代にも当時なりの制作活動があった以上、価値観的にどう評価するかは別として、美術史的に空白のままにしておくわけにはいかない。そうした問題意識から本書は戦時下における彫刻家たちの動向をたどっているが、明治以降の時代的流れの中から捉えているので、そもそも彫刻の歴史に疎い私にとっては勉強になった。

 戦時色が濃厚となるにつれ、展覧会で展示するような芸術作品としての彫刻よりも、軍神を称揚するようなモニュメンタルな銅像が制作されるようになった(ただし、1943年以降、銅像を供出する方針が示される)。抽象的な美よりもメッセージの目的を明確にした具体性が重要になっていくわけだが、見方を変えれば、戦意高揚を意図した銅像作品は闘争的政治意識を打ち出したプロレタリア芸術の写実性と、少なくとも表現技法の面では同一地平にあったと言える。実際、大正教養主義の風潮の中で賞賛されたベルギーの彫刻家・ムーニエが1940年代に労働礼賛のシンボルとして復活するなど奇妙な共鳴現象が見られる。

 健民彫塑展示会というのを大政翼賛会が後押ししていた(本書、83ページ~)。男は良い兵士に、女は健康な子供を生むように奨励され、健康の美徳を説く趣旨で行われたものだが、北村西望が男性美の表現だけでは淋しいと女性美も加えようとしたところ、翼賛会から全裸女性だけは遠慮してくれとクレームがついたらしい。当時のナチス・ドイツでも同様に健康という美徳から肉体美が称揚されており(例えば、田野大輔『愛と欲望のナチズム』講談社選書メチエ、2012年)、ナチスほど「先進的」ではなかったにせよ、似たような発想が日本にもあったのが興味深い(なお、日本では1920年代でも男性裸体像はタブーで、検閲で「局部切断」なんてこともあったらしい)。

 日本の敗戦後、「軍国主義」的な銅像は当然ながら撤去の対象となった。しかし、あらゆる芸術作品につきものの問題だが、基準はどうしても曖昧なものとなってしまう。日名子実三の「八紘之基柱」(あめつちのもとはしら)は1946年に「平和の塔」と改名された上でそのまま残され、しかも1965年には「八紘一宇」の文字が復元されている。このように戦意高揚のモニュメントが、平和のシンボルにすり替わってそのまま残存している例は少なくないらしい。そもそも、長崎の「平和祈念像」で有名な北村西望はかつて戦争協力に積極的な彫刻家の一人であったという。私としてはこうした点を断罪するつもりはないが、様々な意味合いで歴史的な連続性を確認できるところに興味が引かれる。

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2013年1月14日 (月)

はらだたけひで『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ──永遠への憧憬、そして帰還』

はらだたけひで『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ──永遠への憧憬、そして帰還』(冨山房インターナショナル、2011年)

 2008年のことだったか、渋谷の文化村ザ・ミュージアムで開催されていた「青春のロシア・アヴァンギャルド」展を見に行ったとき、ピロスマニのことを初めて知った。彼の絵の素朴さは、口の悪い人なら「ヘタウマ」と評するかもしれない。だが、他の前衛画家たちの作品を見ながら歩いた後に目にすると、異世界に踏み込んだような新鮮な感覚があった。構図はシンプルにしてもきれいにまとまっていない、だからこそ不思議と目を釘付けにしてしまうところが気になった。

 ピロスマニのファンは日本にも多いと思う。ただ、彼の人生を知りたくても、放浪生活の中で死んでいったので史料が乏しく、詳しいことはよく分からない。ピロスマニの画集(文遊社、2008年)は出ているが、そもそも彼について書かれた本は当然ながらグルジア語・ロシア語ばかりで、日本語はおろか英語でも彼の評伝が見当たらなかったので、本書が出ていることを知って嬉しかった。

 ピロスマニは居酒屋の看板絵を描きながら、一つ所に定住することなく、放浪の人生を送っていた。お金をためて家庭を持ち、安定した生活をしたらいいのではないか、と勧められても、「鎖で縛られるのは嫌だ」と断ったそうだ。「私はひとりで生まれて、同じようにひとりで死んでゆく。人は生まれたときになにをもってきて、死ぬときになにをもってゆくというのか。私が死んだら、友だちの誰かが埋めてくれるだろう。私は死を恐れていない。人生は短いものだ」と答えたという(本書、80~81ページ)。

 フランスから来た女優に片思いして、彼女の宿泊先の周囲をバラで埋め尽くしたというエピソードは「百万本のバラ」という歌になって知られている。実際にそんなことがあったのかどうかは分からない。ただ、思い込んだら自分の想いを一途に表現しようとする。世間知らずなバカかもしれないが、このようなひたむきさを彼の特徴として見出そうとする気持ちが周囲の人々にあったとは言えるかもしれない。人から何と言われようとも絵を描き続け、貧窮の放浪生活の中で死んでいった純粋さ。テクニック云々という以前に、彼は自らこうあらざるを得ない人生を送った──それが彼の絵にある素朴さと相俟って人の気持ちをうつ。

 1912年、ペテルブルクから来た三人の画学生がグルジアの首都ティフリスへやって来たとき、ある居酒屋で見かけた看板絵に驚いた。そのうちの一人はこう記している。「壁には絵がかかっていた。私たちは、その絵を呆然と見つめた。…目の前には、これまで見たことがない、まったく新しいスタイルの絵があった。私たちはただ黙って立ちつくしていた。…最初の印象があまりに強烈だったからだ。絵の素朴さは見かけだけだった。そこには古代の文明の影響が容易に見てとれた…。」(本書、83~84ページ)

 アヴァンギャルド運動の芸術サークルに属していた彼らが、ピロスマニが誰に習ったわけでもなく自由に描いていた絵から「古代の文明の影響」を見てとったというのが面白い。彼らは西欧近代の絵画が技巧に走るあまり、コンヴェンションルな形式に堕してしまっているという問題意識を持ち、それを打ち破る力を彼らはピロスマニのプリミティヴな画風に求めようとしたのである。早速、モスクワの中央画壇に紹介し、ピロスマニは一躍、時の人となった。また、ヨーロッパ文明の受容の限界を感じて民族文化の復活を模索するグルジアの芸術家たちは、ピロスマニの絵画にグルジアらしさを求めようとした。

 ところが、世評とは気まぐれなものだ。それまで彼を持ち上げてきた新聞に揶揄するような戯画が掲載されたのをきっかけとして、彼に対する評価は急に落ちていく。「彼らに頼んだわけではない。彼らの方から、いろいろしたいと約束してきたのだ。その彼らが新聞で私をからかう。これからは、また以前のように私は生きていく。」(本書、89~90ページ)

 1918年の春、ティフリスの旧市街にある、階段下の物置きのような部屋で衰弱したピロスマニの姿が見つけられた。彼は近くの病院に運ばれたが、間もなくこの世を去った。享年55歳であった。

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2012年12月13日 (木)

二二八事件で処刑された画家、陳澄波について

 陳澄波は1895年、台湾中部の都市・嘉義に生まれた。家庭環境にはあまり恵まれなかったようだが、公費で通える国語学校師範科に入学、ここで美術教師の石川欽一郎に出会って絵画の世界に目覚める。卒業後、公学校で教員をしていたが、美術への情熱やみがたく、30歳にして東京美術学校に入学し、帝展にも入選した。東京美術学校の研究科を卒業後、とにかく家族を養わなければならないため上海の美術学校で教員となる。ここで中国画のスタイルに関心を持ち、影響を受けたが、1932年の第1次上海事変に伴って台湾へ帰郷。台湾で後進を育てるべく様々な活動を展開。1945年、日本の敗戦後は嘉義市の役職に就く。1947年に二二八事件が勃発すると、二二八事件処理委員会のメンバーとして国民党軍側との交渉にあたったが、そのまま捕まってしまい、銃殺された。

 私が陳澄波に関心を持った経緯を振り返ると、以下の通り。

 初めて台湾へ行ったとき、台湾観光の定番ルートだが、まず故宮博物院を見に行った。観光客でごった返した中で息の詰まる思いをした。ふと目に入った展示室がガラガラだったので、一休みのつもりで入ってみた。李澤藩の企画展示だった。風景を描き出した穏やかなタッチの水彩画は、喧騒に倦んだ疲労を癒してくれるようで、そのままゆっくりと見入ってしまった。なかなか良いと思ったのだが、台湾事情について素人だった当時、李澤藩の名前など知るはずもない。略歴を紹介したパネルを見ると、彼の恩師として石川欽一郎なる日本人が挙がっているのが目についたのだが、こちらも初めて見る名前であった。

 気になったので帰国後に調べてみた。李澤藩はどうやら、台湾人として初めてノーベル賞(化学賞)を受賞し、中央研究院長も務めた李遠哲の父親らしいこと、石川欽一郎はもともと水彩画家だが、美術教師として台湾へ赴任したとき近代洋画を本格的に紹介し、多くの台湾人画家を育てたということを知った。また、国会図書館で『アジアレポート』という媒体に森美根子「台湾を愛した画家たち」という連載を見つけ、個性豊かな多くの画家たちが台湾にいたことに気づいた(この連載は後に『台湾を描いた画家たち──日本統治時代画人列伝』[産経新聞出版、2010年]として1冊にまとめられている→こちら)。陳澄波の名前を初めて知ったのはこの時である。

 いずれにせよ、美術という側面から見ても台湾は奥が深そうに感じたが、台湾美術史について日本語で書かれた文献は限られているので中文書も何冊か手に取ったり(例えば、李欽賢《台灣美術之旅》雄獅図書、2007年→こちら李欽賢《追尋台灣的風景圖像》台灣書房、2009年→こちら)、折を見ては、新竹の李澤藩美術館、三峡の李梅樹美術館などに足をのばしたりもした。

 そうした中で、頼明珠《流轉的符號女性:戰前台灣女性圖像藝術》(藝術家出版社、2009年→こちら)を読んだ。日本統治期に画家を志した台湾女性の多くが、①伝統的な儒教道徳による男尊女卑、②植民地統治の政治的・社会的環境といった事情で挫折せざるを得なかったことをカルチュラル・スタディーズやフェミニズムの観点から分析するのが本書の趣旨であるが、第3章「父権與政権在女性畫家作品中的効用」が陳澄波に関わる。ここで取り上げているのは、陳澄波の娘でやはり画家を志した陳碧女である。彼女は父からじかに西洋画の手ほどきを受けたが、裏返せば父の模倣に過ぎない→父の束縛から逃れられなかった。その父は二二八事件で処刑されてしまった→政治の圧迫を目のあたりにして彼女は絵筆を折った、と指摘されていた(なお、著者の頼明珠は村上春樹作品の翻訳者とは同姓同名の別人らしい)。

 周婉窈《台灣歷史圖說 増訂本》(聯經出版、2009年→こちら)でも陳澄波の存在が気になった(邦語訳では初版が『図説 台湾の歴史』[平凡社、2007年]として刊行されている)。中文原書の増補改訂版のカバー表1に陳澄波の作品「嘉義公園」が使われている。緑鮮やかでのびやかな明るさがいかにも南国らしい情緒を醸し出しているのが実に印象的である。カバー裏(表4)に戦前、台湾に暮らしたフォービズムの画家・鹽月桃甫による「ロボを吹く少女」が使われていることも含めて、こうした作品の選択そのものに本書の意図が象徴的に表現されているように思われた。ロボ(口琴)は台湾原住民の多くで使われていた楽器であり、従って本書は原住民の歴史を重視していること、それを描いた日本人画家の作品を敢えて取り上げているのは、日本統治時代を否定/肯定という政治的対立軸を超えたところで描き出そうとしていることを表しているのではないかと受け止めた。

 それでは、陳澄波の「嘉義公園」は何を表しているのか? 周婉窈の歴史エッセイ集《面向過去而生》(允晨文化出版、2009年)に収録された〈高一生、家父和那被迫沈默的時代──在追思中思考我們的歷史命題〉は、高一生が国民党時代の白色テロで処刑された暗い時代について自らの父親の来歴と重ね合わせながら語る内容となっているが、そうした時代を象徴する一人として陳澄波の名前も挙げている。

 著者の周婉窈は台湾中部の都市・嘉義の出身である。小学生の頃、絵を描くのが得意だったが、同郷の傑出した画家である陳澄波のことを、大学で歴史を専攻するまで彼女は全く知らなかったという。絵が大好きな少女に、なぜ大人たちは陳澄波のことを教えてくれなかったのか? 彼は二二八事件で処刑されたため政治的タブーとなり、国民党政権による白色テロを恐れる大人たちは、彼の名前を口に出すことすら憚っていたからである。幼い頃から自らの目に馴染んでいた嘉義の風景を、陳澄波という画家が大胆な色遣いで描き出していたことを知るきっかけすら彼女にはなかった。つまり、すぐ身近なところにあったはずの貴重な歴史の記憶を、自分たちは全く共有していない。このような歴史の空白は極めていびつなことではないのか? 陳澄波の「嘉義公園」をカバーに用いたことからは、そうした個人的な体験も踏まえた上で、かつての恐怖政治によってもたらされた歴史の空白を取り戻そうという問題意識がうかがえる。

 高一生とは、嘉義に比較的近い阿里山周辺に暮らす原住民ツォウ(鄒)族のリーダーだった人物で、民族名はUyongu Yatauyungana、日本名を矢多一生という。日本統治時代に近代的な教育を受け、教員・警察官としてツォウ族の近代化や生活水準の向上に尽力し、戦後も引き続きツォウ族のリーダーとして活躍した。国民党が掲げる三民主義に共鳴、とりわけその中の民族主義から原住民自治という理念を導き出したが、国民党政権からにらまれて1954年に処刑された。彼は音楽家でもあり、多くの歌曲をつくっている。

 陳澄波は1930年代前半に上海へ行って中国画の技法を吸収しようとしたことがあったので、台湾の中華民国への帰属は、彼自身にとっても今後の芸術活動の範囲が広がるチャンスだと考えて歓迎していた。また、上述のように高一生もまた、三民主義に基づいて原住民自治を実現できるのではないかという期待から中華民国を支持していた。それにもかかわらず、彼らは共に二二八事件や白色テロによって非業の死を遂げざるを得なかった。彼らが「中国」を拒絶したのではなく、「中国」によって彼らが拒絶されたという成り行きは、あまりにアイロニカルな悲劇であったとしか言いようがない。

 陳澄波については《台湾百年人物誌 1》[玉山社、2005年]所収の〈血染的油彩 陳澄波〉(→http://docs.com/PL0L)を、また、高一生については同じく《台湾百年人物誌 1》所収の〈高山船長 高一生〉(→http://docs.com/PJC2)と、周婉窈《面向過去而生》所収の〈高一生、家父和那被迫沈默的時代──在追思中思考我們的歷史命題〉(→http://docs.com/PHH7)をそれぞれ訳出しておいた。いずれも原著者の許諾を得ているわけではないし、そもそも訳文がこなれていないので、使いまわし等はご遠慮願いたい。あくまでもご参考程度に。

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2012年2月11日 (土)

野嶋剛『謎の名画・清明上河図──北京故宮の至宝、その真実』

 東京国立博物館で現在開催中の「北京故宮博物院200選」も会​期がそろそろ終わりに近づいているが(2月19日まで)、行列待​ち4~5時間と聞き、おそれをなして多分行かずじまいになりそう​だ。展示の目玉は「清明上河図」。ただし、HPで確認したところ​本物の展示は1月24日までで、以降はレプリカらしい。

 野嶋剛『謎の名画・清明上河図──北京故宮の至宝、その真実』​(勉誠出版、2012年)を読んだ。「清明上河図」は北宋の張擇​瑞が描いたとされる。模本も世界中に散らばっており、張擇瑞のオ​リジナルに触発されて後代に描かれた作品も含め、この絵画の様式​的ジャンルを「清明上河図」と総称していると捉えても必ずしも間​違いとは言えない。名画の誉れが高いのはもちろんだが、題名の由​来も諸説あるらしいし、色々と分からないことも多いようだ。たか​が一幅の絵画とはいえ、そこにまつわる謎の数々はスリリングで興​味が尽きない。宮廷から盗まれては戻ってきて…と何度も繰り返された流転の来歴、絵画中に​写実された宋代の生活風景──本書はこの作品が背景に持つストー​リーを存分に語り出してくれる。著者による『ふたつの故宮博物院​』(新潮選書、2011年)と合わせて読むといっそう興味も深ま​るだろう。

 「清明上河図」は張擇瑞が北宋の徽宗(画家として有名だった皇​帝、靖康の変で金に捕まった)に献上されて宮廷の収蔵品となった​が、金によって北方に持ち去られる。王朝が代わって元代にいった​ん盗み出されたが、持ち主を転々とした末、明代に宮廷に戻ってき​た。しかし再び盗まれ、清代に三たび戻る。辛亥革命後、紫禁城に​蟄居していた溥儀の命令で弟の溥傑が持ち出し、天津の張園にしば​らく留まった後、満洲国の成立と共に新京(長春)に移転。戦後の​混乱でしばらく行方知れずとなったが、1950年、今度は瀋陽で​楊仁愷の目利きによって見つけ出される。遼寧省博物館に所蔵され​たが、1953年に北京の故宮博物院に貸し出され、そのまま故宮​博物院への所属が決められた。故宮博物院の収蔵品の大半は蒋介石​によって台湾に持ち出され、ほとんどスカスカに近い状態となって​おり、しかも中国美術の粋たる書画の一級品がとりわけ少なかった​からという事情があるらしい。

 「清明上河図」で描かれているのは当時の開封の街並みである。​文人好みの花鳥風月ではないため、中国の文化的伝統の中で言うと​決してハイクラスに位置づけられるわけではない。それでもこの作​品が長らく注目を浴びてきたのは、そこにヴィヴィッドに描き出さ​れた庶民の生活光景が見る者の眼を引き付けてきたからであろう。​本書の後半、作品中のモチーフを手がかかりに当時の料理や日常生​活も再現されているところが面白い。開封にあるテーマパークや、​CGで再現された「動く清明上河図」などに現代の中国人が興味津​々たる表情を示しているのもむべなるかな。

 本書を読んでいるうちに実物を見たくなってきた。北京に行く機​会があったら是非参観しに寄ってみよう。

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2011年6月27日 (月)

秋山孝『中国ポスター/Chinese Posters』、武田雅哉『よいこの文化大革命──紅小兵の世界』

 秋山孝『中国ポスター/Chinese Posters』(朝日新聞出版、2008年)は中華人民共和国成立から改革開放、そして四川大地震までに至るポスターの変遷を見ながら中国現代史をたどる。図版が豊富でなかなか見ごたえある。ほとんど例外なく人物画中心で、みんなキリッとした表情。こんなのばかり続くと、かえって不気味ではあるのだが…。人物なしのデザイン中心のポスターは本当につい最近になるまで現れないのだな。それから、どの時代も紅色がふんだんに使われ、とりわけ文革期、赤旗ブンブン振り回してた中、「毛主席安源へ」のさわやかな青色には独特な清涼感を感じてしまった(この絵は牧陽一『中国現代アート』[講談社選書メチエ、2007年]でも見覚えある)。華国鋒をメインにしたプロパガンダ・ポスターはどう見ても様にならず、毛沢東のキャラの立ち方はやはり尋常ではなかったのかと再確認。林彪はどれも帽子をかぶっているのはなぜか。禿頭は腐敗した悪人の決まりキャラなので、帽子で禿を隠さねばならなかったそうだ。失脚・死亡後、林彪批判のポスターでは帽子を取り上げられ、禿頭が強調されることになる。

 武田雅哉『よいこの文化大革命──紅小兵の世界』(廣済堂出版、2003年)が取り上げるのは文革期の少年向け雑誌『紅小兵』。紅衛兵の少年少女、いわばピオニールたちが読者層。ワイワイ、ドタバタ、いたずらしたいお年頃、そんな子どもたちにとってオトナいじめという面白い遊びの格好な口実となったのが文化大革命、と言ったら言い過ぎか? その時々の風向き次第ではあっても、プロパガンダを真に受けた生真面目な突き上げ、これがまた妙におかしみを感じさせてしまうのは、キッチュな時代のせいか、著者の軽妙な筆力のおかげか。ちなみに、本書でも林彪を例として禿頭の図像学に言及あり。

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2011年3月21日 (月)

ツヴェタン・トドロフ『日常礼讃──フェルメールの時代のオランダ風俗画』

ツヴェタン・トドロフ(塚本昌則訳)『日常礼讃──フェルメールの時代のオランダ風俗画』(白水社、2002年)

 サブタイトルにフェルメールの名前が特筆されているが、原著にはない。日本での知名度を考慮してのことであり、あるいはフェルメール関連の展覧会に合わせて邦訳が刊行されたのだろうか。もちろんフェルメールが17世紀オランダにおいて卓越した画家であったことは言うまでもないが、当時のオランダ画家たちに共有された眼差しの解釈を問題意識とする本書にとってはあくまでも画家たちの一人であるにすぎない。

 キリスト教世界においては宗教画がしばらくの間主流をなしていた。人々の日常的な営みが描かれなかったわけではないが、あくまでも宗教的な寓意や警句、教訓に従属した意味づけがなされるのが常であり、風俗画、風景画、静物画などが宗教的モチーフから独立したジャンルとして確立し始めたのは16世紀以降と言われる。当時のオランダ絵画では市民の肖像画や日常生活の一瞬を切り取った室内画が多く、中には恋の駆け引きから賭け事、飲酒、売春宿など決して道徳的とは言えない題材も目立つ。プロテスタント国として独立したばかりの当時のオランダの市民は宗教的・道徳的には敬虔であり、道徳性はもちろん画家たちにも共有されていた。むしろ道徳的メッセージは自明なものとされていたのと同時に、たとえ道徳的とは言い難いものであっても人間の表情や仕草そのものがはらむ情感との緊張関係によって美的表現の奥深さが表われたのだと捉えられる。

「ヨーロッパの伝統(おそらくはヨーロッパだけに限らないと思われるが)は、二元論的世界観の影響を色濃く受けている。善と悪、精神と肉体、気高い行為と卑劣な行為といった、際立った対立を用いて世界を解釈し、その一方を称賛し、他方をこきおろすという世界観である。キリスト教そのものが、あのように異端と戦ってきたのであり、この二元論的世界観に毒されるがままになってきた。オランダ絵画は、この二元論的ビジョンが打撃を受けた、われわれの歴史上珍しい一時期を提示している。絵を描いていた個人の意識において二元論が克服されていたわけでは必ずしもないが、絵それ自体のうちでは二元論は乗り越えられていた。美は卑俗な事物の彼方や、その上にあるのではなく、卑俗な事物のまさしくそのただなかにあるのであり、事物から美を抽出し、すべての人にそれを明らかにするためには眼差しを向けるだけで充分なのだ。オランダの画家たちは、束の間、ある恩寵──少しも神からやってくるものではなく、少しも神秘的なところのない恩寵──に触れられたのであり、そのおかげで物質にのしかかる呪いを払いのけ、物が存在するという事実そのものを享受し、理想と現実を相互に浸透させ、したがって人生の意味を人生そのもののなかに見いだすことができたのである。彼らは、伝統的に美しいとされる生活のある一片を、その地位を占めてもよさそうな別の一片に置き換えたのではない。彼らは生活の隅々にまで美が浸透しえることを発見したのである。」(170~171ページ)

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2011年3月 8日 (火)

岡田温司『マグダラのマリア──エロスとアガペーの聖女』『処女懐胎──描かれた「奇跡」と「聖家族」』『キリストの身体──血と肉と愛の傷』

 キリスト教でいう“受肉”とは、見えざる宗教的真実がキリストという人間の形を取ってこの世で可視化されたものだとされている。しかしながら、形を持つとは無限なものを有限へと狭めることであって、聖なるもの、究極的に至高な神的存在を、絵画なり、彫刻なり、明瞭な形を持つ造型によって果たして表現し得るものなのだろうか。ここには本来的に矛盾があるわけだが、むしろ矛盾であるがゆえに何がしかの納得を求めて様々にヴァリエーションを伴った宗教芸術がたゆまず作られ続けてきたと言えるのだろうか。

 岡田温司『マグダラのマリア──エロスとアガペーの聖女』(中公新書、2005年)、『処女懐胎──描かれた「奇跡」と「聖家族」』(中公新書、2007年)、『キリストの身体──血と肉と愛の傷』(中公新書、2009年)の「キリスト教図像学三部作」は、西欧キリスト教絵画における図像学的系譜を一つ一つ解析しながら、それらの背景に込められた意味合いを検証していく。

 悔い改めた聖なる娼婦、マグダラのマリア。聖母マリアの処女懐胎とは素朴に生物学的な意味で不可思議であるが、であるがゆえに「無原罪」、「~がない」という形には取りえないものの定式化。そして磔刑像、聖遺物、何らかの手掛かりによってイエスとの共感を求めようとしてきた数々のイメージ。様々な聖画像の中にはもともと新約聖書に記述がなく、後の歴史的解釈によってふくらまされたものもあるらしい。こうした芸術的造型は単に教義上の要請から作られたのではなく、社会的現実における葛藤の中からそれぞれの時代における人々の思いが反映されており、それはさらに後代には芸術的イマジネーションの源泉として受け継がれていった。こうした流れを大きく捉え返していくと、造型イメージを通したヨーロッパ精神史の一つのスケッチとして浮かび上がってくるところが興味深い。

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2011年2月23日 (水)

『村山知義とクルト・シュヴィッタース』

マルク・ダシー、松浦寿夫、白川昌生、塚原史、田中純『村山知義とクルト・シュヴィッタース』(水声社、2005年)

 2005年に東京藝術大学陳列館で開催された「日本におけるダダ──マヴォ/メルツ/村山知義/クルト・シュヴィッタース」という展覧会のカタログとして作られた本らしい。1910年代後半から20年代にかけてヨーロッパと日本で同時並行的に展開したダダ的なものを、村山たちのマヴォ(MAVO)、シュヴィッタースたちのメルツ(MERZ)との対比によって見ていこうという趣旨。松浦「遅延の贈与:意識的構成主義とは何か」、白川「そして近代、さらに近代:横断する村山知義」、塚原「根源の両義性:〈ダダ〉から〈メルツ〉へ」、田中「喜ばしき機械:「メルツ」と資本主義の欲望」、ダシー「村山知義とクルト・シュヴィッタース:マヴォ/メルツ」、以上の論考で構成。

 なお、シュヴィッタースは1887年生まれで1918年にダダと接触、ベルリンで抽象絵画を展示してデビュー。ただし、ヒュルゼンベックたちベルリン・ダダから排除された後、MERZという独自の表現活動を展開。DADAとはつまり、何ものをも意味しないことの記号として無作為に選ばれた言葉だが、MERZも同様に新聞広告から切り抜いて出てきた記号ということになる。

 塚原論文はダダからメルツが登場してくる経緯を簡潔に解説。それから、ページの半分以上を占めて本書の本論とも言うべきダシー論文は日欧比較による本格的な村山知義論となっている。「村山とツァラの並行関係を、仏教を介して設定することは魅惑的なことではある」という一文があり興味を持ったが、それ以上詳しくは展開されていないのが残念。トリスタン・ツァラがたまに仏教へ言及しているのは確かで、それは私自身大いに関心がそそられているポイントではあるのだが、村山はどうだろうか。そういうにおいは村山からはあまり感じられないな。仏教を媒介にダダと結び付けるならむしろ辻潤だろうというのが私自身の感触だ。一応断っておくが、私はオリエンタルなもの、東洋思想的なものへと強引につなげたいということではないのであしからず。ダダというのは要するに「何も意味しない」何かのかりそめの表現。ところで、西洋思想の中には「何も意味しない」ことを表現する適切な語法がない。だからこそDADAとかMERZとか鬼面人を驚かす体のパフォーマンスへと彼らは突っ走っていったわけだが。代わりに何かないかなあ、と探してみたら、仏教ならいけそうだ、そんな感じと言ったらいいだろうか。

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2011年2月20日 (日)

酒井健『シュルレアリスム──終わりなき革命』

酒井健『シュルレアリスム──終わりなき革命』(中公新書、2011年)

 第一次世界大戦が引き起こしたカタストロフィは、それが高度な産業化・機械化によって増幅された惨禍であったがゆえに近代文明に対する懐疑をもたらし、この精神史的動揺の中から様々な思想潮流が生まれる。シュルレアリスムもそうした中にあった。精神科医としてキャリアを始めたアンドレ・ブルトンも野戦病院へ駆り出され、そこで兵士たちが苛まされる狂気を目のあたりにし、フロイトの研究からの示唆もあってとりわけ自動記述という現象に関心を持つ。つまり、人間の無意識の領野を抑圧してきた「理性」に基づく書き言葉中心の世界=近代に対して亀裂を入れ、「超現実」における極限的な「未知なるもの」を、矛盾していてもその矛盾のあるがままに表現のレベルへと引き出していこうとした。そうした点でシュルレアリスムは脱近代を志向した芸術運動であった。

 本書では、シュルレアリスムと関わりを持ちながらもややスタンスを異にした人々、例えばエルンスト・ユンガー、トリスタン・ツァラ、ジョルジュ・バタイユ、ヴァルター・ベンヤミンなどとの対比によってシュルレアリスム本流(という言い方を著者はしないが)のブルトンやアラゴンたちが逆照射される。巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学芸文庫、2002年)もイメージを前面に押し出す形で面白い本だが、本書はもっと良い意味で思想史的に堅実な書き方で説得力を持つ。

 実は私はブルトンという人があまり好きではない。シュルレアリスムをスローガンとして掲げながらも、実際生活では党派を組んで組織化を図り、自分についてこない人々への非難攻撃を行なったところに偽善的な嫌味を感じるからだが、さらに大きな問題がある。せっかく非理性的な何かを意識下から引きずり出しても、言語表現というレベルではそれをフランス語ならフランス語らしくきちんとした文章に修正しようとする契機が出てきてしまう。未開社会で見られるような矛盾を矛盾のあるがままに放っておくということは理念として語ることはできても実際には難しい。つまり、イメージそのものは荒唐無稽でも構文的には整合的にしてしまう。矛盾したものを整合的なものへと仕立て直さねば気がすまない習性、この点で脱近代を志向したブルトンも近代の傾向から逃れられなかった。そうした葛藤からブルトンを否定してしまうのではなく、むしろ「近代」なるものの強烈な呪縛を見出すという本書の着眼点に興味を持った。

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