カテゴリー「ロシア・コーカサス・中央アジア」の39件の記事

2014年12月14日 (日)

下斗米伸夫『プーチンはアジアをめざす──激変する国際政治』

下斗米伸夫『プーチンはアジアをめざす──激変する国際政治』(NHK出版新書、2014年)

  一部メディアで「新冷戦」という表現も用いられる近年の国際政治の中でロシアはどのような外交政策を進めていくと考えられるのか。本書はウクライナ情勢、ロシア外交のロジック、そして外交政策を実質的に取り仕切るプーチン大統領個人の考え方を分析した上で、「脱欧入亜」という特徴を指摘する。なお、ロシアの「東方シフト」についてはドミートリー・トレーニン(河東哲夫・湯浅剛・小泉悠訳)『ロシア新戦略──ユーラシアの大変動を読み解く』(作品社、2012年)でも指摘されている(こちらを参照のこと)。

  ロシアが「東方シフト」を進める背景は何か。第一に、プーチン大統領の個人的背景に注目される。彼の家系をたどると異端とされた「古儀式派」にあるとされ(下斗米伸夫『ロシアとソ連 歴史に消された者たち──古儀式派が変えた超大国の歴史』[河出書房新社、2013年]を参照。こちらで取り上げた)、古儀式派にはもともと東方志向があったとされる。また、彼には保守主義やユーラシア主義の思想的影響も見られるという。第二に、ロシアの人口は西に偏っているのに対し、資源は東に偏っており、シベリアから沿海州にかけての将来性をにらんで開発政策を進めている。第三に、世界経済の中心が大西洋から太平洋へ移りつつある中で東アジアとの関係構築が重要となっているが、他方で中国の台頭への安全保障上の警戒心も挙げられる。

  ロシア経済では資源輸出の比重が高く、経済の近代化・多角化が必要とされているが、ウクライナ情勢等の影響でそのために必要な支援を欧米から受けるのは難しい。中国は市場としては魅力的だが、必要な技術的支援は見込めない。そこでプーチン政権が最も期待しているのが日本だという。プーチン政権は、日本に対して時に強硬姿勢を取るように見えることもあるが、基本的には日本重視の姿勢が見られ、北方領土問題解決の意欲を持っていると指摘される。

  私自身の関心としては、現代ロシアの外交戦略にもユーラシア主義の思想的影響が色濃く表れているという点が目を引いた。ユーラシア主義についてはこちら浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』(成文社、2010年)を紹介しながら触れたことがある。

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2014年10月12日 (日)

横手慎二『スターリン──「非道の独裁者」の実像』

横手慎二『スターリン──「非道の独裁者」の実像』(中公新書、2014年)

 歴史上の政治指導者を取り上げて評伝を描く難しさというのは単に政治イデオロギー上の制約に限らない。パーソナリティーについて史料不足の部分を補うため、例えば精神分析学の手法を用いるといったこともかつて流行ったが、実際には印象論に過ぎない議論に学問的な装いを凝らす程度に終わってしまうケースもしばしば見受けられた。とりわけスターリンのように“冷酷無情な独裁者”というイメージが定着している場合にはなおさらであろう。

 本書の特色は、ロシア革命前後から冷戦初期に至る政治的過程を一つ一つ確認しながら、それらとの相互影響の中でスターリンの考え方やパーソナリティーの変化を辿っているところにある。こうした描き方が可能なのは、ソ連という中央集権的な体制において指導者の決断が常に重要な意味を帯びたこと、指導者であり続けるためにスターリン自身が熾烈な権力闘争を勝ち抜いたこと、第二次世界大戦など国家的危機に際して強力な指導者が不可欠であったこと、こうした様々な背景が考えられるだろう。いずれにせよ、本書はスターリンを主軸に据えたソ連政治史として読むこともできる。

 ソ連崩壊後に利用可能となった新史料や、それらに基づいて進展した研究成果を本書は取り込み、従来貼られてきたレッテルとは異なるスターリン像を描き出している。例えば、青少年期の書簡を通して垣間見えるスターリンは、知的に多感でこそあれ、“冷酷非情”というステレオタイプとは明らかにかけ離れている。それだけに、革命運動へ身を投じて以降の厳しい政治闘争を通して彼が「学び取った」ことの大きさが印象付けられる。

 1920年代におけるソ連の政策論争では大まかに言って二つの方向性があり得た。第一に、農民を重視して彼らの資本蓄積を促し、それを基に外貨で機械を輸入して緩やかな工業化を進める路線。第二に、農業収穫物を低価格で徴発し、農民の犠牲で急速な工業化を推し進める路線。スターリンは当初、前者の路線を採り、一国社会主義の主張と共に党内の支持を得た。ところが、1920年代末、こうした路線がうまくいかなくなると後者に転換して農業集団化、経済五ヵ年計画を強引に推進する。無理な農業集団化は膨大な餓死者を出したが、他方でこの時の急進的工業化によってこそ第二次世界大戦に耐え抜く国力が備わったとされる。ただし、おびただしい人命を犠牲にした事実は無視できず、責任を糊塗しようとしたことが大粛清の要因となった。

 海外では悪評著しいスターリンだが、ロシア国内ではスターリン評価が真っ二つに割れている状況をどのように考えたらいいのか?と本書の冒頭で問題提起されている。すなわち、スターリンなしで第二次世界大戦を持ちこたえることができたのか? ならば、農業集団化や大粛清によるおびただしい犠牲を正当化できるのか? 歴史に対する倫理的評価の問題は解答がなかなか難しい。スターリン再評価のような議論に対して本書は抑制的である。ただし、スターリン批判=西側の価値観に合致したリベラル派/スターリン擁護=頑迷な保守派という単純な二分法が西側諸国では広くみられ、このような善悪二元論ではロシア国内が抱える葛藤を掴みきれないという指摘は少なくとも念頭に置いておく必要があろう。

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2014年9月19日 (金)

廣瀬陽子『未承認国家と覇権なき世界』

廣瀬陽子『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス、2014年)

  紛争が膠着状態に陥りつつあるウクライナ情勢。親ロシア派が多数を占めるクリミア半島はクリミア共和国として独立宣言をした後にロシアへ併合され、同様に東部ではドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国が独立を宣言し上でノヴォロシア人民共和国連邦を結成した。それぞれ「共和国」を名乗ってはいても、国家として認知したのはロシアだけ。このように自ら主権国家と宣言しながらも国際的な承認を受けていない自称「国家」を「未(非)承認国家」という。

  ウクライナ情勢のケースからもうかがわれるように、多民族状況において不満を感じたマイノリティーが自前の国家を持つことを求める(もしくは隣の同族との統合を求める)際に「未承認国家」がしばしば現れる。民族紛争が収まらない現代の国際情勢を見渡す上で必須のキーワードと思われるが、なかなか適切な解説書が見当たらなかった。

  そもそも「国家とは何か?」という問いに一言で答えるのは困難だが、一般的にはモンテヴィデオ宣言で示された領土、国民、主権という3要件が必要とされる。こうした要件を備え、外交的な働きかけをしながらも国家承認を受けられない状態の「国家」が「未承認国家」となる。「未承認国家」は民族自決の原則を踏まえて自らの権利を主張する。他方で、国際社会は現行のシステムの変更に伴う混乱を避けるため、むしろ領土保全の原則の方を優先させる傾向がある(ただし、第一次世界大戦後、第二次世界大戦後、冷戦終結後の時期は逆に民族自決の原則を優先させる風潮があった)。

  他方で、コソヴォが欧米から国家承認を受けたケースは「パンドラの箱をあけてしまった」と本書では指摘されている。欧米は領土保全の原則を堅持して基本的には「未承認国家」の国家承認には消極的だが、コソヴォに関しては例外として認めてしまった。こうしたダブルスタンダードは、その後、ロシアが自らの戦略上の事情からグルジア内部のアブハジアと南オセチアを国家承認した際に自己正当化の理由にも使われてしまう。

  かつてはパトロン国家の傀儡政権(例えば、旧「大日本帝国」が作り上げた「満洲国」)となる場合も多かったが、近年はパトロン国家の意向にかかわらず独自の主張で動くケースも増えている。「未承認国家」では権威主義的支配が敷かれ、闇経済が跋扈するなど多くの問題が見られる一方で、住民からの支持を調達し、対外的に正統性をアピールする必要から民主化・自由化に向けて努力するケースもあるというのが興味深い。具体例としてはコソヴォと台湾が挙げられている。

 「未承認国家」の生成原因や内実はケース・バイ・ケースで一般論はなかなか難しいし、解決方法も模索状態だ。「共同国家」という提案もあるようだが、極端な話、現状維持が最も現実的という悲観的な考え方もあり得る。

  著者はコーカサスをはじめ旧ソ連地域の研究者であり、この地域には「未承認国家」が多数出現している。本書は主に旧ユーゴのコソヴォ、旧ソ連モルドヴァの沿ドニエストル共和国、アルメニア・アゼルバイジャン紛争の焦点となっているナゴルノ・カラバフ共和国、グルジア紛争といった具体的な事例の経過を検討しながら、この問題の複雑な難しさをヴィヴィッドに描き出し、より広いコンテクストで把握するためのたたき台となる議論を提示してくれている。

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2013年5月 5日 (日)

下斗米伸夫『ロシアとソ連 歴史に消された者たち──古儀式派が変えた超大国の歴史』、中村逸郎『ろくでなしのロシア──プーチンとロシア正教』

下斗米伸夫『ロシアとソ連 歴史に消された者たち──古儀式派が変えた超大国の歴史』(河出書房新社、2013年)

 ロシア革命前後の時期、宗教的・オカルト的な雰囲気が政治史の随所に見られることはよく知られているが、本書が注目するのは古儀式派である。ボルシェヴィキ指導層でも、例えばカリーニン、ルイコフ、キーロフ、モロトフ、グロムイコ、スースロフなど多くの人々に古儀式派との関連がうかがわれるという。レーニンはボンチ=ブルエビッチを通して古儀式派との連携を模索したこともあったし、彼がテロを避けて晩年をすごした屋敷は古儀式派の村にあった(そこではプーチンの祖父が料理人をしていた)。ところが、マルクス主義的な無神論のため、そうした記録はたいてい抹消された。本書は史料的制約を補いながら論証を進め、宗教という観点からソ連史を描きなおす。

 1666年、ロシア正教会のニーコン総主教は儀式をギリシャ風に統一する改革を行った。当時はオスマン帝国によって1453年に東ローマ帝国が滅ぼされ、1683年には第2次ウィーン包囲が行われるという時代状況にあり、オスマン帝国の進撃を抑えるために新興勢力ロシアを利用しようというギリシャ系聖職者たちの目論みがニーコン改革の背景にあった。キリスト教世界全体の危機感から彼らはカトリックとの連携も深め、カトリックの影響が強いウクライナをロシアに統一させようとする構想も浮上する。つまり、対外的にはイスラム勢力の拡大を防ぐためロシアの大国化が期待され、ロシア内部においては正教会の国家に対する優位を確立しようとする思惑から儀式改革が実施された。

 ところが、ニーコン改革に対して伝統派が猛反発し、正教会から分離した彼らは古儀式派(分離派)と呼ばれる。さらに17世紀のピョートル大帝による西欧化改革によって伝統的政治機構が解体され、ロシアがユーラシア全域に向けて拡大するに伴い、正教会は帝国の拡張と多民族化をイデオロギー的に支えることによって帝政との一体化を進める一方、ロシア人の自己疎外という状況も現れる。国家に従わない古儀式派は弾圧され、ロシア社会において正教会や国家に抵抗する心性を生み出していった。ピョートル改革によってもたらされた政治機構を「アンチクリスト」とみなし、それへの抵抗精神が宗教的メシアニズムと結びついて革命、ニヒリズム、共産主義につながったとベルジャーエフは捉えていた。

 国家から疎外されていた古儀式派の人々は生きていくため自前の経済活動を行わなければならなかったが、その中から実業面での成功者も現われた。古儀式派の終末論的世界観は現世否定のエートスをもたらし、それがマックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘されたのと同様の経済倫理として作用していたというのが興味深い。また、古儀式派は教会スラブ語を典礼で用いていたので識字率が比較的高かったという。こうして成長した古儀式派資本家は革命派に資金提供をした。また、革命派は古儀式派の地下出版ネットワークと協力関係にあった。古儀式派も様々な宗派に分かれていたが、ソビエトという共同体組織も私有財産を否定して共同生活する宗派に求めることもができるらしい。

 もちろん、古儀式派がそのまま共産主義革命に流れ込んだわけではなく、複雑な動向がそこには絡まりあい、同床異夢の関係にあった。スターリン時代に集団化政策が進められると、古儀式派もつぶされていく(ただし、第二次世界大戦でドイツ軍に攻め込まれた、いわゆる「大祖国戦争」において、愛国主義を鼓舞するため古儀式派への抑圧は緩和され、動員が図られた)。帝政時代にはロシア正教会に従わなかったため、ソ連時代には無神論イデオロギーによって古儀式派は抑圧されてきたが、ソ連崩壊によるロシアとウクライナとの分離は、ニーコン改革以前の状態に戻ったことになる。古儀式派自身が政治的影響を与えたかどうかは分からないが、ロシアという版図の枠組み、伝統と近代の葛藤、帝政期からソ連崩壊に至るまでの様々な問題が古儀式派を補助線として引いてみると浮かび上がってくる。

 中村逸郎『ろくでなしのロシア──プーチンとロシア正教』(講談社、2013年)は現代ロシアと正教会との関係に焦点を当てている。ソ連崩壊後、宗教的自由は認められたものの、ロシア正教会は信者数の低迷で財政難にあえいでいた。そこで現在の総主教、キリール1世は正教会がビジネスに手を染めることを表明、政府に頼み込んで優遇措置を受けたが、利権の巣窟として政商や政治家が群がる事態となっている。また、プーチン政権に頭が上がらないまま、愛国主義の高揚など政権の思惑に利用されているという。

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2013年1月14日 (月)

はらだたけひで『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ──永遠への憧憬、そして帰還』

はらだたけひで『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ──永遠への憧憬、そして帰還』(冨山房インターナショナル、2011年)

 2008年のことだったか、渋谷の文化村ザ・ミュージアムで開催されていた「青春のロシア・アヴァンギャルド」展を見に行ったとき、ピロスマニのことを初めて知った。彼の絵の素朴さは、口の悪い人なら「ヘタウマ」と評するかもしれない。だが、他の前衛画家たちの作品を見ながら歩いた後に目にすると、異世界に踏み込んだような新鮮な感覚があった。構図はシンプルにしてもきれいにまとまっていない、だからこそ不思議と目を釘付けにしてしまうところが気になった。

 ピロスマニのファンは日本にも多いと思う。ただ、彼の人生を知りたくても、放浪生活の中で死んでいったので史料が乏しく、詳しいことはよく分からない。ピロスマニの画集(文遊社、2008年)は出ているが、そもそも彼について書かれた本は当然ながらグルジア語・ロシア語ばかりで、日本語はおろか英語でも彼の評伝が見当たらなかったので、本書が出ていることを知って嬉しかった。

 ピロスマニは居酒屋の看板絵を描きながら、一つ所に定住することなく、放浪の人生を送っていた。お金をためて家庭を持ち、安定した生活をしたらいいのではないか、と勧められても、「鎖で縛られるのは嫌だ」と断ったそうだ。「私はひとりで生まれて、同じようにひとりで死んでゆく。人は生まれたときになにをもってきて、死ぬときになにをもってゆくというのか。私が死んだら、友だちの誰かが埋めてくれるだろう。私は死を恐れていない。人生は短いものだ」と答えたという(本書、80~81ページ)。

 フランスから来た女優に片思いして、彼女の宿泊先の周囲をバラで埋め尽くしたというエピソードは「百万本のバラ」という歌になって知られている。実際にそんなことがあったのかどうかは分からない。ただ、思い込んだら自分の想いを一途に表現しようとする。世間知らずなバカかもしれないが、このようなひたむきさを彼の特徴として見出そうとする気持ちが周囲の人々にあったとは言えるかもしれない。人から何と言われようとも絵を描き続け、貧窮の放浪生活の中で死んでいった純粋さ。テクニック云々という以前に、彼は自らこうあらざるを得ない人生を送った──それが彼の絵にある素朴さと相俟って人の気持ちをうつ。

 1912年、ペテルブルクから来た三人の画学生がグルジアの首都ティフリスへやって来たとき、ある居酒屋で見かけた看板絵に驚いた。そのうちの一人はこう記している。「壁には絵がかかっていた。私たちは、その絵を呆然と見つめた。…目の前には、これまで見たことがない、まったく新しいスタイルの絵があった。私たちはただ黙って立ちつくしていた。…最初の印象があまりに強烈だったからだ。絵の素朴さは見かけだけだった。そこには古代の文明の影響が容易に見てとれた…。」(本書、83~84ページ)

 アヴァンギャルド運動の芸術サークルに属していた彼らが、ピロスマニが誰に習ったわけでもなく自由に描いていた絵から「古代の文明の影響」を見てとったというのが面白い。彼らは西欧近代の絵画が技巧に走るあまり、コンヴェンションルな形式に堕してしまっているという問題意識を持ち、それを打ち破る力を彼らはピロスマニのプリミティヴな画風に求めようとしたのである。早速、モスクワの中央画壇に紹介し、ピロスマニは一躍、時の人となった。また、ヨーロッパ文明の受容の限界を感じて民族文化の復活を模索するグルジアの芸術家たちは、ピロスマニの絵画にグルジアらしさを求めようとした。

 ところが、世評とは気まぐれなものだ。それまで彼を持ち上げてきた新聞に揶揄するような戯画が掲載されたのをきっかけとして、彼に対する評価は急に落ちていく。「彼らに頼んだわけではない。彼らの方から、いろいろしたいと約束してきたのだ。その彼らが新聞で私をからかう。これからは、また以前のように私は生きていく。」(本書、89~90ページ)

 1918年の春、ティフリスの旧市街にある、階段下の物置きのような部屋で衰弱したピロスマニの姿が見つけられた。彼は近くの病院に運ばれたが、間もなくこの世を去った。享年55歳であった。

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2013年1月 7日 (月)

浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』

 近代化の過程が事実上、西欧文明との一体化を意味すると受け止められる中、自分たちの国は果してヨーロッパなのか、アジアなのか?という自己認識をめぐる問いが常に論争の的であり続けた点で、日本の近代思想史においてもロシアはしばしば参照点として言及されてきた。近代=西欧文明とみなし、それへの同一化によって自分たちのアイデンティティーが蝕まれつつあるという認識を内包していたところを見ると、ユーラシア主義もやはり「反近代」を志向する思想運動であったと言える。

 ユーラシア主義とは、ロシア革命によってヨーロッパ各地への亡命を強いられた人々の間で1920年代に生れた思潮である。浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』(成文社、2010年)は言語学者のトルベツコイ(1890~1938)と地政学者・経済学者のサヴィツキー(1895~1968)の二人を軸にしてこの思想の内在的な理解を進めている。トルベツコイがブルガリアのソフィアで刊行した『ヨーロッパと人類』、さらにサヴィツキー、神学者のフロロフスキー(1893~1979)、音楽評論家のスフチンスキー(1892~1985)との4人で共同執筆した論文集『東方への旅立ち』(1921年)が嚆矢とされる。

 ユーラシア主義の思想的特徴をいくつか挙げてみると、第一に多言語・多民族の文化的統一体としてユーラシアを想定している。東方世界と地続きに広がるステップ地帯でスラヴ民族とトゥラン民族との相互交渉を通した多元性に彼らはロシア文化の核心を見出した。第二に、トルベツコイは1925年にベルリンで刊行した『チンギス・ハンの遺産』において、こうした多元的統一を成し遂げたものとしてモンゴルの支配、いわゆる「タタールの軛」を再評価した。サヴィツキーが1933年に発表した論文で民族政策を論じた考え方を本書では次のように要約している。

「ユーラシア世界の歴史に見られる国家の強権的な統治とは対照的に、「民族的体制と宗教的生活は、伝統的に、非強制的な原則によって規定されて」おり、これは「紀元千年にわたってユーラシアに存在したスキタイやフンの国家の特徴」であった。「もっとも大きな民族的、宗教的寛容(当時のヨーロッパの諸体制とは実に対照的である)によって、旧世界のほとんど全てを抱え込んだ十四世紀から十八世紀のモンゴル帝国は特徴付けられ」、この「遊牧民の帝国の歴史の中で古くから培われた独自の寛容の形態」を後のロシアが継承したのである。そして、「一方では国家中央の強力な強制力と、もう一方では民族的、宗教的問題における非強制的体制という、一見して明らかなコントラスト」が歴史的伝統として存在しており、「民族的、宗教的寛容こそが、この帝国の存在の唯一可能なかたち」なのである、と結論づけられている。」(169~170ページ)

 このような「タタールの軛」再評価は、いわゆるアジア的要素をロシアの後進性とみなし、克服の対象と考えてきた知識人層にとってかなり挑発的な議論であったと言えよう。ロシアのアジア的要素を前面に打ち出して、西欧近代とは異なる自己認識を確認しようとした点が第三の特徴として挙げられる。ただし、それは単なる反発ではない。ユーラシア主義では上述のように文化的多元性を擁護する寛容な政治体制を求めている。西欧近代文明の導入による人為的な国家形成は領域内の均質化を図り、それが文化的多元性を押しつぶしてしまう点に批判の矛先が向けられている。あらゆる民族の文化は価値として対等であり、西欧を上位に置くヒエラルキーに従属させてしまうわけにはいかない(ただし、この点についてはトルベツコイとサヴィツキーとに微妙な温度差があったらしい。ユーラシア主義内部における微妙な相違を浮き彫りにすることも本書の論点の一つとなっている)。ボルシェヴィキに対しても同様の観点から批判的であった。

 ロシアの政治亡命者たちが滞在していたヨーロッパの1920年代は、第一次世界大戦の惨禍にうちひしがれ、オスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落』が話題になったように文明論的なレベルでも悲観的な気分の蔓延する時代であった。没落しつつある西欧近代にかわり、ロシア=ユーラシア世界の台頭というイメージがあったことも第四の特徴と言えるだろう。また、第五の特徴として、ヨーロッパ諸国の議会制度が行き詰まり、各国で独裁者が出現しつつある政治状況を目の当たりにして、「理念統治」という考え方を掲げた。ただし、伝統なるものを本質主義的に捉えて専制政治を正当化してしまう危うさがあった点も指摘しておかねばならないだろう。

 ボルシェヴィキの政権も早晩崩壊するはずだという見込みからロシアの亡命者たちは様々な政治構想をめぐらしていた。しかし、ソ連の体制が安定し始める中、例えばスフチンスキーのようにむしろソ連内部に入り込むことでユーラシア主義の理念が実現できると考える勢力も現われたように分裂傾向が顕著となり、1930年代には思想運動としてのユーラシア主義は消えていく。トルベツコイは亡命先のウィーンでゲシュタポに逮捕されたショックで1938年に病死した。プラハにいたサヴィツキーは、ドイツ軍が侵攻した1939年にはゲシュタポに、1945年にはソ連内務人民委員部に逮捕され、ラーゲリへ送られた。なお、最後のユーラシア主義者と言われたレフ・グミリョフは、ラーゲリでサヴィツキーと出会ったのがユーラシア主義に関心を持つきっかけであった。

 共産主義も近代の一亜種に過ぎないと批判したユーラシア主義は、ソ連体制において当然ながらタブーとなっていた。ソ連崩壊後、とりわけプーチン政権以降、ロシア外交を地政学的に根拠付ける思想として見直されるようになってきたが、その場合にはネオ・ユーラシア主義と呼ばれることがある。

 なお、トルベツコイ『ヨーロッパと人類』は、1926年の時点で嶋野三郎によって邦訳されている(『西欧文明と人類の将来』行地社出版部)。嶋野は満鉄の東亜経済研究所勤務のロシア専門家で、宮崎正義と共にモスクワ留学に派遣された経験を持つ。他方、嶋野は大川周明や北一輝などの同志として老壮会、猶存社、行地社に参加、二二六事件で投獄されたことのある行動的右翼でもあった。当然ながら、日本的アジア主義のコンテクストの中で反西欧近代→有色人種解放と読み替える志向性を持ち、そうした意識は1932年に出された「ユーラシア主義宣言」を「日満共福主義」と題して翻訳しているところにも表われている。

(続く)

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2012年3月27日 (火)

ドミートリー・トレーニン『ロシア新戦略──ユーラシアの大変動を読み解く』

ドミートリー・トレーニン(河東哲夫・湯浅剛・小泉悠訳)『ロシア新戦略──ユーラシアの大変動を読み解く』(作品社、2012年)

 ソ連解体から10年ほど経った頃、上海の空港に着いた著者がその時もまだ持っていたソ連時代のパスポートを提示したところ、航空会社の女性職員が戸惑っていたという冒頭のエピソードが示唆的だ。彼女の上司が出てきて曰く「失礼しました。この頃の若い女性はソ連のことを知らないのですよ」──ソ連は遠くなりにけり、といったところだろうか。著者は別にノスタルジーを語りたいわけではない。むしろ本書で示される著者の最終的な見解は、ソ連解体後の状況が既定事実となっている中、この現実を認めるところからロシアは今後の歩みを始めなければならないという点にある。

 著者はカーネギー国際平和財団モスクワ・センター所長として欧米にもよく知られた国際政治学者である。トレーニンの単著の邦訳は本書が最初であろうか。旧ソ連諸国をめぐる現在の地政学的環境の中、ポスト帝国時代のロシアが直面している問題群について安全保障、エネルギー、人口動態と移民、イデオロギーなどのテーマに沿って網羅的に整理する構成となっている。内容の詳細をここで逐一紹介することはできないが、現在におけるロシアの政治外交について概説的な知識を得るには有益な書物である。

 ソ連解体は各民族が独立闘争の末に独立していったのではなく、モスクワの政権内部の決定で進められた点で、比較的に平和な過程をたどったと指摘される。ソ連解体後、ロシアとある程度でも同質性があり得るのはウクライナとベラルーシくらいのもので、それ以外の国々が独立した状態は既定事実となった。中央アジアやコーカサスを舞台に米ロがパワー・ゲームを展開しているという捉え方は間違っていると著者は言う。米ロばかりでなく中国、日本、インド、イラン、トルコなどの地域大国やEUが影響力を及ぼす中で、中央アジア諸国家も自らの意思を持った多角的な戦略行動を取り得るため、どこか一方の勢力に依存しようとは考えていない。そもそもロシア自身の国際政治経済における比重は低下し、ソ連時代とは異なって複数の極の一つに過ぎない。旧ソ連の空間は世界に開かれており、ロシアにはすでに経済的支配力はない。

 それでもロシアが敢えて周辺国を自らの勢力圏内に引き寄せていくには経済的恩恵でつなぎとめるしかないが、現在のロシアにはそのための財政的余裕も意思もない。それにもかかわらず、再び統合を求める言説も表れてはきたが、逆に自国中心の勢力圏の確立によってロシア自身の利益を引き出そうという意図を露にする結果となっている。その点では、かつてのソ連体制がイデオロギー的な理由から勢力圏=帝国を維持するために非効率でも衛星国への援助を行ってきたのとは異なり、現在のプーチン政権は自らの国力的な優位を利用するプラグマティックな大国主義に変化しているという。プラグマティックというのは、つまり名(イデオロギー的な大義名分)よりも実(国益志向がいっそう露骨になった)を取るということだろうが、同時にそれは、国益を効果的に増進させるため、利害関係が複雑に錯綜する中、個々のケースに合わせてデリケートな政策を組み合わせていかねばならないということでもある。そのような繊細なタクティクスはロシアには苦手だから、面倒くさくなって力で恫喝するのだろうか?

 いずれにせよ、現実的な条件にはそぐわないにもかかわらず、ロシアの指導層における自己認識においてはかつてのソ連帝国時代へのノスタルジーから地域大国レベルでは満足できず、あくまでもグローバル・プレイヤーを自任する傾向がある。「帝国は時として強制的な行為をとらざるを得ない局面に立ち、特別な使命という名のもとに、ある種の公共財を作り出す。大国はいずこも、粗野であるのと同じように抑圧的であり、本質的に利己的な生き物である。」(348ページ)

 もはや帝国ではないが、国民国家未満の状態にあり、近代化の遅れも目立つロシア。本当に必要なのは、過去の栄光の復活を求めるのではなく、現在の条件を見据えながら変革していくための新しい世界観を打ち出すことであるとして、国内体制の近代化や周辺諸国との協調を促すリベラルな提言で最後はしめくくられる。

 本書でとりわけ特徴的なのは、ロシアはユーラシア国家というよりも、ヨーロッパ・太平洋国家であるという見取り図の提起だろう。「ロシアの最重要地点、二一世紀のフロンティアは東方にある。そこには、目前にある太平洋の隣国たち、すなわち中国、日本、韓国に追いつくための必要と機会の双方をロシアは持っている。北京、東京、ソウルはこぞって太平洋を見据えている。地球規模で進む太平洋へのパワーシフトは、ロシア対外政策における新たな注目点を必然的に生み出しているのである。もしもピョートル大帝がいま生きていたとしたら、彼は再びモスクワから遷都するだろう──ただし、今回はバルト海ではなく日本海に向けて」(395ページ)。

 なお、ここに引用したフレーズは著者の決め台詞なのだろうか、以前に読んだ“Russia Reborn”(Foreign Affairs, vol.88 no.6,Nov/Dec 2009)という論文で見かけたのをよく覚えている(→こちらで取り上げた)。また、Dmitri V. Trenin, Getting Russia Right(Carnegie Endowment for International Peace, 2007)では、ロシアは地理的・文化的アイデンティティとしてヨーロッパにはなれないが、近代化・民主化は可能であるとして、それを「新しい西洋」(the New West)と呼んでいた(→こちらで取り上げた)。

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2012年1月 6日 (金)

松戸清裕『ソ連史』、下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家 1917─1991』

 ソ連の歴史を記述するに際しては、出発点としてのロシア革命、抑圧的な体制が形成されたスターリンの大粛清、もしくは連邦崩壊に至るペレストロイカといった時期が大きく注目される印象がある。松戸清裕『ソ連史』(ちくま新書、2011年)はその合間の時期の記述が厚く、内政面の事情を中心に描かれており、全体としてバランスのとれたソ連の通史。以下の3点が基本的な視点となっている。
・冷戦の敗者というイメージ→ソ連側の人々も必ずしも戦争を望んでいたわけではない。
・共産主義建設という実験の失敗により国民に犠牲を強いたのは事実だが、多くの人々が主観的には共産主義建設が国民のためになると信じていた。
・共産主義の抑圧的な体制→一党支配体制において有権者の支持を求めて他党と競う必要がないにもかかわらず、ソヴェト政権には「説明し、理解させ、協力を得る」という基本的な態度があった→プロパガンダによる国民の動員というだけでなく、政策目標に向けて人々の理解と協力が必要という認識があった。祝祭としての選挙。しかし、実際には社会の隅々まで統制が行き届く状況にはならなかった。

 合わせて読んだ下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家 1917─1991』(講談社選書メチエ、2002年)は、スターリン時代のナンバー2であり、ゴルバチョフ時代まで生き残ったモロトフに焦点を合わせてソ連の歴史を考察。まさに体制内にいた人物の視座から、抑圧的な体制の形成過程及びそれが内政・外交に影響を与えていく様子が描き出されていく。

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2012年1月 3日 (火)

木村汎・袴田茂樹・山内聡彦『現代ロシアを見る眼──「プーチンの十年」の衝撃』

木村汎・袴田茂樹・山内聡彦『現代ロシアを見る眼──「プーチンの十年」の衝撃』(NHKブックス、2010年)

・1999年にプーチンが首相に任命され、同年、エリツィン大統領の辞任を受けて大統領代行に就任して以降、2期8年を経て現在のメドヴェージェフとのタンデム政権に至るまで10年間にわたるロシアの政治経済について検証。
・この間の経済成長は主に原油・ガスなど資源輸出収入によるものであって、プーチン政権の経済政策が効果的だったわけではない。逆に、原油価格上昇によるレント収入はインフラ整備などに投資活用されなかった。
・ゴルバチョフ、エリツィン政権期の「改革」の一部は放棄された。政治体制としては家父長的専制、官僚的権威主義、自由民主主義、経済体制としては国家資本主義、市場経済、賄賂やコネがまかり通る地下経済、外交的には欧米に対する協調と反発など、本来ならば両立するはずのない諸要素が同時に存在→まるで19世紀の帝政、20世紀のソビエト、21世紀の現代が共存しているような奇妙な混合体→こうしたグレーゾーンの中を揺れ動いているため、「プーチンの十年」を一言で要約するのは困難。
・プーチン政権に敵対しない限りはある程度の経済的自由。しかし、政権にすり寄った人々の念頭にあるのは国益よりも私益優先→レント・シーキング・システム。
・常に「敵」や「スケープゴート」を創出する政治手法により国民の目を外へそらす→チェチェン問題、オリガルヒ(グシンスキー、ベレゾフスキー、ホドルコフスキーなど)潰し、グルジア・ウクライナなどへの介入、NATO拡大への敵視。

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2011年9月25日 (日)

デイヴィッド・レムニック『レーニンの墓──ソ連帝国最期の日々』

デイヴィッド・レムニック(三浦元博訳)『レーニンの墓──ソ連帝国最期の日々』(上下、白水社、2011年)

 著者が『ワシントン・ポスト』のモスクワ特派員として派遣されていた1988年以降、1991年にソ連が崩壊するまでの取材をもとにしたノンフィクション。前半はスターリズム体制をロシア人がどのように受け止めているかがテーマとなっている。過去の“記憶”を何とか掘り起こそうとするかつて弾圧・粛清された人々及びその遺族たちの肉声を聞き取る一方、スターリンを誇らしげに賞揚する保守派の人々からも話も聞く。スターリン側近の最後の生き残りカガノヴィッチには執拗にも取材を試みたものの、頑なな拒絶に結局失敗してしまったが(彼は1991年7月に死去)。ペレストロイカの進行に伴い権力闘争は激化、いくつかの政治的事件を経ながら1991年8月の共産党保守派による無様なクーデター未遂、そして“帝国”の崩壊へと事態は収斂していく(なお、本書ではクーデター未遂の記述は保守派、ゴルバチョフ側、エリツィン側それぞれをトータルで俯瞰する構成になっているが、この辺りの類書としては当時ソ連に駐在していた外交官の佐藤優『自壊する帝国』(新潮社)がブルブリスとエリツィンのラインを中心にじかに見聞したことを書きとめており興味深かった覚えがある)。

 登場人物も話題も多岐にわたるが、ソ連が終焉へと向かう重層的なプロセスが多彩な人物群像を通して描き出されており、読み応えはあった。原書の刊行は1993年で、翌94年にはピュリッツァー賞を受賞。ソ連崩壊の記憶がまだ生々しい時期であれば興味を寄せる日本の読者もさらに多かったろうに(私自身も高校生の頃で新聞の国際欄を毎日丹念に読んでおり、とりわけクーデター未遂前後の部分では久しぶりに見かけて妙に“懐かしさ”を覚えた人名がいくつも出てきた)、邦訳刊行まで18年もかかったのはどうしたわけだろう。

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