カテゴリー「ヨーロッパ」の51件の記事

2017年7月 5日 (水)

深井智朗『プロテスタンティズム──宗教改革から現代政治まで』

深井智朗『プロテスタンティズム──宗教改革から現代政治まで』(中公新書、2017年)
 
 私自身の感覚からすると、ローマ・カトリックや東方正教会については、教義の詳細はよく分からないにせよ、何となくイメージはつかみやすい。対して、プロテスタントの場合は、一言で「プロテスタント」と括ってもその内実は実に多種多様で、少々戸惑ってしまうというのが正直なところだ。本書を通読してから、むしろそうした多様性を許容するところにプロテスタントの特徴の一つがあるのかもしれないと思った。本書はプロテスタントそのものの歴史というよりも、ドイツ社会思想史の文脈の中でプロテスタントが論じられている(第七章ではアメリカ事情にも言及される)。
 
 1517年、マルティン・ルターは贖宥状などバチカンの腐敗に抗議するため、ヴィッテンベルク城の教会の扉に「95ヶ条の提題」を貼りだした。これが宗教改革の始まりとされ、信仰の自由を求める動きは近代思想にもつながっていくと論じられることもあるが、ルターが実際にこの張り紙を出した事実があったかどうかも含め、事情は単純ではないようだ。ルター自身は教会改革の希望を抱いていたものの、新しい宗派を自ら立ち上げる意図は全くなかった。ところが、事態は彼の意図を越えて動き出していく。自覚的な信仰を重視する洗礼主義などよりラディカルな動向に対してルターはむしろ批判的であった。
 
 いずれにせよ、ルターによってもたらされた宗教対立は1555年のアウグスブルクの宗教和議で一つの転換点を迎える。宗教対立の激化が憂慮される中、プロテスタンティズムにも法的な地位がとりあえず認められた。ただし、それは近代的な政教分離の原則とは異なる。領邦ごとに領主が選んだ宗教が公認されるという形で並存が図られた。言い換えると、プロテスタンティズムは領主や領土と結びつくことで社会道徳を提供する役割が期待されるようになり、このように政治体制とつながったルター派を本書では「古プロテスタンティズム」もしくは「保守主義としてのプロテスタンティズム」と呼んでいる。対して、信仰の自由を徹底しようと試みる人々は、古プロテスタンティズムからむしろ迫害され、そうした勢力については「新プロテスタンティズム」もしくは「リベラリズムとしてのプロテスタンティズム」とされる。
 
 保守主義としてのプロテスタンティズムはナショナリズムと結びつく。1871年、プロイセンが普仏戦争に勝利し、オーストリア抜きでドイツ帝国を形成するにあたり、「ルター派は、いくつもの領邦国家を統一して誕生した帝国を精神的にも統一するためのナショナル・アイデンティティの設計とこの統一の政治的道徳性を証明するための政治神学の構築を任された。」「さらには、普仏戦争の勝利の後に成立した帝国の道徳的正当性を説明するためにルター派の神学者は次のようなプログラムを提示したのである。すなわち『ドイツ的なもの』の淵源は、一六世紀にカトリックに対して戦い、近代的な自由の基礎を作り上げたマルティン・ルターとその宗教改革に遡る。」「さらにヴィルヘルム期ドイツで皇帝の正枢密顧問官であったハルナックは『一七世紀のピューリタン革命より、一八世紀のフランス革命よりも早く近代的な自由を主張したマルティン・ルターの宗教改革』という近代史の見方も提供した。人々はこのような歴史観に特別な違和感を持つこともなく、むしろその中に政治的妥当性を見出すようになっていた。つまりこの時代、マルティン・ルターとその宗教改革の精神は神学的にというよりは、政治的に再発見されるのである。そしてルター派の神学は、政治的な利用を裏づけるために、宗教改革とマルティン・ルターの研究に力を入れ、その研究を政治的な言語に再構築したのである。」(本書、131-132頁)
 
 リベラリズムとしてのプロテスタンティズムが逃げ延びた先のアメリカではどうか。例えば、国家の制約から自由な立場から、既存の勢力では解決し得なかった社会問題に積極的な発言をする宗派もある。他方で、大統領の就任演説でしばしば「神」に言及されるように、「アメリカの意識されざる国教」(ロバート・ベラ―)も垣間見える。この意識されざる国教は必ずしも直接的にキリスト教とイコールで結ばれるわけではないが、本書では新プロテスタンティズムの古プロテスタンティズム化と表現されている。
 
 本書ではプロテスタンティズムとナショナリズムとの結びつきが論じられる一方で、戦後ドイツにおいて進行する社会的多元化に保守的プロテスタンティズムも歩調を合わせてきたことも指摘される。「戦後ドイツのプロテスタンティズムは、単なる宗派の独善的な優位性の主張ではなく、多宗派共存のためのシステム構築の努力を続けた。プロテスタントとは、カトリシズムとの戦いを続け、その独自性を排他的に主張してきた宗派であるだけではなく、複数化した宗派の中で、共存の可能性を絶えず考え続けてきた宗派であり、むしろ後者が私たちの今後の生き方だと主張するようになった。」(本書、158頁)
 
 本書の終章では次のように指摘される。「ルターの出来事からはじまった、価値の多元化、異なった宗派の並存状態、それゆえに起こる対立や紛争の中で、プロテスタンティズムは次の問題を考えざるを得なくなったのである。どのようにすれば、異なった宗派や分裂してしまった宗教が争うことなく共存できるのかという問題と取り組んできたこと、これこそがプロテスタンティズムの歴史であり、現代社会における貢献なのではないだろうか。」(206頁)

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2016年2月 9日 (火)

對馬辰雄『ヒトラーに抵抗した人々──反ナチ市民の勇気とは何か』

對馬辰雄『ヒトラーに抵抗した人々──反ナチ市民の勇気とは何か』(中公新書、2015年)
 国民的熱狂に沸き、監視の目が張り巡らされたナチズム体制下、命を賭して反ヒトラー運動に身を投じた人々がいた。例えば、映画「白バラの祈り」 で描かれた白バラ学生運動、トム・クルーズ主演の映画「ワルキューレ」 で焦点が当てられたシュタウフェンベルク大佐のヒトラー暗殺未遂(7月20日事件)などはよく知られているが、そればかりではない。地位や思想的背景も異なりながら、ナチズム体制によって遂行されつつある国家的犯罪に対して、良心に照らして疑念を抱き、自らの責任において行動した人々について、本書は有名無名を問わず取り上げている。
 ある者はユダヤ人を助け、ある者は戦争終結を目指してヒトラー暗殺を図った。今でこそ、こうした人々の示した勇気は称讃されている。ところが、反ヒトラー活動を「叛逆」とみなすナチスの宣伝がドイツ国民の隅々まで浸透していたため、戦後直後にあっては一般市民レベルでそうした感覚的印象がなかなか消えず、本来なら栄誉を受けるべき処刑された抵抗者たちの遺族はしばらくそのことを隠さねばならなかったという。連合国としても、「罪深きドイツ」というイメージを維持した方が占領政策上好都合であったため、ナチスとは異なって良心ある「もう一つのドイツ」を示そうとした抵抗者の事績を公表することは許されなかった。奇妙な共犯関係の皮肉。
 占領終了後、国防軍内の反ヒトラー派やインテリ抵抗者などに関しては徐々に名誉回復が進んだ。しかし、「ローテ・カペレ」(赤い楽団)と呼ばれた市民ネットワークは、冷戦という時代状況の中、反共の観点から無視された。この「ローテ・カペレ」とはゲシュタポの命名により、実際には共産主義者ばかりでなく様々な出身背景の人々が集まっていたのだが──。1939年11月8日に一人でヒトラー暗殺を計画した指物師のエルザーについては、「教養のない者には大した理念などなかったはず」という偏見から名誉回復が遅れてしまったという。ナチ宣伝の残滓、冷戦という時代状況、非教養層に対する偏見──こういった要因で無視されてきた抵抗者の事績が洗いなおされていったプロセスは、歴史評価の難しさを改めて突き付けてくる。

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2014年9月17日 (水)

鈴木健太・百瀬亮司・亀田真澄・山崎信一『アイラブユーゴ1 ユーゴスラヴィア・ノスタルジー大人編』

鈴木健太・百瀬亮司・亀田真澄・山崎信一『自主管理社会趣味Vol.1 アイラブユーゴ1 ユーゴスラヴィア・ノスタルジー大人編』(社会評論社、2014年)

  ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国が崩壊してからもう20年以上経つ。クロアチア、スロヴェニア両共和国の独立、さらにボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争と文字通り血で血を洗う凄惨な民族紛争が続いたため、今ではユーゴといえば偏狭なナショナリズムがもたらした悲劇の地というイメージが強い。社会主義体制の崩壊とそこから湧き出た民族紛争。20世紀の悲劇がこのユーゴでまさに縮図となって現れ出たと見ることもできるだろう。

  しかしながら、本書の立場はあくまでも「共産趣味」。と言ってもピンとこない人もいるかもしれないが、どんな政治体制の中でも人々の日常生活は連綿と続いている。ありし日の社会主義体制下におけるそうした生活光景からレトロでノスタルジックな感覚を見出し、ある種の愛おしみをもって振り返ってみようというのが基本的な趣旨。渋面作って政治的に生真面目な問題を語るわけではないが、かといって決して不真面目ではない。執筆陣はユーゴ崩壊後に研究を始めた若手世代であり、距離をおいて見られるからこそ、特定の政治的イシューには偏らない等身大のユーゴスラヴィアを描き出すことができる。

  「大人編」と題したこの第1巻では、「政治」「ティトー」「社会」「対外関係」という4つのテーマでまとめられている。項目ごとに読み切りのエッセイが並べられており、豊富なカラー写真がいっそう興味を掻き立てる。ユーゴは1948年にソ連と対立してコミンフォルムから追放されて以来、西側とも一定の関係を持ち、国内体制的にも社会主義体制の割には比較的に自由で豊かという一面も持っていた。ミニスカートの女性が闊歩する写真も収録されているが、そうした社会背景からみれば不思議ではない。ティトーの奔放な女性関係とか、取り違えられた労働英雄といったゴシップネタもたっぷり。晩餐会で昭和天皇と対面するティトーの写真も紹介されるなど、日本との関係にも言及されている。

  一つ一つの項目を読んでいくと、多民族状況を反映した事情もあちこちから垣間見られる。真面目に現代史を勉強したい人にとっても、読みやすくかつ有用な参考書となるだろう。ユーゴスラヴィア現代史という、日本人にとってあまり馴染みがなく地味なテーマであるにもかかわらず、このように人目を引く形に仕立て上げた手腕には感心する。

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2012年10月15日 (月)

藤原辰史『ナチスのキッチン──「食べること」の環境史』

藤原辰史『ナチスのキッチン──「食べること」の環境史』(水声社、2012年)

 ふだん我々が何気なく使っている台所。しかしながら、よく考えてみればこれは自然、技術的進歩、社会的意識、様々な知が集約された実に驚異的な空間である。台所というフィルターをすかすと、当時の社会的動向もまたヴィヴィッドに浮かび上がってくる。

 ナチズムという政治体制は様々に奇妙な顔を持っているが、「血と土」というシンボルに表われた非合理的な情緒性と、テクノロジカルに効率を重視する合理性とが共存している矛盾は容易には理解しがたい。ところが、こうした矛盾のせめぎ合いの中にこそナチズムが人々を動員するメカニズムの一端が見出される。そこを本書は「台所」をめぐる人物群像を通して描き出していく。

 第一次世界大戦後の劣悪な住宅事情に応えるべくリホツキーが設計したフランクフルト・キッチンはテイラー主義の影響を受けている。家事の合理化によって主婦の労力軽減を図ったが、同時に居住と調理の分離は家族の一体性をも切り離し、ひいては食文化の破壊につながるのではないか、とも批判された。機能的合理性を特徴とするフランクフルト・キッチンはナチスのイデオロギーに反するようにも思われるが(例えば、ナチスはバウハウスを弾圧した)、実際にはナチス時代に広がり、労働者約一名の「工場」が各家庭に一つずつ組み込まれていく結果になった。リホツキーは社会主義思想にシンパシーを抱いていたこと、家事労働の省力化にはフェミニズム的な動機があったことを考え合わせると、それがナチズム体制に取り込まれていった逆説が興味を引く。一見したところそれぞれ別個の思想的態度と思われていたものが、いずれも「近代」の申し子としての性格を帯びていたことが分かる。

 ヒルデガルト・マルギスが開設した主婦向け無料相談所のハイバウディ、当時の家政学における言説なども合わせ、ナチス時代の「台所」をめぐる分析からどのような姿が見えてくるのか?

「…主婦の個人的な感情におかまいなしに、台所という枠組みから主婦を変えていく。空間に存在する人間から人間らしさを抹消し、代わりに擬似有機体となった空間が人間を導き、人間を変身させていく、というナチス特有の動員過程を、台所のナチ化過程から窺い知ることができる。これはまさに、労働の内実を労働空間から変えようとした台所のテイラー主義者たちの挑戦の帰結である。クリスティーヌ・フレデリック、マルガレーテ・シュッテ=リホツキー、エルナ・マイヤー、ヒルデガルト・マルギスたちが耕した豊饒な土壌で、ナチスは主婦たちを戦争を担う「機械」へと育てていったのである。」(359ページ)

「…ナチスの手口が巧妙なのは、そこに社会参加の意識を植えつけたことである。自分が狭い空間のなかでコントロールされているにもかかわらず、家族のため、民族のため、そして国家のために戦っているという幻想のなかで、仮象の「誇り」を与えることである。それと、情熱も感傷もなくひたすら任務を遂行する「精神なき専門人」という像は、矛盾するようで実は一致する。主婦たちを、考えさせず、感じさせず、型にはめ、空間に埋め込む。その場と行動の型は、自動的に公共空間、そして戦争と結びつけられており、その空間に存在する人間は、ほぼ自動的に社会参加、もしくは戦争参加を果たさざるをえない。ナチスの担い手というにはあまりにも政治に無関心で、犠牲者という以上にしっかりナチスの支持していた、という第三帝国を生きた主婦の奇妙な状況は、このような近代戦の環境を台所に導入したからではないだろうか。台所にみるナチスの主婦動員の構造を、私はさしあたりこのように考えたい。」(360~361ページ)

 ナチス時代のレシピ本も興味深い(honzのレビューでは実際に料理を作ってくれている→こちら)。当時の食糧危機の中で節約方法を紹介した点ではナチスが国民経済と家庭経済とを結びつける手立てとして活用された一方、企業広告として食材関係の販売経路を確保しようという思惑も重なっていた。反資本主義を掲げるナチズム体制においても、その看板の裏では親資本主義的な活動を許容していた二面性を裏付ける例として指摘される。なお、現代社会でもおびただしく刊行されるレシピ本やマニュアル本の類いも、科学技術史と民衆心性史との接点を掘り起こす上で実は貴重な史料になるという指摘は重要だ。

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藤原辰史『カブラの冬──第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』

藤原辰史『カブラの冬──第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』(人文書院、2011年)

 第一次世界大戦下のドイツで70~80万人もの餓死者を出したと言われる「カブラの冬」(1916~17年)。開戦によって海外からの食糧輸入ルートは遮断され、当初、長期戦になろうとは誰も予想していなかったので食糧問題には何らの考慮も払われておらず、付け焼刃的な食糧政策はかえって混乱に拍車をかけた。例えば、「豚殺し」。学者のはじき出した単純なカロリー計算によると、豚飼育用のジャガイモは人間の消費量を上回る。ならば、豚は殺してしまえ──しかし、人間のエネルギー源として穀物と脂肪分とで果たす役割の相違を無視した暴論は飢餓をより深刻なものとした。

 飢餓にまつわる不満を訴えようにも政治システムとして適切な代表ルートがなかったため革命を誘発。続くヴァイマル共和国期でも食糧政策の脆弱性や不平等性は克服できず、大戦中に実体験した飢餓に根ざした憎悪感情は行き場を失い、ナチズム台頭を後押しする契機となった。こうした憎悪は、「飢えたドイツ人/豊かなユダヤ人」という人種主義的偏見を増幅させたり、「食糧さえ確保できていれば戦争には勝てたかもしれない」(背後からの一突き伝説)という「終わり損ねた戦争」意識をもたらした。海上封鎖を受けたことは、海外植民地ではなく東方拡大を目指したヒトラーの「広域経済圏」構想にもつながったという。

 飢餓という生命維持に根ざした根源的な記憶がその後のドイツ革命、ヴァイマル共和国期、さらにはナチズムへと如何に深刻な影響を及ぼしていったのか、そこを農業生産という視点で一つの見通しをつけていく手際が鮮やかである。

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2012年10月10日 (水)

田野大輔『愛と欲望のナチズム』

田野大輔『愛と欲望のナチズム』(講談社選書メチエ、2012年)

 ヌード写真の掲載された雑誌が流通し、全裸の女性のアトラクションも催される。婚前交渉や不倫も容認され、銃後の女性や若者たちは性戯にふけり、兵隊や捕虜にまで売春宿が設置されていた。ドイツ第三帝国で日常生活に広まっていた「性」のあけっぴろげな放埓さ──。上意下達の総力戦体制は倫理面でもリゴリスティックな抑圧を行き渡らせていたと思われがちだが、本書は一次資料に依拠しながら強面のナチズム体制にまつわるそうした通念を崩していく。単に建前と偽善という当たり前な話ではなく、性的欲望の解放もまたナチズムを支える駆動力となり得ていたカラクリを論証していく手際が本書の面白いところだ(この点で、フロイトの精神分析学を踏まえて性的抑圧がファシズムを生み出したと考えたヴィルヘルム・ライヒ『ファシズムの大衆心理』とは正反対の結論となる)。

 ナチスもまた神なき近代の申し子である。従来の保守的なキリスト教倫理や偽善的な市民道徳に対する反発が、革新勢力たるナチスの思想的モチーフの一つとなっていた。キリスト教道徳が説く彼岸での救済は説得力を失い、此岸において精神的空白に陥った人々にとって、ナチスが説く「生の肯定」は大きな力を持った。その具体的な表われは、例えば「性」の領域に見出される。健康な肉体の美しさ、男女の結合の喜び──これらを覆い隠してきた保守的な市民道徳の偽善的な禁欲主義は、健全な人間の本能的な力を挫くものと批判された。生殖行為としてのセックスは「生めよ殖やせよ」という国策に合致するにせよ、性愛の喜びそのものが肯定されていたことは注目される。

 いびつな道徳的抑圧から性的タブーを撤廃していくという考え方は、現代社会で主張されればリベラルと受け止められるだろう。また、ナチズム体制において子供が幼少期にトラウマを抱えてしまわないよう生育環境としての幸福な家庭生活が推奨されたり、同性愛者の扱いにも環境要因から「更生」の可能性に配慮する施策もあった(ただしこれを裏返すと、更生不可能→抹殺の対象という非人間的側面も露わとなった)。部分的にはリベラルで進歩的にも思われる考え方が、人種至上主義的なイデオロギーと共存していたことには興味が引かれる。

 市民道徳の偽善性への批判として性的知識の啓蒙が推進されたが、それは見方を変えれば、「性」というプライヴェートな領域にまで公的権力が介入する契機ともなった。また、性愛の喜びが容認されたとき、セックスを生殖とは切り離して単なる消費的享楽に陥るのではないかという保守派の懸念は残る。健康な肉体美を猥褻とみなすこと自体が市民道徳の偽善性として告発されたが、他方で欲望を持った眼差しで見るならば性的興奮が刺激されることに変わりはないだろう。猥褻/非猥褻の線引きはどこに求めたらいいのか、基準は明示されない。国民からすれば、性的欲望が解放され、扇動される一方で、社会的秩序維持の観点から否定されるというダブルバインドに直面する。まさに道徳と不道徳の区別が曖昧であること自体が、権力の立場からは人々の欲望を誘導し、操作する政治的道具となり得た。言わば、「性政治」的なボナパルティスム(著者はこういう表現を用いないが)という感じだろうか。

 権力は単に人々を強圧的に服従させるだけでは維持されない。人々自身からの主体的・自発的な支持を獲得することで強力なエネルギーを得ていくのであって、そこをどのように煽動していくかがカギとなる。性愛という身体的直接性がナチズムの体制内で複雑な矛盾をはらみつつ大衆動員のメカニズムに組み込まれていたことはそうした一つの工夫であったと言えよう。そもそもヒトラーの演説に人々が聞き惚れたことも、演説の内容を理解したからではなく、陶酔感の中で総統と一体化する直接性によって大衆動員を可能にする政治技術であった。ナチズムが内在的に持っていた不可思議な吸引力は一体何であったのか、そこを先入観なしに解析していく作業として著者の前著『魅惑する帝国──政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会、2007年→こちら)も併せて読むと面白いだろう。

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2012年7月 8日 (日)

星乃治彦『赤いゲッベルス──ミュンツェンベルクとその時代』

星乃治彦『赤いゲッベルス──ミュンツェンベルクとその時代』(岩波書店、2009年)

・ヴィリー・ミュンツェンベルクは貧しい家庭に生まれ、見習い奉公に出たが、社会主義サークルに入ったの機に運動を始め、解雇された。放浪の末、スイスへ行き、1915年にはベルンの青年会議でインターナショナル書記となり、この頃、レーニンと出会う。レーニンがチューリッヒに移転した後もしばしばプライベートで彼を訪問した。

・なお、トリスタン・ツァラ(塚原史訳)『ムッシュー・アンチピリンの宣言──ダダ宣言集』(光文社古典新訳文庫、2010年)所収の著者による解説はツァラ小伝となっているが、チューリッヒ時代のレーニンはダダの拠点となっていたキャバレー・ヴォルテールに出入りしており、ツァラとも出会っていたことが指摘されており、塚原の解説によるとレーニンをキャバレー・ヴォルテールに誘ったのはミュンツェンベルクだったという。

・ミュンツェンベルクはインターナショナル青年書記として活躍した際にモスクワのコミンテルン中央の押し付け方針に反発して衝突した一方、彼の才覚はレーニンから認められていたため、当時、飢饉に見舞われていたロシアへの救援を求めるキャンペーンを任された。この仕事をきっかけにミュンツェンベルクは大衆メディアを駆使した宣伝活動を効果的に展開したことが、「赤いゲッベルス」というあだ名の由来である。

・従来の新聞が教養層を対象としていたのに対し、彼が1921年11月に創刊した『イラスト労働者新聞』は、ページ数を少なくし、価格も安く抑えた。イラストや写真をふんだんに入れて視覚に訴える構成で、ジョン・ハートフィールドのような新鋭スタッフを使って、モンタージュ技法など最新技術も駆使。共産主義の宣伝だけでなく、スポーツ記事や「月の世界はどうなっている」といった教養的な内容で、労働者の知的好奇心を満たす内容とした。この『イラスト労働者新聞』を足がかりにして有力な雑誌や新聞を傘下におさめ、ワイマール共和政においてドイツ出版界で右派のフーゲンベルクに次ぐ、第二の左翼出版コンツェルンを構築した。

・なお、モンタージュはベルリン・ダダが多用した技法であり、ハートフィールドもベルリン・ダダの一人である。彼はヘルムート・ヘルツフェルトという名前のドイツ人だが、戦時下、政府への反逆の意図を込めて英語風に名乗った。彼はベルリン・ダダであると同時にドイツ共産党に入党していたことから分かるように、既存秩序への反逆という意識において、初期の共産主義はダダを含めたアヴァンギャルド芸術と共存が可能であった。

・ヴィリーの構築した「ミュンツェンベルク・コンツェルン」は共産党に依存しない独自の存在となった。彼の企業経営スタイルは共産主義者というよりもアメリカのビジネスマンのような感じだったらしく、「赤い億万長者」と陰口もたたかれたようだ。そうした彼の「右派」的傾向はソ連中央の方針に合うものではなかったが、他方でヴィリーの財政力はソ連にとっても無視できず、またソ連における穏健な経済政策の時代とも重なっていた。

・ナチスの政権掌握に伴い、彼はパリに亡命。ナチスの焚書→ドイツ人亡命者たちが焚書にされた著作を積極的に集めようとした「ドイツ自由図書館」の創設にヴィリーも加わった。反ファシズム運動に尽力。ドイツ人民戦線を作り上げようという運動をパリで行うが、他方、プラハでは彼のライバルのウルブリヒトが同じ運動を展開していた。人民戦線を戦術的にしか捉えないウルブリヒト派と人民戦線を目的の一つと捉えるヴィリー派との対立。ドイツ共産党議長テールマンなき後の党内抗争において両者の対立は激化。

・1937年、『武器としての宣伝』を出版→ナチスの宣伝活動の斬新さや弱点を分析。しかし、この著作の中でスターリンなど党指導者への言及がほとんどなかったため、共産党から批判を受ける。ソ連における大粛清を目の当たりにして、コミンテルンの召還にためらい。ウルブリヒトの策動→ヴィリーは孤立→共産党から除名。

・1940年、ドイツ軍のフランス侵攻→逃亡中のヴィリーの死体が見つかる。自殺か、他殺(ソ連諜報機関説、ゲシュタポ説)か、死因はよく分からないが、本書では自殺説を採用。

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2012年3月11日 (日)

村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史──独立戦争からユーロ危機まで』

村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史──独立戦争からユーロ危機まで』(中公新書、2012年)

 現在の我々が「国家」や「民族」として自明視しがちなものは近代の産物であるということはもはや常識に属するだろうが、その形成過程には地域ごとに複雑な力学が絡まりあっており、一般論として語ることはなかなか難しい。本書はギリシャを中心軸に叙述されたリーダブルな近現代ヨーロッパ史であると同時に、前近代的社会の中で近代的な「国民国家」が形成されていく過程の具体的な有り様を描き出している。ギリシャ近現代史というと昨今話題のユーロ危機への関心から手に取る人もいるだろうが、むしろ歴史的観点によるナショナリズム論として良書だと思う。

 本書によると、ギリシャ人意識は18世紀後半以降の政治、社会、文化の大きなうねりの中で生み出されたものだという。かつてビザンツ帝国においては「ヘレネス」(ギリシャ人)ではなく、「ロミイ」(ローマ人)という意識が持たれていた。すなわち政治社会における皇帝とキリスト教世界の教皇とが一体化した体制の中でのローマ帝国臣民かつ正教キリスト教徒という意識が中心であり、古代ギリシャ世界のことは知りつつもそこには距離を感じていた。こうした意識はオスマン帝国のミッレトによる宗教的コミュニティーの分立が許容された体制において維持された。つまり、ギリシャ人のアイデンティティはキリスト教徒としての宗教意識に基盤を置くものであった。

 18世紀以降、オスマン帝国とロシア帝国との抗争が激しくなるにつれてギリシャ人たちも自分たちの新たな運命を切り開く可能性に思いをはせるようになったが、それは民族的独立という近代的な性格を帯びたものではなく、むしろ正教キリスト教世界の復活への願望であった。彼らが「古代ギリシャ」を見出したのは啓蒙思想がきっかけだったという。オスマン帝国支配を肯定してきた正教会組織(これはビザンツ帝国に由来する)の後進性への批判がビザンツ時代軽視につながり、それに替わるものとして古代ギリシャ世界との絆が新たなアイデンティティの中核となった。

 そうした中で歴史学者のパパリゴプロスが著した『ギリシャ民族の歴史』は、古代ギリシャ─中世ビザンツ帝国─近代ギリシャという万古不易のギリシャ民族という国民の物語を生み出していく。ただし、それがただちに国民国家の誕生につながったわけではない。19世紀初頭のギリシャ独立戦争は①キリスト教対イスラーム教の宗教戦争、②列強諸国の復古体制としてのウィーン体制への不満という側面が強く、また、オスマン帝国の体制で既得権益を享受していたギリシャ人エリート層もいて、ギリシャ人内部も決してまとまっていたわけではなかった。ヨーロッパ列強の駆け引きの中で偶然的にギリシャは独立を果たしたに過ぎず、「ギリシャ国民」なるものの創造はむしろ国家建設後の課題となった。

 地続きの大地に様々な人々が広がって暮らしている中、宗教、言語、国境が完全に一致するなどということはあり得ない。ギリシャという国民国家の誕生にあたり、当然ながらまず言語をめぐるアイデンティティの相克が問題となった。

 例えば、コイネーで記された福音書の口語ギリシャ語への翻訳はギリシャ国内で大騒動となったという。古代語が読めないという事実の認識は、言い換えると古代から近代まで一貫して継続してきたギリシャ民族の一体性という「神話」のタブーに触れてしまうからだ。当時のギリシャの言語状況はダイグロシアと言われ、文章語として用いられる古代ギリシャ語を基本とするカサレヴサと都市部の口語を基にした民衆語ディモティキの並存を指す。カサレヴサはエリートの社会的地位保持の根拠となっていたが、これによって古代との一体性を重視するか、民衆的基盤を重視するか、いずれにせよギリシャ・ナショナリズムの二つの側面が表れていた。

 歴史意識に基づく言語問題以上に、国境をめぐる言語的同化も深刻な問題となる。国境を画定する上では当然ながら周辺との係争地域で軋轢が生じることになるが、例えばマケドニアの住民にとって民族的アイデンティティは外来の概念に過ぎなかった。ギリシャ人、セルビア人、ブルガリア人といった母語に基づくエスニックな自覚よりも正教徒としてのアイデンティティの方がもともとは普通であった。ところが、ギリシャ王国の民族主義者たちは彼らにギリシャ人意識を植え付けるための言語教育に着手、こうしたプロパガンダに対抗するためブルガリア王国でも同様のことが実施された。

 また、「メガリ・イデア」(大きな理想)による領土拡張を動機として第一次世界大戦にあたりギリシャ軍はスミルナを占領したが、こうした動向はトルコ人のギリシャ人への敵対感情を生み出し、さらにはトルコ共和国を生み出すことになるトルコ側のナショナリズムの原動力として作用することにもなった(なお、ギリシャ・トルコ双方の領土確定の際に強制的住民交換協定が結ばれたが、民族籍は宗教を基準に決められ、ギリシャ王国側に移住せざるを得なくなった人々の中にはトルコ語話者の正教徒も含まれていた)。いずれにせよ、一方のナショナリズム意識が、近隣においてもう一方のナショナリズムを触発していく連鎖関係がうかがえる。

 民族的アイデンティティをめぐる複雑な問題の絡まり方は、他にも第6章で説明されるポンドス(黒海沿岸)のギリシャ人とソ連との関係やキプロス問題でもうかがえ、問題の根の深さを感じさせる。キプロスはギリシャ・トルコの対立がNATOの結束を崩しかねない懸念から妥協の産物として独立を果たしたが、ギリシャ系住民の代表として大統領に就任したマカリオス大主教は共和国の独立維持を優先課題としたため、ギリシャの軍事政権から暗殺されそうにもなったらしい。

 第一次世界大戦後、ヨーロッパ列強の支持が得られなくなった状況下、領土の現状維持を図るしかなくなったヴェニゼロス(後述)は周辺諸国との協調関係を模索、これに呼応したのがトルコのムスタファ・ケマルだったというのが興味深い(ヴェニゼロスはケマルをノーベル平和賞の候補に推薦までしたそうだ)。トルコもまた内政に専念するため対外的安定を意図していたからだが、裏を返せば両国とも確定した領域内部での国民的均質化の段階に入ったと考えることもできるだろうか。ただし、このヴェニゼロスの方針は同時にトルコ領域内から移住してきた難民から帰郷の希望を奪うことでもあり、ヴェニゼロスは彼らの支持を失うことになる。なお、オスマン帝国の時代から繁栄していた大都市テッサロニキ(サロニカ)はギリシャ編入後はアテネに次ぐ第二の都市となった。しかし、ここはもともとユダヤ人が多数派を占めており、反ユダヤ主義的だったヴェニゼロスは「ギリシャ化」するためギリシャ人難民をここに集中的に住まわせる政策をとった。(※この都市をめぐる歴史については、Mark Mazower, Salonica, City of Ghosts: Christians, Muslims and Jews 1430-1950で描かれている。手元にあるのだが、まだ通読しておらず、邦訳を刊行してくれる版元があったら嬉しい)

 独立当初から分裂抗争を繰り返してきたギリシャにおいては軍事クーデターも頻発した(こうした中、日露戦争に刺激されて改革を志したディミトリオス・グナリスなど7人の政治家が「日本人党」と呼ばれたのが興味深い)。そこでカリスマ的な指導者として頭角を示したのが、クレタ蜂起の活躍で名声の轟いたヴェニゼロスであった。彼は一連の近代化政策で大きな実績をあげたが、第一次世界大戦にあたり中立の態度を取ろうとした国王に対し彼は連合国側に立っての参戦を主張、結果としてヴェニゼロスの判断が正しかったにせよ、国王支持派との対立は再び国内を分裂させることになってしまった(ヴェニゼロスは1936年に亡命先のパリで死去)。

 国内の分裂抗争はギリシャ政治の習い性になってしまったものか、第二次世界大戦後になると今度は左翼・共産主義勢力との内戦が激化、共産主義者はギリシャ民族とは異質な存在と位置づけられて次々と殺害されていく。ところが、軍事政権の強硬姿勢に耐え切れなくなった国王コンスタンディノス2世はローマに亡命。パパドプロスは王制を廃止して自ら大統領に就任、強圧的かつ時代錯誤な政策を断行した。反体制運動が盛り上がる中、これまで対立してきた左右両翼の政治家や知識人たちはようやく結束、1974年の民主化へとつながっていく。これ以降、カラマンリスが結成した新民主主義党(ND)とアンドレアス・パパンドレウ(最近辞任したパパンドレウ首相の父親)率いる全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が交互に政権交代を行う政党政治が確立する。

 しかしながら、PASOKは特権なき者への政治をスローガンにしつつも、実際には借金に依存したバラマキであった。対抗勢力たるNDもこれに追随してチェック機能を果たすことができず、財政は悪化する一方、結果として現在のユーロ危機につながっていく。

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2012年3月 4日 (日)

クリスティアン・アングラオ『ナチスの知識人部隊』

クリスティアン・アングラオ(吉田晴美訳)『ナチスの知識人部隊』(河出書房新社、2012年)

 頭脳明晰で教養豊かな若者たちがなぜナチスに積極的に加担したのか?というテーマを追求するため、大学卒業者80人の経歴を分析した研究である。フランス人研究者による著作で、もともとは博士論文のようだ。殺戮行為を正当化した信仰システムの担い手として彼らSS知識人を位置づけ、第一次世界大戦で形成された戦争文化がその信仰システムに影響を与えたことが強調されている。
 思想内容よりも、メカニズムの分析が中心。以下にメモ書きしておくと、
・SS知識人は中産階級出身→第一次世界大戦期に支配的だった表現システムを伝達する主要媒体の一つ→戦争文化が前線から後方へ、富裕層から庶民層へ、大人から子供へと拡散→戦争文化を通して戦争に意味を与え、民間人にも犠牲の正当性を納得させる。
・大学は知的形成の時期であると同時に、政治的社会化の時期でもある。歴史は「正当化の学問」「闘う学問」→学問的厳密さを闘争的欲求へと結びつけ、戦争の正当化、敵のイメージの形成に寄与。
・ナチスは反知性主義?→ナチス独自のコンテクストの中で知的優秀さの規範があり、これに従って彼らは職務遂行。
・「東部出動」という試練→殺戮部隊の指揮を取り、この職務をこなした者には昇進が約束された。

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2011年9月24日 (土)

冨田浩司『危機の指導者 チャーチル』

 チャーチルの人生は紆余曲折が目まぐるしく、彼に対する好悪は別として、エピソードのつなげ方、描き方によっては読み応えのあるものに仕立て上げる素材として十分な魅力がある。彼については日本でも一定数の本が出ている。中でも代表的なものを挙げるとしたら河合秀和『チャーチル──イギリス現代史を転換させた一人の政治家』(増補版、中公新書、1998年)がバランスのとれた評伝である。

 もちろんイギリスではそれこそ汗牛充棟という表現がふさわしいはずだ。私自身はチャーチルに対して特別な関心はないが、最近たまたま読んだPaul Johnson, Churchill(Viking, 2009→こちら)は、逼塞していた時期から第二次世界大戦で強力な指導者として表舞台に駆け上がる流れの描写がドラマチックでなかなか面白かった覚えがある。つい先日、惜しくもお亡くなりになった名翻訳家の山岡洋一氏がこの本の翻訳に取り掛かろうとしていたと仄聞する。危機におけるリーダーシップのあり方というテーマを打ち出したかったらしい。

 東日本大震災、原発事故という未曾有の事態に直面しているにもかかわらず政治が機能不全に陥っている状況を目の当たりにして、リーダーシップ論への関心が高くなっている。冨田浩司『危機の指導者 チャーチル』(新潮選書、2011年)はタイトルが示すとおり、チャーチルの生涯をたどる中からリーダーシップの条件を考察する構成になっている。著者は現役外交官で、多忙な業務のかたわら「日曜研究家」として本書を書き上げたと謙遜するが、筆致はしっかりしていて興味深く読んだ。

 第二次世界大戦の開戦後、1940年5月の「ノルウェー討議」」をめぐるエピソードが興味深い。首相ネヴィル・チェンバレンに対しては与党・保守党内でも不満がくすぶっていて造反が見込まれ、野党・労働党は彼を拒絶して大連立の目算は立たず、かつて第一次世界大戦でイギリスを率いた自由党のロイド=ジョージは「早く辞めたまえ」という趣旨の演説をしたり…似たような光景をつい最近見たばかりだなあ、と妙な既視感も覚えるが、それはともかく。チェンバレンは辞任したが、イギリスでは首相は国王の任命による。チェンバレンの後任にはハリファックス外相が想定されていたが、彼は辞退した。国王ジョージ6世はチェンバレンの助言も受けてチャーチルを後任に指名する。国家存亡の危機において、最もふさわしい指導者を選び出す能力が当時のイギリスにはあったと本書では評価される。イギリスは、権力の濫用に対して様々な形で歯止めをかけつつ、政治は人が行うということを正面から受け止めた仕組みを持っており、その点では「人治」の国であるという指摘は本書独特の視点であろうか。

 他方、戦争が終わった後、保守党は総選挙で敗北した。チャーチルは「労働党政権になったら統制が強まる、「ゲシュタポ」的手法で自由が抑圧される」という趣旨のネガティヴ・キャンペーンをやったらしいが、彼の目論みは完全に外れた。国家が社会経済に介入する戦時体制において、それは総力戦のための動員であった一方、一般の多くの人々は安定的な職に就くことができるようになっていた。チャーチルの張った論陣は、「自由」の擁護を建前としながらも、戦前の階級社会に戻す口実に過ぎないとしか一般には受け止められなかったらしい。戦争は終わっても戦前には戻りたくない、そうした世論の動向を読み誤っていた。非常時のリーダーと平時のリーダー、その使い分けという国民的知恵であったと言えるのかもしれない。

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