カテゴリー「東南アジア」の48件の記事

2014年12月17日 (水)

寺見元恵『フィリピンの独立と日本──リカルテ将軍とラウレル大統領』

寺見元恵『フィリピンの独立と日本──リカルテ将軍とラウレル大統領』(彩流社、2014年)

  16世紀以来、スペインの圧政下にあったフィリピンでは19世紀にホセ=リサールが現れてから反植民地闘争が活発化、リカルト(1866~1945年)もその中で名を挙げた一人である。1898年の米西戦争にあたり、フィリピン独立というアメリカの約束を信じたアギナルドやリカルトといった革命家たちはアメリカ軍に協力したが、約束を反故にされると反米闘争に転じる。しかし、残酷なまでに徹底した掃討作戦で反米ゲリラ闘争は壊滅し、リカルトは日本へ亡命した。日本ではアジア主義者やラス・ビハリ・ボースなど他国の亡命者と交流を持つ。

  フィリピンを領有したアメリカはインフラ整備や教育など近代化政策を推進。ただし、英語話者を統治エリートとして養成する一方で、フィリピン在来の文化は軽蔑される植民地支配の中でフィリピン人の不満は消えなかった。本書のもう一人の主人公、ラウレル(1891~1959年)はフィリピン大学法学部を卒業、イェール大学で博士号も取得した典型的なエリートだが、他方で「フィリピン人のためのフィリピン」という理念を抱いており、将来の国家建設に向けては日本をモデルにする意図もあったという。彼は「フィリピン選挙法」という論文を東京帝国大学に提出して博士号も取得しており、日本と関わりを持とうとする彼の志向性がうかがわれる。

  フィリピン人の不満を見て取ったアメリカは1916年のジョーンズ法で1946年の独立を約束、そのための準備期間としてコモンウェルスが成立、ケソンが初代大統領に就任し、ラウエルはその下で司法長官を務めることになる。

  1941年12月、日本軍が真珠湾を攻撃、シンガポールも攻略して南方へと戦線が拡大する中、日本へ亡命していたリカルトは参謀本部への出頭を命じられた。フィリピン「解放」への協力を求められたリカルトは日本軍と共に約30年ぶりに故国へと凱旋する。リカルトは独立フィリピン政府の首班には自らが就任するものと思い込んでいたが、日本軍は在来の行政機関の中から人材を作用して統治機構を整備する方針であり、ケソンがフィリピンを離れた後、後事を託されてマニラに残留していたラウレルが大統領に就任する。ラウレルはアメリカ教育を受けたエリートではあったが、日本軍の占領下という機会を利用して主体的に「脱アメリカ」政策を進めたと指摘される。

  日本軍に積極的に協力した独立の闘士リカルト。アメリカ施政下で育ったエリートのラウレル。出身背景も世代も異なる二人だが、「フィリピン人のためのフィリピン」という目標では共通していた。こうした二人が日本とアメリカという二つの外来者に翻弄された葛藤を軸として、フィリピンが独立へと向かう近現代史の様相を本書はヴィヴィッドに描き出している。

  戦後、日本軍占領下でラウレルが傀儡大統領に就任した点をアメリカ政府は問題視し、彼は戦犯として逮捕された。しかし、彼が戦時下、日本軍から次々と突きつけられた理不尽な要求をはねつけ、抗日ゲリラ容疑で捕まっていたフィリピン人の助命に尽力したことは多くの人々に記憶されており、後にロハス大統領の特赦で釈放される。ラウレルは大統領選に出馬した際は選挙妨害に遭って落選したが、上院議員にはトップ当選を果たした。

  リカルトは対米抗戦のため戦争末期に義勇軍まで組織したが、結局は日本軍から使い捨てにされてしまい、1945年7月、老体には過酷な逃避行の中で衰弱して世を去った。反米強硬派のイメージが強いリカルトだが、将来の独立を果たせるならアメリカを支持してもいいと考えていた時期もあったらしい。リカルテは1966年、当時のマルコス政権によって初めて国家の英雄と顕彰されることになった。フィリピンでは40年にわたるアメリカの植民教育の影響で反米的な人物の評価がなかなか定まらず、フィリピンを主体とする歴史が書かれるようになったのは1960~70年代になってからだという。

  フィリピン独立史の過程を見ながら私が第一に関心を持ったのは、二つの日本イメージがフィリピンで交錯していたこと。日清・日露戦争で勝利した日本の存在感はフィリピンの革命家たちからも注目されており、反スペイン闘争の頃から日本の援助を期待する気運があった。他方で、対米開戦によりフィリピンへ進駐してきた日本軍の粗暴さ、残虐さはフィリピン人の反感を大きく掻き立てることになってしまった。

  第二に、リカルテとラウレルの二人の行動様式は、例えば根本敬『抵抗と協力のはざま──近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(岩波書店、2010年→こちらを参照)で示された「抵抗と協力のはざま」という枠組みで捉えることができるだろう。すなわち、ナショナリストとしての立場を維持しながらも宗主国もしくは占領者と協力、一定の信頼をかち取り、この関係をテコとした政治的バーゲニングによって独立という最終的目標を目指した行動様式を指している。

  第三に、植民地化・脱植民地化のプロセスという点で台湾との比較もできるかもしれない。まず、①アメリカのフィリピン占領時、日本の台湾占領時とも、反対闘争がゲリラ戦として長期化し、双方のケースとも残虐な弾圧によっておびただしい犠牲者を出している。そうであるにもかかわらず、②その後の教育を中心とした近代化政策によって支配国(アメリカ、日本)への忠誠心や親近感をある程度まで醸成することができた。その後、③「解放者」であるはずのフィリピンへ進駐した日本軍、台湾を接収した中華民国軍は、双方とも過酷な収奪政策を採ったため、現地民の反感を煽り立ててしまった。

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2013年6月 2日 (日)

岩崎育夫『物語シンガポールの歴史──エリート開発主義国家の200年』、田村慶子『多民族国家シンガポールの政治と言語──「消滅」した南洋大学の25年』他

 シンガポールはもともと出稼ぎ移民の寄り集まりに過ぎなかった。歴史的・社会的な背景に基づいて国家が現われたのではなく、国家が成立してからその内部としての社会が形成された点では、世界史的に見て独特である。いわば無から国家が立ち現われていく上で、リー・クワンユー(李光耀)のイニシアティヴが極めて大きかった。人材以外にこれといった資源もない狭小な島国が生き残るため徹底した効率性を求める統治スタイルは、リー・クワンユーを創業者とする株式会社に見立てると分かりやすい。

 岩崎育夫『物語シンガポールの歴史──エリート開発主義国家の200年』(中公新書、2013年)はこの国の歴史を叙述する中で経済立国の特徴を明らかにしてくれる。

 最先端の金融センターとして高層ビルが建ち並ぶシンガポールも、200年前にはほとんど人もいないジャングルに覆われた小島に過ぎなかった。貿易拠点としての将来性に目をつけた東インド会社のラッフルズは独断でこの島を取得、自由港として開港すると、近隣のマレー系住民ばかりでなく、華僑やインド系など各地から様々な人々がビジネス・チャンスを求めて集まってきた。経済的繁栄と人種的多様性というシンガポールの特徴はこの頃からうかがえる。

 第二次世界大戦でシンガポールは日本軍に占領された。華人系住民の虐殺など過酷な占領統治に反感を募らせる一方、逃げ出したイギリス人には幻滅する。自分たちの生活は自分たち自身で守るしかない──独立の気運が高まる中に若きリー・クワンユーの姿もあった。

 華人が75%を占めるほか、マレー系、インド系など多民族の織り成す都市。リー・クワンユー自身は英語を話す植民地エリートであって、華人としての民族意識は持ち合わせていない。しかし、政治的基盤としての大衆組織が必要であったため、華人の共産系グループと手を組んで人民行動党を結成した。1959年、英連邦内自治州となるのに合わせて実施された総選挙で人民行動党は勝利、リーは州首相に就任する。

 将来を見越した経済建設のため彼は工業化を推進する。そのためには市場が必要だが、シンガポールは小さい。そこで、隣のマレーシアを市場とするため合併を目指す。1963年9月に合併を果たしたものの、マレーシアのラーマン首相は共産化を懸念しており、人民行動党内の共産系グループは離党して社会主義戦線を結成。リーはマレーシア政府と連携してこれを弾圧し、人民行動党の優位を確立した。

 しかしながら、リーは立て続けに手ひどい挫折を味わうことになる。第一に、もう一つの市場と想定したインドネシアとの関係である。シンガポールがマレーシアに入ると、華人系の人口がマレー系を若干上回ることになり、ブミプトラ(マレー人第一)政策にとって都合が良くない。そこでマレーシアのラーマン首相は、マレー系人口の優位を保つため、ボルネオの英領サバ・サラワク二州を併合してマレーシア連邦を成立させた。ところが、サバ・サラワクはインドネシア領だと主張するスカルノが武力も辞さないマレーシア対決政策を打ち出し、シンガポールの対インドネシア貿易はストップしてしまった。1965年の九・三〇事件でスカルノが失脚してこの問題は片付いたものの、今度は第二の問題に直面する。シンガポールの突出した経済力はマレーシア中央政府との軋轢を生じさせ、1965年にラーマン首相はシンガポールの追放を決定、否応なく独立を迫られた。記者会見でリーは泣いたという。悲しみに打ちひしがれながらいやいや独立するなんて珍しい。いずれにせよ、シンガポールは逆境の中、なりふりかまわず生き残り戦略を追求せざるを得ず、それが結果として高度な経済立国を実現させることになるのは皮肉である。

 それでも、隣国マレーシア、インドネシアとの関係は死活問題であり、協調関係に腐心する。さらにASEANの活用、イスラエルをモデルとした国防体制、最後の保険としてのアメリカ依存など、外交・安全保障には周到な注意を払っている。

 小国が生き残るために手段を選ばないのがシンガポールの政治方針である。政権与党・人民行動党は特定の政治イデオロギーや政治理念など持たず、とにかく徹底したプラグマティズムから現実的な政策立案・実行能力を持つことを唯一の特徴とする。希少な資源を有効活用するため官僚主導の開発体制を構築し、党・政府・企業が事実上一体となった形で経済運営が行われる。他方で、党の意向に逆らうことは許されず、選挙制度を持つ民主主義国家でありながら、野党は弾圧されて議席を持つことは極めて難しい。華人系企業家はかつて人民行動党と対立したため完全に自助努力だという。リーは華人意識を持たないが、その一方で中国との経済関係が重要となれば、シンガポールの「華人国家」としての性格を強調する。民族意識も経済発展の武器となるならドライに割り切って使いこなすあたり、プラグマティズムが徹底している。

 国民には能力主義が求められ、常に最新の経済モデルを追求し続けなければならないなど、ある種の息苦しさも感じられる。資源のない小国にとって、人間の頭脳は貴重な資源である。そこで人民行動党は優秀な人材を育成・リクルートするシステムを張り巡らしている。その様子は田村慶子『頭脳国家シンガポール──超管理の彼方に』(講談社現代新書、1993年)にうかがわれるが、学歴至上主義、時には遺伝子主義による人材選別など(例えば、高学歴者同士の結婚を奨励する一方、低学歴者には避妊を推奨)、かなり極端である。リー・クワンユー自身の家族がみなエリートで「優秀さ」の具体例となっており、彼はこの方針に確信を持っているという。また、シンガポールに際立った文化はない。これもやはり、文化を無用の長物と考える彼のプラグマティズムの表われであろう。

 経済的なプラグマティズムと政治的な権威主義の組み合わせがリー・クワンユーのスタイルである。しかし、そうした彼の手法は、時代が変わるにつれて国民意識との乖離も目立ってくる。人民行動党は建国以来、常に国会の議席をほぼ独占していたが、2011年の総選挙では全議席87のうち野党に6議席を許してしまった。野党には政権担当能力が期待できないため、人民行動党政権が揺らぐわけではない。国民の大多数も経済発展がなければ自分たちの生活が危ういことは理解しており、こうした批判票は政権交代を求めているのではなく、不満の意思表示であったと考えられる。リーの権威主義的政治手法が上からの一方通行であったのに対し、こうした批判票によって政府に方針転換を迫る、つまり双方向的な政治コミュニケーションへ変化していると捉えられるようだ。

 シンガポールは多民族国家として英語、華語、マレー語、タミル語に優劣がないのが建前であるが、マレーシアとの統合を前提としていたのでマレー語が国語であり、事実上の公用語は英語となっている。華人の中でもリー・クワンユーなど政治エリートは英語に基づく国民形成を図ったが、そこには「華人」色が強く出てしまうと、近隣諸国から警戒されるという懸念も背景にあった。

 他方で、華語や中国の伝統文化を保持しながら、他民族との協調を図ろうと考える人々もいた。華人グループの指導者であったタン・ラークサイ(陳六使)は華語を話す若者のための教育機関がないことを憂えて1956年に南洋大学を創設した。中国以外で華僑が設立した唯一の大学である。田村慶子『多民族国家シンガポールの政治と言語──「消滅」した南洋大学の25年』(明石書店、2013年)は、南洋大学をめぐる政府当局とのせめぎ合いに注目し、人口では多数を占める華語派が、政治権力を握る英語派によって周縁化されていく過程を浮き彫りにする。華人系には共産系グループの力も大きく、南洋大学は「共産主義の温床」になるという警戒心もあったため、タン・ラークサイは初代学長として国民党支持者の林語堂を招いたが、大学の運営方針をめぐって仲違いしてしまったらしい。

 なお、タン・ラークサイを引き上げた華人実業家のタン・カーキー(陳嘉庚)はシンガポールで成功した後、故郷で廈門大学を創設したほか、抗日戦争で中国共産党に資金援助をしており、中華人民共和国の成立後、中国へ戻っている。その後をついでシンガポールの華人指導者になったのがタン・ラークサイであった。 

 南洋大学は英語大学として再編されながら、最終的には1980年、国立シンガポール大学に併合された(跡地には現在の南洋理工大学が設立された)。南大消滅後になって華語を奨励する「多讲华语,少说方语」運動が始まったのも皮肉である。これには、第一に、華語とはいっても出身地ごとに様々な方言が話されており、華人同士でもコミュニケーションがうまくいかないケースがあったのでそれを普通話に統一させること、第二に華語を通して「アジア的価値」による道徳意識を植え付けようとしたこと、第三に対中国経済交流が意図されていたという。

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2013年5月14日 (火)

佐藤孝一『「中国脅威論」とASEAN諸国──安全保障・経済をめぐる会議外交の展開』

佐藤孝一『「中国脅威論」とASEAN諸国──安全保障・経済をめぐる会議外交の展開』(勁草書房、2012年)

ASEANはもともと隣国同士で紛争の火種がくすぶっていたので域内諸国間の摩擦を鎮静化することを目的として出発し、またベトナム戦争の飛び火も恐れて、1967年にインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの5カ国で結成された。ただし、互いの疑心暗鬼は消えておらず、ソ連や中国を刺激したくないという思惑もあったため、拘束力の弱い宣言で設立され、目立つ機構化は避けるという形で出発した。ASEANは弱小国の集まりである。しかし、1国では相手にしてもらえなくても域外大国とも集団交渉で協議を進めてきたのが持ち味であり、さらに交渉相手国に応じて国際会議を分離し、会議外交の重層化・多元化という特徴を示すようになっている。

小国の集まりであるASEANにとって、良くも悪くも巨大な存在感を持つ中国の動向には敏感となる。「中国脅威論」に基づいて提起されたテーマは下記に挙げたように様々であるが、こうした課題に直面したASEAN諸国は「弱者の武器」としての会議外交によってどのように抑え込みを図ってきたのか? 本書では具体的なケースが検討されるが、ASEANの会議外交は能力に見合った成果を挙げているものの、大国相手の限界も同時に浮き彫りにされる。

「中国脅威論」として6つの要素が示されているが、ステージごとに考えると、歴史的問題(1940年代~1989年)→南シナ海紛争・SEANWFZ構想(1974~2005年)→経済問題(1993~2007年)→非伝統的安全保障問題(2003~2007年)という時期区分ができる。つまり、当初は政治的紛争が中心であったが、近年では経済や保健衛生など政治的能力・意思では解決のできない分野へと焦点が移りつつあることがうかがえる。

・「中国脅威論」の要素として何が挙げられるか?
①歴史的要素:中国共産党が東南アジア諸国内の共産党を支援した過去。
②軍事的要素:国防費の増大及び国防の近代化。中国軍の海洋進出。中国の武器移転。
③政治的要素:領土・領海紛争。中国における愛国主義の高まり。「大中華」形成への懸念。華人が多いシンガポールは中国との取引が増えるにつれて中国べったりという印象からASEAN内で孤立する懸念。民主主義・人権問題。
④経済的要素:貿易摩擦。「大中華」経済圏の懸念。中国における人口増大及びエネルギー需要の急増。
⑤非伝統的安全保障要素:環境問題。感染症や食品衛生の問題。
⑥規模の要素:巨大さそのものによる圧迫感。

・ASEANレジームの特徴
①拘束が少なく、政策決定は全会一致とする緩やかな会議形態→最大公約数的な要求しか提起できない一方、域外の交渉相手国(中国)を怒らせないようトーンダウンするケースもある。
② 紛争当事者の間の対話の維持と継続を優先させる。
③国際会議を地域協力の促進の基礎とする。
④必要に応じて新たな国際会議を設立して組織の強化と国際環境への適応を図る。
⑤会議の主催国・議長国を加盟諸国が担当。
⑥非公式協議の活用。

(以下は関心を持った箇所のメモ)
・投資額や出稼ぎ労働者の行き先などを考えるとASEANにとって台湾の経済的重要性は無視できない。当然ながら、対中関係で大きなネックとなるが、中国側の「1つの中国」政策に一貫性がないため、ASEAN側は難しい舵取りを迫られる。例えば、シンガポールは要人の台湾来訪に際して中国側に配慮していたが、突如、中国側の態度が強硬になった。陳水扁政権で中台関係が悪化していた頃で、シンガポールに対する反発というよりは、台湾との交流を抑止する手段としてシンガポールを非難した。裏返せば、中台関係が安定していれば、ASEAN諸国の台湾との関係も安定する。

・南シナ海の領土紛争には多くの当事国の利害が錯綜しており、とりわけスプラトリー諸島には中国、台湾、ベトナム、マレーシア、フィリピン、ブルネイが関わる。ASEAN加盟国同士でも領土対立があるため一枚岩ではない。当然ながら自国の権益を優先して考えるため、会議外交の持ち味を出しづらく、中国は会議外交に応ずるのではなく二国間交渉を進めようとした。これに応じて、例えばマレーシアは、スプラトリー諸島の定義が定まっていないことに着目し、その範囲を狭く定義し直す中で自らの主張する島嶼はそこから外し、その上で中国の主権を認めるという妥協案で中国側と交渉する意向もあったらしい。また、軍事的に劣勢なフィリピンに対しては他の加盟国も容赦ない態度を取った。他方、フィリピンが領有を主張するミスチーフ礁を人民解放軍が占拠した際(1995年)、中国の外交部はその事実を知らなかったという。2002年、強制力のない「南シナ海における係争当事者間の行動宣言」が合意され、2003年に中国はTAC(東南アジア友好協力条約)に域外国として加盟、「平和と繁栄のためのASEAN中国戦略的パートナーシップ宣言」も出された。これは外相主導の合意→中国では外交部と人民解放軍との連携が密ではないため、人民解放軍を加えると交渉が紛糾する恐れがあった。こうした合意に拘束力は弱いとはいえ、中国を国際的監視の下に置けた意味では成果と言える。中・比・越の共同探査も行われたが、中国が今後も融和的な態度を取るかどうかは分からない。

・SEANWFZ(東南アジア非核兵器地帯)構想は冷戦の東西対立巻き込まれるのを回避するために出された1971年のZOPFAN(東南アジア平和・自由・中立地帯)宣言までさかのぼるが、1983年からインドネシア政府の主導で議論され、1997年に条約として発効した。ただし、条約化しても非力なASEAN諸国では実現するのは難しい。なぜ急いで条約化したのか? まず会議外交の結集点としての役割があるだろうが、SEANWFZ条約に含まれる次の2点、すなわち、第一に加盟国領域だけでなく大陸棚や排他的経済水域まで及び、第二に原子力潜水艦の航行が制限されることを考えると、中国向けのメッセージとしての意味合いもあるのではないかと推測される。南シナ海にのびたU字線は中国の領土拡張の意思、ミスチーフ礁の占拠はその具体的な実施、核実験や台湾危機におけるミサイル演習など軍事力の誇示、さらに台湾危機は台湾への出稼ぎにも影響、こういった要因をASEAN側は脅威と受け止めていた。

・東南アジアの華人が市場原理に基づいて対中投資を進めたとしても、他のエスニック・グループから「大中華経済圏」「中国脅威論」の猜疑心を招いてしまうおそれ。華人が多いシンガポールの政治指導者はASEAN内部での孤立を懸念して火消しに躍起になっていた。また、シンガポール製品の輸出市場を中国に独占されるのではないかという要素も強かった。2002年に締結されたACFTA(ASEAN中国自由貿易地域)は中国からの譲歩も得ており、会議外交の成果。

・非伝統的安全保障問題の一例として、中国で発生したSARSの拡大。WHOは中国を非難したため中国の態度は硬くなっていたが、シンガポールのゴー・チョクドン首相のイニシアティブによってWHOとASEAN首脳会議、ASEAN中国首脳会議が連携し、SARS拡散食い止めに尽力。ASEAN側は会議外交の枠組みを通して中国を説得できたが、中国の責任追及まではできなかった。他に、メコン川の水資源配分に関わる環境問題。食品衛生問題では自らの非を認めることはなく、逆に報復措置→ASEANは会議外交の枠組みで粘り強く交渉。相手のメンツをつぶさない会議外交方式は中国相手には一定の効果。中国国内において悪しき官僚主義や秘密主義で横の連携ができないことによる対策や情報伝達の遅れ、不作為も「中国脅威論」の政治的要素となる。

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2013年4月17日 (水)

永井均『フィリピンBC級戦犯裁判』

永井均『フィリピンBC級戦犯裁判』(講談社選書メチエ、2013年)

 フィリピンは1946年7月4日に独立し、日本軍将兵に対する戦犯裁判を実施した。起訴された151名のうち52%にあたる79名に死刑宣告が下された。他の地域では平均して22%であったのと比べると極刑宣告の比率の高さが際立ち、日本側はフィリピンの裁判は厳しすぎるという印象を抱いた。その一方で、実際に死刑が執行されたのは2割に留まり、他の連合国での執行率が8割だったのとは対照的である。こうした数字の差の背景には、独立国家フィリピンの難しい立場が反映されていた。

 1945年2月のマニラ市街戦ではアメリカ軍の掃討によって日本軍のほとんどが全滅、死者は1万6千人を超えた。だが、この市街戦で巻き添えになった無辜の民間人の犠牲者は10万人にものぼり、その中には追い詰められた日本兵によって殺害されたケースも数多く含まれていた。フィリピン戦線に動員された日本兵61万3600人のうち約80%にあたる50万人近くが落命したが、その大半は餓死であった。こうした苦境から生き残った者たちは、敗戦の悔しさに打ちひしがれ、そこにフィリピン人から罵声を浴びせられ(まさに自分たちが使っていた「バカヤロー」という日本語で)、反感を募らせる。他方で、家族を無残に殺されたフィリピン市民の憎しみは根深い。対日憎悪の世論は極めて険しく、日本人とフィリピン人とではその受け止め方に大きなギャップがあった。

 新たな独立国家として面目を保つため、公正な裁判を心がけねばならない。対日憎悪の世論が盛り上がる一方で、司法当局者は誠実に日本人戦犯と向き合おうとした。そうした真摯な態度は、日本の戦犯の心にも響いたようだ。

 さらに大きな問題がある。冷戦対立が深刻化する中、安全保障の面から日本との外交関係回復がアメリカから求められ、国家再建のためにも日本との経済関係は必要となった。しかしながら、フィリピン国民は戦争の惨禍を忘れていない。そうした政治的要請と国内世論との板ばさみとなった葛藤が、本書ではキリノ大統領に焦点を合わせて描かれる。実は、他ならぬキリノ自身、妻と子供たちをマニラの市街戦で失い、血みどろになった娘の死体をこの手で抱き上げた記憶はいつまでも消し去ることはできない。怒りと赦し、その葛藤は単に公人としての責務というだけでなく、キリスト教信仰によって何とか克服しようとしていた。

 戦犯裁判の規定で死刑については大統領の最終決定を要するとされており、当初から高度な政治判断の余地が残されていた。最終的に対日関係回復のため死刑囚の恩赦が行われた。ただしそれは、冷戦の論理に基づく政治判断であって、一般国民の感情的問題は置き去りにされたままという矛盾は残った。赦すにしても、日本側が自らの責任を認めることが大前提だというフィリピン側の願いはどこまで通ったのだろうか。

 本書は日本軍による残虐行為の状況、戦犯裁判の過程、モンテンルパの刑務所に収容された戦犯たちへのフィリピン司法当局者の態度と日本での戦犯支援運動、そして恩赦に至る政治過程でのキリノ大統領の葛藤を描き出している。マルチアーカイヴァルな手法を駆使した成果だが、それは単に欠落した史料を補うというだけでなく、各国ごとに異なる当事者それぞれの思惑の多元的な様相が浮かび上がってくる。憎しみばかりでなく、心を通わせる信頼関係もあったからこそ物事が動いた側面もあった。そうした政治の論理だけではオミットされかねない当事者の様々な心情の揺れが垣間見える。そこからは同時に、怨念と赦しとが現実政治のロジックによって架橋された「和解」をいかに本物にしていくか、そうした難しく重いテーマを問いかけてくる。

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2013年3月 5日 (火)

舟越美夏『人はなぜ人を殺したのか──ポル・ポト派、語る』

舟越美夏『人はなぜ人を殺したのか──ポル・ポト派、語る』(毎日新聞社、2013年)

 水と太陽の光に恵まれ、本来ならば豊穣であったはずのカンボジアの大地。フランスから独立を得たものの、深刻な政治腐敗、相次ぐ政争や内戦、さらには泥沼化したベトナム戦争の戦火が飛び火して猛烈な爆撃に見舞われ、人々はあらゆる政治に倦んでいた。そうした中、「理想」を掲げて勢力を拡大、1975年に親米のロン・ノル政権を倒したポル・ポト派の出現は、一時なりとも人心を引きつけた。ようやく、戦乱が終わる──そう思ったのも束の間、ポル・ポト政権時代の3年余りは飢餓と殺戮でこの豊穣な大地をさらなる地獄絵図に変えてしまった。

 なぜ、このような悲劇が起こったのか? 著者は共同通信記者で、本書は存命中のポル・ポト派最高幹部にインタビューを重ねた記録である。もちろん、彼らの多くが自己弁明に終始する以上、悲劇の真相に迫るのはなかなか難しい。むしろ、取材のセッティングに奔走した共同通信プノンペン支局の現地スタッフ、チャン・クリスナーの「真相を知りたい」という情熱が本書の軸となる──彼はポル・ポト政権時代に両親を殺され、キリング・フィールドを生き抜いた一人であった。

 ポル・ポトの義弟にあたり、外交担当副首相として海外を飛び回ったイエン・サリは仲違いしたポル・ポトを厳しく批判する一方、2万人近くが拷問・殺害された政治犯強制収容所(通称、S21)について自分は海外にいたから知らなかったと言う。ポル・ポト政権で国家元首にあたる国家幹部会議長の地位にあったキュー・サムファンは「私のような知識人としては」という口癖を織り交ぜながら、自分には何も権限はなかったと言い訳を繰り返す。外務省幹部だったスオン・シクーン、かつてポル・ポトのクラスメートだったピン・ソイ、ポル・ポトの秘書を務めたテプ・クナルはそれぞれの見た政権の内幕を語る。

 こうした中、ポル・ポトと共に政権の実力者であったヌオン・チアは「祖国に人生を捧げた」ことへの正しさを疑わないながらも、率直に語る。また、彼に寄り添ってきた妻のリー・キム・セインが、昔のポル・ポトたちの穏やかを思い浮かべる一方、イエン・サリの妻であるイエン・チリト(姉のキュー・ポナリーはポル・ポトの妻で二人ともポト派の最高幹部)が、完全平等な社会を目指していたにもかかわらず、自らの教養を鼻にかけて農民出身の自分を軽蔑していた、と怒っているのも印象的だった。

 ポル・ポト派においてオンカー(組織)の命令は絶対であった。他方で、徹底した秘密主義は組織内部に疑心暗鬼を生じさせ、内紛の種は早い段階から萌していた。ポル・ポト派を離脱したヘン・サムリンたちはベトナム軍と共にプノンペンを制圧、ポル・ポト派はタイ国境近くのジャングルへ根拠地を置く。最初にカンボジア政府軍へと投降したのはイエン・サリである。国防相として軍事面の実力者であったソン・センはカンボジア政府との連絡が「裏切り」とみなされてポル・ポトの指示により一家皆殺し。自らも粛清されるのを恐れたタ・モク参謀総長はポル・ポトを逮捕、人民裁判にかけて軟禁した上で最高実力者を自称。1998年4月にポル・ポトが死ぬと(死因は謎のまま)、ヌオン・チアとキュー・サムファンが投降。翌年にはタ・モクが拘束されて、ポル・ポト派は消滅する。

 チャン・クリスナーは自らの両親がポル・ポト派に殺害されたにもかかわらず、何くれとなくヌオン・チア夫妻の面倒を見るのは不思議な光景だ。実は、クリスナーの父親はロン・ノル政権軍の司令官、母方の祖父はシアヌーク政権で首相を務めており、二人とも左派に対して過酷な弾圧を指揮する当事者であった。彼はそうしたことを包み隠さずヌオン・チアに話し、父と祖父のことを謝罪した上で、家族が殺された恨みをも語る。ヌオン・チアもまた彼の率直さを信じたようだ(ポル・ポト派では徹底した秘密主義を敷くためにこそ、嘘偽りを見抜くのに敏感だったという)。

 殺す者、殺される者が複雑な因果をなしている。人間はどの側にいようとも、心の奥底に残酷さを秘めている、とクリスナーはつぶやく。「あまりにも多くの人がかかわっていて、どの人を憎めばいいのか分からない」。そうした因果を断ち切り、将来に繰り返さないためにこそ、彼は真相を知りたいと願っている。「真実はあるが、正義はない」というヌオン・チアの発言も気にかかる。もちろん、彼の場合には自らの「信念」を正当化する意図があるのは確かだが、他方で、当時の国際政治的な力学がポル・ポト政権を成立させた側面も否定はできず、彼らのみに責任を帰して問題が解決するわけではない。

 2003年、ポル・ポト派幹部を裁く特別法廷は国際法廷ではなく、国内法廷(つまり、カンボジア政府の影響力を行使できる状態)を支援する形で成立したが、これにはカンボジア国内の政局も関わっているようだ。2007年に上述のヌオン・チア、イエン・サリ、キュー・サムファン、イエン・チリトを含む最高幹部が逮捕されたが、体調の問題で判決の見通しは立っていない。

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2012年10月17日 (水)

【メモ】カンボジアの民族主義者、ソン・ゴク・タン(Son Ngoc Thanh)について

 シアヌークの死去を受けて、彼の激動の生涯も興味深いと思い、何か読んでみようと手始めにミルトン・オズボーン(石澤良昭監訳、小倉貞男訳)『シハヌーク──悲劇のカンボジア現代史』(岩波書店、1996年)を手に取ったのだが、むしろシアヌークの政敵として立ちはだかったソン・ゴク・タン(Son Ngoc Thanh、1908年12月7日~1977年)の方に興味が引かれた。彼の名前は、つい最近読んだばかりの玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢──志を継いだ青年たちの物語』(平凡社新書、2012年→こちら)にも出てきて、気になっていた。

 近代的なナショナリズムから植民地支配に抵抗しようとしたところ、「敵の敵は味方」の論理に従って、後から登場した日本軍と協力したという軌跡は東南アジア各地の革命家たちもたどったパターンの一つである。また、当初の親日的姿勢が戦後は反共意識から親米となった経緯は、例えばタイのピブンソンクラームなどとも共通する。そう言えば、反共ではあっても、必ずしも王制支持とも限らないと周囲から疑われていた点でも、シアヌークと対立し続けたソン・ゴク・タンと、王党派から常に警戒されていたピブンソンクラームとは似ているような気もする。

 参照できる日本語文献が限られているので、以下のメモは、オズボーンの邦訳と、かろうじて論文検索に引っかかった高橋保「政変後のプノンペン政権における政治過程の動態──共和制移行からロン・ノル=ソン・ゴク・タン体制の成立まで」(『アジア経済』第13巻5号、1972年5月)の他、主にwikipediaの記述(→こちら)などに頼った。

 ソン・ゴク・タンはヴェトナム南部のチャヴィン(Travinh)で、クメール・クロム(メコン・デルタに住む低地クメール人で、ヴェトナムではマイノリティ)の父親と中国系orヴェトナム系の母親との間に生まれた。比較的に裕福な家庭だったらしく、1920~30年代にかけてサイゴン、さらにはモンペリエ、パリに留学した。法律を学んだ後にフランス領インドシナ植民地に戻る。

 1930年にカンボジアとラオスの国王がパトロンとなって設立されたプノンペンのウナロム寺院内仏教研究所で図書館司書となる。しかし、仏教徒はフランスの教育プログラムを受けられないことに気づき、僧侶学校の重要性を疑う。

 1936年、ソン・ゴク・タン、パク・チョオウン(Pach Chhoeun)、シム・ヴァル(Sim Var、1906~1989年、日本滞在中にカワダ・ヨウコという日本人女性と再婚。戦後は、シアヌークの時代に首相、ロン・ノル政権で駐日大使。後にソン・サン派→こちらを参照)らが初めてのカンボジア語新聞『ナガラワッタ』(Nagaravatta)を創刊。ナガラワッタとはアンコール・ワット(Angkkor Wat)のことで、カンボジアのシンボルとしてつけられた。彼らはカンボジアで初めて近代意識を持った民族主義者と位置づけられている。この新聞の論調としては、フランスの植民地支配、カンボジア人の教育機会の欠如、ヴェトナム人によって経済的利権や公共的職務が独占されていることなどカンボジア人が置かれている苦境への批判が特徴。ただ、当初は暴力反対の穏健路線だったものの、日本軍のインドシナ半島進出と共に態度を変え始め、「国家社会主義」にも接近する。この頃にはアジア主義的な発想もあったと考えられる。

 なお、『ナガラワッタ』の後援者の中にはシアヌークの父親のスラマリット殿下もいた。シアヌークも10代の頃に何度かソン・ゴク・タンに会っているが、特に影響は受けなかったという。

 当時のインドシナ植民地をめぐる情勢は複雑であった。第二次世界大戦でフランス本国はドイツに降伏してヴィシー政権が発足、1940年から日本軍が進出する中、インドシナ植民地総督府は日本軍と協力する形で継続しており、一種の二重権力状態にあった。そうした中の1941年9月にカンボジアのモニヴォン国王が死去。フランスの植民地当局としては若くて経験の乏しい国王の方がコントロールしやすいという思惑があり、モニヴォンの曾孫にあたるシアヌークを王位につけた。公式行事の開会にあたっては「(ペタン)元帥閣下、あなたとともに」というスローガンを叫ばなければならないなど、カンボジア国王はフランスに追従しなければならない立場にあった。このような屈辱的な状況を覆そうとするソン・ゴク・タンなど民族主義者は日本側と連携してフランスの植民地支配反対運動を進めた。

 1942年7月、二人のカンボジア人僧侶がフランス批判のパンフレットを配った罪で逮捕され、そのうちの一人は拘束中に死亡する事件が起こった。カンボジア人からすれば仏教の神聖性を無視した行為と受け止められて反発が広がった。ソン・ゴク・タンたちはこの機会を捉えて大衆運動へと盛り上げようと試み、7月20日にはフランス理事長官府が襲撃された。死者は出なかったものの、室内を荒らされたことでフランス側は態度を硬化させ、パク・チョオウンは逮捕されてヴェトナムの東南に浮かぶプロコンドル(コンダオ)島へ流された。事件当時、日本の憲兵隊司令部にいたソン・ゴク・タンは地下に潜ってカンボジア北西部のバタンバン(当時はタイの行政管轄下)へ逃れ、バンコクの日本大使館に匿われた後に日本へ亡命した。上掲の玉居子書によると、このときにソン・ゴク・タンの逃亡を助けたのが、当時、大南公司のバタンバン出張所に勤務していた大川塾出身の加藤健四郎だったという(181~182ページ)。1942年のこのデモは植民地反対のナショナリズム運動における一つの画期点と位置づけられる。

 1945年3月9日のいわゆる仏印処理により日本軍はフランスのインドシナ植民地総督府を解体し、カンボジアのシアヌーク国王に独立を宣言させた(ただし、日本の本国政府が承認したわけではない)。この時、シアヌークの要請もあってソン・ゴク・タンは東京から戻って外相に就任した。さらに、日本の敗戦直前の8月9日、無能な閣僚の罷免を求めるデモが起こり、首相を兼任していたシアヌークは総辞職を決め、代わって成立した新政府でソン・ゴク・タンが首相に就任した。ところが、10月にフランス軍が戻ってきてプノンペンが占領されると、ソン・ゴク・タンは対日協力の責任を問われて逮捕され、サイゴン、次いでフランスに送られて軟禁状態に置かれた(ただし、悠々自適な生活で、法律の勉強を続けたという)。ソン・ゴク・タンの背後に君主制の廃止を求める共和主義者がいることに警戒心を強めた宮廷内の保守派の画策によるらしい。

 ソン・ゴク・タンの逮捕を受けて彼の支持者はカンボジア北西部に行き、クメール・イサラク(Khmer Issarak、自由クメール)運動を開始。シアヌークの要望もあってソン・ゴク・タンは釈放され、カンボジアに戻ったが、彼はシアヌークの政権には加わらず、反旗を翻した。クメール・イサラクに合流し、さらにシエムレアップの森林地帯で反植民地闘争を組織する。しかし、1950年代に入ってクメール・イサラクはクメール民族解放委員会(Khmer National Liberation Comittee)と左翼的な統一イサラク戦線(United Issarak Front)、その他の軍閥に分裂してしまう。1954年の時点までにソン・ゴク・タンは左翼陣営とは袂を分かつようになり、アメリカのCIAから連携の提案も受けていたらしい。

 ソン・ゴク・タンはクメール・クロムから強い支持を受けていた一方で、カンボジア国内政治での影響力や大衆的支持は相対的に低く、また左派とは訣別する一方で、中道派や右派はシアヌークが展開するサンクム(Sangkum)運動に吸収されていた。

 1954年に第一次インドシナ戦争が終わると、ソン・ゴク・タンはシエムレアップ近くの根拠地で主にクメール・クロムを中心としてクメール・セレイ(Khmer Serei、自由クメール)を組織し、タイ国境及び南ヴェトナム国境で活動した。クメール・セレイの宣言では、シアヌークに対して、北ヴェトナムによってカンボジアを共産化させるままにしていると厳しく批判。

 1970年3月18日、ロン・ノル将軍がクーデターを起こし、外遊中だったシアヌークを国家主席から解任、親米右派政権が成立した。10月9日には共和国宣言によって王制を廃止、「クメール共和国」と呼称。暫定的な国家主席には国会議長のチェン・ヘン(Cheng Heng、1916~1996年。中国系の中農家庭出身。政権崩壊後はパリに亡命、ソン・サン派とつながりを持ち、1991年の和平協定の後には政界復帰)が就任した。

 なお、上掲オズボーン書によると、このクーデターの前年からシアヌークの指示を受けてロン・ノルは南ヴェトナムにいたソン・ゴク・タンと密かに接触していたという。カンボジア領内に進駐している北ヴェトナム軍を追い払うためにソン・ゴク・タンが率いるクメール・クロムの部隊を動かしたかったらしい。その名目で投降するソン・ゴク・タン派の部隊もあったが、結果としてはロン・ノルのクーデターに参加することになる。

 それにしても、ソン・ゴク・タンとはたびたび対立しながら、しつこく関係を持とうとするシアヌークの微妙な思惑が気になる。『シアヌーク回想録──戦争…そして希望』(友田錫・青山保訳、中央公論社、1980年)を見ると、クメール・ルージュを批判する文脈の中で、「クメール・ルージュの指導者は、学生や教師だった頃は共和制民族主義を標榜するソン・ゴク・タン主義者だった。ところが、ソン・ゴク・タンは日本帝国主義やアメリカ帝国主義の卑劣な手先に過ぎず、その欺瞞が分かった後に彼らは赤く染まっていった」という趣旨のことを書いている。よっぽどソン・ゴク・タンのことが腹にすえかねていたようだが、ただし、これは彼の死後に書かれたもの。長い因縁における局面ごとに彼についてどのようにシアヌークが判断していたのかは別途検討する必要があるのだろう。

 1971年2月9日、ロン・ノル首相が病に倒れ、4月20日に内閣総辞職。後継首相と目されていたシリク・マタク副首相(シアヌークの従兄弟にあたり、シアヌーク追放を主導した)の昇格には軍部中堅層や学生・インテリ層の反対が強かった。後継体制が定まらない中で政情は不安定になり、やむを得ず5月になってロン・ノルが再び組閣。ただし、彼は病身であるため集団指導体制を取る。

 ロン・ノル政権は発足当初から寄り合い所帯であり、国民に絶大な人気があるシアヌークを敵に回した以上、ロン・ノルに代わって「英雄」として対抗し得る人材が必要であった。そうした中で台頭してきたのが、ソン・ゴク・タンを代表とする旧クメール・セレイのグループであった。彼らにはアメリカとのつながりがある点で有力だったが、他方で彼の南ヴェトナムとのつながりは、反ヴェトナム感情を持つ一般カンボジア国民には不評というマイナス点もあった。

 ロン・ノルの弟のロン・ノン大佐とシリク・マタクとの対立で政局が混乱する中、1971年には深刻な経済危機に見舞われる。さらに議会派と対立したことで、権力維持のため軍部に依存せざるを得ず、右傾化が顕著となった。国内情勢が混乱する中、対立勢力の調停に失敗したチェン・ヘン国家主席は1972年3月に辞任、ロン・ノルに全権を移譲した。

 ロン・ノルは大統領に就任したが、病身の彼は激務に耐えられず、実質的に国政を運営するのは誰になるかが焦点となった。シリク・マタクは不人気で、他には誰も組閣を引き受ける者がいない中、ロン・ノル大統領の強い要望とアメリカの期待を受けてソン・ゴク・タンが受諾した。1972年3月19日、第一国務相に任命され、事実上、ロン・ノルに代わって国政を担当することになり、ロン・ノル=ソン・ゴク・タン体制が発足した。彼は反共・反王制・反シアヌークの民族主義者として学生・インテリ層にも受けが良く、政府軍の一翼を担うクメール・クロム部隊の指導者として軍部にも影響力があった。他方で、彼は強硬なタカ派であるため政権の一層の右傾化が進み、シアヌーク派や左派は反発を強め、内戦は激化する。
(※以上、ロン・ノル政権時代の動向については高橋保「政変後のプノンペン政権における政治過程の動態──共和制移行からロン・ノル=ソン・ゴク・タン体制の成立まで」『アジア経済』第13巻5号、1972年5月を参照した)

 ソン・ゴク・タンは事実上の首相として再登板したものの、爆弾攻撃の標的にされた事件(ロン・ノル将軍の弟であるロン・ノン大佐の仕業と言われる)の後に、ロン・ノルによって職務を解かれ、南ヴェトナムに亡命した。1975年のヴェトナム統一後、ソン・ゴク・タンは逮捕され、拘留中の1977年に死去。なお、クメール・ルージュの政権樹立後、ロン・ノルやシリク・マタクと共に「7人の売国奴」の一人としてリストアップされていた。

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2012年8月29日 (水)

玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢──志を継いだ青年たちの物語』

玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢──志を継いだ青年たちの物語』(平凡社新書、2012年)

 私はだいぶ以前からアジア主義というテーマに関心を持っていたものの、それを素直に表明できない微妙な居心地の悪さも同時に感じていた。「アジア解放」という大義名分が、かつて日本の国策としての対外的膨張政策に利用された経緯はどうしても否定できず、そこへの慮りを常に意識しなければならないからだ。ただし、「アジア解放」という理想を純粋に信じて生き、そして死んだ人々がいたことも無視できない事実であり、このあたりの複雑な絡まり具合を解きほぐしながら理解していくのはなかなか容易ではない。

 そうした複雑さを体現した人物の一人としてはまず大川周明が挙げられるだろう。彼はクーデター騒ぎに参画するなどアクティヴな活動家であり、またアジア主義のイデオローグとして戦犯指名を受けたため、毀誉褒貶が激しい。他方で、篤実な学者であったことも確かであり、そうした二面的なパーソナリティーを満川亀太郎は「学者としては血があり過ぎ、志士としては学問がありすぎる」と評していた。彼の学問的な先見性はアジア認識という点で認められる。「アジア解放」という理念に目覚めたのは大川がもともとインド哲学を研究していたからであり、憧れのインドが現実にはイギリスの植民地支配下で呻吟していることへのショックが動機だったことは有名な話だ。また、大川から研究上の便宜を受けた井筒俊彦は「彼はイスラムに対して本当に主体的な興味を持った人だった」と語っていたが、近年、大川をイスラム研究の先駆者として評価する声はしばしば見受けられる(例えば、山内昌之、鈴木則夫、宮田律など)。

 アジアと言っても広い。そうした中で大川の関心は東南アジアにもしっかり及んでいたことは本書で知った。大川自身が東南アジア問題にじかに関わったというわけではなく、弟子たちを通して。南方で商人として活躍できる人材の育成を目的に掲げて、東亜経済調査局附属研究所が1938年に開設され、入学した若者たちは所長の大川周明から直接・間接の薫陶を受けた。本書は、この通称「大川塾」を卒業後に南方で活躍した人々からの聞き取りをもとに、第二次世界大戦前後の時期において日本が東南アジアと関わりを持った際の裏面史を描き出している。

 様々なエピソードが紹介される。真珠湾攻撃と同時に発動されたマレー作戦においてタイ国境で活躍。アウンサンをはじめビルマ独立運動の志士に軍事訓練を施した南機関やビルマ独立義勇軍への参加。仏領インドシナの反仏活動家と接触した人もいて、その相手にはクオン・デ、チャン・チョン・キム(日本軍占領下でベトナム首相になった歴史家)、ゴ・ディン・ジェム、ソン・ゴク・タン(カンボジアの反仏活動家)などの名前も見える。チャンドラ・ボース率いるインド国民軍と共にインパール作戦に参加した人もいた。

 彼らの多くは商社員として現地に渡っていたものの、実際には日本軍の作戦行動を補完する役割を果たすことになった。現地語をマスターして土地の人々の中に潜り込んでいた彼らの存在は、見ようによってはスパイである。その点で、大川塾は陸軍中野学校と同類のスパイ学校とみなされることもあったらしい。だが、著者の取材相手の中に、スパイと呼ばれることに強烈な拒否感を露にする人がいたことをどのように受け止めたらいいのか。

 大川周明は塾生たちに「諸君の一番大事な事は正直と親切です。これが一切の根本です。諸君が外地に出られたら、この二つを以て現地の人に対し、日本人とはかくの如きものであるという事を己の生活によって示さなければなりません」と諭していたという。「正直と親切」──陸軍中野学校で教えられていた「謀略は誠なり」という言葉もふと思い浮かべたが、その趣旨はだいぶ違う。謀略は周囲の人に決して気づかれてはならず、場合によっては他人を利用する。そうした点で絶対的に孤独な活動であり、だからこそ自身の活動のよりどころとして求められる超越的な何かが「誠」と表現されていたのだと私は理解している。これに対して、大川の言う「正直と親切」とは、現地の人々と対等な関係を保ち、友人として誠意を尽くす態度である。少なくとも塾生たちはそのように理解していた。

 こうした「正直と親切」に基づくアジア主義は、日本の国策がはらんだ矛盾を敏感に感じ取り、軍部が推進していた作戦至上主義に対して嫌悪感すら抱かせた。大川塾の出身者たちが日本人として驕り高ぶることへの戒めを語るのを本書は拾い上げている。
──「日本人は“われわれの指導のもとに”と考える。だから土地の人と馴染むことができないんです。日本が盟主? それは間違いですよ。」
──「目的があればどんなことをしてもよいのか。しかもその目的ですら当時の日本の為政者即ち軍と官の中でどれだけの人が真剣に考えていただろうか。」
──「日本軍の勝利があって独立があるのだという姿勢には嫌悪感しか覚えなかった。」
──「(ビルマ人を)見下げると、どこか(表)に出てくるんですね。自分より年上でしょう、大学も出ているでしょう? そういう人と会うときは自分がある面では劣っているんだから、同格以上に彼らを立てる。まず日本人ということをかなぐり捨てて、『俺はビルマ人になるんだ』という気持ち。ビルマ人になるなら、みんな先輩ですから。」

 もちろん、彼ら自身が主観的には善意であったとしても、実際の歴史のなりゆきの中で(結果論にしても)占めた位置づけを考えるなら、手放しで礼賛するわけにはいかない。その点はしっかり留意する必要があるが、他方で、「アジア主義」と一括りにされる中でも、様々な想いや動機があったこともきちんと見分けていく必要がある。そうでなければ歴史は不毛なレッテル貼りで終わってしまう。実にアンビバレントでもどかしい作業ではあるが、血の通った理解を目指すなら、やはり歴史の当事者の肉声をできる限り拾い上げていく作業が求められる。存命者も少なくなっていく中、これまであまり知られることのなかった大川塾の実態を、そして出身者たちの抱いた情熱や葛藤を明らかにした本書の仕事はやはり貴重である。そして、異国に身を埋めて生きる覚悟とはどのようなことなのかを考える上でも興味深い。

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2012年8月16日 (木)

白石昌也『日本をめざしたベトナムの英雄と皇太子──ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』

白石昌也『日本をめざしたベトナムの英雄と皇太子──ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』(彩流社、2012年)

 1940年10月29日、フランス植民地当局によってベトナム中部の古都フエで自宅軟禁されていたファン・ボイ・チャウが静かに息を引き取った。日本軍の北部仏印進駐から1ヶ月あまり後のことである。彼はかつてベトナム独立のための支援を日本に求め、ベトナム人の若者を日本へ留学させる東遊運動を積極的に推進した。そうした彼が日本軍進駐の報に接してどのような感慨を抱いたのか気になるところだが、特にコメントを残すことなく世を去った。

 そもそも日本軍の北部仏印進駐とは、第二次世界大戦でフランス本国がナチス・ドイツに屈服した空白状況につけこみ、日本がフランスのインドシナ総督府(ヴィシー政権側)と共同統治を行うという形で進められたものであった(日仏共同統治は1945年3月の明号作戦発動による対仏クーデター、いわゆる「仏印処理」が実施されるまで続く)。どのような事情があるにせよ、アジア解放の大義を掲げた日本人が、まさに追放すべきとしたフランス人と一緒になって植民地支配を行うという矛盾は覆い隠せない。1943年のいわゆる「大東亜会議」にもインドシナ代表はいなかった。「アジア主義」という麗しい理念と現実のパワー・ポリティクスとが心情的には乖離しつつも日本の国策に沿って奇妙に共存しているあり様が、死を間近に控えたファン・ボイ・チャウの目にどのように映っていたのか? 本書で叙述される彼の生涯を見てみると、おそらく複雑な苦々しさが胸中に去来していたであろうことも想像される。

 冷戦という状況下で南北に分断されていたベトナムは、フランスとのインドシナ戦争、アメリカとのベトナム戦争という惨禍を経てようやく統一されたのは1976年のこと。ここに至るまでにベトナム民族運動がたどった長い道のりの中で、日本もまた大きな関わりを持っていた。

 本書は、東遊運動を主導したファン・ボイ・チャウ、彼が民族独立運動のシンボルとするために擁立した阮朝の皇族クオン・デという二人を軸に、20世紀前半における民族運動の動向を通してベトナム近代史を描き出している。彼らが亡命先の日本で有志の支援を受け、とりわけ柏原文太郎、浅羽佐喜太郎、宮崎滔天など善意の人々と出会ったことは特筆に価する。また、同様に亡命者という境遇にあった中国の梁啓超をはじめとしたアジア各地の革命家たちとの出会いからは、独立運動には横の連帯が必要とする「アジア主義」的な思想軸を意識することになった(海外の革命家ばかりでなく、日本の社会主義者も含めて設立された亜洲和親会にファン・ボイ・チャウも関わっている)。

 他方で、その「アジア主義」は日本の国策に利用されることにもなる。日本に期待をかけていたファン・ボイ・チャウは、他ならぬ日本政府がフランス政府の要求に配慮したため追放されてしまった。こうしたダブル・スタンダードは、彼個人の問題を超えて、広く「アジア主義」に付きまとっていた矛盾であったと言えよう。

 ベトナム国内での動向としては、フランスによる愚民化政策から抜け出すために海外への留学を推進し、武力もいとわない急進的な独立運動を目指したファン・ボイ・チャウに対して、ファン・チュー・チンはフランスの支配下であっても徐々に近代化を進め、ベトナムの自立につなげることができるとする改革志向の考え方をしていた。こうした路線上の相違にも関心を持った。

 本書の下敷きとなっている白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』(巖南堂書店、1993年)は以前にこちらで取り上げた。ファン・ボイ・チャウについては他にもこちらで何冊か取り上げたことがある。もう一人の主人公、クオン・デについて、森達也『クォン・デ──もう一人のラストエンペラー』(角川文庫、2007年)はこちら。クオン・デと関わりのあったフランス文学者・小松清についてはこちら。また、本書の参考文献に挙げられているファム・カク・ホエ(白石昌也訳)『ベトナムのラスト・エンペラー』(平凡社、1995年)もこちらで取り上げた。 

 本書は「15歳からの「伝記で知るアジアの近現代史」シリーズ」の第1巻。中高生向きにアジア近現代史を新たに説きおろすという趣旨の企画である。ところで、20世紀前半における日本とアジアとの関わりを考える際、対日協力者の存在は無視できない。親日/反日のような座標軸で捉えると不毛になってしまうが、本書はそうしたあたりでバランスが取れており、近現代史を考察する上でのリテラシーを磨くにもちょうど良いと思う。ベトナムも含め東南アジア各国の近代史に関して専門的な研究成果はしっかりと蓄積されているが、一般読者向けにリーダブルな啓蒙書は見当たらなかったので、このシリーズには注目している。

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2012年8月15日 (水)

後藤乾一『火の海の墓標──ある〈アジア主義者〉の流転と帰結』

後藤乾一『火の海の墓標──ある〈アジア主義者〉の流転と帰結』(時事通信社、1977年)

 明治以来、日本は「大国」としての地位を高めつつあった一方で、農村の逼迫した状況は相も変わらず、一旗挙げようと海外へ渡って行く人々がいた。家族単位で移住する場合には南米へ向かうルートがあったが、個人単位では南洋へ行くケースが多かったという。本書の主人公、市来竜夫も個人でインドネシアへ向かった一旗組みであった。

 1906年、熊本県に生まれた市来は、没落した生家を再興させたいという一念から1928年にスマトラへ渡った。当時の在留邦人には一等国意識が強く、現地人を見下す傾向があったらしいが、そうした中でも市来は現地人女性と結婚した。体面を気にする在留邦人社会の束縛には嫌気がさし、むしろインドネシア民衆の中で暮らす方が気がまぎれたという。インドネシア語の辞典作りに努めるなど、彼のインドネシア社会への心情的な思い入れは本物だった。ある意味、「現地化」の先駆的存在と言ってもいいだろうか。

 日本とインドネシア、二つの「祖国」への愛情は、双方の関係がうまくいっている分には問題はない。日本がいわゆる「大東亜共栄圏」なるスローガンを掲げて南進を本格化させても、「日本の援助によるアジア解放」という信念として当初は両立が可能だった。実際、市来は1936年に日蘭商業新聞社に入社するが、そこの社長・久保辰二を通じて右翼の大物・岩田愛之助とつながりを持つなど、アジア主義的傾向を強く意識していた。だが、そうした心情的なコミットメントはやがて帝国日本の政治の論理によって翻弄されることになり、二つの「祖国」の相克は市来を苛んでいく。

 太平洋戦争が始まり、オランダ勢力を追い払った日本軍はインドネシアで軍政を敷く。市来もジャワ派遣第十六軍の宣伝班に勤務したが、インドネシア人に対して高圧的な日本の軍人や支配者意識を丸出しにする一般邦人の態度に疎外感を抱くようになった。日本軍の肝煎りでインドネシア現地人を組織化したジャワ郷土防衛義勇軍(ぺタ)に嘱託として入ったが、戦局が押し迫った1944年になると、当初は親日的だった現地人の日本軍に対する反感が高まっているのを肌で感じていた。

 日本軍は現地人をなだめるためインドネシア独立容認を表明したが、1945年8月、日本は無条件降伏する。市来はただちにインドネシア独立に向けた活動を始めるが、日本軍政当局者は連合国を刺激しないようにという配慮からこれまでの独立容認路線を翻し、自分たちは独立運動とは無関係だと表明、ぺタの解散を決定して逆に独立運動を抑え込もうとした。日本による二度目の裏切りを目の当たりにした市来は祖国日本とは訣別、アブドゥル・ラフマン・イチキとして新しい祖国インドネシアの運命に自身のすべてを賭ける決意をした。盟友の吉住留五郎と共にインドネシア独立軍に身を投じ、1949年1月、戦死した。42歳であった。 

 近代日本がその国力を海外へと大きく伸張させるにあたって様々な人々が海外へと渡って行ったが、当然ながら日本のすぐ近隣にある「アジア」なるものをどのように捉え、関わっていくかという問題意識が浮上してくる。ところで、アジア主義という概念には様々な思惑が複雑に錯綜しており、最大公約数的には「アジア」なるものへコミットしていこうという心情的な何かとしか言いようがない。心情的なものとは漠然としたもので、状況次第ではどんな行動をも融通無碍に正当化する口実になってしまう。日本のアジア主義者は「欧米列強に虐げられたアジア諸国を日本が解放する」という物語に沿って行動したが、日本による解放が同時に帝国日本の国益追求と重なったとき、現地社会への思い入れが強ければ強いほど、日本の掲げる偽善は彼の立場を行き詰らせていくことになる。市来はその矛盾から逃れるため、敢えてインドネシア人としてのアイデンティティを引き受けなおした。市来の直面した矛盾を考えたとき、「アジア主義」的な心情のあり方とは、個々の人物の生き様を通してようやくその一端がうかがい知れるという程度にしか糸口はつかめないのかもしれない。

「…市来は観念論的なアジア主義者ではなかった。彼のインドネシア解放理念は、たんなる机上の空論から生まれたものではなく、また“志士”の間での、口角泡を飛ばしての議論の産物でもなかった。それは、十年におよぶインドネシア民衆社会のなかで、とりわけ、あのうらぶれたスメダンのカンポンの一隅で、静かに、だが純度高く培養されてきた、両民族間の赤い血を通わし合った、生活実感と結びついた解放理念であった。そうした意味において、彼のインドネシア解放思想は「民衆が、自生的に、生活の中ではぐくんできた」土俗的な精神、に基づいたものと評することもできるであろう。」(146~147ページ)

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2012年6月23日 (土)

根本敬・田辺寿夫『アウンサンスーチー──変化するビルマの現状と課題』

根本敬・田辺寿夫『アウンサンスーチー──変化するビルマの現状と課題』(角川ONEテーマ21、2012年)

 アウンサンスーチーが釈放され、制限つきながらも選挙が実施されるなど、軍事政権の方針転換は国際社会からおおむね歓迎されている。そうした近年の動向に合わせ、中国や東南アジアへの日本企業の進出が飽和状態に近づいているという意識の表れであろうか、新たな投資先としてビルマへの関心も昨年あたりから急速に高まっている。

 本書はこのようなビルマ情勢の変化を受けて、二人による前著『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』(角川ONEテーマ21、2003年)を全面的に書き直したものである。前半ではビルマ政治が現在抱える問題点を考察していく中でアウンサンスーチーの思想について正面から論じているのが特色であり、後半では在日ビルマ人社会の現在について描かれている。

 国名の表記について一言しておくと、現在の軍事政権は「ミャンマー」を名乗っており、外務省やマスコミ等もこの表記に従っている。しかし、軍事政権の正統性を認めていない民主化運動の支持者は敢えて「ビルマ」という表記を続けている。国家平和発展評議会(SPDC)議長(事実の国家元首)であったタンシュエは引退したとされてはいるものの、国軍に対する影響力は依然として保持しているとも言われ、現在、アウンサンスーチーとの対話路線を進めているテインセイン大統領の力量について本書は判断を保留している。なお、タンシュエ時代のビルマ政治についてはベネディクト・ロジャーズ(秋元由紀訳)『ビルマの独裁者タンシュエ──知られざる軍事政権の全貌』(白水社、2011年)に詳しい。

 抑圧的な軍事政権であっても、海外からの投資を積極的に呼び込むことで経済を活性化させ、国民生活の安定によって将来的な民主化も促進されると考えるのか。それとも、民主主義やガバナンスのあり方が未成熟な中で海外からの投資が投下されても、既得権益階層を固定化させるだけで貧富の格差がむしろ拡大する。従って、海外からの投資の前提として、まず民主的なガバナンスが必要と考えるのか。本書の立場は後者になると思うが、このあたりの議論は見極めが難しくて(どちらも理屈として成り立つと思うので)、私としては判断を保留中である。 

(以下、内容についてメモ)
・現行憲法は国軍の意向に反した決定はできない仕組みになっており、軍事政権が近年になって軟化し始めた動向は、改革ではなく、あくまでも「変化」に過ぎない。では、その「変化」の理由は?→①対外的イメージの改善、②安定的な経済発展が必要であり、そのためには欧米による制裁を解除してもらう必要を認識、③中国との経済関係があまり深まりすぎると「衛星国」化の懸念があり、これは軍事政権のナショナリズムからは受け入れがたく、その牽制のために欧米や日本との経済協力を模索。

・NLD(国民民主連盟)は最近の補欠選挙で圧勝したとはいえ、軍事政権が制定した現行憲法の下で確保できる議席数はあまりにも少なく(664議席中43議席)、憲法改正へのハードルも高い(議会の4/3以上が必要)。従って、軍事政権と対話しながら徐々に改革に道をつけていくしかない。そうした限界の中でもできることは何か?→国民の保健衛生の向上、教育環境の改善、少数民族問題、公務員の腐敗への対処など。

・軍政によって長期間にわたり軟禁されてきたので、アウンサンスーチーの肉声は一般の国民から切り離されてきた。このため、国民は彼女のメッセージを読むことができず、彼女を偶像化する傾向につながってしまった。そうした個人崇拝から、アウンサンスーチーに政権を任せさえすれば万事うまくいくはず、という信仰すら生まれてしまう問題。

・アウンサンスーチーは経済発展のための投資そのものに反対しているわけではない。ただ、「正しい目的」には「正しい手段」を以てすべきという思想に基づき、人権、環境などに配慮した経済政策が可能かどうかを問題にしている。民主主義が未成熟な社会では、政治的な腐敗、官僚制の未成熟によるテクノクラートの不在などにより、利権の独占傾向が考えられ、貧富の格差が拡大してしまわないか? 外国企業が投資する場合、軍事政権と組む形になるが、民意が政治に反映される体制でなければ国家予算の配分が恣意的となり、むしろマイナスが大きいという判断。

・アウンサンスーチーにはガンディー思想からの影響が強い→「真理の追究」。彼女の思想の基本には「恐怖からの自由」というテーマがある。これは一般的な人権問題としての意味だけでなく、むしろこの「恐怖からの自由」を自ら実践する義務を一人ひとりが負う。つまり、自らのうちに芽生えた「恐怖」をも克服して、各自が正しい目的に向かって振舞うべきという考え方。こうした自力救済の思想を、果たして一般の国民がどこまで理解できるか? アウンサンスーチーへの個人崇拝は、実は他力救済の願望に過ぎないのではないか?という逆説。インドにおけるガンディーがそうであったように、彼らの存在は「国民的な誇り」とはなっても、実際に彼らの思想を受け継ぐ者は少数にとどまるのではないか?と懸念。

・日本におけるビルマ人社会。欧米諸国に比べて、日本政府による難民認定が極めて厳しすぎる問題。東日本大震災にあたってボランティア活動に取り組む在日ビルマ人たちの姿。ビルマと一言で言っても多民族社会で、少数民族の人たちも目立つ。いや、むしろ少数民族であるがゆえに軍事政権から迫害を受けて亡命せざるを得なかったケースが多いと考えるべきか。

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