カテゴリー「建築・都市論」の37件の記事

2016年5月13日 (金)

豊川斎赫『丹下健三──戦後日本の構想者』

豊川斎赫『丹下健三──戦後日本の構想者』(岩波新書、2016年)

 日本を代表する建築家の一人であり、都市計画の分野で大きな存在感を残した丹下健三。彼は都市や国土との有機的な結びつきの中で建築を捉えていたため、デザインを行う前提としてまず国土全体の課題を整理することが必要となる。従って、丹下の建築に関わる営為を考えることは、単に彼の建築デザインを論ずるというだけでなく、同時に彼が日本社会の現状をどのように理解し、将来的にどのような方向性へと構想していたかを問うことに直結する。他分野の専門家とも積極的に協力し、国土開発のコーディネーターとしての役割を果たし、さらには自らのプランを実行するには政治とのつながりも必要であった。

 私が興味を持ったのは次の一節。「都市デザインとは政治である。多くの若者が丹下に憧れ、アーバニストになることを夢みて丹下研究室の門戸を叩いたが、そこで経験を積むにつれ、政治と関わらなければ思ったようなデザインが完成しないことを知った。」「また、国家的なイベントの企画・立案も重要な都市デザインの一つである。というのも、国家的なイベントでもないかぎり、巨大都市の中心地で、政府や自治体を含む多くの地権者の同意を得ることは困難であったためである。」(187頁)

 彼は自宅などの例外を除けば、基本的に個人住宅の設計を手掛けていない。近代社会においては、公共性を持つ建築が対象となるのは群衆であると彼は理解しており、「社会的人間の尺度」で建築を考えていたという。それは個人という単位から出発するのではなく、俯瞰的に捉えているという意味で古代建築における「神々の尺度」と同様だったのではないかと指摘される。初期の建築においてピロティを設定し、市民が集える公共空間にしようとしていたのは、民主主義を建築という場面でどう実現するかという問題意識とつながっていた。他方、1970年代にオイルマネーでわく中東などに招かれて大規模建築の設計を手掛けた経験を経た上で、1980年代に丹下が新都庁舎を設計したとき、磯崎新が「知事の権力を一直線のシンボル性に集約するデザインを採用しており、この変化が中近東の経験に由来するのではないか」という趣旨の批判をしているのが興味深い。建築や都市計画において俯瞰する視点は、ともすると権力者の視点と同一化しかねない問題をはらんでいるのかもしれない。

 戦後まもなくの日本では建築資材・技術等が未熟で、丹下の設計プランが思うように発揮できない場面もあったという。ところが、1960年代に入り、例えばオリンピックに合わせて建設された国立屋内総合競技場では、様々な建築資材を活用出来た上に、ゼネコンに勤務する中間技術者の積極的な協力もあって、日本の建設産業のポテンシャルを世界に向けて発信できたと指摘される。設計者の構想という上部構造だけでなく、材料、機会、それらを調達する流通システムなどの下部構造、及びその下部構造を上部構造につなげる「中間層」の存在があって、はじめて丹下の構想は実現し得た。

 丹下が設計を手掛ける際には、その建築がどのような社会的・時代的脈絡の中にあるかを常に意識していたため、前提として同時代の社会・経済状況についての考察が不可欠となる。言い換えると、本書は丹下健三という人物を通して戦後日本建築史を語っているだけでなく、建築という側面から日本戦後史そのものの流れも見えてくる。個人的には、戦前、丹下が大東亜建設記念造営計画設計競技に入選したプランにも興味があるのだが、本書は1945年以降に限定して論じられているため、戦前期については言及されていない。

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2012年10月25日 (木)

【映画】「空を拓く~建築家・郭茂林という男」

 東京国際映画祭の会場の一つ、コレド室町の日本橋三井ホールにて酒井充子監督「空を拓く~建築家・郭茂林という男」を観た。評判になった「台湾人生」以来の2作目だ。

 1960年代以降の日本における高度経済成長を象徴する出来事は色々とあるが、とりわけ高層ビルの登場は東京の風景を良くも悪くも大きく変貌させた。1968年に完成した霞ヶ関ビルをはじめ、世界貿易センタービル、京王プラザビル、サンシャイン60、そして新宿副都心開発など東京を代表する高層建築プロジェクトを主導したのが、この映画の主人公、郭茂林という人物である。

 彼はさらに故郷である台北のランドマーク、新光人寿保険ビル(新光三越百貨店)を設計し、台北市長当時の李登輝に招聘されて信義副都心計画も手がけている(人道と車道の分離など、新宿副都心計画の考え方が生かされているという)。東京では誰もが知っている多くの高層ビルを手がけたのが台湾人だったというのは初めて知ったが、高層建築や都市計画という点で日本と台湾とを結ぶ意外なつながりには驚いた。

 郭茂林さんは1921年に台北で生まれた。生家の4軒先には、かつて台北在住の文化人がよく集ったことで知られる洋食屋のボレロがある(郭さんが2010年夏の里帰りでボレロに寄ったときには「昔の面影は全くない」とぼやいていたが…)。台北工業専門学校(現在は台北科技大学)の校長だった千々岩助太郎の推薦で日本へ渡り、1940年に鉄道省に勤務。その時の上司からしっかり勉強するよう言われて、1943年に東京帝国大学の聴講生となった。1945年の日本敗戦後は日本国籍を取り(名前は変えなかった)、岸田日出刀の研究室に残った。

 建築業界に入ってからは東大にいた頃の人脈を生かし、巨大プロジェクトの取りまとめ役をこなすようになる。東大教授をはじめ第一級の建築家たちはみな一家言あり、それぞれが自己主張し始めると話はなかなかまとまらない。一癖もふた癖もある関係者それぞれの才能を見極め、つなぎ合わせていくところに郭茂林さんは卓抜な能力を発揮、それが霞ヶ関ビルをはじめとする至難のプロジェクトの成功へと結実した。「郭さんじゃなければまとまらなかった」と建築史家の藤森照信さんは語る。自分ひとりではたいしたことはできない、みんなの才能を引き出してまとめ上げていくことには自信がある、と郭さんは語っており、グループワークの要として自らの立ち位置を常に意識していたようだ。彼のユーモアと天真爛漫なパーソナリティーがそれを可能にしていたであろうことは、この映画からよく窺える。

 2010年の里帰りで台北を訪れた際に目にした台北101に対しては、「見栄えばかり気にして機能的ではない、メンテナンスはどうするんだ?」と批判的だ。小細工など必要ない。建築のどっしりと大きな存在感そのものを表現したい。土地が限られているならば、はるか天空へと切り開いていけばいい(なお、霞ヶ関ビルの設計当時、高さが制限されていた建築規制を撤廃させるよう最初に働きかけを起こしたのも郭さんだったという)。

 日本統治期の台湾において日本人と台湾人との間には厳然たる差別があった。公学校出身者で上級の学校へ進もうにも、台湾人に事実上許された枠は限られたものに過ぎなかった。よほど頑張らなければ、狭き門を潜り抜け、恵まれた立場の日本人と伍して行くことはできない。そうした中でも、公学校や工業専門学校の恩師が郭さんの才能を見出してくれた。何よりも、「負けてたまるか!」とばかりに彼は突っ走り続けた。勝気なパーソナリティーと、高度経済成長期という時代的気運、両者が建築というジャンルで一つの勝負場所を見出していったようにも見える。そのように、上へ、上へ、と突き進むポジティヴな勢いが、「空を拓く」というタイトルに表現されていると言えるだろうか。

 高度経済成長に伴う景観破壊などの負の遺産は別途考える必要があるだろう。私自身、素直には首肯できない。ただ、高層建築の魅力を天真爛漫に語る彼の姿は、当時における一つの時代的気分をありのままに物語っており、そのこと自体が現在から振り返ると社会史的・精神史的な史料となっている。

 この映画が完成したのは今年の4月だが、その前後の時期に郭さんをはじめ取材対象となった関係者4人がお亡くなりになったという。郭さんは酒井監督を孫のように思っていたそうで、カメラを向けられても実に話しやすそうだ。フランクな語り口だが、自分の建築を自画自賛するときでさえも嫌味を全く感じさせない。郭さんの人柄の魅力が実によく描き出されているが、日台関係史と建築史とが交差するテーマとしてさらに興味が触発されてきて、そこが私にはとても面白かった。渋谷のユーロスペースで来年早々にも一般公開されるとのことなので、見逃した方は是非足を運んでみると良いと思う。

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2012年9月25日 (火)

ジョゼフ・R・アレン『台北:歴史の記憶が転位した都市』

Joseph R. Allen, Taipei: City of Displacements, University of Washington Press, 2012

 南方系の原住民、大陸から移民してきた漢族系、大航海時代に渡来したスペイン人やオランダ人、鄭氏政権は清朝に屈服、近代に入ってからは日本の植民地支配、そして蒋介石の国民党政権──台湾の歴史を掘り起こせば様々な歴史的地層が見えてくる。そうした台湾社会の多文化的特徴が公的にも支持されたのは、戒厳令が解除されて民主化の進展をみてからのこと。ただし錯綜した歴史的コンテクストは、その時時の政治意識と絡まり合ってある種のアイデンティティ・ポリティクスを惹起したことも台湾における政治社会的特徴と言えるだろう。

 こうした台湾社会の縮図として本書は台北という都市を読み解いていく。著者はアメリカ人の中国文学研究者でカルチュラル・スタディーズを専攻、謝辞で並べられた中にレイ・チョウの名前も見えるので、基本的なスタンスは分かるだろう。地図、建築、都市計画、博物館、銅像、映画から見える都市生活、そして恋人たちがささやき合う暗がりの茂み──台北の街でふと気になった手がかりをきっかけに、地理的空間と歴史の両軸の中で捉え返していく。台北をじかに歩いた経験のある人ならばヴィヴィッドな関心を触発されるかもしれない。

 台北の地図を見ると、総統府(かつての台湾総督府)など行政機能の集中する区域がまっすぐな大通りで囲われていることに気づく。中国の伝統的な都市構造は四囲を城壁でめぐらせるのが特徴であり、日本統治時期に入ってそうした城壁は取り壊された。ナポレオン3世の第二帝政におけるオースマンのパリ大改造に比べれば小規模だが、近代的な都市計画が意図される中で三線路という大通りに取って換えられた。つまり、清代の中国的都市が日本の植民地統治における近代的行政の拠点へと変貌したことがうかがえる。

 四方の門は地名として残った(西門町は日本風の名前のまま残っている)。かつての国民党本部近くの東門は(台湾とは縁もゆかりもない)中国北部の様式でリニューアルされ、これには中華文明の正統的後継としての意識が明確に打ち出されている。他方、清代から唯一残っている北門は、一度取り壊しの計画があったものの1977年に反対を受けて残存が決められた。ただし、嫌がらせのようにその上に高速道路が架けられているが。

 台北駅と総統府の間に位置する二二八紀念公園。かつて台北新公園と呼ばれたここが1970年代に白先勇が小説で描いたようにゲイの出会いの場であったということは事情を知らない者にとって驚きだが、同時に複雑な歴史的記憶の堆積した場でもあることは一層の関心を呼び覚ますのではないか。ここには漢族系の信仰を集めていた媽祖を祀る天后宮がかつて存在したが、日本統治時期に撤去され、新たに公園として整備された。そもそも「公園」という概念そのものがヨーロッパ由来のもので、公園は近代的都市計画の一環として初めて台湾にもたらされた。

 1987年に国民党政権による戒厳令が解かれたのを受けてようやく民主化が軌道に乗り始めた1990年代、二二八事件(1947年に勃発した国民党政権による本省人虐殺)の犠牲者を追悼する施設をどこに建設するかが検討された際、台北の北側に位置する新生公園が広くて良いだろうと候補に上がった。ところが、近くの松山空港を発着する飛行機の騒音で心静かに追悼することができないのではないかと反対があり、また二二八事件の記憶を周縁化しようとする行政の思惑も疑われた。そのため、犠牲者の遺族の納得が得られなければ意味がないとして呉伯雄のイニシアティブで台北新公園に決定、ここならば市街の中心部なのでアクセスに便利だし、園内の旧ラジオ局(現在の二二八紀念館)は二二八事件の舞台の一つともなっていたので象徴的な意味合いとしてもうってつけだ。かつては独裁者の一声で決められていたのに対し、こうした決定過程におけるすべての議論が公開されたことは、市民運動の意見も政策決定に取り込まれるようになった変化として注目される。

 台北新公園が二二八紀念公園と改称された際、ここにあったシェンノート(Claire Lee Chennault、陳納徳。アメリカの軍人で、戦争中、中華民国空軍のアドバイザーとして蒋介石に助言)の銅像は当時の陳水扁市長の決定で新生公園へ移された。台湾の民主化に伴い浮上し始めた台湾意識には、恐怖政治の象徴としての蒋介石にまつわる記憶を周縁化したいという意図があった。他方でちょうど同じ頃、中国大陸の方では抗日意識を基にした中華ナショナリズムの観点から蒋介石をはじめ国民党の役割が再評価され始め、そうした中で北京の盧溝橋近くにある中国人民抗日戦争紀念館にシェンノートの銅像が建てられたという。台湾ナショナリズムは「一つの中国」を掲げる国民党を否定する一方、それまで国民党を非難し続けてきた共産党が中華ナショナリズムの提携相手として国民党を取り込もうとする動向とまさに重なっているところが興味深い。さらに言うと、やはり同じ頃、台湾の空軍のある将軍が個人的イニシアティブでシェンノートの記念館を花蓮に設立したそうだが、その動機が対米同盟重視と反共意識だったというから実にややこしい。

 銅像というモニュメントが台湾に初めて現れたのも日本統治時期である(ちなみに、国立台湾博物館[かつての総督府博物館、正式名称は「児玉総督後藤民政長官記念館」]に長い間しまい込まれていた児玉源太郎と後藤新平の銅像が最近になって再びお目見えした話題にも言及されている)。日本統治時期の銅像は敗戦後に撤去され、代わりに台湾中の主要な場所に蒋介石の銅像が姿を現わした。解厳後に台湾意識が高まる中、今度は蒋介石像が次々と撤去されていくが、さてどこに捨てたらいいものか。そこで、いらなくなった蒋介石像は大渓の慈湖公園に集められた。様々なポーズを取る蒋介石像が公園の中で乱立している光景はモダン・アートのようで何とも奇妙というか滑稽というか。本書ではポスト・モダン的と表現しているが、彼の銅像にまとわりついてきた権威主義や恐怖政治などの「意味」をはぐらかそうとする試みが面白い。

 歴史にまつわる記憶が現在における政治意識を刺激し、それがさらに「歴史」の語り口を形成していく。こうした相互反応が歴史記述の「客観性」を難しくしてしまう可能性についてアカデミックなレベルでは問題意識が共有されているにしても、政治的・社会的なレベルではこれとは別の論理で動き、時に暴発してしまう事態が多々見受けられる(領土をめぐる対立が過去の記憶を呼び覚ましてナショナリズムを燃え上がらせている様子は、まさに日中、日韓の間で現在進行形である)。

 戒厳令時期における恐怖政治の記憶は台湾ナショナリズムを呼び覚まし、そうした怨念は蒋介石の国民党政権を否定するあまり、それ以前の日本統治時期を過度に美化する傾向すら帯びることがある(著者はrefractive nostalgia[屈折したノスタルジア]と呼ぶ)。他方で、国民党政権が自らの統治の根拠としてきた中華文明の正統な後継者という意識や「一つの中国」というスローガンは、抗日意識を媒介とすることで大陸の共産党政権が強調する中華ナショナリズムと呼応している。

 原住民の視点を取り込むなら問題はさらに複雑だ。陳水扁が台北市長だったとき、総統府前の介壽路(「介」とは蒋介石を表わし、彼の長寿を祈る意味合いがある)という名称を凱達格蘭大道に変えた。凱達格蘭(Ketagalan)とは台北盆地にかつて暮らしていた原住民であり、こうした名称変更には従来の中国化政策に対抗する台湾化・本土化の意図が表われている。ところが、そのケタガラン族をはじめ平埔族は漢族系に吸収されて(エスニック・グループとして独自の文化を維持していないという意味で)すでに消滅している。さらに言うと、原住民の立場からは、清代に福建・広東方面から渡ってきた漢族系の移民から現在の大陸で呼号されている「一つの中国」のスローガンに至るまで一貫して漢族の膨張的覇権主義と捉えることだって論理的には可能である。

 もちろん、そんなことを強調したところでアクチュアルな意味はない。ただ、どのような視点を取るにしても、立場的恣意性からどうしても逃れられないという困難がある。そもそも、何語でどのように表記するのか。臺北か、台北か。Taihoku(日本語の発音)か、Taipei(台湾でのローマ字表記)か、Taibei(大陸のピンイン表記)か、Taipak(19世紀の宣教師が開発した白話字で、主に閩南語や客家語の表記に使用)か。どれを用いても書き手の立場性にかかるバイアスを完全にはぬぐい去ることはできない。

 いずれにしても、自らの立場性について常に自覚を促しながら考え、そうした繰り返しの中で手探りするしかないだろう。台北という都市を時空間の中で読み解き、歴史的背景を掘り起こそうとする本書の試みは、単にトリビアルな好奇心を満たそうとするものではない。この都市にめぐらされた表象の後景で様々にせめぎ合っている歴史的記憶が一定のコンテクストの中で「意味」を持って浮上していくプロセスを相対化する作業でもある。台北の街並を思い浮かべて自分ならどう考えるかを念頭に置きながら、本書の探究過程を追体験してみても面白いかもしれない。

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2012年5月15日 (火)

橋本健二『階級都市──格差が街を侵食する』、ジャック・ドンズロ『都市が壊れるとき──郊外の危機に対応できるのはどのような政治か』

 都市をめぐる論考を続けて2冊読んでいたら、両方ともジェントリフィケーション(gentrification)というキーワードが出てきた。都市社会学の用語らしいが、不勉強にして初めて知った。直訳すると「富裕地域化」ということらしい。都市中心部の下町で産業が衰退する一方、再開発を意図して閉鎖した工場の跡地などに高所得者向け住宅や商業施設が建設される。アクセスの利便性や下町情緒を求めた富裕層が下町に居住すると、地価高騰、さらには地域特性喪失といった形で地元民は居づらくなり、留まったとしても分極化した経済的格差が共存した階級構成となってしまう問題である。具体的には、下町に高級マンションがそびえたつあの光景を思い浮かべれば分かりやすい。

 橋本健二『階級都市──格差が街を侵食する』(ちくま新書、2011年)は、社会的な階級格差が国土や都市など具体的な空間構成に反映されているという問題意識から、格差社会論と都市論とを結びつけて論じている。ジェントリフィケーションはまさにそうした問題である。本書が取り上げるのは東京であり、下町/山の手をめぐる格差社会の様相を歴史、フィールドワーク、統計データの計量分析(主にSSM社会調査のデータを使用)など多角的な視点から読み取っていく。理論的な分析ばかりでなく、文学作品からうかがえる描写や、実際に現地を歩いて回った観察(居酒屋訪問が好きだな)など具体的な肉付けがされているからヴィヴィッドな問題として説得力を持つ。

 ピエール・ブルデューの文化資本をめぐる議論をまつまでもなく、貧困地域に育った子供たちがその後の教育機会にめぐまれず、社会格差が再生産されてしまう問題は経験的にも知られているだろう。経済的問題ばかりでなく、地域社会的な環境要因は無視できない。社会階層ごとに分断された形で暮らしてるとそうした固定化がますます強まってしまうが、他方で混住したとしても子供同士はお互いの生活背景を敏感に察知するから差別・軽蔑のきっかけにもなりかねないという難しい問題もある。

 そのような問題があるにしても、より良い都市のあり方を目指すなら、やはり住民構成の多様性が望ましい。このソーシャル・ミックス(社会的混合)という概念については次のように説明されている。「異なる階級の人々の接触を促進することによって、下層階級の生活習慣を改善し、健康や教育の水準を引き上げる。また異文化の接触によって文化の交雑が起こり、文化が発展する。経済的な活動や政治参加の機会、高い水準の教育を受ける機会が平等化し、また人種間・階級間の敵意をやわらげて相互理解を促す。雇用のバランスと経済的安定がもたらされ、公共施設や公共サービスを提供するための財源も確保されやすくなる。多様なタイプの住宅が確保されるので、住民は近隣での転居によって必要を満たすことができ、地域に定住しやすくなり、またマイノリティや貧困層でも住居を確保しやすくなる。そして、異なる種類の人々との交流が地域での生活の一部となり、都市は民主的な集会所となる。」(256~257ページ)

 ただし、こうしたソーシャル・ミックスが完璧な処方箋かと言うと、必ずしもそうは言えないのが難しいところだ。フランスの歴史学者・社会学者、ジャック・ドンズロ(宇城輝人訳)『都市が壊れるとき──郊外の危機に対応できるのはどのような政治か』(人文書院、2012年)は、ソーシャル・ミックスの考えに基づいて行われてきたフランスの施策が実際には失敗しているのではないか、と疑問を投げかけている。

 都市問題はすなわち社会問題であること、そして近年のグローバリゼーションによる経済関係の急激な変化が都市内部の分極化、さらには解体をもたらしているという問題意識は世界共通のものとなっているようだ。本書の論点としては、ソーシャル・ミックスを促すために政策的に住民の移動を促そうとしたが、まず貧困層や民族的マイノリティーを裕福な市町村に移入させようとしても失敗する。逆に、貧困層や民族的マイノリティーの多く暮らす地域に富裕層を移入させることはできるのだが、この場合にはもともと現地に住んでいた人々が結果として追い出されることになってしまう、つまり上述のジェントリフィケーションの問題が生じてしまう。

 どうしたら良いのか。本書の結論部分では「都市の精神」の回復という抽象的な表現がされるが、要するに、居住空間の政策的な割り当てを行うという発想をしている限り、上述の問題に直面してしまう。それでは結局、為政者の論理に過ぎない。そうではなく、自分たち自身の政治的アイデンティティーをつなぎとめることのできるローカルな場所をいかに能動的に確保していくか。新たな社会的な連帯の原理を模索することが本書の問題意識おなるが、その際の個々人における実現能力を高める方向で施策を考えるべき、という話になる。アメリカのアファーマティヴ・アクションなども一例として挙げられている。

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2011年12月21日 (水)

西澤泰彦『植民地建築紀行──満洲・朝鮮・台湾を歩く』『東アジアの日本人建築家──世紀末から日中戦争』

 近代日本の対外的膨張による支配地の拡大、それは人的移動を促しただけでなく、人が住んだり公共的拠点とするための建築の広がりともつながっており、西洋から近代建築を学んだばかりの日本人建築家たちが東アジア各地へと渡っていった。西澤泰彦『植民地建築紀行──満洲・朝鮮・台湾を歩く』(吉川弘文館、2011年)と同『東アジアの日本人建築家──世紀末から日中戦争』(柏書房、2011年)は、こうした建築をめぐる活動の広がりを個別地域別ではなく東アジアというレベルで横断的に解説してくれるのが特徴だ。メインテーマは「海を渡った建築家たち」ということになる。

 建築は単に物理的に存在するというだけでなく、歴史的ドラマが繰り広げられた舞台でもある。必ずしも楽しいものばかりではなく、むしろ日本の対外的侵略という不幸な出来事の記憶の方が強く想起されることになろう。朝鮮総督府をめぐって生じた論争が端的に表しているように、現地の人々にとっては植民地支配という忌まわしい記憶のモニュメントとなる。他方で、当時における日本人建築家たちの技量の到達点を示した建築史的な意義も認められる。こうした二面性はなかなか解きがたい矛盾をはらんでいるが、近年は長い時間的経過をたどってきた中で歴史的価値にも配慮され、現地でも文化財指定を受けている場合も多くなってきた。

 著者は建築史家であるから建築としての構造や技法の話題がメインとなるのはもちろんだが、そればかりでなく、そもそもその建築がこの地に造営されたのはどのような歴史的背景によるのか、造営に携わった建築家たちはどんな人たちだったのか、こうした事情も合わせてトータルに考察が進められていくところが興味深い。

 『植民地建築紀行』は「広場と官衙」「駅舎とホテル」「学校・病院・図書館」「銀行」「支配者の住宅」などテーマ別に特徴ある建物を一つ一つ見ていく。東アジアを縦横に歩き回っているような気分でなかなか楽しい。本筋から外れるが興味を持ったところをメモしておくと、
・戦前、京城帝国大学本部を設計したのは当時の総督府営繕課に勤務していた朝鮮人建築家の朴吉龍で、彼は和信百貨店新館も設計。
・外国の支配地域近くにある中国人主体の市街地に目立つ中華バロック→西洋建築を見た中国人商人たちが同じような建物を建てたいと考えて中国人の職人に建てさせるが、彼らは外観を見ただけで誤解も多かったため奇妙な形になった。明治期日本の擬洋風建築と同様。

 『東アジアの日本人建築家』は、ともすれば存在の忘れられがちな建築家たち22人の人物群像を通して東アジア近代史の一側面がうかがえる。設計した建築の様式、用途、活動拠点、所属組織などを考えながらおおまかに6つのグループに分けて考察される。
①台湾、朝鮮の総督府の建設に関った野村一郎、国枝博。鉄筋コンクリート造の採用。
②満鉄所属の建築家:小野木孝治、太田毅、横井謙介、青木菊治郎、安井武雄、岡大路、太田宗太郎。満鉄の多様な事業に合わせて大連港、撫順炭坑、鞍山製鉄所など鉄道附属地の経営に関る建物。防寒性・耐火性の観点から煉瓦造建築→洋風建築。
③植民地銀行(朝鮮銀行、台湾銀行、横浜正金銀行、満洲中央銀行):中村與資平(植民地で建築したときの経験→日本へ還流)、西村好時(日本国内での経験→植民地銀行の本店を手がける)、宗像主一。
④在外公館:片山東熊、三橋四郎、真水英夫、平野勇造、福井房一。
⑤満洲国政府の建築組織:相賀兼介、石井達郎。
⑥ゼネコンを設立した岡田時太郎、高岡又一郎。
・建築を学んでも日本本国では仕事がなかったから海を渡ったと考えられていたが、実際にはむしろ転職対象として魅力があった。
・日本の敗戦で引き揚げた建築家たちは、帰国してからは活動基盤が一切ない状態で再起→支配地での建築活動で蓄積してきた経験が戦後の日本へ還流された。

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2011年10月30日 (日)

川本三郎『銀幕の銀座──懐かしの風景とスターたち』

川本三郎『銀幕の銀座──懐かしの風景とスターたち』(中公新書、2011年)

 東京にながらく暮らしてきた者としてこの街には愛着がある。とは言っても、私自身が実際に目にしてきた東京は1980年代以降、バブル期の地上げ等によって再開発が進んだ光景であって、それ以前の「東京らしい東京」というのは写真や映像資料などでしか見たことがない。普段見慣れたつもりの街並も、かつてはこんな光景だったんだという新鮮な驚きがあって興味が尽きない。

 私は映画を観るとき、いつも風景に注目する。たとえストーリーはつまらない場合でも、映し出された風景に味わいを感じることがある。かつての東京の風景を見るには、CGを駆使してノスタルジックな雰囲気を再現した「Always──三丁目の夕日」も悪くないけど、やはり同時代のロケで撮影された昭和の古き映画で見てみるのも面白い。

 本書は『銀座百点』に連載された映画エッセイを基にしており、昭和11年の「東京ラプソディ」から昭和42年の「二人の銀座」まで計36本が取り上げられている。『銀幕の東京──映画でよみがえる昭和』(中公新書、1999年)の続編という位置付けになる。

 作品それぞれのプロットをたどりながら、目についたランドマークとなる建物やその界隈の風景について言及される。著者自身がまだ若き頃に目の当たりにした印象、さらには時代背景も語られ、いつもながらに穏やかな筆致から当時の雰囲気が浮かび上がってくるところは読んでいて心地よい。取り上げられた映画のほとんどを私は知らなかったが、それでも十分に楽しめた。

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2011年7月 9日 (土)

上海について適当に12冊

 中国の中でもいち早く国際的に開かれて経済的・文化的に顕著な発展を示した一方、それは租界を通じたものであったがゆえに半植民地化という中国史のマイナス面をも体現、光と影の両面を抱え込んだ都市・上海。榎本泰子『上海──多国籍都市の百年』(中公新書、2009年)は1843年にイギリスが租界を設置して以降、約百年にわたる上海の近現代史に足跡を残した人々の姿を国籍別に捉えていく。自由都市としての基盤を築き上げたイギリス人。消費文化的ファッションを持ち込んだアメリカ人。革命を逃れてやって来て音楽・演劇・舞踊などクラシカルな文化をもたらしたロシア人。商人ばかりでなくナチスの迫害を逃れてこの自由都市へ難民として流入したユダヤ人。繁栄期には上海最多の外国人となり、中国との間に愛憎こもごもの関係を持った日本人。そして、政治的・経済的な実力を着実に蓄えながら最終的にこの都市を取り戻す中国人自身。外国から来た人々がそれぞれ何を残していったのか、国際都市上海の多面的な様相が浮かび上がってきてとても読みやすい良書。

 村松伸『上海・都市と建築1842─1949』(PARCO出版、1991年)は豊富な図版や写真を用いながら上海という都市空間の生成過程を分析した本格的な建築史論。最初にやって来たイギリス人はインド経由なのでヴェランダ付のコロニアル様式で邸宅を建てたが、やがて土地柄に合わないことに気づく。アン女王復古様式、ネオ・ルネサンス様式、ネオ・バロック様式を経て、サッスーン財閥の土地経営戦略はアール・デコ調の高層建築を現出、その摩天楼は古き上海のイメージを形成した。当時の建築の多くを請け負っていたのがパーマー&ターナー設計事務所(横浜正金銀行もここが手がけた)。やがて留学帰りの中国人建築家も育ち、1920年代から中国国内で租界回収の主張が高またのを受ける形で租界に対抗するため孫伝芳、さらには蒋介石が「大上海計画」を提案、しかし上海事変によって計画は頓挫。これを受け継いだのが皮肉なことに日本軍だった。都市計画を委嘱された前川国男がモダニストとして国際様式への意気込みから(日本化を進めた満州国でのやり方には批判的)、日本国内では実現できないプランを持ち込もうとしたらしい。建築にまつわる人物群像も含めて非常に興味深い本だが、少し難しいと感じる人には村松伸(文)・増田彰久(写真)『図説 上海──モダン都市の150年』(河出書房新社、1998年)がおすすめ。増田彰久は建築探偵・藤森照信の本の写真でもおなじみの人だ。建築・都市論としては藤原恵洋『上海──疾走する近代都市』(講談社現代新書、1988年)もある。刊行年は少々古いが、その頃の様子も垣間見えるところが興味深い。なお、本書の著者も路上観察学会の人のようだ。

 劉建輝『増補 魔都上海──日本知識人の「近代」体験』(ちくま学芸文庫、2010年)は幕末以降、日本の知識人が上海体験を通して何を受け止めてきたのか、その精神史的系譜をたどる。当初は上海が租界を通して受容していた「近代性」への憧れ、他方で外国支配への警戒心をかき立てられ、これらは明治維新へと進む駆動力の一つとなった。いったん国民国家形成に成功すると、今度は体制確立による息苦しさから上海の混沌とした「反近代性」(すなわち「魔都」イメージ)にロマンを感じるようになる。上海のモダニズム(摩登)は帰属の曖昧な内外文化の混沌たる状態に由来するわけだが、その混沌を画一性へと収斂させてモダニズムを消滅させたのが、第一に日本軍の上海租界占領、第二に新中国成立による社会主義化、両者の合作によるという指摘が興味深い。

 上海を舞台とした日中の知識人群像については丸山昇『上海物語──国際都市上海と日中文化人』(講談社学術文庫、2004年)が詳しい。尾崎秀樹『上海1930年』(岩波新書、1989年)は尾崎秀実、魯迅、スメドレー、ゾルゲなど、著者のライフワークたるゾルゲ事件関連の人物群像を中心に描き出している。

 海野弘編『上海摩登』(冬樹社、1985年)は1934~35年にかけて上海で出版されたナンセンス系風刺漫画雑誌を採録・再編集。中国語の「摩登」とはモダンの意味。1920~30年代にかけてヨーロッパや日本で花開いたモダニズム文化と共振していた雰囲気がうかがわれて面白い。ただし、ダダ的雰囲気を出そうとしたのだろうけど組版が凝りすぎて少々読みづらい。原本は竹内好の所蔵品らしい。

 荘魯迅『上海 時空往来』(平凡社、2010年)は著者自身の故郷への愛着がこもった眼差しが特徴。古今のエピソードで彩りながら上海の歴史をつづる。こちらまで食欲をそそられる思い出の料理の味わい、そして文化大革命で苦難を味わった家族や自身の記憶、こういった時折交えられる私的エピソードは叙述に体感的な奥行きを感じさせる。

 竹内実『中国という世界──人・風土・近代』(岩波新書、2009年)は中国の文化的特質を総論的に示そうとしているが、近代については上海に代表させて論じている。

 田島英一『上海──大陸精神と海洋精神の融合炉』(PHP新書、2004年)は大陸の中華世界と海洋文化との接点として上海が興隆した背景を捉える。著者自身の留学体験やナショナリズム論なども交えられている。

 渡辺浩平『上海路上探検』(講談社現代新書、1997年)の著者は1980年代初めに上海へ留学、その後90年代に今度は企業の駐在員として上海に滞在。この間の変化を踏まえながら上海の日常生活を紹介してくれる。

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2011年3月20日 (日)

武村雅之『地震と防災──“揺れ”の解明から耐震設計まで』

武村雅之『地震と防災──“揺れ”の解明から耐震設計まで』(中公新書、2008年)

 タイトルには防災とあるが、地震後の火災にしても津波にしても、家屋が倒壊してしまっては逃げるに逃げられない、従って災害軽減のため潰れない住家の建設が不可欠という問題意識から耐震設計の話題が中心となる。耐震設計で万全を期すには、どのような地震が発生してそれがどのようなメカニズムで作用しているのか、想定されるモデルを構築しながら数値計算によって強震度を予測することが前提となる。そのため、明治以来の地震研究の経緯にも触れながら、現時点でどこまで判明しているのかが解説される。

 地震は大まかに言って内陸型地震と海溝型地震に分けられる。前者は断層破壊→伝播性震源という形をとるが、どの活断層がすべって地震が発生するのかを事前に予測するのは難しい。対して後者はプレート境界で発生する地震である。昭和40年代以降プレートテクトニクス理論が知られるようになったが、とりわけ近年プレートすべり込みに際して固着性の強い領域(アスペリティ)とゆっくりすべり込んでいる領域とのズレがあってこのアスペリティが急激にすべり込んだ際に大きな地震が発生することが分かっている。このアスペリティ・モデルによってだいたいの震源予測はできるようになっているらしい。こちらは発生周期がおおよそ把握されており、今回の東北・関東大震災も発生周期に合致している。なお、アスペリティ・モデルについては昨年放映されたNHKスペシャル「MEGAQUAKE 巨大地震」シリーズでも取り上げられており、『MEGAQUAKE巨大地震──あなたの大切な人を守り抜くために!』(主婦と生活社、2010年)という書籍にもなっている。

 日本は地震国だからかつて木造家屋が中心だったという俗説があるが、むしろ樹木が多い風土なので単に身近な材料を使っただけと考える方が正しいらしい。日本の昔の住家は夏の蒸し暑さをしのぐため壁が少なく開放的な構造となっており、耐震設計上の工夫は見られないという。むしろエアコンの普及によって壁でしっかり区切る構造が広まり、それが耐震化を後押ししたという指摘があったのでメモしておく。

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2011年2月22日 (火)

藤森照信『天下無双の建築学入門』『建築史的モンダイ』『人類と建築の歴史』

 藤森照信『天下無双の建築学入門』(ちくま新書、2001年)、『建築史的モンダイ』(ちくま新書、2008年)は雑誌連載の建築史エッセイをまとめて入門書的に仕立て上げられている。軽妙な語り口が読みやすいというだけでない。建築の起源から日本の建築の特徴、和洋の相違、住宅建築の特徴など建築史にまつわる様々なテーマについて該博な知見を噛み砕いてさり気なく散りばめていき、内容的にもかなり高度なレベルを持っている。時に奔放に空想をふくらませていくところは脳裡に情景をありありと浮かべさせ、面白くて立て続けに読み進めてしまった。藤森さんはやっぱりすごいなあ。

 エピソードを紹介し始めたらきりがないが、私が興味を持った論点を一つあげると、明治初期、和洋併置のお屋敷が建てられたのはなぜか? 西洋風と自国風とを共存させた建築というのは実は世界的にも珍しいらしい。西洋の建築史ではゴシック様式、ロマネスク様式といった感じに時代区分と建築様式とを結び付けてスタイルの変遷を叙述することができるが、日本では一度成立したスタイルがそのままずっと生き残ったため時代区分による叙述が難しいのだという。例えば、神社建築や茶室など、時代よりもむしろ用途に応じてスタイルが使い分けられていた。従って、明治になって和洋併置の邸宅が建てられたのも、プライベートでは使い慣れた和風、来客等パブリックな場面では洋風という形で使い分けを意識していたからではないかと指摘される。

 『人類と建築の歴史』(ちくまプリマー新書、2005年)は初学者向けに建築の起源から説き起こした建築史概説で考古学的話題が大半を占める。上掲の二冊で紹介されたエピソードを通史的にまとめ直した感じで、合わせて読めば頭の整理にうってつけだ。

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2011年2月21日 (月)

隈研吾『反オブジェクト』『自然な建築』

 建築家として二十世紀はどんな時代だったかと問われたら、著者の隈研吾はコンクリートの時代と答えることにしているという。場所を選ばず可塑性があってデザインの自由がきき、お化粧すればコンクリートの塊でもどんな姿にも化けられる。すなわち、存在と表象との分裂が特徴だったと言える。近代の特徴を、物質と意識、世界と主観、それぞれ後者が前者の統制を図ろうとする発想を持った時代であると捉えるならば、この二項対立的な両者を架橋するオブジェクト=建築にとって最も適合的であったのがコンクリートなのである。そして、地表から浮いたように見える立体として設計された、言い換えるなら世界から切り離された自由なるオブジェクトという形でこうした時代を体現していたのがル・コルビュジエであった。

 しかしながら、コルビュジエの造型したオブジェクトはあまりにも自己主張が強すぎる。この自己中心的な威圧感から逃れたい、人間と自然とをもっとゆるやかにつないでいくことはできないか、これが著者の設計を進めていく際の思いである。建築とは人間の意識とその周囲を取り巻く物質との関係の取り方の表現であり、建築について考えるとはすなわち自分たちの置かれた環境との接続の仕方を再定義することに他ならない。こうした感覚について自身がこれまで仕事をしてきたケースを踏まえながら、『反オブジェクト──建築を溶かし、砕く』(ちくま学芸文庫、2009年)では現代建築論・思想論として展開、『自然な建築』(岩波新書、2008年)では様々な制約がある中で空間、地形、素材などを選んでいく試行錯誤のプロセスを通して考えていく。

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