カテゴリー「中国」の176件の記事

2020年5月28日 (木)

【七日間ブックカバー・チャレンジ:七日目】 中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』

【七日間ブックカバー・チャレンジ:七日目】
中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』
 
 十年前、初めて中国へ行った。当時は会社勤めをしていたが、五月の連休を利用した個人旅行で北京と天津を一人で歩き回った。歴史に関係する場所を巡るのが目的で、しっかり事前勉強もした。そうした中、知人から勧められて中薗英助の作品も読んだのだが、特に印象に残ったのが『夜よ シンバルをうち鳴らせ』であった。
 
 日本軍の占領下、いわゆる「淪陥時期」において、現地採用の新聞記者となった主人公が目撃した北京の光景。中薗の作品のうち『北京飯店旧館にて』『北京の貝殻』などは回想録的、私小説的な形を取るのに対して、『夜よ シンバルをうち鳴らせ』の方は著者自身の実体験をにじませつつ、謀略サスペンス的な筋立てを絡ませた小説に仕立て上げられている。
 
 左翼くずれの日本人や、いわゆる大陸浪人。抗日意識を胸に秘めた中国の知識青年と、逆に大東亜共栄圏のスローガンを叫ぶ中国人。日本軍の謀略に利用された東トルキスタン独立運動のウイグル人マームード・ムヒイテ将軍。魯迅夫人・許広平がひそかに北京へ戻っているという噂。消えた北京原人の標本の行方。大東亜文学者会議への出席をやんわりと拒絶した周作人(その説得のため文学報国会から派遣された九重由夫こと久米正雄や葉柴勇こと林房雄たちの鼻息の荒さが北京で顰蹙をかっていたことは別の本で読んだことがある)。京城日日新聞特派員として北京へ来ていた白哲(=白鉄、本名は白世哲)や金史良は朝鮮人としての思いを語る。民族的背景も様々で多彩な人物群像がうごめくスケールの大きさは圧巻で、読みながらこの作品世界の中へグイグイと引き込まれていった。
 
 占領者たる日本人と被占領者たる中国人。生身の人間同士として付き合った点では友情もあり得た一方で、必ずしも全面的な信頼までは置けないわだかまり。この微妙な関係は、抗日/親日といった単純なロジックで裁断できるものではなく、第三の道はあり得ないのか、そうした模索へと主人公を駆り立てていく。それは、他ならぬ中薗自身の青春期から一貫したテーマであったと言えよう。
 
 タイプは異なるが、占領者としての日本人の負い目意識をテーマにしている点では、日本植民統治下の京城文壇を舞台とした田中英光『酔いどれ船』を挙げることもできる。やはり大東亜文学者会議の準備に駆り出された青年文士(=田中自身)が目撃した、抗日と体制順応、陰謀と狂騒の混濁したファルスを、実在の人物をカリカチュアライズしながら描き出していた。『酔いどれ船』では主人公の内面的にウジウジしたところを暴露的に描く形で田中自身の青春の暗さが表現されていたという印象がある。これに対して、中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』の方は、政治意識の強さを明確に打ち出したことで、むしろ一種の清冽さすら感じられた。
 
 中薗は、漫然とした動機で中国大陸に渡った、と語っている。若き日々のアモルファスな情熱に明瞭な表現を与えるのはもちろん難しいことであろうが、一つには若者らしい冒険心燃えたぎるロマンティシズムがあったであろうことは容易に想像できる。それが異郷への憧れというプル要因になっていたとしたら、では、プッシュ要因は何だろうか。いわゆる「外地」には、日本の内地で居場所を失った左翼くずれやヤクザ者、あるいは一旗挙げようと考える手合いなど、様々なあぶれ者が流れ込んで来ており、彼らを許容するだけのいわゆる「植民地的自由」があった。中薗が家出した直接のきっかけは、将来の進路をめぐる父親との葛藤であったが、父親の権威への叛逆は私的なものであると同時に、戦時統制の強まりつつある時代、国家による束縛への反抗心もそこには重ね合わされていたと言えるだろう。日本国内における様々な束縛を厭う心情が、「外地」の持つ一種奇怪な「自由」へと引きつけられていったのかもしれない。
 
 ロマンティックな自由を求めた異郷。そこはまた、裸の自己を試される厳しい葛藤の世界でもあった。中薗は、裏切りや卑怯、傲慢といった人間の醜さをいやというほど見せつけられた一方、気持ちの通い合う友人たちとも出会った。とりわけ陸柏年や袁犀といった中国人の友人と知り合えたことは彼の北京体験の中で特筆される。
 
 しかし、「淪陥時期」の北京にあって、中薗自身は中国人側に親近感を寄せているつもりであっても、彼らの方からは「日本人=支配者」と見られてしまい、なかなか胸襟を開いてはくれない。「支配者」側にいるという立場性は、主観的な善意だけではどうにもならない。引け目の懊悩はさらに「原罪」意識へと深められていく。こうした矛盾への葛藤が、以後における中薗の文学活動の原点となっており、『彷徨のとき』『夜よ シンバルをうち鳴らせ』をはじめとした様々な作品で繰り返し表現されている。
 
 侵略した側、支配する者が、侵略された側、支配される者との間で友情を築くことができるのか。中薗はある本で、陸柏年から「きみは、人類という立場に立てますか?」と問いかけられたことを書き留めている。青くさい。しかし、こうした青くさい言葉が強烈な印象として中薗の脳裡に刻み込まれていたのは、それだけ深刻に矛盾した体験に身を引き裂かれるような思いをしていたからに他ならない。中薗は敢えてこの言葉を自らの問題として引き受け、終生のテーマとした。後年、アジア・アフリカ作家会議などで積極的な活動を行なったことも、こうした彼自身のテーマの延長線上にある。
 
 『夜よ シンバルをうち鳴らせ』を読んで私が関心を持っているのは次の二点である。第一に、日本軍占領下北京のカオティックな状況。当時、日本軍は「大東亜共栄圏」というスローガンを掲げていた以上、中華文化を尊重する態度を示さねばならず、また、統治の便法として傀儡政権を成立させていた。それらはもちろん建前上のものに過ぎなかったとはいえ、建前というのも結構バカにはならない。例えば、同時期の台湾や朝鮮では同化政策が推進されていたのと比べると、大陸の占領地では文化政策に関して別の方針が取られていた。傀儡政権には抗日派が紛れ込む余地もあり、当時の北京においては抵抗/協力という単純な二分法では割り切れないグレーゾーンが広がっていた。そこには、ある場合にはいわゆる「植民地的自由」があり、また別の局面においては、誰が敵で、誰が味方なのか分からない混沌とした人間模様があった。そうしたカオティックな状況が、ドラマの舞台として非常に印象的であった。
 
 上述のような「植民地的自由」は、日本統治下においてアイデンティティーの曖昧な台湾人を吸引する余地も大きかった。私は1930~40年代に中国へ渡った台湾人というテーマにも関心を持っているが、中薗が描き出した北京のカオティックな状況を後景として、その中で彼ら台湾人の動きをたどってみたいという気持ちがある。とりわけ台湾出身の音楽家・江文也については以前から調べているが、江はこうした北京の「植民地的自由」の中だからこそ、軍部の協力を得て中国をモチーフとした音楽作品を発表することができた。江の友人の画家・郭柏川は梅原龍三郎と共に紫禁城を描いた。抗日派の知識人、張深切、張我軍、洪炎秋などは、警察の監視が厳しい台湾から逃れて北京へ渡り、当時の北京は台湾と比べると、敵と味方とを分かつ線が曖昧だったため、監視がゆるいからこそ職を得ることができた。張深切、張我軍、洪炎秋たちは北京で周作人と交流があった。他にも、中国知識人が北京を脱出したため、かわって大学でポストを得た台湾人もいた。
 
 他方で、彼らには台湾人=日本国籍者という特権もあり、単純に抵抗/協力という枠組みでは捉えきれないグレーゾーンを意識しておかないと一面的な叙述に終わってしまう。いずれにせよ、中薗の作品では多様な民族的背景の人々が出てくるわりに台湾人は出てこないのだが、当時の北京にもやはり一定数の台湾人が来ていたし、彼らの動向について研究も増えてきている。
 
 第二に、支配する者と、支配される者との関係性。自分が主観的には相手に寄り添っているつもりであっても、相手はそのように受け止めてはくれない。自分の意志ではなくとも、支配者側にいるという立場性から逃れることの困難。これは、日本人として台湾研究をしている私自身にとっても、ずっと考え続けなければならない問題である。
 
 私はいわゆる「外地」がどうしても気になる。父方の祖父母はかつて台湾で教員をしており、特に祖母は「湾生」であった。母方の祖母は、その父(つまり私の曽祖父)が旧「満洲国」で事業をしていたことから(伊達順之助の友人だったと聞いた)、短期間ながら奉天にいたことがある。母方の祖父は一年間ほど朝鮮総督府に勤務した後、北京へ移って満鉄の子会社「華北交通」に測量技師として勤めていた。私は言うなれば、四重の意味で「侵略者」の孫ということになってしまうが、それはともかく、私が東アジア現代史に関心を持っている理由の少なくとも一つとして、祖父母の存在を通して東アジア現代史が身近なものに感じられているという点は挙げられる。
 
 上記の文章は、私が以前に書いた下記のエントリーをもとに、加筆しながらまとめた。
「中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』」 (2010年4月27日)
「神奈川近代文学館「中薗英助展─〈記録者〉の文学」」(2012年4月25日)
 
 私が持っているのは福武文庫版で、絶版である。いま手元にないので、書影は割愛する。

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2016年3月20日 (日)

王明珂《華夏邊緣:歷史記憶與族群認同》

王明珂《華夏邊緣:歷史記憶與族群認同》允晨文化、1997年
 
 約20年前に刊行された少々古い研究書ではあるが、大学院の授業で「これは必読書だよ」と言われ、慌てて図書館で借り出して通読した。著者の王明珂は中国辺境民族史を専門としており、中国でフィールドワークを行った成果も本書に反映されている。本書刊行時には台湾の中央研究院歴史語言研究所研究員、現在は院士。
 
 「華夏」とはすなわち中国人アイデンティティーと言ったらいいだろうか。「民族」概念の可塑性を理論的前提として、つまり様々な条件がせめぎ合う中で「民族」なるものが指し示す内容も不断に変化していることを踏まえて、中国人アイデンティティーの起源及び拡大の力学を考察しようとするのが中心テーマである。「中国人」なる概念がそもそも可塑的であるため、古代史において中原と辺境民族とが交錯したボーダーラインに注目し、民族学や考古学の知見を援用しながら議論が進められている。最終章が台湾の族群をめぐる議論に充てられているが、本書刊行当時の台湾社会におけるまさにホットな話題がこの研究テーマに影響を与えていたであろうことは想像に難くない。考察対象は異なるにせよ、アイデンティティーの可変性は私自身の研究テーマともつながってくるので、思わぬ収穫だった。
 
 本論とは直接には関係ない細かなことでメモ。学者は歴史の再構築を行う際に民族間の優劣をつけたがる、という文脈に付けられた注で江上波夫『騎馬民族国家』に言及している(75頁)。そこで、騎馬民族が日本へ来たという学説は、農耕民族である中国人に対する優越性を示そうとしている、と言っているのだが、果たしてそうなのだろうか? 第一に、当時の日本人は農耕民族という自己規定を持っていたわけで(天皇は稲作の祭祀者)、騎馬民族が祖先であったことを以て優越性を示そうという発想などあったはずがない。第二に、大陸の外来民族が天皇家の祖先であったとする学説は、万世一系の皇国イデオロギーを相対化する役割を果たすので、民族間の優劣という問題にはつながらない。他方で、第三に、騎馬民族説は喜田貞吉の日鮮同祖論の焼き直しという指摘もあり(鈴木公雄『考古学入門』東京大学出版会、1988年)、見ようによっては大東亜共栄圏イデオロギーに利用される可能性もあったわけだが、それは農耕民族/騎馬民族という対比とは別次元の問題である。
 
 彝族や羌族の間で、日本人と共通の祖先を持つという伝承があることは本書で初めて知った(363~366頁)。地元の研究者には語彙や風習に見られる共通性からそうした同祖論についての研究論文もあるようだ(周錫銀〈中国羌族古代文学与日本名著《古事记》之比较〉《羌族研究》第一輯、1991年:97-101 ただし、私は未見)。本書の著者は次の二点を指摘する。第一に、ひょっとしたら日本人研究者がかつてここまで来たことがあって、その時に酒の席の雑談で「君たちは日本人と似ている」といったことを軽い調子で言ったのかもしれない(戦前期日本の研究者が日本人のルーツを求めて満蒙や北アジア史研究を手掛けていたことにも注意が促される)。ただし、仮にそうした出来事が過去にあったとしても、日本との同祖論が一般的に広まった理由は何なのか? 第二点として、改革開放後、日本の優れた製品が流入するのを目の当たりにして、日本イメージへの憧れから日本人との血縁関係を強調する民族意識が出てきたのかもしれないと指摘されている。以上のことについて日本にも研究論文はあるのだろうか?

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2014年6月 2日 (月)

野嶋剛『ラスト・バタリオン──蒋介石と日本軍人たち』

野嶋剛『ラスト・バタリオン──蒋介石と日本軍人たち』(講談社、2014年)

  中国や台湾は言うに及ばず、日本にとっても深い因縁を持つ歴史上のキーパーソン・蒋介石。東アジアの激動をある意味一身で体現しているかのように、彼の評価もまた変転著しい。権威主義体制時代の台湾では文字通り神格化されていたが、民進党の陳水扁政権が誕生すると、脱蒋介石化が急速に進められた。他方、それまで彼を「人民の敵」としてきた大陸の方ではむしろ蒋介石研究が一つのブームになるという逆転現象も起きている。彼をどのように評価するかはともかく、まだまだ論じ尽されていないテーマであることは確かだ。

  蒋介石は常に自己修錬を課すストイックな性格だったのか、あるいは粘着質的とでも言うべきか、激務の合間を縫って毎日欠かさず日記をつけていた。彼の判断が歴史の局面を大きく動かしたことすらあった点を考えると非常に興味深い史料である。民進党政権の誕生によって破棄されることを恐れた遺族の一人が蒋介石日記をスタンフォード大学フーバー研究所に預けており、それが2006年から公開され始めたことは、東アジアの現代史を考え直す上で大きな刺激となった。

  蒋介石日記を閲覧した著者は、1948年の後半から「白団」に関わる記述が繰り返し見られることに注目した。蒋介石の対日観を検討する上で「白団」は重要な切り口となるのではないか──そう確信した著者は7年越しの取材の成果を本書にまとめ上げている。

  国共内戦に敗れて台湾へ撤退した国民政府軍は惨憺たる状態にあった。共産党がいつ台湾海峡を渡って押し寄せてくるか分からないし、アメリカも彼らを見捨てようとしている。そうした危機感の中、蒋介石は軍の再建を図るが、彼が痛感していたのは軍事教育の欠如である。日本留学経験のある蒋介石はもともと日本軍の能力を高く評価しており、軍事教育の部分で日本軍人の助けを借りようとした。

  かつて支那派遣軍総司令官として戦った当の相手である岡村寧次を通じて日本軍人のリクルーティングが進められ、彼らは「反共」の大義名分の下、秘密裡に台湾へと渡った。1949年から68年にかけての約20年間、最大で76名の日本軍人が教官を務めた。現地でトップとなった富田直亮(陸軍少将)の中国名・白鴻亮にちなんで「白団」と呼ばれる。かつての敵軍に教えを乞うという皮肉に国民政府内でも反対意見があったが、蒋介石はそうした不満を抑え込み、自らも積極的に授業へ出席した。蒋介石日記には麾下の将軍たちについての言及はほとんど見られないが、富田をはじめ「白団」将官との面会については頻繁に書き留められており、それだけ深い信頼を寄せていたことが分かる。

  蒋介石は1952年からアメリカの軍事顧問団も受け入れていたが、それは技術的な部分にとどめられていた。「白団」に対するアメリカ側のクレームをはねつけ、軍幹部の精神教育の部分については「白団」に委ねていたあたり、蒋介石の独特な思い入れが窺える。「敵」でありつつも、「日中連携」を図る──こうした逆説から、彼の心中における「愛憎」半ばした葛藤がしばしば指摘される。これに対して著者は、蒋介石の対日観について「受容と克服」、つまり中華民族復興という目的に向けて近代化の成果を日本から吸収する、そうした彼の割り切った態度を指摘している。

  国民政府軍の上層幹部には「白団」の指導を受けた者が多数いるはずだが、彼らはそのことを語りたがらない。軍幹部は主に国民党と共に来台した外省人によって占められていた。彼らにとって日本は旧敵であるが、国民党に反感を抱く台湾人はそうした日本にむしろ好意を寄せる。このような日中台の複雑な三角関係は時に悲劇を生んだ。台湾人として生まれ、国民政府軍に入隊して「白団」の指導を受け、その縁で日本の自衛隊へ留学した楊鴻儒は、1971年にスパイ容疑で逮捕されて緑島へ送られ、不遇な一生を送ることになってしまう。知日派への見せしめであったと考えられる。

  戦後の日本社会に居場所を失ってしまった旧軍人にとって、「白団」として台湾へ赴任することは、自らの能力を生かしてやりがいやプライドを満たせる恰好な舞台であった。他方で、彼らとて人間である。「反共」のための「日中連携」、蒋介石の「以徳報怨」へのご恩返しといった建前だけで生きていたわけではない。「白団」の一員であった戸梶金次郎の日記からは「白団」の面々の「人間くさい」部分が垣間見える。東アジア近代の複雑な諸局面を「白団」に注目する観点から整理して語りつつ、同時にその中で生きざるを得なかった等身大の人間群像もできるだけ描き出しているところは読みごたえがある。

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2013年7月 5日 (金)

楊海英『植民地としてのモンゴル──中国の官制ナショナリズムと革命思想』

楊海英『植民地としてのモンゴル──中国の官制ナショナリズムと革命思想』(勉誠出版、2013年)

 ナショナリズムがいびつな形をとったとき、対外的には攻撃的な排外主義が煽られ、国境線の内部ではマイノリティーへの抑圧として表われる。近年の中国における愛国主義の昂揚は尖閣問題、南沙問題等にも顕著に見られ、日本においても、それこそ日中友好を願う人々の間ですら懸念は広がっている。

 他方で、こうしたナショナリズムは中国内部の民族的マイノリティーに対してどのように暴力的な作用を示しているのか。本書は、内モンゴル自治区出身のモンゴル人民族学者という立場から中華ナショナリズムの問題点を抉り出そうとしている。

 かつて日本軍が大陸へ侵略したとき、満洲国や蒙古聯合自治政府といった形で内モンゴルを事実上支配していたことがある。その意味で、内モンゴルは日本と中国の両方から植民地化を経験した。「日本刀をぶら下げた奴ら」という表現がある。日本が設立した学校で近代的教育を受けたモンゴル人を指す(例えば、楊海英『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』岩波書店、2009年→こちらを参照)。漢人の支配者からは抑圧しか受けなかった一方、少なくとも近代化の恩恵を伝達した点で日本人に対してモンゴル人は相対的には好意的だったらしい。ただし、そうした「親日」的傾向が、「解放」後になると共産党政権によるモンゴル人知識人粛清の根拠になってしまった。この点で国民党が台湾で引き起こした二二八事件と構図として共通すると指摘される。いずれにせよ、このような形で日本も責任を負っている以上、見過ごしてしまうわけにはいかない。

 失われた伝統文化を何とか再構築したい。そうした思いは民族学者としての仕事の動機となる。だが、そもそも内モンゴルで民族的伝統文化が失われてしまったのはなぜなのか。「解放」という大義名分で隠蔽された下、実質的には漢民族による抑圧や殺戮によってモンゴルの伝統文化が抹殺されてきたし、それは現在進行形でもある。そうした暴力から目を背けてきた点で、民族学者は中国政府と暗黙の共犯関係にあったと手厳しい。

 著者の中国人に対する糾弾の激しさには驚かされる。場合によっては学者としての一線を越えていると思われるかもしれない。しかしながら、『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(岩波書店、上下、2009年;続、2011年→こちらで取り上げた)で具体的に描写されている暴力の凄惨さを想起すれば、こうした怒りもやむを得ないだろう。

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2013年7月 3日 (水)

広中一成『ニセチャイナ──中国傀儡政権 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京』

広中一成『ニセチャイナ──中国傀儡政権 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京』(社会評論社、2013年)

 「大一統」「漢賊並び立たず」といった時代がかった表現を使うかどうかは別として、天下=中国を統べる政権はただ一つ、分立はあり得ない──こうした観念がとりわけ濃厚な中国の歴史観において、政治的正統性をめぐる相克は歴史解釈にそのまま直結している。政権の正統性を主張するにあたって妥協のない苛烈さは、例えば現在の中台関係を見ても明らかだろう。ましてや「傀儡政権」とみなされた場合、もはや抗弁の余地はどこにもない。

 本書が取り上げるのは、満洲国(溥儀)、蒙古聯合自治政府(徳王=ドムチョクドンロプ)、冀東防共自治政府(殷汝耕)、中華民国臨時政府(王克敏)、中華民国維新政府(梁鴻志)、そして汪兆銘政権──いずれも1930年代から日本軍が中国大陸に打ち立てた「傀儡政権」である(他にも小さな政権が多数成立していたことは初めて知った)。

 こうした政権をどのように見るか。日本人としては複雑でもある。彼らは「親日」とみなされたがゆえに「漢奸」として処断された。そのような彼らに関心を持っただけで、「おまえは軍国主義を肯定しているのか!」と非難されてしまいそうで、どうしても躊躇してしまうわだかまりが胸のあたりにひっかかっている。少々居心地が悪い。

 傀儡政権に参加した「漢奸」について、中国では極悪人として断罪され、日本では侵略への負い目意識から、まともに取り上げられる機会はなかなか少なかった。ある意味、知的空白になっていたと言えよう。だからこそ知りたい!というのが私の正直な気持ちである。近年は専門的な研究も蓄積されつつあるが、一般書としてまとめられた類書は見当たらないだけに、興味を持って本書を手に取った。

 漢奸か否か?という評価軸から距離を置いてこの時代を考察する作業も必要である。実際、事情は単純ではない。もちろん、中には欲得ずくで日本軍に協力した輩もいた。他方で、情状酌量の余地を考慮してもいいのではないか。例えば、モンゴル人の徳王には民族の自治や独立を求める切実な思いがあった(このあたりは、楊海英『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』[岩波書店、2009年]、田中克彦『ノモンハン戦争──モンゴルと満洲国』[岩波新書、2009年]なども併読したい)。汪兆銘は抗日戦争の見通しに悲観的となって和平を求めようとしたのが動機であった。戦火にあえぐ中、社会秩序維持のためやむを得ず汚れ役を引き受けざるを得なかったケースもある。しかしながら、そうした個々の思惑が日本軍の工作に絡め取られ、結果として使い捨てられ、裏切られてしまった。そこに悲劇があった。

 「漢奸」を断罪する「倫理的」な評価から離れようとして、逆に「親日」礼賛のように安易な解釈へ収斂させてしまうと、それはそれでおかしな話である。歴史的な実相をいかに眺めていくか、見る側の思考力が試される。いずれにせよ、一面的になりがちな視点とはまた違ったところまで視野を広げながらこの複雑な時代を読み解いていくのはスリリングな作業になるはずだ。

 本書ではそれぞれの政権の特徴と概略が堅実にまとめられている(タイトルはキワモノ的だが、読者層の間口を広げるための工夫であろう)。情熱、保身、謀略、裏切り、様々な思惑が錯綜しながら渦巻く多面的な時代の様相を読み解いていく上で、本書は恰好な手引きとなる。写真が豊富に収録されて資料的にも面白く、辻田真佐憲による傀儡政権の軍歌研究、曽我誉旨生による交通網の解説も合わせて各政権の様子が立体的に浮かび上がってくる。

 それにしても、日本軍がいかに深く中国大陸に食い込んでいたのか、改めて驚かされる。張り巡らされた人脈網を通して中国政界の人材をあちこちからヘッドハンティングし(ただし、二流どころばかり)、統治機構を瞬く間に立ち上げ、銀行の設立、貨幣の発行までしてしまう手際の良さ。しかしながら、中国側の意向を全く無視して、大局では大コケしてしまうのも不様であるが。傀儡政権を立ち上げても税収が確保できず、財政基盤は脆弱であった。そこで、収入を補填するためアヘン密売に手を染めた経緯も見えてくる。こうしたところで、例えば里見甫のような裏社会のフィクサーもうごめいた。

 その一方で、中国人と真面目に向き合おうとする日本人もいた。新民会(北京の中華民国臨時政府の下、満洲国・協和会を模して作られた団体)の職員として現地指導にあたった岡田春生へのインタビューからは、中国人側に立とうとして軍人に抑え込まれた憤りも垣間見える。繆斌の思惑、小沢開作が抱いた不満、青幇への入会など興味が尽きない。

 辛亥革命による清朝崩壊から1949年の中華人民共和国成立に至るまで二十世紀前半の中国史では多くの地方政権や軍閥が興亡しており、全体像はなかなか把握しづらい。1930~40年代については本書がレファレンス本として有用である。1928年の蒋介石による北伐までは杉山祐之『覇王と革命──中国軍閥史 一九一五─二八』(白水社、2012年)が整理しており、読み物としても面白かった。本書『ニセチャイナ』は「20世紀中国政権総覧vol.1」となっているが、こうした軍閥抗争の時代についても続巻を予定しているのだろうか。期待したいところである。

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2013年5月26日 (日)

【メモ】阿南友亮『中国革命と軍隊──近代広東における党・軍・社会の関係』

阿南友亮『中国革命と軍隊──近代広東における党・軍・社会の関係』(慶應義塾大学出版会、2012年)

 なぜ中国共産党が国共内戦を勝ち抜くことができたのか、その理由について研究者の間ではいまだにコンセンサスの得られた結論は出ていない。共産党が実施した社会革命によって農民の支持を取り付け、彼らの積極的な参加によって内戦に勝利したというストーリーが公的に定説とされているが、アカデミックな検証を経ているわけではない。

 共産党の社会革命、具体的に言うと土地改革によって土地の分配を受けた農民が革命運動の担い手となったというモデルは、共産党が軍隊を形成し始めた初期の段階から語られている。実際にはどうであったのか? 本書は軍隊に兵員を供給する社会的背景との関係に注目し、1920~30年代の広東省における共産党軍の動向について当時の史料を駆使しながら丹念に検証を進めるている。下記にメモしたように、「革命の論理」が標榜されつつも、その背景には伝統的・土着的社会との連続性が垣間見えてくる。本書の着眼点を地域的・時代的に広げて検証を続ければ、共産党の「建国神話」を相対化し、ひいては中国現代史を大きく描き変える可能性すら感じさせ、興味深い。

・共産党による階級闘争や社会革命の推進によって土地を分配された農民たちが革命戦争へ積極的に加わったというのが従来の通説であった。当時の共産党が党の指導下で動員し得る近代的軍隊の形成を目指していたのは確かである。しかしながら、当時の史料を調べてみると、実際にはうまくいっていない。
・当時の広東省には潤沢な武器弾薬が流れ込み、農民たちが高度に武装して宗族単位で自衛集団が形成されていた。共産党はむしろ、もともと広東に存在していた宗族間の対立関係に乗っかる、つまり、ある宗族が国民党の後ろ盾を得ているなら、敵対する宗族は共産党に従うという伝統的な分類械闘の論理を利用する形で武力を確保した。
・実際に動員された農民たちはあくまでも自分たちの生き残りが目的であった。従って、革命事業の推進という共産党の理念と宗族の生き残りという地元民の伝統的な思惑との二つの論理をかみ合わせることで当時の広東における共産党の軍事力は成立した。地元出身で宗族と血族的な関係のある党員が接着剤となり、二つの論理を読み替えながら共闘関係を作り上げる必要があった。
・社会変革の進行による農民の支持によって軍事力が形成されたのではない。既存の武力を一定レベルまで確保できさえすれば、その武力を後ろ盾に一定の管理・監視権力を行使して住民の徴発が可能となり、軍隊が拡大される。つまり、共産党が試みた土地革命とは関係なく、様々な手段を駆使して既存の武力をかき集められたからこそ、それがその後の活動を展開する基礎となった。

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2013年5月14日 (火)

佐藤孝一『「中国脅威論」とASEAN諸国──安全保障・経済をめぐる会議外交の展開』

佐藤孝一『「中国脅威論」とASEAN諸国──安全保障・経済をめぐる会議外交の展開』(勁草書房、2012年)

ASEANはもともと隣国同士で紛争の火種がくすぶっていたので域内諸国間の摩擦を鎮静化することを目的として出発し、またベトナム戦争の飛び火も恐れて、1967年にインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの5カ国で結成された。ただし、互いの疑心暗鬼は消えておらず、ソ連や中国を刺激したくないという思惑もあったため、拘束力の弱い宣言で設立され、目立つ機構化は避けるという形で出発した。ASEANは弱小国の集まりである。しかし、1国では相手にしてもらえなくても域外大国とも集団交渉で協議を進めてきたのが持ち味であり、さらに交渉相手国に応じて国際会議を分離し、会議外交の重層化・多元化という特徴を示すようになっている。

小国の集まりであるASEANにとって、良くも悪くも巨大な存在感を持つ中国の動向には敏感となる。「中国脅威論」に基づいて提起されたテーマは下記に挙げたように様々であるが、こうした課題に直面したASEAN諸国は「弱者の武器」としての会議外交によってどのように抑え込みを図ってきたのか? 本書では具体的なケースが検討されるが、ASEANの会議外交は能力に見合った成果を挙げているものの、大国相手の限界も同時に浮き彫りにされる。

「中国脅威論」として6つの要素が示されているが、ステージごとに考えると、歴史的問題(1940年代~1989年)→南シナ海紛争・SEANWFZ構想(1974~2005年)→経済問題(1993~2007年)→非伝統的安全保障問題(2003~2007年)という時期区分ができる。つまり、当初は政治的紛争が中心であったが、近年では経済や保健衛生など政治的能力・意思では解決のできない分野へと焦点が移りつつあることがうかがえる。

・「中国脅威論」の要素として何が挙げられるか?
①歴史的要素:中国共産党が東南アジア諸国内の共産党を支援した過去。
②軍事的要素:国防費の増大及び国防の近代化。中国軍の海洋進出。中国の武器移転。
③政治的要素:領土・領海紛争。中国における愛国主義の高まり。「大中華」形成への懸念。華人が多いシンガポールは中国との取引が増えるにつれて中国べったりという印象からASEAN内で孤立する懸念。民主主義・人権問題。
④経済的要素:貿易摩擦。「大中華」経済圏の懸念。中国における人口増大及びエネルギー需要の急増。
⑤非伝統的安全保障要素:環境問題。感染症や食品衛生の問題。
⑥規模の要素:巨大さそのものによる圧迫感。

・ASEANレジームの特徴
①拘束が少なく、政策決定は全会一致とする緩やかな会議形態→最大公約数的な要求しか提起できない一方、域外の交渉相手国(中国)を怒らせないようトーンダウンするケースもある。
② 紛争当事者の間の対話の維持と継続を優先させる。
③国際会議を地域協力の促進の基礎とする。
④必要に応じて新たな国際会議を設立して組織の強化と国際環境への適応を図る。
⑤会議の主催国・議長国を加盟諸国が担当。
⑥非公式協議の活用。

(以下は関心を持った箇所のメモ)
・投資額や出稼ぎ労働者の行き先などを考えるとASEANにとって台湾の経済的重要性は無視できない。当然ながら、対中関係で大きなネックとなるが、中国側の「1つの中国」政策に一貫性がないため、ASEAN側は難しい舵取りを迫られる。例えば、シンガポールは要人の台湾来訪に際して中国側に配慮していたが、突如、中国側の態度が強硬になった。陳水扁政権で中台関係が悪化していた頃で、シンガポールに対する反発というよりは、台湾との交流を抑止する手段としてシンガポールを非難した。裏返せば、中台関係が安定していれば、ASEAN諸国の台湾との関係も安定する。

・南シナ海の領土紛争には多くの当事国の利害が錯綜しており、とりわけスプラトリー諸島には中国、台湾、ベトナム、マレーシア、フィリピン、ブルネイが関わる。ASEAN加盟国同士でも領土対立があるため一枚岩ではない。当然ながら自国の権益を優先して考えるため、会議外交の持ち味を出しづらく、中国は会議外交に応ずるのではなく二国間交渉を進めようとした。これに応じて、例えばマレーシアは、スプラトリー諸島の定義が定まっていないことに着目し、その範囲を狭く定義し直す中で自らの主張する島嶼はそこから外し、その上で中国の主権を認めるという妥協案で中国側と交渉する意向もあったらしい。また、軍事的に劣勢なフィリピンに対しては他の加盟国も容赦ない態度を取った。他方、フィリピンが領有を主張するミスチーフ礁を人民解放軍が占拠した際(1995年)、中国の外交部はその事実を知らなかったという。2002年、強制力のない「南シナ海における係争当事者間の行動宣言」が合意され、2003年に中国はTAC(東南アジア友好協力条約)に域外国として加盟、「平和と繁栄のためのASEAN中国戦略的パートナーシップ宣言」も出された。これは外相主導の合意→中国では外交部と人民解放軍との連携が密ではないため、人民解放軍を加えると交渉が紛糾する恐れがあった。こうした合意に拘束力は弱いとはいえ、中国を国際的監視の下に置けた意味では成果と言える。中・比・越の共同探査も行われたが、中国が今後も融和的な態度を取るかどうかは分からない。

・SEANWFZ(東南アジア非核兵器地帯)構想は冷戦の東西対立巻き込まれるのを回避するために出された1971年のZOPFAN(東南アジア平和・自由・中立地帯)宣言までさかのぼるが、1983年からインドネシア政府の主導で議論され、1997年に条約として発効した。ただし、条約化しても非力なASEAN諸国では実現するのは難しい。なぜ急いで条約化したのか? まず会議外交の結集点としての役割があるだろうが、SEANWFZ条約に含まれる次の2点、すなわち、第一に加盟国領域だけでなく大陸棚や排他的経済水域まで及び、第二に原子力潜水艦の航行が制限されることを考えると、中国向けのメッセージとしての意味合いもあるのではないかと推測される。南シナ海にのびたU字線は中国の領土拡張の意思、ミスチーフ礁の占拠はその具体的な実施、核実験や台湾危機におけるミサイル演習など軍事力の誇示、さらに台湾危機は台湾への出稼ぎにも影響、こういった要因をASEAN側は脅威と受け止めていた。

・東南アジアの華人が市場原理に基づいて対中投資を進めたとしても、他のエスニック・グループから「大中華経済圏」「中国脅威論」の猜疑心を招いてしまうおそれ。華人が多いシンガポールの政治指導者はASEAN内部での孤立を懸念して火消しに躍起になっていた。また、シンガポール製品の輸出市場を中国に独占されるのではないかという要素も強かった。2002年に締結されたACFTA(ASEAN中国自由貿易地域)は中国からの譲歩も得ており、会議外交の成果。

・非伝統的安全保障問題の一例として、中国で発生したSARSの拡大。WHOは中国を非難したため中国の態度は硬くなっていたが、シンガポールのゴー・チョクドン首相のイニシアティブによってWHOとASEAN首脳会議、ASEAN中国首脳会議が連携し、SARS拡散食い止めに尽力。ASEAN側は会議外交の枠組みを通して中国を説得できたが、中国の責任追及まではできなかった。他に、メコン川の水資源配分に関わる環境問題。食品衛生問題では自らの非を認めることはなく、逆に報復措置→ASEANは会議外交の枠組みで粘り強く交渉。相手のメンツをつぶさない会議外交方式は中国相手には一定の効果。中国国内において悪しき官僚主義や秘密主義で横の連携ができないことによる対策や情報伝達の遅れ、不作為も「中国脅威論」の政治的要素となる。

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2013年5月11日 (土)

石剛 編著・監訳『「牛鬼蛇神を一掃せよ」と文化大革命──制度・文化・宗教・知識人』

石剛 編著・監訳『「牛鬼蛇神を一掃せよ」と文化大革命──制度・文化・宗教・知識人』(三元社、2012年)

 文化大革命そのものよりも、これを現出させることとなった中国社会の内在的要因の解明を目指し、社会制度的・思想構造的な観点からアプローチした論文が集められている。目次は以下の通り。

・王毅(浜田ゆみ訳)「「牛鬼蛇神を一掃せよ」が「文革」の綱領となる過程及びその文化的根源」:文化大革命のスローガンの後景に、打倒相手を妖魔化する原始的・深層意識的なレトリックを指摘。
・印紅標(光田剛訳)「紅衛兵「破四旧」の文化と政治」
・楊麗君「文革期における集団的暴力行為の制度的要因」:私的領域と公的領域を分けるのが近代社会の特徴とするなら、中国では私的領域がなく、公的領域が生活を覆い尽くしている→退出する道がないためあらゆる場面で闘争が拡大したことを指摘。
・王力雄(渡辺祐子訳)「チベット問題に対する文化的懸検証」「チベット仏教の社会的機能とその崩壊」
・張博樹(藤井久美子訳)「中国現代「党化教育」制度化の過程」
・謝泳(浜田ゆみ訳)「思想改造運動の起源及び中国知識人への影響」
・呉廸(浜田ゆみ訳)「ユートピアの実験──毛沢東の「新人と新世界」」
・干春松(光田剛訳)「1973年の梁漱溟と馮友蘭」
・単世聯(桑島久美子訳)「1949年以後の朱光潜──自由主義からマルクス主義へ」

 私は梁漱溟にちょっと関心があるので、干春松論文の概要を以下にメモしておく。梁漱溟については、Guy S. Alitto, The Last Confucian: Liang Shu-ming and the Chinese Dilemma of Modernity, 2nd edition, University of California Press, 1986(ガイ・S・アリット『最後の儒者:梁漱溟と近代をめぐる中国のジレンマ』)を読んだときのメモをこちらにアップしてある。

・儒学研究の大家として知られた梁漱溟と馮友蘭。批林批孔運動にあたって、節度を曲げなかった梁と政治的風潮に迎合して孔子批判を行った馮、この二人を崇高さ/卑小さといった個人的な節度の問題として捉えるだけで良いのだろうか?
・梁漱溟は学問に退避していたのではなく、むしろ政治・社会の問題に強い関心を持っていた。晩年に彼の話を聞きにいった景海峰によると、彼は自らの文化的著述への執着はあまりなかったが、むしろ国共両党の間を取り持とうと奔走した時期の筆墨文章は後世に残したいと念を押していたという。
・知識分子について、独立的な立場からの批評者としての役割という啓蒙的な基準から評価する考え方だけでは、中国の知識階層のイメージをつかむのは難しい。伝統的な中国の知識階層の考え方は、自分の考え方の実現を聖明な君主への期待に寄託するというもの。儒家の立場と現実政治とのあいだの関連を調整しようとした立場で馮を考えてもいいだろう。梁と馮の二人とも、順応的な時もあれば抗争的な時もあった。
・梁漱溟は1949年以前から民主人士として知られ、毛沢東から何度も政府に参加するよう求められたのに対して、彼は「政府の外側にとどまる」ことを希望した経緯がある。対して馮友蘭は、国民党代表大会の代表に加わっていたことがある→過去の過ち→1949年に毛沢東に改悛の手紙を送り、「誠実であれ」という返信→以後の政治活動の基調を決定。
・毛沢東というカリスマの位置→知識分子に新しい秩序を受け入れさせた要素。
・1949年以後の新政権は、過去の社会との断絶を強調した新たな権力体系で、これが中国社会を近代化へと推し進めていると認識したとき、従来から持っていた考え方の無力感→旧説を捨て、新しい権威の要求に一致するような解釈を構成していく。

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2013年5月 6日 (月)

福田円『中国外交と台湾──「一つの中国」原則の起源』

福田円『中国外交と台湾──「一つの中国」原則の起源』(慶應義塾大学出版会、2013年)

 現在の東アジア情勢を複雑にしている焦点の一つは台湾海峡にある。そして、「一つの中国」という外交原則が中台関係のみならず、日本を含めて双方と関わりを持とうとする国々の態度を難しくしていることは周知の通りであろう。しかしながら、蒋介石政権は「漢賊並び立たず」という時代がかった表現で「一つの中国」を主張していた一方、中国政府の側で「一つの中国」言説が頻出するようになったのは1970年代以降のことだという。

 列強に侵略された屈辱の記憶から主権回復の象徴として「一つの中国」がしばしば語られる。ただし、実際の政治的経緯を見てみると、中国政府にとって「一つの中国」という原則は必ずしもアプリオリな所与ではなく、むしろ国際情勢の中でのせめぎ合いを通してプラグマティックに形成されたものなのではないか? そうした問題意識をもとに、本書は中台及び関係諸国の外交文書を活用したマルチアーカイヴァルの手法によって検証を進め、「台湾解放」の論理が「一つの中国」原則へと変容していく過程を明らかにする。

 国共内戦の延長として中国政府は「台湾解放」を目指していたが、台湾の国府はアメリカのバックアップを受けている以上、おいそれとは手が出せない。戦略的焦点は「台湾解放」から金門・馬祖の「解放」へと向けられたが、アメリカ側の出方が読めず、膠着状態に陥っていた。1954年9月の金門砲撃(第1次台湾海峡危機)にはアメリカ側の意図や中国国内での反応をうかがう情報収集としての側面があったらしい。

 毛沢東は、金門・馬祖を蒋介石の手元に残し、台湾・澎湖と一括して「解放」することを長期目標に据えて先送りした。また、アメリカも蒋介石が呼号する「大陸反攻」に巻き込まれてしまうことを懸念しており、台湾海峡は冷戦構造における境界線の一つとして既成事実化していく。中国の指導者は冷戦構造を利用して、「解放」できないながらも後退もしないギリギリのバランスを保とうとした。だが、それは蒋介石の「大陸反攻」を抑え込むことになった一方で、こうした分断状態は中台という政治主体が並び立つ、いわゆる「二つの中国」が国際社会にそのまま受け入れられかねない風潮も生み出すことになった。

 中ソ対立、インドシナ情勢など1960年代に国際情勢が新たな展開を示す中、毛沢東は「二つの中間地帯論」を提起する。つまり、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの第一中間地帯、西欧諸国・カナダ・日本など第二中間地帯との関係構築を模索することで米ソの覇権主義に対抗するという方針である。本書では、ラオス連合政府、フランス、旧仏領アフリカ諸国との交渉が分析されるが、いずれも国府との関係をすでに持っており、これらの諸国との外交関係樹立は対応を誤ると「二つの中国」を具現化しかねない恐れがあった。しかし、外交的局面の打開を急いでいた中国は、フランスに対しては譲歩せざるを得なかったものの、ラオスやアフリカ諸国に対しては「唯一の合法政府」としての地位を認めさせることに成功した。こうした交渉の中から中国は「一つの中国」という外交原則を明確にしていく。

 本書では、「台湾解放」の実現が見通せなくなった中、「台湾解放」を諦めないながらも実質的にはそれに代わる論理として「一つの中国」原則が形成されたと捉えている。ただ、「台湾解放」へのこだわりそのものが「一つの中国」意識の暗黙的意思表示なのではないのだろうか? こうした疑問について明確には説明されていないのだが、外交原則としての顕在化には軍事的攻勢から外交的攻勢への転換が伴っている点に注目していると理解していいのだろうか? 

 いずれにせよ、時代を通じて妥協の余地の無い所与の前提と考えられている「一つの中国」論でも、過去の経緯を検証してみると、時代的・国際的条件とのすり合わせの中で徐々に形成されてきたことを実証的に示そうとしたのが本書の特色である。とするならば、現時点で政治交渉を難しくしている原則であっても可変性が皆無とは言えない。環境整備の進め方をどのように工夫するか、そうした政策面での建設的な含意を読み取ることもできるだろう。

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2013年4月24日 (水)

江文也試論(未定稿)

 小津安二郎生誕百周年に合わせ、台湾ニューシネマの旗手、侯孝賢が監督した映画「珈琲時光」(二〇〇四年)の主な舞台は東京である。さり気ない所作を重視する侯孝賢らしく過剰な演出を排し、東アジアを股にかけて活躍するカメラマン、李屏賓が東京の街並を撮影した映像は穏やかな叙情を湛えている。

 そこにピアノの軽やかなメロディーがかぶさる──江文也が東京で暮らしていた頃に作曲した作品である。

 一青窈が演じるフリーライターは東京での江文也の足跡をたどっている。かつて彼が暮らしていた家の近くにあって彼もよく散歩したという洗足池。そのほとりのテラスで江乃ぶ夫人にインタビューしているシーンも映し出された。

 近親者の記憶には江文也の姿は色あせずに残っている。しかし、東京の変貌は著しい。神保町で古書店を営む知人(浅野忠信)に協力を仰ぎ、あちこち聞き込んで歩くが、目ぼしい情報は得られない。一九三〇年代、江文也・乃ぶ夫婦が足繁く通い、クラシック音楽に耳を傾けながら友人たちと文学や芸術について語り合った銀座の名曲喫茶DATはすでにない。

 それにしても、なぜ江文也だったのか? 侯孝賢が東京を舞台として映画を撮る企画を提案されて、モチーフの一つとして江文也を取り上げたことから分かるように、彼は東京とも縁が深い。彼にまつわる記憶が台湾で蘇ったのは一九八〇年代以降のことである。これほどモダンな感性を持った作曲家が忘却の淵に沈んでいた──そのことの印象がよほど新鮮だったのだろう。大都会・東京で失われた何かを探すというコンセプトを設定するなら、まさにうってつけの題材と考えたのかもしれない。

 植民地支配下の台湾に生まれた江文也は日本へ留学、東京では九年間を過ごした。バリトン歌手として名をあげた後、作曲家へと転身、既存の楽壇に叛旗を翻す若手作曲家の一人として頭角を示した。一九三六年のベルリン・オリンピック音楽部門で「台湾舞曲」が選外佳作(実質的に四位)となり、「日本人」として国際舞台にデビューを果たす。他方、植民地・台湾出身という属性によるエキゾティシズムを売り物にしているという印象を周囲には抱かれていた。日中戦争が始まった後、二十八歳の若さで北京師範大学教授として中国大陸へ渡り、しばらく北京と東京を往復する生活を過ごすようになる。日本の敗戦後も引き続き北京に留まったが、日本の植民地放棄によって彼は「日本人」ではなくなり、「中国人」として祖国へ戻ったとみなされた。冷戦状況によって中国との関係が断絶された中、日本において江文也の名前は忘れられていく。

 江文也の出身地・台湾ではどのように受け止められていたか。植民地支配の中で台湾人は同化を求められていた一方、たとえ能力があっても日本人と対等以上のポジションに上ることは困難であった。江文也が日本音楽コンクールで六回連続入選しながらもついに一位になれなかったことは、植民地差別という疑惑を招くに十分だったろう。それゆえにこそ、彼が日本人の先輩作曲家たちを抑えてベルリン・オリンピック音楽部門で選外佳作となり、ひと足跳びに国際舞台へのデビューを果たしたことは、「二等国民」扱いへの不満を鬱積させていた故郷・台湾の人々から見ると実に快挙であった。日本の敗戦でようやく自分たちのプライドを取り戻したと思ったのも束の間、国共内戦に敗れて台湾へ逃げ込んできた国民党政権が戒厳令を敷く。そうした中、共産党治下の中国に残った人物について語ることはタブーとなり、故郷・台湾においても江文也の名前は忘れられていった。

 江文也は日中戦争の始まった翌年の一九三八年、北京師範大学教授として日本軍政下の北京に渡った。その背景として中国に対して文化工作を進める日本の国策があったのは確かであろう。だが、中国文化をテーマに新しい音楽的表現の可能性を切り開きたいと熱望していた彼は、純粋に芸術的な動機からこのチャンスを利用した。台湾を含めた中華意識から自他ともに「中国人」としての自覚を深めつつあったが、日本の敗戦後、対日協力の経歴のため彼は「漢奸」として投獄されてしまう。ただし、彼の音楽家としての評価は極めて高かった。当時の中国にオーケストラ作品を書ける作曲家はほとんどいなかった一方で、江文也はすでにシンフォニストとして十分な実績を積んでいた。そうした意味で中国音楽史における彼の位置づけは独特であり、釈放された後、中央音楽院教授として活躍の足場を得る。しかしながら、「台湾人」であり、「日本人」であったという彼の過去は政治的にはナーバスであり、音楽という「ブルジョワ趣味」は「右派」として指弾される理由になった。反右派闘争、文化大革命と相次ぐ迫害で心身ともに打ちのめされ、やはり中国においても江文也の名前はタブーとなってしまった。

 日本、台湾、中国、ゆかりのあったそれぞれの国で忘れられていた江文也──その名前が再び蘇ったのは一九七八年に中国で名誉回復されて以降のことである。一九八一年には台湾で江文也にまつわる文章が相次いで発表されたのをきっかけに江文也ブームが巻き起こった。ただし、すでに病床にあって、一九八三年に亡くなってしまった彼がどこまで認識できていたのかは分からないが。一九八七年に台湾で戒厳令が解除されて表現の自由が認められると、彼の作品を収めたCDも出回るようになる。

 他方で、中台関係の焦点が国共対立から台湾独立の是非へと変化していくのに伴い、江文也についても、「中国人」なのか、それとも「台湾人」なのか、という政治的アイデンティティーをめぐる議論が大きく浮上してきた。純粋に音楽家として生きていたくても許されない──そうした政治的桎梏は形を変えながら続いている。

 野性的で生命力に満ち溢れた個性の持ち主であった江文也は、体を打ち震わせるように湧きあがってくる激しいインスピレーションを常に探し求めていた。それは一面において想像的なロマンティシズムを羽ばたかせつつ、もう一面において古代的、土俗的なモチーフへの関心を深めていった。彼は台湾か、中国かといった具体的な民族意識そのものに意義を見出していたのではない。自らの音楽的表現を生み出していく触媒として台湾、中国、日本それぞれの民族の文化に関心を寄せていたのである。

 そうした江文也の情熱を後押ししたのが、亡命ロシア貴族の作曲家、アレクサンドル・チェレプニンであった。西欧近代による文化の均質化傾向が世界規模で拡大することによって各民族固有の音楽文化の豊かさが押しつぶされかねないと懸念していたチェレプニンは、はるか東アジアにまでやって来て中国と日本で若手作曲家の発掘に努めていた。彼の基本的な音楽観は様々な色彩を帯びた音色が豊かに響きあう多文化共生的な発想であって、リゴリスティックで政治的な民族主義とは明らかに異なる。それは弟子の江文也についても同様であった。

 純粋に芸術的な情熱が時代状況の中で政治に絡め取られてしまった悲劇──台湾・日本・中国、複雑な関係が交錯する江文也の生涯は、東アジア現代史を読み解く一つの視点となり得るだろう。

※続きはこちら→ http://docs.com/SC75

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