林凌『〈消費者〉の誕生──近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義』
林凌『〈消費者〉の誕生──近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義』(以文社、2023年)
消費者論に関して、私個人としては、第一に商業学系のマーケティング論、第二に社会運動としての消費協同組合論とが交わらないまま並立しており、なおかつ両方とも戦後社会に特有の思潮という印象を受けていた。そうした思い込みに対して、本書は戦前期からの「消費者」概念をめぐる思想的系譜をたどりながら、戦後との連続性を捉え返していく。
本書の冒頭では、加藤周一と奥むめお(婦人運動・消費者運動で知られる)との対談(1957年)が紹介される。そこで二人は、日本人には「消費者」の自覚が乏しいという共通認識を示す。消費者運動では庶民にとっての適正価格を求める側面が一般的には注目されるが、それと同時に奥の言説には、「自分は我慢して、いい物は外国に売る」という言い方で消費行動と国家的繁栄とを結び付けるロジックがうかがえる所に本書は議論の発端を見出す。
「消費者史研究では〈消費者〉言説が、財界主導による生産性運動と、婦人運動家主導による消費者運動によって拡大したことを示し、その背景として戦後日本社会における(経営)民主化・アメリカ化や、食糧難といった事情があることを論じてきた。ゆえに戦後に現れたとされる〈消費者〉言説は、多くの場合きわめて戦後民主主義的な色彩が強いものとして捉えられてきたといえる。その結果、先述したような国家目的に即した消費の制限を肯定するような主張が、消費者運動に関わった知識人によって叫ばれていたことや、本書が後に述べるように、戦後日本における政財界の消費者主権をめぐる主張が、総力戦体制期における〈消費者〉言説との強い類似性をもっていることについての説明はされてこなかった。」(30-31頁)
庶民の立場で適正価格を求める消費者主権としての消費者運動、もしくは生産者・販売者側の視点に立ったマーケティング論における消費者像、いずれにしても私経済の枠組みにおいて捉えられた「消費者」であるが、他方で、上記の加藤・奥対談からうかがえるような、消費者問題と国家統治とが関わり得るという部分に関してはこれまで看過されてきたというのが本書の問題意識である。そして、日本の戦前・戦中期における消費者をめぐる言説の系譜をたどり、戦後との連続性が検討される。
具体的には、まず近代日本で経済学的知が普及していく中で消費者概念がはじめて登場する様子が描かれ(「第二章 近代日本における消費者概念の受容過程──経済学の普及と制度化」)、その上で大正期において消費者が社会改良主体として注目された言説を検討する(「第三章 社会改良主体としての〈消費者〉──消費組合運動と婦人運動の勃興と変容」)。そうした中から、資本主義体制の問題点が商業学者によって指摘され、消費者を庇護対象とする形で統制経済を正当化する議論が現われてきた(「第四章 庇護対象としての〈消費者〉──商業学者による統制経済論の展開」)。そして、戦時統制経済体制において知識人たちによる消費者の自覚を促す言説が検討される(「第五章 〈消費者〉としての国民の「自覚」──戦時期日本における消費経済の問題化」)。結論では現代社会にも通ずる問題意識が論じられるが、こうした消費者をめぐる言説は、自由放任経済に対する調整としての議論の中で立ち現れているが、その意味で「統制経済論と新自由主義は、いわば自由放任主義に対する批判のんかで生まれた、対称的関係にある双子の思想であった」(376頁)と指摘される。
私自身は大正期の協同組合運動について調べる中で本書を手に取ったので、とりわけ第三章の議論に興味を感じた。キリスト教社会主義に立脚した賀川豊彦の協同組合運動、資本主義体制の矛盾をつく形で統制経済の理論的な論拠を準備した本位田祥男の協同組合論、そして婦人運動の立場から消費者運動を進めた奥むめお、この三者が共通する位相において、「消費者」を社会改良主体として位置付けようとする模索があった点に関心を持った。
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