カテゴリー「経済・経営」の62件の記事

2012年8月 1日 (水)

ドラッカーの一つの読み方

 ピーター・ドラッカー『マネジメント──務め、責任、実践』(全4巻、有賀裕子訳、日経BP社、2008年)を通読。ドラッカーの本のうち、自伝である『傍観者の時代』や政治批評的な論文『「経済人」の終わり』『産業人の未来』などはすでに読んでいたが(→こちら)、主著とも言うべき『マネジメント』にはあまり興味がなかったので、ようやくという感じ。ちなみに、話題になった『もしドラ』も読んでいない。

 「マネジメントの神様」ともてはやされたドラッカーだが、彼が企業経営というテーマに関心を寄せたのは戦後のこと。もともとはヨーロッパでジャーナリストとして活躍しており、ナチス政権成立後にアメリカへ移住。理性万能主義に対する懐疑としてのリベラルな保守主義に立脚し、この立場から全体主義を批判する姿勢を持っていたことは、まだジャーナリストとして活動していた戦前・戦中に執筆した『「経済人」の終わり』『産業人の未来』にうかがえる。

 経済発展を通して個人の自由と平等を実現し、その個人は経済関係を通して社会的な位置を占める。こうした個人モデル=「経済人」を前提とした資本主義は、社会的不平等が広がっても、いつかは個人の自由や平等が実現されるはずだという期待があってはじめて成り立っていた。社会全体が生活水準の向上を実感しているうちは良かったが、やがて破綻し、社会的格差は拡大を続ける。人々は幻滅し、そうした反発を吸い寄せたのが、脱経済至上主義的なファシズムや共産主義であったとドラッカーは観察していた。

 戦前社会において既存の資本主義体制が行き詰まりを見せつつあった一方、これらの全体主義は人間ひとりひとりの「自由」を犠牲にすることで成り立つ。第三の道はあり得ないのか?と考えていた中で彼が見出したのが「企業」であった。

 企業は単に金儲けをするための組織ではない。業績をあげるという共通目標の下で、一人ひとりの主体的能動性(=ある意味で「自由」の感覚)や働きがい(=「尊厳」の感覚)を確保しながら、人々の協働的関係を維持していく(=自治的共同体の形成)。

「マネジメントの哲学とはすなわち、ひとりひとりの強みをできるかぎり引き出してその責任範囲を広げ、全員のビジョンと努力を同じ方向へ導き、協力体制を築き、個と全体の目標を調和させるものである」(『マネジメント』第3巻、159ページ)。

 そして、「企業」という協働的組織の中から生み出されていくイノベーションは、その企業自身の利益になると同時に、社会全体の発展に寄与する。以上を踏まえて、企業における協働関係を円滑に進めるための具体的方法論としてマネジメントの技法やマネジャーの役割などが詳細に論じられていく。

 そもそも、『マネジメント』の序文では「専制に代えて」と題して次のように記している。

「組織を柱とした多元的な社会において、かりに組織が責任に裏打ちされた自主性のもとで成果をあげなかったなら、個人は自由や独立を得られず、社会における自己実現も叶わないだろう。自分たちを厳しく縛り、誰も自主性を発揮できない状態を生み出してしまうだろう。陽気に思いのままにふるまうどころか、参加型民主主義さえ葬り、スターリン主義を招くのだ。組織が自主性と強大な力を持ち、成果をあげられる状況が失われたら、それに取って代わるのは専制でしかない。多数の組織が競い合う状況が失われ、絶対的な権力を持ったひとりの人物による支配がはじまる。責任に代わって恐怖が幅を利かせる。官僚機構がいっさいを支配し、すべての組織を取り込む。その機構は財やサービスを生み出しはするが、活動ぶりは不安定で無駄が多く、水準も低い。しかも、辛苦、屈辱、苛立ちなど、途方もない犠牲を伴う。このため、組織を柱とした多元的な社会で自由と尊厳を保つには、組織に自主性と責任を与え、高い成果をあげさせるのが唯一の方法である」(『マネジメント』第1巻、4~5ページ)。

 ドラッカーのマネジメント論の背景にはこうした問題意識があったことは見逃せない。つまり、ドラッカーは多元的な社会において個人の自由と社会的秩序とを媒介する中間団体として企業組織を捉えていた。人間と社会との関係性を考え抜こうとする態度を持っていた点で政治思想史的に彼の考え方を位置づけることもできる。マネジメントの技法としての各論を見るか(つまり、自己啓発的なビジネス書として読むか)、それともこれらの各論の背後に一貫している思想史的問題意識に注目するかで、ドラッカーの読み方はまた違ったものになるだろう。

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2012年7月26日 (木)

松島大輔『空洞化のウソ──日本企業の「現地化」戦略』、戸堂康之『日本経済の底力──臥龍が目覚めるとき』、他

 高度成長期の日本企業は低廉な人件費を見込んで労働集約型の分野を中心にアジア展開を拡大させていたが、その限界は早くから指摘されていた(例えば、関満博『フルセット型産業構造を超えて──東アジア新時代のなかの日本産業』中公新書、1993年)。アジア展開を人件費などコスト削減の視点で考える時代は終わり、市場として捉えるのが現在では主流となりつつある。

 そうした中、松島大輔『空洞化のウソ──日本企業の「現地化」戦略』(講談社現代新書、2012年)は、日本企業の海外(とりわけ「新興アジア」)進出は国内の雇用を減らしてしまう(=空洞化)のではなく、むしろ積極的な海外展開を通したイノべーティブな刺激が産業融合をもたらし、国内産業にとってもプラスになる、と主張している。なお、本書で言う「新興アジア」とは主にインドや内陸部インドシナ半島を指しており、中国やインドネシアへの言及は少ない。著者の主な活動舞台がインドやタイにあったというだけでなく、中国~アメリカのモジュラー型に対して、日本はインテグラル型(現場の「カイゼン」→「創発システム型))の点でASEANの方が親和的という論拠も挙げられている。

とりあえず本書で関心を持った論点は、
・新興アジア諸国への「現地化」とは、言い換えると現地のニーズを汲み取りながら生産態勢を仕切りなおすことである。それは日本国内への刺激としてイノベーションが創発される一方で、日本企業自身の再編を促し、さらには日本国内の構造改革にも直結する。(どうでもいいけど、アジア展開による刺激によって日本国内の構造改革を促すというロジックって、どっかで聞いたことあるよなあ。例えば、満州事変を起こした石原莞爾とか)
・今まで日本企業がFDIで展開してきた生産ネットワークの広がりが下からのデファクト・スタンダードとしてASEANにおける経済統合を促してきたという経緯がある→このようにルール作りを日本も率先に立って行っていく必要性。日本的なフォーマットへの標準化により、日本企業が稼げるルール作り。
・生産部門はアジア諸国で「現地化」する一方、日本では企画・調整のための部門を拡充する必要があり、ここに日本での雇用が生まれる。ただし、本書で言う雇用とは企画立案や調整を担うホワイトカラーが中心であり、コアとなる技術関連の生産や波及的な雇用には触れられてはいても、それ以外の雇用形態の人々にどのような恩恵があるのかまではよく分からない。産業構造の変化により「労働」の質がブルーカラーではなく知的労働を重視する方向で大きく変わっているという認識が前提になっており、議論の対象が異なるのかもしれない。その点では「空洞化のウソ」というタイトルは割り引いて読む必要があるだろう。

 それから、戸堂康之『日本経済の底力──臥龍が目覚めるとき』(中公新書、2011年)、『途上国化する日本』(日本経済新聞出版社、2010年)を続けて読了。要点は以下の通り。
・日本には国際競争力の潜在力を持つ企業が多数あるが、情報アクセスの問題があって海外進出の意志なし(臥龍企業)→グローバル化を促す政策の必要。海外進出そのものによる稼ぎよりも、それによって得られる情報にイノべーティブな価値がある。
・研究開発した成果が流出すると、その企業にとってはマイナスだが、社会全体にとってはプラス→企業が研究開発への投資に及び腰にならないよう公的支援が必要。
・産業集積は、対面的なネットワークによって技術や知恵の切磋琢磨や情報交換が行われ、イノべーションが促進される→産業集積を政策的に促進する必要。
・以上を前提としてFTAの推進を主張。

 松島大輔『空洞化のウソ──日本企業の「現地化」戦略』(講談社現代新書、2012年)も、基本的な主張については戸堂書をフォローしている。戸堂書の議論を見ても、企業のグローバル化で国内産業の空洞化は生じず、長期的にはむしろ雇用は安定すると主張しているが、やはり本社における企画立案・調整等のホワイトカラーが念頭に置かれていて、それ以外の雇用形態に関してはむしろ減少するという見立てと読み取れる。

 ついでに関満博の上掲『フルセット型産業構造を超えて』の他、『地域経済と中小企業』(ちくま新書、1995年)、『アジア新時代の日本企業──中国に展開する雄飛型企業』(中公新書、1999年)、『空洞化を超えて──技術と地域の再構築』(日本経済新聞社、1997年)も通読したが、合わせて読むと、ここ20年間においてアジア展開する日本企業の動向が見えてくる。

 関満博は大田区の工場など中小企業の現場を観察した研究成果を出しているが、①産業集積(大田区のように町工場が密集)による技術力向上、②労働集約型事業は人件費の安いアジア諸国に移転するので、日本では「プロトタイプ創出機能」を育成しておく必要がある、という議論を進めていた。

 上記3人の議論から共通点を抽出すると、要するに中小企業の「ものづくり」の現場における技術的イノべーションを促すことで日本の国際競争力を向上させる、という点に収斂する。関書、戸堂書はとりわけ産業集積での創発によるイノベーションに注目している。3人ともアジア展開の必要性を論じる中で、関書(主に中国展開を取り上げる)は現地にも技術移転を進める必要性を指摘する一方、戸堂書における中小企業にもグローバル化を促す主張、松島書における「新興アジア」への「現地化」の主張は、知的創発のつながりを海外へと広げて捉えなおそうとしている。「ものづくり」というとベタな印象を受けるかもしれないが、産業集積における知的創発を重視しているところから考えると、リチャード・フロリダ(井口典夫訳)『クリエイティブ資本論──新たな経済階級(クリエイティブ・クラス)の台頭』(ダイヤモンド社、2008年)で示された、世界がフラット化する中でも都市における創発的な出会いが新たな経済価値を生み出すという議論と実は同様の方向性を持っていると言えるのかもしれない。

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2012年4月 8日 (日)

ポール・コリアー『収奪の星──天然資源と貧困削減の経済学』

ポール・コリアー(村井章子訳)『収奪の星──天然資源と貧困削減の経済学』(みすず書房、2012年)

 経済活動を行う以前に政治的・社会的構造が機能不全に陥っている国々では、援助をつぎ込んでも無駄だし、自立を促しても混乱を深めるばかりとなってしまう。貧困そのものが足かせとなって悲惨な状態から抜け出すことの出来ない「最底辺の10億人」──ポール・コリアーはアフリカを中心とした調査によってこうしたカテゴリーを対象化し、貧困からの脱却を阻害している問題点を提起してきた。本書はさらに資源の希少性をテーマとして、「最底辺の10億人」をめぐる課題は富裕国も含めたグローバルな責任にかかっていることを問いかけてくる。

 貧困を解決するには資源の活用によって生産性を高めることが大前提となる。しかし、地球上の資源が枯渇しつつあり、地球温暖化も問題視される中、資源の無駄遣いは許されない。ここに一つの対立軸が現れてくる。環境保護主義者は天然資源を守るため経済開発には抑制的な態度を取るのに対し、経済学者は天然資源が人類に恩恵をもたらす限り、その活用に問題はないと考える。コリアーは両者を折衷した立場を取る。持続可能性は必ずしも現状維持を意味するわけではない。「私たちは自然資源の価値を維持する管理者、金融用語で言うならカストディアンである。先の世代から引き継いだこの資産を、価値を減ずることなく将来世代に引き渡す責任を私たちは負っている。自然が私たちに課す義務は、本質的には経済価値にかかわるのである」(25ページ)。つまり、効率性重視の経済学的発想と環境保護とはトレードオフの関係にあるのではない。現世代は地球上の資源を浪費してしまうのではなく、将来世代の権利を考慮しながら効果的な投資へと振り向けていくべきだという考え方が本書のテーマとなっている。当たり前とも言える結論ではあるが、それを経済学的・政治学的検証を通して提言につなげていくのが本書の持ち味と言えるだろう。

 天然資源をはじめとした公共財には所有者が明確でないため、誰もが自分の権利を主張して収奪の対象となりやすい。そこで保護が必要となるが、誰が行うのか。将来世代への責任を図るため政府が管理すべきという話になる。しかし、二つの問題点がある。第一に政府が機能していない場合、第二に公海など帰属が明快でない場合。後者については、水産資源を例にとると、あらゆる海をどこかの国に帰属させるのも一つの考え方だが、実際には無理である。そこで、公海を国連の管理下に置くべきと提言される。

 前者の問題は、コリアーの前著『民主主義がアフリカ経済を殺す──最底辺の10億人の国で起きている真実』(甘糟智子訳、日経BP社、2010年。原題はWars, Guns, and Votes: Democracy in Dangerous Places, HarperCollins, 2009→こちら)の内容とも関わってくる(この本の邦題は刺激的だが、エスニシティーの対立をはらんだ国で政府が統治ではなく利権獲得の手段とみなされているとき、選挙はかえって部族間の対立を過熱させ、暴力を生み出してしまうという趣旨であることに留意)。例えば、「資源の呪い」の項では次の問題が指摘されている。農産物では投下された投資と労働の見返りとして利益がもたらされるのに対して、鉱物資源の場合、投資や採掘作業を大幅に上回る利益が生み出され、略奪の対象になりやすい。採掘コストを上回る枯渇性資源の価値は本来的には国民のものであり、政府は国民に代わってその価値を守る義務がある。ところが、そうした努力がなされない場合、経済的にはマイナスになってしまう。結局、ガバナンスが有効に機能しているかどうかが問題となってくる。「最底辺の10億人」の国々では、国家とは国民に公共財を提供する存在とは認識されておらず、資源収入は政府が独占してしまい、そしてその政府は一部特権階級により独占されている。従って、チェック・アンド・バランスが必要なのだが、これが構築できるかどうか。こうした問題を等式化して、先進国は「自然+技術+法規=繁栄」、最貧国は「自然+技術-法規=略奪」と要約される。

 なお、『最底辺の10億人』(→こちら)ではアフリカの天然資源目当てに進出してきた中国に対する警戒感が見られたが、本書では見解が変わっており、インフラ建設との交換条件で天然資源を輸出するチャイナ・ディールにも、透明性確保という条件付ながら建設的な意義を認めている(140~143ページ)。中国のアフリカ進出についてジャーナリズムでの反応は否定的だったが、近年、アカデミズムにおいては公平に評価しようという論調が主流である。例えば、Deborah Brautigam, The Dragon’s Gift: The Real Story of China in Africa(Oxford University Press, 2009→こちら)、Sarah Raine, China’s African Challenges(Routledge, 2009→こちら)、Ian Taylor, China’s New Role in Africa(Lynne Rienner, 2009→こちら)などを参照。

 「最底辺の10億人」が暮らす国々における経済を活性化させるだけでなく、緊急の課題として食料問題がある。スラム化した都市に暮らす貧困層にとって世界的な食料価格の高騰は深刻であり、それはとりわけ発育前の子供たちに致命的な影響をもたらしてしまう。安価な食料供給を確保する必要があるが、それを富裕国が阻害している三つの要因を本書では指摘している。第一に、商業的農業のグローバル化を拡大すべきである。小農による地産地消など牧歌的な農業モデルは富裕国の贅沢に過ぎない。第二に、遺伝子組み換え技術を禁止すべきではない(自然+法規-技術=飢餓」という等式に要約される)。第三に、アメリカはバイオ燃料によるエネルギー供給という空想を捨てるべきだ、バイオ燃料にするだけの穀物があれば食糧供給にまわさねばならない、と著者は言う。こうした指摘は、先進国における食の安全(例えば、ポール・ロバーツ『食の終焉』を参照→こちら)やエネルギー安全保障などの考え方とぶつかってしまう側面がある。先進国と貧困国との間で利害の衝突してしまう論点についてはよく検討してみなければならない。

「安い自然が豊富にある時代は終わったのである。私たちは、自然が貴重になった時代の世界共通のルールを作る必要がある。…自然を管理するカストディアンとしての責任はどの国にも共通すると市民が認めるなら、政府はそれをしなければならない。とは言え、どんな力も、しっかりした根拠がなければむなしい。富裕国の市民が現実離れした夢を見る誘惑に迷ってしまったように、新興市場国の市民もさまざまな誘惑に惑わされるだろう。新興市場国の場合、それは夢想的な環境保護主義ではなく、夢想的な国家主義になるのかもしれない。この先に待ち受けるのは、国益を優先する甘い誘惑とカストディアンの倫理規範との闘いである。」(268~269ページ)

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2012年3月30日 (金)

ポール・ロバーツ『食の終焉──グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機』

ポール・ロバーツ(神保哲生訳)『食の終焉──グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機』(ダイヤモンド社、2012年)

 ふだん何気なく訪れるスーパーマーケットを思い浮かべてみよう。熟れた果物、食べやすくカットされた生鮮食品、安価な加工食品──多種多様な品物が豊富に取り揃えられているのを見ると、「食の崩壊」などと言っても実感はわかない。だが、それらの製造・流通過程の内幕を知ってしまうと、安閑たる気持ちではいられなくなる。

「それはたとえば、まったく同じ外見をした動物が何千頭も飼われている飼育場や、同じ植物が何エーカーもの土地を埋め尽くす広大な工場式農場。農場に流れ込んではこぼれ出す大量の飼料や肥料、アトラジンやラウンドアップなどの農業用化学物質。侵食が進む土壌、農薬耐性を持つ害虫。森が農地に変わり、農地がショッピングセンターに変わる姿。低下する地下水面を追いかけるようにますます深く掘られる灌がい用井戸、低賃金の労働力を求めてどこまでも延びる貨物用航空路。低い利益率や少ない在庫、そして時間当たりの処理能力の要求レベルがどんどん上がり、失敗の余地がなくなっていく中で、細く長く延びていくサプライチェーン…。」(490ページ)

 食にまつわる様々な問題点が本書では多角的に網羅されており、その意味では概論的な内容と言っていいかもしれない。一部だけでもピックアップしてみると…
・大量生産のシステムが成立すると、必要に応じて生産するのではなく、新製品のアピールのため広告に多額な費用をかけて需要を無理やり喚起。
・市場原理によって小売業者が値下げ競争→末端の農家にしわ寄せ。
・大規模な畜産による水質汚染、農業肥料に使われた化学物質の流出による環境汚染。
・低価格の食料ほど高カロリー→貧困層ほど肥満に苦しむ。
・ワシントン・コンセンサスによる貿易自由化→農業生産の基盤が厚いため大量生産により低価格の食料品を輸出できる先進国(農業に従事する人口やGDPは1~2%に過ぎない)が有利で、輸入する途上国(人口の大半が農業に従事)で農業システムが崩壊。輸出主導型農業の限界→リカード的な比較優位説が単純に成立するのか?という疑問。小規模農家の存在を開発計画に取り込む必要を指摘。
・牛肉の生産には大量の穀物が必要→新興国の所得水準向上により牛肉消費量が増大すると穀物が足りなくなる。
・鳥インフルエンザや様々な病原菌→食品保護システムの不備、汚染経路が特定されないにもかかわらず、輸出が拡大されるリスク。とりわけ中国、インド、ベトナム、インドネシアなどの逼迫した食品市場の問題点を見ると、食のシステムの致命的な崩壊はアジアを発端に生じかねないと指摘。
・遺伝子組み換え食品が未知の災厄をもたらしかねないことへの警戒感が話題となるが、それ以前に、「飢餓とは、社会的、政治的、経済的および生物学的な要素が複雑に絡まり合った結果であり、遺伝子工学だけで解決できるものではない」(439ページ)。遺伝子組み換えがダメならオーガニック運動か? だが、オルタナティブのはずのオーガニック運動もまた、①イデオロギー的純血主義、②市場原理に則って収益性を第一に考える現在の政治・経済モデルに組み込まれていく、という問題がある。

 一つ一つの論点はすでに周知の問題で、本書を読んでことさら驚くというわけではない。ただ、これらの問題点が一つながりの見通しの中で関連付けられると、現代の消費文明が構造的に生み出している落とし穴が人類の文明史にとって致命的な災厄をもたらしかねない危うさがクリアに提示される。

 ものを作って食べる、その一連の行為は本来有機的なものだ。食の生産と消費とが完全に分離したあり方は他ならぬ自分自身の人生をも他人に委ねたに等しい、と本書が言うのはもちろんまっとうだとは思う。結論として、食料生産工程のせめて一部でも取り戻すことで能動的なものにしていく、つまり地域密着型の食のシステムが推奨される。しかしながら、生産と消費の分離こそが社会的効率性・利便性を高めるのに役立っており、この高度に複雑化したシステムを現代の我々が果して手放すかどうかと考えると、なかなか難しいだろう。また、食料生産を持続可能なものにするには、投入資源を別なものに代替したり、新技術を開発したりするだけでも問題は解決できない。広いレベルで既存の政治経済システムそのものを根源的に問い直さねばならなくなってくる。

 持続可能な食料生産を支えるには相応の代価が必要である。激安の食料品など本来ならあり得ない。ところが、そうした代価を支払えるのは一定の富裕層に限られてしまう。現実として貧困に喘いでいる人々にとって、大量生産された低価格食料品以外の選択肢はない。選択肢が限られている以上、「消費者の自己責任」という言説は成立ち難いし、そもそもこの大量生産工程自体が食のシステムを不自然に歪めているわけだが。

 問題は現代社会の利便性と分かちがたく絡まり合っている。生産者はたくさん作りたい。小売業者はたくさん売りたい。消費者は安く買いたい──社会を構成する各プレイヤーにとっては合理的な行動であっても、合成されると意図せざる形でマイナスのスパイラルにはまってしまう。テクノロジーの進歩は問題の一部を解決はするが、別の派生的な問題も生み出しかねない。こうしたアポリアを人類は果たして乗り越えていけるのか、本書を読んでいると心許ない焦燥に駆られた居心地の悪さをどうしても感じてしまう。

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2012年2月 9日 (木)

佐藤百合『経済大国インドネシア』

佐藤百合『経済大国インドネシア』(中公新書、2011年)

 インドネシアが経済的に台頭しつつあることは報道等でもちろん知ってはいたが、本書の体系的立てた説明を読んでみると、日本が資源目当てに「南進」をもくろんだり、スカルノやスハルトが権威主義的支配を行っていた時代は、本当に過去になったのだな…と改めて実感する。今後は投資ばかりでなく内需の取り込みが日本企業の課題となってくるわけだが、インドネシア自身が安定的・持続的に発展をしていく上でカギとなるのが、人口ボーナス(詳細は大泉啓一郎『老いてゆくアジア』[中公新書]を参照のこと)。人口ボーナスによる効果を十分に活かすには、どのような政策対応をするかが重要となる。細かな話になるが、インドネシアを皮切りにイスラム世界を市場として考える場合、ハラル(イスラム法で許される食物や日用消費財)認証制度が国際化していく可能性は興味深いだろう。

(以下、メモ書き)
・インドネシアは人口規模が大きいだけでなく、今後20年間は人口ボーナス(出生率が低下し始め、生産年齢人口が総人口に占める比率が高まる→経済成長を促進)が期待できる。ただし、そうした条件が備わっていても効果的な政策がなければ活用できない→①出生率低下を持続させる、②生産年齢人口に就業機会を与える、といった政策を打ち出す必要。
・スハルト時代の権威主義体制と比較しながら、現在の民主主義体制における経済運営のあり方を考察。スハルト辞任で、後継のハビビは政権の正当性を確保するためスハルト的なものを全否定→その後の政治混乱で「スハルト的ならざるもの」もまた否定された→こうした振り子が揺れ動く中で、現在は自由と人権の保障、三権分立、直接選挙、地方自治など安定的な民主主義体制の要素が徐々に備わってきた。
・インドネシア国内の大資本はパーム油や石炭等の資源輸出の担い手となったが、中国から流入する廉価の工業製品との競合を避けて重工業から足を抜きつつある→資源輸出と工業製品輸入という中国との非対称的貿易の拡大、「オランダ病」現象。他方、外国資本は国内資本が投資を回避しがちな重工業で重要な役割→外資は工業化と域内水平貿易の担い手。
・農工間雇用転換を伴わない経済成長→農業にも成長エンジン。スハルト時代は、国家の意志としてフルセット主義(自国内で様々な産業分野の育成を図る)から工業化政策を推進→工業部門が成長のエンジンとなっていた(アーサー・ルイスの「二重経済論」があてはまる)。対して、現在の民主主義体制では、成長のエンジンが複数の産業に分散→こうした既存の傾向を政府は追認したと把握→フルセット主義Ver.2.0(ユドヨノ政権のマスタープラン)
・労働力、投資(国内の貯蓄率が高い)などの面では問題ないにしても、生産性に難あり。
・スハルト時代から重きをなしてきた海外留学経験者の経済テクノクラート(バークレー・マフィア)。
・国防・治安だけでなく政治・社会統治機能も国軍が担っていたかつての「国軍の二重機能」(対オランダ独立闘争で農村社会と一体になったゲリラ戦を戦い抜く中で国軍が生れたという経緯がある。また、出自や生育環境に左右されないほぼ唯一の能力主義組織が国軍だったという事情もある)→現在は政治エリートになるルートが多様化、政党政治家になるほか、企業家から政治家へ転身するというルートも目立つ。
・インドネシアにとって貿易、投資、援助のどの点でも日本は最重要国。しかし、すでにインドネシアは高位中所得国入りを目前にひかえており、日本はインドネシアを単に資源の供給源とみなすのではなく、今後は内需と技術蓄積への貢献を考える必要がある。日本ブランドを活かした消費財・サービスの提供はチャンスになる。イスラム世界を市場と考えるなら、ハラル認証制度は活用できる。

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2011年10月12日 (水)

スコット・A・シェーン『〈起業〉という幻想──アメリカン・ドリームの現実』

スコット・A・シェーン(谷口功一・中野剛志・柴山桂太訳)『〈起業〉という幻想──アメリカン・ドリームの現実』(白水社、2011年)

 起業家といったらどのようなイメージを思い浮かべるだろうか? 例えば、先日亡くなったアップルのスティーブ・ジョブス? 彼のビジネス上のエピソードは非常にドラマチックで興味は引かれる。しかし、それはあくまでも例外的な成功例であって、安易に起業家一般のイメージと結び付けてしまったら大間違い。

 起業家とはとりあえず、リスクを前提としつつ自ら新たなビジネスを始めた人々、としておこう。フロンティア・スピリッツあふれるアメリカ、そんなイメージも持たれがちではあるが、その割には他国と比べて起業精神あふれる国とは必ずしも言えないらしい。本書は、具体的な統計データをふまえてアメリカの一般的な起業家像を描き出す。典型的な起業家はどんな人々か? 生計を立てたいが、他人の下で働くのが嫌な中年の白人男性。失業したり、収入が下がったりといったときに起業するケースが多いが、雇用されているときよりも収入は下がり、長時間労働を強いられる。新たなジャンルでビジネスチャンスをねらって、というよりも、魅力がなくても熟知している前職の関連分野を選ぶ傾向がある。零細な自営業で、成長の見込みも意欲もない。こうしたスタートアップ企業は経済成長には寄与せず、新たな雇用も創出しない。

 よくよく考えてみれば意外でもなんでもない、ごく当たり前の結論。メディアで注目される神話的イメージを崩していくのが本書の目的で、ある意味、偶像破壊的な描き方とも言える。だが、現実と乖離した「神話」を基に政策立案をしたり、ましてや自身の将来展望を描くわけにはいかない。だから、起業はやめた方がいいというわけではない。華やかなイメージに振り回されずに着実な観点から「起業」の問題を考え直す点で興味深い。

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2011年9月12日 (月)

ロバート・B・ライシュ『余震(アフターショック)──そして中間層がいなくなる』

ロバート・B・ライシュ(雨宮寛・今井章子訳)『余震(アフターショック)──そして中間層がいなくなる』(東洋経済新報社、2011年)

・現代アメリカにおいて資本主義経済のシステムが健全に作用してないというのが本書の趣旨で、サブタイトルにある「そして中間層がいなくなる」というフレーズに問題意識が端的に表れている。
・一握りの富裕層のみが経済成長の恩恵を受ける一方、大半のアメリカ人が取り残されてしまう。問題は仕事がないということではなく、失業後に新しく仕事を得たとしても賃金が前の職よりも低くなる傾向がある。他方、アメリカは自国内での消費者の購買力をはるかに上回る生産能力があり、格差の拡大によって消費が追いつかない。生産と消費とが適切にリンクされるという意味での経済の基本取引が破綻してしまっている。中間層の購買力がなければ生産に見合う消費は起こらないし、格差への不満は社会的不安や排外的感情を引起しかねない、こうした問題意識を明らかにした上で、第Ⅱ部では近い将来にあり得る政治的シミュレーションを行い、第Ⅲ部では具体的な提案を示す。
・第Ⅲ部での提案:負の所得税(給付つき税額控除)→消費活動を誘発。再雇用制度の工夫→適切な所得を配分しながら職業教育。世帯収入に応じた教育振興券や高等教育の学生ローン改革→教育を受ける機会の拡大。メディケア(公的医療保険)。公共財の拡充。政策上の意思決定をゆがめている政治とカネの癒着からの訣別。
・一読してそれほど目新しい議論がされているとは思わない。むしろ本書で示される問題意識が、日本における格差社会をめぐる議論でもよく見かける論点とほぼ重なっているところに関心を持った。
・市場経済に対しての世代間の記憶の相違という論点に興味を持った。1930年代に成人した人々にとって大恐慌の記憶は生々しく、その教訓は1940~50年代に引き継がれた。彼らの孫の世代は大繁栄時代に生まれ、信用の置けない市場を政府が補完するという祖父母世代の経験を継承しなかった。むしろこの孫世代は政府の失敗と市場の成功を目の当たりしており、自由市場主義者の刺激的な主張に感化されやすくなっていた、という(70ページ)。

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2011年7月14日 (木)

ポーターとかプラハラードとか適当に経営戦略論

 『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2011年6月号の特集は「マイケル・E.ポーター 戦略と競争優位」。ポーターの理論のエッセンスや最近の議論がわかる論文を6本収録。有名な競争優位の戦略論は、要するに、業界構造を正確に把握→差異化により自らを負けないポジションに置くことを戦略の本質と捉え、この応用で議論を展開していると言えるだろうか。

 業界構造におけるポジショニングで優位に立とうとするポーターの戦略論が静態的であるとするなら、これに対して企業が自らの能力を活かしながら市場機会を創出、業界構造そのものを変えていく、そうした動態的な側面に注目しながら戦略論を構築したのが、ゲイリー・ハメル&C・K・プラハラード(一條和生訳)『コアコンピタンスの経営──未来への競争戦略』(日経ビジネス人文庫、2001年)である。コアコンピタンスとは要するに企業の優位性を持続させる核心的・総合的な競争力の源泉のことだが、単に技術力などのハードを指すだけでなく、経営資源のマネジメントなども含め、結果として競争優位をもたらした要因を幅広く捉える概念である。長期的なタイムスパンの中でようやく捉えられる動態的なものであり、業界構造分析の静態的視点とは異なる。ただし、沼上幹『経営戦略の思考法──時間展開・相互作用・ダイナミクス』(日本経済新聞出版社、2009年)でも指摘されているように、両者を排他的な概念と捉えるのではなく、戦略行動のどの側面に重きを置くかによって表れた相違であって、むしろ両者を相補的に考えるのがベストであろう。

 プラハラードはBOPビジネス、つまり貧困層をターゲットとしたビジネスモデルを提起したことでもよく知られている。C・K・プラハラード(スカイライン コンサルティング株式会社訳)『ネクスト・マーケット──「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略』(増補改訂版、英治出版・ウォートン経営戦略シリーズ、2010年)を読みながらメモ。
・BOP(Bottom of the Pyramid)の一日2ドル未満で暮らしている40億人を市場として開発する。大企業の投資力をいかに活用できるのか? 収益を上げつつ貧困を撲滅するという発想。
・貧困者一人一人を個人として尊重するのが出発点。商取引の民主化、一人一人をマイクロ生産者、マイクロ起業家、マイクロ投資家と考える。「貧しい人は犠牲者であり、重荷である」→「彼らは内に力を秘めた創造的な起業家であり、価値を重視する消費者である」と認識を改める。
・BOPの潜在力に働きかけて消費力を創出、ビジネスを展開→新たな製品やサービス開発のチャンス(イノベーション)→貧困者が消費者へと変わると購買のために自ら選択するという行為→「貧困層が自ら選択し、自尊心を養う機会を創り出す」ところにこうしたアプローチの長所。
・BOP市場におけるイノベーション12の原則:①コストパフォーマンスを劇的に向上、②最新の技術を活用して複合型で解決、③規模の拡大を前提、④環境資源を浪費しない、⑤富裕層向けの考えを捨て、求められる機能を一から考え直す、⑥提供するプロセスを革新する(流通の問題)、⑦BOP市場の人々は作業スキルが高くない→現地での作業を単純化、⑧顧客の教育を工夫、⑨劣悪な環境にも適応させる、⑩消費特性に合うユーザー・インターフェースを設計、⑪貧困層にアプローチする手段を構築、⑫これまでの常識を捨てる。
・入手できる情報、選択の自由、契約施行の力、社会的地位における非対称性→貧困層自身の取引統治力を培う。民間企業は資源活用・市場対応力を高めるために市場特性に合わせたシステムを創ろうとする→社会的にもプラスの影響。
・BOPビジネスのケーススタディを豊富に収録。

 なお、上掲『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』「マイケル・E.ポーター 戦略と競争優位」特集の冒頭に掲載された論文、マイケル・E.ポーター、マーク・R.クラマー「共通価値の戦略」は、事業活動と社会的課題とをトレードオフではなく、営利・非営利という境界を越えてビジネス戦略のロジックで捉える。社会のニーズや問題に取り組む→社会的価値を創造→経済的価値へと結びつける。企業の目的は、単なる利益ではなく、共通価値の創出と再定義すべきと言う。

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2011年7月13日 (水)

J・M・ブキャナン、G・タロック『公共選択の理論──合意の経済論理』

J・M・ブキャナン、G・タロック(宇田川璋仁監訳、米原淳七郎、田中清和、黒川和美訳)『公共選択の理論──合意の経済論理』(東洋経済新報社、1979年)

・国家の有機体概念を排除、方法的個人主義を仮定した上で、意思決定において社会の構成員がいかに合意に至るかを経済学的手法で分析した古典的理論書。パレート最適とかゲーム理論とかを私は正確に理解しているわけではないので数式分析の箇所は飛ばし読みしてしまったのだが、要するに、アトム的個人を出発点とした社会秩序形成の論理的可能性を数理モデルを使って検証するのが基本的な趣旨である。言い換えると、社会契約論を数理モデルで構成しなおした議論であり、序文ではロールズの公正としての正議論と同じ方向性を持つと言及している。
・一個人の選択計算は費用のかかるプロセスであり、費用よりも便益の方が大きいと期待できる場合に同意するという効用拡大化仮説をとる。外部費用+意思決定費用=社会的相互依存費用、これが最小になるように、言い換えると期待効用を最大化するように個人は振舞う。
・同意によって成立した秩序構成をconstitutionと呼び、本書では「憲法」と訳されている。もちろん字義通り「憲法」と訳すべき箇所もあるが、人間が一定の振舞いを行なう際に準拠する前もって合意された一連のルールと考えれば、より広く「制度」と解した方が分かりやすいように思った。
・同質性が高い社会→制限の少ないルールを受け入れる。他方、鋭い対立を内包した社会→全会一致に近いルールを伴う意思決定費用の余裕なし。
・所得再配分の共同行為が実際に行なわれていることをどのように説明するかという問題意識。
・一方の得は他方の損というゼロサムゲームではなく、当事者すべてが相互的に得をする経済的交換過程として捉える→相互利益があれば全会一致に基づく社会契約は可能であることを論証。
・合理的個人モデルを議論の出発点としつつも、それは複雑な事象を単純化して人間の社会行動の一側面を把握、モデル化するための方法論に過ぎず、決して万能ではないことを強調している。
・道徳規範的な「べき」論からトップダウン的に政治秩序を構成するのではなく、仮定モデルに基づくにしても実際にいかに「ある」かというところからボトムアップ的な論理構成を目指す議論も特徴と言えるだろうか。

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2011年7月12日 (火)

関志雄『中国を動かす経済学者たち──改革開放の水先案内人』、胡鞍鋼『国情報告 経済大国中国の課題』、樊鋼『中国 未完の経済改革』

関志雄『中国を動かす経済学者たち──改革開放の水先案内人』(東洋経済新報社、2007年)
・計画経済の壁→自由な経済活動は個人の違法行為だが黙認→地方レベルで部分的合法化→全面的合法化、こうしたプロセスの中で経済活動正当化のための理論的サポートを求められて経済学者の需要。
・中国政府に政策提言をしている主流派は効率重視の新自由主義者。他方、格差拡大への懸念から、結果の平等重視の新左派も非主流派ながら庶民の間では人気。両者は経済問題に関してはタブーなく議論。本書では、政策目標を効率に置く新自由主義者→機会の平等重視→結果の平等重視の新左派というグラデーションの中で著名な経済学者を分類。
・計画経済から市場経済への制度移行という問題意識→安定的な市場を暗黙の前提として資源配分のあり方を研究する新古典派経済学ではなく、新制度経済学を導入。例えば、ロナルド・コースの取引費用の理論、ダグラス・ノースの新経済史の理論、ジェームズ・ブキャナンの公共選択の理論など。
・価格改革か(呉敬璉)、所有制改革か(厲以寧)
・張五常(香港大学):所有権を軸に中国経済分析、民営化を主張→新自由主義による経済改革の方向性を示す。経済随筆というスタイルを確立。
・楊小凱(モナッシュ大学):ジェフリー・サックスと共著あり。技術模倣(ex洋務運動)よりも制度革新(ex明治維新)の方が重要→技術模倣に終わって制度設計ができなければ先に進めない(後発性の劣位)→憲政とビッグバン・アプローチを主張。また、銭頴一(カリフォルニア大学バークレー校→清華大学)は健全な市場のために政府を抑制→法治の確立を主張。
・林毅夫(台湾出身で大陸へ亡命、北京大学):民営化よりも前に企業の「自生能力」の育成が前提。漸進的改革を主張。技術移転により低コストでキャッチアップ→後発性の優位。競争的市場では価格が製品と生産要素の希少性・需給関係を正確に反映する→その情報に基づいて比較優位の戦略を立てる。
・胡鞍鋼(清華大学):国情研究。効率重視の市場競争と同時に公平性を確保するため政府の役割→第三の道。
・樊鋼(民間学術機構である中国経済改革研究基金会国民経済研究所所長):市場移行と経済発展の同時進行過程として中国の経済改革を把握。
・朗咸平(台湾出身、アメリカで活躍→香港中文大学)は民営化による国有資産の不当な流出を公平性の観点から批判。対して、周其仁(北京大学)は効率性重視の観点から、そういった問題があっても改革の中止ではなく加速化を主張。

胡鞍鋼(王京濱・訳)『国情報告 経済大国中国の課題』(岩波書店、2007年)
・中国経済が各方面で抱える問題点を概観しながら課題と方向性を示すのが趣旨。
・中国経済の不均衡な発展→環境とのバランス、人を中心としたサステイナビリティなど緑色発展への転換が必要。
・経済成長を牽引するのは都市であり、内需拡大、三農問題の解決などの問題意識→都市化の進展が重要。
・かつては宗族、人民公社といった横のつながり→市場経済化の進展により個体の分断傾向。また、社会的格差の二極化傾向→ソーシャル・ガバナンスの機能不全という問題意識。
・経済環境安定のためには政治の安定、つまり政策決定の制度化が必要。その中に専門家・有識者による諮問メカニズムを確立させる必要。中央集権と地方分権の混合型の公共安全システム構築の必要→国民を第一に、制度化建設を中心に、多様な社会問題に対応できるソーシャル・ガバナンス能力の引き上げを図る。官民摩擦、官の腐敗→クリーンな政治として共産党の施政能力を高める必要。グッド・ガバナンス。
・中国の台頭は平和的台頭・内需型台頭。国際社会の中で中国台頭のインパクト→5つの規模の経済性。巨大人口、労働力と就業の問題、経済規模による誘発効果、対外開放による市場拡大、他方で資源消費の問題は規模の不経済。

樊鋼(関志雄・訳)『中国 未完の経済改革』(岩波書店、2003年)
・いきなり高度な産業は無理。まず付加価値は低くても労働集約的な部門から後発性優位を活かしながら。自力更生よりも海外からの技術移転。国際競争力強化のためには、蛙飛びでハイテクを目指すよりも適正技術。
・地域格差、とりわけ労働移動の障害。大都市の発展→他地域への波及を期待。
・農業問題。自給自足を強調するよりも、低価格の食糧の輸入も考慮すべき。工業化による余剰労働力の吸収。
・市場メカニズムの導入→担い手は専門家の指導(人治)から民衆の自発的行為(制度による調整、契約→法治)へ。
・中国の漸進的改革の特徴阿、旧体制に対する改革が多くの障害によって実施困難な中、旧体制の周辺で新しい経済主体を育成・発展、新体制へ向けた環境整備によって徐々に旧体制を改革→ソ連・東欧のビッグバン・アプローチとは違う。改革の進行過程に応じて目標を常に修正・調整。
・双軌制(二重価格制→既存製品は計画価格、新たに生産された製品は市場価格→市場取引が増えるにつれて計画価格は駆逐、市場価格へ収斂)。
・経済改革が先行、政治改革は遅れている。
・所有制改革では国有企業改革がカギ。「放権譲利」(下級政府や企業に権限を委譲して利益を分ける)→所有者の権限と責任が不明確で失敗。非国有企業の発展による環境変化が前提。
・銀行の不良債権は実質的には国有企業に対する財政補助の役割。中国経済の特徴は、銀行の不良債権の金額が大きく、政府債務と対外債務が相対的に小さいこと。
・改革は政府自らの意志で設計した発展戦略というよりも、多くの主体の利益衝突を反映した「公共選択」の結果。

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