カテゴリー「経済・経営」の65件の記事

2024年7月26日 (金)

林凌『〈消費者〉の誕生──近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義』

林凌『〈消費者〉の誕生──近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義』(以文社、2023年)


消費者論に関して、私個人としては、第一に商業学系のマーケティング論、第二に社会運動としての消費協同組合論とが交わらないまま並立しており、なおかつ両方とも戦後社会に特有の思潮という印象を受けていた。そうした思い込みに対して、本書は戦前期からの「消費者」概念をめぐる思想的系譜をたどりながら、戦後との連続性を捉え返していく。


本書の冒頭では、加藤周一と奥むめお(婦人運動・消費者運動で知られる)との対談(1957年)が紹介される。そこで二人は、日本人には「消費者」の自覚が乏しいという共通認識を示す。消費者運動では庶民にとっての適正価格を求める側面が一般的には注目されるが、それと同時に奥の言説には、「自分は我慢して、いい物は外国に売る」という言い方で消費行動と国家的繁栄とを結び付けるロジックがうかがえる所に本書は議論の発端を見出す。


「消費者史研究では〈消費者〉言説が、財界主導による生産性運動と、婦人運動家主導による消費者運動によって拡大したことを示し、その背景として戦後日本社会における(経営)民主化・アメリカ化や、食糧難といった事情があることを論じてきた。ゆえに戦後に現れたとされる〈消費者〉言説は、多くの場合きわめて戦後民主主義的な色彩が強いものとして捉えられてきたといえる。その結果、先述したような国家目的に即した消費の制限を肯定するような主張が、消費者運動に関わった知識人によって叫ばれていたことや、本書が後に述べるように、戦後日本における政財界の消費者主権をめぐる主張が、総力戦体制期における〈消費者〉言説との強い類似性をもっていることについての説明はされてこなかった。」(30-31頁)


庶民の立場で適正価格を求める消費者主権としての消費者運動、もしくは生産者・販売者側の視点に立ったマーケティング論における消費者像、いずれにしても私経済の枠組みにおいて捉えられた「消費者」であるが、他方で、上記の加藤・奥対談からうかがえるような、消費者問題と国家統治とが関わり得るという部分に関してはこれまで看過されてきたというのが本書の問題意識である。そして、日本の戦前・戦中期における消費者をめぐる言説の系譜をたどり、戦後との連続性が検討される。


具体的には、まず近代日本で経済学的知が普及していく中で消費者概念がはじめて登場する様子が描かれ(「第二章 近代日本における消費者概念の受容過程──経済学の普及と制度化」)、その上で大正期において消費者が社会改良主体として注目された言説を検討する(「第三章 社会改良主体としての〈消費者〉──消費組合運動と婦人運動の勃興と変容」)。そうした中から、資本主義体制の問題点が商業学者によって指摘され、消費者を庇護対象とする形で統制経済を正当化する議論が現われてきた(「第四章 庇護対象としての〈消費者〉──商業学者による統制経済論の展開」)。そして、戦時統制経済体制において知識人たちによる消費者の自覚を促す言説が検討される(「第五章 〈消費者〉としての国民の「自覚」──戦時期日本における消費経済の問題化」)。結論では現代社会にも通ずる問題意識が論じられるが、こうした消費者をめぐる言説は、自由放任経済に対する調整としての議論の中で立ち現れているが、その意味で「統制経済論と新自由主義は、いわば自由放任主義に対する批判のんかで生まれた、対称的関係にある双子の思想であった」(376頁)と指摘される。


私自身は大正期の協同組合運動について調べる中で本書を手に取ったので、とりわけ第三章の議論に興味を感じた。キリスト教社会主義に立脚した賀川豊彦の協同組合運動、資本主義体制の矛盾をつく形で統制経済の理論的な論拠を準備した本位田祥男の協同組合論、そして婦人運動の立場から消費者運動を進めた奥むめお、この三者が共通する位相において、「消費者」を社会改良主体として位置付けようとする模索があった点に関心を持った。

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2021年9月15日 (水)

ジェームズ・ファーガソン『反政治機械──レソトにおける「開発」・脱政治化・官僚支配』

ジェームズ・ファーガソン(石原美奈子・松浦由美子・吉田早悠里訳)『反政治機械──レソトにおける「開発」・脱政治化・官僚支配』(水声社、2020年)


 James Ferguson, The Anti-Politics Machine(1990)の邦訳。著者のファーガソンはスタンフォード大学教授で、アフリカ南部をフィールドとして「開発」・近代化・援助といったテーマについて考察を進めている文化人類学者である。本書はハーバード大学に提出された博士論文をもとにしている。なお、本書では「開発」という概念そのものを検討対象としていることから「」がつけられている。


 本書の目次は下記の通り。

第一部 序
 第一章 序
第二部 「開発」装置
 第二章 概念的装置──「開発」対象の構築、「開発途上国」としてのレソト
 第三章 制度的装置──タバ・ツェカ開発プロジェクト
第三部 「標的となる住民」について
 第四章 調査地概要──レソト農村部の経済・社会的側面
 第五章 牛の神秘性──レソト農村部における権力、財産、家畜
第四部 「開発」の展開
 第六章 家畜の開発
 第七章 地方分権化の頓挫
 第八章 タバ・ツェカ・プロジェクトの農作物開発とその他のプログラム
第五部 「開発」プロジェクトの道具効果
 第九章 反政治機械


 発展途上国への「開発」プログラムの報告書における叙述方法への違和感から本書の問題意識は始まっている。例えば、世界銀行の報告書では、レソトは農業の潜在力があるにもかかわらず、人々は伝統的な価値観に縛られているため近代化が果たされておらず、従って農業生産力を高めて資本主義市場へ接合させることにより、彼らの生活水準を向上させることができる、と記されている。ところが、レソトでフィールド調査をしていた著者によると、実際にはレソト社会はかなり以前から南アフリカへの出稼ぎ労働という形で資本主義の枠組みに適応した生活形態を形成していたという。どうして捉え方が全く異なるのだろうか?


 レソトの山岳部はもともと農業には適さないからこそ、出稼ぎ労働者は南アフリカへ行く。レソトの土地は耕作のためというよりも、こうした出稼ぎ労働者の故郷とのつながりを維持し、潜在的労働者が流出しないようこの土地につなぎとめるという意味での政治的資源として作用している。つまり、この社会の脈絡において、農耕とは違う形ではあっても重要な意義を持っている。ところが、開発計画を推進して専門的な農地活用をさせようとしたら、「真剣でない農民たち」は居場所を失ってしまう。そして、実際に農業開発プログラムは失敗した。


 国際的な開発機関には蓄積されたノウハウがあり、そのプログラムは規格化されている。言い換えると、そうした規格に合わなければ、開発計画は認可されにくい。従って、開発プログラムの立案にあたっては、開発対象を規格に合う形で描写しないといけない。例えば、上述した世界銀行報告書に見られるような「開発」言説がなぜ実態から乖離しているのかという理由はここにある。開発計画を通すためレソトを意図的に「遅れた」社会として描写しなければならなかったのである。出発点から実態に合わないのだから、開発計画が実行に移されても成功するわけがない。そして、失敗は技術的な問題として矮小化される。


 本書で注目されるのは、開発計画における農業プログラムの失敗というだけでなく、むしろその副産物の方である。開発計画策定の前提として、「国家」は公平無私な実行機関とみなされているが、実際には現地権力者から末端の小役人まで様々な利害関係者が絡まり合っている。「開発」を目的としてインフラ整備(例えば、道路)が進められるが、農業発展という目的は達せられなかった一方で、むしろレソト政府の国家権力拡大という副産物が現われた。言い換えると、「貧困」問題解決を口実としながらも、「開発」の介入によって官僚的国家権力の確立・拡大という副作用がもたらされたのである。


「断固として貧困を技術的問題に矮小化することにより、そして弱い立場にある抑圧された人々の苦しみに技術的解決を約束することで、覇権的な「開発」問題系は、それによって今日の世界において貧困の問題が脱政治化される主要な手段となる。同時に、その意図的な「開発」の青写真を高度に可視化することによって、「開発」プロジェクトは誰も反対できない中立で技術的な使命という装いのもと、制度的な国家権力の確立と拡大という極めて政治的に扱いの難しい事業をほぼ不可視なまま遂行することに成功するのである。そうすると、この「道具効果」には二つの側面があることになる。ひとつは官僚的な国家権力を拡大するという制度的な効果であり、もうひとつは貧困と国家双方を脱政治化するという概念的、もしくはイデオロギー的効果である。」(374頁)


 こうした「開発」プロジェクトの「道具効果」がある種のシステムとして作動している状況について、本書では「反政治機械」と呼んでいる。問題は、誰かが意図的に(陰謀的に)実行しているのではなく、善意の専門家が誠実に遂行しようとした意図せざる結果であるという点にある。


「…自由に移植され、いかなるコンテクストにも縛られない、専門家の意見こそが、あまりにも安易に一般化され、どんな場所にも安易に当てはめられるのである。世界中の「開発」プロジェクトは、このようにコンテクストに縛られない共通の「開発」専門家の知識によって作り上げられているので、その意味において、レソトにおける「開発」の経験は、かなり一般的な現象の一部をなしているのである。」(378頁)

「…「開発」言説には特別な用語だけでなく特有の論証のスタイルがあると示唆することができる。それは、暗黙の内に「そしておそらく無意識の内に」もっと「開発」プロジェクトが必要であるという必須の結論から、その結論を生み出すのに必要な前提へと逆向きに論理づける。この点において、「開発言語(devspeak)」だけではなく、「開発思考(devthink)」もまた問題となるのである。」(379頁)

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2018年2月10日 (土)

佐伯啓思『経済成長主義への訣別』

佐伯啓思『経済成長主義への訣別』(新潮選書、2017年)
 
 近代経済学の考え方では、ホモエコノミクスを単位とする方法的個人主義を前提として市場経済の調節機能を想定する。対して、著者はむしろ市場経済の背後にある集団的な価値や慣習にもとづく社会性へ視線をそそぎ、そうした観点から経済学批判をすすめる。その考え方はカール・ポランニーに近いと自ら記している。
 
 本書のタイトルは「経済成長主義への訣別」となっているが、別に経済成長そのものを拒絶するわけではない。著者の認識にはまず、実際問題として今後の経済成長は難しいだろうという見通しがある。それは、第一に、人口減少・高齢化。第二に、グローバル化はコスト削減圧力が強まることで賃金抑制→消費需要の低迷という悪循環に陥る。第三に、フロンティアの消滅。つまり、土地、イノベーション、労働力など「容易に収穫できる果実」がもはや枯渇している。こうした条件から考えると、今後の経済成長は見通せない。何よりも、「経済成長」に市場の価値を置こうとするイデオロギーへの違和感が表明される。
 
 本書では様々な経済思想書を援用しつつ、「経済成長」のみにこだわる硬直した思考様式が、経済の本来の前提たる「ふつうの生」への配慮が見失われていることへの異議申し立てが述べられていく。著者の考え方に賛成するか反対するかはともかく、経済文明論的な視野の中で知的刺激を受けることができる。

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2012年8月 1日 (水)

ドラッカーの一つの読み方

 ピーター・ドラッカー『マネジメント──務め、責任、実践』(全4巻、有賀裕子訳、日経BP社、2008年)を通読。ドラッカーの本のうち、自伝である『傍観者の時代』や政治批評的な論文『「経済人」の終わり』『産業人の未来』などはすでに読んでいたが(→こちら)、主著とも言うべき『マネジメント』にはあまり興味がなかったので、ようやくという感じ。ちなみに、話題になった『もしドラ』も読んでいない。

 「マネジメントの神様」ともてはやされたドラッカーだが、彼が企業経営というテーマに関心を寄せたのは戦後のこと。もともとはヨーロッパでジャーナリストとして活躍しており、ナチス政権成立後にアメリカへ移住。理性万能主義に対する懐疑としてのリベラルな保守主義に立脚し、この立場から全体主義を批判する姿勢を持っていたことは、まだジャーナリストとして活動していた戦前・戦中に執筆した『「経済人」の終わり』『産業人の未来』にうかがえる。

 経済発展を通して個人の自由と平等を実現し、その個人は経済関係を通して社会的な位置を占める。こうした個人モデル=「経済人」を前提とした資本主義は、社会的不平等が広がっても、いつかは個人の自由や平等が実現されるはずだという期待があってはじめて成り立っていた。社会全体が生活水準の向上を実感しているうちは良かったが、やがて破綻し、社会的格差は拡大を続ける。人々は幻滅し、そうした反発を吸い寄せたのが、脱経済至上主義的なファシズムや共産主義であったとドラッカーは観察していた。

 戦前社会において既存の資本主義体制が行き詰まりを見せつつあった一方、これらの全体主義は人間ひとりひとりの「自由」を犠牲にすることで成り立つ。第三の道はあり得ないのか?と考えていた中で彼が見出したのが「企業」であった。

 企業は単に金儲けをするための組織ではない。業績をあげるという共通目標の下で、一人ひとりの主体的能動性(=ある意味で「自由」の感覚)や働きがい(=「尊厳」の感覚)を確保しながら、人々の協働的関係を維持していく(=自治的共同体の形成)。

「マネジメントの哲学とはすなわち、ひとりひとりの強みをできるかぎり引き出してその責任範囲を広げ、全員のビジョンと努力を同じ方向へ導き、協力体制を築き、個と全体の目標を調和させるものである」(『マネジメント』第3巻、159ページ)。

 そして、「企業」という協働的組織の中から生み出されていくイノベーションは、その企業自身の利益になると同時に、社会全体の発展に寄与する。以上を踏まえて、企業における協働関係を円滑に進めるための具体的方法論としてマネジメントの技法やマネジャーの役割などが詳細に論じられていく。

 そもそも、『マネジメント』の序文では「専制に代えて」と題して次のように記している。

「組織を柱とした多元的な社会において、かりに組織が責任に裏打ちされた自主性のもとで成果をあげなかったなら、個人は自由や独立を得られず、社会における自己実現も叶わないだろう。自分たちを厳しく縛り、誰も自主性を発揮できない状態を生み出してしまうだろう。陽気に思いのままにふるまうどころか、参加型民主主義さえ葬り、スターリン主義を招くのだ。組織が自主性と強大な力を持ち、成果をあげられる状況が失われたら、それに取って代わるのは専制でしかない。多数の組織が競い合う状況が失われ、絶対的な権力を持ったひとりの人物による支配がはじまる。責任に代わって恐怖が幅を利かせる。官僚機構がいっさいを支配し、すべての組織を取り込む。その機構は財やサービスを生み出しはするが、活動ぶりは不安定で無駄が多く、水準も低い。しかも、辛苦、屈辱、苛立ちなど、途方もない犠牲を伴う。このため、組織を柱とした多元的な社会で自由と尊厳を保つには、組織に自主性と責任を与え、高い成果をあげさせるのが唯一の方法である」(『マネジメント』第1巻、4~5ページ)。

 ドラッカーのマネジメント論の背景にはこうした問題意識があったことは見逃せない。つまり、ドラッカーは多元的な社会において個人の自由と社会的秩序とを媒介する中間団体として企業組織を捉えていた。人間と社会との関係性を考え抜こうとする態度を持っていた点で政治思想史的に彼の考え方を位置づけることもできる。マネジメントの技法としての各論を見るか(つまり、自己啓発的なビジネス書として読むか)、それともこれらの各論の背後に一貫している思想史的問題意識に注目するかで、ドラッカーの読み方はまた違ったものになるだろう。

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2012年7月26日 (木)

松島大輔『空洞化のウソ──日本企業の「現地化」戦略』、戸堂康之『日本経済の底力──臥龍が目覚めるとき』、他

 高度成長期の日本企業は低廉な人件費を見込んで労働集約型の分野を中心にアジア展開を拡大させていたが、その限界は早くから指摘されていた(例えば、関満博『フルセット型産業構造を超えて──東アジア新時代のなかの日本産業』中公新書、1993年)。アジア展開を人件費などコスト削減の視点で考える時代は終わり、市場として捉えるのが現在では主流となりつつある。

 そうした中、松島大輔『空洞化のウソ──日本企業の「現地化」戦略』(講談社現代新書、2012年)は、日本企業の海外(とりわけ「新興アジア」)進出は国内の雇用を減らしてしまう(=空洞化)のではなく、むしろ積極的な海外展開を通したイノべーティブな刺激が産業融合をもたらし、国内産業にとってもプラスになる、と主張している。なお、本書で言う「新興アジア」とは主にインドや内陸部インドシナ半島を指しており、中国やインドネシアへの言及は少ない。著者の主な活動舞台がインドやタイにあったというだけでなく、中国~アメリカのモジュラー型に対して、日本はインテグラル型(現場の「カイゼン」→「創発システム型))の点でASEANの方が親和的という論拠も挙げられている。

とりあえず本書で関心を持った論点は、
・新興アジア諸国への「現地化」とは、言い換えると現地のニーズを汲み取りながら生産態勢を仕切りなおすことである。それは日本国内への刺激としてイノベーションが創発される一方で、日本企業自身の再編を促し、さらには日本国内の構造改革にも直結する。(どうでもいいけど、アジア展開による刺激によって日本国内の構造改革を促すというロジックって、どっかで聞いたことあるよなあ。例えば、満州事変を起こした石原莞爾とか)
・今まで日本企業がFDIで展開してきた生産ネットワークの広がりが下からのデファクト・スタンダードとしてASEANにおける経済統合を促してきたという経緯がある→このようにルール作りを日本も率先に立って行っていく必要性。日本的なフォーマットへの標準化により、日本企業が稼げるルール作り。
・生産部門はアジア諸国で「現地化」する一方、日本では企画・調整のための部門を拡充する必要があり、ここに日本での雇用が生まれる。ただし、本書で言う雇用とは企画立案や調整を担うホワイトカラーが中心であり、コアとなる技術関連の生産や波及的な雇用には触れられてはいても、それ以外の雇用形態の人々にどのような恩恵があるのかまではよく分からない。産業構造の変化により「労働」の質がブルーカラーではなく知的労働を重視する方向で大きく変わっているという認識が前提になっており、議論の対象が異なるのかもしれない。その点では「空洞化のウソ」というタイトルは割り引いて読む必要があるだろう。

 それから、戸堂康之『日本経済の底力──臥龍が目覚めるとき』(中公新書、2011年)、『途上国化する日本』(日本経済新聞出版社、2010年)を続けて読了。要点は以下の通り。
・日本には国際競争力の潜在力を持つ企業が多数あるが、情報アクセスの問題があって海外進出の意志なし(臥龍企業)→グローバル化を促す政策の必要。海外進出そのものによる稼ぎよりも、それによって得られる情報にイノべーティブな価値がある。
・研究開発した成果が流出すると、その企業にとってはマイナスだが、社会全体にとってはプラス→企業が研究開発への投資に及び腰にならないよう公的支援が必要。
・産業集積は、対面的なネットワークによって技術や知恵の切磋琢磨や情報交換が行われ、イノべーションが促進される→産業集積を政策的に促進する必要。
・以上を前提としてFTAの推進を主張。

 松島大輔『空洞化のウソ──日本企業の「現地化」戦略』(講談社現代新書、2012年)も、基本的な主張については戸堂書をフォローしている。戸堂書の議論を見ても、企業のグローバル化で国内産業の空洞化は生じず、長期的にはむしろ雇用は安定すると主張しているが、やはり本社における企画立案・調整等のホワイトカラーが念頭に置かれていて、それ以外の雇用形態に関してはむしろ減少するという見立てと読み取れる。

 ついでに関満博の上掲『フルセット型産業構造を超えて』の他、『地域経済と中小企業』(ちくま新書、1995年)、『アジア新時代の日本企業──中国に展開する雄飛型企業』(中公新書、1999年)、『空洞化を超えて──技術と地域の再構築』(日本経済新聞社、1997年)も通読したが、合わせて読むと、ここ20年間においてアジア展開する日本企業の動向が見えてくる。

 関満博は大田区の工場など中小企業の現場を観察した研究成果を出しているが、①産業集積(大田区のように町工場が密集)による技術力向上、②労働集約型事業は人件費の安いアジア諸国に移転するので、日本では「プロトタイプ創出機能」を育成しておく必要がある、という議論を進めていた。

 上記3人の議論から共通点を抽出すると、要するに中小企業の「ものづくり」の現場における技術的イノべーションを促すことで日本の国際競争力を向上させる、という点に収斂する。関書、戸堂書はとりわけ産業集積での創発によるイノベーションに注目している。3人ともアジア展開の必要性を論じる中で、関書(主に中国展開を取り上げる)は現地にも技術移転を進める必要性を指摘する一方、戸堂書における中小企業にもグローバル化を促す主張、松島書における「新興アジア」への「現地化」の主張は、知的創発のつながりを海外へと広げて捉えなおそうとしている。「ものづくり」というとベタな印象を受けるかもしれないが、産業集積における知的創発を重視しているところから考えると、リチャード・フロリダ(井口典夫訳)『クリエイティブ資本論──新たな経済階級(クリエイティブ・クラス)の台頭』(ダイヤモンド社、2008年)で示された、世界がフラット化する中でも都市における創発的な出会いが新たな経済価値を生み出すという議論と実は同様の方向性を持っていると言えるのかもしれない。

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2012年4月 8日 (日)

ポール・コリアー『収奪の星──天然資源と貧困削減の経済学』

ポール・コリアー(村井章子訳)『収奪の星──天然資源と貧困削減の経済学』(みすず書房、2012年)

 経済活動を行う以前に政治的・社会的構造が機能不全に陥っている国々では、援助をつぎ込んでも無駄だし、自立を促しても混乱を深めるばかりとなってしまう。貧困そのものが足かせとなって悲惨な状態から抜け出すことの出来ない「最底辺の10億人」──ポール・コリアーはアフリカを中心とした調査によってこうしたカテゴリーを対象化し、貧困からの脱却を阻害している問題点を提起してきた。本書はさらに資源の希少性をテーマとして、「最底辺の10億人」をめぐる課題は富裕国も含めたグローバルな責任にかかっていることを問いかけてくる。

 貧困を解決するには資源の活用によって生産性を高めることが大前提となる。しかし、地球上の資源が枯渇しつつあり、地球温暖化も問題視される中、資源の無駄遣いは許されない。ここに一つの対立軸が現れてくる。環境保護主義者は天然資源を守るため経済開発には抑制的な態度を取るのに対し、経済学者は天然資源が人類に恩恵をもたらす限り、その活用に問題はないと考える。コリアーは両者を折衷した立場を取る。持続可能性は必ずしも現状維持を意味するわけではない。「私たちは自然資源の価値を維持する管理者、金融用語で言うならカストディアンである。先の世代から引き継いだこの資産を、価値を減ずることなく将来世代に引き渡す責任を私たちは負っている。自然が私たちに課す義務は、本質的には経済価値にかかわるのである」(25ページ)。つまり、効率性重視の経済学的発想と環境保護とはトレードオフの関係にあるのではない。現世代は地球上の資源を浪費してしまうのではなく、将来世代の権利を考慮しながら効果的な投資へと振り向けていくべきだという考え方が本書のテーマとなっている。当たり前とも言える結論ではあるが、それを経済学的・政治学的検証を通して提言につなげていくのが本書の持ち味と言えるだろう。

 天然資源をはじめとした公共財には所有者が明確でないため、誰もが自分の権利を主張して収奪の対象となりやすい。そこで保護が必要となるが、誰が行うのか。将来世代への責任を図るため政府が管理すべきという話になる。しかし、二つの問題点がある。第一に政府が機能していない場合、第二に公海など帰属が明快でない場合。後者については、水産資源を例にとると、あらゆる海をどこかの国に帰属させるのも一つの考え方だが、実際には無理である。そこで、公海を国連の管理下に置くべきと提言される。

 前者の問題は、コリアーの前著『民主主義がアフリカ経済を殺す──最底辺の10億人の国で起きている真実』(甘糟智子訳、日経BP社、2010年。原題はWars, Guns, and Votes: Democracy in Dangerous Places, HarperCollins, 2009→こちら)の内容とも関わってくる(この本の邦題は刺激的だが、エスニシティーの対立をはらんだ国で政府が統治ではなく利権獲得の手段とみなされているとき、選挙はかえって部族間の対立を過熱させ、暴力を生み出してしまうという趣旨であることに留意)。例えば、「資源の呪い」の項では次の問題が指摘されている。農産物では投下された投資と労働の見返りとして利益がもたらされるのに対して、鉱物資源の場合、投資や採掘作業を大幅に上回る利益が生み出され、略奪の対象になりやすい。採掘コストを上回る枯渇性資源の価値は本来的には国民のものであり、政府は国民に代わってその価値を守る義務がある。ところが、そうした努力がなされない場合、経済的にはマイナスになってしまう。結局、ガバナンスが有効に機能しているかどうかが問題となってくる。「最底辺の10億人」の国々では、国家とは国民に公共財を提供する存在とは認識されておらず、資源収入は政府が独占してしまい、そしてその政府は一部特権階級により独占されている。従って、チェック・アンド・バランスが必要なのだが、これが構築できるかどうか。こうした問題を等式化して、先進国は「自然+技術+法規=繁栄」、最貧国は「自然+技術-法規=略奪」と要約される。

 なお、『最底辺の10億人』(→こちら)ではアフリカの天然資源目当てに進出してきた中国に対する警戒感が見られたが、本書では見解が変わっており、インフラ建設との交換条件で天然資源を輸出するチャイナ・ディールにも、透明性確保という条件付ながら建設的な意義を認めている(140~143ページ)。中国のアフリカ進出についてジャーナリズムでの反応は否定的だったが、近年、アカデミズムにおいては公平に評価しようという論調が主流である。例えば、Deborah Brautigam, The Dragon’s Gift: The Real Story of China in Africa(Oxford University Press, 2009→こちら)、Sarah Raine, China’s African Challenges(Routledge, 2009→こちら)、Ian Taylor, China’s New Role in Africa(Lynne Rienner, 2009→こちら)などを参照。

 「最底辺の10億人」が暮らす国々における経済を活性化させるだけでなく、緊急の課題として食料問題がある。スラム化した都市に暮らす貧困層にとって世界的な食料価格の高騰は深刻であり、それはとりわけ発育前の子供たちに致命的な影響をもたらしてしまう。安価な食料供給を確保する必要があるが、それを富裕国が阻害している三つの要因を本書では指摘している。第一に、商業的農業のグローバル化を拡大すべきである。小農による地産地消など牧歌的な農業モデルは富裕国の贅沢に過ぎない。第二に、遺伝子組み換え技術を禁止すべきではない(自然+法規-技術=飢餓」という等式に要約される)。第三に、アメリカはバイオ燃料によるエネルギー供給という空想を捨てるべきだ、バイオ燃料にするだけの穀物があれば食糧供給にまわさねばならない、と著者は言う。こうした指摘は、先進国における食の安全(例えば、ポール・ロバーツ『食の終焉』を参照→こちら)やエネルギー安全保障などの考え方とぶつかってしまう側面がある。先進国と貧困国との間で利害の衝突してしまう論点についてはよく検討してみなければならない。

「安い自然が豊富にある時代は終わったのである。私たちは、自然が貴重になった時代の世界共通のルールを作る必要がある。…自然を管理するカストディアンとしての責任はどの国にも共通すると市民が認めるなら、政府はそれをしなければならない。とは言え、どんな力も、しっかりした根拠がなければむなしい。富裕国の市民が現実離れした夢を見る誘惑に迷ってしまったように、新興市場国の市民もさまざまな誘惑に惑わされるだろう。新興市場国の場合、それは夢想的な環境保護主義ではなく、夢想的な国家主義になるのかもしれない。この先に待ち受けるのは、国益を優先する甘い誘惑とカストディアンの倫理規範との闘いである。」(268~269ページ)

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2012年3月30日 (金)

ポール・ロバーツ『食の終焉──グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機』

ポール・ロバーツ(神保哲生訳)『食の終焉──グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機』(ダイヤモンド社、2012年)

 ふだん何気なく訪れるスーパーマーケットを思い浮かべてみよう。熟れた果物、食べやすくカットされた生鮮食品、安価な加工食品──多種多様な品物が豊富に取り揃えられているのを見ると、「食の崩壊」などと言っても実感はわかない。だが、それらの製造・流通過程の内幕を知ってしまうと、安閑たる気持ちではいられなくなる。

「それはたとえば、まったく同じ外見をした動物が何千頭も飼われている飼育場や、同じ植物が何エーカーもの土地を埋め尽くす広大な工場式農場。農場に流れ込んではこぼれ出す大量の飼料や肥料、アトラジンやラウンドアップなどの農業用化学物質。侵食が進む土壌、農薬耐性を持つ害虫。森が農地に変わり、農地がショッピングセンターに変わる姿。低下する地下水面を追いかけるようにますます深く掘られる灌がい用井戸、低賃金の労働力を求めてどこまでも延びる貨物用航空路。低い利益率や少ない在庫、そして時間当たりの処理能力の要求レベルがどんどん上がり、失敗の余地がなくなっていく中で、細く長く延びていくサプライチェーン…。」(490ページ)

 食にまつわる様々な問題点が本書では多角的に網羅されており、その意味では概論的な内容と言っていいかもしれない。一部だけでもピックアップしてみると…
・大量生産のシステムが成立すると、必要に応じて生産するのではなく、新製品のアピールのため広告に多額な費用をかけて需要を無理やり喚起。
・市場原理によって小売業者が値下げ競争→末端の農家にしわ寄せ。
・大規模な畜産による水質汚染、農業肥料に使われた化学物質の流出による環境汚染。
・低価格の食料ほど高カロリー→貧困層ほど肥満に苦しむ。
・ワシントン・コンセンサスによる貿易自由化→農業生産の基盤が厚いため大量生産により低価格の食料品を輸出できる先進国(農業に従事する人口やGDPは1~2%に過ぎない)が有利で、輸入する途上国(人口の大半が農業に従事)で農業システムが崩壊。輸出主導型農業の限界→リカード的な比較優位説が単純に成立するのか?という疑問。小規模農家の存在を開発計画に取り込む必要を指摘。
・牛肉の生産には大量の穀物が必要→新興国の所得水準向上により牛肉消費量が増大すると穀物が足りなくなる。
・鳥インフルエンザや様々な病原菌→食品保護システムの不備、汚染経路が特定されないにもかかわらず、輸出が拡大されるリスク。とりわけ中国、インド、ベトナム、インドネシアなどの逼迫した食品市場の問題点を見ると、食のシステムの致命的な崩壊はアジアを発端に生じかねないと指摘。
・遺伝子組み換え食品が未知の災厄をもたらしかねないことへの警戒感が話題となるが、それ以前に、「飢餓とは、社会的、政治的、経済的および生物学的な要素が複雑に絡まり合った結果であり、遺伝子工学だけで解決できるものではない」(439ページ)。遺伝子組み換えがダメならオーガニック運動か? だが、オルタナティブのはずのオーガニック運動もまた、①イデオロギー的純血主義、②市場原理に則って収益性を第一に考える現在の政治・経済モデルに組み込まれていく、という問題がある。

 一つ一つの論点はすでに周知の問題で、本書を読んでことさら驚くというわけではない。ただ、これらの問題点が一つながりの見通しの中で関連付けられると、現代の消費文明が構造的に生み出している落とし穴が人類の文明史にとって致命的な災厄をもたらしかねない危うさがクリアに提示される。

 ものを作って食べる、その一連の行為は本来有機的なものだ。食の生産と消費とが完全に分離したあり方は他ならぬ自分自身の人生をも他人に委ねたに等しい、と本書が言うのはもちろんまっとうだとは思う。結論として、食料生産工程のせめて一部でも取り戻すことで能動的なものにしていく、つまり地域密着型の食のシステムが推奨される。しかしながら、生産と消費の分離こそが社会的効率性・利便性を高めるのに役立っており、この高度に複雑化したシステムを現代の我々が果して手放すかどうかと考えると、なかなか難しいだろう。また、食料生産を持続可能なものにするには、投入資源を別なものに代替したり、新技術を開発したりするだけでも問題は解決できない。広いレベルで既存の政治経済システムそのものを根源的に問い直さねばならなくなってくる。

 持続可能な食料生産を支えるには相応の代価が必要である。激安の食料品など本来ならあり得ない。ところが、そうした代価を支払えるのは一定の富裕層に限られてしまう。現実として貧困に喘いでいる人々にとって、大量生産された低価格食料品以外の選択肢はない。選択肢が限られている以上、「消費者の自己責任」という言説は成立ち難いし、そもそもこの大量生産工程自体が食のシステムを不自然に歪めているわけだが。

 問題は現代社会の利便性と分かちがたく絡まり合っている。生産者はたくさん作りたい。小売業者はたくさん売りたい。消費者は安く買いたい──社会を構成する各プレイヤーにとっては合理的な行動であっても、合成されると意図せざる形でマイナスのスパイラルにはまってしまう。テクノロジーの進歩は問題の一部を解決はするが、別の派生的な問題も生み出しかねない。こうしたアポリアを人類は果たして乗り越えていけるのか、本書を読んでいると心許ない焦燥に駆られた居心地の悪さをどうしても感じてしまう。

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2012年2月 9日 (木)

佐藤百合『経済大国インドネシア』

佐藤百合『経済大国インドネシア』(中公新書、2011年)

 インドネシアが経済的に台頭しつつあることは報道等でもちろん知ってはいたが、本書の体系的立てた説明を読んでみると、日本が資源目当てに「南進」をもくろんだり、スカルノやスハルトが権威主義的支配を行っていた時代は、本当に過去になったのだな…と改めて実感する。今後は投資ばかりでなく内需の取り込みが日本企業の課題となってくるわけだが、インドネシア自身が安定的・持続的に発展をしていく上でカギとなるのが、人口ボーナス(詳細は大泉啓一郎『老いてゆくアジア』[中公新書]を参照のこと)。人口ボーナスによる効果を十分に活かすには、どのような政策対応をするかが重要となる。細かな話になるが、インドネシアを皮切りにイスラム世界を市場として考える場合、ハラル(イスラム法で許される食物や日用消費財)認証制度が国際化していく可能性は興味深いだろう。

(以下、メモ書き)
・インドネシアは人口規模が大きいだけでなく、今後20年間は人口ボーナス(出生率が低下し始め、生産年齢人口が総人口に占める比率が高まる→経済成長を促進)が期待できる。ただし、そうした条件が備わっていても効果的な政策がなければ活用できない→①出生率低下を持続させる、②生産年齢人口に就業機会を与える、といった政策を打ち出す必要。
・スハルト時代の権威主義体制と比較しながら、現在の民主主義体制における経済運営のあり方を考察。スハルト辞任で、後継のハビビは政権の正当性を確保するためスハルト的なものを全否定→その後の政治混乱で「スハルト的ならざるもの」もまた否定された→こうした振り子が揺れ動く中で、現在は自由と人権の保障、三権分立、直接選挙、地方自治など安定的な民主主義体制の要素が徐々に備わってきた。
・インドネシア国内の大資本はパーム油や石炭等の資源輸出の担い手となったが、中国から流入する廉価の工業製品との競合を避けて重工業から足を抜きつつある→資源輸出と工業製品輸入という中国との非対称的貿易の拡大、「オランダ病」現象。他方、外国資本は国内資本が投資を回避しがちな重工業で重要な役割→外資は工業化と域内水平貿易の担い手。
・農工間雇用転換を伴わない経済成長→農業にも成長エンジン。スハルト時代は、国家の意志としてフルセット主義(自国内で様々な産業分野の育成を図る)から工業化政策を推進→工業部門が成長のエンジンとなっていた(アーサー・ルイスの「二重経済論」があてはまる)。対して、現在の民主主義体制では、成長のエンジンが複数の産業に分散→こうした既存の傾向を政府は追認したと把握→フルセット主義Ver.2.0(ユドヨノ政権のマスタープラン)
・労働力、投資(国内の貯蓄率が高い)などの面では問題ないにしても、生産性に難あり。
・スハルト時代から重きをなしてきた海外留学経験者の経済テクノクラート(バークレー・マフィア)。
・国防・治安だけでなく政治・社会統治機能も国軍が担っていたかつての「国軍の二重機能」(対オランダ独立闘争で農村社会と一体になったゲリラ戦を戦い抜く中で国軍が生れたという経緯がある。また、出自や生育環境に左右されないほぼ唯一の能力主義組織が国軍だったという事情もある)→現在は政治エリートになるルートが多様化、政党政治家になるほか、企業家から政治家へ転身するというルートも目立つ。
・インドネシアにとって貿易、投資、援助のどの点でも日本は最重要国。しかし、すでにインドネシアは高位中所得国入りを目前にひかえており、日本はインドネシアを単に資源の供給源とみなすのではなく、今後は内需と技術蓄積への貢献を考える必要がある。日本ブランドを活かした消費財・サービスの提供はチャンスになる。イスラム世界を市場と考えるなら、ハラル認証制度は活用できる。

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2011年10月12日 (水)

スコット・A・シェーン『〈起業〉という幻想──アメリカン・ドリームの現実』

スコット・A・シェーン(谷口功一・中野剛志・柴山桂太訳)『〈起業〉という幻想──アメリカン・ドリームの現実』(白水社、2011年)

 起業家といったらどのようなイメージを思い浮かべるだろうか? 例えば、先日亡くなったアップルのスティーブ・ジョブス? 彼のビジネス上のエピソードは非常にドラマチックで興味は引かれる。しかし、それはあくまでも例外的な成功例であって、安易に起業家一般のイメージと結び付けてしまったら大間違い。

 起業家とはとりあえず、リスクを前提としつつ自ら新たなビジネスを始めた人々、としておこう。フロンティア・スピリッツあふれるアメリカ、そんなイメージも持たれがちではあるが、その割には他国と比べて起業精神あふれる国とは必ずしも言えないらしい。本書は、具体的な統計データをふまえてアメリカの一般的な起業家像を描き出す。典型的な起業家はどんな人々か? 生計を立てたいが、他人の下で働くのが嫌な中年の白人男性。失業したり、収入が下がったりといったときに起業するケースが多いが、雇用されているときよりも収入は下がり、長時間労働を強いられる。新たなジャンルでビジネスチャンスをねらって、というよりも、魅力がなくても熟知している前職の関連分野を選ぶ傾向がある。零細な自営業で、成長の見込みも意欲もない。こうしたスタートアップ企業は経済成長には寄与せず、新たな雇用も創出しない。

 よくよく考えてみれば意外でもなんでもない、ごく当たり前の結論。メディアで注目される神話的イメージを崩していくのが本書の目的で、ある意味、偶像破壊的な描き方とも言える。だが、現実と乖離した「神話」を基に政策立案をしたり、ましてや自身の将来展望を描くわけにはいかない。だから、起業はやめた方がいいというわけではない。華やかなイメージに振り回されずに着実な観点から「起業」の問題を考え直す点で興味深い。

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2011年9月12日 (月)

ロバート・B・ライシュ『余震(アフターショック)──そして中間層がいなくなる』

ロバート・B・ライシュ(雨宮寛・今井章子訳)『余震(アフターショック)──そして中間層がいなくなる』(東洋経済新報社、2011年)

・現代アメリカにおいて資本主義経済のシステムが健全に作用してないというのが本書の趣旨で、サブタイトルにある「そして中間層がいなくなる」というフレーズに問題意識が端的に表れている。
・一握りの富裕層のみが経済成長の恩恵を受ける一方、大半のアメリカ人が取り残されてしまう。問題は仕事がないということではなく、失業後に新しく仕事を得たとしても賃金が前の職よりも低くなる傾向がある。他方、アメリカは自国内での消費者の購買力をはるかに上回る生産能力があり、格差の拡大によって消費が追いつかない。生産と消費とが適切にリンクされるという意味での経済の基本取引が破綻してしまっている。中間層の購買力がなければ生産に見合う消費は起こらないし、格差への不満は社会的不安や排外的感情を引起しかねない、こうした問題意識を明らかにした上で、第Ⅱ部では近い将来にあり得る政治的シミュレーションを行い、第Ⅲ部では具体的な提案を示す。
・第Ⅲ部での提案:負の所得税(給付つき税額控除)→消費活動を誘発。再雇用制度の工夫→適切な所得を配分しながら職業教育。世帯収入に応じた教育振興券や高等教育の学生ローン改革→教育を受ける機会の拡大。メディケア(公的医療保険)。公共財の拡充。政策上の意思決定をゆがめている政治とカネの癒着からの訣別。
・一読してそれほど目新しい議論がされているとは思わない。むしろ本書で示される問題意識が、日本における格差社会をめぐる議論でもよく見かける論点とほぼ重なっているところに関心を持った。
・市場経済に対しての世代間の記憶の相違という論点に興味を持った。1930年代に成人した人々にとって大恐慌の記憶は生々しく、その教訓は1940~50年代に引き継がれた。彼らの孫の世代は大繁栄時代に生まれ、信用の置けない市場を政府が補完するという祖父母世代の経験を継承しなかった。むしろこの孫世代は政府の失敗と市場の成功を目の当たりしており、自由市場主義者の刺激的な主張に感化されやすくなっていた、という(70ページ)。

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