カテゴリー「韓国/朝鮮」の48件の記事

2014年9月20日 (土)

吉川凪『京城のダダ、東京のダダ──高漢容と仲間たち』

吉川凪『京城のダダ、東京のダダ──高漢容(コ・ハニョン)と仲間たち』(平凡社、2014年)

 1926年、東京。雑誌『虚無思想』を創刊したばかりの辻潤のもとを訪れた夜のことをアナキスト詩人・秋山清が「三国同盟」と題してつづっている。

 白く霧のかかった街中を千鳥足で歩いていた三人。ふと見つけた呑み屋に入ったところ、辻潤はお店の女の子にふざけて「俺は日本人のふりをしているだけで、本当は支那人なんだ」とうそぶき、秋山は朝鮮人にされてしまう。一緒にいた朝鮮人ダダイスト・高漢容は日本人として紹介されたが、そう言われても違和感がないほど彼の日本語は自然だった。辻はデタラメな中国語で奇妙な歌をうたう。高漢容から「朝鮮の歌をききたいよ」とせがまれた秋山は困ってしまって「日本暮らしが長くて忘れた」と逃げる一方、高漢容は日本語の歌を美しくうたい上げたという。屈託なく「民族」を交換してしまうのも一種のダダか。これは高漢容が旅立つ別れの日のこと。春の夜霧につつまれた悪ふざけは、哀愁を帯びたファンタジーのようにも見えてくる。

 あらゆる外的な理解を絶した地平で確かな皮膚感覚にフィットした何かを表現しようとしたダダ。本来的に事分けには馴染まないこのダダについて起源を問うのは思いっきりナンセンスな話かもしれないが、韓国文学史におけるダダは高漢容(ペンネーム、高ダダ)が雑誌『開闢』1924年9月号に「ダダイスム」を発表した時に始まり、26年末にはほぼ終わってしまったという。

 辻潤と高橋新吉は1924年に高漢容の招きで京城(ソウル)を訪問している。高漢容がダダを知ったのも彼らを通してである。「彼は一時期、辻、高橋、秋山といった日本のダダイスト、アナキストたちと同じ時代の空気と思想を共有する仲間であった。植民地時代に青少年期を過ごし、基礎的教養のかなりの部分を日本語書籍によって培った朝鮮の文学青年と、日本の文学青年との間にあった心理的距離感は、おそらく今のわれわれが想像するより、はるかに近い」(本書、11~12ページ)。もちろん、高漢容の日本語が流暢だったのは植民地支配という負の歴史的背景によるものだが、ダダという共通項を持っていた彼らは、民族的垣根を越えて語り合える関係になっていた。

 他方で、韓国ではダダへの関心が低かったこともあり、高漢容の存在はほぼ忘れ去られたに等しかったようだ。本書では「高漢容も含め、韓国のダダイストたちもまた、ダダの資質にはあまり恵まれない、「ムリしたダダ」であったように見える」(153ページ)とも指摘されている。「ムリしたダダ」という言い方は何となく納得できる。ダダの資質とは何か?と考え始めると袋小路に陥りそうだが、奇抜な表現を焦りすぎたり、権威への反抗という自意識が過剰だったりして不自然になってしまう自称ダダイストは結構いる(例えば、辻潤の評伝を書いた玉川信明を私は思い浮かべている)。いずれにせよ、ダダは韓国の文学的気質に合わなかったのかもしれない。

 本書は高漢容という忘れられた文学者を主人公に据えてダダをめぐる人物群像を描き出している。ダダという限定的な切り口ながらも、そこから日本と韓国の双方に関わる様々なエピソードが掘り起こされているのが興味深い。例えば、「半島の舞姫」こと崔承喜の兄・崔承一は作家であり、この崔承一と高漢容、辻潤にも接点があったことは初めて知った。辻は京城を訪問した折にデビュー前の崔承喜に会っていたらしい。また、雑誌『モダン日本』をヒットさせた馬海松、韓国で「近代農業の父」といわれる禹長春(閔妃暗殺事件に関与した禹善範の息子)などとも交流があったという。

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2013年9月 4日 (水)

井上勝生『明治日本の植民地支配──北海道から朝鮮へ』

井上勝生『明治日本の植民地支配──北海道から朝鮮へ』(岩波現代全書、2013年)

 1995年7月、北海道大学の古い歴史的な建物で段ボール箱の中に無造作に入れられた6体の頭蓋骨が見つかった。そのうちの一つには「東学党首魁」と墨で書かれており、添えられていた書付には1906年に韓国珍島で「採取」されたと記されている。1895年、日本軍の掃討作戦により東学農民軍は珍島まで追い詰められていた。その時に殺されてさらし首となった指導者の遺骨であった。こんなものを誰が持ってきて、なぜここにあったのか? 杜撰なのか意図的だったのか、北大には記録がないため事情は分からない。調査委員となった著者は韓国側の関係者と連絡を取りながら遺骨を返還し、背景事情を調べ上げていくが、それは同時に近代日本の暗部に否応なく直面する旅であった。

 書付には明治39(1906)年の日付があり、署名は佐藤政次郎となっている。佐藤は札幌農学校出身の農業技師で、この頃、珍島にも近い木浦へ韓国統監府技師として赴任していた。目的は棉花栽培の指導であったが、現地の農業慣行を無視して無理やり土地を収用するような日本の棉花栽培事業に対して朝鮮農民の反発は当然ながら根強い。そこには東学農民軍が虐殺されたことへの憤怒も重ねあわされていたはずだ。実際、棉花栽培試験場の職員は銃を携行し、警察官や守備兵に護衛されるものものしい出で立ちで綿花栽培の「奨励」事業にあたっていたという。そうした雰囲気の中で、かつてさらし首となった東学農民軍指導者の遺骨が持ち去られたのである。頭蓋骨の形状で民族的優劣を判断しようとする骨相学など疑似科学的な関心があったのかもしれない。

 札幌農学校と言えばキリスト教的ヒューマニズムというイメージが強いが、他方で植民地当局の幹部を多数輩出したことでも知られている。例えば、新渡戸稲造は後藤新平の招きで台湾糖業の基本プランを立案しており、佐藤政次郎の赴任先であった韓国にも棉花事業の視察に行っている。札幌農学校には植民政策論の講座があった。日本人の農業拡大を意図した佐藤昌介の植民論に比べれば、「文明の伝播」を唱導した新渡戸のそれはまだ人道主義的色彩がうかがえるのかもしれない。他方で、新渡戸は韓国視察時に、停滞した過去の国といった感じの印象を記し、すでに亡国の状況にあるのだから急進的な植民化を進めるよう提案していた。遅れた民だから、植民化は正当化されるという考え方である。

 なお、本書では台湾について言及されていないが、新渡戸は台湾糖業の振興策を立案した際にも、児玉源太郎・台湾総督に向かって、農民の意識改革を促すため反対があってもフレデリック大王のように果敢に断行するように、と語りかけていたが、同様の発想で一貫していたことが分かる。人道主義的な植民論として矢内原忠雄から敬意を表され、台湾糖業の父として現在の台湾で評価されている新渡戸のこうした別の一面をどのように整合的に捉えたらいいのか、私は少々気にかかっている。

 そもそも、札幌農学校のお膝元である北海道では1892年に十勝アイヌ民族の請願、1894~95年には中川郡アイヌ民族組合の結成、といった流れでアイヌ民族運動の進展が見られていたが、日本政府側は「無知蒙昧」な民族に過ぎないと取り合わなかった。ちょうど本書の発端となった遺骨の主が東学農民戦争で殺害されたのと同じ時代である。相手に対する蔑視感情を基に植民支配を正当化しようとする発想は時代的にも共振していたことがうかがわれる。

 本書の最終章では、徴兵されて東学農民戦争の鎮圧に動員され、あまりな殺戮のあり様にもだえ苦しんだ日本の一般人の姿も描き出されている。「近代」は先進的な文明と後進的な野蛮という二項対立の中で自らの優位を強調する一方、先進的な兵器や組織は一方的な殺戮をも可能とした。こうした形で近代へと展開していく時代状況の中、不幸な邂逅をせざるを得なかった問題をどのように捉えていくのか、論点はまだまだ尽きない。

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2013年8月 4日 (日)

【メモ】曺喜昖『朴正煕 動員された近代化──韓国、開発動員体制の二重性』

曺喜昖(李泳釆・監訳・解説、牧野波・訳)『朴正煕 動員された近代化──韓国、開発動員体制の二重性』(彩流社、2013年)

・韓国政治における保守派と進歩派の対立は、朴正熙政権に対する評価と密接に連動している。保守派は韓国社会を近代化へ導いた「成功した指導者」として彼の正の側面を礼賛する一方、進歩派からは人権弾圧を行った強権的政権として負の側面が厳しく指弾される。双方が自らの朴正熙政権イメージに合致する一面的な言説ばかりを流通させた結果、分裂した視点が並立してしまっているという。こうした不毛な状況を踏まえ、著者自身は進歩派ではあるが、双方の対立的視点を建設的に取り込みながら朴正熙時代を考察する理論的枠組みを構築しようと試みている。

・近代化へ向けて国家の主導により国民を巻き込んでいく体制を本書では「開発動員体制」と定義づけ、資本主義や社会主義といったイデオロギー上の相違にかかわらず一般的な概念として応用可能な分析視角になり得るという。先進国を念頭に置いて「欠損国家」「欠損国民」という自己認識を持ち、近代化・開発へ向けた民衆の要求に既存の体制が応えられていない状況の中、「正常な状態」へと国家主導で国民が動員される。

・支配の同意的基盤を構成するために動員が行われるが、「強圧」か「同意」かという二者択一のゼロサム・ゲーム的に捉えるのではなく、「強圧」から自発的な「同意」まで幅広いスペクトラムの中で分析しようとするのが本書の特徴である。上からの社会の再組織化によって社会が「近代」化されると同時に、変化を経験した社会は開発動員体制との間に新たな緊張や矛盾を生じさせる。つまり、開発が成功した一方、それがもたらした矛盾で犠牲となった人々の抵抗意識→強圧への反発、民衆の主体化→開発主義の同意創出効果が弱まるというプロセスが見られる。圧縮的な成長を目指したがゆえにもたらされた圧縮的な矛盾が原因となり、成長の力学と危機の力学とが併存する二重性(矛盾的複合性)として朴正熙政権が支持された同意基盤の変動が分析される。

・1950年代は原初的な反共主義が動員の根拠となった。1960年代の朴正熙政権は反共主義を継承しつつ、近代的な開発主義と結びつけることで支配の同意的基盤を拡充する。この「動員された近代化」の中で強圧と同意は二重の相貌として存在した。1972年以降の維新体制では同意的な言説が根拠不足となり、強圧が全面化→同意の分裂の拡大という悪循環が見られるようになった。

・グラムシのヘゲモニー論が援用されている。1960年代の開発動員体制では、開発主義的言説による支配集団の思考の普遍化→産業戦士としての「国民」という集団的アイデンティティ→経済的基盤におけるヘゲモニー。1970年代の維新体制では、開発主義プロジェクトの亀裂→「国民」が分裂し、「民衆の主体化」→階層・階級間の利害関係の接合に亀裂。

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2013年7月 7日 (日)

李学俊(澤田克己訳)『天国の国境を越える──命懸けで脱北者を追い続けた1700日』

李学俊(澤田克己訳)『天国の国境を越える──命懸けで脱北者を追い続けた1700日』(東洋経済新報社、2013年)

 警備兵の監視の目をかいくぐって中朝国境を渡り、公安の摘発におびえながら中国に潜伏、何とか東南アジアなど第三国に脱出して韓国大使館に駆け込んでも、外交問題への懸念から必ずしも受け入れられるわけではない──いくつもの関門をくぐり抜けたとしても成功の見通しは覚束ない過酷な脱出行。そうした文字通り命懸けの脱北者支援活動に同行取材した記録である。

 そもそもが非合法な活動であるため、欲得や裏切り、身を切られるような悲しい別れ、人間の様々な姿も見せつけられる。タフな精神力と決意がなければ、やっていけるものではない。そうした中、二つのタイプの人物が目に付く。第一に、キリスト教の伝道師。本人もギリギリの生活をしている上に借金を重ね、すべてを持ち出しながら命懸けの活動に従事する使命感。第二に、現地のブローカー。麻薬密売など非合法ビジネスで荒稼ぎをしていたが、国境越えのルートを熟知しているため脱北者を連れて行くよう依頼された。当初はもちろん報酬目当てだったが、脱北者の苦境をじかに聞き知り、脱北に成功した時の彼らの晴れやかな表情を見たときの達成感から、いつしか利害を度外視して協力するようになったという。

 中国潜伏中に生れた脱北者の子供たちには国籍がない。そこで、欧米の理解ある家庭へ養子に出す活動も行われているが、倫理面も含めて色々と問題はある。また、各国大使館・領事館へ脱北者を集団駆け込みさせ、その様子を撮影して配信するなど、いわゆる企画脱北には政治的パフォーマンスだという批判もある。しかしながら、打てる手が限られている中、毀誉褒貶を度外視してなりふり構わずやれることをやるしかない、そうした苦境は無視できない。

 脱北者が何とか韓国にたどり着けたとしても、安住の地にはならない。政治的判断としての受け入れと、実際に社会的に受け入れられるかどうかは別問題であり、脱北者が韓国社会で味わう疎外感が問題化している。同胞から余計者扱いされるくらいなら第三国で差別されるほうがまだマシだと欧米へ渡ったり、北朝鮮側の工作に応じて戻ってしまうケースすらあるのだという。国境を渡っても、その先には別の形で不条理が待っている──北朝鮮というブルータルな体制の闇は深い。

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2013年6月20日 (木)

リ・ハナ『日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩』

リ・ハナ『日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩』(アジアプレス出版部、2013年)

 日本で暮らす「脱北者」の話──となると、何か重そうで身構えてしまうかもしれない。ところが、本書でつづられているのは、異国の環境、気負い立った大学生活に馴染めない女子大生の悩み。もともとはブログを書籍化したものである。「脱北者」の問題はどうしても北朝鮮の政治体制における負の側面の象徴として政治的言説に絡め取られやすい。しかし、友達に相談するような自然体は、こうした次元とは関係なく、彼女も自分も身近なところで一緒に暮らしている者同士なんだという気持ちにさせてくれる。

 著者は中朝国境の町、新義州に生まれた。両親は日本生まれ、祖父母は韓国・済州島の出身。帰国事業もそろそろ下火になりつつあった1970年代の後半に一家は北朝鮮へ移住した。日本での学生生活を謳歌していた父は嫌がったが、両親に押し切られ、やむなく同行したのだという。医科大学を卒業して医者となった父だが、北朝鮮での生活には早くから幻滅しており、体をこわして40歳代の若さで亡くなった。その後、親戚が罪を犯したため農村への強制移住が決定(北朝鮮には前近代的な連座制がある)、絶望した母は子どもたちを連れて中国へと向け命がけで国境の川を渡る。脱北に成功はしたものの、公安に見つかったら北朝鮮へ強制送還されかねない。中国東北地方で転々と生活するうちに家族ともはぐれてしまった。不安におびえ、生活に追われ、将来も見えない日々。やがて来日し、関西の大学に通うことになった。なお、来日の経緯は公にすると差しさわりがあるようで、詳細は語られていない。

 折に触れて様々な人々の助けがあった一方、やはり個人レベルでは解決のできない問題も大きい。彼女の場合、幸いにしてUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の奨学支援プログラムによって大学に進学できたが、難民として異国にある人が自前で生活できるよう環境整備を進める上で公的な支援が望まれる。

 「私は脱北者です」とカミングアウトするのもなかなか難しい。韓国籍を取得したものの、胸を張って「韓国人です」とも言いづらい。自分は一体、どこの国の人間なんだろう?──戸惑いがいつも脳裏から離れない。北朝鮮の過酷な抑圧体制は確かに悲惨である。他方、そうした中でも日々の生活には喜びや悲しみがあり、甘く切ない思い出があった。生まれ育ち、気持ちに馴染んだ故郷はやはり忘れがたいものだろう。いつの日か、彼女が大手を振って故郷へ戻れる日が来るのだろうか? その可能性は少なくとも近い将来には見込めないだけに、なおさらのこと、この日本で一生懸命に生きて欲しいと思う。

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2012年10月15日 (月)

藤原辰史『稲の大東亜共栄圏──帝国日本の〈緑の革命〉』

藤原辰史『稲の大東亜共栄圏──帝国日本の〈緑の革命〉』(吉川弘文館、2012年)

 価値中立的で没政治的のように思われる科学技術。しかし、それが置かれたコンテクストによっては逆に支配/被支配の関係性を固定化させる政治的道具となりかねない逆説をどのように考えたらいいのか。本書は、近代日本における稲の品種改良に着目し、それを植民地へ普及させていく上で農学者の果たした役割と言説を分析している。

 植民地各地にも農学者が赴任して品種改良に着手していたが、朝鮮半島ではあまりうまくいかなかったらしい。本書で取り上げられる永井威一郎(荷風の長兄)は農学者としてだけでなく科学啓蒙書でも知られていたそうだが、「米食民族」対「パン食民族」といったレトリックで「大東亜共栄圏」のイデオロギーを振りかざしていたことが際立つ。科学技術への自負と植民地の現場における厳しい現実との深い溝に直面したとき、それを無理やり乗りこえようとしてこうした非科学的な自民族中心主義に寄りかからざるを得なかったと指摘される。

 対して、台湾では磯永吉の「蓬莱米」が成功を収めたことはよく知られている。ただし、統計データを見ると蓬莱米の生産高が一定レベルまで延びた一方、在来米も併存し続けていたのが興味深い。蓬莱米を生産するにも肥料など生産費がかさむこと、自家用には高価であること、それからビーフンなどの食習慣に合わなかったことなどから、現地民の拒絶感は消えていなかったと指摘される。ただし、蓬莱米は換金性が高いため、技術的な優位性でそうした拒絶感を強引に棚上げすることで普及していった。本書での磯永吉への評価は少々辛い。それは、たとえ本人は善意であっても、科学技術至上主義的な態度が無媒介で現実政治に接続されたときに起こり得る問題群について無頓着であったことを彼に代表させて批判していると解される。

 こうした文脈の中で、「緑の革命」の限界という問題にもつながってくる。蓬莱米などの品種改良は肥料に高反応であり、生産農家は肥料に依存せざるを得なくなった。それは、肥料を製造する化学工業と密接につながる農業システムへの転換を意味する。つまり、戦後になってより顕著となった多国籍企業(例えば、モンサント社)によるグローバルな食支配のひな型が、当時の「帝国」日本で先駆的に見出せるとする指摘が本書の基本的な問題意識をなしている(エコロジカル・インペリアリズム=生態学的帝国主義)。

 磯永吉が杉山龍丸と付き合いがあったというのが目を引く。杉山はインドで農業指導を行っていたが、その時に蓬莱米の種を持って行ったらしい。杉山龍丸の父親は夢野久作、従って祖父は杉山茂丸であり、玄洋社人脈に属する。また、蓬莱米は戦時下、インドネシアでの農業指導でも用いられた。アジア解放という大義名分や国策としての「南進」、すなわち「アジア主義」的感覚が、蓬莱米を媒介として戦後になっても別の形ながら連綿と続いていたところに興味を持った。

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2012年7月22日 (日)

金賛汀『北朝鮮建国神話の崩壊──金日成と「特別狙撃旅団」』

金賛汀『北朝鮮建国神話の崩壊──金日成と「特別狙撃旅団」』(筑摩選書、2012年)

 思想的な淵源を少なくとも公式見解としてはマルクス・レーニン主義に求めている「共産主義」国家での三代世襲という異様な光景は悪い冗談としか言いようがないが、そんな当たり前なことを今さらあげつらっても仕方がない。金日成の権威の絶対性は日本の植民地支配から朝鮮人民を解放したという公式歴史観として表現されており、金正日への後継にはその抗日戦争の最中に白頭山で生誕したという神話性が装われていた。そうした延長線上に現在の金正恩体制がある。

 何よりも金日成が自力で抗日戦争を戦い抜いたことがナショナリズムとしての正統性の根拠となっている。しかし、実際には金日成たちは日本軍の掃討戦に持ちこたえられずソ連に逃げ込んでいた。再び朝鮮半島に戻ってきたのは日本降伏後の1945年9月になってからのことで、元山港に密かに降り立った彼はソ連の軍服を着ていた。所属は「極東ソ連軍第88特別狙撃旅団」。当然ながら彼のバックにソ連の意向があった。もちろん、自力で「日本帝国主義」を倒したわけではない。そうした経緯は北朝鮮における公式文書では一切隠されてきた。

 本書は、当時の金日成を知る人々からの聞き書きによって、北朝鮮の現体制を根拠づけてきた「建国神話」を突き崩していく。著者自身、かつて朝鮮総連の活動家であったことから自身が騙されてきたことへの怒りが本書執筆の原動力となっているが、そうした作業は「神話」にすがって生きている人々にとっては死活問題であり、著者は朝鮮総連からだいぶ嫌がらせを受けたらしい。

 抗日戦争時の金日成について空白が多いことは以前から知られていたことなので本書を読んだからといって特別に驚くようなことはないが、キーパーソンへのインタビューに至る経緯など本書の成立過程そのものも描きこまれているところが興味深い。例えば、金日成の権力掌握過程で起こった苛烈な粛清を逃れた兪成哲は思いのたけを述べる。あるいは、中国共産党幹部の陳雷(後に黒龍江省長)と結婚して中国に残った李敏(黒龍江省政治協商会議副議長)は、身分的にはエリートである以上、中国共産党の上層部の諒解を受けなければならないはずだが、そうした彼女までも本書のインタビューに協力していることには、中国側も北朝鮮のいびつな現状に不快感を抱いているであろうことがうかがわれる。

 かつては同盟国を慮って北朝鮮「建国神話」に協力してきた中ソ両国だが、ソ連崩壊によってロシアにおける金日成関連史料は明るみに出されており、改革開放以降の中国でも事情は同様である。こうしたあたり、「建国神話」の是非以前に、北朝鮮を取り巻く国際環境そのものが大きく変わったことが改めて実感される。

 なお、余談だが、ソ連の所属部隊でソ連系朝鮮人は「さん」「同志」といった意味合いで互いに「ガイ」と呼んでいたらしい。もともとはピョンヤン近辺で「犬」とか「奴」とかの意味で、ソ連上層部と直結するソ連系朝鮮人に対する侮蔑的な意味で使われていたが、ソ連系朝鮮人自身はそうとは知らずに使っていたそうだ。後に北朝鮮の副首相となったものの粛清された許哥誼(ホガイ)は、まさに「許ガイ」をそのまま名前にしてしまったらしい。ホガイについてはアンドレイ・ランコフ(下斗米伸夫・石井知章訳)『スターリンから金日成へ──北朝鮮国家の形成 1945~1960年』(法政大学出版局、2011年→こちら)などを参照のこと。

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2012年7月17日 (火)

木宮正史『国際政治のなかの韓国現代史』

木宮正史『国際政治のなかの韓国現代史』(山川出版社、2012年)

 冷戦構造において南北分断という形で成立した韓国と北朝鮮は、悲願の南北統一に向けてどちらが主導権を握るのか、互いに自国の政治的正統性を主張して競争しあう関係にあった。1940年代において両者のスタートラインはほぼ同じ、むしろ日本の植民地統治期に形成された重工業は北部に偏り、南部は貧しい農村地帯であったことを考えると北朝鮮の方が有利だったとすら言えるわけだが、現在では韓国の圧倒的な優位となっていることは周知の通りである。

 なぜこれほどまでに差が開いていったのか? 同盟の地政学的要因や指導者の個性など色々な理由が考えられるにせよ、政治体制のあり方が決め手となっているのは間違いない。本書は韓国現代政治史の概論的内容となっているが、適宜、北朝鮮との比較についても指摘される。①冷戦から脱冷戦への移行、②採用された経済発展戦略の相違、③権威主義体制・開発独裁体制から民主主義体制・市場経済への移行という三点に焦点を合わせながら、韓国政治がたどってきた動向を分析し、その中から韓国が優位に立った要因について考察が進められる。

 様々な要因がからまっているので結論的に言うのは難しいが、本書は構造的な要因として次の三点を指摘している。

 第一に、北朝鮮が「自力更生」路線を掲げ自らの「主体」性を強調していたのに対し、韓国は国際経済との連携を経済発展戦略として採用した点が挙げられる。とりわけ朴正熙政権は北朝鮮と比べて軍事的・経済的に劣勢にあるという認識を持っていたため、経済発展によって体制競争に勝とうとした。それは国際市場への輸出というだけでなく、同盟国アメリカからの援助、さらに日本との国交正常化によって経済的資源の移転を促し、そうしたリソースを活用しながら輸入代替工業化と輸出指向型工業化を両立させる複線型発展モデルが進められた。国際分業体制への参入によるメリットを享受する一方、一時期は海外への従属的関係に陥った面もあったにせよ、「自力更生」路線の北朝鮮とは異なり、その後の飛躍的な経済発展につながるバネとなった。

 第二に、北朝鮮が「一つのコリア」にこだわったのに対し、韓国は1970年代以降、南北分断という現状認識から出発すべきという「二つのコリア」政策を取り、蓄積された経済力も相俟って、その後の北方外交の展開、中ソとの国交正常化、南北国連同時加盟といった外交的成果を収めることができた。他方で、北朝鮮側の外交的成果ははかばかしくない。

 第三に、指導者の世襲による全体主義的体制を取る北朝鮮が「遺訓」によって政策的オプションに大きな制約がかけられている一方で、政権交代が常態化した韓国では政策変更に対する正当性の取り付けが比較的容易であった。それは、かつてはクーデタによる政権交代という異常な形を取ることもあったが、1987年にそれまでの権威主義体制から本格的な民主主義体制へと移行してからは選挙による政権交代がすでに制度化されている。また、権威主義体制の内部でも政策変更はしばしば実行されていた。

 こうした両国の対称性は、政治制度のあり方そのものが国民の運命についても明暗を分けてしまうことを改めて感じさせる。1970年代の段階では両者のパワー・バランスにそれほどの開きがなく、対話路線の可能性も見られた。しかし、その後は両者の格差は拡大するばかりで、北朝鮮は建前として「統一」を掲げる一方、韓国主導の吸収統一を避けて現体制の生き残りを目指す方向で政策目標が再設定されたと考えられる。金大中政権の宥和政策も、李明博政権の比較的強硬な政策もいずれも奏功しなかった背景にはそうした事情があるようだ。 

 なお、関心を持った点をいくつかメモしておくと、
・近年における李承晩の再評価の傾向:①植民地近代化論への反論として、李承晩政権期の国家資本主義を再評価。②北朝鮮に対して韓国が完全に優位に立った現時点から見ると、李承晩の単独政府樹立という選択は間違っていなかった。③李承晩政権と朴正熙政権とを同じ保守政権として連続的・段階的に理解する位置づけ。
・朴正熙政権の独裁や人権弾圧にもかかわらず彼の評価が高いのは、「ナショナリスト」としての側面。彼は、「反日」ナショナリズムではなく、「用日」「克日」ナショナリズム→韓国の国益のために日本を利用するというリアリスティックな思考で一貫していた。
・日韓国交正常化をめぐる日韓双方の相違:日本での反対運動は「脱植民地化」に向けられず、「冷戦」へ巻き込まれることへの懸念が中心だった。対して韓国では冷戦体制に組み込まれていることは自明なのでこの点は問題視されず、「植民地責任」が清算されないままで日本へ従属化してしまうという点で批判。

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2012年4月22日 (日)

内海愛子・村井吉敬『シネアスト許泳の「昭和」──植民地下で映画づくりに奔走した一朝鮮人の軌跡』『赤道下の朝鮮人叛乱』

 「大東亜共栄圏」という名目で日本が対外的侵略を活発にしていたあの時代、歴史のうねりに翻弄されるかのように異郷へたどり着き、複数の「人生」を生きた多くの人々がいた。内海愛子・村井吉敬『シネアスト許泳の「昭和」──植民地下で映画づくりに奔走した一朝鮮人の軌跡』(凱風社、1987年)が描き出すドクトル・フユンこと許泳もそうした一人である。

 朝鮮半島に生まれた彼は日本へ渡り、日夏英太郎と名乗る(詩人の日夏耿之介にあこがれていたようだが、由来はよく分からない)。無声映画からトーキーへの移行期にあった映画界に飛び込み、実力勝負の業界で彼は脚本を書きながらチャンスを待つが、ある事件が運命を変えた。姫路城のロケで爆発事故を起こして起訴され、朝鮮人であることが公にされてしまったのである。映画製作現場には比較的リベラルな考え方を持っている人たちが多かったので映画への情熱さえあれば彼が朝鮮人だからと言ってそれほどの差別を受けることはなかったかもしれない。そもそも何人かは彼が朝鮮人であることに気づいていたが、彼が隠し通そうとしている気配を感じて何も言わなかったという。いずれにせよ、そうした差別される側にあった者の心情的な機微については軽々なことは言えない。

 1941年、彼は京城(ソウル)へ行く。「内鮮一体」が叫ばれる時代状況の中、映画作りのチャンスをつかもうと朝鮮総督府や朝鮮軍司令部に働きかけ、国策映画「君と僕」の製作に漕ぎ着けた。李香蘭をはじめ有名映画人を動員した大掛かりな作品であったが、まだ無名の許泳では製作過程のコントロールが難しく、また国策映画である以上、興行的にも評判は良くなかったらしい。だが、政府や軍の意向に沿う大作映画を作ったという実績は残った。時あたかも太平洋戦争が始まり、1942年3月には日本軍がジャワに上陸するというあわただしい政治情勢に突入しつつあった。彼は次なる映画づくりのチャンスを求めて軍の宣伝班所属としてインドネシアへ赴き、軍の謀略映画「豪州への呼び声」を製作する。

 1945年8月、日本の敗戦。インドネシアは独立への気運に沸き立ち、許泳自身の祖国もまた独立が決まった。彼は在ジャワ朝鮮人民会の結成に向けて日本軍側と交渉し、政治犯として捕まっていた高麗独立青年党の8人の釈放にも尽力した。ようやく朝鮮人として堂々と生きていけるはずだった。しかし、彼は国策映画を積極的に作ってきた「対日協力者」という負い目があるし、日本語に比べて朝鮮語があまり上手ではなかったらしく、結局、1945年12月頃には朝鮮人民会を離脱、インドネシアで生きていく決意を固めた。その後は映画や演劇の仕事を通してインドネシア独立戦争に参加することになる。1952年9月9日、ドクトル・フユンとしてジャカルタで死去。44年の短い生涯であった。

 インドネシア独立戦争に身を投じた日本人のことは比較的よく知られている。「アジア解放」という大義に殉じた者もいれば、戦中の残虐行為への負い目から戦犯裁判にかけられるのを恐れた者もいたり、思惑は様々であった。ところで、日本軍としてインドネシアへ上陸したのは日本人ばかりではない。俘虜収容所監視要員として植民地支配下にあった朝鮮半島や台湾からも軍属が連れて来られていた。日本人と現地人や捕虜との間に立った彼らの立場は複雑で、それぞれに理不尽な運命に引きずり回されることになった。

 このあたりについては、内海愛子・村井吉敬『赤道下の朝鮮人叛乱』(勁草書房、1980年)が戦争末期、日本軍政下ジャワで独立を求めた朝鮮人軍属たちの足跡を掘り起こす調査として労作である。朝鮮独立を目指した青年たちはひそかに高麗独立青年党を結成、1945年1月には叛乱を起こして失敗、自決するという事件も起きている。他方で、捕虜虐待の容疑をかけれらて戦犯裁判で処刑された人もいた。

 本書では梁七星(日本名:梁川七星、インドネシア名:コマルディン)という人物の名前を聞いたことが調査のきっかけになっている。彼はオランダ軍再上陸に抵抗するインドネシアの人々のゲリラ戦に身を投じた一人で、戦死した後、独立英雄として丁重に埋葬された。ただし、それは「元日本兵」としてであった。彼が朝鮮人であったことをインドネシア側は知らなかった。こうした形で行方の分からなくなった朝鮮人や台湾人が他にもいたであろうことは想像に難くない。

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2011年12月19日 (月)

金正日死去の一報を受けて何冊か

 今年は日本も世界も色々なことがあったなあ、と感慨に浸っていた年の瀬、今度は金正日死去の一報。「強盛大国の大門を開く」はずの2012年を目前にして雲隠れ、「公約」延期の口実になるんだろうなあ、と思いつつ、東アジア情勢が不安定な状況に陥りそうな可能性にも思い当たってやや不安な気分にもかられたり。取りあえず、最近読んだ北朝鮮関連本について再掲。

・平井久志『なぜ北朝鮮は孤立するのか──金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書、2010年)、アンドレイ・ランコフ(鳥居英晴訳)『民衆の北朝鮮──知られざる日常生活』(花伝社、2009年)、綾野(富坂聡編訳)『中国が予測する“北朝鮮崩壊の日”』(文春新書、2008年)→こちら
・アンドレイ・ランコフ(下斗米伸夫・石井知章訳)『スターリンから金日成へ──北朝鮮国家の形成 1945~1960年』(法政大学出版局、2011年)→こちら

 金正日という人は単なる世襲のお坊ちゃんではなかった。彼自身が若い頃から身内との権力闘争を勝ち抜いて自らの手で権力を勝ち取り、党や軍をじかに掌握してきたところに独裁体制を維持してきた威信があった。従って、息子に権力を譲り渡したからと言ってスムーズにいく保証は全くなく、次の権力闘争が必ず起こるだろうし、その余波として強硬論者が不測の事態を引き起こす可能性すらある。

 北朝鮮のソフトランディングを進めるにはやはり経済改革が必要であるが、一貫して標榜している先軍体制は民生部門を圧迫している。他方で、この先軍体制によって住民の不満を力ずくで押さえ込んでようやく現在の体制が維持されている以上、制度改革に着手したら押さえ込まれてきた不満が爆発し、そのままなし崩し的に体制崩壊へとつながってしまう可能性に上層部は気付いている。それでもなおかつ体制内部での抵抗を抑えながら変革へとつなげることができるのは、圧倒的な独裁的権限を持つ金正日ただ一人である、と平井氏は指摘していたが、その可能性すら消えてしまったことになる。

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