カテゴリー「韓国/朝鮮」の22件の記事

2009年11月27日 (金)

菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業──「壮大な拉致」か「追放」か』

菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業──「壮大な拉致」か「追放」か』(中公新書、2009年)

 北朝鮮問題にはある種の “情緒的”な主張が絡まりやすく難しいテーマであるが、本書は1959~1984年まで続けられた在日朝鮮人の帰国事業について資料に基づいて事実関係を整理する構成となっているので安心して読み進められる。

 プッシュ要因とプル要因から説明される。前者としては日本での差別待遇や貧困、日本政府の「厄介払い願望」など、後者としては北朝鮮側の政治的思惑による「地上の楽園」という宣伝(日本のマスコミによる好意的な報道も後押し)、朝鮮労働党の意を受けた朝鮮総連による積極的な勧誘活動などが挙げられ、プッシュ・プル両方の要因が合わさって帰国願望が高められた。帰国者の大半は38度線より南の出身だが、韓国の政治的混乱が知られる一方で北朝鮮については肯定的な情報しか伝わってこなかったこと、朝鮮総連の熱心さに比べて韓国政府の対応は冷たかったことも背景にある。

 北朝鮮の虚像と実態との乖離は帰国者を絶望に陥れた。北朝鮮国内の生活水準からすれば比較的優遇もされたらしいが、「地上の楽園」という宣伝を真に受けて来た人々からすれば、この落差はどうにもならない。身なりの良い彼らは現地の人々からは嫉妬され、さらには差別の対象になる。不満を漏らせば当局の監視対象となり、場合によってはスパイ容疑もかけられる。日本での差別から逃れて来たにもかかわらず、再び抑圧される立場に落とされてしまった悲運には何とも言葉がない。

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2009年10月31日 (土)

城内康伸『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男──「東声会」町井久之の戦後史』、森功『許永中──日本の闇を背負い続けた男』

城内康伸『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男──「東声会」町井久之の戦後史』(新潮社、2009年)

 戦後間もなくの暴力団抗争や朝鮮総連と民団との対立といった話題の中で東声会の名前をよく見かけ、気になっていたので本書を手に取った。町井久之こと鄭建永(1923~2002年)の生涯を通して描かれた戦後日韓関係の裏面史である。力道山、児玉誉士夫、朴正熙政権をはじめ様々な人脈関係が見えてくるのが興味深い。

 冒頭、町井の書斎のシーンから始まるが、哲学や美術に関心を寄せる彼の内面と暴力団の親玉という世間的なイメージとのギャップが印象に残る。本当は画家になりたかったが、成り行きから“任侠”の世界に飛び込まざるを得なかったという。東声会は朝鮮総連への対抗上、東洋倫理思想を基盤に反共を旗印とした政治運動のつもりで組織したらしいが、武闘抗争で頭角をあらわすにつれて暴力団として一般に認知されてしまった。

 町井の関連企業や団体に“東亜”という言葉が入っているのが目を引く。彼は若い頃、石原莞爾の東亜連盟に共鳴していた。東亜連盟は各民族の政治的自治と対等な協力関係をスローガンとして掲げていたため朝鮮人にも信奉者が多かったことは阿部博行『石原莞爾』(法政大学出版局、2005年→こちら)で知った(町井に東亜連盟の思想を伝えた曺寧柱は、極真空手の大山倍達に空手の手ほどきをしたことでも知られている。大山も東亜連盟に参加していた)。現在の視点からは東亜連盟を全面的に肯定するのは難しいかもしれない。しかし、日本では差別を受けながらも日本名を名乗って生きざるを得なかった一方で、韓国への愛国心を両立させるという矛盾、そこに何とか一つの納得を与えようとする町井たちの葛藤の受け皿となっていた点については再考の余地があるようにも思われる。

森功『許永中──日本の闇を背負い続けた男』(新潮社、2008年)

 本書の大半では戦後日本における政財界の裏人脈が細かに描写される。その中で、差別、スラムといった生い立ちの原風景を起点に、チンピラから身を立てのし上がっていく許永中(1947年、大阪生まれ)の軌跡をたどる。正規のルートでは出世などおぼつかず、裏社会に活動の舞台を求めねばならなかったわけだが、「俺は悪漢ではあっても詐欺師ではない!」という彼のプライドが目を引く。許は町井久之にあこがれていたのではないかという指摘もあった。“日韓の架け橋”を夢見て、日韓間に就航するフェリー会社の社長になろうとしたあたりには町井と共通したこだわりも見出される。

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2009年7月27日 (月)

長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係──朝鮮独立運動とアメリカ 1910─1922』

長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係──朝鮮独立運動とアメリカ 1910─1922』(平凡社、2005年)

・日本の韓国保護国化に際して、Th・ルーズベルトは日本を支持(南下政策をとるロシアへの牽制)→朝鮮人は民族自決を掲げた(とされる)ウィルソンに対してどのような働きかけをしたのか、アメリカ側はどのような対応を取ったのか?
・1911年、寺内正毅総督暗殺計画の容疑→キリスト教徒・新民会員を中心に一斉検挙→百五人事件
・ウィルソンの14か条にある「民族自決主義」→抽象的な理念の一方で、具体的な問題に応じて差がつけられていた(自治能力があると認定できるか、アメリカにとって有益かという基準)→朝鮮に適用される可能性は初めからなかった
・三・一独立運動の直前、李承晩はウィルソン・パリ講和会議宛に請願書→委任統治を求める→突っ返された。李承晩の独断行動は他の運動家から反発を招き、別々の行動→分裂ぶりがアメリカ側に印象付けられてしまう。
・金奎植→パリ講和会議に働きかけ→成功せず。
・漢城政府、露領政府、上海政府→統合へ。フィラデルフィアで「韓人自由大会」(徐載弼ら)
・三・一運動→アメリカ人宣教師は驚く(日本は朝鮮人主導だとは思わず、アメリカ人宣教師が唆したと疑った)→日本当局の残酷な弾圧(ex.提岩里事件)→傍観できない(No Neutrality for Brutality ただし、あくまでも残虐性への批判であって、日本の朝鮮統治そのものを否定したわけではなかった)→アメリカ国内でも日本批判の声(ただし、アメリカ政府は日本の国内問題と理解→対立は避ける態度)
・長谷川好道総督の辞任→後任総督をめぐって原敬と山県有朋の間で綱引き:原は政務総監・山県伊三郎(山県有朋の養子)を後任総督とすることによって文官政治に道を開こうとした→しかし、陸軍の実力者である山県有朋は文官総督に反対→妥協案として海軍の斎藤実総督(政務総監には内務省出身の水野錬太郎)→武断統治終わり
・文化政治:物理的な暴力は相対的に抑制されたが、「一視同仁」のスローガンで同化政策。
→アメリカ側は基本的に満足し、朝鮮問題に対する無関心に戻った。
・しかし、独立運動は終わっておらず、満洲・シベリアで活発化→間島出兵
・1921年、ワシントン会議→李承晩たちの働きかけは失敗→コミンテルンに働きかけようとする独立運動家たちが活躍し始める→1922年、モスクワの「極東労働者大会」に呂運亨・金奎植らが出席。出席者のうち、日本代表団は民族主義を否定して社会主義の立場であるのに対し、朝鮮代表団には高麗共産党との関わりを持つ者が大半であっても独立優先→民族主義的な色彩が強かった。

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2009年7月26日 (日)

金鳳珍『東アジア「開明」知識人の思惟空間──鄭観応・福沢諭吉・兪吉濬の比較研究』

金鳳珍『東アジア「開明」知識人の思惟空間──鄭観応・福沢諭吉・兪吉濬の比較研究』(九州大学出版会、2004年)

・近代東アジアにおける「伝統と近代」の異種交配現象という視点から三人の代表的知識人を比較思想史的に検討する。
・欧米文明=普遍・正という保証はない→近代化を成功とみなすとしても欧米近代由来の特殊的な負も導入された→清・朝鮮の近代化の失敗には欧米に特殊的な負の導入への抵抗という側面があったことも認識する必要があるという問題意識→「失敗の中の成功」「成功の中の失敗」という様相を捉える。
・鄭観応(1858~1914):中国の条約港知識人。変法派・立憲派→辛亥革命とは対立。単純な東道西器論者ではなく、西道の導入→東道の啓発という考え方。
・福沢諭吉:欧米文明を時間軸で相対化→一国独立に向けて目的化・基準化・手段化。儒教批判→儒教の負の面だけでなく、正の側面=道徳主義まで否定してしまう行き過ぎがあったと指摘(道徳主義→近代文明の負の側面を批判する契機があったはずだという著者の問題意識)。儒教的普遍主義から自国中心主義へと転回したと指摘。(※福沢理解が一面的で私には違和感があった。福沢は欧米文明=唯一の文明と捉えていた、と言う。しかし、福沢は『文明論之概略』で、欧米とて乗り越えられ得るとはっきり書いているが、どうなんだろう?)
・兪吉濬:初期開化派と付き合い→日本・アメリカ留学→近代思想を学ぶ→甲午改革に参加→俄館播遷で日本に亡命→1907年、日本の保護国化された朝鮮に帰国→現実主義的な愛国啓蒙運動に参加。東道と西道との異種交配→欧米文明の正の側面を導入しつつ、儒教文明の負の側面を否定→普遍主義。
・三人の万国公法のあり方、国際政治観、近代国家観を比較検討→福沢は国権重視、対して鄭・兪の二人は普遍性重視という点を強調する。
・本書の問題意識は意欲的で興味深いとは思うけれど、論点の選び方や引用の組み立て方が恣意的という印象を拭えない。たとえば、福沢=天皇大権の主唱者という指摘は明らかにおかしいだろう。

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梁賢惠『尹致昊と金教臣 その親日と抗日の論理──近代朝鮮における民族的アイデンティティとキリスト教』

梁賢惠『尹致昊と金教臣 その親日と抗日の論理──近代朝鮮における民族的アイデンティティとキリスト教』(新教出版社、1996年)

第1部 尹致昊の政治思想とキリスト教
・尹致昊(ユン・チホ、1865~1945)は日本・中国・アメリカ留学経験のある知識人。近代国家を目指して「独立協会」会長も務めたが、後に積極的な親日運動、日本の敗戦後に自殺。
・アメリカ留学→当時流行していた社会進化論的な「適者生存の原理」とキリスト教とを結びつけて理解→「産業文明国=善=永遠の至福、非産業文明国=悪=永遠の滅亡」という二項対立的論理による世界観
・アメリカで人種差別体験→文明化に成功した日本に正の価値を認めて「代理的な心の祖国」と位置付けて西欧への反逆を思い描く。他方で、朝鮮は負の価値を負ったものとして認識
・独立協会などの運動に関わるが、百五人事件で逮捕される→権力の怖さを知る
・「強者の不義」は闘争によって獲得された「正当な権利」→弱さは罪→朝鮮独立不可能論
・日本の植民地支配強化→「内鮮一体」以外に選択肢はない→「日本のアイルランドではなく、スコットランドになる」→戦争の拡大・長期化により、日本は朝鮮人の協力を必要としている、この機会に差別的待遇から脱する→「民族の発展的解体論」

第2部 金教臣の思想と「朝鮮産キリスト教」
・金教臣(キム・キョシン、1901~1945)は三・一独立運動に参加後、東京に留学、東京高等師範学校を卒業。内村鑑三の聖書研究会に出席。帰国後は教員のかたわら無教会主義の活動。逮捕・釈放の後、日本の敗戦直前に病死。
・キリスト者の単独性を重んじる無教会主義。「真正な愛国者であると同時に生きた神を知る人」として内村鑑三を尊敬→その上で、朝鮮独自の無教会主義
・「神の僕」として「近代人」を拒否。認識・行為主体としての「近代的自我」を確立すると同時に、信仰を媒介として自己を普遍的な他者に開放→「近代的自我」を超克
・神秘主義的傾向を持つ「復興会」に対しては、現代社会の不義を批判しないこと、シャーマニズム的形態=非理性的と批判。社会的キリスト教運動に対しては教義的な批判
・アメリカの宣教師→人種差別的、またキリスト教とは無関係な要素も流入→アメリカ的・非キリスト教的形式を除去すると同時に朝鮮独自のキリスト教を模索(異教の聖賢君子がキリスト教を知らなかったからと言って地獄に落ちるとは信じがたい)→伝統思想としての儒教との相違を弁別した上で接木→誠実さを重視(※内村鑑三『代表的日本人』を想起させる)
・植民地支配下でも「自己受苦」を責務とする→植民地批判

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2009年7月 2日 (木)

月脚達彦『朝鮮開化思想とナショナリズム──近代朝鮮の形成』

月脚達彦『朝鮮開化思想とナショナリズム──近代朝鮮の形成』(東京大学出版会、2009年)

 19~20世紀朝鮮半島における近代化とナショナリズムをどのように考えるか。伝統的停滞からの脱却→自律的な“近代”志向=進歩性を開化派に見出した姜在彦の研究がある一方、それを批判する民衆史観もある。こうした議論の枠組みとは異なる視点を出そうとする本書は、“国民国家”創出の運動というコンテクストの中で開化思想を捉える。

 慶應義塾への留学経験があり、後に朝鮮の啓蒙思想家として著名となる兪吉濬は、独立した国家を一人一人が支えるという構想を持っていた点で福沢諭吉「一身独立して一国独立す」というテーゼを想起させる。日本・朝鮮ともに、西洋の先進性で文明開化を捉えて中華文明を相対化した点では共通するが、福沢にとって文明開化はあくまでも独立の手段に過ぎないのに対し、兪の場合には文明開化を新しい“中華”=価値的原理とみなす普遍主義的傾向があったという。開化思想を近代志向一辺倒で捉えるのではなく、そこに刻み込まれた儒教的色彩にも目配りされる。

 近代東アジアの国際秩序は中華文明圏における冊封体制とヨーロッパ起源の“万国公法”システムとのせめぎ合いとして捉えられるが、本書では外交儀礼のあり方に着目される。冊封体制の中国(清)、万国公法の日本及びヨーロッパ、両方と対等な関係を示すべく新しい皇帝像が打ち出される(1897年に大韓帝国成立)。それは同時に、対内的には“一君万民”という形で国民統合のシンボルとして作用することも期待された。“見える皇帝像”を打ち出す→皇帝の巡幸、万歳の唱和→国家的儀礼に民衆も参加→“国民”の創出、こうした本書の議論はとても興味深い(天皇の巡幸に注目した原武史の研究が想起される)。

 こうした上からの“国民”創出の動きに相補的な役割を果たしたとされる独立協会については、従来、その愚民観→反民衆的傾向が指摘されていたが、むしろ近代化→民衆を“国民”化すべき対象として捉えていたと考えることもできる。“忠君愛国”を規範として教化→“一君万民”→皇帝をシンボリックな媒介として民権と国権との両立が図られていた。ただし、日本による韓国併合に向けた動きが強まる中、“忠君”と“愛国”とが分離→三・一運動において“万歳”の唱和→この時点ですでに朝鮮/韓国としてのネイションは自明視されていた。

 朝鮮/韓国における近代化を考えるときどうしても“親日”の問題を避けることはできないが、本書では“愛国”概念は広く捉えられる(李完用たちにしても単純に売国奴と切って捨てても意味がない)。日韓協約によって日本の保護国にされる中、実力養成を目指して愛国啓蒙運動が展開された。このうち、立憲改新派は文明の不足を自覚→学ぶべきは学ぶという姿勢→近代化を自明視。他方、改新儒教派のうち、儒教の道義性こそ西洋文明を超克できる思想だという朴殷植のような主張もあった。東洋儒教の国(朝鮮・中国・日本)の連帯→中でも日本は富国強兵に成功→模範。いずれにせよ、以上のロジックだと日本の帝国主義を批判する視点が弱くなる。朝鮮/韓国自身が圧迫を受けつつも、弱肉強食という状況認識の中で実力養成として近代化志向→もし自分たちの近代化が達成されたら?→暗黙のうちに帝国主義肯定のロジックが潜んでいるという逆説も指摘され得る。他方で、こうした発想とは異なり、アナキズムの影響を受けた申采浩はロジックに矛盾があっても抗日を徹底させていた。

“植民地”的状況を“近代”という外的原理を内面化させる場として把握→“近代”そのものに内包された抑圧性に注目するのが本書の基本的な視座である。ある一つの観点(“抗日”や“民衆”など)を絶対化させる傾向とは距離を取ろうとしているところには好感を持った。

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2009年6月28日 (日)

姜在彦『近代朝鮮の思想』

姜在彦『近代朝鮮の思想』(姜在彦著作選Ⅴ、明石書店、1996年)

 本書、『朝鮮近代の変革運動』(著作選Ⅱ)、『朝鮮の開化思想』(著作選Ⅲ)、『朝鮮の攘夷と開化』(平凡社、1977年)、いずれも取り上げられたトピックスに異同があるだけで(重複も多い)、基本的な議論の構図は同じ。朝鮮社会の停滞性・他律的近代化という見解に対して、自律的近代化へと向かう内在的な契機があったことを掘り起こし、そうした朝鮮近代思想の水脈を通史的に整理する。大まかにポイントを箇条書きすると、
・伝統的儒学思想における朱子学一尊→閉鎖的思考→近代化へ向かう発想を抑圧
・そうした中でも実学思想には開化派との系譜的つながりがある
・開化派の中でも、①金弘集・金允植・魚允中などの穏健開化派:清との宗属関係を尊重、清の洋務運動をモデルに漸進的改革→守旧派とも妥協、「東道西器」論として儒教的伝統も固守。②金玉均・朴泳孝・徐光範などの急進開化派:清とは対決姿勢(華夷秩序からの離脱)、日本の明治維新をモデルに君権変法→守旧派と対決、儒教も仏教・キリスト教などと同列に置く
・他方で、朱子学一尊の立場から衛正斥邪思想
・開化派も衛正斥邪思想もエリート層による上からの動き→対して、民衆レベルから沸き起こった運動として東学、さらに甲午農民戦争
・こうした民衆運動を、守旧派は清・ロシアと結んで、開化派は日本と結んで弾圧→外国勢力による内政干渉を招く
・急進開化派による甲申事変(1884年)、穏健開化派による甲午改革(1896年)→ともに大衆的基盤がなかったために失敗
・1890年代後半になると、開化派は都市部の大衆と結びつき独立協会・万民共同会、さらに愛国啓蒙運動へ。衛正斥邪思想は農村部の大衆と結びつき義兵闘争へ(華夷的名分論からの脱却→近代的民族主義への契機)
・愛国啓蒙運動と義兵闘争、両者の動きが合流できなかったことに問題。旧型思想と新型思想との併存。
・三一運動(1919年)→民族自決・民主共和制の主張→近代的国民国家への志向性

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2009年6月25日 (木)

姜在彦『朝鮮の開化思想』

姜在彦『朝鮮の開化思想』(姜在彦著作選Ⅲ、明石書店、1996年)

 朝鮮近代思想史における自律的な近代化の努力を検討するという点で議論の基本的な構図は前に取り上げた『朝鮮近代の変革運動』(→こちら)と同じ。以下、メモ書き。

 まず、朝鮮儒学思想史における朱子学について検討、純一性を追究する閉鎖的思考が近代化に大きな制約を課していたことを指摘。そうした中でも実学思想がある程度柔軟な方向性を模索→守旧派から厳しい弾圧を受けたが、系譜的に19世紀の開化派につながっていく。

 少々脱線するが、初期開化派には、仏教僧の李東仁が福沢諭吉から直接話を聞いたり、兪吉濬が慶応義塾に留学したりと、福沢の啓蒙思想が一定の影響を及ぼしている。福沢は金玉均たちを支援したほか、門下生の井上角五郎をソウルに派遣して『漢城旬報』を創刊させ、下からの啓蒙活動のきっかけをつくった。福沢には「脱亜論」のイメージも強いが、これが書かれたのは甲申事変が失敗した翌年のこと。この短くて当時は目立たなかった論説が帝国主義肯定の理論として特筆大書され一人歩きを始めたのはむしろ戦後のことだと近年は指摘されている。

 急進開化派による甲申事変は失敗、金玉均・朴泳孝らは日本へ亡命。穏健開化派は日本のバックアップのもと甲午改革を進めるが、国王高宗がロシア大使館に逃げ込んだ事件をきっかけに失脚、金弘集らは殺され、金允植は流罪、他は日本へ亡命した。これらの動きが上からの近代化志向だったとすると、1890年代後半から徐載弼・尹致昊・李商在らを中心に創刊された『独立新聞』は初のハングルによる新聞→大衆への啓蒙活動を目指した。開化派が初めて政治結社として独立協会を結成、また街頭集会として万民共同会→大衆運動と結び付こうとしたが、都市部中心という限界。弾圧を受けて挫折する。なお、朝鮮近代思想史における新聞の役割については姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』(平凡社、1977年)でも取り上げられている。

 蛇足ながら、徐載弼は甲申事変で国外亡命した後はアメリカで苦学して帰化、Philip Jaisohnと名乗っていた。尹致昊は(本書では触れられていないが)後に親日派として朝鮮貴族に列せられ、伊東致昊と名乗り、1945年に糾弾されて自殺。それぞれ複雑な人生の転変を経ているところに興味がひかれる。

 独立協会の活動に見られる国民国家を目指す考え方はさらに広まっていき、学校教育や民族産業の近代化→実力養成=自強運動が新民会などによって展開される。こうした動きは、日本による保護国化・植民地化=他律的近代化に対して、朝鮮社会内部からの自律的近代化の努力と位置付けられる。

 近代的な開化思想が民族的立場に弱い(一部は親日派に転落)のに対し、保守的な衛正斥邪思想は民族的立場としての強さはあっても抵抗ばかりで具体性がない、こうした乖離をどのように考えたらいいのかという著者の問題意識が随所で垣間見られる。衛正斥邪思想は中華思想による尊華の観念論(朝鮮民族としての独自性は視野に入らない)だけであるのに対し、朝鮮の歴史的伝統を踏まえた国学研究→近代的民族主義という芽生えは開化派の中から現われている点に着目される。朝鮮語研究の周時経や歴史家の申采浩らが挙げられる。

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2009年6月22日 (月)

姜在彦『朝鮮近代の変革運動』

姜在彦『朝鮮近代の変革運動』(姜在彦著作選Ⅱ、明石書店、1996年)

 日本における初期の朝鮮史研究では“他律性”史観が主流であったとされる。それに対して本書では、朝鮮にも内発的な近代化の契機があったことを掘り起こそうという問題意識をもとに朝鮮近代思想の流れが通史的に描かれる。

 まず、実学思想のうち清経由で西洋文明に触れていた北学派が取り上げられる。朴趾源ら北学派は開国主義的な立場をとり、虚学の否定、能力本位の人材登用などの制度改革を主張したが、朱子学的名分論に固執する守旧派とのイデオロギー闘争に絡め取られ、結局つぶされてしまう。ただし、北学派の系譜は19世紀の開化派に受け継がれた(→『西洋と朝鮮』を参照)。

 朴趾源の孫である朴珪寿の門下生から開化派が台頭するが、とりわけ有名なのは金玉均であろう。金玉均については“親日派”とみなす向きもあるが、対して日本から学ぶべきものは是々非々で学ぶとした主体性に注目される。近代化政策を進める上で両班階級が障害になっているという問題意識から甲申事変(1884年)が敢行されたが、失敗。社会経済的基盤が未成熟であったという内的条件、清の干渉(袁世凱が開化派を軍事制圧した)という外的条件が失敗の原因として指摘される。

 なお、儒教が正統とされて仏教は下に見られていた中、金玉均は仏教に関心を持っていたらしい。開化派には、仏教僧・李東仁(東本願寺釜山別院とつながりがあり、日本事情を熟知)、中国語通訳の呉慶錫、医者の劉大致らが大きな影響を与えていた。李朝社会において通訳や医者などの技術者は中人(両班と常民との中間階層)、仏教僧にいたっては賤民視されており、いずれも朱子学的世界観に染まった両班とは異なってイデオロギー・フリーの立場にあったことは興味深い。両班の開化派の中でも、金玉均・朴泳孝ら急進派は日本の明治維新をモデルとした変法的立場(従って、守旧派とは仇敵同士)、金允植ら穏健派は清の洋務運動をモデルとした改良的立場(従って、守旧派とも妥協可能)という二つの流れがあった。

 金玉均らの甲申事変が先鋭化した一部知識階層による上からの改革志向だったとするなら、対して下からの改革志向の民衆運動として甲午農民戦争や活貧党も取り上げられる。

 日清戦争後、事実上日本の保護国化されてしまった状況下、知識階層では二つの思想的立場が鮮明化した。第一に、李恒老→崔益鉉を源流とする衛正斥邪思想→抗日義兵闘争という立場。第二に、朴珪寿→金玉均・金允植ら開化派→愛国啓蒙運動という立場。両者とも「内修→自強」という点では同じロジックをとるのだが、「内修」の理解が対極的であった。両者が一体化できなかったところに著者は近代朝鮮の悲劇を見出す(なお、前者を意地の感覚、後者を近代化=手段としての西欧化と捉えるなら、福沢諭吉は両者を合わせ持っていたという趣旨のことを、以前、李光洙の話題に絡めてこちらに書いた)。

 愛国啓蒙運動の中では1907年に安昌浩によって旗揚げされた新民会が検討される。政治路線を看板からはずし、国権回復に向けた実力養成として学校教育や民族産業の近代化といった合法的活動に焦点が合わされた。さらに1919年の三・一運動では、この実力養成から民族自決という方向へと移っていく(この際、単なる反日ではなく、三和主義が主張されていたという指摘が目を引いた。三和主義とは西欧列強から身を守るため、独立した韓国・日本・中国が互いに連携しようという考え方で、かつて金玉均が主張していた)。そして、日本による弾圧から逃げて成立した上海臨時政府において、衛正斥邪思想の目指す復辟でもなく、開化派の主張した立憲君主制でもなく、民主共和制による国民国家が志向されることになる。

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2009年6月21日 (日)

姜在彦『西洋と朝鮮──異文化の出会いと格闘の歴史』

姜在彦『西洋と朝鮮──異文化の出会いと格闘の歴史』(朝日選書、2008年)

 19世紀、“ウェスタン・インパクト”に等しくさらされた日本と朝鮮、片やいち早く近代化に成功し、片やその失敗の末に日本の植民地へと転落してしまった。明暗を分けた理由は何か。著者は、日本が江戸幕府の頃から洋学政策を採用して人材育成の蓄積があったのに対し、朝鮮は儒教に基づく中華思想・実学軽視のため西洋文明受容を進められなかった点に一つの要因を求める。

 朝鮮にも西欧文明=西学を摂取する可能性はあった。17世紀の時点では北京と往来した使節団とイエズス会士との個別的な出会いという程度であったが、18世紀以降、西学受容を本格的に進めるべきだとする実学思想が現われ始める。

 朝鮮では儒教が正統の学問とされていたが、第一に文治主義による実学軽視、第二に中華思想による外来文明否認がネックとなっていた。こうした傾向に対し、価値観においてキリスト教に対する儒教優位、科学において西洋文明優位という形で正統性の次元と具体実用の次元とを切り分けて西学受容を促す発想が実学思想にあった(「東道西器」→「和魂洋才」や「中体西用」と相似)。こうした思想傾向としては、イエズス会士による漢訳西洋書の研究を通して制度改革の必要を主張した李瀷ら星湖学派と、尊明排清の風潮(朱子学における“華夷の別”として夷狄蔑視→朝鮮は“小中華”という自覚)に対して、たとえ夷狄である清(満洲人)からでも実用的なものは学ぶべきだと主張した朴趾源ら北学派という二つの潮流があった。

 しかしながら、保守派はキリスト教という宗教的次元と科学の次元とを十把ひとからげにして容赦なく弾圧、実学思想→西学受容の芽はつぶされてしまった。19世紀、天主教弾圧を口実にフランス軍・アメリカ軍が来攻、朝鮮側は“衛正斥邪”思想という形で態度をますます硬化させた。西欧列強や日本の圧倒的な武力を前にして開国へのイニシアティブを発揮したのは朴趾源の孫である朴珪寿であった。彼の門下生から金玉均、朴泳孝、金允植、兪吉濬など後に開化派と呼ばれる人材が現われたが、彼らもまた朝鮮宮廷で頻繁に繰り返されてきた党争の中で翻弄されてしまう。

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