カテゴリー「社会」の49件の記事

2009年11月 2日 (月)

なぜポスコロに関心を持ったかというと

 なぜポストコロニアリズムに関心を持ったかというと、きっかけは『民俗台湾』について調べ始めたこと。戦後になって“大東亜共栄圏”イデオロギーや優生学などを批判するという観点から『民俗台湾』も取り上げられた(→詳細はこちらを参照のこと)。

 しかしながら、戦時下という時代風潮の中で雑誌を継続して出し続けるためには当局に迎合する発言もしなければならないし、むしろ『民俗台湾』の同人は皇民化政策には反対していた。ところが、戦後の研究者は誌面に現れた文字面だけを読む。当局の検閲を意識せざるを得なかった表現をとらえて、いわば揚げ足取りをするような形で、『民俗台湾』も植民地批判という議論の中に組み込まれていった。

 誤解しないで欲しいのだが、“植民地批判”そのものに異議を唱えているわけではない。私が言いたいのはそういうことではなくて、“植民地批判”の議論の枠組みそのものが、戦前とは異なる形ではあるが、戦後という一時代においてもまた学知的に制度化されている。その構造的に生硬な視点で過去を振り返ると、必然的に断罪の口調を帯びる。見方を変えれば、戦後の思考枠組みで戦中の思考枠組みを批判する形式になっており、そうした議論を進めるコマとして『民俗台湾』は利用されているに過ぎない。通史的な議論としてはそれなりに意義のあることだとは思うが、抽象化された図式対図式の議論の中では具体的に生きた人間像は欠落しており、『民俗台湾』同人の抱えざるを得なかった葛藤は無視されてしまう。コマとして使われただけの当事者としてはたまったものではない。

 日本の植民地支配下に置かれ皇民化政策が推進された台湾のマージナルな位置は、政治的にだけではなく意識形態においてもアイデンティティ抹消の危機に直面した点でポストコロニアルの議論に適合的であろう。学知的あり方の非対称性が抑圧的な権力を帯びてしまう問題を検討するポストコロニアリズムの視点からは、日本人学者=知的権力者、植民地民衆=被抑圧者、という図式が導き出され、とりわけ民族学・民俗学などは標的にされやすい。

 ところで、『民俗台湾』編集同人は、日本人でありつつも、抑圧の対象であった台湾文化を理解したいと思っていた。支配‐被支配という関係において日本人と台湾人との間に大きな壁が立ちはだかっていたのは確かである。ただ、彼らの主観的な善意も社会的構造に絡め取られてしまっては無力であった、所詮は自己満足に過ぎない、そう言ってしまうのは簡単だが、このような矛盾に直面していることを自覚していた点では、彼らもまた同様にマージナルな存在だったとも言える。たとえば『民俗台湾』同人だけでなく、朝鮮半島にとっての柳宗悦や浅川伯教・巧兄弟なども含め、日本人でありながらも被支配者側の文化に共感を寄せた人々の位置付けはどう考えればいいのか。抑圧‐被抑圧という二元論的構図では奥行きをもって考えることはできない。

 三尾裕子「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号、2006年3月)は植民地主義と人類学の関係という問題意識を踏まえて『民俗台湾』をめぐる従来の議論をレビュー、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と問いかけ、「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」と指摘していた。こうした観点に私も共感している。

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カルスタとかポスコロとか

 カルスタとかポスコロとか、あまり関心を払ってこなかったのでちょっとお勉強。

上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書、2000年)
・登場の背景:バーミンガム大学現代文化研究センター。1980年代、労働者階級にとって不利なのにもかかわらずサッチャリズムへの支持。旧来型左翼の啓蒙的議論が有効性を失っていた→サッチャリズムによる政治的再編成に期待。むしろ、社会的に疎外されていた若者たちの怒りはレゲエやパンクロックに代弁されているとして支持された。
・大学においてディシプリンの自明視→知的生産の権力性→これを疑う。しかし、「黒人研究」「フェミニズム」「クィア・スタディーズ」といった学部を創設しても、アカデミズム内のゲットー化にすぎない。「カルチュラル・スタディーズとは「汚い」世界の問題をアカデミズムという「清潔な」空間に持ち込むこと」(スチュアート・ホール)
・コード化‐脱コード化:コードを受け止める側の階級・性別等の属性に応じて異なり、一方通行ではない→「読み」の多様性→均質的に想定された「大衆」など存在しない。
・サブカルチャー:高級文化でも大衆文化でもない、しかしそうなることもあり得る曖昧な文化領域→この動的かつ不安定なあり方に注意を払う。本質主義的な定義はなじまない。
・人種主義:対抗言説化すると、裏返しの人種主義として共犯関係に陥る危険。例えば、ムスリムの伝統を守るための分離教育は極右からも支持されてしまう。
・ポストコロニアリズム:知的構造の非対称性→権力性という観点でカルチュラル・スタディーズと共通。抑圧への抵抗だけでなく、政治性に注目するあまりにその文化の中にある「喜び」「楽しみ」といった自発的・自律的な側面を過小評価しないよう留意すべき。
・カルチュラル・スタディーズの制度が進む→既存のディシプリンと同種の一領域になりさがってしまうのではないか? マイノリティ・差別・貧困・暴力といった、もともとアクチュアルな関心からアカデミズムの動向とは関係なく取り組まれていたテーマが、一見ラディカルに見えても、アカデミズム内部だけで流通する知的商品になりさがっていないか?
・カルチュラル・スタディーズは、「わかりやすく」説明することではなく、日常生活の中で直面する不条理の「わからなさ」のありかをはっきりさせること。

本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書、2005年)
・歴史(正史)や文学(正典)の見直し、その中でオミットされてきた記憶をどのように聞き取るかという問題意識。
・他所を一方的に野蛮化して否定する論理→その生成の具体例として「食人種」。
・フランツ・ファノン。
・エドワード・サイード。
・ガヤトリ・スピヴァク:戦略的本質主義(「弱者」という性質をいったん「本質」と認めることで抵抗の糸口とする。その「本質」を共有することで他者と連帯)。「知る」者自身の特権性を自覚→「学び捨てる」。(※G・C・スピヴァク[上村忠男訳]『サバルタンは語ることができるか』[みすず書房、1998年]は去年読んだのを思い出した→こちら

ロバート・J・C・ヤング(本橋哲也訳)『1冊でわかる ポストコロニアリズム』(岩波書店、2005年)
・様々な国や地域の様々な具体例やテーマをパッチワークしながら、ポストコロニアリズムの大枠としてのイメージを浮かび上がらせていく構成。
・「理論」を打ち出してしまうと、それによってまた別の問題が新たに排除・生成してしまう。多様な営みをいかにそれぞれに適切なやり方で把握していくかというところにポストコロニアリズムの問題意識があるわけで、そうした性格に合った叙述方法をとっている点でなかなか良い本だと思う。

※「理論」(=上から目線)で裁断される以前の、いまここで具体的に生きられている生身の問題を把握→解決につなげていこうという姿勢はまっとうなのに、これが日本のアカデミズムを通して提示されると「よそよそしい」のは一体どうしてだろう? そのあたりの違和感の一つは李建志『朝鮮近代文学とナショナリズム──「抵抗のナショナリズム」批判』(作品社、2007年)、『日韓ナショナリズムの解体──「複数のアイデンティティ」を生きる思想』(筑摩書房、2008年)で吐露されており、興味深く読んだ(→こちら)。

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2009年9月 8日 (火)

本田由紀『「家庭教育」の隘路──子育てに強迫される母親たち』

本田由紀『「家庭教育」の隘路──子育てに強迫される母親たち』(勁草書房、2008年)

・市場メカニズムにより経済的・社会的機能の効率化→中間組織・共同体の弱体化→秩序維持の規範強化という流れの中で、「家庭教育が重要」という言説により、子供・若者を社会化する上での家庭・親の責任を強調する風潮→かえって問題をこじらせてしまうという疑問から、インタビュー調査や統計分析により実証的研究。
・「勉強」によって習得可能なものよりも内面的・人格的特性が「選抜」の重要な要因→内面性涵養の場として「家庭教育」が重視される。しかし、社会階層によって家庭の質的相違→教育に有用な資源を持つ階層の自己正当化、格差再生産の可能性、それが「自己責任」言説で処理されてしまう問題。
・社会階層→子育てのあり方、中3時点の成績、最終学歴、雇用形態、収入へと重層的な連鎖→家庭教育を通した再生産のメカニズム。
・子育てには必ずしも正解はないが、様々に「理想」を語る家庭教育論の氾濫→高い要求水準→母親は暗中模索、自信喪失、ストレス、子育てからの撤退。母親自身の自己実現と子育てとの両立の苦心。
・コミュニケーション能力、ポジティブ志向:ポスト近代型能力→家庭教育で左右される度合いが大きい(本田由紀『多元化する「能力」と日本社会──ハイパーメリトクラシー化のなかで』NTT出版、2005年)。子育てのあり方としても、「きっちり」→学力、「のびのび」→ポスト近代型能力の二つの要素があって、その二つの間で母親に葛藤あり。社会階層との対応度合いは「きっちり」で顕著だが、高階層の母親は「のびのび」にも積極的な傾向。
・教育態度の点で、日本では、海外のように中産階級対労働者階級という明確な断層は見られないが、連続的なグラデーション型の格差。
・家庭教育を媒介とした格差再生産の構図が認められる→だからといって家庭に直接介入できるわけではなく、子供世代に及ぼす影響を、いかに家庭外の制度で軽減するかという問題意識。

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2009年9月 7日 (月)

寺島実郎・飯田哲也・NHK取材班『グリーン・ニューディール──環境投資は世界経済を救えるか』、ヴァン・ジョーンズ『グリーン・ニューディール──グリーンカラー・ジョブが環境と経済を救う』

寺島実郎・飯田哲也・NHK取材班『グリーン・ニューディール──環境投資は世界経済を救えるか』(NHK出版生活人新書、2009年)

・NHKの番組で取り上げられたテーマをまとめた内容。特にアメリカでの取り組みを紹介。
・太陽光発電、風力発電、電気自動車など化石燃料に頼らない技術を紹介。自然エネルギーによる電力供給は小規模・分散型で不安定だが、IT技術によって発電量を把握・コントロールするスマート・グリッドが注目される。
・ブッシュ政権は京都議定書から離脱。しかし、州レベルでは環境政策への取り組みがあり、そうした動きをオバマ政権は取り込んだ。オバマ政権は、化石燃料依存から脱却するエネルギー構造転換への投資を雇用創出(例えば、戸別にソーラー・パネル設置・メンテナンス、風力・潮力発電所の建設、断熱化工事など)に結び付けるグリーン・エコノミー政策を推進。
・産業政策と環境政策とでは意見がぶつかりやすいが、その両立を目指す。

ヴァン・ジョーンズ(土方奈美訳)『グリーン・ニューディール──グリーンカラー・ジョブが環境と経済を救う』(東洋経済新報社、2009年)

・著者のヴァン・ジョーンズの名前は上掲NHK取材班の本にも出てくるが、アメリカの著名な社会活動家。オバマ政権のアドバイザーとしてホワイトハウス入りしたらしい。
・本書の主張の一番の特色は、エコの不平等、環境による人種差別という問題意識だろう。劣悪な居住環境、ジャンクフード等による不健康、ハリケーン・カトリーナの被害は黒人や貧困層に集中した。従来の環境運動は富裕層の余暇活動的な側面があった。彼らは生活に困っていないので、熱帯雨林の消滅やホッキョクグマの溺死など外の地球環境問題に関心を寄せる余裕がある。身近な環境問題にも目を向けて、一般の人々全体の生活水準を高めるため、エコ・エリート主義を超えてエコ・ポピュリズムへという問題意識。ただし、両者を対立関係で捉えるのではなく、立場の異なる者同士が協力すべきという視点。マイノリティーや貧困層もグリーンカラー・エコノミーの運動に巻き込んでいく必要を主張。環境政策+経済政策+社会政策というトータルな視点。
・生活に直結する環境問題→エネルギーだけでなく、食物、水、ゴミ、輸送インフラなど様々な問題。
・グリーン投資によって創出される雇用:グリーン・ジョブ→職業訓練→貧困層の生活上の自立につなげる。
・フランクリン・ローズヴェルト政権がニューディールで経済危機を切り抜けたように、グリーンカラー・エコノミー政策でも整合性のとれた包括的プログラムによって官民ともに社会全体で問題解決を図る→政府のリーダーシップが必要。

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2009年7月31日 (金)

アンソニー・ギデンズ『親密性の変容──近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』

アンソニー・ギデンズ(松尾精文・松川昭子訳)『親密性の変容──近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』(而立書房、1995年)

・「モダニティは、自然的世界の社会化──人間の活動の外在的媒介変数である構造や事象に代わって、社会的に構成された過程や作用が重きをなしていくこと──と関係している。たんに社会生活そのものだけでなく、かつては「自然現象」であったものをも社会的に構成されたシステムが支配するようになってきたのである。生殖はかつては自然現象のひとつであり、したがって、異性愛活動は、必然的に生殖の中心的行為であった」→しかし、避妊法・生殖技術→生殖の社会化→セクシュアリティは完全に自立(かつては、妊娠、出産時の死亡等の恐怖があった→性的快楽を解放)→「セクシュアリティが社会関係の「不可欠な」構成要素となったため、異性愛は、他のすべてのことがらを判断するための基準ではもはやなくなった」→自由に塑形できるセクシュアリティ
・「モダニティは、物理的社会的過程の理性にもとづく理解が、神秘主義やドグマによる恣意的支配に当然とって代わっていくという意味で、理性の優位性と不可分な関係にある。理性には感情の入り込む余地が存在せず、感情は、たんに理性の領域の外側に位置するにすぎない。しかし、現実には、感情的生活は、日々の変わりゆく活動条件のなかで新たに秩序づけられていったのである。」
・ロマンティック・ラブという観念の浸透→夫婦関係に特別な意味を付与→しかし、男性性・女性性という既成の差異によって特徴付けられた一体感
・ポスト伝統社会→自分で自分自身のライフスタイルや自己アイデンティティ(自己にまつわる過去・現在・未来を連続的に統合する叙述)を絶えず書き換え続けなければならない→再帰的自己自覚的達成課題としてのアイデンティティ
・嗜癖(addictionか?)はそれが達成できない自己不信感への防衛反応として理解できる。アイデンティティ形成で他者依存→ex.セックス依存症、共依存など
・選択の自由→「自己との対話」→否定的なアイデンティティを書き直すきっかけ
・「信頼とは、相手の人間を信用するだけでなく、相互のきずなが、将来生じうる精神的打撃に耐えうる力をもつ点を信用していくこと」「相手を信頼することはまた、相手の真に誠実に振舞うことができる能力に、一か八か賭けること」「二人がいろいろな問題で一緒になって育んでいく共有の歴史は、必然的に他の人たちを締め出し、他の人たちは、一般化された「外部世界」の一部となっていく。排他性は信頼を保証するものではないが、それにもかかわらず、排他性は、信頼感を触発する重要な要素」
・「経験の隔離」→「社会的活動を超越的なものや自然現象、生殖と結び付けてきた道徳的・倫理的特徴の消失」→日々の型にはまった行いからもたらされる安心感が崩される(その代用的行動が嗜癖など)→精神的・心理的に傷つきやすくなった→「自己が価値のない存在で、自分の人生が空虚で、自分の身体が無力な、不適格な装置であるという思い」は「モダニティの内的準拠システムの拡がりの結果として生じている」→性的活動、「ロマンスの探究」などは、空虚感に由来する達成感の探究として理解できる

※避妊の普及・生殖技術の進歩(=「経験の隔離」)→生殖と、そこに結び付いていた性愛にまつわる感情とが分離→性愛にまつわる言説が、所与の自然的条件としてではなく、社会関係のロジックに組み込まれる→ところで、性愛は身体・感情の両面において自己アイデンティティと関わる→アイデンティティ形成のあり方が社会的な再帰性に左右される、大雑把に言ってこんな感じに理解していいのだろうか。

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2009年7月30日 (木)

ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ『再帰的近代化──近現代における政治、伝統、美的原理』

ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ(松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳)『再帰的近代化──近現代における政治、伝統、美的原理』(而立書房、1997年)

・かつて啓蒙主義は世界の認識→理想・目的に向けて統御可能という信念を持っていた。ところが、再帰的近代化:社会の近代化→自らの存在の社会的諸条件を省察→条件を変えていく→工業社会の意図していなかった潜在的な脱埋め込みと再埋め込みの過程→人間の知識が増大したからこそもたらされる不確実性。

ウルリッヒ・ベック「政治の再創造」
・「私のいう再帰的近代化とは、発達が自己破壊に転化する可能性があり、またその自己破壊のなかで、ひとつの近代化が別の近代化をむしばみ、変化させていくような新たな段階である。」「…再帰的近代化とは、通常の自立した近代化が、また、政治と経済の秩序に一切影響を及ぼさずに、内密に、無計画に進行する工業社会の変動こそが、工業社会の諸前提と輪郭を解体し、もう一つ別のモダニティへの途を切りひらくモダニティの《徹底化》を含意していると考えることができる。」
・「リスク社会は、みずからが及ぼす悪影響や危険要素を感知できない、自立した近代化過程の連続性のなかに出現していく。こうした過程は、工業社会の基盤を疑わしくさせ、最終的にその基盤を破壊してしまうような脅威を、潜在的にも、また累積的にも生みだしていくのである。」
・科学技術のもたらす予見不可能性→一般的通念としての合理性への疑い→社会は再帰的になる
・「個人化とは、確信できるものを欠いた状態のなかで、自己と他者にたいする新たな確実性を見いだし、創造することを人びとが強いられているだけでなく、工業社会の確実性の崩壊をも意味している」→個人化は一人ひとりの自由な意思決定に基づいておらず、自分の生活歴を自分で立案・演出するよう強制されている→個人は、機能主義モデルが想定する以上に複雑な言説による相互作用で組成されている。
・再帰的近代化→機能分化は実質的な分裂過程→多元的な意味の並立したシステムの形成(専門知識の特殊性は他の特殊性と対立しかねない。例えば、原子力開発と環境運動)→専門知識の特権性を排除、情報開示、公開討議の必要。

アンソニー・ギデンズ「ポスト伝統社会に生きること」
・地球規模の壮大な実験→抽象的システムの侵食という衝撃のもと、「専門的知識の置き換えと再専有」。
・伝統:前近代社会において諸秩序を一つにまとめ上げていく接着剤。反復性。現在を過去に結び付けていく一連の要素を絶え間なく解釈する作業。「定式的真理」→儀礼等が「真理」の判断基準。状況依存的。
・衝動強迫症:伝統のもつ「真理」との結び付きを失ってしまった反復行動。「伝統主義を伴わない伝統」。
・反復行動は、「自分たちが承知している唯一の世界」にとどまるための方法、つまり、「相容れない異質な」生活価値や生活様式に身をさらすことを避けるための手段。
・選択とは、過去との結び付きで未来をコロニー化し、過去の経験が残した感情と折り合いをつける積極的な側面もある→ポスト伝統の状況下、自己選択→嗜癖も一つの選択。
・アイデンティティ:反復再現と再解釈という恒常的過程→時間を超えた恒常性の創出→過去を予想される未来へと結び付けること。
・専門知識:非人格的原理・分権的・流動性→脱埋め込み→抽象的システムにおいて再埋め込み→再帰性
・「抽象的システムのなかには、人びとの生活の非常に重要な要素となったために、つねに既成の伝統と類似した、岩盤のような堅固さを一見示しているものもある」(ex.医師免許、学位など)。「ひとたび伝統と絶縁してしまった以上、近現代のすべての制度装置が信頼という潜在的に不安定なメカニズムに依存しているという事実には、根本的な意味がある」。
・「《衝動強迫症》とは、《凍結した信頼》、つまり、対象となるものがない代わりに、際限なく続いていきやすい自己投入である」。「嗜癖は、かつて伝統が供給してきたし、またあらゆる形態の信頼も同じように想定してきた例の完全無欠性に相対するものなのである。抽象的システムの世界は、またライフスタイルの選択が潜在的に開かれた世界は、…自発的な参加を要求している」。「人びとは、信頼を、代替手段の選択として投入していくのである」。
・グローバル化:目の前にないものが空間を再構築→目の前にあるものまでも支配していく過程。「誰もが「部外者」でいることができない世界は、既存の伝統が他者との接触だけでなく、代替可能な数多くの生活様式との接触が避けられない世界」。「社会的きずなを、過去から受け継いできたものでなく、むしろ望ましい結果が得られるように《つくり出して》いかねばならない社会」。

スコット・ラッシュ「再帰性とその分身──構造、美的原理、共同体」
・ベック、ギデンズの議論を踏まえた理論的な検討。

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2009年7月26日 (日)

苅谷剛彦『教育の世紀──学び、教える思想』

苅谷剛彦『教育の世紀──学び、教える思想』(弘文堂、2004年)

・教育を考える上でも立ちはだかる自由と平等との矛盾という根源的なアポリア、この問題を19~20世紀のアメリカ社会思想、とりわけ社会学者レスター・ウォード(1841~1913、アメリカ社会学会初代会長)を手掛かりに考える。
・ウォードは開拓民の子供、独学で身を立てた知識人。
・当時は社会ダーウィニズムが流行して自由放任主義礼讃(自然淘汰→現代で言えば自由至上主義)。しかし、現実には低位階層から這い上がるのは難しい。自由の国アメリカという理念の下、出自によらず社会的な上昇はできないのか?→ウォードは知性平等主義の考え方から、教育の機会の平等を主張した。機会の平等→努力や能力の差→結果としての不平等については社会的に認容する。能力の個人差は確かにあるが、それが階級・ジェンダー・エスニシティーといった出自の問題で左右されてはならない。
・教育の拡大→社会の平等化の手段という問題意識はデュルケムやヴェーバーには見られない。
・ウォードの考え方は、①社会改良の手段としての教育、②(個人の生得的な能力差を認めた上で)知性の発達可能性を前提とした教育の役割、③職業選択と職業上の成功の機会と結びつく教育機会の普遍化
・このように教育はライフチャンスを平等化するという考え方が広まるが、他方で現実には教育はこの要請に応えるのが困難→教育内部において、出身階層・ジェンダー・エスニシティー等による不平等が隠蔽され、維持・再生産されてしまう問題。
・ハイスクール拡張運動→異なる階層の出身者が同じ教室で机を並べること自体が最初は驚異的だった。
・①共和国の理念→自立した市民を育成するという要請。他方で、②産業社会からの要請→効率的な人材の育成・配分→教育の分化(当面必要ならば早期から職業教育)→階層分裂の可能性。①と②の矛盾をどう考えるか?
・能力の多様性の強調→競争を喚起しない代わりに、何が平等かも分からない(比較可能性がないから)→徹底した個性主義の教育は、機会の不平等を見えなくしてしまう。
・近代社会における子ども:「誰でもないが誰にでもなれる者たち」。①汎用性の高い普通教育→「役に立たない勉強」と受け止められる→学ぶことの意義は? 他方で、②将来の生活と直結する職業教育→「何にでもなれる自分」を早い段階で制約してしまう。
・戦後日本の教育について。教育の外にある社会経済的不平等を縮小しようとした平等主義→選抜・競争の原理が学校内部に入ってくる。しかし、成績差・学力差を生徒の差別感の問題と考える戦後日本の教育界の態度→教育における階層間格差の問題から目を背けてきた→社会的なコンテクストの中で、自由と平等との矛盾というアポリア、それに対して教育の果たす役割は何なのかという問いかけをしてこなかった。

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2009年7月21日 (火)

児童虐待についての本

川崎二三彦『児童虐待──現場からの提言』(岩波新書、2006年)
・著者は児童福祉司。現場での活動経験を踏まえて具体的な対応のあり方や児童相談所をめぐる制度的問題を指摘する。
・児童虐待:身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(養育の怠慢)、心理的虐待
・親権者には民法で懲戒権がある→虐待?しつけ?→社会通念も含めて児童虐待についての合意形成ができておらず、しばしば混乱を招く
・日本では主たる虐待者のうち六割以上が実母
・児童虐待の要因:①多くの場合、虐待する親自身が子どもの頃に大人から愛情を受けていなかった(→世代間連鎖につながりかねない)、②経済不安・夫婦不和など生活上のストレス(貧困など社会環境的要因もある)、③社会的に孤立(親族や地域社会から→こうした人間関係に組み込まれていないため、基本的な生活技術を身につける機会がなかった→育児怠慢につながっているケースもある)、④親にとって意に沿わない子どもであった(望まぬ妊娠、育てにくい子ども、障害があるetc.)
・家庭内の密室空間でおこり、保護者も被害児童も積極的に打ち明けたがらない→発見自体が困難
・国民すべてに通告義務がある→しかし、誤報も一定数ある→それを社会全体で許容できるかどうか
・児童相談所の行なう一時保護だけが強制手段→①子どもの生命の危険を回避、②立ち入ることは保護者の親権への権利侵害であり、また子ども自身の生活環境に悪影響もあり得る→①と②の矛盾をどのように調整するか?→現在は所長の判断のみが法的根拠だが、司法の関与が必要。

 毎日新聞児童虐待取材班『殺さないで──児童虐待という犯罪』(中央法規、2002年)や朝日新聞大阪本社編集局『ルポ 児童虐待』(朝日新書、2008年)は新聞連載をもとに多くの事例を紹介。あり得るケースは網羅されているが、総論的。杉山春『ネグレクト 育児放棄──真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館、2004年)は子どもを段ボールに押し込めて放置、餓死させた事件を、佐藤万作子『虐待の家──義母は十五歳を餓死寸前まで追いつめた』(中央公論新社、2007年)は2003年に岸和田でおこったやはりネグレクトの事件を取り上げたノンフィクション。『ネグレクト』『虐待の家』ともに両親自身の育った背景も追っており、事件に絡まる様々な要因が見えてくる。

森田ゆり『子どもへの性的虐待』(岩波新書、2008年)
・事例紹介・分析と同時に、具体的な対処方法も示す。
・ミーガン法(性犯罪者の情報公開)→しかし、実際には性犯罪をおこすのは身近な人が多い。また、再犯率も必ずしも高くはない→不安感を煽る一方で、身近な性犯罪への注意が乏しくなる。
・加害者が身近な人だと、被害児童に話を聞いてもその人を守ろうとすることがある。
・被害児童が自分に過失があったと思い込んでしまう。
・性的虐待→被害児童が無力感、さらには自己嫌悪感を後々まで引きずる。
・被害状況を話させる→思い出すこと自体が苦痛・葛藤を引き起こす。
・対応する側の問題:①性のタブー意識、②物証がない場合、③事実関係は加害者と被害者しか知らない、④被害児童は周囲の反応を敏感にうかがいながら話す内容を変えてしまうことがある、⑤制度的な問題、⑥社会からの偏見・誤解
・話しても信じてもらえなかった→大人への不信という二次被害
・「蘇った記憶」論争

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2009年7月20日 (月)

山野良一『子どもの最貧国・日本──学力・心身・社会におよぶ諸影響』、阿部彩『子どもの貧困──日本の不公平を考える』

山野良一『子どもの最貧国・日本──学力・心身・社会におよぶ諸影響』(光文社新書、2008年)
・著者は児童福祉司で、アメリカに留学・ソーシャルワーカー勤務の経験もあり、具体例と国際比較の視点で貧困環境にある子どもの問題を指摘する。
・自己責任論・人的資本論→個人にかかる社会環境的制約をどう考えるのか? すべてを個人の努力に還元できるのか?
・学力獲得→スタート時点における家族背景という差→教育社会学では親の学歴に重きが置かれてきたが、所得要因が大きい
・貧困環境→生活上の困難を解決する手段を見出すのが難しい。精神的負荷が大きい。出産にも影響。抑うつ感により夫婦関係・親子関係の悪化→子どもの身体面・情緒面で大きな悪影響。
・先進国の場合には、絶対的所得水準だけでは不十分→「相対的所得仮説」:貧困者の心理的ストレスが身体面にも悪影響を及ぼしている。

阿部彩『子どもの貧困──日本の不公平を考える』(岩波新書、2008年)
・山野書と同様に所得効果に着目、データの経済学的分析を通して子どもの貧困環境の問題を考える。
・15歳時の貧困→限られた教育機会→恵まれない職→低所得→低い生活水準→世代間連鎖
・メリトクラシー(業績主義による人材選抜システム)においては、「能力」「努力」が本人にはどうにもならない属性によって影響を受けないことが大前提→貧困等でスタート地点においてハンディがあるのだから、義務教育制度での対策が必要(無償化、「ヘッドスタート」etc.)
・「相対的貧困」概念→OECD諸国の中で日本の相対的貧困率はアメリカに次いで2番目
・日本の社会保障制度において、低所得者は負担と給付が逆転しているという問題
・母子世帯→母親の就業機会が限定されており、長時間労働・低賃金(ワーキングプア)→子どもの養育に悪影響
・「相対的貧困」概念によって貧困を測定(「合意基準アプローチ」、つまり当該社会において何が最低限必要なのかアンケートの多数決で項目設定)→所得金額ベースの議論は抽象的で分かりづらいのに対し、具体性をもった政策提言につなげられる

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山田昌弘『新平等社会』『迷走する家族』『少子社会日本』

山田昌弘『新平等社会──「希望格差」を超えて』(文藝春秋、2006年)
・市場主義の外部不経済としての格差問題(絶望→希望格差)→完全な機会の均等は無理だとしても、少なくともそれぞれの立場なりに「努力すれば報われる」ことを保障(希望の平等)→第三の道
・ニュー・エコノミーの進展により、大量の定常作業労働者が必要→フリーター・非正規雇用社員は低収入・不安定な立場などだけが問題なのではなく、代替可能な存在→自分の仕事を評価してくれる仕事仲間がいないことでインセンティブ低下→自分の努力をきちんと評価してくれる関係性=社会関係資本が必要

山田昌弘『迷走する家族──戦後家族モデルの形成と解体』(有斐閣、2005年)
・社会制度的に家族へ期待されている機能:①子供を生み育てる責任、②生活リスクから家族成員を守る(他に、「かけがえのない存在」として「生きがい」を与える「アイデンティティ供給機能」)→機能不全→なぜ?
・家族モデルの実現可能性低下と多様な家族モデルの乱立(魅力的な家族モデルを達成できる人とできない人との格差顕在化)
・高度成長期に確立した家族モデル:夫の収入による生活水準規定、性役割分業(専業主婦)→それぞれの役割を果たすことで「愛情」の確認→こうした戦後家族モデルを無理に維持しようとする努力がかえってひずみを増幅
・女性は結婚によって、生業・所得・ステータス・配偶者の学歴などの面で親の世代よりも階層上昇の期待があった→いまや経済低成長・頭打ち→結婚への期待水準と現状との折り合いがつかない
・①ニュー・エコノミーの進展により家族の経済基盤不安定化のプロセス。②個人化→自己実現イデオロギー→非現実的な理想的家族モデルへの憧れ→①と②が同時進行→家族形成の困難

山田昌弘『少子社会日本──もうひとつの格差のゆくえ』(岩波新書、2007年)
・「仕事をしたいから結婚したくない」のではない→収入見通しの不透明化→結婚への期待水準との折り合いがつかない→結婚できない(年収が低くても親と同居→年収が高い一人暮らしよりも豊かな生活が可能→パラサイト・シングル)
・地域格差と家族格差とを伴った少子化が進行中
・近代化による個人主義の浸透→共同体の崩壊により「長期的に信頼できる関係」が自動的には与えられなくなった→「個人的に」そうした関係をつくる必要→「家族」形成への欲求
・魅力格差、経済格差、恋愛(セックスも含む)と結婚との分離
・生育環境・結婚前の生活水準<結婚相手である夫の収入増大の見通し→女性の結婚へのインセンティブ(かつて男性の「魅力」の問題は経済力でクリアできた)
・親が本人にかけた教育等の費用が自身の子育てに向けた期待水準の前提→収入低下→期待水準をクリアできない→出産数を減らす

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2009年7月14日 (火)

佐藤幹夫『自閉症裁判──レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」──17歳の自閉症裁判』

 2001年、浅草で起こった女子短大生殺人事件。佐藤幹夫『自閉症裁判──レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』(朝日文庫、2008年)は犯人のレッサーパンダ帽をかぶった自閉症の青年の周辺及び被害者遺族、双方を取材。続く『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」──17歳の自閉症裁判』(岩波書店、2007年)も同様の問題意識を基に2005年に大阪で起こった教師殺傷事件を考察する。

 知的ハンディキャップを負っているからと言って決して許されるわけではない。しかし、凶悪事件と報道されたこれらの事件の裁判を検討しなおしてみると、どうしても判断の難しいアポリアにぶつかってしまう。

 第一に、一般的な社会通念からすると了解困難な彼らの内面世界。日常の振舞いにしても言葉にしても、対人的なコミュニケーションを通して他者との了解可能性をもった社会的感覚が内面化される。ところが、対人相互関係を持つ上で生得的なハンディキャップがあるために、たとえば会話をしていても、言葉の持つ微妙なニュアンスが通じなくて誤解が深まったりしてしまう。投げかけられた言葉をダイレクトに受け止めてしまうので外的影響に左右されやすく、その一方で思い込みも強いため(つまり、最初のインプットの影響が大きくなってしまう)、問題行動として周囲と摩擦を引き起こすことにもなりかねない(逮捕された時には取調官の誘導に乗りやすく、そのまま有罪となってしまうケースが多い)。それは治療というレベルとは質的に異なる問題である。さらに言うなら、刑事裁判という場面で判断の基準となるはずの責任能力をいったいどのように捉えたらいいのかという根源的な問いにつながってしまう。責任能力概念の背景をなす自由意志や理性なるものは、そもそも対人了解性が大前提なのだから。

 第二に、処遇の問題。知的障害→犯罪に直結するわけではもちろんない。マイナス要因が絡まりあって悪循環に陥ることのないようにするのが肝要である。しかし、前科のある知的障害者を通常の社会福祉制度は受け入れたがらない。社会に居場所がないために刑務所行きを繰り返さざるを得ない知的障害者については山本譲司『獄窓記』『累犯障害者』などに記されている。

 レッサーパンダ帽男の家庭、とりわけ妹の話は本当に悲惨で目を覆いたくなる。父は金を使い込み、兄は放浪生活のあげく殺人事件をおこし、そのしわ寄せはすべて彼女に回される。彼女は家計を支えるために中学を卒業してすぐ働き始めていたが、難病に体を蝕まれており、誰も助けてくれる人がいないため手術費用までも自分で稼がねばならない状況だった。その稼いだ金までも父は使い込んでしまう。皮肉なことに、彼女の孤立した窮状が分かったのは、兄が殺人事件を起こしたことがきっかけなのである(この際に父にも知的障害のあることが判明)。彼女は24歳で亡くなった。

 著者自身にも養護学校の教員だった体験がある。厳罰化か保護処分かというような不毛な二項対立図式に落ち込ませず、被害者遺族の感情も正面から受け止めながら、本当に考えるべきところに踏み込もうとする著者の真摯な姿勢に訴える力を強く持ったノンフィクションである。

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2009年7月11日 (土)

山本譲司『獄窓記』、他

 秘書給与流用疑惑で国会議員の辞職が相次ぐという事件があったが、『獄窓記』(新潮文庫、2008年)の著者・山本譲司もそうした中で逮捕された。見せしめの意味があったのだろうか、佐藤優以来頻繁に用いられるようになった国策捜査という言葉も思い浮かぶ。ただし、彼は自分にけじめをつけるため控訴はせず、刑に服した。本書は獄中での自己省察をつづった手記ではあるが、塀の中で目の当たりにした光景は、彼が新しい仕事に取り組むきっかけとなった。触法障害者の問題である。

 犯罪の凶悪化が印象論として語られがちだが、あまり根拠がない(たとえば、芹沢一也・浜井浩一『犯罪不安社会』光文社新書、2006年→こちらを参照)。刑務所の収容者数は許容限度を超えているが、その大半は知的障害者、高齢者、外国人労働者など、外の社会ではまともに生活できないがゆえに法に触れてしまって送り込まれた人々で占められている(中には騙されて犯罪に巻き込まれ、裁判でもまともな取り扱いを受けられないまま刑を受けた知的障害者もいる)。刑務所は社会に居場所のない人々が最後にたどり着く場所となっている。義務作業が正常に運営できないほどである。しかし、刑務官は社会福祉的な訓練を受けていないから対応にはどうしても限度があるし、かと言って収容者を追い出すわけにはいかない。正常な社会関係に組み込まれることのないまま悪循環に陥ってしまっている点では社会的排除の概念で捉えるべきだろう(岩田正美『社会的排除』有斐閣、2008年→こちらを参照)。

 刑務所内の具体的な問題については浜井浩一『刑務所の風景──社会を見つめる刑務所モノグラフ』(日本評論社、2006年)が詳しい。著者自身の刑務所勤務経験を踏まえて問題点が体系的に整理されている。

 山本譲司『累犯障害者』(新潮社、2006年)を以前に取り上げたことがある(→こちら)が、家庭にも社会にも居場所がなくて刑務所行きを繰り返してしまう不条理には何とも言えずやりきれない思いがした。

 山本譲司『続 獄窓記』(ポプラ社、2008年)は『獄窓記』の後日譚。『獄窓記』出版には様々な反響があったそうで、一冊の本をきっかけに問題意識を共有する人々が集まり改善に取り組む努力が着実に進められていることには救われる思いがする。両書とも、挫折感と何よりも前科者という烙印に押しつぶされそうになりながら、そうした心情を抱いてしまう自分自身の問題点をできるだけ素直に書き記そうとしている努力に好感を持った。この人は挫折と人生の不条理を知っている。だから、これからこそ良い仕事ができる、そう感じさせる。

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2009年7月10日 (金)

ジグムント・バウマン『リキッド・ライフ──現代における生の諸相』

ジグムント・バウマン(長谷川啓介訳)『リキッド・ライフ──現代における生の諸相』(大月書店、2008年)

・「リキッド・モダン」社会:そこに生きる人々の行動が、一定の習慣やルーティンに凝固する前に、その行動の条件の方が先に変化してしまう社会→絶え間ない不安定・不確実。イス取りゲームや自転車操業のイメージ。長期性・全体性という考え方はなくなる→即席の満足と個人的な幸福が基準。(※かつての「ソリッド・モダン」社会では「楽しみは後回しにする」「じっくり取り組む」のが基本)
「かつて、進歩の論理は議論の余地のないものであり、優劣の秩序が、この論理によって構造化され、見まごうことなく実在していた(あるいは想定されていた)。しかし、その秩序はいまや侵食され溶解してしまった。他方で、新たな秩序はあまりにも流動的で、きちんとした形へと固まることができないし、アイデンティティを組み立てるために頼りにできる準拠枠として採用されうるほど、長期に形状を保つこともない。結果として、「アイデンティティ」は、ほとんど自分で設定し、自分で自分に割り振るものとなった。その努力の結果について思い患うのも、各自の問題となる。また思い患ったところで、その努力の結果は、明らかに一時的なものであって、その有効期限もはっきりと規定されておらず、たぶん長くない。」(59ページ)

・“個性的”であることが強制される社会。しかし、“個性”の主張がそのまま没個性的であるという逆説。他者との差異は消費活動を通して示される。
「今では、「流行中」と「時代遅れ」の間のズレによって独自性は測定され評価されている。もっと言えば、今日出た商品と、まだ「流行中」とされ商品棚に陳列されている昨日の商品との差異によって独自性は決まる。独自性追求の成否を決めるのは、走者たちのスピードである。」(47-48ページ)

・「たえまない変化の中から確実に出現する「アイデンティティの核」が一つだけある。…(それは)ホモ・エリゲンス、すなわち「選んでいる人」である(「選んでしまった人」ではない!)。永遠に永続せず、完全に不完全で、不明確であることは明確な、本来的に非本来的な、そういう自我である。」(63ページ)

・「欠陥のある消費者」→「リキッド・モダン」社会に固有のホモ・サケル→バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』(昭和堂、2007年)を参照のこと(→こちら)。

・消費市場はギリシア神話に出てくるミダス王のようなもの。「市場が触れるものはすべて消費商品になる。その手を逃れるにも、その逃避の試みで利用される方法や手段さえも、すべて商品である。」(154ページ)

・個人レベルにおけるエンパワーメントのためには異質な他者との対話が必要→公共空間をいかに再構築するのかという問題意識。

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2009年7月 9日 (木)

岩田正美『社会的排除──参加の欠如・不確かな帰属』

岩田正美『社会的排除──参加の欠如・不確かな帰属』(有斐閣、2008年)を読みながらメモ。

・社会関係から切り離されている→意思表示できない状態。
・様々な不利の複合的経験(①人的資本:資質・生育環境・教育など、②物的資本:住居など、③金融資本:資産・負債)→一人一人に個別的な問題。
・“貧困”と“社会的排除”は重なり合う概念で解釈の余地が広い→①因果関係として捉える。②重複した部分があると捉える。③入れ子構造で捉える。
・“社会的排除”概念の有効性は?→①“貧困”が個人の状態に重きが置かれるのに対し、“社会的排除”は社会との関係において個人の位置付けを問う視点。②誰がどのように排除するのかと主体の作用を問う視点(国家や社会だけでなく本人という主体も含めて)。③福祉国家の機能不全を示す。

・帰属の問題(家族の扶養、職場等の相互扶助、福祉国家のサービス)が大きい。帰属の定点の喪失→生きていく基点としての住居が必要。
・社会からの“引きはがし”:失業・倒産だけで社会的排除に落ち込むのではなく、離婚・病気・災害等の複合的な要因で定点を失う→社会的排除というケース。
・職場だけでなく家族・近隣関係など様々なチャネルを通した社会参加がもともと中途半端→その延長線上に社会的排除というケース。
・“中途半端な社会参加”の再生産→社会的排除に陥りやすい人々。若者の就職という移行期において“完全な社会参加”獲得に失敗→社会との“中途半端な接合”状態が続く。実家の経済状態や家族関係など人的資本に関わる問題が大きい。
・空間的側面で考えると、社会の周縁をウロウロするだけで中心には取り込まれないという問題。①“寮”(飯場など)、②“ヤド”(簡易宿泊施設など)、③“シセツ”(病院・刑務所など)、④“ミセ”(ネットカフェなど)

・セーフティネットからの脱落。
・生活保護→疾病・障害・老齢などの理由が中心で、稼動年齢層の人々への給付には慎重→行政側には“惰民”をつくることへの危惧。
・そもそも制度を知らない。その日その日をどう生きるかという瀬戸際にある→福祉サービスの“ちょい利用”
・知的障害者→認知されれば障害者手帳を取得できるが、本人に自覚がなく支援に乗り出す人もいなければ放置される。通常は家族や学校等で気付かれるが、そうした関係のないまま生きてきた人々。

・従来の施策は労働参加を強調。しかし、①労働の“能力”はどのように判定するのか。 ②民間企業の斡旋→あくまでも間接的な政策対応。③就労支援→否応なく稼働能力の有無で選別→“失敗した人”の識別→この人々はどうすればいいのか。
・社会的排除に落ち込んでしまう背景として、社会参加へのチャネルから切り離されているという状態がある。社会的包摂を考える場合にも、具体的な労働→経済的自立というだけでなく、ある社会への帰属に向けた現実的基点として住居・住所の確保と市民としての権利義務の回復に焦点を当てる必要。

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2009年7月 8日 (水)

ピエール・ブルデュー『市場独裁主義批判』

ピエール・ブルデュー(加藤晴久訳)『市場独裁主義批判』(藤原書店、2000年)

 ブルデューのネオ・リベラリズム批判の発言を集めた本。何だかアジテーション・ビラみたいな語り口にちょっと違和感もあったが、関心を持ったポイントを箇条書きすると、
・“能力”を中核とした社会システムの正当化→“能力”形成には教育問題等様々な事情が関わってくるわけだが、そうした個別の事情は一切オミットされて、倫理的基準に置き換えられてしまう。
・グローバル化による不安定な就労状況そのものを企業は戦略的に活用→国内労働者は地球の裏側の外国人労働者と競争→人件費抑制等の名目で“弾力化”→新しいタイプの支配様式。

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2009年7月 7日 (火)

広田照幸『日本人のしつけは衰退したか──教育する家族のゆくえ』

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか──教育する家族のゆくえ』(講談社現代新書、1999年)を読みながらメモ。

 まず、日本の近代化のプロセスにおける家庭・地域社会・学校の関係が考察される。時にノスタルジックに語られる村落共同体のしつけは果たして理想的だったのか? 実際を見れば差別や抑圧が内包されており、子供は放置、場合によっては酷使されることもあって決してユートピア視することはできない。地域社会における停滞性→学校と軍隊という近代化駆動装置が全国共通のルールを教える機能。明治~高度経済成長にかけて学校は“遅れた”社会から脱出して近代的な職業世界に入る装置として信頼感を得ていた。

 しかし、経済水準の上昇→かつては進歩的な意味を持っていた生活指導・集団訓練が、むしろ個人性を抑圧する保守的なものと批判される→学校不信。子供のしつけよりも、“より良い地位”(学歴・職業)を目指すゲームの地位配分装置として捉えられる→学校は教育の主役ではなくなった→家庭・地域社会・学校のうち家庭が突出。つまり、家庭の教育機能が低下したのではなく、逆に子供の教育に関する最終的な責任を家庭という単位が一身に引き受けるようになった。

 パーフェクト・チャイルドへの志向性→童心主義・厳格主義・学歴主義と相異なる教育理念が混在→いずれにせよ、“子供期”の明確化→そこへ親が積極的に働きかけようという“教育する意志”→学校側に様々な要求を突きつける。

 「家庭のしつけの失敗が非行を生む」という言説→かつて非行は下流階層に集中、この言説は大正期においては富裕層向けのものであった(地域社会との関わりが薄い新中間層の登場。下流階層については、家庭のしつけではどうにもならないことが自明視されていた)。ところが、高度経済成長期の生活水準の向上・中流意識の広がり→階層格差が見えづらくなり、それに言及することもタブーとなった。どの子も非行に走る危険→あらゆる局面にわたって「家庭のしつけの失敗が非行を生む」という言説が語られるようになる。教育において社会階層・地域の間での差異が現在でも存在しているが、それにもかかわらず単一の処方箋で考えようとすることの問題。

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2009年7月 6日 (月)

教育社会学絡みの本でメモ

 教育も含めて社会システムの問題を考えるとき、“自己決定”“自己責任”というロジックがどこまで信憑性をもって通用するのか?という根本的なアポリアにぶつからざるを得ない。“自己決定”論そのものは正論であって否定はできない。ただし、その条件整備はどうなのか。

 かつての身分制社会とは異なり、現代社会はメリトクラシー(業績主義による選抜システム)に基づいて組み立てられている。つまり、機会の均等が前提である(仮にそれがフィクションに過ぎないとしても、そのフィクションが社会全般に共有されていなければシステムとしての正当性、“公平”さが確保できない)。学歴と職業的達成とに結びつきが見られるが、社会階層と学歴とに相関関係があること(学歴の親子間継承)が指摘されている(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ──学歴主義と平等神話の戦後史』[中公新書、1995年]、佐藤俊樹『不平等社会日本』[中公新書、2000年]など)。つまり、義務教育以前の家庭的・環境的要因によってスタートラインが異なる→ところが、受験競争(=機会の均等)というフィルタリング→スタートラインにおける格差が覆い隠されてきた。また、学習に向けた意欲そのものにも家庭環境によって格差がある(意欲格差=インセンティブ・ディバイド)→“機会の均等”には“努力”の均等分布が大前提となるが、この仮定自体にも疑問符がつけられてしまう(苅谷剛彦『階層化日本と教育危機──不平等再生産から意欲格差社会へ』[有信堂、2001年]、山田昌弘『希望格差社会──「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』[筑摩書房、2004年]など)。苅谷剛彦『教育と平等──大衆教育社会はいかに生成したか』(中公新書、2009年)によると、戦後日本社会における義務教育制度整備の努力→均質的な教育空間の創出→教育の画一化・国家統制など様々な批判があるのは確かだが、同時に少なくとも環境要因による悪条件是正・格差縮小に貢献してきたと評価することもできる。しかし、財政縮小→そうした努力を裏付けた財政的再配分政策の維持困難→義務教育以前の家庭的・環境的要因による格差が露わになる可能性がある。

 苅谷剛彦『学力と階層──教育の綻びをどう修正するか』(朝日新聞出版、2008年)を読んで関心を持った点を箇条書きすると、
・①受験勉強→一元的評価基準→分かりやすい→努力目標として成立。対して、②「生きる力」論→目標・評価基準が曖昧→多様と言えば聞こえは良いが、実際には学校以外の家庭的・環境的要因で左右されやすくなる。“ガリ勉”の否定→その生徒の家庭環境によっては勉強を怠ける口実→格差拡大
・アンソニー・ギデンズの指摘した社会的再帰性・セルフモニタリングという指摘との関わりで(以前に取り上げたアンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?──モダニティの帰結』を参照→こちら)、実証研究として提示された“事実”→その“事実”もまた次なる政策形成に取り込まれて次の展開へ→実証研究といえども必ずしも価値自由ではあり得ない。
・社会的再帰性→人的資本概念の変容:人的資本はストックとみなされなくなった→知識の陳腐化のスピード→個人の側でセルフモニタリングによって常に新しい状況に適合する形で人的資本の中身も絶えず変わっていく(知識経済)→学習し続けることの強制→“学習意欲”の階層差が浮き彫りにされる。
・自己実現アノミーの問題

 苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ──学歴主義と平等神話の戦後史』では、イギリスの階級社会(D・H・ロレンス→奨学金少年の悲劇、つまり低階層出身者は頑張って勉強して這い上がってもライフスタイルの面で上流社会に溶け込めず疎外感を味わう)、アメリカの多民族社会(黒人・ヒスパニックなど)に対して日本の学歴社会を考察。受験競争に基づく学歴エリート→受験知識は社会的にそれほど高い価値を置かれていない(頭でっかちで実力とは違うじゃないかという批判的言説が普通に見られる)→あくまでも一般大衆社会の延長線上にいる器用な成功者と受け止められる。エリートならざるエリート。ノブレス・オブリージュの感覚はないが、見方を変えれば平等主義的心性を内面化したエリートとも言える→能力主義と平等主義との日本的な絡まりあい(ここを“面の平等化”という論点で義務教育制度について議論を進めるのが苅谷『教育と平等』)。身分的秩序ではないので社会統合しやすい。

 昨今の“格差”論バブルの中、学歴=メリトクラシーという点を明確にした上で感情論を排した議論を進めようとするのが吉川徹『学歴分断社会』(ちくま新書、2009年)。従来の社会階層研究では職業を固定的に把握(たとえば、佐藤俊樹『不平等社会日本』)→高度成長期を対象とするには適した分析だが、雇用の流動性が高まっている現在では通用しないという。従来の社会階層研究の注目点であった職業や経済力の親子間継承ではなく、学歴の親子間継承という論点なら社会格差について一貫した説明ができると問題提起→学歴分断線を指摘する。インセンティブとなる将来の見通しに学歴分断という壁が立ちはだかるという議論を示し、その中に苅谷『階層化日本と教育危機』や山田『希望格差社会』で指摘された論点も取り込まれる。

 増田ユリヤ『新しい「教育格差」』(講談社現代新書、2009年)は、タイトルに“格差”とはあるが、内容的には教育現場の具体的な問題の紹介に重きを置き、実例を通して問いを投げかける。

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2009年7月 3日 (金)

苅谷剛彦『教育と平等──大衆教育社会はいかに生成したか』

苅谷剛彦『教育と平等──大衆教育社会はいかに生成したか』(中公新書、2009年)

 戦後日本の教育制度は義務教育を広く拡充させた一方で、個性抑圧の画一性・国家統制といった批判も根強い。本書は義務教育費配分という財政構図の問題を切り口に日本の教育システムの背景にあるロジックを浮き彫りにする。

 戦後間もなく、地域間の経済格差と教育的達成とに相関関係が見られ、こうした障害をなくして如何に教育環境を全国均質の水準に持っていくかが課題となっていた。本来ならばアメリカのように生徒単位の財政配分をしたいところだが、財源上の制約から教員単位の財政配分となり、財源の効率活用のためカリキュラムも標準化→生徒一人ひとりではなく集団単位で教育条件の均質化を図る→“面の平等化”が行なわれた。これが画一化・国家統制の表われとも批判されたが、他方で教育条件の格差の是正という点では地方でも下からの努力が見られた。そうした点では政府による政策と教育現場、双方の合意によって“面の平等化”という形で格差是正が進められたと言える。

 メリトクラシー(業績主義的な選抜システム)の正当性を担保するには、スタートラインは同じ、つまり教育における機会均等(仮にフィクションであったとしても)が行渡っているとみなされていなければならない。戦後日本の教育には確かに色々と問題もあるだろうが、システム上の信憑性を確保できる程度には成果があったと考えられる。個性重視教育は能力主義差別につながるという考え方があるが、こうした“面の不平等”の是正によって、個人間の差異を際立たせない(つまり、生徒に差別的処遇をしない)形で一定の教育の平等を達成した(つまり、劣悪な教育条件で不利な立場にある生徒も間接的に救済した)と評価できるという指摘が興味深い。

 教育の均質化に対しては、かつては生徒の内発性・やる気を損なうという心理的な個人主義、近年は経済主体としての自己決定に重きを置く新自由主義的な個人主義から批判がある。それぞれ一理はあるにしても、教育の問題も含め社会制度を考える上では自由と平等のアンビバレンスという究極の困難を避けて通ることはできない。本書はそうしたアポリアを正面から受け止め、教育における共通化か差異化かという二項対立を乗り越えようというところに問題意識がある。

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2009年6月20日 (土)

宮崎学『ヤクザと日本──近代の無頼』『近代ヤクザ肯定論──山口組の90年』

宮崎学『ヤクザと日本──近代の無頼』(ちくま新書、2008年)、『近代ヤクザ肯定論──山口組の90年』(筑摩書房、2007年)

 両著ともヤクザという着眼点を通して近代日本社会の変容を正面から論じている。『ヤクザと日本』は理論的な枠組みを示し、『近代ヤクザ肯定論』はその具体例として山口組を取り上げている。著者自身がヤクザの家に生まれ、かつアウトロー的な生き方をしてきたという事情を踏まえつつも、分析の視座はアカデミックに着実。単なるヤクザ論という以前に、日本にとっての“近代”とは何かを考える上で逸することのできない説得力の重さと視野の奥行きを持っている。

 いつの時代でもどこの国でも正統的な統治のシステムから疎外された残余が必ず現われる。明治以降、近代的な法体系が確立されつつも、そこから排除された周縁社会・下層社会、具体的には貧困者、被差別部落、在日等々、こういった人々を受け入れるアジールとしての役割を果たしたのが近代ヤクザであった(全学連の唐牛健太郎や島成郎を山口組の田岡一雄が田中清玄のルートで受け入れたというのは初めて知った)。善悪是非という以前に、とにかく他に生きていく道のない者たちが寄り集まった組織。谷川康太郎(康東華)の「ヤクザとは哀愁の共同体である」という表現が印象的だ。

 人的関係を通して仕切りをするのがヤクザの役割。国家権力とは独立した社会的権力として認知され、周縁社会・下層社会と地域社会・職域社会との仲裁者として実力を持った。地域社会に根を張ったヤクザの実力的な凄みは場合によっては下からの反抗を取りまとめる可能性を秘めていたため、国家権力はその取り込みを図る(具体的には、政友会系の大日本国粋会や民政党系の大和民労会)。

 そうしたヤクザも、日本社会における資本主義の進展、国家の中央集権化傾向が強まる中、とりわけ戦後になって変化を迫られる。地域下層社会に根を張って人的に濃密な関係を持っているのがヤクザの顔役としての強みであった。ところが、港湾作業や工事・建築現場の機械化、さらには経営の論理によって資金源として労働力を捉える発想を持つようになって、そうした人的な関係がドライなものとなり、濃密な属人的関係だからこそ持っていた基盤が崩れていく。風俗産業や賭博に裏社会と表社会の垣根がなくなったこと(ビジネスの世界自体がバクチ的になったため、あえて裏社会として賭博をする必要がなくなった)、ドロップアウトした青年の受け皿がなくなったことなどもそうした変容の問題として指摘される(このあたりは、先日取り上げた河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』でも指摘されていた→こちら)。

 “近代”という時代現象は、資本の論理にしても、権力の論理にしても、社会のあらゆる領野を平面化していく運動性を持っている。しかし、表社会は必ず排除のロジックをはらみ、従って裏社会にもそれが生まれざるを得ない存在理由があったことを考えると、いわゆる“風通しの良さ”が単純に健全な社会と言えるのかどうか、疑問符をつけざるを得ない。

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2009年6月18日 (木)

芹沢一也『〈法〉から解放される権力──犯罪、狂気、貧困、そして大正デモクラシー』

芹沢一也『〈法〉から解放される権力──犯罪、狂気、貧困、そして大正デモクラシー』(新曜社、2001年)

 ミシェル・フーコー的な権力論の視座を通して大正デモクラシーの時代風潮を読み解こうとした刺激的な論考である。本書は、統治の対象としての民衆が可視化、直接権力の眼差しにさらされ始めた状況として“大正的な社会”を捉える。

 吉野作造の民本主義と牧野英一の新派刑法学とが“法からの解放”という点で実は同じロジックをとっていたという指摘に興味が引かれた。吉野の民本主義は、民衆の台頭という社会状況を踏まえ、明治憲法に規定された天皇主権を“カッコに括る”(つまり、主権の所在を問わない)ことにより、民衆の意向を汲み上げる政治実践を可能とする理論的基礎を示した。こうした吉野(及び美濃部達吉の天皇機関説)の“カッコ入れ”のロジックに対し、明治憲法を愚直に読んで天皇主権説を主張した上杉慎吉が比較される。

 一方、牧野は刑法の硬直性に批判を向けていた。旧来的な刑法では個々の犯罪と法に規定された刑罰とが一対一で対応され、裁判官はその機械的な適用が役割となる。事後的に罰するという刑罰観は応報に力点が置かれているわけだが、対して牧野は社会防衛の必要を強調した。犯罪を犯し得る人間類型の措定→将来の危険可能性・再犯可能性を“悪性”として把握→振舞いの結果としての犯罪ではなく、人間の内的な主観に矛先を向けて予防するという考え方である。“悪性”を治癒するための手段として刑罰を捉える。このように牧野は、秩序維持のための予防として法を柔軟に運用すべきという観点から論陣を張った。つまり、罪刑法定主義を“カッコに括る”、言い換えると、法として明文化された言説から離れた次元に立ち、個々の事情に応じて裁量で政策対応すべきというロジックをとった。

 “悪性”の原因が“狂気”にあるとすれば、犯罪者を治癒の対象として捉え、精神医学の領域に踏み込むことになる。犯罪の原因を貧困に求めれば社会政策の領域につながり、本書では方面委員制度について検討される。このように犯罪撲滅の手段としての刑罰、“狂気”の治癒としての精神医学、貧困解消のための社会政策と並べたコンテクストの中で考えると、吉野の民本主義についても民衆の要求を政治へ汲み上げることによって急進的な革命を予防する発想が込められたものとして理解することもできる。

 以上のように権力の視野が社会生活に浸透していくことは、一面において福利の向上=社会の進歩という側面をあわせ持つにしても、同時に統治のロジックによる操作可能性が人々の生活の内在的なレベルにまで広がったとも言える。あくまでも一つの視点ではあるが、そうした現代社会にもつながる問題意識を大正という時代状況から読み取った論考として興味深い。

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2009年6月17日 (水)

河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス──治安の法社会学』

河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス──治安の法社会学』(岩波書店、2004年)

 日本の犯罪は果たして増加・凶悪化しているのだろうか? 本書はまず議論の前提作業として統計数字のカラクリを読み解き(たとえば検挙率にしても、分母である認知数を拾い上げる基準が変わると数字も大きく変動する)、マクロレベルでは日本の治安は悪化していないことを示す。

 それでは、なぜ日本の治安は悪化しているという印象論が語られるのか? 日本の社会構造の変化により、犯罪の起こり得る空間(たとえば、繁華街)と従来ならば安心して暮らすことのできた空間(たとえば、住宅街)との境界線が不明瞭になりつつため、一般の人々も体感治安の悪化を感じるようになったのだという。犯罪を許容する空間と許容しない空間とが並立した伝統的なあり方を著者は“ハレ”と“ケ”の二分法にたとえる。“ハレ”としての裏社会には裏社会なりに自己完結したシステムがあり、“ケ”の世界から排除された前科者を受け入れ、総体として両者は共存していたと指摘される。治安に関わる事件や人々の動きは“ケ”の世界から隠されることで成立してきたのが従来のあり方で、それを著者は“安全神話の構造”と呼ぶ。このシステムはインフォーマルで濃密な対面的人間関係によって維持されてきたが、対人関係のあり方が変容した現在、維持しきれなくなっているところに問題点を見出す。

 治安の問題を政策対応という次元で考えるのではなく、統計上の治安と体感治安とのズレ、法規定と実際の制度運用とのズレ、そうしたあわいから日本社会の変容を見出していく視点に色々な示唆が感じられて実に興味深い。

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2009年6月13日 (土)

河合幹雄『日本の殺人』、浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会──誰もが「不審者」?』

河合幹雄『日本の殺人』(ちくま新書、2009年)

 著者は法社会学者(たしか河合隼雄の息子さんではなかったか)。本書の3分の2ほども占める第1章ではいわゆる“殺人事件”のあらゆるケースが個別に検討される。『犯罪白書』等の統計を踏まえつつ、データの前提としてのカテゴリーにはくくりきれない側面も注意深く読み取りながら、“殺人”なる事象の複雑多様なあり様を示す。殺人は戦後減少傾向にあること、家族がらみのケースが半分以上を占めることなどが指摘される。

 一部マスメディアを通してふりまかれる「治安の悪化」「厳罰化による犯罪抑止」といった言説の問題点は最近よく指摘されるようになってきたが、それとの関わりで“安全神話の構造”という論点に興味を持った。“凶悪犯罪”をワイドショー等で無責任に消費できるのは、実はそうした“犯罪”の問題は、一般の日常生活から切り離された非日常として区分けされているからだという。一般人は重大“犯罪”に直接関わらない。他方で、出所した前科者はどこへ行ったのか? 彼らを受け入れ社会復帰させるため人知れぬところで献身的に努力している人々がいる(一般国民に知られないのに献身できる動機は何か?→第一に、公的にそうした職務についている人々に対しては天皇制という枠組みの中で褒章制度によって名誉が与えられる。第二に、任侠の世界が前科者を偏見なく受け入れてきた、以上二つの指摘も興味がひかれる)。日常と非日常の区別によってこれまで“安全神話”が成り立ってきたが、近年はこの仕組みが崩れて“日常”の中にまで“犯罪”が拡散してきた。統計的には犯罪は減少しているのに、“体感治安”が悪化していると受け止められているのにはこうした背景があるのだという。

浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会──誰もが「不審者」?』(光文社新書、2006年)

 浜井浩一は刑務関係施設勤務の経験があり、犯罪統計論の立場から“治安悪化”という印象論の問題点を検証する。芹沢一也は思想史の立場から、マスメディアに現われた言説を検討、とりわけ空洞化したコミュニティを防犯活動によって再生させるというロジックが相互不信を強めかねない点を指摘する。

 浜井が指摘する刑務所の現実には考えさせられる。本当に凶悪犯罪が増えているのであれば、刑務所には獰猛な輩があふれかえっていてもおかしくない。しかし、実際には、高齢者、障害者、外国人など通常の社会生活ではハンディキャップのある人々が収容者の多数を占めている。そのため、懲役刑による作業義務が機能しないほどだという。厳罰化、地域の監視社会化は、むしろこうした社会的弱者を排除する方向に進み、彼らの行き着く先は刑務所しかなくなってしまう。障害者が刑務所に舞い戻らざるを得ない問題については、以前、山本譲二『累犯障害者』(新潮社、2006年)を読んでショックを受けた覚えがある。

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2009年6月11日 (木)

冤罪について

 足利事件の菅家利和さんが釈放されたという報道に接して、早速、小林篤『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』(草思社、2001年)を手に取った。事件発生は1990年、当時はDNA鑑定が威力を発揮したと喧伝されたが、証拠とされたのはそれだけで、あとは自供と精神鑑定。しかし、そもそも試料が微量だったので技術的に鑑定の精度が低く、仮に鑑定が正しかったとしても数ある該当者の一人であったに過ぎない。それでも“科学”の絶対性を盾にして取調官は無理やり自供を引き出した。信頼性がまだ検証されていない段階で“最新の科学的手法”を過信してしまうことの問題点を考えさせる。本書はこの足利事件をめぐる疑念、とりわけ捜査員が菅家さんを犯人だと思い込んでいく経緯を丹念に浮き彫りにしてくれる。

 無罪を主張する菅家さんや弁護団は再鑑定を求めていたが、裁判所はなぜか却下し続けていた。ようやく再鑑定が行なわれたところ、検察側・弁護側、双方の鑑定人ともにDNAが異なるという結論を出した。最高検が一応謝罪の会見をしたらしいが(これ自体異例のことではあるが)、形式を取り繕ったところで全く無意味なわけで、無実の罪で17年間も獄につながれてきた菅家さんの無念からすれば、何でこんなことになったのか、当時の捜査員、検察官、裁判官から誠意ある説明がなければどうにもおさまらないだろう。

 冤罪によって真犯人を取り逃がしたことは(すでに時効が成立している)職務怠慢の謗りを免れないが、それ以上に気にかかるのは、同じ頃にやはりDNA鑑定のみを証拠として死刑判決を受けた飯塚事件の被告への刑が昨年に執行されていたこと。こちらも再鑑定が争点となっていたが、もし冤罪だったらどうするのだろう?

 本当に犯人でなければ自供なんてするはずない、と考える向きもあるが、取調室という緊張に満ちた非日常の空間に置かれたときの心理的メカニズムは通常とは異なった働き方をしてしまうようだ。浜田寿美男『自白の心理学』(岩波新書、2001年)は甲山事件、仁保事件、袴田事件などの具体例を通して嘘の自白を迫られるプロセスを解き明かす。取調官は「こいつが犯人だ」と心底思い込んでいる。頭の中に初めからフィルターがかかっているから反証可能な事実関係があっても無視するし、“自白”に矛盾があってもそれは被疑者の記憶違いだとみなして“正しい”方向へと誘導していく。たとえ暴力はなくても、取調室の力関係は不均衡なので、被疑者も早く終わらせたい一心から否応なく“犯人”役を演じざるを得ない。取調官と被疑者は、彼ら自身知らないはずのストーリーを合作してしまう。それに被疑者がサインをすれば、自供調書として証拠採用される。

 検察や判事は“自白”にある「当事者のみが知り得る事実」に注目する。しかし、“自白”の矛盾したほころび、つまり「当事者ではなかったからこその無知の暴露」の方にむしろ真実が見出せると浜田書は指摘している。

 鎌田慧『死刑台からの生還』(岩波現代文庫、2007年)は財田川事件(1950年に事件発生、1984年に釈放)を取材したノンフィクションである。この事件では「当事者のみが知り得る事実」を自供した点が有罪の決め手となっていた。ところが、その「当事者のみが知り得る事実」を捜査官はすでに知っていた、従って誘導尋問のあり得たことがその後の証人による証言で判明した。なお、この財田川事件では、公判記録を読んだ裁判官・矢野伊吉が無罪を確信、辞職して自ら被告の弁護にまわった。そういう情熱的な人がいたということは何か救われる思いがする。

 秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』(岩波新書、2002年)の著者は元裁判官だが、退官後は袴田事件の弁護団にも加わるなど冤罪事件を手がけ、判事・弁護士双方の事情を熟知した立場から様々な問題点を指摘する。被告にとって有利な証拠を検察はなかなか提出したがらないため、裁判官の判断材料が限定されてしまう、それが予断・偏見につながってしまうという。取調べの可視化が必要だ。「疑わしきは被告人の有利に」という原則は現実には守られていないとも指摘される。

 朝日新聞「志布志事件」取材班『虚罪―─ドキュメント志布志事件』(岩波書店、2009年)が新刊で出ているが、こちらも“自白”に基づく冤罪事件である。鹿児島県議選で当選した新人県議を含め12人が公職選挙法違反で逮捕されたが、事件そのものが警察による捏造であったことが判明した。“踏み字”などというある意味“古典的”な取調べが行なわれていたことには驚いた。本書によると、予めストーリーを作り上げ、そこに当てはめるように被疑者から“自白”を引き出すというのが捜査指揮をとった志布志署長のやり方だった。“自白”が取れない捜査員の勤務評定は下がる。実際、逮捕はしてみたものの、捜査員の間には「こんなに証拠が乏しいのに果たして起訴できるのか?」と疑問がささやかれ、署長は“暴走列車”と呼ばれていたらしい。異議を唱えた捜査員は外された。新聞も当初は警察発表をそのまま報道していたが、捜査員からのリークが事件を洗い直すきっかけになった。

 上掲小林『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』によると、足利事件では精神鑑定にも問題がありそうだ。鑑定人・福島章氏は“代償性小児性愛”なる犯行動機を指摘しているが、菅家さんが犯人だという前提、つまり予断を持った上で彼の言動に辻褄をあわせるように鑑定書が書かれている。では、犯人ではなかった場合、この鑑定は一体何だったのか? とりあえず、福島章『犯罪精神医学入門──人はなぜ人を殺せるのか』(中公新書、2005年)に目を通した。精神医学のキーワードや学説史的背景を簡潔にまとめ、それを踏まえた上で大阪教育大付属池田小学校事件、池袋通り魔事件、永山則夫などの具体例を分析するという構成をとっており、入門書として読みやすい。一定の理論的類型を個別事例に当てはめ、組み合わせながら分析を進めるのだが、第一にどんな類型をどこに当てはめるのかは解釈者による裁量の余地が大きい(言い換えれば、解釈者個人の感性による)、第二に“犯人”が犯行に至るまでを完結した人生として捉えてそれを後知恵的に解釈していく、以上の印象を受けた。犯行という“事実”→彼の人生を再解釈という形をとっており、“犯行”の有無に拘らない内面性を必ずしも汲み取っているわけではない。むしろ、“犯行”をひっくるめて内面性を判断する。従って、冤罪の場合、“犯行”という決定的な事実関係が前提から消滅するのだから、結論がまた変わってくるはずだ。論理的手順が洗練されているので一定の説得力を持つのだが、だからこそ精神医学的なレベルでも“冤罪”がこわい。

 先日、末弘厳太郎「嘘の効用」を取り上げた(→こちら)。法の画一性(だからこそ属人的な次元を超えたところで公正さが保証される)と事案の個別具体性とに矛盾がある場合、“嘘”によってバランスをとることができる、という趣旨。“正しさ”への配慮があって、それを踏まえて条文の運用を考えるということ。前提となるのは、条文だけでなく“正しさ”への直観、だから法曹家には人格的陶冶が必要だ、という話につなげられていく。必ずしも法の条文だけで“公正さ”を保証できるとは限らないという困難に末弘の論点はあるので、冤罪の話に結び付けるのは末弘にとって不本意極まりないとは思うが、犯人と決めつける捜査官にしても精神鑑定人にしても、逆に無罪を確信する弁護人にしても、各人各様の“直観”を動機としている側面が強い。その“直観”には立場それぞれの職人的な経験則による自信が裏打ちされている。そうした“直観”が、プラスとしては条文の画一的適用では汲み取れない“公正さ”への期待にもつながるし、他方で、マイナスとしては被疑者を冤罪に陥れかねない。実に難しいところである。

 そうした難しさがあるからこそ、たとえ99%クロと思われていたとしても、判事・検事・弁護人とそれぞれ視点の異なる三者の議論を通して“真実”の検証を行なうというのが裁判の基本原則となっている。それにも拘らず、実際には判事と検事の結び付きが強いこと、証拠提出等で検事の主導性が強いことはよく指摘されているところだ。

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2009年4月27日 (月)

マックス・ヴェーバー『宗教社会学論選』

マックス・ヴェーバー(大塚久雄・生松敬三訳)『宗教社会学論選』(みすず書房1972年)から抜き書き。なお、有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も本来は『宗教社会学論集』全三巻の中の一篇であり、以下にはその勘所ともいえる箇所もある。

◆「宗教社会学論集 序言」から
・「無制限の営利欲は決して資本主義と同じではないし、ましてや、資本主義の「精神」と同じではない。資本主義は、むしろ、そうした非合理的な衝動の抑制、少なくともその合理的な調節とまさしく同一視さるべきばあいさえありうるのである。」

◆「世界宗教の経済倫理 序論」から
・「…現実の合理化過程のなかに介入してくる非合理的なものは、現世の姿から超現実的な価値がはぎとられていけばいくほど、そうした価値の所有を希求する知性主義の押さえがたい要求がますますそこへ立ち帰っていかざるをえない故郷得あった。統一的な原始的世界像のなかでは、すべてが具体的な呪術であるが、そうしたものはやがて、一方では合理的認識および合理的な自然支配へ、他方では「神秘的」な体験へという分裂の傾向を示すようになる。そして、この「神秘的」な体験のもつ言語につくしがたい内容が、神の存在しない現世のメカニズムと並立しつつ、なおも可能な唯一の彼岸として、しかも事実、そこでは個々人が神とともにいてすでに救済〔の状態〕を自己のものとしているような、そういう現世の背面に存在する捉えがたい国土として、残ることとなったのである。この結論をどこまでも押しつめていくと、個々人はみずからの救済をただ個人としてのみ求めうることになる。」

・「現世を呪術から解放することおよび、救済への道を瞑想的な「現世逃避」から行動的・禁欲的な「現世改造」へと切りかえること、この二つが残りなく達成されたのは──全世界に見出される若干の小規模な合理主義的な信団を度外視するならば──ただ西洋の禁欲的プロテスタンティズムにおける教会および信団の壮大な形成のばあいだけであった。」「宗教的達人が神の「道具」として現世に入りこみ、しかも、彼らからはあらゆる呪術的な救済手段がとり去られていて、そのために、現世の秩序の内部における自己の行為が倫理的にすぐれていることで、いや、それだけで、自分自身がすでに召されて救済の状態にあることを神の前に──つまり、事実に即していえば、自分自身の前に──「証し」しなければならぬ、そういったばあいには、「現世」そのものは、被造物的でありまた罪の容器であるとして宗教的に価値を低められ拒否されてはいるとしても、心理的には、そのことによってかえって、現世における「召命」Beruf〔すなわち、使命としての世俗的職業〕というかたちで神の欲したもう活動をおこなう、そのような舞台としてますます肯定されることになるだけであったろう。というのは、このような現世〔世俗〕内的禁欲主義は、威厳や美とか、美しい陶酔や夢とか、純世俗的な権力や純世俗的な英雄的矜持とかいった諸財を、神の国と競いあうものとして蔑視し追放してしまうという意味では、たしかに現世拒否的であるが、しかし、まさにそのゆえに、瞑想のように現世逃避的ではなくて、神の命令にしたがって現世を倫理的に合理化しようとし、したがってつねに、たとえば古代〔人〕やカトリック平信徒のあいだに見られるような砕かれていない〔生のままの〕人間性の素朴な「現世肯定」よりは、いっそう透徹した意味において、現世指向的であった。まさに日常生活のなかで、宗教的に資質ある者への恩恵と撰びが証明され〔るとし〕たのである。もちろん、日常生活のなかでといっても、それはあるがままのものではなくて、神への奉仕のために方法的に合理化された日常生活の行為においてなのであった。合理的な召命〔すなわち、使命としての職業〕にまで高められた日常生活の行為が、救済の状態にあることの証明となったのである。」

◆「世界宗教の経済倫理 中間考察」から
・神秘家と現世内的禁欲との対比→「…現世内的禁欲は…行為を通じて自己の救いの確証をえようとする。現世内的禁欲は…神の意図を──究極の意味は隠されてはいるが、聖意にしたがう被造物の合理的秩序のなかに現存している、そうした神の意図を実行しようとする。」

・「合理的な経済は、事象的な性質をおびた経営Betriebであって、市場での人間相互の利害闘争のなかから生まれてくる貨幣価格に目標を合わせることになる。貨幣価格というかたちの評価なしには、つまり、そうした利害闘争なしには、どのような計算も不可能だからである。ところで貨幣は、人間生活のなかにみられるもっとも抽象的で、「無人間的な」ものである。そのため、近代の合理的資本主義における経済の秩序は、それに内在する固有な法則性にしたがって動くようになればなるほど、およそ宗教的な同胞倫理とはいかなる関係ももちえないようなものになってくる。しかも、資本主義の経済秩序が合理的に、だから無人間的になっていけばいくほど、ますますそうならざるをえない。というのは、主人と奴隷のあいだの人間的な関係は、人間的な関係であるからこそ、余すところなく倫理的に規制することもできた。が、つぎつぎに変る不動産抵当証券の所有者と、同じようにつぎつぎに変る、だから彼らのまったく知らぬ不動産銀行の債務者との関係は、そのあいだになんらの人間的紐帯も存在しないから、それを──少なくともさきの関係と同じような意味で、また同じような成果を予期して──規制することは不可能となる。にも拘わらず、あえて規制を試みようとすれば…形式的合理性の進展を妨げることになるほかはない。なぜなら、このようなばあいには、形式的合理性と実質的合理性が互いに衝突し合うことになるからである。だからこそ、救いの宗教は…無人間的な、そして、まさにそれゆえに、とりわけ同胞倫理に対して敵対関係に立つことになるような経済的諸力の展開に対して、つねに強い不信の目を向けることになったのである。」

・「宗教と経済のあいだに見られるこうした緊張関係を原理的にかつ内面的に避けてとおる道で、首尾一貫したものは、ただ二つしか存在しなかった。その一つは、ピュウリタニズムにおける召命〔職業〕倫理のパラドックスである。これは、達人的宗教意識として、愛の普遍主義を放棄してしまうもので、現世における一切の活動をば神の聖意──その究極の意味はわれわれの理解に絶しているが、とにかく見ゆべきかたちで認識可能な神の聖意──への奉仕、また、恩恵の身分にあることの検証として合理的に事象化し、さらに進んで、現世のすべてのものとともに被造物的な堕落の状態にあるために無価値だと考えられている経済的秩序界の事象化をも、神の聖意にかなうもの、義務達成のための素材として承認した。それは究極において、根拠を知りえず、しかもつねに特殊的でしかありえないような恩恵のために、人間すべてにとって自力で到達可能な目標たりうる、そうした救いをば原理的に放棄してしまうことに他ならなかった。こうした反同胞倫理的な立場は、真実のところ、もはや本来の「救いの宗教」ではないであろう。」

・「官僚制的国家機関やそれに組み込まれている合理的な政治人は、不正の処罰をも含むその事務を国家の権力的秩序における合理的諸規則の完璧な意味にしたがって処理していくが、まさしくそうしたばあいには、経済人のばあいと同様即事象的に、つまり「人間を顧慮することなく」、「怒りも執念もなく」、憎しみも、したがって愛情もなしに事務をとりおこなう。」「政治が「即事象的」で打算的なものとなればなるほど、また激情、憤怒、愛情などを欠いたものとなればなるほど、およそ政治は、宗教的合理化の立場からすれば、ますます同胞倫理とは無縁なものと考えるほかはなくなってくるのである。」

・「合理的行為は、経済においても政治においても、それぞれの領域の自己法則性にしたがうものであるように、現世内部における他の合理的行為も、同胞関係とはおよそ無縁な現世的諸条件をば不可避的に自己の行為の手段ないし目標とするほかはないために、どのばあいにも、同胞倫理に対してなんらかの緊張関係に立つことになる。ところが、そうした合理的行為自体がまた、自己の内部に深刻な緊張関係をはらんでいる。〔というのは、こういうことである。〕合理的行為それ自体には、個々のばあいにおける行為の倫理的価値が何によって決められるべきか、成果によってか、それともその行為自体の──なんらかの倫理的規定をもつ──固有な価値によってか、そうした原初的な問題をさえ判定する手段があたえられていない。」

・「…合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を徹底的になしとげてしまうと、現世は神があたえた、したがって、なんらかの倫理的な意味をおびる方向づけをもつ世界だ、といった倫理的要請から発する諸要求との緊張関係はいよいよ決定的となってくる。なぜなら、経験的でかつ数学による方向づけをあたえられているような世界の見方は、原理的に、およそ現世内における事象の「意味」を問うというような物の見方をすべて拒否する、といった態度を生みだしてくるからである。経験科学の合理主義が増大するにつれて、宗教はますます合理的なものの領域から非合理的なものの領域へと追いこまれていき、こうしていまや、何よりも非合理的ないし反合理的な超人間的な力そのものとなってしまう。」

・「…「文化」なるものはすべて、自然的生活の有機体的循環から人間が抜け出ていくことであって、そして、まさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく。しかも、文化財への奉仕が聖なる使命とされ、「天職」〔「召命」〕Berufとされればされるほど、それは、無価値なうえに、どこにもここにも矛盾をはらみ、相互に敵対しあうような目標のために、ますます無意味な働きをあくせく続けるということになる、そうした呪われた運命におちいらざるをえないのである。」「このような現世の価値喪失は、合理的な要求と現実との、また合理的な倫理と一部合理的で一部非合理的な諸価値との衝突の結果であり、しかもこの衝突は、現世に姿を現わしてくるすべての個別諸領域の独自な特性をそれぞれにきわ立たせることによってますます激化し、また解決不可能なものとなっていく。」「現世の「意味」に関する思索が組織的となり、現世の外的な組織が合理化され、またその非合理的内容の自覚的体験が昇華されたものとなればなるほど、宗教的なるものの独自な内容は、それとまったく並行して、ますます非現世的な性質をおび、あらゆる生の形あるものとはおよそ無縁なものになりはじめる。そして、こうした道を切り拓いたのは、現世を呪術から解放する理論的思考の力だけではなくて、まさしく現世を実践的・倫理的に合理化しようとする宗教倫理の努力にほかならなかった。」

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2009年4月 4日 (土)

メアリー・C・ブリントン『失われた場を探して──ロストジェネレーションの社会学』

メアリー・C・ブリントン(池村千秋訳)『失われた場を探して──ロストジェネレーションの社会学』(NTT出版、2008年)

 ニート、フリーター、ひきこもり、ワーキング・プアetc.…と様々な言葉がとびかっているが、日本の若者が直面している問題をどのように捉えたらよいのか? 保守系論壇にありがちな価値観的な“べき”論に収斂させてしまう議論は現状にそぐわない。若者に意欲がないのが問題→自業自得という形でむしろ妙なスティグマを負わせてしまう。社会構造のはらむ問題として彼ら(と言うか、私自身も世代的に含まれるのだが)の立ち位置を考える必要がある。

 1990年代以降の不況→就職市場の狭まりも一因ではあるが、これだけでは説明のつかないところに本書は着目。学校→職場という「場」の単線的な経路をたどる就業形態が崩れてしまっている。社会関係資本の観点から言うと、日本は「場」の拘束が強い→ストロング・タイズ(強連結)が中心だが、職場の流動性の高いアメリカのようなウィーク・タイズ(弱連結、広く浅い人脈の広がり)に乏しい→多様な情報が入ってこないことを指摘。自分はどんな仕事をしたいのか、どんな適性があるのか、それを各自で探りとらせるにはどうすればいいのか。職場環境が流動的となっている現在、対人関係能力とウィーク・タイズを高めて社会的エクスプローラーとして様々な「場」を渡り歩けるようにする方向で社会は若者を支援していく必要があると主張している。

 本書では非進学校出身の若者に焦点を合わせているが、教育機会とステータスとの関わりについて、佐藤俊樹『不平等社会日本──さよなら総中流』(中公新書、2000年)は教育資源の親子間継承→社会的ステータスの階層的固定化傾向を指摘、苅谷剛彦『階層化日本と教育危機──不平等再生産から意欲格差社会へ』(有信堂高文社、2001年)は、将来何の役にも立たないのだから勉強しても仕方がないというあきらめが青少年の間に広がっている→インセンティヴ・ディヴァイドを指摘していた。企業が雇用調整という形で若者(フリーター)を使い捨てにしていることは玄田有史『仕事の中の曖昧な不安──揺れる若年の現在』(中公文庫、2005年)が早くから指摘、また、玄田有史『働く過剰』(NTT出版、2005年)は“即戦力”志向が若者に行き過ぎた負担をかけている問題点を指摘していた。学歴や家族構成が就業機会を左右してしまう問題は岩田正美『現代の貧困──ワーキングプア/ホームレス/生活保護』(ちくま新書、2007年)でも指摘されていた。若者のワーキング・プアについては雨宮処凛『生きさせろ!──難民化する若者たち』(大田出版、2007年)などが具体的な現状をルポしている。本田由紀『若者と仕事──「学校経由の就職」を超えて』(東京大学出版会、2005年)、『多元化する「能力」と日本社会──ハイパー・メリトクラシー化の中で』(NTT出版、2005年)は、問題意識では本書と共通するが、対人関係能力もまた各自の生育環境によって左右される(恵まれた家庭環境の方が有利)→学校等で習得可能な「専門性」をまず足場にする必要があると主張していた(そう言えば、玄田さんの「ニート」論が一人歩きしてしまっていることについて本田さんが批判していたな→本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』[光文社新書、2006年]を参照のこと)。なお、ストロング・タイズとウィーク・タイズについては金井壽宏『働くひとのためのキャリア・デザイン』(PHP新書、2002年)が経営学におけるキャリア論の観点から取り上げていた。

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2008年9月25日 (木)

ジグムント・バウマン『アイデンティティ』

ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『アイデンティティ』(日本経済評論社、2007年)

 ポーランド出身でイギリスに亡命した社会学者ジグムント・バウマンが、イタリアのジャーナリストのベネデット・ヴェッキから“アイデンティティ”というテーマで出されたメールによる質問に応答するという形で交わした対話。

・「私のユダヤ性は、他の国が犯す残虐さよりもイスラエルの不正の方が私に苦痛を与えることで確認されます」(36ページ)。
・“アイデンティティ”、とりわけ“ナショナル・アイデンティティ”は“自然な”ものではなく一つのフィクション→“われわれ”と“彼ら”との間に境界線を引き、強化、監視。
・「「出生による帰属」が自動的にまた明白に一つのネーションへの帰属を意味したという想定の「自然さ」は、必死の努力によって作り上げられた決まりごとであり、見かけの「自然さ」にもかかわらず、少しも「自然」ではないのです。…ネーションは、概念操作に媒介されて初めて生活世界に入り込むことができる、想像される実体でした。自然さの外見、そして主張される帰属の信頼性も、長期に及んだ過去の戦いの最終産物にほかならず、また、その永続性は、来るべき戦いによってしか保証できなかったのです。」(51ページ)
(※→ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』と同様の議論)

・新たに登場したグローバルなヒエラルキーにおいて二極化。地球規模で自由気ままにアイデンティティを構成・分解できる人々がいる一方で、アイデンティティを選ぶ選択肢のない人々がいる→屈辱感の中でスティグマ化、非人間化、周辺化(71~73ページ)(※→バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』(昭和堂、2007年)の議論)

・リキッド・モダニティの流動性→アイデンティティのありかをその場その場でかけかえる→“クロックルーム・コミュニティ”(※→バウマン『リキッド・モダニティ』(大月書店、2001年)の議論)
・民営化・規制緩和→国家による救済には頼らず、自助努力→失敗したら自らの怠惰を責められる。
・リキッド・モダニティにけるアイデンティティの構築は、望みたいポイントに行き着くために何が必要か(道具的合理性の論理:既定の目標への正しい手段の選択)ではなく、手持ちのリソースでたどり着けるポイントはどこなのかを探すこと(目的合理性の論理:既定の手段で達成できる目標がどれほど魅力的かを知ること)。
・人々の関心のスパン、とりわけ何かを始める際の見通しや計画作りのタイムスパンが短くなっている。

・婚姻関係→関係の開始に当っては二人の合意が必要だが、終結には片方の決断だけで十分→私が飽きる前にパートナーが飽きてしまったらどうしよう?→容易に関係から抜け出せる可能性そのものが愛の成就に対する障害。

・近代科学→「神の心が計り知れないのなら、読みとれないものを読むことに時間を費やすのは止めて、われわれ人間が理解できて実行できることに集中しようではないか」という発想。
・「近代の戦略は、人間の力を超える大問題を切り刻んで、人間が処理できる小さな作業に置き換えることから成り立っています。「大問題」は解決されずに棚上げにされ、脇に置かれ、争点から外され、忘れられてしまって、めったに思い出されることはありません。「今」についての悩みで頭がいっぱいで、永遠なものについて思い悩む余裕がなく、それについて省みる時間もありません。液状の絶えず変化する環境の中で、時間の流れに左右されない永遠や永久的な持続、不朽の価値は、人間の経験の中にみられません」。「変化のスピードが永続性(耐久性)という価値に対する必殺の一撃となっているのです」(115~116ページ)。

・アイデンティティの強固な核、「私はだれ」という疑問への回答と、その回答への信頼→自己を他の人々に結び付けている絆と、そうした絆がやがて信頼がおけて安定したものになるという想定がなければ作れない→そうした関係はリキッド・モダニティにおいて両義的
・規制緩和の中での予測不可能な選択者の不安→選択者に「著しく欠けているものが、信用や信頼という価値であり、自信という価値です。原理主義(宗教的原理主義も同じ)は、そうした価値を提示しています。それは、あらかじめすべての競合する主張を無効にし、反対者や「異教徒」との対話を拒むことで、確信の感情を浸み込ませ、自らが提示する単純で吸収しやすい行動規範から、あらゆる疑念を拭い去ります。それは、外部に広がっているカオスを遮断する、高くて通り抜けできない壁の内側で得ることができ、享受することができる、心地よい安全の感覚をもたらしてくれます」(133ページ)。「これらの集まりは、社会国家の後退によって放棄されてしまった職務や義務を拾い上げています。それはまた、社会が拒んでいる、人間らしい生活という、残念ながら失われてしまった要素を彼らに提供しています。つまり、目標や有意義な人生(あるいは有意義な死)、全体的なものごとの枠組みの中での正当で尊厳のある場という感覚を与えているのです」(134ページ)。

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2008年9月17日 (水)

アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?──モダニティの帰結』

アンソニー・ギデンズ(松尾精文・小幡正敏訳)『近代とはいかなる時代か?──モダニティの帰結』而立書房、1993年

 ここのところ色々と面倒くさいので、前回同様に箇条書きメモです。ギデンズの議論は、“脱~”→“再~”という循環性の中で錯綜する状況を捉え返していこうとするところに特徴がありますね。

脱埋め込み
・時間と空間の均質化・分離→個人一人一人の活動が地域ごとの特定の脈絡に「埋め込まれていた」状態から解き放たれる→無限に拡大された時空間の中で社会関係を再構築。
・抽象的システム・専門家システムへの“信仰”(なぜ飛行機が飛ぶのかという原理を知らなくても、我々は飛行機を利用する)や貨幣(時間・空間の括弧入れ)→時空間拡大の手段

再帰性
・「再帰性は、システムの再生産の基盤そのもののなかに入り込み、その結果、思考と行為とはつねに互いに反照し合うようになる。日常生活で確立された型にはまった行いは、「以前なされた」ことがらが、新たに手にした知識に照らして理に適うかたちで擁護できる点とたまたま一致する場合を除けば、過去とは本来的に何の結びつきももたない。あるしきたりを、それが伝承されてきたものであるという理由だけで是認することはできない。伝統は、伝統によってはそれ自体の信憑性が検認できない、そうした知識に照らしてのみ正当化することが可能である。この点は、習慣自体がもつ惰性とあいまって、たとえ近代の最も進んだ社会においてさえ、伝統が引きつづき何らかの働きを果していることを意味する。しかし、伝統の果たす役割は、現代の世界での伝統とモダニティとの融合に着目する論者が想定するほどには、概して大きくはない。なぜなら、正統と認められている伝統は、見せかけの衣をまとった伝統であって、その存在証明(アイデンティティ)を近代の有する再帰性からのみ得ているからである。」(55ページ)
(※エリック・ホブズボームたちの『創られた伝統』も同様の議論)
・社会科学の研究成果は一般の人びとにも摂取される→「モダニティの示す再帰性は、体系的な自己認識が絶えず生成されていくことと直接関係するため、専門家の知識と一般の人びとが行為の際に用いる知識との関係を固定化しない。専門的観察者の求める知識は(何らかに、また多様なかたちで)その認識対象と再び一体化し、それによって(原理的にも、また通常、実際にも)その認識対象を変えていく。」(63ページ)
(※エコノミストが年頭の景気予測がはずれた時、自分の予言が適切だったからこそみんな違う投資行動を取った、その結果としてはずれたのだと言い訳をする小話を思い浮かべた)

信頼と存在論的安心
・確かにあり得る不安であっても度を越した不安(いわゆる“杞憂”ってやつですね)→精神分裂的にも見えるが、他の「普通の人びと」がこれを変だと思うのは、幼少期から“信頼”という予防接種を受けているから。
・「…人間以外の対象の信憑性にたいする信頼は、一人ひとりの人間の信憑性や養育にたいする、もっと原初的な信仰にもとづいている。他者にたいする信頼は、絶えず繰り返して生ずる心理学的欲求である。他者の信憑性や高潔さから確信を引き出すことは、熟知している社会的、物質的環境で経験に付随して生ずる、いわば情緒の再成型である。存在論的安心と型にはまった行いは、習慣という浸透性の強い影響力を介して、本質的に結びついている。…日々の生活の(一見)こまごました型にはまった行いの予測可能性は、心理学的安心感と深く関係している。そうした型にはまった行いが──いかなる理由からであれ──損なわれた場合、不安は、洪水のように押し寄せて、一人ひとりのパーソナリティの揺るぎなく確立された諸側面をさえ剥ぎ取って、つくり変えていくかもしれない。」(124ページ)
・前近代において偶然的なリスクを伴う環境→“信頼”を伴う関係状況で対処:①親族、②地域共同体、③宗教、④伝統(時間的な連続性を生活パターンとして定式化→存在論的安心感に寄与)→これらは脱埋め込み・再帰性により弱体化→モダニティにおいてリスクは査定可能で、不可避的運命とは捉えない。
・脱埋め込みと同時に、再埋め込み→近代は非人格的システムが生活世界を覆いつくしていくというイメージは正しくない(176ページ)。他者との親密性はかつて場所的特性の中にあったが、現在は距離を隔てても可能。
・モダニティにおいては、自己実現がアイデンティティの基盤。

ジャガノート、ハイ・モダニティ(ポスト・モダンではない)
・モダニティは、操縦の極めて困難な大型トラック・ジャガノートが暴走しているようなもの。
・グローバル化したリスク→専門家知識の限界。
・社会的知識の循環性→社会的環境の機能に対して次々と新たな知識が投入されてくる(現状分析→新しい理論という形で。たとえば、投機市場なんか特徴的でしょう)→安定不変の社会的環境は形成できない。
・「近代という時代を創りだした人びとは、先在するドグマにとって代わり確信できるものを捜し求めたとはいえ、近代の時代気質のなかには、実際上、懐疑心が制度化されている。…近代においては、知の主張はいずれも本来的に循環していく。」(218ページ)
・「…グローバル化のもたらす不安定な帰結は、モダニティの示す再帰性が循環的なものであることと相まって、リスクと偶然性がいまだかつてない特質を呈するような事象世界を形づくっていく。…グローバル化は、ローカルな極とグローバルの極の両端で、人びとを、変動の複雑な弁証法の構成要素として、規模の大きなシステムに結び付けていく。しばしばポスト・モダンというレッテルを貼られている現象の多くは、実際には歴史上類例をみないかたちで目の前にあるものとないものとが混在する世界に生きることの経験と関係している。モダニティの示す循環性が定着していくにつれて、進歩は内容を欠いていき、また、横のレヴェルでは、「ひとつの世界」に生きることが必然的にもたらす日々流入する情報の量は、時として圧倒的なものになりうる。しかし、それは、文化の崩壊や、自我が中心性を欠いた「記号世界」のなかに分解していくことの表出では《ない》。それは、重大な帰結をもたらすリスクにみちた、気のもめる舞台背景のもとで展開する、自我と地球規模の社会組織との同時変容の過程である。」(219ページ)

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2008年9月16日 (火)

ジョック・ヤング『後期近代の眩暈──排除から過剰包摂へ』

ジョック・ヤング(木下ちがや・中村好孝・丸山真央訳)『後期近代の眩暈──排除から過剰包摂へ』(青土社、2008年)

文章にまとめるのが面倒くさくなったので、以下、だいぶ雑ですが箇条書きでメモ。

日常生活の脱埋め込み(ギデンズやバウマンの著作を読むとよく出てくるキーワード。disembeddingの訳語らしいが、ちょっとイメージがわきづらい)
・文化・諸制度への埋め込み(ある枠組みの中に自分自身が組み込まれているという感覚)から外れて流動化。選択肢が増えた、自由だという感覚と同時に、存在論的不安、アイデンティティの基盤が崩れた感覚。
・「後期近代を貫くのは、社会的な場所が喪失されたイメージ、物語(ナラティブ)が崩壊し構造が不安定になるイメージである。つまり空間と文化がもはや一致しないような断片化された世界のイメージであり、ある空間が別の時空間や個々人の想像の産物と結びついたような融合物のイメージである。…いわばアノミー、無関係、無関心の荒野であり、互いを意識せず、関心ももたず、ただ勝手に漂流する原子たちの荒野である。そんな断片的かつ分断された分裂性の世界にあって、社会的連帯と人びとの結びつきの感覚はどのように生まれうるだろうか。」(328ページ)(※こうした“後期近代”のイメージは、バウマンの言う“リキッド・モダニティ”と同じ)

他者化・社会的排除
・保守派は移民や貧困層という他者に否定的な属性を投影、悪魔化、文化本質主義→反転的に自己の肯定的属性を確認→貶め
・リベラル派は、貧困層を物質的・道徳的に不利な立場に置かれたものと考えるが、隔離された対象として救済の対象→懸隔
・保守派もリベラル派も、逸脱者を周辺化→自分たち中心層の強化→二項対立という図式では変わらない。
・社会学的調査でも、被調査者に対する客観性→こうした懸隔が再生産される(ひび割れの政治学)
・他者化された人々→社会から受けた屈辱や排除に対抗するため、自己を硬化させる。自己強化の循環構造→スティグマ化と他者化のアイデンティティ・ポリティクス、否定的なアイデンティティの構築。
・二項対立を強化するのではなく、二項対立を脱構築するのが合理的な対処法。

過剰包摂
・社会的排除された人々→社会全体から空間的・社会的・道徳的に切り離されているわけではない。後期近代社会の過剰包摂的性質こそ、社会構造の最底辺にある不満を説明する上でのカギとなる。境界が曖昧になり、価値観が共有され、なおかつ生きることが報われないという矛盾が社会全体に存在。「満ち足りたマイノリティ」とそうでない人の思いとがよく似ていて、同じような欲望や情熱をもっていて、差異は本質的なものではなく、小さいからこそこうした不満が出てくる。
・「アンダークラスの生活と文化的抵抗を形づくるのは、貧困と尊重の欠如という二重のスティグマである。…社会の過剰包摂には、主流社会の成功の価値観、アメリカン(あるいは先進国)ドリームの一身の受容、消費主義的な成功とセレブリティの崇拝を伴う。まさにこの文化的統合こそが排除の屈辱という傷口に塩を塗り込めるのだ。」(96ページ)
・アンダークラス→社会の主流から排除されることで生じる相対的剥奪感→尊厳の剥奪、負け組み感覚、何者でもないこと、アイデンティティの日常的侵害。
・貧困層は富裕層から他者化されると同時に、富裕層に似てくる。貧困層がそうでない人々に近づけば近づくほど、貧困層は排除への憤りを募らせる。

・自己実現の達成こそが理想だとする個人主義。フォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行→労働世界の解体→非正規労働市場の拡大、不安定性、アンダーグラスの増加→市場の力はより不平等で非能力主義的な社会を生み出し、市場の価値観は万人に自己責任の精神を奨励。
・脱埋め込みの感覚→アイデンティティの揺らぎ
・存在論的不安の個人的感情を修復しようとすること→本質化の訴えかけに結びつく。つまり、存在論的不安に対する解決法として本質主義(つまり、民族・宗教等の属性を自分たちの“本質”とみなす形で排他的なアイデンティティを形成してしまうこと)。
・自己が他者によって定義される→他者化された集団もまた態度を硬化させて、その押しつけられたアイデンティティを強化してしまう。
・「コミュニティの構築、あるいはその創造は、ある一面を称揚しこれ幸いと受け入れる一方、別の面を罵り、排除する物語(ナラティブ)を構築することでもある。」(333ページ)
・「アイデンティティと文化が次々と生みだされる後期近代の世界にあっては、多文化主義は、自分たちのルーツ探しや「本当の」自己の発見というまったく逆の結果をもたらす。そのような固定的な本質は、ひいては大文字の他者(プロテスタント教徒に対するカトリック教徒、非イスラム教信者に対するイスラム教信者、黒人に対する白人)と対比され、固定した差異という観念から偏見が生じるのを許してしまう。実に皮肉なことに、寛容性を求める多文化主義は、偏見と不寛容性を生みだしてしまうのである。(274ページ)
(※たとえば、マイケル・ウォルツァーなどのコミュニタリアニズムが、そのリベラルな動機とは裏腹に、かえって相互懸隔を拡大・固定化・不寛容化してしまうという批判と理解できる)
・「屈辱を受けた他者は悪魔化や劣等地位という他の場所へと追いやられ、望ましい自己は、国、宗教や階級、ジェンダーいずれかにおいて原理的に優越しているという空想の他の場所にあてがわれる。最終的にもたらされるのは自己欺瞞つまり人間らしい自発性、再帰性(リフレキシビリティ)、営為からの離脱である。だからこそ、われわれがアイデンティティの問題に注意を払い、自己の価値や自己実現化という感覚を保証しつつも他者に体系的に屈辱を与え侮辱する、本質主義の偽りの根拠に身を委ねない政治について論じることが決定的に重要なのだ。」(370~371ページ)

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2008年9月15日 (月)

適当に社会学の入門書

 見田宗介『社会学入門──人間と社会の未来』(岩波新書、2006年)。越境性(なんて言うとしかめっつらしいが、つまり本当に大切なことを考えようとしたとき、分野の障壁なんて無意味ということ)、自明なものへの疑い、“魔術からの解放”(ヴェーバーの有名なテーゼだけど、直訳するとかたい。むしろ、ある種の魅惑がなくなっていくことでそっけない近代化が進むことの両義性に見田は焦点を合わせる)、理想(→リアリティを目指す)と虚構(→もはやリアリティなんて愛していない)、自我、関係の絶対性、交響圏などのキーワードで社会学を語る。感傷的であまっちょろい感じもするが、実感のこもった語り口にしようという姿勢には好感が持てる。同『現代社会の理論──情報化・消費化社会の現在と未来』(岩波新書、1996年)は、情報化・消費化をキーワードに、資源と環境、世界の半分の貧困などの問題の把握を試みる。

 内田隆三『社会学を学ぶ』(ちくま新書、2005年)は、著者自身の読書遍歴を通して大所の社会学理論を読み進める。正攻法という感じで少々かたい。

 竹内洋『社会学の名著30』(ちくま新書、2008年)。名著解説本にはつまらないものも多いが、本書はそれぞれの社会学関係書の勘所を簡潔におさえてくれていて参考になる。これは読んでみたいと思う本もいくつかあった。

 そのうちの1冊が、P・L・バーガー(水野節夫・村山研一訳)『社会学への招待』(新思索社、2007年)。物事は見かけ通りのものではない→現実暴露による幻滅が社会学の特徴。その点でで体制批判的にも見えるが、だからといって社会革命志向とも異質、なぜなら革命幻想の背景をも見破ってしまうから。社会的諸力の交差する位置に個人→社会的制度の中でアイデンティティを付与され、外圧的にも内面的にも個人は制約を受けている。しかし、そうした社会という劇場を動かしている論理を客観的に理解できるところにこそ、他ならぬ私自身の自由の可能性が見出せる、その意味でヒューマニスティックな学問なのだという結びに勇気づけられる。

 若林幹夫『社会学入門一歩前』(NTT出版、2007年)。自分があって社会があるのではなく他社とのつながりの結び目として“私”を把握すること、目的合理性のこと(ヴェーバー理解社会学の考え方ですね)、魔術化した科学技術への“信頼”によって社会システムが成り立っていること、カリスマ、欲望の模倣→他者の欲望を内面化したものとしての主体、等々と社会学の基本的な視座が平易に語られている。社会学は何の役に立つのか?→「役に立つこと」を基軸とする社会のあり方そのものを捉えかえすという指摘、学問にも取り組む人それぞれの個性が抜きがたく刻印されているから相性がある、といった指摘に関心を持った。

 『橋爪大三郎の社会学講義』(ちくま学芸文庫、2008年)。要素分解⇔綜合、この繰り返しでテーマを分析していく橋爪の語り口そのものが社会学的思考方法の生きた見本。一見当たり前な前提から出発しても論理の運び方がクリアなので説得力を持つ。単に入門書というのではなく、社会科学の小難しい議論に頭がなじんでしまって行き詰まり感があるときなど、こういう本を読み返してみると頭が解きほぐせて良いように思う。本当に良い入門書というのは、初学者にとって分かりやすいというだけでなく、その分野についてある程度分かったつもりになっている人にとっても原点に立ち返って考えさせてくれる、そういう本じゃないかな。

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2008年8月26日 (火)

竹井隆人『集合住宅と日本人──新たな「共同性」を求めて』

竹井隆人『集合住宅と日本人──新たな「共同性」を求めて』(平凡社、2007年)

 人間関係の希薄さによる社会不安に対しての処方箋としてコミュニティの復活を求ようとする議論では、たとえば農村や長屋のような顔の見える関係性がなつかしげに語られることがある。私自身、東京の無味乾燥な郊外住宅地に育ったこともあり、そうした自分自身の経験したことのないウェットな共同体に憧れを持ちやすい。ただし、所詮“憧れ”に過ぎないと自覚はしているが。このようなコミュニティ復活論が単なる精神主義に陥りやすいことは本書の指摘する通りである。そもそも、自発性を基とするコミュニティを政策として作り上げようという発想自体に矛盾をはらんでいることは以前にも触れた(→ジグムント・バウマン『コミュニティ──安全と自由の戦場』の記事参照のこと)。

 安易なコミュニティ復活論に対して、住民自身による一定のルール形成を通したガバナンスによって共同性を構築しようとするところに本書の眼目がある。第一に、都市における見知らぬ他者との共同性を組み立てるために個人対個人ではなく個人対集団社会という関係を保証するルールが必要であり、第二に、妙な住民エゴに陥らないよう自分たちの集団内部で自分たち自身に制限をかけていく必要がある。両方の問題の結節点として、本書は集合住宅における自治に着目している。

 住民自身によるしっかりとした自治的共同体が並立していくというイメージを本書は持っているのだろう。住民全員の参加、熟議、私的政府といった表現を見ていると、ルソーが社会契約論の理想としたスイスのカントンを思わせる。また、いわゆる“ゲーテッド・コミュニティー”の保安機能についての少々異様なまでに積極的な擁護はカントンにおける住民全員による共同防衛も連想させる。ただ、本書で主張されている直接民主主義がどこまで可能なのか私にはよく分からない。そもそも集合住宅という生活形態はたとえその意味内容を広げたとしても果たして一般性を持つものだろうか。何よりも、個人一人一人の共同参画→自治という政治モデルは、結局、民主主義論の永遠の理想に終わってしまうだけではないだろうか。前提とされる自律的な個人主義を如何に根付かせるかという問題意識は分かるが、これもまた別種の“べき”論に終わるだけで、それほど有効な議論とも思えない。

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2008年7月19日 (土)

リチャード・セネット『不安な経済/漂流する個人──新しい資本主義の労働・消費文化』

リチャード・セネット(森田典正訳)『不安な経済/漂流する個人──新しい資本主義の労働・消費文化』(大月書店、2008年)

 人は、何らかの形で意味的一貫性の中に自分自身を位置づけることで、たとえば仕事上のストレスにも耐え、納得して物事に処していくことができる。そこには、他者にとって重要な貢献をしているという自己確認的な側面があるだろうし、あるいは、その仕事そのものに自分を超えた価値を認めること、本書で言う職人技=クラフトマンシップも重要である。「“正しい”や“正確な”という語が、うまくなされたという意味になるためには、みずからの欲望を超えた、また、他者からの報酬に影響されない客観的標準が共有されていなければならない。何も手に入らずとも、何ごとかを正しくおこなうことが真の職人精神なのである。私欲を超えたこうしたコミットメントほど──私はそう信じるのだが──人々を感情的に高揚させるものはない。それがなければ、人間は生存するための闘争だけに終始することになるだろう」(本書、198ページ)。

 マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で分析されている欲望充足の先送りによる禁欲的な労働倫理と官僚制モデルで示されたヒエラルキー構造、この二つの要素で特徴づけられた“鉄の檻”──これをソリッド=堅固な近代とするなら、現在進行形の社会状況をジグムント・バウマンはリキッド・モダニティ(液状的な近代)と呼んだ(バウマン『リキッド・モダニティ』大月書店、2001年)。檻から解放されたのは必ずしも悪いことではないかもしれない。しかし、刻々と変化する状況に対応した“柔軟な”組織構造の中で、人は職業的なアイデンティティーを見失い、ある種の不安や強迫観念に駆られていく、そこに本書の問題意識がある。

 最先端の“柔軟な”組織では“職人技”は必要とされない。ある課題を目的として時間をかけた人材育成は無用と考えられ(いわゆる“即戦力”志向の問題点については、玄田有史『働く過剰』(NTT出版、2005年)を参照のこと)、課題ごとに入れ代わるパートナーの誰とでも器用に協調しながらその場その場で問題解決をしていくヒューマン・スキルが重視される(協調性というヒューマン・スキル、感情労働の問題については、たとえば渋谷望『魂の労働──ネオリベラリズムの権力論』(青土社、2003年)を参照のこと)。変化しつつある状況にとにかく合わせることが最優先、その場しのぎの自転車操業的なワークスタイルが主流となり、一つ一つの仕事を丁寧に完成させていく“職人技”はかえって邪魔者扱いされてしまう。こうした状況の中、実現の難しさにためらいつつもそれでも本書は“職人技”の復権に期待をかける。方向性としては、“専門性”教育という具体的提言をしている本田由紀『多元化する「能力」と日本社会──ハイパーメリトクラシー化のなかで』(NTT出版、2005年)の問題意識とつながってくるだろう。ただし、こうした問題は、状況認識はできても、具体的な処方箋となると難しいのが悩みどころだ。

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2008年1月27日 (日)

覚書③安楽死と尊厳死について

(さらに続いて、安楽死と尊厳死の問題についてです。)

 ALS患者は人工呼吸器を装着するかどうかの決断をいつかは下さねばならない。その際に、①装着をしないで尊厳死を迎えることの是非、②いったん装着した後で取り外すことの是非が問題となる。ここを考える上で、安楽死・尊厳死についてどのような議論が進められてきたのか確認しておく必要がある。

◆定義
 安楽死と尊厳死、この二つの言葉は人によって使い方が異なり、どこで意味上の線引きをしているのか曖昧なことが多い。
 一つの考え方として次のように分類されるだろう。
①純粋安楽死
 死を迎えるにあたって麻酔等で苦痛を緩和・除去し、しかも生命短縮の危険を伴わない安楽死。この場合には何の問題も生じない。
②間接的安楽死
 生命短縮の危険を伴う安楽死で、治療型安楽死とも言われる。つまり、苦痛を緩和するために使用した薬剤の副作用として死期が早まった場合である。意図的な行為の結果として死に至らせてしまう点で殺人行為とみなされかねないが、医学的正当性、患者の同意がある場合には治療行為として違法性は阻却される。
③消極的安楽死
 苦痛を長引かせないように、生命延長のための積極的措置をとらないことによって死期を早める安楽死。狭義で尊厳死という言葉を使う時はこのケースを指すことが多い。
④積極的安楽死
 苦痛の除去を目的として、意図的な手段を以って生命を終わらせることである。殺人罪、嘱託殺人罪等として刑法上の責任が問われる。

 安楽死をめぐる議論では、第一に苦痛からの解放、第二に本人の意思を尊重、以上の2点が共通しているが、具体的には以下のポイントを挙げることができる。
①現代の医学知識や医療技術では治癒が不可能であり、なおかつ極めて近い将来に確実に死が訪れる。
②患者は激しい苦痛を訴え、症状が確実に進行しており、その様子が傍目にも分かる。
③回復不能にもかかわらず行われる治療行為に対して、あらかじめ患者自らの意思として拒否の姿勢が示されている。
④その意思を再確認し、さらに患者本人の同意を得て、医師はその苦痛を除去することを目的とした治療を行う。
⑤その治療とは結果として患者の死期を早める医学的処置である。

 宮川俊行は『安楽死の論理と倫理』(東京大学出版会)の中で安楽死を他者との関わりから次のように分類している。
①非理性的、非人間的生命のあり方を拒否する尊厳死的安楽死
②厭苦死→鎮痛の可能性のない身体的苦痛に伴われた生命の拒否
③放棄死→人間は共同体の他者との関わりをもって生きるが、苦痛を伴う患者のために共同体が崩壊し、放棄されていく中での死
④淘汰死→共同体存続のために患者の生命が淘汰された状態に追い込まれた死

◆日本での経緯
 安楽死に類した行為は歴史上様々な場面で行われてきた。日本で安楽死というテーマを明確にした最初の例は森鴎外『高瀬舟』であろう。
 法律上の議論として安楽死に焦点が当てられた最初のケースは、昭和24年におこった母親殺害事件である。被告となったのは在日朝鮮人の青年。母親が脳溢血で倒れて全身不随となってしまった。当時、在日の人々の間では北朝鮮への帰国運動が盛り上がりつつある時期だったが、この母親も帰国を希望していた。しかし、身体的に不自由になったばかりでなく、法的手続きもうまくいかず、帰国できない状況となってしまった。身体的苦痛に加えて絶望感が深まり、「こんな状態なら死んでしまいたい」「殺してほしい」と息子に向かって訴える。青年は親孝行と考え、青酸カリを飲ませて死に至らしめた。当初は尊属殺人で起訴されたが、検察は事情聴取しながら嘱託殺人へと切り替えた。安楽死とする場合には死期が切迫しているかどうかを確認する必要があり、この点で青年の行為は軽率であったとして、一定の情状酌量をしつつも懲役1年、執行猶予2年の判決が下された。
 この裁判を通して、安楽死を論ずる枠組みとして以下の点が明確になった。
①現行の法律では安楽死の判断ができない。
②安楽死の医療処置ができるのは医師のみである。
③疾病上の苦痛が対象であって、精神的苦痛は安楽死の対象外とする。

 安楽死についての法的基準を初めて明示したのは昭和37年に出された名古屋高裁判決、いわゆる山内判決である。本件では、脳溢血で倒れて半身不随となった父親を殺したとしてその息子が起訴された。父親は「苦しい」「殺して欲しい」と訴え続けており、主治医からは余命は7日から10日くらいだと聞かされていたので、被告は牛乳に有機リン殺虫剤を混入させて死に至らしめた。
 判決では安楽死が認められる場合の基準として以下の要件を示し、本件では⑤と⑥を満たしていないとして懲役1年、執行猶予3年が宣告された。安楽死について法的な基準が明示されたのはこの判決が初めてであり、その後の論争の画期点となった。
①病者が、現代医学の知識と技術から見て不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること。
②病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること。
③もっぱら、病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。
④病者の意識が、なお明瞭であって、意思を表明できる場合には本人の真摯な嘱託、または承諾のあること。
⑤医師の手によることを本則とし、これによりえない場合には、医師によりえないと首肯するに足る特別な事情があること。
⑥その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。

 次いで東海大学付属病院事件について平成7年に横浜地裁判決が下された。本件は名古屋の事件とは異なり、家族ではなく医師が起訴されていた。死亡した患者本人にガンの告知はされておらず、なおかつすでに意識がなかったため、本人の自発的な意思は示されていない。それにもかかわらず、家族から「楽にしてやって欲しい」と繰り返し迫られた医師が塩化カリウムを注射して死亡させたことの是非が問われた。以下の要件を示した上で、懲役2年、執行猶予2年の有罪判決が下された。
①耐え難い肉体的苦痛があること。
②死が避けられずその死期が迫っていること。
③肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がないこと。
④生命の短縮を承諾する明示の意思表示があること。

◆海外の事例
・カレン・アン・クインラン事件→個人が死を選ぶ権利が認められた。意思表示ができない場合には父親に認められた。回復不能の判断が医師と倫理委員会の二重のチェック。
・契約社会のアメリカでは、医師の説明不足や一方的な裁量で行われた医療に対して患者側から自らの権利を侵害されたとして法的な対抗措置。
・キヴォキアン医師の自殺装置。
・オランダの安楽死法。

◆問題点
 仮に安楽死が社会的に容認されて何らかの形で法制化された場合、様々な問題があり得ると指摘されている。
①コスト面で社会的弱者切捨ての懸念
 長期療養が必要となる難病では、医療費ばかりでなく、生活面での影響が深刻となる。特に家族のメンバーが少ないとき、稼ぎ手本人が倒れたケースは当然だが、パートナーが倒れたときにも仕事を辞めてつきっきりで介護をせねばならない事態が考えられ、いずれにせよ生活費をどのように確保するかで頭を悩ませることになる。そうした場合、患者本人はもう少し生きたいという意思を持っていたとしても、コスト上の問題を理由として安楽死を選ばざるを得ない状況に追い込まれてしまう。
②家族が本人の意思を代位することへの懸念
 家族が信用できないということではない。患者が死を迎えるにあたっては、家族もまた動揺が激しい。患者本人の意思をあらかじめ確認しないまま意識不明の状態に陥ってしまい、かつ苦悶の表情を浮かべていると、家族としてはやはり正視に堪えない。「かわいそう」というその場の雰囲気で、本人は安楽死を望んでいるものと家族は安易に受け止め、延命打ち切りの判断を下してしまうおそれがある。
③「自ら意思決定する能力」とは何か
 ②とつながる問題だが、物事の判断能力をどこに求めるかという問題。
④高齢化社会で悪用されることへの懸念
⑤優生学上の見地から不必要とみなされた者への適用。ナチスの安楽死政策。
 以上は、自分の意思とは全く関わりのない理由によって死を強制されてしまうことへの不安が見られる点で共通している。
⑥安楽死は患者本人だけの問題ではない
 仮にリビングウィルが用意され、患者本人の安楽死へ向けての態度が明らかにされていたとする。しかし、実際に安楽死の手続きを進めるのは医師である。患者本人は自分が死ぬことを納得しているのかもしれないが、医師が自らの価値観と相違して不本意な形で安楽死を手伝わねばならない立場に置かれてしまうことも考えられる。それは医師ばかりでなく、患者の周囲に集う家族や友人たちにも同様の精神的な葛藤を強いることになる。自分の死はあくまで自分一人の出来事だと思い込みがちだが、実は周囲の様々な人々を巻き込んでしまっていることについてどのように考えるのか。

(参考文献)
ハーバート・ヘンディン(大沼安史・小笠原信之訳)『操られる死─「安楽死」がもたらすもの』時事通信社、2000
保阪正康『安楽死と尊厳死』講談社現代新書、1993
宮川俊行『安楽死の論理と倫理』東京大学出版会、1979
三井美奈『安楽死のできる国』新潮新書、2003
ジャネット・あかね・シャボット『自ら死を選ぶ権利─オランダ安楽死のすべて』徳間書店、1995
入江吉正『死への扉──東海大安楽死殺人』新潮社、1996年

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2008年1月26日 (土)

覚書②医療現場での“自己決定”について

(覚書の続きで、医療現場で患者自身の自己決定はできるのかという問題です。)

 ALSの患者にとって、人工呼吸器をつけるかつけないかの選択は、生きるか死ぬかの問いと直結するため、非常に厳しい決断を迫られることになる。もちろん、難病患者にとっての切実さは、他の健康な人の安易な想像を許すようなものではない。しかし、極端なまでの厳しさは、“自分で決める”にはどのポイントが核心として問われるべきなのかを鮮明にするとも言える。そうした意味合いで、単にALS患者の問題であるばかりでなく、他の人々にとっても考えるべき示唆が含まれている。
 
◆インフォームド・コンセント
 医療における意思決定というテーマは、まずインフォームド・コンセントをめぐる問題である。患者がこれから受ける医療行為について十分に納得できるような説明を医師は行わなければならない。こうした考え方は、最近では当たり前のものとなっている。
 インフォームド・コンセントの考え方が初めて明記されたのは、第二次世界大戦直後、1947年に制定されたニュルンベルク倫理綱領である。かつてナチスは、障害者や社会的マイノリティー、戦争捕虜など、弱い立場にある人々に対して組織的に人体実験を行ったが、これに対する反省が込められている。この考えをさらに確認するために、1964年にはヘルシンキ宣言が採択された。
 医学の進歩のためには何らかの形で人体実験も必要となる。しかし、弱い立場の人間に押し付けるのは人道に反する。そこで、人体実験の被験者となる場合には、自発的な同意が必要であることを定めた。言い換えると、マイナスの効果を及ぼす医療行為をされない権利として出発したのであり、当初は治療の現場で選択肢を提示するという患者の主体性に主眼を置いたものではなかった。

◆自己決定権
 近年では、むしろ自己決定権という積極的な側面においてインフォームド・コンセントは話題となる。どのような医療を受けるか、さらには自分の生死に関わる場面でどのような決定を下すか。医師の言うままになるのではなく、自分のことは患者自身が決めるという要求が社会全般から強まった。そのために必要な情報開示としてインフォームド・コンセントは位置づけられるようになった。
 医療技術の進歩によって延命治療が可能となり、身体的自由がきかないまま療養生活を送るケースが多くなった。“スパゲティ症候群”という言葉に象徴されるような延命治療への懐疑が広まったことが背景としてある。つまり、“生きがい”の確保できない生命は「生きるに値しない」という見解を表明する人が多くなったのである。

◆医療現場での問題点
 医療現場においては以下が問題となり得る。
①インフォームド・コンセントの考え方にそって十分な運用がされているのか。
 たとえば、医師の側の態度として、患者が理解したかどうかは顧慮せず医師は一方的に説明をする。とにかく説明はしたんだから、あとは患者の問題だ。そうした態度で、何か問題が起こったとしても、これは患者の自己決定よるものだとして責任を押し付けてしまうのを正当化する口実にもなりかねない。
②生死のぎりぎりの場面でどこまで自己決定があり得るのか。
 インフォームド・コンセントでは、自分にまつわることは他人頼みにはせず、すべて自分で取り仕切るという人生観が前提となっており、納得して決定を下すために十分な情報を医師は提供すべきことが要求される。つまり、個人主義的な色彩の強い「自律」という観念が出発点になっていると言える。
 従来、日本は家族共同体的で他者への依存傾向が強く、医療現場においては医師という権威者に対してパターナリスティックな人間関係が色濃いと言われてきた。日本が国際化する上ではこの「自律」の観念を受け容れなければならないという議論が様々な分野でなされ、そうした動向の一環としてインフォームド・コンセントの話題も位置づけられた。また、実際に「自律」の観点からインフォームド・コンセントをうまく活用している人も多い。
 しかし、以下の問題もある。第一に、文化風土から規定された思惟形式は一朝一夕には変わらない。したがって、自己決定の重さに耐えられない人も多い。ビジネスの現場では「自律」的な人生態度を取ってきた人であっても、いざ生死に関わる究極の場面にぶつかると、それまでの人生態度を貫き通せないこともある。第二に、「自律」というのはあくまでも理論上のフィクションに過ぎず、実際には欧米であっても「自律」に耐え切れないケースが多いという指摘がある。個人主義的な傾向の強いアメリカ社会でも心理カウンセラーにかかる人が多いのはその証拠であって、アメリカでも自律的人間モデルに耐えられるのか疑問も投げかけられている(たとえば、コフート)

◆苦痛の緩和
 真に問題となるのは何か。個々のケースに応じて違うだろう。
 まず、苦痛の問題。あまりに激しい痛みに耐え切れない場合。第一に、苦痛を和らげる処置が、結果として縮命につながる場合。これはやむを得ないと考える人が多い。第二に、苦痛回避のために意図的に死を選ぶ場合。積極的安楽死。道義上、刑法上の問題となる。

◆精神面での耐え難さ
 ただし、医療技術の進歩により、苦痛そのものを和らげることは可能となりつつある。そのため、「安楽死」という言葉には苦痛回避という意味合いが強いが、かわって「尊厳死」という表現が用いられるようになっている。
 苦痛そのものよりも、気持ちの取り方をどのように考えるかが次の問題となる。第一に、意識はあるのに身体的に動けない場合の精神面での耐え難さ。第二に、他人に依存した生活を送らざるを得ない場合のプライドの傷つき。こうした精神面での耐え難さから死を選ぶ傾向が強まってきた。

◆純粋な決定はあり得るのか
 ここで問題となるのは、患者が鬱状態に陥っている場合である。気分がふさぎこんでしまった時に発する「死んでしまいたい」という言葉は素直に受け取ることはできない。したがって、信頼のある人間関係の中で患者自身の真意を探りとる必要がある。
 一切のノイズを排して純粋に「自分」の「意思」で「決定」するということはあり得るのか、もしあり得るとしたらどのような条件が必要なのか。もしあり得ないなら、どこまでなら妥協できるのか、その妥協する場合に比較の対象となる自己決定の純粋形モデルは一体どのようなものなのか。こうした点を吟味しておく必要がある。しかし、純粋な「自己」なんてものがそもそもあり得えない以上、影響を被るノイズとしての要因をどこまでなら許容できるのかという話になるだろう。

◆決定の際の周囲の態度の取り方
 欧米では「自律」の考え方が確立されているのに対して日本では遅れているという文化論的な話題がよく見られる(「近代的個」の確立を主張した丸山真男政治学をはじめとしてあらゆる分野で)。医療における自己決定というテーマにおいても、この話題が議論の中心テーマの一つとなる。しかし、この考え方がそのまま通ずるのであろうか。
 たとえば、欧米における尊厳死のイメージを見ると、家族や友人達と囲まれる中で死を迎えることが強調されている。それが日本で報道されると、本人の決定を周囲が暖かく受け止めたという筋立てになる。
 だが、別の見方をすれば、家族や友人など信頼のある人間関係の中で長い時間をかけながら考え抜くというプロセスがあったからこそ、決定を下すことができたと言えるのではないか。つまり、アトム的に孤絶した「個」という立場で判断したのではなく、周囲からの様々な反応も見ながら、自身も周囲も納得できる形で最終的な決断が下されている。言い換えると、ノイズを排除した自己決定の純粋モデルなどはあり得ない。
 そこで、次に焦点が絞られるのは、周囲からの反応の取り込み方、決定に際してのコミュニケーションのとり方をどのようにすればいいのかという問題である。それは、「サポート」という性格のものではない。決定しやすい条件整備をするにしても、どんな条件があり得るのか分からないし、下手すると周囲から外堀を埋めることで不本意な方向に患者本人を追い詰めることにもなりかねない。また、本人に一人で考える負荷を必要以上に大きくしてしまう。
 そうではなく、周囲の人々それぞれとの個別的な関係の中で意思を通じさせる。反対の意見があるなら正直に反対してもらう。そうした意見交換の積み重ねを経て、周囲の人々の本心を見極める、それは本来的にできないことであっても見極めたように自身が納得する、そうした作業が前提として必要となるだろう。つまり、本人の意思を尊重する=本人の意思だけで押し通すということではない。本人の意思だけでなく、周囲の人々と納得した感覚を共有できたときに、本人もまた安心する。
 患者が不安になるのは、近い将来に予想される苦痛や死ばかりではない。仮に介護を受けねばならないとする。家族に負担がかかるが、それを家族はどのように受け止めるだろうか。ひょっとしたら顔では笑っていても、内心いやがっているのではないか。そうした周囲の人々に対する気兼ねが療養生活においても心理的にマイナスの作用を及ぼすことになる。自分の決定を周囲が嫌がると介護において不利益を受けるということではなく、そもそも周囲との関係があってはじめて自分がいるということ。周囲との具体的なあり方は文化によって違うだろうが、何らかの形での関係があることに変わりはない。つまり、関係を考慮しながら決定するのではなく、決定もまたそうした関係性の中の一環として組み込まれているということ。 

◆本人の意思と家族の意思、どちらを優先させるか?
 立岩真也と清水哲郎とで次のような見解の相違がある。
 告知の際、家族と一緒に知らせるか、それともまず本人だけに知らせるか。患者自身にとってのQOLの問題と家族の負担とがぶつかってしまうとき、具体的には経済的コストやケアの肉体的負担、生活上の時間拘束によるストレスなどが考えられる場合にどうするのか?という問題につながる。
 清水は、患者本人と家族との共同決定が望ましいという見解。立岩は、それだと家族に遠慮して本人のQOLが犠牲にされるおそれがあるから、まず本人の意思に即して、という主張。本来ならば清水の見解が妥当だろう。一方、立岩の批判には、共同決定というベールの下、家族への遠慮などで本人が言いたいことを言えない立場にあったとき、本人の意思が犠牲にされてしまうことへの懸念があり、なかなか難しい。

【参考文献】
・清水哲郎『医療現場に臨む哲学』勁草書房、1997
・清水哲郎『医療現場に臨む哲学2 ことばに与る私たち』勁草書房、2000
・立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』医学書院、2004
・『思想』2005年8月号、特集「医療における意思決定」岩波書店。
・水野肇『インフォームド・コンセント─医療現場における説明と同意』中公新書、1990
・森岡恭彦『インフォームド・コンセント』NHKブックス、1994
・星野一正『インフォームド・コンセント─患者が納得し同意する診療』丸善、2003

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2008年1月25日 (金)

覚書①ALSについて

(パソコン内の文書を整理していたら、ALSという難病について3年ほど前に書いたメモが出てきたので掲載します。内容的に若干古くなっているかもしれませんし、私の誤解もあるかもしれませんので、間違いがありましたらご指摘ください。)

1.相模原事件

◆事件の経過
 介護に疲れた母親(60歳、以下H)が、ALS患者である長男(当時40歳、以下S)の人工呼吸器を止めて窒息死させ、本人も自殺を図るという事件があった。
 事件が起こったのは神奈川県相模原市。長男は2000年にALSを発症。01年3月にALSと診断された。病状の進行は早く、診断の2週間後には気管切開を行って人工呼吸器を装着。同年8月に退院して在宅療養を開始。03年3月からホームページを開設して患者同士の情報交換も行っていたが、04年4月頃からパソコンが使いづらくなり、意思伝達は文字盤に頼るようになった。Sは人工呼吸器をつけたことを後悔。次第に「呼吸器を外して」「死にたい」などの意思を示し始めたが、Hは訪問看護師やかかりつけ医と共に懸命にケアを続けていた。そうした中、04年8月26日深夜、HはSにつけられた人工呼吸器のスイッチを停止した。Sは窒息死。Hは自殺を図ったが、明け方になって夫が変事に気付き、一命をとりとめた。
 同年9月22日、Hは刑法199条による殺人罪として横浜地方裁判所に起訴された。翌05年2月14日に判決。「長男の日ごろの懇願を受け入れて呼吸器を停止させた」として、被告側の主張通りに法定刑の軽い嘱託殺人罪(刑法202条)を適用。懲役三年、執行猶予五年(求刑懲役五年)が言い渡された。検察側は控訴せず、判決は確定した。介護者がALS患者の呼吸器を止める行為に関して司法判断が示されたのはこれが初めてである。
(以上、日本ALS協会のHPを参照しながら要約)

◆本事件からうかがえる問題点
(患者本人が抱えた問題)

・運動機能の萎縮により、会話はおろか、パソコンを使ったコミュニケーションも物理的に困難となっていた。体は全くきかないのに意識だけは鮮明という、いわゆるロックトイン(locked-in)の状態に陥りつつあったため、絶望感の強かったことが想像される。
・ALS患者は、いずれ呼吸器の運動機能も失われるため、ある時点で人工呼吸器を装着するか、それとも自然死を迎えるか、という判断を迫られる。装着すれば延命は可能。ただし、一度装着すると取り外しはできない。本事件の場合、病状の進行が早かったため、S本人が気管切開・人工呼吸器装着について納得の上で判断する余裕がなかった。

(介護者側が抱えた問題)
・患者の運動機能が限りなくゼロに近づいて最終的には眼球の微妙な動きまでなくなるため、彼は生きているのに、気持ちの上でつながれないというもどかしさがあった。
・窒息死を防ぐために30分から1時間おきに痰を吸引するなど、24時間態勢での介護が必要となる。医療費負担の減免、ヘルパーの派遣などの支援はあるが、やはり家族の負担が重い。
・本事件の場合、介護は家族だけで背負ってしまい、孤立した状況にあった。行政を中心とした地域の支援体制が必要だ、という指摘がある。

2.ALSの概略

 ALSとはAmyotrophic Lateral Sclerosisの略語であり、日本の医学用語としては「筋萎縮性側索硬化症」と訳されている。通称、アミトロ。運動神経だけが選択的に侵されて筋肉が萎縮してしまう進行性の難病である。ベストセラー『モリー先生との火曜日』が有名だが、他にも往年の大リーガー・ゲーリックや宇宙物理学者ホーキング博士を思い浮かべる人もいるだろう。
 症状を大雑把に言うと、①運動障害、②コミュニケーション障害、③嚥下障害、④呼吸障害、の4点にまとめられる。感覚神経や頭脳に影響はない。つまり、意識ははっきりしているにもかかわらず、身体的運動機能が失われる。それも一時で失うのではない。まず、手足の自由がきかなくなることから症状が自覚される。その後も病状の進行につれて、舌や咽喉部の麻痺により会話や食事ができなくなり、さらには肺機能が麻痺して呼吸困難に陥る。こうしたプロセスを、ゆっくりと、しかし確実に、時間をかけてたどることとなる。失いゆくものの手ごたえを一つずつ実感し、かつ回復する見込みはないため、精神的なストレスが著しく、病の受容が難しい。
 ALSそのもので死ぬわけではない。しかし、呼吸器の故障や舌が垂れ下がってのどを詰まらせたことによる窒息死、体力の衰弱に伴う肺炎などの合併症で死に至る。
 10万人のうち1人の割合で発症するといわれている。この割合は世界的にも一律であり、地域差や人種差は認められない。発症後数年で死ぬ場合もあれば、進行の遅い場合、進行が止まってしまう場合もあり、患者によって異なる。年齢・性別を問わず発症例があるが、特に40代・50代に多く発症し、男女比率は約2:1で男性に多い。
 原因については諸説あるが解明されていない。遺伝性のケースも約1割前後あるようだがよく分かっていない。治療方法も不明であり、身体的機能の喪失をいかに遅らせるかに主眼を置いて療養生活を送ることとなる。
 呼吸器の普及や介護技術の向上、栄養状態の改善により、ALS患者は長生きするようになったが、病状の進行を止めることはできない。意識はあっても一切のコミュニケーション手段を失ってしまったいわゆる“閉じ込め”状態、TLS(Totally Locked-in State)に陥った人は日本全国で120人前後(ALS患者全体の約15%)いると言われている。

3.人工呼吸器

(装着の問題)
 最終的には、横隔膜などの筋肉の萎縮により、呼吸器の機能が停止してしまう。そこで、人工呼吸器を装着するかどうかの選択を迫られる。装着しない場合は、そのまま死を迎えることになる。
 装着を選んだ場合には、気管切開して管を通し、人工呼吸器につなぐ。この時、①自分の声を失う。②喉を切開されることに対するイメージとしての抵抗感。③いったん装着してしまうと取り外しはできない、などが問題となる。
 いったん人工呼吸器を装着したら、なぜ取り外しはできないのか? 呼吸器をつけないのは、あくまでも「しない」ことである。自然の経過に委ねることなのだから、その結果死に至ったとしても責任は誰にも問われない。ところが、呼吸器を外すのは意図して「する」ことである。その行為の結果として死に至るであろうことが事前に分かっている以上、殺人、自殺幇助、積極的安楽死など刑法上の問題として責任の所在が問われることとなる。前掲の相模原事件で呼吸器を停止させた母親は殺人罪で起訴され、情状酌量の結果、嘱託殺人罪(つまり、自殺幇助)で判決が下されている。

(自己決定の問題)
 呼吸器装着の決断は、問題の不可逆的な性質から、ぎりぎりの時期まで先延ばしされることが多い。土壇場であっても自分の判断として装着したのならば構わない。しかし、逡巡していると、そのぎりぎりの一線を越えてしまって後悔する事態を招いてしまう。具体的には、呼吸困難に陥って救急車で運ばれ、意識不明になったまま人工呼吸器を装着、延命療養に入ってしまうケースだ。呼吸器装着者の42%はこうした緊急時対応のため主に医師の判断によっている(日本ALS協会調査)。この場合、装着の決断に本人の意思は反映されていない。自らの意思に反して“無理やり生き延びさせられた”と悔恨や怒りの感情を抱き、家族を責め続けるという不幸なケースもある。
 仮に呼吸器装着の判断を“自分の意思”に基づいて表明したとしても問題は残る。家族に迷惑をかけることへの後ろめたさから、本当は生きたいにもかかわらず延命拒否する場合がある。逆に、静かに死を受け容れたいと思っていても、家族の悲しみに後ろ髪が引かれ、不本意ながらも言葉の表現としては“自分の意思”で呼吸器装着を選ぶこともある。この場合、装着後の生活がつらくて後悔しても、形式上は“自分の意思”で選んだことなのだから文句は言えない。つらさと後悔が内攻して精神的な葛藤がマイナス方向に振れてしまう。家族としては献身的に介護しているのにどうして認めてくれないのか分からない。患者と家族との不幸なすれ違い。こうした心理的な機微には、機械的な自己決定論で割り切れない難しさがある。
 QOL重視の立場から、ALS患者の人工呼吸器に関しては取り外し可能な方向で法制化を進めればいいのではないか。そうすれば、呼吸器装着の選択にも気持ちの余裕が生まれるのではないか、という指摘もある。これは当然ながら尊厳死をめぐる議論に直結する。たとえば次の場合を考えてみよう。その患者が、自分の介護によって周囲の人々に迷惑をかけているという自覚を持っている、あるいは経済的コスト面での不安がある、とする。周囲からは明示的に言わなくとも、そうした雰囲気そのものが暗黙の圧力となり、本人の気持ちを呼吸器取り外しの方向へと誘導してしまうおそれが出てくる。つまり、介護してくれる周辺、具体的には家族への気兼ねが必ず判断の足かせとなる。ここでも安易に自己決定論で割り切ることのできない問題をはらんでいる。
 日本のALS患者のうち人工呼吸器装着者の割合は、厚労省調査では25%、日本ALS協会調査では40%とされる。ただし、医療機関によって数字は大きく上下し、個々の担当する医師の考え方によって患者の意思決定のあり方も左右されているのではないかとも想像される。
 なお、欧米では呼吸器装着よりも尊厳死を選ぶ傾向が強い。たとえば、『モリー先生との火曜日』のモリー・シュワルツもそうした一人である。

(拡張する生)
 人工呼吸器を着けることについては、寝たきりの身体に医療機器のチューブが張り巡らされた状態、いわゆる“スパゲティー症候群”を思い起こさせ、イメージとして受け容れがたい側面がある。
 しかし、人工呼吸器を緊急避難的なやむを得ない手段として消極的に捉える意見ばかりではない。たとえば、ALS患者の母親の介護を経験した川口有美子は、ノーバート・ウィナーの「人体の構造の柔軟性は人間の知能のほとんど無限の拡張を可能にするものである」という指摘を引用しながら、機械的手段を人間の肉体的機能と接合、さらには融合させることは、むしろ生命活動の拡張であるとして積極的に肯定している(川口「人工呼吸器の人間的利用」『現代思想』2004年11月号)。
 人工呼吸器をはじめとする機械的手段の機能面に注目すれば、ALSという病の暗い側面ばかりでなく、生命科学や機械工学の知見を踏まえて生命観・身体観を根本から問い直す新たな議論へと結びつける可能性も十分にある。

4.在宅療養

 ALS患者は全国で約6800人いる。そのうち8割が在宅療養をしている。住み慣れた場所がいい、という理由もあるが、長期入院を受け容れてくれる施設が少ないという背景も見逃すことはできない。病院側としては、治る見込みのない患者を病室に入れておくことは経営効率上望ましくないという事情がある。
 在宅療養を行う場合には、窒息死を防ぐために30分から1時間おきにたんを吸引する、呼吸器が外れていないかチェックするなど、24時間態勢での介護が必要となる。医療費負担の減免、ヘルパーの派遣などの支援はあるにしても、やはり介護の主体となる家族の負担は重い。
 医療費そのものについては、特定疾患研究治療事業の対象としてほとんどを公費負担(国と都道府県がそれぞれ2分の1)としてまかなえる。ただし、実際に介護の担い手となるのは家族であり、しかもフルタイムによる介護者が最低一人以上必要となるため、医療費以外の生活面での余裕がないと困難な場合も考えられる。

(たん吸引)
 前述のように、ALS患者に対しては窒息死を防ぐためにたん吸引を行う必要がある。これは比較的高度な技量を要するケアなので医療行為にあたるとされ、医師や看護師が行わねばならない。しかし、実際には人手不足であるため難しい。自動吸引装置も現在のところ開発されていない。そこで、介護者である家族がたん吸引を行っている。
 医師以外の者が医療行為を行うことは本来ならば違法行為であり、違反者は医師法により3年以下の懲役もしくは100万円以下の罰金、保健師助産師看護師法により2年以下の懲役もしくは50万円以下の罰金に処される。つまり、医療資格保有者以外がALS患者のたん吸引を行うと罪を問われる可能性がある。
 ただ、厚生労働省は、インシュリンの自己注射を例にとって家族が医療行為を行う場合についての法的な考え方を整理している。実質的には違法なのだが、
①患者の治療目的のために行う(目的の正当性)
②十分な患者教育及び家族教育を行った上で、適切な指導及び管理のもとに行われる(手段の正当性)
③自己注射と通院との患者の負担解消との比較衡量(法益衡量)
④侵襲性が比較的低い行為であること(法益侵害の相対的軽微性)
⑤医師がインシュリン注射の必要性を判断(必要性・緊急性)
以上の5要件を満たしていれば構わないとされている。これは、法的に認められるということではなく、緊急処置的に黙認するというグレーゾーンとして当面の問題は先送りするということである。いずれにせよ、ALS患者に対して家族がたん吸引を行うケースでも、以上の考え方を準用して違法性は阻却されるという。つまり、「本当は違法なのだが、現実問題としてやむを得ないから黙認しますよ」という論理でかろうじて容認されている。
 ところで、ALS患者に対しては30分から1時間おきにたん吸引を行う必要があるため、24時間フルタイムで介護にあたらねばならない。家族の負担が重いため、ホームヘルパーや介護福祉士など家族以外の第三者にもたん吸引を代わってもらえるようにできないか、という要望が強い。しかし、たん吸引という医療行為可能な範囲を家族以外にまで広げることについては異論がある。例外的であってもヘルパー等に医療行為を認めるきっかけとなり得るため、技量水準への懸念だけでなく、国家資格制度に関わる問題としての風当たりも強い。
 2003年、厚生労働省に「看護師等によるALS患者の在宅療養支援に関する分科会」が設置され、最終報告書では家族以外の者によるたん吸引について次のような条件が示された。
①吸引はカニューレ(気管切開後に挿入された管)内部のみとする。
②吸引はヘルパーの業務としない。
③ヘルパーと利用者との個人的な契約で文書によって同意を取り交わし、事業者の責任は問われない。
④在宅療養中のALS患者に限定。
⑤医師と看護師の指導を受ける。
以上の条件の下でヘルパーによるたん吸引を当面は認め、制度的な検討は先送りされた(川口有美子「人工呼吸器の人間的利用」『現代思想』2004年11月号を参照)。
 本来は医師法違反だが、当面は仕方ないから黙認するという論理が継続されている点では家族による吸引行為の位置づけと同じである。しかし、ヘルパーは家族以外の第三者であり、もし事故が起こった場合には訴えられるケースが考えられる。法的根拠の埒外にある以上、ヘルパーを守りきれないためALS患者介護に躊躇する福祉事業所もある。

5.QOL

(WHOによるQOLの定義)
 「文化や価値観により規定され、その個人の目標、期待、基準および心配事に関連づけられた、生活状況に関する個人個人の知覚であり、その人の身体的健康、心理状態、依存性レベル、社会関係、個人的信条、および周りの環境の特徴とそれらとの関係性を複雑に含んだ広い範囲の概念である。この定義はQOLが文化的、社会的、環境的な文脈に組み込まれた個人の主観的な評価として参照されるものであるという観点を反映している。単に“健康状態”、“生活様式”、“生活の満足”、“精神状態”、と等価ではなく、それら以外の生活側面をも含む多元的概念」(中島孝訳)
 ALSのような難病については、疾病自体を治療して症状の改善を目指すことは現時点では困難である。診断・告知の時点から緩和ケアが始まっているものと考え、心理的サポートを含めた総合的な神経難病リハビリテーションの臨床的な有効性を検討する必要がある。

6.告知

 医師は、診断を告げるだけでなく、積極的にセカンドオピニオンの診断を受けるよう配慮することが重要である。
 告知に際しては次のことに配慮すべきである。
①告知は最初から患者と家族に同時に行う。家族に最初に話すと、家族が患者に知らせなかったり、医師が患者本人に告知するのを妨げるように働く場合もあり、そのため本人への告知が遅れるようなことがあってはならない。
②最初に話すべきことは何か。緩徐進行性であること、治らない疾患であることを正しく認識させることが重要。将来出現する症状について具体的に説明する必要あり。運動、コミュニケーション、嚥下、呼吸それぞれの障害について。なるべく早期に、症状に合わせて段階的に告知すること。
③コミュニケーション障害により患者のQOLは大きく左右される。そこで、パソコンを早期に習得させ、将来の機能低下によるコミュニケーション不全に備えておく必要あり。
④嚥下障害については、経鼻経管栄養や胃ろうの説明が必要。
⑤呼吸障害については、特に人工呼吸器装着の意味を理解させること。延命についてだけでなく、将来の病態の予想や、呼吸器の取り外しは不可能である点について説明。人工呼吸器を使って社会参加を積極的に行っている患者も増えていることを伝えると同時に、病院の一角で天井だけを見つめる生活が耐えがたくて後悔する人がいることも伝える。現在の医療環境では、年単位での療養可能な病院は限られており、在宅療養を選択せざるを得ない。在宅療養の場合、常に介護者(多くは家族)が必要なこと、介護保険を含めて利用できる福祉サービスについても説明すること。いずれも、本人の強い意志と家庭的、医療的、経済的、社会的環境を整えることが不可欠であることを伝える。専門医ばかりでなく、医療機関、看護師、ソーシャルワーカー、患者会、ボランティアなどと連携して医療チームを組んでサポートしながら告知することが望ましい。
(以上、日本神経学会ホームページを参照)

7.安楽死をめぐる議論

 ALS患者の安楽死については、人工呼吸器装着前と装着後との2つの時点に分けて考える必要がある。装着前には、衰え行く身体機能に見切りをつけて安楽死を選ぶことの是非が問われる。装着後では、人工呼吸器のスイッチを切ることの是非が問われる。
 日本ではいずれも違法行為となる。装着前の安楽死については当然ながら認められない。ただ、装着後については、前掲の相模原事件のような事態も起こっており、議論を煮詰めておく必要はある。
欧米ではALS患者の安楽死について積極的な議論が進められている。
 アメリカの事例。自殺装置を開発したことで有名なキボキアン医師の事件。男性のALS患者を致死薬の注射により殺害したとして第二級殺人罪並びに統制薬品の使用の罪により起訴されていたキボキアン医師に有罪判決が出された。患者の麻痺が進行しており、患者自身の手によるマーシトロン(自殺装置)の作動や致死量の薬の服用が不可能だったため、本人にかわってキボキアン医師が投与した。対世間的に問題提起を図るため、医師はその場面をビデオで撮影しておき、後にCBSで放映された。なお、キボキアン医師の自殺幇助した事例47人中、ALS患者は9人であった。
 カナダの事例。あるALS患者が、身体的な麻痺により自殺しようにもそれだけの体力がないため医師に自殺幇助してもらう権利を認めて欲しい、という訴えをおこした。1993年9/30、最高裁判所では9人の裁判官中5:4で否決された。
 このカナダの事例と同様な論争を巻き起こしたのが次に掲げるイギリスの事例。あるALS患者が自身の尊厳を守るための安楽死の権利を主張。ただし、身体的に麻痺が進行しているため自殺することができない。夫の手助けが必要であり、自殺幇助をしたとしてもその罪を問わないよう公訴局に訴えた。しかし、公訴局は却下、もし自殺幇助をした場合には起訴するとの姿勢を明らかにした。患者側は、これは人権保護法違反であるとして高等法院に訴えた。その後、患者は自殺幇助を受けることなく死去。
 オランダでは、1994~99年に死亡したALS患者で医師が調査に応じた203例のうち、35例(17%)が安楽死を選択。6例(3%)が医師による自殺幇助で死亡した。宗教を重要と考えていた患者は、そうでない患者に比べて、安楽死もしくは医師による自殺幇助の割合が低かった。また、これらの選択をした患者としなかった患者とを比べて、収入や教育水準との関係は認められなかった。これらの選択をした患者は、しなかった患者と比べて、障害の程度は重度であった。
 なお、オランダで安楽死を選んだALS患者についてのドキュメンタリー番組「依頼された死」が1994年11/16にTBSで放映された。ALS患者から「自分も死にたい」という反響があった一方、介護を懸命に続けていた家族からは「自分たちの努力はいったい何なのだろう」とむなしさを訴える声も寄せられた。オランダでは100年以上もの時間をかけて安楽死についての議論を積み重ね、国内的なコンセンサスを得るために努力がなされてきた。しかし、この番組ではそうした背景を紹介せず、単に「難病患者が死を選んだ」という一面的な捉え方がされかねない作り方であったことには批判がある。オランダのいわゆる「安楽死法」、(正式には埋葬法改正法)に関しても日本では印象論的に受け止められる傾向があり、正確な理解を促す必要があろう。
 いずれにせよ、死生観をめぐる文化的土壌の違いも当然ながら考えねばならない。日本での動向をみる場合には、日本尊厳死協会や超党派の国会議員グループが進めている「尊厳死法案」についての議論も考慮する必要がある。

8.難病患者の社会参加

 体を動かすことのできない人々を社会的にどのように位置づけ、受け容れるのか。これは、ALS患者を治療の対象としてではなく“病を抱えながら生き続ける人”と捉える点では、障害者の社会参加とテーマは共通する。ただし、身体的な運動機能がゼロに近づきつつあるという場合にどのような社会参加の形があり得るか、模索する必要がある。

【主要参考文献・HP】
・立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』医学書院、2004
・植竹日奈・他『「人工呼吸器をつけますか?」 ALS・告知・選択』メディカ出版、2004
・清水哲郎『医療現場に臨む哲学』勁草書房、1997
・『現代思想』2004年11月号、特集「生存の争い」青土社
・『思想』2005年8月号、特集「医療における意思決定」岩波書店
・日本ALS協会ホームページ
・神経難病情報サービス(国立療養所神経難病研究グループのホームページ)
・難病情報センター((財)難病医学研究財団のホームページ)
・厚生労働省ホームページ
・日本神経学会ホームページ

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2008年1月24日 (木)

ジグムント・バウマン『コミュニティ──安全と自由の戦場』

ジグムント・バウマン(奥井智之訳)『コミュニティ──安全と自由の戦場』(筑摩書房、2008年)

 覆水盆にかえらず、という言い方が適切かどうか分からないが、いったん崩れてしまったら二度と取り返しのつかないものがある。たとえば、“コミュニティ”といわれる人間関係がそうだろう。感覚的に自明なものは議論の対象とはなり得ない。語られた時点で、もはやそれは存在しない。もちろん想像することはできるが、再現的に組み立てたところで、まったくの別物になり下がる。“コミュニティ”の再構築を試みたとしても、それは本来、自発的な帰属意識を意味していたにも拘わらず、不自然な強制を伴うという矛盾を必ずはらんでしまう。私自身はコミュニタリアニズムにどちらかというと好意的だが、このアポリアはどうにもならない。

 ここしばらく、個人化、民営化、規制緩和といった言葉は日本でも当たり前になってきた。“近代化”という社会的動向の最大の特徴は、政治的・経済的・思想的に個人を括り付けてきた束縛を解きほぐすことにある。その果てには、経済効率性の向上による豊かさなり、自律的個人が対等に睦みあうユートピアなり、何らかの究極目標が了解されていた。しかしながら、「解放のために制限を打ち破るという、すぐれて近代的な情熱によって絶えず突き動かされながら、わたしたちはもはや、最終的な意図や目的についての明確なヴィジョンをもってはいないのである」(本書、106ページ)。ヴィジョンの明確だった“近代”を“solid modernity=堅固な近代”とするなら、ヴィジョンの不明瞭な現段階における“近代”をバウマンは“liquid modernity=液状的な近代”と呼ぶ(バウマン『リキッド・モダニティ──液状化する社会』森田典正訳、大月書店、2001年→参照)。

 リキッドな社会において、個人レベルでの自由は格段に広がったように見える。しかし、“自由”は常に逆説をはらむ。“自由”な個人としての力を行使できるのはほんの一握りの人々に限定される(“事実上の個人”)。多くの人々は生物的に人間であるという一点において“自由”の可能性を持つとみなされるが、実際には困難である(“権利上の個人”)。成功者は容易に国境を越えてコスモポリタンと呼ばれるが、実際には他国の同様の人々と付き合っているだけで、意外と人間関係は閉ざされている。彼らは自分たちの地位を守るため“ゲーティド・シティ”に象徴されるような壁を周囲にめぐらす。他方、貧困層・難民など経済生産性の剥奪された人々は成功者の眼に触れない所に追いやられ、“ゲットー”に押し込められる(バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』中島道男訳、昭和堂、2007年→参照)。“グローバリゼーション”という美しい響きとは裏腹に、それぞれ閉ざされた空間が並存することになる。

 理念としての“自由”と実際の“自由”との間には大きなギャップがある。成功者は自身の努力によって独立独歩でやっていると思っていても、その実、親の世代からの恩恵を受けているが、「自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくこと」で自分たちの特権的地位を正当化する。“自由”な社会では機会の均等が大前提だが、実際には“見えない格差”によって競争以前の選別が生じている。経済的にだけではなく生活環境も含めて親から有形無形の遺産を受けついでいるにも拘わらず受験=実力本位というフィルタリングを通して事実上の機会不均等が覆い隠されているという佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書、2000年→参照)の指摘を思い出す。すべては自分の力なのだからエリートは“ノブレス・オブリージュ”の弁えを欠き、すべては自分のせいなのだから貧困層はじっと耐えるよう迫られる。バウマンがしばしばウルリヒ・ベックから引用するように「人は伝記的な解決を求められる」。こうして社会的な分断は正当化され、拡大・固定化する。

 “コミュニティ”への帰属意識が共有されておれば相互扶助の可能性は保てるが、それを崩してきたのが他ならぬ“近代”であった。個人を取り巻く不安定な波に巻き込まれていることに気付いても、一人の努力ではどうにもならない。関係性の回復を求め、“コミュニティ”を再評価する動きが始まるのも当然である。しかしながら、「現実にある個人の弱さやもろさを、コミュニティの(想像上の)潜在力に作り替えることで、保守的なイデオロギーや排他主義的な語用論が生み出される」(本書、138ページ)。もはや失われてしまった共同性を復活させようとしても、外への排外主義、内なる個人への抑圧というまた別種の問題が生じ得る。アイデンティティ・ポリティクスの陥穽がぽっかりと開いており、“コミュニティ”への忠誠心を利用して一定の政治目的に人々を動員操作する可能性が現われることにバウマンは注意を促している。

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2007年12月15日 (土)

マックス・ウェーバーについて

 知人と話していたら、あるきっかけからマックス・ウェーバーに話題が及んだ。「ウェーバーなんて今さら古いよなあ」。へえ、なぜだろう? お説を拝聴。「だって、宗教が資本主義をつくったっていうんだろ」。この人はウェーバーなんて1行たりとも読んだことがないのがすぐに分かった。相手は年長者なので、さり気なく話題をそらす。反論しようものなら、「お前はエラソーだ」となって面倒くさくなるのは目に見えているからね。読んでもないくせに偉そうな物言いをするのはバカ丸出しでみっともない。反面教師としよう。

 経済活動の動因は、生きるために食べる、欲求を充足するために稼ぐ、といった単純なレベルに還元できるものではない。人間の活動は様々な要因が複雑により合わさって現われているわけで、一元的な理解なんてできるわけがない。ある視点ではこう言える、また別の視点ではこうも言える、こうした多様な議論の積み重ねを通して徐々に迫っていくしかない。実にもどかしいし、面倒くさい。ウェーバーの論文には但し書きが多くてまわりくどいが、それはこうしたもどかしさに一つ一つ予防線を張ろうとしているからに他ならない。

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫、1989年)は、カルヴァンやフランクリンに見られる禁欲主義に注目する。経済活動も含めて一切は自分のものではなく神のものなのだから浪費は禁物。利益はすべて再投資に向ける。繰り返していくと、経済活動は規模的に際限なく拡大する。こうした習慣的傾向が神なき近代に入っても世俗的に換骨奪胎され、資本主義のエートスを形作ることになった、というのが本書のざっくりした趣旨。

 ここで注意すべきなのは、資本主義の自己目的的な拡大傾向はそもそも何なのだろうという問題意識が初めにあって、上述のウェーバーの議論はいわばその試論的説明に過ぎないことだ。経済活動を考えるにしても、当の行為者自身にとっての意味的な一貫性をどこまで客観的に説明できるのか。そうした方法論がウェーバーの理解社会学なのであって、プロテスタンティズムという仮説にいちいちこだわるのは木を見て森を見ざる言いがかりだ。

 資本主義の自己目的的な拡大傾向の中で人間の翻弄される姿が見えてくる。あるいは、ウェーバーが官僚制の分析で示したように、企業の大規模化、社会全体の分業化により、合理的・システマティックな官僚制的組織形態が行政機構ばかりでなく社会全体に行き渡る。人間の孤立化と画一化。こうした“近代”の特徴は、グローバリゼーションが進展する現在においても依然として進行中であり、ウェーバーの示した問題の勘所は今でも決して外れてはいない。

 ついでに言っておくが、マルクスにしたって、共産主義という処方箋は間違っていたにせよ、彼の示した資本の自己運動による人間疎外という問題意識は現在においてもやはり間違っているとは言えない。左翼・右翼という政治図式にこだわるバカはこの辺が分からないから本当にうんざりする。繰り返しになるが、人間行動についての説明は多様にあり得る。社会科学の古典を読むときには、結論だけ見て判断するのではなく、そもそもの問題意識はどこにあるのか、そこをこそ汲み取らなければ読んだことにはならない。

 『社会学の根本概念』(清水幾太郎訳、岩波文庫、1972年)を本棚から引っ張り出した。ウェーバーの死後、一群の著作をまとめあげた『経済と社会』の序論をなし、社会学上の重要概念についての説明が並べられている。学生の頃は定義を中心に鉛筆で線を引いていたが、改めて読み返してみると、注目する箇所がまた違ってくる。

 人間の社会的行為を解釈しようとする際、①合理的、もしくは論理的に、②追体験的に、と二通りがあり得る。価値観が違うとやはり追体験はなかなか難しいこともある。そこで、まず個々の行為の目的価値及びそこに向けて働きかけていく一定の筋道を記述してみる、つまり目的合理的なものとして“理念型”(理想型、類型)にまとめてみる。理念型の組み合わせで人間社会の見取り図を描き出す。

 理念型はあくまでも近似的な補助線に過ぎない。人間の行動には非合理的なものも多く、むしろその方が大半を占めていると言っても過言ではないだろう。理念型という一本の補助線を引いてみることで、非合理的な人間の衝動的な行為も、理念型からのズレとして把握することができる。つまり、手がかりがゼロだと何も分からないから、とりあえず一本の線を引いてみて、合理的なもの、非合理的なもの、双方をトータルで見当をつけてみるという考え方だ。理念型というのはそうした思考上のツールとして活用すべきものであって、実体概念そのものを指すわけではない。

「以上のような方法上の便宜という理由によってのみ、理解社会学の方法は合理主義的ななのである。しかし、この方法は、社会学上の合理主義的偏見などと解すべきものではなく、ただ方法上の手段と解すべきもので、生命に対する理性の現実的優位の信仰などと勝手に解釈されては困る。なぜなら、目的の合理的考慮がどこまで実際の行為を現実に規定しているかについては、何一つ言うつもりはないからである。」(本書、12ページ)

「多くのケースでは、歴史的或いは社会学的に重要な行為は、質を異にする多くの動機に影響されているもので、これらの動機から本当の意味の平均を引き出すことは全く不可能である。従って、経済学で行なわれている社会的行為の理想型的構成は非現実的なものである。」(本書、33ページ)

 理念(理想)型の組み合わせで構成された分析が、実際の人間の生身の行動パターンを写し取っているかのように考えるのはとんでもない間違いである。ウェーバーはその点で非常に注意深く、だからこそ彼の議論はまどろっこしくて読みづらい。近年は経済学による実証分析を機械的に応用する形で政策提言に結びつけることが頻繁に行なわれている。もちろん、経済分析は一つの指標として有用であり活用すべきものではある。しかし、それはあくまでもギリギリまで単純化されたモデルに過ぎないことを忘れてしまうと、プロクルステスのベッドのような倒錯した事態を招きかねない。そこにブレーキをかけるためにもウェーバーの議論は読み返してみる価値があると思う。

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2007年10月18日 (木)

「今、教養の場はどこにある? 第1回 ギャップの時代、他者とのつながり」

「書物復権2007 今、教養の場はどこにある? 第1回 ギャップの時代、他者とのつながり」@新宿・紀伊國屋ホール(10月17日、19:00~20:30)

 市野川容孝(医療社会学・障害学)・杉田敦(政治理論)・本田由紀(教育社会学)の三人による鼎談形式のセミナー。市野川さんの司会で進行。メモを取りながら聴いた。

 まず口火を切った市野川さんは、教養=Liberal Artsのliberalの意味を寛大さ、懐の広さと解した上で、自分とは異なる他者の立場に立って想像力を働かせることを指摘。順調に進んでいたものが破綻したとき、問題のありかを認識。きしみに出会って、問題を肌身に感じたときに本を手に取る。そうしたものとして教養を把握。

 医師と患者、社会福祉活動の従事者と障害者との関係において、“専門知”の問題点が見えることがある。専門家としての他者の視点ではなく、患者・障害者という当事者の立場で考えるのが障害学(Disability Studies)。つまり、社会常識的にネガティブなものとみなされている身体状態を一つの個性と受け止めなおしてみる。Disabilityとは、物理的な問題ではなく、身体的特徴を根拠として社会的能力を奪い取られた状態と考える。ただし、この障害学も“学”となってしまうもどかしさ。現場の人たちからは「学者が何を言っている」と白い眼で見られることもあるが、現場から離れた立場だからこそ言えることもある。そこに学としての必要があると主張。

 本田さんは、いわゆる“教養”といわれるものは、知識的な権威をもとにしてむしろ人々の間に立場的なギャップを生み出してきたと指摘。こうした“教養”のあり方を現実態とするなら、これとは違った他者への想像力という点での可能態としての教養が今こそ必要だろう。人間は余裕がないとき、他者への憎悪もしくは自己否定、いずれにせよ自分も含めた誰かに苦しみの原因を帰したくなる。苦しみ、つらさ、不安、そういったものを言葉で表現してみて、誰かに受け止めてもらえれば、それだけでも苦しみのかなりの部分は緩和されるはずだ。自分のつらさ、他人のつらさを分かち合う、そうした意味でギャップを埋めるための言葉のレッスンとして教養が必要だ。たとえば、雨宮処凛のように生活者としてのレレヴァンスを汲み取ることのできた言葉が力を持つのだろう。

 現実の社会には、過度に不可視で、また逆に過度に可視的なものが入り混じっている。経済システムの論理で人間を使い捨てにしてしまうネオリベラリズムがまかり通っている中、「人間力」「美しい国」「愛国心」といったまやかしの言葉でそうしたザラザラの現実を不可視にしてしまう。他方、自分はダメだと見切りをつけてしまう、つまり狭い価値観の枠組みの中ですべてが可視的だと思い込んで自己嫌悪に陥ってしまう人もいる。そうした人々に対しては、人生には不可視な余白もあるんだと提示してあげる。見切りをつける必要はない、他にも手があるはずだという意味で、現実に対して批判的=criticalな視点を示すこと。もし知識人に何かできるとしたらそこだろう、と語っていた。

 杉田さんは、要するに何を言いたいのかさっぱり見えてこなかったので、途中でメモをとるのをやめた。

 最後に一人ずつおすすめの本を紹介。まず、本田さんはデュルケーム『社会分業論』。社会がバラバラに個人化してしまった中で、職業集団の持つ役割に眼をつけた先駆的な古典だという。本田さんは「専門性」の必要を説いている。人間はゼロの状態では何も考えるきっかけを得られない。やはり、土台としての帰属が必要。個人がバラバラになってしまった現代社会ではどうすればいいのか。「専門性」という形で一定の職業意識を持つ集団に帰属することで、出発の足がかりを得られるはずだ。ただし、その職業を一生のものとするとは限らず、可能性の幅を持たせた専門性という意味合いを持たせたいので、スペシャリティー+フレクシビリティー=フレクシャリティーという造語を提案。

 市野川さんはガンジー『私の非暴力』を紹介。抵抗する、戦うということについて、普通の軍隊には資格制限がある。しかし、非暴力の軍隊には年齢も男女の別も障害の有無も一切関係ない、誰もが意志さえあれば参加できる、そのようにガンジーは言っていたと熱っぽくコメントしていた。杉田さんはフィンリー『民主主義』を紹介。

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2007年9月20日 (木)

ジグムント・バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』

ジグムント・バウマン(中島道男他訳)『廃棄された生──モダニティとその追放者』(昭和堂、2007年)

 社会全体を束ねる国家目標に向けて人々を動員するという考え方がもはや時代錯誤であることは、今現在生きている我々にとって当然のごとく皮膚感覚にまでしみわたっている。“国家”という呪縛から解放された戦後日本においては、天下国家のためでなく自分自身のために生きること、そうした意味での個人主義が推奨された。自律的に判断し、自らの“夢”に向けて打ち込むという人間類型が一つの理想となった。しかし、それとても趨勢としては芳しいとは思えない。上の世代が“しらけ”と呼んで嘆いてみせてからすでに久しいが、精神論で片付く問題ではない。“夢”に向けて頑張る人の美談は今でもよく語られるが、その口調にはどこかノスタルジックな響きすらこもる。

 ポスト・モダニティ(後期近代)とは個人化が徹底された時代であり、バウマンはリキッド・モダニティ(液状化した近代)と呼ぶ。この時代に、もはや人々が求めるべき確固たる目標はない。激変する環境に適応すべく、個人一人一人もまたカメレオンのように変わり続けなければならない。そればかりか、競争で優位に立つためには率先して変わる努力を続けなければならない。何のために、ではなく、変化そのものが、目新しさそのものが価値を持つのである。社会レベルでも、個人レベルでも、固定的な目標は嫌われる。彼が変わるから私も変わり、私が変われば彼も変わる、そうしたエンドレスのゲームが繰り広げられる社会。従って、流動的、液状的というイメージ。こうした社会には市場原理主義が最も適合的であり、その動きが国境からあふれ出してグローバリゼーションが進む。

 市場のゲームからはじき飛ばされた人々、あるいは最初から参加資格が認められない人々はどうなるか。グローバルには難民が、ドメスティックには貧困層の問題がある。彼らが市場の液状的なゲームに再参入することはほとんど不可能である、つまり社会生活的にリサイクルできない存在=“人間ゴミ”(wasted lives)とみなされる。

つまり、市場のゲームに参加する能力をもたないことが、だんだんと犯罪者扱いされる傾向にあるのである。国家は、自由市場の論理(あるいは非論理性)から生じる脆弱性と不確実さから手を引いており、そうした脆弱性と不確実性は、今では私事として、つまりは、諸個人が私的に所有している資源によって処理し対処すべき問題として定義しなおされている。ウルリヒ・ベックが言うように、諸個人は今やシステムの諸矛盾にたいして個人史のうえで解決を探し求めることが期待されているのである。(本書、89ページ)

 どんな事情があろうとも、出自も含めてほんの偶然の不幸に過ぎなかったとしても、はじきとばされたこと自体がお前のせい、ということになる。結果として市場のプレイヤーとして振舞えるか否かだけが問題となるのであって、その経緯は一切問われない。個人中心なので国家による再配分・再教育の機能を正当化する根拠も乏しい。しかし、はじき飛ばされた人々の抱く不満は潜在的な危険となる。ゲームのプレイヤーを守るため、難民や貧困層に対しては、社会内において統合を図るよりも、隔離という対策を取る方が効率的となる。つまり、社会的排除の問題がここに現われる。

 バウマンの示した見取り図は悲観的で、どこかニヒリスティックですらある。無論、現実には市場主義の行き過ぎによる弊害に対して何らかの対策を取ろうという努力はされているが、なかなか実を結ばない。何か具体的な原因があれば対策の立てようもある。しかし、近代という時代の性格に深く根ざした問題であるだけに、ただただ途方にくれるばかり。感情をこめずに淡々と進めるバウマンの論述を見て、社会学というのも結構残酷な学問だなあ、という妙な感想も持った。

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2007年9月14日 (金)

大屋雄裕『自由とは何か──監視社会と「個人」の消滅』

 実務として法律を運用する場合と、現代社会論として法現象を考察する場合とでは、両者に認識上のギャップがあまりにも大きすぎて私のような法律の素人は頭が混乱してしまう。ざっくり言って、前者は個人の“自由意思”というフィクションに基づき、後者はそのフィクションを暴き出そうとする努力で対峙しているという構図にまとめられるだろうか。

 こうしたギャップが最も顕著なのは、法活動の主体、すなわち“自由意思”そのものの問題である。大屋雄裕(おおや・たけひろ)『自由とは何か──監視社会と「個人」の消滅』(ちくま新書、2007年)は、法哲学の立場から現代社会における“自由”をどのように捉えたらよいのか迫ろうとしている。原理的な概念がかみくだかれており、読みやすい。

 各個人が自ら判断して結んだ契約は尊重されねばならず国家ですら介入できないという私的自治は民法上の根本原則である。犯罪とされる事柄は予め周知されていなければならないという罪刑法定主義は刑法上の根幹をなす。いずれにせよ、各個人は“自由意思”に基づいて自律的・理性的に振舞うはずだという前提がある。

 しかし、人間とはそんなに理性的なものだろうか。なぜ法をみだす者がいなくならないのだろうか。個人の内面で自己完結的に“自由意思”を持つとされるモデルを否定し、人間の行為がむしろ社会的、環境的、場合によっては生得的な要因、つまり個人の“自由”ではどうにもならない外的な要因で左右されてしまうところに法的問題を見出す立場が19世紀になって現われた。新派刑法学である。たとえば、犯罪人類学を打ち出したロンブローゾなどが有名だ。

 さらにつきつめると、法をみだしかねない人間類型やシチュエーションを法則的・確率論的に把握して予め対策を立てておけば法的秩序は確保されるはずだ。すなわち、犯罪をおこさせない環境を物理的・社会工学的に設計するアーキテクチャ(環境管理)的権力を活用しようという発想につながる。たとえば、通路に妙なオブジェを置いてホームレスを制裁的にではなく物理的に排除しようというのがこれである。法には抵触させていないという点で表面的には“自由”を保障しているかのような素振りを示しつつも、行動の選択肢を実質的に狭めることで秩序維持をはかる。

 ここには次の問題がある。第一に、アーキテクチャを設計した者が実質的な支配者となってしまう。第二に、ホームレス排除のオブジェはあからさまなのですぐにわかってしまうにせよ、アーキテクチャ的権力の最たる特徴は、規制を受けた側が、そのこと自体に気付かないこと。行動の選択肢が最初から削ぎ落とされているのに、それを我々は“自由”と呼ぶことができるのだろうか? 

 以上をまとめると、“自由意思”に基づく個人というフィクションを前提として、法や社会規範に基づき違反者に対し事後的に制裁を加えるという法的権力のあり方が一方にある。これが一般に了解された法的秩序だが、素朴な“自由意思”など成り立たないことは現代思想の様々な議論から明らかだろう。あくまでもフィクションに基づくシステムにすぎない。他方、潜在的リスクを予め把握しておき、アーキテクチャ的権力によって事前的に規制を加えていくという手段も現実に取られている。選択肢を狭めることで成り立つ秩序なのだから、本来的に“自由”は期待すべくもない。

 いずれにせよ、実質的に“自由”などあり得ない中で、なおかつ我々は建前であれ何であれ“自由”を基本原則とした社会に生きているという根源的な矛盾がある。これをどのように考えればいいのか? 本書の著者は、“自由な個人”だから責任を負うというのではなく、逆に責任を負うという態度を示したときに“自由な個人”とみなされると述べている(本書、199頁)。フィクションを引き受けて生きる覚悟を再確認するしかないという点で私は説得的に感じた。

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2007年9月 6日 (木)

岩田正美『現代の貧困』を読んで

 近年になって社会格差論が急浮上し、その中で貧困の問題も今さらながらにクローズアップされてきた。バブルの崩壊、構造改革の行き過ぎなど原因探しの議論も活発となってはいる。しかし、岩田正美『現代の貧困──ワーキングプア/ホームレス/生活保護』(ちくま新書、2007年)によると、かつては“総中流化”といわれる社会的風潮のかげで覆い隠されていただけで、貧困はずっと問題であり続けていた。

 可能性の問題でいうなら、もちろん誰しも人生の転変で貧困状態に陥ることはあり得る。だが、実際には特定の不利な条件を抱えた人々に統計的に集中しているという点で、ある種の構造的な問題であるといえる。

 第一に学歴の問題。中卒、高卒だと現実問題として就業機会に恵まれない。かつて“金の卵”と呼ばれた頃は、企業内でスキルを身に付けさせるという慣行があった。しかし、それは“即戦力”志向の中で崩れてしまい、学歴も含めて教育上の投資を十分に受けてきた者を企業は採りたがるようになった。また、職人のように、学歴がなくとも“腕一本”、技能と経験の蓄積で立っていく自営業も衰退してしまった。こうした人々は不安定雇用に結びつきやすい。

 第二に家族構成の問題。統計的にみると、非婚と貧困は結びつきやすい。それはまず、収入が低いから結婚できないという解釈もできる。ただもう一つ、支え合う家族がいないため、病気、失業など人生上のリスクへ対応できず、そのまま貧困状態に転落してしまうケースが考えられる。離婚したシングルマザーなどは就業上の関門が極めて狭い。

 また、結婚していなくとも、親など家族からの扶助が期待できれば立ち直れる可能性は高くなる。行政の対策も、基本的には家族福祉を織り込んだ上で立てられている。さらに因果関連の問題として考えると、資産や学歴は家族を通して継承される傾向が統計的にもみられ、貧困転落可能性の階層格差は歴然としている。これは、佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書、2000年)をはじめ、多くの論者が指摘するようになってきた問題である。

 自助努力はもちろん正論だが、機会の均等が大前提である。と言うと、規制緩和等の問題に結びつける向きもあるが、資産や学歴、広い意味での社会的ステータスの継承による“見えない格差”がある限り、むしろ格差は幾何級数的に拡大・固定化され、それは“見えない”がゆえに正当化もされてしまう。貧困等の問題を固定化された階層、いわゆる“社会的排除”というキーワードが対象とする人々の間には何をやってもムダだという諦めをもたらし、山田昌弘『希望格差社会』(筑摩書房、2004年)が指摘していたように社会の分裂につながりかねない。

 人間が様々な社会的因果連関の網の目の中にいる一つ一つの要因を腑分けしていくのが社会科学の使命であろう。しかしながら、最近、政府の政策に影響力を持つ一部の経済学の議論では、自己責任を強調するばかりで、前提としての個人のケイパビリティー(潜在能力、ただし意味合いに注意)についての考え方がつめられていない。人間の可能性に全幅の信頼を置くのはまことに結構なことではあるが、その極めて楽観的で単純な人間認識は、それこそ“なせばなる”的な精神論としか思えず、私は理解に苦しんでいる。

 以前、知り合いから誘われてホームレスの実態調査に参加したことがある。社会調査の経験など全くないのだが、人手が足りないからと質問項目のペーパーを渡され、いきなり面接調査をやらされて戸惑った。

 「なんか仕事ないかねえ」「あんたから役所に文句言ってよ」とか話してくれる人はまだいい。そうした中、一人いまだに忘れられない人がいた。老けて見えたが、まだ三十代後半だったと思う。何を尋ねても一問一答に終わってしまう。話が続かず、沈黙の間に私は焦った。季節は春、公園の桜の木が目に入ったので、世間話のつもりで「桜がきれいですね」と語りかけた。「そういう人もいるね。俺には関係ないけど」と、話の接ぎ穂がない。完全に心を閉ざしている。無論、初対面なのだから当たり前だろうが、それでも少しずつ聞き出した。何かをして欲しいということにはもう関心がなく、こんな状態に落ちてしまったこと自体が耐え難い、そしてそれは他ならぬ自分のせいなのだから仕方ない、そういう完全な諦めが感じられた。

 衣食住の問題は財政的な余裕さえあれば何とかなる。仕事に就く上で支障となっている住所や保証人の問題も制度的な対応を考えることはできる。しかし、そういった物理的・法制度的問題はともかく、本人の後悔、自尊心の問題、これは他人には手をつけることはできない。どうしたらいいのかさっぱり分からず、いまだに気にかかっている。

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2007年9月 5日 (水)

ワーキングプアについて

 若き日の鎌田慧が北九州の飯場に潜り込んで書き上げた『死に絶えた風景』(ダイヤモンド社。後に現代教養文庫、1994年、版元倒産)が刊行されたのは1971年のことだった。ピンハネ、低賃金による拘束、そして使い捨て──這い上がる可能性すら完全につまれてしまったアリ地獄のような困窮状態を読み、私自身がまだ生まれてもいない頃の話だが暗澹たる気持ちになったのを覚えている。

 貧困から這い上がることの難しさという点ではアメリカが世界でもダントツだろう。バーバラ・エーレンライク(曽田和子訳)『ニッケル・アンド・ダイムド──アメリカ下流社会の現実』(東洋経済新報社、2006年)は、ジャーナリストである著者が経歴を隠して一定期間、ウェイトレス、清掃婦、スーパー店員などの仕事に就いた体験を記した潜入ルポである。少々あざとくてイヤな感じがしないでもないが、安定した中流生活に馴染んでいた著者のカルチャー・ショックが素朴に浮き彫りにされ、そこが一つの読みどころとなる。たとえば、同僚が1日40~60ドルの簡易宿泊所に泊まっていると聞いて、なんと無駄なことをしているのかと驚く。自分は1月500ドルの部屋を見つけたのに、と。しかし、著者の場合は敷金などまとまった初期費用を予め用意できたからであり、その日暮しの収入しかない同僚にはできない相談であった。貧しさゆえに足もとを見られて節約すらできない、こうした外部からはなかなか気付きづらい日常的なことを一つ一つ描き出していく。

 こういったことは、残念ながら過去のことでも海外のことでもない。つい最近でも、某派遣会社が「データ装備費」なる名目でピンハネしていたり、厚労省調査でネットカフェ難民5千数百人(調査には必ず漏れがあるから潜在的にはもっといるのではないか)という数字が報じられたりしている。社会的弱者にしわ寄せされる構造的問題は、装いを新たにしているだけで基本的には解決されないままである。

 まさに問題となっている今現在の当事者に直接インタビューして生の声を拾い上げているのが雨宮処凛『生きさせろ!──難民化する若者たち』(大田出版、2007年)である。雨宮自身、フリーターとしてイヤな思いをした経験があり、また弟が企業で使い捨てにされて体を壊した経緯も綴られていて、それだけ共感的に話を引き出している。ネットカフェ難民の問題も取り上げているほか、派遣労働の実態など、かつての飯場のシステムを思い起こさせる。雨宮自身の経歴からすれば当然だが、メンタル系の問題を抱え込んでしまった人への思いやりは優しい。「もやい」というNPOの活動を取り上げて、いざとなった時に生活保護を申請するノウハウを紹介しているのは実践的だ。

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2007年7月 6日 (金)

斐昭『となりの神さま』

斐昭『となりの神さま』(扶桑社、2007年)

 私は小田急沿線の郊外に育ったので、代々木上原のモスクはなつかしい。あのドームと尖塔の堂々たる姿は、都心に出てくる時のシンボルというくらいに鮮やかな印象を幼い眼に焼き付けていた。いつしか消えてしまい、さびしく感じていた。老朽化のため1986年に取り壊されたらしい。しかし、2000年に再建され、本書のカバー写真にあるように美しい威容を再び見せてくれている。

 日本にやって来た外国人たちについて意外と何も知らないことに改めて気付かせてくれた。ニコライ堂にエチオピア正教会の信徒も来ることは初めて知った。イグナチオ教会には礼拝日ともなるとフィリピーナ向けの露店が出て賑わうらしいが、2時間もすると警官が外国人登録証のチェックを始めて、客を追い払ってしまうそうだ。群馬県の工業地帯に日系ブラジル人の労働者が集まっていることはよく知られているが、実はムスリムも来ている。半裸になってサンバを踊る女性の際どい姿に、ムスリム男性の視線が釘付けになっている様子を思い浮かべてつい吹き出してしまった。

 よるべない異国の地にやって来て不安な中、宗教的コミュニティーは言わば生きる智慧として不可欠なものだろう。精神的な拠り所というだけでなく、日常の具体的なトラブルについて相談するために。一つの場所ができれば、日本人も含め様々な人々が集まってくる。草の根の異文化交流の場となるが、諍いまじりのマイナスの交流とならなければいいのだが。

 彼ら彼女ら一人ひとりの事情を深く突っ込んでいるわけではないが、写真をふんだんに織り交ぜており、臨場感はあって面白い。

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2007年2月 5日 (月)

『下町酒場巡礼』『立ち飲み屋』

大川渉・平岡海人・宮前栄『下町酒場巡礼』ちくま文庫、2001年
立ち飲み研究会『立ち飲み屋』ちくま文庫、2006年

 別に私は何かいい店はないかと物色しているわけではないし、そもそもこの本に載っている店が今でも続いているか保証はない。ただ、下町の飲み屋の雰囲気にはちょっとしたあこがれを持っている。店のたたずまいの何気ない描写や、店の人や客のやり取りを読んでいるだけでも結構楽しい。庶民の生活をのぞきこむというような高飛車な見方ではなく、なごやかな空気が漂ってくるのが良い。グルメというほどのこだわりは持っていないので、説教めかない素朴なウンチクも読みやすい。

 以下はほんの雑談。

 私は居酒屋にはいつも思い立ったときに一人でぶらりと入る。安酒を頼み、タバコをくゆらせながら、本を読んだり、考えごとをしたり、思いついたことをメモ書きしたり。このブログに載せている文章にも呑みながら書いたものが多い。私は人見知りが激しいので、居合わせた客にこちらから話しかけることはない(ただし、話しかけられれば、つまらない雑談でも応じるよう努力はしている)。店の人が、気を遣ってくれているのだとは思うが、やたらと話しかけてくるところからは自然と足が遠のく。ほっといてもらっても周囲から浮き上がらない店に通うようになる。一人になりたければ酒場になど来なければいいと思われるかもしれないが、ガヤガヤした雰囲気にまぎれているのが好きだし、その方が頭も結構動くのだ。言葉は交わさなくとも、店の人に顔を覚えられて、たまにサービスしてくれたりするととても嬉しい。

 居酒屋での過ごし方は人それぞれ。いずれにしても、居酒屋の文化は社会を下支えする重要な役割を果たしていると言っても過言ではないと思う。アイルランドのパブもそうだろう。

 閉じた人間関係で完結してしまうと人は生きづらい。濃淡様々なレベルの人間関係と複層的につながっているのが一番良い。とりわけ、「お前が何やっている奴だか知らないが、ここで呑んでるなら仲間みたいなもんだ」という感じに、社会的ステータスや帰属意識から切り離された形で人と向き合える空間に身をさらすこと。その経験がもたらす心理的効果は計り知れないほど大きいと思う。居酒屋はそうした一つの対面的コミュニティーを形成するという点で、アメリカの政治学者ロバート・パットナムが指摘する「社会関係資本」(『孤独なボウリング』柏書房、2006年)の重要な要素であることは間違いない。

 あるいは居酒屋は、経営学のキャリア論で言う「弱連結」を成り立たせるシチュエーションの一つでもあろう。つまり、家族や職場など利害関係を密接にしている人たちとのつながり(強連結)だけだとものの考え方が偏ってしまうので、顔見知りだが深くはないつきあい(弱連結)も大切にすべきだという指摘にかなう(金井壽宏『働くひとのためのキャリア・デザイン』PHP新書、2002年。『あったかい仕事力相談室』千倉書房、2006年)。

 逆に、職場や家庭に居場所がないと感じている人は、まず自分に合った居酒屋を探してみればいいと島田裕巳が指摘していたのも印象に残っている(『不安を生きる』ちくま新書、2005年)。

(2007年2月4日記)

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2007年1月 6日 (土)

バウマン『リキッド・モダニティ』

 ジークムント・バウマン(森田典正訳)『リキッド・モダニティ──液状化する社会』(大月書店、2001年)を取り上げます。今回はお勉強メモです。今、病み上がりで頭が回らず、うまくまとめられませんでした。取りあえず掲載しますが、書き直すことはないでしょう。著者のバウマンは1925年、ポーランド生まれ。現在はイギリスで活躍している著名な社会学者で、リーズ大学・ワルシャワ大学名誉教授です(2007年1月2日記)。

 我々を取り巻く“近代”と呼ばれる時代状況。これを端的に言い表すのはなかなか難しいが、伝統に縛られた共同体的なつながりが解かれ、個人を単位とした社会へ移行した点が大きな特徴として挙げられるだろう。

 ただし、一言で“近代”と言っても、近年は様相が大きく変わってきた。一定の共通枠組みによる見通しの中で、規範的にも物的にも個人をまとめあげて動員してきた従来の時代を「ハードウェア」型近代とするなら、これに対して現在進行しつつある状況を本書ではLiquid Modernity=「液状化した近代」と呼ぶ。

 「われわれの生きる時代は、同じ近代でも個人、私中心の近代であり、範型と形式をつくる重い任務は個人の双肩にかかり、つくるのに失敗した場合も、責任は個人だけに帰せられる。そして、いま、相互依存の範型と形式が溶解される順番をむかえている」(本書11ページ)。横の関係が全く切り離されてバラバラとなった中、自分が何をするのかという目標も、そのために用意する手段も参照すべき模範もなく、そもそも目標を立てる上での主体となるアイデンティティ形成も含めてそうした一切を自己の責任においてなさねばならないという徹底した個人主義の時代。いわば出発点も到達点もすべてが移ろう中で個人が戸惑うイメージがこの「液状化した近代」という言葉には込められている。

「それはちょうど椅子取りゲームの椅子のようなもので、形もスタイルもまるで違い、数も場所も刻々と変化する。人間は椅子取りゲームの椅子のような場所を求めて、つねに右往左往しつづけ、そのあげく、どんな「結果」も、安息もえられず、鎧をとき、緊張を和らげ、憂いを忘れることのできる最終目的地に「到達」したという充足感ももてない。(すでに、ひさしく)解放された個人が進みつつある道の果てにも、新しい居場所はみえてこない。」(本書、44ページ)

 我々は一定の見通しがあって、はじめて自身の目標を設定し、そこへ向けて邁進できる。しかし、あらゆる物事が変転する混乱の中では立ちすくむしかない。

 こうした個人化の進展は自己責任原則の徹底をも意味する。不幸は他ならぬ自分自身のせいである、挫折したのは自分の怠け癖のせいである、努力する以外に救済手段はない、というわけである。望もうが望むまいが関係なく時代の宿命的な成り行きにあり、そんな厳しい個人主義ゲームに参加したくないと言っても、退出の自由は許されない。

 もちろん、一つの精神論としては間違っているとは言えない。ただ、ここで問題なのは、あらゆる物事について自己決定できるという前提の下での形式的なイメージとしての“個人”と、現実の人間が持つ自己実現能力との間には大きなギャップがあることだ。本人の努力ではどうにもならない問題までもが自己責任という名目の下で断罪されてしまう。

「…病気にかかると、そもそも、健康管理指導を守らなかったからだと逆に責められる。また、失業者が就職できないのは、さしづめ、技量の習得を怠ったか、仕事を真剣に探していないか、たんに、仕事がきらいだからだと勘ぐられる。個人が仕事や自分の将来に自信がもてないのも、友人をつくることや他人を説得することが苦手だからか、自己主張の術と、相手に好印象をあたえる能力を習得していないからだときめつけられる。とにかく、だれもがこうした見方の真実性を疑わないのは、これが真実だと信じさせられているからだろう。ベックがもの悲しいいい方で、いみじくも語ったように、「組織の矛盾は人間の生き方によって伝記的に解決」されるのだ。社会は危険と矛盾を生産しつづける一方、それらへの対処は個人に押しつける。」(本書、45ページ)

 こうした傾向の中、パブリックな感覚は失われつつある。個人の自己責任という教えが徹底されると、自分の目の前のできる能力の範囲内のことだけしか考えなくなり、政治や社会の問題についてまでは目を向けない。また、政治的な目標のために連帯することもなくなった。かつては社会的な矛盾がしわ寄せされた人びとが手を組んだ。いまや失敗はすべて本人のせいなのだから手を組む必然性はない。

 現代社会における特異な共同体のあり方を「クローク型共同体」としてバウマンは紹介する。

「劇場にでかける人間は、複層のそれなりの決まりにしたがって、普段着を異なる服を着る。こうした行動は劇場にでかけること自体を、「特別な出来事」とするのと同時に、劇場にあつまる観客を、劇場の外にいるときとは比べものにはならない均一な集団に変える。昼間の関心や趣味がどんなに違っていても、人びとは夜の公演になると同じ場所にあつまってくる。観客席に座るまえ、人々は外で着ていたコートやアノラックを劇場のクロークにあずける。公演中、すべての目、全員の注目は部隊にそそがれる。喜びに悲しみ、笑いに沈黙、拍手喝采、賞賛の叫び、驚きに息をのむ状況は、まるで台本に書きこまれ、指示されているかのように一斉におこる。しかし、最後の幕が降りると、観客たちはクロークから預けたものをうけとり、コートを着てそれぞれの日常の役割にもどり、数分後には、数時間まえにでてきた町の雑踏のなかへ消えていくのである。
 クローク型共同体はばらばらな個人の、共通の興味に訴える演目を上演し、一定期間、かれらの関心をつなぎとめておかなければならない。その間、人々の他の関心は一時的に棚上げされ、後回しにされ、あるいは、完全に放棄される。劇場的見世物はつかのまのクローク型共同体を成立させるが、個々の関心を融合し、混ぜあわせ、「集団的関心」に統一するようなことはない。関心はただ集められただけで、新しい特性を獲得することもなく、演目がつくりだす共通の幻想は、公演の興奮がさめると雲散霧消する。」(本書、257-258ページ)

 徹底した個人化の流れの中にあって、現実の人間はその矛盾に苛まれている。共同性を回復しようというかりそめの努力も、所詮はガス抜きに過ぎない。適宜なガス抜きを繰返すことで、個人化の傾向をむしろ永続化させる。

 バウマンの議論からは、ではどうすればいいのかという具体的な処方箋は見えてこない。しかし、様々なスタンスに立つ社会学者の議論を丁寧に消化した上で、以上に紹介したものに限らず現代社会を取り巻くおびただしくも豊かな論点が盛り込まれているので知的刺戟に満ちた一冊だと言える。

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2006年12月27日 (水)

ハイエクの視点で“ファスト風土”化を考える③

(承前)

【“ファスト風土”化とは?】

 いわゆる“郊外”の抱える問題が話題にのぼるようになってしばらく経つ。地域的コミュニティーが独自の性格を弱めて均質化しつつある問題について、近年、三浦展が“ファスト風土”化というキーワードを用いて興味深い議論を進めている。実は私自身、東京郊外のベッドタウンに育ったため、他人事ならぬ切迫さを感じている。

 三浦の議論からいくつか論点をピックアップしてみよう。第一に、郊外型住宅地には“故郷喪失”者が寄り集まるだけで、地域としての共同性がなかなか形成されない。従って、第二に、地域の固有性が失われ、生活環境への愛着がなくなった。第三に、職住分離により、働く人びとの姿が見えない街となっている。第四に、ほぼ同じような所得階層の人びとで固まった均質的な居住空間であるため、人間の多様性が見えない。第五に、機能主義的に徹底された空間構成を持っているため、異質なものが混在する余地がない。第六に、こうした帰結として、郊外で育った者は自己完結的に閉じたライフスタイルを送るようになり、他者への配慮に注意するという意味での公共心が希薄となってくる、などの問題が指摘される。

 いずれにせよ、血の通った人間関係を結ぶには非常に難しい無機的な生活環境であることが分かる。こうした傾向に拍車をかけたのが大型店の出店規制緩和であった。大店法には商店街の既得権益を守っていたという側面があったが、それだけではない。商店街、零細商店を生活環境の重要な要素として含みこんでいた地域社会に暮らす人びとの生活の質を守るという一面もあった。

 しかし、効率的な経済活動という大義名分の下、地元に根付いた生活空間としてのコミュニティーは空洞化してしまった。人びとは、たとえばジャスコの提供する画一的な消費環境に否応なく巻き込まれていった。中島哲也監督「下妻物語」(2004年)に荒川良々扮する八百屋が深田恭子に向って「ジャスコには何でもあっぺ」と戯画化するシーンがあるが、的を外していない。

 確かに欲しいものは何でもそろう。だが、そこでは、必要→消費という単線的な消費行動が強要されるばかり。顔をつき合わせて対面するという意味での横の関係を築く契機は失われ、その場限りの代替可能な人間関係が中心となる。バラバラに横のつながりから切り離された人々を動かすのは、日々馴染んだ生活の慣習ではない。市場効率という名義の下で外部から与えられる純粋論理である。つまり、郊外にばら撒かれた砂粒のような群集が、市場論理という匿名の権力によっていかようにも左右されるイメージが浮かび上がってくる。

 “自己責任”という言葉があたかも熱病にうかされたように振りかざされている。自分の責任において経済的自由競争で生き残らねばならないというのはもちろん正論ではある。だが、その“責任”をとるべき主体としての“自己”はどのように形成されるのか。人と人とがじかに顔をつき合わせて暮らすコミュニティーの中でこそ、我々は自己アイデンティティーを確立させるきっかけをつかむことができる。本来、街には青少年を社会化する機能が期待されていた。しかし、均質的な空間に放っておかれた少年は、働く大人の姿を見ることなく、多様な人間の織り成す生活のドラマを身近に体験することなく、一体どのようにして社会人としての責任感を育めばいいのだろうか。社会に出て行く上での行動規範を習得するきっかけが得られない、そうしたところに地域的コミュニティー崩壊によって生じた問題がある。

 こうして無機的になった生活空間は、数字のみで構成された純理論的な経済活動の舞台としては最適なのかもしれない。だが、そこで前提とされているのは、個性を失い砂粒のようにバラバラとなったのっぺらぼうである。拠り所を失った彼らには、もはや自前の判断を行なう力がない。受動的に市場の論理へと順応せざるを得ない。

 他者との葛藤を通して自己の本来に気付きアイデンティティー形成につなげるという意味での“個性”を失い、自発的な行動に重きを置くという意味での“自由”を奪われた事態は、すなわち“個人主義”の否定を意味している(ここでいう“個性”とは、他人との些細な違いを誇示する程度の陳腐さとは縁遠いものであることは言うまでもない)。

【おわりに】

 ハイエクは、個人の自由な経済活動を擁護する理論づくりに腐心していた。その点では、経済効率最優先の政策とは調和的であるかのように見えるし、実際に新自由主義的な傾向を持つ論者はしばしばハイエクを引用する。だが、次の二つの点では大きく異なる。

 第一に、自由な経済活動の前提には、法的強制力以前のものとして各個人に暗黙のうちに刻み込まれた行動規範が必要である。それは、伝統によって結び付けられた共同体における慣習の受け入れを通してはじめて血肉化されるものである。しかし、現在進行しつつある地域的コミュニティーの崩壊により、そうした他者と共有される内面的な価値意識に触れるきっかけそのものが失われている。そして、その地域的コミュニティー崩壊は、経済効率を優先させる政策の必然的帰結なのである。

 第二に、市場経済“原理主義”的な発想は、一つの原理を政策として人為的に社会全体に貫徹させようと意図する。そこで前提とされているのは、バラバラにアトム化・均質化された存在としての抽象的な人間モデルである。すなわち、ハイエク言うところの“偽の個人主義”である。これは、抽象的理念の先行を戒め、生身のレベルで実感されるべき“個人主義”を主張したハイエクの思想とは対極にある。

【参考文献】

F・A・ハイエク(田中真晴・田中秀夫編訳)『市場・知識・自由──自由主義の経済思想』ミネルヴァ書房、1986年
F・A・ハイエク(一谷藤一郎・一谷映理子訳)『隷従への道──全体主義と自由』東京創元社、1992年
E・バーク(中野好之訳)『フランス革命についての省察』(上・下)岩波文庫、2000年
三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史──郊外の夢と現実』講談社現代新書、1999年
三浦展『ファスト風土化する日本──郊外化とその病理』洋泉社新書y、2004年
三浦展編著『下流同盟──格差社会とファスト風土』朝日新書、2006年
神野直彦『地域再生の経済学──豊かさを問い直す』中公新書、2002年

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2006年12月26日 (火)

ハイエクの視点で“ファスト風土”化を考える②

(承前)

【共同体が個人の自由を保障する】

 だが、それでも我々には“理性”によって理解したいという思考習慣がある。伝統などというものはむしろ古臭い束縛と感じられ、愛着はない。伝統を受け入れろと言われても、現実的な効用と正当な根拠が明らかでない限り、容易には納得しがたい。「しかし、理解できることを望んでやまないその気持はよく分かるけれども、その要望がいかなる体制でも満足させることのできない幻想的要求を産み出すのは、まさにここにおいてなのである。」

「もしも人びとが偽の意味での「個人主義的」でありすぎるならば、伝統と慣習に自発的に順応することをあまりにも嫌がるならば、そして、意識的に設計されないもの、すべての個人にとって合理的だと示されないものは何であれ、承認することを拒むならば、自由な、すなわち個人主義的な社会は果してうまく運営されるのかどうか、それは未解決の問題としなければならない。」(前掲書、33頁)

 偽の“個人主義”とは、横の関係が孤絶したバラバラの状態にある人間モデルである。そうした砂粒のような群集を一まとまりの社会として結びつけるにはどうすればよいのか? 強制的な命令を下す全能の国家権力がどうしたって要請される。しかし、そうした権力的強制は論理必然として個人の自由を大きく損なう。

 人間の自由な活動を保証するための真の“個人主義”は、他者による強制ではなく、自発的な協力関係を求める。人と人とが関わり合うためには、互いの行動パターンがある程度まで予測可能でなければならない。国家権力による交通整理も一つの方法であろう。だが、それ以前に、一定の価値信念が暗黙のうちに共有されてはじめて秩序が成り立つ。その暗黙の価値信念とは、長い歴史と伝統によって醸成されるものなのである。

個人主義的な社会が機能的に働くために「非常に重要なのが、自由な社会において成長する伝統と慣習である。そのような伝統と慣習は、強制的であることなしに、可撓的ではあるが常態においては遵守される諸規則を定着させ、それによって他人の行動が高度に予測可能にせられるのである。そのような規則の存在理由を理解するかぎりにではなく、反対すべき確たる理由がないかぎり、規則に進んで従うことが、社会的交流の規則の漸次的発展と改善のための、ひとつの本質的な条件である。誰も設計したのではなく、誰にも理由がわからないかも知れない社会過程の産物に、普通に従おうとする心構えもまた、強制をなくすべきであるならば欠くことのできないひとつの条件である。ある人びとの集団のなかに共通の慣習や伝統があると、そのような共通の背景がない集団にくらべて、形式的な組織と強制がはるかに少なくて、人びとを円滑にかつ効率的に協力させることができることは、いうまでもなく常識である。」…「すなわち、慣習と伝統が人間の行動を大幅に予測可能にしている社会においてだけ、強制を最小限にしておくことが多分できるのである。」(前掲書、28-29頁)

 歴史や伝統を共有することで一定の規範が内面的に血肉化された共同体。そこでの自発的な協力関係があってこそ、権力的な強制がなくとも成り立つという真の意味での“個人主義”があり得る。すなわち、国家権力の介入から個人の自由を守るためにこそ、歴史的に醸成され人びとの間に共有された伝統と慣習が不可欠なのである。

(つづく)

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2006年12月25日 (月)

ハイエクの視点で“ファスト風土”化を考える①

【はじめに】

 重要なキーワードであればあるほど、使う人によってその言わんとするところが全く異なり、言葉そのものとして結局は何も意味しないに等しいという虚しさを感ずることがある。“自由主義”、“民主主義”、そしてここで取り上げる“個人主義”もまた然り。ハイエクはそうした困難を明敏に察知していた。しかしながら、彼は自身の信念を述べるにはやはり“個人主義”と表現せざるを得ないという。そこで、この言葉にまつわる多義的な混乱を解きほぐそうと努めていた。

 ここではまず、ハイエクの論考「真の個人主義と偽の個人主義」(田中真晴・田中秀夫編訳『市場・知識・自由──自由主義の経済思想』(ミネルヴァ書房、1986年)所収)で展開されている議論のうち、①個人はバラバラなのか? ②個人の“理性”は万能なのか?という二つの論点に注目し、そこから個人と共同体との関わりについての議論を引き出す。その上で、ハイエクの議論から得られた視点をもとに、最近、三浦展が提示している“ファスト風土”化という問題について考えてみたい。

【理性への懐疑】

 “個人主義”という一言を聞いたとき、どのような人間像を思い浮かべるだろうか。一般に、自給自足的に孤絶した人間をモデルとする思い込みが広く見受けられる。これは、経済学の方法的仮設としてのホモ=エコノミクスと親和的であり、またラディカルなアナキズムもこうした傾向を持つ。しかし、ハイエクによれば、これは明らかな誤解であるという。“個人主義”とは本来、社会的な人間活動を通して様々に規定される関係性があってはじめて成り立つものだからだ。

 十八世紀イギリスの思想家エドマンド・バークはフランス革命(およびその思想的な根拠をなすルソーの理論)を目の当たりにして、国家があっという間に解体されて「バラバラの個人の粉末」にされてしまうのをおそれた。周知の通り、バークの警戒心の背景には人間の“理性”なるものに対する懐疑があった。

 イギリス経験論の“個人主義”と大陸合理論の“個人主義”とを大きく分かつのは、人間が持つとされる“理性”の捉え方である。

「前者は個人の知性の諸制限についての鋭い自覚──それは諸個人をしてかれらの知識以上の偉大な事物の創造に参与させる非個人的で作者不明の社会的諸過程に対して、おのずから慎ましい態度を誘う自覚である──の産物である。これに反して後者は個人の理性の力を買いかぶり、したがって、個人の理性によって意識的に設計されたのではないもの、理性にとって完全には明瞭ではないものに対しては、何であれすべて軽蔑することの産物である。」…「人間は高度に合理的で聡明な存在ではなく、きわめて非合理的で誤りに陥りやすい存在であり、その個々の過誤は社会的過程のうちにおいてだけ訂正されると考え、きわめて不完全な素材をもっとも有効に活用することを目指す反合理主義的アプローチは、おそらくイギリスの個人主義のもっとも著しい特徴である。」(「真の個人主義と偽の個人主義」『市場・知識・自由』9-10頁)

 つまり、フランス啓蒙思想の“個人主義”は、人間“理性”の万能を信じ、すべての物事はその“理性”によって設計されねばならないとする。慣習や伝統といった、自分たちの生れるはるか以前に淵源する過去の遺物は、いま現在の基準からすると不合理に見えるほころびが多く目立つ。自分たちには理解できないもの=“理性”に反するものは徹底的に壊さねばならない。そうした動機で突発したのがフランス革命であった。

 これに対して、イギリスの“個人主義”は人間の“理性”なるものをまず疑う。人間の陥りやすい賢しらを常に戒める。たとえいま現在の我々には理解できない慣習や伝統であっても、それらがいまに至るまで生き残ってきた理由は何なのか? 過去の先人たちが試行錯誤を通して積み重ねてきた生き生きとした智慧がそこには込められているのではないのか? 確かに不合理な部分もあり、それは漸次改めていく必要がある。だが、それと同時に、いま現在の我々の抱くかりそめの思いつきだけで全てを決めてしまうのではなく、大きな歴史の流れにあって自分たちも先人たちも協働関係にあるという自覚を持っている。つまり、“理性”の限界をわきまえ、試行錯誤の努力を怠らないからこそ、歴史と伝統に敬意を払うのがイギリス“個人主義”の核心なのである。

 保守主義の立場をとる思想家たちが近代啓蒙思想の産物たるフランス革命やさらには共産主義に批判的であった理由は、“理性”に基づく人為的な構築物へのこうした懐疑という一点につきる。人間の限りある脳髄を手がかりとするだけで、この様々に豊かな含みのある世界を一律に秩序立てようなど、土台無理な話なのだ。“理性”に基づく強引な制度設計は、結果として一人ひとりの個人を圧殺する全体主義への道をひらくことになった。

(つづく)

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2006年12月21日 (木)

本田・内藤・後藤『「ニート」って言うな!』

 前回に引き続き、本田由紀さんの本を取り上げます。本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』(光文社新書、2006年)のレビューと、それを踏まえて「ニート」論の問題点をまとめたメモです。

【本書の構成】

 第一部では本田由紀(教育社会学、東京大学助教授)が、統計データ解釈の間違いを指摘することで、一般に流布されている「ニート」論の誤解を解きほぐし、代替的な政策提言へと話題を進める。本田の議論を踏まえて、第二部では内藤朝雄(社会学、明治大学専任講師)が、誤解された「ニート」イメージがいかにマスコミを通してばらまかれていくのか、そうしたメカニズムの解明を試みている。第三部では後藤和智(東北大学工学部在学中、若者論検証のブログを主宰)が書籍や新聞、雑誌等に登場した「ニート」論を個別に検証する作業を行っている。

 イメージ的に広まってしまった言葉の扱いは非常に難しい。論点を世間に訴える上でアトラクティヴな言葉を使うのは、当然ながら必要である。ただその一方で、言葉が独り歩きを始めてしまうと、実態からかけ離れたイメージによりかかって議論が上滑りし、下手すると、その肥大化したイメージ自体が真実とみなされてしまう。「ニート」をめぐる議論にも、そうした問題点が窺える。

 従って、そうしたイメージ的な思い込みを丁寧に解きほぐし、より実態に近づけた議論につなげるべく言葉の持つ副作用を中和する役割を誰かが果たさねばならない。その点、第一部の議論は、「ニート」という言葉について世間的に広まっている誤解を解きほぐそうという姿勢が明確で、建設的な内容を持っている。

 一般的に“働く意欲のない人”というイメージが抱かれている狭い意味での「ニート」は、統計データを丁寧に読み直してみると、実は歴史的に増減が認められないことが第一部では示された。問題となっているのは、「ニート」そのものではなく、「ニート」に対して向けられた社会的なまなざしの変化の方なのではないか? そのような問題意識を持って第二部ではメディア・リテラシーに関わる議論が試みられている。この問題意識自体は非常に興味深いのだが、残念ながら筆者の議論の進め方が紋切り型のメディア批判に終始してしまい、不消化感が残ってしまった。この論点がもっと充実していれば、本書全体が「ニート」論を素材としたメディア・リテラシー論として面白いものに仕上がっただろうに、残念である。

 第三部は「ニート」論をめぐる全体的なレビューとして参考になる。

※以下、本書を踏まえて「ニート」概念の問題点についてまとめる。

【「ニート」の定義──イギリスと日本との違い】

 「ニート」という言葉が一般に広まったのは玄田有史・曲沼美恵『ニート──フリーターでもなく失業者でもなく』(幻冬舎、2004)が話題となって以降のことである。あっという間に社会事象を表わすキーワードとして一種の流行語とも言うべき広がりを見せた。しかし、この言葉がどのような背景で用いられていたのか、意外と知られていない。

 日本では「ニート」とカタカナ表記の言葉として人口に膾炙しているが、本来は“NEET”、すなわち“Not in Education, Employment, or Training”の略語である。最初にこの言葉が用いられたイギリスでは年齢層としては16~18歳を想定し、失業者が含まれる。

 一方、日本での捉え方は年齢層に幅があって15~34歳が想定され、失業者は含まれない。従って、日本の『労働経済白書』をはじめ統計資料などで用いられる「ニート」の定義はイギリスと異なり、「15~34歳までの若者、学生ではない未婚者、求職活動をしていない者」とされている。いわゆる「家事手伝い」をここに含むかどうかは議論されている。

 この“NEET”概念は1990年代から使われ始めたという。もともとイギリスでは、「社会的排除」の対象となっている人々をどのように救い上げるのかという社会政策的なコンテクストの中でこの言葉は用いられてきた。つまり、貧困、低学歴、人種的マイノリティーなど社会的に不利な立場に立たされ、将来的に希望を持つことのできない人々の問題点を把握する必要上生み出された概念なのである。

 ところが、日本においてはいわゆる「ひきこもり」とイメージ的に重ねて用いられる傾向が強い。“余裕はあるのにやる気がない”者の甘えという心構え論に還元されてしまい、社会構造上の問題を把握するための中性的テクニカルタームとしてこの言葉を用いるのが困難になってしまった。言い換えるなら、日本においても貧困・低学歴など社会的に不利な環境要因によって生じている階級格差の問題は目立たないながらもやはり存在している。また、身体障害者なども形式上「ニート」に分類されることになる。これらの問題を把握するための思考ツールとして使いづらい風潮が醸成されてしまったこと、そこに「ニート」定義の混乱による問題点が見出される。

【日本における「ニート」論の現状】

 以上にみたように「ニート」の定義がそもそも混乱しているため、日本の労働市場に関する統計資料を読み解く上でも錯誤を引き起こす可能性が高くなった。つまり、それぞれに別個の事情を抱えている人々を、この「ニート」という一語で十把ひとからげにまとめてしまったことで、問題の多様性が見えづらくなっていることが第一に指摘される。

 第二に、先にも触れたように「ニート」には「不登校」や「ひきこもり」に近いイメージが世間的に抱かれている。しかし、「ひきこもり」は「ニート」の中のごく一部に過ぎない。ごく一部のイメージに過ぎないものが「ニート」全体にまで拡大されることで、実態からかけ離れた議論が場当たり的な印象論で語られてしまうことにも大きな問題がある。

 『青少年の就労に関する研究調査』(内閣府)の第Ⅱ部『就業構造基本調査』では、「ニート」はおおむね85万人という推計が出ている。これは「非求職型」(約43万人)と「非希望型」(約42万人)という2つのグループの合算として示された数字である。後者の「非希望型」がいわゆる“働こうにもそもそも意欲がない”という世間的な「ニート」イメージに近い層である。

 それでは、前者の「非求職型」とはどのような人々か。これは単に「現時点で仕事に就いておらず、かつ求職活動をしていない」という生活形態に着目しただけで、本人の“意欲”のあり方を指標として分類されたものではない。

 「非求職型」の内訳をさらによく見てみると、その理由としては「病気・ケガのため」や「その他」が多い。「その他」はそれぞれの個別の事情によるため一般化できない理由である。「病気・ケガのため」には、調査時点より半年前までの時期には仕事に就いていた人が多く、過酷な労働条件で体調を崩した、あるいは精神面でのケアを必要としているなどの事情が考えられる。つまり、「ニート」に分類されていても「非求職型」については本人の“意欲”に還元される問題ではなく、本人を取り巻く環境条件によって生じた問題が背景にあると言える。各自の抱える事情によって求職活動はしていないが“意欲”はあるという点で、「非求職型」の「ニート」と「求職型」(いわゆる失業者)やフリーターとの境界が曖昧なのである。

 このように異なるタイプの数字が「ニート」という一言で括られている。しかも両者の比率は半々である。「非希望型」を考慮に入れても、全く何もしていない“純粋無業”は、「ニート」全体の1/3ほど。残りの2/3は、現時点では特定の職業に就いていないというだけで、少なくとも何かはしている。つまり、「ニート」と一言で括られてはいても、「いま働いていない」という点で共通しているだけで、実は多様な人々が混在している。従って、世間的によくある「働く意欲がないのが問題だ」という議論も、対する玄田有史の「いや、働きたくても働けないのが問題なのだ」という反論も、実は水掛け論に終わるしかない。

 近年、「ニート」の統計数字における増加は著しい。マスコミを通して85万人という数字がセンセーショナルに喧伝される。しかし、その増加の内訳を見ると、ほとんど「非求職型」の増加によるものなのである。一方、“働く意欲がない”という通俗的な「ニート」イメージに合致する「非希望型」についてはまったくと言っていいほど増減がない。

 この「非希望型」のタイプは、同年齢層の約1%程度の割合で昔から存在していた。増減に変化が見られないにもかかわらず、なぜ今ごろになって社会問題としてクローズアップされるのだろうか? むしろ、「求職型」の若年失業者やフリーターが増加している労働環境悪化の方こそ数的規模においてはるかに深刻である。

 以上にみた混乱は「ニート」と呼ばれる人々の問題というよりも、「ニート」というイメージを形成するに至った、社会全体の視線の取り方自体が変化したことに理由が求められるのではないか。“働く意欲を持たない”という点では、たとえば夏目漱石の小説に登場する“高等遊民”も、宗教的な出家者や山伏も「ニート」に分類される。広く歴史的にみるならありふれた存在である。つまり、「ニート」論がこれほど騒がしくなっている背景には、社会的なスタンダードから外れた生活形態を取る者に対して不寛容な画一的視線が社会全体を覆っていることが示されていると言える。

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2006年12月20日 (水)

社会格差論と教育問題

 第6回大仏次郎論壇賞(朝日新聞社)に岩下明裕『北方領土問題』(中央公論新社、2005年)、同奨励賞に本田由紀『多元化する「能力」と日本社会──ハイパーメリトクラシー化のなかで』(NTT出版、2005年)と決まったようですね。

 そう言えば、本田さんのお師匠さんにあたる苅谷剛彦『階層化日本と教育危機──不平等再生産から意欲格差社会へ』(有信堂高文社、2001年)も大仏次郎論壇賞奨励賞を受賞していたはずです。教育社会学関係の人脈でもあるのでしょうか?

 いずれにせよ、本田さんの議論には以前から関心を持っていました。今年の2月頃、社会格差論をテーマに文章をまとめる機会があり、そこに本田さんの議論も紹介してありましたので載せておきます。

【社会格差論への関心の高まり】

 社会格差論への関心がここのところ高まっている。三浦展『下流社会──新たな階層集団の出現』(光文社新書、2005年)がベストセラーとなり、大竹文雄『日本の不平等』(日本経済新聞社、2005年)はサントリー学芸賞と日経経済図書文化賞をダブル受賞した。国会論戦でも取り上げられ、小泉首相の「格差拡大はやむをえない」という答弁も話題となった。

 こうした関心の高まりを踏まえ、朝日新聞と日本経済新聞は、ほぼ同時期に社会格差論をテーマとして連載特集を組んだ(『朝日新聞』2006年2月5日~12日朝刊、『日本経済新聞』2006年2月7日~10日朝刊)。

 朝日の論説は、孤独な高齢者、リストラされた中高年、就職できない若者などを取り上げ、弱者切捨ての構造改革路線のしわ寄せによって社会格差が拡大していると主張する。

 これに対して日経の論説は、規制緩和等で経済的活力が生まれているのだから構造改革にブレーキをかけてはならない、自己責任なのだから格差の拡大はやむを得ないというスタンスを取る。

 社会格差論は最近になって急浮上したわけではない。橘木俊詔『日本の経済格差』(岩波新書、1998年)や佐藤俊樹『不平等社会日本──さよなら総中流』(中公新書、2000年)を皮切りに着実な議論が積み重ねられている。そうした専門家の議論を見ると、国会論戦や新聞記事の論調とは意外と温度差があって、小泉構造改革や所得格差それ自体は大きな問題とされるわけではない。

 むしろ、努力した結果として格差が生じるのはやむを得ないという前提は共有されている。しかしながら、人々が社会的なステータスを獲得していく上でのスタートラインの時点ですでに格差が生じている。それが「自己責任」という言説の下で覆い隠されてしまうのは果たして公正と言えるのか? そうした質的な側面に焦点を当てようというのが社会格差論からの本来の問題提起であった。

 橘木論文のデータ処理上の問題点を指摘し、所得格差は実際には拡大していないという議論を展開して注目された大竹文雄『日本の不平等』にしても、統計データにおいて格差拡大は確認できないが、それにもかかわらず格差が広がっているという実感が社会全体に行き渡っているのはなぜなのか? 統計データとして平均化された数字では読み込めない別の部分の可能性を議論の裏側から浮き彫りにした上で、機会の均等を保証する政策対応の必要性を指摘している。

 このような議論の奥行きがあるにもかかわらず、朝日は「かわいそう」、日経は「自分のせいだ」と言うにとどまる。それぞれスタンスは対極的だが、情緒的な精神論で終わらせしまう点では全く変わらない。『VOICE』(PHP研究所)3月号が組んだ社会格差論特集掲載の渡部昇一と日下公人の対談「二極化社会も悪くない」に至っては、「左翼の生き残りが嫉妬にかられて社会格差を論じているだけだ」などと根拠の乏しい暴論を吐いている。

 個人の努力では如何ともしがたい問題を構造的に把握するのが社会科学の使命である。その得られた知見に基づいて現実の矛盾に働きかけるのが社会政策であるならば、根拠の乏しい情緒論・精神論でごまかすことなく、社会格差の実相を踏まえて具体的・建設的な提言を進める努力が必要である。

【社会格差論では何が論じられているのか?】

(社会的ステータスの世代間再生産→家庭環境の格差→教育格差→希望格差の悪循環)

 1955年以来十年ごとに行われている「社会階層と社会移動全国調査」に基づき、佐藤俊樹は次のように指摘する。

「…父の学歴が高いほど、W雇上(ホワイトカラー雇用上層:専門職と管理職の会社員)への選抜では有利になる。親の学歴は本人にとって、スタート点の有利さ、「目に見えない」資産となっている。」「…もちろん、営業資産が相続などの形で直接うけつがれるのに対して、W雇上の再生産は学歴にせよ昇進にせよ、本人の努力という回路を必ず通る。けれども、その「本人の努力」が本当に本人だけの力によるものならば、親の職業によってW雇上へのなりやすさがかわるわけはない。世代間再生産がみられること自体、「本人の努力」なるものが、決して本人による努力ばかりではないことを意味する。」「にもかかわらず、高い学歴をもつ人間は実績主義にかたむく。自分の地位を実力によるとみなせる。親の学歴や職業といった資産が、選抜システムのなかで「洗浄(ロンダリング)」されているようなものだ。「本人の努力」という形をとった学歴の回路をくぐることで、得た地位が自分の力によるものになる」(佐藤俊樹『不平等社会日本』p.67-69)。

 つまり、学歴と社会的ステータス、さらには経済的なステータスが関連しあう日本社会の現実を踏まえた上で、受験競争は能力主義的で均等な機会が保証されているという建前がありながらも、実際には受験競争に参加する前の段階で家庭環境という「目に見えない」資産によって有利不利が分かれていることをデータの検証を通して示唆している。

 かつて「一億総中流」と言われた時代、マクロな経済成長によって明るい将来展望が開けていた。努力して稼いで子供を良い学校に進ませれば、たとえ自分はダメでも子供は将来、より公正なルールの中で実力を評価してもらえるはずだ、そうした期待が社会的に共有されていた。所詮、はかないフィクションに過ぎなかったのかもしれない。だが、少なくとも幻想を抱ける余地があったからこそ、不遇な立場にあっても目の前の仕事に懸命に取り組む動機が働いていた。

 しかし、幻想が晴れてみると、努力しても追い越せない壁がある。社会に対する信頼が失われたとき、どうなるか?

「現在起っている二極化は、仕事能力による格差拡大という点で、能力のある人のやる気を引き出すかもしれない。一方、能力がないと自覚する人のやる気を失わせる逆効果がある。仕事において「質的格差」の存在を認識すると、一生単純労働から抜け出すことができないと意識する人が、仕事で努力しようとするだろうか。そして、努力しても専門的中核的職種に就けないことを自覚した青少年は、どう考えるだろうか」(山田昌弘『希望格差社会──「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』筑摩書房、2004年、p.67)。

 乗り越えられない壁を自覚し、やる気を失ってしまった状態を家族社会学の山田昌弘は「希望格差」というネーミングで特徴づけた。また、教育社会学の苅谷剛彦は、将来何の役にも立たないのだから勉強しても仕方がないというあきらめが青少年の間に広がっていることを指摘し、「インセンティヴ・ディヴァイド」(『階層化日本と教育危機』)と表現している。

 こうした傾向に、かつての「個性重視」の「ゆとり教育」という掛け声が拍車をかけた。「個性」という範疇の中で、学力面における差までも容認してしまい、その結果、よく勉強する階層の子供は引き続き勉強したが、もともと勉強をしなかった階層の子供は、その掛け声を真に受けてますます勉強をしなくなってしまった。昨今話題となっている学力低下は、子供たち全体の学力が低下しているのではない。勉強する子供としない子供との格差が広がることによって全体としての平均が下がったことによるものであり、ここにも社会格差の問題が深く根をおろしていることがうかがえる(苅谷剛彦『教育改革の幻想』ちくま新書、2002年)。

 また、雇用の流動化が進むにつれ、変化しつつある状況に柔軟に対応するため「自ら学ぶ力」が称揚される。学習の機会をつかむことが自己責任によって必要とされる。これ自体は決して悪いことではないが、社会格差との強い関連性を苅谷は指摘している。

「個人の学習能力には明確な差異がある。しかもその差異は、子どもが生まれ育つ家庭の環境や階層と密接に結びついている。「自ら学ぶ」力の測定は難しいが、学ぼうとする意欲や、自分から調べようとする学習態度などの面では、明らかに階層差が存在する。」フリーターの問題もここにある。「フリーターとは、知識や技能を獲得する機会を奪われているだけでなく、学習機会から遠ざけられることで、そもそも持っていた学習能力(学ぶ力)を枯渇させてしまう境遇におかれているからだ。」この違いが社会格差につながる。「学習能力を磨き続ける者と枯渇させる者の格差であり、磨き続ける者には与えられ続ける、より豊富な学習機会が広げるさらなる格差である」(苅谷剛彦「「自ら学ぶ力」べた褒め社会の光と影──学歴社会から学習資本主義社会へ」『中央公論』2006年3月号、p.244-245)。

 いずれにせよ、経済的問題ばかりでなく、教育、家族、労働など様々な局面を包括した社会システム全体の中で格差が問題となっている。学力低下、フリーター、少子高齢化など、個別に論じられているテーマそれぞれもまた社会格差と密接に関連していることが示されている(白波瀬佐和子編『変化する社会の不平等──少子高齢化にひそむ格差』東京大学出版会、2006年を参照)。

 以上にみたような問題の広がりの中で、能力形成における機会の均等を保証することはどのようにして可能なのか? そうしたテーマについて改めて追求する必要がある。

【「専門性」というキーワードに注目】

 教育社会学の本田由紀は、状況対応能力、とりわけ対人関係能力に重きを置かれるこれからの日本社会の趨勢を「ハイパー・メリトクラシー」と呼び、次のような議論を行っている。

 受験→良い学校→良い会社という単線的なキャリア・ラインにおいて必要とされた標準的能力=基礎学力は、一定の手順(たとえば「ガリ勉」)を踏むことで得ることができた。対して、ハイパー・メリトクラシー化が進むこれからの日本では、意欲や創造性、日頃からの人当たりの良さも含めた状況対応的な能力=非標準的能力が必要とされる。この能力は定式化できず、全人格的なものが反映される。

 もちろん悪いことではない。しかし、それは幼少時からの日常生活レベルにおいて受けた生育環境によって左右される側面が強い。見方を変えると、自分には足りないと気づいた時に、本人の努力によって習得可能なものではない。したがって、この非標準的能力を身に付ける上で恵まれた家庭環境にあったかどうかによりその後の人生行路は影響され、その意味での格差拡大が考えられる。

(なお、子供の養育に情緒的なケアを含めて二十四時間体制で世話をかけなければ将来「負け組」になってしまうという危機意識が自覚され始めると、次の問題も懸念される。第一に、面倒くさいので子供を生まない、したがって少子化に拍車がかかる。第二に、女性が専業主婦化する、したがって女性の社会進出に歯止めがかかってしまう。)

 以上の現状認識を踏まえて、本田は「専門性」というキーワードを掲げた対案として次の三点を提唱している。

 第一に、社会生活に出て行く上で立脚点が必要である。「専門性」という武器があれば、柔軟な状況対応能力が求められるハイパー・メリトクラシーの中でも一定の地歩を固めることができる。

 第二に、「専門性」教育の場に早い段階で子供を組み込む。ベテラン・後輩を含めた様々な人間関係の中で共通の課題に取り組むという経験を通して、核家族化の進んだ生活環境の中では得られにくい対人関係能力を育むことが可能となる。また、自己効能感、社会的責任などを自覚する機会ともなり、社会に出る上での不安を軽減することができる。

 第三に、この「専門性」教育段階を、保護された試行錯誤期間と位置づける。特定の専門分野に一度特化してみるという経験をしてみないと、どの職業が自分にとって向いているのか考えるきっかけにならない。そのためには、「専門性」教育を行うと同時に、いつでも進路変更できるようにしておかなければならない。

 このように「専門性」教育を行う場を設定することにより、個々人の能力形成における機会の均等を保証する上で、家庭という偶然的要因の影響をできるだけ低くすることが期待される。

(以上、本田由紀の議論については、『若者と仕事──「学校経由の就職」を超えて』(東京大学出版会、2005年)、『多元化する「能力」と日本社会──ハイパー・メリトクラシー化の中で』(NTT出版、2005年)、「「ガリ勉」よりも「専門性」」『VOICE』(2006年3月号)を参照した。)

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