カテゴリー「社会」の52件の記事

2009年12月16日 (水)

青砥恭『ドキュメント高校中退』、小林雅之『進学格差』、本田由紀『教育の職業的意義』、他

 事情を知らなければ、勉強する意欲は本人の努力の問題、やる気がない奴は脱落しても仕方がないと単純な精神論で片付けられてしまいかねない。ところが、苅谷剛彦『階層化日本と教育危機―─不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』(有信堂高文社、2001年)は、家庭環境の相違、とりわけ経済的背景が子供の学習意欲を左右していることを指摘していた。職業的ステータスが学歴と強い相関関係を持つ社会において、貧困等の家庭環境は子供の世代でも繰り返され、階層的固定化が生じてしまう。こうした問題をめぐっては、山野良一『子どもの最貧国・日本──学力・心身・社会におよぶ諸影響』(光文社新書、2008年)、阿部彩『子どもの貧困──日本の不公平を考える』(岩波新書、2008年)などの本も以前にこちらで取り上げた。

 青砥恭『ドキュメント高校中退―─いま、貧困がうまれる場所』(ちくま新書、2009年)は、高校を中退してしまった生徒たちからじかに話を聞き取って、彼らの置かれた行き場のない苦境を訴えかける。高校中退者はいわゆる底辺校に集中し、そして底辺校に通う生徒の多くは家庭的に恵まれていない。基礎学力ばかりか、基本的な生活習慣すら身についていない子もいるが、親自身が生きていくのに必死で子供のことに構っている余裕がない。文化資本の問題ばかりでなく、見捨てられた感覚、ほめられることでの達成感も経験したことがないと、何をやっても無駄だというあきらめの心境になってしまう。高校の先生たちも対処しきれず、問題児は早く退学して欲しいという雰囲気まで生まれているという。そうした生徒は中退してもまともな就職先はない。学校にも社会にも居場所がなくなってますます負のスパイラルに陥ってしまう。「貧しいとは選べないことなんです」という言葉が深刻だ。「選べない」家庭は貧困を世代間再生産させることになり、そうした階層格差が高校の序列化という形ではっきり示されてしまっている。

 小林雅之『進学格差―─深刻化する教育費負担』(ちくま新書、2008年)は、大学進学にあたっての学費+生活費というトータルな費用について国際比較を行ない、その中で日本の現状を捉える。日本では成績上位生徒の場合、所得の高低に関係なく親の進学させたい意向は強いという。しかしながら、生活費等の条件も考えると、家計上負担できるかどうかで進学上の格差が生じてしまう。日本では教育費を親が負担するのは当然だとする観念が従来から強かったため、こうした問題がこれまで顕在化しなかったのだと指摘される。奨学金制度の見直しが提言される。なお、国際比較では各国の社会的・文化的背景を踏まえて考察されるので、どれが良いと単純化するような議論にはならない。海外の進学事情を知る上でも興味深い。

 本田由紀『教育の職業的意義──若者、学校、社会をつなぐ』(ちくま新書、2009年)。戦後の高度経済成長期、家庭、学校=教育、企業=仕事を三本柱とする人材供給経路において学卒一括採用→企業が人材育成をしていた。こうした日本型雇用システムが崩れ、個人の「生きる力」が称揚される中で進められる「キャリア教育」の問題点を本書は指摘する。自分で決める「自己実現」を急かされる一方で、そのために必要な手段は社会的に供給されていないという隘路(=自己実現アノミー)。自己実現の上での進路選択にあたっては、社会の現実とぶつかり合う試行錯誤の中で自分自身のあり方を掴み取っていくしかない。著者は「柔軟な専門性」教育を提唱している。とりあえずの足場として何らかの職業的専門性を身に付けさせ、同時にその足場をきっかけに自分の方向性を模索させる。つまり、自分の職業適性を考えるための具体性を持った回り道の猶予期間を学校という制度の中で保証すること(このあたりの議論は著者の『若者と仕事―─「学校経由の就職」を超えて』[東京大学出版会、2005年]、『多元化する「能力」と日本社会─―ハイパー・メリトクラシー化のなかで』[NTT出版、2005年]で展開されている)。そのようにして社会的現実に「適応」する一方で、仕事現場の不合理な待遇にまで過剰に適応してしまわないように「抵抗」のための社会的知識(例えば、法律など)を身に付けさせること。こうした「適応」と「抵抗」という二つの面で習得の機会を提供していくところに「教育の職業的意義」を探ろうとしている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月10日 (木)

P・F・ドラッカー『ネクスト・ソサエティ』、ロバート・B・ライシュ『勝者の代償』

 P・F・ドラッカー(上田惇夫訳)『ネクスト・ソサエティ』(ダイヤモンド社、2002年)は現在進行形の経済社会の見通しを語る論文やインタビューをまとめている。製造業→知識社会という移り変わりの中、自分の専門分野を持った知識労働者が主役。①ボーダーレス、②万人に教育が行渡る→誰でも階層上昇の可能性あり、③競争が激化するため成功と失敗が並存(競争によるストレス)を指摘。①と③はともかく、②についてはうまくいっておらず、出発点の不平等→階層格差拡大という問題は周知の通り。経済社会における個人の役割に注目するのがドラッカーの視点で、都市におけるコミュニティー不在という問題意識→かつて『産業人の未来』で職場コミュニティーに期待を寄せたが、実際にはうまくいかなかったと語る。

 ロバート・B・ライシュ(清家篤訳)『勝者の代償』(東洋経済新報社、2002年)は、ドラッカー言うところのネクスト・ソサエティがもたらすマイナス面に焦点を合わせる。かつてのオールド・エコノミーは安定的で予測可能な経済関係のもとで大規模生産を可能にしていた。対してニュー・エコノミーにおいては、選択肢が大幅に広がり、取引が簡単なのですみやかな切り替えが可能→売り手は顧客を失うまいと焦って競争が激化→果てしない技術革新のダイナミズムを生み出している。しかし、見通しが不確実であること自体が標準化。企業組織においても雇用関係が変化、企業間競争がスピードアップする中で被雇用者への制度的な保証がゆるむ。個人レベルで落伍したくないという競争圧力が強まり、絶え間ない努力が求められ、不平等が拡大、ストレスフルな雇用形態。取引関係の中で自分を売り込んでいく「市場志向型人間」が経済社会の中心となる。ちなみに、著者のライシュ自身が仕事が忙しすぎて家族と過ごす時間を取れないのがつらいと言って仕事(クリントン政権の労働長官)を辞めている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月 4日 (金)

ヴェブレン『有閑階級の理論』

ソースティン・ヴェブレン(高哲男訳)『有閑階級の理論』(ちくま学芸文庫、1998年)

 ソースティン・ヴェブレン(Thorstein Veblen、1859~1929年)は十九世紀末から二十世紀初頭にかけて消費文化を謳歌し始めたアメリカ社会を観察した経済学者。この本は裏面から人間存在を捉えた、考えようによっては実にひねくれた経済思想というだけでなく、一種の文明批評としても面白いので、何度か読み返している。

・「制度の進化に関する経済学的研究」というサブタイトルがついている。法的なものばかりでなく、慣習やものの考え方というレベルにおいて、その社会に生きる人間の行動パターンを規定している一連の枠組みを「制度」(institutions)と表現している。「制度とは、実質的にいえば、個人や社会の特定の関係や特定の機能に関する広く行きわたった思考習慣なのである」(214ページ)。
・需要→供給という因果関係に還元して経済活動を捉えるのではなく、こうした「制度」に内在するロジックに沿って人々が振舞っている活動として経済を把握する(この延長線上にいわゆる制度派経済学がある)。社会システムのあり方は時代によって違うようにも見えるが、そこに通底する「制度」の基本パターンには意外と古代からの思考習慣が残存しているとヴェブレンは言う。「人間が手引きにしつつ生きてゆく制度──すなわち思考習慣──というものは、先立つ時代、つまりかなり遠い昔からこうして引き継いできたものだが、いずれにしてもそれは、過去の間に精緻化され、過去から受け継いだものなのである。制度は過去のプロセスの産物であり、過去の環境に適応したものであり、それゆえ、決して現在が要求しているものに完全に一致することはない。」人間の生きる環境は日々変化→適応の繰り返しで、「制度」が現在に追いつくことはない。「発展の第一歩が踏み出されたとき、この第一歩それ自体が、新しい適応を要求する状況の変化を引き起こす。それは、いつ果てるともなく続く適応への、新しい一歩を踏み出すための出発点となる」(215ページ)。
・具体的には、野蛮時代の名残としての「略奪的文化」を指摘。支配する強者と服従する弱者という関係である。勤労は受動的、英雄的行為は自分自身の目的を追求するものという対比(23ページ)は、ハンナ・アレント『人間の条件』で見出された古代ギリシアのポリスにおける奴隷と自由人との対比を思わせる。
・時代が進み、具体的な暴力行為が影を潜めても、この「略奪的文化」の思考習慣は人々の頭の中に残っており、支配する強者は自らの優越を何らかのシンボルによって弱者に対して誇示しようとする。戦争ではなく経済活動が競争の手段となった近代社会において、優越性のシンボルは富の蓄積によって示されるようになった。
・有閑階級→生産活動はしない→彼らのために奉仕する被支配者がいることの証し。「閑暇」とは怠け者を指すのではなく、自ら体を動かすという意味での生産活動には携わらないこと。職業的には、例えば、経営や金融など、それから学者。学問や礼儀作法→その習得のために時間を費やせるだけの余裕があることは有閑階級であることの証し。
・顕示的消費→散財することで自らの富の大きさ、すなわち優越的なステータスを誇示する。入手の容易なものは「その消費は名誉に価するものではない。というのも、それは、他の消費者との好都合な競争心にもとづく比較という目的に役立たないからである」(181ページ)。「浪費」といっても無駄遣いという意味ではない。極端な例としてはポトラッチ。あるいは、ブランド品。「顕示的消費」が組み込まれた「制度」のロジックに沿っている点では合理的目的のある消費であり、社会通念として当初は「浪費」とみなされても、いつしか一般消費者の間で生活必需品とみなされるケースは珍しくない。
・自分が他者を凌駕していることを誇示する。他者をもっと嫉妬させること自体に満足を見出そうとしている。従って、欠乏を満たすために行われるわけではないのだから、経済活動に固定的なゴールなど存在しない。

「社会の富の全般的な増加は、それがどれほど広く、平等に、あるいは「公平に」分配されようと、この欲求の満足に近づくことはできない。というのもそれは、財の蓄積においては他の誰にも負けたくない、という万人がもつ欲望に起因しているからである。しばしば想定されているように、蓄積誘因が生活の糧や肉体的快適さの欠乏であるとすれば、社会の経済的な必需品総量は、おそらく産業能率が向上したどこかの辞典で満たされる、と考えることもできよう。だがこの闘いは、実質的に妬みを起こさせるような比較にもとづく名声を求めようとする競争(レース)であるから、確定的な到達点への接近などありえないのである。」(43ページ)

 有閑階級=上層階級が示す生活様式や文化様式は社会全体の理想的規範となる。下層階級は、同様の消費行動をすることで同等者を出し抜き、自らも上昇しようと動機付けられる。

「現代的な文明社会では、社会階級相互間の区分線は不明瞭で流動的なものになっている。こうして、このようなことが生じるところではどこであれ、上流階級によって課せられた名声の規範がもつ強制的な影響力は、ほとんど妨げられることなく社会秩序の最下層にまで及ぶことになる。その結果、おのおのの階層に属する人々は、彼らよりも一段上の階層で流行している生活図式こそ自己の理想的な礼儀作法(ディーセンシー)だと認識した上で、生活をこの理想に引き上げるために全精力を傾注する、ということが生じる。失敗したら面子と自尊心が傷つくという痛手を被ることになるから、少なくとも外見だけでも、社会的に承認された基準に従うほかはないのである。」「高度に組織化されたあらゆる産業社会では、立派な評判を得るための基礎は、究極的に金銭的な力に依存している。金銭的な力を示し、高名を獲得したり維持したりする手段が、閑暇であり財の顕示的消費なのである。」(99ページ)

「通常われわれの努力の道案内を行っている支出の標準とは、平均的なそれではなく、すでに達成されている通常の水準である、ということになる。つまりそれは、わずかに手が届かないところにあるが、努力次第で手が届くところにある、消費の理想なのである。その動機は、競争心(エミュレーション)──われわれが習慣的に同一階層に属していると考えている人々に負けてはならぬと急きたてる、妬みを起こさせるような比較がもつ刺激──である。実質的に同じ命題は、以下のありふれた観察、つまりおのおのの階層は、社会的階梯を一つだけ昇った階層を羨望すると同時に、それと競い合うのであって、下位の階層やとびぬけて上位にある階層と比較することはごく稀だ、という事実のなかに窺われることである。言い換えれば、要するに支出をめぐる礼節の規準は、競争心の目的と同様に、名声の点でわれわれ自身より一等級だけ上位に位置する人々の習慣によって定められている、ということなのである。こうして、とくに階級間の区別がかなり不明瞭になっているような共同社会では、あらゆる名声と世間体の規準、したがってまたあらゆる支出の水準は、社会的にも金銭的にも最高位に位置する階級──豊かな有閑階級──の慣行や施行習慣にまで、無意識のうちに徐々に昇っていくことになる。」(119~120ページ)

・有閑階級を特徴付けるのは「略奪的文化」であるが、他方で、有用で価値あるものを作り無駄を省こうとする心性としての「製作者本能」も作用しており、両者が絡まりあって経済的な競争心が促されているとする。他にも、幸運を求める心性(→ギャンブルという形で発現)、信心深さなども指摘、何よりも生存本能は生物としての最古の習慣だと言ってしまうところが面白い。
・ヴェブレンは「制度」を一元的な原理として捉えるのではなく、過去のそれぞれの時代において形成された複数の心的習慣が時代がかわっても形を変えながら残存している重層的なあり様として解き明かすことに関心を持った。そして、「制度」の内実において各々の心的習慣が互いに変形作用を及ぼしあい、時には古い心性に先祖がえりしたり、そのように絡まりあいながら「制度」のあり方そのものが変化していく様相を「進化」と呼んだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月25日 (水)

『ジンメル・コレクション』

北川東子・鈴木直訳『ジンメル・コレクション』(ちくま学芸文庫、1999年)

 ゲオルグ・ジンメル(Georg Simmel、1858~1918年)の大著『貨幣の哲学』はややこしそうなので、とりあえず本書所収の「近代文化における貨幣」を読んだ。

 土地の共同体に人格的に結び付けられた現物経済中心の時代→“貨幣”という無機的な媒介項の登場、貨幣価値への換算可能性によって所有と所有者とが分離、経済の非人格化が押し進められることでそうした共同体は解体され、各々の個人としての自覚が促された。“個の自覚”は“近代”なる時代を特徴付ける条件の一つと言えよう。ただし、貨幣は人と人とのつながりを分断しただけでなく、貨幣価値換算という形を通した行動様式の均一化によって分業の可能性が開かれ、 “貨幣”の媒介によってこそ独立した個人が再び結び付けられる。

「近代文化の諸潮流は一見相反する二つの方向へと流れこんだ。ひとつは、平均化へ、均一化へ、もっとも離れたものをも同一条件のもとに結び合わせ、より包括的な社会圏を生み出す方向へと。もうひとつは、もっとも個性的なるものの形成へ、個の独立性へ、個我形成の自立をめざす方向へと。」「そしてこの二つの方向がともに貨幣経済によって支えられた。貨幣経済は、一方では、あらゆるところで同一の作用を及ぼすきわめて普遍的な利害と結合手段と了解手段を提供したが、他方では、おのおのの人格に、より大きな外界からの距離と個人志向と、自由を与えた。」(「近代文化における貨幣」271~272ページ)

 一人ひとりの人間は、たとえて言うならばそれぞれが自己完結した小宇宙を成している。個としての絶対的な自律性を主張する。しかし、それぞれが異質なものとして互いに排斥しあうだけではない。絶対的な個として自らの小宇宙を維持しつつも、他の小宇宙との緊張関係をもひっくるめてより大きなまとまりを成している。ジンメルにとって“貨幣”とは単に社会経済的現象というだけでなく、このようなまとまり形成の媒介項としての視点そのものを表わしていると言える。

 こうした“貨幣”をめぐる含意と同様のことをジンメルは“橋”に仮託して次のように表現している。

「外界の事物の形象は、私たちには両義性を帯びて見える。つまり自然界では、すべてのものがたがいに結合しているとも、また分離しているとも見なしうるということだ。」…「自然の事物があるがままに存在しているなかから、私たちがある二つのものを取り出し、それらを「たがいに分離した」ものと見なすとしよう。じつはそのとき、すでに私たちは両者を意識のなかで結びつけ、両者のあいだに介在しているものから両者をともに浮き立たせる、という操作を行っているのだ。」…「川の両岸がたんに離れているだけではなく、「分離されている」と感じるのは私たちに特有のことだ。もし私たちが、私たちの目的思考や必要性や空想力のなかで両岸をあらかじめ結びつけていなかったとしたら、この分離概念はそもそも意味をもたないだろう。」…「橋がひとつの審美的な価値を帯びるのは、分離したものをたんに現実の実用目的のために結合するだけではなく、そうした結合を直接視覚化しているからだ。現実の世界では身体を支えるために提供している足がかりを、橋は目にたいしても風景の両側を結ぶために提供している。」(「橋と扉」90~93ページ)

 それぞれに絶対的な自律性を主張して一見したところ他とは相容れないようにも思える事象がこの世界に満ちている。しかしながら、そのような緊張関係も、視点を組み替えてみればもっと大きなまとまりが見えてくるという着眼点がジンメルのエッセイの面白いところだ。

 例えば、肖像画。モデルと、それを描いた絵画作品とは全く別個の存在である。目鼻立ちの造作や色合いが正確に写し取られているかどうかが問題なのではない。描かれた肖像画において、それ自体の世界の中では形や色はこうあらざるを得ないという必然性が感じられる。モデルと、それを描いた肖像画という関係性はあっても、後者が前者に従属しているというのではなく、両者ともに自律的な存在感を持っている。そうした緊張関係に触発されて鑑賞者が統一的な把握をしようとしたときに生き生きとした迫力を感じ取る(「肖像画の美学」)。

 あるいは、俳優の演技。台本の役柄と演じる俳優とはそれぞれ別の存在であるが、俳優が自分の個性を発揮して、それが役柄と響き合ったとき、観客に感動を与える演技となる。「文学的想像力のなかで作られ、実在の人間には少しも依存しない連関によってつなぎ合わされた理念的で無時間的な演劇上の事件は、完全に自律的な系であり、また構成だ。しかし他方の俳優が演じる事件の系もまた、その見かけの本質やその視覚性においてやはり同じく自律的であり、ひとつの魂の発展過程をなす。この両者が内容において一致すること──これこそ、その本質においてたがいに対立するそれぞれに自律的な二つの原理の調和にほかならない。それはまた、たがいに異質な存在と力の系が一体化する幸福感を生み出す。こうした一体感は、自然のなりゆきによっては実現できず、ただ芸術によってのみ可能なものだ」(「俳優の哲学」165ページ)。

「芸術作品には、それ自身ひとつの全体でありながら、同時に自分をとりまく環境とのあいだで統一的全体を作り上げなければならない、という本来矛盾した要求が課せられている。ここには、あの人生一般の難しさ、すなわち全体の一要素たる存在が同時に自律した全体たることを要求するという、あの難しさと同じものが見てとれる。」(「額縁──ひとつの美学的試み」123~124ページ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 2日 (月)

なぜポスコロに関心を持ったかというと

 なぜポストコロニアリズムに関心を持ったかというと、きっかけは『民俗台湾』について調べ始めたこと。戦後になって“大東亜共栄圏”イデオロギーや優生学などを批判するという観点から『民俗台湾』も取り上げられた(→詳細はこちらを参照のこと)。

 しかしながら、戦時下という時代風潮の中で雑誌を継続して出し続けるためには当局に迎合する発言もしなければならないし、むしろ『民俗台湾』の同人は皇民化政策には反対していた。ところが、戦後の研究者は誌面に現れた文字面だけを読む。当局の検閲を意識せざるを得なかった表現をとらえて、いわば揚げ足取りをするような形で、『民俗台湾』も植民地批判という議論の中に組み込まれていった。

 誤解しないで欲しいのだが、“植民地批判”そのものに異議を唱えているわけではない。私が言いたいのはそういうことではなくて、“植民地批判”の議論の枠組みそのものが、戦前とは異なる形ではあるが、戦後という一時代においてもまた学知的に制度化されている。その構造的に生硬な視点で過去を振り返ると、必然的に断罪の口調を帯びる。見方を変えれば、戦後の思考枠組みで戦中の思考枠組みを批判する形式になっており、そうした議論を進めるコマとして『民俗台湾』は利用されているに過ぎない。通史的な議論としてはそれなりに意義のあることだとは思うが、抽象化された図式対図式の議論の中では具体的に生きた人間像は欠落しており、『民俗台湾』同人の抱えざるを得なかった葛藤は無視されてしまう。コマとして使われただけの当事者としてはたまったものではない。

 日本の植民地支配下に置かれ皇民化政策が推進された台湾のマージナルな位置は、政治的にだけではなく意識形態においてもアイデンティティ抹消の危機に直面した点でポストコロニアルの議論に適合的であろう。学知的あり方の非対称性が抑圧的な権力を帯びてしまう問題を検討するポストコロニアリズムの視点からは、日本人学者=知的権力者、植民地民衆=被抑圧者、という図式が導き出され、とりわけ民族学・民俗学などは標的にされやすい。

 ところで、『民俗台湾』編集同人は、日本人でありつつも、抑圧の対象であった台湾文化を理解したいと思っていた。支配‐被支配という関係において日本人と台湾人との間に大きな壁が立ちはだかっていたのは確かである。ただ、彼らの主観的な善意も社会的構造に絡め取られてしまっては無力であった、所詮は自己満足に過ぎない、そう言ってしまうのは簡単だが、このような矛盾に直面していることを自覚していた点では、彼らもまた同様にマージナルな存在だったとも言える。たとえば『民俗台湾』同人だけでなく、朝鮮半島にとっての柳宗悦や浅川伯教・巧兄弟なども含め、日本人でありながらも被支配者側の文化に共感を寄せた人々の位置付けはどう考えればいいのか。抑圧‐被抑圧という二元論的構図では奥行きをもって考えることはできない。

 三尾裕子「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号、2006年3月)は植民地主義と人類学の関係という問題意識を踏まえて『民俗台湾』をめぐる従来の議論をレビュー、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と問いかけ、「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」と指摘していた。こうした観点に私も共感している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

カルスタとかポスコロとか

 カルスタとかポスコロとか、あまり関心を払ってこなかったのでちょっとお勉強。

上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書、2000年)
・登場の背景:バーミンガム大学現代文化研究センター。1980年代、労働者階級にとって不利なのにもかかわらずサッチャリズムへの支持。旧来型左翼の啓蒙的議論が有効性を失っていた→サッチャリズムによる政治的再編成に期待。むしろ、社会的に疎外されていた若者たちの怒りはレゲエやパンクロックに代弁されているとして支持された。
・大学においてディシプリンの自明視→知的生産の権力性→これを疑う。しかし、「黒人研究」「フェミニズム」「クィア・スタディーズ」といった学部を創設しても、アカデミズム内のゲットー化にすぎない。「カルチュラル・スタディーズとは「汚い」世界の問題をアカデミズムという「清潔な」空間に持ち込むこと」(スチュアート・ホール)
・コード化‐脱コード化:コードを受け止める側の階級・性別等の属性に応じて異なり、一方通行ではない→「読み」の多様性→均質的に想定された「大衆」など存在しない。
・サブカルチャー:高級文化でも大衆文化でもない、しかしそうなることもあり得る曖昧な文化領域→この動的かつ不安定なあり方に注意を払う。本質主義的な定義はなじまない。
・人種主義:対抗言説化すると、裏返しの人種主義として共犯関係に陥る危険。例えば、ムスリムの伝統を守るための分離教育は極右からも支持されてしまう。
・ポストコロニアリズム:知的構造の非対称性→権力性という観点でカルチュラル・スタディーズと共通。抑圧への抵抗だけでなく、政治性に注目するあまりにその文化の中にある「喜び」「楽しみ」といった自発的・自律的な側面を過小評価しないよう留意すべき。
・カルチュラル・スタディーズの制度が進む→既存のディシプリンと同種の一領域になりさがってしまうのではないか? マイノリティ・差別・貧困・暴力といった、もともとアクチュアルな関心からアカデミズムの動向とは関係なく取り組まれていたテーマが、一見ラディカルに見えても、アカデミズム内部だけで流通する知的商品になりさがっていないか?
・カルチュラル・スタディーズは、「わかりやすく」説明することではなく、日常生活の中で直面する不条理の「わからなさ」のありかをはっきりさせること。

本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書、2005年)
・歴史(正史)や文学(正典)の見直し、その中でオミットされてきた記憶をどのように聞き取るかという問題意識。
・他所を一方的に野蛮化して否定する論理→その生成の具体例として「食人種」。
・フランツ・ファノン。
・エドワード・サイード。
・ガヤトリ・スピヴァク:戦略的本質主義(「弱者」という性質をいったん「本質」と認めることで抵抗の糸口とする。その「本質」を共有することで他者と連帯)。「知る」者自身の特権性を自覚→「学び捨てる」。(※G・C・スピヴァク[上村忠男訳]『サバルタンは語ることができるか』[みすず書房、1998年]は去年読んだのを思い出した→こちら

ロバート・J・C・ヤング(本橋哲也訳)『1冊でわかる ポストコロニアリズム』(岩波書店、2005年)
・様々な国や地域の様々な具体例やテーマをパッチワークしながら、ポストコロニアリズムの大枠としてのイメージを浮かび上がらせていく構成。
・「理論」を打ち出してしまうと、それによってまた別の問題が新たに排除・生成してしまう。多様な営みをいかにそれぞれに適切なやり方で把握していくかというところにポストコロニアリズムの問題意識があるわけで、そうした性格に合った叙述方法をとっている点でなかなか良い本だと思う。

※「理論」(=上から目線)で裁断される以前の、いまここで具体的に生きられている生身の問題を把握→解決につなげていこうという姿勢はまっとうなのに、これが日本のアカデミズムを通して提示されると「よそよそしい」のは一体どうしてだろう? そのあたりの違和感の一つは李建志『朝鮮近代文学とナショナリズム──「抵抗のナショナリズム」批判』(作品社、2007年)、『日韓ナショナリズムの解体──「複数のアイデンティティ」を生きる思想』(筑摩書房、2008年)で吐露されており、興味深く読んだ(→こちら)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 8日 (火)

本田由紀『「家庭教育」の隘路──子育てに強迫される母親たち』

本田由紀『「家庭教育」の隘路──子育てに強迫される母親たち』(勁草書房、2008年)

・市場メカニズムにより経済的・社会的機能の効率化→中間組織・共同体の弱体化→秩序維持の規範強化という流れの中で、「家庭教育が重要」という言説により、子供・若者を社会化する上での家庭・親の責任を強調する風潮→かえって問題をこじらせてしまうという疑問から、インタビュー調査や統計分析により実証的研究。
・「勉強」によって習得可能なものよりも内面的・人格的特性が「選抜」の重要な要因→内面性涵養の場として「家庭教育」が重視される。しかし、社会階層によって家庭の質的相違→教育に有用な資源を持つ階層の自己正当化、格差再生産の可能性、それが「自己責任」言説で処理されてしまう問題。
・社会階層→子育てのあり方、中3時点の成績、最終学歴、雇用形態、収入へと重層的な連鎖→家庭教育を通した再生産のメカニズム。
・子育てには必ずしも正解はないが、様々に「理想」を語る家庭教育論の氾濫→高い要求水準→母親は暗中模索、自信喪失、ストレス、子育てからの撤退。母親自身の自己実現と子育てとの両立の苦心。
・コミュニケーション能力、ポジティブ志向:ポスト近代型能力→家庭教育で左右される度合いが大きい(本田由紀『多元化する「能力」と日本社会──ハイパーメリトクラシー化のなかで』NTT出版、2005年)。子育てのあり方としても、「きっちり」→学力、「のびのび」→ポスト近代型能力の二つの要素があって、その二つの間で母親に葛藤あり。社会階層との対応度合いは「きっちり」で顕著だが、高階層の母親は「のびのび」にも積極的な傾向。
・教育態度の点で、日本では、海外のように中産階級対労働者階級という明確な断層は見られないが、連続的なグラデーション型の格差。
・家庭教育を媒介とした格差再生産の構図が認められる→だからといって家庭に直接介入できるわけではなく、子供世代に及ぼす影響を、いかに家庭外の制度で軽減するかという問題意識。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 7日 (月)

寺島実郎・飯田哲也・NHK取材班『グリーン・ニューディール──環境投資は世界経済を救えるか』、ヴァン・ジョーンズ『グリーン・ニューディール──グリーンカラー・ジョブが環境と経済を救う』

寺島実郎・飯田哲也・NHK取材班『グリーン・ニューディール──環境投資は世界経済を救えるか』(NHK出版生活人新書、2009年)

・NHKの番組で取り上げられたテーマをまとめた内容。特にアメリカでの取り組みを紹介。
・太陽光発電、風力発電、電気自動車など化石燃料に頼らない技術を紹介。自然エネルギーによる電力供給は小規模・分散型で不安定だが、IT技術によって発電量を把握・コントロールするスマート・グリッドが注目される。
・ブッシュ政権は京都議定書から離脱。しかし、州レベルでは環境政策への取り組みがあり、そうした動きをオバマ政権は取り込んだ。オバマ政権は、化石燃料依存から脱却するエネルギー構造転換への投資を雇用創出(例えば、戸別にソーラー・パネル設置・メンテナンス、風力・潮力発電所の建設、断熱化工事など)に結び付けるグリーン・エコノミー政策を推進。
・産業政策と環境政策とでは意見がぶつかりやすいが、その両立を目指す。

ヴァン・ジョーンズ(土方奈美訳)『グリーン・ニューディール──グリーンカラー・ジョブが環境と経済を救う』(東洋経済新報社、2009年)

・著者のヴァン・ジョーンズの名前は上掲NHK取材班の本にも出てくるが、アメリカの著名な社会活動家。オバマ政権のアドバイザーとしてホワイトハウス入りしたらしい。
・本書の主張の一番の特色は、エコの不平等、環境による人種差別という問題意識だろう。劣悪な居住環境、ジャンクフード等による不健康、ハリケーン・カトリーナの被害は黒人や貧困層に集中した。従来の環境運動は富裕層の余暇活動的な側面があった。彼らは生活に困っていないので、熱帯雨林の消滅やホッキョクグマの溺死など外の地球環境問題に関心を寄せる余裕がある。身近な環境問題にも目を向けて、一般の人々全体の生活水準を高めるため、エコ・エリート主義を超えてエコ・ポピュリズムへという問題意識。ただし、両者を対立関係で捉えるのではなく、立場の異なる者同士が協力すべきという視点。マイノリティーや貧困層もグリーンカラー・エコノミーの運動に巻き込んでいく必要を主張。環境政策+経済政策+社会政策というトータルな視点。
・生活に直結する環境問題→エネルギーだけでなく、食物、水、ゴミ、輸送インフラなど様々な問題。
・グリーン投資によって創出される雇用:グリーン・ジョブ→職業訓練→貧困層の生活上の自立につなげる。
・フランクリン・ローズヴェルト政権がニューディールで経済危機を切り抜けたように、グリーンカラー・エコノミー政策でも整合性のとれた包括的プログラムによって官民ともに社会全体で問題解決を図る→政府のリーダーシップが必要。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月31日 (金)

アンソニー・ギデンズ『親密性の変容──近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』

アンソニー・ギデンズ(松尾精文・松川昭子訳)『親密性の変容──近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』(而立書房、1995年)

・「モダニティは、自然的世界の社会化──人間の活動の外在的媒介変数である構造や事象に代わって、社会的に構成された過程や作用が重きをなしていくこと──と関係している。たんに社会生活そのものだけでなく、かつては「自然現象」であったものをも社会的に構成されたシステムが支配するようになってきたのである。生殖はかつては自然現象のひとつであり、したがって、異性愛活動は、必然的に生殖の中心的行為であった」→しかし、避妊法・生殖技術→生殖の社会化→セクシュアリティは完全に自立(かつては、妊娠、出産時の死亡等の恐怖があった→性的快楽を解放)→「セクシュアリティが社会関係の「不可欠な」構成要素となったため、異性愛は、他のすべてのことがらを判断するための基準ではもはやなくなった」→自由に塑形できるセクシュアリティ
・「モダニティは、物理的社会的過程の理性にもとづく理解が、神秘主義やドグマによる恣意的支配に当然とって代わっていくという意味で、理性の優位性と不可分な関係にある。理性には感情の入り込む余地が存在せず、感情は、たんに理性の領域の外側に位置するにすぎない。しかし、現実には、感情的生活は、日々の変わりゆく活動条件のなかで新たに秩序づけられていったのである。」
・ロマンティック・ラブという観念の浸透→夫婦関係に特別な意味を付与→しかし、男性性・女性性という既成の差異によって特徴付けられた一体感
・ポスト伝統社会→自分で自分自身のライフスタイルや自己アイデンティティ(自己にまつわる過去・現在・未来を連続的に統合する叙述)を絶えず書き換え続けなければならない→再帰的自己自覚的達成課題としてのアイデンティティ
・嗜癖(addictionか?)はそれが達成できない自己不信感への防衛反応として理解できる。アイデンティティ形成で他者依存→ex.セックス依存症、共依存など
・選択の自由→「自己との対話」→否定的なアイデンティティを書き直すきっかけ
・「信頼とは、相手の人間を信用するだけでなく、相互のきずなが、将来生じうる精神的打撃に耐えうる力をもつ点を信用していくこと」「相手を信頼することはまた、相手の真に誠実に振舞うことができる能力に、一か八か賭けること」「二人がいろいろな問題で一緒になって育んでいく共有の歴史は、必然的に他の人たちを締め出し、他の人たちは、一般化された「外部世界」の一部となっていく。排他性は信頼を保証するものではないが、それにもかかわらず、排他性は、信頼感を触発する重要な要素」
・「経験の隔離」→「社会的活動を超越的なものや自然現象、生殖と結び付けてきた道徳的・倫理的特徴の消失」→日々の型にはまった行いからもたらされる安心感が崩される(その代用的行動が嗜癖など)→精神的・心理的に傷つきやすくなった→「自己が価値のない存在で、自分の人生が空虚で、自分の身体が無力な、不適格な装置であるという思い」は「モダニティの内的準拠システムの拡がりの結果として生じている」→性的活動、「ロマンスの探究」などは、空虚感に由来する達成感の探究として理解できる

※避妊の普及・生殖技術の進歩(=「経験の隔離」)→生殖と、そこに結び付いていた性愛にまつわる感情とが分離→性愛にまつわる言説が、所与の自然的条件としてではなく、社会関係のロジックに組み込まれる→ところで、性愛は身体・感情の両面において自己アイデンティティと関わる→アイデンティティ形成のあり方が社会的な再帰性に左右される、大雑把に言ってこんな感じに理解していいのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月30日 (木)

ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ『再帰的近代化──近現代における政治、伝統、美的原理』

ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ(松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳)『再帰的近代化──近現代における政治、伝統、美的原理』(而立書房、1997年)

・かつて啓蒙主義は世界の認識→理想・目的に向けて統御可能という信念を持っていた。ところが、再帰的近代化:社会の近代化→自らの存在の社会的諸条件を省察→条件を変えていく→工業社会の意図していなかった潜在的な脱埋め込みと再埋め込みの過程→人間の知識が増大したからこそもたらされる不確実性。

ウルリッヒ・ベック「政治の再創造」
・「私のいう再帰的近代化とは、発達が自己破壊に転化する可能性があり、またその自己破壊のなかで、ひとつの近代化が別の近代化をむしばみ、変化させていくような新たな段階である。」「…再帰的近代化とは、通常の自立した近代化が、また、政治と経済の秩序に一切影響を及ぼさずに、内密に、無計画に進行する工業社会の変動こそが、工業社会の諸前提と輪郭を解体し、もう一つ別のモダニティへの途を切りひらくモダニティの《徹底化》を含意していると考えることができる。」
・「リスク社会は、みずからが及ぼす悪影響や危険要素を感知できない、自立した近代化過程の連続性のなかに出現していく。こうした過程は、工業社会の基盤を疑わしくさせ、最終的にその基盤を破壊してしまうような脅威を、潜在的にも、また累積的にも生みだしていくのである。」
・科学技術のもたらす予見不可能性→一般的通念としての合理性への疑い→社会は再帰的になる
・「個人化とは、確信できるものを欠いた状態のなかで、自己と他者にたいする新たな確実性を見いだし、創造することを人びとが強いられているだけでなく、工業社会の確実性の崩壊をも意味している」→個人化は一人ひとりの自由な意思決定に基づいておらず、自分の生活歴を自分で立案・演出するよう強制されている→個人は、機能主義モデルが想定する以上に複雑な言説による相互作用で組成されている。
・再帰的近代化→機能分化は実質的な分裂過程→多元的な意味の並立したシステムの形成(専門知識の特殊性は他の特殊性と対立しかねない。例えば、原子力開発と環境運動)→専門知識の特権性を排除、情報開示、公開討議の必要。

アンソニー・ギデンズ「ポスト伝統社会に生きること」
・地球規模の壮大な実験→抽象的システムの侵食という衝撃のもと、「専門的知識の置き換えと再専有」。
・伝統:前近代社会において諸秩序を一つにまとめ上げていく接着剤。反復性。現在を過去に結び付けていく一連の要素を絶え間なく解釈する作業。「定式的真理」→儀礼等が「真理」の判断基準。状況依存的。
・衝動強迫症:伝統のもつ「真理」との結び付きを失ってしまった反復行動。「伝統主義を伴わない伝統」。
・反復行動は、「自分たちが承知している唯一の世界」にとどまるための方法、つまり、「相容れない異質な」生活価値や生活様式に身をさらすことを避けるための手段。
・選択とは、過去との結び付きで未来をコロニー化し、過去の経験が残した感情と折り合いをつける積極的な側面もある→ポスト伝統の状況下、自己選択→嗜癖も一つの選択。
・アイデンティティ:反復再現と再解釈という恒常的過程→時間を超えた恒常性の創出→過去を予想される未来へと結び付けること。
・専門知識:非人格的原理・分権的・流動性→脱埋め込み→抽象的システムにおいて再埋め込み→再帰性
・「抽象的システムのなかには、人びとの生活の非常に重要な要素となったために、つねに既成の伝統と類似した、岩盤のような堅固さを一見示しているものもある」(ex.医師免許、学位など)。「ひとたび伝統と絶縁してしまった以上、近現代のすべての制度装置が信頼という潜在的に不安定なメカニズムに依存しているという事実には、根本的な意味がある」。
・「《衝動強迫症》とは、《凍結した信頼》、つまり、対象となるものがない代わりに、際限なく続いていきやすい自己投入である」。「嗜癖は、かつて伝統が供給してきたし、またあらゆる形態の信頼も同じように想定してきた例の完全無欠性に相対するものなのである。抽象的システムの世界は、またライフスタイルの選択が潜在的に開かれた世界は、…自発的な参加を要求している」。「人びとは、信頼を、代替手段の選択として投入していくのである」。
・グローバル化:目の前にないものが空間を再構築→目の前にあるものまでも支配していく過程。「誰もが「部外者」でいることができない世界は、既存の伝統が他者との接触だけでなく、代替可能な数多くの生活様式との接触が避けられない世界」。「社会的きずなを、過去から受け継いできたものでなく、むしろ望ましい結果が得られるように《つくり出して》いかねばならない社会」。

スコット・ラッシュ「再帰性とその分身──構造、美的原理、共同体」
・ベック、ギデンズの議論を踏まえた理論的な検討。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧