ジェームズ・ファーガソン『反政治機械──レソトにおける「開発」・脱政治化・官僚支配』
ジェームズ・ファーガソン(石原美奈子・松浦由美子・吉田早悠里訳)『反政治機械──レソトにおける「開発」・脱政治化・官僚支配』(水声社、2020年)
James Ferguson, The Anti-Politics Machine(1990)の邦訳。著者のファーガソンはスタンフォード大学教授で、アフリカ南部をフィールドとして「開発」・近代化・援助といったテーマについて考察を進めている文化人類学者である。本書はハーバード大学に提出された博士論文をもとにしている。なお、本書では「開発」という概念そのものを検討対象としていることから「」がつけられている。
本書の目次は下記の通り。
第一部 序
第一章 序
第二部 「開発」装置
第二章 概念的装置──「開発」対象の構築、「開発途上国」としてのレソト
第三章 制度的装置──タバ・ツェカ開発プロジェクト
第三部 「標的となる住民」について
第四章 調査地概要──レソト農村部の経済・社会的側面
第五章 牛の神秘性──レソト農村部における権力、財産、家畜
第四部 「開発」の展開
第六章 家畜の開発
第七章 地方分権化の頓挫
第八章 タバ・ツェカ・プロジェクトの農作物開発とその他のプログラム
第五部 「開発」プロジェクトの道具効果
第九章 反政治機械
発展途上国への「開発」プログラムの報告書における叙述方法への違和感から本書の問題意識は始まっている。例えば、世界銀行の報告書では、レソトは農業の潜在力があるにもかかわらず、人々は伝統的な価値観に縛られているため近代化が果たされておらず、従って農業生産力を高めて資本主義市場へ接合させることにより、彼らの生活水準を向上させることができる、と記されている。ところが、レソトでフィールド調査をしていた著者によると、実際にはレソト社会はかなり以前から南アフリカへの出稼ぎ労働という形で資本主義の枠組みに適応した生活形態を形成していたという。どうして捉え方が全く異なるのだろうか?
レソトの山岳部はもともと農業には適さないからこそ、出稼ぎ労働者は南アフリカへ行く。レソトの土地は耕作のためというよりも、こうした出稼ぎ労働者の故郷とのつながりを維持し、潜在的労働者が流出しないようこの土地につなぎとめるという意味での政治的資源として作用している。つまり、この社会の脈絡において、農耕とは違う形ではあっても重要な意義を持っている。ところが、開発計画を推進して専門的な農地活用をさせようとしたら、「真剣でない農民たち」は居場所を失ってしまう。そして、実際に農業開発プログラムは失敗した。
国際的な開発機関には蓄積されたノウハウがあり、そのプログラムは規格化されている。言い換えると、そうした規格に合わなければ、開発計画は認可されにくい。従って、開発プログラムの立案にあたっては、開発対象を規格に合う形で描写しないといけない。例えば、上述した世界銀行報告書に見られるような「開発」言説がなぜ実態から乖離しているのかという理由はここにある。開発計画を通すためレソトを意図的に「遅れた」社会として描写しなければならなかったのである。出発点から実態に合わないのだから、開発計画が実行に移されても成功するわけがない。そして、失敗は技術的な問題として矮小化される。
本書で注目されるのは、開発計画における農業プログラムの失敗というだけでなく、むしろその副産物の方である。開発計画策定の前提として、「国家」は公平無私な実行機関とみなされているが、実際には現地権力者から末端の小役人まで様々な利害関係者が絡まり合っている。「開発」を目的としてインフラ整備(例えば、道路)が進められるが、農業発展という目的は達せられなかった一方で、むしろレソト政府の国家権力拡大という副産物が現われた。言い換えると、「貧困」問題解決を口実としながらも、「開発」の介入によって官僚的国家権力の確立・拡大という副作用がもたらされたのである。
「断固として貧困を技術的問題に矮小化することにより、そして弱い立場にある抑圧された人々の苦しみに技術的解決を約束することで、覇権的な「開発」問題系は、それによって今日の世界において貧困の問題が脱政治化される主要な手段となる。同時に、その意図的な「開発」の青写真を高度に可視化することによって、「開発」プロジェクトは誰も反対できない中立で技術的な使命という装いのもと、制度的な国家権力の確立と拡大という極めて政治的に扱いの難しい事業をほぼ不可視なまま遂行することに成功するのである。そうすると、この「道具効果」には二つの側面があることになる。ひとつは官僚的な国家権力を拡大するという制度的な効果であり、もうひとつは貧困と国家双方を脱政治化するという概念的、もしくはイデオロギー的効果である。」(374頁)
こうした「開発」プロジェクトの「道具効果」がある種のシステムとして作動している状況について、本書では「反政治機械」と呼んでいる。問題は、誰かが意図的に(陰謀的に)実行しているのではなく、善意の専門家が誠実に遂行しようとした意図せざる結果であるという点にある。
「…自由に移植され、いかなるコンテクストにも縛られない、専門家の意見こそが、あまりにも安易に一般化され、どんな場所にも安易に当てはめられるのである。世界中の「開発」プロジェクトは、このようにコンテクストに縛られない共通の「開発」専門家の知識によって作り上げられているので、その意味において、レソトにおける「開発」の経験は、かなり一般的な現象の一部をなしているのである。」(378頁)
「…「開発」言説には特別な用語だけでなく特有の論証のスタイルがあると示唆することができる。それは、暗黙の内に「そしておそらく無意識の内に」もっと「開発」プロジェクトが必要であるという必須の結論から、その結論を生み出すのに必要な前提へと逆向きに論理づける。この点において、「開発言語(devspeak)」だけではなく、「開発思考(devthink)」もまた問題となるのである。」(379頁)
最近のコメント