カテゴリー「社会」の109件の記事

2018年3月26日 (月)

橋本健二『新・日本の階級社会』

橋本健二『新・日本の階級社会』(講談社現代新書、2018年)
 
 かつて日本社会の誇るべき特性として喧伝された「一億総中流」という言説が破綻してすでに久しい。社会格差の拡大が現実の問題として議論され始めたとき、私自身も相当なショックを受けた覚えがある。しかしながら、高度成長期にあっても実際には社会格差は厳然としてあり、ただそこに社会的関心が向けられていなかっただけである。「一億総中流」言説の原型は村上泰亮の「新中間階層」論に求められるが、そこで参照されていたデータは「階級帰属意識」の世論調査に基づいており、それはあくまでも「自分の生活程度をどう思うか」という個々人の意識を問うているだけで、社会的実体を調査したものではなかった。1970年代には階級帰属意識と実際の収入や社会的地位との相関にズレがあり、また設問方法も中流意識を導きやすいものであったという。いずれにせよ、日本もまたとうに昔から格差社会であった。
 
 本書によると、そうした日本社会における階級構造が近年大きく変動している。端的に言うと、かつては資本家階級(生産手段の所有者、統計データ上は5人以上の従業員を抱える企業の経営者)・旧中間階級(自営業者、農民等)・新中間階級(被雇用の管理職、専門職、上級事務職)・労働者階級の四階級構造を成していたが、現在は労働者階級がさらに分化して、資本家階級・旧中間階級・新中間階級・正規労働者・アンダークラス(非正規労働者)の五階級構造へと転換したことが指摘される。そして、かつては資本家階級とその他三階級との間に分断線が引かれていたものが、現在では分断線が下方へ移動し、アンダークラスとその他四階級との間に見られる異質性が顕著になりつつある。本書はSSM調査(社会階層と社会移動全国調査、1955年より10年ごとに実施)や2016年首都圏調査等のデータを用いながら、このように階級分断が進行しつつある日本社会の現状を検討する。
 
 とりわけ深刻なのは、アンダークラスの問題である。現代社会の利便性や快適さは彼らの低賃金労働によって支えられているが、彼ら自身はなかなか現状を打開するのが難しい状況にある。「彼ら・彼女らは、ソーシャル・キャピタルの蓄積に欠けており、相互に連帯するような機会ももたない。身体的にも、また精神的にも問題を抱えていることが少なくない。そして何よりも、格差に対する不満と格差縮小の要求が、平和への要求と結びつかず、排外主義と結びつきやすくなっている。こうした現状をみると、格差縮小と貧困の克服を実現する政治的な回路というものが、見通せなくなってしまう。恵まれた階級の人々は格差が大きい現状に安住しがちであり、恵まれないアンダークラスは、格差縮小への要求を、誤った方向に向けて誤爆する」(246-247頁)と指摘されている。
 
 自己責任言説の浸透も、こうした分断の固定化につながりやすい。自己責任とは自分のなした選択に責任を負うという倫理であり、その意味では私も肯定する。しかしながら、自分の選択以前の条件にまで帰責してしまうのは論理的に言って不公正である。本書の最終章では所得再配分や教育機会の均等など格差縮小に向けた提言がまとめられているが、それらに同意するかどうかはともかく、また政治的立場の如何にかかわらず、まずこうした社会的分断という現実を直視した上で、次なる社会構想を議論する必要がある。

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2018年2月12日 (月)

南後由和『ひとり空間の都市論』

南後由和『ひとり空間の都市論』(ちくま新書、2018年)
 
 私はここ数年来、主に台湾で暮らしている。台湾での生活は居心地が良いが、時折物足りなく感じるのは、街の中に「ひとり」でいられる空間が、日本と比べると少ないことだ。例えば、ひとりで酒でも飲もうと思って飲食店に入っても、複数人で入るのが当たり前という感じで、若干の敷居の高さを感じる(別に一人だからといって拒絶されることはないのだが)。敬愛する評論家の川本三郎さんは東京歩きをテーマとした作品の中で、街の居酒屋に入り、大勢の人々が雑然と集まっている中、「ひとり」で飲む楽しみをしばしば描いておられ、私もそうした感覚を共有しているのだが、その川本さんが以前、台湾で講演された折、「台湾にはひとりで飲める居酒屋が欠如しているのではないか」という趣旨のことを話しておられた。私も日本へ帰ると、こうした「ひとり空間」の意義がやはり気にかかり、そうした関心から本書を手に取った。
 
 本書では「状態としてのひとり」に着目して議論が展開されており、それは「一定の時間、集団・組織から離れて「ひとり」であること」と定義される。「ひとり空間」では匿名性と精神的な距離感とを確保することが可能となり、孤独の中で自由を感じることができるという指摘をジンメルから援用している。孤立は客観的な状況を指すが、孤独は主観的な感じ方に重きが置かれる言い方である。第一章で前提となる概念について検討された上で、第二章では住まい、第三章では飲食店・宿泊施設、第四章ではモバイル・メディアをテーマとして、日本の都市における「ひとり空間」の展開が論じられ、それぞれケーススタディとして具体例も紹介される。
 
 私などが居心地の良さを感じる居酒屋での孤独な自由感は、本書第三章で紹介される、かつて神島二郎が論じていた「単独者主義」と関わるのかもしれない。2000年代以降の変化は、当然ながらモバイル・メディアの変化と連動している。
 
 「ひとり」をもし社会的孤立の観点から考えようとするなら、コミュニティ再構築という課題と関わってくる。本書ではP2Pプラットフォームを利用した「ひとり」同士のつながりについて終章で論じられている。それは、スキルや制作などの「生産」に媒介された結びつきをもとに都市型コミュニティの可能性を秘めているが、他方でスキルを「持つ者/持たざる者」という新たな格差も生じてしまう。P2Pプラットフォームを介した「ひとり」同士のつながりをどのように地縁的・物理的な近接性へと再び埋め込んでいけるのか、課題として提起される。
 
 「ひとり空間」が日本の都市に特有な現象といえるのか、そのあたり、海外との比較をするなどもう少し掘り下げてクリアにして欲しいとは思ったが、都市空間における「ひとり」の様相について論点の仕分けをしてくれているので、今後の議論のたたき台として有用であろう。

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2013年10月20日 (日)

【メモ】ジグムント・バウマン+デイヴィッド・ライアン『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について――リキッド・サーベイランスをめぐる7章』

ジグムント・バウマン+デイヴィッド・ライアン(伊藤茂・訳)『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について――リキッド・サーベイランスをめぐる7章』(青土社、2013年)

・ソリッドな近代からリキッドな近代への変容を様々な論点から分析している社会学者ジグムント・バウマン。本書は、情報化社会における監視研究で著名なデイヴィッド・ライアンとの対話で構成されている。バウマンの議論では、モダニティ/ポストモダ二ティという区別はとらない。現在はむしろモダ二ティがますます深化している時代であると考え、そうしたモダニティの変容をソリッド/リキッドという表現で捉えている。

・ベンサムが発明した刑務所の監視システムであるパノプティコンに、フーコーが規律権力の観点から着目し、近代社会を考える重要なキーワードとなった。これはソリッドな近代に適合的なモデルであったが、リキッドな近代へと移行するに従い、現代はポスト・パノプティコンの時代であるというのが基本的な認識となる。選択肢を限定して誘導しながら囲い込むコストをかけて監視するのではなく、自発的に監視へと身を委ねる状況がリキッドな近代の特徴として指摘される。リキッドな近代において長期的な見通しはつかず、その中で生きる人々は社会的矛盾も含めてあらゆる問題を個人的な問題として解決することが求められる点が議論の前提。以下に関心を持った論点をメモ。

・ソリッドな近代におけるパノプティコン的管理→「工業化のプロセスの理想が、事前に設計された通りの動きを繰り返し、その状態を維持する、定常的な機械のパターンに基づいて発想された時代以降、人々を管理することは本来、非常にやっかいな仕事でした。それには細心の綿密で持続的でパノプティコン的な監視が必要であり、管理するものとされるもの双方の創造的な衝動を打ち消すような、単調なルーティンを課す必要がありました。それが退屈の原因となり、常に公然たる衝突につながる恐れのある煮えたぎる怒りを掻き立てました。またそれは「ものごとを仕上げる」上でコストのかかる方法でもありました。すなわち、仕事に従事している被雇用労働者の潜在能力を活かすのではなく、彼らを抑えつけ、働かせ、悪い影響から間乗るための貴重な資源を必要としたのです。」(97ページ)

・リキッドな近代では?→「今では自己規律を期待され、規律を生み出す物質的・心理的コストを負担しているのは、管理規律の対象とされる人々です。彼らは自ら壁を築き、自らの意志でその中にとどまることを期待されています。アメ(あるいはその約束)がムチに取って代わったこと、つまり、誘惑や魅力がかつての規範的な規制機能に取って代わり、欲望を喚起し、高めることが、費用がかさむ上に、異議申し立てを呼び起こす監視に代わったことに伴って、監視塔は(望ましい行動を引き出し、望ましくない行動を除去することを目的とした残りの戦略と同様に)民営化される一方、壁の建築を許可する手続きは規制緩和されています。その犠牲者を追いかける代わりに、隷従の機会を追い求めることは今では自発的(ヴォランタリー)な仕事になっています」(99ページ)。「問題の専門家たちは、ルーティンを束ねる退屈さを監視する時代遅れの管理者というよりも、非常に変化しやすい欲望のパターンや、それらの不安定な欲望によって駆り立てられる行動の追跡者やストーカーです」(100ページ)。

・「近代」とは、イレギュラーなものを除去しながら偶然性を「理性」の管理下に置き、ある終局的な目標の完成を目指そうとした時代→「完成への取り組みには、物事を完全なものにするための計画表に収められない多くのものを根絶したり、拭い去ったり、取り除いたりする作業が欠かせません。破壊と創造は不可分のものでした。つまり、不完全なものを破壊することが完成への地ならしの条件であり、その必要十分条件でした。モダニティの物語と、とりわけその二〇世紀の結末は、創造的な破壊の物語だったのです」(109ページ)。その究極的な具現化がナチズムとコミュニズムであった。

・ナチズムによるホロコーストでは、絶滅されたものと絶滅を実行した者との間の距離感によって「道徳的な中立化」がもたらされた。そのため、問題は技術的なものへと純化され、ホロコーストが粛々と実行されたという点でまさに「近代」の矛盾が露呈した出来事であった(こうした議論については、ジグムント・バウマン『近代とホロコースト』を参照→こちら)。情報技術の発達による「遠隔性、遠隔化、自動化」の進展はこうした「道徳的な中立化」をいっそう促している。「「遠隔性、遠隔化、自動化」を促す技術の進歩のもっとも重大な帰結は、私たちの行動が道徳的な制約からしだいにまたとめどなく解き放たれていくことでしょう。「われわれはそれを行なうことができる、だからそれを行なう」という原則が私たちの選択を支配するようになると、人間の行為とその非人間的な結末について道義的な責任が前提とされなくなったり、それが効果的に実施されなくなってしまうのです。」(114~115ページ)

・「私たちはみな「法令上の個人」ですが、私たちのほとんどが、「事実上の個人」の身分にはほど遠いと考えています(知識や技能や資源の不足のため、あるいはただ単に、私たちが直面している「諸問題」が独力では解決不能であり、多くの人々の一致協力による集合的な形でしか「解決」できないがゆえに)。しかし、私たちは、いわゆる「世論」によっても、私たち自身の(たとえ、社会的に準備されたものであっても)良心によっても、社会的期待(私たちによって内面化されている)と私たちの実践能力のギャップを埋められそうもありません。自尊心やあがないの希望を否定されて、逃れられない、取り戻せない資格剥奪の状態におかれているという、この深くて屈辱的な意味は、「自発的な隷従」(電子的・デジタル的な監視への私たちの協力)の現代版へのもっとも強力な起動力だと思います」(184~185ページ)。こうした問題意識を示した上で、なおかつ行為主体にとっての希望はどのようなものかと問いかけている。

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2013年9月27日 (金)

浅野智彦『「若者」とは誰か──アイデンティティの30年』

浅野智彦『「若者」とは誰か──アイデンティティの30年』(河出ブックス、2013年)

 自分探し、ゆとり世代、オタク──様々に語られる「若者論」。上の世代としての「大人」たちが「若者」をネガティブに語ること自体は有史以来珍しくはない。ただ、このような語り口が紋切り型としてこわばればこわばるほど、ある大きな社会的変化を捉えられなくなっているのではないか? 本書は、1960年代以降の「若者論」を検討しながら、そうした安易な言説によって覆い隠されてきたアイデンティティの変容過程を浮かび上がらせようとしている。

 コミュニケーションの乏しさ、確固たるアイデンティティの希薄さ──ある種の若者について、こうした物足りなさを社会的病理として語る向きも見られる。だが、そもそもアイデンティティなるものを普遍的に通用する概念と考えて良いものだろうか?

 エリクソンのアイデンティティ論では、人生の発達段階における課題の解決を通して自我が統合されると考え、統合できなかった場合を病理とみなしている。統合された単一性としての近代的主体は、内面的な一貫性を前提として、外界へ働きかける。これは伝統社会から切り離されると同時に、勤勉さなどの規律を内面化した社会組織に適合的なモデルだったと言えるだろう。他方で、リースマン『孤独な群衆』は社会のあり方を伝統志向、内部志向、他人志向と分類した上で、1950年代におけるアメリカ社会については他人志向への変化を指摘していた。これは、経済のあり方が生産中心から消費中心へと変化していく様相を反映している。

 大雑把な言い方になってしまうが、「自分らしさ」を前提とした主体が社会へと働きかけるのが生産中心の社会であったとするなら、消費活動を通して「自分らしさ」を確証しようとするのが消費社会である。言いかえると、消費社会は外的状況への反応として主体が措定されるという特徴を持っている。ところで、1980年代の日本ではこうした消費社会論の文脈で若者が語られたが、1990年代以降はコミュニケーション論の文脈が中心になってきたという。二つの論点のちょうど結節点に位置していたのがオタク論だったという指摘が興味深い。

 オタクは引きこもってアニメばかり見て、他人との交流は苦手──こうしたステレオタイプは実は誤りである。オタクは関心を共有する人々の間ではむしろ活発なコミュニケーションを行っている。他方で、関心を共有しない人々との関係には積極的にならない(宮台真司「仲間以外はみな風景」)。このようなコミュニケーションにおける過少と過剰の併存は、人間関係の使い分けと捉えることができる。そして、人間関係の使い分けに応じて、そこに対応する自己の側も多元化しているという状況が、オタクに限らず現代の若者世代で広く観察されるという。

 相手に応じて異なった振る舞いをするというだけなら、そんなに珍しい話ではない。実際、確固たる主体を前提として他者と向き合うという欧米的な理念型を基準として日本社会を批判する議論もかつてはしばしば見受けられた。しかしながら、従来の日本社会では使い分けの規則について共通了解があって、全体的な見通しがきいた。ところが、現在の若者世代の使い分けの場合、関係性のコンテクストによって規則が異なるため、コンテクストを共有していない人には見通しがつかない。こうしたコミュニケーションの多元化が、「大人」世代からすれば不気味に感じられるということなのかもしれない。

 主体と外界との関係を一対一のものと考えれば済んだ時代(ソリッドな近代)はすでに終わり、外界の流動性が高まるにつれて、主体の側も流動性への適応を迫られている時代(リキッドな近代)へと徐々に変化しつつある。アンソニー・ギデンズの言う「前期近代/後期近代」にせよ、ジグムント・バウマンの言う「ソリッドな近代/リキッドな近代」にせよ、こうした対比によって「近代」の変化を特徴づけていた(バウマンについてはこちらで触れた)。本書もまた、日本の「若者論」というローカルな話題を切り口としつつも、アイデンティティの多元化に注目することで、こうした「近代」なる時代状況の変容過程を捉える射程を示そうとしている。

 アイデンティティの多元化がすでに進行している以上、それを所与の条件として生きていかねばならない若者たちの現実をまず肯定するところから出発すべきだという著者の見解には基本的に賛成である。ただ、自分自身がどこまで追いついていけるのか、心もとないというのも正直なところだ。

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2013年7月21日 (日)

今野晴貴『生活保護──知られざる恐怖の現場』

今野晴貴『生活保護──知られざる恐怖の現場』(ちくま新書、2013年)

 生活保護のサイクルをおおまかに捉えると、①申請→②保護の開始→③保護の終了となるが、それぞれについて①申請を受け付けない「水際作戦」、②受給者の人格を否定するハラスメント、③無理やり追い出しを図る、といった問題がある。役所の窓口や現場のケースワーカーの裁量によるところが大きく、明らかに違法なケースが多々見られるが、具体的な実態は本書を読んでもらいたい。もちろん、真摯に良心的な取り組みをしているケースワーカーもいるが、担当者が誰であるか、その自治体の姿勢がどうであるかによって運不運が左右されてしまう。

 ここのところ、不正受給をめぐる報道がなされ、某政党の一部議員には生活保護バッシングの言動も目立つ。しかし、実際には資産を使い果たしていなければ支給は開始されず、コスト削減のため追い出しを図る行政の実態がある。印象論ばかりが先行して議論が進んでしまうことにはやはり不安を感じざるを得ない。

 生活保護は最後のセーフティーネットと位置づけられる。単に困窮者の救済というのではなく、自立した生活へと軌道に乗せるよう支援していくところに本来の意義を持つ。生きて働いていく一番の源泉は尊厳であろう。しかし、怠惰な落伍者というレッテルを張られて尊厳を奪われてしまうことで自立に向けた気力がますます損なわれてしまうという悪循環がある。

 社会の再活性化のためには人材が必要であり、再び仕事をしていける方向へ向けた支援が機能していないならば、近視眼的なコスト削減がより大きな社会的コストへつながってしまう矛盾の方が深刻である。そもそも、社会的なひずみから本人の意図とは関係ない次元で困窮してしまうケースがある。働けなくなったら生きていけないという絶望は社会的な不安定感を大きくする。問題の圏域は生活保護という制度そのものにあるのではなく、より広い社会政策を構想する上で本書が提起している問題点を汲み取っていく必要がある。

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2012年7月 8日 (日)

三浦展『ニッポン若者論──よさこい、キャバクラ、地元志向』

 何気なく手に取った三浦展『ニッポン若者論──よさこい、キャバクラ、地元志向』(ちくま文庫、2010年)読了。興味深い論点は色々とあるが、一つ関心を持ったのは、最近のスピリチュアリティ・ブーム、その中でも江原某の影響のようだが、前世に関心を持つ若者たちの分析。要するに、「前世は~だ」と言ってもらうと、自分の予め定まっている運命が分かったような感じがして楽になるらしい。

 このあたりの感覚には、最近読んだ土井隆義『友だち地獄──「空気を読む」世代のサバイバル』(ちくま新書)、『少年犯罪〈減少〉のパラドクス』(岩波書店)でも指摘されていた「自由意志としてではなく、生まれ持った素質で人生はすでに決定済みと納得させてしまう宿命主義的な人生観」と共通する問題点がうかがえて関心を持った。つまり、近代社会は個人レベルの自由選択の幅を広げるように制度的デザインを図ってきたわけだが、それが現在ではアノミー状態を引き起こし、かえって自分が何をしたいのか分からないという戸惑いをもたらしている。

 こうした「近代」の逆説について、見田宗介が本書収録の三浦との対談で「再魔術化」を指摘している。つまり、マックス・ヴェーバーはかつて近代社会の世俗化・合理化の進展に伴い、合理的に解釈できないものが解体されていく過程(=脱魔術化)を指摘していたが、合理主義の行き過ぎによる息苦しさが、逆に非合理的なものに引き寄せられていく心性を生み出していく。そうした可能性も実はヴェーバーは分かっていたのだと見田は指摘しており、それはいわゆる「中間考察」論文の次の箇所だろう。『宗教社会学論選』(みすず書房)から引用すると、

「…合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を徹底的になしとげてしまうと、現世は神があたえた、したがって、なんらかの倫理的な意味をおびる方向づけをもつ世界だ、といった倫理的要請から発する諸要求との緊張関係はいよいよ決定的となってくる。なぜなら、経験的でかつ数学による方向づけをあたえられているような世界の見方は、原理的に、およそ現世内における事象の「意味」を問うというような物の見方をすべて拒否する、といった態度を生みだしてくるからである。経験科学の合理主義が増大するにつれて、宗教はますます合理的なものの領域から非合理的なものの領域へと追いこまれていき、こうしていまや、何よりも非合理的ないし反合理的な超人間的な力そのものとなってしまう。」

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2012年6月27日 (水)

土井隆義『少年犯罪〈減少〉のパラドクス』

土井隆義『少年犯罪〈減少〉のパラドクス』(岩波書店、2012年)

 世間的な印象論としては治安の悪化が語られている一方、統計を見ると実際には凶悪犯罪は減少傾向にあるという受け止め方のズレは専門家から指摘されている(例えば、河合幹雄『日本の殺人』[ちくま新書、2009年]、『安全神話崩壊のパラドックス──治安の法社会学』[岩波書店、2004年]など)。法社会学の河合幹雄氏は、犯罪の起こり得る空間(たとえば、繁華街)と従来ならば安心して暮らすことのできた空間(たとえば、住宅街)との境界線が不明瞭になりつつため、一般の人々も体感治安の悪化を感じるようになったのだと指摘している(→こちら)。

 少年犯罪が実際には減少している一方、世間が少年たちに対して妙な不気味さを感じていることにはどのような背景があるのか? 本書は、犯罪少年というだけでなく、それをきっかけに現代日本社会の若年世代において広く見られる問題点へと目を向ける。すなわち、アノミー状況への適応行動という問題点である。本書で指摘されている問題点のうち、とりわけ①自由意志としてではなく、生まれ持った素質で人生はすでに決定済みと納得させてしまう宿命主義的な人生観、②やわらかい共同体への再埋め込み願望、こうしたあたりに私は関心を持っている。

 社会的に仕向けられた一定の人生目標へと煽られる一方で、貧困や教育機会の欠如などの理由によりそこまで到達するのに必要な手立てがない。都会的自由にあこがれる一方で、地縁的関係に拘束されている。こうした矛盾に苛まされたのがかつての青少年の葛藤であった。その葛藤から非行へと走っていったのはある意味で理解しやすい。しかし、現代では持って生まれた自分の資質に自足する傾向があるという(「かけがえのない個性」という言説がさらにかぶさり、新自由主義的な経済活動とも親和的となる)。社会的剥奪によるフラストレーションは他者との落差を目の当たりにするからこそ鬱積していくが、自閉的に自らの境遇に納得している場合、他者との落差を自覚することがない。アノミーへの適応とはそういうことである。

 近代とはそもそも、個人の様々な可能性を追求できるような形へと社会システムを整えることに最大の努力を払う時代思潮であったはずだが、こうした宿命主義的な人生観はそれを否定することになってしまう。もちろん、達成不可能な目標へ向けて煽られるのは不幸なことである。しかし、現状に自足するようでは発展の余地はない。現時点で他者から与えられた評価を生得的な資質だから将来の変更は不可能だという思い込みには、社会環境的に刷り込まれた虚偽意識が混ざりこんでいる可能性もある。かつての“煽り”が未来志向とすれば、生得的なものを絶対と思いみなすのは過去志向と言えるが、いずれにせよ現状をバランスよく見極める視点を促していくしかないのだろう。

 なお、アノミーとは、社会的に規範化された文化目標とその達成手段との齟齬から生じるフラストレーションを指す。デュルケーム『自殺論』でこの概念が提起され、このアノミーによって社会的な逸脱行動が生じやすくなることについてマートン『社会理論と社会構造』が理論化している。

(以下、メモ)
・相対的貧困→相対的剥奪という主観的な要因が介在して、問題化。
・相対的剥奪:貧困の近接性。豊かな人々への羨望のまなざし、社会に対する不公平感や憤怒、自らの不遇感や焦燥感などから生まれるフラストレーション。
・学校教育→戦後平等主義的な教育理念→「煽りの文化」→1980年代の中盤に転換→個性主義…「全ての子どもの学力を一律に伸ばす」政策から「出来る子どもと出来ない子どもの能力の違いを認める」政策への転換。文化目標が少年たちに等しく規範化されなくなった。
・飛躍への欲望が文化目標として内面化され、都会へ出て羽ばたきたいと強く願っているのに、周囲の人たちはそれを認めてくれない。あるいは、華やかそうな職業に就きたいのに、それを認めてくれない。達成手段の取得を阻害する人間関係の抑圧力、地域社会のしがらみ→人間関係上のアノミーが生み出された。
・抑圧的な人間関係によって縛られている、という状況が消えていった。
・大人への反発として形成された非行グループそのものが成立せず、逸脱キャリアを歩む若者の減少。…共同体の拘束力の低下が非行グループの弱体化の背景にある。1960年代の校内暴力は反学校文化としての顕示的・組織的行動→1990年代以降は幼児的な癇癪の発露に過ぎなくなっている。

・「かけがえのない自分」とは、他者との関係のなかで自己を相対的に見つめ、互いに切磋琢磨しあうことで獲得されるものではなく、ひたすら自己の内面世界を掘り進め、奥ぶかく探索していくことで発見されるものと看做されるようになったのである。(96ページ)
・他者の存在感が希薄、第三者からの客観的視点が欠如→「個性的であること」をひたすら煽られ続けても、どこまで追求すれば「本当の自分」にたどり着くのか、その実感を掴みづらい。→個性化の時代とは、普通の人々が生きづらい時代。

・人生目標の成功願望から生じるアノミー、人間関係の離脱願望から生ずるアノミー→普通の状態でいられる限り、焦燥感で掻き立てられる性質のものではない。しかし、「自分らしさ」という新たな願望→普通の状態でいることの方がアノミーの源泉となってしまう。

・スティグマのカリスマ化。否定性の強いスティグマであればあるほど、かえって自分の存在感を高めると受け止められる。自分に明確なアイデンティティ。平凡な存在から脱却。自らのアイデンティティを確立する手段としてスティグマの獲得をむしろ積極的に欲しがっている。普通であることの平凡さに埋没してしまうくらいなら、世間を震撼させる犯罪者であった方が良いという心性。

・非行文化がなくなりつつある→技術の伝承なし。共通基盤が存在しないため、お互いの関係を維持するのに苦労。また、少年たちの個人化が進んで“非行文化”が崩れ、先輩から後輩への“技術”の伝達ができなくなった。例えば、自転車盗に比べてバイク盗や自動車盗が減少しているのは、複雑な技術を要するコツが伝承されていないから。また、たかだか万引きでナイフを振りかざしたため強盗殺人になってしまったケースがあるが、犯罪ランクを考えながら振舞う“知恵”が伝わっていれば大事には至らなかったはず。

・今日の非行少年には、自分が異質な他者を「見つめる」ことへの感受性を欠落させているのと同時に、自分が異質な他者から「見つめられる」ことへの感受性も欠落させている。

・少年犯罪の統計データを見ると、軽犯罪に関しては取り締る側の方針の変化によって検挙数が増減するが、そうしたバイアスによって左右されにくい凶悪犯罪に関して言うと長期的には減少傾向にある。

・現在、自分の置かれた社会的な境遇に対して、他者との間に落差を覚えていたとしても、その立場に置かれていることに自らが納得してしまえば、そこに剥奪感は生まれてこない。アノミー論の文脈に置き換えれば、たとえ社会的な資源が不平等に配分され、劣悪な立場に置かれていたとしても、それに見合った程度の希望しか配分されていなければ、そこにフラストレーションは生じえない。むしろ逆に、希望に格差がなく、平等に配分されているほうが、フラストレーションを高める状況を作り出すことになる。(134ページ)
・…貧困家庭の子どもたちは、希望を持てない状況というよりは、そもそも希望を持つというモチベーション自体を持ちえない状況に置かれている。できれば高い希望を抱きたいのに、現状ではそれは無理だと判断して悲観的になるのではなく、そもそも高い希望を抱こうなどとは端から思ってもいないから、現状に対して強い不満を覚えることもない。(136ページ)

・「未来の自分」より「過去の自分」に拠り所を求めようとする若者のほうが、今日では多くなっている。これからいかようにも形成可能な自分の姿を思い描きながら現在を生きるのではなく、すでに過ぎ去った変更不可能な自分の姿を振り返りながら現在を生きている。現在の生き方を規定するのは、未来ではなく過去なのである。彼らは、あえていうなら未来志向ではなく過去志向である。(138ページ)
・自由意思で主体的に選択されたものとしてではなく、生まれもった資質に運命付けられたものとして、自分の人生を理解しようとする感性である。(139~140ページ)
・宿命主義→生まれもった素質という絶対的で本質的なものによって、一見すると合理的に自分の人生が定まっていると考えられている点である。(141ページ)
・社会的価値からの脱埋め込み→自己の不安を増大→再度の埋め込みを欲するようになった。しかも、内閉化した個性化願望の下では、生まれ持ったはずの素質こそが、かけがえのない自分の個性として尊重される。したがって、そのような生来性を重視する感性は、宿命論的人生観へとつながっていきやすい。生得的な個性とは、後天的には変更不可能なものであり、個人が背負った宿命にほかならないからである。(142ページ)→前近代的な宿命主義と違うのは、理不尽な身分制度によって抑圧されているわけではない点。

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2012年6月26日 (火)

浅野智彦『趣味縁からはじまる社会参加』

浅野智彦『趣味縁からはじまる社会参加』(岩波書店、2011年)

(メモ)
・人間関係の稀薄化した現代社会において、社会参加へと人々を導いていく道筋の一つとして、趣味を媒介とした人間関係があり得るのではないか。趣味縁とは、親密性と公共性との中間にあって両者の橋渡しをするものではないか、という仮説を提示。
・社会関係資本→利得を生み出す資本として考えるか?/外部効果を期待する公共財として考えるか?→本書では後者の考え方から「趣味縁」を二次的結社(ロバート・パットナム『哲学する民主主義』『孤独なボウリング』)にあたるものと捉える。
・俳諧など近世の趣味縁→アイデンティティ・スイッチング(池上英子『美と礼節の絆』)、戦後のサークル運動→自己の多元性(鶴見俊輔)、消費社会における社交の倫理→柔らかい個人主義(山崎正和)、女性たちのネットワークとしての女縁→アイデンティティのリスク・マネージメント(上野千鶴子)。

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2012年6月24日 (日)

市川寛『検事失格』

市川寛『検事失格』(毎日新聞社、2012年)

 法の運用は必ずしも根拠とロジックとによってのみ基づいて行われているわけではない。複雑な現実の機微にはグレーゾーンが多く、法の一律的な適用はかえって不公正をもたらす可能性もある。ただし、運用をするのはやはり人間であって、その裁量的判断には別の思惑が混入してくることもまた当然ながらあり得る。一個人の恣意であったりするのはもちろん論外であるが、それ以上に、法とは別次元で作用する構造的な問題であるとするなら深刻である。

 著者は元検事である。佐賀地検に勤務していたときに担当した佐賀市農協背任事件で、否認する被疑者に暴言を浴びせかけながら無理やり調書をでっち上げた。転勤して担当から離れた後、法廷に喚問された際に、暴言で被疑者に圧迫を加えたことを正直に証言、やがて「暴言検事」として辞職することになる。本書は強引な取調べで冤罪をでっち上げてしまったことへの自省であり、それはすなわち、彼自身がそのような立場へ追い込まれていった原因は一体何だったのかを考え直す作業である。

 職業観は、その人の置かれた職場の環境によって育まれる側面が強い。彼が「暴言検事」になってしまった事情を突き詰めると、検察内部の組織文化の問題に行き当たる。裁判を通して「真実」を明らかにするのではない。「無罪」判決は検事としての大失点であって、被疑者には必ず筋読み通りに犯罪事実を認めさせねばならず、否認し続ける場合には強引にでも起訴へ持ち込む(村木厚子さんの冤罪事件における資料データ改竄で大阪地検特捜部の敏腕検事が逮捕されたが、著者も一時期、大阪地検に勤務していた頃を回想しており、ここはとりわけ強引な立件に持ち込む気風が強いらしい)。佐賀の事件で自分が行った強引な取調べについて正直に証言しようと思っていたとき、上司や同僚からは「あの程度の暴言、みんなやってるじゃないか」と言われれ、実質的な偽証を勧められた。とにかく検察のメンツをつぶすことは決して許されないという暗黙の空気。そうした圧迫の中でストレスがたまり、正常な判断能力すら失われてしまう。冤罪にはめられた側としてはたまったものではない。

 著者自身はもともと「ダイバージョン」という制度に関心を持っていた。つまり、「検事や裁判官が判断に迷ったとき、犯罪者が世間からできるだけらく印を押されないような手続きを選ぶことで、その社会復帰を助け、再犯を防ごうという一連の制度」であり、これを実現できる仕事として検事を選んだ。ところが、現場に入ってみると、司法修習で聞いたのとは正反対の実務すら行われている現実に戸惑う。

 検察内部の組織的ロジックに絡め取られて、内心では疑問を感じつつも、それを正直には言えないまま不本意な仕事を迫られていく不条理。本書では一人の検事の成長過程を通して、検察の組織文化が具体的にどのようなものであるのかが赤裸々に語られている。著者自身が繰り返すように、所詮は言い訳に過ぎないのかもしれない。いずれにせよ、そうした検察の組織文化に最終的には適応できなかったこと、同時に自らが若い頃に理想としていた検事像に到達できなかったこと、二重の意味で著者は「検事失格」であった。

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2012年6月 6日 (水)

阿部真大『搾取される若者たち──バイク便ライダーは見た!』『働きすぎる若者たち──「自分探し」の果てに』『居場所の社会学──生きづらさを超えて』

 流動的な雇用情勢の中、企業は利益確保のため人材のアウトソーシングを進め、それは自己実現のためという理念的掛け声によって社会的にも正当化されている。しかし、被雇用者側においてある種の心情的なモチベーションがかき立てられていく一方、企業側はそれを利用することで過剰労働を強いるメカニズムが出来上がってしまっている。自己実現のための働きすぎなら本人も納得済みなのだから一概に悪いと断定はできない。ただ、非正規雇用という形態で将来に不安を抱えた立場にある人々の場合、憔悴しきった結果としてそのまま使い捨てにされてしまうことがあり得るところに社会問題としての深刻さがある。

 もちろん労働問題として専門家に相談すべき事例もあろうが、それ以上に深刻なのは、必ずしも特定の経営者の策略などといった性質の問題ではないことだ。社会関係的に生成した職場の落とし穴であるという側面をどのように考えるのか。ある意味、みんな(社会)の思い込みで成立っている、ならばみんなの考え方を変えていけば職場も改善されるであろう。そのためには、まずこうしたメカニズムの生成過程を把握しておかなければならない。

 例えば、バイクが好きだから、趣味が仕事になる…? そんな簡単に言えるものだろうか。阿部真大『搾取される若者たち──バイク便ライダーは見た!』(集英社新書、2006年)はバイク便での就労体験をもとに、まさに「好きだから」「カッコいい」という動機がテコとなって不安定就業の中でもワーカホリックになっていく構造を分析する。視点は社会学だが、筆致はノンフィクションのノリ。

 上掲書の分析対象が労働×趣味とするなら、対して阿部真大『働きすぎる若者たち──「自分探し」の果てに』(NHK生活新書、2007年)で示される構図は労働×良心となる。老人介護の現場では利用者へのサービス向上のため、従来の「集団ケア」から「個別ケア」に移行しつつあるが、そのしわ寄せはケアワーカーたちにのしかかる。しかも、彼らの給与水準はかなり低い。だが、きつい上に労働対価に見合わないからと言って、目の前にいるお年寄りを見捨てるわけにはいかない。そうした良心が否応なく過剰労働へと駆り立てていく。

 従来の福祉政策においては介護に関わる人材はあくまでも補完的なもの、具体的には主婦のパートなどが想定されていた。ところが、近年、福祉現場における人材難と社会一般における就職難とが合わさって新卒の若い人びともこの職場に入るようになってきた。しかし、ケアワークだけで生計を立てていくのは難しい。主婦パートは経済的に余裕があるので「家庭にいた私が役に立てる自己実現の場所」となるが、経済的に将来へ不安を抱えている若年層とは意識が全く異なり、労働条件等に関しても一枚岩にははれないという問題があるという。また、ケアの場面におけるコミュニケーション能力は「専門性」として明確化できるのか?という問題も指摘されている。

 ベストセラーになった『13歳のハローワーク』では、好きを仕事につなげるというコンセプトが示された。しかし、実際には、大多数の人びとにとって「仕事での自己実現」は難しい。ポストフォーディズム社会における知識集約型産業とそれに従属する第三次産業とに分化しつつある中、仕事で自己実現できるのはほんの一握りに過ぎない。そうでない人は自己実現の場をどこに求めたらいいのか? 学校や職場以外の場面においても自己実現を可能にする場所としての中間集団を確保し、それらの中で重層的な自己を築き上げていく。そうした「ふところ」のある社会が求められているのではないか?という問いが示される。
 
 自己実現の場とは、突き詰めていくと自分の存在を他者から承認してもらえる関係性の問題である。承認感や肯定感があって、はじめてこの世界の中で生きているという実感を確証できる。「仕事」を通じた承認だって、様々にあり得る承認のスタイルのあくまでも一つだと割り切って考えた方が生きやすい。阿部真大『居場所の社会学──生きづらさを超えて』(日本経済新聞出版社、2011年)はそうした承認にまつわる関係性を「居場所」と表現している。本書は、不安定な雇用形態にある人々を対象とした社会的包摂を如何に実効的なものにするかという問題意識から、考えられる手順を12の命題にまとめている。承認の強弱によって「居場所」を使い分けていく必要はあるだろう。また「居場所」を受け身で考えるのではなく、自分自身の条件を考えた上で能動的にぶつかりあいながら作り上げていく必要があり、その点でのヒントになりそうだ。

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