第6回大仏次郎論壇賞(朝日新聞社)に岩下明裕『北方領土問題』(中央公論新社、2005年)、同奨励賞に本田由紀『多元化する「能力」と日本社会──ハイパーメリトクラシー化のなかで』(NTT出版、2005年)と決まったようですね。
そう言えば、本田さんのお師匠さんにあたる苅谷剛彦『階層化日本と教育危機──不平等再生産から意欲格差社会へ』(有信堂高文社、2001年)も大仏次郎論壇賞奨励賞を受賞していたはずです。教育社会学関係の人脈でもあるのでしょうか?
いずれにせよ、本田さんの議論には以前から関心を持っていました。今年の2月頃、社会格差論をテーマに文章をまとめる機会があり、そこに本田さんの議論も紹介してありましたので載せておきます。
【社会格差論への関心の高まり】
社会格差論への関心がここのところ高まっている。三浦展『下流社会──新たな階層集団の出現』(光文社新書、2005年)がベストセラーとなり、大竹文雄『日本の不平等』(日本経済新聞社、2005年)はサントリー学芸賞と日経経済図書文化賞をダブル受賞した。国会論戦でも取り上げられ、小泉首相の「格差拡大はやむをえない」という答弁も話題となった。
こうした関心の高まりを踏まえ、朝日新聞と日本経済新聞は、ほぼ同時期に社会格差論をテーマとして連載特集を組んだ(『朝日新聞』2006年2月5日~12日朝刊、『日本経済新聞』2006年2月7日~10日朝刊)。
朝日の論説は、孤独な高齢者、リストラされた中高年、就職できない若者などを取り上げ、弱者切捨ての構造改革路線のしわ寄せによって社会格差が拡大していると主張する。
これに対して日経の論説は、規制緩和等で経済的活力が生まれているのだから構造改革にブレーキをかけてはならない、自己責任なのだから格差の拡大はやむを得ないというスタンスを取る。
社会格差論は最近になって急浮上したわけではない。橘木俊詔『日本の経済格差』(岩波新書、1998年)や佐藤俊樹『不平等社会日本──さよなら総中流』(中公新書、2000年)を皮切りに着実な議論が積み重ねられている。そうした専門家の議論を見ると、国会論戦や新聞記事の論調とは意外と温度差があって、小泉構造改革や所得格差それ自体は大きな問題とされるわけではない。
むしろ、努力した結果として格差が生じるのはやむを得ないという前提は共有されている。しかしながら、人々が社会的なステータスを獲得していく上でのスタートラインの時点ですでに格差が生じている。それが「自己責任」という言説の下で覆い隠されてしまうのは果たして公正と言えるのか? そうした質的な側面に焦点を当てようというのが社会格差論からの本来の問題提起であった。
橘木論文のデータ処理上の問題点を指摘し、所得格差は実際には拡大していないという議論を展開して注目された大竹文雄『日本の不平等』にしても、統計データにおいて格差拡大は確認できないが、それにもかかわらず格差が広がっているという実感が社会全体に行き渡っているのはなぜなのか? 統計データとして平均化された数字では読み込めない別の部分の可能性を議論の裏側から浮き彫りにした上で、機会の均等を保証する政策対応の必要性を指摘している。
このような議論の奥行きがあるにもかかわらず、朝日は「かわいそう」、日経は「自分のせいだ」と言うにとどまる。それぞれスタンスは対極的だが、情緒的な精神論で終わらせしまう点では全く変わらない。『VOICE』(PHP研究所)3月号が組んだ社会格差論特集掲載の渡部昇一と日下公人の対談「二極化社会も悪くない」に至っては、「左翼の生き残りが嫉妬にかられて社会格差を論じているだけだ」などと根拠の乏しい暴論を吐いている。
個人の努力では如何ともしがたい問題を構造的に把握するのが社会科学の使命である。その得られた知見に基づいて現実の矛盾に働きかけるのが社会政策であるならば、根拠の乏しい情緒論・精神論でごまかすことなく、社会格差の実相を踏まえて具体的・建設的な提言を進める努力が必要である。
【社会格差論では何が論じられているのか?】
(社会的ステータスの世代間再生産→家庭環境の格差→教育格差→希望格差の悪循環)
1955年以来十年ごとに行われている「社会階層と社会移動全国調査」に基づき、佐藤俊樹は次のように指摘する。
「…父の学歴が高いほど、W雇上(ホワイトカラー雇用上層:専門職と管理職の会社員)への選抜では有利になる。親の学歴は本人にとって、スタート点の有利さ、「目に見えない」資産となっている。」「…もちろん、営業資産が相続などの形で直接うけつがれるのに対して、W雇上の再生産は学歴にせよ昇進にせよ、本人の努力という回路を必ず通る。けれども、その「本人の努力」が本当に本人だけの力によるものならば、親の職業によってW雇上へのなりやすさがかわるわけはない。世代間再生産がみられること自体、「本人の努力」なるものが、決して本人による努力ばかりではないことを意味する。」「にもかかわらず、高い学歴をもつ人間は実績主義にかたむく。自分の地位を実力によるとみなせる。親の学歴や職業といった資産が、選抜システムのなかで「洗浄(ロンダリング)」されているようなものだ。「本人の努力」という形をとった学歴の回路をくぐることで、得た地位が自分の力によるものになる」(佐藤俊樹『不平等社会日本』p.67-69)。
つまり、学歴と社会的ステータス、さらには経済的なステータスが関連しあう日本社会の現実を踏まえた上で、受験競争は能力主義的で均等な機会が保証されているという建前がありながらも、実際には受験競争に参加する前の段階で家庭環境という「目に見えない」資産によって有利不利が分かれていることをデータの検証を通して示唆している。
かつて「一億総中流」と言われた時代、マクロな経済成長によって明るい将来展望が開けていた。努力して稼いで子供を良い学校に進ませれば、たとえ自分はダメでも子供は将来、より公正なルールの中で実力を評価してもらえるはずだ、そうした期待が社会的に共有されていた。所詮、はかないフィクションに過ぎなかったのかもしれない。だが、少なくとも幻想を抱ける余地があったからこそ、不遇な立場にあっても目の前の仕事に懸命に取り組む動機が働いていた。
しかし、幻想が晴れてみると、努力しても追い越せない壁がある。社会に対する信頼が失われたとき、どうなるか?
「現在起っている二極化は、仕事能力による格差拡大という点で、能力のある人のやる気を引き出すかもしれない。一方、能力がないと自覚する人のやる気を失わせる逆効果がある。仕事において「質的格差」の存在を認識すると、一生単純労働から抜け出すことができないと意識する人が、仕事で努力しようとするだろうか。そして、努力しても専門的中核的職種に就けないことを自覚した青少年は、どう考えるだろうか」(山田昌弘『希望格差社会──「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』筑摩書房、2004年、p.67)。
乗り越えられない壁を自覚し、やる気を失ってしまった状態を家族社会学の山田昌弘は「希望格差」というネーミングで特徴づけた。また、教育社会学の苅谷剛彦は、将来何の役にも立たないのだから勉強しても仕方がないというあきらめが青少年の間に広がっていることを指摘し、「インセンティヴ・ディヴァイド」(『階層化日本と教育危機』)と表現している。
こうした傾向に、かつての「個性重視」の「ゆとり教育」という掛け声が拍車をかけた。「個性」という範疇の中で、学力面における差までも容認してしまい、その結果、よく勉強する階層の子供は引き続き勉強したが、もともと勉強をしなかった階層の子供は、その掛け声を真に受けてますます勉強をしなくなってしまった。昨今話題となっている学力低下は、子供たち全体の学力が低下しているのではない。勉強する子供としない子供との格差が広がることによって全体としての平均が下がったことによるものであり、ここにも社会格差の問題が深く根をおろしていることがうかがえる(苅谷剛彦『教育改革の幻想』ちくま新書、2002年)。
また、雇用の流動化が進むにつれ、変化しつつある状況に柔軟に対応するため「自ら学ぶ力」が称揚される。学習の機会をつかむことが自己責任によって必要とされる。これ自体は決して悪いことではないが、社会格差との強い関連性を苅谷は指摘している。
「個人の学習能力には明確な差異がある。しかもその差異は、子どもが生まれ育つ家庭の環境や階層と密接に結びついている。「自ら学ぶ」力の測定は難しいが、学ぼうとする意欲や、自分から調べようとする学習態度などの面では、明らかに階層差が存在する。」フリーターの問題もここにある。「フリーターとは、知識や技能を獲得する機会を奪われているだけでなく、学習機会から遠ざけられることで、そもそも持っていた学習能力(学ぶ力)を枯渇させてしまう境遇におかれているからだ。」この違いが社会格差につながる。「学習能力を磨き続ける者と枯渇させる者の格差であり、磨き続ける者には与えられ続ける、より豊富な学習機会が広げるさらなる格差である」(苅谷剛彦「「自ら学ぶ力」べた褒め社会の光と影──学歴社会から学習資本主義社会へ」『中央公論』2006年3月号、p.244-245)。
いずれにせよ、経済的問題ばかりでなく、教育、家族、労働など様々な局面を包括した社会システム全体の中で格差が問題となっている。学力低下、フリーター、少子高齢化など、個別に論じられているテーマそれぞれもまた社会格差と密接に関連していることが示されている(白波瀬佐和子編『変化する社会の不平等──少子高齢化にひそむ格差』東京大学出版会、2006年を参照)。
以上にみたような問題の広がりの中で、能力形成における機会の均等を保証することはどのようにして可能なのか? そうしたテーマについて改めて追求する必要がある。
【「専門性」というキーワードに注目】
教育社会学の本田由紀は、状況対応能力、とりわけ対人関係能力に重きを置かれるこれからの日本社会の趨勢を「ハイパー・メリトクラシー」と呼び、次のような議論を行っている。
受験→良い学校→良い会社という単線的なキャリア・ラインにおいて必要とされた標準的能力=基礎学力は、一定の手順(たとえば「ガリ勉」)を踏むことで得ることができた。対して、ハイパー・メリトクラシー化が進むこれからの日本では、意欲や創造性、日頃からの人当たりの良さも含めた状況対応的な能力=非標準的能力が必要とされる。この能力は定式化できず、全人格的なものが反映される。
もちろん悪いことではない。しかし、それは幼少時からの日常生活レベルにおいて受けた生育環境によって左右される側面が強い。見方を変えると、自分には足りないと気づいた時に、本人の努力によって習得可能なものではない。したがって、この非標準的能力を身に付ける上で恵まれた家庭環境にあったかどうかによりその後の人生行路は影響され、その意味での格差拡大が考えられる。
(なお、子供の養育に情緒的なケアを含めて二十四時間体制で世話をかけなければ将来「負け組」になってしまうという危機意識が自覚され始めると、次の問題も懸念される。第一に、面倒くさいので子供を生まない、したがって少子化に拍車がかかる。第二に、女性が専業主婦化する、したがって女性の社会進出に歯止めがかかってしまう。)
以上の現状認識を踏まえて、本田は「専門性」というキーワードを掲げた対案として次の三点を提唱している。
第一に、社会生活に出て行く上で立脚点が必要である。「専門性」という武器があれば、柔軟な状況対応能力が求められるハイパー・メリトクラシーの中でも一定の地歩を固めることができる。
第二に、「専門性」教育の場に早い段階で子供を組み込む。ベテラン・後輩を含めた様々な人間関係の中で共通の課題に取り組むという経験を通して、核家族化の進んだ生活環境の中では得られにくい対人関係能力を育むことが可能となる。また、自己効能感、社会的責任などを自覚する機会ともなり、社会に出る上での不安を軽減することができる。
第三に、この「専門性」教育段階を、保護された試行錯誤期間と位置づける。特定の専門分野に一度特化してみるという経験をしてみないと、どの職業が自分にとって向いているのか考えるきっかけにならない。そのためには、「専門性」教育を行うと同時に、いつでも進路変更できるようにしておかなければならない。
このように「専門性」教育を行う場を設定することにより、個々人の能力形成における機会の均等を保証する上で、家庭という偶然的要因の影響をできるだけ低くすることが期待される。
(以上、本田由紀の議論については、『若者と仕事──「学校経由の就職」を超えて』(東京大学出版会、2005年)、『多元化する「能力」と日本社会──ハイパー・メリトクラシー化の中で』(NTT出版、2005年)、「「ガリ勉」よりも「専門性」」『VOICE』(2006年3月号)を参照した。)
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