カテゴリー「台湾」の243件の記事

2016年5月 9日 (月)

【映画】「灣生畫家 立石鐵臣」

「灣生畫家 立石鐵臣」

  1941年7月、太平洋戦争の勃発が間近に迫った時期、台北で『民俗台湾』という雑誌が創刊された。1937年には日中戦争が始まって戦時体制が強まりつつあり、台湾では「皇民化運動」が展開されていた。「日本人」として皇国に心身ともに捧げることが当然視された時代状況下、台湾の民俗文化の記録・保存を目的とした雑誌の存在は、それだけでも当局から睨まれてもおかしくなかった。雑誌の刊行を継続することがまずは至上命題。検閲の目を逃れるためには時に国策に迎合する言辞もちりばめなければいけなかったが、いずれにせよ、日本人であるか台湾人であるかを問わず、台湾の文化や歴史に愛着を持つ人々が手探りしながら協力し合って、このささやかな雑誌は1945年1月号まで続いた。

  『民俗台湾』をひもとくと、「台湾民俗図絵」をはじめとしたイラストがひときわ目を引く。的確に対象を捉えつつ、ぬくもりがあって、時にユーモラスなこれらのカットを描いたのは、台湾生まれの日本人画家・立石鐵臣。台湾生まれの日本人のことを「湾生」という。

  立石鐵臣は1905年、台北に生まれた。父の転勤に伴って日本へ帰国。絵画には早くから興味を持ち、才能を示していた鐵臣は国画会に入選するなど若手画家としてのキャリアを着実に積んでいた。1934年、台湾へ戻る。生まれ故郷・台湾の風光を描きたかったからだ。「ちょっと台湾へ行ってきます」というさり気ない言い方が、いかにも彼のパーソナリティーを彷彿とさせる。

  立石は1934年に台湾人を中心に設立された台陽美術協会の創立メンバーになった。台北放送局に勤務していた兄・立石成孚の家に寄寓し、台北帝国大学の生物学者・素木得一の研究室で標本画を描く仕事をしながら、細密画の描法を自ら会得する。また、台北の文壇で勢力を持っていた作家・西川満に頼まれてイラストや装幀も手掛けるようになり、そうした中で後の『民俗台湾』同人たちとも知り合った。

  1945年、日本の敗戦により、台湾は中華民国に接収された。日本人は原則的に日本へ送還されることになっていたが、特殊技能を持つ日本人はしばらく留め置かれた。これを「留用」という。立石も「留用」されて台湾省編訳館に勤務する。ここでは日本統治時代に蓄積された学術的成果を整理・翻訳する作業が行われていた。編訳館には魯迅の親友だった許壽裳など日本留学経験のある開明的な中国知識人が派遣されてきており、彼らは「留用」された日本人にも誠意をもって接してくれたという。私個人としては、こうした形で日本人、台湾人、中国人が協力し合う時期が束の間なりともあったということに関心が引かれているが、1947年の二二八事件等によって時代状況は瞬く間に険悪化していく。編訳館は閉鎖され、許壽裳は暗殺されてしまった。編訳館の閉鎖後、鐵臣は「留用」された日本人の子弟が預けられていた小学校の教員をして、生徒から慕われていたらしい。1948年、最後の引揚船に乗って基隆を離れるとき、埠頭には見送りの台湾人がたくさん集まっていて、「蛍の光」が聞こえてきたという。

  日本へ帰国して以降、彼の画風は抽象的なものになっていく。例えば、眼球が宙に浮いているような「虚空」(1950年)──もともとのタイトルは「孤独」だったという。彼が見ていた心象風景はどのような経過をたどって変化したのだろうか。台湾体験は戦後の彼の軌跡にどのような影響をもたらしたのだろうか──。藤田監督は上映後のスピーチの際、初期の画風と戦後の画風との際立った違いが気にかかり、その中間に位置する台湾時代を探ってみたいと思った、という趣旨のことを語っておられた。立石は自らのことについて直接的に語ることは少なく、絵画を通して語っている。そして、残念ながら、台湾時代に描いた作品の多くは台湾に残してきて、そのまま行方不明になっている。明確な答えはなかなか見えてこないが、むしろ観客一人一人が彼の軌跡がはらんだ意味を考えて行く上で、このドキュメンタリー作品は貴重な手がかりを示してくれている。

  立石が描いた「台湾民俗図絵」のカットは、現在の台湾でも、例えば小物のデザインなど、ふとしたところで見かけることがある。利用した台湾人自身も、その来歴を知らないのかもしれない。また、戦後、日本へ戻った立石は生計を立てるため図鑑や教科書のイラストもたくさん描いており、我々も気づかないところで、実は立石の絵を見ていた可能性は高い。世に知られようと知られまいと、そんなことには頓着せず、立石はとにかく絵を描き続けていた。

  台湾人からすれば、日本統治時代の台湾史は最近まで学校で教えられることがなく、ある意味、足元のことなのに未知の世界も同然であった。また、日本人からすれば、日本統治時代の台湾は、日本と密接な関係があったにもかかわらず、現在は外国であるがゆえになかなか知る機会がなく、これもまた別の意味で未知の世界である。この「湾生画家 立石鐵臣」というドキュメンタリー作品は、日本人の藤田修平監督、台湾人の郭亮吟監督という二人によって共同制作されており、日本人と台湾人、それぞれ異なる探求の視点がうまくかみ合いながら、立石鐵臣という一人の画家を通して日台関係のある一面も見えてくる。私自身も台湾現代史の勉強を続ける上で色々な示唆を受けており、もっと多くの方に観ていただけるよう上映機会が増えることを願いたい。

  作品中には立石鐵臣のご家族や、『民俗台湾』の立役者であった池田敏雄夫人の黄鳳姿さんなどの貴重な証言が含まれている。『民俗台湾』の印刷を請け負っていた、やはり湾生の岡部茂さんや、考古学者の宋文薫さんは今年、惜しくも相次いでお亡くなりになってしまった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

  また、5月21日から東京・府中市美術館にて「麗しき故郷「台湾」に捧ぐ──立石鐡臣展」も開催される。
 

(2016年5月7日、「台灣國際紀錄片影展」、台北・光點華山電影にて)

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2016年3月23日 (水)

【映画】「我們的那時此刻」

楊力州監督によるドキュメンタリー《我們的那時此刻》(私たちのあの時・この時)について、別ブログにて(→こちら)。大阪アジアン映画祭でも「あの頃、この時」というタイトルで上映された様子(→こちら)。

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2015年8月22日 (土)

ドキュメンタリー「The MOULIN 日曜日式散歩者」

久しぶりのブログ更新。台南で少年時代を過ごした映画監督アン・リー(李安)も頻繁に通ったという全美戯院は、現在ではいわゆる二番館的な性格を持った映画館となっているのだが、時折、独立系映画の特別上映会がここで開かれる。2015年8月21日の午後、黃亞歷監督によるドキュメンタリー映画「The MOULIN 日曜日式散歩者」がここ全美戯院で上映されたので観に行った。1930年代、台湾随一の古都・台南で「風車詩社」を結成したモダニズムの詩人たちを軸に、日本統治時代における台湾における文学史的状況を描き出そうとしたドキュメンタリーである。以下はブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」へ。

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2014年12月17日 (水)

港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動──対抗運動の創造性』

  台湾を専門とする別館ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」の方で港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動──対抗運動の創造性』(インスクリプト、2014年)を取り上げました(→こちら)。著者の問題意識について私は好意的ではあります。ただし、本書では著者の問題意識ばかり先走ってしまって、必ずしも台湾の内在的事情を踏まえて書かれているわけではなく、そうした点は注意しながら読み必要があると思います。

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2014年12月14日 (日)

最近読んだ台湾の中文書3冊

  台湾で最近刊行された本を3冊、別館ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」にて紹介した。

鍾明宏《一九四六──被遺忘的台籍青年》(沐風文化出版、2014年)
  日本敗戦の1945年から中華人民共和国が成立する1949年に至るまでの激動期、海峡両岸をまたがって様々な人の動きがあった。本書で取り上げられるテーマは1946年に中国大陸へ渡った台湾人留学生。台湾海峡が分断されて帰れなくなった後、双方の政治的事情からタブーとなって、その存在が歴史の暗闇の中に消えてしまった人々も多い。著者は大陸でも調査を繰り返し、こうした悲劇的な人々の記憶を遅まきながらも掘り起こそうとした労作である。中には日本と密接な関わりがある人々もいる。詳しくはこちらを参照のこと。

蕭文《水交社記憶》(臺灣商務印書館、2014年)
  台南の市街地の南側に「水交社」と呼ばれる一角がある。日本の近代史に関心がある人なら、旧日本海軍将校の親睦組織を想起するだろうが、この地名はまさにその「水交社」に由来する。自身も「水交社」で育った著者は、ここに日本海軍航空隊が来る以前の歴史から戦後の眷村における生活光景まで史料を調べ上げ、当時を記憶する老人たちへのインタビューをまじえながら「水交社」という土地の変遷を丹念に描き出している。台湾を特徴づける歴史的重層性が、この「水交社」という限られた区域からも如実に見えてくるのが面白い。詳しくはこちらを参照のこと。

蘇起《兩岸波濤二十年紀實》(遠見天下文化、2014年)
  本書は1988年の蒋経国死去による李登輝の総統就任から2008年の馬英九の総統当選までの二十年間にわたり、時に一触即発の危険性をはらんできた中台関係を分析している。著者は政治学者で、基本的な立場は「統一」でも「独立」でもなく、「現状維持」によって中国と衝突する危険性を回避する方策を求める点にある。著者自身が国民党政権のブレーンとして両岸政策の策定に関わった経験が本書に盛り込まれているが、本書中の記述に国民党名誉主席・連戦が中国共産党側に情報を漏らしたと推測される箇所があることが台湾のマスコミで報道された。詳しくはこちらを参照のこと。

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2014年10月14日 (火)

麻豆を歩く、台湾史が見えてくる

  台南市の北郊にある街・麻豆。もともとは台南平野一帯に広がっていた台湾先住民族(平埔族)であるシラヤ族の一支族、麻豆(Mattau)社の拠点でした。17世紀にオランダ人が進出してくると奇襲攻撃を仕掛けて多数を殺害するなどの抵抗を示しましたが(麻豆社事件)、やがてオランダの反撃を受け、勢力は衰えていきます。その後は漢化も進み、シラヤ族としてのアイデンティティーは薄れたかのように考えられていましたが、その習俗は意外に根強く残っていたともいわれます。

  当時の交易港の跡が発掘されて、現在は麻豆古港公園となっています。麻豆古港公園の近くでは明治製糖株式会社の本社工場跡が総爺藝文園区として整備されていますし、麻豆老街には日本統治時代に建てられたバロック式の街並みが散見されます。また、王爺信仰の麻豆代天府には漢族系習俗の濃厚な雰囲気がうかがわれます。

  いずれにせよ、シラヤ族という先住民族、漢人、オランダ人、日本人、様々な出自の人々が織りなした重層的な歴史が、麻豆という町を歩くだけでも意外と見えてくるところが興味深く感じられます。

  私自身が麻豆を歩いた記録は以下をご参照ください。鉄道の駅からは遠いのでやや不便ですが、バスを活用すれば意外と何とかなります。台湾南部でちょっと変わったところを旅行したいと考えている方がいらっしゃいましたらご検討の価値はあると思います。

麻豆を歩く、台湾史が見えてくる(1)

麻豆を歩く、台湾史が見えてくる(2)

麻豆を歩く、台湾史が見えてくる(3)

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2014年9月17日 (水)

一青妙『わたしの台南──「ほんとうの台湾」に出会う旅』

一青妙『わたしの台南──「ほんとうの台湾」に出会う旅』(新潮社、2014年)

  台湾に来た日本人がまず訪れる都市は台北であろう。台北では再開発が進んで高層ビルが林立し、ショッピング・モールなど歩けば自分がいま台北にいるのか、東京にいるのか、ふと分からなくなるほどだ。街並みはきれいになったし、便利にもなった。だが、それに伴って台湾らしい風情を感じる機会も少なくなってきている。

  1970年代に幼少期を台北で過ごした著者もこうした変貌に少なからず戸惑いを感じているようだ。幼き日々の記憶に刻み込まれていたあの懐かしい光景はどこへ行ったのだろう? そうした思いを抱えていた時にたどり着いた街──それが台南だった。

  そもそも歴史をひもとけば、台南にいた先住民族であるシラヤ族の言葉で「タイアン」といったのが「台湾」の語源とされている。オランダ東インド会社が城塞を築き、それを奪取した鄭成功が拠点を置き、清代末期に行政の中心が台北へ移動するまで、ここ台南こそが台湾の首都であった。開発が遅れていることもあって、台南の街中では古いたたずまいがそこかしこに残っている。台湾の歴史が、それこそ地層のように積み重なっている様子を見出せるのが台南という都市の大きな特色である。台南を見に来なければ台湾の歴史は理解できないと言っても決して過言ではない。

  実はいま台湾人の間でも台南ブームが巻き起こっている。台南をテーマとした本が次々と刊行されて話題となり、多くの観光客が訪れ、台北など大都市で働いていた台南出身者のUターンも増えているらしい。せわしない都市生活に疲れた人々がある種のノスタルジーにぬくもりを求めているのかもしれないし、あるいは台湾人アイデンティティーの確立が歴史的ルーツとしての台南への関心を高めていることも考えられる。いずれにせよ、日本での本書の刊行もこうした背景を踏まえれば実にタイムリーだ。

  観光客なら見逃せない台南グルメ。台南を通して見えてくる台湾の歴史や文化。そして台南と関わりのあった日本人。様々な話題がやわらかい筆致で描き出されている。観光ガイドのようにきれいごとではなく、時に素直な感想をつづっているところが面白い。例えば、台南人のソウルフード、サバヒー(虱目魚)のこと。サバヒー粥は台南人の朝食の定番だが、実は私自身もサバヒーはちょっと苦手。観光ガイドブックならそんなこと書かずに適当にお茶を濁すところだが、味覚に合わないものは仕方がない。ただ、それはけなすということではない。むしろ、「なぜ台南人はサバヒーが好きなんだろう?」と相手の好みを理解したいと努力する姿勢に好感が持てる。

  台南の魅力を再発見するため通い続ける中で著者は様々な人々と出会っている。例えば、一見強面だが親身に世話を焼いてくれるビンロウ売りの楊さん。カラスミ職人の阿祥のこだわりも印象的だ。そうしたエピソードの一つ一つが織り込まれることで、あたかも台南を舞台とした人情こまやかな物語が紡ぎだされているかのようだ。

※「ふぉるもさん・ぷろむなあど」より転載。

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2014年6月 2日 (月)

野嶋剛『ラスト・バタリオン──蒋介石と日本軍人たち』

野嶋剛『ラスト・バタリオン──蒋介石と日本軍人たち』(講談社、2014年)

  中国や台湾は言うに及ばず、日本にとっても深い因縁を持つ歴史上のキーパーソン・蒋介石。東アジアの激動をある意味一身で体現しているかのように、彼の評価もまた変転著しい。権威主義体制時代の台湾では文字通り神格化されていたが、民進党の陳水扁政権が誕生すると、脱蒋介石化が急速に進められた。他方、それまで彼を「人民の敵」としてきた大陸の方ではむしろ蒋介石研究が一つのブームになるという逆転現象も起きている。彼をどのように評価するかはともかく、まだまだ論じ尽されていないテーマであることは確かだ。

  蒋介石は常に自己修錬を課すストイックな性格だったのか、あるいは粘着質的とでも言うべきか、激務の合間を縫って毎日欠かさず日記をつけていた。彼の判断が歴史の局面を大きく動かしたことすらあった点を考えると非常に興味深い史料である。民進党政権の誕生によって破棄されることを恐れた遺族の一人が蒋介石日記をスタンフォード大学フーバー研究所に預けており、それが2006年から公開され始めたことは、東アジアの現代史を考え直す上で大きな刺激となった。

  蒋介石日記を閲覧した著者は、1948年の後半から「白団」に関わる記述が繰り返し見られることに注目した。蒋介石の対日観を検討する上で「白団」は重要な切り口となるのではないか──そう確信した著者は7年越しの取材の成果を本書にまとめ上げている。

  国共内戦に敗れて台湾へ撤退した国民政府軍は惨憺たる状態にあった。共産党がいつ台湾海峡を渡って押し寄せてくるか分からないし、アメリカも彼らを見捨てようとしている。そうした危機感の中、蒋介石は軍の再建を図るが、彼が痛感していたのは軍事教育の欠如である。日本留学経験のある蒋介石はもともと日本軍の能力を高く評価しており、軍事教育の部分で日本軍人の助けを借りようとした。

  かつて支那派遣軍総司令官として戦った当の相手である岡村寧次を通じて日本軍人のリクルーティングが進められ、彼らは「反共」の大義名分の下、秘密裡に台湾へと渡った。1949年から68年にかけての約20年間、最大で76名の日本軍人が教官を務めた。現地でトップとなった富田直亮(陸軍少将)の中国名・白鴻亮にちなんで「白団」と呼ばれる。かつての敵軍に教えを乞うという皮肉に国民政府内でも反対意見があったが、蒋介石はそうした不満を抑え込み、自らも積極的に授業へ出席した。蒋介石日記には麾下の将軍たちについての言及はほとんど見られないが、富田をはじめ「白団」将官との面会については頻繁に書き留められており、それだけ深い信頼を寄せていたことが分かる。

  蒋介石は1952年からアメリカの軍事顧問団も受け入れていたが、それは技術的な部分にとどめられていた。「白団」に対するアメリカ側のクレームをはねつけ、軍幹部の精神教育の部分については「白団」に委ねていたあたり、蒋介石の独特な思い入れが窺える。「敵」でありつつも、「日中連携」を図る──こうした逆説から、彼の心中における「愛憎」半ばした葛藤がしばしば指摘される。これに対して著者は、蒋介石の対日観について「受容と克服」、つまり中華民族復興という目的に向けて近代化の成果を日本から吸収する、そうした彼の割り切った態度を指摘している。

  国民政府軍の上層幹部には「白団」の指導を受けた者が多数いるはずだが、彼らはそのことを語りたがらない。軍幹部は主に国民党と共に来台した外省人によって占められていた。彼らにとって日本は旧敵であるが、国民党に反感を抱く台湾人はそうした日本にむしろ好意を寄せる。このような日中台の複雑な三角関係は時に悲劇を生んだ。台湾人として生まれ、国民政府軍に入隊して「白団」の指導を受け、その縁で日本の自衛隊へ留学した楊鴻儒は、1971年にスパイ容疑で逮捕されて緑島へ送られ、不遇な一生を送ることになってしまう。知日派への見せしめであったと考えられる。

  戦後の日本社会に居場所を失ってしまった旧軍人にとって、「白団」として台湾へ赴任することは、自らの能力を生かしてやりがいやプライドを満たせる恰好な舞台であった。他方で、彼らとて人間である。「反共」のための「日中連携」、蒋介石の「以徳報怨」へのご恩返しといった建前だけで生きていたわけではない。「白団」の一員であった戸梶金次郎の日記からは「白団」の面々の「人間くさい」部分が垣間見える。東アジア近代の複雑な諸局面を「白団」に注目する観点から整理して語りつつ、同時にその中で生きざるを得なかった等身大の人間群像もできるだけ描き出しているところは読みごたえがある。

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2014年4月13日 (日)

張国立『張大千と張学良の晩餐会』

張國立《張大千與張學良的晩宴》(印刻文學生活雜誌出版、2014年3月)

 1994年、台北。すでにハワイへ移住した張学良(1901~2001)の収蔵品がオークションにかけられているシーンからこの小説は始まる。様々な思惑から注目が集まる中、とりわけ目立ったのが世界的に著名な画家・張大千(1898~1983)の書。1981年の旧暦正月16日、張大千が張学良や張群(1989~1990)を招いて晩餐会を行なったとき、自らメニューを認めたものだという。このオークション会場に来ていた主人公・梁如雪は何か探し物がありげな様子。偶然、旧知の人物と出会ったのをきっかけに、かつて張学良と共に過ごした日々を思い出し始める。

 外省人の軍人だった父、台湾人の母との間に生まれた一人娘だった彼女は、大学の法学部を卒業後、情報機関に入る。父の影響が大きいが、ただし仕事一筋で家庭を省みなかった父との関係はむしろ疎遠であった。訓練終了後、最初に配属されたのは台北近郊の温泉地・北投。そこには自宅軟禁中の張学良がいる。張学良の世話係として彼の動静を監視するのが彼女に課せられた任務であった。1981年のことである。

 情報機関の上官たちは張学良の一挙手一投足に神経をとがらせている。国民党統治下の台湾では、たとえ抗日統一戦線の呼びかけが大義名分だったとしても西安事変で蒋介石に矛を向けた張学良に対する評価は極めて厳しい。張学良や張大千(四川省出身)といった著名人が共産党の呼びかけに応じて大陸へ帰ってしまったら、国民党の対外的権威にとってマイナスである。ところが、総統に就任したばかりの蒋経国は張学良と仲が良く、彼に対する態度が甘い。「小蒋」には危機感が乏しい、と情報機関幹部は歯ぎしりするばかり。

 娘が張学良の世話係になったことを知った父親は嬉しそうな表情。そんな父に彼女は反感を覚える。張学良は「叛国叛党の徒」ではないか。ところが、父の見解は違う。彼は国家や人民の行く末を心から憂えていたはずだ、と言う。父はかつて孫立人の指揮する部隊で戦った経験を持つ。蒋介石によって排除された孫立人への同情が張学良にも投影されているのではないか、と彼女は考えた。

 ところが、梁如雪も生身の張学良を知るにつれて、今まで教えられてきた「歴史」に違和感を抱き始める。何よりも戦争に翻弄された父にとって「歴史」は切実な問題であった。家に引きこもっていた父は真実を知りたいという思いから、やおら図書館通いを始め、張学良について調べ始める。知り得たことはまず娘に知らせたい。疎遠だった父と娘だが、共に語らう時間がいつしか増えてきた。世代によって異なる歴史認識が、「真実」を知りたいという気持ちを共有することで、その距離を縮めていく。そうした関係性がこの親子関係に表現されていると言える。

 1931年の満洲事変に際して、張学良は放蕩生活に身を持ち崩していたから日本軍に敗れたのか。それとも、蒋介石から不抵抗主義の訓令を受けていたから敢えて撤退したのか。梁如雪は上官から「老総統(蒋介石)が張学良に宛てた古い電文が隠されているはずだ。それを見つけて来い」と命じられた。蒋介石が日本軍へ抵抗しないよう訓令した事実を隠蔽しようという意図である。同じ頃、父からは「日本軍が来たとき、本当は遊んでなんかいなかったのではないか。そのことを張学良に確かめて欲しい」と頼まれていた。真実は如何に…?

 ところで、この小説では張大千が料理の支度を進めるシーンが所々で挿入されている。1981年の旧暦正月16日、かつて蒋介石側近だった張群の車が突然、張学良邸を訪れた。警備にあたる情報機関員が制止しようにも、張群の政治的権威に逆らうことはできない。張群は張学良夫妻を連れ出し、そのまま張大千邸で開催される晩餐会へと向かった。

 1980年代後半、台湾が民主化へと向かうのとほぼ同じ頃、張学良への事実上の軟禁状態も解かれるようになった。作者が1993年に張学良にインタビューした記録が本書の巻末に収録されている。そこで張学良はこう語っている。「蒋介石は生涯を通して王陽明を崇拝しており、『我看、花在;我不看花、花不在』という王陽明の言葉を信じていた。でも、私はそういうのとは違ってこう思うんだよ。『我看、花在;我不看花、花還在』とね。」

 蒋介石が王陽明から引用していた言葉は、ある意味、為せば成るという主観的な精神主義を表している。それは一面において積極的な行動力として具現化され、歴史を動かす起爆剤となった。他方で、「我不看花、花不在」という部分は、政治権力を正統化するイデオロギーによって歴史はいくらでも歪曲されかねないことを暗示していたとも言えるだろう。

 これに対して、張学良の態度はどうであったか。私が見ていようといまいと、花がそこにある事実に変わりはない。それは、権力の都合によって歴史解釈が左右されようとも、自分の知っている歴史的事実は変えようがないという意味を帯びる。さらに、周囲の思惑が喧しくても、そんなことには頓着せず、自分は自分に与えられた宿命の中で生きていくしかない。そうした人生態度も引き出せる。この小説での張学良はそうした悠然たる態度を持した人物として描かれている。さらに、張大千が淡々と料理の支度を進める描写が折に触れて挿入されることで、そうした二人のマイペースな姿が、監視する情報機関の慌てぶりを際立たせ、面白い味わいを醸し出している。

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2014年3月10日 (月)

【映画】「KANO」

【映画】「KANO」

 3月8日に台南の威秀影院で馬志翔監督「KANO」を観た。脚本を書いた魏徳聖は本作ではプロデューサーにまわっている。以下、内容に関わる記述もあるので、気になる方は注意されたい。日本でも今年中には上映されるらしい。

 今まで一勝すらしたことのない、だらけきった野球チーム。周囲からは白い目で見られてばかり。そこへ突然現れた謎の鬼監督。無駄口など一切たたかず、一方的に命令ばかりする高圧的な態度に、部員たちは戸惑う。しかし、「一緒に甲子園へ行くんだ!」という監督の気迫は徐々に彼らの心中にも浸透、チームは瞬く間に生まれ変わり、快進撃を始める──。

 ある意味、スポ根ドラマの王道である。そういう映画として観ても十分に面白いし、そもそも野球に興味のない私でもいつしか感情移入しながら興奮していた。三時間近くの長丁場だが、テンポが良いので飽きさせない。それ以上に私の場合には、当時の時代背景をストーリー的にも映像的にもしっかり描き込もうとしているところに関心を持ちながら観た。

 KANOとは、台湾中部にあった嘉義農林学校の野球部のユニフォームに見える略称である。謎の鬼監督は近藤兵太郎(永瀬正敏)。本職は会計士だが、かつて母校の松山商業学校で野球チームの監督をしていたことがある。しかし、失意のうちに台湾へ来ていた彼にとって、嘉義農林を甲子園へ出場させることは雪冤の悲願であった。

 台湾ローカルの大会ですら勝てなかったこのチームが、甲子園初出場にしてみごと準優勝までしたという実話に基づく。1931年のことであった。魏徳聖が監督した前作「セデック・バレ」のテーマである霧社事件は1930年の出来事であり、実は時期的にそれほど隔たっていない。

 当時は台湾の大会でも出場チームのほとんどが日本人で占められていた中、嘉義農林は日本人、漢人、「高砂族」と呼ばれた原住民族(アミ族とプユマ族の選手がいた)の混成チームという点が特徴である。こうした多民族混成チームが甲子園に出場したこと自体が極めて異例であった。

 その一方で、民族が異なるとコミュニケーションがうまくいかず、チームワークに支障を来すのではないか?という疑問もしばしば向けられた。それどころか、「高砂族なんて野蛮人に野球ができるんですか?」と差別意識むき出しの質問を平気で投げかける記者までいた。憤った近藤監督は「野球に民族の違いなんて関係ないでしょう! この子たちの活躍を、あなた自身の目で確かめてください!」と怒鳴りつける。

 「高砂族の選手は足が速い。漢人の選手は打撃が強い。日本人の選手は守備に長けている。それぞれの長所を組み合わせればすごいチームになる」というのが近藤監督の考え方であった。民族的多元性をプラスのものと捉える発想は、この映画が製作された現代の台湾だからこそ強調されるポイントであろう。

 当時の甲子園の出場校には台湾代表・嘉義農林のほか、満洲代表・大連商業、朝鮮代表・京城商業といった名前も見られ、「帝国」の広がりが印象付けられる。この映画で、決勝戦よりも、準決勝で対決した北海道代表・札幌高商のエース投手とのやり取りの方をクローズアップさせているのは、「帝国」における「辺境」(=台湾や北海道)から「中央」(=甲子園)へのし上がりたいという上昇意識のあり方を際立たせている。

 映画の中では時折、台湾のシンボルとなるモチーフが示される。例えば、マウンド上に現れた蝶。生態系の豊かな台湾はとりわけ蝶の種類が多いことで知られている。また、嘉義農林の前監督で農業技師の濱田先生がパパイヤにまつわるたとえ話で選手を激励するシーンがある。パパイヤも台湾の風土ならではの果物であるが、作家の龍瑛宗が『改造』懸賞小説に入選して台湾人として初めて「中央」文壇にデビューした作品が「パパイヤのある街」(1937年)であったことも連想される。

 映画の背景には「近代化」の過程を示すエピソードが散りばめられている。足の速いチームメイトが走って仲間たちを追い越すときに「汽車が来たぞ!」と叫ぶのは、台湾縦貫鉄道開通の印象がまだ生々しかったからであろう。濱田先生がバナナやパパイヤの品種改良に努力しているのは農業近代化を示しており、磯永吉たちが開発した蓬莱米も同時期のものである。そして、農業生産力の増大を可能にしたのが、八田與一(大沢たかお)の建設指導で完成した嘉南大圳であった。ただし、映画の中では嘉義農林の甲子園出場と嘉南大圳の完成とが同時期であるかのように描かれているが、これはあくまでも演出上の話である。

 ところで、八田與一の登場は、映画のストーリー構成上、必ずしも必然性のあるものとは言えない。それにもかかわらず、なぜ八田が出てきたのか。

 近藤兵太郎の寡黙で厳しい鬼監督ぶり、八田與一の柔和な表情──パーソナリティーとしては極めて対照的に描かれている。しかしながら、甲子園出場にせよ、嘉南大圳にせよ、実現は到底無理としか思われなかった難事業に本気で取り組み、それこそ最初は「変な人だなあ」という程度にしか思われていなかったものの、真摯な姿がやがて現地台湾の人々からの共感を集めるようになったという点では共通している。

 いわゆる「植民地近代化論」の是非についてここで論ずるつもりはない。ただ、台湾の人々が支持したのは、日本の国策としての近代化というよりは、むしろ現地でじかに接した一人ひとりの個人としての日本人に対する信頼感であり、そしてそれに応じるだけの底力を台湾の人々が持っていたからこそ成し遂げられた事業であった。その意味では、日本人からの一方的な指導ではなく、双方の協同的インタラクションによるものであった点は確認しておく必要があるだろう。近藤監督の期待に応えて成果を出した嘉義農林の活躍がまさにそうであった。

 嘉義農林のエース投手・呉明捷(映画中では「アキラ」と日本風に呼ばれている)の失恋は何を示しているか。書店員をしている憧れの女性を自転車の後ろに乗せていたとき、彼女が荷台に立って両手を広げるところは「タイタニック」の有名なシーンを思わせる。「タイタニック」の二人は身分の異なる悲恋に終わったが、呉明捷にしても同様である。憧れの女性は裕福な医師のもとへ嫁いでいった。当時の台湾において医師の社会的・経済的ステータスは極めて高く、優秀な子弟がいたら必ず医学部へ進学させようとしたと言われる。貧困にあえぐ農民の息子では到底かなわない。

 民族差別の壁。「辺境」から「中央」への壁。そして、恋愛感情も阻まれてしまう社会経済的な壁──どんな壁があろうとも挫けずに、自ら進む道を切り開こうと鼓舞してくれたのが、近藤監督から叩き込まれた「一球入魂」の精神であったと言えるだろうか。

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