カテゴリー「台湾」の109件の記事

2009年12月21日 (月)

斎藤充功『日台の架け橋・百年ダムを造った男』、平野久美子『水の奇跡を呼んだ男──日本初の環境型ダムを台湾につくった鳥居信平』、胎中千鶴『植民地台湾を語るということ──八田與一の「物語」を読み解く』

 日台関係に関心を持つ人以外では八田與一という名前にはあまりピンとこないかもしれない。土木技師として、1930年、当時では東洋一の規模を誇る烏山頭ダムを完成させ、嘉南大圳という灌漑水路網を整備した。彼の業績は台湾ではよく知られており、例えば私の手もとにある呉密察監修『台湾史小事典』(遠流出版、2000年)、李筱峰・荘天賜編『快讀台湾歴史人物Ⅰ』(玉山社、2004年)、公共電視台『台湾百年人物誌1』(玉山社、2005年)を見ると八田に一項目立てられている。最近、八田與一紀念館が開館し、オープンセレモニーには馬英九総統も日台関係に配慮して出席したらしい。

 斎藤充功『日台の架け橋・百年ダムを造った男』(時事通信社、2009年、旧版は1997年)は八田與一のダム造りに執念を燃やした生涯をたどる。ダム造りは水利技術や農業技術など様々な民生技術と一体のプロジェクトであって、関連分野で活躍した技術者(たとえば、蓬莱米を開発した磯永吉、末永仁など)にも時折言及される。台湾というコンテクストをはずしても、技術開発に専念した一徹な仕事人として、例えばNHK「プロジェクトX」が好きな向きには興味深い人物だろう。1942年、南方産業開発派遣隊としてフィリピンへ渡るとき、乗船していた船が撃沈されて落命、敗戦後、彼の完成させた烏山頭ダムで夫人が入水自殺したという悲劇性も地元の人々の気持ちを引いたのかもしれない。

 平野久美子『水の奇跡を呼んだ男──日本初の環境型ダムを台湾につくった鳥居信平』(産経新聞出版、2009年)。八田與一の仕事は政府主導の大規模公共事業であったが、対して本書が取り上げる鳥居信平(のぶへい)は民間企業の技師であったため永らくその名は埋もれたままだった。サトウキビ増産のため台湾糖業に招かれた土木技師。彼の整備した二峰圳は地下ダムによって伏流水を利用した灌漑用水であり、自然の生態や原住民の生活と折り合いをつけながら水の力を最大限に引き出そうという工夫がこらされていた。生態系バランスを考えた環境型ダムとして先進的であったと評価される。本書のように日台関係の埋もれた人物を掘り起こしていく作業も大切である。

 八田にせよ、鳥居にせよ、彼ら個人としてのひたむきな技術者魂は政治とは無縁であるが、それが日台双方のある種の政治性の中では微妙な意味合いを帯びてくる。胎中千鶴『植民地台湾を語るということ──八田與一の「物語」を読み解く』(風響社、2007年)は日本、台湾、それぞれで八田を受け止める歴史的記憶のコンテクストが異なるのではないかと指摘する。日本の植民地支配にはプラス、マイナス両面があり、従来はマイナス面ばかり強調されてきたのは確かであるが、その反発から「良い日本人もいた」→植民地支配全面肯定と飛躍してしまう人を時折見かける。極論に行かないように解毒剤として本書も併せて読んだ方がいいだろう。

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2009年11月17日 (火)

蒋介石関連で5冊

 野村浩一『蒋介石と毛沢東──世界戦争のなかの革命』(岩波書店、1997年)は、地域割拠や国共対立といった国内の分裂、日本からの軍事的圧迫などの危機に直面した1920~40年代の政治状況について蒋介石・毛沢東の二人(前者に重きが置かれている)を主軸に描く。最終的に国民党が共産党に敗れたのはなぜなのかというテーマは中国現代史の大きな論争点の一つである。蒋介石の南京国民政府は、三民主義に基づいて中国の近代化を目指しつつも、統治体制の再編にあたって旧来的な政治文化をひきずっていたため、抗日戦争の中でそのほころびが表面化した。対して共産党は農民世界における郷村秩序の再編成を通して支持を集めたとされる。

 家近亮子『蒋介石と南京国民政府』(慶應義塾大学出版会、2002年)は、従来主流であった共産党中心の歴史解釈の中で国民党の位置付けが閑却されてきたという問題意識をもとに南京国民政府(台湾移転まで)をめぐる政治過程を分析する。地域割拠や国民党内の路線対立などで蒋介石の権力基盤は必ずしも強固ではなかったが、近代国家建設を担う政権としての正当性を内外に示すことを目指していた。国民党敗退の原因として、党の権力組織が国の末端まで行き渡っていなかった点を挙げる。孫文が示した軍政→訓政→憲政という政治プログラムは抽象的で、現実の政治状況は想定されていない。後継者が三民主義の解釈件を確立できなかったため情勢の変転に対応できなかった。各地の指導者が独自に三民主義を解釈して中央の方針と矛盾を来すことも生じた。上掲野村書では蒋介石政権の特徴として恩顧主義が挙げられていた。本書ではその恩顧主義が蒋介石への忠誠を強いるだけの片務的なものであり、国民党は中国国内の社会的資源を独占できず、従ってその配分ができなかったことが弱点になったとされる。他方で、南京国民政府期において国家建設に必要な基礎用件(とりわけ、人的資源の動員や対外的地位の確立)はすでに用意されており、中華人民共和国はこれらを引き継いだという意味で政治的継続性があると指摘される。

 パターナリスティックな訓政から国民主権の憲政へと移行するには、それにふさわしい近代的な国民を創出しなければならない。蒋介石は1934~49年まで新生活運動を発動した。段瑞聡『蒋介石と新生活運動』(慶應義塾大学出版会、2006年)はこの新生活運動に着目して蒋介石の政治理念や政治構造を分析する。思想的には、①儒教(→中国の伝統重視)、②ファシズム(→大衆動員)、③キリスト教(→欧米へのアピール)、④日本留学体験を通して武士道への関心(清潔と規律を重視。日本の武士道はそもそも中国の陽明学に起源があると認識→三民主義の儒教的解釈に影響)といった特徴が指摘される。新生活運動を大衆レベルで展開することで蒋介石のリーダーシップによる国家建設と現代的戦争形態に対応できる国家総動員を目指していたが、必ずしも成功したわけではなかった。蒋介石自身の直接的号令で行なわれたことは一見すると独裁者的だが、これを裏返すと、国民党組織を通じた指令が国の末端まで浸透していなかった、その意味で彼の権力基盤が国レベルでも党レベルでも弱かったことが浮き彫りにされる。

 大陸ではリーダーシップを確立できなかった蒋介石だが、国共内戦に敗北後、皮肉なことに撤退先の台湾で強固な独裁体制を確立する。松田康博『台湾における一党独裁体制の成立』(慶應義塾大学出版会、2006年)は、豊富な史料を活用しながら複雑に錯綜する政治力学を丹念に解きほぐし、国民党の権力機構が台湾で確立されていく過程を詳細に描き出している。国民党の中央集権化を阻んでいた最大の要因は軍事力を持って割拠する地方派閥の存在だったが、これらの軍隊は台湾に逃げ込んだ時点で縮小・解体され、地方派閥は完全に消滅した。“法統”にも危うい問題があったが、蒋介石はわずかなスキをついてギリギリの神経戦を勝ち残った。党の改造があらかた終わると、その大鉈を振るっていたC・C派の陳兄弟を実質的にパージ、蒋介石による“領袖独裁”が確立される。それは、中華民国総統と国民党総裁という二つの職務を兼任することで、総統として国軍と特務機関(中共との対立→スパイの不安→蒋経国が指揮する特務機関の活動→党や軍も見張る)を掌握、総裁として党を通じて中央・地方の行政にも指導を貫徹させる体制であった。他方で、①自律的・技術的に政策立案を追求するテクノクラートの存在、②アメリカの目を気にして“憲政”の建前、③“法統”維持という建前から立法院を存続(大陸で選挙できないから改選なし→不逮捕特権があるため蒋介石も手出しできなかった。民意の反映という点でたとえ不完全な方法であっても、いったん選出されたら体制内部でダイナミズムを引き起こす潜在力を秘める。かつては強硬派であったC・C派が、党中央との対立を契機に民主化を求める体制内野党に転じたという政治力学が興味深い)、④外省人支配の体制ではあったが地方議会選挙では台湾の地域派閥と妥協、以上のように国民党独裁体制ではあっても後の民主化につながる初発条件を内在していたとも指摘される。

 日本との関わりも含めて蒋介石の生涯をたどるには、保阪正康『蒋介石』(文春新書、1999年)が読みやすいだろう。

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2009年11月 2日 (月)

なぜポスコロに関心を持ったかというと

 なぜポストコロニアリズムに関心を持ったかというと、きっかけは『民俗台湾』について調べ始めたこと。戦後になって“大東亜共栄圏”イデオロギーや優生学などを批判するという観点から『民俗台湾』も取り上げられた(→詳細はこちらを参照のこと)。

 しかしながら、戦時下という時代風潮の中で雑誌を継続して出し続けるためには当局に迎合する発言もしなければならないし、むしろ『民俗台湾』の同人は皇民化政策には反対していた。ところが、戦後の研究者は誌面に現れた文字面だけを読む。当局の検閲を意識せざるを得なかった表現をとらえて、いわば揚げ足取りをするような形で、『民俗台湾』も植民地批判という議論の中に組み込まれていった。

 誤解しないで欲しいのだが、“植民地批判”そのものに異議を唱えているわけではない。私が言いたいのはそういうことではなくて、“植民地批判”の議論の枠組みそのものが、戦前とは異なる形ではあるが、戦後という一時代においてもまた学知的に制度化されている。その構造的に生硬な視点で過去を振り返ると、必然的に断罪の口調を帯びる。見方を変えれば、戦後の思考枠組みで戦中の思考枠組みを批判する形式になっており、そうした議論を進めるコマとして『民俗台湾』は利用されているに過ぎない。通史的な議論としてはそれなりに意義のあることだとは思うが、抽象化された図式対図式の議論の中では具体的に生きた人間像は欠落しており、『民俗台湾』同人の抱えざるを得なかった葛藤は無視されてしまう。コマとして使われただけの当事者としてはたまったものではない。

 日本の植民地支配下に置かれ皇民化政策が推進された台湾のマージナルな位置は、政治的にだけではなく意識形態においてもアイデンティティ抹消の危機に直面した点でポストコロニアルの議論に適合的であろう。学知的あり方の非対称性が抑圧的な権力を帯びてしまう問題を検討するポストコロニアリズムの視点からは、日本人学者=知的権力者、植民地民衆=被抑圧者、という図式が導き出され、とりわけ民族学・民俗学などは標的にされやすい。

 ところで、『民俗台湾』編集同人は、日本人でありつつも、抑圧の対象であった台湾文化を理解したいと思っていた。支配‐被支配という関係において日本人と台湾人との間に大きな壁が立ちはだかっていたのは確かである。ただ、彼らの主観的な善意も社会的構造に絡め取られてしまっては無力であった、所詮は自己満足に過ぎない、そう言ってしまうのは簡単だが、このような矛盾に直面していることを自覚していた点では、彼らもまた同様にマージナルな存在だったとも言える。たとえば『民俗台湾』同人だけでなく、朝鮮半島にとっての柳宗悦や浅川伯教・巧兄弟なども含め、日本人でありながらも被支配者側の文化に共感を寄せた人々の位置付けはどう考えればいいのか。抑圧‐被抑圧という二元論的構図では奥行きをもって考えることはできない。

 三尾裕子「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号、2006年3月)は植民地主義と人類学の関係という問題意識を踏まえて『民俗台湾』をめぐる従来の議論をレビュー、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と問いかけ、「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」と指摘していた。こうした観点に私も共感している。

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2009年10月27日 (火)

レオ・T・S・チン『“日本人”化:植民地期台湾とアイデンティティ形成の政治』

Leo T. S. Ching, Becoming “Japanese”: Colonial Taiwan and the Politics of Identity Formation, University of California Press, 2001

・日本の帝国主義が西欧のそれとは異なる特徴:①資本なき帝国主義。つまり、資本主義の発展段階として捉えるマルクス主義理論はあてはまらず、むしろ西欧との競争に動機付けられた側面が強い。②同じ“アジア”としての近さ。ただし、西欧との相違をあまり強調しすぎると、帝国主義としての支配形態における共通の部分が見過ごされてしまう。

・脱植民地化過程における日本人の不在:日本は敗戦によって領土を喪失したため、英・仏のように植民地独立→脱植民地化の過程を自分たちの問題として考える機会がなかった。

・植民地期台湾における民族意識:中国(大陸における民族主義の動向)、日本(植民地当局の態度)、政治思潮(リベラリズム、マルクス主義等)、運動者自身の階級的意識(郷紳層か、労働者か、総督府に妥協的か抵抗的か)などといった所与の様々な構造・要因の組み合わせによって関係依存的→条件に応じて可変的な性格を持つ→本質主義に還元し得るものではない(中国民族主義も、台湾民族主義も、それぞれ態度は異なって見えるが、民族意識を本質主義的に捉える傾向が強く、両者を批判する視点)。

・蒋渭水の発言を引用→中国人意識を持つと同時に、それは日本の植民地社会における台湾という特殊性をも意味していることを指摘→こうした意識のあり方は、自民族・他民族の二元論では捉えられない。

・“同化”と“皇民化”との相違を本書は強調:建前では内地延長主義という名目で同じ日本国民であることを標榜しつつも、実際には台湾人は差別待遇を受けており、“同化”は、差別を残したまま“日本人”になることを強要するという矛盾を覆い隠すイデオロギーとして作用した。この段階では、台湾人を“日本人”にすることは植民地当局の政策上の責任であり、そうした施策に直面して台湾人の心中には葛藤。いいかれば、複数のアイデンティティを引きずり、それらが両立していることから葛藤があった。対して、“皇民化”は、こうした複数のアイデンティティの葛藤そのものを打ち消し、“日本人”意識への単一化。この内面化は、被植民者自身によって行なわれた。身体的儀礼を通した規律も指摘される。何よりも、戦争が激化するにつれて、「日本人として生きる」のではなく「日本人として死ぬ」ことが強調された。“日本人”になることで現実の差別は克服されるという意識(とりわけ、植民地ヒエラルキーにおいて最下層に位置付けられた原住民系にこうした思いが強かった)。植民地下において、日本人か台湾人か→“皇民”、こうした形でアイデンティティ形成におけるアンビヴァレンスそのものを打ち消し、単一化を図られたところに、“皇民化”イデオロギーの植民地的抑圧を指摘。

・霧社事件をきっかけに原住民の問題が注目を浴びる→彼らに同情的な見解にも“野蛮”‐“文明”の二元的言説が表われていることを指摘。
・「呉鳳の物語」と「サヨンの鐘」:「呉鳳の物語」は、原住民=“野蛮”→日本人と漢族系を読み手として想定。対して、「サヨンの鐘」では原住民少女の犠牲的精神→漢族か原住民かは問わず、等しく太平洋戦争へ動員されていく時代背景。

・最終章では、主体の内面における葛藤というだけでなく外的・時系列的な影響で左右される様をうかがうため、呉濁流『アジアの孤児』を取り上げ、台湾・日本・中国大陸と空間的に渡り歩くところから、民族主義・植民地主義の境界を越えていく生身の動きを読み取ろうとする。

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2009年10月24日 (土)

“満州国”初代外交部総長・謝介石について

 戦前・戦中期、日本語・中国語の両方を解するということから大陸における日本占領地域に渡った台湾人が相当数いた。当時は“日中の架け橋”ともてはやされたが、その背後に日本の大陸侵略の意図があったことを思えば空々しい哀しさも感じてしまう。①就職・留学のため、②台湾在留経験のある日本人の引き立て、③すでに大陸に渡って成功した台湾人のツテ、といった事情が考えられるが、そうした中でも、旧満州国初代外交部総長(外務大臣)を務めた謝介石(1879~1954年)の存在が大きい。彼の引きで満州にやって来た台湾人は少なくない。

 以下の記述は、許雪姫〈是勤王還是叛國──「満洲國」外交部総長謝介石的一生及其認同〉(《中央研究院近代史研究所集刊》期57、2007年)を参照した。大陸に渡った台湾人のうち、重慶に行って抗日戦争に参加した後に台湾へ戻ってきた人々(いわゆる“半山”)については従来から評価されてきたものの、対して“漢奸”とされた人々についての研究は少ないという。しかしながら、重慶に行ったか、行かなかったかという相違自体に、台湾人アイデンティティの揺らぎが具体的に表われていると言えるのではないか。それは一律に定式化できるものではなく、それぞれの人が負った背景によってまた異なってくる。そうした一例として謝介石が検討される。清朝期の台湾に生れ、1895年の下関条約で日本統治下に入ってからは(すなわち、日本国籍を持つ)日本語を学んで東京に留学、その後、大陸に渡って中華民国国籍を取得するが、溥儀に仕えたことから旧満州国高官になった。彼の心中にどのような思惑が渦巻いていたのかは分からないが、こうした転変激しい人生行路そのものに私などは一つのドラマとして興味が引かれる。

 なお、旧満州国にいた台湾人のオーラルヒストリーとして許雪姫・他《日治時期在「滿洲」的台灣人》(中央研究院近代史研究所、2002年)という本もあり、先日、台北に行った折に入手しておいた。この本は龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年→こちらで取り上げた)でも引用されている。

 謝介石は1879年、台湾・新竹の生まれ。当初は伝統的教育を受けていたが、日本人の設立した国語伝習所及び公学校で学び、通訳として働き始める。日本人官吏の推薦を受けて1904年に東京へ留学。東洋協会専門学校(後の拓殖大学)で台湾語を教えながら、明治大学法科を卒業。明治大学の同窓にいた張勲の息子と親しくなり、この縁で中国大陸に渡って張勲の法律顧問となった。清朝滅亡後は吉林法政学堂教習兼吉林都督府政治顧問となり(この時は謝愷と名乗った)、吉林にいた日本人と共に中日国民協会を立ち上げている。

 1914年に在天津日本総領事館に申請して日本国籍を放棄、翌年に中華民国国籍を取得。袁世凱政権で要職に就いた張勲に従って出世。1917年7月、張勲・康有為らが溥儀を擁して画策した復辟運動に関わり、外交部官員となる。復辟失敗後は上海・天津の辺りで活動。1925年以降、鄭孝胥・羅振玉らと連絡を取り合う。帝政復活を諦めきれない溥儀は日本軍を後ろ盾にすることを考えており、鄭孝胥(大阪総領事の経験あり)やとりわけ日本語が流暢で外交活動の経験がある謝介石を重用した(彼は1927年に溥儀の謁見を受けた)。

 1931年の満州事変に際しては吉林にいた熙洽(愛新覚羅家の一族で日本留学経験のある軍人)の配下として政治工作を行ない、翌1932年に“満州国”が建国されると外交部総長(外務大臣)に任命された(ただし、実権は外交部次長の大橋忠一が握っていた)。在任中にはリットン調査団、日満議定書、溥儀の訪日といった出来事があった。1935年、日本との外交関係が公使級だったところを大使級に格上げされた際に、謝介石は外交部総長を辞任して初代駐日大使に就任する。

 同年、「台湾始政四十年記念博覧会」参観という名目で台湾へ帰る。故郷・新竹の名望家の娘と長男との結婚も理由の一つだったらしい。いわば「故郷に錦を飾る」という感じか。日本人優位の植民地体制の中で台湾人は逼塞した思いを抱え込んでいた中、謝介石が満州国皇帝の名代として日本人の台湾総督から恭しく迎えられるのを目の当たりにして、「俺も海外へ行って一旗揚げよう!」と意気込んだ青年もいた。そうした台湾人を謝介石も引き立てた。溥儀のかかりつけ医となった黄子正は謝の紹介によるし(戦後、戦犯となった溥儀の在監中も黄はずっと行動を共にした)、外交部に就職した台湾人も少なからずいたらしい。台湾人か日本人かを問わず、台湾関係者が満州国でツテを求める際には謝介石に頼った。(※他方で、「台湾で地方自治制度は時期尚早だ」と謝は発言したため、林献堂などは反発している。)

 日本国籍を持つ台湾人は、日本と中国との不平等条約のため中国大陸では特権を持っていたので大陸では嫌われ、日中戦争が始まると、反日感情の矛先はまず台湾人に向けられたらしい。そのため、自分は福建人もしくは広東人だと名乗って台湾人であることを隠さねばならないこともあったという。対して、満州国ではそうした心配は無用だったという事情も指摘される。日本国籍を持ってはいても日本人ではなく漢人であるという意識がありながら、大陸の漢人からは違う色眼鏡で見られてしまったところに、当時の台湾人のアイデンティティの難しいあり方がうかがえる。

 謝介石は1937年に公的活動から引退。一時、東京で暮らしたが、満州房産株式会社という国策会社の理事長として再び満州国に戻る。さらに北京で暮らしていたところ、1945年、日本の敗戦を迎えた。彼は漢奸として逮捕され刑務所に入れられたが、1948年に共産党が北京に入城する前に釈放された。1954年に死去。wikipedia等では1946年に獄死したとされているが、許雪姫女史は遺族から直接話を聞いているので、こちらの方が正しいはずだ。戦後の謝介石の足跡については、史料が乏しいせいなのか、遺族への慮りがあるのか、はっきりしたことは記されていない。

 “漢奸”か否かという問いの立て方はもはや時代錯誤であろう。ある種のポリティカル・コレクトネスは当時に生きた人々が嫌でも抱えざるを得なかった生身の複雑な葛藤をなかったものとして、さらに言えば事情を忖度することなく汚いものと一方的に決め付けてオミットしてしまう。それは歴史を見ていないに等しい。謝介石という人にどんな思惑があったのか私には分からない。あるいは出世志向のかたまりだったのかも知れない。仮にそうだとしても、このように複雑な転変を経ねばならなかったところには、日本・中国双方からマージナルな立場に追いやられた台湾の独特なポジションがもたらした葛藤が見え隠れするのではないか。そうしたアイデンティティの困難という観点から、謝介石という人物が日本・中国・台湾それぞれの現代史の専門家からどのように捉えられているのか、聞いてみたい気もする。

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2009年10月19日 (月)

龍應台『大江大海 一九四九』

龍應台《大江大海 一九四九》天下雑誌、2009年

 先日、台北の書店をのぞいたらベストセラーとなっているようなので購入した本。

 台湾に流入した外省人のある世代では名前に“港”や“台”の一字を持つ人が多いらしい。国共内戦に敗れて難民となり、香港の収容所で生まれた子供に“港”、台湾に逃れてから生まれた子供に“台”の字をつけたのだという。台湾生まれ、外省人二世の女流作家・龍應台の名前にもそうした事情がある(ちなみに、ジャッキー・チェンの本名は陳港生という)。

 1945年に戦争が終わり、1949年に中華人民共和国が成立するまでの間、平和の息吹を味わういとまもなく、実におびただしい人々の移動があった。戦火に追われて山を越え、海を渡り、ほんのわずかのタイミングの差や判断の相違で肉親と離れ離れとなり、場合によっては死に別れてしまう。自分の力ではどうにもならない過酷な運命に翻弄された有名無名の人々の中に、著者自身の両親の姿もあった。1949年に至る混乱期にいったい何があったのか? 両親の故郷を訪ねて大陸を歩いたのを皮切りに、当時を生き延びた多くの人々から話を聞き取りながら、大文字の“正史”に現われることのなかった生身の歴史を描き出そうとしたノンフィクションである。

 1948年の長春攻囲戦で、林彪率いる人民解放軍が国民党軍や一般市民も含めて数十万単位で大量の餓死者を出したことは初めて知った。南京大虐殺やレニングラード攻囲戦は歴史の教科書に載っているのに、なぜこの大量虐殺には目をつぶるのか?と著者は疑問を投げかける。このため、本書は大陸では発禁となったらしい。

 台湾接収で上陸した国民党軍のみすぼらしい姿は、蒋介石政権の政治腐敗と重ねあわされた一つの象徴的なイメージとして語り草になっている。だが、その兵隊たちだって好きこのんでやって来たわけではない。大陸でさらわれて無理やり兵隊にさせられた、ただの庶民が多かった。家族と生き別れた彼らの苦悩にも目配りされる。幼い頃、命の恩人とも言うべきお医者さんが二・二八事件で公開処刑されるのを目の当たりにしたことを現・副総統の蕭萬長が語っているのも印象に残った。

 国民党に徴発されて国共内戦で大陸に送られた卑南(プユマ)族の老人たち。人民解放軍の捕虜となって向こうで暮らし、一人は朝鮮戦争にまで従軍した。台湾に戻ったのは1992年である。少し時間を遡れば、日本軍に徴発された高砂義勇隊のことも思い浮かぶ。それから、日本軍の軍属として捕虜収容所の看守となり(南洋ばかりでなく南京にもいた)、戦後は戦争犯罪人として有罪判決を受けた台湾人のこと。

 旧満州国の荒野から南洋諸島まで俯瞰すると途方もくれるような広がりの中で、様々な人生、しかも残酷なまでに哀しい宿命が交錯していた。スパイ容疑で母親が処刑された外省人・王澆波、父親が日本軍の軍医として戦死していたため戦後は肩身の狭い思いをした鄭宏銘。彼ら二人のエピソードをつづった後にこう結ばれる。心に秘められた言い知れぬ傷のありかは異なっても、みんな台湾人である、と。そこには、根無し草意識を抱える著者自身の想いも重ねあわされているはずだ。

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2009年10月18日 (日)

10月10日 新竹へ

【出発】
・先週、連休を使ってちょっと台湾へ。成田10:00発(日本時間)→桃園12:30過ぎに着(台湾時間)のJAL。
・今日は国慶節だからか、あちこちで青天白日旗が翻っていた。高速バスで台北駅まで出てMRTに乗り、西門駅へ。宿舎にたどり着いたのは15:00頃。西門町のど真ん中、駅を出て3分ほど、路地を少し入ったところ。立地条件が良い割りに料金は安かったが、窓のない部屋だった。寝るだけだからいいか。

【新竹へ】Photo
・新竹へ行く。台北15:30発→新竹17:02着の莒光号。一応、車内に携帯電話の使用はお控えくださいという注意書きはあるが、携帯電話の声が無遠慮にとびかう。
・車窓の風景をぼんやり眺めるのが好き。青々とした草はらに木立の光景が見えた。ふと、侯孝賢監督「冬冬の夏休み」のワンシーンを思い浮かべた。あれは苗栗が舞台だったとは思うが、風景としては続いているのだろう。Photo_6
・新竹の駅舎は日本統治期の建物を現在でも使っている(上の写真)。駅前にはイベントができる広場があり、屋台も並ぶ。線路があった。かつての軽便鉄道か何かの跡だろうか。花蓮でもかつて軽便鉄道だった線路跡をそのまま細長い公園に整備されているのを見かけたことがある。Photo_7
・まず、李澤藩美術館に足を運んだ。開館は金土日の18時までということは事前に調べてあった。李澤藩(1907~1989年)は水彩画家である。彼については以前にこちらで触れた。新竹駅から歩いて5分ほど、繁華街の大通りに面した建物の3階。かつて李の自宅のあったところらしい。他の階にはテナントが入っており、階段をのぼる途中の2階には若者向けのヘアサロン。写真で煌々と明かりがついているのがそれだ。
・芳名帳に記入して入館。アマチュア向けの賞の入選作の展覧会をやっていた。地元の美術サロンという位置付けか。李澤藩自身の作品は片付けられて数点しか見られなかった。奥の方で遺品の展示。画架や書棚、集めていた小物など。書棚は台北師範学校在学中に自分で作ったものらしい。Photo_8
・街を歩く。新竹市政府。日本統治期の新竹州庁の建物を現在でも使っている。城隍廟の方へ歩いていく。ちなみに、城隍廟とは町の守護神を祀ったところ。屋台が並んでいると聞いていたが、時間が中途半端だったせいか、人通りはあってもいわゆる活気がない。迎曦門に戻る。前に広場があり、若者のバンドが大音響を出していた。Photo_9
・新竹市立映画博物館。戦前、有楽座という映画館だったが、戦争中に爆撃を受け、修築されて国民大戯院となり、その後、打ち棄てられていたのを改装して博物館として利用されている。ミニシアターも併設されているようだ。建物の脇には、映画関連の事項を中心に新竹の歴史をまとめた年表や映画ポスターのパネル。1941年には李香蘭も来たらしい。肝心の博物館は、開館時間中のはずなのに、休息中の札がかかったまま。ひょっとして祝日だから休館なのか。仕方ないので引き返す。
・風が強く、ゴミが目に入った。雲行きは怪しく、たまに小雨がぱらつく。
・19:01発の自強号で台北に戻る。屋台でビーフンでも食べようと思っていたのに、気持ちの引かれる店が見つからず、小腹が減ったので、列車待ちの時間に駅のセブンイレブンでサンドイッチ。パッケージは日本と変わらず。パンは若干パサパサ、ハムの味が違う。列車の中で明日のスケジュールを組む。

【夜の台北】
・20時頃、台北駅に到着。MRTに乗り換えて市政府駅で下車。誠品書店信義旗艦店へ。私は台北に来たら必ずここに寄って時間をつぶす。
・いつも上の5階から順次下へ降りていく。5階は子供用品フロアだが、絵本売場をチェック。酒井駒子さんの絵本が何冊か翻訳されており、ちょっとした特集が組まれていた。
・4階は芸術フロアである。日本語コーナーも、アート・ファッション系の本が中心なので、このフロアで美術書コーナーとCDコーナーとに挟まれている。美術書コーナーの新刊平台に並んだ翻訳ものでは安藤忠雄と森山大道が目についた。
・3階は人文・社会科学フロア。ここで台湾史関連の書籍を買い込む。先日読んだばかりのJonathan Manthorpe, Forbidden Nation: A History of Taiwanの中文版が文達峰(柯翠園訳)《禁忌的國家──台灣大歴史》というタイトルで新刊平台に積まれていた。フランツ・ファノン『地に呪われし者』の翻訳(中文タイトルをメモするのを忘れた)やファノンの評伝が新刊で出ているのも目についた。ここしばらくポストコロニアルの視点で台湾史を議論するのが定着しているようだから、そうしたところから需要があるのか。龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年)は話題になっている様子なので購入。
・2階は新刊フロア。ざっとベストセラーの棚を眺めて引き上げる。
・MRTで西門駅に出て、明朝足をのばす予定の大渓行きバスの停留所を確認してから、西門町を少しブラブラ。
・腹へったなあと思いながら歩いていたら、阿宗麺線というお店の前を通りかかった。みんな店の前で立ち食い。つられて私も行列に並ぶ。一品しかないようで、すぐ順番がきた。大椀55元を注文。細麺というか、にゅうめんのような感じで、かつおだし風味、とろみのあるスープ。アツアツをレンゲですくってハフハフしながらかき込む。亭仔脚の脇の台に調味料が置いてあり、好みの味に調整してもよし。箸が欲しいなあと思いつつ、レンゲでほおばっていると、屋台を引いたおっちゃん、おばちゃんたちがワイワイ騒ぎながら目の前を走っている。どうやら、巡回パトカーが来たらしい。西門町名物、屋台と警官のいたちごっこを眺めながら麺線を平らげた。

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10月11日 大渓へ

【大渓へ】
・今日は台北近郊の大渓、三峡、桃園を回る心積もり。しかし、朝、テレビの天気予報によると、台湾北部・東部は大雨とのこと。高鉄を使って晴れていそうな台南あたりに行こうかとも迷ったが、初志貫徹。
・幸い、まだ曇り空。昨晩のうちに確認してあったバス停へ行くと、すでに大渓行きバスが留まっていて運転手さんは寝ていた。8時頃になっておもむろにドアを開けてくれたので乗車。持参したガイドブックには終点まで103元となっていたが、念のため運転手さんに確認したら105元とのこと。運賃箱にお金を入れると、行先を記した札をくれた。これは降車時に返す。
・私は、中国語の文章なら多少は読めるが、基本的に聞き取りもしゃべりも出来ない。コンパクト辞書を携行し、必要になった時すぐに目的地名のピンインを調べて(注音符号は分からない)、誤解のないように繁体字でメモに記して見せながら口に出す。数字ぐらいなら聞き取れる。
・東呉大学城中キャンパス脇の貴陽街停留所から出て、萬華、板橋、土城、三峡を経て大渓に行くルート。ほぼ2時間かかった。萬華を通ったとき黄氏家廟というのを見かけた。少女作家・黄氏鳳姿の一族の関係か。
・萬華から板橋、土城までずっと繁華街が途切れることなく続き、土城を過ぎたあたりから丘陵が近くに迫ってきて台北盆地が終わるのをうかがわせる。それにつれて道路沿いに並ぶ建物の丈が1,2階ほどの低さになってきた。経由した三峡はかなりの繁華街だったが、ここを除けば畑や林の広がる中をひた走る田舎道。
・途中乗ってきたおじさん二人組みがやたらと甲高くしゃべるのが車中に響き、しばらくして降車。明らかに北京語ではなかった。あれは台湾語(ホーロー語)か、それとも客家語か。
・大渓に到着。ガイドブックには、小さい街なのでバスターミナルを起点に動けば迷うことはないという趣旨のことが書かれていたのだが、その肝心のバスターミナルがどうやら工事中で、離れた所の臨時停留所で降ろされた。最初はそんな事情など分からず、ガイドブックの略図通りに歩こうとしても、街路が明らかに異なる。自分がどこにいるのか分からず焦った。その上、雨も降ってきた。苛立ちが募り、日本に帰ったらガイドブックの出版元にクレームをつけてやる!と毒づく。そのガイドブックは雨水を吸ってブクブクにふくれあがり、邪魔なので必要なページを思いっきりビリッと破り取る。晴れていたら、たとえ迷ってもおおらかでいられるのだが。20分ほどさまよっているうちに商店街に出て、ようやく街の構造と方角の見当がついた。位置関係さえ把握できればこっちのもの、気持ちに余裕が出てくる。Photo_10
・老街(オールド・ストリート)は後で歩くことにして、まず大渓公園へ。この公園は日本統治期には神社だったらしい。大きな川岸の崖の上。独楽の記念碑があった。この町には一時期、台湾の大富豪として知られる林本源の一族がいて、大陸から大工を呼び寄せ、彼らが閑な時間に独楽をつくったという由縁があるらしい。近くには、地面の大きく丸いくぼみにベンチのしつらえられた野外ステージ。日本統治期の相撲場跡で、戦後は池になっていたところ、メンテナンスが大変で、野外ステージ風にしたという。
・隣に蒋公之家なる施設があった。蒋介石の別荘だったらしい。現在は文化センターになっている。Photo_11
・さらに歩いて、武徳殿の前に出た。日本統治期の剣道場を改装して、今でも公共施設として利用されている。裏手には崩れかかった日本式家屋があった。背後に崖が迫り、武徳殿を挟んで両脇に大渓児童中心と大渓鎮立図書館がある。旅先で図書館を見つけるとついつい入りたくなってしまう性分である。3階が書庫。日本の田舎の小ぢんまりとした公立図書館と、たたずまいというか空気がそっくり。2階が閲覧室。中高生くらいの子たちが静かに勉強している。今日は日曜日。台湾の受験競争は厳しいと聞く。入口あたりでは、携帯電話で長話をしている女の子の姿。Photo_12
・武徳殿の向かいには写真のような日本家屋もあった。
・老街を歩く。赤レンガの建物の整然とした並び、意外とレトロモダンな構えに風情がある。魚や野菜を売るお店が亭仔脚からはみ出し、買い出しのおっちゃん、おばちゃんがわやわやとざわついている。人がひしめく中をスクーターがかいくぐって通るので危なっかしい。食べ物や玩具など土産物を売る屋台のような店が軒を連ねる区画では若いグループや子連れの家族などが楽しげに買い食いしながら歩いている。活気がある。今日は日曜日だから近隣から日帰り観光で来ているのかもしれない。なぜかキナコ餅を売っているお店に行列ができていた。貼紙を見ると、どうやらテレビで紹介されたらしい。Photo_14
・さて、引き上げて次の目的地の三峡に行きたいのだが、バスターミナルが工事中なので、どこからバスに乗ったらよいものやら分からない。グルグル歩き回りながら、バスが行きかう大通りに出た。バス会社の交通整理員と思しきおじさんにと尋ねたら、言葉は分からないが身振りで教えてくれて、反対車線に行くと三峡行きの臨時停留所を見つけた。雨に滲んだ手書きの行先表示を確認したちょうどその時にバスが来た。飛び乗って、運転手さんに三峡老街までの運賃を確認。

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10月11日 三峡へ

【三峡へ】
・三峡老街の停留所の近くまで来たら、運転手さんが身振りでここだと教えてくれた。下車。ひなびた田舎町を想像していたのだが、予期に反して、商店街を人が行きかい、道路には自動車が渋滞するかなりの繁華街だった。
・あらかじめ地図で確認してあった李梅樹教授紀念文物館へ。普通のマンションの6階にあり、エレベーター脇の机の前に座っていた老人(管理人?)に声をかけてから上へのぼった。郷土の昆虫学者(?)関係の展示と併設で、どうやら篤志の個人経営の紀念館らしく、日曜日は開館のはずだが、扉はびっちり閉まっていた。仕方ない、引き返す。老人に「謝謝」と言って出て行ったとき、背後から声がかかったが、一瞬、「再見」と言われたのかと思って、そのまま建物を出た。出た瞬間に頭で反芻したら「在嗎?」と言われたのだと思い当たる。そうか、入る時何やらゴニョゴニョ言われたのは、「誰もいないかもしれないよ」ということだったのか。Photo_29
・川沿いに歩き、清水祖師廟へ。大渓ではメインの観光スポットである。かつて清代に建立された廟堂だったが、いつしか廃れてしまい、戦後、郷土の画家・李梅樹が中心になって再建された。Photo_30
・一部には旧台湾神宮の鳥居が使われているらしいのだが、どれだろう? 中心の堂宇の柱が古びた感じだから、これか。他の柱にも精巧なレリーフが刻み込まれていた。壁面には花鳥風月が細い線で綿密に刻まれている。李梅樹をはじめ名のある画家たちの手になる。長年月をかけて造営が続けられたことから台湾のサグラダ・ファミリアと呼ぶ人もいるらしい。 Photo_16
・大きな川にかかる橋を渡って、李梅樹紀念館へ行く(先ほどの文物館とは異なる)。大きなマンションの一階。洋画家・李梅樹(1902~1983年)の作品を展示する美術館である。
・李梅樹は三峡の生まれ。台北師範学校を卒業してから公学校(台湾人向けの小学校)の教員をしていたが、その後、石川欽一郎の教えを受ける。28歳の時に東京美術学校に入学、岡田三郎助などに師事、卒業後は画家として身を立てる。戦後は大学教授のほか県議会議員なども務めた。清水祖師廟再建は彼のライフワークとして知られている。
・入館者数人を相手に解説をしているガイドのおじさんから声をかけられ、私が戸惑った表情をしているのを見て取ると、日本語で「日本の方ですか? こちらへいらっしゃい」と招いてくれて、台湾人観光客相手に北京語、私相手に日本語と交互に言葉を使い分けながら解説してくれた。とりわけ、遠近法の視覚に及ぼす効果が巧みに使われていることを懇切丁寧に説明してくれた。館内の床に足跡マークがあって、これは何だろう?と気になっていたのだが、一つの絵でも視点を変えると見え方も変わってくる、その位置表示だった。
・油絵である。リアルな描写で、渓流で洗濯をする家人の肖像やミレーの農民画を意識した作品などが印象的だった。1946年製作の三人の孫の並んだ肖像像の前で、ガイドさんがお札を出して孫文の肖像を見せる。三人のうち真ん中の子の年齢が一番高い、つまり「山」の字→「中山」を示すらしい。
・ガイドさんから「どこに住んでますか? 台北? 新竹?」と尋ねられた。どうやら日本企業の台湾駐在員が休日に日帰り旅行に来たものと思われたようだ。日本からの観光客が一人でわざわざここまで来るのは珍しいのだろう。
・展示された遺品の中には、石川欽一郎の書簡のほか、梅原龍三郎・藤島武二らも三峡に来たことがあったらしく、案内してくれたことへのお礼状があった。
・李梅樹の作品と年譜がまとまった本を1冊購入して出る。清水祖師廟の彫刻解説の冊子をいただいたので、もう一度参観。Photo_17
・三峡歴史文物館に行く。日本統治期の役場を郷土資料館として再利用している。1階には石細工の展示。2階には三峡の歴史解説。三峡は染料、樟脳、茶葉の産地・集積地としてかつて栄え、川を利用した船運のほか、日本統治期には桃園方面から軽便鉄道もつながっていたらしい。
・三峡という地名の起源をさかのぼると、もともとタイヤル(泰雅)族の言葉に由来して、その発音を聞いた漢人開拓者が三角湧と表記。閔南語系の発音ではsa-kak-engとなり、これが日本人の耳には「サンキョウ」と聞こえたため「三峡」と改名。この漢字表記は戦後も継続されて北京語で「san(1)xia(2)」と発音されている。ただし、地元の人は「三角湧」という表記に愛着を持っているとのこと。多民族・多言語国家ならではの歴史の重層性が明瞭にうかがえて興味深い。
・三峡老街の模型が展示されていた。展示パネルを見ると、三角湧の支庁長を務めた達脇良太郎という人が街並みの整備に尽力してくれたおかげであると評価されていた。Photo_18
・その三峡老街へ行った。バスを降りた所は普通の商店街だったが、民権路をもっと奥に進み、清水祖師廟の脇のところから赤レンガ造りの古びた風格の建物が整然と並んでいる。写真が入口、手前の建物に「三角湧老街」と彫り込まれているのが見える。大渓よりも観光地らしい喧騒だ。雨が降っていても、亭仔脚の下を歩けば気にならない。食べ物屋におもちゃ屋、土産物屋。みんなお店をひやかしながら進むのでノロノロ歩きになる。
・芳ばしい香りに引かれて、康喜軒金牛角なるパンを買った。形はクロワッサンのようだが、しっかりした歯ごたえでバターの濃厚な味。これはうまい。どうやら三峡名物になっているらしい。歩いていると、たとえばおばあさんが揚げパンを揚げている屋台も見かけたから、ああいう感じの屋台の出世頭のようなお店なのだろう。私は台湾のこういうデニッシュ系の菓子パンが好き。

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10月11日 桃園へ

【桃園へ】
・次の目的地の桃園までバスに乗るつもりなのだが、例によってどこで乗ったらいいのか分からない。探しながら歩いていたら、いつの間にか三峡の次の停留所まで来てしまった。時刻表を見ると、すでに行ったばかり。次は30分以上待たねばならない。雨降りは人を苛立たせる。タクシーでも拾おうと思いながら、三峡の繁華街の方へ戻っていくと、前方に停車中のバスの行先表示が桃園となっている。走れ! 列の最後の人が運賃箱にお金を入れたちょうどその時に駆け込み、運転手さんに運賃を確認。とりあえず最前列に座ってポケットの小銭を探り、交差点の赤信号で運転手さんに声をかけてお金を運賃箱に入れ、行先札を受け取った。
・後から乗ってきたおばさんが私の隣に座り、話しかけてきた。私の戸惑った表情を見ると、そのおばさんも変な顔をして、通路を隔てた反対側の人に話しかけ、見ていると、小銭に両替してもらっていた。台湾のバスには両替機はなく、運転手さんも両替をしてくれない。乗客同士で両替し合う光景をよく見かける。
・バスは鶯歌を経由。陶器の街として知られている。
・三峡から桃園まで1時間くらいだろうか。駅近くにたどり着く前にバスは停まり、運転手さんがここで降りろと乗客に指示していた。桃園の中心部はデパート等も立ち並ぶそれなりの大都市で、道路は渋滞、確かに歩いた方が早そうだ。桃園駅前には蒋介石の銅像が建っていた。Photo_24
・駅前でタクシーを拾い、忠烈祠へ行くよう指示。随分と乱暴な運転をするにいちゃんで、目的地に着いたら帰りのために待ってもらうつもりだったが、やめた。
・忠烈祠にたどり着いたのは夕方5時頃。国民党軍の戦死者・殉職者・革命烈士が祀られている。日本統治期の桃園神社である。日本の神社は戦後になって国民党の忠烈祠に転用されたケースが多い。たとえば、台北の護国神社、宜蘭の宜蘭神社などを私は見に行ったことがある。社殿は解体されているのが普通だが、桃園神社は日本時代の社殿がそのまま使われて現存している台湾では唯一の例らしい。Photo_26
・石段のふもとでタクシーを下ろしてもらった。神社前の石塔には名前を書き換えられた痕跡がある。「奉献」と書かれた石台もあり、石階段の急な傾斜は明らかに神社を思わせる。のぼる。Photo_27
・石灯籠が並ぶ参道の正面に社殿が構えられている。丈の高い椰子の木との対比が独特だ。4時半で閉門とのことで、奥には入れない。境内を歩く。若い男女がコスプレの撮影会をやっていたらしく、ワイワイと機材を片付けている。蚊に刺されたのもいかにも神社らしい風情に感じた。初秋の夕方、台湾にいるとは思えない不思議な空間。
・下の写真はおそらくかつての社務所。現在は管理事務所として使われているようだ。Photo_23
・来るとき、近くの大きな病院の前にバス停が見えたので、そこまで歩いていく途中、タクシーが通りかかったので乗った。
・桃園駅前は夕方の交通ラッシュ。警官が出て交通整理をしていた。車が動かない中を、一人の青年が道路を横切った。それを見咎めた警官が「戻れ!」と制止したが、言うことを聞かない彼を思い切り突き飛ばした。私の乗っているタクシーのすぐ横だった。彼は道に倒れて動かない。交差点の反対側にいた警官が何人か寄ってきた。若い婦警さんが心配そうにオロオロして助け起こそうとするのだが、他の警官たちは「やめとけ、やめとけ」という感じ。雰囲気からするとどうも顔見知りらしく、「死んだふりしているだけだから構うな」という態度で放置。後姿なのでよく見えなかったが、南方系の顔立ちをした青年だった。
・駅前に出ると、同様に肌が浅黒く目鼻立ちが明らかに南方系の青年たちのグループをよく見かけた。台湾の漢族系はもちろん、原住民系とも違うような気がする。桃園・新竹のあたりは工業地帯で、東南アジアから出稼ぎ労働者が来ているという話を何かで読んだ覚えがある。そうした人たちが日曜日に町へ繰り出してきているということか。先ほどの警官の態度を見ると、日常的にトラブルをおこしているのか、彼らに対する一種の差別感情でもあるのか。

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