伊藤将人『移動と階級』
伊藤将人『移動と階級』(講談社現代新書、2025年)
移動は自由の根幹的要件の一つと言える。留学や仕事、あるいは旅行というレベルでも、様々なコストを考慮して断念したことがある人は多いと思われる。日常生活に埋没する中で、そうした断念を思い返すことはなくなるかもしれないが、人によっては自己実現の可能性が阻害されたという後悔を引きずることもある。
「移動できる人」と「移動できない人」との間には、様々なレベルで歴然たる格差があり、それは自己実現の格差にも直結する。本書では「行きたい場所にいつでも行けることを“当たり前”だと思えること、自分の移動を自分で決められること、移動という行為に移せること、それらはすべての人に等しく与えられた認識や機会、結果ではない。住んでいる地域や性別、人種、国籍、そして階級階層によって異なる実態がある」(234頁)という考えを示し、移動にまつわる格差の諸問題を整理して提示してくれる。
移動によって、自分がそれまで知らなかった様々な人々やチャンスで出会うこともあり得る。そうしたことを踏まえて、「移動は成功をもたらす」という言説もあるようだ。しかし、実際には移動にまつわるコストを負担できる階層にいる人々、例えば経済的資本や人的ネットワークを含む社会資本を持つ階層の子弟には移動の機会があったからという生存者バイアスに過ぎないケースも多い。移動格差の現実を無視した精神論には注意する必要がある。
近年はデジタル化などの技術的進展により、移動にまつわる困難を徐々に解消できるようになった。他方で、デジタル化が進展したがゆえに、移動格差がむしろ浮き彫りになってきた側面も無視できない。コロナ期間中、デリバリー・サービスが注目された。しかし、これは移動しないですむ所得上位層が、移動の負担を外部化したものと捉えることができる。また、テレワークが広まったが、都心から離れた場所で仕事ができるのは一部の職種のみで、身体的労働(運送業、医療介護、サービス業など)に従事する人々には無理である。テレワーク推進の政府補助は、もともと移動可能な人々しか対象とならなかったという意味で、移動格差が逆に露わになった。通勤混雑緩和を目的としてテレワークが推奨されても、テレワーク可能な仕事が発展途上国に回され(例えば、テレフォンサービス)、そちらのセンターに労働者が通勤するという形になると、やはり移動コストの国境を越えた外部化という形で国際レベルでの移動格差が顕在化する。
私自身もそろそろ中年にさしかかるという年齢で会社を辞めて、退職金を元手に台湾へ留学し、現在は台湾で暮らし、年に一回程度日本へ戻っているという意味では「移動する人」である。しかし、コロナで三年間帰国できなかった時は国境間移動のもろさを感じさせたし、移動の費用をどのように捻出するか、日本にいる老親をどうするかなど、移動にまつわる経済的・精神的負担は常に感じている。
移動すればよいというものではなく、移動しないというのも人生の選択肢の一つである。しかし、人それぞれに様々な理由で、移動が必要な場合もある。移動が必要な人にとって、移動ができるだけ容易になるよう社会的条件を整備するのも、人権の根幹たる自由の保障という観点から必要な措置であろう。本書はそうした諸問題の視野を広げてくれる恰好な良書である。
本書は主に社会学的知見に基づいて移動格差にまつわる現在の問題が論じられている。現代社会ではデジタル化の進展により移動格差がより明瞭になったという側面もあるが、移動格差の問題自体は時代を通じて様々な形で現われていた。私自身は日本の植民地統治期の台湾史を研究している。例えば、台湾史ではよく知られている話だが、台湾人エリートのほとんどは地主資産家階級に属しており、日本を含む海外へ留学できたがゆえに、近代的知識をもとに社会的エリートとしての地位を保持し得た。つまり、台湾における近代的エリートとしての要件と移動格差とには密接な関係があった。また、植民者たる日本人でも、官吏や会社員は日本との往来が割と頻繁であった一方で、低所得層は日本へ帰る経済的・社会的コストを負担するのが難しく、それだけ帰る機会は少なかったと考えられる(極端なケースで言うと、いわゆる「からゆきさん」はほぼ一方通行であったろう)。本書を読みながら、植民地社会における移動格差と植民者の現地化とはどのような関係があったのか?という論点に関心を持った。
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