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2020年4月

2020年4月26日 (日)

【メモ】荒野泰典『近世日本と東アジア』

【メモ】荒野泰典『近世日本と東アジア』(東京大学出版会、1988年)
 
序 「鎖国」論から「海禁・華夷秩序」論へ
・近世日本における「鎖国」→「海禁」と「華夷秩序」という二つの概念で理解可能であり、その意味で中国・朝鮮の海禁と共通しているという考え方から、従来のいわゆる「鎖国」論への批判。
・「「海禁」は、国家領域内の住民(「国民」)の私的な海外渡航や海上貿易を禁止することを中心とした政策の体系である。明においては、当初倭寇や国内の不穏分子と国外の勢力の結びつきなどを防止するための政策だったが、やがて、明皇帝を頂点として形成された「華夷秩序」(冊封体制)と、それを日常的に確認する場である朝貢貿易制度を保障する政策となった。朝貢貿易制度に勘合や公・私貿易、外国船の寄港地の指定などが付随していたことはよく知られている。「海禁」は朝貢貿易制度とあいまって、明皇帝と周辺諸国・諸民族との間に設定された「華夷秩序」を日常的に支えたのであった。したがって、「海禁」は「国を閉ざす」ための政策ではなく、その国家が望むような対外関係を実現するための政策であり、それを支えたのは「人民に外交なし」という東アジアの諸国家が伝統的に保持したイデオロギーであった。」(ⅳ頁)
 
第一部 近世日本の対外関係と東アジア
第一章 日本の「鎖国」と対外意識
・「オランダ 1609年の通交開始以来1628年の浜田弥兵衛事件(台湾をめぐる紛争)による関係断絶までは、外交を含む関係であった。その後、1632年に関係を再開するに当っては、オランダ人は将軍の「歴代の御被官」として位置づけなおされ、貿易のみを許される存在となった。翌年から恒例化するオランダ商館長の江戸参府は、上述のオランダ人の位置づけを表現するものとして演出された。それまではオランダ側の要求実現の手段であった江戸参府も、これ以後いっさいの要求・嘆願は許されなくなった。」(10頁)
・いわゆる「鎖国」論は、志筑忠雄がケンペル『日本誌』の一部を訳出して「鎖国論」と題した(1801年)ことにはじまる(15頁)
 
第二章 近世の東アジアと日本
・「日本型華夷秩序は、日明国交回復の挫折を前提に、ポルトガル・スペインの旧教国およびキリスト教自体の排除と、周辺諸国・諸民族の待遇の一定の改変によって、1630年代に成立した。」(33頁)
 
第三章 近世中期の長崎貿易体制と抜荷
 
第四章 近世日本の漂流民送還体制と東アジア
・遭難物占守慣行
・漂流民送還には、国家権力による統制と国際関係が条件として必要
・「豊臣政権による全国統一の過程は、同時に、個別大名に帰属していた遭難物占守権=領海権を、国家権力(公儀)の遭難物占守権=領海権のもとに再編・統合する過程であった。」(122頁)→豊臣政権は貫徹できなかったが、その課題は徳川政権に継承され、より周到な配慮のもとに遂行され、実現することになる(123頁)。
・外国人漂流民の奴隷化の可能性→「そのような状況において、明・朝鮮・琉球の間には国交成立以後、三国相互に恒常的な漂流民(倭寇被虜人も含む)の送還がみられたが、それは三国間の国際関係が規制力として作用したからである。」(124頁)→日本人の場合、倭寇かそうでないかを区別する必要があった。
・「近世日本の「鎖国」体制は、(イ)対外関係を長崎での中国・オランダ、薩摩での琉球、津島での朝鮮、松前での蝦夷に限定し、そこでの諸関係を幕藩制国家権力=公儀が統轄する、(ロ)日本人の、海外渡航禁止を含む、対外関係からの隔離(特権者のみ対外関係にたずさわる)、(ハ)厳重な沿岸警備態勢、の三点に要約できる。この体制の意図するところは、対外関係の国家的独占にあり、その実現形態とともに、明・朝鮮の海禁政策と共通している。日本の海禁政策の特徴は、施行時期のずれを除けば、(ⅰ)公儀による対外関係の総轄が「役」の体系によっていること(明・朝鮮は官僚制)、(ⅱ)海禁の目的がキリシタンの摘発・排除にあること(明・朝鮮は、直接には倭寇)の二点である。」(126頁)
・「外国人漂流民は1630年代から長崎送りとなったが、これは琉球が幕藩制国家の海禁体制のなかに組みこまれたことを意味する。しかし、明清交代後、対清日琉関係の隠蔽策が進行するなかで、1696年以後、清・朝鮮および国籍不明の外国人漂流民は直接福州へ送還されることになった。」(139頁)
・「清は遷海令撤廃の翌1685年、貿易の可能性を探るため、長崎に官船13艘を派遣してきたが、幕府は貿易を許さず以後「官人」の来航を禁じた。幕府は清との外交開始による新たな紛争の発生を懸念し、対中国関係は従来の形態にとどめたのである。」「日清関係は双方の国家権力を背景にしつつも、外交を含まない民間レヴェルの貿易=「通商」関係として定着した。」(141頁)
・キリスト教圏(フィリピンなど)へ漂着した日本人→幕藩制国家は拒絶の可能性が強かった(150頁)。
 
第二部 近世日朝関係史研究序説
第一章 大君外交体制の確立
・大君外交→第一に、「徳川将軍が、自らの国際的呼称を、足利義満以来の「日本国王」号を廃して、「日本国大君」としたことである。」第二に、日朝外交は徳川将軍と宗氏との軍役・知行関係を通じて実現(162頁)。
・「大君」号の設定→日明国交回復を断念し、明抜きで事故を中心とした国際秩序の設定に向かい始めた(216頁)。また、「大君」号には、朝鮮蔑視の意識(217頁)。
 
第二章 明治維新期の日朝外交体制「一元化」問題

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速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』

速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店、2006年)
 
 著者は周知のとおり歴史人口学の大御所であるが、『大正デモグラフィー──歴史人口学でみた狭間の時代』(速水融・小嶋美代子、文春新書、2004年)を執筆する中で、いわゆる「スペイン風邪」(本書では「スペイン・インフルエンザ」と表記)の重大さに気づいたという。当時のスペイン風邪については内務省衛生局が編纂した『流行性感冒』(『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』[平凡社・東洋文庫、2008年]として復刻)もあるが、それだけでは不十分であり、そこで著者は当時の新聞記事を集める作業から着手した。有力紙ばかりでなく、各県・外地の地方紙まで網羅的に調べ上げてスペイン・インフルエンの流行状況に関する統計データを示し、当時においてこの流行病が猖獗を極めた状況を描き出している。
 
 いわゆる「スペイン風邪」が最初に確認されたのは1918年3月、アメリカ東部においてであった(中国起源説もある)。当時は第一次世界大戦の終盤にさしかかっており、派遣された軍隊を通してヨーロッパ戦線に伝播し、さらに世界中に拡大したものと考えられる。戦時下であったため、各国は情報統制を敷いており、伝染状況の詳細は分からなかったが、中立国のスペインで最初に大々的な報道がなされたことから「スペイン風邪」という名称が定着した。「スペイン風邪」は全世界で膨大な死者を出したが、ちょうど第一次世界大戦と重なっていたため、その衝撃が若干薄くなり、そのため記憶もすたれていったと言われる。
 
 本書では台湾にも紙幅が割かれているので、その部分についてメモしておく。本書によると、台湾では1918年6月に基隆でインフルエンザが発生し、同年12月にはいったん収束へと向かった。これが「前流行」とされる。次に、1919年12月から軍隊を起点として「後流行」が始まったが、翌年3月に入ると関係する新聞記事は見られなくなるという。日本と比べると、台湾でのインフルエンザは短期間の流行で終わっており、死者数は合計118922人で、死亡率に関しては内地人よりも本島人の方が若干高い。なお、1918年には日本から台湾へ来て巡業中の力士が原因不明の熱病で倒れて何人か亡くなっており、これもインフルエンザだったのではないかと指摘されている。
 
 「前流行」が基隆で始まった頃、香港でもインフルエンザが流行していたことから、船舶経由で基隆へと伝播し、さらに台湾各地に広がったものと考えられる。他方、「後流行」は軍隊への新入営兵から始まっている。歴史的に見て感染症の拡大において船と軍隊というのが重要な要因であり、今も昔も密閉集団でクラスター感染が起こっていた点は同じである。現代ならば、日本でも深刻な問題となったクルーズ船があろうし、グローバルな交通手段としての飛行機、さらにクラスター感染を引き起こす通勤電車が考えられるし、また軍隊同様の「強制性」を持つ組織集団としては一部の会社も同様の条件を備えていると言えよう。台湾では今年4月下旬、海軍の訓練艦から感染者が広がったことが衝撃を与えた。また、スペイン・インフルエンザの当時も興行自粛の要請が行われていたことも現在の状況と二重写しになり、現在と100年前を比べると、未知の感染症が拡大しつつあるときの基本的条件は今も昔もほとんど変わらないということに改めて感じ入る。

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2020年4月23日 (木)

岡本隆司(陳彦含・中国語訳)『朝鮮的困境 : 在日清之間追求獨立自主的歷史』(『世界のなかの日清韓関係史:交隣と属国、自主と独立』)

岡本隆司(陳彦含・訳)『朝鮮的困境 : 在日清之間追求獨立自主的歷史』(台北:八旗文化、2017年)
(原書:『世界のなかの日清韓関係史:交隣と属国、自主と独立』講談社選書メチエ、2008年)
 
 岡本隆司『世界のなかの日清韓関係史:交隣と属国、自主と独立』はだいぶ以前に読んでいたが(→参照)、こちら(台湾)の大学院の授業で本書の中国語版『朝鮮的困境 : 在日清之間追求獨立自主的歷史』が課題図書となったので再読した。ざっくり言うと、朝鮮・清朝・日本という三国を中心に17世紀から19世紀にかけての東アジアにおける外交秩序の変容を描き出している。
 
 17~18世紀にかけての時期、朝鮮は清朝と宗属関係を結んでいた一方、日本の江戸幕府は清朝と直接の外交関係はなく(中国商人が長崎へ来るだけ)、いわゆる冊封体制から外れていたため、朝鮮と日本との関係は交隣関係とされた。冊封体制は国同士の儀礼的序列が重要な意味を持っていたが、日本はそこから外れていたがゆえに、朝鮮は清朝・日本のそれぞれと異なる原則で関係を維持し、結果的に二つの異なる外交体系が安定的に両立する形になっていた。ところが、19世紀に入り、西洋列強のプレッシャーが高まると、こうした安定的秩序は変化を迫られる。とりわけいち早く西洋的国際法の概念を受け入れた日本は、国際法のロジックに基づき西洋的な条約体制による外交秩序を朝鮮や清朝に対して迫っていく。同時に、伝統的な冊封体制には国際法のロジックでは割り切れない曖昧な部分があるわけだが、清朝もまた従来の宗属関係を読み替えて朝鮮を保護国に位置づけようとし始めたことで、旧来の外交秩序が動揺し始める。こうした外交関係転換の矛盾が最も明瞭に現れたのが朝鮮であったため、本書では朝鮮の外交問題を中心に東アジア国際秩序が変容する様子を描き出していく。
 
 各国それぞれの外交当事者の視点を交錯させながら、一種の人物群像劇のような形で外交関係の変容を描いているところが本書の面白いところである。それぞれが異なる価値観や思惑を背景とした世界認識の枠組みを持っているわけで、そうした視野がぶつかり合い、互いに変化させられながら外交関係が動いていく様子が見えてくる。現代の国際関係理論では、第一にリアリズム(外交アクターの力の均衡を中心とする視点)、第二にリベラリズム(理性的な外交アクターが協調する側面を中心とする視点)、第三にコンストラクティビズム(構築主義、歴史的に形成された規範や認識枠組みが国際関係に与える影響を中心とする視点)の三つの見方があるが、本書はコンストラクティビズムから19世紀東アジアにおける国際関係秩序の変容過程を解析していると言えよう。
 
 日本語原書と中国語版とでタイトルが異なるのが気にかかった。本書は清朝・朝鮮・日本の三国を中心に東アジア国際秩序の変容過程を分析し、その矛盾が最も強く表れたのが朝鮮だったことから朝鮮の外交問題を中心に据えてストーリーが構成されている。朝鮮が向き合わざるを得なかった矛盾に焦点が合わされているという点では、中国語版の『朝鮮的困境』というタイトルは必ずしも間違いとは言えない。ただし、サブタイトルで「在日清之間追求獨立自主的歷史」となっているので、読者にミスリードの可能性を残してしまっている。
 
 と言うのも、本書の一番の眼目は東アジア国際関係史にあり、それは日本語原書のタイトルでもしっかり示されているのだが、授業での台湾人同学たちの発言を聞いていたら、彼らの関心は朝鮮の自主性の問題に集中してしまっていた。やはりタイトルに引きずられてしまっている。自主独立や自力の近代化というテーマを考えるなら、朝鮮内部における思想史的背景も考慮する必要もあるが、本書ではそうした部分にはあまり触れられていない(あくまでも東アジア国際関係史が論点だからやむを得ない)。「朝鮮に自主的な近代化の努力はなかったのか?」「清朝の洋務運動のようなものが朝鮮にはなかったのか?」といった疑問が出され、私からは「本書のポイントはあくまでも外交史であって、そうした問題を本書だけで議論するのは不適切だから、興味があるなら別の本や論文を読みましょう」とコメントしたのだが、分かってもらえたかどうだか。実は、レジュメ担当の同学の発表が終わった後、私から最初のコメントとして「日本語原書と中国語版のタイトルの違いをどう思いますか?」と問題提起してあったのだが、結果的にスルーされて、危惧していた方向に議論が向かってしまった。
 
 日本では朝鮮近代史の研究蓄積が積み上げられているのは知る人ぞ知ることである。私自身も二十年くらい前には、例えば姜在彦の著作をだいぶ読み込んだこともあったので、朝鮮は受動的だったという単純な感想にはちょっと首をかしげてしまった。日本と比べると、台湾では朝鮮史関係の研究は多くないので、歴史を学んでいる同学であっても基礎知識が欠如しているのではないかという印象を受けた。

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2020年4月21日 (火)

岡田晴恵・田代眞人『感染症とたたかう──インフルエンザとSARS』

岡田晴恵・田代眞人『感染症とたたかう──インフルエンザとSARS』(岩波新書、2003年)

  

 

 新型コロナウィルスが世界中で流行する中、2003年に大流行したSARS(タイプは異なるがやはりコロナウィルス)について振り返る必要があろうと思い、17年前に刊行された本書を手に取った。特に「第4章 SARSの流行と対応──新たな感染症に挑む国際社会」には2003年時点でのSARSに関する経緯が整理されている。もちろん個々の知見には古くなっている部分もあるのだろうが、未知の新興感染症に出会ったときにおける現在進行形の戸惑いは、現在の新型コロナウィルス禍とも共通する経験である。

 

 

 SARS(重症急性呼吸器症候群)は200211月頃から中国の広東省で流行していたと言われる。その頃から原因不明の新型肺炎が発生しているという噂があったが、中国側の隠蔽により実態が分からない状態だった。それが世界各地へ拡大するきっかけとなったのは、香港のホテルに宿泊したたった一人の人物である(スーパースプレッダー)。広東省の病院でSARS患者の治療にあたっていた医師が2003221日にその香港のホテルに入り、その後、自身もSARSと診断されて香港の病院で亡くなった。そのホテルの同宿者から12名の感染者が現われ、それぞれが飛行機で海外へ出たことからSARSが世界中へ拡大することになる。そのホテルの感染者は、最初に発症した広東省出身の医師と同じフロアの宿泊客だけだったという。実は、同時期に同ホテルの別のフロアに日本人の団体客も宿泊しており、もしその人たちにも感染していたら、日本がSARSの最初の流行地域の一つになったのは間違いない。同年5月にはSARSに感染した台湾人医師が関西方面へ来ていたが、関係者から関連情報が日本の検疫所に連絡されていたにもかかわらず、対応が遅れていた。この時は幸いにも二次感染者は現われなかったが、いずれにせよ日本でSARSが流行しなかったのは全くの僥倖に過ぎなかったと言える(151-162頁)。

 

 

 SARSへの対応においては、「患者発生や感染者が確認されたさいの初動対応が鍵となる。感染患者の足取りをすばやく把握して公表し、患者と接触した可能性のある人に対しては必要な連絡・対応に関する情報を周知させ、必要な場合には適切な対応・措置を勧告して、感染の拡大を防止することが重要となる。もしも初動対応の機会を逃せば、感染は拡大して多数の患者が発生することになり、もはや感染ルートの追跡調査・把握は不可能となる。その場合には、北京で行われたように広い地域全体を封鎖し、大勢の住民を隔離して行動を制限するなどの厳しい強制的手段をとらざるを得ないであろう」(164頁)。

 

 

 「有効な初動対応のためには、すみやかに感染者の足取りを把握する必要があり、そのさいには、感染患者の行動などに関する情報の公開も必要となる。個人の人権とプライバシーが尊重され、情報公開によって生じうる誤解、風評、偏見、差別を未然に防止し、経済的・社会的損失を最小限に抑えることは、当然十分に考慮されねばならない。しかし一方では、社会における感染拡大を阻止し、多くの人々の健康を感染の危険から守ること、さらに国内外への感染の波及を未然に防いで国際的責任を果たすためにも、公権力による必要最小限の行動制限や、自由を拘束する措置命令が必要でもあろう。ベトナム、香港、シンガポール、カナダ、台湾などでは、厳しい罰則規定を含む強制的な隔離命令・行動制限などの強い行政措置がとられ、それなりに効果が評価されている。しかしその反面で、個人の人権やプライバシーは大幅に犠牲となっている。」「行政と国民間の相互信頼を基盤とした良識ある成熟社会であれば、行政側が十分に透明性をもった情報公開と行政対応への協力依頼を行えば、あえて強制せずとも、自主的な行動自粛や適切な対応に対する理解が得られ、国民の社会的責任が果たされるのではないだろうか。」「一方、行政の依頼に応じた場合の費用負担や、経済的損失などに対する補償制度も考慮される必要がある」(165頁)。

 

 

 「今回出現したSARSの流行にさいしては、病原体の特定はすみやかに行われたものの、予防方法や治療方法、また十分に信頼しうる検査方法がなかったことなどから、基本的には十九世紀の手法、すなわち感染患者の隔離と疑わしい人の検疫に頼らざるを得なかった。最新の医学は、新興感染症であるSARSに対しては、未だ無力であり、旧来の手法でもSARS制圧が可能であったとの評価もある。いずれにしても、隔離と検疫は感染症対策にとって依然として必要かつ有効な手段であることをSARSは示唆している」(194-195頁)。

 

 

 「SARSの予防に関しては、現時点では積極的手段は存在しない。感染予防や発症・重症化阻止に有効な医薬品は見つかっておらず、ワクチン開発も、実用化までには最短でも二~三年はかかる。したがって、SARS感染者の発生を予防することは、今冬(注:本書刊行は200312月)には期待できない。流行期には患者との接触を避け、手洗いの励行やN95マスクの着用などの消極的手段で対応せざるをえないであろう」(203頁)。

  

 未知の感染症については当然ながら予防法も分からないわけで、隔離や検疫といった十九世紀以来の古典的な手法に頼りながら時間を稼ぐしかない。その点では、初動対応のタイミング、情報収集、隔離や行動制限の指示が重要となってくるが、本書では行政の権限と私権とのバランスにも注意が払われている。とりわけ、現在、日本でも議論の焦点となっているが、「行政の依頼に応じた場合の費用負担や、経済的損失などに対する補償制度も考慮される必要がある」という指摘が重要であろう。そして、リスク・コミュニケーションという点では、「行政側が十分に透明性をもった情報公開と行政対応への協力依頼を行えば、あえて強制せずとも、自主的な行動自粛や適切な対応に対する理解が得られ、国民の社会的責任が果たされるのではないだろうか」とも指摘されている。

 

 

 実のところ、現在我々が慌てふためいている新型コロナウィルスへの対応をめぐって、基礎中の基礎とも言うべきポイントは、17年前に刊行された本書の中ですでに指摘されている。私は現在、台湾に住んでおり、コロナウィルス対応をめぐって日本と台湾とを比較する視点で考えているが、台湾の場合には、初動対応の早さ、情報収集(早い段階で人・人感染の可能性を掴み、WHOにも通報していたが、無視された)、隔離・行動制限の強い行政措置(隔離者には一定の補償金が給付される)、その一方で常に積極的な情報開示を通して国民とコミュニケーションを取る姿勢など、本書で示されているポイントは愚直に実行されている。台湾にはSARSの深刻な経験がある一方、日本では直接的な災禍に遭わなかったので緊張感がなかったと言ってしまえばそれまでだが、そうではあっても、本書のように早くから警告は発せられていたわけで、なぜ日本の現政権の対応がかくもお粗末なのかと慨嘆せざるを得ない。

 

 

 さらに、本書では国際的な研究ネットワークが一致協力して、SARS病原体の究明にあたり、短期間で成果を上げたことも紹介されている。その研究ネットワークではWHOが重要な仲介的役割を果たしていた。ところが、現在の情勢はどうか。WHOの失態が目につき、台湾からの情報提供を無視するなど、政治的理由から情報の国際的共有もままならない状況を見ていると、現状に対して悲観的な気持ちになってしまう。

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2020年4月19日 (日)

石光真人編著『ある明治人の記録──会津人柴五郎の遺書』

  石光真清『城下の人』を読んだついでに、石光真人編著『ある明治人の記録──会津人柴五郎の遺書』(中公新書、1971年)にも目を通した。編者の石光真人は石光真清の息子で、東京日日新聞(毎日新聞)記者。石光真人は父真清の関係で往来のあった柴五郎から紙面にしたためられた回想録を託され、それを校訂・整理した上で刊行されたもの。
  熊本人の石光家と会津人の柴五郎との間にどのような関係があったかと言うと、石光真清の伯父にあたる野田豁通の家で柴五郎は書生をしていたことがある。戊辰戦争で敗れた会津藩士の一部は青森の斗南藩へ移されたが、柴が青森県庁に給仕として働いていたとき、知事として赴任してきた野田に認められ、その縁で東京へ出て、陸軍幼年学校、士官学校を卒業した。後に石光真清が野田を頼って東京へ出てきたときに、野田の指示で柴五郎の家へ預けられ、それ以来、石光真清と柴五郎とは親しい関係にあった。
  本書の第一部は柴五郎の回想録である。回想録と言っても、柴の全生涯にわたるものではなく、会津落城から苦節をなめた青少年期の記憶である。会津落城以来の薩長への反抗心は骨身にしみており、西郷隆盛・大久保利通が仆れたことに関しても心から喜んだと記している。第二部は編者・石光真人によって「柴五郎翁とその時代」と題して記された略伝である。
  柴五郎は第一に中国通であり、第二に台湾軍司令官を務めていたことがあるので(1919~21年)、台湾に関しても何がしかの記述があるのかと期待していたのだが、ほとんど何も言及されていなかった。台湾軍司令官に任命されたのも、中国通として買われたというより、閑職に回された側面が強いらしい。
  ただ、以下の記述があったので、これだけメモしておく。
「明治六年、皇城炎上。西郷隆盛等、征韓論に破れて参議を辞し、薩摩に帰り不穏なり。明治七年江藤新平の佐賀の乱あり。台湾蕃族討伐、日清談判等の事件ありて、第二次の騒乱近きを思わしむるものあり。山川大蔵、根津の邸を出て急ぎ九州に赴く。このころ台湾の蕃族の少女捕われて銀座に見せ物となり、余もこれを見物せり。」(108頁)
  おそらく、台湾出兵で捕らわれたパイワン族の少女なのであろう。詳細を知らないので、時間を見つけて調べてみたい。
  柴五郎については義和団事件の時の北京籠城でも有名だが、そちらに関しては柴五郎の講演録「北京籠城」が、服部宇之吉の手記「北京籠城日記」「北京籠城回顧録」と共に東洋文庫で刊行されている(大山梓編『北京籠城・北京籠城日記』平凡社・東洋文庫、1975年)。

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