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2019年12月24日 (火)

【映画】「夕霧花園」

 この映画は三つの時間軸から構成される。第一に、当時はイギリス領であったマレーシアを日本軍が占領した1941年から日本敗戦の1945年まで。語り手となる主人公・張雲林はマレーシア華僑で、妹の雲紅と共にミッションスクールに通っていた。ところが、日本軍によって収容所へ送られ、強制労働に駆り出されたばかりか、妹・雲紅は慰安婦として働かされる。日本の敗戦時、収容所にいた現地人捕虜は証拠隠滅のためすべて殺害されたが、雲林ただ一人逃げ出すことができた。彼女は妹を見殺しにしてしまった後悔を引きずっている。
 
 第二に、戦後処理の行われている1951年。雲林は戦犯法廷のアシスタントとして働いている。当時のマレーシアはイギリスが戻って来て植民地統治が再開された一方、民族主義が高潮する中、マラヤ共産党が山地で活発な活動を展開し、イギリス軍とたびたび軍事衝突を起こしていた。映画中でも共産党ゲリラが掠奪を行うシーンが描かれている。こうした混乱した世情の中、雲林は日本人庭師・中村有朋と出会った。
 
 第三に、比較的現代に近くなった1986年。雲林はマレーシアで二番目の女性裁判官として活躍していたが、かつて愛し合った中村がスパイとして指弾されているのを知り、彼の潔白を証明できる証拠を探す。映画全体としては、第三の1986年時点から第一および第二の時期を回想する形で物語が進められる。
 
 彼女たち一家はむかし、父の仕事の関係で日本へ旅行したことがある。妹の雲紅は京都で見た庭園の美しさに魅了され、いつか自分でも庭園を作り上げてみたいという夢を抱くようになった。ところが、戦時下、日本兵の慰み者となってしまった雲紅は、みじめな屈辱の中でも自分自身の夢の庭園を思い描くことで、何とか精神的平衡を維持しようとしていたが、最後は無残にも殺害されてしまう。生き残った雲林は、妹の夢を自分でかなえようと決心した。そうした中、日本人庭師・中村有朋がキャメロン(金馬崙)高地にいることを知る(中村は戦争が始まる前の1937年にマレーシアへ来て、それ以来、山地にこもって「夕霧」と名づけた庭園の造成に専念しているという設定)。雲林は中村の協力を求めて訪ねていき、弟子入りすることになった。ただし、日本人は妹の仇である。中村に教えを請うことに抵抗を感じつつも、彼の語る庭園文化の奥深さを知るにつれ、徐々に心を開いていく。中村は多才な芸術家であった。彼が雲林の背中に刺青を施し、雲林が悶えるシーンは、二人の性愛的関係を象徴していると言えるだろう。
 
 この「夕霧花園」という作品は、原作小説と映画とで印象が大きく異なってくる。私は映画をまず見て、ストーリー的に確認したいことがあったので、その足ですぐ書店へ行き、陳團英の原作『夕霧花園』(The Garden of Evening Mists)を買い求めて目を通したのだが、本書では第一に戦争の記憶、第二にマレーシア独立前夜の錯綜した状況という二つのテーマに重点が置かれている。主人公の雲林は中国語が話せず、英語を常用するマレーシア華僑である。この設定そのものは作者の分身かもしれない。また、彼女に中村を紹介した白人農園主は南アフリカから移民したアフリカーナー(ボーア人)で、ボーア戦争に参加した経験も持っており、イギリス人に対する複雑な心情を吐露するシーンも描かれている。マラヤ共産党の描き方はだいぶネガティブであるが、いずれにせよ、様々な背景を持つ人々が錯綜する複雑な状況そのものが舞台となっている。
 
 言い換えると、民族間の恨みと報復が連鎖する状況の中で日本人・中村が登場する。この作品では二つの日本人イメージが語られている。第一に、戦争において残虐行為を行った日本兵。第二に、中村の庭造りを通して描かれるのは、静謐な精神性を備えた芸術文化の側面。雲林は前者に恨みを抱く一方、後者にひかれていく矛盾を自らの中に感じ取る。これは、特定のステレオタイプで民族性を規定してしまうと、報復の連鎖が終わらないことへの示唆とも捉えられるだろう。
 
 原作が戦争の記憶に重点を置くのに対して、トム・リン(林書宇)監督は、日本人庭師という、ある種神秘的な異邦人が山中の異空間で庭園づくりをしているというモチーフそのものを映像化する方に傾注しているような印象を受けた。今作はトム・リン監督の第四作であり、私自身も過去の三作(「九降風(九月に降る風)」、「星空」、「百日告別」)はすべて観ている。過去の作品とのつながりを考えると、次のことが言えるだろう。
 
 第一に、青々とした茶畑が広がる高原は見渡すかぎり美しく、その先の密林の中にひっそりとたたずむ日本式庭園は、その存在そのものが神秘的である。私が想起したのは、「星空」で二人の少年少女が隠れ家にした山中の家との共通性である。「星空」は幾米(ジミー)の絵本を原作としているため西洋的な雰囲気であったが、「夕霧庭園」の場合、マレーシアの高原の奥地における日本式家屋というたたずまいそのものが、日本人以外にとってはファンタジックであろう。それは、戦争の記憶に苛まされる「この世界」と対比された、ある種の浄化を求め得る「異世界」として位置付けられる。
 
 第二に、雲林は妹を見殺しにしてしまったという自責の念を抱えている。妹の夢見ていた日本式庭園を彼女にかわって作るという試みは、妹の供養のためであるが、そうした努力そのものが自分自身の納得のためである。そして、日本式庭園を造るためには、他ならぬ仇敵・日本人と関わらなければならない。直視したくない過去と向き合わなければならないというテーマは、トム・リン監督が自らの妻を失って悲嘆にくれた日々を題材とした「百日告別」と共通する。
 
 このように検討してみると、陳團英の原作は戦争の記憶とその和解をテーマにしている。言い換えると、民族的もしくは社会的対立の和解に重点を置くのに対し、トム・リン監督が描こうとしているのは、原作のテーマを受け継ぎつつも、この映画における和解とは、個人の内面においていかに過去と向き合うかに焦点が合わされているように考えられる。
 
監督:林書宇(トム・リン)
出演:李心潔、阿部寛
原作:陳團英『夕霧花園』(莊安祺譯、貓頭鷹出版、2015年)/The Garden of Evening Mists by Tang Twan Eng(2012)
2019年/マレーシア/120分
(2019年12月23日、台南・真善美戲院にて)

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