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2019年2月

2019年2月 6日 (水)

D・コーエン/戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体──パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』

D・コーエン/戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体──パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』(ちくま新書、2018年)
 
 東京裁判をめぐっては玉石混淆を問わずおびただしい研究成果が生み出されてきた。現時点で代表的なものと言えば、歴史学としての粟屋憲太郎『東京裁判への道』(上下、講談社選書メチエ、2006年)、国際関係史の枠組みから論じられた日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008年)といったあたりが挙げられるだろうか。ただ、いずれもタテ・ヨコの相違はあっても、広義の政治史の範疇に属する。これらに対して、本書は純粋に法理学の立場から東京裁判の判決書を分析しているところに特色がある。
 
 東京裁判では戦勝国から11人の判事が選任されており、判決では多数派判決の他、パル、レーリンク、ウェブ裁判長などがそれぞれ反対意見や個別意見を提出したことはよく知られている。本書は多数派判決、パル判決、レーリンク判決、そしてウェブの判決書草稿のそれぞれが分析されている。
 
 多数派判決は共同謀議の枠組み作りにこだわるあまり、個々の被告の罪状認定がおろそかにされていたという欠点がある。では、反対意見はどうであったか。例えば、パル判決は東京裁判の成立根拠を根本的に否定していたため、日本で人気が高い。しかしながら、法理学の立場から分析する本書によると、彼の判決書は政治的主張ばかり押しだされて法的根拠に乏しく、裁判官としての資質に問題があると酷評されている。また、レーリンク判事は政治的配慮に流されてしまい、便宜主義的な矛盾が見られるという。
 
 意外なことに、本書が最も高く評価するのはウェブ裁判長によって執筆された判決書草稿である(なぜ意外かと言えば、ウェブ裁判長は短気で強引な性格のため、当時の裁判関係者から判事としての資質に疑問が投げかけられていたからである)。ウェブは最終的には多数派判決に従ったが、必ずしも全面的に同意していたわけではなく、個別意見を付していた。彼はその個別意見とは別に、完結した判決書草稿を用意してあったが、結局、裁判所には提出されなかった。本書ではその草稿を掘り起こして分析が進められているが、ウェブはまず適用されるべき法的基準を明示し、個々の被告が有罪になった法的結論について一貫した説明を行っている点で、法的観点からすると他の判決書よりも優れた内容になっているという(もちろん、個々の事実認定においては問題もあるにせよ)。
 
 本書でなぜ東京国際裁判(及びニュルンベルク国際裁判)における個人責任追及の法的論理が重視されているかというと、旧ユーゴ国際刑事裁判やルワンダ国際刑事裁判など現代の国際戦争犯罪法廷を成立させる判例として認められているからである。戦争犯罪の個人責任追及は東京裁判やニュルンベルク裁判で初めて定式化されたという判例上の意義は、実は国際法や平和構築といった分野では常識的な論点なのだが、現代史に偏重した論者にはこうした東京裁判の現代的意義はしばしば見過ごされている。新書版という入手しやすい形式で本書が刊行されたことは、東京裁判をめぐる歴史的認識と国際法的認識とのギャップを埋め、現代的意義につなげていく上で有益と言えよう。

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2019年2月 4日 (月)

武田徹『日本ノンフィクション史──ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』

武田徹『日本ノンフィクション史──ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』(中公新書、2017年)
 
 台湾に住み始めてから思ったのだが、台湾の書店では社会派ノンフィクション的な本が比較的少ない。あったとしても、大半は日本や欧米の作品の翻訳だったりする。そうしたことを台湾人の知人に話そうとしたとき、この「ノンフィクション」を中国語でどう言ったらいいのか、困惑してしまったことがある。ジャンルとしては「報導文學」というのがあり、これはルポルタージュの中国語訳だが、ただ、「文学」となっているので、社会科学的傾向の強いものは含まれないだろう。そもそも、日本語で言う「ノンフィクション」というのもかなり曖昧な概念であり、よく分からない。そうした問題関心から本書を手に取った。
 
 ルポルタージュという場合には、アンドレ・ジイド『ソビエト旅行記』が一つの画期となるようだから、中国語でルポルタージュを「報導文學」とされるのもうなずける。「ノン・フィクション」(非フィクション。以前は「・」をつけて、非の意味が強調されていたらしい)は、英語圏で小説=フィクションとは異なる様々なジャンルの総称として使われていたが、日本ではまた独自な展開を遂げた。
 
 本書は物語分析論を応用しているところに特徴があり、書き手が一人称として登場するか、書き手が俯瞰する形で三人称を用いて語られるかという違いに注目している。ジャーナリズムとして客観報道を心掛けるなら三人称が望ましいだろうが、ただし、ノンフィクションには読み物としての側面もあり、物語をなめらかに構築しようとすると脚色が行われ、場合によっては事実に基づかない挿話が混ざり込んでしまう。一人称で語る世界なら、登場人物それぞれの視点の相違が明確にはなるが、語り手自身が意図的な振る舞いを取ることで物語的作為も生じやすい。事実の叙述と物語性との相剋はノンフィクションの宿命でもあり、そもそも学術文献とは違ってノンフィクション作品には注は付けられない。事実性の担保という点では、本書で沢木耕太郎の発言が引用されているように、「事実に殉じようという意識」(215頁)という語り手の倫理性にかかってくる。
 
 日本のノンフィクションにおいて大宅壮一の存在感が大きいが、集団分業体制(データマンとアンカーマン)のアイデアを出したのも、もともとは大宅だったという。週刊誌が重要な発表媒体になっていた点に、日本におけるノンフィクションに特有な要因の一つがある。新聞社系週刊誌なら記者が動員できるが、出版社系ではそうもいかない。そこで、大宅壮一の弟子筋にあたる草柳大蔵が集団分業体制を持ち込んだという。大宅の弟子筋で言うと、もともと作家志望であった梶山季之が書き手自身を前面に出そうとする一人称的な文体を、対して草柳大蔵がデータ・ジャーナリズムとして三人称的な文体へ向かったという対比が興味深い。
 
 本書では他に映像によるドキュメンタリーの問題やニュージャーナリズムの登場以降の動向も論じた後、最終章では物語化の過程で失われた科学性や細部を取り戻すという点で「アカデミック・ジャーナリズム」に期待を寄せる。また、大宅壮一文庫の検索システムと人類学で活用されているHRAF(Human Relation Area Files)との類似にも注意を喚起している。こうしたあたりから、事実と物語とのゆらぎにノンフィクションを捉えつつ、その上で事実性へこだわっている姿勢がうかがわれる。
 
 私としては二つの点からノンフィクションに関心がある。第一に、私自身は台湾史を調べているが、叙述方法としては学術論文としてよりも、ノンフィクション的な志向性があること。第二に、台湾で発表されたノンフィクション作品を振り返ってみるときに、そのカテゴリー分けや叙述方法を考える上で本書は参照軸となり得る。

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2019年2月 2日 (土)

髙橋大輔『漂流の島──江戸時代の鳥島漂流民たちを追う』

髙橋大輔『漂流の島──江戸時代の鳥島漂流民たちを追う』(草思社、2016年)
 
 太平洋の孤島、鳥島。江戸時代、記録で判明している限りでは、6グループの漂流民が鳥島でサバイバル生活をくぐり抜け、生還した。その中には1841年に漂着し、アメリカ捕鯨船に救助されたジョン万次郎も含まれている。生還できなかった人々はひょっとしたらもっと多数に上るのかもしれない。彼らの漂流譚はやはり好奇心がそそられるのだろう、例えば井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』、織田作之助『漂流』、吉村昭『漂流』などの作品でも描かれている。
 
 著者はロビンソン・クルーソーのモデルとなったスコットランド人アレクサンダー・セルカークが漂流した南米チリの孤島へ行き、その住居跡を探し当てたことがある。その著者は次に鳥島を調査対象に選んだ。明治以降、アホウドリ捕獲のため、あるいは気象観測のため鳥島へ移住した人々もいたが、火山噴火の危険があり、またアホウドリ保護の名目から、現在ではアホウドリ調査や火山調査の専門家が時折滞在するのみで、渡航には管轄する東京都の許可が必要である。著者は文献を読み漁り、鳥島滞在経験者の話を聞き歩いて予備調査をしている中、山階鳥類研究所の作業に同行する形で2010年に鳥島へ渡ることができた。
 
 六日間ほどの鳥島滞在で洞窟などを見て回り、かなりの手ごたえを著者は得た。さらなる調査を期して次の計画を立てるが、東京都側から許可を得ることができず、二回目の調査は結局、不可能になってしまう。それでも、実地に島を見た体験をもとに、文献記録や滞在経験者の話を繋ぎ合わせ、江戸時代の漂流民の過酷なサバイバル生活を想像していくところは、推理小説を読むようにスリリングだ。調査計画は中途半端な形になってしまったにせよ、探検というのも一つの事業計画であり、企画を立ち上げ、協力者を探し、手がかりを求めて粘り強く試行錯誤するプロセスそのものに読み応えがある。

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2019年2月 1日 (金)

松沢裕作『生きづらい明治社会──不安と競争の時代』

松沢裕作『生きづらい明治社会──不安と競争の時代』(岩波ジュニア新書、2018年)
 
 ある時代の特徴というか、イメージの捉え方は、振り返ろうとしている現代の我々自身の問題意識の取り方によって大きく違ってくる。明治時代のイメージはどうであろうか。例えば、司馬遼太郎『坂の上の雲』の場合、明治のポジティブな健全さが強調されていた。それは昭和の軍国主義と対比する作者自身の執筆動機や、この作品が受け入れられた時代状況との関わりから解釈されるべきであろう。
 
 本書では逆に、「生きづらい」というネガティブな時代状況に注目しながら明治社会の諸相が描き出される。江戸から近代社会への急激な社会変動は、後世の我々からすればドラマチックで興味深く見えるが、当事者の身になれば、先の見通せない不安に耐えがたい思いをしていたかもしれない。江戸時代の村における助け合いの仕組みはこの社会変動で解体され、立身出世に向けて自助努力が促される。他方で、努力や勤勉を強調する「通俗道徳」(江戸時代からすでに流布していた)は、貧困層や弱者に「怠け者」のレッテル貼りをする。そもそも明治新政府は歳入不足から社会保障に回すお金はない。恤救規則への批判は、現代日本社会で見かける「生活保護」バッシングと二重映しになってくる。女性の立場は弱く、身売りされたり、女工としての待遇も悪かった。
 
 本書では各章ごとに下記に掲げる論点を取りながら、現代社会でも見聞きされる社会問題とうまくリンクされており、身近なところから想像力を働かせやすい構成となっている。初学者向けの概説書としてよく工夫されている。
 
第一章 突然景気が悪くなる──松方デフレと負債農民騒擾
第二章 その日暮らしの人びと──都市下層社会
第三章 貧困者への冷たい視線──恤救規則
第四章 小さな政府と努力する人びと
第五章 競争する人びと──立身出世
第六章 「家」に働かされる──娼妓・女工・農家の女性
第七章 暴れる若い男性たち──日露戦争後の都市民衆騒擾
 
 本書でとりわけ強調されるのは、「通俗道徳」に見られる自己責任言説に明治の一般民衆もはまりこみ、自縄自縛に陥っている姿である。そうした様相を描き出すことは同時に、歴史を一つの鏡としながら、「通俗道徳のわな」にはまらないよう、それを見抜く眼力を磨き上げようという読者へのメッセージにつながっている。

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桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす──混血する古代、創発される中世』

桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす──混血する古代、創発される中世』(ちくま新書、2018年)
 
 「武士」の起源について、従来の学説ではきちんと説明されてこなかった、というのは驚いた。本書では「武士」の成立過程について、官職にあぶれて地方の所領に利権を求めた王臣子孫と、現地社会における有力古代氏族との融合という視点から説明を試みている。既存の見解に対する挑戦的な筆致が面白い。 
 
・新参者の王臣子孫が坂東の社会に溶け込んだ→「本来なら排除されるべきよそ者が、その既成の社会に受け入れられ、溶け込み、同化させてもらえたのは、彼らが持つ唯一の価値ある財産=貴姓を手土産にしたからだ。地方豪族の婿になり、彼らの孫を貴姓にする形で、王臣家は自分の貴姓を彼らに与え、ギブ・アンド・テイクの関係で融合し、しかもそうした融合は何世代もかけて何重にも結ばれた。八分の七も現地豪族の血が流れる藤原秀郷は、その最も典型的な成功例だ。」「その結果完成したのが、看板だけ藤原氏で実質的に現地豪族である“藤原秀郷”という作品だった。」(236頁)
 
・「国造の時代から何世紀もかけて形成された、古代の郡司富豪層の地方社会に対する支配的地位と、彼らの濃密なネットワークに、血筋だけ貴い王臣子孫が飛び込み、血統的に結合して、互いに不足するもの(競合者を出し抜くための貴さと地方支配の力)を補い合った。そして秀郷流藤原氏は蝦夷と密着した生活から、源平両氏は伝統的な武人輩出氏族(将種)の血を女系から得て、傑出した武人の資質を獲得した。武士とは、こうして【貴姓の王臣子孫×卑姓の伝統的現地豪族×準貴姓の伝統的武人輩出氏族(か蝦夷)】の融合が、主に婚姻関係に媒介されて果された成果だ。武士は複合的存在なのである。」(269頁)
 
・「武士の内実は地方で、制度を蹂躙しながら成立・成長したが、京・天皇が群盗に脅かされた時、それを「武士」と名づけて制度の中に回収し、形を与えたのが京の宇多朝であり、その背後には「文人」と「武士」を両立させる宇多朝特有の《礼》思想的な構想があった。武士は、王臣家の無法や群盗の横行という形で分裂を極めた中央と地方に、再び結合する回路を与えた。滝口経験者として坂東の覇者となった将門は、まさにその体現者だ。」「武士は、京でない場所(地方)だからこそ生まれた。しかし、地方の土地や有力豪族の社会だけからは、「武士」という創発に結実する統合は起らなかった。そこに、王臣子孫という貴姓の血が投入されて、初めてその統合・創発は始まるのである。」(318頁) 
 
 中世において地方では土地の収奪競争が激化し、混乱を極めていた。国司襲撃も頻発しており、位階を持つ王臣子孫はそうした事件を起こしても大した罪には問われなかった。地方豪族と王臣子孫との融合として成立した「武士」は、むしろ地方社会での紛争裁定者としての役割が期待されていた。平将門の場合は、紛争裁定のつもりで武力を行使し、当事者の片方に肩入れし過ぎ、やり過ぎたことで規模が拡大したが、「新皇」を名乗ったという特殊性を除けば、必ずしも例外的ではなかったという。「武士」は地方と中央との融合的存在として扮装調停者の役割を果たそうとしていたからこそ、後になって「幕府」として統治を志向するようになったのではないかと本書では指摘されている。

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