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2018年2月18日 - 2018年2月24日

2018年2月23日 (金)

武井弘一『茶と琉球人』

武井弘一『茶と琉球人』(岩波新書、2018年)
 
 本書ではまず、近世琉球は自立していたのか?という問いを立て、その答えを探るため琉球をめぐるモノの動き、とりわけ茶の流通に注目する。当時の琉球人が人吉の球磨茶を好み、その輸入に躍起になっていたというのは初めて知った。琉球の歴史を考える際、薩摩藩=支配者、琉球国=被支配者という政治的側面に目が奪われがちだが、もちろんそれは間違っていないにせよ、本書では球磨茶の消費者としての近世琉球に着目し、生活経済史のレベルから捉えようとする。当時の琉球は実は貿易赤字で、見方を換えると貿易に依存せずとも琉球人の暮らしは成り立っていた。つまり、近世琉球社会は農業を土台として自立していたというのが本書の結論である。

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末木文美士『思想としての近代仏教』

末木文美士『思想としての近代仏教』(中公選書、2017年)
 
 本書はもともと別の媒体に発表されていた論考を集めた論文集の形をとるが、個別論点を通して日本近代思想史における仏教の位置づけを捉える視座を提供してくれる。序章に「伝統と近代」を置いて全体的な見通しを示し、「Ⅰ 浄土思想の近代」では清沢満之と倉田百三、「Ⅱ 日蓮思想の展開」では田中智学と創価学会の理論家だった松戸行雄を取り上げ、「Ⅲ 鈴木大拙と霊性」、「Ⅳ アカデミズム仏教研究の形成」では仏教研究の展開を論じ、「Ⅵ 大乗という問題圏」という流れで構成されている。
 
 私が関心を持った論点は次の通り。序章ではいわゆる「葬式仏教」の重要性を指摘した上で、「近代日本が天皇中心の家父長制的体制を基盤として形成される中で、仏教もまたその一翼を担い、葬式仏教としてその体制を支えた。それに対して『近代仏教』は、近代の先端的な言説に食い込もうとする知識人の営みとして理解することができる」(40頁)とする。田中智学については、国体論と『法華経』優越が並立しており、「智学の国体論は、多くの主流の国体論と大きく異なり、あくまで仏教の立場を譲らず、国体論そのものを解体しかねない異端的な要素を強く持っていた」(163頁)という指摘に興味を持った。息子の里見岸雄はそうした智学における仏法と国体の二元的矛盾を整理して首尾一貫したものにしたが、そのため矛盾ゆえの可能性を消してしまったと指摘される。「仏教研究方法論と研究史」は近代日本における仏教研究史となっており、分かりやすい。「大乗非仏説論から大乗仏教成立論へ──近代日本の大乗仏教言説」では村上専精の大乗非仏説論と宮本正尊の大乗仏教論が論じられるが、後者の時局性が目を引いた。

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2018年2月22日 (木)

大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝──人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』

大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝──人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』(パブリブ、2018年)
 
 ピエ・ノワール(pied-noir)とは、直訳すれば「黒い足」という意味だが、北アフリカにいたヨーロッパ系住民を指す。アルジェリアがフランス植民地だった時期、彼らは自らを「アルジェリア人」と考えていたが、1962年にアルジェリアが独立すると、それはアルジェリア国籍保持者を意味するようになったため、「ピエ・ノワール」という呼称が定着していったという。ただし、本書「はじめに」で詳しく説明されているようにその意味合いは多義的で、本書では植民地アルジェリアのほか、フランス保護領だったモロッコやチュニジアも含め、フランス本土への引揚者と広義に捉えて、関連する人物111人のプロフィールを紹介している。
 
 意外な人物が結構含まれているのに驚いた。アルベール・カミュ、アルベール・メンミといったあたりは想定していたものの、思想家ではジャック・デリダ、ルイ・アルチュセール、ジャック・アタリ、政治家では元首相のドミニク・ドヴィルパン、左派のジャン=リュック・メランション、俳優のダニエル・オートゥイユ、ジャン・レノ、それからファッション・デザイナーのイヴ・サン=ローランの名前も見える。日本風景論で著名な地理学者オーギュスタン・ベルクの父親で人類学者のジャック・ベルクもピエ・ノワールだという。
 
 紹介される人物のプロフィールをみていくと、独立反対の強硬派と反植民地主義との相剋が垣間見え、それはフランス現代政治における右派と左派の対立にもつながってくる。コラムの形でアルジェリア独立戦争に関わる背景も解説されており、1961年10月17日事件のことは初めて知った。アルジェリアに残留した「緑の足」、フランス軍に協力した「ハルキ」といった事項にも興味がひかれる。
 
 私自身は一応、台湾史を専門としているが、「大日本帝国」崩壊における脱植民地化と引揚というテーマから、世界史的な比較検討を行うにあたり、本書はフランスとマグレブ世界との関係という事例を知る上で格好な手引きとなるので、ありがたい。例えば、「ピエ・ノワールという呼称が1962年から広く使用されるようになると、当初は蔑んだ呼び方だったにもかかわらず、本土に移住した者たちは自らをピエ・ノワールと呼ぶようになる」(本書17頁)という指摘は、かつて日本「内地人」が台湾生まれの日本人を半ば軽蔑的に「湾生」と呼んでいたものが、戦後になるといつしか台湾生まれの人々自身がある種のノスタルジーをもって「湾生」を自称するようになったことと重なる。
 
 台湾、朝鮮半島、旧「満洲国」など中国大陸から引き揚げた人々の戦後体験というテーマはまだまだ開拓される余地がある。例えば、朝鮮半島からの引揚者に関しては、朴裕河『引揚げ文学論序説──新たなポストコロニアルへ』(人文書院、2016年)が文学というジャンルに限定的ながらも様々な人物を挙げて検討を加えている。『ピエ・ノワール列伝』のように引揚者の網羅的な人物リストがあると便利だと思う。

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2018年2月21日 (水)

星野靖二『近代日本の宗教概念──宗教者の言葉と近代』

 以前から気になっていた星野靖二『近代日本の宗教概念──宗教者の言葉と近代』(有志舎、2012年)を、一時帰国の機会にようやく読むことができた。
 
 「宗教」はreligionの訳語として、しばしば非歴史的な概念のように用いられるが、実際には近代日本の歴史的展開に合わせて「宗教」概念は組み上げられてきたという背景がある。とりわけ、明治になって伝来してプロテスタントが重要な契機となっており、また廃仏毀釈によって自らの存在証明を迫られた仏教がキリスト教に対する論争を通して理論的に磨き上げられてきた側面も看過し得ない。それぞれが自らの宗教伝統がより真正な「宗教」であることを弁証しようとして、より抽象度の高い「宗教」概念が要請された。本書では、内村鑑三、植村正久、小崎弘道、高橋吾良、大内青巒、井上哲次郎、井上円了、中西牛郎等々、明治初期におけるキリスト者、仏教者を含めて繰り広げられた論争を軸に検討している。
 
 本書には中西牛郎に関する論考が収録されているため、私としては目を通しておく必要があった。収録されているのは、第六章「中西牛郎の宗教論」、第九章「中西牛郎『教育宗教衝突断案』について──キリスト教の捉え直しと望ましい「宗教」という観点から」の二篇である。「キリスト教・仏教を問わず、近代的な人間知との関係において宗教が論じられていた明治20年代頃に、中西牛郎は超越性との関係性こそが宗教を宗教たらしめるものとし、宗教を宗教として比較する姿勢、少なくともそういった方向につながっていく理論的な枠組を持っていた」ことが指摘されている(129-130頁)。
 
 中西牛郎の生涯については本書284頁にまとめられているが、キリスト教、仏教、天理教、神道扶桑教と複雑な宗教遍歴を経ており、こうした履歴そのものが興味を惹かれる。中西牛郎については、以前、別ブログにて触れたことがあるが、日本統治時期の台北に来て、淡水税関等に勤務するかたわら、『臺灣日日新報』等に論説を発表していた。板垣退助と林献堂によって立ち上げられた「台湾同化会」にも関与し、警察から目をつけられてもいた(『台湾警察沿革史』)。
 
 私が中西牛郎に関心を持ったきっかけは、台湾キリスト教史の脈絡と関係がある。台北の有力な貿易商でキリスト教思想家としても知られていた李春生の伝記を、中西が漢文で執筆し、出版していたのである(台湾日日新報社、1915年)。中西と李春生との間にどのような関係があったのか、思想内在的なつながりがあったのか、そうしたあたりについて、時間を見つけて調べてみたいと考えている。

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2018年2月20日 (火)

【映画】「リバーズ・エッジ」

【映画】「リバーズ・エッジ」
 岡崎京子の原作を読んだのはいつのことだったろうか。川べりの草むらの中にひっそりと横たわる死体。実存的虚無を抱え込んだ心象風景には、その死体は非日常の象徴のように捉えられる。そうした印象だけ記憶していて、こんなストーリーだったかなあ、と思い返しながらこの映画を観ていた。
 
 過食症のモデル。セックスの身体的実感を通してようやく存在感をつかめる少女。セックスと暴力しかない、からっぽな男。同性愛であることを隠して、好きな相手(男)に気持ちを伝えられず、偽装的に女性と付き合う少年。彼らを、どこか冷めた視線で見つめている主人公。それは、映画の視点でありつつ、冷やかさ自体が一種の空虚感でもある。個々のエピソードは衝撃的ではあるが、原作は90年代の少年少女の心象風景をうまく切り取っていたように思う(それは、私自身が思春期を過ごした年代でもある)。煤煙や排水を吐き出し続ける工場、廃墟のような旧校舎は、殺伐とした心象風景を描き出す格好な道具立てになっているが、この映画ではきれいに撮りすぎているようにも感じた。
 
日本/2018年/118分
監督:行定勲
(2018年2月20日、TOHOシネマズ新宿にて)

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チャイナ・ミエヴィル『オクトーバー──物語ロシア革命』

チャイナ・ミエヴィル(松本剛史訳)『オクトーバー──物語ロシア革命』(筑摩書房、2017年)
 
 1917年のロシア革命は、実に様々な人物がそれぞれの政治的思惑をもってせめぎ合い、また合従連衡を繰り返し、群像劇としてこの上なく魅力的な舞台と役者を用意してくれた。本書はそれを見事に活用して面白い政治劇を活写している。
 ニコライ二世の無気力、ケレンスキーの戸惑い、そして転変していく状況にのっかっていくレーニン。登場人物は彼らに限らず、次々と現れては消えていくし、二月革命から十月革命にいたる出来事を網羅的に拾い上げながらも、冗漫に流れることなく、一気呵成に読み終えた。分析的に整理することなく、時系列にそって語られるから、その後のことを予期できない登場人物の驚き、戸惑い、判断ミスが、その都度ありありと浮かび上がってくるところが面白い。

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