« 2017年7月2日 - 2017年7月8日 | トップページ | 2018年2月4日 - 2018年2月10日 »

2018年1月14日 - 2018年1月20日

2018年1月14日 (日)

【映画】「三度目の殺人」

 こちらに書くのは久しぶり。現在生息中の台南ではまともな映画はなかなか観られないので、用事があって高雄へ出たついでに是枝裕和監督「三度目の殺人」(中文題目:第三次殺人)を観てきた。
 
 多摩川の河川敷で起こった殺人のシーンから始まる。被害者はガソリンをかけて燃やされた。犯人として逮捕された三隅は、弁護士の接見を受けても証言を二転三転させるため、業を煮やした同僚から頼まれて、重盛が弁護を引き受けることになった。前言を次々と翻す三隅の言動に重盛が翻弄されるという形でストーリーが進む。重盛は当初、「真実など興味ない。法廷技術として有利な条件を使って勝てばいい」というシニシズムを基本としていたが、そうした態度も三隅と接触しながら変容していく。
 
 三隅は「空っぽの器」のような存在という設定が本作のカギとなる。彼は相手の体温を感じ取ることで、その気持ちを自らに同化させてしまうという特性を持っていた。従って、殺人は、別人の恨みを感じ取って実行されている。また、証言が二転三転するのも、警察や検察の取り調べ、弁護士の接見、さらには雑誌記者の取材、その都度、相手の望むことを感じ取って話していたからである。
 
 重盛は、三隅はある少女を守るためにその父を殺害したのではないかと疑う。その少女も、三隅を救うために証言を希望していた。だが、少女が証言すれば、検察はその信憑性を崩すため、ありとあらゆる質問を浴びせかけてくるだろう。少女が傷ついてしまうのを重盛は恐れた。その心配が三隅にも伝わったのだろう、彼は殺人を一切否認するという形で裁判を混乱させ、少女が傷つくのを防いだ。その結果、彼は死刑判決を受ける。その後、重盛が、三隅は少女を守るため荒唐無稽な犯行否定をしたのではないか?と尋ねたところ、三隅の答えは「そうだとしたら素晴らしいですね」とまるで他人事のようだった。おそらく、彼はその都度他人の気持ちに同化しただけなので、そもそも記憶がないのかもしれない。
 
 最終的には、真実は分からない、という古典的なオチになる。「藪の中」的なストーリー構成だが、三隅というトリックスターを導入することで、裁判関係者の彼に対するコメントを通して司法をめぐる様々な論点が浮き彫りにされていくという工夫がこらされている。死刑の是非。犯罪は社会が生み出すのか、生まれつきなのか。真実への信頼と、逆に重盛のようなシニシズム。さらには、生命の選別等々、倫理的な話題にまで及ぶ。こうした論点の変化に応じて、三隅の犯行動機についても、快楽殺人から人助けまで大きな振幅が示される。
 
 三隅という人物の善悪を超えた凄みは、役所広司の良くも悪くも特色のない表情だからこそ、うまく表現し得ている。
 
(2018年1月13日、高雄大遠百・威秀影城にて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年7月2日 - 2017年7月8日 | トップページ | 2018年2月4日 - 2018年2月10日 »