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2018年3月

2018年3月26日 (月)

橋本健二『新・日本の階級社会』

橋本健二『新・日本の階級社会』(講談社現代新書、2018年)
 
 かつて日本社会の誇るべき特性として喧伝された「一億総中流」という言説が破綻してすでに久しい。社会格差の拡大が現実の問題として議論され始めたとき、私自身も相当なショックを受けた覚えがある。しかしながら、高度成長期にあっても実際には社会格差は厳然としてあり、ただそこに社会的関心が向けられていなかっただけである。「一億総中流」言説の原型は村上泰亮の「新中間階層」論に求められるが、そこで参照されていたデータは「階級帰属意識」の世論調査に基づいており、それはあくまでも「自分の生活程度をどう思うか」という個々人の意識を問うているだけで、社会的実体を調査したものではなかった。1970年代には階級帰属意識と実際の収入や社会的地位との相関にズレがあり、また設問方法も中流意識を導きやすいものであったという。いずれにせよ、日本もまたとうに昔から格差社会であった。
 
 本書によると、そうした日本社会における階級構造が近年大きく変動している。端的に言うと、かつては資本家階級(生産手段の所有者、統計データ上は5人以上の従業員を抱える企業の経営者)・旧中間階級(自営業者、農民等)・新中間階級(被雇用の管理職、専門職、上級事務職)・労働者階級の四階級構造を成していたが、現在は労働者階級がさらに分化して、資本家階級・旧中間階級・新中間階級・正規労働者・アンダークラス(非正規労働者)の五階級構造へと転換したことが指摘される。そして、かつては資本家階級とその他三階級との間に分断線が引かれていたものが、現在では分断線が下方へ移動し、アンダークラスとその他四階級との間に見られる異質性が顕著になりつつある。本書はSSM調査(社会階層と社会移動全国調査、1955年より10年ごとに実施)や2016年首都圏調査等のデータを用いながら、このように階級分断が進行しつつある日本社会の現状を検討する。
 
 とりわけ深刻なのは、アンダークラスの問題である。現代社会の利便性や快適さは彼らの低賃金労働によって支えられているが、彼ら自身はなかなか現状を打開するのが難しい状況にある。「彼ら・彼女らは、ソーシャル・キャピタルの蓄積に欠けており、相互に連帯するような機会ももたない。身体的にも、また精神的にも問題を抱えていることが少なくない。そして何よりも、格差に対する不満と格差縮小の要求が、平和への要求と結びつかず、排外主義と結びつきやすくなっている。こうした現状をみると、格差縮小と貧困の克服を実現する政治的な回路というものが、見通せなくなってしまう。恵まれた階級の人々は格差が大きい現状に安住しがちであり、恵まれないアンダークラスは、格差縮小への要求を、誤った方向に向けて誤爆する」(246-247頁)と指摘されている。
 
 自己責任言説の浸透も、こうした分断の固定化につながりやすい。自己責任とは自分のなした選択に責任を負うという倫理であり、その意味では私も肯定する。しかしながら、自分の選択以前の条件にまで帰責してしまうのは論理的に言って不公正である。本書の最終章では所得再配分や教育機会の均等など格差縮小に向けた提言がまとめられているが、それらに同意するかどうかはともかく、また政治的立場の如何にかかわらず、まずこうした社会的分断という現実を直視した上で、次なる社会構想を議論する必要がある。

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2018年3月25日 (日)

伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス──政治と宗教のいま』

伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス──政治と宗教のいま』(岩波新書、2018年)
 
 フランスにおいて公教育の政教分離という考え方からムスリマのスカーフ着用の是非が大きな社会的・政治的論争となったことは日本でもよく知られているが、こうしたフランスのおける政教分離体制を「ライシテ」(laïcité)という。本書によると、次のように説明されている。
 
「宗教的に自律した政治権力が、宗教的中立性の立場から、国家と諸教会を分離する形で、信教の自由を保障する考え方、またはその制度のことである。法的な枠組みでもあるが、国民国家のイデオロギーとして、さまざまな価値観とも結びつく。それゆえ、ひとつの逆説として、宗教から自律しているはずのライシテ自体が、あたかもひとつの宗教であるかのような相貌で立ち現れてくる場合もあるだろう。」(15-16頁)
 
「もともとライシテは、共和派対カトリックの『二つのフランスの争い』の歴史のなかで発展を遂げ、その争いに調停をもたらす成果をあげたものである。政治的には左派の原理であった。」「ところが、1989年のスカーフ事件以降、ライシテはムスリム系移民の人権や統合の問題と絡めて論じられるようになった。2001年の9・11以降は、ムスリムに対する社会の視線がいっそう厳しくなり、多様性の共存よりも共和国への統合が強調されるようになる。それにつれて、右派がライシテを共和国の統合原理としていくようになる。」「このような状況のなかで、ライシテは左派内部の分断を明るみに出しかねないテーマとなる。左派には、宗教批判を共和国の精神と見なす者と、リベラルな立場から宗教的マイノリティの人権を重視する者がいるからである。」(13-14頁)
 
 本書はライシテをめぐる論点を歴史的背景から説き起こし、紆余曲折を経る中で、宗教と政治の領域を峻別する「分離のライシテ」から宗教の社会的・公共的な役割を認める「承認のライシテ」へ移行したことが指摘される。ライシテは、本来の理念から言えば多様な価値観・世界観を調整する法的枠組みとなるはずだが、実際には様々に矛盾もはらみ、ライシテの理念をもとに排除と統合も繰り返されて来た経緯も見えてくる。「カト゠ライシテ」というのは本書で初めて知った。「現代のライシテには、かつて敵対したカトリックをフランスの文化や伝統として取り込み、ナショナル・アイデンティティを強化するカト゠ライシテの論理があり、それがイスラームに対峙する構図が見られる」(90頁)と指摘される。第三章ではフランスにおけるイスラーム側からの多様な議論も紹介している。最終章ではケベックや日本を事例として、ライシテ概念をもとに政教構造の国際比較の可能性も提示している。

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