内田隆三『乱歩と正史──人はなぜ死の夢を見るのか』
内田隆三『乱歩と正史──人はなぜ死の夢を見るのか』(講談社選書メチエ、2017年)
日本の探偵小説といえばまず名前の思い浮かぶ江戸川乱歩と横溝正史──本書はこの二人の作家を軸として、第一次世界大戦後の大正・昭和初期から第二次世界大戦を経て戦後にかけて探偵小説がいかに創造されてきたのかを読み解いていく。詳細な作品分析が展開され、論点は多岐にわたるが、私が興味を持ったのは次の二点。
・江戸川乱歩「芋虫」と三島由紀夫「憂国」とを対比し、物語の構図が逆説的に変形の関係にあるという指摘(196-205頁)。国家という共同幻想と性愛との関係をめぐり、「『芋虫』では犠牲を求める大義が性愛の物語の背景として冷酷な闇のように存在しており、『憂国』では性愛の情景が神聖な大義の美しい影絵のように浮かび上がる」という好対照が見出せる。「『芋虫』では、性愛が自立するとともに共同幻想の地平が後景化していき、代わりに、人間であることの悲哀が夫の目に宿り、性愛の地平を脅かす。他方、『憂国』では、性愛は大義と道徳に癒合し、それらに守られて夢見るような昇華を遂げるだけであり、この点は単調である。」
・横溝正史『本陣殺人事件』に対して乱歩が「心理的な要素への配慮が乏しいこと」、「犯人に悪念が感じられないこと」、従って「犯罪のトリックに心理的な奥行き」がないとして批判していたことを手掛かりに、二人の発想を対比させ、乱歩を「経済学の視点」、正史を「民族誌の視点」と捉える指摘(286-299頁)。乱歩の場合、個人心理を基盤とする発想を持っており、それは彼が大学で学んだアダム・スミス風の経済人の仮構に寄り添っているからだという。乱歩が孤独な個人の心理過程を前提としているのに対して、正史が想像力を刺激されたのは「個人の行為の半ばは無意識的な奥行きをなす、共同体の『習俗』の次元に横たわる心理過程」だったと指摘される。「横溝の物語が言及するのは集団にひそむ悪念であり、それは個人の善意とさえ重なり合う可能性がある」。だから、横溝作品では『八つ墓村』や『犬神家の一族』のように地方社会の土俗的雰囲気がうまく活用されていたわけである。横溝は岡山県に疎開していたとき、地元の人から土地の人情風俗を聞いており、そうした体験が作品に生かされていた。ただし、舞台は奥深い山村で完結しているのではなく、都市の視点も交錯しており、「事件の現場は家の習俗が近代的な社会性の場と交叉する地点に設定されている」とも指摘される。
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