南後由和『ひとり空間の都市論』
南後由和『ひとり空間の都市論』(ちくま新書、2018年)
私はここ数年来、主に台湾で暮らしている。台湾での生活は居心地が良いが、時折物足りなく感じるのは、街の中に「ひとり」でいられる空間が、日本と比べると少ないことだ。例えば、ひとりで酒でも飲もうと思って飲食店に入っても、複数人で入るのが当たり前という感じで、若干の敷居の高さを感じる(別に一人だからといって拒絶されることはないのだが)。敬愛する評論家の川本三郎さんは東京歩きをテーマとした作品の中で、街の居酒屋に入り、大勢の人々が雑然と集まっている中、「ひとり」で飲む楽しみをしばしば描いておられ、私もそうした感覚を共有しているのだが、その川本さんが以前、台湾で講演された折、「台湾にはひとりで飲める居酒屋が欠如しているのではないか」という趣旨のことを話しておられた。私も日本へ帰ると、こうした「ひとり空間」の意義がやはり気にかかり、そうした関心から本書を手に取った。
本書では「状態としてのひとり」に着目して議論が展開されており、それは「一定の時間、集団・組織から離れて「ひとり」であること」と定義される。「ひとり空間」では匿名性と精神的な距離感とを確保することが可能となり、孤独の中で自由を感じることができるという指摘をジンメルから援用している。孤立は客観的な状況を指すが、孤独は主観的な感じ方に重きが置かれる言い方である。第一章で前提となる概念について検討された上で、第二章では住まい、第三章では飲食店・宿泊施設、第四章ではモバイル・メディアをテーマとして、日本の都市における「ひとり空間」の展開が論じられ、それぞれケーススタディとして具体例も紹介される。
私などが居心地の良さを感じる居酒屋での孤独な自由感は、本書第三章で紹介される、かつて神島二郎が論じていた「単独者主義」と関わるのかもしれない。2000年代以降の変化は、当然ながらモバイル・メディアの変化と連動している。
「ひとり」をもし社会的孤立の観点から考えようとするなら、コミュニティ再構築という課題と関わってくる。本書ではP2Pプラットフォームを利用した「ひとり」同士のつながりについて終章で論じられている。それは、スキルや制作などの「生産」に媒介された結びつきをもとに都市型コミュニティの可能性を秘めているが、他方でスキルを「持つ者/持たざる者」という新たな格差も生じてしまう。P2Pプラットフォームを介した「ひとり」同士のつながりをどのように地縁的・物理的な近接性へと再び埋め込んでいけるのか、課題として提起される。
「ひとり空間」が日本の都市に特有な現象といえるのか、そのあたり、海外との比較をするなどもう少し掘り下げてクリアにして欲しいとは思ったが、都市空間における「ひとり」の様相について論点の仕分けをしてくれているので、今後の議論のたたき台として有用であろう。
| 固定リンク
「社会」カテゴリの記事
- ジェームズ・ファーガソン『反政治機械──レソトにおける「開発」・脱政治化・官僚支配』(2021.09.15)
- 岡田晴恵・田代眞人『感染症とたたかう──インフルエンザとSARS』(2020.04.21)
- 藤原辰史『給食の歴史』(2019.01.25)
- 橋本健二『新・日本の階級社会』(2018.03.26)
- 南後由和『ひとり空間の都市論』(2018.02.12)
「建築・都市論」カテゴリの記事
- 稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町──新宿、もうひとつの戦後史』(2018.02.13)
- 南後由和『ひとり空間の都市論』(2018.02.12)
- 豊川斎赫『丹下健三──戦後日本の構想者』(2016.05.13)
- 【映画】「空を拓く~建築家・郭茂林という男」(2012.10.25)
- ジョゼフ・R・アレン『台北:歴史の記憶が転位した都市』(2012.09.25)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント