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2018年2月

2018年2月23日 (金)

武井弘一『茶と琉球人』

武井弘一『茶と琉球人』(岩波新書、2018年)
 
 本書ではまず、近世琉球は自立していたのか?という問いを立て、その答えを探るため琉球をめぐるモノの動き、とりわけ茶の流通に注目する。当時の琉球人が人吉の球磨茶を好み、その輸入に躍起になっていたというのは初めて知った。琉球の歴史を考える際、薩摩藩=支配者、琉球国=被支配者という政治的側面に目が奪われがちだが、もちろんそれは間違っていないにせよ、本書では球磨茶の消費者としての近世琉球に着目し、生活経済史のレベルから捉えようとする。当時の琉球は実は貿易赤字で、見方を換えると貿易に依存せずとも琉球人の暮らしは成り立っていた。つまり、近世琉球社会は農業を土台として自立していたというのが本書の結論である。

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末木文美士『思想としての近代仏教』

末木文美士『思想としての近代仏教』(中公選書、2017年)
 
 本書はもともと別の媒体に発表されていた論考を集めた論文集の形をとるが、個別論点を通して日本近代思想史における仏教の位置づけを捉える視座を提供してくれる。序章に「伝統と近代」を置いて全体的な見通しを示し、「Ⅰ 浄土思想の近代」では清沢満之と倉田百三、「Ⅱ 日蓮思想の展開」では田中智学と創価学会の理論家だった松戸行雄を取り上げ、「Ⅲ 鈴木大拙と霊性」、「Ⅳ アカデミズム仏教研究の形成」では仏教研究の展開を論じ、「Ⅵ 大乗という問題圏」という流れで構成されている。
 
 私が関心を持った論点は次の通り。序章ではいわゆる「葬式仏教」の重要性を指摘した上で、「近代日本が天皇中心の家父長制的体制を基盤として形成される中で、仏教もまたその一翼を担い、葬式仏教としてその体制を支えた。それに対して『近代仏教』は、近代の先端的な言説に食い込もうとする知識人の営みとして理解することができる」(40頁)とする。田中智学については、国体論と『法華経』優越が並立しており、「智学の国体論は、多くの主流の国体論と大きく異なり、あくまで仏教の立場を譲らず、国体論そのものを解体しかねない異端的な要素を強く持っていた」(163頁)という指摘に興味を持った。息子の里見岸雄はそうした智学における仏法と国体の二元的矛盾を整理して首尾一貫したものにしたが、そのため矛盾ゆえの可能性を消してしまったと指摘される。「仏教研究方法論と研究史」は近代日本における仏教研究史となっており、分かりやすい。「大乗非仏説論から大乗仏教成立論へ──近代日本の大乗仏教言説」では村上専精の大乗非仏説論と宮本正尊の大乗仏教論が論じられるが、後者の時局性が目を引いた。

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2018年2月22日 (木)

大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝──人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』

大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝──人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』(パブリブ、2018年)
 
 ピエ・ノワール(pied-noir)とは、直訳すれば「黒い足」という意味だが、北アフリカにいたヨーロッパ系住民を指す。アルジェリアがフランス植民地だった時期、彼らは自らを「アルジェリア人」と考えていたが、1962年にアルジェリアが独立すると、それはアルジェリア国籍保持者を意味するようになったため、「ピエ・ノワール」という呼称が定着していったという。ただし、本書「はじめに」で詳しく説明されているようにその意味合いは多義的で、本書では植民地アルジェリアのほか、フランス保護領だったモロッコやチュニジアも含め、フランス本土への引揚者と広義に捉えて、関連する人物111人のプロフィールを紹介している。
 
 意外な人物が結構含まれているのに驚いた。アルベール・カミュ、アルベール・メンミといったあたりは想定していたものの、思想家ではジャック・デリダ、ルイ・アルチュセール、ジャック・アタリ、政治家では元首相のドミニク・ドヴィルパン、左派のジャン=リュック・メランション、俳優のダニエル・オートゥイユ、ジャン・レノ、それからファッション・デザイナーのイヴ・サン=ローランの名前も見える。日本風景論で著名な地理学者オーギュスタン・ベルクの父親で人類学者のジャック・ベルクもピエ・ノワールだという。
 
 紹介される人物のプロフィールをみていくと、独立反対の強硬派と反植民地主義との相剋が垣間見え、それはフランス現代政治における右派と左派の対立にもつながってくる。コラムの形でアルジェリア独立戦争に関わる背景も解説されており、1961年10月17日事件のことは初めて知った。アルジェリアに残留した「緑の足」、フランス軍に協力した「ハルキ」といった事項にも興味がひかれる。
 
 私自身は一応、台湾史を専門としているが、「大日本帝国」崩壊における脱植民地化と引揚というテーマから、世界史的な比較検討を行うにあたり、本書はフランスとマグレブ世界との関係という事例を知る上で格好な手引きとなるので、ありがたい。例えば、「ピエ・ノワールという呼称が1962年から広く使用されるようになると、当初は蔑んだ呼び方だったにもかかわらず、本土に移住した者たちは自らをピエ・ノワールと呼ぶようになる」(本書17頁)という指摘は、かつて日本「内地人」が台湾生まれの日本人を半ば軽蔑的に「湾生」と呼んでいたものが、戦後になるといつしか台湾生まれの人々自身がある種のノスタルジーをもって「湾生」を自称するようになったことと重なる。
 
 台湾、朝鮮半島、旧「満洲国」など中国大陸から引き揚げた人々の戦後体験というテーマはまだまだ開拓される余地がある。例えば、朝鮮半島からの引揚者に関しては、朴裕河『引揚げ文学論序説──新たなポストコロニアルへ』(人文書院、2016年)が文学というジャンルに限定的ながらも様々な人物を挙げて検討を加えている。『ピエ・ノワール列伝』のように引揚者の網羅的な人物リストがあると便利だと思う。

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2018年2月21日 (水)

星野靖二『近代日本の宗教概念──宗教者の言葉と近代』

 以前から気になっていた星野靖二『近代日本の宗教概念──宗教者の言葉と近代』(有志舎、2012年)を、一時帰国の機会にようやく読むことができた。
 
 「宗教」はreligionの訳語として、しばしば非歴史的な概念のように用いられるが、実際には近代日本の歴史的展開に合わせて「宗教」概念は組み上げられてきたという背景がある。とりわけ、明治になって伝来してプロテスタントが重要な契機となっており、また廃仏毀釈によって自らの存在証明を迫られた仏教がキリスト教に対する論争を通して理論的に磨き上げられてきた側面も看過し得ない。それぞれが自らの宗教伝統がより真正な「宗教」であることを弁証しようとして、より抽象度の高い「宗教」概念が要請された。本書では、内村鑑三、植村正久、小崎弘道、高橋吾良、大内青巒、井上哲次郎、井上円了、中西牛郎等々、明治初期におけるキリスト者、仏教者を含めて繰り広げられた論争を軸に検討している。
 
 本書には中西牛郎に関する論考が収録されているため、私としては目を通しておく必要があった。収録されているのは、第六章「中西牛郎の宗教論」、第九章「中西牛郎『教育宗教衝突断案』について──キリスト教の捉え直しと望ましい「宗教」という観点から」の二篇である。「キリスト教・仏教を問わず、近代的な人間知との関係において宗教が論じられていた明治20年代頃に、中西牛郎は超越性との関係性こそが宗教を宗教たらしめるものとし、宗教を宗教として比較する姿勢、少なくともそういった方向につながっていく理論的な枠組を持っていた」ことが指摘されている(129-130頁)。
 
 中西牛郎の生涯については本書284頁にまとめられているが、キリスト教、仏教、天理教、神道扶桑教と複雑な宗教遍歴を経ており、こうした履歴そのものが興味を惹かれる。中西牛郎については、以前、別ブログにて触れたことがあるが、日本統治時期の台北に来て、淡水税関等に勤務するかたわら、『臺灣日日新報』等に論説を発表していた。板垣退助と林献堂によって立ち上げられた「台湾同化会」にも関与し、警察から目をつけられてもいた(『台湾警察沿革史』)。
 
 私が中西牛郎に関心を持ったきっかけは、台湾キリスト教史の脈絡と関係がある。台北の有力な貿易商でキリスト教思想家としても知られていた李春生の伝記を、中西が漢文で執筆し、出版していたのである(台湾日日新報社、1915年)。中西と李春生との間にどのような関係があったのか、思想内在的なつながりがあったのか、そうしたあたりについて、時間を見つけて調べてみたいと考えている。

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2018年2月20日 (火)

【映画】「リバーズ・エッジ」

【映画】「リバーズ・エッジ」
 岡崎京子の原作を読んだのはいつのことだったろうか。川べりの草むらの中にひっそりと横たわる死体。実存的虚無を抱え込んだ心象風景には、その死体は非日常の象徴のように捉えられる。そうした印象だけ記憶していて、こんなストーリーだったかなあ、と思い返しながらこの映画を観ていた。
 
 過食症のモデル。セックスの身体的実感を通してようやく存在感をつかめる少女。セックスと暴力しかない、からっぽな男。同性愛であることを隠して、好きな相手(男)に気持ちを伝えられず、偽装的に女性と付き合う少年。彼らを、どこか冷めた視線で見つめている主人公。それは、映画の視点でありつつ、冷やかさ自体が一種の空虚感でもある。個々のエピソードは衝撃的ではあるが、原作は90年代の少年少女の心象風景をうまく切り取っていたように思う(それは、私自身が思春期を過ごした年代でもある)。煤煙や排水を吐き出し続ける工場、廃墟のような旧校舎は、殺伐とした心象風景を描き出す格好な道具立てになっているが、この映画ではきれいに撮りすぎているようにも感じた。
 
日本/2018年/118分
監督:行定勲
(2018年2月20日、TOHOシネマズ新宿にて)

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チャイナ・ミエヴィル『オクトーバー──物語ロシア革命』

チャイナ・ミエヴィル(松本剛史訳)『オクトーバー──物語ロシア革命』(筑摩書房、2017年)
 
 1917年のロシア革命は、実に様々な人物がそれぞれの政治的思惑をもってせめぎ合い、また合従連衡を繰り返し、群像劇としてこの上なく魅力的な舞台と役者を用意してくれた。本書はそれを見事に活用して面白い政治劇を活写している。
 ニコライ二世の無気力、ケレンスキーの戸惑い、そして転変していく状況にのっかっていくレーニン。登場人物は彼らに限らず、次々と現れては消えていくし、二月革命から十月革命にいたる出来事を網羅的に拾い上げながらも、冗漫に流れることなく、一気呵成に読み終えた。分析的に整理することなく、時系列にそって語られるから、その後のことを予期できない登場人物の驚き、戸惑い、判断ミスが、その都度ありありと浮かび上がってくるところが面白い。

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2018年2月16日 (金)

筒井清忠『戦前日本のポピュリズム──日米戦争への道』

筒井清忠『戦前日本のポピュリズム──日米戦争への道』(中公新書、2018年)
 
 近年、ポピュリズムという概念が注目を集めているが、これを大衆人気に左右される政治と解するなら、日本もかつて手痛い失敗を経験していたではないか。そうした問題意識から、本書は1905年の日比谷焼き討ち事件から1925年の普通選挙法成立をはさみ、1941年の対米開戦に至る歴史的経緯を通して戦前期日本の政党政治がポピュリズムによって崩壊していく過程を解き明かす。
 
 日本におけるポピュリズム的政治の始まりは、「大衆」の登場とそれを動かす新聞の存在が重要な要素であり、日露戦争講和後の日比谷焼き討ち事件で顕在化する。次に、本書では若槻礼次郎内閣が「朴烈怪写真事件」で動揺した様子を分析しているが、「朴烈問題で「天皇」の政治シンボルとしての絶大な有効性を悟った一部の政党人が、以後これをたびたび駆使し、「劇場型政治」を意図的に展開」し、こうした傾向はさらに統帥権干犯問題や天皇機関説事件という形で繰り返されることになる(91頁)。
 
 朴烈事件を倒閣運動に利用できると洞察したのは北一輝であったが、「彼ら超国家主義者こそむしろ、大衆デモクラシー状況=ポピュリズム的状況に対する明敏な洞察からネイティヴ大衆の広範な感情・意識を拾い上げ、それを政治的に動員することに以後成功していくのである」(92頁)。天皇機関説問題では、「まず二大政党の腐敗と地方農村の窮状を訴え、弱者=庶民の側から「貴族院議員美濃部達吉東京帝国大学名誉教授」を攻撃する、という手法は見事なまでの大衆動員上の成功を収めたのだった。朴烈怪写真事件以来の天皇シンボルのポピュリズム的追求はここに頂点を迎え、それは平等主義に支えられつつ天皇周辺の国際協調主義的「重臣層」の窮迫化・弱体化につながっていったのだった」(237頁)。
 
 戦争やテロの報道そのものが「劇場型大衆動員政治」の格好の素材となった。マスメディアはこうした状況を後押ししただけでない。普通選挙は本来、大衆の政治参与を促がしたはずであるが、政党政治はそのもたらした弊害のゆえに嫌悪されるようになり、マスメディアによる既成政党政治批判は代わって清新な代替勢力として「無産政党」、「軍部」、「近衛新体制」などをもてはやすようになる。
 
 このように見てくると、戦前期日本においては天皇シンボルとマスメディアの扇動とが結合したところにポピュリズム的政治現象が立ち現れていた状況が分かる。
 
 清沢冽がポーツマス会議における桂太郎・小村寿太郎とジュネーブ会議における斎藤実・内田康哉とを比較した分析を紹介している。第一に、前者は断固として講和をまとめる意志があったが、後者は輿論の動向に責任転嫁しようとした。第二に、前者は国際的孤立を避けようとしたが、後者は進んで孤立しようとした。第三に、日清・日露戦争中には「衆論に抗して毅然と立つ少数有力者」がいたが、後者の時点ではそうした者が見当たらなかった(207-209頁)。
 
 大衆政治時代において外交の独立性が保たれ得るのかどうかは国際政治学で常に問題となるところではある。少なくとも、日本自身がかつて戦争へ突入するという国策上の大失敗を呈した背景にポピュリズム政治状況があった点は念頭に置いておく必要があろう。

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2018年2月15日 (木)

【映画】「花咲くころ」

【映画】「花咲くころ」
 1992年、ジョージア(グルジア)の首都・トビリシ。中学校に通う二人の少女、ニカとナティアは無二の親友。大人へと背伸びしたい年ごろ。悪ガキどもからちょっかいを出されたりもするが、権威主義的な教師に退席を命じられると、彼らも含めクラスメートも一緒に外へ飛び出したり、意外と連帯感がある。
 
 トビリシの歴史を感じさせる古びた石造りの街並み。坂の多い街で、年代もののロープウェイも現役だ。郊外に出れば、木々の豊かな緑と小川のせせらぎが、気分をホッとさせる。アパート群は旧ソ連時代のものか。これらを背景に少女たちが闊歩し、にわか雨に見舞われたら、土砂降りの中を駆けていく姿は絵になる。配給の行列に並ぶ喧噪も、少女たちにかかれば楽しそうだ。大人びたナティア、どこか生真面目なニカ、二人ともそれぞれに凛々しく、美しい。
 
 しかしながら、二人とも複雑な家庭事情を抱えていた。ニカの家には父の姿がない。ナティアの父は飲んだくれて、母に暴力を振るっている。そう言えば、街中を歩いているのも女性、子供、老人ばかりで、男性が少ないように見える。いるとしても、チンピラか、銃を抱えた物騒な奴らばかり。人々の会話やラジオから聞こえてくるツヒンヴァリ(南オセチアの首都)、アブハジアといった地名は内戦を暗示している。どこか殺伐とした空気。ナティアは恋人から護身用にとピストルを渡された。
 
 映画の中盤で、ナティアがそれまで付きまとわれていた男に誘拐される。その場にいたニカが止めようとしても力が及ばない。周囲の人は傍観するばかり。略奪婚の風習がいまだに残っていた。内戦、男性優位の伝統──穏やかなように見えた街の中に暴力が日常的に浸透している現実に、ハッと気づかされる。
 
 ナティアは略奪婚の現実をやむを得ず受け入れようとする。彼女は誕生日に実家へ戻り、おばあちゃんがバルコニーにしつらえてくれた食卓で親友のニカと二人向き合い、ワインで乾杯。「ほら、ちゃんと飲めたよ」「私もよ!」──大人になるには、過酷な現実と向き合わなければならない宿命と表裏一体だ。この直後に起こった悲劇はナティアを絶望に陥れる。
 
 映画の終盤、ニカは二つの決断をした。まず、ナティアの持っていたピストルを取り上げ、湖の中に投げ捨てた。ナティアが復讐のため引き金を引くのを恐れたからだ。そして、父が服役している刑務所まで面会に行く。ニカの父は、いつも彼女にちょっかいを出す悪ガキの父親を殺害していた。暴力の連鎖を断ち切るためには、過去を直視しなければならないと思い定めたのだろう。
 
 この映画では、少女たちの青春のきらめきを切り取った映像的美しさと、そこからうっすらと内戦の傷跡が浮かび上がってくるコントラストが見事に描き出されている。
 
 岩波ホールには久し振りに来たが、創立50周年記念らしい。ロビーにこれまで上映されて来た作品のポスターが貼り出されているが、見ているとなつかしくなってくる。私が初めて来館したのは確か1995年で、インドネシア映画「青空がぼくの家」、タイ映画「ムアンとリット」、それからグルジア映画祭として上映された3本のうち「若き作曲家の旅」と「青い山」を観た。そう、グルジア映画と出会ったのは岩波ホールだった。他にもテンギズ・アブラゼ監督「懺悔」もここで観た。
 
 DVDやネットでも映画は観られるが、映画館で観ると、その時どきの自分自身の境遇と結び付いて思い出されてくるので、なつかしさもひとしおに感じられる。
 
2013年/ジョージア・ドイツ・フランス/102分
(2018年2月15日、岩波ホールにて)

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松村介石について

 ちょっと必要があって松村介石(1859-1937)について調べている。とりあえず、松村介石『信仰五十年』(道会事務所、1926年/伝記叢書213、大空社、1996年)と加藤正夫『宗教改革者・松村介石の思想──東西思想の融合を図る』(近代文芸社、1996年)を参照した。後者は前者を祖述している感じの内容。
 
 松村介石は1859年に明石藩士・松村如屏の次男として生まれた。幼少期から漢学に親しみ、父からは学問をするよう励まされていた。1875年、神戸に出て英学を修め、さらに1876年に上京。入学した玉藻学校が閉校したため、ヘボン塾に入る。彼は英学を学ぶのを目的としており、キリスト教を受け入れるつもりはなかったが、横浜で宣教師ジョン・バラの影響を受けて1876年にキリスト教に入信した。横浜バンド出身の初期キリスト者と言える。高等師範学校の入試に失敗した後、バラの勧めで小学校教師や聖書講義の英語通訳をしながら苦学した。築地大学の舎監として働きながら一致神学校に入るが、宣教師の態度に疑問を感じ、喧嘩して退学した。
 
 新聞記者になろうと考え、紹介を受けて大坂で島田三郎が経営する立憲新聞社を訪ねるが、関西のキリスト者から説得され、1882年に岡山県の高梁教会の牧師となった。1885年、組合協会の機関誌『福音新報』主筆として大阪へ出る。さらに、土居香国、伴直之助らと共に日刊紙『太平新報』を発刊するが、3か月で廃刊となった。1887年には浮田和民と交代する形で『基督教新聞』主筆となる。同年冬には押川方義の勧めにより山形英学校へ赴任した。この頃から特定の宗教には偏らない精神講話を始めている。さらに北越学館教頭として赴任するが、1891年の大晦日に辞職して東京へ来た。東京ではキリスト教青年会講師として講演活動を行うほか、1893年には戸川残花と共に雑誌『三籟』を創刊、1900年には雑誌『警世』を刊行した。
 
 松村介石は内村鑑三、植村正久と共に「三村」と並び称されるほど明治期キリスト教では注目されていた。彼の論説は人格的修養に重きを置く形で信仰を説き、キリスト教に限らず古今東西の偉人たちを取り上げて説教するところに特徴がある。例えば、彼はキリスト者にも意外と俗物が多いとした上で次のように記している。「ソコで之れは亦た怎したものであらうかと考へたが、之れは今日の基督者があまりに、保羅やルーテルの主張したる他力的信仰に重を置て、基督や、ヤコブの称へたる人格修養、即ち自力的方面に其力を用ゆることが尠いからであると、気が着いた。ソコで予は修養を云ふことを高唱して、爾来陽明学を基督教に入れて、大に神魂の鍛錬を奨励したものであった」(『信仰五十年』50頁)。こうした考え方から特定の宗教にはこだわらない精神講話を行い、それを基にした『立志之礎』(警醒社、1889年)や『阿伯拉罕・倫古龍(アブラハム・リンカーン)傳』(警醒社、1890年)といった書籍は当時としてはベストセラーになった。
 
 1907年には「日本教会」を設立する。当初は日本的キリスト教の枠内のつもりであったが、1912年に「道会」と改称してからはキリスト教とは一線を画すようになる。松村介石は自由基督教の集まりに出席したとき、「我等はすでに基督を孔子やソクラテスと同一のような聖人としている。それ故にわが教会では基督が居なくても存在することができるが、これでも矢張り基督教会といえるであろうか」と発言している。海老名弾正など出席者から、それはキリスト教会ではない、と異口同音に言われ、そのまま退席したという(『信仰五十年』188-189頁)。「道会」には四つの綱領があり、「一、信仰。二、修徳。三、愛隣。四、永生。信仰とは宇宙の神を信ずるを謂ふ。修徳とは、自己一身の修養を謂ふ。愛隣とは、人と国家の為に尽すを謂ふ。永生とは、人格の不死を謂ふ。」(『宗教改革者・松村介石の思想』)
 
 松村は1914-15年にかけてヨーロッパ・中国へ視察旅行に赴き、帰朝後は日本回帰が顕著になる。1916年に拝天堂を建立。若き日の大川周明も1910年に日本教会へ入会し、毎号のように機関誌『道』に寄稿して、「道会」で大きな存在感を示していた。松村は押川方義や大川周明の影響もあり、文化的亜細亜主義へと傾倒し、日本民族は東洋の指導者となって全世界に王道を布くべきと主張するようになった(『宗教改革者・松村介石の思想』205頁)。政治家とも関りを持ち、政治的に保守化していく。

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2018年2月14日 (水)

【映画】「嘘を愛する女」

【映画】「嘘を愛する女」
 
 商品開発の仕事に夢中なキャリア・ウーマンの川原(長澤まさみ)は、偶然に出会った小出(高橋一生)と同棲している。結婚を考え、小出を母親に紹介しようとしたが、その日に限ってなぜか小出と連絡がつかない。彼はくも膜下出血で倒れて意識不明、病院に搬送されていたのだった。その時になってはじめて彼が名前も身分も偽っていたことが判明する。5年間ずっと愛し続けた相手は一体何者だったのか──? 彼が秘かに書いていた小説を手掛かりに、彼女は瀬戸内へ答えを探りに行く。
 
 東京、小さな村の連なる瀬戸内沿岸、そして「事件」の起こった郊外の一軒家──この映画は基本的にこうした三種類の空間を往来しながら進行している。東京は競争社会。がむしゃらに働かねばならず、親しい同僚も油断はできない。対して、瀬戸内でたまたま立ち寄った居酒屋では川原は素直に本音を語り、リラックスしている様子だ。映画の背景をなす「事件」の起こった一軒家は孤独を表しているのだろう。「事件」後に東京へ来た小出は、不特定多数の中に消えていくことを望んでいた。
 
 小出が目覚めたとして、川原は今後も一緒に暮らしていけるのだろうか。彼女は小出の「嘘」を知った。同時に、小出が小説の中で思い描くフィクションを通して、彼の思いにも気づく。人間関係には仮構を積極的な意志によって築き上げていくという側面がある(だからこそ、映画中で出てくるDNA鑑定で親子関係に安心を求めようとする血縁主義は胡散臭い)。東京という匿名の不特定多数が織りなす空間は「無」にもなれるが、同時にフィクションを意志することで新たな関係性を築き上げる契機ともなり得るだろう。本作のタイトル「嘘を愛する女」はそういうものとして受け止めた。
 
日本/2018年/118分
監督:中江和仁
(2018年2月13日、新宿ピカデリーにて)

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佐古忠彦『「米軍が恐れた不屈の男」──瀬長亀次郎の生涯』

佐古忠彦『「米軍が恐れた不屈の男」──瀬長亀次郎の生涯』(講談社、2018年)
 
 凄惨な沖縄戦では日本軍に不信感を持った沖縄県民は、戦後、アメリカ軍を当初は民主主義を体現する解放者として歓迎した。ところが、その植民者然とした抑圧的な態度に幻滅、女性が暴行されたり、土地の強制収容がごり押しされたりする中、沖縄県民の間ではアメリカ軍の欺瞞に対する反感が高まる。そうした県民が怨嗟する声の代弁者としてアメリカ軍に抗議する人物が注目を浴びた。瀬長亀次郎(1907-2001)である。
 
 瀬長亀次郎は貧しい家庭に生まれたが、医師を志望し、旧制七高に入った。ところが、在学中から社会問題に関心を寄せ、1928年、三・一五事件の余波で逮捕されてしまい、20日間の拘留で釈放されたものの、放校処分となった。1932年には丹那トンネルの工事現場で労働争議を指導したため治安維持法で逮捕され、まず横浜刑務所に投獄されたが、次に沖縄刑務所へ移送された。釈放後は特高に尾行される日々の中、まず蒔絵工として働いた後、沖縄朝日新聞記者に転じた。召集されて中国大陸へ出征したが、1940年に復員。戦中は家族を連れて戦火の沖縄を逃げまどう。
 
 戦後は沖縄人民党代表として琉球政府立法院議員に当選。ところが、アメリカ軍に対する抵抗姿勢が危険視され、強引に投獄されてしまった。1957年には「瀬長は共産党の手先」とネガティブ・キャンペーンを張られる中、那覇市長に当選する。アメリカ軍政当局およびそれと結託する保守派の策動には抗しきれず、市役所を追われることになったが、それでも後継指名した兼次佐一が沖縄市長に当選した。沖縄の日本復帰を前に1970年に実施された国政選挙で衆議院議員に当選。国会では沖縄の現状について佐藤栄作首相を追及する。佐藤の答弁は取り付く島もないものではあったが、ただ、瀬長への敬意はあったようだ。
 
 亀次郎は沖縄の日本復帰を当然視し、彼の言う「民族」とは琉球ではなく日本を指していたという。彼の抵抗活動は、日本民族のアメリカからの独立を求めていた。沖縄の日本復帰後、沖縄人民党は共産党に合流し、亀次郎も共産党所属の代議士として当選を重ねたが、彼自身は必ずしも共産主義者ではなかった。
 
 亀次郎が演説すると、飾らぬ言葉で人々の不満を代弁してくれるので、たちまちみんな集まって来た。ナショナルな抵抗意識をもとに民衆の声を吸収したという点では土着的ポピュリストと言えよう。他方で、彼が投獄されていた刑務所で刑吏に対する不満から暴動が起きたとき、所長から依頼された彼が受刑者の不満を団体交渉の方向へとまとめ上げた手腕からもうかがわれるように、吸収した不満を理性的な対話経路へ誘導するように心がけていた。理性的・理想主義的な姿勢を持つ土着型ポピュリストとして彼の存在は非常に興味深い。

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2018年2月13日 (火)

稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町──新宿、もうひとつの戦後史』

稲葉佳子・青池憲司『台湾人の歌舞伎町──新宿、もうひとつの戦後史』(紀伊國屋書店、2017年)
 
 私自身も歌舞伎町には多少馴染みがある、と言うと語弊があるかもしれないが、映画館街にはよく足を運んでいた。初めて足を踏み入れたのは中学生の頃、友達と一緒に。その頃は若干の緊張感を覚えたものだが、都心の大学に通うようになって以降は当たり前のように歌舞伎町へ映画を観に行っていた。歌舞伎町の映画館街は現在ではすっかり様変わりしてしまったが、噴水広場をはさんで西に東急、東にコマ劇場(東宝系)があった。南北両側には台湾人・李以文の地球座や新宿劇場(ヒューマックス・パビリオン)、韓国人・高橋康友(李康友)のオデヲン座(東亜興業)が並んでいた。また、名曲喫茶らんぶるも台湾人によって開店されたという。歌舞伎町に中華系、韓国系の人々のコミュニティーがあったのはもちろん知っていたが、このように身近なところにまで植民地支配が影を落としていたことを本書で知り、驚きを新たにした。
 
 彼らも最初から歌舞伎町にいたわけではない。そもそも、歌舞伎町は都市整備が試みられながらも、立地条件の悪さから閑古鳥が鳴く場末の空間に過ぎなかった。台湾人実業家たちは戦後、新宿西口のマーケットで財産を築き、それを足掛かりにして、興行街として発展を始めた歌舞伎町に入って来たのである。映画館街の箱ものも、日本資本から買い取りを断られたため、彼らが引き受けたようだ。
 
 歌舞伎町で活躍した台湾人実業家たちに医師や慶応、早稲田出身など知識青年出身者が多いのが目を引く。戦後の政治状況が関わっているのだろうか。彼らにとって歌舞伎町は、単に富を築くのみならず、文化事業としても夢をかける空間になっていた。
 
 本書は彼ら台湾人が戦後の新宿で事業を展開していく様子を活写しており、それだけでも十分に興味深い内容なのだが、欲を言えば、個々の登場人物のライフヒストリーをもう少し掘り下げて欲しかった。台中霧峰出身で林姓の人物といえば、林献堂一族との関係が推測される。高座海軍廠の少年工出身者もいるし、簡水波の場合には南洋に送られてBC級戦犯となり、戦後に日本へ来て児玉誉士夫のような右翼や台湾の国民党とも関わりを持つフィクサー的な人物であった。二二八事件や白色テロのため、台湾へ帰れなくなった人たちもいたであろう。こうした個々のライフヒストリーを丁寧に掘り起こしていくと、東アジア現代史という一層広い視野の中で立体的に新宿の位置づけを描き出していけるはずだ。

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清水真人『平成デモクラシー史』

清水真人『平成デモクラシー史』(ちくま新書、2018年)
 
 宮澤喜一政権末期における政治改革騒動から細川連立内閣までの政権交代劇は、ちょうど私が高校から大学にかけての時期のことだった。それ以来、政局ウォッチを続けていた私としては、本書を通読してまず、懐かしい思いがした。
 
 本書は第一章で現在進行形の政局についてコメントした上で、第二章「政治改革と小沢一郎」で自民党政権末期の政治改革から非自民連立政権までを振り返り、以降、第三章「構造改革の光と影」(自社さ政権から橋本・小渕政権)、第四章「小泉純一郎の革命」、第五章「ポスト小泉三代の迷走」(第一次安倍、福田、麻生)、第六章「民主党政権の実験と挫折」(鳩山、菅、野田)、そして第七章「再登板、安倍晋三の執念」という流れで平成政治史を描写している。
 
 かつての自民党長期政権における政官業一体の分配システムは、国対政治を通して雇うまで取り込み、「コンセンサス型デモクラシー」を形成していた。経済的資源の再分配を基調としてこのシステムは、右肩上がりの経済成長を前提として何とか機能していた。ところが、再配分できるリソースが限界に達すると、政策順位によってメリハリをつける必要がある。コンセンサスではなく、リーダーシップによる裁定で不満を抑えねばならない局面も出てくる。そこで、政治的リーダーシップを確立するため、政権選択と首相主導をセットにした統治構造の改革が模索され、政権選択選挙をテコに期間限定で多数派による統治の権限と責任を明確にする「多数決型デモクラシー」へと移行しつつあるというのが、本書の基本的な認識である。
 
 政権選択を前提とするなら、裏返すと、政権交代の可能性も常に意識しなければならない。だからこそ、政権運営の緊張感も生まれる。そうした「反転可能性」意識をもとに、対立政党とも共通の基盤があってこそ、政権競争のフェアなルールが醸成されるはずだが、現状はそうなっているだろうか? 野党の力量の問題もあるにせよ、現安倍政権が繰り返す小刻みな解散は、野党の態勢が整う前に奇襲攻撃を仕掛けているようなもので、有権者に政権選択の余地を敢えて与えようとしていない。そうした意味で政権維持のためのリアリズムとして首相の解散権が濫用されているように受け止められる。ルール形成による長期的な展望ではなく、その場限りの勝利を目指す短期志向は、本書で引用されるように「つぎつぎになりゆくいきほひ」(丸山眞男「歴史意識の『古層』」)の感覚そのもので、責任政治とは言い難い。

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2018年2月12日 (月)

南後由和『ひとり空間の都市論』

南後由和『ひとり空間の都市論』(ちくま新書、2018年)
 
 私はここ数年来、主に台湾で暮らしている。台湾での生活は居心地が良いが、時折物足りなく感じるのは、街の中に「ひとり」でいられる空間が、日本と比べると少ないことだ。例えば、ひとりで酒でも飲もうと思って飲食店に入っても、複数人で入るのが当たり前という感じで、若干の敷居の高さを感じる(別に一人だからといって拒絶されることはないのだが)。敬愛する評論家の川本三郎さんは東京歩きをテーマとした作品の中で、街の居酒屋に入り、大勢の人々が雑然と集まっている中、「ひとり」で飲む楽しみをしばしば描いておられ、私もそうした感覚を共有しているのだが、その川本さんが以前、台湾で講演された折、「台湾にはひとりで飲める居酒屋が欠如しているのではないか」という趣旨のことを話しておられた。私も日本へ帰ると、こうした「ひとり空間」の意義がやはり気にかかり、そうした関心から本書を手に取った。
 
 本書では「状態としてのひとり」に着目して議論が展開されており、それは「一定の時間、集団・組織から離れて「ひとり」であること」と定義される。「ひとり空間」では匿名性と精神的な距離感とを確保することが可能となり、孤独の中で自由を感じることができるという指摘をジンメルから援用している。孤立は客観的な状況を指すが、孤独は主観的な感じ方に重きが置かれる言い方である。第一章で前提となる概念について検討された上で、第二章では住まい、第三章では飲食店・宿泊施設、第四章ではモバイル・メディアをテーマとして、日本の都市における「ひとり空間」の展開が論じられ、それぞれケーススタディとして具体例も紹介される。
 
 私などが居心地の良さを感じる居酒屋での孤独な自由感は、本書第三章で紹介される、かつて神島二郎が論じていた「単独者主義」と関わるのかもしれない。2000年代以降の変化は、当然ながらモバイル・メディアの変化と連動している。
 
 「ひとり」をもし社会的孤立の観点から考えようとするなら、コミュニティ再構築という課題と関わってくる。本書ではP2Pプラットフォームを利用した「ひとり」同士のつながりについて終章で論じられている。それは、スキルや制作などの「生産」に媒介された結びつきをもとに都市型コミュニティの可能性を秘めているが、他方でスキルを「持つ者/持たざる者」という新たな格差も生じてしまう。P2Pプラットフォームを介した「ひとり」同士のつながりをどのように地縁的・物理的な近接性へと再び埋め込んでいけるのか、課題として提起される。
 
 「ひとり空間」が日本の都市に特有な現象といえるのか、そのあたり、海外との比較をするなどもう少し掘り下げてクリアにして欲しいとは思ったが、都市空間における「ひとり」の様相について論点の仕分けをしてくれているので、今後の議論のたたき台として有用であろう。

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2018年2月11日 (日)

藤原辰史『トラクターの世界史──人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』

藤原辰史『トラクターの世界史──人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』(中公新書、2017年)
 
 私自身は東京に育ったため、トラクターをじかに見る機会は皆無であったが、それでも小さい頃、テレビでトラクターのコマーシャルを頻繁に見かけていた記憶はある。私にとって馴染みがありそうでないちょっと不思議な存在であった。19世紀末にアメリカで発明されたそのトラクターが、20世紀の歴史においてどのような役割を果たしたのか、本書はその多面的な様相を知らしめてくれる。
 
 トラクター導入による生産性の向上、労働力の節約がもたらす影響は当然ながら、トラクターと戦車との技術的同一性が農民と兵士との機能的同一性をもたらしたという意味で、トラクターと戦車は双生児であったという指摘は、技術と動員の観点から重要だろう。また、運搬手段のモータリゼーションは石油の需要を高めた。
 
 単に技術史というだけでなく、文化史の面でもトラクターは意外と重要である。1930年代、トラクターが普及し始めた頃、スタインベック『怒りの葡萄』では災いの象徴とされていた一方、同時期のソ連では農業集団化のシンボルとなり、エイゼンシュタインの映画「全線」では肯定的に描写されていた。日本は「満洲国」でトラクターの導入を図り、映画「新しき土」にも登場するが、ただし実際にはあまり普及せず、むしろプロパガンダの道具として利用される程度だったという。いずれにせよ、農業の機械化・近代化を視覚的に表現した素材としてトラクターは文学・映画等を考える上でも無視できない。
 
 トラクターの導入により、人間と「土の世界」とが切り離されていく状況をどう考えるか、これは現代でも有効な問いであり、また、戦時下の日本で政府による機械化の推進と、それに反発する精神論的な農本主義者との対立も、思想史的に掘り下げて検討してみると面白そうである。

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橋爪大三郎『丸山眞男の憂鬱』

橋爪大三郎『丸山眞男の憂鬱』(講談社選書メチエ、2017年)
 
 本書では丸山眞男『日本政治思想史研究』と山本七平『現人神の創作者たち』とを詳細に読み解きながら、二人の比較論という形式を通して主に丸山理論への批判が展開される。丸山が江戸時代の政治思想史研究を通して、日本における近代的思惟の萌芽として荻生徂徠の「作為の思想」を見出したことはよく知られている。ところが、著者は徂徠の「作為」は「近代」の指標とはなり得ず、明治維新との思想的連関も認められないと疑問を呈する。そもそも、「近代」という概念が曖昧である。
 
 そこで、著者は、日本における「近代」的なナショナリズムを準備した尊王思想へと議論の焦点を移し、その源流としての山崎闇斎及び闇斎学派について丸山と山本がそれぞれどのように論じていたのかを検討する。実は丸山『日本政治思想史研究』には闇斎学派に関する議論が欠落しており、そのため丸山が晩年になって書いた論文「山崎闇斎と闇斎学派」と、山本七平がほぼ同時期に発表した『現人神の創作者たち』との比較論へと進む。そして、丸山の闇斎学派理解は混乱しているのに対して、山本の議論は闇斎学派の思想史的位置づけを適確に見抜いていたと評価される。
 
 江戸期において朱子学は「普遍的理論」とみなされており、朱子学者たる山崎闇斎も朱子学のロジックに基づいて日本の政治システムを記述しようとした。闇斎学派の議論には三つの特徴があり、第一に「湯武放伐」が否定される。王朝の交代が肯定されると「忠」の対象が混乱してしまうからである。対して、第二に、「万世一系の天皇」が存在する日本の政治システムの方が中国よりも優れていると主張された。このように天皇の伝統が、朱子学の「普遍的理論」により合理化・正統化され、本来は非政治的であった神道が天皇を中心とする正統性の政治哲学に書き換えられた。いわば、神道の朱子学化である。第三に、忠孝一如が主張された。中国では、政治的領域における「忠」と親族等の領域における「孝」とで忠誠の次元が異なり、前者は条件的忠誠、後者は絶対的忠誠を意味する。ところが、イエ社会たる日本では両者が重なり合っており、「忠」が絶対化された。こうして、「湯武放伐」の否定と「忠孝一如」により尊王思想が準備された。
 江戸時代の朱子学は武士階層による統治を正当化するイデオロギーとして作用していたが、闇斎学派は神道と結びつき、神道には本来的に身分がなかったので、身分の垣根を越えて天皇のもとに参集するというロジックが用意され、「われわれ日本人」意識の形成に寄与する。こうした闇斎学派の思想(とりわけ、浅見絅斎が重要)は、歴史や文化の共有意識をもとに運命共同体を形成し、集権的な政治秩序を成立させるという意味で国民国家という近代的政治事象へとつながり得る契機を秘めていた。
 
 著者によると、山本七平はこうした勘所を押さえていたが、丸山眞男は分かっていなかった、いや、むしろ、皇国史観の源流たる闇斎学派については敢えて触れたくなかったのかもしれない。丸山は皇国史観に対する逆張りとして荻生徂徠に注目し、それがそのまま戦後の市民主義的思潮に受け入れられたが、丸山自身は徂徠から「作為の思想」を見出そうとしたかつての自らの議論が成り立たないことに薄々気づきながらも、取り下げられなかったのではないかとも推測している。

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2018年2月10日 (土)

佐伯啓思『経済成長主義への訣別』

佐伯啓思『経済成長主義への訣別』(新潮選書、2017年)
 
 近代経済学の考え方では、ホモエコノミクスを単位とする方法的個人主義を前提として市場経済の調節機能を想定する。対して、著者はむしろ市場経済の背後にある集団的な価値や慣習にもとづく社会性へ視線をそそぎ、そうした観点から経済学批判をすすめる。その考え方はカール・ポランニーに近いと自ら記している。
 
 本書のタイトルは「経済成長主義への訣別」となっているが、別に経済成長そのものを拒絶するわけではない。著者の認識にはまず、実際問題として今後の経済成長は難しいだろうという見通しがある。それは、第一に、人口減少・高齢化。第二に、グローバル化はコスト削減圧力が強まることで賃金抑制→消費需要の低迷という悪循環に陥る。第三に、フロンティアの消滅。つまり、土地、イノベーション、労働力など「容易に収穫できる果実」がもはや枯渇している。こうした条件から考えると、今後の経済成長は見通せない。何よりも、「経済成長」に市場の価値を置こうとするイデオロギーへの違和感が表明される。
 
 本書では様々な経済思想書を援用しつつ、「経済成長」のみにこだわる硬直した思考様式が、経済の本来の前提たる「ふつうの生」への配慮が見失われていることへの異議申し立てが述べられていく。著者の考え方に賛成するか反対するかはともかく、経済文明論的な視野の中で知的刺激を受けることができる。

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2018年2月 9日 (金)

内田隆三『乱歩と正史──人はなぜ死の夢を見るのか』

内田隆三『乱歩と正史──人はなぜ死の夢を見るのか』(講談社選書メチエ、2017年)
 
 日本の探偵小説といえばまず名前の思い浮かぶ江戸川乱歩と横溝正史──本書はこの二人の作家を軸として、第一次世界大戦後の大正・昭和初期から第二次世界大戦を経て戦後にかけて探偵小説がいかに創造されてきたのかを読み解いていく。詳細な作品分析が展開され、論点は多岐にわたるが、私が興味を持ったのは次の二点。
 
・江戸川乱歩「芋虫」と三島由紀夫「憂国」とを対比し、物語の構図が逆説的に変形の関係にあるという指摘(196-205頁)。国家という共同幻想と性愛との関係をめぐり、「『芋虫』では犠牲を求める大義が性愛の物語の背景として冷酷な闇のように存在しており、『憂国』では性愛の情景が神聖な大義の美しい影絵のように浮かび上がる」という好対照が見出せる。「『芋虫』では、性愛が自立するとともに共同幻想の地平が後景化していき、代わりに、人間であることの悲哀が夫の目に宿り、性愛の地平を脅かす。他方、『憂国』では、性愛は大義と道徳に癒合し、それらに守られて夢見るような昇華を遂げるだけであり、この点は単調である。」
 
・横溝正史『本陣殺人事件』に対して乱歩が「心理的な要素への配慮が乏しいこと」、「犯人に悪念が感じられないこと」、従って「犯罪のトリックに心理的な奥行き」がないとして批判していたことを手掛かりに、二人の発想を対比させ、乱歩を「経済学の視点」、正史を「民族誌の視点」と捉える指摘(286-299頁)。乱歩の場合、個人心理を基盤とする発想を持っており、それは彼が大学で学んだアダム・スミス風の経済人の仮構に寄り添っているからだという。乱歩が孤独な個人の心理過程を前提としているのに対して、正史が想像力を刺激されたのは「個人の行為の半ばは無意識的な奥行きをなす、共同体の『習俗』の次元に横たわる心理過程」だったと指摘される。「横溝の物語が言及するのは集団にひそむ悪念であり、それは個人の善意とさえ重なり合う可能性がある」。だから、横溝作品では『八つ墓村』や『犬神家の一族』のように地方社会の土俗的雰囲気がうまく活用されていたわけである。横溝は岡山県に疎開していたとき、地元の人から土地の人情風俗を聞いており、そうした体験が作品に生かされていた。ただし、舞台は奥深い山村で完結しているのではなく、都市の視点も交錯しており、「事件の現場は家の習俗が近代的な社会性の場と交叉する地点に設定されている」とも指摘される。

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