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2016年5月8日 - 2016年5月14日

2016年5月13日 (金)

豊川斎赫『丹下健三──戦後日本の構想者』

豊川斎赫『丹下健三──戦後日本の構想者』(岩波新書、2016年)

 日本を代表する建築家の一人であり、都市計画の分野で大きな存在感を残した丹下健三。彼は都市や国土との有機的な結びつきの中で建築を捉えていたため、デザインを行う前提としてまず国土全体の課題を整理することが必要となる。従って、丹下の建築に関わる営為を考えることは、単に彼の建築デザインを論ずるというだけでなく、同時に彼が日本社会の現状をどのように理解し、将来的にどのような方向性へと構想していたかを問うことに直結する。他分野の専門家とも積極的に協力し、国土開発のコーディネーターとしての役割を果たし、さらには自らのプランを実行するには政治とのつながりも必要であった。

 私が興味を持ったのは次の一節。「都市デザインとは政治である。多くの若者が丹下に憧れ、アーバニストになることを夢みて丹下研究室の門戸を叩いたが、そこで経験を積むにつれ、政治と関わらなければ思ったようなデザインが完成しないことを知った。」「また、国家的なイベントの企画・立案も重要な都市デザインの一つである。というのも、国家的なイベントでもないかぎり、巨大都市の中心地で、政府や自治体を含む多くの地権者の同意を得ることは困難であったためである。」(187頁)

 彼は自宅などの例外を除けば、基本的に個人住宅の設計を手掛けていない。近代社会においては、公共性を持つ建築が対象となるのは群衆であると彼は理解しており、「社会的人間の尺度」で建築を考えていたという。それは個人という単位から出発するのではなく、俯瞰的に捉えているという意味で古代建築における「神々の尺度」と同様だったのではないかと指摘される。初期の建築においてピロティを設定し、市民が集える公共空間にしようとしていたのは、民主主義を建築という場面でどう実現するかという問題意識とつながっていた。他方、1970年代にオイルマネーでわく中東などに招かれて大規模建築の設計を手掛けた経験を経た上で、1980年代に丹下が新都庁舎を設計したとき、磯崎新が「知事の権力を一直線のシンボル性に集約するデザインを採用しており、この変化が中近東の経験に由来するのではないか」という趣旨の批判をしているのが興味深い。建築や都市計画において俯瞰する視点は、ともすると権力者の視点と同一化しかねない問題をはらんでいるのかもしれない。

 戦後まもなくの日本では建築資材・技術等が未熟で、丹下の設計プランが思うように発揮できない場面もあったという。ところが、1960年代に入り、例えばオリンピックに合わせて建設された国立屋内総合競技場では、様々な建築資材を活用出来た上に、ゼネコンに勤務する中間技術者の積極的な協力もあって、日本の建設産業のポテンシャルを世界に向けて発信できたと指摘される。設計者の構想という上部構造だけでなく、材料、機会、それらを調達する流通システムなどの下部構造、及びその下部構造を上部構造につなげる「中間層」の存在があって、はじめて丹下の構想は実現し得た。

 丹下が設計を手掛ける際には、その建築がどのような社会的・時代的脈絡の中にあるかを常に意識していたため、前提として同時代の社会・経済状況についての考察が不可欠となる。言い換えると、本書は丹下健三という人物を通して戦後日本建築史を語っているだけでなく、建築という側面から日本戦後史そのものの流れも見えてくる。個人的には、戦前、丹下が大東亜建設記念造営計画設計競技に入選したプランにも興味があるのだが、本書は1945年以降に限定して論じられているため、戦前期については言及されていない。

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2016年5月 9日 (月)

【映画】「灣生畫家 立石鐵臣」

「灣生畫家 立石鐵臣」

  1941年7月、太平洋戦争の勃発が間近に迫った時期、台北で『民俗台湾』という雑誌が創刊された。1937年には日中戦争が始まって戦時体制が強まりつつあり、台湾では「皇民化運動」が展開されていた。「日本人」として皇国に心身ともに捧げることが当然視された時代状況下、台湾の民俗文化の記録・保存を目的とした雑誌の存在は、それだけでも当局から睨まれてもおかしくなかった。雑誌の刊行を継続することがまずは至上命題。検閲の目を逃れるためには時に国策に迎合する言辞もちりばめなければいけなかったが、いずれにせよ、日本人であるか台湾人であるかを問わず、台湾の文化や歴史に愛着を持つ人々が手探りしながら協力し合って、このささやかな雑誌は1945年1月号まで続いた。

  『民俗台湾』をひもとくと、「台湾民俗図絵」をはじめとしたイラストがひときわ目を引く。的確に対象を捉えつつ、ぬくもりがあって、時にユーモラスなこれらのカットを描いたのは、台湾生まれの日本人画家・立石鐵臣。台湾生まれの日本人のことを「湾生」という。

  立石鐵臣は1905年、台北に生まれた。父の転勤に伴って日本へ帰国。絵画には早くから興味を持ち、才能を示していた鐵臣は国画会に入選するなど若手画家としてのキャリアを着実に積んでいた。1934年、台湾へ戻る。生まれ故郷・台湾の風光を描きたかったからだ。「ちょっと台湾へ行ってきます」というさり気ない言い方が、いかにも彼のパーソナリティーを彷彿とさせる。

  立石は1934年に台湾人を中心に設立された台陽美術協会の創立メンバーになった。台北放送局に勤務していた兄・立石成孚の家に寄寓し、台北帝国大学の生物学者・素木得一の研究室で標本画を描く仕事をしながら、細密画の描法を自ら会得する。また、台北の文壇で勢力を持っていた作家・西川満に頼まれてイラストや装幀も手掛けるようになり、そうした中で後の『民俗台湾』同人たちとも知り合った。

  1945年、日本の敗戦により、台湾は中華民国に接収された。日本人は原則的に日本へ送還されることになっていたが、特殊技能を持つ日本人はしばらく留め置かれた。これを「留用」という。立石も「留用」されて台湾省編訳館に勤務する。ここでは日本統治時代に蓄積された学術的成果を整理・翻訳する作業が行われていた。編訳館には魯迅の親友だった許壽裳など日本留学経験のある開明的な中国知識人が派遣されてきており、彼らは「留用」された日本人にも誠意をもって接してくれたという。私個人としては、こうした形で日本人、台湾人、中国人が協力し合う時期が束の間なりともあったということに関心が引かれているが、1947年の二二八事件等によって時代状況は瞬く間に険悪化していく。編訳館は閉鎖され、許壽裳は暗殺されてしまった。編訳館の閉鎖後、鐵臣は「留用」された日本人の子弟が預けられていた小学校の教員をして、生徒から慕われていたらしい。1948年、最後の引揚船に乗って基隆を離れるとき、埠頭には見送りの台湾人がたくさん集まっていて、「蛍の光」が聞こえてきたという。

  日本へ帰国して以降、彼の画風は抽象的なものになっていく。例えば、眼球が宙に浮いているような「虚空」(1950年)──もともとのタイトルは「孤独」だったという。彼が見ていた心象風景はどのような経過をたどって変化したのだろうか。台湾体験は戦後の彼の軌跡にどのような影響をもたらしたのだろうか──。藤田監督は上映後のスピーチの際、初期の画風と戦後の画風との際立った違いが気にかかり、その中間に位置する台湾時代を探ってみたいと思った、という趣旨のことを語っておられた。立石は自らのことについて直接的に語ることは少なく、絵画を通して語っている。そして、残念ながら、台湾時代に描いた作品の多くは台湾に残してきて、そのまま行方不明になっている。明確な答えはなかなか見えてこないが、むしろ観客一人一人が彼の軌跡がはらんだ意味を考えて行く上で、このドキュメンタリー作品は貴重な手がかりを示してくれている。

  立石が描いた「台湾民俗図絵」のカットは、現在の台湾でも、例えば小物のデザインなど、ふとしたところで見かけることがある。利用した台湾人自身も、その来歴を知らないのかもしれない。また、戦後、日本へ戻った立石は生計を立てるため図鑑や教科書のイラストもたくさん描いており、我々も気づかないところで、実は立石の絵を見ていた可能性は高い。世に知られようと知られまいと、そんなことには頓着せず、立石はとにかく絵を描き続けていた。

  台湾人からすれば、日本統治時代の台湾史は最近まで学校で教えられることがなく、ある意味、足元のことなのに未知の世界も同然であった。また、日本人からすれば、日本統治時代の台湾は、日本と密接な関係があったにもかかわらず、現在は外国であるがゆえになかなか知る機会がなく、これもまた別の意味で未知の世界である。この「湾生画家 立石鐵臣」というドキュメンタリー作品は、日本人の藤田修平監督、台湾人の郭亮吟監督という二人によって共同制作されており、日本人と台湾人、それぞれ異なる探求の視点がうまくかみ合いながら、立石鐵臣という一人の画家を通して日台関係のある一面も見えてくる。私自身も台湾現代史の勉強を続ける上で色々な示唆を受けており、もっと多くの方に観ていただけるよう上映機会が増えることを願いたい。

  作品中には立石鐵臣のご家族や、『民俗台湾』の立役者であった池田敏雄夫人の黄鳳姿さんなどの貴重な証言が含まれている。『民俗台湾』の印刷を請け負っていた、やはり湾生の岡部茂さんや、考古学者の宋文薫さんは今年、惜しくも相次いでお亡くなりになってしまった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

  また、5月21日から東京・府中市美術館にて「麗しき故郷「台湾」に捧ぐ──立石鐡臣展」も開催される。
 

(2016年5月7日、「台灣國際紀錄片影展」、台北・光點華山電影にて)

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