豊川斎赫『丹下健三──戦後日本の構想者』
豊川斎赫『丹下健三──戦後日本の構想者』(岩波新書、2016年)
日本を代表する建築家の一人であり、都市計画の分野で大きな存在感を残した丹下健三。彼は都市や国土との有機的な結びつきの中で建築を捉えていたため、デザインを行う前提としてまず国土全体の課題を整理することが必要となる。従って、丹下の建築に関わる営為を考えることは、単に彼の建築デザインを論ずるというだけでなく、同時に彼が日本社会の現状をどのように理解し、将来的にどのような方向性へと構想していたかを問うことに直結する。他分野の専門家とも積極的に協力し、国土開発のコーディネーターとしての役割を果たし、さらには自らのプランを実行するには政治とのつながりも必要であった。
私が興味を持ったのは次の一節。「都市デザインとは政治である。多くの若者が丹下に憧れ、アーバニストになることを夢みて丹下研究室の門戸を叩いたが、そこで経験を積むにつれ、政治と関わらなければ思ったようなデザインが完成しないことを知った。」「また、国家的なイベントの企画・立案も重要な都市デザインの一つである。というのも、国家的なイベントでもないかぎり、巨大都市の中心地で、政府や自治体を含む多くの地権者の同意を得ることは困難であったためである。」(187頁)
彼は自宅などの例外を除けば、基本的に個人住宅の設計を手掛けていない。近代社会においては、公共性を持つ建築が対象となるのは群衆であると彼は理解しており、「社会的人間の尺度」で建築を考えていたという。それは個人という単位から出発するのではなく、俯瞰的に捉えているという意味で古代建築における「神々の尺度」と同様だったのではないかと指摘される。初期の建築においてピロティを設定し、市民が集える公共空間にしようとしていたのは、民主主義を建築という場面でどう実現するかという問題意識とつながっていた。他方、1970年代にオイルマネーでわく中東などに招かれて大規模建築の設計を手掛けた経験を経た上で、1980年代に丹下が新都庁舎を設計したとき、磯崎新が「知事の権力を一直線のシンボル性に集約するデザインを採用しており、この変化が中近東の経験に由来するのではないか」という趣旨の批判をしているのが興味深い。建築や都市計画において俯瞰する視点は、ともすると権力者の視点と同一化しかねない問題をはらんでいるのかもしれない。
戦後まもなくの日本では建築資材・技術等が未熟で、丹下の設計プランが思うように発揮できない場面もあったという。ところが、1960年代に入り、例えばオリンピックに合わせて建設された国立屋内総合競技場では、様々な建築資材を活用出来た上に、ゼネコンに勤務する中間技術者の積極的な協力もあって、日本の建設産業のポテンシャルを世界に向けて発信できたと指摘される。設計者の構想という上部構造だけでなく、材料、機会、それらを調達する流通システムなどの下部構造、及びその下部構造を上部構造につなげる「中間層」の存在があって、はじめて丹下の構想は実現し得た。
丹下が設計を手掛ける際には、その建築がどのような社会的・時代的脈絡の中にあるかを常に意識していたため、前提として同時代の社会・経済状況についての考察が不可欠となる。言い換えると、本書は丹下健三という人物を通して戦後日本建築史を語っているだけでなく、建築という側面から日本戦後史そのものの流れも見えてくる。個人的には、戦前、丹下が大東亜建設記念造営計画設計競技に入選したプランにも興味があるのだが、本書は1945年以降に限定して論じられているため、戦前期については言及されていない。
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