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2016年1月

2016年1月30日 (土)

待鳥聡史『代議制民主主義──「民意」と「政治家」を問い直す』

待鳥聡史『代議制民主主義──「民意」と「政治家」を問い直す』(中公新書、2015年)
 代議制民主主義のあり方を本書は民主主義と自由主義の緊張関係として捉えている。民主主義は有権者の意思を政策決定に直接反映させることを求める。対して自由主義は、君主権力に対抗して財産権の擁護を図ったロック的自由主義にせよ、多数者の専制を抑制するため権力分立を制度化したマディソン的自由主義にせよ、多様な考え方や利害の代表者(エリート)の競争による相互抑制を重視している。もともと議会はこうした自由主義的な権力抑制に基づいて政策決定を行おうという発想から発展してきたが、有権者資格の拡大(=普通選挙)によって民主主義的要素が合流して代議制民主主義が成立した。すなわち、自由主義の手段としての議会と民主主義の手段としての普通選挙が結び付いた両義性に代議制民主主義の特徴を見出すことができる。自由主義的要素をルール化したものが執政制度(大統領制、議院内閣制、半大統領制)であり、民主主義的要素をルール化したものが選挙制度である。
 代議制民主主義が民意から乖離しているという批判がしばしば提起されるが、それはこうした両義性が本来的にはらんでいた不整合性が多い隠せなくなって来た点に求められるだろう。本書では代議制民主主義が持つ「委任と責任の連鎖」という原理に着目する。つまり、「有権者から政治家を経て官僚に至る委任の流れと、官僚から政治家を経て有権者に至る説明責任の流れ」という二つの流れによって専門的な政策決定について有権者からの信任を得るシステムであり、これがうまく機能していないところに代議制民主主義の直面する問題がある。
 代議制民主主義の機能不全に対してどのように対処すればいいのか。それは、自由主義的要素と民主主義的要素とのバランスを考えながら、いかに「委任と責任の連鎖」を立て直して、主権者たる有権者が政治家や官僚をよりうまく使いこなせるかという問題である。代議制民主主義を諦める必要はなく、「委任と責任の連鎖」を規定している執政制度と選挙制度を社会のニーズに適合した形で組み合わせていけば状況は改善できると指摘される。
 執政制度と選挙制度の組み合わせは実に多様であり、単純に優劣をつけることはできない。本書は比較政治論的なパースペクティブも踏まえて代議制民主主義を検討する上で必要な論点がすっきりと整理されており、腰を落ち着けて政治の現状を考察するにあたって役に立つ。

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2016年1月29日 (金)

【映画】「サウルの息子」

 ナチスの絶滅収容所でユダヤ人のジェノサイドが行われていたとき、収容されたユダヤ人の中から選ばれて殺戮作業の手伝いをさせられていた人々をゾンダーコマンド(Sonderkommando)という。大量虐殺の一部始終を目撃していた彼らもやがて殺される運命にあったが、2,3カ月の延命と引き換えにこの作業に従事していた。
 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所でゾンダーコマンドとして働いていたサウルはガス室で遺体処理をしていたとき、まだ息のある少年を見かけた。親衛隊の医官はただちに彼の息の根を止めてしまったが、サウルは少年の遺体をユダヤ教の教義に則って埋葬してあげたいと考え始める。遺体を隠し、ラビを探す中、サウルの視点を通して収容所の内情が映し出される。同時に、秘かに蜂起の準備をしていたゾンダーコマンドたちが潰されていく過程も描かれる。
 ジークムント・バウマン『近代とホロコースト』(森田典正訳、大月書店、2006年)は、近代社会を特徴づける組織経営の合理性・効率性こそが道徳感情の無化をもたらし、あたかも工場のように粛々と大量殺戮が遂行された逆説を指摘している。それは、ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳、みすず書房、1969年)で指摘された「悪の陳腐さ」ともつながる。また、自らの収容所体験をもとに書かれたヴィクトール・フランクル『夜と霧』(霜山徳爾訳、みすず書房、1956年/池田香代子訳、みすず書房、2002年)では、こうした極限状態が日常風景となる中、収容者自身も感覚が麻痺してしまう様子が描写されている。殺戮の残酷さ以上に、殺す者、殺される者の双方が感覚を失ってしまうことの方が実におぞましい。
 だからこそ、フランクルは過酷な非人間的状況の中でも尊厳を保ち続けることの大切さを我々に訴えかけていた。サウルが少年の遺体をユダヤ教の儀式によって埋葬することに固執する様子は見ようによっては無意味である。そんな努力をしたところで死者は帰ってこないし、殺戮を止めることもできない。だが、そうした不合理に見える行動の中からこそ、人間としての尊厳を失うまいとする葛藤が垣間見えてくる。
【データ】
原題:Saul Fia
監督・脚本:ネメシュ・ラースロー
ハンガリー/2015年/107分
(2016年1月28日、ヒューマントラスト有楽町にて)

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2016年1月27日 (水)

【映画】「クミコ、ザ・トレジャーハンター」

 日本へ一時帰国する飛行機に乗る前に少し時間があったので、「光點台北」というミニシアターに映画を観に行った。かつてアメリカ領事館だった建物を文化施設に仕立て上げた「台北之家」に附設された映画館で、いずれも侯孝賢プロデュースという形になっていたと思う。「サウルの息子」(索爾之子)と「クミコ、ザ・トレジャーハンター」(久美子的奇異旅程)の2本を上映中で、前者は日本で観るつもりだったので、後者を観た。
 東京でOLとして働く久美子は鬱屈した毎日を過ごしている。唯一の楽しみは大好きな映画「ファーゴ」を観ること。とりわけ執心しているのは雪の中に現金を埋めるシーン。あの宝物を探しに行こう! そう決心した久美子は誰にも告げることなく映画の舞台となったアメリカのノースダコタ州へ飛び立った。
 ノースダコタ州で日本人女性が凍死した事件は実際にあったそうだ。ただし、失恋を苦にした自殺というのが真相らしいが、死の直前に彼女が出会った人々と英語でのコミュニケーションがうまくいっておらず、誤解から宝探しに来たという都市伝説になって流布していたのだという。「この物語は事実に基づいている」というクレジットがミソか。画面構成や音楽は一貫して深刻な雰囲気を醸し出しているが、彼女のちぐはぐな言動は、むしろ軽快な音楽を合わせたら喜劇のようになったかもしれない。何だか不思議な映画だ。
【データ】
原題:Kumiko, The Treasure Hunter
監督:デイビット・ゼルナー
主演:菊池凛子
アメリカ/2015年/105分
(2016年1月24日、光點台北にて)

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