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2014年12月14日 - 2014年12月20日

2014年12月18日 (木)

多田井喜生『昭和の迷走──「第二満州国」に憑かれて』

多田井喜生『昭和の迷走──「第二満州国」に憑かれて』(筑摩選書、2014年)

  戦争遂行に必要な条件は軍事、外交、財政。日本が中国大陸での侵略戦争を進めるにあたって財政面ではどのように資金調達を行っていたのか。本書によれば、朝鮮銀行の創案した「預け合」という錬金術的なからくりが活用されていたという。「“預け合”とは、日本円勘定で朝鮮銀行に振り込まれる華北の軍事費を、朝鮮銀行が現地に設立した中国連合準備銀行との預け合契約によって連銀券を調達して現地軍に支出し、手元に残る日本円は国債購入に回して国庫に還流させる仕組み」である(15頁)。

  このからくりを使えば好きなだけお金を引き出すことができる。それは同時に、現地経済でハイパーインフレを引き起こすことでもある。日本経済へもたらされる経済的混乱は相当なものになるはずだが、「明治期に大陸に渡って通貨戦争を繰り広げた日本円は、本土→朝鮮・台湾→満州・北支・中支という植民地銀行による障壁を二重、三重に準備して、本土=日本銀行券を擁護する体制を作り上げていた」(181頁)。昭和20年8月末時点で日本の占領地域における通貨発行高を見ると、障壁に守られた日本銀行券はわずか5.4%を占めるのみであったという。現地の経済的犠牲を踏み台にする形で、戦争を行った当の日本は敗戦後の経済的混乱を回避できたことになる。

  そもそもの発端は、大陸への進出を図る朝鮮銀行の思惑にあった。満洲経営を足掛かりに中国大陸を金建ての円経済圏に組み込もうと目指す朝鮮銀行をはじめとした大陸積極論。これに対して当時の高橋是清蔵相は、満州においてはもともと中国で行われていた銀建てを基本とする方針を主張、これには円ブロックの拡大という形で大陸侵略へ踏み込んでしまうのを抑止しようという信念があった。しかしながら、世界恐慌の影響で銀貨が高騰する中、満州も銀本位制から離脱せざるを得ず、さらに1936年の二二六事件で高橋は殺害されてしまう。

  こうした財政面における大陸積極論の立役者の一人が、第二代朝鮮銀行総裁を務めた勝田主計(後に蔵相)であった。彼は単に財政専門家であるだけでなく政治にも深く関わり、森伝や浅原健三といった政界フィクサー的な人物も彼の家を頻繁に訪れていた。本書は、勝田の残した日記等の史料を活用しながら、円ブロック拡大を目的とした「第二満州国」の創出、いわゆる華北分離工作を進めるために政変を画策する動向を描き出している。

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2014年12月17日 (水)

寺見元恵『フィリピンの独立と日本──リカルテ将軍とラウレル大統領』

寺見元恵『フィリピンの独立と日本──リカルテ将軍とラウレル大統領』(彩流社、2014年)

  16世紀以来、スペインの圧政下にあったフィリピンでは19世紀にホセ=リサールが現れてから反植民地闘争が活発化、リカルト(1866~1945年)もその中で名を挙げた一人である。1898年の米西戦争にあたり、フィリピン独立というアメリカの約束を信じたアギナルドやリカルトといった革命家たちはアメリカ軍に協力したが、約束を反故にされると反米闘争に転じる。しかし、残酷なまでに徹底した掃討作戦で反米ゲリラ闘争は壊滅し、リカルトは日本へ亡命した。日本ではアジア主義者やラス・ビハリ・ボースなど他国の亡命者と交流を持つ。

  フィリピンを領有したアメリカはインフラ整備や教育など近代化政策を推進。ただし、英語話者を統治エリートとして養成する一方で、フィリピン在来の文化は軽蔑される植民地支配の中でフィリピン人の不満は消えなかった。本書のもう一人の主人公、ラウレル(1891~1959年)はフィリピン大学法学部を卒業、イェール大学で博士号も取得した典型的なエリートだが、他方で「フィリピン人のためのフィリピン」という理念を抱いており、将来の国家建設に向けては日本をモデルにする意図もあったという。彼は「フィリピン選挙法」という論文を東京帝国大学に提出して博士号も取得しており、日本と関わりを持とうとする彼の志向性がうかがわれる。

  フィリピン人の不満を見て取ったアメリカは1916年のジョーンズ法で1946年の独立を約束、そのための準備期間としてコモンウェルスが成立、ケソンが初代大統領に就任し、ラウエルはその下で司法長官を務めることになる。

  1941年12月、日本軍が真珠湾を攻撃、シンガポールも攻略して南方へと戦線が拡大する中、日本へ亡命していたリカルトは参謀本部への出頭を命じられた。フィリピン「解放」への協力を求められたリカルトは日本軍と共に約30年ぶりに故国へと凱旋する。リカルトは独立フィリピン政府の首班には自らが就任するものと思い込んでいたが、日本軍は在来の行政機関の中から人材を作用して統治機構を整備する方針であり、ケソンがフィリピンを離れた後、後事を託されてマニラに残留していたラウレルが大統領に就任する。ラウレルはアメリカ教育を受けたエリートではあったが、日本軍の占領下という機会を利用して主体的に「脱アメリカ」政策を進めたと指摘される。

  日本軍に積極的に協力した独立の闘士リカルト。アメリカ施政下で育ったエリートのラウレル。出身背景も世代も異なる二人だが、「フィリピン人のためのフィリピン」という目標では共通していた。こうした二人が日本とアメリカという二つの外来者に翻弄された葛藤を軸として、フィリピンが独立へと向かう近現代史の様相を本書はヴィヴィッドに描き出している。

  戦後、日本軍占領下でラウレルが傀儡大統領に就任した点をアメリカ政府は問題視し、彼は戦犯として逮捕された。しかし、彼が戦時下、日本軍から次々と突きつけられた理不尽な要求をはねつけ、抗日ゲリラ容疑で捕まっていたフィリピン人の助命に尽力したことは多くの人々に記憶されており、後にロハス大統領の特赦で釈放される。ラウレルは大統領選に出馬した際は選挙妨害に遭って落選したが、上院議員にはトップ当選を果たした。

  リカルトは対米抗戦のため戦争末期に義勇軍まで組織したが、結局は日本軍から使い捨てにされてしまい、1945年7月、老体には過酷な逃避行の中で衰弱して世を去った。反米強硬派のイメージが強いリカルトだが、将来の独立を果たせるならアメリカを支持してもいいと考えていた時期もあったらしい。リカルテは1966年、当時のマルコス政権によって初めて国家の英雄と顕彰されることになった。フィリピンでは40年にわたるアメリカの植民教育の影響で反米的な人物の評価がなかなか定まらず、フィリピンを主体とする歴史が書かれるようになったのは1960~70年代になってからだという。

  フィリピン独立史の過程を見ながら私が第一に関心を持ったのは、二つの日本イメージがフィリピンで交錯していたこと。日清・日露戦争で勝利した日本の存在感はフィリピンの革命家たちからも注目されており、反スペイン闘争の頃から日本の援助を期待する気運があった。他方で、対米開戦によりフィリピンへ進駐してきた日本軍の粗暴さ、残虐さはフィリピン人の反感を大きく掻き立てることになってしまった。

  第二に、リカルテとラウレルの二人の行動様式は、例えば根本敬『抵抗と協力のはざま──近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(岩波書店、2010年→こちらを参照)で示された「抵抗と協力のはざま」という枠組みで捉えることができるだろう。すなわち、ナショナリストとしての立場を維持しながらも宗主国もしくは占領者と協力、一定の信頼をかち取り、この関係をテコとした政治的バーゲニングによって独立という最終的目標を目指した行動様式を指している。

  第三に、植民地化・脱植民地化のプロセスという点で台湾との比較もできるかもしれない。まず、①アメリカのフィリピン占領時、日本の台湾占領時とも、反対闘争がゲリラ戦として長期化し、双方のケースとも残虐な弾圧によっておびただしい犠牲者を出している。そうであるにもかかわらず、②その後の教育を中心とした近代化政策によって支配国(アメリカ、日本)への忠誠心や親近感をある程度まで醸成することができた。その後、③「解放者」であるはずのフィリピンへ進駐した日本軍、台湾を接収した中華民国軍は、双方とも過酷な収奪政策を採ったため、現地民の反感を煽り立ててしまった。

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港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動──対抗運動の創造性』

  台湾を専門とする別館ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」の方で港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動──対抗運動の創造性』(インスクリプト、2014年)を取り上げました(→こちら)。著者の問題意識について私は好意的ではあります。ただし、本書では著者の問題意識ばかり先走ってしまって、必ずしも台湾の内在的事情を踏まえて書かれているわけではなく、そうした点は注意しながら読み必要があると思います。

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2014年12月14日 (日)

下斗米伸夫『プーチンはアジアをめざす──激変する国際政治』

下斗米伸夫『プーチンはアジアをめざす──激変する国際政治』(NHK出版新書、2014年)

  一部メディアで「新冷戦」という表現も用いられる近年の国際政治の中でロシアはどのような外交政策を進めていくと考えられるのか。本書はウクライナ情勢、ロシア外交のロジック、そして外交政策を実質的に取り仕切るプーチン大統領個人の考え方を分析した上で、「脱欧入亜」という特徴を指摘する。なお、ロシアの「東方シフト」についてはドミートリー・トレーニン(河東哲夫・湯浅剛・小泉悠訳)『ロシア新戦略──ユーラシアの大変動を読み解く』(作品社、2012年)でも指摘されている(こちらを参照のこと)。

  ロシアが「東方シフト」を進める背景は何か。第一に、プーチン大統領の個人的背景に注目される。彼の家系をたどると異端とされた「古儀式派」にあるとされ(下斗米伸夫『ロシアとソ連 歴史に消された者たち──古儀式派が変えた超大国の歴史』[河出書房新社、2013年]を参照。こちらで取り上げた)、古儀式派にはもともと東方志向があったとされる。また、彼には保守主義やユーラシア主義の思想的影響も見られるという。第二に、ロシアの人口は西に偏っているのに対し、資源は東に偏っており、シベリアから沿海州にかけての将来性をにらんで開発政策を進めている。第三に、世界経済の中心が大西洋から太平洋へ移りつつある中で東アジアとの関係構築が重要となっているが、他方で中国の台頭への安全保障上の警戒心も挙げられる。

  ロシア経済では資源輸出の比重が高く、経済の近代化・多角化が必要とされているが、ウクライナ情勢等の影響でそのために必要な支援を欧米から受けるのは難しい。中国は市場としては魅力的だが、必要な技術的支援は見込めない。そこでプーチン政権が最も期待しているのが日本だという。プーチン政権は、日本に対して時に強硬姿勢を取るように見えることもあるが、基本的には日本重視の姿勢が見られ、北方領土問題解決の意欲を持っていると指摘される。

  私自身の関心としては、現代ロシアの外交戦略にもユーラシア主義の思想的影響が色濃く表れているという点が目を引いた。ユーラシア主義についてはこちら浜由樹子『ユーラシア主義とは何か』(成文社、2010年)を紹介しながら触れたことがある。

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最近読んだ台湾の中文書3冊

  台湾で最近刊行された本を3冊、別館ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」にて紹介した。

鍾明宏《一九四六──被遺忘的台籍青年》(沐風文化出版、2014年)
  日本敗戦の1945年から中華人民共和国が成立する1949年に至るまでの激動期、海峡両岸をまたがって様々な人の動きがあった。本書で取り上げられるテーマは1946年に中国大陸へ渡った台湾人留学生。台湾海峡が分断されて帰れなくなった後、双方の政治的事情からタブーとなって、その存在が歴史の暗闇の中に消えてしまった人々も多い。著者は大陸でも調査を繰り返し、こうした悲劇的な人々の記憶を遅まきながらも掘り起こそうとした労作である。中には日本と密接な関わりがある人々もいる。詳しくはこちらを参照のこと。

蕭文《水交社記憶》(臺灣商務印書館、2014年)
  台南の市街地の南側に「水交社」と呼ばれる一角がある。日本の近代史に関心がある人なら、旧日本海軍将校の親睦組織を想起するだろうが、この地名はまさにその「水交社」に由来する。自身も「水交社」で育った著者は、ここに日本海軍航空隊が来る以前の歴史から戦後の眷村における生活光景まで史料を調べ上げ、当時を記憶する老人たちへのインタビューをまじえながら「水交社」という土地の変遷を丹念に描き出している。台湾を特徴づける歴史的重層性が、この「水交社」という限られた区域からも如実に見えてくるのが面白い。詳しくはこちらを参照のこと。

蘇起《兩岸波濤二十年紀實》(遠見天下文化、2014年)
  本書は1988年の蒋経国死去による李登輝の総統就任から2008年の馬英九の総統当選までの二十年間にわたり、時に一触即発の危険性をはらんできた中台関係を分析している。著者は政治学者で、基本的な立場は「統一」でも「独立」でもなく、「現状維持」によって中国と衝突する危険性を回避する方策を求める点にある。著者自身が国民党政権のブレーンとして両岸政策の策定に関わった経験が本書に盛り込まれているが、本書中の記述に国民党名誉主席・連戦が中国共産党側に情報を漏らしたと推測される箇所があることが台湾のマスコミで報道された。詳しくはこちらを参照のこと。

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