« 港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動──対抗運動の創造性』 | トップページ | 多田井喜生『昭和の迷走──「第二満州国」に憑かれて』 »

2014年12月17日 (水)

寺見元恵『フィリピンの独立と日本──リカルテ将軍とラウレル大統領』

寺見元恵『フィリピンの独立と日本──リカルテ将軍とラウレル大統領』(彩流社、2014年)

  16世紀以来、スペインの圧政下にあったフィリピンでは19世紀にホセ=リサールが現れてから反植民地闘争が活発化、リカルト(1866~1945年)もその中で名を挙げた一人である。1898年の米西戦争にあたり、フィリピン独立というアメリカの約束を信じたアギナルドやリカルトといった革命家たちはアメリカ軍に協力したが、約束を反故にされると反米闘争に転じる。しかし、残酷なまでに徹底した掃討作戦で反米ゲリラ闘争は壊滅し、リカルトは日本へ亡命した。日本ではアジア主義者やラス・ビハリ・ボースなど他国の亡命者と交流を持つ。

  フィリピンを領有したアメリカはインフラ整備や教育など近代化政策を推進。ただし、英語話者を統治エリートとして養成する一方で、フィリピン在来の文化は軽蔑される植民地支配の中でフィリピン人の不満は消えなかった。本書のもう一人の主人公、ラウレル(1891~1959年)はフィリピン大学法学部を卒業、イェール大学で博士号も取得した典型的なエリートだが、他方で「フィリピン人のためのフィリピン」という理念を抱いており、将来の国家建設に向けては日本をモデルにする意図もあったという。彼は「フィリピン選挙法」という論文を東京帝国大学に提出して博士号も取得しており、日本と関わりを持とうとする彼の志向性がうかがわれる。

  フィリピン人の不満を見て取ったアメリカは1916年のジョーンズ法で1946年の独立を約束、そのための準備期間としてコモンウェルスが成立、ケソンが初代大統領に就任し、ラウエルはその下で司法長官を務めることになる。

  1941年12月、日本軍が真珠湾を攻撃、シンガポールも攻略して南方へと戦線が拡大する中、日本へ亡命していたリカルトは参謀本部への出頭を命じられた。フィリピン「解放」への協力を求められたリカルトは日本軍と共に約30年ぶりに故国へと凱旋する。リカルトは独立フィリピン政府の首班には自らが就任するものと思い込んでいたが、日本軍は在来の行政機関の中から人材を作用して統治機構を整備する方針であり、ケソンがフィリピンを離れた後、後事を託されてマニラに残留していたラウレルが大統領に就任する。ラウレルはアメリカ教育を受けたエリートではあったが、日本軍の占領下という機会を利用して主体的に「脱アメリカ」政策を進めたと指摘される。

  日本軍に積極的に協力した独立の闘士リカルト。アメリカ施政下で育ったエリートのラウレル。出身背景も世代も異なる二人だが、「フィリピン人のためのフィリピン」という目標では共通していた。こうした二人が日本とアメリカという二つの外来者に翻弄された葛藤を軸として、フィリピンが独立へと向かう近現代史の様相を本書はヴィヴィッドに描き出している。

  戦後、日本軍占領下でラウレルが傀儡大統領に就任した点をアメリカ政府は問題視し、彼は戦犯として逮捕された。しかし、彼が戦時下、日本軍から次々と突きつけられた理不尽な要求をはねつけ、抗日ゲリラ容疑で捕まっていたフィリピン人の助命に尽力したことは多くの人々に記憶されており、後にロハス大統領の特赦で釈放される。ラウレルは大統領選に出馬した際は選挙妨害に遭って落選したが、上院議員にはトップ当選を果たした。

  リカルトは対米抗戦のため戦争末期に義勇軍まで組織したが、結局は日本軍から使い捨てにされてしまい、1945年7月、老体には過酷な逃避行の中で衰弱して世を去った。反米強硬派のイメージが強いリカルトだが、将来の独立を果たせるならアメリカを支持してもいいと考えていた時期もあったらしい。リカルテは1966年、当時のマルコス政権によって初めて国家の英雄と顕彰されることになった。フィリピンでは40年にわたるアメリカの植民教育の影響で反米的な人物の評価がなかなか定まらず、フィリピンを主体とする歴史が書かれるようになったのは1960~70年代になってからだという。

  フィリピン独立史の過程を見ながら私が第一に関心を持ったのは、二つの日本イメージがフィリピンで交錯していたこと。日清・日露戦争で勝利した日本の存在感はフィリピンの革命家たちからも注目されており、反スペイン闘争の頃から日本の援助を期待する気運があった。他方で、対米開戦によりフィリピンへ進駐してきた日本軍の粗暴さ、残虐さはフィリピン人の反感を大きく掻き立てることになってしまった。

  第二に、リカルテとラウレルの二人の行動様式は、例えば根本敬『抵抗と協力のはざま──近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(岩波書店、2010年→こちらを参照)で示された「抵抗と協力のはざま」という枠組みで捉えることができるだろう。すなわち、ナショナリストとしての立場を維持しながらも宗主国もしくは占領者と協力、一定の信頼をかち取り、この関係をテコとした政治的バーゲニングによって独立という最終的目標を目指した行動様式を指している。

  第三に、植民地化・脱植民地化のプロセスという点で台湾との比較もできるかもしれない。まず、①アメリカのフィリピン占領時、日本の台湾占領時とも、反対闘争がゲリラ戦として長期化し、双方のケースとも残虐な弾圧によっておびただしい犠牲者を出している。そうであるにもかかわらず、②その後の教育を中心とした近代化政策によって支配国(アメリカ、日本)への忠誠心や親近感をある程度まで醸成することができた。その後、③「解放者」であるはずのフィリピンへ進駐した日本軍、台湾を接収した中華民国軍は、双方とも過酷な収奪政策を採ったため、現地民の反感を煽り立ててしまった。

|

« 港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動──対抗運動の創造性』 | トップページ | 多田井喜生『昭和の迷走──「第二満州国」に憑かれて』 »

東南アジア」カテゴリの記事

近現代史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/197828/60825699

この記事へのトラックバック一覧です: 寺見元恵『フィリピンの独立と日本──リカルテ将軍とラウレル大統領』:

« 港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動──対抗運動の創造性』 | トップページ | 多田井喜生『昭和の迷走──「第二満州国」に憑かれて』 »