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2014年10月11日 (土)

木村靖二『第一次世界大戦』、井上寿一『第一次世界大戦と日本』

 今年(2014年)は第一次世界大戦勃発から百周年ということで日本の出版界でもこの大戦をテーマとした書籍の刊行が散見される。とはいえ、日清・日露戦争や第二次世界大戦とは異なり日本が真正面から巻き込まれた戦争ではない以上、世界史に格別な関心を払っている人々ならばともかく、一般読者層にはあまりピンとこないかもしれない。しかしながら、第一次世界大戦が現代史の重大な画期点(ホブズボーム言うところの「短い二十世紀」の始まり)であるのは確かであり、日本も含めてトータルで現代史を考えようとするならば、やはりこの世界戦争についての知識は必須と言えよう。

 どのようなジャンルでも研究は日々進捗しているものだが、そうした成果を一般向けに提供する機会は必ずしも多くはない。~周年、とりわけ百周年というのはなかなか便利なもので、この数字そのものに特別な意味はないにせよ、何となく出版の機会を正当化してくれるような作用がある。第一次世界大戦に関しても、むかし歴史教科書で習ったスタンダードな知識にはかなりアップデートを求められる部分があり、この百周年を期して木村靖二『第一次世界大戦』(ちくま新書、2014年)のようにこのジャンルの碩学による新書が刊行されたのは嬉しい。

 本書の特徴は、前線の兵士/銃後の生活、軍事的状況/政治外交的背景といった形に画然と分けてしまうのではなく、こうした状況を統合しながら第一次世界大戦のプロセスそのものを全体として描き出しているところだろう。近年の研究において一般的な評価がどのようになっているかという点も折に触れて言及されているところがありがたい。例えば、開戦時の熱狂がナショナリズム高揚の一例としてよく引き合いに出されるが、実際には首都のとりわけ青年層に見られた現象で、農村部や都市下層部ではむしろ困惑が広がっていたこと、さりとて徴兵忌避もせず、諦念で従軍したこと。また、ヴェルサイユ条約はドイツに対して過酷であったから、その後のナチスなど右派台頭の口実になったとよく言われるが、当時の連合国・ドイツ双方の対応を見ていくとそれなりに妥当性はあったと現在では考えられており、条約の内容よりも戦後における戦勝国の態度に問題があったと指摘されている。

 井上寿一『第一次世界大戦と日本』(講談社現代新書、2014年)は第一次世界大戦後における国際情勢の変化が日本にどのような影響をもたらしたのか、外交・軍事・政治・経済・社会・文化という六つのテーマに分けて描き出している。日本海軍が地中海へ派遣されたといった話題も取り上げられてはいるが、基本的には1910~20年代という第一次世界大戦が何らかの形で影を落とす時代における日本の状況が主題である。

 私自身としては外交をテーマとした第一章に興味を持った。パリ講和会議に出席した少壮外交官たちは外交の新潮流を見て取って、帰国後、外務省改革を提言。石井菊次郎、佐藤尚武、安達峯一郎、杉村陽太郎といった四人の「国際会議屋」は国際連盟などを舞台に活躍する。第一次世界大戦後における「外交の民主化」という風潮は国民世論を無視できない状況を生み出し、彼ら外務省改革派もそれを肯定的に捉えていたが、満州事変以降、国民世論が硬化し始めるに伴い、彼ら「国際会議屋」のプロフェッショナリズムは外交のアマチュアリズムによって非難攻撃を受けるようになってしまった。こうした構図は現在でもあり得る問題であろう。

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