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2014年10月

2014年10月14日 (火)

麻豆を歩く、台湾史が見えてくる

  台南市の北郊にある街・麻豆。もともとは台南平野一帯に広がっていた台湾先住民族(平埔族)であるシラヤ族の一支族、麻豆(Mattau)社の拠点でした。17世紀にオランダ人が進出してくると奇襲攻撃を仕掛けて多数を殺害するなどの抵抗を示しましたが(麻豆社事件)、やがてオランダの反撃を受け、勢力は衰えていきます。その後は漢化も進み、シラヤ族としてのアイデンティティーは薄れたかのように考えられていましたが、その習俗は意外に根強く残っていたともいわれます。

  当時の交易港の跡が発掘されて、現在は麻豆古港公園となっています。麻豆古港公園の近くでは明治製糖株式会社の本社工場跡が総爺藝文園区として整備されていますし、麻豆老街には日本統治時代に建てられたバロック式の街並みが散見されます。また、王爺信仰の麻豆代天府には漢族系習俗の濃厚な雰囲気がうかがわれます。

  いずれにせよ、シラヤ族という先住民族、漢人、オランダ人、日本人、様々な出自の人々が織りなした重層的な歴史が、麻豆という町を歩くだけでも意外と見えてくるところが興味深く感じられます。

  私自身が麻豆を歩いた記録は以下をご参照ください。鉄道の駅からは遠いのでやや不便ですが、バスを活用すれば意外と何とかなります。台湾南部でちょっと変わったところを旅行したいと考えている方がいらっしゃいましたらご検討の価値はあると思います。

麻豆を歩く、台湾史が見えてくる(1)

麻豆を歩く、台湾史が見えてくる(2)

麻豆を歩く、台湾史が見えてくる(3)

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2014年10月13日 (月)

将基面貴巳『言論抑圧──矢内原事件の構図』

将基面貴巳『言論抑圧──矢内原事件の構図』(中公新書、2014年)

 日中戦争が勃発して日本国内でも世情が騒がしくなりつつあった1937年の12月1日、東京帝国大学教授・矢内原忠雄が辞表を提出した。彼が『中央公論』に掲載した論文「国家の理想」などの言論活動が反戦的で「国体」に反するという非難を受けて政治問題化したため、辞職へと追い込まれた、いわゆる矢内原事件である。滝川事件や美濃部達吉の天皇機関説事件、あるいは矢内原事件後の平賀粛学による河合栄治郎の休職処分、津田左右吉の早大教授辞職──時系列に沿って並べると、一連の言論抑圧事件の中のあくまでも一コマに過ぎないが、本書では敢えてその一コマを詳細に描き出すマイクロヒストリーの手法が念頭に置かれている。

 私自身はもともと、例えば竹内洋『大学という病──東大紛擾と教授群像』(中公文庫)や立花隆『天皇と東大』(文春文庫)などで描かれている当時の東大教授たちの生々しい抗争劇に興味があって、その関連で本書を手に取った。事件当時の当事者それぞれの思惑が複雑に絡まり合っている様子を複眼的に描き出しているのが本書の特色であるが、とりわけ事件の収拾にあたった当時の東大総長・長与又郎の視点を取り込んでいるあたりが面白かった。

 東京帝国大学経済学部教授同士の紛争では国家主義的経済学者・土方成美学部長の策動で矢内原は追い出されたという印象を持っていたのだが、実際のプロセスはなかなか複雑だ。長与総長はやたらと騒ぎ立てる土方学部長の態度に困惑しており、「大学の自治」という観点から少なくとも当初は矢内原を守るつもりだったらしい。ところが、もともと矢内原の言動を苦々しく思っていた文部省教学局から圧力を受け、木戸幸一文部大臣の進退問題にも発展しかねないと言われるに及び、長与総長は態度を一変させ、矢内原に辞職を求めることに決めた(土方は矢内原の辞職までは想定していなかったので、逆に寝耳に水だったという)。

 ここで興味深い論点が提示される。「大学の自治」とは言うは易く、行うは難し。実際には大学教授たちの合議制は常に派閥抗争の繰り返しで有効な意思決定などできず、結局のところ、学長・総長というリーダーの個人的資質にすべてがかかっていた。ところが、矢内原事件当時の長与総長は医学者として名声は高く、人柄から見てもむしろ善人だったが、性格的に弱かったため容易く文部省に屈してしまった。このように「大学の自治」が本来的にはらむ脆弱性が矢内原事件では先鋭的に露呈してしまったのだと指摘される。

 思想史的には「愛国心」をめぐり、理想と現実との緊張関係から現在の問題を批判することこそ国家に資すると考える矢内原の「愛国心」と、あるがままの日本への心情的コミットメントを重視する土方や蓑田胸喜の「愛国心」とが対比される。

 矢内原事件は、現在の「歴史の後知恵」的視点からすればもちろん言論抑圧であり、看過しがたい出来事である。しなしながら、言論抑圧という事態は、単に辞職を迫られたり摘発されたりというだけでなく、意見発表の機会を奪われることでもあるという当たり前のことを想起してみたとき、事件の同時代人にとって「言論抑圧」は可視化され得る性格のものでは決してなかった。そう考えてみると、「どのような言論人が表舞台から消えていったか、どのような見解をメディアでは目にすることがなくなったかについて、把握する」ことが重要だという本書の指摘はやはり頭に留めておく必要があろう。

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2014年10月12日 (日)

横手慎二『スターリン──「非道の独裁者」の実像』

横手慎二『スターリン──「非道の独裁者」の実像』(中公新書、2014年)

 歴史上の政治指導者を取り上げて評伝を描く難しさというのは単に政治イデオロギー上の制約に限らない。パーソナリティーについて史料不足の部分を補うため、例えば精神分析学の手法を用いるといったこともかつて流行ったが、実際には印象論に過ぎない議論に学問的な装いを凝らす程度に終わってしまうケースもしばしば見受けられた。とりわけスターリンのように“冷酷無情な独裁者”というイメージが定着している場合にはなおさらであろう。

 本書の特色は、ロシア革命前後から冷戦初期に至る政治的過程を一つ一つ確認しながら、それらとの相互影響の中でスターリンの考え方やパーソナリティーの変化を辿っているところにある。こうした描き方が可能なのは、ソ連という中央集権的な体制において指導者の決断が常に重要な意味を帯びたこと、指導者であり続けるためにスターリン自身が熾烈な権力闘争を勝ち抜いたこと、第二次世界大戦など国家的危機に際して強力な指導者が不可欠であったこと、こうした様々な背景が考えられるだろう。いずれにせよ、本書はスターリンを主軸に据えたソ連政治史として読むこともできる。

 ソ連崩壊後に利用可能となった新史料や、それらに基づいて進展した研究成果を本書は取り込み、従来貼られてきたレッテルとは異なるスターリン像を描き出している。例えば、青少年期の書簡を通して垣間見えるスターリンは、知的に多感でこそあれ、“冷酷非情”というステレオタイプとは明らかにかけ離れている。それだけに、革命運動へ身を投じて以降の厳しい政治闘争を通して彼が「学び取った」ことの大きさが印象付けられる。

 1920年代におけるソ連の政策論争では大まかに言って二つの方向性があり得た。第一に、農民を重視して彼らの資本蓄積を促し、それを基に外貨で機械を輸入して緩やかな工業化を進める路線。第二に、農業収穫物を低価格で徴発し、農民の犠牲で急速な工業化を推し進める路線。スターリンは当初、前者の路線を採り、一国社会主義の主張と共に党内の支持を得た。ところが、1920年代末、こうした路線がうまくいかなくなると後者に転換して農業集団化、経済五ヵ年計画を強引に推進する。無理な農業集団化は膨大な餓死者を出したが、他方でこの時の急進的工業化によってこそ第二次世界大戦に耐え抜く国力が備わったとされる。ただし、おびただしい人命を犠牲にした事実は無視できず、責任を糊塗しようとしたことが大粛清の要因となった。

 海外では悪評著しいスターリンだが、ロシア国内ではスターリン評価が真っ二つに割れている状況をどのように考えたらいいのか?と本書の冒頭で問題提起されている。すなわち、スターリンなしで第二次世界大戦を持ちこたえることができたのか? ならば、農業集団化や大粛清によるおびただしい犠牲を正当化できるのか? 歴史に対する倫理的評価の問題は解答がなかなか難しい。スターリン再評価のような議論に対して本書は抑制的である。ただし、スターリン批判=西側の価値観に合致したリベラル派/スターリン擁護=頑迷な保守派という単純な二分法が西側諸国では広くみられ、このような善悪二元論ではロシア国内が抱える葛藤を掴みきれないという指摘は少なくとも念頭に置いておく必要があろう。

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2014年10月11日 (土)

木村靖二『第一次世界大戦』、井上寿一『第一次世界大戦と日本』

 今年(2014年)は第一次世界大戦勃発から百周年ということで日本の出版界でもこの大戦をテーマとした書籍の刊行が散見される。とはいえ、日清・日露戦争や第二次世界大戦とは異なり日本が真正面から巻き込まれた戦争ではない以上、世界史に格別な関心を払っている人々ならばともかく、一般読者層にはあまりピンとこないかもしれない。しかしながら、第一次世界大戦が現代史の重大な画期点(ホブズボーム言うところの「短い二十世紀」の始まり)であるのは確かであり、日本も含めてトータルで現代史を考えようとするならば、やはりこの世界戦争についての知識は必須と言えよう。

 どのようなジャンルでも研究は日々進捗しているものだが、そうした成果を一般向けに提供する機会は必ずしも多くはない。~周年、とりわけ百周年というのはなかなか便利なもので、この数字そのものに特別な意味はないにせよ、何となく出版の機会を正当化してくれるような作用がある。第一次世界大戦に関しても、むかし歴史教科書で習ったスタンダードな知識にはかなりアップデートを求められる部分があり、この百周年を期して木村靖二『第一次世界大戦』(ちくま新書、2014年)のようにこのジャンルの碩学による新書が刊行されたのは嬉しい。

 本書の特徴は、前線の兵士/銃後の生活、軍事的状況/政治外交的背景といった形に画然と分けてしまうのではなく、こうした状況を統合しながら第一次世界大戦のプロセスそのものを全体として描き出しているところだろう。近年の研究において一般的な評価がどのようになっているかという点も折に触れて言及されているところがありがたい。例えば、開戦時の熱狂がナショナリズム高揚の一例としてよく引き合いに出されるが、実際には首都のとりわけ青年層に見られた現象で、農村部や都市下層部ではむしろ困惑が広がっていたこと、さりとて徴兵忌避もせず、諦念で従軍したこと。また、ヴェルサイユ条約はドイツに対して過酷であったから、その後のナチスなど右派台頭の口実になったとよく言われるが、当時の連合国・ドイツ双方の対応を見ていくとそれなりに妥当性はあったと現在では考えられており、条約の内容よりも戦後における戦勝国の態度に問題があったと指摘されている。

 井上寿一『第一次世界大戦と日本』(講談社現代新書、2014年)は第一次世界大戦後における国際情勢の変化が日本にどのような影響をもたらしたのか、外交・軍事・政治・経済・社会・文化という六つのテーマに分けて描き出している。日本海軍が地中海へ派遣されたといった話題も取り上げられてはいるが、基本的には1910~20年代という第一次世界大戦が何らかの形で影を落とす時代における日本の状況が主題である。

 私自身としては外交をテーマとした第一章に興味を持った。パリ講和会議に出席した少壮外交官たちは外交の新潮流を見て取って、帰国後、外務省改革を提言。石井菊次郎、佐藤尚武、安達峯一郎、杉村陽太郎といった四人の「国際会議屋」は国際連盟などを舞台に活躍する。第一次世界大戦後における「外交の民主化」という風潮は国民世論を無視できない状況を生み出し、彼ら外務省改革派もそれを肯定的に捉えていたが、満州事変以降、国民世論が硬化し始めるに伴い、彼ら「国際会議屋」のプロフェッショナリズムは外交のアマチュアリズムによって非難攻撃を受けるようになってしまった。こうした構図は現在でもあり得る問題であろう。

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