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2014年6月

2014年6月26日 (木)

中北浩爾『自民党政治の変容』

中北浩爾『自民党政治の変容』(NHKブックス、2014年)

 政治思想としての「保守主義」は何らかの教条体系に基づいて成立しているものではない。そもそもフランス革命における破壊主義的な傾向に危機感を抱いたエドモンド・バークによる考察から始まっていることからうかがわれるように、防衛反応的な性格を持っている。1955年に自由民主党を誕生させた保守合同もまた同年の左右社会党の統一に触発された側面が強い。

 自民党の結党当初から、組織的動員力の面で社会党と比べて立ち遅れているという自覚を抱く政治家の間で、組織政党への脱皮、すなわち「党の近代化」が主張されていた。組織改革の試みがどのような帰結をもたらしたのか。本書は、理念と組織の両面で社会的現実への適応を図ったプロセスに着目しながら自民党政治の変容を描き出し、その中で近年における自民党の「右傾化」を位置付けようと試みている。

 利益誘導政治が自民党の特徴であり、その温床は派閥単位の金権政治にあるとされていた。そこで党の組織改革による近代化が模索されたが、当然ながら党内の反発は根強く、なかなかうまくいかない。逆に、大平正芳のブレーンとなった香山健一らは自由と多様性を擁護する「日本型多元主義」として派閥や議員の個人後援会による政治力学を積極的に評価、農村部だけでなく都市部の無党派も取り込む包括政党として性格付けることで自民党の勢力安定に成功した。これは中選挙区制だからこそ可能な政治モデルだったと言える。ただし、利益誘導政治からの脱却はできなかった。

 二大政党制による政権交代可能性や政治的リーダーシップの確立を目標として小沢一郎たちは小選挙区制の導入を目論んだ(香山健一たちは「穏健な多党制」を目指して細川護煕の日本新党を支援)。小選挙区制の特徴をうまく活用してリーダーシップを握ったのが小泉純一郎である。自民党は無党派層の取り込みに成功、総選挙で大勝したが、それは「古い自民党をぶっ壊す」と絶叫した小泉という「選挙の顔」があったからこそもたらされた勝利であった。組織的動員によらないという意味で選挙プロフェッショナル政党化したと指摘される。

 2009年の総選挙では無党派層を取り込んだ民主党が勝利し、自民党は野党に転落した。小泉政権による新自由主義的政策は自民党自身の組織基盤を崩す方向で作用していたため、かつての利益誘導型の手法で党勢を盛り返すのは難しい。そこで安倍晋三は、自民党内でリベラル派が凋落していたことも相俟って、民主党に対する対抗軸として保守回帰の理念を明確化することにより「草の根保守」の動員を図った。他方で、こうした「右傾化」には世論とのギャップも見られ、支持基盤の再構築に成功したとは言えないとも指摘される。

 本書の分析が対象とするのはあくまでも自民党内の政治過程であって、社会的レベルでの「右傾化」の問題とは必ずしも一致しない。ただし、自民党内に限られた視野ではあっても、リベラル派と右派、それぞれの政治力学的な消長がくっきり浮かび上がってくるところは興味深い。

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2014年6月 2日 (月)

野嶋剛『ラスト・バタリオン──蒋介石と日本軍人たち』

野嶋剛『ラスト・バタリオン──蒋介石と日本軍人たち』(講談社、2014年)

  中国や台湾は言うに及ばず、日本にとっても深い因縁を持つ歴史上のキーパーソン・蒋介石。東アジアの激動をある意味一身で体現しているかのように、彼の評価もまた変転著しい。権威主義体制時代の台湾では文字通り神格化されていたが、民進党の陳水扁政権が誕生すると、脱蒋介石化が急速に進められた。他方、それまで彼を「人民の敵」としてきた大陸の方ではむしろ蒋介石研究が一つのブームになるという逆転現象も起きている。彼をどのように評価するかはともかく、まだまだ論じ尽されていないテーマであることは確かだ。

  蒋介石は常に自己修錬を課すストイックな性格だったのか、あるいは粘着質的とでも言うべきか、激務の合間を縫って毎日欠かさず日記をつけていた。彼の判断が歴史の局面を大きく動かしたことすらあった点を考えると非常に興味深い史料である。民進党政権の誕生によって破棄されることを恐れた遺族の一人が蒋介石日記をスタンフォード大学フーバー研究所に預けており、それが2006年から公開され始めたことは、東アジアの現代史を考え直す上で大きな刺激となった。

  蒋介石日記を閲覧した著者は、1948年の後半から「白団」に関わる記述が繰り返し見られることに注目した。蒋介石の対日観を検討する上で「白団」は重要な切り口となるのではないか──そう確信した著者は7年越しの取材の成果を本書にまとめ上げている。

  国共内戦に敗れて台湾へ撤退した国民政府軍は惨憺たる状態にあった。共産党がいつ台湾海峡を渡って押し寄せてくるか分からないし、アメリカも彼らを見捨てようとしている。そうした危機感の中、蒋介石は軍の再建を図るが、彼が痛感していたのは軍事教育の欠如である。日本留学経験のある蒋介石はもともと日本軍の能力を高く評価しており、軍事教育の部分で日本軍人の助けを借りようとした。

  かつて支那派遣軍総司令官として戦った当の相手である岡村寧次を通じて日本軍人のリクルーティングが進められ、彼らは「反共」の大義名分の下、秘密裡に台湾へと渡った。1949年から68年にかけての約20年間、最大で76名の日本軍人が教官を務めた。現地でトップとなった富田直亮(陸軍少将)の中国名・白鴻亮にちなんで「白団」と呼ばれる。かつての敵軍に教えを乞うという皮肉に国民政府内でも反対意見があったが、蒋介石はそうした不満を抑え込み、自らも積極的に授業へ出席した。蒋介石日記には麾下の将軍たちについての言及はほとんど見られないが、富田をはじめ「白団」将官との面会については頻繁に書き留められており、それだけ深い信頼を寄せていたことが分かる。

  蒋介石は1952年からアメリカの軍事顧問団も受け入れていたが、それは技術的な部分にとどめられていた。「白団」に対するアメリカ側のクレームをはねつけ、軍幹部の精神教育の部分については「白団」に委ねていたあたり、蒋介石の独特な思い入れが窺える。「敵」でありつつも、「日中連携」を図る──こうした逆説から、彼の心中における「愛憎」半ばした葛藤がしばしば指摘される。これに対して著者は、蒋介石の対日観について「受容と克服」、つまり中華民族復興という目的に向けて近代化の成果を日本から吸収する、そうした彼の割り切った態度を指摘している。

  国民政府軍の上層幹部には「白団」の指導を受けた者が多数いるはずだが、彼らはそのことを語りたがらない。軍幹部は主に国民党と共に来台した外省人によって占められていた。彼らにとって日本は旧敵であるが、国民党に反感を抱く台湾人はそうした日本にむしろ好意を寄せる。このような日中台の複雑な三角関係は時に悲劇を生んだ。台湾人として生まれ、国民政府軍に入隊して「白団」の指導を受け、その縁で日本の自衛隊へ留学した楊鴻儒は、1971年にスパイ容疑で逮捕されて緑島へ送られ、不遇な一生を送ることになってしまう。知日派への見せしめであったと考えられる。

  戦後の日本社会に居場所を失ってしまった旧軍人にとって、「白団」として台湾へ赴任することは、自らの能力を生かしてやりがいやプライドを満たせる恰好な舞台であった。他方で、彼らとて人間である。「反共」のための「日中連携」、蒋介石の「以徳報怨」へのご恩返しといった建前だけで生きていたわけではない。「白団」の一員であった戸梶金次郎の日記からは「白団」の面々の「人間くさい」部分が垣間見える。東アジア近代の複雑な諸局面を「白団」に注目する観点から整理して語りつつ、同時にその中で生きざるを得なかった等身大の人間群像もできるだけ描き出しているところは読みごたえがある。

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