【映画】「KANO」
【映画】「KANO」
3月8日に台南の威秀影院で馬志翔監督「KANO」を観た。脚本を書いた魏徳聖は本作ではプロデューサーにまわっている。以下、内容に関わる記述もあるので、気になる方は注意されたい。日本でも今年中には上映されるらしい。
今まで一勝すらしたことのない、だらけきった野球チーム。周囲からは白い目で見られてばかり。そこへ突然現れた謎の鬼監督。無駄口など一切たたかず、一方的に命令ばかりする高圧的な態度に、部員たちは戸惑う。しかし、「一緒に甲子園へ行くんだ!」という監督の気迫は徐々に彼らの心中にも浸透、チームは瞬く間に生まれ変わり、快進撃を始める──。
ある意味、スポ根ドラマの王道である。そういう映画として観ても十分に面白いし、そもそも野球に興味のない私でもいつしか感情移入しながら興奮していた。三時間近くの長丁場だが、テンポが良いので飽きさせない。それ以上に私の場合には、当時の時代背景をストーリー的にも映像的にもしっかり描き込もうとしているところに関心を持ちながら観た。
KANOとは、台湾中部にあった嘉義農林学校の野球部のユニフォームに見える略称である。謎の鬼監督は近藤兵太郎(永瀬正敏)。本職は会計士だが、かつて母校の松山商業学校で野球チームの監督をしていたことがある。しかし、失意のうちに台湾へ来ていた彼にとって、嘉義農林を甲子園へ出場させることは雪冤の悲願であった。
台湾ローカルの大会ですら勝てなかったこのチームが、甲子園初出場にしてみごと準優勝までしたという実話に基づく。1931年のことであった。魏徳聖が監督した前作「セデック・バレ」のテーマである霧社事件は1930年の出来事であり、実は時期的にそれほど隔たっていない。
当時は台湾の大会でも出場チームのほとんどが日本人で占められていた中、嘉義農林は日本人、漢人、「高砂族」と呼ばれた原住民族(アミ族とプユマ族の選手がいた)の混成チームという点が特徴である。こうした多民族混成チームが甲子園に出場したこと自体が極めて異例であった。
その一方で、民族が異なるとコミュニケーションがうまくいかず、チームワークに支障を来すのではないか?という疑問もしばしば向けられた。それどころか、「高砂族なんて野蛮人に野球ができるんですか?」と差別意識むき出しの質問を平気で投げかける記者までいた。憤った近藤監督は「野球に民族の違いなんて関係ないでしょう! この子たちの活躍を、あなた自身の目で確かめてください!」と怒鳴りつける。
「高砂族の選手は足が速い。漢人の選手は打撃が強い。日本人の選手は守備に長けている。それぞれの長所を組み合わせればすごいチームになる」というのが近藤監督の考え方であった。民族的多元性をプラスのものと捉える発想は、この映画が製作された現代の台湾だからこそ強調されるポイントであろう。
当時の甲子園の出場校には台湾代表・嘉義農林のほか、満洲代表・大連商業、朝鮮代表・京城商業といった名前も見られ、「帝国」の広がりが印象付けられる。この映画で、決勝戦よりも、準決勝で対決した北海道代表・札幌高商のエース投手とのやり取りの方をクローズアップさせているのは、「帝国」における「辺境」(=台湾や北海道)から「中央」(=甲子園)へのし上がりたいという上昇意識のあり方を際立たせている。
映画の中では時折、台湾のシンボルとなるモチーフが示される。例えば、マウンド上に現れた蝶。生態系の豊かな台湾はとりわけ蝶の種類が多いことで知られている。また、嘉義農林の前監督で農業技師の濱田先生がパパイヤにまつわるたとえ話で選手を激励するシーンがある。パパイヤも台湾の風土ならではの果物であるが、作家の龍瑛宗が『改造』懸賞小説に入選して台湾人として初めて「中央」文壇にデビューした作品が「パパイヤのある街」(1937年)であったことも連想される。
映画の背景には「近代化」の過程を示すエピソードが散りばめられている。足の速いチームメイトが走って仲間たちを追い越すときに「汽車が来たぞ!」と叫ぶのは、台湾縦貫鉄道開通の印象がまだ生々しかったからであろう。濱田先生がバナナやパパイヤの品種改良に努力しているのは農業近代化を示しており、磯永吉たちが開発した蓬莱米も同時期のものである。そして、農業生産力の増大を可能にしたのが、八田與一(大沢たかお)の建設指導で完成した嘉南大圳であった。ただし、映画の中では嘉義農林の甲子園出場と嘉南大圳の完成とが同時期であるかのように描かれているが、これはあくまでも演出上の話である。
ところで、八田與一の登場は、映画のストーリー構成上、必ずしも必然性のあるものとは言えない。それにもかかわらず、なぜ八田が出てきたのか。
近藤兵太郎の寡黙で厳しい鬼監督ぶり、八田與一の柔和な表情──パーソナリティーとしては極めて対照的に描かれている。しかしながら、甲子園出場にせよ、嘉南大圳にせよ、実現は到底無理としか思われなかった難事業に本気で取り組み、それこそ最初は「変な人だなあ」という程度にしか思われていなかったものの、真摯な姿がやがて現地台湾の人々からの共感を集めるようになったという点では共通している。
いわゆる「植民地近代化論」の是非についてここで論ずるつもりはない。ただ、台湾の人々が支持したのは、日本の国策としての近代化というよりは、むしろ現地でじかに接した一人ひとりの個人としての日本人に対する信頼感であり、そしてそれに応じるだけの底力を台湾の人々が持っていたからこそ成し遂げられた事業であった。その意味では、日本人からの一方的な指導ではなく、双方の協同的インタラクションによるものであった点は確認しておく必要があるだろう。近藤監督の期待に応えて成果を出した嘉義農林の活躍がまさにそうであった。
嘉義農林のエース投手・呉明捷(映画中では「アキラ」と日本風に呼ばれている)の失恋は何を示しているか。書店員をしている憧れの女性を自転車の後ろに乗せていたとき、彼女が荷台に立って両手を広げるところは「タイタニック」の有名なシーンを思わせる。「タイタニック」の二人は身分の異なる悲恋に終わったが、呉明捷にしても同様である。憧れの女性は裕福な医師のもとへ嫁いでいった。当時の台湾において医師の社会的・経済的ステータスは極めて高く、優秀な子弟がいたら必ず医学部へ進学させようとしたと言われる。貧困にあえぐ農民の息子では到底かなわない。
民族差別の壁。「辺境」から「中央」への壁。そして、恋愛感情も阻まれてしまう社会経済的な壁──どんな壁があろうとも挫けずに、自ら進む道を切り開こうと鼓舞してくれたのが、近藤監督から叩き込まれた「一球入魂」の精神であったと言えるだろうか。
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