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2014年2月

2014年2月17日 (月)

鄭鴻生『台湾68年世代、戒厳令下の青春――釣魚台運動から学園闘争、台湾民主化の原点へ』

鄭鴻生(丸川哲史訳)『台湾68年世代、戒厳令下の青春――釣魚台運動から学園闘争、台湾民主化の原点へ』(作品社、2014年)

 まだ早熟な高校生であった1968年、同人雑誌を通じて新しい思潮に接し、社会的意識に眼を開かされたた著者と仲間たち。彼らの情熱は大学進学で移り住んだ台北でより具体的な熱気を帯びることになる。もともと在米華僑学生を中心に始まった保衛釣魚台運動(保釣運動)は1971年春に台湾大学へも飛び火し、これが大きな触媒となって言論の自由や民主化を求める学園紛争が各大学で一挙に盛り上がった。

 日本で安保闘争が、アメリカでベトナム反戦運動が社会現象となっていた時期とほぼ重なる。台湾南部から政治首都・台北へ出てきた田舎学生の都会的スノビズムに対する反感とコンプレックス。ビートルズやフォークソングを口ずさみ、鬱屈を晴らすように酒を呑む一方、知的に背伸びしようと仲間たちと語らう日々を回想する語り口には、時にほほえましいところもある。同世代の学園紛争に郷愁を感じるタイプなら感情移入しながら読み込むのかもしれない(世代の異なる私自身からすると、ほとんどシンパシーの対象とはならないが)。

 ただ、大きな違いがあるとすれば、白色テロの記憶もまだ強かった当時の台湾にあって、当局に連行される現実的な恐怖感がより切迫したものであったことだろう。

 殷海光の開かれた自由主義と批判精神から大きな知的触発を受けていた著者たちが、なぜ保釣運動という、ある意味狭隘さすら感じられる領土ナショナリズムにとびついたのか、そこが私からすると素朴な疑問であった。

 彼らの観点からすると、釣魚台問題(尖閣問題)は単に対等な国家同士の領土紛争という次元にとどまらないようだ。陰に陽に言論弾圧を行う国民党政権はアメリカのバックアップがあってようやく存立しているに過ぎない。そのアメリカは釣魚台(尖閣列島)を日本へ引き渡し、国民党政権は手をこまねいて見ているだけ。つまり、内弁慶の国民党独裁に対する反感と、アメリカ帝国主義のグローバルな覇権に対する反感とを彼らは結びつけて理解しており、これは同時に台湾は「帝国主義によって抑圧された第三世界」に属するという世界認識を成り立たせていた。

 ここから次の三点が導き出される。第一に、自由とデモクラシーを求める啓蒙精神と反帝国主義のナショナリズムとを結びつけた五四運動に自分たちの精神的ルーツを見出した。第二に、台湾はかつて日本帝国主義に支配されたという過去のコンテクストに着目すると、楊逵(日本統治時代に作品を発表したプロレタリア作家)や蒋渭水(抗日民族運動左派の指導者)などが自分たちの先達として再評価された。第三に、共産主義に対する是非ではなく、第三世界のリーダーとしての中国共産党に対して、少なくとも国民党よりは好意的に見ていた。これには国民党が盛んに宣伝する硬直した反共主義への反感も与っていただろう。反米・反帝の観点から中国も台湾も同じく第三世界に属しているのだから、中国人と台湾人とを対立的な構図で捉える台湾ナショナリズムとは一線を画する。

 もちろん、政治的立場を異にする人たちからは反論もあるだろう。私自身は台湾の政治的思潮を複眼的に考察したいという立場なので、こうした彼らの内在的ロジックを確認できたことは、少なくとも私にとっては有益であった(相手方の論理を理解しないで難癖をつけるのは建設的ではない)。

 訳者解説で「台湾の権威主義体制への抵抗運動の起点は、本書を紐解くならば、やはり「保釣」運動(1971年)から、と認定されるべきだろう」(306~307ページ)と記されているが、これは違うのではないか。著者の友人である銭永祥が跋文「青春の歌声の控え目さ」で、台湾の権威主義体制に対する挑戦が外来政権と本土意識(台湾ナショナリズム)との衝突という二元論的構図に矮小化され、民主化運動の起点を美麗島事件(1979~80年)へ求める言説に対して異議申し立てをしている(288ページ)ことに訳者は呼応しようとしたのだと思われるが、他方で著者たちが殷海光への敬意を強調している以上、少なくとも『自由中国』の活動も考慮しなければ話の筋道が合わない。

 なお、殷海光と『自由中国』については、以前にこちらで触れたことがある。

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2014年2月16日 (日)

庄司達也・中沢弥・山岸郁子・編『改造社のメディア戦略』

庄司達也・中沢弥・山岸郁子・編『改造社のメディア戦略』(双文社出版、2013年)

 大正・昭和初期という時代は、出版メディアの拡大・変容が著しかったという点でも大きな画期をなしている。とりわけ目立つのが、いわゆる「円本」であろう。火付け役は改造社の山本実彦。改造社が出した『現代日本文学全集』(1926~31年)は予約販売、1冊1円、毎月刊行という方式で、文学という教養を一般大衆へ大々的に売り込むことに成功した。売上の低迷に悩んでいた山本が、ある意味バクチのように起死回生で打ち出した奇策であったが、これが売れた。他社も追随して様々な企画が登場し、いわゆる「円本ブーム」は出版史上でも特記されることになる。

 もちろん、単に山本のアイデアが当たったというだけの話ではない。流通網・通信網といったインフラや売り込みを受け入れる消費社会的状況など、こうした大量出版を可能にする社会的条件がすでに成立していたわけである。

 本書は改造社をメインに据えて当時の出版メディアについて様々な論点から迫ろうとしている。目次を示すと次の通り。出版社の思惑だけではなく、書き手である文壇の雰囲気なども垣間見えて興味深い。

・「昭和改元前後における『改造』の変容──円本ブームをもたらしたもの」(杉山欣也)
・「改造社の文学事業」(山岸郁子)
・「拡散する「円本」状況」(松村良)
・「「探偵小説」の現在との接続──円本時代における「文学全集」概念の変容」(山口直孝)
・「改造社「『現代日本文学全集』講演映画大会」という戦略」(庄司達也)
・「文芸映画の時代と雑誌『改造』」(中沢弥)
・「『改造』掲載作品に対する『文芸時代』の合評会」(須藤宏明)
・「〈懸賞作家〉にとっての『改造』──『改造』懸賞創作第四回当選者・田郷虎雄を中心に」(和泉司)
・「『女性改造』という媒体──芥川龍之介「白」発表の周辺」(平野晶子)

 本書の後半では関連する資料も掲示されており、文学史・思想史などに関心があれば眺めているだけでも面白い。今後は改造社ばかりでなく、同時代の他社の動向も合わせて複眼的な考察が進められていけば、いっそうこの時代の興味深い論点が見いだされていくだろう。

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2014年2月15日 (土)

赤江達也『「紙上の教会」と日本近代──無教会キリスト教の歴史社会学』

赤江達也『「紙上の教会」と日本近代──無教会キリスト教の歴史社会学』(岩波書店、2013年)

 教会という制度から離れて信仰の在り方を模索した無教会キリスト教は内村鑑三の名前とセットになって記憶されている。教会組織を介入させず、直接に神の言葉=聖書の内容に迫ろうとする模索は、内面性・純粋性を重んずる信仰態度とも捉えられる。他方で、無教会主義の社会運動としての次元に着目するなら、雑誌メディアによって独立の信者=読者を横につなぐネットワークでもあった。本書はそうした「紙上の教会」における内村や弟子たちの言説を検証しながら近代日本の一側面を浮かび上がらせようとしている。

 無教会は内村を中心とした雑誌メディアを通した信仰活動であり、従って「読む」という知的行為に重きが置かれる。内村という人物の迫力もあって多くの知識青年を集め、キリスト教と教養主義とが密接に関わっていったことは容易に首肯される。

 雑誌メディアであり、語り手も社会的使命感を持った人々である以上、その語り口にもパブリックな側面が濃厚に表れる。とりわけ私が興味深く思ったのは、キリスト教とナショナリズムとの関係というテーマである。内村鑑三が愛国的キリスト信徒であったことはよく知られているが、いわゆる不敬事件において彼が示したためらい。戦時下における矢内原忠雄の「日本的キリスト教」の主張。戦後、無教会に集う知識人が皇室のキリスト教化に期待を寄せた「重臣リベラリズム」的な保守性。近代日本の思想史を考える上で外せない問題提起を本書は示している。

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