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2013年12月1日 - 2013年12月7日

2013年12月 7日 (土)

【映画】「ハンナ・アーレント」

「ハンナ・アーレント」

 ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判(1961年)に関わった時期に焦点をしぼって、家族や友人たちと触れ合う中で彼女が葛藤する姿が描かれる。この映画でアーレントが格闘したのは、二つのタイプの「無思考」だと言えるだろう。

 一つは、彼女がアイヒマン裁判を傍聴して書き上げた『イェルサレムのアイヒマン』の副題となった有名なテーゼ「悪の陳腐さ」をめぐって。本物のアイヒマンを目の当たりにして彼女が驚いたのは、彼が特別に兇悪なモンスターなどではなく、ただの平凡な小役人に過ぎなかったこと。世紀の犯罪者であるにもかかわらず、悪魔的な深みすら見出せないのはなぜなのか? 上意下達の指揮命令系統への服従を美徳と考える彼には、ユダヤ人への同情を持たない一方、ことさらな憎悪も抱いてはいなかった。命令された仕事を忠実に実行しただけ。つまり、自らの判断を放棄していたので、良心の呵責を感ずることもなかった。こうした多くのアイヒマン的な人間による業務分担がシステム化されていたからこそ、ナチスによるホロコーストが可能となったのである。言い換えると、平凡な一個人であっても、自らの思考を放棄したとき、容易に殺戮者となり得てしまう――こうした「悪の陳腐さ」という逆説は、アイヒマン一人のせいにして済ませることはできない。むしろ近代文明そのものがはらむ矛盾として問題提起したところに、彼女が単なる裁判傍聴記に終らせなかった政治思想史家としての面目躍如たるものがあった。

 映画の中でアイヒマンが登場するシーンでは当時の記録映像が用いられている。俳優にアイヒマンを演じさせなかったのは一つの工夫である。演技にはその人物の特徴を強調してしまう作用があることを考えると、「悪さ」にせよ、「平凡さ」にせよ、どうしても不自然な演出になってしまう恐れがある。そうなると、アーレントの「悪の陳腐さ」という意図がうまく伝わらない。アイヒマン本人に「演じて」もらうのが一番良いという判断だろう。

 アーレントの記事が『ニューヨーカー』誌に掲載されると、ユダヤ人社会を中心に猛烈な非難の合唱が巻き起こった。これはアイヒマン免罪論ではないのか、と。さらに、ユダヤ人社会の一部の指導者が、自分たちが助かるためにナチスと取引をしていた事実にも触れたことが、火に油を注いでしまった。アーレントはホロコーストの犠牲者を冒涜している――抗議の電話や脅迫状が次々と舞い込んできた。彼女の書いた記事をきちんと読めば、そんな意図は全くないと分かるはずだが、こうした印象論が一人歩きを始めてしまうと、彼らは一切聞く耳を持たない。記事を読むことすら汚らわしいという反応が返ってくる。もう一つの「無思考」である。

 友人たちの議論を、アーレントがタバコをくゆらせながら睥睨するように見つめる表情に貫禄があって印象的だ。どうでもいいことだけど、もし反禁煙ファシズム映画大賞なんてものがあったら、「ハンナ・アーレント」と「風立ちぬ」をノミネートしたい。

【データ】
監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ
ドイツ・ルクセンブルク・フランス/2012年/114分
(2013年12月7日、岩波ホールにて)

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2013年12月 6日 (金)

重田園江『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』、仲正昌樹『〈法と自由〉講義――憲法の基本を理解するために』

 一定の社会秩序が成立すれば必ず制約が生まれるが、他方で一人ひとりの多様なあり方を押しつぶしてしまっては社会的な活力が失われてしまう。自由と秩序の両立という政治思想上の根本的なアポリアに対してどのような解答を与えるか? 社会契約論はそうした課題から編み出された卓抜な概念装置と言える。現実における諸々のノイズがシャットアウトされた原初状態という舞台だからこそ原理論的考察が可能となる。

 社会科学のあらゆる古典についても言えることだが、社会契約論として提示された結論だけを見てもあまり意味はない。むしろ、そうした結論を導き出すに至った個々の思想家たちの思考過程はどうであったのか、社会構想をめぐる葛藤を追体験していくところに思想史の醍醐味がある。そこから受ける知的刺激は、現代に生きる我々の社会の仕組みを再検討する判断基準を組み立てなおすことにもつながるだろう。そうした意味で、重田園江『社会契約論――ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』(ちくま新書、2013年)と仲正昌樹『〈法と自由〉講義――憲法の基本を理解するために』(作品社、2013年)は、社会契約論をめぐる思想家たちの内在論理を汲み取ろうとする姿勢があって興味深く読んだ。

 重田園江『社会契約論』は、理解しきれないもどかしさも率直に読者へ投げかけた上で自らの読み方を語りかけてくる誠実さに好感を持った。本書は社会契約論を「はじまりの約束」「約束の思想」として読み解く。まずホッブズの思想について、人と人との約束そのものが双方を拘束する関係性の力、アソシエーションの政治思想として読み直し、次にヒュームによる社会契約論批判を検討した上で、話をルソー、ロールズへとつなげていく。

 一般意志は特殊意志の総和ではない――ルソーの社会契約論における「一般意志」は数多の論者が議論を重ねる焦点となってきた難題である。社会契約を結ぶ当事者は、特殊意思としての自分と一般意志としての政治体であり、なおかつ後者の一般意志には他ならぬ自分自身も含まれているというからややこしい。自分と、自分自身も含まれる政治体とが契約する。どういうことか。普通の人、ただの人としての自分と政治的公共性を自覚した自分とが一人の中で共存していると考えれば理解しやすそうだ。「つまり、人が両方の視点に立てること、そしてふだんはただの人でしかない共同体のメンバーが、政治に参加するときには市民となること、すなわち全体の一部としての「一般的な」視点に立つことが、ルソーの政治社会にとって必須なのである。人は、政治体の参加者あるいは主権者としては一般的な視点に立ち、一般意志に従って行為しなければならない」(重田、184ページ)。

 では、一般的な視点に立つとはどのようなことなのか? ロールズの正義論は社会契約論の現代的焼き直しということはよく知られているが、ルソーの社会契約論から見出された「一般的な視点」を、ロールズの「無知のヴェール」の議論へつなげていくところに説得力がある。「…こうして人は、情報の制約下で多様な立場を想像することを強いられる。そのプロセスを通じて、意図せずして社会的観点、社会的公正を考慮する視点に立つようになる。自己滅却や自己犠牲ではなく、自分が誰かわからない、あるいは誰でもありうるという状況下での「一般的エゴイズム」に基づく思考プロセスが、社会的公正を選ばせるのだ」(重田、252ページ)。

 
 仲正昌樹『〈法と自由〉講義』はルソーの社会契約論からもたらされた思想的影響の圏域において法というテーマに焦点を合わせ、ルソー『社会契約論』、ベッカリーア『犯罪と刑罰』、そしてカント「啓蒙とは何か」等の諸論文を取り上げている。他の思想家たちとの関り方や影響関係、さらにキーワードの語源的な解釈が適宜交えられており、ゼミ形式で講読するような気持ちで読み進められる。

 上掲の重田『社会解約論』を読みながら、万人の万人に対する闘争という自然状態から社会契約を結ぶにあたって最初に武器を捨てるのは誰か?というホッブズ問題、ルソーの社会契約における一般意志として「一般的な視点に立つ」こと、そしてロールズの「無知のヴェール」という思考実験における想像力はなぜ成り立つのか、つまり、そもそもそうした思考を敢えて行えるのはなぜなのか、そこのあたりをどのように考えればいいのか、気になっていた。熟慮に基づく理性、公共的理性、カント的な実践理性、色々な表現はあると思うが、一言でいえば社会契約として公共性に参与するときの一人ひとりの「自律」はどのようにして可能なのかという問いはさらに考え続けなければならないテーマであろう。

 その点では、仲正書で社会契約論の一般意志をめぐって「人民」が自らの「一般意志」の現れである「法」を介して自らに規律を課しているという指摘に関心を持った。ホメロス『オデュッセイア』にあるセイレーンの誘惑のエピソードを引き合いに出して、「「法」というのは、人民が、自らが将来、危機的な状況、異常な状況に遭遇した時、バカなことをしでかさないよう、自分の行動を予め縛るものだというわけです。ある時点での冷静な「私」が、別の時点でバカなことをしそうな「私」の行動を抑止しているわけです。…私が私を縛ることがあるように、「私たち=人民」が、「私たち=人民」自身を縛っているわけです」(仲正、91ページ)と語っている。なお、セイレーンの誘惑というエピソードはアドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法──哲学的断章』(岩波文庫)で論じられている。

 社会契約における一般意志として一定のルールを定め、そこに自発的に従う形で道徳的自由=自律を目指していたとしても、実際の人間はそこから逸脱しかねない。従って、一般意志に従うようにタガをはめる必要が出てくる。それが「法」として表現された。ベッカリーア『犯罪と刑罰』は罪刑法定主義や死刑廃止論といった議論で後世に大きな影響を与えているが、罪刑法定主義の考え方では法の内容をみんなが理解していることが前提となる。つまり、理性的な熟慮によって社会契約に参画していなければならないという点で「自律」→「自由」が前提となっていると言える。

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