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2013年10月13日 - 2013年10月19日

2013年10月18日 (金)

篠田英朗『平和構築入門――その思想と方法を問いなおす』

篠田英朗『平和構築入門――その思想と方法を問いなおす』(ちくま新書、2013年)

 第二次世界大戦後、国家同士の戦争は減少している一方、紛争は主に内戦という形で燃え上がるケースが目立っている。ポストモダン系の思想、もしくは経済的な新自由主義の立場からは主権国家の限界がしばしば語られる。しかしながら、国民の生命の安全を守る役割、社会契約説における最低限の義務すら果たすことの出来ない「脆弱国家」においては、むしろ国家としての機能をいかに構築するかが根本的なテーマとなる。社会契約説的な考え方からすれば、国家があってこそ人権を守り得る。それゆえにこそ、平和構築は同時に国家構築のプロセスと重なってくる(なお、アフリカの紛争地帯を調査したポール・コリアーは、紛争予防のためにインフラとしての国家を構築する必要を指摘している。Paul Collier, Wars, Guns, and Votes: Democracy in Dangerous Places, HarperCollins, 2009→こちら)。

 ガバナンスの能力を欠いた「劣った」人々をパターナリスティックに保護してやる、という考え方に対して本書は強く戒める。紛争多発地帯では20世紀後半に独立した国々がほとんどで、政治・経済・社会のあらゆる面で基本的なインフラを欠如させたまま独り立ちを強いられた点では、すでに長い時間をかけてインフラを蓄積させてきた先進国との間に出発点から格差があった。何よりも、国際秩序が一体化しつつある中、その一部で生じた綻びは構造的な問題であり、まさにその国際秩序の中で生きる我々自身にとって決して他人事とは言えない。内政不干渉等の原則によって主権国家同士の関係を律してきた従来の国際社会観より一歩進んで、各国家の内部においても人権など普遍的な価値規範の遵守を求める「新しい国際立憲主義」が20世紀末になって現われたと本書では指摘される。著者の『「国家主権」という思想──国際立憲主義への軌跡』(勁草書房、2012年→こちら)では、ある地域で国家が責任を果たすことができない時に国際社会による介入を社会契約説の考え方を援用しながら正当化する論点が示されていた。

 無辜の人々が殺されていく緊急事態を目の当たりにしたとき、軍事介入という選択肢を否定しさることはできない。人道的介入の是非をめぐっては議論が尽きないが、軍事介入を行う大国の政治的思惑や、介入した結果として生ずる新たな混乱への警戒感がある一方、ルワンダのジェノサイドを国際社会が傍観したことへの当事者の絶望感も深かった(例えば、Roméo Dallaire, Shake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda, New York: Carroll &Graf Publishers, 2005→こちらPaul Rusesabagina, An Ordinary Man, Penguin Books, 2007→こちら)。平和構築にあたっての軍事力行使は単純に善悪で割り切れる問題ではない。同様のことが紛争後にもあり得る。例えば、ルワンダ紛争を逃れて多くの人々が流れ込んだ隣国ザイールの難民キャンプで人道援助活動が行われた。実は、そこに他ならぬルワンダの虐殺者が多数逃げ込んでおり、結果として人道援助活動が犯罪者を保護する形になってしまったのだという。内戦終結後のルワンダ政府軍はこれを非難して攻め込み、実力で難民キャンプを解体、報復で多くの人々が殺害されたばかりか、その過程でザイールのモブツ政権が崩壊、コンゴ紛争が激化した。

 動機は人道的なものであっても、どのような結果が得られるのか見通しがつかない。そうした複雑な矛盾は、平和構築活動のあらゆる局面に見出される。本書は、政治、軍事、法律、開発、人道といった分野ごとに平和構築が直面する課題を描き出しており、理念と現実との解き難いアポリアを整理して考えるのに必要な論点を提示してくれている。

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2013年10月17日 (木)

【雑記】雲崗石窟の江文也と崔承喜

 一九四一年のある日、江文也が山西省大同にある雲崗石窟の上にたたずんでいる写真がある。彼は目の当たりにした雄大な光景に触発され、ものぐるおしい感動に胸を打ちふるわせていた。彼にとって石仏は単なる宗教的なモニュメントなのではない。茫漠と果てしなく広がる大地のただ中に屹立する山並みに穿たれた大仏群、そこから浮かび上がる歴史の年輪を見て取った彼の眼差しは、目前の石仏を超え、はるかかなたの悠久へとまっすぐに向けられている。

 一九三七年から始まった日中戦争で大同も含めて華北一帯は日本軍によって占領されており、一九四一年十二月には間もなく太平洋戦争が始まろうという時代状況である。そんな硝煙の臭いが立ち込めた時期に、台湾出身の江文也がなぜ雲崗にいたのか。

 一九三八年に二十八歳の若さで北京師範大学教授に招聘されていた彼は東京と北京の両方に自宅を構えていた。知人の映画プロデューサーである松崎啓次から雲崗石窟をテーマとした記録映画の音楽を依頼され、その撮影旅行に同行していたのである。松崎はプロキノ(日本プロレタリア映画同盟)出身の映画人で、その後、東宝を経て、当時は川喜多長政が設立した中華電影で制作部長をしていた。結局、映画企画そのものは頓挫してしまったようだが、雲崗石窟をじかに目の当たりにした体験が江文也の胸奥に激しい芸術的インスピレーションを巻き起こすことになったのは確かである。

 これより約一五〇〇年前の四六〇年頃、僧・曇曜が北魏の文成帝に上奏して雲崗石窟の造営が始まった。いわゆる三武一宗の法難の第一発目である北魏・太武帝による仏教弾圧がようやく終わったばかりで、仏教復興へ向けた情熱がこの一大事業に込められていた。ガンダーラ様式やグプタ様式の影響も色濃い造型からは、西域伝来の様々な文化要素を吸収し、昇華させながらこの巨大モニュメントが成立した歴史的背景がうかがえる。

 中国における雄大な風景と悠久な歴史とを具象化させた存在として雲崗石窟を見立て、そうしたイマジネーションから言語を絶した印象を受け止めた江文也は、その時の感動を『大同石佛頌』という詩集につづっている。

だが、石佛よ/自分は 単なる芸術の一求道者に過ぎず/汝を作つたひとびとの宗教とは/凡そ 縁もゆかりもない/一異教徒である/それでも/いま 自分は何か少し解つたやうな気がするのだ/それは/無限の可能状態である/表現である/有にして無の世界である/おゝ!/石佛よ/汝を通じて自分は感ずる/これはもはや芸術だけではない/これはもはや宗教だけではない/そのいづれであり/そのいづれでもない/もはや/これは芸術を越えて居り/遥かに越えて/そのいづれもが/ひとつの点に帰した極みであるのだ/寂であり/寥であり/すべて久遠なるものの/一切の原因となり得たものである/これは もはや彫られたものではない/彫刻工の手先きの遊戯でもなければ/快楽でもない/さらに 創造されたものでさへない/それは/生れるべくして生れたものだ/天がある如く/石佛もすでにそこにあつた/宇宙が微笑むやうに/石も微笑み出したまでである
(江文也『大同石佛頌』青梧堂、一九四二年、三七~四一頁)

 石仏は、彫刻家たちが刻み込んだいう点では確かに人為的な構成物に過ぎないのかもしれない。しかし、それらが膨大に集積され、そこに歴史の厚みを感じさせるようになったとき、一人ひとりの技巧は宇宙的広がりの中へと収斂される。人の手になる表現であっても、人智を超えた何かへと接続しうる可能性。雲崗石窟の壮大な仏像群を前にして、それこそ歴史を超越した美そのものへと憧れを羽ばたかせていく感動を胸中にたぎらせた江文也が、自らの音楽的表現をもまさにこうした永遠へとつなげていこうと気負っていたことが、この詩文から読み取れるだろう。

 雲崗の石仏群の雄大な光景から圧倒的な感動を受けた芸術家は他にもいる。例えば、「半島の舞姫」と謳われた、朝鮮半島出身の崔承喜である。彼女は華北に駐屯する日本軍の慰問のため、一九四二年に北京、天津などの都市を回って公演を行い、最後に大同まで行った。大同に近い雲崗石窟を訪れ、その時に感じたことを彼女は次のように記している。

 私はその(筆者注・公演の終わった)翌日○○(筆者注・原文伏せ字)部隊の方たちに案内され雲崗鎮までの一時間足らずの道をトラックで石仏参観に出かけました。
 東西半里にもわたると思われるカバ色の石崖の数十万体の巨大な彫刻の雄大なる群像を眺めた時に私は人間の創造力の如何に雄大であるかを、いまさらながら強く感じたのであります。
 私は欧米公演の節、ロダンの彫刻を始め欧米文化の残した芸術的遺産を見回り印象深いものがありましたが、この雲崗の石窟を見て、はるかに強い感銘に打たれたのであります。千五百年の昔、北魏時代。幾万人もの彫刻家がこの偉大な芸術作品の創造に心血を注ぎ、北魏の都には国中の佳人が集まり、彫刻の参考に供されたと伝えられているが、私はここの歴史は変わろうとも、芸術の限りなき生命を感じたのであり、幾十年もの間、その一生を唯この芸術創造の為に、こつこつと石を刻んだであろうところの、多くの名も伝えられていない芸術家をしのび、尊敬の念を禁じえなかったのであります。
 それと共に、今日の私たち芸術家が如何に『現実』のみの追求に追われていることか、如何にその仕事がその場限りの、生命の短いものであるかを嘆かざるを得ませんでした。
(崔承喜「興亡一千年の神秘」、金賛汀『炎は闇の彼方に──伝説の舞姫・崔承喜』日本放送出版協会、二〇〇二年、二〇二~二〇三頁)

 崔承喜にとって、日本軍の慰問に行くのは気が進まないことだったかもしれない。だが、あまたの有名無名の人々が孜々として築き上げてきた石仏群の歴史性という高みに立った視点を通して、彼女は不本意な戦争に巻き込まれている自分の惨めさを捉え返そうとした。戦争という「現実」に翻弄される小さな自分に拘泥するのではなく、そうした一切をひっくるめた悠久の「歴史」の中にこそ芸術を生み出していく生命力を見出したいという方向に発想を切り替えようとした。

 そうした努力が必ずしもうまくいくわけではない。しかしながら、植民地出身の自分が戦時下の異国で聖戦鼓舞をしなければならないという矛盾した立場を思ったとき、そのように考えなければこの「現実」を精神的に乗り切っていくのは難しかったのであろう。

 江文也と崔承喜との間に直接の交流があったかどうかは確認していない。ただ、雲崗石窟から永遠の何かへとつながる手ごたえを感じ取り、そうした超越的な視点から自らの表現を、そして自らの存在をも捉え返そうとした感受性では、二人に相通ずるところがあったように思われる。

 なお、伊福部昭も、旧満洲国・新京音楽院の招きで大陸に渡った際、雲崗ではないが熱河の寺院で目の当たりにした石窟から受けたインスピレーションをもとに「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」を作曲している(ただし、曲ができたのは戦後のこと)。リトミカ・オスティナータというのは執拗な反復律動という意味で、まさにミニマリズムの美学と言うべきだろう。石窟寺院で見かけた一つ一つの仏像は貧相なものだが、その大量に充満している様子に圧倒され、反復律動のイメージにつながったのだという。

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2013年10月16日 (水)

木村俊道『文明と教養の〈政治〉──近代デモクラシー以前の政治思想』

木村俊道『文明と教養の〈政治〉──近代デモクラシー以前の政治思想』(講談社選書メチエ、2013年)

 現代の我々が暮らす社会で「政治」について考えるとき、暗黙のうちにデモクラシーが自明の前提となっている(もちろん、デモクラシーとは何か?というテーマ自体が論争的であるにしても)。しかしながら、「政治」なるものの多様な可能性を探ってみるなら、こうした自明の価値とされているものもいったん括弧にくくって問い直してみる作業も必要であろう。そこで本書が探求の対象とするのは、デモクラシーがまだ「普遍」的とは考えられていなかった初期近代(=近世、16~18世紀)のヨーロッパ政治思想史である。近代と近代以前、政治思想における双方の知的パラダイムの相違がくっきり浮き彫りにされているところに興味を持ちながら読み進めた。

 「文明」と訳されるcivilization、この言葉が広く定着するようになったのは19世紀以降の「近代」になってからのことだという。本書はむしろ、初期近代に同義で使われていたcivilityとの意味的な差異に注目する。civilizationでは歴史の進歩や産業技術の発展といった技術知的な側面に重きが置かれるのに対して、civilityでは礼儀正さや洗練された作法といった対人関係における「実践知」としての意味合いが強かったと指摘される。

 初期近代の社会で統治の舞台となった宮廷では、君主や顧問官、その他取りまきたちは洗練された振舞いをしなければならなかった。しかし、それは単なるパーティーの作法といったレベルのものではない。「暴力と感情の噴出を抑え、他者との交際や社交を可能にするための技術」、「他者を説得するレトリックや情況に応じて適切な判断を下す思慮を、洗練された振舞いや高度な役割演技において具現するための実践知」(110~111ページ)、こうしたものを「文明の作法」として本書は抽出していく。

 社交における身体的振舞いによって他者との「共存」を可能にした「文明の作法」。しかしながら、フランス革命や産業化以降の「近代」世界において、「政治」は制度的・技術的な構成の問題となる。「文明の作法」を支えていた「教養」は個人の内面性に関わるもとして「政治」から切り離され、社交上の身だしなみ程度のものへと矮小化されていった。19世紀、開国を迫る脅威として日本が出会った西洋は、まさに「文明の作法」を失いつつある西洋であったという指摘が示唆深い。このようにして失われていった政治における作法=「型」というものを、もう一度考え直してもいいのではないかと本書は問いかける。

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2013年10月15日 (火)

中島岳志『血盟団事件』

中島岳志『血盟団事件』(文藝春秋、2013年)

 1933年、元蔵相の井上準之助と三井財閥の団琢磨が相次いで暗殺された血盟団事件。個人として考えるなら生真面目で純朴な若者たちがなぜ「一人一殺」を掲げるテロリズムへと突っ走ったのか、彼らのカリスマ的指導者となった井上日召は何を考えていたのか。社会的格差が拡大しつつある閉塞感の中でやり場のない鬱屈を抱え込んだ閉塞感。そこに由来するうめき声を、単に過去のものと突き放すのではなく、現代社会における問題と重ね合わせながら描き出そうとする筆致は、著者の『朝日平吾の鬱屈』(筑摩書房、2009年)及び『秋葉原事件──加藤智大の軌跡』(朝日新聞社、2011年)と同様である。

 団琢磨を殺害した菱沼五郎の上申書に見える「神秘的暗殺」という言葉をどのように捉えるか。井上日召の自伝『一人一殺』(日本週報社、1953年)は私もむかし読んだことがある。存在論的な懊悩にもだえ苦しむ若き日召の姿は、いわゆる煩悶青年そのものであった。その後における頓悟を、極度に肥大化した自我意識をもてあました末と考えるなら、それをスピリチュアリズムと呼んで現代的な「自分探し」に引き付けて捉えることも可能なのかもしれない。

 個人的煩悶という「小乗」的レベルから一歩踏み出し、自分を超える「大乗」的な見地から国家のために自らの身を投げ出す──。見ようによっては、「セカイ系」の自己陶酔だ。同じく国家改造を主張するにしても、高畠素之や津久井龍雄の国家社会主義、あるいは北一輝『日本改造法案大綱』に見える設計主義的な発想には違和感を抱き、上杉慎吉や安岡正篤といった学者に対しては極度な反感を示していた。知識人の議論には血が通っていない。国家を変えるには、とにかく死ねばいい。革命の実行主体としての自分が純粋でさえあればそれでいい。彼らはそのように考えるが、論理化されたすべてを拒否するスピリチュアリズムが、常に主観主義という殻の中に閉じこもったままという病理的矛盾は変わらない。

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2013年10月14日 (月)

松原千振『ジャン・シベリウス──交響曲でたどる生涯』

松原千振『ジャン・シベリウス──交響曲でたどる生涯』(アルテス・パブリッシング、2013年)

 1890年、シベリウスが25歳のとき、留学先のウィーンでひもといたフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』。フィンランドの風土を特徴付ける森と湖を舞台に繰り広げられたドラマを通して語りかけてくる、ある種、超自然的な何か。そこからシベリウスは強烈なインスピレーションを受けた。鬱屈した異国の地だからこそ敏感に感じ取った郷土の情景。『カレワラ』はもともと口承のものであったが、19世紀にリョンロートによって記録された。文字化されたものをシベリウスは読んだわけだが、1891年にはラリン・パラスケによる朗誦を聴きに行き、音としての『カレワラ』をも知った。

 シベリウスが『カレワラ』を指して「モダン(前衛)である」「叙事詩カレワラは音楽そのものだ。主題があり、変奏がある」と考えたというのが興味深い(本書、21ページ)。同時代における表現としての「近代」を超えて、次代の音楽を指し示す方向性を古層的なものに求める。言い換えると、「古層」と「前衛」とが「近代」を挟撃するという構図は、例えばストラヴィンスキー《春の祭典》などとも共通した感性だと言ってもいいだろうか。

 
 イタリアやドイツを模範としたこれまでの音楽ではなく、自分自身の音楽を作り上げたいという彼の模索はこうした『カレワラ』からの触発によって始まった。あたかも大国の抑圧にあえぐ小国で独立を求める声が高まっている時代である。そうした時代風潮の中で考えると、彼の模索はフィンランド国民学派を形成する端緒になったと言える。当時からシベリウスの音楽が紹介されるとき、「フィンランド、自由への戦い」といったフレーズがかぶせられて政治との関わりが強調されたようであるが、ただし彼自身は政治的なナショナリズムとは距離をおいていた。あくまでも、彼自身が純粋に音楽のあり方を模索する「魂の告白」としての作曲表現であったことを、本書は示してくれる。

 私自身、シベリウスの曲は好きで昔からよく聴いていたが、初期の《クッレルヴォ》(1891~92)や《レミンカイネン組曲》(1893~95)といったあたりでは、英雄譚としての物語的な躍動感が面白いと思っていた。その後、7つの交響曲における純粋音楽としての探求を経て、太古の森の神をテーマとした交響詩《タピオラ》(1925~26)では緊張感のみなぎった静寂が印象的であった。こうした軌跡がヴィヴィッドに浮かび上がってくるのを感じながら本書を読み終えた。

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