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2013年1月13日 - 2013年1月19日

2013年1月19日 (土)

バルトークと江文也

 19世紀以降、とりわけナショナリズムが中小民族の間にも行き渡り始めたのに伴い、自分たちの属するナショナリティーとはそもそも何なのか?という探究が活発となった。今まで顧みることのなかったすぐ足元で見出された豊穣な文化的財宝は、学問や芸術といった分野に新鮮な驚きをもたらす。同時に、他の文明によって汚されていない「本来あった純粋な」姿を確定しようという情熱も駆り立てられ、そうした本質主義的な「伝統文化」観は、その文化に帰属する者/帰属しない者とを排他的に峻別する政治的リゴリズムにもつながりかねない危うさをはらんでいた。帝国の解体プロセスの中、民族自決の原則によって国境線が新たに引き直されたが、本質主義的な文化観・民族観も絡まり合い、紛争の火種が随所に埋め込まれることになる。大きな政治史的イベントが起こるたびにそこから次々と火を噴出して、20世紀に数多の悲劇を現出したことは周知の通りであろう。

 民族的伝統の探究はロマン主義的な文学や芸術と共鳴しあっただけでなく、言語学や民俗学といった学問をも刺激した。そうした動向の一つとして民謡採集も挙げられる。

 とりわけ有名なのがバルトークである。彼の場合、民謡採集に取り組んだ動機は何だったのか。

 バルトークは母国ハンガリーを中心に東欧の各地で民俗音楽調査にたびたび従事しただけでなく、その足跡はトルコや北アフリカなどにも及び、脱国境的な関心がうかがわれる。彼の民俗音楽観については前回のこちらで触れておいたが、彼は東欧の多民族性に注目しており、異文化が相互に触れ合う中でより豊かな音楽が生れてきたのだと考えている。また、農村での調査を重視していたが、都市文化=西欧文化が農村まで浸透し、音楽的な多様性が画一化されかねないことを懸念していた。そして、集めた民謡から見出した五音音階を根拠に、ハンガリー文化の源流をアジアに求めているところを見ると、西欧とは異なる民族性を意識していたようにも思われる。

 彼の民謡採集の場合、その動機は音楽表現の新たな可能性を切り開こうとするところにあった。民謡採集を通してナショナリティーの純化を求めるような発想には異議を唱えており、政治的な意味でのナショナリズムとは位相が異なる。また、民謡の珍しい題材を飾りつけに利用するようなエキゾティシズムでもない。

 彼はモチーフとしての民謡そのものよりも、自ら農村に入り込んで農民たちと密な接触を持ち、彼らを通して民俗音楽の本質を体感的につかむことを重視していた。そうして体得された音楽語法を通して自分自身の音楽を表現することを目指していた。つまり、「大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生させようということが問題になっているのです。」(バルトーク「東欧における民謡研究」『バルトーク音楽論集』御茶の水書房、1992年、151ページ)

 江文也はアレクサンドル・チェレプニンの示唆によってバルトークを知ったと思われる。チェレプニンは来日中に出会った若手作曲家たちにバルトークに関心を持つよう推奨していた。彼自身、バルトークとは面識があり、日本へも来るよう勧めていたそうだ。

 新交響楽団(現在のNHK交響楽団)が出していた音楽雑誌『フィルハーモニー』第8巻第12号に江文也は「ベラ・バルトック」という文章を寄稿している(文末には筆を擱いた日付として1935年11月17日夜と記されている)。そこで彼がバルトークを「偶像破壊者」と捉えているのが目を引く。

「音楽はその性質上非常に自由なものである。そして自由を欲する音楽家は、誰でも自分の耳でものを聴き、彼自身の世界を表現する慾望に駆られる。彼自身の世界を表現するに不向きな手法や理論は結局借りものでしかない。借りものでしかない手法や理論は、創作としてどの程度まで価値あるものが出来るか? 模倣は結局他人の技巧を誇る以上に出ないではないか!」「私はバルトックの作品を通じて、これ等の叱言を黙って受けなければならない一人である。」(11ページ)

「南画や日本画、更に支那の陶器等に吾々はその無技巧の技巧に慣れて居るから別に奇異には感じないが、五線楽譜に於いて、私はバルトックにその極端を見た。」(15ページ)

 無技巧の技巧、とバルトークを評しているのが面白い。技巧を意識して頭を使って曲を構成するのではなく、自分の感覚にフィットする方法で胸の奥底から湧き起こってくる想念をそのまま音楽として表現したい。そうした江文也の抱えていた葛藤がここに反映されているのだろう。西欧近代を基軸とした日本の楽壇が下す評価が自分の感覚とかみ合わないことへの反発、それを西欧音楽の既存のあり方へ反旗を翻したバルトークに重ね合わせているものと考えられる。

 ところで、バルトークは民謡採集をした音楽家として日本でも知られていたが、江文也は次のように指摘しているのが興味深い。

「一般にはバルトックを意識的に、国民的思想や民族的イディオムの基に作曲する種族の作曲家にして仕舞つて居るが、私は、寧ろ彼は本質的にハンガリー産の野生的な芸術家と見た方が妥当に思はれる。」(16ページ)

「彼は何よりも先づ野生的な芸術家である。彼の厖大な作品の内でその最も表現的な美しい部分は、常にこの猛獣性を思ふ存分に発揮して私に噛みつく場合か、或は象のやうにゆったりと地響きを立てゝ這ひ出して来る場合かである。」(15ページ)

「バルトックの音楽が持つ野性は、感覚上のノスタルヂヤ或は何か理論上のかけひきからではなくて、その心性が、あまりに純粋で直截で、本能的であるからである。それは超文明、越洗練等から出発した粗野性とは種類が違ふ。
 この強烈な野人的本能と原始的に鋭敏な直観を持つ上に薄気味悪いまで透徹した冷たい理智の閃きを私は見逃すことが出来ない。
 だから、恐ろしいのである。」(16ページ)

「第一、彼が音楽芸術に対して抱いて居る理想は、そんな狭い世界ではない。彼は、ハンガリーのことを語り、それを世界の楽壇に報告するだけではなくて、世界の楽壇に、ハンガリーからも、何かを、貢献しやうといふ態度で居る。」(16ページ)

 江文也はバルトークの本質を「ハンガリー産の野生的な芸術家」と見ていた。江文也が強調する野人的本能とは、例えばバルトークが「大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生」させようとした発想と共通する地平にあったように思われる。

 若き日のバルトークが作曲した交響詩「コシューシコ」はハンガリー民族主義的なテーマであったにもかかわらず、その音楽語法はドイツ・ロマン派そのものであったという矛盾はバルトーク自身、自覚していた。江文也も同様に、例えばベルリン・オリンピックで選外入選となって一躍有名となった「台湾舞曲」など、作曲家としてスタートしたばかりの頃の作品からは台湾的な要素が聴こえてこないという指摘がある。こうしたあたり、バルトークの出発点とどこか似通っている。その後、二人ともドイツ音楽が中心となった既存の楽壇に反発していくという軌跡でも共通する。

 おそらくバルトークとは感覚や問題意識では微妙な相違もあったかもしれないが、江文也もまた民謡採集に関心を持っていた。彼が求めていたのはどんなことか。西欧由来の観念で音楽を構築するのではなく、もっと感覚の奥底から噴出してくるような強烈なインスピレーションの源泉を体感的・皮膚感覚的な何かに求めたい、そうしたもがきが民謡や古代的な表象への関心と結びついていたように思われる。民謡や古代文化を探究しながら、そうした努力を通して感得した何かを自身の音楽語法で表現してみる。民俗や古代をバネとして「近代」を超えていく。そうした感性を持っていた彼が台湾や中国で民謡採集や古代文化に関心を持ったのは「野人的本能」を触発してくれるきっかけを求めていたからだ。それを政治的帰属意識の観点から捉えようとすると根本的なところで彼のパーソナリティーを理解し損ねてしまうだろう。

 バルトークの「大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生させる」という表現が、江文也の志向性を考える上でも参考になるのではないか。『北京銘』『大同石佛頌』といった彼が北京で書き上げた詩集には、中国の雄大さに圧倒された感激と言葉にならないもどかしさとが溢れている。大地の確かな広がりと文明の悠久さを、自分自身の感受性を響かせることで表現していく。そこに自らの音楽的方向性を求めようとしたのが彼の中国体験の意義だったと考えることができる。

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2013年1月18日 (金)

『バルトーク音楽論集』

岩城肇編訳『バルトーク音楽論集』(新装版、御茶の水書房、1992年)

・ハンガリーを代表する作曲家・ピアニストの一人で、とりわけ民俗音楽調査で知られたバルトーク・べーラ(1881~1945)による音楽論が集められている。初版は『バルトークの世界──自伝・民俗音楽・現代音楽論』(講談社、1976年)。以下、私自身の関心に従って抜書きしながらコメント。

・バルトークは「民俗音楽」をどのように考えていたのか? ここでは、民謡の郷土性と西欧音楽による影響とを峻別しようとしている点に注意。

「広義の意味における民俗音楽ですが、これは、農民たちの持っている音楽的本能のいわば自発的な表現として農民階層の中に伝播普及していったもので、その伝播普及の過程において、過去に生命をもっていたか、あるいは、現在いまだに生命をもっているような曲を指します。また、狭義の意味における民俗音楽とは、同様にそれが農民階層の生活の一部をなしており、その上なお、音楽様式上のある種の統一性を示しているような曲を指します。」(「ハンガリーの民俗音楽」95~96ページ)

「ところで、人々は、真の民謡と民衆的な通俗歌とを、しばしば混同します。民衆的な通俗歌の作曲家たちは、一般に、都会で身につけたある種の音楽的教養をもっており、その大部分がディレッタント音楽家です。事実、彼らの作曲した曲の中に、民衆的な通俗音楽に特有な郷土性と、西欧音楽のありふれた要素とがまざり合っているのも、まさに、そうしたことからきているのです。また、彼らの曲の中に、民俗音楽の郷土調といったものの痕跡がたとえ見いだされたとしても、まさに西欧音楽から借用したありふれた要素のために、曲が平凡なものになってしまって、その曲の価値を失ってしまっているのです。これに対して、真の民謡の中には、完璧なまでの様式上の純粋さが見いだされます。」(「ハンガリーの民俗音楽」97ページ)

・民謡研究に取り組もうとした動機や、それを基に新たな音楽芸術を模索する動向が現われた理由を、様々な民族文化が入り混じった東欧における多民族性に求めている。以前にこちらで、コーカサスの多民族状況に注目していたユーラシア主義のトルベツコイやコーカサス滞在体験から大きな音楽的示唆を受けたチェレプニンに触れたが、多民族混淆地帯における文化的豊穣さの意義を強調している点で、東欧の多民族性に注目したバルトークと共通している。

「民謡研究、並びに民謡から生み出された高度な音楽芸術が、ほかならぬここハンガリーにおいて今日見られるように目ざましい形で花を咲かせたことは、決して偶然のことではありません。ハンガリーは地理的にみて、いわば東欧の中心にあたり、第一次世界大戦前にはハンガリー内の多くの民族によって、東欧における民族の多様さの真の縮図となっていました。そして、各民族の絶えまない接触の結果、この民族の多様さが、民俗音楽の最も多種な、かつ最も変化に富んだ形態の成立へと導いたのです。東欧の民俗音楽が、さまざまな民謡のタイプの点で驚くほど豊かであることも、まさに以上のことから説明できるのです。」(「東欧における民謡研究」150ページ)

自国の民俗音楽しか問題にしない態度→「このような閉鎖性は長所ではなく、むしろ罪といわなくてはなりません。様式の統一性という観点から見ても、このような閉鎖性には何らの肯定的な意義もありませんし、また、作曲家が自国に対していだいている愛国心といったものと、この閉鎖性との間には、何のつながりもありません。真の創造者としての作曲家にあっては、たとえ種々さまざまな民族の民俗音楽から創作の霊感をえても、なお完全に統一のある作品が作り出せるほどに自己の個性が強くなければならないのです。一方、最も頻繁に耳にする機会のある民俗音楽、つまり自国の農民音楽こそが、個々の作曲家の創造に最も影響を及ぼすものであることは、容易に理解できることです。そして、まさにこうした個々の作曲家がおかれている地理的環境の違いから、それぞれの作曲家の様式の間に見られるいわゆる風土的特徴とでもいうべきものが少なくとも作品の外面に現われてくるのです。」(「芸術家の創造に及ぼす民俗音楽の影響について」88~89ページ)

「ところで、それぞれに性質の異なった音楽相互の接触は、ただ単に曲の異種交配をもたらしただけではなく、それにもましていっそう重要なことですが、新しい音楽様式の誕生を促進しました。もちろん、同時に、それまでの古い様式も生き続け、こうして、それらが音楽の豊かな富をもたらしたのです。」(「音楽における種の純潔性」298ページ)
→「こうした“種の不純性”は、決定的な恵みをもたらすものであるわけです。」(「音楽における種の純潔性」300ページ)

「もしも私たちに、民俗音楽の将来を希望することが許されるとすれば(この民俗音楽の将来は、今日、世界の最も遠くかけ離れた地域にまでも、高度な文化が早い速度で浸透していきつつあることを考えますと、かなり疑わしく思われます)、中国の万里の長城の建設や、一民族の他民族からの隔離などは、民俗音楽の発展にとって、むしろ障害となるものです。異質な要素から完全に自己を締め出すことは、停滞をもたらすものにすぎず、その影響を十分に同化しつくすことによってのみ、自身の芸術を富ますことが可能となるのです。」(「音楽における種の純潔性」300~301ページ)

・五音音階への愛着という点で、ハンガリー文化の源流をアジアに求める認識を示している。実際には、一言で五音音階と言っても民族によって旋律構造にだいぶ相違が認められるらしいのだが、西欧的な七音音階と対比する意図は少なくとも確認できる。こうしたあたり、「西欧」とは異なるアイデンティティーをアジアとのつながりに求めようとしたユーラシア主義に近い発想と言える(→こちら)。

「…比較検討の結果、古いハンガリーの農民音楽が隣接民族の農民音楽から由来したものではないことが明らかになりました。私には、それは原初的なアジア音楽文化の遺産であろうと想像されます。その音楽に見られる五音音階への愛着が、なによりも私のこの仮定の正しさを立証しています(さらには、私たちがよく知っているチェレミス人、キルギス人、タタール人の音楽が、この仮定を正当づけています)。
 また、古いハンガリー農民音楽の曲は、西欧音楽の影響というものを全然受けていませんし、一方、ハンガリーと隣接している各スラヴ民族の農民音楽に影響を及ぼしたこともありませんでした。」(「ハンガリーの農民音楽」135ページ)

・都市文化、すなわち近代化=西欧文化による均質化が拡大するにつれて、農村において多様に散在していた民謡が失われつつあるという認識。それによって、民俗文化の多様性が失われるばかりでなく、土着の音楽が本来的に持っていた生命力が枯渇していってしまうことへの危機感が示されている。

「さて、この新しい様式の曲は、もっぱら若い世代によって支持されました。彼らは歌を歌うことを渇望しています。そして、これらの曲を真底から熱烈に愛しているのです。そして今日では、若い世代の農民たちは、古い曲をごくまれにしか覚えませんし、また、仮りに覚えたとしても歌うことはありません。こうして古い様式の曲は、明らかに滅亡に瀕しています。新しい様式の曲が、きちっとしたリズムをもっているために、舞踏音楽にも適用できるということも、その普及化を大いに促進しています。だいたい古い様式の曲と違って、新しい様式の曲の中には、舞踏のためだけに生み出されたといえるような曲がないのです。また、生活上の慣習的な儀式の際に歌われていたような曲も、もはや必要ではなくなってしまいました。つまり、婚儀の習慣などが保たれていた昔の時代はもう過ぎ去ってしまったのです。活気に溢れたリズムをもち、精気に充ちて明朗な新しい曲こそが、古風な色彩に色どられ、あるいはメランコリックな、あるいはまた独特な性格をもっている古来の曲よりも、いっそう、時代の精神にふさわしいのでしょう。」(「ハンガリーの農民音楽」146ページ)

「ところで、新しい様式の曲には、それぞれの変化形というものが全然ありません。一つの新しい曲がどこかで生れるやいなや、それらは全国いたるところに、またたく間に広がり、山岳や川も、そして地理的距離も、それらをさえぎることはできないのです。新しい曲がこのようにいち早く広がっていったのは、兵役義務制度と鉄道交通の発達によるものであることは疑いありません。」(「ハンガリーの農民音楽」147ページ)

「アラブ人の音楽生活に、特に今日、いくつかの好ましくない側面のあることはもちろんです。ヨーロッパのいわゆる“娯楽音楽”からの破壊的な影響が、ここでも次第に強く感じられるようになってきています。」…「都会のアラブ音楽は、私の感じでは、新鮮な生命力と独自性の点で、アラブの村の音楽とは全く比較にならないものです(今から十九年前、私がアルジェリアに研究旅行をした時、すでに私はこのことを感じました)。都会のアラブ音楽は、大部分がかなりひからびた、わざとらしい作為的なものですが、一方、村の音楽は、それがもっているいっさいの原始性とともに、はるかに自然で生きいきとした印象を与えます。」(「カイロ音楽会議について」303ページ)

「農民音楽の特性の一つは、その音楽の中に、感傷性、つまり過度な感情の表現というものが、全然見当たらないということです。そして、このことが、農民音楽にある種の単純明快さや、がっちりした逞しさ、感情の率直さというものを与えているのであり、さらには偉大さをも付与しているのです。」(「ハンガリー音楽」335ページ)

・民謡から得た音楽的素材を散りばめるだけでは、単にエキゾチシズムを誇張するだけの代物に終ってしまう。そうではなく、こうした土着の音楽が本来的に備えている「大地から湧き起こってくる音楽の力」を音楽家自身が体得した上で、自らの音楽を表現できるかどうか。バルトークにとって民謡採集とは、単に素材集めだけを意味しているのではなく、自ら農民たちの生活世界に分け入り、彼らと密に触れ合う中で、音楽家自身が土着の音楽の本質的な何かを感じ取らなければならないという切実な動機に駆られたものであった。
・下記の引用でもう1点注目されるのは、東欧で多民族が混淆している中、農民たちは平和の中で共存してきたとバルトークが考えていることである。もちろん、それが歴史的事実かどうかは分からない。ただ、以前にこちらで指摘したように、コーカサスの複雑な民族状況に多民族共生というイメージを見出したユーラシア主義のトルベツコイと同様の発想が認められる。

「ここハンガリーで問題になっていることは、いわば“フォルクローリスト作曲家”たちが、民俗音楽の断片を異質の音楽材料につぎはぎするというようなことではなく、もっと本格的な、はるかに多くのことが問題になっているからなのです。つまり、大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生させようということが問題になっているのです。
 また、このような、大地から湧き起こってくる音楽の力をそれぞれ実際の場所で研究する仕事、つまり日常語でいうところの民謡収集という仕事は、何か途方もなく人を疲れさせるような、そして克己と自己犠牲を伴う仕事であると信じている人々も、同様に間違っています。私自身についていいますと、そのような仕事で過ごした時間は生涯の最も美しい時ですし、したがって、その仕事を、他のどんなものとも引き換えにはしないでしょう。ここで私は、最も美しいという表現を使いましたが、それは言葉の最も気高い意味においてなのです。というのも、民謡収集という仕事を通して、私は、すでに姿を消しつつあるとはいえいまだに統一を保っている一つの社会の、いわば芸術的自己表明といったものの直接的な目撃者になることができたからです。そこで耳にし、目にすることのすべては、なんと美しいものでしょう。衣服から日常生活に用いる道具にいたるまでのほとんどすべてが自家製であって、靴のひな型のようなガラクタ品でさえ、工場製のものは何も見当たらず、またさらには、地域ごとに、いな、しばしば村ごとに、そういった使用品の形や種類が変わっているようなところがヨーロッパにいまだに存在しているということを、おそらく西欧では想像することもできないでしょう。そこでは、音楽の上での限りない多様性を耳にすることができ、そのため私たちは、民俗音楽の種類の豊富さといったものに感謝を捧げるのですが、それだけではなく、そこにあるさまざまな変化は、同時に、私たちの目をも楽しませてくれるのです。それらは忘れることのできない体験ですし、まさに苦痛にみちて忘れがたいものです。というのも、村々のこのような姿が次第に消えていく運命にあることを、私たちは知っているからです。そして、たとえ一度でも滅亡してしまえば、二度と再び復活することはありませんし、またそれが、他の同じようなもので埋め合わされることもないでしょう。滅亡のあとにはやがて空虚さだけが残り、村々は、誤って受けとられた都市文化と偽文化の廃物のたまり場と化してしまうでしょう。
 さらにここで、農民たちの生活について、つまりさまざまな民族の出の農民たちである彼らが、お互い同志の関係をどのように保っているかということを、私の体験を通して語っておきましょう。今、これらの各民族出身の農民たちに、お互い同志殺し合うよう至上命令が下されたとしても、それは、いってみれば一杯のさじの水の中で互いを溺死させようというようなもので、全く不可能なことです。もう数十年来私たちが耳にすることであり、今ここでそれに触れておくことはまさに時機をえたことと思われるのですが、農民たちの間には、他民族に対する烈しい憎しみの一片も見いだせませんし、また、これまでにおいてもそうでした。彼らはお互い同志、実に平和に生活しており、各自が母国語で話し、それぞれ自分たちの習慣にしたがって生きています。そして、自分とは異なった民族の出の隣人もまたそのように生活していることを、全く自然なことと考えているのです。
 こういったことを決定的に立証するものは、農民たちの魂と精神の反映である多くの叙情詩調の民謡歌詞です。それらの中には、他民族をからかうような歌詞が出てきたとしても、その量は、たとえば自分たちの神父や牧師の、あるいは自分たち自身の無能をからかって楽しんでいるような民謡の量に比べても決して多くはありません。農民たちを支配しているものは、まさに平和です。他民族に対する憎しみを広めているのは、ほかでもなく上層階級の人々だけなのです。」(「東欧における民謡研究」151~153ページ)

「今日の記譜体系では、たとえば些細なイントネーションやリズム上の不安定さといった、民俗音楽のもつ味わいを再現することが不可能であるということです。せいぜい、民俗音楽の堅固な骨組がとらえられるぐらいで、生きいきと血のかよっている音の震動について概念を与えることはできません。民俗音楽を、それが実際に生きている状況の中で、農民たちの演奏や歌唱を通して聞く機会のなかった人々は、その音楽を正当な姿で想像することができません。まさにこうした理由から、民俗音楽を十分に知りつくす上での唯一の正しい方法は、農民たちの伝統的なしきたりとのつながりの中で、彼らの自然な演奏を通して聴くことなのです。この生きた体験を通してこそ、初めて民俗音楽が芸術家の創造にとって真の促進剤になるのです。」(「芸術家の創造に及ぼす民俗音楽の影響について」86~87ページ)

「ところで、ハンガリーの唯一の音楽的伝統である古いハンガリー農民音楽が、どのようにして新しいハンガリー音楽創造の土台になりえたのでしょう。一つの曲や一つの旋律といったものを、異質な様式による音楽作品や国際的な性格の様式による作品に移植するといったような、人工的な方法によるものでないことだけは確かです。ですが、作曲家が農村の古い音楽の言語を学びつくし、それによって自身の音楽思想を、ちょうど詩人が母国語で考え表現するのと同じように表現することができるようになることは、ありうることです。
 作曲家の心の中に、農民音楽に対して全身全霊で自己を捧げるほどの強い愛情が生きていて、その愛情から、彼が農民音楽の音楽語法の影響を無条件で受け入れる時、しかも、その作曲家に自身の芸術思想があり、その表現に必要な技法を完璧に身につけているのであれば、彼は自身の冒険的な試みに成功するに違いありません。その時には、彼の作品は、和声付けられた民謡のつぎはぎ細工や、民謡を主題とした変奏曲のようなものではなく、民俗音楽の内部に秘められている本質を表現するものとなるのです。」(「ハンガリー音楽」347ページ)

「ここで強調しておかなくてはなりませんが、私たちの場合には、ただ単に、個々の曲を手に入れ、それをそっくりそのままか、あるいはその一部分を私たちの作品にとり入れながら伝統的な取り扱い方で処理する、といったことだけが問題だったのではありません。もしそうだとすれば、それは職人の仕事になりさがってしまい、新しい統一ある芸術様式の創造へと私たちを導いてはくれなかったでしょう。そうではなくて、私たちのこれまで全く未知であった農民音楽の魂を深く会得し、この音楽の言葉では表現しえないその魂から出発しながら音楽の様式を創り出すこと、これが私たちの仕事であるのです。そしてその魂を正しく理解するためにこそ、農民音楽が現実に生きている農村で、しかもそれを私たち自身によって収集することが、何よりも大切であるのです。」(「ハンガリー民俗音楽と現代ハンガリー音楽─自身の和声法について」355ページ)

「民謡を自身の作品のところどころに使ったり、あるいはそうした古い民謡を模倣したりすることで満足している作曲家は、正しく民俗音楽を取り扱っているとはいえません。また、民謡の素材を主題的に用いながら、全く異質な、あるいは民族性を欠いた、いわば無国籍的な傾向の作品に勝手気ままに押し込むような取り扱い方も、全く正しくありません。こうした取り扱い方ではなくて、ちょうど、一つの言語のもっている表現上の最も味わい深い微妙なニュアンスといったものを自身のものにするのと同じように、民俗音楽の中に隠されている音楽的表現法を完全に自分のものにするよう努めなくてはなりません。そして、作曲家は、このようにして獲得した音楽語を、いわばそれが自身の音楽思想の表現にとって最も自然な言葉使いであるように、完璧に駆使しなければなりません。」(「1941年のアメリカでのインタビュー」429ページ)

・バルトークは「自伝」で、1903年に交響詩「コシュート」を作曲した若き日のことを回想している。当時、盛り上がりを見せていたハンガリー民族主義の風潮に刺激され、この曲では民族主義的テーマを打ち出しながらも、その音楽語法はドイツ・ロマン派的なものであったという矛盾。こうしたギャップを自覚した彼は、その後、民俗音楽へ関心を寄せるようになる。ところで、民謡採集に際しての彼の動機は、政治的な民族主義というよりも、「大地から突きあげてくる民俗音楽の力によって、新しい音楽精神を誕生させよう」という点にあったことは前述の通りである。ロマン派に体現された西欧近代の音楽語法とは異なった方向へと模索を始めた音楽家はバルトーク一人に限らない。コダーイの示唆でバルトークはドビュッシーの作品を知った。ドビュッシーの旋律にもハンガリー民謡と同様に五音音階的な音進行が大きな役割を果たしていることを知って驚く。また、ドビュッシーと似かよった試みはストラヴィンスキーの作品にも認められるともバルトークは指摘している(「自伝」19ページ)。

「私見によりますと、今日のあらゆる現代音楽には、共通な二つの特徴が見いだされます。そしてそれらは、こういってもよいと思うのですが、いわば原因と結果が互いに緊密に関係づけられています。一つの特徴は昨日の音楽、特にロマン派音楽から徹底的に遠ざかろうとすることであり、今一つの特徴は、より古い時代の音楽がもっている様式に近づこうという熱望です。つまり、まず初めに、ロマン派音楽の作品に対して極度な不快感を感じ始め、その結果、ロマン派音楽の表現法とはできるだけ違った形で創作するための新しい出発点を見いだそうと試みました。こうした作曲家たちは、ロマン派音楽の表現法とは著しく対照的な古い時代の音楽様式へと、なかば意識的に、なかば本能的に立ち返りました。」(「ハンガリー民俗音楽と現代ハンガリー音楽─自身の和声法について」351~352ページ)

「《春の祭典》は、民俗音楽の要素でみちあふれている芸術の生きいきとした例です。」(「芸術家の創造に及ぼす民俗音楽の影響について」87ページ)

「ドビュッシーの旋律の中に、東欧の民俗的な音楽からの影響が見られ、古いハンガリー民謡、なかでも主としてエルデーイのセーケイ民謡の中に見いだされるような五音音階的旋律形態が観察できるということは、特に私たちハンガリー人の興味をひく問題です。」(「ドビュッシーについて」365ページ)

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2013年1月14日 (月)

はらだたけひで『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ──永遠への憧憬、そして帰還』

はらだたけひで『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ──永遠への憧憬、そして帰還』(冨山房インターナショナル、2011年)

 2008年のことだったか、渋谷の文化村ザ・ミュージアムで開催されていた「青春のロシア・アヴァンギャルド」展を見に行ったとき、ピロスマニのことを初めて知った。彼の絵の素朴さは、口の悪い人なら「ヘタウマ」と評するかもしれない。だが、他の前衛画家たちの作品を見ながら歩いた後に目にすると、異世界に踏み込んだような新鮮な感覚があった。構図はシンプルにしてもきれいにまとまっていない、だからこそ不思議と目を釘付けにしてしまうところが気になった。

 ピロスマニのファンは日本にも多いと思う。ただ、彼の人生を知りたくても、放浪生活の中で死んでいったので史料が乏しく、詳しいことはよく分からない。ピロスマニの画集(文遊社、2008年)は出ているが、そもそも彼について書かれた本は当然ながらグルジア語・ロシア語ばかりで、日本語はおろか英語でも彼の評伝が見当たらなかったので、本書が出ていることを知って嬉しかった。

 ピロスマニは居酒屋の看板絵を描きながら、一つ所に定住することなく、放浪の人生を送っていた。お金をためて家庭を持ち、安定した生活をしたらいいのではないか、と勧められても、「鎖で縛られるのは嫌だ」と断ったそうだ。「私はひとりで生まれて、同じようにひとりで死んでゆく。人は生まれたときになにをもってきて、死ぬときになにをもってゆくというのか。私が死んだら、友だちの誰かが埋めてくれるだろう。私は死を恐れていない。人生は短いものだ」と答えたという(本書、80~81ページ)。

 フランスから来た女優に片思いして、彼女の宿泊先の周囲をバラで埋め尽くしたというエピソードは「百万本のバラ」という歌になって知られている。実際にそんなことがあったのかどうかは分からない。ただ、思い込んだら自分の想いを一途に表現しようとする。世間知らずなバカかもしれないが、このようなひたむきさを彼の特徴として見出そうとする気持ちが周囲の人々にあったとは言えるかもしれない。人から何と言われようとも絵を描き続け、貧窮の放浪生活の中で死んでいった純粋さ。テクニック云々という以前に、彼は自らこうあらざるを得ない人生を送った──それが彼の絵にある素朴さと相俟って人の気持ちをうつ。

 1912年、ペテルブルクから来た三人の画学生がグルジアの首都ティフリスへやって来たとき、ある居酒屋で見かけた看板絵に驚いた。そのうちの一人はこう記している。「壁には絵がかかっていた。私たちは、その絵を呆然と見つめた。…目の前には、これまで見たことがない、まったく新しいスタイルの絵があった。私たちはただ黙って立ちつくしていた。…最初の印象があまりに強烈だったからだ。絵の素朴さは見かけだけだった。そこには古代の文明の影響が容易に見てとれた…。」(本書、83~84ページ)

 アヴァンギャルド運動の芸術サークルに属していた彼らが、ピロスマニが誰に習ったわけでもなく自由に描いていた絵から「古代の文明の影響」を見てとったというのが面白い。彼らは西欧近代の絵画が技巧に走るあまり、コンヴェンションルな形式に堕してしまっているという問題意識を持ち、それを打ち破る力を彼らはピロスマニのプリミティヴな画風に求めようとしたのである。早速、モスクワの中央画壇に紹介し、ピロスマニは一躍、時の人となった。また、ヨーロッパ文明の受容の限界を感じて民族文化の復活を模索するグルジアの芸術家たちは、ピロスマニの絵画にグルジアらしさを求めようとした。

 ところが、世評とは気まぐれなものだ。それまで彼を持ち上げてきた新聞に揶揄するような戯画が掲載されたのをきっかけとして、彼に対する評価は急に落ちていく。「彼らに頼んだわけではない。彼らの方から、いろいろしたいと約束してきたのだ。その彼らが新聞で私をからかう。これからは、また以前のように私は生きていく。」(本書、89~90ページ)

 1918年の春、ティフリスの旧市街にある、階段下の物置きのような部屋で衰弱したピロスマニの姿が見つけられた。彼は近くの病院に運ばれたが、間もなくこの世を去った。享年55歳であった。

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