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2013年7月14日 - 2013年7月20日

2013年7月19日 (金)

【メモ】リチャード・C・ケーガン『台湾の政治家:李登輝とアジアのデモクラシー』

Richard C. Kagan, Taiwan's Statesman: Lee Teng-hui and Democracy in Asia, Naval Institute Press, 2007

・李登輝へのインタビューや関係者の証言も踏まえて書かれた伝記である。著者はアメリカ・ミネソタ州のHamline University名誉教授で、台湾大学留学中に彭明敏や殷海光などと知り合い、その後も民主化運動や人権問題に関わったため国民党から睨まれた経験を持つらしい。本書は羅福全(陳水扁政権の元駐日代表)たちから勧められて執筆したとのことで、当然ながら台湾独立派に同情する視点が顕著に見られる。アメリカは日本と同様、中国の「一つの中国」政策への配慮から台湾に対して冷淡であり、「李登輝は台湾海峡を緊張させるトラブルメーカーだ」と発言する国務省高官もいたが、そうしたアメリカの台湾政策には批判的である。

・伝記的な事実関係については日本語で出ている李登輝関係書の方が詳しい。ただ、視点の置き方の違うところに関心を持って読んだ。例えば、李登輝の思想的背景。彼は日本統治期の若い頃、岩波文庫など日本語の翻訳書を通して西洋世界の思想や知識を得たことを常々語っている。とりわけドイツの哲学や文学(ゲーテとニーチェがとりわけ好きだったようだ)、社会主義関係、あるいは自己超克を目指して禅やキリスト教など宗教関係へ目を向ける読書傾向はいわゆる旧制高校的な教養主義に特徴的である。こうした点で日本では彼の「親日」的な部分が強調されるが、本書ではむしろ、中国・台湾以外の広い世界へ目を向けることで「国際人」と自己規定するきっかけになった点が強調される。

・李登輝は1960年代にコーネル大学へ留学して農業経済学で博士号を取得する。当時のアメリカの大学では学生運動が活発で、学生たちが積極的に政治問題を議論している姿を目の当たりにしたことは、彼の民主主義観に影響した(彼自身は国民党のスパイを恐れて政治的発言には気をつけていたが)。また、コーネル大学は農業問題で行政機関へ具体的な助言を行うプログラムを実施しており、李登輝自身も自らの知識を実地に応用したいという希望を抱いたことは、後に国民党へ招かれた際に入党した理由の一つになっている。

・本書では李登輝の思想的特徴を禅とキリスト教の混淆として捉えている。迷ったときや挫けそうになったとき、神に祈って、自らの使命への確信を深める。また、言葉によって固定的に表現された概念の迷妄を打ち砕く思考習慣は禅の影響だと指摘される(東洋的神秘主義を「禅」の一言でまとめてしまうのは大雑把であるが)。そうした思考習慣から「一つの中国」をはじめとした国民党イデオロギーも相対化された。李登輝は多くを語らずにいきなり行動するので知人たちはみな驚き、総統に就任後、国民党内の熾烈な権力闘争を戦い抜いたが、無言のまま絶妙な間合いを掴むところは得意の剣道みたいだとたとえられる。

・李登輝はデモクラシーを、生成変化しつつある具体的な動きを実現させるシステムだという独特な捉え方をしているが、それも「禅」的だという。ただし、彼は東洋的な価値に偏重した捉え方をしようとしているのではなく、「アジアは西洋とは違った価値観がある」として儒教道徳を称揚したリー・クワンユーに対しては権威主義的抑圧を正当化するだけだと批判的である。むしろ、古い権威的な政治道徳を引きずったままの中国に向けて台湾はデモクラシーを発信していけると自負を抱いている。

・李登輝は「新台湾人」という表現を用いた。特定の族群によって打ち立てられたネイションではなく、様々な来歴の人々が避難してきたこの台湾という島で精神的紐帯を築き上げつつある「共生の共同体」。様々な人々が自らの潜在的可能性を自覚し、東西の様々な思想が交錯しつつ発展していく場として台湾を捉える発想には、西田哲学の「場所の論理」が影響しているという。

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2013年7月15日 (月)

【映画】「台湾アイデンティティー」

「台湾アイデンティティー」

 台湾の人々にとっての1945年は、日本とはまた違った意味を持つ。戦争の終わり。束の間の解放感。やがて来る幻滅──「日本人」として教育されてきたにもかかわらず日本からは見捨てられ、新来の統治者である国民党政権の下では二二八事件や白色テロで沈黙を強いられた。いずれの「国家」にも自らをアイデンティファイできない矛盾。台湾の作家、呉濁流は日本の植民地統治下でひそかに書いた小説で「アジアの孤児」と表現したが、そうした状況は戦後の台湾史にも当てはまる。

 映画「台湾アイデンティティー」はいわゆる「日本語世代」の台湾人6人へインタビューを重ねた記録である。

 黄茂己さんは戦時中、日本の高座海軍工廠で働いた。戦後、台湾へ戻って教員となったが、白色テロに怯えた日々を回想する。張幹男さんは独立運動への関与を疑われて火焼島(緑島)の政治犯収容所へ送られた。釈放後、旅行代理店を立ち上げ、働き口のない元政治犯を積極的に受け入れる。火焼島へ送られる前に一時的に収監されていた台北近郊、新店の監獄まで取材班は案内されるが、つらい記憶が蘇ってくるようで、その後、体調を崩してしまったらしい。

 呉正男さんは陸軍の航空通信士として北朝鮮で敗戦を迎え、ソ連軍の捕虜となって中央アジアでの強制労働に従事。日本へ戻り、横浜の中華街で銀行に就職する。長年、日本で暮らし、帰化申請をしようとしところ、役所の人から「帰化申請が却下される場合もあります」と言われた。単に役人としての形式的な発言だったのかもしれない。しかし、本人としては、軍歴もあり、日本語も流暢で日本人と変らないのだから、喜んで受け入れてくれて当然と考えていたため失望し、結局、帰化申請はやめてしまった。「残留日本兵」としてインドネシア独立戦争に参加した宮原永治(台湾名:李柏青、インドネシア名:ウマル・ハルトノ)さんは、「何人として死ぬんですか?」という問いに、自分はインドネシア人だ、と答える。呉正男さんはソ連に抑留されていたので二二八事件に際会することはなかった。宮原永治さんはインドネシアへ進出した日本企業の現地駐在員として働いていたとき、一度だけ台湾へ帰郷したが、家族から「すぐに帰れ」と言われ、それ以降、戻っていない。戒厳令下、いつ連行されるか分からなかったからだ。

 ツォウ族の高菊花さんは、父・高一生の思い出を語る。高一生は原住民の自治を主張していたため国民党から睨まれ、銃殺された(高一生については、《台湾百年人物誌 1》[玉山社、2005年]所収の「高山船長、高一生」を私的に訳出してあるので参照のこと→http://docs.com/PJC2)。残された家族に対しても嫌疑が解かれることはなく、菊花さんは生活のため高雄へ出て歌手となったが、特務による執拗な尋問が続いた。親族の鄭茂李さんは穏やかな人だが、二二八事件に参加している。当然ながら、その後はつらい思いをした。話を聞きながらもらい泣きする監督に鄭茂李さんが「泣かないでください」と涙ながらに声を掛ける姿が印象的だった。

 「時代が悪かった」「これも運命だよ」──こうした言葉をどのように受け止めたらいいのか。つらい仕打ちを噛み締めながら、懸命に生きてきた。同時に、不条理な運命に翻弄されて命を落としていった身近な人々への思いもここには込められているはずだ。

 人はゼロの地点から生きているわけではない。歴史は現在の我々と良くも悪くもつながっている。そのつながりを見失ったとき、自分自身がいま生きているこの世界を見つめる眼差しもあまりに貧弱なものとなってしまうだろう。歴史学者の周婉窈(台湾大学教授)は高一生を追悼した文章で、国民党の統治下で抹殺された歴史の空白とそれによってもたらされた精神的喪失の重大さに驚き、高一生をはじめ失われた数多の人々の思い出を取り戻すことの大切さを説いている(周婉窈〈高一生、家父和那被迫沈默的時代──在追思中思考我們的歷史命題〉《面向過去而生》[允晨文化出版、2009年]→http://docs.com/PHH7に私的に訳出した)。

 戦時下に青春期を過ごした台湾人について、周婉窈は「ロストジェネレーション」と表現している(《海行兮的年代──日本殖民統治末期臺灣史論集》允晨文化出版、2003年→こちらを参照のこと)。日本の植民地統治下で一所懸命に学んだ日本語は1945年を境として敵性言語となった。日本語を公的な場で使うわけにはいかない一方、台湾人が抑圧された国民党の権威主義体制への反発は、日本語に一つの拠り所を求める心理的作用をもたらした。彼らが敢えて日本語で語る言葉には、暗い時代を生き抜いてきた様々な思いが刻み込まれている。その体験的意味は、我々日本人が当たり前のように日本語を用いるのとは明らかに異なっている。日本語を使うからと言って安易に「親日」というカテゴリーで括ってしまうわけにはいかない記憶の余韻、そうした深みまで何とか耳を澄ませられるように努力したい。

 インドネシアの宮原永治さんが「あなたには想像も出来ないだろうけどね」と吐き捨てるようにつぶやいた言葉が耳に痛い。確かに共感できるなんて考えるのはおこがましいかもしれない。だが、「日本語世代」は相当な高齢であり、彼らの話を聞き取るのに残された時間は限られている。「台湾人生」「台湾アイデンティティー」に続き、第3作目の企画も進行中と伝え聞くが、是非成功させて欲しいと願う。

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2013年7月14日 (日)

駒村吉重『山靴の画文ヤ 辻まことのこと』

駒村吉重『山靴の画文ヤ 辻まことのこと』(山川出版社、2013年)

 私は必ずしも辻まことの文章やイラストを好んで読んだり見たりしてきたわけではない。ただ、話術も豊かで誰とでも気軽に付き合い、洒脱でスマートな雰囲気を彼は醸し出していた一方、どことなく暗さも感じさせるのはなぜだろう、そんな不思議な印象も漠然とながら感じていた。

 「彼は辻潤と伊藤野枝のあいだに生まれた。だが彼は自分で自分になったのだ。辻まことは辻まことの独創である」とまことの友人であった矢内原伊作は記している。血筋にからめてお手軽な批評を戒めるという意味では異論はない。だが、ことさらな決め台詞に「なんだか乱暴だなあ…」と著者は違和感をおぼえたというが、私も同感である。

 このブログのタイトル「ものろぎや・そりてえる」とは、まことの父・辻潤の文章から拝借しており、私自身、以前から辻潤という人物に関心を抱いていた。まことは父について語るのを嫌がっていた。ただ、残されたいくつかの回想を読む限り、辻潤のことを誰よりも深く理解していたのは、他ならぬまことだったと思う(以前にこちらで触れた)。逆に言えば、辻まことのことを考えるにしても、辻潤の思想──すなわち彼の人生そのものともまた切り離せない。本書を読みながら、改めてそう実感した。

 辻潤のあまりにも不器用な人生と比べると、まことのスマートさは一見したところ対極的である。ところが、著者がまことをじかに知る人々へ重ねたインタビューでこういう話があったのが目を引く。まことの社交性、言い換えると「世渡り上手」なところに若干の嫌悪感をもらしたところ、「ありゃ、子どものころに身についちゃった『居候』の智恵なんです…」と返ってきた。なるほどと思った。表面的には周囲へ適応しつつ、余人にはなかなかうかがい知れない孤独を抱えていたのも辻まことという人の一つの姿であった。彼の器用に見える社交性は、逆にそこには収まりきれない何かをうっすらと浮かび上がらせてくる。

 辻まことが記した次の一文は、辻潤という人物を見事に的確に表わしていると私は考えている。

「自分自身を生命の一個の材料として最も忠実に観察し、そこに起る運動をありのままに表現する作業、つまり、客体としての自己を透して存在の主観を記述したのが辻潤の作品なのだ。最も確実な個性を、個性的な忠実さで個性的に追求したために、ついに個性などというものを突抜け、人間をつきぬけ、生物一般にまでとどこうとしてしまった存在なのだということができるかも知れない。」(辻まこと「辻潤の作品」『辻まことセレクション2 芸術と人』平凡社ライブラリー、1999年)

 一人の人間が生きるというのは思えば大変なことで、誰一人として同じ人生を生きることはあり得ない。善悪是非の問題とは次元が異なり、一切の前例があり得ない中で、自分の人生をひたむきに生き抜くしかない。社会的な価値判断からすれば「だらしない」とマイナスのレッテルを貼られてしまうような人生であっても、それもまた自らに与えられた必然的な生であると自覚的に捉えなおす。その意味で、存在論的な懊悩をそのままのものとして自らの人生を全うしようとしたところに辻潤という一つの現象の不思議さがあった(そうした生き方を山本夏彦は愛おしさを込めて「ダメの人」と表現している)。辻まことはそうした父の苦しさをよく見ていた。

 辻潤は発狂した。精神病院まで身柄を引き受けに行った辻まことは難儀したことだろう。しかし、その時に父から次のように言葉をかけられたことに衝撃を受けたという。

 「──お互いに誠実に生きよう。
 異常に高揚した精神につきあって私も不眠が続いていて、こっちもすこしはオカシクなりかけていたのだが、この言葉とそのときの冷静な辻潤の面持ちのなかには一片の狂気のカケラもなかった。そして、この言葉は私の心に深く刺さりこんだ。
 直観的に、この言葉が、お互いの関係の誠実という意味ではないことを悟った。彼は私に「自分の人生を誠実に生きる勇気をもて」といっていたのだ。そして自分は「誠実に生きようとしているのだ」といっていたのだ。
 一寸まいったのである。」(辻まこと「父親と息子」同上)

 辻潤と辻まこと──もちろん、パーソナリティーは全く違うし、山と絵を愛したまことの描くものは父親の趣向とは異なる。ただ、まことは時折、「辻潤ならどんなふうに考えたろう」と自問していたという。社会的破綻者であった辻潤に具体的な行動指針を求めることなどできるわけがない。しかし、自分の人生を誠実に生き抜くということ、一般論のあり得ない難しさを引き受けて生きること──「自由」という概念にまとめてしまうとスカスカになりかねない苦しさに迷ったとき、まことは父・辻潤の存在を意識していた。少なくとも私はそのように考えている。

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