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2013年6月30日 - 2013年7月6日

2013年7月 5日 (金)

楊海英『植民地としてのモンゴル──中国の官制ナショナリズムと革命思想』

楊海英『植民地としてのモンゴル──中国の官制ナショナリズムと革命思想』(勉誠出版、2013年)

 ナショナリズムがいびつな形をとったとき、対外的には攻撃的な排外主義が煽られ、国境線の内部ではマイノリティーへの抑圧として表われる。近年の中国における愛国主義の昂揚は尖閣問題、南沙問題等にも顕著に見られ、日本においても、それこそ日中友好を願う人々の間ですら懸念は広がっている。

 他方で、こうしたナショナリズムは中国内部の民族的マイノリティーに対してどのように暴力的な作用を示しているのか。本書は、内モンゴル自治区出身のモンゴル人民族学者という立場から中華ナショナリズムの問題点を抉り出そうとしている。

 かつて日本軍が大陸へ侵略したとき、満洲国や蒙古聯合自治政府といった形で内モンゴルを事実上支配していたことがある。その意味で、内モンゴルは日本と中国の両方から植民地化を経験した。「日本刀をぶら下げた奴ら」という表現がある。日本が設立した学校で近代的教育を受けたモンゴル人を指す(例えば、楊海英『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』岩波書店、2009年→こちらを参照)。漢人の支配者からは抑圧しか受けなかった一方、少なくとも近代化の恩恵を伝達した点で日本人に対してモンゴル人は相対的には好意的だったらしい。ただし、そうした「親日」的傾向が、「解放」後になると共産党政権によるモンゴル人知識人粛清の根拠になってしまった。この点で国民党が台湾で引き起こした二二八事件と構図として共通すると指摘される。いずれにせよ、このような形で日本も責任を負っている以上、見過ごしてしまうわけにはいかない。

 失われた伝統文化を何とか再構築したい。そうした思いは民族学者としての仕事の動機となる。だが、そもそも内モンゴルで民族的伝統文化が失われてしまったのはなぜなのか。「解放」という大義名分で隠蔽された下、実質的には漢民族による抑圧や殺戮によってモンゴルの伝統文化が抹殺されてきたし、それは現在進行形でもある。そうした暴力から目を背けてきた点で、民族学者は中国政府と暗黙の共犯関係にあったと手厳しい。

 著者の中国人に対する糾弾の激しさには驚かされる。場合によっては学者としての一線を越えていると思われるかもしれない。しかしながら、『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(岩波書店、上下、2009年;続、2011年→こちらで取り上げた)で具体的に描写されている暴力の凄惨さを想起すれば、こうした怒りもやむを得ないだろう。

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2013年7月 3日 (水)

広中一成『ニセチャイナ──中国傀儡政権 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京』

広中一成『ニセチャイナ──中国傀儡政権 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京』(社会評論社、2013年)

 「大一統」「漢賊並び立たず」といった時代がかった表現を使うかどうかは別として、天下=中国を統べる政権はただ一つ、分立はあり得ない──こうした観念がとりわけ濃厚な中国の歴史観において、政治的正統性をめぐる相克は歴史解釈にそのまま直結している。政権の正統性を主張するにあたって妥協のない苛烈さは、例えば現在の中台関係を見ても明らかだろう。ましてや「傀儡政権」とみなされた場合、もはや抗弁の余地はどこにもない。

 本書が取り上げるのは、満洲国(溥儀)、蒙古聯合自治政府(徳王=ドムチョクドンロプ)、冀東防共自治政府(殷汝耕)、中華民国臨時政府(王克敏)、中華民国維新政府(梁鴻志)、そして汪兆銘政権──いずれも1930年代から日本軍が中国大陸に打ち立てた「傀儡政権」である(他にも小さな政権が多数成立していたことは初めて知った)。

 こうした政権をどのように見るか。日本人としては複雑でもある。彼らは「親日」とみなされたがゆえに「漢奸」として処断された。そのような彼らに関心を持っただけで、「おまえは軍国主義を肯定しているのか!」と非難されてしまいそうで、どうしても躊躇してしまうわだかまりが胸のあたりにひっかかっている。少々居心地が悪い。

 傀儡政権に参加した「漢奸」について、中国では極悪人として断罪され、日本では侵略への負い目意識から、まともに取り上げられる機会はなかなか少なかった。ある意味、知的空白になっていたと言えよう。だからこそ知りたい!というのが私の正直な気持ちである。近年は専門的な研究も蓄積されつつあるが、一般書としてまとめられた類書は見当たらないだけに、興味を持って本書を手に取った。

 漢奸か否か?という評価軸から距離を置いてこの時代を考察する作業も必要である。実際、事情は単純ではない。もちろん、中には欲得ずくで日本軍に協力した輩もいた。他方で、情状酌量の余地を考慮してもいいのではないか。例えば、モンゴル人の徳王には民族の自治や独立を求める切実な思いがあった(このあたりは、楊海英『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』[岩波書店、2009年]、田中克彦『ノモンハン戦争──モンゴルと満洲国』[岩波新書、2009年]なども併読したい)。汪兆銘は抗日戦争の見通しに悲観的となって和平を求めようとしたのが動機であった。戦火にあえぐ中、社会秩序維持のためやむを得ず汚れ役を引き受けざるを得なかったケースもある。しかしながら、そうした個々の思惑が日本軍の工作に絡め取られ、結果として使い捨てられ、裏切られてしまった。そこに悲劇があった。

 「漢奸」を断罪する「倫理的」な評価から離れようとして、逆に「親日」礼賛のように安易な解釈へ収斂させてしまうと、それはそれでおかしな話である。歴史的な実相をいかに眺めていくか、見る側の思考力が試される。いずれにせよ、一面的になりがちな視点とはまた違ったところまで視野を広げながらこの複雑な時代を読み解いていくのはスリリングな作業になるはずだ。

 本書ではそれぞれの政権の特徴と概略が堅実にまとめられている(タイトルはキワモノ的だが、読者層の間口を広げるための工夫であろう)。情熱、保身、謀略、裏切り、様々な思惑が錯綜しながら渦巻く多面的な時代の様相を読み解いていく上で、本書は恰好な手引きとなる。写真が豊富に収録されて資料的にも面白く、辻田真佐憲による傀儡政権の軍歌研究、曽我誉旨生による交通網の解説も合わせて各政権の様子が立体的に浮かび上がってくる。

 それにしても、日本軍がいかに深く中国大陸に食い込んでいたのか、改めて驚かされる。張り巡らされた人脈網を通して中国政界の人材をあちこちからヘッドハンティングし(ただし、二流どころばかり)、統治機構を瞬く間に立ち上げ、銀行の設立、貨幣の発行までしてしまう手際の良さ。しかしながら、中国側の意向を全く無視して、大局では大コケしてしまうのも不様であるが。傀儡政権を立ち上げても税収が確保できず、財政基盤は脆弱であった。そこで、収入を補填するためアヘン密売に手を染めた経緯も見えてくる。こうしたところで、例えば里見甫のような裏社会のフィクサーもうごめいた。

 その一方で、中国人と真面目に向き合おうとする日本人もいた。新民会(北京の中華民国臨時政府の下、満洲国・協和会を模して作られた団体)の職員として現地指導にあたった岡田春生へのインタビューからは、中国人側に立とうとして軍人に抑え込まれた憤りも垣間見える。繆斌の思惑、小沢開作が抱いた不満、青幇への入会など興味が尽きない。

 辛亥革命による清朝崩壊から1949年の中華人民共和国成立に至るまで二十世紀前半の中国史では多くの地方政権や軍閥が興亡しており、全体像はなかなか把握しづらい。1930~40年代については本書がレファレンス本として有用である。1928年の蒋介石による北伐までは杉山祐之『覇王と革命──中国軍閥史 一九一五─二八』(白水社、2012年)が整理しており、読み物としても面白かった。本書『ニセチャイナ』は「20世紀中国政権総覧vol.1」となっているが、こうした軍閥抗争の時代についても続巻を予定しているのだろうか。期待したいところである。

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