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2013年6月9日 - 2013年6月15日

2013年6月15日 (土)

鬼頭春樹『実録 相沢事件──二・二六への導火線』

鬼頭春樹『実録 相沢事件──二・二六への導火線』(河出書房新社、2013年)

 1935年8月12日、じっとりと暑い真夏の盛りに三宅坂の陸軍省の中で軍務局長・永田鉄山が惨殺された。鮮血の飛び散った局長室内の惨状にさしもの陸軍中枢も大騒ぎするという前代未聞の不祥事であった。折りしも怪文書が乱れ飛び、青年将校たちが昭和維新を呼号する物騒な世情であったが、あにはからんや、犯人は相沢三郎・陸軍中佐。分別盛りのはずの45歳であった。

 寡黙で訥弁、不器用だからこそ生真面目で純情一本やりだった相沢三郎。対して、ややもすると精神論に傾きがちな軍人が多かった当時の陸軍の中では珍しく合理的思考のできた永田鉄山。こうした対極的な二人の不幸な邂逅は、ある意味、この時代の精神史的位相を端的に表していたと言えるだろうか。

 それにしても、相沢の振る舞いは異様である。白昼堂々と一人の人間を惨殺しておきながら、そのまま異動を内示されていた台湾へ向かおうとしていたのだから。当時から、精神異常ではないか?ともささやかれていた。仮に青年将校たちと同様に純情な義憤に駆られた行動であったとしても、動機がいまひとつ分かりづらい。

 二・二六事件は日本近現代史で最も人気のあるテーマの一つであり、関連書はいまだに汗牛充棟のごとく生み出されつつある。いみじくも「二・二六産業」と表現したのは現代史家の秦郁彦であった。本書もサブタイトルから分かるように、二・二六事件へとつながっていく一連の流れ、とりわけ統制派と皇道派という軍閥間の抗争の中で相沢による永田惨殺事件を位置づけて史料検証を進める。相沢のパーソナリティーをしっかり捉えた上で史料の欠落を推論的に補い、彼を激発的な行動へと後押しした原因、そして彼が落ち込まざるを得なかった悲劇を浮き彫りにしていく。

 相沢は純情一徹な性格だったとはいえ、単なる馬鹿でもない。彼を知る末松太平の印象が本書でたびたび引用されているように、いかがわしい人間の言葉を盲信するようなことはなかった。ただし、信頼する同志の言葉のみは信じた。では、彼の義憤に火をつけた、言い換えると犯行を教唆したのは一体誰であったのか?

 軍法会議にかけられた相沢は死刑判決を受け、翌年の1936年7月に銃殺刑となった。処刑の直前に面会した石原莞爾に向かって相沢は「統帥権は干犯されておりませんでした」と自らの間違いを認めていたという。1935年7月に皇道派の真崎甚三郎が陸軍三長官の一つ、教育総監のポストから更迭されたことは天皇の意向を無視した統帥権の干犯にあたり、首謀者の永田鉄山は許せない──実際は永田のせいではないのだが、これが相沢による永田惨殺の大義名分であった。それを死の直前になって撤回したのである。

 相沢は真崎に私淑していた。他方、真崎は自らの政治的野心のため老獪に陰謀をめぐらす人物であり、本書は決定的な確証は得られないながらも、真崎による教唆の可能性を浮かび上がらせていく。相沢の脳裡には、自分の行為の正しさは陸軍上層部に認められているのだから恩赦もあり得る、という考えもあったのかもしれない。真崎は二・二六事件を背後で操っていたとして一時身柄を拘束されたが、証拠がないため逃げ切り、そして戦犯の訴追も免れ、戦後まで生き延びた。二・二六事件で処刑された渋川善助は最後にこう叫んだという──「国民よ皇軍を信用するな!」

 主観的な純情は方向を誤ると、得てして政治利用されやすい。それは本人にとっても、そして後代の人々にとっても、二重の意味で悲劇であったとしか言いようがない。

 なお、永田鉄山は政治のわかる軍人として当時では稀有な存在であったが、近年になって研究が進んでいる。彼の国家構想については川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ、2009年→こちら)、同『戦前日本の安全保障』(講談社選書メチエ、2013年→こちら)で論じられている。また、森靖夫『永田鉄山──平和維持は軍人の最大責務なり』(ミネルヴァ書房、2011年)も私は入手してあるのだが、本棚の奥に紛れ込んでしまい、見つからなくて併読できず。読みたいときに見つからないというジンクス(苦笑)。

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2013年6月13日 (木)

【雑感】ロジャー・ケースメントの亡霊が、ドアを激しく叩いている

 アイルランドを代表する詩人の一人、ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865~1939)は1938年に「ロジャー・ケースメントの亡霊」と題した詩を発表している。
  The Ghost of Roger Casement
  Is beating on the door.
というリフレインが印象的である(作品そのものはこちらを参照のこと)。

 第一次世界大戦の真最中にあった1916年のロンドンで、叛逆罪に問われたロジャー・ケースメント(1864~1916)は処刑された。戦争というチャンスを利用してアイルランド独立へ向けた援助を求め、ドイツへ渡っていた彼は、武器と共にアイルランドへ上陸したところをイギリス警察に逮捕されていたのである。

 ケースメントが逮捕されたのは、いわゆるイースター蜂起の直前であった。ドイツ軍による直接の支援は期待できないと気付いていた彼は、アイルランド義勇軍同志に武装蜂起を思いとどまるよう伝えようとしたが、それもかなわず、準備不足で同調者も思うように増えない中で予定通りに強行され、やがてイギリス軍によって鎮圧されることになる。裁判で有罪判決を受けたケースメントについて助命嘆願の世論も沸き起こり、そうした中にはイェイツの姿もあった。

 しかし、ホモセクシュアルであるという彼のプライバシーが警察から意図的にリークされ(彼がつけていた日記、いわゆるBlack Diariesがタイプ打ちされて公開された)、ヴィクトリア朝的な倫理道徳がいまだ根強く残っていた当時において、これは致命的であった。Black Diariesについては、当時から捏造という批判も根強かったが、ケースメントについての最新かつ詳細な評伝であるSéamas Ó Síocháin, Roger Casement: Imperialist, Rebel, Revolutionary(Lilliput Press, 2008)は本物と判断し、史料として採用している。捏造説には彼に着せられた汚名を雪ぎたいという意識が働いていると思われるが、価値観が多元化した現代においてまで当時の判断基準に囚われて捏造説の是非に固執する必要もないだろう。

 私がロジャー・ケースメントの名前を初めて知ったのは、Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost: A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa(Pan Books, 2006:アダム・ホックシールド『レオポルド王の亡霊:植民地アフリカにおける強欲、恐怖、そして英雄たちの物語』)を読んだときだった(→以前にこちらで取り上げた)。ベルギー国王レオポルド2世の私有地と化していたコンゴ自由国において、現地住民がいかに搾取され、虐待されているか、その実態を訴えて国際世論を動かした一人としてケースメントの名前が挙げられていた。

 ケースメントは1864年、ダブリンの近くに生まれた。父親はプロテスタント、母親はカトリックである。早くに両親を亡くし、親戚のもとに預けられた。学校を出てすぐ入った貿易商社で事務員をしていたが、1884年に初めてコンゴへ派遣される。その後、友人の紹介でイギリス外務省に採用され、1892年にニジェール海岸保護領の領事となったのを皮切りに外交官としてアフリカ各地を転々とすることになる。現地採用のノンキャリ専門職といったところだろうか。

 彼の人生で大きな転機となったのがコンゴ問題である。ベルギー国王レオポルド2世はコンゴ自由国からもたらされる莫大な富を独り占めする体制を築き上げていた。現地住民を力ずくで強制労働に駆り立て、服従しない者に対しては殺戮も厭わず、「文明の福音」という大義名分の下で行われていた収奪システムは実に残虐であった。ケースメントは当初、イギリス領出身者に対する虐待の調査から本国政府にコンゴ問題を打電していたが、やはり商社員としてコンゴ駐在経験を持ち、ジャーナリストに転身したエドモンド・モレル(1873~1924)と協力して世論喚起に努める。コンゴ自由国はレオポルド王の私有地だから他人のチェックを受けることがない。そこで、世論のチェックを受けるベルギー政府の統治下へ置くことでこれ以上の残虐行為を防止すべきであると提言し、コンゴ改革協会を設立した。この運動にはコナン・ドイルなど著名人も加わって国際世論を大きく動かし、コンゴ自由国は1908年に廃されることとなった。

 ポルトガル領アンゴラなどの駐在経験も持つケースメントは、1906年にブラジルへ転任し、1912年に外交官を辞めるまでパラ、サントス、リオデジャネイロの領事を務める。この間、彼はアマゾン奥地のプトゥマヨ川沿いに住む原住民が虐待されている問題を調査し、告発した。こうした彼の一連の活動はイギリス本国政府からも評価されており、1912年にはナイトに叙勲された。

 ケースメントは大英帝国の外交官としてそれなりに出世をしているが、他方で葛藤も大きかった。彼は当初、帝国主義そのものには疑いを持たず、大英帝国の権益を守る職務を忠実にこなそうとしていた。ところが、コンゴ問題やプトゥマヨ問題を調査するうちに、植民地システムがはらむ過酷な矛盾に否応なく気づかされることとなる。それは、レオポルド王やスペイン人・ポルトガル人入植者といった他者の問題であるばかりではない。南アフリカ戦争(ボーア戦争)に職務上関わった彼は、他ならぬ大英帝国もまた同様の問題を抱えていることをじかに目の当たりにした。同時に、ケースメントの祖国アイルランドもまた大英帝国の支配下にあって民族的プライドが奪い取られた状態にある。白人が有色人種に共感を示すというのはまだ珍しい時代であったが、彼の場合には抑圧された民族の一人として、アフリカや南米の現地住民が受けている抑圧を自らの問題として考える契機をも持ち得ていた。抑圧者でもあり、かつ被抑圧者でもあるアイルランド人──そうした矛盾したポジションへの自覚をますます深めた彼は、敢えて被抑圧者の側に立とうと決意し、公務を辞してアイルランド独立運動へと身を投ずる。

 ケースメントがアイルランド・ナショナリズムへの信念を強めるようになったのは1904年以降のことである(Séamas Ó Síocháin, Roger Casement: Imperialist, Rebel, Revolutionary. Lilliput Press, 2008, p.212)。彼は1903年末にアフリカから帰国、1906年にブラジルへ赴任するまでの間、故郷で暮らしていた。当時のアイルランドではゲール語やケルトの古代文化を見直すアイルランド文芸復興の動きが活発となりつつあり、ケースメントもそうした運動から生み出された著作に読みふけり、担い手となった学者や作家たちと交際を深めていた。

 自由党のグラッドストン内閣以来、大英帝国の枠内という制限つきながらも徐々にアイルランドの自治へ向けた改革が行われつつあった。他方で、大英帝国からの分離に反対するプロテスタントを中心としたユニオニストは警戒感を強めて義勇兵を結成、これに対して独立派も義勇兵を募り、緊張感が高まっていた。外交官を辞めてアイルランド独立運動に本腰を入れるようになったケースメントは、アイルランド系アメリカ人の援助を求めて渡米した。アメリカのアイルランド独立組織はドイツとの連携を模索しており、ケースメントもそうした人脈につながっていく(例えば、ドイツの駐米大使館付武官だったフランツ・フォン・パーペン[後に首相]とも会っていた)。

 第一次世界大戦が始まると、ケースメントはドイツへのシンパシーを強く示すようになった。当時、アメリカで彼に会ったイェイツによると、それは主にイギリスに対する反感によるものだったという(Ibid, p.386)。ケースメントはドイツへ渡り、捕虜となったアイルランド人兵士を義勇軍に編成する仕事に取り掛かるが、うまくいかない。アイルランド独立に向けたドイツ軍の軍事的支援が見込めないことも分かった。その頃、彼はドイツ軍を通じてイースター蜂起の計画を知る。ドイツ軍の支援がなければ武装蜂起をしても成功の見込みはないと考えていた彼は慎重な態度を取った。しかし、彼がどう思おうと計画は進行している。ならば、自分もやるしかない。彼は武器を積載した船に乗ってアイルランドへ渡ったが、前述のとおり逮捕された。

 敵の敵は味方という論理で動いたところは、第二次世界大戦においてドイツ・日本と手を組んでインド独立を目指したスバス・チャンドラ・ボースと共通したところも認められるかもしれない。

 イギリスによるアイルランド支配は、アジア・アフリカといった遠隔地における植民地支配とは異なり、文化的に比較的近い民族を相手としていた点で、日本による朝鮮半島や台湾の植民地化と関連付けて語られることがしばしばある。

 例えば、台湾で穏健な民族運動を展開したことで知られる林献堂は、1907年に日本で梁啓超と会った際、彼から「中国は今後30年間、台湾人が自由を求めるのを助けることはできない。軽挙妄動するのではなく、むしろアイルランド人のやり方を見習い、中央政府の有力政治家と結びついて、台湾総督府の横暴を牽制する方が良い」と言われた(黄富三《林献堂傳》修訂再版、国史館台湾文献館、2006年、24頁)。おそらく、アイルランド議会党がグラッドストンなど自由党の進歩派と協力して漸進的な改革を引き出していったことが梁啓超の念頭にあったのだろう。その後、林献堂は台湾議会設置請願運動へ乗り出していく。

 大日本帝国という枠組みの中において朝鮮人として軍人の道を歩んだ洪思翊もアイルランドの例を強く意識していた(山本七平『洪思翊中将の処刑』)。

 また、朝鮮半島出身の文化人類学者、崔吉城は「大英帝国の大逆罪人となったケースメント」(『交渉する東アジア──崔吉城先生古稀紀念論文集』風響社、2010年)という論文を書いている。日本による近隣諸国の植民地化を考えるにあたってイギリスとアイルランドの関係に注目している。支配/被支配という分析枠組みはともすると単純な二項対立に落ち込みやすく、歴史的な事象をうまく汲み取れないことがある。植民者であり、同時に被植民者でもあったというケースメントの複雑な二面性は、そうした二項対立を乗り越えながら考えるきっかけになり得るということから彼に関心を抱いているようだ。

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2013年6月 9日 (日)

河野啓『北緯43度の雪──もうひとつの中国とオリンピック』

河野啓『北緯43度の雪──もうひとつの中国とオリンピック』(小学館、2012年)

 1972年2月、札幌で開催された冬季オリンピックに、南国の台湾から参加したスキー選手の姿があった。ほとんど最下位レベルで成績はふるわない。それもそのはず、彼らは2年間ほどの特訓を受けて送り込まれたばかり。世界レベルの技量には到底追いつかないまま本番に臨まねばならなかったのだから仕方がない。

 参加することに意義がある──オリンピックと言えば必ず引き合いに出される、もはや陳腐なくらいに言い古された言葉だが、彼ら台湾のスキー選手たちの場合もまさに、参加することに意義があった。メダルなど最初から期待されていない。途中で転倒したりしてしまうと記録は残らない。目標は、とにかく完走して中華民国代表選手がオリンピックに出場したという記録を必ず残すこと。つまり、中華人民共和国と「一つの中国」原則をめぐって外交的承認の取り付けを競い合っていた中でのオリンピック参加であった。

 台湾にも唯一、合歓山にスキー場があるにはあったが、特訓には向かない。国民党政権上層部からの指示によって急遽スキー選手に仕立て上げられた若者たちは、日本のスキー指導者のもとへ送られ、国家的使命としてこの不慣れなスポーツをマスターしなければならなかった。しかしながら、目立った成績を残していない以上、報道されることもなく、彼らの努力が世に知られることはなかった。本書は、この時、にわか仕立てのオリンピック選手となった若者たちを取材して、冬季オリンピックをめぐる台湾の政治的思惑の背後にあった彼らの想いとその後の人生を描き出していく。

 1点だけ気になったこと。冬季オリンピックへ参加するにしても、スキーの他にスケートという選択肢もあった。スケートリンクを整備すれば訓練はできるのだから、スケートの方が潜在的可能性はあったとも考えられるわけだが、それにも関わらず、なぜスキーが選ばれたのか。本書では軍事目的、宣伝効果などいくつかの説を検討した上で、宣伝効果説がとられる。しかし、私にはむしろ軍事目的説の方が説得力があるように思われる。

 スキー競技参加の決定は蒋介石が下している。かつて日本へ留学していた蒋介石は1910年から陸軍の高田連隊に配属され、1911年10月、辛亥革命勃発の報に接して帰国するまで高田の地にいた。ところで、日本において初めて本格的なスキー指導を行ったレルヒ少佐は1910年11月に来日し、まさに蒋介石がいた当時の高田連隊に来ていた(この縁でレルヒ少佐は新潟県の「ゆるキャラ」に仕立て上げられている)。当時の日本陸軍は、八甲田山での雪中遭難事件の生々しい記憶からスキーに注目していた。そうした事情は、当時高田連隊にいた蒋介石も当然ながら知っていたはずである(著者は台湾現代史にはあまり詳しくない様子で、こうした接点までは検討していない)。あらゆる政策的プライオリティーを大陸反攻に置いていた蒋介石の発想からすれば、あり得べき将来における軍事作戦が大陸の寒冷地に及ぶことを見越してスキーを選んだと考える方が妥当であろう。

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